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ピ ク ク ー で は スピ ー カー を i
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拡 声装 置
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︲向 の メ タ ■バ ック ・プ ラ ウ ン竹 を
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て いる ほ か放 々 のす
l 制 延長 ︶
ぐ れた 特 k を 術 え てお り ま す 。
:4吋 14丁 -270型
現 令J[1面 ¥78.500
遠距離 用
日本 に於 け るロー タ リー クラ ブ所在地
第 350区
第 355区
第 360区
36RC 1457名
49RC 1968名
43RC 1629名
第 365区
第 3701`
56RC 2313名
46RC 1740名
(総「 123 0 RC91o7名 )(6月 以
に現 rli)
36RC 1457名
第 350区
11、
11西 、ll,i、 岩
北海道 (網 走 、 旭 サ
旭サ
見 ″て、JL見 、釧 路 、 室 蘭 、紋 り1、 帯
広 、 小 │り 、IL幌 、 │し 幌 南 ハ小 牧 弟 子 屈 、 稚 内 )青 森 県 (寺 森 、 八 戸 、 弘
前 )岩 手 県 (イ し巻 、釜 4f、 盛 岡 )秋 田 県 (秋 !H、 大 館 、湯 沢 )宮 城 県 (石 巻、
仙台 、 仙 台 南 、塩 釜 )山 形 県 (上 ノ 1、 口 形 )福 島 県 (会 il若 松 、福 鳥 、 喜
多方 、郡 は、14)
49RC 1968名
第 355区
新渇県 (柏 崎、 新,卜 、 新発Hl、 1を 同、ヤ
i潟 、三条、高lB、 十日町)茨城県
奏)栃 木 県 (足 利 、栃 木 、 字 都 宮 )群 馬 県 (伊 勢
(日 立 、石
、水戸 、 羽り可ヤ
崎 、押 生 、前 橋 、大 田 、渋 川 高崎 )埼 圭 県 (川 越 、 lL谷 、大 宮 、 和 )千
Iη
7甫
茂 原 、野 H、 館 1)東 京 都
(東 京 、 東
、 東 京 Jし 、東 京 lll、 東 京 西 東 京 西北 、東 京武 蔵 野 )神 奈 川
県 (藤 71k、 川 崎 、小 H:原 、 :塚 、 llL浜 、横 浜 東 、横 須 賀 )山 梨 県 (甲 lrF)
葉県
(F葉 、
r、
木 史 iに 、 市 川 、船 lr.、
松戸
京 "し
東
第 360区
43RC 1629名
長 野 県 (飯 Hl、 松 本 、 諏 訪 )富 山県 (高 岡 、高 口│、
渡 、魚 11)静 岡 県 (熱
`う 古原
海 、浜 松 、浜松 束 、伊 東 、三 島 、沼 │■ 、 清 水 、 il岡 、
)愛 知 県 (尾 西 、
,I群
十 F、 一 言 、刈 谷 、名古 屋 、 名 古 屋 西 、 名 古屋 南 、 岡 崎 、 阜橋 、 豊橋
`、
北 、ir島
)岐 阜 県 (山 t阜 、岐 阜 南 、 美 晨 、大 li、 高 lll、 多治 見 )石 川 県 (/1N
沢 小松 、七 ′
ι)=重 県 (fル 勢 、 桑 名 、松 坂 、 ,P、 上 野 、 四 H「
大館●
八戸●
1
―
/
秋 田 ri=′
)
第 365区
‐
56RC 2313名
福 井 県 (福 月=、 敦 賀 、武 ■ )滋 賀 県 (彦 IPt、 長浜 大
都 府 (綾 部 、 福
女
口1、 京 都 、 京 lf2東 、 京 I「j南 、宮 71、 舞鶴 )奈 良 県 `│)京
(│=‖ 1、 余良 )和 歌 山 県
(御 坊 、橋 全 i lt南 、新 │、 田辺 、 和 歌 山 )大 阪府 (布 施 、 池 田 、泉 大 :に 、
岸 不nm、 大 阪 、大阪 東 、大 阪 西 、大 阪 北 、大阪 南 、堺 、 高 槻 )兵 庫 県 (り 1石 、
赤相 、尼 │.I、 姫 路 、J:野 、 加 古 川 、 神戸 、神戸 東 、 神戸 西 、 西 11、 洲 本 、 高
砂 、 ■塚 、 9岡 )徳 島 県 (小 松 島 、鳴 間 、徳 島 )香 川 県 (ll■ lL、 高松 、 高松
1僣
)高 知 県
第 370区
(高 力l)愛 盤 県 (今 治 、松 lll、 新居 浜
)
46RC 1740名
岡 山県 (笠 岡 、 台敷 、 岡 111、 岡 口│ll、 1「 は1)広 島 県 (福 山 、広 島 、広 島 南 、
呉、 尾 j首 )鳥 取 県 (合 吉 、 鳥lrt、 米 r)島 根 県 (出 彗を、松 コ:)山 口県 (防 府 、
ド関 、 徳 l、
戸 lm、
1:部 、 山 n)福 岡 県 (福 岡 、 福 岡 Fi、 小 合 、 久 留 米 、 門 司 、大
若松 、 八婦 )大 分 県 (別 府 、 中 iに 、 大 分 、 竹 IR)佐 賀 県 (唐 14・ 、
)
福キ
●長 岡
0高 田新 潟
壼F軸
f有 賀 )長 崎県 (長 崎 、長 崎 北 、佐 世保 )宮 崎 県
(宮 崎 、 都 城 、 日 ll.延 岡 )
熊 本 県 (1ヒ 本 、人lf)鹿 児島 県 (鹿 児 島 、 川 内
○ =ガ バ ナ ー 1'務 所 所 4i地
三矢
ll
石り
岡
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高
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F武 蔵 野
京 西■
一
R西
京 南
京 上
東 京 東
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●
平
東
東
東
東
東
___[、 .尾
奈川付真
部岡
清木
澤 岡●
大阪 比
大阪 雨
大阪 西
べ阪 東
世 界 の ロ ー タ リ ー
6月 24日 現在 RC総 数
9.493RC
ロー タ リア ン概 数
447 000名
19“ 年 7月 1日 以 降 の 新
RC
(249地 区 . lolヵ 国
361 R C
)
ロー タ リー の友
8月 琥
昭和 32年 8月 琥一 第 5巷 。第 8暁
OFF:CIAL」 OURNAL OF THE 350′
次
-355′ ―
-360′ -365,-370
THIS ROTARY MONTH
00VERNOR'S LETTER
鵜 50匝
(No l)…
第3551姜
第 360日
第 365匡
第 370匠
DISTR!CTS OF
……………………… The ROTARIANょ り
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… … … … ガ′
ナー
……
・
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… (No l∼ 2)… …………… …
ガ ナー
(No l∼ 2)… ………… ……… ガバナー
・ガパナー
… (No_1)・ … … … … … … …・
…
…
…
…
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(No l)一
佐 藤 幸 三
東 ヶ‖
奇
潔
盛 田 秀 4i
直 木 太 一 郎
田 中 文 男
彼談書〉ロータリーのフエロシツプと三っのE
サー 佐
第 OLガ ノ
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ナー 盛
第36011・
第370Lガ バナー 田
ロ
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答
田
秀
ナー 東 ヶ 崎
三 。 第355匡 ル ヾ
潔
4i。 第365匠 ガパナー 直 木 太 一 Itl
中
文
男
藤
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一
幸
回 答 者・ パ ス トガ パ ナ ー
脇
官
札幌南 RCチ ャー タ ー侍達式 …… … ……………ILratt R C湊
海 外
RCの
富
静
夫
動 き……… … … … … … … … … … …
ヽンガ リーの難民救済 とRC・ 出
カ リフ ォル ニア州 サ フ トガ RC。 ′
席者 コ ンテス ト・ 四 つのテス トの作文募集・ テキサ スの サー ビスク
ラ ブの交獣 。ラ イー ンエー ジ ャーの馬 の職業指導 。ボーイ スカ ウ ト
しトンRC・ 病人 のために奉仕 す る
とRC・ ニ ュー ジー ラ ン ド・ ミノ
RC。 色 々な創意
巻
頭
350悩 丘 身
自355嘔 置
第鰤
"与
E
第 365匠
第 370匠
RC分 布国
カ
早
フ
坂
ト
信
ロー タ リー・サービス0ニ ユーズ
尼崎 。岡崎・ 多治見・ 市川
ロー タ リ"文 献 のお しらせ
・
「 友」よ り の お 願 い
6 月 出 席 卒
・ ・・ ・
‐
・ ・ ・‐
・ ・‐
・
・ ・・
・ ‐.48
40
― ‐… … …… … … … … … … … … …63
… ……… ………… ……… ……… … ・… … 47
THE RO丁 ARY_NC)_丁 OAA(Э
AUCUST_ 1957 VOL.5, NO.8
表
紙
か た く腕 を くん で
ROTARY INTERNAT10NAL
佐 藤 幸 二 君 ,盛 田 秀 李 君
,
右 か
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ロー タリアン諸君 焦馳は君に
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RI會
長 C・ G・ テ ンネ ン ト
7lc2r\<
夕1藤 博 文 と1月 治維新 の 人 々(1}
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東 京
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よいだれ 、
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ブ レ ンス トー ミンク を成 JJJさ せるための 10:決
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東 ヶ崎 潔 君
田 中 文 男 君 │ビ 本 太一 郎 鷲
…
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…… …… …… …… r都 宮RC
…… …… ………
障 と ロー タ リア ンの心 …
… ……
…… …
… 高砂RC
1/々 本 統 一 郎 32
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京西)世 相 を物語 る貨物
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大1嗣 知 正太郎 (富 11)味 と香 の鑑定 熊澤武男 (仙 演束)俳 句 と私 隅野卯
二 郎 修 根)水 五ヨ1 増 Lu願 郎 敏 京西) 抑留生活 の 思い出 安 枷∫
義香(大 陣
盤珪薄師
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一店 行 行 管 車 店 銅 濃 ア 越 達 ビ 油 崎 其 祓
互 Ftも つ と知 り合お う 片 lll聖 (伊 東)大 閤記
を飼 う 口1村 亨 (御 戸)偉 い 人になるよ り 牧
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掲 載廣 告
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人に嫌われ てはな らぬ 松島歳己 (大 阪)自 虚超然虚人露然 笠原一彦 (│II口
薇薔を火 であぶる frrttllf・ 良 ― に 岡)藩 山隆景幸村 花 ││1大 五郎 (人 分)お
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汝 等 何 とヾ
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… … … 簡釜RC
ロ ー タ リア ン諸 君
点
は
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1957-58年 度 R,].書 長 チ ャールズ G・
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ミス ター 。ロー タ リア ン,焦 器 は君 に ある。一
サー ビスの理 想 に生 き, 日 々ll己 の 11活 の 中 に叉
カカ制度 を駆使 して い る
並び に.そ の 他 の優 秀なリ
RIの 指す 方向は 1に た ゞ一つで あ る。 自lち 我 々
11か して,表 わ して 行 く
他 人 の 生活 の 中 に それ を′
が ロー タ リア ンと者]す る1‖ 々人 を卜
l ltし てい るの
liを
で ある それ は諸■ ,私 を、 そ し´
て │IL界 中 の全
人 は君 自身 だか
',で
ある
│り
今 Hこ の 体 大な │IL界 的運 動 に 於 て最 も重要 な人
ロー タ リア ンを IJ指 して い るので,そ れ故に こそ
物 は賞 は君 │:l身 な ので あ る.lJ故 な らば 全 │IL界 100
ヵ国 lC及 ぶ 442.000人 以 11の ロー タ リア ン達 に こ
焦瓢 は君にある と云 うので あ る.或 意味 で千1自 身
が ロー タ リーで ある
そ全 ロー タ リー運動 の成 否 がか ヽつ て 存 して い る
ロー タ リーに封す る熱 意 に於 て、我 々は暖 々多
か らで あ る
.
ロー タ リー はた ゞ君 自身 が あ らしめ た い と願 う
いので あ る ロー タ リーはただ 君
形 に しか な
',な
が達成 せ しめたい と願 う通 りの 事 しか達成 │‖ 末 な
いので あ る 末 るべ き 1 li間 1呼 び人 類 へ の 本仕 に
.
くの 美 しい心 を駆 りllて る様 な綸 を柑iい てい る と
を
云 え よ う 例 えば各 人が そオtぞ オtの 立場 か
',約
、 そ してあれや これや の本イ1:1面 に強調 を置 く
しか し全般 として綸 に於 ては,前 景 に くつ き りと
lHく
邁 進 す る時、 ロー タ リア ンの 1人 々々に焦器 が置
浮 き│││て 末 るの が所謂 ロー タ リア ンと構す るlbl々
人 で あ る 個 人 と組織 と運動 の 開係 を決 して忘れ
かれ るの は方に この lllで ある。
ず この事賞 を絶 えず念頭 に保 つ て行 くこ とは極 め
諸 君 の 1人 々々が所 叫す る RCの 働 きを理解 し
ロー タ リーの 有効能 卒的 な行政 機構 を理解 して い
て 重要 で ある
る事 を私 は 確信 して い る 自lち RCの llH々 ク ラブ
の レベル か ら力││‖ 1ク ラブの活動 を指導 し全世界 の
代 に.善 意 と理解 の人 として奉 fI:す る責 f千 .義 務
機 會 を想起す る ことは ま ことに il要 で あ る
ロー ク リーの勢 力 を損 大す る RIと 構 せ られ る一
11途 に横 わ る この 苦 しい│1寺 代 lC「 一卿 何故 ロー
人運誉 機構 に迄が1る 全機構 を1諸 尉各 自が理解 して
い る事 をlirl:信 して い る
タ リーは (機 関 として の意味 )何 等 か の ll策 を講
じな いのか 「
」伸I故 ロー タ リー は獲言 しないのか 」
各加盟 RCは この運螢 機 開 の 重 l■・な 1部 を成 し
てい るので あ るが その 真 の 目的はた ゞ一 つ、 自lち
「何故 ロー タ リー は立場 を とらな いのか。Jと 云 い
│││す 人 も出かれない患 難 の時機 もあ るで あ ろ う.」
人間 を通 じて一 つの 単純 な川!想 を賞現 す る事 ― 諸
442.000人 の ロー タ リア ンが 静 に'「 和 に, 品威
君 な らびに各地 の諸君 と同 じ様 な人 々 とを通 じて
と目標 を もつて ロー タ リー を賞践す る と云 う員倉J
な仕 事 に従事 してい るが故 に、 ロー タ リーは 日 々
賞現 す る事 で ある.個 人 を通ぜず して1山 の何慮 に
´
理想 は表 現 を見出 し
得 よ うか
我 々は時 として この開聯 を忘オl勝 で.│ヨ 分丈が
.
.
t界 が破滅 の危機 に頻 して い る この緊迫 した 1寺
‖
何 か の解決 をな してい るの だ と悟 れ ば、 それ は我
々に とつ て何 と慰 め とな り安心 の 出末 る事賞 で あ
ろ うか 自1ち ロー タ リーはl敷 10萬 の 善意 の人 々の
馬 し うる事 をRCや 地 匡や RIに して もらお うと
営 に して い る が間 々あ る
我 々が RIと 薔す る この立 派 な機 関,自 口ち忠 賞
有力 な/1_活 を以 て 41滸 に語 つ てい るので ある.我
々が 専門 の、 質業 の、 叉lL4人 として の 生活 に ロー
で0旨 卒 的 な事務 局 ―役員、 理 事、 委 員達― を擁 し
ク リーの理 想 を適 月1し よ うと務 め る時,地 域
「 L會
又有用 な文献 で ある‖L誌 及 び Hl行 物 を もち,国 際
協議 會及 び 色彩讐 な大 會 ロー タ リー柴學基 金
同胞 に封す る我 々各 自の態 度 に ロー ク リーの理想
IF・
,
4
(872`
の必 要 と義務 に
又 話[で あ ろ うとllf産 にい ようと
「
HE ROTARY‐ N01r)ヽ 10
The ROTARIAN― Jul‐ 1957
′
.お
`aria,
“
テ ンネ ン トよ りの メ ッセ ー ジ
を適用しようと務めるHキ 。それこそロータリーの
執 る立場だ と云 え るので あ る。
この故 に焦釉 は君個人 に あ る と云 え るので あ る
何故 な らは君 自身 の もつ ロー タ リー 的 フ ェア プ レ
ーの湖念 と矛 盾 しな い行 を しなけれ ばな らないか
らで ある 例 えばνЧつの テ ス トlC照 ら して語 り
.
行動 し,[J菓 と行 を律 しなけれ はな らな い、 又地
域 fL會 に於 ては良 き市民 た る‐
/i格 と:lllll和 した ψi場
を といなけオ1は な らな い。
又我 々は竹 .ロ ー タ リーに於 け る働 きが 方に lJ
産 に′
liず るか を銘 !i」 す る llが 大 切 で あ る た とえ
て云 うな らば、 波がガ│や 砂 に くだ け る遠 い遠 い地
TI千
鵠│で lJJlき が ′
liず る 賞 を知1る 馬 には海邊 に ウ
1つ て
うづ ま く様 を見 てい さえすれ ば よいので あ る
ロー ク リー lC於 ては 各會 11が ロー タ リーの ′
lli舌
llllの
を賞践 し.人 々が ロー タ リーの思 慮深 さ と頼 り張
さをZヽ 要 とす る場 合 に こそ働 きが生ず るので ある
諸君 の 家庭 , ク ラブ.事 務所 .事 業所 .地 域
が他人 の ′
る.:i`君 の
fL會 の 中 に
L・ilrに 鯛
日
'ち
`liれ い
`li活
.他 人 の助 け とな る
れ他人 にllし
思 や りを11:し
必要が 存す る場 合 に そノしはlWJく ので あ る
友情 にみ ちた本イ│:に よる ロー タ リーの 力をiた し
て見逃 した りi邑 小劇1旧 した りしな い よ うに しよ う
ではな いか。9300の 地域 の 442.000人 の ロー タ リ
ア ンの ′
ll活 に於 て ロー タ リーの理 想が 力強 い ′
Lけ
る力 であ る場合 には、 我 々の 日標 に 向 つ て │な 進
′
展 が 存す るの で ある 自lち 兵 rfに 基 く友情 的 1岬
│り
│
│IL界
7_lH標 へ
.
1]出 l我 々の 前 に 開 かれ てい
もし こオtか らの lヵ イ
るあ らゆ る分り1の 機 0に 於 て ロー タ リーの 日標 を
分 に獲 「
静 させ るべ き各 脅員の俯 う責任 を君 も私
4)全 ロー タ リア ンがり1受 け るな らは、 稟llFに llす
│・
る人 111の 水遠 の探究 にはず み を興え、 やが てはす
べ ての人‖lを IJ Hlに す るに 貞││1南 た末 る であろ う
ミスター・ ロー ク リア ン,焦 粘 は 吉にあ るの だ
ロ ー タ リー の 友 -8月 嘘
テ ン ネ ン ト會 長 夫 要
次 ば「バ ッズ に ついて」 を御覧 |.
'.r L^
(873) 5
紐誉 してい るが,彼 は この農園 をそ もそ ものは じめか ら
育 てあげたので「 市場 に出せ るよい品種 を育てあげるIC
は 7年 か ヽるよ」 と云つてい る
彼は學 /4F_時 代 には先生にな りたい と思 つていたのであ
るが段 々戸外の 自然 を相手にする仕事に入つて行つたの
である,又 1時 は新聞記者 とし て 成功 した 時代 もあつ
た。彼の 今日ある萌芽はすでに 5才 の頃 の逸話 によ くう
かがわれ る。或朝彼は桓根の板 の さけ 日に朝顔の種 が こ
ぼれてい るの を見 つけた.上 が少 しその まわ りに風で吹
きよせ られ,雨 に濡れ,つ いに嚢芽 した 彼はその夏中
この朝顔に水 をや り,つ いに 4 5イ ンチの高 さに成長
して毎朝花が険 く様 にな つた
数年前,あ る男が我 々の町 のある美 しい通 りに 1軒 の
家 を買 つ た。却 々美 しい家 ではあつが庭は大分荒れてい
た 彼日隣家 の 11人 に云 つ た「庭師 を入れなけれ はな ら
1/rで 筋道 を正 して云 うな らは,チ ャール ズ・ ゲイラー
ド・ テ ンネン ト1741894年 ア ッシュヴ ィル附近 の農場に生
れた。 1筒 カ ロライナ州 よ り移住 した家族 の 2人 の兄弟 4
・ヤ ジーの
人のlll妹 の 1人 である 彼等の祀先は 二jL― シ
1の 1人 は今 日の プ リンス トン大学 のit身 であ
l11身 で先予
る小カ レデ倉1立 に興つ た.パ ッヅのln‐ 親は金持 ではなか
つたが 6人 の 子供には皆大學教授 を授けた
な いのだがね,正 直のF/r家 を買 うのに有金 をはたいて F
つたのだ。」
す る と隣人は こ う云 う提案 を した 「毎朝 5時
アッショヴ ィルで小學中學高校 と學んだが,い つ も讀
み,書 き,国 養,帰 論, とりわけ スポーツが大好 きであ
↑ に君 の家 の庭 に行 くか ら一緒 に庭 の 千人 を しよ う,そ
うすれは 1文 もか ヽらない じやないか Jこ うして敷週間
の間,毎 日出Illl甫 1に 2人 は 1時 1ゝ 宛働 いた 間 もな く樹
つた.1914年 ノースカ ロライナ人學 に學びやが てバ スケ
ットボールの花形 とな り, 4イ ド41の 時 には大學 のパ スケ
々は形 よ く整ス_ら れ,芝 生 も花壇 も整然 となつ た。 この
´
・
親切 な友人 こそ北 カ ロライナ州 ラ ッシュヴ ィル てメ
しての
人 々に「バ ッズJと 呼 はイ│て い るデ i― ル ズ(」 。テ ンネ
ン ト氏 である
.
1957年 度 RI會 長 に指 名 されたHキ , アシ
ヴ ィ′
じクィ
“
ムズ誌は大 きな見出 しでn-3ら かに
パ
「 ッズテ ンネン ト と
Lヴ ィル 1打 でブ 1印刷 し,記 事 を書 いた 賞際 ア ッシェ
ルズ テ ンネ ン トを知 らない人はいるがパ ッズの名 を知
│
じの花形選 手であつた
らない人は少 い.出 Iの ハ イ スクーノ
つ
この
時代 か ら彼は
名 で通 ていた。 そ して この名は彼の
父が子供 の時 か ら彼 に興えた糸
中名 であつた
彼は苗木業者,民 間国製 の リーダー,家 庭的な人で
ノースカ ロライナ西部 の ブルー リッデ とグレー トスモ ー
キーマ ウ ンテ ンズの間 の フ レンチ 。プロー ド・ リバ ー谷
,
で生涯 を途 つて末た ロー タ リア ンである.6月 末 には彼
が會長 に選 はれた名春 を祀 う篤 に地E全 般 で「 ロー タ リ
バ ツズ °テ ンネ ン トの 日」 を催 し, ノースカ ロライナ
知事,元 RI理 事 ル ーサー・ H・ ホ ッデ ェズ氏 も参加 し
た.バ ッズ と彼 とは大學時代 の友人 で又 ロー タ リー仲間
で もあ る
「パ ッズは20エ ーカーに及ぶ美 しいテ ンネ ン ト苗木園 を
6(874)
の主特 となつた。又文に も長 じ大學 新
ッ トボールチ ー′、
聞「 タール ヒール」 の編集に宙 り,大 學 の雑誌,文 藝部
雑誌等 に も寄 稿 した。又 シJi― クスピヤに就 いての ソネ
ッ トを作 つ て 5弗 の賞金 を得た こともある。 これは営時
としては 人金だつた と彼 は云つ てい る 大學 では叉 フ ァ
し夕・ セー ク・ フラターニテ ィに加盟 し,文 藝 サー
イデ′
しの シ グマ・ ウプシ ロンフラ ター ニテ ィに も加盟 して
クソ
いた。歴 史及び英 文學 を専攻 して1918年 BAに なつた。
大学時代 の最高の名春は
「 金羊毛 メグル」を得た ことで
これは毎年大學 の最 L級 生 の中最 も秀 でた學生 8名 に公
,
に興え られ る賞である.彼 は食堂 の給仕 を した り,書 籍
の販賣,洗 濯物 の配達等をして苦學 し乍 ら勉張 したので
あるか ら並大抵 の努力ではなかつ たのである
.
彼 の大學生時代は丁度 第 1次 大戦 の最中で,彼 も大學
4年 の中頃陸軍 に入 り,少 尉 となつて ジョージァ州 のキ
ャンブハ ンカックで壮丁 の教育 に営 つた。大戦が終 ると
彼は ア ッシュヴ ィルに戻 つて タイムズ祗 の記者 として働
いた 又北 カ ロラ イナ国民防衛除 の騎兵士官 に任ぜ られ
た パ ッズは記者 としての仕事 に 2ヵ 年間熱心 に従事 し
文才のある事 を自分 自身 に も他人に も示 した。 しか し彼
の大好 きな戸外 のFIl物 が彼 の生活か ら離れて了つた事/1t
寂 しかつた。 この時 にパ ッズは苗木栽培業 を始 めようと
rHE ROTARY・ NO‐ TOヽ10
決心 し,殆 ス′ど資本 な しで, テ ネン ド苗木間 を始 めたの
であつた
この頃域 々パ ッズはパ スケ ッ トボ ール試合の レフ ェリ
ーをしたが, 側 々ある1時 , 応″1,の 11に 一際大 きな‖卜
び
弾 を聞 き伸;然 そこへ 目が FFつ た 宿命 であつ た そこに
.曽
見た V)の は「 て月′
たため しもない 美 しい大 きな とび 色
の ひヽとみであつた 」と彼は う_こ の │の 持主 の 名は ジ
,ス
エ ッシー・ マー サー と云 い,ォ ハイオ州 か らこの町へ 移
つて末たお嬢 さん であつた 2人 は間 もな く一緒 に山腹
の ドライプをする様 にな り,そ して結婚 に迄 こぎつけた
パ ッズ とジェッスの間 にllt,子 3人 と娘 1人 孫 6人 が
ある,テ ネ ン ト家 が家族 として一番葉 しい思 い│││″ 1キ ャ
ンプの旅 で,毎 年 1, 2度 は山や釣 りの馬 には池 ′
ド
地方
l川
ヘ キャンプに出かける 幸 に奥 さんの ジェッス もこ う云
ら事は大好 きで,家 族があれ程落着 い て満 ち足 りている
のはその訓イ
│し た理 llylと 忠賞 さのお かげだ と思 うが, そ
¬
大なる伴度 に皆 の興味 が ・致 している篤だ と思 う
力
J、
,
シJン スは愛情深 い lで あり H母 であ り,教 f7に ■lし て
ヾ
〉
)熱 心 な夫人である
“
1930年 代 に於けるパ ッスの取引の ‐
つは グロー l′ ・ バ
l・
.
ーク コン ミッシ ョンとで, その際相 手方の公 貞1官 にハー
ハ ー ト・ K。 キャスキー と云 う名の 人がいた この 人が
ローク リアンで頻 にバ ノスに何│`11か ローク リー人會 をす
すめたが彼の返 r!fは ぃつ 1), ノー・リ ンク スであつた
人學時代に彼は何の會 にで もやた らに入會 したので, =
-52年 には投資 委員長,又 最近 には 数 千の人 々をルサ ー
オ
■か らは決 して どんな會 に も人會は しまい と決心 してい
しRC人 會 をす
たの である しか し3「 Hに アシュウ ィノ
めた。
すめ られた‖
│_パ ッズはハ ーパ ー ト・ キャスキー氏 の様
なサ
1派 な方が RCに 惑 きつけ られ てい る以 Lは ロータ リ
その際彼はテキサ ス州名朴州民 として ‖l席 す る の であ
る ロロち1952年 オースチ ンで ロー ク リー地匝大會 が,1さ
れた際知IJlの アラン・ シ ィバ ーズ氏 が テキサ ス式帖f子 を
ンの RI大 會 に喩途する篤 の北米喩途 委員會委員長 を勤
1958年 度 グラス大會にはバ ッズが議員 を1カ め るのだか
l■
ーには何 か ゞあるのではないか と思 い始 め,段 々タリ
つて
末 るにつれて RCを 好 く様 にな り2に 1935イ に入會を受
諾 した 彼が會員になつてか ら後は,私 が ロータ リーの
彼 の頭にかぶ らせ て,名 2]州 民 の莉琥 を興 えたのである
最後 にrrlび として一 っの話 を占 き足すが, 今か ら吸 ヵ
要鶏:を 色 々彼 lC教 える役 日を引受 けた そ して 3年 後 に
は,彼 とジェッスと一緒 に ロー タ リーのサ ンフラ ンシス
月前,パ ッズは薔友 と一緒 に釣 に出かけよ うとしていた
この旅は山 の中に人るので電話 の通す る所か らrlお 2日
コ大 會に参加 したが, この時或朝 の食1下 の際我 々はボー
ル・ハ リスに會つ て蠍1談 する JFが 出末た
3日 離れた所へ行 くのである 旅装 を幣 えて却 々やつ て
末ない友達 を待 つていた そこへ電話が鳴 り,長 距離電
話がか ヽつ て末た RI會 長指 名委員 rv.委 員長 か いの電
│し ないか と云 うのである パ ッズはびつ
話で折 名を受言
ヤ
│三
ロー タ リー倉J立 者 と伸:然 會い,大 會の国際的友情 に接
「によリバ ッズの耐野は債 ま り, やがて我 クラブの
した 」
銀祝 の年 に彼は クラブ會長 に選 はれた そ してその飾 に
はボール・ハ リスがわ さわ ざli薄 演者 として末會 して ドさ
つたのである。やがて地 FIガ バナー とな り1048-49年 に
は RI理 可f,第 1副 會長 となつ た 彼は ロー タ リー4L活
の1用 の多 くの委員會の委員長や委員をrlJめ , ロー タ リー
糾l織 の色 々の部げJで 扱われる3者 l題 に も通H尭 している
1951-52年 及1954-55年 には財務委員會委員長,又 1951
1日
u― タ リー の 友 -8月 眺
.
'様 彼 らしい返
くりして,無 意識 にす く
Jfを した
1君 rは もつ とエ
リい考が出ないのかね J
パ ッズは きつ と今で もそ う考えてい るのであろ う
i・
し
か し米凹及び諸外園 の数 千の友人達 は指名委員は これ程
よい指 名はな し得なか つたろ うと確信 してい る そ して
:κ
君 自身 でそれが少りる時が きつ とくる もの と信ず る
(875)
7
ロ ー タ リ ー のフ エ ロ シ ツ プ ご
新 ガバ ナ ーにき く……ルサ ーン, レークプラシッ ド,テ ンネ ン ト書長 と新年度の
西村 各地匠 ガバ ナーお揃 いで コ ンベ ンションにおい
でになつてお蹄 りにな りました ところであ りますので
新會長 の御方針, コ ンベ ンシ ョ ンの印象等いろいろお 話
何 で ござい ましたか
いた ゞきたい とい うのが座談 會の趣旨 で ごさい ます
い きな りRI會 長 の ター ケ ッ トの話 を していた ゞくと
東 ヶ崎 賞は私は18日 にルリー ンに消 きました のでリ
が,常 日lt非 常 に好いお天気で これが紺 くと誠 に結構た
と思 い ましたが翌 日か ら雨が降 つたので こさい ますが
楽 しかった ル サ ー ン
,
.
JFし くな ります ので, コ ンベ ンション
い うの もお話が困ギ
の印象 といつ た ところか らお話 していた ゞきまして,そ
れか らテ ンネ ン ト新會長 の自l象 を承 り, ターケ ッ トに移
行 してい くとい う筋書 きで まいつた らどうか と思 うので
あ ります
一 ヽI司 い ま したのです が コ ンベ ンシ ョンはお天氣具合
.
j・
が悪 くて卜
Ыが多かつ た よ うで ごさい ますが東 テJI奇 さん如
,
tに して も,街 を歩い て 1,数 多 く集 つ て末てお
天候は何′
る為志 の ロー タ リアンを見 ると,雨 どころの さわ きでな
く,皆 が楡快 そ うにエ ンジョイ しておる,り F常 に 詳んで
おつたように見受け ました 参加者9700名 とか で,参 加
者 の数が非常 に多い篤 にルサー ンの町 のホテルに1女 容 し
きれな で,何 パ ーセ ントかは ツー クか ら通 うことにな
t/・
つたのです が, 1時 間程か ヽりますがJl常 に 景色 の良 い
ところで ござい ます ので 喜んで通 つておつたよ うなわけ
でござい ます
會場 は,参 加者が多 くて全員4/x客 しきれない ものです
か ら,催 の場合は 1り 12り 1に わけ るようになつてお りま
した
本會議は大備 23割 は「│り 市しないだろ うとい う像想 を
しておつたよ うですが,本 會議 には登録 した會員だけは
全部出 ておつたよ うです,そ の1也 1/1tlF」 光 と│││し ますか
,
スイス政府が特別にルサー ン潤lnTを め くる搬光船 を出 し
て くれ まして喜んで雨に も拘 らず出かけ られ ました
それに して も大會は非常な成lJJで , 木だ FLつ て無 い人
會 であつた とい う許少1で ござい ま した
盛田 さんの印象をお聞かせ ドさい
盛田 餘 り人が多いので,自 分 が或 る人に會いたい と
思つて も全然出来ない,9000人 もの人が動 いてお ります
西村
で しよ う lllし 一番感心 なのは あれだけの人が一つの會
場 に集 つておるのですが混雑 とい うことが一寸 も見 られ
なかつた。 自家用車 を持 つてお る人達 で も,界 の前か ら
電車 バ スに乗せて會場 の前迄行 つて其虎か ら會場 にはい
る とい うように して多数の混雑を避 けておつた, 手際良
くいつたということを感心しなんです力
ヽ會場の設備を
があ
と
りま
したね,あ ヽい
中 します ,大 阪に國際見本市
の
つ
う建物 も と大 きいので,員 中にステー ジがあつて四
方か ら登れ るようになつて,座 席 は四方 に造 つてあるん
ですが, スイスの ペー ジエ ントが其虎 で あつたんです
西村 一寸勝手が違 い ますね
.
