DV 被害女性は自分が 「DV 被害者」 であるとどのように了解するのか

Nara Women's University Digital Information Repository
Title
DV被害女性は自分が「DV被害者」であるとどのように了解するの
か
Author(s)
宇治, 和子
Citation
宇治和子:人間文化研究科年報(奈良女子大学大学院人間文化研究
科), 第29号, pp.33-43
Issue Date
2014-03-31
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/3712
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DV被害女性は自分が「DV被害者」であると
どのように了解するのか
宇 治 和 子*
1.はじめに
ドメスティック・バイオレンス(略してDV)とは、親密な関係(夫婦や恋人など)の間で繰
り返される暴力行為のことである。その種類には、身体的、精神的、性的、経済的暴力などがあ
る。それらが生じている状況をDV現象として捉えると、暴力を振るう側はDV加害者、暴力を振
るわれる側がDV被害者ということになる。普段我々は、新聞やTV、雑誌などでDV現象につい
て見聞きすると、暴力を振るわれている人たちをごく自然にDV被害者として了解している。し
かしながら当事者的立場で考えてみると、親密な相手とのやり取りの中で生じた暴力被害体験を、
単純にDV現象と捉え、だから自分は「DV被害者」である、と認識できているものだろうか。恐
らく我々の了解とは質的に異なる、当事者ゆえのDV被害認識をしていると推測される。この問
題について、これまでのDVを取り扱った心理学研究では、しっかりとした位置づけがなされて
いなかったように思われる。したがって本論は、DV被害当事者のDV現象に対する理解や意味づ
けを検討し、彼らがもっていると推測できるDV被害認識の性質を整理しながら、問題提起をし
ていきたい。なおDVは男女の区別なく起こる可能性があるが、ここでは女性被害者のDV被害認
識に限定して考えることにする。
2.DVという言葉とDV被害認識について
そもそもDVという言葉が生まれ、使われるようになったのは、1960年代から盛んになったフェ
ミニズム運動に端を発する。もちろんそれまでにも、家庭内におけるDV現象は存在していた。
研究者らが指摘するように、古くは旧約聖書で処女であることを証明できなかった女性が石で打
たれるという警告にはじまり、妻を殴るという神聖な責任を保持することを男性たちに勧める組
織化された宗教と法律が、女性への虐待を容認してきた(Dutton&Golant,1995 中村訳 2001)。
例えばイギリスのコモン・ローにおいては、19世紀末まで、夫は自分の親指より太くない棒であ
れば妻を叩いてもよい、という親指の原則と呼ばれる法律があった(矢田,1998 戒能,2006など)。
或いはアメリカでも、妻を折檻する権利やカーテン・ルール(カーテンを引いて秘密に暴力を行
使する)などが夫に許されていた(石井,2001)
。これらは、女性が婚姻によって自らの法的独立
性を失い、
夫婦は一体であるという考え方の下、夫に管理される対象となることを示すものであっ
た。だが第二次世界大戦が終了し、国際連合という組織が成立したとき、婦人運動家でアメリカ
の初代国連代表だったエレノア・ルーズベルトが、意欲的に女性の国連参加の必要性を訴え、婦
人の参政権に関する国際条約を締結させていった(志柿,2000)。そのような情勢を受け、1970年
* 社会生活環境学専攻
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代のアメリカにおいて、まず反レイプ女性運動が起こった。このレイプ被害者や支援者たちが中
心となって、次にバタード・ウィメンズ・ムーブメントという反DV運動が展開されていった。
これら一連の活動を支えていたのがフェミニストと呼ばれる人たちで、各地域で女性解放グルー
プを結成したり、ニューヨークのレッド・ソックスやボストンのパンとバラの会といったCR