東 ヶ崎
8
rszsr
座席 が四方 に廣 がつておつて舞台 が中央に持
THE ROTARY‐
NO‐ TOMO
目標 ……
出
藤
第
355匠 ガ パ ナ ー
東
ケ
第
360匠 ガ パ ナ ー
盛
田
第 365ロ ガパ ナ ー
直
,
第 370匠 ガパ ナ ー
.
ます 踊 り、風俗習慣 を珍 らしい衣裳 を着 けて皆んなに
見せて くれたわけで,ブ F常 に大 じかけの もので, スイス
で使つ てお る牛車,馬 車 を舞台 の上迄乗 り入れ て末た り
致 しま して, スイス全国 の代表すべ き珍 らしい もの を集
めて末 てスィス獨特 の音楽に合せて見せて くれ ま した
,
皆は喜んで見てお りま した
司會・ 編 集審 議 會委 員長
木
崎
秀
太
中
村
―
文
大
郎
伊大利語に近い言葉 ですが, この四 つの言葉 を使 つ てお
る地匠か ら集 つ て末た催物を披露 して くれたわけであ り
田 西
存 じの通 リスイ スには四つの言葉が使われてお ります
ドイ ツ語 フランス語 伊大利語,そ れか らチ ロル語
幸
男
佐
郎
350匠 ガ パ ナ ー
不
つ て来てある 盛日1さ ん のおつ しや る通 り舞台 がその様
に途 つてあ ります スイスの歴史を語 る劇 の時 に も,御
者
第
1957年 7月 l日
新大阪 ホテルに於い て
席
三 潔
」二 つ の
治
思 い ます.非 常 にお祭 り氣分 で,戦 苗jの 日本 の ロー タリ
ー大會 に臨 んでお るよ うな氣柴 な気持 で大會 に出席出来
た と思 います。 厳格な コンベ ンシ ヨン とは大 分違 つた よ
うに感 じま した
皆 さんが うまい ことしやべつ て私の云 うことが
レサー ンの大 會に出席す る時
無 くなつ て しまつ た ′
佐藤
llJも
市 民 も参 加 した大 會
に胸 lCつ ける名札 を タイプ して くれ るのですが名前が間
會場は今お話 しの よ うな状態 で あつたんですが
日本 人 と して不思議 に思 つた粘は プログラムが なか つた
こと ヽ少 し寒かつたのでオーバー を着たま ヽ男 の人 も帽
直木
子 をかぶつたま ヽ會場 の中に居 るとい うあ りさまで,そ
れがぉか しくない よ うな大 會の雰園氣なんですね
スイ スの國全鵠が國 を畢 げて今度 の大會に協力する と
_
違 つておつたのでそれ を云 うと早速訂正 して くれたんで
すが,ち よ うど lj墨 間程前にその タイ ビス トの娘 か ら手
紙 が末た
し+― ンの大會のお りの タイ ビス トだ
「私は ノ
貴方 の 名itを 間違 えて うつたが, その後出席者
名簿 を見て, 貴方が 日本人であるとい うことを
.
い ヽますか,ス イスは四州 か らなつてお りますが,全 部
か ら代表が出て余興に参加 して くれま した。
もう一つあ りま した余興は スィスを縦 に見た と中 しま
すか歴史的なペ ー ジェン トであ りま して, スイ ス全鎧 を
確めた。私は19才 で高等商業學校 の生徒 です
甚だ中繹 ないが スイス とい う国 にイ ンテレス
はるば る末た者 に見せ る とい う積 りで特別 にあ ヽい うも
こ うい う手紙 が末たんです 非常 に楡快 に な りま して
イ ンターナシ ョナ″サー ビスを tた 氣が致 します.先 日
のをやつたんだ と思 い ます 然 もスイスの一般市民 に も
公開 したよ うに思 い ます ロー タ リーだけの 會合 でな し
.
トを持 つてお る人達 に, スイスの国 に興味 を持
つてお る女のお 友達 を紹介 して くれ.」
にルサー ン市民 も大會に参加 してやつ てお るとい うや り
方 が非常 に気持良かつたです
もう一つ花火 の余興が ござい ま した, これ も町 全髄が
協力鯉制なんです 全市の電燈 を清 した ロー タリーの
余興の局 にルサーン全市 の電證 を油す とい ぅょ ぅなこと
は,大 會の篤 に國 を奉げて協力す るとい うことでなけれ
は日1末 ない ことだ と思 い ます
それか らアメリカに於ける大會の状態 を余 りよ く知│ら
ないんですが,大 分や り方 が違 つてお るの じや しないか
と思 い ま した 欧羅巴に於ける風術 を相常取入れ てお る
のであろ うと思 い ますが,大 會の状態が大分違 つ てお る
よ うで, ロー タリーノング等 1)そ う唱ゎなか つた ように
ロ ー タ リー の 友 -3月 境
座 談 書 ス ナ ッ プ
(8r7) 9
一
●︶一
フ
“
郵便友 の會 の會合 があつた ものですか ら,そ の手紙 を持
つて行 つて適営な人 があつ た らと,頼 んで末たんです。
それ と私 の関係 してお る女学校 に もその手紙 を持 つて
直木 毎 日食 卓で 會食 の度 に隣 りの人が興 るものです
か ら特 に親 しくなる とい うので な くて全般的 に皆 と親 し
く話す とい うふ うで した.佐 藤先生なんか個人的 に近 し
行つて頼 んで末 たんです
営人 には斯 々で方 々に頼 んでお いたか ら何れ手紙 が行
くしてお られた方があ られたよ うに思 い ま した
佐藤 言葉はよくわか りませんで したが フ ィリッピン
の辮護士 の奥 さんなんですが「貴方 は馨者 か」 と云つて
聞 くんです │ そ うだ」 と申 します と「血座が高 くて困つ
.
くだろ うと云 つて早速返事を出 してお きま した
宛 名は Brigit Koenig Recken bue1 7
.
Luchrne Switzeland
私は ス イスには19日 20日 21日 しか居 りませんで したが
雨に降 られた ものですか ら,大 會 に出席 した以外 には何
庭 に も行かずに,旅 行 の話を聞 いた り,そ の後 の大會 の
模様 を聞 い てわか つたfセ なんです
ロー タリーはフエ ロシツプだ
西村 お婦 りになつて感想 を一言に して云われたのに
は「結局 ロー タ リー1/tフ エ ロシ ップだ」 とい うことで ご
ざい ましたか,そ の御経験 をお開かせ下 さい
直木 レークプラシ ットとスイスの大會 と両方 を通 じ
て,英 語 が餘 りよ く出末 ないので 自分 の云 うことも相手
によ くわか つて もらえない.會 長 の本年度 の 目標 とい う
てお るんだが見 て くれ るか」 と云 うのです.目 は らん ら
ん として光 つて居 るし,ち ようど更年期 の ような恰好 を
してお るんです.mL駆 計 も何 も持 つてお らないか らはつ
き りした ことは云えないけれ ども几そ 170位 いだろ う
と申 しま した ら自分 の主治警 とびつた り同 じだ, と云つ
て名簿 を一寸貸 して くれ と云 つて篤員の頭 の ところに
,
,
「 グッ トドタターだ」とい うことを書 いて くれるんです
毎 日合 う度 に「氣分は どうだ」 と云つて尋ねてあげて
おつたんですが「非常 に氣分 がよい」 とい うことで薬 を
.
澤山持 つてお るんだけれ ども良 いか悪 いか見 てほ しい
といつて見せ るんです.「 こ うい うもの を飲んだ ら却 つて
悪 い,そ れ よ り血座 の ことなんか忘れなさい,毎 日こう
,
ような もの も後 で書 いた もの を讚 ま して もらう方 が よ く
わか るんですが, レー ク プラシッ ドに 9日 間居 りま した
ゃつて一緒 にいる間 は診察 してあげるか ら安心 してい ら
つ しやい と云 つておつたんですが,「 ルサー ンに も行 きた
いけれ ども貴方 も行 くか」
「僕 も行 きます」 と云つた ら非
が言葉 とい うものはそ う必要 じやあな くて,各 國 か ら集
つてお る人 々は心か ら心 に相通 じる ことが出来 る ものだ
とい うことを鎧験 しま した_又 それ を證験 さす篤 にガバ
常 に喜ん でお りま したが,ル サー ンで會い ま して,「 どう
ですか」 と尋ね ま した ら「 とて も具合 が良い」 とい うこ
とでポケーシ ョナルサー ビスを致 しま した
ナーノ ミニー を必 ずあそ こに集 めることに なつてお るの
であろ うと思 い ます。心得 を知 らしめるだけだつた ら書
いた もの を途 つ て もらつ て讀 んだ方が よくわかるのです
けれ ども,各 国 の人 々が一緒に暮 す とい うことを證験 さ
す,大 會 もそ うい う人 々が集つて氣分 を味せ る とい うの
が目的 じやあいか と思 い ます
した方が ございますか, レー
西村 特 に御親密 にな らオ
クブラシ ッ ドか らルサー ンの大會を通 じて
.
10 (87b)
SAAは
元 ガバ ナー
田中 レークフラシッドの最初の2,3日 は困りました
予定 が ぎつ しりつ まつていて時間 に一寸 も余裕が無 い
一番 ゆ とりのあるのは蓋食 の後の休憩の時だけで,初 め
の 2,3日 は
に疲れ ま した 併 じガバ ナー ノ ミニーに
'F常
に大物 ですな
liTば れ る人達は流石
,皆 親 しくして くれた
殊 に こちらが老人だ と見 て労 つて くれ る そ うい う関係
iHE XOrARY‐ NO― TOMO
GR.ミ
ー ンズ
の プ ロ フイ ル
今秋 ,東 京,神 戸 に開
か れ る地 区年次大書 出
席 の RI書 長代理
我國 ロー クリー再建 の父 とも言 うべ き,国 際 ロー タ
リー事務紹長 ジョー ジ 。ァー ′
レ・ ヾ― ンズが念 々次 の
地匠大會に国際 ロー タ リー會長 チ ャール ス・ ジー・ テ
ンネ ン トの代理 として末 る 9月 下旬 に我國 に末朝す る
で後∠
卜は非常 に19快 lCな つて部屋 でほんや りしてお るよ
り會場 に│11た 方が氣がま され ま した
世界中の ロー タリーを背負 つて 立つ者 1司 志 が相識 るよ
ことは確貧 である と見 て よい よ うである_こ れは我國
ロー タリア ンの一致 した懇望 であつ て誠 に喜 ば しい こ
とである
ジョージは国際 ロー タ リー第 3代 の事務縫長 で,第
うになつて,そ れぞれの四 に婦 つた ら各国一緒に ロー タ
リー活動をするとい うのが 目的 の一 つですか ら, その FI
2代 事務絶長 フ ィリップ・ ラブジョイの副事務線長 を
つ とめて る人であつて,1949年 に末朝,先 ず東京 クラ
的は よく達成 された と思 い ます 70才 に もなれは こちら
が共li吾 を少 々 しやべつて も向 うに よく通 じないです 併
ブを再建 し,次 で京都 ,大 阪,科 戸,名 古屋,扁 岡,札 幌
横濱 の1日 に ロー タ リー復婦 を指導 した恩人であつて東
,
しこちらが話の主題 を取 つて しまつた らよくしやべれ る
京 クラブの名春會員 として年 々に推戯 されてい る
んです よ,そ うい う経験 もずい分あ りま した 私が 1人
お排常食べ てい ると傍 に来 て「 ア メリカには始めて末 ま
52年 の終 りに フ ィリップが事務絶長 の職 を退 くや, ジ
19
したか」 と話 しか けて末 る │い や43年 前に末 ま した」 と
い うとすい´
ドん古い ことで驚 いてい る。大低 10才 か15才
ョージがその後任 として1953年 の lll務 絶長 とな り,そ
の後年 々に選ばれてその職 に あ り良 くロー タ リー凌展
のためその心 mlを 注 ぎ ロータ リー今 日の大 をな さじめ
。階者 の研究 に末た」 とい う
にいだつた人が多 いんです「
つ
と皆が興味 を持 て聞 く, それに釣 られて こちらも雄排
た原動力である ジ ョー ジが国際 ロー タ リー理事會に
よつ て事務線長 に決定 したのは1952年 7月 末 の ことで
になつて話す 主題 を握 らなかつ た ら話す氣 にな りませ
んね,年 を取 ると
,
一番最初 のア ッセ ンプ リーに行 つたのは星野行則 さん
が第 11!Jで 、 今年は 7回 目の年なん です, 7と い う敗は
縁起 の良 い敷字 で,世 界中か ら集 つた貴方方 が幸而 を掴
んで婦つ て ロー タリーを憤めるだろ うとい うことを云 つ
てお りま したが,第 1回 の星JF・ さんは11時 81才 だつ た
それに比 べた ら私 の方が未だ若 いわけですが,今 年出席
した者の中では私が一番年長者 で した
又 レー ク・ プラシ ッ ドのア ッセ ンブ リーで感 じた こと
が 23あ りますが, その中で最 も感 じたことは SAA,
會場監督 のマ ックグラース とい う人ですが,後 の方 に坐
つて居 るんですが, この人が非常に厳格だけれ ども亦非
常 に親切で した。 會場 が叉 うま く出 来ていて,座 席 の横
に小 さいテープルがあつ て水持 とコ ップが置 てあるん
です, その席は毎 日興 るんですが, コ ップに水が無 くな
つてお るとその SAAの 人が来て注 いて くれ る 水が こ
1/・
ばれるとその會場監督が拭 きに末る どうい う人か と思
つておつた らパ ス トガパナーなんです.そ の人が水なス´
υ ― ク リー の 女 -8月 脱
あるが,そ の任務は1953年 1月 1日 か ら始 まつた
ジョージはア メ リカ合衆國 イ リノイ州 ブル ーミン ト
ンの生れで本年49歳 の働 き盛 りである.氏 はイ リノイ
.
州 立教育大學 の出身 で後 に マサチ ューセ ッッ州 ウスタ
ーにおけ るクラーク大學で修士 の學位 を とつ てい る
10簡 年 にわた り地同 とい う雑誌 の記者 を務 め ジオ グラ
フ イック・ フラターニチ ーであるガ ンマ 。セタ ●ユ ビ
シロンの倉り
立 會員 であ リアメ リカ地理協會 の會員で も
ある
ジョージが ロー タ リア ンになつたのは約25年前 の こ
とで,郷 里 ブルー ミン トン・ ロー タ リー・ クラブであ
つた 氏はそのクラブの副會長 をつ とめ今 で もその ク
ラブの會員 を維持 してい る.国 際 ロー タ リー中央事務
局 lC末 たのは1935年 ,そ こで色 々な職務についた,例
えば大會支配人,前 に印度 ボ ンベーにあつた中央 アジ
ア事務局長,及 び国際 ロー タ リー扇JI務 紹長等 々の職
にあつた 第二次 陛界大戦 の ときには合衆國海軍指令
官 とな り,戦 後は 日本及 びF」 l鮮 の ロー タ リー再建に力
を入れた人である
(s7s)
I
1
ころによるとア フ リヵの方面 にい らつ しやる とい うこと
か拭 いて廻 つ てお る
私 が氣分 が悪 くなつ て グルー フデ スカ ンシ ヨンを さぼ
つて婦 てお つ た ら,直 木 さんに日]中 は どう してい るか
で,普 通な らば人都會を■
Fね ることが歴代の會長 を見て
もそ うなんですが,今 度 の 會長は今 まで會長 の訪日1を 受
,
と尋ね ていたそ うで, え らい厳格だなあ, と思 つておつ
たんですが,“ 朝會 の始まる前 にマ ック グラース さんが
けた ことの無い地方を訪問す るとい うので感心 いた しま
やつて末 て「君 ど うだ需者 に見て もらつ たか,前 L歴 が高
い ような ら余 り無りIを しない方 がい ヽ」 と側に末 て労 つ
て くれ るんです それがパ ス トガパ ナーなんです
テンネ ン トさんの ターケ ッ トの話ですが, 何れに して
も奥 さん共 に非常 に立派な方 で, レークプラシ ッ ドで會
した。
又 ノング リー ダーが賞 にオ
旨椰 が うまい うまい筈 なん
です, ジエ ンキ ンスと云 う人 で音楽 の専 Fり 家 な ん で す
が, この人 もパ ス トガバ ナーです 日本では月報 に も書
いたん ですか ガバ ナー を特級硯 し過 ぎる
ガバ ナー も會
余 り崇 め過 ぎて言葉 も交 せない よう
な感 じが しますが, ア メリカではパス トガバ ナーが 會場
監督 をやつて水 を拭 t/hて 廻 つてい る 晩 に幻燈 を見lC行
員 の一人なん です
つ た ら私 の席が無 い,早 速席を見付けて くれ て坐 らせて
テ ンネ ン ト會長 と新年度 の目標
西村 ア メリカに於 ける協議會, スイ スの 大會 の自l象
は大榊 わか りま した が,本 年度 RI會 長 テンネン トさん
の日J象 な リ ターゲ ッ トを どう うふ うにお受取 りにな り
ま したかお伺い した いのですが
1/・
東 ヶ崎 新 RI會 長 テンネ ン トさん に は レークプラシ
ッ ドで始 めてお 目にか ヽりま したんですが,そ の 時 テン
ネ ン トさんは 「自分は 日本には開係があるんだ」
とい うことで,い ろいろ聞 いてみ る と「賞 は自分は植
木 の栽liを してお る,殊 に脚間 の専門家 で脚間 の 出を 日
本 か ら輸入 して仝国 に 1ヤ 及 している, 日本 のお蔭 で11活
しているんだ」 とい うことを仰つ しやつて ま した
「f千 期中に 日本 にい らつ しやるで しようJと お伺 い した
)未 だ]_つ て 會長 の訪1句
ところが 「行 きたいんだけれ ど平
を受 けた ことの無 い ところが数多 くあるので,今 年は 日
本 には行けないだろ う」 とい うことで後程他 か ら開 くと
感じました
も しく`い 張 く′
'喜
盛田 東 ヶ崎 さん の よ うにテンネ ン トさん とは 規 しく
お話 ししませんで したけれ ども, 一寸會つて少 し話を し
た時 の感 じですけれ ども前會長の ラングさん とい う人 も
するように感 じました
ターゲ ッ トを三 つはか り摯げてお りました
これは宮
脇 さんが詳 してお られ ますが,そ の通 りなんですが.結
ふ合 してみ ると, ロータ リア ン自
局後 の大會 の時 の話 をぶ
身個 人の イ ンデ ィビデ ュアルの活動 を奨 hlJし ,且 つ 自分
逹で責任 を持 つて もらいたい.と い うことに Ti路 をお く
ように感 じて まい りま した
直木 目標 とい うのは,テ ンネ ントさんが20人 ばか り
づ ゝ書食 に招待 して くれま して,そ の時 に頂戴 したんで
すが,名 文 じやあないか と思 い ます,抽 象的な文章で具
憚r・Jな 言葉は一寸 も無い レー クプラシッ ドに於 ける
議會の時 もこの人の話は聞 き難 いの じやあないか と思つ
lF/J
たんですが レー ク ブラシ ッ ドでの最後の御挨拶は賞に簡
瞭 で、結局 こ ゝに書 いてある ことが らよりももつ と
単り」
′
短かかつ たんです 婦つて末ま して ド島君 に見せた ら
「
なかなか名文である.今 迄 ロー タリーか い
1'島 君 FJく
,
取 締役 会長
lTR締
区
田
ビ 蹴
´
︱︱r 都
一
7 棘
嵐
日
(sgo)
ですが よくお務 めになつた。績いて大會 に於 いて も我 々
に必ず向 うか ら挨拶 さノιてリト
常 に恐縮 い た しました。 こ
うい う立派な人物 を我 々の會長 に明lぐ ことが出末 て我 々
地味 な人 ですけれ どもテンネ ン トとい う人 も地味 な人 と
思 い ますね,言 葉 も余 り多 くなかつた。少い :キ 葉 で rlを
くオして賞 に親切なん です
12
議中に毎 日1瞬 番 にガパ ナーノ ミニーを代 る賛 る食卓 をFpl
じくして,い ろいろ新年度 の方針 について説明 されたの
■ 番 町
役 社長
1正
力
松 太 郎
清 水
興 七 郎
卜 四 番 地
THE ROTARY―
NO‐ TOMO
1957-部 年 ,■ RI役
― ガス チ ン
I・
員 の 面 々 。前 列 左 か ら 月ヽ林 雅 一 (理 1', 日 本 ,東 京 )ア ル バ ー ト P・ ベ ン グ ム (第 3 Hll會 長 .ニ ュ ヨ ー ク州 ,ス ケ ネ ク タ デ イ )●
ヵ トー
(第 1■ 1會 長 , レパ ノ ン, ベ イ ル ー ト)チ ヤ ー ル ズ G・ テ ン ネ ン ト會 長 ,W・ モ ー リス
・
ツ イ ル ド (第 2鷹 J會 長 ,南 F」 j■ 月;.
ボー トエ リツベ ス)ジ ヤ ン パ ウ ロ ラ ング (理 11,直 HIR I會 長 )ア グ / ヴアル ガ ス
―ル P・ ミラー (理 1,
(■ !J` ベル ー・ カ フオ )談 列左 か
カ リフォル ニャ州 , ロス ア ンジエル ス )ス タ ンレー
レパー トン (理 1', 英園 ,「 ン ドン)フ リツ ツ ギ シ ン (FP l`, スイ ス')ヵ
チユ ー リツ ヒ)ウ ェ ツ プ
ソ │リ ン (FJ!11,テ ネ シー 川 , シエ ル ビー ヴイル )ル イス L・ ロー ス
(理 1', ミズ リー川 , セ ン トル イス )グ グラス T・ スチー プ ンノ ン (月 1.ll, カナ
タ ケベ ツ タ シ ーー ブ ル ック)ロ イ ド ホ リス ター
11'.イ リノイ ス外 ウイル メ ツ ト
(理
l
)ジ ョー ジ R・ ミー ンズ (Rl'1,務 社長 )
末る文章は小学校か幼lL園 程度だが,こ れだつた ら高校
大學程度だ」 と云つ てお りましたが、私には よくわか r)
同時 に木研J拓 の地 方 に ロー ク リー を描 げ るは 3,lJを 馬
す べ きか を探究 す る この 1つ の Eの 柿市
「で もつ て本イL
ないんですが,盛 │口 さんの仰 つ しやるように
「 ロータ リーのJ!想 を賞現 しよう,賞 現す る馬には,ゃ
んの三 つの 日標 「 ロー タ リー シ ンブル
は リイ
也の力をか りる, フエ ロシ ップに よつ て ロー タ リー
の理紅1 llf現 をはかつてい こ う,賞 際にやろ う J
ます
と氣合 をかけたん じやあないか と思 い ます
田中 私は官 VJjさ んの続畔 を詳 しく譲 み ま した しあち
らに居 る間 にパ ンフレ ッ トを もらつて:演 み ま したが, 7
月 1日 付になつてお りましたか ら早 くか ら凌表するの も
どうか と思 つ てお りましたが今 日で 7月 1日 にな りま し
たか ら獲表 してい ヽ時 り
切が末た と思 い ます ガバ ナーに
の■は
走1を
,ヒ
くせ よ とい うこ とで, これ は去 fliの フ ングさ
ロー タ リア ンに
もつ と ロー タ リー を.」 と い うよ うな こ と も包 んでお り
違 つ た もので はない
うに考 え ます が,
レヽ
佐藤
別 の ii葉 で現 した とい ぅ■、
Eが 二 つ i■ な つ てお るか ら tζ え や す
テ ンネ ン トさんは篤 員 に もあ る よ うに 見た とこ
ろ同‖Iが 廣 く,ず いぶ ん 千 が大 きい
全側 にがつ ち りし
てお ります
頼 も しい よ うな感 じが しま した
い ろい ろお 話 を伺 つ たわ けで あ りますが ス リー Eに
llす る もの と各 ロータ リア ンに対す る もの二つにわかれ
よる 1つ の 日標 につ い ては, ロー タ リー粘 前)に 1つ は無
ておつたのですが,各 ロー タリア ンに興えた書簡 の 方は
いで しよ うけれ ども,い ろ
JF常 に簡‖1で わか りやすい もので, この通 りtξ えた らわ
い ます
けない,つ ま りEが 三 つ あ ります
エ ンリス ト (J/J員 )エ ックステ ン ド (」 出張 )エ クスブ
ロアー (探 究 )そ れか ら最後にサーブ 列ィ杵に憶 えやす
に使利 な言 葉だ と思 い ます
い,併 しこれだけだつた らよ くわか らないので後 か ら説
に招 かれ ま したが
明が付いてお ります つ ま り昔 のボール・ハ リスの本
Ii籠 │
にか えつて ロー タ リア ンとして柿前‖
的な方面で動 員せ よ
エ ックステ ン ドとい うのは外部か らか き集 める よ うな手
の角 ぼ つ た意志 の 強 そ うな 人の よ うに思 い ま した
の )好 を してお りました 1.23共 それぞれ 手の恰好を
連えて身振 りを してお りましたが.1は ,粘 nI的 ,物 質的
にEll員 する 2は ,米 1,市 ‖
的 に もロー タ リー輝imを 損 めると
1イ
ロー タ リー の 友 -8月 脱
ろ うま く考 えた もの だ と`思
ター ケ ッ トを出す のに 二 つ Eの li葉 を│キ つ て 末
1/・
て最 後 にサー プで結 んでお る な ど,共 17iと い う もの は賞
‖中先 ′
Lと 同 じ時 に
云 うこ と もきわ め て円 11で
その時 に
′
li姿
しあ い が あ り 新年度 の
日標 を示 され たわけなん で すか,そ の 印象 は何 とな く頼
も し 感 じが しま した
t/・
西村
:i舌
か らだの丈 夫 そ うな,頻 の へ ん
では このへ ん で,有 難 うご さい ま した
(881)
13
口゛
,ク アプ
人 に嫌 われ て は な らぬ
巡
5)禦 け 巳
會
1松
絶・ 書・ 俳句 。短歌をやつて居 ります 何 かやつ てい
る中に,つ きあたる ものが あろ うと見たま ヽ思 つ たま ゝ
なすがま ゝの形 であせ らず,急 がず何ち らか と云 えば味
わいつ ヽやつてい るのですが,そ れがまた人 世のあ り方
を教えて くれている様 です。 (趣 味を語る
亡母85歳 で他界 しま したが,「 人 に嫌 われてならぬ」 と
云 い きかされ ました.ま だその境地 に自分 を置 き得ない
)
の を恥入つてい ます (ゎ が座右抑
南原繁の「日本 とアメリカ」は面白 く讀 み ました.私
も「 アメ リカ と消防」 3巻 を著 してみま した (私 の推選害
アメ リカに惨敗 を喫 した 日本 ですか ら,何 故 ア メリカ
)
に敗 けたかは衣 。食 。住 の三面に封 して もi7Rく 見究 める
べ きと思 い ます.事 業・ 家庭・ 趣味 。多少その画 を紹介
t.,賞 行 してい る自分だ と云 うことがそ う で し よ う
自処
処人
尺阪 市 渭 防 局 長
然
然
超
雷
が
座
わ
右
JII
51歳 )
I
│
山 口
写 真 コンテス ト
社会 奉仕 の ひ と こ ま
自
(キ
由
題
材
ヤ ビネ以 _L・ デー ター 共 )
木村伊 兵 衛 選
.′
i基
切 。9月 5日 ・ 10月 号発 表
り 先 「友」編集 事務所
RC笠
原
一
彦
自虎超然・ 慮人霜然 。有事断然 。無事澄然・得意淡然・
失意不然
これは昭和 15年 に學校 (東 京商大 )を 出る時,學 長 の
上田貞次郎先生 が我 々卒業生 に興え られた庭世訓です
この教訓の各句 が夫 々に先生 の 日常生活 を律する鐵員リ
を示 してい る様 に思われ, 日々 これに従お うと思 うこと
‖され ます
によつ て,去 りし日の恩師の姿が懐 しく想 いた
中央線 の電車内 での忘れ物 の, リーデ ィングヒッター
(?)で あつ た り,喫 みかけの コー ヒー茶碗 を灰皿に代
用 して又 これ を喫み績 けられ ると云 つ た超然振 り,喫 茶
店 で も學内の學生食堂 で も先生 の方 か ら席 を移 して越 ら
れ て留學時代 の想 い出話をされた り學間上 の議論 lC耳 を
傾 け られる雲然振 り,昭 和10年 の例 の商大白票事件か ら
11年 12月 の學長就任迄 に探 られた断然振 り等 々これ らlt
卑近 な敷例 ですが誠に先生 自 らの生活態度か ら滲 み出た
14
( 882)
「 HE
ROTARY_NO‐ TOMO
イ ≒
卜」 蘇
松「 り歳
松
'♪
教 訓│と 云 え ま しよ う
「の銘 として ノ
以来 161i, これ を座 イ
、111の 完 成 に 努 めて
は ・ りますが,道 の愈 々違 い こ とを覺 え汗彦iの 寺1り に存
l「
`メ
じます
ぬ :参 照
1141t, 人に期にわれて ltな
巳 1
上し
中」瑛 it女 千
〔
ミ2昴
薔 薇 を人 で あ ぶ る
苫薇 ね とか何 とかのお IL綺 子を員 l_受 けて, その 友達 に切
つ てや つ て しまつ た との こ とであ る │]1昔 しが つ てみ て
襲 つ たJTは まだ「Llそ うで あ
も後 の祭 で 今 更イ│:方 が な い
る 折 frl約 束 した もの をIJ Iさ な い とい うの も悪 い し,か
つ 1吸 め てみ た らどうだ
と云 つ て この苦 では │]1せ な い 一‐
ろう
ふ くらむに違 い な い
きつ と1り `
とい うこ とで一
餘 り」、ぐらみ相 に もな
晩 火 で 部屋 も1暖 め る ことに した
くて, と うと う曹 を火鉢 で lri接 ぁぶ る とい うこ とにな つ
趣 味 を語 る
延岡 RC
た
│
ヽ里1良
折 ′
」
一
翌期 lCな つ て,多 少ふ くらむ よ うで もあ るが, ど う
ち色 が あせ てイ1:舞 つ てい る
て兎 にfrl出
「これが私 の趣味で ござい ます」 とl=え る迄にはなかな
かの J手 であろ うと考えているが,J浸 近少 し絣薇 に凝 つ て
い るので,そ もそ もの凝 りそめについて 書いてみ よ う
もう l11イ ドになる 懇意 に してい るバ ラ會 の責lT者 の
)│││さ ないか とのり
方か らバ ラ展 をやるか ら是JF一 伐で こ
員
つての要請である 鑑11専 1と い うことで 會員叶1込 をし
│・
ていた し、私の庭に 2, 3本 社えてあるのを知│つ て居 ら
な いので あ るが,す ゝめて くノtた JJか らは 「 ま ことに 勇
敢 で あ る」 とい う獲 なお 褒 めの iキ 葉 をい た ゞい た
「
こ うい うことが あ つ て,奮 起 ・番, ll速 ,数 10本 の だ
をイ│:入 れ,1刃 は 今迄 よ り 1時 ││]IIく
浴が ない
で
,花 は暗 くなる
それ以 来 の病 みつ きで あ るが まだ趣味 とl:え る程 の 餘
(延 │‖
上
手
な
ドレスく―カー女7院 Fl lヽ 長 37歳
員
口
お
LLき
,け にす る とい うこ とで,努
迄 , 日曜 日には ■を き ギだ ′
力の HJ斐 あ つ てか 翌 作の バ ラ展 には先 ギ 先ず といつ た 程
家 に師つ てみるとこれは した り,折“
角咲 いていた と思
つ た花がない 聞 くと, 碁の友達 がi訪 ねて末て,綺 麗な
な
i・
`5ヽ
セが 出品 で きた
度 のイ
切
│″
ま こ とに汗顔 の至 りで,話 題 にな つ た JFは 想像 に難 く
れたか らであろ う それ も l lJと い うことである 2,3愉
吠 いていたように思 つ たので私 も気中 におり1受 け した
│り
デ F著 した り etLIJさ れ た りし
した
お
東 京 都 中 央 区
新 4肯 ・ 銀 ■1
神 1.京 都
「
日 本 橋 ,口
り
九 ノ内 (束 ,I)。 人 llK・
高松 ・ 松 lL 仙デ:・ │し 幌
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受 け て菫 宝 三 越 の 商 品 券
ロー タ リー の 友 -3月 排
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883
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蕃 山
隆 景
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な きように と心懸 けるのみである」 と言つ た とい う,非
常 によ く思慮 をめ ぐらす人で,糧 健中 IE、 先見 の1月 もあ
り, しくじることのない人であつたが, それていて,FIE
幸村
私 の 敬 愛 す る人物
韓 の役,碧 蹄館 の一 戦では,二 萬 の兵 を以て明膊李如松
が卒 い る十餘萬の大軍 を破 り,敵 をして心略 を家か らし
│
大分RC
と 日J太 五 劇
イ
敬愛す るとい うの は,崇 井 す る 私淑す る,尊 敬す る
愛好す るな どとチ ヨ ン ト違 うようで ある 尊敬する と共
又筑前 名島 の城主 としては,空 廟 を建 て學校 を
't
し, lf庶 民 を して學 に就 か しめ, 自ら之 を奨lllllし て,lrt
//時 であ 1),
ことに
の
に
われたなど
教大 行
, ま
文武面道
に好 きな人物,又 は好 きで も而 も筆敬す る人物 とい こと
になるのであろ う そ うい う人物 は案外少 い ようである
賢;降 であつ た
11村 はWl卜 1恩 顧 の者 までが,勢 に附 き,徳 川に研│び
が,私 は嘗 て砧 々それに該1杵 する人物 を 3人 ほ ど澪げた
を減ぼす llt'Fに 参加 した時、昴1り l1/x然 として
記:川 がたの誘惑 を勿Jね つ け,孤 城無授の大阪 力にltLい た
鼎,誠 に痛快無1ヒ である この心■fを 私は限 りな く愛好
めた
`
て
ことが ある 熊7Ψ 蕃山,小 Lj川 隆 芳 員│]ヽ
「 村がそノし
ある
、物 を求 ノソて中江藤樹 を得
蕃山は 1自 分 の師 とすべ きノ
t、
,
:下
街
す る と共に, この故 に又彼を深 く1,敬 するのであ る
この人だ と思 い んだ ら
に 14/ti,坐 り んで途 に教
を受 くる ことを得た後 単 貧に安 ス じて獨學 5年 .29歳
で岡山候 に仕 えて大に治績 を撃げ.39歳 で放イ│:し て京湘
に住 めば公卿 や諸候 の間 に多 くの ファンが,Ц 末 て、 その
j△
[日
,
1:WI「 :i家
j△
(大 分 大 學 々長
74崚
)
お互にもつと矢口りあお う
)、
`
1趣 味 を 語 る
篤 に却 つ て嫌疑 を蒙 り,軟 禁の状態に置かれたが,だ か
′
らとて世 の月ヽ人 ど 1)と Fう で 1,な く.悠 然 として餘生 を
迭 つた
│
伊束 RC
珂
その人 とな りは温良寛 │′ ,威 あつて猛か らず
,
Lば 川
)之 に接すオ
公候 大人 単
‖然 として容 を改 めたが,一 面
には
しく
ワ
こ女やり′人
優
謁然 の 気が :キ 葉 や顔色 に表われた
とい うことである
その 著「 人旱成陛
彼の経世湾民
の要道 を「 いた ものであ るか.IJ頭 に「偉│'処 に通ずべ か
11 /)を す くう活法 な り 其
ラ‐
らず 古 今にわたるべ か ノ
く
人を得 て行はるべ しl1/xに 秘 t‐ 〔イ
時J と喝 破 した ところ
1ま
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甚だ1喩 快 であ る
つ と知 り
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ラングぼ前 長 の H標 の一つである 「お 71に 単
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仲間人 りさせ らノ
「 局 クラブが,次 IHIの 幹
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く、 自 ら本ず る こと瞼素 で,嘗 て相 11に 「llL忍 Jの 二字
を掲 げて居たが,後 に「思 按」 に改め 思按 Jl夫 は■ し
[LI古
く仁愛 を以て本とすべ しJと ′tい ,又
]の 人 々は俺
し
イ│:合 いの花を喚 かせて,開 會の3tの 鳴 るの を お し ま ′
る こ うしてf也 クラブ員 との親交が急速に結びついてゆ
を思慮深 い者 の よ うに i:う が、 lFEは た ゞ事に此 して後悔
く
降景は容郷
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(884)
′′ 0
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古
ヽ
古
紙
、
白 原
本
羊
式社
株会
三菱 製紙 株 式会 社代理店
本
16
てイL舞 う, 1也 の クラブヘ メーキ 7′ プに│11席 する と, そ
しフ ァーが親 しく寄 つ て末 らガして,前 │:1の
の クラブの ゴノ
店
東 京 都 中 央 区 京 橋 ‐丁 目 四 番 地
電 話 。 東 京 28局 (28)6330 - 9
大 阪 市 東 区 博 労 町 一丁 目 五 番 地
26局
電 話 。大 阪
4 556 - 9
THE ROTARY_NO‐ TO MO
或る日中年 か ら始め られた,他 クラブの ゴル フ ァーに
御供を した 川奈 の富 士 コース11番 か ら,熱 海 の街が紺
碧 の海 をへだて ヽ浮 んでい る。僕は「彼方を御覧 なさい
額に入れたい風景 で しよう」 と云 うと,彼 は「私は プ ロ
か ら常 に球 を打 つ時, 日を離すな と叱 られてい る.景 色
それに御専念 の ほか,ま た他事や一身 の榮達 な どは御考
えない ものに相違 ございます まい」 以上吉川英治著,大
閣記 よ り輔記,軍 師牛兵衛は死 んで行 く.賞 に彼 の豫言は
あやまつていない。松壽丸 こそは後 の黒田長政 である
.
(三 池 倉 庫 KK祗 長
め だ か を
川奈 の ゴル フ場創設者 の大倉喜七郎氏 (74才 )は ,昨
年 コースとコースの間 にある,小 山に樟の苗 を千本程植
えられた 氏は「この小山は50年 維 つ と,樟 山 になつて
趣 味 を 語 る
耐戸RC
,
樟 の香が漂 うコースが出末 る」 と楽 しんでお られた.今
苗は地上 1尺 ばか りにす くす くと延びてい る
始 めて顔 を合わせた ロータ リア ンと,青 い芝 生 を踏 み
乍 らも,至 る虎にユ ーモアーあ り,頓 智あ りで,忽 ち親
交 を深 め られ るし,自 分 の世代 では責現 しな くとも次 の
人 の篤 めに と,樟 を植え られる柿耐 を噛み しめ乍 ら, 自
然 に融け合 う一時 こそ,ロ ータ リアンの幸 と思 つ ている
(1奈
ホ テル 祗 長
52歳
)
記
)
0つ
どころか どうして球か ら日を離 さぬ様 にするか と,頭 が
一杯 である.ブ レイ中他人 の心 を働Lす ことは ロータ リア
ン精耐 に反する」 な どと笑 い合つ た
%歳
田
村
亨
狩敷 だ とか,魚 つ りだ とか,好 きな事は色 々あ ります
が,そ の 一つ として,長 い間「 めだか」(小 魚 )を 飼 つて
柴 しんで い ます めだかには野 めだか (黒 ), 緋 めだか
(赤 ),斑 めだか (赤 黒斑 ), と純白の白めだかにの四種 が
普通 ですが,斑 と白が一般では珍 らしい ものです_過 去
3年 ばか り苦心 して漸 く斑 と純 白を作 る事が出末 て,喜
んで居 ます.今 後は白 と黒の斑,自 と赤 の斑 を作 り度 い
と思 つてい ます
191夕 この可愛 い小 さなめだかが,私 を元気 づけて くれ
る事は,大 きな もので,私 としては これ等 のめだかに ど
うして安住 の場所 を興 えるか ゞ,つ とめだ と思 つてい ま
laoas*1
^4FERC
す。
A' 'fi #
(日 本 綱 米 製 粉 祗 長
偉 い人 に な る よ り
竹中牛兵術 が信長 より預 つ てい る質子,松 詳丸 を一命
を以てかばい,弓 三
井山 の陣中にて,父 黒田官兵衛 に無事
引渡 し,其 後病 勢あ らたま り盗 に陣中秀吉の膝 に死んで
愛清 を感 じます 亦彼れ が
行 く.情 に深 い牛兵術 に
"tい散るも喚 くイ
),死 ぬ も生 る ゝ
秀吉 にの こす遺 言がい ゝ,
暉
,,ふ か く棚 じてみれは宇1甘 一1員│の 中の, 春秋 の色相の
これか らの多 事多端,1比 の うつ り袋 りは定に思
み
いや らる ヽばか りです …が
あなた様 こそはか ヽる
時代 に,生 れあわせ, また選 ばノしたる ものぞ と,自 身御
それが今日までは,あ なた様
思 いにな りませぬか …
の鶴l長 所 で特徴で もあ りま した 失祀なが ら,あ なた様
は御草履取 でである ときは職分 に萬念 をつ くし,ま た一
士分 の身 である時は,一 士分 の職分 に全能 をつ くし,決
して徒 らに_Lば か り見 て足 を浮 してい る様な忘想家 では
おわさなかつた。い まとて も恐 らくは,そ の御心 にたが
いな くいかにせば中國探題 の職分 を完 うしうるか,い か
にせばよ く信長公 の御依嘱 に最善な御満足 をお こたえし
得 るか,ま たいかにせ ば H前 の三 木城 を陥 し得 るか――
ロ ー タ リー の 女
-8り 1既
54才 )
く骨
力
テ
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1
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F
│
1,
豊橋 RC
牧
仙
市
偉 い人になるよ りも其職場 にな くては な らぬ人 となれ
私は いつ も此訓 えを座右 の銘 として末 た.今 吾が愛知
縣内 に於 ける鐵道 と云 うた ら賞 に縦横四通,網 と云 う字
を其儘 の獲達 ぶ りであるが,是 が明治 も20年 頃 には僅 か
に唯一筋 の官鐵東海道線 が縣 の 中央 を東西 に貫 いて走つ
て居 た位 で,其 後 に名古屋 よ り分れ て大阪 に通 じた開西
線が山陽鐵道 と共 に私鐵 の主者 として西 日本 の交通界に
貢献 して居 たのである。
明治30年 には我が東三河 に も鐵道界 の先覺者村野山人
翁 によ り豊川鐵道 が豊橋 か り稽荷参 りの要線 として創設
されたが,時 期筒早 よ り末 りしものか苦難 の連績 よ り艇
がて,其 経営 は移 つて末延道成翁 の手 に渡 る事 に なつ た
……が ……翁不撓不屈 の措据奮勘 は遂 に磐石 の基 を築 か
(8s5) L7
ノlる
llと
なつ た
賞 に画翁 こそ地 方交 通 界に於 ける率
ホ績不減 の 大恩 へ
・
‖Iと して斯 界の 力t口 ,J昔 く能 わ さる所 であ
,
て居 ります し,戦 時 中燃料不足 のHキ で も薪はすべ て自給
出来 ま した位, 11樺 t最 近 の 暴風で二本倒 さ れ ま し た
Wり │1餓 道 中 明tの
が,之 も同 じ位の大 きにな りました
る
・
れた│1樺 を墟防に くべ て,30数 年前の_L高 地 を偲び度 レ
と思 つて居 ります し,又 後維 の白樺 も先 日山中湖 ホテル
の庭先か ら非生 をつれて末ま した 山百合,オ 梗,お ノ
此 金言 こそ
ll■
賞 に 木延翁 が 1卜 に設 い て ドさつ た銘 副│で
働 く馬 に しに│11た 〆Fれ 人 ,名 を成 す Jfの み思 うよ
り先ず我れ に授 け られ た るイ JFに ポ 進 其ft置 に満 足 して
ちる
I「
1貯
信 頼り
切待 に背 か さる人 と して共持場 々々│(在 る限 り員 に
l」
lけ 絆え の な い人 た る様心掛 け た い もので あ る
.
(lll lFn魚
芸
市場耐長
61蔵
│∵
^
4=も
なへ し,萩
年 々自然 lCふ えて,春 先か ら各 の初めま
で花 の絶 える」Fも あ りません 20餘 年前 にllliえ た芝は1に
時 中手入れが「H末 なかつた馬に,ひ どくいた み ま した
が,今 では完全にい1復 して支那 じうたんの様 に につた
く地面 を蔽 つて居 ります 勿論 ス リッパ をはいただけで
)
lF7‐
ご
庭の「‖
:々 まで足 をよ ごす事 な く行 く事 が出 末ます 富士
山麗 の「お しの村」 の民家 の屋根の美 しさを奥似 て,ガ
レーデ の屋根 の_Lは いつ もIF・ 生の小花 の絶 える事 があ り
趣味を
語∃
東京西 RC齋
今年 の各は此 の倒
藤
弘
ません 26年 同 じF/rに 棲ん で,毎 朝毎夕同 じ庭を見 て居
りますが,毎 日が楽 しく毎 日が もの新 しく思われます
二
l iШ
趣味 を語る と云 うと大雙大げ さですが,仕 事以外 に 日
常餘暇 の大牛 をあて,来 しんで居 る事があつ た とした ら
に 2度 の芝刈 と日曜 日 1日 の手入れ, これが私 の健
康の源泉 であ り,私 の仕 JI以 外 の 日課 であ ります
(櫻 旧r工 業 FJr祗 長
,
取 るに足 らない千 々几 々な ものであつ た と して も趣味 と
云 う11に なるか も知れ ません「私 の趣味」 と中すのは
,
ft
て来た小 さな草や木,其 もほん の雑木又は雑草 ですが
ψ自わ
壼
)
fl:
│
1=RC i龍
幅り
園塾 と│卜 しま して も, よく雑誌其 の他 で寿見する様 な
はなやかな もので な く,若 い時分 に山が好 きで,夏 山 も
に も行 けな くなつて しまつ たので,昔 山に行 つ た頃探 つ
)
世 相 を物 語 る貨 物
此 の範園 を出ない誠 lC粗 末 な もので あ りますが,30年 こ
のかた績 いて園藝 の具似事 を して,集 しんで居 ります
相等に参 りましたが,戦 TFが あつた り,仕 事 が忙が しく
なつ た り,其 の間に鯉 を傷めた り等 した鳥 に,次 第 に山
D8以
り
│1 山
時 占
凡そ人 詢の 11活 して居る庭 には,物 が必 ず fllい て い
理か ら見 て,地 方 よ りKll會 の方が,七 かl_そ
る。 この場〔
の動 く率 が多 いので あ ります
今 では結構立派 な木にな り,繁 茂 しま して,狭 い庭乍 ら
充分 に若 くて元気で あつた頃 の春秋 を偲 はせ て臭れ る様
國鐵や私鐵,又 は貨物 自動車,或 は機巾船等に よつて
重類は, 千差萬り1で あ り, それは
喩途 され ている貨物 の手
べ
に
てを
人間生活 要するす
含む と云 つて も、lUl:て はな
にな りま した。昔芽生 で あつ た楢 の本,傑 の木,自 樺等
い と思 い ます
,
が 今は日通 り直径七八寸 に もなつて,澤 山 の団栗 をつ け
さて,こ の貨F//Jは 地方か ら用
へ,都 會か ら地 方 へ
`會
L
│
レ
東 洋 キ ヤ リア エ 業 株 式 会社
代表取締役社長 中 川松 治郎
東京都 中央区 日本橋 兜町 3-24 電if160イ t表 2166
大 阪 ・ 名 古 屋 ・ 福
llll
t8
(E86)
1`
HE ROTARY_NO・ TOMO
と 生産資材 や商品,食 粗,繊 維等 が,縦 横無誌 lC動 き
廻 つてお り, この品種 の中には,到 底常識 では想lraも 及
ばない物が,澤 山動 いて居 ります.叉 案外 の品物が,意
外な方面 へ流れ てお り,従 つて物の動 きと云 うものは
サ ンデ ー ゴル フ アー
趣 味 を 語 る
│
,
一種 の世相 と文化の程度 を物語 り,複 雑 なる人生 を, よ
く反映 していることが,窺 われるのであ ります
富山 RC
それでは國鐵 によつて,毎 日輸途 され る貨物は,女 口何
なる方法 で取扱 われ るか と申 します と,車 扱 い,小 口扱
い,そ の他種 々に分類 されますが,就 中85%位 いが車扱
私 の少 い趣味 の一つに ゴルフがある 現在 全園 で90に
及ぶ コースがある由で敢 えて趣味 として語 るのは氣羞 し
いが コースを もたぬJヒ 陸路に勤務す る身な るが故に一 つ
い とな り,大 量貨物 がその大部分 を占めるの で あ り ま
す.自 口ち多量 に動 く貨物は主 として車扱 いで,そ の他 の
の郷愁 として ゴル フを撃げた次第 である
私 は大礎骨組みが華奢なので ごつい ものは柄 でないが
一 日中デス ク ワークで ビル 内に開 ぢ こ もる者 に取 つて ゴ
小量貨物は,小 日扱 い又は自動車等によつて,輸 途が行
われます
火 にこの品種 を見ます と,生 産資材は勿論,衣 食住 に
関連す るものが,そ の大多数に上 り,貨 物 自動車 ,機 巾
wnL,私 戯等 lC於 て もほ ゞ同様 であつて, これ等は 1つ の
移動世相 であると謂 うことがで きま しよう
一國 をシ ンボライズす る,山 や川,又 は樹木があるの
と同様 に,そ の国 の 世相や,國 民性 を象徴す る貨物 も亦
あるのであ ります。例 えば,共 國 の鐵 や石炭,毛 織物
日本 の生糸,μ 二 重,ベ ル ギ ーの硝子類,オ ラ ングのパ
ターや,チ ーズ,珊 典 の洋紙類,諾 威 の鮮魚, ノ ビエ ッ
,
トの穀類や馬匹,パ ルカ ン諸国 の薔薇油,象 牙,″ 毛
印度 の棉花,ベ トナム, ラオス,カ ンボデヤの南京豆
大間知 正太郎
.
ル フ程適営 な運動量 と氣分韓換 を街 らす ものは少 いので
ないか と思 う。緑 の芝 生に自球 を追 つて歩 む快味 陽光
を全身 に浴びて胸一杯 新鮮 な木立 を吸 い込 む健康感.打
球 の瞬間 に於 ける精耐集中等,之 が気の合つ た仲間 がお
れば満議 で ある_併 しサ ンデーゴル フ ァーの醍醐味 はチ
ョコレー トの敷 よ りも爽やかな健康感 に蓋 きる と思 う
北陸筋 では この境地 に も営分浸 たる ことが出来ないのは
幾念 で あ る
.
(日 本 興 業 銀 行
43曖
`
,
,
, メ
智利のliFj子 , アルゼンチンの羊毛, ブラジルの珈リト
キシコの銀, スイスの時計,イ ラ ンの石油, ロマ ンチ ッ
クな,フ ランスの葡萄酒,科 學的な,獨 逸 の 染 料, 柴
品,AII楽 糖,藝 衛品,伊 太利 の大理石,幅 子,オ リープ
油,碩 慶的な中國 の阿片等は,あ ま りに も濃厚 に国民性
亦 シヤムの象 と,ケ
を表現 して餘温 なしと云 つた虎,デさ
ブコロニ の金岡1石 等は,大 小雨極端 を代表する珍品 で
あ ります こ ゝで最 も興味深 く感す る ことは,世 界 の生
産王國た る米国は,各 種 の産物LllC於 てこそ,其 の優位
を占めるが,閾 民的印象 の深 い ものが働 いの も,ま た無
言 の裡 に何 事かを物語 つてい るようであ ります
この様 に物の動 きと云 うものは,吾 々 日常 活 の_Lに
/1‐
切つて も切れ ない重要 な ものであつて,そ の回 の隆昌凌
展及び文化 の向上 は,賞 に喩途 の動 きに正比例す るもの
と考え られ るのであ ります.私 は貨物 の輸途 に従事す る
こと30数 年 ,常 に喩途 の重要性 を十三分 に認識 し,祗 會
本仕 のため,御 得意様 の御意志 に基 く喩途 を完全に果す
「 を機揮 して,懸 命 な努力 を績けて
べ く, ロー タ リー精前
お ります
ロー タ リー の 友 -8月 腕
(幅 井 急 行 トラ ッ ク祗 長
59歳 )
19
味 と 香 の 鑑 定
l.1身 では う
)ら な いか 味覺 や口
,41の 種 類 に よるj惑 覺度 が
か な り鈍 い ノ
、か比 較的 に 多いの で鑑定 は 1ヤ 通 多 ノ
、敗 でゃ
に な つ てル:り ます
コー ヒーや タバ コは その産」
也や│1占 ,Fに よつ て,人 々の
・ ィン グ印 ち 合 を
特 徴 を もつ てい るので、 くブ レンう
る
ft
c> Et ti-t ,j,1
褐i濱 束RC
I
熊 '半
武
雄
│「
.に
,I」
行 い ますが, これ は人 々の良 い1キ 徴 を集め る とll
つに和t粁 /■ もの を造 とい うことは, 人理にむ
旱山
か しいJ「 て, 1リ ワ静柳夏を Lげ て行 くに従 つ て予肛1夕 │な 困
に悪
い│1徴 を蒻 め るためで ある と聞 いてた
IIり ます
わた しの
レH係 して い る剛造 ‖
「
首クr飲 料 で も1友 分は 出末 る だ け 復 ‖
難 と,り │■ 杵なで
セ用が遅奸キし
で,併 か 4)各 成分は程 よいパ フレスを保 つ ているのが良
fヒ
くる ものであ ります とこ
ろが静t度 が 要望 され る もの とは反■lに ,食 111占 や 者好ITI
は 1午 通にはり│:lrに lllな 化′
〕文分か 引文立 つていて, そ
'ソ
れ 等の成分が 人々11イ
な バ ンスを保つ て,そ の物 の1米
∫
!∫
や香の特徴 となつ てい る繹 Jか レ
ジ
, 111質 鑑定 をす る場
合に、 l:要 だ と思われ る数 1lVlの 成分 分llし て、 そ
の結 果 を見て も,そ のITI質 の良 否を夕J定 ‐
る J「 は むつか
つ
いので
1味
し
あ ります 殊 に
の収1貞 として表示
香は分夕子
│。
する J「 は,現 在では││1末 な ヽJJな ので, の鑑定は益 々
困難 となる繹 です ですか 味 や香の鑑定は、 日と;十 で
やるよ り外はない J「 になつて‖ ります ところが1米 攪 ゃ
叫攪は 人に よつて随分述 うし,fて 色 IFと
│:Jじ
ように
「 1分
J時
い とされ てい るの で、 製造 中 に 矢」
lKリ ブ レンテ ィン グ と
同様 な 方法 を ││:か ら行 うこ とにな つ て1:り ます この J「
は ,度 ロー ク リー クフ フの 會員 は職 業 も各種 各様 で,年
令 1,と 若混 合
」
山 アも liド 無 ブ
flり 1,性 格 も各 [各 様 で併
「
ハ
ニー をルtつ てい る所 が良 いの と同 じで
ーモ
い
か 1,FIよ
│、
あろ うか ととえ らノιます
余談 は さてお き,繊 造 i占 は人
智 で能 う限 り,Ψ 山 な種類 の 成分 を分llし て,そ れ lC含 ま
れ る成 分 の割合 を lJべ て.之 と同様 な成 分 を配 合 して
:テ
人
,
,今 の庭 人│11で は分析 │:出 tす る
I抽 りに造 つ て みて も
llf
の │11末 な い成 分 が,そ の ケ
│に 浮山 あ るので,そ の物 とイ
、
く同 じ物 を配 r)で 造 る J「 は, 今の 人ll lの 能 ノ
Jで は むつ か
ス
合成 ,│サ Чキが現 在に於 ては幾分 の 融造 7/1を llL
.)は 人 ││り が Elt造 紀i獅 の ノ
合 して い る とい うJ「 1ま ,結 た
Jに 兜
しのです
,ノ
を1'と いた 群で あろ うか と思 われ ます
化旱 製lTIは , ノ
、11が 考案 したり
trlに よつて,原 料 に色
0
興え て,分 解 や 合成 を行 つ て造 りますが,脳
べ
て細 │キ iが 造 つ て くれ るので,決 して NIり が
造 ITlは ,す
“
[接 に造 つて い るの では な いので あ ります た ゞ糸 果iを
々な陳
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・合繊□
三ラ
含 繊 漁
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│「
人ll
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、 うま く缶u御 して, 人111の 目的 とす る物 を
造 らせ る よ うに, fl:向 けてい るだけの 1活 で,
1じ
11■ に
1‐ 度 競‖jは
が走 るの で あ つ て, 人間 は,‖ jが 人IFll目 的 とす る 「 TL
く走 る JFJが ││1来 る よ うに, うま く御 して い るだけ と同
じJfで あ ろ うとLtい ます
lit一
の成分 で純度 の 要望 され る物は,た と ぇ は 純度
995。 ぁの 物 な ら, Al造 者が 興 つ て も, 人肥 IJ′ キのlTl質 と
い うことが ││1末 る と思 い ますが,復 ‖た
な成分 を もつて瀬
造 ITIで は,製 造若 に よつ て告 人 々の特徴 を持 つ ている と
iΨ で,1'Fか も夫 々のll徴 の ‖1述 は,占ザ
云 うことが │1末 る∫
の
い
質 良 :せ :い とい うよりも,1'Iろ これ は,一 般 の‖
首好 に
1
役社長
ォζ 青旨
向 くか ど うか とい う」fで あ ろ うとttい ます 1‐ 度 llし 値
段 の F服 地 に,述 つ た色合 や縞柄があつて, 陛│11の 人が
´
番 どれ を好 ち.か とい うJfは ,決 して良 し悪 しの少 と
7`
社
東 京 都 台 東区 浅 草橋
電話 東京(85)代 表826
J定
た ヽ「 llll地 な どの場 合
は,春 や秋 に、 今年 は ど うゆ う色合が流行 です な ど ヽ
は違 う であ ろ うか と思 い ます
]J千
7`
,
宣 件 をさメtt十 が、 ゎた くし共は 今年 の 夏は どうゆ う味
20
888
、
rHE ROTARY_NO‐ Toヽ 40
や香の ものが流行です と,言 う繹 には参 らないので,た
ゞひたす らに,世 間 の方 々は, どうい う品位 の もの を好
る毎 に,親 睦 の度 が一膚檜 して,労 資開係 な ど園満 にな
り,い つ も和氣が満 ちていた と問 いてい る 賞際此 の よ
かれ るだろ うか と,色 々に推測 しなが ら,細 菌様 が うま
うな例が 1, 2に 止ま らぬ
リト
句 の功利的 な面 の話 を持 ち出 して,甚 だ恐縮 ですが
く走れ るように,一 日一時 もお ろそかにせず,事 業 に専
念 している詳であ ります
.
これがわた しの職業奉仕 の一 つの主な諧 である事 を
,
自己紹介代 りに申上げた次第 であ ります
.
(キ リ ン ピー ル 横 演 工 場 長
)
私
と
fJト
62歳
.
,
それては一證リト
句 を作 ることは どんな役に立つか と言 う
と,い ろいろあるが,其 の 1つ は,大 きな気分lbn換 にな
る。則ち俳句は藝術 なるが篤に,其 の位置 を高める事は
よいが,餘 りにい ろい ろ とこだわ り過 ぎる と,反 つて獲
挺な ものにす る嫌がある 楽 な氣合 のlll換 は心 の レク リ
エーシェンであ り,煩 忙 な仕事や単一 な仕事 を持 つ者 に
は,特 に健康壇進 の鳥 に もよい。
リト
句 は花鳥風詠 の詩 である。 四季 の移 り獲 りに意 を注
1国
彦根 RC
ぎ,宇 宙 の現象 lC心 を留 むる ことは,俳 句 の道 である と
隅 野 りD三 良К
私がタト
句 と結びつ くことになつたのには,一 寸 とした
前書 をす る必要 がある.そ れは もうかれ これ20年 程前 の
事 であるが,其 の頃勤 めていた會祗 の クラブで,委 員 の
選畢 の とき, どうした風 の吹 き廻 しか,文 藝部 にあて ら
言われ ている
俳句は藝術 で あるが篤 に,其 の作品はいつ まで も残 る
.
ことになるのである。膊末徴笑 を禁 じ得ない思 い出 とも
なるで しよ う。私は心 か ら皆 さんが こん な小 さな,手 近 か
/摯 術 にお XJlし みになることをお奨 め したい 日本人は
してい るものである
誰 もがツト
句 に親 しむ特権 を興え らノ
れた 其 の時俳句 の會 を作 ろ うとの意見が多 くて,其 の
選者 の依頼 や,會 場 の設備等 に勢 い新任 の私 があて させ
(彦 根 錦 物 機 械 性 能 者 養 戊 所 長 )
副
五
られた
丁度折 よく其 の常時私 の住ん でいた須磨 の地 に,五 十
嵐播水先生 (現 在 は前戸中央市民病院長馨學博士 で,俳
誌『 九年母』主宰 ホ トドギ ス同人 )が ,居 を構 えて居 ら
れた.其 の営時先生は,俳 句界 では令名高 く,特 に埠頭
の句作者 としては第一人者 であつた.幸 いに も選者 とし
て御快諾あつて,三 菱岬燈俳句會 が,営 時 の榊戸造船所
1琢
ロ ー タ リー の 友 -8月 眺
顆
邦
3.常 に己れ の進路 を求 めやま ざるは水也
4.自 ら潔 うして他 の汚濁 を洗 い,然 も清濁併せ容 る
.
5
.
な ど問題 にな らな くな り,ツ ト
道 を行 く者 の間柄 が紙一重
のへだた りを無 くして しまう 或 る會耐 ではツト
句會をす
田
.
あつたが,今 も斯 の道 に精進す る氣持 の績 くのは,初 め
に佳 き師 を得た賜 である と思 つてい る
李等 にする 財 のあるもの も,無 い もの も,l t長 も,小
使 も無 くなつて,り・
Lて 唯 の人間 に して しま う.給 料 の高
壇
自ら活動 して他 を動かすは水也
2.障 碍 に辿 いて激 し,そ の勢力 を百倍す るは水也
であつたが,い つ も先生 の句作 の態度 と,人 格 の高潔 さ
に感得 させ られた.其 後勤務地 も替 り,戦 ′
F中 は中断が
俳句は言 うまで も無 く,文 藝 である。 何 で もそ うであ
るが,藝 道 1/C打 ち込む と,人 々を非常 に純梓な ものにす
る威力 を持 つている丈に,斯 の道 に携わるもの を一律 に
│
l
.
をし乍 ら,不 思議な力 を持 つてい るものは他には餘 り見
営 らない と思 う
が座右訓
東京西 RC
に誕生 した
其れ か ら先生 の御指導 により,句 會吟行 とお件 したの
私は常 に俳句 と言 う只十七字 の連 な りが,小 さなな り
││
るは水也
洋 々 として大海 を満 し,凌 しては雲 とな り雨 と興
じ,凍 つては玲朧たる水雪 と化す 然 もその性 を
失わ ざるは水也
この水五ヨ1を 若 い時 か ら座右訓 としている 汲め ども
帯 きぬ人生訓 で訓えその ものが水 の よ うに千獲萬化, ど
.
んな事件 に型遇 して もこの五つの訓 えの どれかにあては
まつて,そ の虜すべ き態度 を示 して くれ る 古代 の支那
でつ くられた もの ゝよ うで誰れ がつ くつたか さだかで な
ヽ
レ
.
第 1項 の「 自ら活動 して他 を働かすは水也」は自主獨
往 の精神, 日本 の産業人 な どは これで行かね ば な ら な
い。政府や官應 に泣 きつ くのは もうや めよ う_ど うせ何
(889) 21
もやつて くれめのだか らなお さらだ
第 2項「障碍 に,1り いて激 しその勢力 を百倍す るは水他」
活が始 まつた評けである 其時私は,戦 Tは 一般何年績
くのであろ うと考えた 幸 い私 の家族 は東京 に在 つて
これはすべ ての困難 を克服せん とす る態度.危 機 とい う
言葉 には「危険」 とい うことと「機 會」 とい う二つの意
それ程`い 配 をせず とも当時 よかつ たので,私 は 専 ら此
1130人 の人達 の身 上を考え,た とえ戦争 が何年績 こうと
味 がある とい うが障碍 に遇 うごとにその上昇 の機 會が訪
れ る ことを訓えている
も,此 等の人達 を完全に護 り抜 こ うと決心 をした
此等 の人達 の心理状態は複雑 であつ た 自分 自身 の事
第 3の 「常 に己れ の進路 を求 めてや まざるは水也Jこ
れは科學す る心 を訓えた もの と思 う
よ り留守宅 に開する心配事 で頭 の中は一杯の 様 で あ つ
た 私は書はマ ンコ イ 牧容所長や ロビンス連絡官 との
第 4項 の「自 ら潔 うして他 の汚濁 を洗 い然 も清濁併せ
容 る ゝは水也」人間 の包容力 についてフ‖
えた もので人 の
接衝 に追われ,又 自治饉構成や運営 に忙殺 されたが,夜
は此人達 の良 き相談相手 となるべ く心骨 を辞 いた バ ン
アラばか りさが して, しか も自分 の ことは何 をやつて も
テ ン としては じない今の政界人な どはす こしは この訓た
が固過 ぎるとい う老人 の局 めに獨逸人 のパ ン焼人 を日本
人 に製 えた り,キ リス ト教 の牧師 さん と本願寺 の坊 さん
をかみ しめて貰 いたい ものだ
第 5項 「洋 々 として大海 を満 し,獲 しては雲 とな り雨
と興 じ,凍 つては玲地 たる水雪 と│ヒ す 然 もその性 を失
の 日曜 日の設教時間 の取 り合 いの仲裁 を した りなどもあ
つたが,そ れ よ りも喜んで貰 つ たのは留守宅 への手紙 や
.