(consciousness-raising,意識向上)のグループ活動を組織したりして、性の解放、身体の自己決
定権、性役割の否定などを訴え、積極的に政治闘争を行なった。そして1971年、世界に先駆けて
イギリスチズィックでDV避難シェルター(以下シェルターと略す)が設立された。その後アメ
リカ各地でも作られるようになり、DV被害者を援助する活動が広まっていった(高畠,1997)。
このようにしてはじまった女性の人権運動は世界中に拡大し、1979年、女子に対するあらゆる形
態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)として結実した。1980年代には、アメリカの
各州において次々にドメスティック・バイオレンス法が成立し、1994年には、国連総会が女性に
対する暴力の撤廃に関する宣言を採択した。そして1995年、北京で開かれた第4回世界女性会議
において、女性に対する暴力は人権の侵害である、という概念を成立させるに至った(AgosÍn
et al.,2001 堀内他訳 2007)
。以上の歴史的背景から、DVという言葉が意味するものは、単純に親
密な男女間に起こる暴力の問題という範囲を超えて、女性に対する人権侵害行為であるという意
味や、対等でない男女の社会的なあり方(ジェンダー)に根ざしたものであるという意味合いが
内包されるようになった。それに呼応するように、1987年アメリカで発表されたパワーとコント
ロールの車輪(Pence&Paymar,1993 波田他訳2004)は、男性が女性を支配するために様々な暴
力を意図的に使っているのがDVの構造である、と主張する。これがDV加害者の行動をうまく言
い当てる理論として広く活用され、DV被害女性のための支援活動やシェルターのリーフレット
などに情報として盛り込まれていくことになった(DAP,1993 NYAWC,2006など)。
わが国では、その様な欧米の概念を取り入れるかたちで研究がはじまり、1990年代後半からは
マスメディアによってもDV問題が頻繁に取り上げられるようになった(松島,2000)
。また実態
調査が各地で行われるようになり(波田,1999 総理府,2000など)、女性に対する暴力に関する社
会的関心が高まった。そして2001年、
配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(略
してDV防止法)が制定されるに至った。男性の優位と女性の従属という社会構造的力関係が男
女間の暴力を発生させている、というジェンダー的な視点でDV問題を捉えると、女性が男性か
ら自立することを促すための社会的解決の必要性が生まれる。この問題の提示によって、DV被
害女性が暴力的男女関係から抜け出すことを社会が後押しする、という支援の枠組みが出来上
がった。このような社会的支援を利用することによって、自身のDV問題から解放された人は数
多くいると考えられる。
だが一方で、男女間の対等な社会的関係を想定することがそもそも難しく、その様に自身の
DV現象を理解することにどこか違和感を感じてしまう、という人もいるようだ。例えば、夫の
暴力から逃げてきたあるDV被害女性が実際に語ってくれた内容で、
『私自身は、そういうこと
(DV)
と思っていなかった。自分がそう…という感覚がなかった。だから今も、そうなのかな?っ
て、ピンとこない。でも、夫からDV受けてシェルターに逃げるというTVドラマも、DVDに録
画して見てたんです。…見てたのに、見ても他人事にしか思わなかった。…だって夫はもともと
キレやすい性格だったし、
(いつも夫から言われている)家事でし足りない部分があって(怒ら
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れているから)…自分にも悪いところがあったから。一方的に向こうが悪くないという気もあっ
たし…』という発話によく現われている。この彼女に『ならばDVとはどういうものをイメージ
しているのか?』と問うと、
『とにかく暴れて、暴力を振るう?お酒に酔った勢いで…とか?