わ ざるは水也」 これは水 の愛化の よ うに人間 も愛に應 じ
て臨機 の虜置 を とれ, しか もその本質 を見失 つては いか
,
.
税務署 への申告書 の代筆 であつ た 又各人 の不在中の財
産 の管理 に開する相談 や,家 庭 の ごだ ごだに封 する悩 み
の訴え等 で深更迄其相手 をしなければな らなかつた。老
ん と印1え た もの
これすべ て苦悩す る日本 の向 うべ き方向 を示 した もの
人 も多かつたので死亡者 も.敷 名出来,そ の馬 めの野邊
途 りや又癌手術 の親代 りの立合 な ど昨 日迄は夢想だにも
といた よ う
しなかつた萬般 の仕事 に忙殺 された 私は是等多 くの人
達 の悩 み を解決する局め,今 考 えると不思儀 な位働 いた
.
(日 日1工 業 新 間 tl長
52政 )
抑 留生 活 の思 い出
1腱 の 自 慢 語
大阪 RC
と思 う 各は 日中零下20度 ,夜 間40度 とい う寒 い高原地
帯 の丘の上に も, 5月 になると高 さ 2, 3丈 もある コッ
トンツ リー と呼 ばれ る樹上 l‐c簡 素な花 が険 き,駒 鳥 が東
│
安
部
義
香
1941年 2月 28日 か ら同年 6月 2日 迄私 は米國 ノースグ
コタ州 ヒスマー ク市 か ら 3哩 離れた フ ォー トリンコル ン
に居た。 それはあのパ ールハ ーバ ー奇襲 の翌年 であつた
が,2,30エ ーカー もある廣 々 とした兵営跡 を所謂 キャン
ブビスマーク として獨逸人 400名 と共 に邦人1130名 が抑
留 され,そ の 中に居 た私 が選畢 によつて圏長 をさせ られ
たのである。此千餘人 の人達は主 としてカ リ フ ォ ル ニ
ア, ワシン トン,オ レゴン方面 の人達 で,私 の様 に 1時
的 の在住者は極 く稀れ で,大 部分は邦人 と雖 も在米何10
年 とい う所謂一世 の 日系市民 中の主要 の人達 が多 く,言
は ヽ土着 の有力 な一家 の御主人達 であ り,全 部男子 であ
つた.営 時私 の観察 では,何 れ も善良 な米田市民 (國 籍
上は 日本人 であるか ら抑留 された詳けだが, 賞 質 的 に
は)で あ り,息 子達 (二 世 )力 く
米軍 に徴集 され て立派な
米国人 となつて居 る者 も数多 くあつた.何 れ も多年辛苦
の上,築 き上 げた店舗や財産 を後に残 して最愛 の妻子 と
811れ
,遠
く片田舎 の見知 らぬ キャンブに突然不 自由な生
22 (890)
て鳴 いた。皆か ら 1弗 宛 を徴収 して資本金千弗で開始 し
た PXも ,全 員奉仕 で働 くお影 で瞬間 に千弗は出資者 に
返還 し,逆 に皆は PXの 株主 となつ た。 月々美事 なバ ラ
ンスシー トを作製 し官憲 を驚嘆 させた.自 治證 の機構は
□長 の下 に祀書長 を置 き基下 に 総務, 人事, 財務, 術
生,警 察,配 給 の六部及び食堂, PX,浴 場,散 髪,本
工,診 療所,運 動等 7條 を設 け,部 には部長,次 長,係
には係長 を置 いた 又 キャンプの全地域 を 4エ リアに分
け,各 エ リアにはエ リア長 を,又 その中 にある20敷 個 の
パ ラックには夫 々 キャブテ ン (バ ラック長 )を 置 き,毎
朝 9時 私 の室 の 2階 にある會議室 で キャブテ ン會議 を開
き,自 治般 の運営 に手落無 きを期 した.私 は常 に働 くの
は無報酬で,而 か も獲得 した金は全般 の人の祠lTl以 外の
目的には一文 も使用出来 ぬ建前 を確立 して後縫者 に引絶
いだ.
1
期間は短 かつたが思 い出は数 々ある.然 し乍 ら突如 と
して 日米両政府間 に第 1回 交換船 の交渉が成立 した由を
聴 か された時は唯夢 の様 で茫然 とした l130名 の内,私
外 9名 の者 が婦國す る事 になつ た時,暫 くの間 で も運命
を共 に した多 くの善良 な人達 と別れ るのがホン トウに辛
lHE ROTARY_NO‐ TOMO
かつ た。係官 の内認を得 て私的途別會 か キャンプのあち
こちに催 された いよい よ出立 の朝私 は全 員 に挨拶 をし
たが,そ の際涙 があふれ出て困つた マ ッコーイ所長 に
暉」 とい たは,志 る人ぞ志 るで,鈴 木大拙陣士 の「盤珪
の不生暉」「直思想史研究 (第 1).盤 珪暉」等の著書 で
鐵道の卵迄見途 られ,や がて野村大特 や栗栖大使等の乗
つて居 る交換船 グ リブスホルム琥 に乗 り移つてか らも
有名である
さて,そ の不生暉 の事 どもであるが,吾 が家 の戦災
祀國 の敗戦 で,わ れ もひ とも,家 も國 も再生か滅亡 かの
別れに際 して皆 の代表者のゃ をjム めた感謝状 と, それ に
■た メモ リーオ ブ・ ビスマー
添へ てあつた萬年筆 に刻 まオ
クの文字 を時 々眺め,「 自分 は出来 る丈けの ことをした」
土壇場 か ら,数 年たつ た今 日まで, よいにつ けわるいに
つけ不生岬 の生活的探求 の念願 で, どうや ら, ここまで
しば, これは
辿 りついた小生 である.語 るも長 い ことなガ
とい う密 かなる安心感に浸 る ことが出来た。
他 日にゆず る
先年 ,そ の間 の思索 をま とめて「不生諄無駄話」 な ど
い うもの を書 いたが,善 人 に讀 ん で もらいた い「盤珪祠
師語録」 の岩波文庫本 が絶版 になつて手 に入 らないので
,
(東 洋 製 鋼 FL長
甲府RC
67歳
)
.
一番大切の「語録」 を主 として「 不生輝 (盤 珪稗師語録 )
の色讀 rの 一書 を春秋祗か ら出 した.こ れ を皆 さん,讀
んで くだ さらば幸甚 の至 りである.い つの間 にか「私の
「
推選書」 と 僕 の 自慢話」 の二 題 の責 を果 しま した
高野 孫 左衛 問
.
(吉 字 屋 本 店 就 長
56板
盤珪永琢脚師は,今 より式百数十年前 の昔 に在世 した
(西 1625,後 水尾天皇元和 8年 3月 8日 播州濱田村 に出
生一一西1692年 ,東 山天皇元隷 6年 9月 3日 播州網干龍
門寺 にて示寂 72歳 )佛 者宗教考 である.盤 珪 の「不
/4‐
直営工場 で… 一 貫作 業 に よって
製作 されてお りますの で ……
素晴 しい性能 を誇 って居 ります
日本 最 大 の ゴ ル フ 売 場
′
=
大 阪 本 店
東京圭居
3階
2階
﹄一●一一
ロ ー タ リー の 友 ―‐8月 跛
│1町
盗淀屋橋 ・ 棗小 り
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よ い 思
圏区 り た て よ
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」udson
マ ン・ ジ ャ ツ ド ソ ン
The ROTARIAN― June‐ 1957
私は ス トップウォッチ を手 に していた ウイス コンシ
ン州 ミル ウォーキーのホテルの舞踏室 の演壇 の上に私 と
共 に立 つていたのは10有 餘の會耐 の幹部達 で あつ た。催
しは ア メ リカ公共 関係協會 の最近 の全国大會 での ことで
ある 仲間 と私 とは
「 高等教育 に対 す る共同の寄興」と云
いて
う問題に就
頻 りによい思 いつ きを駆 り立て ヽいた
域會等 に出た場合恐 らく諸君は プレー ンス トー ミングの
要旨 を経験な さつた事 と思 う
要す るにブレー ンス トー ミングの原理は次 の様 に云 い
表わせ る と思 う_日 ,ち 蜜 は酢 よ り多 くの品 を呼び寄せ る
と云 う事になろう
賞業家 ばか りの聴衆が じつ と見守 つていた 13分 20秒 で
この問題 に封す る75の 賞際的解決 を記録 したのである
要約 して 3つ の筒條書 に して見るとブレー ンス トー ミ
ングとは次の通 りである
n参 加者が問題解決の馬の新 しい着想,新 しい示唆 を
このデモ ンス トレー シ ヨンに よつて分 つ た事は, これ
によつて よい考が澤山然 も急速 に生れ ると云 う・llで あつ
提出出末 るような くつろいだ,批 評的でない とがめ立て
しない零国気を酸成 し維持す る事
た.簡 単 にブ レー ンス トー ミングと呼 ぶ事 にす るが この
`
方法 によつて最 も困難 な問題に封 して もす くれたlflll決 を
生 み出す ことが出末 る事 を再び證明 した辞 である
加者 を してnll造 的に考え着想 は くだ らぬ もので も
真面 Hな もので も,な るべ く急速 に, なるべ く多 く貢献
どんな賞業家 で も専門家 で も多種多様な職業 上の問題
を解決す るのに この ブ レンス トー ミングの方法 を利用と
出
(0参 加者 に どうした ら他人の思 いつ きが よ りよい もの
となれ るか,(也 人の提 案 した解決策が どうした ら改良 さ
来 ると私 は確 く信 じてい る 直接的 に金錢上 の盆 を衡 ら
す上に地域祗會上 の諸問題 を も解決す る筋に利用出末 る
様 に結合 させた らもつ とよい結果 を生み出せ るか等の示
事 が夕Jる とよ
ユう
ブ レー ンス トー ミングと云 う言葉は却 々穿 つ たよい 言
唆 をど しどし出 させ る事
ある問題に就 いてブレー ンス トームす る事は困難 では
。 ブ レー ンス トーム を もつ」 とはすば ら しい
葉 だ と思 う「
い
思 附 きを もつ と云 う意味 で,少 くともプラ トンの時代
な い。 この技術 を支配す る準則 は皆以上のABCか ら生
.
.
以来 ブ レー ンス トー ミングの技術は色 々な集国 によつて
用 い られて末たが,有 名なパ ッテ ン・ パ ー トン・ ダース
タイ ン・ ア ン ド・ オ ズボー ン廣 告會祗 に 自己獨創的天分
並びに名難 を寄興 したA F・ オ ズボー ン氏 こそ ブ レー
ンス トー ミングの利用 を宣博 し之 を現在 の様 な状態 lC獲
展 させ汎 く廣 く認識せ しめたのに主 として興 つた人 であ
る 今 日多 くの會耐 でブ レー ンス トー ミングの現代的技
術があ らゆる諸問題 の解決 に良心的 に應用 されている
多 くの有用 な技術 の場合 と同様 に,少 数 の熱心過 ぎる
.
唱導者達が これ の効用 を向 う見ずに宣博 し過 ぎた篤 に
逆効果 を生ん で,中 lCは こん な事はポー ドビル的藝営 だ
,
.
lll蓼
せ じめる事
れ るか,前 に出 された 2つ 又は 3そ れ以上の着想 をどの
.
れて末 るか らである.私 が次Ft‐ に暴げた10則 は単純な も
のではあるが最良 の結果 を生み出す鳥には忠貸に踏襲 し
なけれはな らない もので, これによ リブレーンス トー ミ
ングを省練 して益 を得 る事が出来 るであろ うと信ずる
ブレー ンス トー ミングを試み ると,諸 問題 に対す る着
.
想や解決策 を生み出す と云 う目的に成功す るばか りでな
く,そ れは又 1人 々々の参加者 lC有 益 な影響 を及ぼす と
云 うよ リー層 の債値 を もつであろ う 自
口ち彼等に自信 を
興え, それによつて,鋤 りでい る時 で さえより多 くの よ
りよい着想 が生れ る様 になる_自 分 の中には頼 りlC出 来
る育ヒ
カがある と知れ ll,あ らゆる型の問題 に直面 して之
とか, いんち き商人 の トリックだ とか,要 すす るに立派
な人 のすべ か らぎる手品だな ど,思 い込 む様 になつ た。
を解決す る事 が`い 理的に一層 よく出来 る様 になる.賞 業
に於 て も専門 に於 て ヽ,家 庭 に於 て もはた又友好圏般 lC
於 て も,更 には他人 の中に ぜそ う云 う能力が限 つている
か しブ レー ンス トー ミングは心理的に も健全 で,全 く
│で ,経 済的 には有利 で,精 神的 に報 いのある技術
倫理 由
事 を知 り, ブレー ンス トー ミングを うまく指導すれば緩
験 を得 てその能力 を活躍 させひ いては全関係者相互の利
である ことは容易 に證明出末 る。
釜 となるであろ う
ブレンス トー ミングには配営が つ くと云えよ う どう
です一 つ試 みて 見ては
t´
た とえ ブレー ンス トー ミングを利用 した事がな い と し
て も事業上 の會合や會説 委員會 討議會,公 聴會,地
24 (892)
_
「 HE
ROTARY_NO_TOMo
ロータ リア ンと
ハ ンカチー フ
浦和 RC安
藤
勝
弼
花森安治御大 の御漫談 で男子 が ネ クタイ をつ け る と
い うの は,そ れ は紳士 をよそお う印 しであ る とや つ た
そ してその篤紳 士 は如何 にネ ク タイの柄 や 色合 を選ぶ
のに苦分 して い るか扱 て も情 な い次第 である, とい う
よ うな話だ つ た.筆 者 は男子 の服 装 にネク タイ をす る
とい う歴史や末歴 に就 いて は深 くは知 らな いが,古 く
貴方の RCで も試 してごらんなさい
ブレー ンス トー ミングは諸君 の RC向 上 の篤 に利用出
末 る技術である
プログラム委員長に話 して例會に ブレー ンス トー ミン
は西洋 の パル トー服 装時代 に於 いて男が女 に逢 う時
リボ ン として衿 につ けた
,
それが服 装 の製遷 と共 に今
の よ うな形 の ネ ク タイ となつ た の だ ろ うと想像 して い
る
それ が文化 の向上 につれ ネ クタ イはた ゞ男 の服 装
の ア クセサ リー として,美 しさを添 えるだ けで な く
,
グの純験 をもつ誰 か を招 いて司會をさせ る様 に話 して見
るの もよかろ う この際10∼ 12人 の メンバ ー を選ん で指
男 の パ ライ ドを保 つ ために も2、 要 な ものに なつ た とも
導者 を して彼等 を利用 して全會員 に この技術 を賞演 させ
ん じや な いか
繊 の紐 に共通 して い る
謂 え よ う。 それ は近世 日本 の
“
それ はそ うとして男 の上衣 の胸 に さす ハ ンカチー フ
るのである
もし賞演参加者が未経験者 の場合 には,指 導者は 5分
乃至 8分 間練習 させ るの もよかろ う 議題は何か全 くこ
つけいな問題で もよい その方 が教 えつ ゝ同時 に楽 しみ
を もJtlえ ると云 う利益がある。 この練省の電 の會議 に よ
つて笑が生れ,参 加者 も之 を見 ている他 の聴集 も心持が
・れ
ほく
,又 参加 メ ンパー を回結 させ 自分達 によつて今 ブ
レー ンス トー ミングの賞演が行われ ているのだ と云 う覺
悟がリ
ユくなるので ある それか ら20分 1司 程何か員面 日な
については どうか.17世 紀頃英國詩 人 リチ ャー ドウ ィ
ス トは彼 の詩 中 で,胸 の ハ ンカチの ロマ ンス と効用 を
士が
知 つてい る。一寸人 の 名は忘 れ たが英 国 の或 る争卜
彼 の ハ ンカチー フ を見事 に使 い分 けて,世 に も稀な幸
運 を引 き営 た エ ピノー ドもあ る。 この外際 どいいわ く
因縁 は さてお き,身 近 に この胸 の ハ ンカチー フ とい う
もの は効用 の絶大 な ものだ と云 う事 を私 は 獲 見 し た
時は
昭和32年 4月 の初 め
所 は東 京 RC例 會場
何
問題 を探 り上げて論ずる こととす る どう云 う問題 を探
り上げるかに就 いては事前 に参加者が短 い會合 を開 いて
それ こそブレー ンス トー ミングを行 うの もよかろ う fE
時 もなが らに食 11の 一 ときは色 々な話 に花 が咲 き楡十
た
だ が,私 が隣席 した二人 の メンパ ーの話 は特 にそ うだ
し選ぶ問題は全委員に とつて,1値 のある ものである方 が
よいと思 う,問 題の範囲 を鮨J限 して各人がた ゞ一 つの 日
高潮 に達 し, 日角 は時 に泡 とな つ た
標 を目指す様に心がけねばな らない。
その際参加者 よ りの提案は注意深 く記録 してお く様 に
注意 しよう そ して次の例 會の際 に提出 された着想の リ
ス トを作 つて全會員 に配布 し,賞 際的 で値打 の ある着想
は是非 クラブが賞行す るように した い ものである そ し
てある着想が賞行 に移 された場合には クラブに通告 して
注意 を喚起 し,そ の ブレー ンス トヾングlC参 加 した メン
パーに感謝す る事に したい
.
つ た。 ロー タ リア ンN氏 は活 々 として袢 きず ,つ い に
飛ぶか ′ これ
を見 るや否や ロー ク リア ン0氏 は純 自 の彼 の胸 ハ ンカ
チー フ を取 り,そ の泡 を さつ と拭 ぐい去 つ た
この情
景 は英 詩 に表 われ た ロマ スや エ ピソー ドに優 る とも劣
る もので ないだ ろ う 一 片 の ハ ンカチー フに洗練 され
た ローク リア ンの友 lTIの 美 しさが,滲 じみ出 て見 る者
をして感 動 させず にはおか なか つ た
これが偉 大 な る
ロー タ リ友愛精神 の螢露 で な くて何ん で あろ う 日]ち
ロー ク リーは これだ
百 の読法 よ リー つの生 きた見本
だ.げ に麗 わ しき ロー タ リーな らずや
.
是非 と もこの案 を試み て大 いに楽 しみ,同 時 にその結
果 を活用 していた ゞきたい ものである
.
'J:':
‘ ︱︱ ヨ
,Jr')
”
”
ロ ー タ リー の 友 -3月 暁
‐‐
‐……………¨ ‐ ‐‐……‐‐……‐¨‐…… … …¨―…―‐…………………¨――………¨――‐ … ――― ― ………………―…―‐¨¨………‐‐‐‐――‐‐‐‐‐‐――
│
T…
ブ レ ー ン ス ト ー ミ ン グ
]
:
TEN STEPS to Successful
1. 討議参加者 を集 め る 問題 を解 く力の最 もある人を集 める 普通は賣上 げの問題 を解
く篤 にはセール ズマンの グループを集 めるのが よい しか し乍 らこの他廣告員,配 達員,技
師,取 引専門家 ,顧 客 ,其 の他 の人 々が参加す るの もよかろ う グルー プの大 きさは 5, 6
入以上,10人 -15人 以下 の方が よい, 5, 6人 以下だ と着想 の検討 が餘 り熟 さない し,1015人 以上だ と切角の着想 を記録す る事が困難 となる
2. 問題 の範囲を限定す る 問題 の範園 を限定する 複雑多岐な問題 をさけ,己 むを得ず
そ う云 う問題 を採 り上げる時 には 1時 に 1部 分丈 と取組む こと 全員 がよく問題 を理解す る
様 にはつ き りさせ る事 が大切 で ある.用 語な ども明確に してお く 提案内容 が よく理解 され
たか どうか を間 うて見, もしそ うで なかつた らどんな疑間 で もすつ か り解 いてお くことであ
る 1出 1題 討議 に先立つて その問題 の字句 をげ1に す る篤 の討議 をす るの もよかろ う.よ く表現 された問題は牛 ば解
決 されたFnu題 だ と云 つて もよい
]
ブレー ンス トー ミングを成功 させ る篤 の 根 底 と し
とがめ立て しな い雰回気 を作 り出 し維持する ことが大切
る
り豊な思索的 な雰園氣 を作 り出す篤 には,討 議 リーダーは
つた りしな い様 にはつ きり要望す る 行動 によつて も顔
のである
と思 うと云 う様な そぶ りを見せ てはな らない ひと
付 きによつて も誰 も他人 の着想 が無益 な猪突的な も
い
ある着想 に就 いての批夕1は もつ と後迄控 える様 に説明 して
の思 い附 きの債値 を疑 う様 な事 を云 つて はな らな
い 天空 の高 きが
お く.は じめか ら絡 り迄全員 が積極的,生 産的,創 造的精耐で共力す る様に しなければな らな
つた示唆 と同
の
つ
の
で
限界 で, どんな荒唐無稽奇想天外 な解決 で もどしどし提出す る様に, も と多 く 賞際的 筋 通
てお くことである
時 に破天荒 な着想 も営然豫想 され る ものだ と云 う事 を グルー プの各人 によく列 らせ
'れ た
に役立 つす く
賓際
ると充分立派
され
がやがては賞行に移
と
どんな會議に於 て もこの上な く奇矯 見 える着想
的 な着想 に役立 つ様 になる ものである事 は ブレー ンス トー ミングを行 う人の期待出来 る事
である
_
4. 凡 ての着想 を記録 してお く テー プレコー ダー とか,速 記専 Fl家 , ステノタイ ビス ト
いがその要諧 を
等 を用 い るの もよかろ う 速記家 は着想提出者 の字句 も疫 さず書 く必要 はな
に書 かせ る
々
を黒板や便箋等
に
して
議
い
1,
2の
,要
人
委嘱
らな
記録す る事 を學 ばねばな
に
を興
える と云 う
ピー
ども
見える刺戟
のス
るけれ
,日
ドを減 ず
場合 もある この方法 は獲言
5, 急速 に澤山の着想 を得 るようにす る 重要な 目標 は多 くの着想 を得 る事で ある.必 ず
しもこれによつて着想 の質 はよくなるとは限 らな1/bけ れ ど,敷 が増 せば質 も向上す る事はほ
とん ど常 に事賞 で ある。 集国的反應 を促進す る鳥 に指導者は色 々な工夫 を凝 らす.そ の 1つ
は時計 をみんなの 目の前 に示 してお く そ して指導者は「 10分 間に,0の よい着想 を得 られ る
て
か どうかや つて見ま しよ う」 と云 う.そ して10分 後 に どれ丈の着想が出 されたかを記録係 に聞いて見 次には
て
「では今度 は 1∞ の着想 が得 られ るか どうかや つて見 よう」 と示唆す る 又は「正味 7分 で止める事に し ,時
いねば
々
な
しく
用
と云
う言葉
を正
。
は」
は「我
つて
と
云
う
議長
しよう
ま
見
」
間内 に どれ丈 の着想 が得 られ るかや
.勿
は
を獨占
いか
論彼
會議
ふ
らである
のは
し
く
さわ
全
らない。印 ち彼 も亦 自分 の思 い附 くままに着想 を寄興す る
,
してはな らない けれ ど
.
26
(set)
THE ROTARYoNO‐ TOMO
を 成 功 さ せ る 為 の
Brainstorming
10訣
The ROTARIAN― June‐ 1957
6. 参加者 を して着 想 を向上改善 させ る様 に奨 め る 蓼 加者 に どうした ら他 人 の着想 を一
―批夕」
的 にでは な く―― 改良 出来 るかの示唆 を出す様 に促 す A氏 の着想 を もつ とよ くしよ
うとする事は大なる偵値を有することだと参加者が皆知る様になる A氏 とB氏 の示唆を結
合すれば論議中の問題に封してよりよい解決案 となる事もあり, これも亦債値のある着想で
ある 心理學者はそれをlll想 と云 うが, フレー ンス トーマーは これ を「アイデアの ヒッチハ ィキ ング(便 乗法
)」
とか「雑交授 精」 とか呼ぶ のである グルー プが出 した65-75の 着想 の中 しば しば後の
となる
牛分又は73が 最善
傾向が存する事 を知lる のは有益 で あろ う
7. 参加者 のコン トロール を持績す る 司會者は グルー プを常 に掌握 していなければな ら
い
な
記録者 が几 ての清想 を記録 してお く必要があるので,指 導者は くつ ろいだ雰園氣 を保
ちつつ高度 の秩序 を維持するよ うに心 を配 らねはな らな .彼 は何か思 い附 きのあつた人に
t/・
は撃手 を求めた らよかろ う.こ ぅす ると何人 もが同時に喋舌 り出す事 を防 ぎ,記 録係 の仕事
がや り易 くなる 便乗 の着想 (修 正意見)を 思 い付 いた人は指 を鳴 らす様 に求 めることlCす れ ばよかろ 。 グル
う
ー プ全員が こ う云 う便乗 の清想 を聞 くヨfに よつて一居刺戟 を受 けることと
思う
.
8. 思考 を刺戟す る局に質問 を利用す る 着想 が次 々 と出 るよ うにする鳥 には指導者は質
問 を利用す る もし流れが停滞 した り上 つた りした場 合 には,議 長 は問題 を単に再び述 べ る
丈で よぃ.或 いは又新 しい流れ を促す馬 に質問 を襲す るの もよかろ う.例 えば販責に関する
討議 の場合 な ら,次 の様 な質問な ど適常 で あろ う「
。 商品 のサ イズを獲 えて見た らどうであろ
られ 」i値 段は ?」 ,「 色は ?」 ,「 材料は ?」 ,「 形は」
,「 包装は ?」 ,「 配達 の方法は ?」 ,「 他に何か用途はない も
のだろ うか 」等 々で ある
9, 着想 の長所 を決定す る ブレー ンス トー ミングが終 つた ら後で,又 會議 を開 いて,集
まつた着想 を批夕1夕 」
断する この手績 は極めて大切であるか ら,な るべ く迅速に行 うことに
した方が よい 時 には同 じグルー プを又召集 して着想 の検討 を して もらう場合 もある。或 い
は又中で重要 な人 々に又集 つて もらう場合 もある.又 時 には全然別 な新顔 を召集 して検討 し
て もらう場合 もあろ う。 Fpl種 の着想 は省 き,2.3の 着想 は結合 させ,解 決案は重要性 の
序列 に従 つて配列する。 中
`
にはす く様費際的 に應用出来 る もの もあろ う。 役 に立 たない着想 もあろ う。 又
特末 の ブレーンス トー ミングの題
日として とつてお くもの もあろ う
.
10. 参加者 の努力を感謝す る 討議 の鳥 に時間 と労 力 を費 した事に封 しては参加者全部に
感謝 しなければな らない。 そ して着想 に基 いて探 られた賓行 を参加者 に通報す る 義 務 が あ
る。人間は誰で も自己の労 を認めて貰 いたいので ある。 グループ別討議 の賢明 な リー ダーは
各参加者に言葉で或 は文字 で「有難 う」 を述 べ,提 案 された着想 を表 に して 1部 宛贈 るべ き
である。 これは心理的 な報酬である.ブ レー ンス トー ミングの篤 に提案 された着想が
,問 題 に封 して祗會的 に又
は商業的に有 利な解答 を興 える場 合 には,参 加者 の労 に封 しもつ と具胆的な報酬
を興 える事 もあろ う。
(も しブレーンス トー ミングの何たるかを知 らない人 な ら,い くら
で
権威者に も討議 の結果 の着想 を育J除 せずに
全部途つて意見 を開 く様 な ことは賢明では ない
この討議 によつて何か具値的な結果 が生れた と云 う確信 を参加者に
興 える必要がある。 これに よ り盆 々熱心に
な り,特 末 の ブレーンス トー ミングを期 待す る様 になるであろ う.)
.
ロ ー タ リー の 友 -3月 駿
(ses) 27
伊 藤 博 文 と維 新 の 人 々
(I)
ロ ー タ リー ズ 6月 に 211日 本 工 業 ク ラ ブ
本 稿 は 3月 に 東 京 東 ロー ク リー . 4月 末 に 東 京
の
卜 口 會 で 謂 演 し た 速 記 録 で あ り ま す 聴 くの と調 む の で は 味 が 興 い ます で ,前
談 1舌 會 と 「
つ と め て 原 文 の ま ヽ と し ま した
後 重 複 に 薔正 を 加 え 又 云 い 残 し を 添 力‖し ま した が
“
父 の話 を しろ とい う御註文 では御座 います 私は今 日
まで遠慮 してたので ございますが,私 の小供 の時父か ら
「貴様明治維 新史 をよ く讀 まなけれ ばいかん」 とたびた
び言 われたので ございます。 な まけてあま り讀 み もしな
か つ たので ございますが,顧 みて見 まして こ うい う時世
になつて見ます と本営 に明治維新 とい うものが どうい う
ものであつ たか とい うことを回顧す るとい うことは大 き
な重要 な問題 ではないか と思 うので あ ります ことに き
よ うお集 りのみ な さん方がみな明治時代 の方 ばか りでい
ま した アメ リカはむ しろア メ リカ自證 を郷め るとい う
ことに大童な時代 であつ た そのほかの國があの時代 に
18世 紀 か ら以 後 に どうい うことをしたか とい うと世界地
‖
Jか ら見れば,御 承知 の とお リア フ リカ大陸 とい うもの
は悉 くこのコー ロ ッパ先進國 の局地か植民地 になつて し
まい,ま た,あ のぼ う大なイ ン ドもイギ リスの領地 にな
つて しまい,今 日話題になつてお ります 3Lll南 大午洋 とい
うもの も悉 くが ヨーロ ッパ先進国 の植民地 になつて しま
らつ しやい ま して,明 治 と深 い開係 の あ られ る方 ばか り
それ で明治維新史 を讀 め と皆 さん に も差上
つた と云 う様なわけです.で ,斯 様 な情勢 の下 で東洋 を
通が してお くわけはないのであ ります 日本に向つて も
やつて まい りま した。 ちよ うどその時が 日本 の幕末 のあ
る意味 でお 話いた します
父が亡 くな りま したのが明治42年 で ござい ま して,69
歳 で亡 くなつてお ります その時私は20歳 になつてお り
の大騒動 の時なのであ ります その時 に,内 働しを
の内働し
や りなが らよくもまあ 日本全般 が取 られずに済んだか と
い うことで御座 い ます これは父が話 して くれま した と
であ ります
ま したので よく覺 えてお ります 叉 ,小 さい ときか らよ
くお客様が見え る と,「 ちよつ といま忙 しいか らお相手に
出 ていろ」 とか言われてお相手 をさせ られ ま して,い わ
ゆ る明治維新 に関係 した方 々 とは本営 に面識 どころでは
な くて,親 しくお話 したわけで ございます.か よ うな意
味 にお きま して この明治維新 のお 話 をす るには,生 々 し
いお 話 を申 し上げ る議にお いては私 よ りもほか にお在 り
で ござい ましよ うが,ま あ私が一番適任者 じやないか と
も思 い ます.も う私 1人 しか生 き残 つ た者はないよ うで
あ ります こ うい う意味 で,今 日は明治維新史 を顧みま
して,お 話 を したい と思 うので ござい ます
.