TVでやるような、奥さんを叩いたり蹴ったり、身体中アザだらけになるような…?』という答
えが返ってきた。ここから彼女が、夫のキレやすさに対して寛容で、自身の身に起こったことは
夫の気に入るように家のことをする必要があったのにそれがうまくこなせていないので生じた、
という捉え方をし、またDVとは相手方から一方的にひどい暴力を振るわれる何か特別な関係で
あると捉え、自分には家事ができていないという理由があるのでそう言われることに違和感があ
る、と考えていたとわかる。
彼女はまだ20代だったのだが、
その夫や家庭に対するあり方は、古くは女大学や家父長制といっ
た考え方で示されたような、夫に仕えるという妻のあり方や家を取り仕切るのは女の務めという
ような男性優位の役割意識を受け継いでいる、と推測できる。この様な考え方は、男女同権を建
前とする現代教育とは違う枠組みで、日本的慣習や一般常識などに入り込み、若い世代にも伝達
されるのだろう。彼女は日常の生活習慣レベルで、自分が夫と同じ立場で行動する、という前提
には立っていないので、本来対等であるはずの男女関係がDVの構造によって歪められている、
と考えるジェンダー的視点はあまり現実味がなく、自分の実際の生活に当てはめて捉えることが
出来ないのかもしれない。このような理由から、彼女は夫からの暴力で逃げ出している状況にも
関わらず、自分は「DV被害者」ではないのではないか?と悩んでいたようだ。
DVという言葉が誕生したことによってDV現象が捉えられるようになり、暴力被害に苦しむ女
性の救われる道が示されてきた。だが一方で、DV被害女性自身のDV現象に対する理解や意味づ
けに、日本独自の文化的価値観の文脈がからむと、DVという言葉が腑に落ちない場合もあるよ
うだ。そのようなDV被害女性のDV被害認識においては、自分は暴力を受けていると感じており、
DV情報にも数多くふれているのだが、自らを「DV被害者」であると了解するには至らないよう
である。
3.DV状況の識別とDV被害認識について
次にDV被害女性たちが、自身の暴力被害体験を、どのようにDVだと意味づけていくのかとい
う点について検討する。発表されている手記を見ると、加藤(原田・柴田編,2003)に代表され
るような、
『彼の暴力がドメスティック・バイオレンス(DV)という、それまで私が耳にしたこ
とのない言葉で、かつ犯罪であることは、その時まったく知りませんでした』といった記述に何
度も出会う(野本,1999など)
。これは、なぜ夫が自分に暴力を振るうのかよくわからない状態で
あったが、DVという言葉とその意味に出会ったことで、夫の行動がDVと呼ばれる犯罪なのだと
わかった、ということを述べたものである。そのような知識や情報によってもたらされる当事者
の状況把握は、これまであまり検討されてこなかったが、DV被害女性が自分を「DV被害者」と
了解するプロセスを分析するためには、この現象の性質についても整理しておく必要があるだろ
う。
それについては、ナラティヴ研究による分析が参考になる。ナラティヴでは、人間は自分のこ
と を あ れ こ れ 物 語 る こ と で、 世 界 を 創 り 出 し 更 新 し な が ら 生 き て い る 存 在 だ、 と 捉 え る
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(Bruner,1996 岡本他訳 2004)
。そして言葉には諸現象をまとめ上げる作用があるので、それまで
心の中では何となくつながりのありそうなものだとは思っていても判然としなかった諸々の出来
事が、それらを象徴する新しい言葉が付与されることによって、他の行為とは区別される独立し
た一連の行為として対象化し論じることができるようになる、と分析する(野口,2002)。DV被
害女性に見られる現象を、これらに基づいて言葉が新たな意味の世界を展開させたと考えれば、
彼女らは男性から振るわれた様々な暴力を一言で言い表せるDVという言葉を得て、自分たちの
経験した出来事からDV被害体験の抽出に成功し、その結果、自らを「DV被害者」として了解で
きるようになった、と説明することができる。
DV現象は、日常生活の中に入り込んで起こる暴力行為である。そして前項で述べたように、
日本的慣習や一般常識などでは、夫に従順なことが妻の好ましい態度と考えたりもする。だから
DV被害女性は、他人にすれば犯罪となるような暴力を夫が自分に振るっているにもかかわらず、
それについて問題意識をもつことが難しい場合があるかもしれない。だが暴力がDVと呼ばれる
犯罪であるとわかれば、一連の相手方の行為を理解することができ、自身の被害を可視化するこ
とができる。この現象を示唆する語りが手記で頻繁に登場するのは、DVという言葉とその意味
により状況を識別できたことで、自身のDV問題を解決できたDV被害女性が非常に多いからだ、
と推測できる。それ故、DVという言葉とその意味を人々に届けるために行われる活動は重要で
ある。暴力を受けてもなかなか声をあげられないでいる人が、自らの日常生活の中にある暴力問
題に気がつく思考が促される、という効果が期待できるからである。これは一般に啓発活動や心
理教育と呼ばれ、多くの研究者が様々な角度からその必要性を説いている(高畠,1999 園田,2001
井ノ崎,2003など)
。また近年では、DVという言葉とその意味にまつわる啓発運動が更に範囲を
拡大する傾向にあり、
未婚のカップルの間で起こるドメスティック・バイオレンス問題を扱うデー
トDVという言葉が新たに導入され、青少年に向けて盛んに情報発信がなされるようになってき
ている(井ノ崎ら,2012 蓮井,2011など)
。
以上のことに関連して、今度はDVという言葉とその意味に出会っても、それらを受け入れな
い選択をしたDV被害女性の場合を検討したい。彼女たちは、前項の女性がそうであったように、
DV現象によって逃げ出さなければいけない状況に立たされているにも関わらず、暴力を振るわ
れる原因を自分も作ってしまっていると思い、私も悪かった、相手を怒らせることをしてしまっ
た、と反省的に出来事全体を理解したり、或いは謝る相手方を見て、暴力は収まるのではないか?