明治維新 とい うものにつ きま して,私 この前 に東 ロー
タ リーで もお話いた しま したけれ ども,先 ず第一 に考え
て見 なければな らない ことは,一 證明治維新 の前後 に世
界 の形勢が どうあつたか とい うことで御座 い ます。 申 し
上 げるまで もないので ございますが, ヨー ロ ッパ方面 に
お きま しては航海術が16世 紀前後 か ら姜達 しまして,共
後蒸汽船 の凌明 が出末 ます と同時に,航 海 が盛ん にな り
殆 ど地球 の地国が初 めてその時非1つ た時代 で もあ ります
し,同 時 に先進国 イギ リス,フ ラ ンス,そ れか らスペイ
ン,ボ ル トガル,オ ラ ンダあた りが どん どん出掛けま し
て,海 外は貿易をす るだけな らよい のですが,属 地 とか
植民地 を持 えた時代 で ございます_ド イツだけが遅れ ま
したのは獨乙が小國 に分裂 を してお りま した関係上, ド
イ ツその もの を組 め るとい うことの方 が大事な時 で´
1り
・
28 (89け …………Ⅲ
お り,ま ことに奇跡的 とい うくらい立派だつた と言わな
けれはな らない と思 い ます 長州征伐 か ら出襄 しまして
再度 の長州御i伐 ,そ れか ら薩長連合が出来 て,蛤 御門か
ら績 いて伏見 。鳥夕 の戦 い,あ れにまい ります までに外
國が獣 つて見 てい るわけはなか つ たのであ ります 幕府
の方 には フラ ンスがつ きま してナボ レオ ン3世 が幕府 に
向つて,「 金は貸 してや ろ う。 そのかたに どこか領地 をよ
こせ」 とい うことは勿論つ きもので ございました 私
16の 年 に父 が韓國統監 にな りま して初め て赴任いたしま
,
す ときは,中 学 校 の途中だつ たので ございますが,連 れ
られて朝鮮 にまい りま した。 その時,軍 艦 の「和泉」 と
い う小 さな船 で あ りま したが,そ れで下開の彦島の とこ
ろを通 ります時 に,「 この島はね, もう少 しでイギ リスに
取 られ る ところだつ た」 とい うことで,毛 利藩 が馬関 で
日
四 カ國 の艦除 を相手に して戦4Fを や り,馬 開 の砲基 が「
かれ ま した時 の話 を聞 いて見 ます と, こつちか ら射 つた
弾 がい くつか届い てお ります けれ ども,大 抵,海 の中に
_落 ちて しまい,向 うの射 つ た弾はみんな こつちに命 中 し
てい る.さ ん ざんな敗北 で ございま して,そ して,そ の
の時 に,父 はその前 に洋行 して ロン ドンか ら婦
講和談夕」
2人 で講和談夕1の ためにイギ
つて末 まして,高 杉晋作 と´
の方 が一足先 に艦
つ
ので
ございます。父
リスの艦 に行 た
に乗 つてお ります と,高 杉があ とか ら末 る とい うので待
つてお ります と,孵 に乗 つかつて高杉 が鳥帽子直衣で も
「 なん
つて袖 を風 になびか せ な力iら やつて末 るの を見 て。
だか馬鹿 々々 しくて仕方がなかつた」 とい う話で御座い
THE ROTARY‐ NO‐ TOMO
東京 RC伊
藤
員
―
ました それか ら談夕1を 始 めま した時に,「 彦 島 を割譲
しろJ,「 1'(金 は これだけ」
,「 砲来 に ある大砲その他 をみ
んなよこせ」 とい う談列 で した。父が頑弧 に彦
「 しを渡す
ことだけを拒んだのです あ とで述懐 してお りますが
,
一般あの時 どうして彦島 をもつ と向 うが弧 く主張 しなか
つたかを考えて見 ると,結 局 これ を取 つ た ところで 4カ
國 で分割す る ことになる と,あ との問題が起 きるの じや
ないか とい うことを心配 した と見 えて,案 外易 く彦島の
「
問題は引込 めて しまつたのだろ うと ││し てお りました。
があの│1寺 lltら れてお つた ら, ちようど第二の香
もし彦
「レ
港 があす こへ出来 て,香 港 。九龍 の開係 が ド開方面 にず
つ と出来 たの しやないか といつてお りました 又,そ の
時は もうロシヤはサガレンに侵入 してお りまして,明 治
の rll年 に入 りました時は 「北海道が危いJと いつ て,ま
だ ごた ごた騒 ぎの最中に北海道 に兵除 を途 つて武備 を固
めておつた ようなわけで あ ります
一方 の暮府 の方 も,勝 安房 が,「 い ま長州 と大戦 さをし
.
て軍費が足 りない といつ た ところで内働Lだ ,外 lluの 干渉
を容 れ るなん とい うことは飛んで もない ことだJと い う
ことを言いま して,そ して断つて しまつてお ります こ
うぃ う騒 ぎの最 中に, よくも日本が 1寸 の土地 も渡す こ
とな く無事に過 せた とい うことは本常にあ りがたかつ た
ilfで
もあ り,不 思議 に うま くいつた とい うことではない
か と思 うのです
この明治維新 のお話の一 番 の1に 乳 にな り,父 も非常 に
大 きな思出をもつてお りましたのは,伏 見 。鳥Zそ の戦 い
です あのFllぃ では薩長連合軍 がたつ た 3千 人で ござい
ます 幕府は 1萬 5千 の大軍 であ ります もつ とも父は
′
戦 には一度 も蓼加 して居 りません。父は,長 崎・ 上海
「
の間 を往末 しまして,そ の iiの 洋行 に よつて英語 の喋 ベ
る ことだけは非常 に注者 で あつ たので毛利藩 の,3め に長
t入 ,汽 船 と│││し まして もそれ を
崎 で小銃 または汽船 のり
ィ│:riて てlFl常 にす るわけで ござい ます それか ら 11海 に
の方 miに 活動 して居
も行つてお りまして,111と して戦‖朽
右か ら伊藤博文,高 杉晋作 (慶 順元年長崎III張 時代
)
す
伏見 。鳥Zイ の戦 いはたつた 2日 F・lで ネ軍は もうめちや
めちやに再 び起つ能わず とい う恰好 にまで落 ちて逃げま
して,慶 喜は大阪か ら軍艦 に乗 つて江戸 に逃 がれ婦 つて
次 で江rl城 開 け渡 して王政復古 とい うものが
お ります
出来 たわけであ ります
父 の41い 立 を します と父は山 口縣熊 毛郡束荷 (つ か
[1父 の
り)村 に生れ林 とい う姓 で したが,父 が 10歳 の時昴
EI」
十蔵は荻 へ │‖ て伊藤 とい う足幅 の養子 になつたのです
父は16戯 の時初 めて出イ│:し て居 ります。 その時 が1)・ E観
夷 で毛利藩は相州三浦 三崎 の警備 を受 け もつて居 つ たの
初 めての任地が この三浦三崎 で陣笠 をかぶつて槍
つて
を持
力│「 liの 臨海議tttrrの ある庭 に立つていたのだそ
うです 私が「夏休 みにあす こに行 く」 とい つた ら,「 あ
す こは落 ちると危 いぞ,急 に深 いか らJと いつ てお りま
です
した
年末見込
その11寺 に,険 長が末原良蔵 で「 こいつは‖
つたので御座い ます
)の はたつ た30高
毛利藩 とい う単
「
つ
の
ので
ご
ざい ますが,下 開 海港敗 人が別 にな
イであ た
みがある」 といつて夜中に11;釆 提灯 を持 つて末 て,寝 て
い る父 をjLLし 小脇 にかか えて 自分 の番llrrに 連れて末 て
つてお りますので,‖ │‖ 俗nlだ つ たのです
を教 えて 奥れた とい うことで それか ら
そ して洪 ι
それで武器
の購 入 単
)ど ん どん11末 たわけであ ります 薩摩 もまた
´て, 国 │と もJt器 は よし, 7.rェ ki訓 練
也fク にあ りま し
様な」
'‖ り
│■
り
1つ て い た ことで
1こ な してお り,て 、lf,(も
II J
,
ri・
1。
Fら
=に
,― 夕 1-の 友-8り
│ル
く
して父の任地が放に愛 りま した時に末原は吉円松陰 の と
ころに人れ と云 つて紹介 1仄 を渡 してお ります その時 の
紹 介状がイJに Irn l¬ ぃのです。
「 この男 なかなか の川旋屋 に
(8s7) 29
て一― と書 いてお ります 周旋屋 とい うのはなんだかわ
れ われ思 い ます と女 中やなんかの奉公先 を世話す る商 費
それ と時 を同 うして姫路の藩主か ら版籍 を奉還 したい
とい う議が出て末 ました.こ れ を見 ま して, これは この
の よ うに思 い ます けれ ども,営 時 の周旋屋 とい うのはや
つ ば り「外交官」 とい う意味 ですか,な かなかつ き合 の
機會 にや らなければいかんぞ と思 つ たので ございま しよ
う.幕 府 をやつつ けま した薩長土肥 。この 4藩 が連合 し
うまい奴だか ら, とい う意味 の よ うです一―見込みがあ
るか ら一 つ これ を可愛がつ て くれ」 とい う紹介状 です之
を持 つ て吉田松陰 の間 に入 りま した。
て同 じように藩籍 を本還す る とい う議 を出 したわけであ
松陰塾 の話 も父は してお りま したが,た しか吉田稔麿
と言 い ま したか,ブ F常 な秀才だつた らし い の で あ りま
す。松陰塾 では うちの父は 2番 だつた らしいのです 1
番が吉田で ござい ますが, これにはい くら勉張 して も勝
てなか つ た といつてお りま した.「 しか し人間 の運 とい う
ものは不思議 な ものだ,吉 田があれだけ立派 な才能 を持
つ ていたのに若 くして死んで しまつた。結局,運 の ある
奴が生 き残 るものだ」 といつ てお りま した。
そ してその営時,叩 き込 まれま した勉張の 中に歴 史を
よく教 わつ た と申 してお りま した.み な さん方 よく御存
じの方 があると思 いますが,私 か ら批許 して見 ます と
父に ど歴史 に通暁 した人間はない と思 い ます。 これが非
常 に よかつ た と思 い ます。 ことに頼山陽 の「 日本政記」
,
とい うもの を讀みま して,そ してそれに よつて幕府 を倒
したあ とは ど うして も建武中興 ではいかんか ら頼朝以前
の王朝 時代 に‐
inさ なけれ ばいかん, とい う考 え方 をもつ
てお りま して,逸 早 く伏見 。鳥夕 の戦 t/2が 済 んで江戸城
が開城 され て,そ してまた會津・ 桑名 の残敵 の掃討が出
来 ます と同時 に, こ うい う國 の建 て方 を しろ とい う意見
書 を出 してお ります.「 い まは建武 中興 ではいかんか ら王
政復古 とい うことでやれ」 とい うこ とで御座 います。父
は また,思 慮が棚密だつた とい うことで ござい ま しよ う
ります。勿論その営時薩摩 と長州がやれはほかの大名 も
んなついて末 るわけで あ りまして,そ して 260い くつ
.9、
かの大名が藩籍奉還 を願 い出たので あ ります これ を虎
理す るにつ きま して一 番 の総元締が明治 の元動岩倉具硯
公です 常時, この革新 に参加 して居 ります主膳はお公
卯口さんの方 では岩倉 。それか ら三條賞美公,薩 摩か らは
西郷 ,大 久保,長 州か らは木戸,井 上,私 の父 も末輩 で
加わつていたわけであ ります 岩倉 さんが主宰になつて
お りま した。 この時 も,父 がやは り外國 の知識 もあ りま
すが,慶 藩は まことに よろ しいが,そ の あ とに,外 國 の
例 に留つて「縣」 とい うもの を持 えよ う, これが 畷 藩
置縣」 とい うことであ ります さすが の岩倉公 も慶藩置
縣 をやろ うとい う考 には な りま したが, さてその藩主 を
どうす るか;そ れか ら家老以下 の武士 を どうするか とい
う問題, この時 に父は例 の華族,士 族 とい う11度 を持え
てそれか ら爵位な ども設 け, これで封面 も保 てるよ うに
するとい う意見書 を出 して於 ります。 それか ら同時 に
,
いままで隷 を喰んでおつた者が忽 ち飯が喰 えな くなつて
はいかんぞ とい うことで,稼 祗」 とい うもの を持 えて
,
'困
I14政 的に もす く
らない ように しよ うとい うのです
じ
つに周Fllな 注意を して居 ります そ こで廟議は「やろう」
とい うことになつたのですが, さて 日本中に接 つている
大名側 の うちで, どこか らか坂働Lが 起 るに違いない とい
うことが考 え られ, これ を心配 して最初の考え方は藩主
か,「 建武 中興 が どうして敗 れたか,そ の一番大 きな原因
をして世襲 の知事にす る,す なわち殿様は世襲 の知事で
は,論 功行賞が一番 いけなか つた。 それで建武 中興 は失
あるとい う議案 が出来たのであ ります。営時,私 の父は
敗 した」 とい うことを言 つてお ります。 ですか らその営
時 の考 え方 として會津 。桑名が片付 いた あ とで伏見鳥羽
兵庫縣 で主 として外国 と交渉談夕」
を してお りま して,外
事係 といい ますか,賞 際上は外務大臣で あつたか も知れ
の戦 に蓼加 した長州兵,ま た薩摩 の兵除,そ の他 を一證
どう論功行賞 をす るか とい うことについて苦心 してお り
ませんが,そ れ を聞いて非常 に憤慨 しまして, もともと
この ことは井上侯 と 2人 で諮 つて議論が一致 し,ま た木
ます。 その時 も意見書 を出 してお りますが, じつに よぃ
戸候 に向つて もこの話を して一 致 しておつたのですが
「一般 この大革新 をやつたあ とで藩主 をして世襲 の知事
手段が取 られた と思 います。 営時 日本 の大名 とい うもの
は 262あ つ たそ うです 徳川幕府が倒れ王政復古は成 つ
た といつて も,大 名達はみん な私兵 を貯 えてお ります
.
,
にす るとい うことは何事だ これ こそまた もとの欧阿粥
で,建 武中興 と同 じことじやないか。 初代 の知 」Fだ けは
陛下 の周 りには一兵 もいない と云 うわけです。
「 これ じや
いかん」 とい うことで,そ こで, これ等 の兵隊 の論功行
よろしいけれ ども世襲 とは何事だ
賞 として陛下 の御親術除 として近術兵 とい うもの を持 え
て,そ して動功 の あつ た兵隊は全部陛下の近術兵に しよ
侯 と2人 が とうとう辞表 を叩 き付けたわけです 木戸侯
もこれに同意 しましたので,さ すがの岩倉 さん も決心 し
うとい う案 で あ ります。 こガじ
が御嘉納 になつて近衛兵が
出来たわけであ ります
まして,そ して逐 に「 世襲」 の二字 を冑1つ て しまつたわ
けであ ります.こ の時 も早速問題は,「 さあ どこで兵働Lが
.
30
(898)
こ うい うことをやろ
うとい うの な ら自分は働 くことは出来 ぬ」 といつて井上
THE ROTARY‐
NO‐ TOMO
ffilh 4 4128
+
t
7>u
,7.'J K<
左 か ら木 戸 孝允 ,山 口筒芳
1文 ,大 久
岩 倉具祠 ,伊 藤 卜
保利涵
に面 白 いので あ りますが,「 い よい よ兵 R[が 起 きた らど う
見て末 て,そ して,そ れによつ て立案 しなけれはならな
い とい うのでこ うい う目的 で一行 が農 つて行 つたわけで
す るか ,結 局 ,西 犯Б
隆確 に末 て rtつ て治 め て 貰 うよ りし
す
起 きるか」 とい うことで あ りま した。 そ の時 の 話 は じつ
よ うがない Jと い うので談 が決 ま ります と, Jll地 ド
隆盛 を
口
は参 1談 とレヽうことで した 一
乎び まして, 一― f片 時 , p暉 犯に
ロに,「 じつ は器 を廠 止 して縣 にす るが , これ
― そ して西タ
は必 ず兵aLが“
起 きるか ら一 つ 頼 む」 と言い ます と西 兜
`は
そ′しだけ聞 くと駅 つ て,│ま た戦 さで ごん すか」 と言 つ た
切 リヒュ ッと外 にIHて 行 つ て しまつ た とい うのです
そ
して lll犯 ド
は それか らどこに行 つ たか とい うと,常 時大 蔵
省 をやつてお りま した大 蔵大山Iの 井 上 憾 灰 の ところに行
ところが 合檜 ,井 上候 が留 守 だ つ た ので,大
きま した
蔵少丞 とい うの をやつ てお つ た の が澁澤柴 一 さんです
その先達 の耕慶 の役 を私 の父が したわけです 1ヤ 時
父は32歳 ですが一行が サ ンフラ ンシスコヘ上陸 いた しま
して,そ こで父が大演説 をや つてお りますが,そ れが常
時有名な「 日の丸演説」 とい うや つ です その中に この
明治維新 の ことを言つ てお りま して,「 お よそ中世 の四
mtも 流
が これだけの大改革 を 1機 の弾丸 も射たず li/1の '切
さずに これだけの驚 く可きことを成就 した ものが 出界中
どこにあ りや」 と云 つてお ります ま ことに見 事な改革
をやつた次第 で これが明治維新 の成JJJの 第 1歩 だつたろ
うと思 い ます
て
しか し, か ような見 lifな 千L事 が│!1末 ま し た に つ レヽ
澁澤 さん の ところに 1/Jね て 行 きま して,そ して,「 じつ は
は, じつ lC立 派 な人材が営時出ま して,そ して こオ[が 一
またll■ さが始 まる,1「 資 金は出来 るか Jと い う相 談 を し
西郷 が第一 に心 配す るのは「 金がな くては
致協力 してあれだけの11を な し途 げた とい うのであ りま
すが,私 ,考 えて見ます のに,あ の大業が出末 た 中心 人
オ政 が どの くらい績
戦 さが出末 ぬ 」 とい うことで,そ のロ
物 であ り,一 番おlllTい 方 は誰だつたか と言 えば これは中
たそ うです
くか その 見込 が立 たなけノL
ので す。 澁 77さ ん
ll■
,「
ltや
れ ない とい うことだつ た
そ うい うことな らリト11さ ん と も相
し Lげ るまで もな く明治天皇御 自身が不世│liの 英 ALで あ
私の父にいた し
l・
らせ られた ことではないか と思 い ます
談 して絶 ylに 御心 配 か け ませんか ら」 と言つ た ので,そ
れ で安心 します Jと 「:つ て 喜ん で師 つ て行 つ た とい うこ
ま して も,十 1時 ,み んなが陛下 を「天子様」
「 天 子様 」と
つてお
で冗
か
りま
したが
言
談 を言つて
,夏 なん 浴衣がけ
とですが,や つて見 ま した ところが 何等支障 な く廣 藩置
お ります時 で も, liが 天 F様 の ことに な ります と, きち
ス
ンと座 り直 しまして,「 天子様がね」 と言つ てお りますの
縣 が出来 た, こ うい う ことで あ ります
この こ とは,あ とで もお 話 します
│り
l治 6イ │:の
う
」外使 帥
で御座 い ます岩 倉公 が全榊大使 となつ て,そ れか ら大 久
の父が 面J使 に な りまして, も う 1人 山 口 さ
保,木 戸 ,世 、
をたびたび見 てお りますが, どの くらい陛下 に対す る0
にし
心が深かつ たか とい うことが窺われ ます また「IT兜 ド
て も同様 で ご ざい ます このりl治 大帝が中心 人物であれ
ん とい う方,そ うして 同勢 49人 が ご ざい tす が, これ が
だけの ことが出来た と言わなけれはな ら な い と思 い ま
2カ 年 間欧米 を廻 つ たので 御座 い ます
す
この一 行 の 目的
.
は外国 と lび ま した條約 が改:汀 ,切 に なつ てお りま して
r・
,
かたがた これ を どう改訂 す るか とい うこ とを, そ して少
くとも新 しい口 を確 え上 げる とい う lr副 1,文 りl開 化 の政
ドの文明国 の様子 をす つ か り
治 をす る とい う鳥には,世 ツ
●― タ リー の 女 -8月 曖
(8ee) 31
貼
仕
曜釜RC佐 々 木 統 一 郎
鮎課奉仕 と云 うて も,或 は御存 じない方 もあるで しよ
うが,之 は普通 の書物 を黙字 に直 して鮎字国書 を作 り
盲人 の篤 に手 を貸 してやる奉仕 の ことです 現在粘詳奉
係の深 い乳字 に封 し, トンと無開`い で した その内 日々
自分 の手が けた忠者の 中か ら, どう手 を蓋 して も失明を
仕者 は全 国 で千名 そ こそ こで しよう。 この 人 々は皆,忙
が しい本業 のか たわ ら,自 分 で先ず結字 を省得 してか ら
母親な どに接するにつれて,眼 あ きの治療 も必要だが
こ うした失明苦 に悩む同胞 に心 の光 を ともしてやること
乳字富本 と云 う骨 の折 れ る仕事 を無料奉仕 して居 るので
す。子供 を疫 か しつ け家事 の後始末 を してか ら諮詳にい
も私共に輿え られた天職 であ る こ と に氣付 き始 めま し
,
そ しむ母親 もあれば,全 家 を撃 げて奉仕 して居 る篤志家
もあると云 う風 で, これ ら奉仕者 の思 いは,ひ たす らに
全國十 BII万 の盲同胞 に,貼 字回書 と云 う一 つの窓 を通 し
て光明 と希望 を,そ して再び立 ち上 つて働 らく意欲 を も
や してやろ う, と云 う温か い思 いや りあるのみです.何
と素晴 しい,何 と箪 い奉仕 では あ りませんか。息苦 しい
この頃 の世 の 中の片隅 に, こん な緑 の園 が残 され て居た
のです
鶏字 は フラ ンスのル イ 。ブライユ によつて稜明 された
.
のです.之 で全世界 の盲人達は眼あ きと同 じように,各
自望 むま ヽの科學 や文學 の世界 にひたる幸祠 を とり戻 し
たわけです.誠 に偉大 な功績 と申せ ま しよう。又 この粘
字 を日本語に翻案 した石川倉次氏 の並 々な らぬ努力 と腕
免れない人や,生 れ乍 らの失明兄をかかえて相談 に来 る
,
た.こ うした氣持 か ら私は欧州 に出 かけた時最初 に ドイ
ツ 。マーブル ヒの盲人研究 F/Tを 訪れ此虎 に 3週 間余 り止
まつて具 さにその施設や盲教育の賞状 を見學 しま した。
此虎 で私は初めて鮎字や乳字器駄字 タイ プな どに親 しく
接する機會 を得 たので した。
この研究F/「 は ドイツ有 lllの 諮字固書館 を もつて居る こ
とで有名な虎 です.蔵 書 もあ りとあ らゆる部門 に行 きわ
たつて居 り,又 ,廣 大な地下室は全部貼字印刷や製本工
場 に営 て られ,Il■ あ き工 員達 にま じつて盲人職工達 が働
らく風景は誠 に印象的 で した
盲人 が幾何や作同な ど敷學 の勉張 も出来 る ことや,女
.
子學生が剌繍迄出来 るな どとは,今 の今迄全 た く思 い も
かけない ことだつた し,更 に所内の農場 では,盲 人丈 け
前 も敬服 の外はあ りません
の共同作業で牛 の乳 しば りをFtlあ き と少 しも憂る ことな
くやつて居 るのに も限 を見張 りま した。
粘字 は,丁 度,員 田幸村 の紋F/rで ある六文錢.あ れ を
想像な され ば宜 しい あれ と同 じ 6個 の馳が 1単 位 に な
つて居 り,右 上 か ら下の方 へ,第 1,2,3馳 .左 上か ら
それ等 に も増 して私 を感激 させた ことは,盲 學生 のた
めに幾室かの,見 透 しの利 く硝子張 りの防音讀書室 があ
つて, この 中で 1人 の盲學生 に 1人 の講師が付 き添 つて
下の方 へ第 4,5,6貼 と呼 び,右 上の第 1議 一つな ら
日本語では「 ア」 です 貼字 を書 くには貼字器 を用 い ま
本 を讀んでやつて居 るのです.謝 字国書 の上に指 を走 ら
せ乍 ら静かに講師の朗讀 に耳 を傾 けつ ゝ讀書 lC没 頭 して
居 る盲學生達 の姿は全た く耐 々 しい許 りの風景 で した。
.
,
すが, これは前述 の 6駄 単位 の識字孔が横 に一定敷.そ
れが 2列 遊 んだ金局板 で之 を画用紙位の厚 さの紙面にの
第 1次 大戦の痛手 か ら立 ち上 つた とは云 え,國 民生活
せて定規 と駄筆 で,ボ ツボツと穴 をあけて行 けばよいの
です.ぶ つ績 けでは譲 みに くいので,分 ち書 きの約束 な
は未だ未だ窮窟な其の頃 の ドイツで,盲 同胞 のために之
の様 な到れ り轟せ りの愛護の手が差 しのべ られて居 つた
どもあ ります.盲 人は この粘筆 で作 つた馳字 を裏返 しに
のです 更に こ うして教育 され た盲人達 の職場が300程 も
あると聞か され事賞 その後 の滑獨期間中に或 る時 は銀行
して指先 で紙面 の突起 をさわ り乍 ら讀 み進み ますか ら前
述 の右上第 1諧 は左上にな り,讀 むに も左か ら右へ と指
先 を走 らせ ます
こうして駄字 は盲人達 の不 自由な 店黒な生活に,讀 み
の窓 口で,又 或 る時は界の事務室 で,限 あ きと共 lC働 ら
く少なか らぬ 盲人のある こ と を 親 しく目撃 した私は
,
書 きの出来 る光明 の 界 を もた ら して呉れ ま したが さて
その粘字回書 の我國 に於 ける現状は どの程度 で し よ う
按摩,鍼 灸,マ ッサージ,そ の他吸える程 しかない 日本
の青人In・ 種 を思 い浮 べ て,余 りに も懸隔のl■・だ しい我が
國 の盲人面lrd事 業の貧蒻 さを慨歎せず に居 られ ませんで
か,又 欧米各國 の それは どの様 な もので しよ うか
私は眼科髪 を志 し乍 ら常初は うかつに も私共 に甚だ開
な もつ と生L/E的 な職業教育 や職域が盲同胞 のために拓 け
I「
32 (900)
した せめて ドイツの10分 の一で もよい
「 HE
もつ と近代的
ROTARY_NO_TOMO
ない ものだろ うか,そ して私共限科讐は, こ う した仕事
に卒先本仕す べ き, もう一 つの務めをもつて居 るのだ と
自覺 を新たに した次第で した
ドイツの盲人施設 を見 て婦 つて間 もない頃 の或 る日
女職員 に よる特色ある新 らしい職業教育 に情操 教育 を織
り込 んで,見 事 に凌展 して行つ たが「絡戦」 は,惜 しい
かな, これ らの線 て を一場 の夢 と化 し去 つ て仕 舞 つた。
あれか ら早や 12年 ,リ ュックーつで蹄還 を餘儀 な くさ
突然私は,盲 人牧師 の大村善永氏 の訪間 を受 けた 開 け
ば大村 さんは旅 l中 學 か ら岡山の六高に在學中に失明 し
れた身 には盲人 へ の断 ち難 い愛着 も営分 は胸底深 く秘 め
るの外 なかつたが,偶 々昨春 の東京同門會 の席_Lで ,門
一時 は悲嘆の ドン底 に落 ち込んだが, よく凌心 して再び
開西學院 に學 び,卒 業後 は我が國盲人界 の親 であるライ
・ ハ ウスの故岩橋先生 の指導 を受 け,革 新的な盲教育
ト
下生 の中で粘詳奉仕 を して居 る篤志家 を獲見 し誠 に吾 が
意 を得,営 時 の思 い出話 に花 を喚かせた ことであつた
lb「
を志 して居 る方だつ た。末意 をたずねる と営時支那事髪
が刻 々 と僚大 して友人達 が次 々 と召集 され て行 くのに
,
自分丈 けが盲人の故に取 り残 され る ことは何 として も堪
え られず ,色 々考 え抜 いた睾句,自 分 の 日頃考 える新 ら
しい盲教育 を,建 國直後 の満州国 の中国 人失明者 に施 し
て同國未だ開拓 され てい ない, この方面 の仕事に貢献 し
ようと決心 し,時 の開東軍 司令官 に建白書 をしたため
,
夫人 と2人 の御子息 に件 われ て勇躍渡満 して末 たのであ
る 早速新京 の軍 司令部 を訪ねて話 して見たが,営 時 の
これが縁 で 日本駄字同書館 とつ なが りを持 つ ようにな
つたが,先 ず第一 に驚 ろか された ことは, 日本唯 一の こ
の粘字国書館 の蔵書 が開設 16年 を経 た今 日, 未だに一
萬敷千朋 と云 う貧蒻 な状態 である。而 もその大部分 は過
去十数年 にわたる粘詳奉仕者達 の無料奉仕 に よつて出末
た もの と知つた
.
これでは折角馳字 によつて讀書 の出末 る窓 をあけて貰
つて も失明者 の多種多様 な要求 の十分 の一 もみた してや
れまい 正に佛作 つて魂入れず で, ドイ ツの完備 した馳
開東軍営局が,そ んな特殊 な不和事業 に耳 をかす筈 もな
く,鎧 よ く断わ られ て伯然 と引下 つ たが どうに もあ きら
字国書館を回顧 し感慨 な きを得 ない
因み に 日本貼字同書館は現在数名の職員 を擁 し,奉 仕
を主 と した苦 しい経営 を績 け居 るが,事 業 の性質上収入
め切れずに,何 とな く新京 の國立馨科大學限科 の永山教
授 を訪ねて一部始終 を訴 えて見た.虜 が同教授か ら私 の
は殆 ん どな く,共 同募金 の配分 な ど昨年 度 は僅 かに 4萬
回 に過 ぎず,経 管 に要す る年間 200萬 前後 の ものは,全
話 を聞か され,死 中に活 を求 める氣持 で,同 教授 の紹介
状 をもつて私 を訪問 した と云 う詳 であつ た.私 に とつて
も,こ の會見が,そ の後 7年 の間,大 村 さん と一緒 に開
国 の教會 その他篤志家 の零細 な寄附 に依存 して居 る と云
う賞状 である。
眼調査や ら失明封策や らに働 くキ ッカケになる とは思 い
もよらぬ ことだつ た
.
初封面 の私か らマーブル ヒの祠察談 を開 く大村 さんの
面上は興奮 に輝 やいて居 つ た し,私 の集 めて末 た鮎字や
参考資料 の数 々を指先 にふれ乍 ら大 村 さ ん は「 これで
す。 これ こそ私が永年 やろ うとしてや り得 なかつた盲教
育 の貴重な資料 です どうか私 を この奉 天の土地に止め
ロー タ リーが早 くか ら,そ の祗會奉仕 の中に盲人の項
をもうけ て彼等 に温 い思 いや りの手 をさ しのべ る ことを
奨励 して末 たの は賢明である
我國 で も最近 い くつかの クラブが之 の方面 の奉仕 に乗
り出 して居 る.こ の拙文が ロータ リア ン各位 の盲人稲祗
.
に封す る認識 と開心 を深めるい とぐち と もなれば望外 の
幸せである。
て下すつて,私 の水 い夢 を貫 らせ て下 さい」 と熱情溢れ
る許 りに心か ら私の協力 を求 めるのだつ た 私は私 で週
然 lCも 又 とない よい共鳴者 を得 たので,す つか り嬉 しく
な り,即 日大村 さんを連れ て,奉 天市長 の鄭高さんに面
會 して大村 さん共 々相談 を して見た。 虎が之が在満 日本
人 の失りl者 とか戦盲者 とか云 うの な ら兎に角,郷 さん と
同民族 の 中国人失りl者 に光 を,(え る と云 う話だか ら,鄭
さんが感激す るのは常然 で日1座 に協力をIAL諾 された許 り
でな く御 自分 のlJ有 地 と家屋 の提供迄中出 られ,話 は ト
ン トン拍子 に運 び,そ の後,私 の従兄孝三15の 助力な ど
・
「
1生 徒 20吸 名 を牧容する, 本天 市
もあつて, 1]も な く
啓り1學 園 がめでた く機足 を見たのである
それか ら足Il・ 7年 餘
ロ ー タ リー の 友
私 は今 までちよつ と した偶然 で何 か値打 の あ
る
・lfを しとげた こと もない し,私 の色 々の優明
の どれ も偶然 にな され た もの はなか つ た.た だ
それは働 く事 に よつてで きた もので ある
エヂ ソ ン
この學園 は大村さん と吸人の男
(eol) 33
-8ブ
`朋
何 虚 の 國 に も 友 が い る m)
宇都宮RC金
父 と 母 と 息 子
東京 クラブ竹内會長 の紹介状 を もつて コー ネル ソンと
云 うカ リフオルニア,パ サデナの大學教授 が末 られた
バ サデナの ロー タ リー倶業部の會長 を した ことが ある人
.
工
谷
夫
時 で あつた鳥 めホ氏が出獲寸前迄私はお 目に掛る機會が
なかつた。
ホ氏 も私が多忙 である姿 を見 られた篤 めかその時迄小
松氏 の名刺 を出 して私に面會 を,求 めることをされなか
つた
である
.
コ氏夫妻 もこの息子 さん も大學教授 の家庭 に似 つかわ
しい教養 と態度 を身 につけてお る.四 つの テス トを暗誦
する ことは出来 ないか も しれないが ロー タ リア ンとして
の道徳 を身 につけている様見 える.ホ テルの11庭 にある
骨董屋 の店 に私 を交ぜ て 4人 で入 つた, コ氏 の息子 は書
間町 を歩 いて大黒様 の本彫 を見附 けて きた様子 で ある
慣 が 600園 とか。如何 して も大れ を買 い度 い ら しい
.
.
コーネル ノン夫妻は もつ と良 い もの を買 い度 い らヒ
い
レ
コ氏は象牙 の大黒天,私 が見て もよく彫れ てお る と思 わ
れ る彫刻を見附 け出 して これ を買んだ と云 う この債 が
約6CICXl園 で ある.夫 人は掛軸 を買 い度 い ら しい,夫 れ を
握 つてはな さない,そ の債2500回 .コ 氏は皆 を‖1し て日
く「買 い度 い と思 うものは各 々別 で あるが一先 づ これで
きまつたんだが自分が買 い度 い ものが一 番高債 の様 だ。
私が 一番高 い もの を買 つて もよいかね.お 前 は2500の 掛
軸 で満足す るね.お 前 も600園 の本彫 で満足だね 」
こん な風 に皆 に話 しかけた,そ して温顔 に徴笑 をた ヽ
えて檜 かに夫人 と息子 の返答 を待 つてい る
日本 の家庭 で見 る様 に旦那様 であるか ら自分丈 けが高
.
い もの を買 う特槽 があるのだ と云 う態度 ではない。 側で
見 てお る私迄がその雰園気の 中に引 き込 まれ て行 つて し
まつた。
ロー タ リア ンの家庭 が皆 そ うである と断定 を下すわけ
で はない,然 しこ うあ らせたい と思 う.教 養 の高 い家庭
民 主 々義 の原則を家庭生活迄取入れた家庭 の姿は こんな
ものか と考え させ られ る ところが多 かつ た
.
こ うした家庭が ロー タ リー運動 に理解 を もつ人 々の間
には, きつ と多 いのだ と考 える丈 けで も嬉 しい極 みで あ
る.(昭 和31年 9月 311日 )
ホウ ヰー ラー氏 (Mr.Wheeに r)
ホ氏 の営地滞在 の最後の 5分 間がなかつた らば こ
んな立派な ロー タ リア ンに會 う機會を私は逸 して しまつ
たのか もしれない 最後 の 5分 間ではあつたがホ氏 と私
とllt百 年 の知己の様 に話 を した
そ して ロー タ リア ンと云 うものは こん なにす ぐ打解 け
.
て話をする ことが出来 る もんだ と ロー タ リア ンの良 さを
つ くづ く考えさせ られた。ホ氏 は こん な話 を して くれた。
「私が會長 を していた時は丁度第二次大戦の 最 中 だ つ
た。 (1943年 -1944年 は昭和18年 一昭和 19年 に営 る)そ
の時 には勿論敵國 で あつ た君の國には末 る ことが出来な
かつたが他 の國例 えばア ジア諸國 で も日本軍が占領 して
居 らなかつた地域及びカナグ, オース トラ リア,ニ ュー
ジーラ ン ド, フラ ンス,英 凹等 の國 々 を私は歴訪 した も
そ して私が出 て歩 く時は大統領 と同 じ様な特
つ
擢 を も ことを許 された。 つ ま り乗物 をは じめ紹 て自由
に使 う権利 を興え られた.ロ ー タ リア ンとして何ん とか
のだつた
して世界 の この破局 を救 う方法はないか と考 えると共に
その時 は敵國 であつた君の國 を破 つて早 く不和をか ち取
ろ うと云 う意国があつたんだ。今 か ら考 えれば馬鹿 ら し
い話 さ.然 し戦争中の ロー タ リー運動は仲 々遂行 に難 し
かつた。 ア メリカで もその通 りだつ た。 ア メ リカでは何
故 に又 どん な風 に難か しかつたかはホ氏は説明 して くれ
なかつ た。
これか ら香港 に行 くのだ と云 うので私は心安 くなつた
儘 こん な ことを依頼 した
「賞 は先 日シ ンガポールの前首相 マーシ ャル氏が末 られ
.
て私 の倶楽部 の旗 を呉れないか と言われ るので喜んで差
上げるが特末 の友情 の鳥 めに是非 lll下 の倶業部 の旗 を貰
いたい と御願 した.マ ーシ ャル氏は心 よく承諾 して こち
らの旗 を もつて婦 え られたが 2ヵ 月たつた今 日本だ届け
て くれない 今度 の會合 で會 われる機會があつ た ら金谷
前 ガバ ナー小松氏 の紹介状 を もつて ロー タ リーイ ンタ
ーナ シ ヨナルの元會長 (1943年 -1944年 )ホ ウ キー ラー
が旗 を待 つて居 る と博えて くれ ませんか.」
ホ氏 は「 マー シ ャル氏 に會 える と思 う.必 ず君 の博言
氏夫妻がや つて束 られた.丁 度國賓 と して末朝 され るカ
ナグ副首相 日光訪間 の準備 の鳥 めカナダ大使が束 られた
は博 えてあげる.」
ロー タリア ン同志は こ う して互 に言い度 い こと頼 みた
34
t902)
THE ROTARY‐ NO‐ TOMO
い ことを頼 め る仲 で ある こ とが噛 しい (昭 和31年 10月 12日
)
ロン ドンク ラブの旗
何 日で あつ たか記憶 して居 な いが ロン ドンの Chelsee
Clubか
ら旗 と非常 に丁 重な手紙 を うけ とつ てか ら 暫 た
つ てか らの ことで ある
COp H」 ames
の夫 要が ロン ドンか らや つて末 た
つ け てお るの で話 を し出 した
と云 う英國人
ロー タ リーの ビンを
この 人 に Chelsee Club
或 は又 これは感情 の張 い ロン ドンでは貰 つていつ たが
出す に出 されず困 つてお るのか もしれない」等 と種 々取
越苦労 も湧かないわけではないが便 りがな い儘 に忘れて
しまつた。
然 し私の こ うした考 えは間違 つて居たんだ 10月 の初
旬手紙 と小 さい包が宇郡宮 クラブに届 いた。
す る と彼 は胸 をは つて 曰 く
その中には ロン ドンク ラブの旗 それ もま ことにスマー
トなガラミ
入れ て あつ た.そ してその 由末 さへ書 きつ けて
あつた。
同 じ ロ ン ドンの クラブで も ChelSeeは ぁ とか ら出末
た クラブで あ る_自 分 の局 してお る ロ ン ドン倶業 部は ロ
手紙 の文面 に曰 く
「貴 クラブの旗は他 の クラブの旗 と共 に吾 々の食卓 の名
ン ドンの ロー ク リー獲i羊 の クラブで あ る とま こ とに誇 ら
替ある地置 に据 え られ會長は ジェームス氏 か らの宇都宮
クラブの友情 の博言 を會員に侍えた。 そ して全員はその
か ら旗 が届 いて宇 郡宮 クラブの一 同が嘆 んだ話 を した
しげに説 明 して くれ た。
ロ ン ドンはlalの 如 くyl日 感情 の悪 い ところそれ も根 弧
く残 つてお る ところで あ る。
.
旗 の鶯 めに トース トした」 と書 いて ある。
何ん と素IFmLら しい手紙 だ。
その 中心 とな る倶業 部 か らこの老紳 士 が 末 られ たな ら
叉族の説り1中 には ここん な ことが書 いて あつた「旗 の
ば これ こそ国際奉イ
J:が 活動 す る絶 好 の機會 で ある.こ う
縦横 に通 つておる十字架は St George of Englandの
十字架 を形 どつた もので これは英国 の國旗 の元 を してお
る 左の上の方 にあるのは ロ ン ドンの=キ を現わす楯であ
考 えた私 171宇 都宮 クラ ブの話 を して友情 の 熱意 を ロ ン ド
ン倶業 部 に博 え て くれ な いか と依頼 して旗 を渡 した
して佳 き昔 の時代
そ
(g00d01d days)の 様 に 日英 の 開係
が 早 くよ くな る ことを所 る私 共 で あ る こ とを誘明 した
老紳士 は私の手 を堅 く握 つ て「必 ず君 等 の友1青 の熱意 を
ロ ン ドン倶業部 に博 え ます Jと 約束 して需 え つ て い つ
た
lヵ 月待 つ て も 2ヵ 月待 つ て もその返 事 に類 した もの
が末 ない
旅 は人 の心持 をある時 は混 岡Lさ せ る,疲 れ させ る
こ
の 人はそんな こん な で あの りでを何虜 か に しまい忘れ て し
まつ たのか もしれ な い
.
る.」
私共は旗 を手に して延 した り縮 めた りして シゲ シゲ見
入つ た ま ことにスマー トな旗 で よく英国人特 に ロン ド
ン兄の意気を代表 してお る様 な感 じの旗である
早速 ロン ドンクラブの會長 Deans氏 に丁宰 な返事 を
書 いて「 か くして結ばれた友情が永久 に朽 ちることがな
い様 に しようではないか」 と書 きお くつ た
ロ ン ドンの クラブか らこ うした友1青 の手が又一 つ差 し
のべ られた こと甚 だ大 きなll■ 穫 で ある と思 えてな らない
(昭 和31年 10月 13日 )
K.松
乾 0イ t牲 ケ■ 0嗜箱 品
「
-rt'rF.)tv2
ロ ー タ リー の 友 -8月 蹟
".
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崎
本店 0東 勲疑 覇護勢津 蔵前1′ 2
(85)3121(代 表)-5
0大
支店
阪 。名 古屋
(eo3) 35
`′
ls lt Nothing to You?′
The ROTARIAN― May-1957
エ レミヤが愛す る町 エルサ レム を俯敵す る丘のJ■ に立
。汝 ら何 とも思わ
つ た時,彼 の悩み にみちた心は叫んだ「
ル
ぎるか。」
彼 はイ スラエ 民族流請 11の 時代 の最後 の豫言
者 で あつ た.彼 は風 々エルサ レムの住民 に向つて行状 を
改めなければ どの様 な特束 が訪れ るかを読 いていたので
ある。自口ち「不信 なる子等 よ,婦 り末 れ,汝 の不信 を癒
さん。」と叫んで いた。 しか し彼等 は一 向に改め ようとは
しなかつ た
要す るにエルサ レムは33世 紀間存績 し,人 間 と自然 の
鳥 に苦 しめ られ20度 の包園 と閉鎖 を喫 した 再建 の時期
18度 ,荒 度 の時代 は 2度 宗教 の製 る こと6度 ,そ して
民族は殺 された り追放 され た りした。 しか しエルサ レム
は常 に復興 した 何 の篤 にあの氣 のふれたエ レミヤの言
葉「すべ てみちゆ く人 よ,汝 ら何 とも思 わ ざるか」 に耳
を傾 けるのか。
エ レ ミヤの警告 に人 々は耳 をか さなかつ た.エ ルサ レ
ムは1贋 調 であつた。 金は豊富 で商賣 は栄 えた。 そ こは依
然 として東 と西 の會す る場所 で あ り,去 末す る除商達 は
群 も大 きく度数 も震 々で あつ た。何 の鳥 に思 い煩 う必要
な人 々に苦労 させ て
があろ う 何 の篤 に働 くのか。素ホト
ヽ
い
の
だ.エ ルサ レムは永遠 で あ
俺達 は甘 い汁 を吸 えば
る 人 々は こ う考 えている様 で ある
我 らの ロー タ リーは一昨年 50周 年 を祀 つ た
′
y
炊ソ b
ジ
汝 ら何 と も思
る か
Vhite
John E. ヽ
ョ ン・ E・ ホ ワ イ ト
い人達 で ある
ロー タリーに多 くを興えるが故 に又 ロー
タリーか ら多 くを得 ている人 々で ある
クラブ協議會 に招集 された時行 か な くて も君 は何 とも
思わないのか 君は「 まあ委員會な ど大 して大切 じやな
いそれに今夜の TVボ クシ ング放途 は見逃せない」 とか
「他 の人が クラブの方金卜を決 めればい ヽさ_私 はそれに
従 つて行 こ う Jと か云 つて済 ま してはいないか。
新會員 と知合 いにな らな くて も何 とも思 わないのか
午餐の時彼 の隣 に坐 らな くて も何 とも思 わないのか 新
會員達 が自分等は用 の ないメ ンバ ーだ と思 い,や がて退
會す る様 になつて も何 とも思 わないのか
例會毎 によいスビー カーが得 られな くて も何 とも思 わ
な いのか,一 鎧君は嘗 てス ピーカー として話 した11が あ
るのか。 自分等丈 だ と我 々は大抵 よく話せ るそれに大抵
は職業上 の面 で立派な ス ピーカー を探す こと も出末 るの
で ある。一般君は嘗 て 自襲的 に會 の プログラムを埋 め よ
うと務 めた事があるのか。
君が例會 に鋏席す る度 に君 の クラブの出席率 が低下 し
ているのだ,が それ を君は何 とも思 わな いのか それに
よつて又君 自身 の友交 の時 が失われ,何 か債値 のある話
を聞かせ て貰 える機會 を失 い,又 我 々 も君 の快席 を寂 し
く感ず るのである
.
エルサ レ
ム同様 それは戦争 の災厄や獨裁者 の難 を蒙 つ た.経 済的
擾働しも嘗 めた。 しか し屈す る事 な く,エ ルサ レム と同様
に回復 し,襲 展 しその精耐 は永遠 で あるかの様 に見 える
私 の島す る RCは 創立以末既 に30年 以上 になる。 そして
浮沈 は経 つ ヽもいつ も存績 しつ ゞけて末 た・ しか しチ ャ
ー ター メンバ ー として私 は今國 内及 び國外 を見る時不安
を覺 えるのである.我 々の多 くは今や無氣力氣開心 に陥
りつ ヽあるのではないか と思われ る。今 日恐 らく又 エ レ
ミヤの如 き豫言者 が必要 ではな いか。 こ う云 つ たか らと
て誤解 しないで頂 きたい 私 自身一介の ロー タ リア ンで
豫言者 で も何 で もない しか しそれ で も私は 2, 3の 質
問 を提出 して見たいので ある
_
君 の RCが 或 る徒業 によつて動か され て もあなたは何
と卓
〉
思わないのか,い やそ うではない筈 だ それ らの徒
limを 有 し進
薫 の 1人 1人 も皆賓は心 の中に ロー タ リー米
君が国際的集會,地 匠のあるいはイ ンタシテイの集會
に出席 しな い と,君 は凡ての人 々の プランを損 ねるか も
知れないのだが,そ れで も何 とも思わないのか,ど こか
の クラブに「某 々はあてにな らない」 と云われ て も君は
何 とも思 わな いのか
君 が何かの委員 に命ぜ られて,何 かの集會 に も出席せ
ず全然何一 つ働かず,誰 か他 の會員 に君 の仕事の代 りを
させ る様 な場合 で も君 は何 とも思 わないのか
過去52ヵ 年間数千 の有能究闊な人 々が時 と金 を捧げて
君や私 の クラブの様な クラブの篤 に働 いて末 たのである
RCこ そ慣値 ある□般 で あ り,捧 げた努力 の代tiに 友情
域が向上 し,國 民が益
が損大 し,職 業 が嵯展向上 し
の決意 を堅 める様 に彼等は
々親 しくな り,益 々相互理解'地
。す べて道行 く人 よ,汝 等何 とも
皆知 つてい るので ある「
思 わ ざるか。」と云 うあのエ レミヤの言葉 を思 い起そ う
んで仕事 を しようとし,委 員 會に も奉但1し ,出 席卒 もよ
36
(904)
THE ROTARY‐
NO‐ TOMO
暉 と ロ ー タ リア ン の 心
高 砂
原
清
ある.こ の苦悩 を逃れ る篤 め,二 律背反 の域 を腕 して 自
己の利害関係 を超腕 し得た場合 に,稗 を般得 し佛性 を得
た と云 う事 が出末 る。私は,諄 は自己を超脱 し,然 か も
現賃 と共 にあ り,現 賓 を超世俗的 に虚理 して行 く心境 で
或雲水 が 1日 趙州碑師 に
`狗子還 つて佛性有 りや 無 しや、
と問 うた.趙 州は
`
無 し、 と答 えた
.
又師は同 じ問 いに封 して時 には
`
有 り、 と答 えて居 る
この直間答 は私共の常識 では一寸解 し宋 る。脚は解學
ではな く行學 であると云われ,達 磨大師 に機 し,脚 と云
う言葉 自鎧 は,梵 語 Dhyanaか ら出襲 して深思,静 慮
と云 う意味 を持 つて居 る。
ヽ
両 と云 えば古嗅 く,私 共の生活 とは縁遠 い もの 様 に
:
思われるが今 日も生 きて居 り,廣 く街頭 に も進出 し,政
治 に,経 済 に,教 育 に,活 動 を績けて居 ると云 つて よい
最近我國 の心理学者,哲 學者等 も日本文化 を解す る篤
めには,其 の基礎 をな して居 る稗 を極 めねばな らない と
云 うので相営 に祠 の研究 を して居 ると聞 く。私共 の生活
.
と関係 の深 い暉 に就 いて或程度考 えるの も無意味 で もな
ヽ
レ
暉の本義 に就 いて,諸 先輩の意見 を訪ねる と,次 の通
.
りである.印 ち
①直 には法 として授け る ものはない,飽 くまで 自己の
佛性鎧験である
②脚 は無に立脚 して何者 に も拘束 され る事な く,自 由
に活動す る心境 である
③直 とは思lll反 省 の智的活動を停止 し,心 を本末の姿
.
.
に於 いて働 か しめる事 に依 つて生ず る智愁 である
①稗 は直感に依 つて,宇 宙 の具理性,宇 宙人生 の兵理
.
に徹す る ものである
と綱 されて居 る.何 れ も難 rj/Fで ぁるが,難 解 である事 自
パ ンを食 した経
鎧 が藤 の本義 か も知れない.パ ンの味は
験者以前の者 には説りlし て も分 らない。諄 は行學 と云わ
れるの もこの邊 の■ を云 うのであろう
.
l■
R C梶
ある と云 い度 い
此虎 で,翻 つて最初 に掲 げた暉間答 に 目を韓 じて見 る
と,趙 州暉師 が同 じ問題に封 して無 と答 え,時 には有 と
.
答 えて居 る事 は,理 論的 に考 える と矛盾 も甚 しい と云 う
事 になる 趙州 も學者 であ り,障 道家 であるので 自家揃
着する事等 はな いのであつて,元 末暉宗 では如何な る も
のに も
があると云 う事 になつて居 るので修業中の雲
'H性
の子 に も佛性 が有 るのか無 いのか と問 うたのだ
水が,狗
が,間 うた雲水 の心境 の如何 に依 つて,有 る と云 う事 に
拘束 されて居 る者には無 ,無 と云 う事 に拘束 され て居 る
者 には有 と答 え,有 無 の拘束 を離 れて,自 由無啜 の根低
に誘導 し,悟 らしめ ようとしたのが趙州 の此 の間答 に於
ける着ll■ 鮎 である。趙州碑師 も此 の間答 に依 つて碑 の本
義 は絶封二 律背反 の域 を腕す る事 を教 えて居 る
.
私共 の ロータ リーの根本思想 は奉仕 の理想である事 は
言 うまで もな く,私 共 は,互 に機會あれば此 の 目的 を果
し度 い と常 に心掛けて居 る
ロー タ リーの 文献 を経 くと SerViCe above Selfと 云
.
う言葉 が 目に付 く.此 の言葉は無我 の奉仕 ,又 は自己浅
二
却 の本仕等 と繹 され て居 る.無 我 自己淡却 の心境 は
`F
背反 の苦脳 を脱却 した心境 と相通ず る ものがある
.
て
私共 ロータ リア ンの心 の 中 には,峰 が生 きて活動 し
`
/1y
に
に自然
し
と云
う意識な
いか
る
本仕す
居 るのではな
ン
と云
た
ロー
され
タ
リア
も完成
仕出来 る様 になれば,愈
う事 になるのではないか。一層 自己完成 を目標 と して勉
張 し度 い と思 う。
.
而 し諸先輩の説 を綜合 して考えて見る と,自 己の利害
開係 を離れて宇宙 の具理 を證得す る事,言 い換 えれば
生 と死,有 と無, と云 う如 き絶封で二律背反 を脱却 した
,
心境 に達 るのが耐の本義 であると云 う黙 で一 致す る
私共の 日常生活は,11述 の生 と死,有 と無 ,悲 と喜等
の封立す る二つの異なる酬念 の存在 して居 る城,自Πち二
律背反 の域内 に閉 じ込 め られて居る篤 めに苦悩は無限 で
.
ロ ー タ リー の 友 -8月 焼
(eo5) 37
ロ ー タ リー 間 答
回答者
Fn5
パ ス トガパ ナー
宮
脇
富
あ りえましよう
.
警曇F冤 直風欝L;5多 魯二 :逸 旱F見 量写全糧
務 (例 えば新 クラブ特別代表 ,地 匠大會委員等)を 委嘱
するのは,国 際 ロー タ リー細則第11條 第 2項 中「地匠 ガ
パ ナーは加盟 クラブに開するその職務 を遂行 す る に
常
り,各 クラブの責任者 を通 じてその職務 を行 う……」に
違反,ま た地匠大會場所 を地匠内 クラブ會長 に相談す る
ことな く豫定 (そ の こ とは 1年 前 の大會 に正式 にはかる
次 に地匠大會場 の ことであ りますが,之 れ もお説 の通
りであ りま して事賞規定通 りに行われてお るのではあ り
ます まいか 今迄多 くの慣例によ ります と地巨大會の決
議 によつて決定 されておるようであ ります その地匠大
會 には今迄 は過牛敷の 會長 又は代理 の方が出席 されてい
る ことであ りますか ら過牛数 の意見になつてお るのでは
とはい えそれ以前に豫定)す るのは同 じく第11條 第 4項
あ りますまいか_大 會場及 び 日取 は規則 によつて地 Lガ
バナー とその地匡内過牛数 の會長 の一致 した意 見によつ
中「地匠内の過牛数 の クラブ會長 の一致 した意見によつ
て決定 ……」の精耐 に連反す るのではないか。 ガバ ナー
便 によつ て相談 して も良 い詳であ ります
は地匡 クラブ會長 を通 じて會員 と交渉 を もつ と言 うルー
ルをはずれ る ことは避けた方が よいの では ないで しよ う
(岐
か
1彗
阜 RC
村上治朗 )
]η 軍冨撃潜 5菖 菖鬼 [gi3繁 7墨 肇衝薩 :隻 響
際 _Lで も地匠 ガバ ナーは その地匠か ら推薦 され国際大會
において正式 に選 畢 された國際 ロー タ リーの役員 でその
地匠において ロー タ リー運営 の全責任 を持た され てお る
ヾナーの解答す
のであ ります。従 つて此問題 の女
口きは ガ ヽ
べ き事柄に属 しますが,規 員Uに 関連 しての
御質問 であ り
ますか ら非公式に意見 を述 べ る と致 しま しよう 御指摘
の通 り国際 ロー タ リー細則第11條 第12項 (苗 邦詳)に は
「地匠ガバ ナーは加盟 クラブに開す るその職務 を遂行す
るに営 り,各 クラブの責任者 を通 じてその職務 を行 う…
…」 とあ ります.此 中の「責任者」 とい うのは原文 では
``the cOnsltuted authority"で ぁ りま して「官憲」 とい
う意味 もあ りますが蚊 では責任者 といつて もよか ろ うと
思 い ます。 クラブの責任者は會長 であ りますか ら御説 の
て決定 せ られ るものであ りますか ら,大 會でな くとも郵
・
要するに此問題は規則に明かであ りま して規貝u通 りに
行われてお るよ うに思われますが,ガ バ ナーは貸 に忙 し
いので兎角色 々な手違 いで誤解 を招 くこともあるのでは
ないか と存 じます
I Fn5 1進 :先 量衡 ,I:こ 】 :禦 旱馨ワサ )彙 TT毒 督
都合 によ りその時間 を適営 に短 くした り長 くして もよろ
しきや ?
自口ち例 えば卓話が豫定 よ り早 く絡 つた篤 め定
刻 よ り可成早 く閉會 した り,或 は意外 に面白い卓話なの
で定刻 を超 えて績け て貰つ た りす る こと等は如何 ?
(2)會 長及副會長が例會 に鋏席 した場合 は誰が司會す
べ きか ?
その時出席せ る前會長又 は副會長が代行すべ
か
き ,或 は理事 の 1人 が代行すべ きか ? 理事 がすると
せば豫 め理事 の序列 を定 めてお く必 要が起 る と思 うが如
何?
因に営 クラブ理事 中に前會長はいない
ータ リア ンに して どの委員會に も局 しないでい
(3)ロ
る ことは許 され るか ? 入會後間 もない會員, シニア・
アクチブ,又 はパス ト・ サー ビス會員 と雖 も何れかの委
通 り所属會長 を通 じて地匝活動 の任務 を委嘱す るのは営
然 で しようし又賞際上 か らいつて も便禾り
であ りますか ら
員を受け持 つべ きでは ないか ?(沼 津 RC
普通 そ うになつてお るではあ りますまいか.勿 論 そのク
11罫 │ご :≧ 響 晋 :聟 l曇 ,I撃.:月 日喜TT禁 F魯
ラブに関係ある ことな らば必ずその手績が とられてお る
と思 い ますが,地 E全 値 に開す る ことにな ります と廣 く
さんのク ラブを結成 せ られた時 準貴 クラブの細則に定め
人材 を地域内に求めなけれ ばな りませんか ら,ガ バ ナー
としては各方面 に物色 されるので,場 合 によつ ては その
委嘱せん とす る人 に直接 その意国 を開かれ る必 要 もあ り
ま しよう.斯 様な ことが誤解 を招 いた り場合によつては
本人 の内諾 を以 て手績がすんだよ うな錯覺 を起す ことも
38
〔
螂)
磯部泰輔)
られた時 間 であ りますか ら,若 しこれ をかえる必要があ
れば會員 の 3分 の 1の 定足藪 のある絶會又は例會におい
て出席會員 の 3分 の 2の 賛成によつて改正することがで
きますが,そ の際にはその改正案 を,斯 様 な會合 のある
少 くとも10日 以前 に各會員に郵途 しておかなければな り
ません.そ うでなければ規員Jで あ りますか ら勝手にかた
THE ROTARY‐
NO‐ TOMo
る詳には参 りません.但 しクラブ理事會が正営 の理由が
あれば或制約 の下に 日時 を興更 した り中止 も出来ますが
此場合には豫 め充分 の期間 をおいて全會員に通知 しなけ
ればな りません 然 し賞際問題 としては質問 の場合 の如
く卓話 の如何によつて多少 の伸縮は會長 の裁量 によつて
行つているのが何虜 のクラブで も行われてい る慣省 の よ
その時間が11分 や 2分 な ら問題はあ りま
うであ ります
亀[11勇 察冨 ‖‡ :lttr彙 [曇 峯禁量尋堀Υ鵬暮糖
はそ うい う手績 を取 るクラブが多 い ようであ ります 反
封に時間が餘つたよ うな場合には プ ログラム委員 の豫備
卓話に利用するのが良 い ようであ ります 會長 は斯様 な
時 を巧みに利用 して ロータ リー情報を會員 に博達すべ き
.
(2)會 長 も冨J會 長 も例 會に訣席 した場合に誰が例會を
司會すべ きか とい うことに開 しましては ロー タ リーの規
則には何等規定があ りませんが,普 通は會長 の豫め指名
してお る人が司會す るようになつてお ります 前會長 が
理事 會におれはその人を豫 め指名 してお くのが普通 の よ
うです 理
ManuJ Of Procedureに
示 され てある “Merged Co_
い
は
られな
と
mpany"と 考 え
思 い ます
い
つ
又或會祗が く かの事業 を行 い その内 どの 1つ も60
.
%以
上 を占めない とい う場合はその會祗 か らの會員 には
如何 なる分類 を興へ るべ きで しよ うか ?
フF峯 讐畠墨百ぼ軍霞 阜FttitiI去
の ように考え られ ます.1つ の會耐 の人が虜 によつ て職
L1271ず
業分類が異 つ てお る とい う事は クラブの職業分類委員會
の調査が不完全 である とい うことも考 え られ ます 或都
市 では「暖房通風」で他 の都市 では「鋼管製造」又他 の
クラブでは「 コ ンペ ア製造 」 とい うよ うに違 つ てお る こ
であ りま しよ う
jllに
製造 」 として クラブに入會 され てお ります この ような こ
とは誤 りでは ないで しよ うか。
lllm位
をつけて豫 め指名する場合 もあ りま
すが年齢順にお願 いする こともあ ります 理事全部鋏席
とい うような場合には幹事會計 とい うllH序 に してい る庭
もあ ります 何虎迄 も理事及び役員 の中か ら司會者 をだ
すべ きで しよ う.パ ス ト・ プレシデ ン トの経験 を ロー タ
リーに活かせ とい うことが あ りますが, これはその人の
ロータ リーの経験 と知識 を會員 の ロー タ リー教育 に利用
するとい うのが主眼 であ りま して司會 とい うような事務
的 な ことは現役 の人 に させ るべ きで あ りま しよ う
.
とは不思議 であ りますが,然 し同一 會祗 であつて も分工
場 に よつて生産品 目が違 つてお る場合 もあ りますか ら工
場が違 えば職業分 類 も違 い うるのであ ります 同一會祗
の ものであるか ら必ず しも同一職 業分類 でなければな ら
ない とい うことはあ りません。 最 に或大鐵鋼 會耐がある
と致 しま して その本工場 にお いては鐵及び鋼 の製造 を し
てお るとすればその工場 か らは鐵及鋼 工業 の大別分類 の
中の鐵及鋼製造 なる細則分類 を代表す る會員 を出す こと
がで きます.然 るに同一會祗 の或他 の地方 におけ る工場
では鋼管 を主饉 として製造 してお る とすれ ばその工場長
はその土地にお いては同一 會祗 であつて もそ この クラブ
には鐵及鋼工 業 なる大別分類 の中の鋼管製造 とい う細別
分類 で入れ る詳 であ ります。斯様 に して同 じ會lltLの もの
であつて も虎が違 い その取扱 う品 目が全然異 るか大部分
じめるようにすべ きことが奨働 されてお ります。然 し張
が違 つておれば職 業分類 は違 つて差支えあ りません.只
同一 クラブの地域 内 で同一會耐か ら代表す る場合には事
鮨1的 な ものではあ りませんが,良 きロータ リア ンは喜ん
で委員會 に奉仕するで しよう.又 斯様 な状態 にお くこと
業別 に獨立経営が行われてい ない限 り 1つ の職業分類 に
限 られ るのであ ります。自口ち如何に工場が違 つていて も
が理事會の員 の職務 であ り會長 の手腕 で も あ り ま しよ
う 殊に新入會員には ロー タ リーに一刻 も早 くD‖ 染 ま し
紹合経営 の場合 には単一職業分類 となる詳 であ ります
然 し各地 にある分工場 で皆本工場 と同様 の仕事 を してい
める篤に何かの委員會 に局せ しむべ きであ ります シニ
ア・ アクチブ及びパ ス ト・ サー ビス會員が皆何か の委員
るとしたな ら職業分類は例 えクラブは違 つて も同一 であ
るべ きであ ります
(3)ロ ータ リア ンは出来 る丈全部何かの委員會 に局せ
會 に局する ことは望 ましい事 であ り大切な ことであ りま
す
.
Manual of PrOcedureに ぁる Merged Companyと
は色 々な會l
.
tを
合併 した場合であ りますか ら違 い ます
.
『 Iで 言竃 liF
『 曹亀 [力
亜 ]』 T蒼 冤F繕 鷲鼻尋
とい うことか ら或一 つの會耐 に関係す る人 々は同 じ職業
す るようになれば職業
婁
募姦 低上 二えi言 ≧ 二警 ;讐「
或會耐 が い くつかの事業 を行 い何れ も60%に 達 しない
分類を貸興 されなければな らない と考 えます。
ところが或 1つ の會祗 で 4名 のロー タ リア ンがあ り,
とい うような場合 には可能 な範国 においてその組合的職
業分類 とすべ きで しよう.そ の最 も典型的な職業分類は
内 1名 は東京で「曖房,通 風」 として, 2名 は川崎及 び
中津 で「鋼管製造」 として, 1名 は横濱東で「 コ ンペ ア
百貨店 であ りま して呉服及雑貨な る大別分類 の下 の百貨
店 とい る細別分類 となる課 で あ ります
.