と考えたりする場合があるようだ。そのため自己の安全や利益を確保することが困難で、暴力的
環境に長く留まってしまいやすくなる。
この問題については、以前から多くの欧米研究者たちがDV被害女性に特有の傾向として注目
し、DVを 受 け や す く な る 女 性 の 心 理 特 性 と し て 捉 え マ ゾ ヒ ズ ム な ど と 関 連 さ せ た り
(Gayford,1976 Tosone,1998など)
、学習性無力感やPTSD、複雑性PTSDに代表されるようなDV
を受けた結果起こる心理的被害であると推測したりしている(Walker,1979 斉藤他訳 1997,1991
Herman,1992 中井訳 1999など)
。或いは、加害者が仕掛けるDVメカニズムに被害者が巻き込ま
れ て い る と 考 え る 暴 力 の サ イ ク ル 論(Walker,1979 斉 藤 他 訳 1997 Ohio Domestic Violence
Network,2002 尾崎訳 2005など)や、親密な対人関係に生じる嗜癖(Schaef,1989 高畠他訳 1999
など)として深層心理的に分析するものもある。その成果はわが国のDV研究に取り入れられ、
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これらの理論を支持する内容の研究等が発表されている(仙石ら,2002 石井ら,2005 加茂,2005 森
田,2001など)
。また日本の伝統的な夫婦の関係性を考察に取り入れ、妻は夫のいら立ちや怒りを
なだめる仕事を負っている、犠牲的精神や苦痛が妻としての価値をあげる、ということに言及す
るものもある(川喜田,1999 信田, 2003など)。本稿は、そのようなDV被害女性に特有の心理作
用が存在する可能性を否定するものではないが、もう少し素朴なレベルからこの問題について捉
え直しをしてみたい。
法律ができる以前、DV現象は、夫婦ゲンカとして捉えられていたことが様々な論文の文面か
ら判断できる(高畠ら,2000 西浦ら,2006など)
。何らかの原因で夫婦がもめ出すという現象は、
程度の差はあってもどこの夫婦にも日常的に起こり得ることで、夫婦ゲンカは犬も食わない、な
どの諺があるように、仲裁するより放置しておけばまた仲良くなっているものだ、と比較的軽く
考えられてきたと推測できる。DV被害者の研究や支援は、その様な夫婦ゲンカという分類から、
DVという言葉によって加害-被害の暴力的関係を明らかにすることで展開してきた。したがっ
て夫婦ゲンカとDV現象には、そもそも出来事についての具体的な違いがあるのではなくて、あ
るひとつのことをどのように当事者や周囲が意味づけるかによって見え方が変化するもの、と考
えられる。だから第3者から見て、明らかにひどい暴力を受けているからこれはDV現象だ、と思
うような時でも、当事者にとってみれば、日々の生活の流れの中で争いになり暴力を振るわれた
が、自分にも悪いところがあったから、DVというよりは昔からある「夫婦ゲンカ」だろう、と
考えることはあり得るのではないか。また日本的慣習や一般常識などでは、ケンカになって男性
が暴力的になることは、
「ちゃぶ台返し」などの言葉に示されるように、かなり許容される傾向
もありそうだ。
DV被害女性が、自己の安全や利益を確保できず、長く暴力的環境に留まってしまう問題を考
える前提として、DV状況の識別という観点から考えれば、出来事の中からDVに関連する体験を
抽出することができてはじめてその輪郭が浮かび上がるものだと考えられる。自身の体験から
DV状況を識別する際に、DV現象を、例えば「夫婦ゲンカ」として捉えたDV被害女性のDV被
害認識においては、結果的に自分が「DV被害者」であるという了解には至らないことが推測で
きる。
4.他者からの指摘とDV被害認識について
最後に、他者からDV現象についてあれこれ指摘されることによって起こり得る事態を検討す
る。手記を読むと、暴力被害を身近な人々、肉親や兄弟などに打ち明けた際、「子どものために
我慢しなさい」
「男の人は外でストレスにさらされているから」
「おかずが気に入らなかったんじゃ
ないの」など、加害男性を擁護する発言をされることがあるとわかる(原田・柴田編,2003)
。こ
れは日本的慣習や一般常識などにおいて、家のもめごとが表に出るのは世間体が悪いという感覚
や、男性が家庭で振るう暴力は大目に見てはどうか、というような社会通念があることを暗示し
ているだろう。
だが今日では、DVという言葉が浸透してきたので、DV被害女性が日常生活場面で、友人知人、
職場の同僚、子どもの学校の先生などから、