本月 は多餞の質 Fnaが 多 りま したが紙 面 の 都合 で 全部 は載せ られ ません で した,次 残 に腋せ ます御 了承 下 さい。
ロー タ リー の 友 -8月 駐
(e07) 39
ロ ー タ リ ー の動 き告 知 板
新 RC、 偶 RC、 例會場、
1務 所受 更、 ││lllil卒
「 川 :の お 知│ら せ
1・
RC
新
860E)諏
(370匝 )長
(350日
)21名
訪
(長 野縣
金
布4〕 別J[
崎 ヨヒ (長 崎 Hf)30名
月
日養亭
)旭 川西
諏 訪 商 コ:會 騒所
たIι ttr
17長
山
博 一
藤 森
會長 牟 田
幹I
康 彦
松 井
幹 74F llll
(355匝 )東 京武蔵野、石岡、(365匝 )執 賀、大阪西、大阪東、布施、
(山
形 縣 )21名
上
1寸 尾 依 館
澄 詳
部
源
(前 眺参照
)
RC
仮
(350匝 )上
會長
崎 トヨタ内
_L山 市 渋所 観 光 商 工 課
會長
永 田 寵 之 助
精 一
幹事 島 津
例 書 日 憂 更
(370圧
)唐
津 RC
8月
1日 より新例會 日 火曜日
(従 来は土曜日)
例 書 場 愛 更
)岩 見澤 RC 7月 1日 より新例會場
八 戸 RC 7月 24日 ∼ 8月 31日 迄
(355巨 )茂 原 RC 7月 1日 より新例會場
(350匹
″
杢地信用金庫
新例會場 松和グ リル
千葉相互銀行茂原支店 (奮 會場
日立 クラブ
)
事 務 所 愛 更
)秋 田 RC
)小 松島 RC
″
橋 本 RC
″
坂 出 RC
(370匡 )廣 島南 RC
(350匠
(365匠
7月
7月
7月
7月
7月
1日 よ り新事務所
大町 3の 25 秋田商 工書議所
1日 よ り新事務FJT
新港
1日 よ り新事務所
1日 よ り新事務所
橋本58 武田書店
富士見町 うつ ほや旅館
1日 よ り新事務所
基町12 廣島商工書議所
小松島貿易書館
出 席 卒 塑 更
第60匡 5月 出席中
會津若松、900%を
906%に 、
に、銚779.2%を 80.0に 夫 々
R・
訂正
苫小牧 RC
1日
位44を 42に 、札幌 94.1%を 94.9%に 、順位22を 18
l
例會場、産業會館 を 興前 富士館 に訂 JE
「友 Jよ りのお知 らせ
「友」の嚢途について
す馬,大 クラブは包みが 2個 及至 3個 になる場合が御座
皆 さんの絶大 なる御指導,御 援助 に よ り「友」 も恙無
居 ます ので,運 途 の関係 で それ らが一緒 に着 かず,大 へ
く5歳 に成長致 しました 厚 くお趙申上 げます 今後共
「友 」襲展 の鳥,御 馨援 の程お願 い致 します
靭「友」 は毎月30日 に印刷刷了,製 本致 し, 1日 乃至
ん御不便をおかけ致す場合があ るかと存 じます.又 遠方
のクラプの場合,包 が破損する事があるかと存 じます
2日 に襲途致 してお ります。 係員一同 1日 も早 く皆様 の
お手元 に届 きます様努力致 してお りますが,小 包郵便喩
途 の都合上 6キ ログラムを越 えます分は何個 かに分けま
40
(908)
.
今後遠方及び會員数の多いクラブには,鐵 道便 にて厳重
梱包の上襲途致 しますから御了承下 さいます様お願い致
します。筒凌途其の他につ きまして,お きづきの馳があ
りましたらどうぞ「友」編集所宛お知 らせ下 さい
.
THE ROT ARY‐
NO‐ TOMO
MONTH
THiS ROTARY
The ROTARIAN
エバ ンス トン便 り
July― -1957
NEWS FROM RIDGE AVENUE,EVANSTON,ILL,UoS.A.
テ ンネ ン ト書長の下に新チ "ム 成 る
7月
1日 を以て
RIに 新 しい會長 が生れた。 その名はチ ャールズ 。G・
テ ンネ ン ト,嘗 て大學 の花形籠球選手 であつた人.こ の
日彼の率 い るチ ームにそれぞれ新 しい役員が定 つた.2
RC,そ して約20の 国際委員會 に.又 R
Iに は新理事 が登場 した.各 地匠 には新 ガバ ナ ーが生れ,
49地 口,9400の
各 RCに は新 會長幹事が生れた.そ れぞれ皆各地域國 々
世界全鎧 に於 て ロータ リー を推進す る能力 の ある,積 極
ザールは ドイ ツ領 の 1部 とな り,モ ロッコ國際地
帯 及びモ ロッコ佛領地待 が合 して モ ロッコ とな り, ブル
Ellち
ネイでは,町 の重要 工業 が他 へ移輔 した鳥 に, この町 に
あつた RCが 解清 した鳥 である 次 いて 5月 20日 に, ウ
ガ ング,カ ンパ ーラRCが 承認 され, これに よリロー タ
リーに於 ける國 々及び地理的地域 の絶敷は101に なつた。
,
的な勢 こんだ人 々である.こ のチームの キャプテ ンの略
歴や メ ンセ ジ は ロータ リア ン誌 6-9頁 にある
.
大書 景勝 を以て名高 いアル プスに国 まれて ロー タ リ
ー第48回 年次大會はルサ ーン及び中央 スイスで 5月 に開
催 され,78ヵ 國 よ り9900名 の人 々が参會 した。大會 の詳
報は ロータ リア ン誌 7月 琥 に記事 として掲載 してある
.
国際協議會 4月 末 5月 初 にかけ大 會 に先立 つて, ニ
ューヨーク州 エ セ ックス郡 レークプラシ ッドクラブで ロ
ータ リー国際協議曾 が開lLさ れた。 249名 の新 ガバ ナー
集曹 合衆國, カナグ,パ ー ミューダの馬 の ロー タ リ
ーイ ンフ ォメーシ ョン・ カウンセラーズ研究會 。……
7月 15-17日 ……エバ ンス トン.ロ ータ リー基金委員
會 …… 7月 22-23日 ……エバ ンス トン.雑 誌委員會 ……
7月 29-30日 ……エバ ンス トン
大曹記録誌
350頁 に及ぶ「大 會議事録」 力18月 早 々
に出来上 るが, これには1957年 度大 會の記録が載 つてい
る.こ の 中には住所録,報 告,大 會の色 々な シーンの官
具,餘 興 の ハイライ ト,歎 待 の状況等凡 てが 含まれ るで
あろ う。金文字人 りの青色 の原紙表紙 の装前 で,各 RC
には 1部 丈無料で途 る.追 加分 に就 いては 1部 2弗 で販
及び地匠代表者 が参集 して各地域 の RC適 普 に勝
用する責
任者 としての任務 の馬 の集中的準備訓練 を受 けた この
會 に就 いては ロー ク リア ン誌42-43頁 を参照 されたい。
費する
國 になる 5月 10日 リー ヒテンスタイ ンに RCが
生れた事 によ りRC所 在國敷は 100に な り, ロータ リー
は記念すべ き道標 に至1達 したが, これに先立つ lヵ 月間
を行わなければな らないのであるが,第 49回 年 次大 の開
催地 はテキサ ス州 グラス市 である.lll日 は1958年 6月 1
.
1958年 大書はテキサ スで
國際大會 の計査は長期 の問題 で,豫 め早 く場所 の選定
101ヵ
に従1lR Cの 存在 しなかつた他 の3ヵ 国 に RCが 生れた
日1ち カンボ ジヤ,例 ;領 赤道 アフ リカ,佛 領 カメルーンで
-15日 である
.
.
ある。 この 3地 域が新に加わつた篤に先に減少 した数が
統計 5月 28日 現在で RC絶 敷9.436會 員概敗は445.5CXl
人.1956年 7月 1日 よ りの新 クラブ紹敷は304で ある
.
したのである
相殺 さ才
.
の職業 の具債 を認識 し,且 つ職業 その ものに楢威 あ
らしめる こと
ロー タ リーの目的は
.
奉仕 の理想 を有盆なる事業 の根本精励 として育成 し
主 として次 の事項 を美励するにある。
1.本 仕 の機會 を作 るため知合 い を憤めてゆ くこと
.
2 1 t會 に奉仕する日的 を以 て口"タ リア ン各自の従
事する商業又は専門的職業 の徳義的水準 を高め,そ
p― タ リ ー の 友 -8月 壇
3.お よそロータ リア ンはその個人生活,職 業生活
,
耐會生活 の別 な く常 に奉仕 の理想 を助行す る こと
4.奉 仕 の理想 に依 つて結ばれた賞業家及 び専門家 の
.
世界的友誼 によつて,国 際階:の 理解 と友情 と午和 と
を促進す ること
.
(so
)
4L
暇第
GOVIERNOR'S MOヽT
LIETTIEIく ょり
350
(昭 和32年 7月 11日
)
第 350匝 ガパ ナー
(No。 1)
挨 拶
私 は この度 1957-58年 度 の,第 350地 匠 ガバ ナ ー とし
御
て東ヨヒ
・ 北海道 を指営す る ことにな りました。 も ともと
私 の如 きふつつか者 が この よ うな大役 を指 うとゆ うこと
佐
・
藤
幸
三
苦労 した ことは これ までにな く,又 こんなに楽 しい,こ
れ程感激 した こともこれ まであ りませ んで した
ガバ ナー・ ノ ミニーの出席者は 249名 、快席 6名 、出
.
は思 い もかけぬ ことで御座 い ました.そ の任 でない こと
席者 の家族又は前 ガバ ナーの出席者等合せ て 7∞ 餘名 と
開 きま したが,何 れ も同 じ家族 の集 りの如 き親 しき, こ
は充分承知 して居 りますが,周 国 の事情止 むを得 なか つ
たので御座 い ます.従 つて今後 は 350地 匠各位 の御協 力
れが 8日 間 も績 いたのですか ら,平 和 と友情 の塊 の よ う
な生活 で した。然 し言葉では申上 げ られ ない苦労 も致 し
によつてのみその責任 を誌す ことが出来 るのであ ります
し,各 位 とともに,よ りよい ロー タ リー クラブにす る篤
ま した。
前ガバナ ロに封する感謝
に努力致 したい と存 じますか ら, どうぞ よろ しくお願 い
申上 げます
7月 1日 を以 てガバ ナ ーの職 につ くと同時に私は伊藤
前 ガバ ナーに感謝 の辞 をささげねばな らないのであ りま
自分か らこんな ことを申上 げて恐縮 ですが,ガ バ ナー
の仕事は全 く容易な ことではな く,會 員各位 の御協力な
す.伊 藤 さんは ロー タ リー精耐 の権化 の様 な方 であ りま
す.新 潟 の大人 で待望 の大會 を開催 しかねた震念 さか ロ
しには1日 とて勤 まるものではあ りません。然 しロー タ リ
ア ン として一度は誰で もこの職 につかねばな らぬのであ
ー タ リーに封す る熱情 をか り立 て生末 の健康 に物 を言わ
.
りますか ら必要 な報告等は決 して遅 れ ることな く御提出
して下 さるよ う協力 をお願 い致 します.こ れ等 の遅れ る
ことは クラブ全廻 の責任 で もあるか らです.報 告等が ス
ムース に運ばれれば どんなにガパ ナ ーは助か るか知れ ま
せん.よ つて代 々の ガバ ナー もこの結特 にお願 い してい
る詳 であろ うと思 うのであ ります。元末 ロー タ リークラ
ブそれ 自殻 は皆會員 自身 の もの です.従 つて クラプの仕
事 は會員 自身が撃 つてや らなければな りません。決 して
會長幹事 のみに委せ切 りでな く,是 非積極的な態度 で運
管 して下 さい そ して クラブと しての責任 を呆す様 に し
て頂 きたい と存 じます
.
扱 て私が ガバ ナ ーノ ミニーに正式に決定 され ま したの
は, 3月 5日 頃 であ りま して,他 の方 々よ りも4カ 月遅
れているの であ ります.然 し伊藤前 ガバ ナ ーの御援助 に
よ りま して提出書類等は前以 て用意 して下 さつた ので早
せ匠 を馳けめ ぐつて ロー タ リー クラブの増強 に努力 され
公式訪問,チ ャー ター博達式 と文字通 り東奔西走 され
,
350匠 に 8ク ラプを355匠 に18ク ラブを加 うる盛況 を見 る
ことは全 く脚業 とい う外ないのであ りま して薔 ∞匠 の思
人 と申 し上 げね ばな りません。前 ガバ ナー とな られま し
た今 日は後進 の御指導 に一層 の御力添 えを御願 い致 しま
す.御 自愛 を御所 りして衷心 よ り感謝 を捧げます。
本年度地巨大書
1957-58年 度 の地E大 會は,355地 匠,360地 匠 ,350
地匠連合 で東京南 クラプの御骨折 りで東京で開かれ るこ
とになつて居 ります
9月 27日 (金 )前 夜懇 談會
28日 (土 )大 會 9月 29日
9月
(日 )大 會
クラブの
として専 ら御
さんが大會委員長
佐久間
東京南
の
いて
い
.感
居 ります
謝 外あ りません 厚
力壺 しを ただ
く御讚申上 げます。 大會には是非會員多数御参加下 さる
急 に手績 を済 ませて 4月 20日 翡田襲にて渡米, 4月 29日
夜行で レーク・ プラシ ッ ドに安着致 しま した。 そ してそ
様今か ら御豫定 を組んでいただきたい と存 じます
口"タ リ"留 學生募集 について
の 日か ら種 々行事があ り, 4月 1日 よ り8日 午後 3時 ま
で,み つ ち り講義 や グル ープ 。デ ィスカ ッシ ョンが あ り
.
ま した.講 義 中眠 くなる頃には ノング リー ダーが歌 を唱
本年度 は 3∞ 地Eよ り留學生 を出す順番になつて居 り
ます の で希望者 を募集せねばな りません。お心営 の方 を
御推薦下 さるよ うお願 い致 します 試験委員 もその うち
わせ,證 操 をや らも、又 レンス ンが績 くと云 うことで し
た 英語 の不充分 な私は全 く苦労致 しま したが ロー タ リ
御依頼 せねばな りません.詳 細 は次琥 で申_Lげ ますが
留學期間 は 1カ 年 であ りますので留學希望國 の言葉 を巧
―の こととて,何 とか理解出来た次第 で した.こ ん なに
みに話す ことが必要 な條件 であ ります
(第 350匡
42
(elol
,
35 RC 432名 6月 末現 在
)
THE ROTARY_NO‐ TOヽ 10
第
355E
(昭 和32年
(No。
1´
乾
7月 1∼ 15日
第355匠 ガパナー 東
)
挨
拶
`
6月 19日 ,長 い海外旅行 か ら無事婦國致 しました。 7
月 1日 か らい よい よガバ ナーの仕事 に とりか ヽります。
伊藤前 ガバ ナーは,ご 承知 の通 り,そ の立派な學識 と
人格 と,す ば らしい精力 とをあげて, ロー タ リーの讚展
のために壺 され, タラブ と會員 の敷 は著 しく増加 し, ロ
ー タ リーの活動全饉 が積極化 し,立 派な成果をll■ め られ
ました.伊 藤前 ガバ ナーの功績は,わ が國 の ロー タ リー
の歴史の上に永 く輝 や くことと存 じます。
さて,私 は,徴 力非才 で, とて も伊藤前 ガバ ナーに ど
の成果 を上げることは覺東 ない と思 い ますが,全 力 を傾
けて ロー タリーの精前 に徹す るよう努力す る積 りでお り
ますか ら,何 卒,皆 様 の御協力 と御指導 を賜わ ります よ
う,お 願 い申上げる次第 であ ります。 (以 上No.1よ り
)
1957-8年 度の 目標
2) Extend
員
潔
い .″
黒川前ガバナ "の 新任務
廣島 の黒川巖前 ガバ ナーは,RI本 部 か ら Rotary
lnformation Counse10rに 任命 され ました.同 君 は 8月
5日 -7日 の 3日 間 マニ ラに出張 して,本 年度 の各地匠
の Insthuteの 準備 に営 り,婦 園後 は各地匠 の One Day
lnsdtuteの 指導 の役 を果す ことになつてい ます.One
Day lnsdtuteに っいては,追 つて,ガ バ ナー レターで
お しらせ致 します
小松 。伊藤前 ガバナ “の新任務
パ ス トガバ ナーイヽ
松隆君 は, InternaJonal Service
Consultantに ,伊 藤文吉前 ガバ ナーは VOCa● OnJ Ser_
.
宙ce Consuitantに ,そ れ ぞれ RI本 部 か ら任命 され ま
した
.
チ ャ“ ター 。ナイ ト
)
(横 張 )
4)Serve (奉
仕)
この四つの 目標 の内容 については,雑 誌 ″Rotarね n″
″
及び 〃ロー タ リーの友 7月 琥 に詳細な説明 が掲載 され
べ
ていますか ら,す ての ロー タ リア ンーー とくに役員 の
方―― は,必 ず これ を熟讀 して下 さい
R]書 長チ ャ"ル ズ Gテ ンネン ト氏の手紙
.
RI會 長チャール ズGテ
ンネ ントさんか ら,要 旨次 の
ので
の
が
,お 博 え致 します
通 り 手紙 参 りました
″レーク.プ ラシ ッ ドにおいて, 日本 の大會に最 も適営
で,か つ 日本 の皆 さんが希望 され る會長代理 を派遣す る
ことをお約束 しました。 この度 ,わ が ジョージ 。ミー ン
ズを日本 の連合地E大 會 に出席 させ ることの了解 がつ き
ましたので,こ の旨 を御通知致 します
.
ミー ンズ氏 の人物 と才能 についてはすでに皆 さん御存
知 の とお りであ ります し,ま た, 日本 の国際 ロー タ リー
復婦 にさい して,彼 が一方 な らぬ努力 を したことも周知
の通 りであ ります。 この よ うな最 も適切な人物 を私 の代
理 として派遣 で きる ことを私 は心か ら喜ん でい ます 日
本 の連合地匠大會 の成功 に ジョー ジが寄典 して くれ るも
48R C
(日
ぶ りを褒揮 され ,日 出度 くチ ャー ター博達式 が行われ ま
した。西北 RCの 大濱會長 もさぞか し御満足 だつ た こと
と存 じます。
英文 エ ッセイ・ コンテ ス ト
フラ ンク・ スベ イ ン元 RI會 長 の寄付に よる高等學校
生徒 の英文 エ ッセイの コ ンテス トを昨年 と同 じよ うに賓
施致 します.1等 1名 1萬 lEl, 2等 2名 各 5千 1elの 賞金
が出ます。 エ ッセイ應募者 は高等学校生徒 にお1限 致 しま
すが,そ の他 の手績 きは各 RCに 一任 され ます 各 RC
にお いて御詮衡 の上, 1通 だけを 8月 17日 までに,営 方
へ御途 り願 い ます.題 目は一一‐
What can l do for World PeaceP
"の 文献
ロー タ リーに開す る文献は,非 常 に数多 くあ りますか
口"夕 "り
ら,で きるだけ利用 して下 さい.お 問合せ 及 びお 申込は
下記 へ願 い ます。
7月 中は,東 京都 中央匠京橋
1-4
柏原孫 左衛門
8月 以降は, 東京都 中央匠銀座 l-5(大 日本国書ビル内
ロー タ リーの友編集事務所,文 献係宛
)
の と信 じてい ます。
(第 355回
)東 京西北 RCチ
ャー ター 。ナ イ トが早
稲田大學 の講堂 で盛大 に催 され ま した 前 ガパ ナー伊藤
文吉君 は任期最後 の 日まで, ロー タリア ンとしての活動
6月 30日
3) Explore (ッ 果究 )
ロ ー タ リー の 友 -8月 敗
崎
日本 の ロー タ リア ン諸氏 に どうか宜 しくお 侍 え 下 さ
ご
1)Enlist (動
)
1946名
6月
末 現 在)
(elr)
43
第
360E
(昭 和32年
7月 1∼ 15日
)
第 360Eガ パ ナー
(No. l-2)
ス イスのル ツ ェル ンで開かれた RIコ ンペ ンシ ョンに
於 てガバ ナー・ エ レク トとして紹介 された私は, この度
地匠再編成 による第360匡 のガバ ナーに選任 され ました。
御承知 の通 り戦後 日本 に於 る ロー タ リーの嚢展は洵 に目
覺 しい ものであつ て,1953年 には第60Eが 第60Eと 第62
匠 の 2地 厘 に増大,1955年 には この 2地 匠が更 に 4地 E
また本年 7月 か らは 5地 匠 に増大 され,ガ バ ナーの数 も
5人 とい う頼 もしい躍進振 りを示 してい ます。 また営第
360E内 には現在43ク ラブあ るとい う盛況で,洵 に 心 張
い限 りであ ります。私の義務 として本年度内 に必ず一度
は直接皆様 におlllに かか りに参上 , ロー タ リーの筒一層
の数展 のために皆様 と共 に努力致 したい と存 じます.何
卒宜敷 く御協 力を御願致 します。
戸日前ガバナ ーに感謝
盛
秀
田
季
“四つのテス ト"の 新計画
“四つの テス ト"に 開 して最近米国 の或 る ロー タ リーク
ラブで行われた試みがリド
常 に効果があつ たので,ハ ーバ
ー ト・ テーラー君は 日本 の ロー タ リークラブを選ん で此
の試みを賞施す る計蓋 をたててお ります 今月中旬 には
同君か ら日本 のクラプを選定指名 して,そ の賞施方法等
を申 し途 つて来 る筈 ですか ら,選 に営 つ たクラブは全面
的に之に御協力 して頂 き度 い と存 じます。
1日 研究書
営地匠 の 1日 研究會は黒川 カウンセ ラーを迎 えて開 く
ことになるので, 日下同君 の御都合 を照會中ですか ら
,
決定次第御通知致 します。伺 1日 研究會は成可 く早い機
會 に開 き度 い と考 えてお ります。
口"タ リー財□ より名古屋 クラブヘ 表彰状
ロータ リー財回 に封す る,名 古屋 ロー タ リークラブの
前第62匠 ガバ ナー戸田直温君が ロー タ リーに誰 された
業績 は我 々の既に充分認識 し且 つ深 く感謝 してい るとこ
ろであ りますが,RI本 部 に於 て も同君 の業績手腕 を極
めて高 く apprecね te してい る ことは我 々の大 いに誇 り
とす るところであ ります。今後 とも一 層御 自愛 の上我 々
に御教導 を賜 るよう御願 して感謝 の言葉 と致 します。
COnt」 budOnは 今回會員 1人 営 り20ド ル に達 したので
6月 27日 附 で200%Rotary Founda」 on Clubと して
RI本 部か ら名古屋 クラブに表彰状が贈 られ ました。
クラブ承認博達式
名古屋南 クラプの承認博達式 は去 る 6月 28日 午前11時
よ り名古屋市公會堂 に於 て 300餘 名の参會者 の もとに盛
小林雅 ―君 R口 理事に選任
5月 23日 スイスのル ツェル ンの大會に於 て小林雅一君
大 に奉行 され ました。名古屋市第 3番 目の クラブとして
同 クラプの興隆 をお所 り致 します
は RI理 事 の 1人 に選 出 され ました.同 君 は手 島前理事
豊橋北 クラプの承認博達式 は 6月 30日 午後 0時 牟 より
聖橋市時習餡高等學校講堂で盛大 に行われ ました.皆 様
の後を維 いで, 日本 人 として戦後 2人 日の RI理 事 にな
られたのであつて,同 君 の組歴 手腕か ら見て営然 の こと
とは云いなが ら,我 々 日本 の ロー タ リア ン として これ程
.
と共 に豊橋第 2番 目の同 クラブの前途 を祀而 したい と存
じます。
嬉 しく且 つ心張 い ことはあ りません.虎 を得 た同君 の御
活躍 を期待す ると共に御健康をl fり たい と存 じます。
全 日本 ロータ リ"ク ラブ書員名簿
全 日本 ロー タ リー クラブ會員名簿作成 には毎年大阪 の
口"タ リ"財 □奨學資金
ロー タ リー財圏奨學資金事業は RIの 重要 な事業 の一
露 口四郎君 の絶大な御配慮をえてお り,深 く感謝 してお
ります。 ところが名簿 の校正刷 りを各 クラブに途 つて
つ であ り又大 いに効果 の あがつてい るものです か ら,筒
之 を訂正 して返途 して頂 く│と になつてい るのですが
中にはなかなか返途 して呉れない クラブがある との こと
一 層 の御協力を御願 い致 します。本年 は営 360Eか らロ
ー タ リー奨學生 を 1名 出せ ますか ら優秀な人 を御推薦下
さい
ロー タ リー財国奨學資金 は RIフ ィスカル・ エ ー ジ ェ
ン ト小林雅 一君宛御途金下 さい。 (以 _LNo lよ り
.
)
(第 360匠
44
(er2)
,
,
です。斯様な クラブがある と切角の名簿 の完成 も遅れる
ことにな ります ので,此 の種 の虎理は一刻 も早 く済 ます
ように御願 い致 します.特 に同君 か ら申入れがあ りまし
たか ら念 の ため ……。
43 R C 1629名
(以 上No
2よ り)
6月 末現在)
THE ROTARY―
NO・ TOMO
365E
第
(昭 和32年
7月 1日
)
第365匠 ガバナー 直
(No l及 び追報)
本 日か ら第 365Eと な りました。営地匠 のガバ ナー と
しての重責を汚す こととな りますが, もとよ り自分がそ
の任 にあ らざることを十分 自覺 して居 ります。ハーパー
ト・ テイラー氏 が會長代理 として出席 された昨秋 の匠年
太
木
―
郎
神戸 オ リエ ンタルホテル
大會第 1日 10月 5日 (土 )午 前 9時 よ り
神戸國際會館 (三 宮騨前 )
大會第 2日 10月 6日 (日 )午 前 9時 よ り
耐戸國際會館
次大會に於 て申述べ ました通 リロー タ リア ンとして四 ッ
のテス トに照 らし之 をお 引受 けする ことは困難 であ りま
園遊會
市内観光
したが既 に今 日では雑念 を捨 てて只管 ロー タ リーの信條
を守 り諸先輩 itび に各位 の御援助 を得 まして これか らの
同 日午後 1時 よ り東遊園地
午後 2時 牛 よ り
白鶴美術館
六甲山等
大 會 観 光 10月 7日 (月 )
Aコ ース (1泊)姫 路∼城崎
Bコ ース (1泊 )六 甲∼有馬∼賓塚
1年 間任務 を忠賞 に果す よ う努力 したい と存 じます.何
卒特別御寛大なお氣持 で更に一段 の御温情 を以 て御協力
下 さるよ うお願 い申上げます
Cコ ース 宇治∼京都附近
大會 ゴル フ競技 10月 4日 (金 )
廣野 ゴル フコース (18ホ ール,メ グル プレー)
バ
ガ ナ "並 にバス トガバナ "打 合書
.
今村前 ガバナーに封する感謝
今村前 ガパ ナーが過去 1年 間第63匠 ガバ ナー としての
御勢力並びに我 々に封する適 切な御指 導は洵 に大なるも
のがあ り,そ の御功績 は ここに列畢す るまで もな く各位
7月 1日 新大阪 ホテルに於 てパ ス トガバ ナー北澤敬二
の よく御存知1の ことと思 い ます.特 にテー ラー氏 を迎 え
ての年次大會 を見事 に主宰 せ られ 流石 のテーラー氏 も舌
郎氏,宮 脇富氏,小 菅金造氏,柳 瀬省吾氏,君 島武男氏
を谷 いた とい う程 の大成功 をお さめ られ ました ことは今
伺記憶 に新なる ところであ り,又 下牛期には御持病に悩
ませ られなが ら更に匠 協議會 を極 めて有意義 に且つ匠内
クラブの次期會長幹事全員出席 とい う新記録 を以 て終 ら
れ ましたことは第63匠 の輝 か しい歴史に更に光輝 を加え
た ものであ ります.我 々は哀心 よ り今村前 ガバ ナーに隼
敬 と感朝│と を捧げる次第 であ ります。
地巨年次大書
第365匡 及び第370匠 連合 の地匠年次大會は前戸 クラブ
をホス トクラブとして前戸市 に於 て10月 5日 (土 )6日
(日
)の 両 日に亘 り国際會館 を會場 として開催 せ られ る
こととな りました。 各 クラブに於 て もオ ンツーコーペ コ
ミテイをつ くつて大基御家族共 々御参會下 さる様 , ロー
石川芳次郎氏 ,伊 藤次郎左衛門氏,小 松隆氏,黒 川巖氏
今村荒男氏,戸 田直温氏 ,伊 藤文吉氏,及 び現 ガバ ナー
佐藤幸三氏 (350匠 ),東 ヶ崎潔氏 (355匠 ),盛 田秀李氏
(360E),田 中文男氏 (370匠 ),直 木太一郎 (365E),の
出席 の もとに打合會 が開催 され ました,同 時 に地匡資金
委員打合會,文 献委員會及び ロー タ リーの友編集審議委
員會 が開 らかれ ましたが,ホ ス トクラブ として これ 等 の
會合 の萬般 のお世話 を賜 りま した大 阪 クラブに深甚 の謝
意 を表 します。
打合せ事項 は大般次 の通 りです。
地匠設定委員 は本年度 は第365匠 及び第370匠 に置 き必
要 に應 じて連合委員會 を開催 して地匠新設又 は改髪 を審
議す る。
ロー タ リーの友 の顧間 は前回打合 せの通 り任期 2年 で
タ リーの味わいはこの年次大會 に於 て最 も集約 されて凌
ある ことを確認す る。
揮せ られ ますので,未 だ年次大會 に一度 も参加せ られ な
かつた會員 の方 々は是非御繰合せ出席 せ られん ことを願
地匠は,よ く連絡 を取 つて重複 や食違 いの ない よ うにす
い ます
る
,
(以 上No.1よ
り)
地E大 會,地 匠協議會及 び 1日 研究會等については各
.
大製 のスケ ージュールは次 の通 りです。
次 の打合會 は,東 京 に於 ける地E大 會 の直前 に開催す
る。
前i夜 懇談會 10月 4日 (金 )午 後 4時 よ り
(第 365巨
ロ ー タ リー の 友 -8月 賊
以上No
く
56R C
2313名
l 追報より
)
6月 末現 在 )
(913) 45
370E
第
昭和32年 7月 1日
く
)
第3Ю 匠ガパナー 田
(No.1)
就任 に営 りて
この 7月 1日 か ら従来 の 国際 ロー タ リー第 64匠 は 第
370匠 と改 め られ,本 日か ら私 がそのガパ ナーに就任致
しま した
私は既 に老令 であ ります し,私 自身 は もはや私一生 の
試練は完 了 した もの と信 じ,自 己の多忙 なる専 Fl業 務に
寸暇な きため,唯 1週 1回 の ロー タリー例會に出席す る
事 を楽 しみ としてお り,岡 山 クラブがチ ヤー ター されて
以末殆 ど快席 した事 がない位 であ りま して,之 を又私 の
生活 の一 つ とし,業 務 を通 しての祗會奉仕 と心得末 つ た
のであ りまして,私 がガバ ナーになる とか又は之 を求 め
中
文
男
す る一層 の理解 を興えられた御功績 に封 しては,軍 に文
字 を以 て之 を表現 し得ない ものであ り,之 に就 ては各會
員諸君 もよく御諒解 の事 と信 じます.蚊 に第 370匠 を代
表 して深甚 の感謝を棒げます。
筒,黒 川 ガバナーは御就任 の際「之 を最後 の御奉公」
と述 べ られて居 りますが,ま だまだお元 氣 であ られ,國
際 ロー タリー として も叉 370匠 として も筒一 唇の御協力
御指導を必要 とす るところであ ります。何卒新 ガバ ナー
たる私に封 して も髪 りな き御援助 をお願いいた します
クラブの活動計菫 と稼算
.
過般 の匠協議會 での御打合せに基 き既 に本年度前 に本
ます。
年度各 クラプの新薔會長 と幹事 ,及 び各委員長 の方 々は
クラブア ッセ ンプ リー を開 いて本年度 の活動計書 と之 に
然 るに昨年 8月 末,黒 川 ガパ ナーか ら突然私 をガバ ナ
ー候補 に摯げ られ ,そ のおす ヽめ を受 け ましたけれ ど
件 う豫算等 を協議 された事 と思 い ますが, まだ其計書 を
立 て られて居ない クラブは至急御協議 を進 め られ る様に
られ る とか云 う様 な事は夢想だに もしなかつ たのであ り
,
私には とて も出末 ない事 と心に定 めて居 りま した。 とこ
ろが此 の ガバ サー候補 に開 しての切 迫 せる事情 を承 り
Ll叉 岡山 クラブ會員諸氏 の張力なる推進 に も押 され,熟
御願 い します.筒 ,各 クラブ活動 には前述 しましたRI
會長 テ ンネ ン ト氏 の方針 を充分 に取容れ られ る様 に御願
い します
らす る暇 も無 く之 を受諾 し,そ の心構 え も不充分なる内
に長崎 の大會 に於て選暴 され まして,初 めて其 の 重大な
lrに 就かなけれ ばな らぬ事 を自覺 した様 な始末 であ りま
連合地日大書
本年度の地匠大會 は第 365匠 と第 370匠 が連合 し,耐
戸 クラプをホス トクラブ として神戸で開かれ る事は前年
度か ら決定 して居 りまして,本 春 2回 にわたつて合同準
,
ケ 果 して其任に堪 え得 るか どうか頗 る不安 を覺 えるの
であ りますけれ ども,裁 に至つては, まだ私 に残 されて
いた天 の試練 である と覺悟 し一心 を ロー タ リーに傾け
,
国際 ロー タ リーの方,卜 を證 し, これか ら 1年 間国際 ロー
タ リー第 370匠 の充責 と凌展 の篤 に壺 す積 りであ ります
何卒各 クラブ會長 ,幹 事 並に會員諸君 の御鞭撻 と御協力
をお願 い致 します
黒川前 ガバ ナーに対す る感謝
備委員會 を開 き (第 1回 は神戸,第 2回 は岡山 にて)大
般 のプ ログラムは出来 て居 りますが,委 細は近 く決定 い
た します.期 日は10月 4日 前夜懇談會,大 會第 1日 10月
5日 (土 )第 2日 10月 6日 (日 )と 決定 して居 ります
営地匠か らも多数御出席 の様御配慮下 さい
.
名讐會員
.