「あなたが夫から受けているのはDVではないのか?」
「逃げた方がいいのではないか?」と忠告される体験をしていることもあるようだ。自分では、
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私たち夫婦の間に起こっていることはTVで見るような所謂DVではない、と考えていたり、お互
い様だったから「夫婦ゲンカ」だ、
と思っていたりしていても、他者から指摘されてしまうと、少々
事情が変わってくる。第3者から見れば、自分たちの問題はDV現象に見える、ということになる
からだ。もちろんこの段階でその認識を拒絶することもできるのだが、身近な人が本人のことを
思い心配して言ってくれているので、とりあえずはDV被害を受けている可能性がないかどうか、
自身の状況を検証してみることになる。その結果、自分が受けているのはDV被害だった、とい
うDV被害認識が得られれば、自分は「DV被害者」である、という了解が自然と成立することに
なる。反対にDV被害ではない、ということなら、了解は成立しない。そしてもう一つ、検証過
程を失敗したために了解が不完全になる、という場合も考えられる。
その体験について、研究を通して知り合ったあるDV被害女性が語ってくれたのは、
『友だちに、
「私の旦那は○○なことをするんだ…」と(暴力のことを)しゃべった。そしたら「それ、DVじゃ
ないの?」と言われた。それで、そうなのかな…?そうなのかな…?って思うようになった。で
も私も(暴力に)慣れてきているのもあるし…DVだと思える流れがある時もあるし、そうじゃ
ないと思える流れの時もあるから…。時と場合によるから、何がどうなのか判断できない。…皆
は「DVだよ」って言ってくれるけれど、100%そうだとは思えない自分がいる…』というものだっ
た。ここから彼女が、友人によって指摘された自分たち夫婦の関係性の問題を検証しようと試み
たが、それに失敗したことがわかる。夫の暴力に振りまわされているうちに、暴力体験そのもの
に馴化してしまい、DV状況を識別する力が低下して、暴力的出来事を他のものと区別して一つ
の意味にまとめ上げる、ということができにくくなっていたようだ。つまり第3者の友だちから
見れば、明らかに暴力を受けていると思えることでも、DV被害女性である彼女にとっては、あ
まり特別なことではなくなっているのである。もちろん彼女は夫の暴力を容認していた訳ではな
いが、そのことについて不服を申し立てれば家庭に波風が立ってしまうので、いつものことだか
ら目くじらを立てても仕方がない、とやり過ごした結果、夫の暴力に寛容になってしまったと推
測できる。これはDVという繰り返される暴力を受け続けた結果、被害者側に起こったことだと
考えられる。
ではDV状況を識別する力の低下とは、どのようなものと捉えればよいだろうか。これについ
て本稿では、
以下に述べる2点を検討した。1点目は、物事を識別して意味をまとめる過程では、
「~
だったから、今こうなっている」と、ストーリーにまとまりを与えるクライマックスや結末など
の設定を備えた時間の流れ(Ricoeur,1991)が必要となる。先ほどのDV被害女性は、友人のア
ドバイスを受けて、自分が「DV被害者」である可能性を検証した。その作業は、過去に起こっ
た出来事から疑わしい体験をあれこれ取り出し、それらを総合して、だから自分はDV被害を受
けている可能性がある、可能性がない、というように意味を与えることである。その過程で、こ
のぐらいのダメージはDVに当たらないだろうと本人が思う体験は、取り出す段階で排除する方
が結論をまとめやすくなる。だが彼女は、それこそが第3者からはDVに見えている現象だ、とも
感じているので、排除しきれない。そのため帰着点がはっきりせずに、自分が「DV被害者」で
あるとも思うし、同時にそうではないとも感じてしまうのだと考えられる。そして2点目には、
DVは強烈な心的外傷を伴う出来事でもあるので、DV被害女性は、自分が存在しているという基
本的な支えを失う体験をしているのではないか、ということである。実在哲学の観点から
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Heidegger(1927 原他訳 2003)は、不安や恐れは、ときに世界が崩壊する感覚や体験を指し示
すことがある、と述べている。自分が誰で、なぜここにいるのかわからない危機的状況では、ま
とめあげるための要素が断片化してしまい、意味が生成できなくなる、ということが起こる
(Crossley,2000 角山他訳 2009)
。そのためにDV被害女性は、自身のDV状況を識別することが難
しくなっているとも考えられる。
このようにDV被害女性は、他者から自身のDV現象についての指摘を受けることがあるが、そ
の場合にも、DV状況を識別する力が低下して判断がつかなかったり、家庭がうまくいくように
努力するのが女性の好ましい姿勢だ、という日本的慣習や一般常識などが影響したりするDV被
害認識であるために、自分を「DV被害者」だと了解するには至らないこともありそうだ。
5.まとめ
第3者的立場から眺めると、女性が家庭で、男性から殴られたり蹴られたりしているという状
況は、DV現象以外の何ものでもない。なぜならDVとはそういう状況を示す言葉であるし、例え
どんな理由があろうと、その様な暴力は容認できない、と考えるからである。だが当事者のDV
被害女性は、暴力を受けているという事実があるだけでは、自分を「DV被害者」だと了解する
ような、DV被害認識をもち難い場合がある。その理由は、自身の男性優位な生活のあり方にDV
という言葉があまり馴染まないからであったり、自分にも悪いところがあると考え、
「夫婦ゲンカ」
だと理解したりするために、出来事の中からDV状況を識別することができなかったり、或いは
DVかどうかはっきりしないがそのことで家庭に波風を立てるのは好ましくないと思うからで
あったりする、と推測できる。またこれらの事態を引き起こす要因には、日本的慣習や一般常識
などの文化の側面が関与しているようである。
以上から、DV被害女性が自身を「DV被害者」と了解するには、DV現象に対してDV被害を
受けたというDV被害認識をもてることが必要だと考えられる。この事態について更に心理学的
な解釈をつけるならば、意味の場(浜田,1993)という視点が参考になる。すべてのものは、そ
れがどのような場で与えられたものであるかによって、その意味を異にするのである。空腹な時
には、小さなおにぎりも喉から手が出るほどおいしそうに見えるのに、お腹いっぱいの時にはい
ささかもおいしそうに見えない、という例からわかる通り、人間の心理現象に絶対値はなく現象
の意味はいつも場との関係で決まるのである。だからDV被害女性があまり暴力に頓着しない間
は、DV現象について知ったり周囲から諭されたりしても、DV被害を受けたというDV被害認識
をもつことは難しい。だが本人が暴力に対して問題意識をもったなら、それは出来事の意味が変
化する契機になり、一転して自分のDV被害について考えはじめることになる。つまりDV現象に
ついての自身の認識が必要となる場に本人が立たされてはじめて、了解するための過程が発動さ
れることになる、と推測できる。
このような当事者の側から描く「DV被害者」であるという了解と、日本独自の文化的価値観
の影響については、今後、実証的な研究が必要であると考える。
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Self-understanding in battered women
UJI Kazuko
This study examines the difficulties surrounding self-understanding or the ability to
understand one’s own actions in Japanese battered women.To reconsider their experience as
domestic violence(DV),battered women must first take steps to grasp reality and realize
that DV is a crime.Such steps include the following:understanding that DV is a critical
example of male superiority,verifying the possibility that DV can occur,and narrating
violent experiences in terms of DV.If they do not take these steps,then it will be difficult for
them to extract their DV experiences from other experiences.This is especially apparent in
the light of traditional Japanese values.
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