名番會員 は毎年 7月 1日 を以 て 自動的 に資格 が打切 ら
黒川前 ガバ ナーは其就任 のお言葉 の一 節 に「誇 るべ き
ロー タ リーの友愛 と奉仕 との心情 を守 り最後 の御奉公 と
れ ますか ら,引 績 き推薦 せん とす る場合は理事會 に於 て
決議 を要 しますか ら豫 め再確認 の手績が必 要 で あ りま
して喜ん で全力 を蓋す」 と述 べ て居 られ ますが,事 賞
黒川 ガバ ナーは過去 1年 間 ガバ ナー としての任務 を誇 り
す.筒 名春會員 としての資格 は定款 に定 め られて居 る通
り必ず ロー タ リーの理念推進 に著 しく貢献 された成年男
と喜 び と熱情 とを以 て終始一 貫其任務 を途行 され吾 々 を
指導 され ,各 クラブに緊張 と充貧 と,且 ロー タ リーに封
子 である事 を必要 とし,軍 なる名春推薦は避け られ る様
特 に御注意願 い ます
,
(第 370巨
46
(er4)
46R C 1740名
.
6月
末現在)
THE ROTARY‐ NO‐ TOMO
1957年 第 60,62,63,64E6月 出 席 率 表
第 60日 6月 出 席 率 表
7
527。 ” 一9 77“9
3 39“96
5.43
464.
43.53 3 一“5“4
6 546“
3
5
0
4
2
5
3
3
。
5
。
9
4
.
.
.
.
.
.
.
.
.
御7
.
翻8
.
.
.
剛観断枷師囲囲8.
観彫階8
。
4
3
6
9
9
9
9
9
7
7
6
6
8
8
8
8
8
8
7
8
4 4 4 4 4 5 4 4 4 4 4 4 4 4 5 4 4 4 4 5 4 4 4 4 4
。8”3548833346
76 735 298∞3
。4
44 42232522223524
73.222
2
4 8 9 4 5 9 ︲ ︲ 2 0 ︲ 2 8 ︲ 0
2 2 7 3 3 9 3 2 3 5 2 2 2 3 2 2. 2.
束 松見郡 田原 西南野 北 屋
濱 治 阜 橋 古
描濱多 蒲牛 吉 尾岐 上豊名
35
7890 23456789
”6
33
3344.44444444
魚刈金桑小横小名松富美 七高飯不濱諏
田
権 松
津谷澤名松濱原南本山濃尾山田塚東訪
岡時束戸館條宮田森別湊原京前内巻 南戸北田澤立石方
京 都襲 珂 不京 剌 多
長高束水大三宇新青紋那茂東弘稚花 東 八東大湯 日釜喜
03 48 460 18
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石仙高 松束 銚秋 川盛
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岡崎垣波
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静岡大孤
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4 4 3 3 一“ 4 3 ” ∞ 4 2 3 一 一4 5. 3
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師 4.4.4.3.2. . . .0.。.
8.
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25 3 378 83 5 。 05 95∞
3 2 4 5. 2 2 2 ・ 4 2 2
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部 南 知 賀 坊 東 戸 岡 原 門 田南 塚 施 穂 野 山
松 堺 都 和 歌
綾高高 敦御京討豊橿鳴岸海責布赤生和
一
2 8 7 9
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4.2 236.36 3
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4 4. 4 4 4 4 4 4 4
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97.0
93.52
一6 7 0 5 7 9 3 3 5 6
4 ・ ・
・ 2 ・ 2 ・
4
97.6
14
21
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13
濱津島南津島路根良濱山井田鶴官生松本本西
居 都大松 知 阪
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輻扁池舞西武高橋洲大
3︲︲4699“Ю39866006934
34
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97.9
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2 3 8 6 5 2 4 4
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17
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88.10 44
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86.20 31
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42
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92.07
91.89
90.75
9037 22
9019 37
90.65
9569
(sr5) 47
ロ ー タ リー の 友 -8月 戦
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94.4
7
0
100.0
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出 席 率 表
63E6月
第
出席率
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クラブ名
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出 席 率 表
第
62E6月
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タラ ブ 名
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一
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3・
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4︲
・■︲
第
ロ ー タ リー 文 献 のお 知 ら せ
8月 1日 よ り, ガバ ナ ー會議 の決定 に も とづ き,従 来1柏 原洋紙店内で行つ てお りました
ロー タ リー文献の 配布 を,ロ ー タ リ"の 友 で費施す ることにな りました。 よつて今後文献
,
のお 申込はロー タ リーの友編集事務所
段
文献係宛お願 いいたします
(o+20
階 (StepS)
ロー タ リ"の 理想 と友愛 (This Rotarian Age by
PauI P Harris.)普 及版
@¥150
奉仕 こそ我が つ とめ (Service ls My Business)
増補改訂版 1955年 版
@¥150
.
1957年 度版 Rotary Club定 款及 び細則 のみ
(“
― フ・ バ イ ン グ ー 付
@¥10
ロー タ リーの 歩み (Rotary's Onward March N。 .4)
1955年 版
@¥30
@¥50
1954年 版 〇
Rotary― N。 .38)1957年
R.C.N。 .lo)1955年 版
定款及び細則 (Constitution and By‐
No,12)19“ 年版
申込先 は
48
(er6)
@¥50
Laws
@¥60(品 切)
¥10
版
rrr¥30
標準職業分類表 (OuJIne of ciassincadons抜 率_
No.284)1954年 版
ロータ リー ソング
(日
本語)
0¥80
1954年 版 @¥50
口"タ リ"ソ ング (英 語)1954年 版
口 "タ リ"ク ラブ結成指針 (OrganiZing
lF 500
口"タ リ"問 答 (Getting Aquainted Wih
ロー タ リ"ク ラブ幹事 (R.C.Secretary N。 .9)
1957年 版
rrゥ
出席規定 (R.C.Attendance Rules N。 .21)
ロー タ リ"大 要 (Brief Facts About Rotary No.1)
1956年 版
0¥30
Mr.President"綴 リー No.20)
ビニール製 ルー ズ リ
1957-58年 版 @¥350
委員書資料
四つのテ ス ト壁 掛用邦語版
良を市民の特性十箇條壁掛用邦語版
四つのテスト解説
@¥50(品 切
@¥20
@¥20
@¥2
)
会員個人の御用は所属 RCを 通 じて御註文願い ます
東京都中央匡銀座 1の 5〔 大 日本国書 ビル〕 電 京橋 608050
ロー タ リー の友 編 集事務 所 文献係宛
THE ROTARY‐
NO‐ TOMO
ロータリアンの
圭日
著
野
澤
一
紹
郎
(東 京
介
RC會 員)
古 稀 記 念 展 画 集
巴組鍛 Ittlld長 。大千洋画會無鑑査推薦
1展 の作品集
今年 4月 丸善世1廊 で開 かれた古稀記念洋
「
である
ある年令 に達 して,洋 画 か ら日本画iに 軒 じる人は少 く
ないが,野 澤 さんの ように古稀ちか くなつ て,24年 も年
.
庭
昭和32年
2月
・熱海にて
期 を入れた 日本「11か ら,あ らためて洋口1の 111生 に人間
せ られ るとい うことは全 くめず らしい しか も, その 日
本「11た るやF/r調 素人嬰 で な く, ここに掲 げた「 f羊 の悌』
で もわ かるよ うに,全 く専
「 1家 も及 はぬ口1境 の ものであ
る『 どんなIIyJ機 で90度 の急 角度 をllXら れたか」 と日本り
│〔
111'│も 女
時代 の先 41で ある松林││:月 ‖
‖何に も袋念 そ うであ
る
口1も きる ことなが ら, それに lllさ れ ている短 女が また
面白 い それによると,洋「11に lllじ られたり!由 は
l lr2外 lC親 しめる健康保持 の便利 さ
.
2.一 粘一級 ゆるがせにせず 乾 く加
待 らなか ら1調
11で は,御 人だ,1ピ :lrだ ,で
子 をとつ て行 く日本‖
lllJcを
3
困 る場合が 甚だ多 い
制 つてはまたllけ るオ ーバ ーラ ップ もきく
.
な どにあるよ うである
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で
一―『「
『 1を 始 めた私は,い ま 供にな た心算
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で
これが
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として
しむ心 算 ある
ド 道朱 llす る素人
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,
の私 の考 え方 で あるとJ"を きめている 」一
とらわれのない, この淡 々たる心上
たが うらや ましい
.
技術 にい まさらなが ら敬
なお,お わ りに,光 村 の自J‖ り
意 を表す る
.
EOffi
nilrlnlrF.H.trli
編
集
委
員
長
湘
富
良
「
(東 京RC會 員
)
ロー タ リア ンの 著 il:4/J介 に つぃて 。「 友」 ではff琥 ブ ック レビュウを行 つてお り
・ll務 所宛 御寄晴下 さい
ます .御 著 書上梓 の 節 は 「 友」 の
,
ロ ー タ リー の 友 -8月 壇
‖ l141に 御紹 介 します
.
(er7) 49
言
チ
話
たのであろ う_世 に「姫宗和」 とい うのは,宗 和好みの
器物が,皆 優雅 で繊細 な美 を備 えてい るか らとも云 い
飛 扉 に伝 る
,
宗和流 茶道 について
宗和流家元
森
本
榮
樹
流祀金森重近は,金 森長近公 を初 lTHと す る飛ξ
甲國高山
城主 二代可重の長男 に生れたが,慶 長 19年 大阪各の陣 の
戦 に,父 可重が徳川方 に出陣す るに際 し,故 あつて嗣 を
弟重頼に譲 り,自 らは母 を件いて上洛 し,大 徳寺紹印和
向 に参暉 し,弟 1髪 して宗和 と現 した 時 に年齢31歳 か
ねて飛騨 にあつた頃,1円 々 この州 に隠遁中の千利
体 の長男道安について學 び修 めてその奥儀 を究 め
或 は叉,一 城主の嫡男 に生れ乍 ら,故 あつて深 くその地
位 をす てて,自 ら好む道に精御 したほ どの覇氣 も,上 洛‐
の後は,公 卿公達 との交際 に,人 間 の角が とれて,高 lll,
園満 な殿_l二 人気分になつたか らとも云 う。
こ うした人柄 を もつた宗和が作つた茶杓は,今 もなに
,
近術家 の陽 1文 庫 に,茶 好 きの天子様や,珠 光,紹 鵬
利休 の作品 と もlC,保 存 され ている その間 に,盤 元天
│り
,
!担
動作 の一本 がある
これは,曾 つて,近 術家鷹山公以
四
につか
て
え 百歳 まで生 きた とい う茶人寺田
来 代
無碑が,自 らFJr有 愛翫する宗和作の茶杓 を,霊 元
て茶道 を,上 洛後,更 に 自 ら研究 し,柄 杓 の構 え
天皇に献上 申 した ところ,天 皇は,こ れ 逸 品 な
り, と,非 常 にお よろこびに な り,御 物 として御
方,茶 巾の構等に,創 意工夫 を こ らし,一 派 をな
した 後世之れ を,宗 和流 と謂 う 宗和は,鳥 丸光
廣IIlの 寵愛 を うけ,卿 を介 して後陽成天皇,皇 子梶井宮
常修院親王,後 西院天皇 ,霊 元天皇は じめ近術豫柴院
,
鷹司家,坊 城家等に寵愛せ られ,専 ら宮 中の公卯‖
殴上人
に茶道 を博授 した。 茶道に熟達するに従い,宗 和は,茶
器について も,種 々趣向 を凝 らし,い ろいろ逸品 を作製
嘉納 の上,更 に,御 器用な天皇は,親 しく, これ
を摸 して殆ん ど同 じものを御作 りにな り,無 稗 に御下賜
になつた とい う茶173で あるが,そ の箱の蓋裏に無稗は
,
次の ように箱書 き しているのである.自Лち
,
「此食J頭 の茶杓 (茶 杓 の先 きが倉」
先 の様 に尖 つている)
元末金森宗和作 ,無 比類 の奇物 な り。余,連 年之れを携
してい る.F/r謂 「宗和好み」 と橋せ られ る もので ある
京 の陶工仁清 を指導 して茶器を焼かせ ,飛 卿 の春慶塗師
ふ.見 る者 日を驚かす.老 年之れ を献上す,今 新院 (霊
元帝)の 勅物な り.其 竹其様分竃 も違はず模 鳥 さ れ た
を助 ま して新趣向の茶道具 を作 らせ,自 らもいろいろ愛
つた竹 を用 いて,獨 特 の氣品 を備 えた茶杓 を 作 つ て い
り.厚 く之 を寿受 し,裳 金一同惟省 と琥す
れ し 茶杓 もい さや惟育た り
持り‖
.
る.又 茶席 ,庭 園 などに も,そ の造築 に非几 の才能 を見
せ,今 なほ京都 には,宗 和作 る ところの もの数 力所は
大 U」 に保存 されて いる.か くして牛生 を専 ら茶道 と共に
生 きて,明 暦 2年 ,73歳 で入寂 した。 墓所は鞍馬 口天寧
寺 に在 る
,
宗和流茶道の奥儀 は,「 l旨 一本 も無駄 には動か さず」
といい,手 前 中は,剣 を執 つて道場 に立 つが如 く,叉 膊
,
檜 の座碑三味の境地 にあるが如 く,踏 下丹 田 に 心 を 籠
め,些 も心の弛みがあつては な らない とい うのが,そ の
戒 となつている 元末,山 又山の飛騨 に在 つて,利 体 の
長男道安 について茶道 を學 び,よ く修行 し,之 れ を大成
して一派 を成 した後上洛 した関係 もあつて,田 舎の風情
を佗 び茶 に取 り入れ,そ の素朴 な美が,几 帳面 な公卿殿
」1人 に賞讃 され,氣 高 い氣品 を もつて,宮 中にひろまつ
50
(918)
.
御製 とやいわん
宗和 とやいはん」
農 (天 皇)金 (金 森)一 同惟省た り, とは,ま ことに忽
催 ない話 であ る.宗 和 の面 目躍如たる ものが ある。
宗和流は,上 述 の ように, もともと宮中に於 いて用 て
られ,殊 更,近 ler公 家 に於 いてその庇護を うけて末てい
るが,「 茶道系譜」 によると,金 森宗和か ら,泉 州 岸 和
田城主小出吉政の弟大隅守 (奥 方 は宗和 の妹菊子)へ 絶
がれ,大 隅守 か ら金森六代頼時 に博 つている.其 の後は
鷺見宣名,大 成院泰忍,飛 騨 に入 り大雄寺遠春,本 光寺
知了,等 を組 て,近 代に至 り勝久寺住職 白雲居相常坊に
博 つている 相常坊 は,池 の坊 の華道 に も通 じ,又 墨竹
園碁 を能 く し,宗 和流茶道中興 の祀 と謂 うべ く,慶 長 4
年,87歳 で入寂 している.其 高弟坂田小湖あとを絶 ぎ
,
明治24年 その没後は,そ の高弟森本古泉あ とを維 ぎ,清
THE ROTARY_No_ToMo
│
,
頃
、Lを り
tし て,宗 和llt茶 道 の 「う
ヒ│ゴ 占進 した ili力 彰ら
「
「
に、 れt者 森 4く 栄樹 の 前[父 である 翁は 虻に 、 その 奥儀 探
「くか
た )た め, 卍
`・
'ソ
Iし て, り
1治 26イ li,
宗 和流 茶i重 愛 11の 近 」家 にただ さん
東京 へ 1り ,小 供 七t純
l,
1:iザ でり
“1,′ 、
11' ,Fl'41の 中
「
↑lJitに よ り, 規 しく近 術公 にチ
li局
誕
就い の思いつ き
京都RC、 現艤)中
田 典 兵 衛
「
し, 奥口
1本 和秘 │IF
和│の
│ヒ 1象
Iと 出す る茶 :JFを 叫
ヤリ,て ,飛 リツに 件わ る宗
′
「
に,│う つせ みの ILを よそに 見 て松風 の 」
にむ
1,1誕 ′
11祀
いに 新 イ
│:度 か
うこの
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%り 恐計it´ ∫
Lつ けJよ i牧 して い
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ι てその「 ,市「 │1耕 1` 氏宅 に 於 いて鶏ヽ
前すノtは ,11々
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席 を1設 け, その 1l Lに
― ク リー紋
な ハ ンヒ姿 の,背 は 'J員
4(frし たH谷 海
“ 舟は,こ の
を染 め │││し た 人 キ ュー ヒー さん を
llを
見 て,1宗 和茶道 こそは
,
「
■ ことに これ , 一城 υ
)liの (11案 せ る V)の よ │ と」
よ嘆 さノし
て、 日JII三 に「い た づ リ
ッに 咲いて散 る らん山 概 用 は ぢぬ
`に 1■
「 を川戴 して,翁 は, Fね
rれ ど V,Jと の ‐
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東 京 千:│り ri究 ヮ7学 術 部 長
春
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老 人 病 治 療 薬 に就 で
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神::と で披 │ア してお
,
人11,は 101E∼ 30+Eの 1()00分 の 1位 の
小 さい細‖
包によつて成つているが, こ
の利 包はネ呻
合質 と1「 うものによつ て し
きます。
1川
つ か りと結 び合わ さノしてい る これ iキ のポ しに業 itが │││
つ て′
│:き て い るの だが , この坊
tiヽ 1「 ■411[1lTを 博 わ つ
││‖
て、結 r)質 に入 り,そ この水 り の溜 つ た ところ を通 つて
和‖
‖
包に入 る 悧‖包は,titを 採 つ てイく
用 な と康物 を外 に出
す が これ も結合質 の水溜 りか ら結 合
『 1を 通 つ て 毛細竹 に
この結 合質 は漆食 セ メン トの よ うな役嘗1を して い
│││る
う
‐
ノ
つ は外因ヤ│:, 一 つ
、 の1埼 ,(は 1つ にい[分 │1来 る
は内 川ヤ│:の リ
一
ク
(ttで ,後 考を 辿 の と人病 とい う この と
ソ
、病自]ち 卒中,内 臓 器 の 大週 に よる もの 等は結 合質 の機
││」
│ヒ
が 劣つ て 末 て凄病 す る ので ある
て い る もの lt I′ ン ド
1コ
しガ フク トサ ミンの
酸 :ア セチ ツ
を持 ち,後 者は
て コン トロ イチンは 人側 の
は角
イサ作
,1」
この結 合質 をり
形成 し
しク ロ ン
イチ ンイ
流酸 で,こ れ は グノ
,′
:ノ
1つ
に よつ て 成 る
,11の
前者
作 用 をキ
│つ IJし
1胤 l織 2臓 器 3イ 盾;量 系
4沼「疎 │ヽ 1 5n「 組 系 6′ ltrjJみ [的 作 │IJを なす,例 えば
1班
6に 千
」いて は 1[沼 々凝 Pl‖ [│11作 用 と
進 十る
‐
方1疑 集素 の′
lir/4を
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それで このイ 合 質 をf呆 り
■する こ │が 内 月ャ│:の 疾
患 ,-1■ の と人病 の 坊禦 とな るので あ る ItK近 の統 に
│キ
│;卜
日本人のタビ亡率は, 11綺 牛中 (168%lメ li lJ
't11、
、死 亡)2悪 ヤ:新 ′
万ア
li物 (13211)3と 火 (82)4心
よ
(72)5全 糸 核 (62)611L炎 (28)で 糸占1亥 や ‖b炎
に
は 某 よつ て近 く解決 され る ;ti山 しであるが ,そ の 1也 は
臓病
│≒
ロータリ‐
のt 8'1脱
51
決定 y.Jな 葉 が未だ姜見 されな いが,い ずれ も老人病 であ
る。今後 の讐薬界は この老人病封策 にある ともいたる
高血座は前駆的な症状がある それは血管 の中に興物が
形成 されて血液 の運行 が園滑 に行 かな くなるので,血 歴
が高 くな り篤 に血管 の破 れ る ことが出て1箇 出JLと なる
試験 の結果 コン ドロイチ ンを含有す る柴剤 を用 いる とこ
の高 血座 を防止する ことが出末た 又 ス トマイを使 つて
難聴障害 を起 した もの もコ ン ドロイチ ンを併用す ると,
その障害 を極 めて少 くす る ことが出来 たので耳鼻學界 の
問題 になつている。 この外皮膚病 ,そ の他各種 の疾患 に
(孵 岡RC例 會ネ話)
も特効 である_
ク ラ ン鉱 あ れ これ
岡山大學教授 大 江 二 良
「
ウラン, ウラニ ューム とい う元素は,か つてはま こと
にみ じめな位置にあつ た。 これが襲見 されたのは1789年
ボヘ ミヤー現在 のチェ ッコの鎖山 か ら出 る員 ッ黒
な きたない鎮物 ビッチ ブ レン トか ら分 AIIし た結鼎1
か ら1842年 ベ リゴーが金属 ウランを分離 した。 し
アング ロサ クノン系 の ところに多 い。
日本では明治37年 ごろ岐阜縣 で稜見 され ているが,加
■の封象 にな らぬ ものが 日本ではまだ大部分 である そ
れが日
召和29年 か ら30年 lCか けて倉敷の南の三吉飯山で新
らしい型 の ものが機見 された この種 の もの は ア メ リ
力, フランス,イ タ リアにある程度 もつているが, これ
に引 つづ き鳥取縣,岡 山縣 にまたがつて同型の ものが績
々凌見 された
三朝温泉 に行 く街道でつかまたた ものが現在の人形峠
の ウラン鑽 で ある これは三吉 の もの と形が ちがつて水
成岩的の もので,中 國山脈の高原地帯 に幾 つかの淡水湖
があ り,そ の湖水 の まわ りか ら流れ こんだ土砂が水成岩
.謝 峨石
と
ゆみこ
んでいるのである
れにし
なつてそ
は少 し黄色味 を帯びた雲母の ように光 つた ものが付 いて
ぃる.ウ ラ ンの とけた水が銅や砒素を もつて,附 近 に入
つて反應 を起 して新鎖物がで き,沈 澱 した とい う第 2次
鍍物 で, これが岩石 の割 日にある
人形峠は縣境か ら100kmほ ど鳥取縣 lC入 つた と
ころで見 つけたので,鳥 取縣 の人形峠だ といつて
いるが,そ の後調査 した結果 どん どん憤がつて昨
に使 うのかわか らなかつた もので,新 元素 ウラン
となつてか ら約 100年 たつて マダムキ ユー リーが極 めて
年暮 ごろには数 10万 トンといつていたが最近 には
トンといつている ここは鳥取縣か ら手が
つけ られたF/rだ が,事 責 は岡山側 に大 きな も の が あ つ
少量の1000万 分 の 1く らいの フジュームを分離 して以来
ラジューム原鍍 として扱 われて いた.い ちばんわれわれ
て,私 の方か らいわせ ると,最 初 の原子燃料は岡山縣 か
ら供給で きる といつて よいと思 う (岡 山RC制 御卓話
か しこの ウラン原石は60年 間は掘出 されたまま何
200万
)
にポ ピュー ラーな使 い方 としては陶磁器 に黄色 い釉業 を
かける際入れ る酸化物,石 友 の液化 の鯛媒 に使 つた。 ま
たある種 の合金 ウランスチ ール その他に一部 に使つてい
た。 これが戦時 中原子爆弾 に使用 い らい急激 に大 きく浮
び上 つて きた もので ある
地殻 中にある各種元素 の量を調べ たなかに,ウ ランは
目位
だ いた い 100万 分 の 4く らい平均 してあつて,そ のЛ
は 92の 元素中 53番 目に多 い とされて いる.具 般的には
ヵ
ナ
リ
ヤ
三
善
司
ナ リヤの種類 1,オ レンジ 。ローラ・カナ リヤ
ツ ド・ ロー ラ・ カナ リヤ 3,411カ ナ リヤ 4鳴 カナ
2,レ
5,巻 毛 カナ リヤ 6,赤 巻毛 カナ リヤ 以上 の う
ち,輸 出向けは,オ レンジ 。ローラ・ カナ リヤ とレツ ド
リヤ
・ ロー ラ・ カナ リヤ
が何かの理由で集 中 して くれない と鑽床 として債値 がな
か ら10羽 位 の ヒナが出末れば上等
ウラ ン鑽物は現在 1∞ 以上 の種類 があ り,そ の うち賞
際探掘 され て燃料 ウランの原鑽 として使われ る ものは 2
上
話
A,カ
金 ,銀 ,白 金 に比する とはるかに多 いので 1ト ンの原鎮
か ら4グ ラム取れ るわけで ある.鉛 の 6分 の 1,亜 鉛,
錫 の10分 の 1と い うかな り多量 にある元素 で ある.こ れ
い.生 産上引合 わな いのだ.
の
B,繁
殖
3月 か ら7月 は じめまで某引が出来, 1%
生業 としてる人で20
夕位.ヒ ナは生れてか ら 3カ 月位で″換 えす る.4カ 月
か ら 5カ 月で ウブ毛 が とれ美 しい毛 が生 え揃 う その頃
になれば全国各地 のクラブで品評會 が行われ,そ の年生
れた鳥 だけを出品す る.審 査は鳴 を審査 しな いで色,品
種 類で,そ の他 の ものはいずれ も二義的な もの とされて
い る.資 源分布はた くさんあるが, どこかに集 中 して い
て,現 在世界的 にた くさんあるのはア フ リ功 ,コ ンゴ ウ,
ベルギ ー,カ ナダな どで,1950年 以後 ア メリカの コロラ
位 ,證 格 の 3馳 を見 る.色 は80馳 ,品 位,證 格各10粘
品評會 には輸出鳥 ではな いが鳴 ロー ラーの品計會や,細
カナ リヤ,巻 毛 カナ リヤの品評 會 もある.鳴 ローラーは
ドσ附近に い ろんな形で大 きい ものが機見 された。大證
昨年秋,ア メリカか ら品計會 に出品 して くれ との依頼が
52
(e2o)
.
THE ROTARY‐
NO‐ TOMO
D,カ
あ り,始 めて 日本 か ら米国 の世界鳴 ロー ラ ー展 に出品 さ
その成績 は首席 ,次 席 ,三 席 とも日本 か ら出品 し
れた
たカリ リヤが 占 めた
鳴 き方 は全 国統 一 した訓練 を して
ナ リヤの1直 段
1月 か ら,オ レンジで
ッ ドは
値段 は今年 の
lZる 730 1al,レ
1%820園 で 輸出 され て い る
これ は何れ も雄 で あ るか らア メ リカて
いる
赤巻毛 カ ナ リヤは普通 の巻毛 に赤 カナ リヤ を交 配 した
はふ え る こ とが な い
ア メ リカで は レ
ヾ
、ので ,そ の数 も少な く,一 部 の人 が研究 して い るだ け
ッ ドを多 く希望 して い るが , レ ッ ドは輸 出値 と生産値 が
な ので 高慣 だ
あわな い ために,主 と して囲 内市場 で種鳥 に 同 つ て い
.
オ レンジは職 前 か らあ つ たが, レツ ドは職時 中 ア メ リ
カで F究 ,]育 され ,27年 秋 に始 めて 敷そ
そ日本 に入 つて末
「
た 28イ ド再度 の喩 人で某引が始 ま り急 速 に獲展 した。現
在 で は世界水 4ヒ を
│,同
る立派 な ものが 多 く出来 てい る
レツ ド種 にはオ レンジ よ リー 部門多 くデ モ フ イックと
3千 同 か ら敗10万 園 で交 換 さ
3千 園 .ま た喩 出
オ レンジは 5百 園 か ら 2∼
る
般 にみ て,赤 いなあ, キ レーだな あ と感 じる鳥 は80粘 以
上 だ。
E,61育
カナ リヤは寒 さに張 い鳥 だ
同料 は
1イ ロ間
またオ レンジ と赤 の 剰佳
lTlブ レ ッ ドとい
に 300回 か ら 500回 位 でrlに 合 う.小 鳥 を い ろ い ろ飼 つ
こノしは赤 で 1)な く,オ レン ジの 黄色 と赤 の
た経験 の あ る人 で一 度 カナ リヤ をlinつ てみ る とやめ られ
い うことにな る
うの イ
,あ る
t/・
され る レ ッ ドは品計 會 の粘 で75粘 以 上 の もの に限 る。一
従 つてイ
「覆輪 ,無 覆輪 ,デ モ フ イ ンクと
い うのが ある
国 内 では レ ッ ドは 2∼
る
れて
交 つ た もの もあ る 喩│││さ れ る レ ッ ドとい うの は主 と し
て この ブ レ ンドで あ る
C,カ
ナ リヤの 除││1 米lltlか らの 年
,
カナ リヤの作1育 は ,也 きが こな い
カナ リヤは
の とき以外 は鳴 や姿 を見 て架 しみ , 3月 か ら繁 111の
'貨
ときは生れ
る ヒナに柴 しみ を覺 え,′ に長 す る過 程 を集 し
`る
に30万 ′
11(主
と して ドイ ツ)に 20
4,欧 り
み 秋 は品詔19の 成紀iを 架 じむ その上喩 出 1)│11末 れ ば
iふ える ワ ケで 1年 中 希望 が持 て る力 十 リ
さ らに槃 しみ う
万イ
Z注 文 して い るが ,「 J本 では 1年 に
ヤ は何 10年 末 の 籠 の鳥 で あ り,
10万 か ら15万 そ
4よ り喩 出 して い な い
で,籠 の 中 に F]わ れ て ヽ不 膚i由 とは感 じてな い そのFll愛
)反 す る こ とlCは な らな い (lmR Cla睛 11話
鳥 の*li耐 に ヾ
出 1:要 吸は50万
少 いのではな く
な くな る
繁
Jを
とされ て い る
日本
扱 つて くれ る機開がな い ためだ
11き て 行 けな いの
1人 で ′
)
粛―買多フ 6人 乗発売
軽快 ・経 済・ 而1久 。そ して
1央
7■
lな
、
乗′
地 は国情 に最 も
し
マ ンチ した
国産車 で、
'L全
社用 に 、 自家 用 に、御好評
を博 して居 ります 。
気軽 に 買 え る 月賦 販 売
嘩
髪塾Ⅲ
―
ォ _ス チ ン
A50
テ ラ ンク ス
ォ_ス 手 ン・ カ タログ請求 の場合は本誌 名 を記入 して下 さい
東京 日産 自動車販賣株式書杜 赫 卿 池8電話綱 骸 ■■ 田
“
ロー′リーの友-8月 琥
(s2l
)
53
柳
橋
の 柳 光 亭
︵
率ネ北︶ 山 田
の 鯉 職
檜 日 傘 を 廻 し つ ヽ ゆ く 一人 あ り
︵
浦 和︶ 古 橋
蠅 帳 に置 手 紙 せ る 女 か な
書 須賀︶ 栗 原
土 偶
桂 花
狭 山
女
賓 子 山 松 葉
うすも の ヽ墨 綸 の 如 く す が /ヽ し
墳 3
︵
佐 藤 盆
汗 瑠 璃 が 好 き 夕 顔 の頃 が 好 き
案 色
朔 日は城璃戸を ふ く 日 ほ と ヽ ざ す
端 居 し て庭 師 を 仰 ぎ 話 し お る
3 阪︶ 上 野 砂 一
a 阪︶ 黒 部 草 波
塔 頭 の長 き 築 土 や 薬 種 梅 雨
一 本
︵
名古屋︶ 松 浦
の 山 櫻
竹 生
︵
名古屋︶ 一
長 尾 文 白
楽殻人 に障 子 明 り の厨 か な
に 唯
軒 近 き 一樹 を 伐 り し 梅 雨 明 り
絶 壁
の 道
中
桐 雨
︲
京 都︶ 一
︵
︲
二 口
︲ 草 秋
内
客 去 り て暮 る 、 に 間 あ り 籐 椅 子 に
︵
高 知︶ 竹
の 園
篠 山︶ 山
濱 砂 の つき た る 鰹 さ げ て く る
樟 毛 贔 槻 毛 品
稼 山︶ 長 谷 川 策 三
吉
緒
方 氷 果
川
田 同 羊
静ま り し 心 に バ ラ の か ほ り 末 る
篠 U
酒 井 質
訪 へば 鯉 職 立 ち 良 き 子 な り
3 U
霙 8
家 の 人 末 て 案 内 や菖 蒲 園
佐 渡
流 人 にも かく か ヽ り た る 藤 な ら ん
若 布 刈 女 に佐 渡 の荒 磯 凪 渡 り
足 だけ が のる礁 にも若 布 刈 る
北佐 渡 の 四 五 戸 の 村 や 若 布 干 す
天 の 橋 立
森
王
信 坤 者
橋 立 に さ し か ヽる よ り 濱 婉 豆
実 し
重ね 持 つ 園 易 を は た き つ ヽ配 り
2直 ︶ 小 松 原 芳 静
藤 棚 の桂 に も た れ 藤 仰 ぐ
御 田 の中 植 女 行 き 交 ふ畦 一つ
田 中 耳
會議 す る 吾 が 夏 服 の け が れ な く
実 駆
見 途 り の牧 師 夫 妻 や ば ら の問
2 古屋︶ 岩 田 一
九 子
浴衣縫 ひあげ て 夕 飩 に 間 あ り け り
役 じ
津 島
衣 更 へ髪 の 形 を そ と か へ て
政 子
見 静
子
清 水 一羊 女
く る は し き 五 月 の 朝 の雲 の色
︵
坂 U
白 峰 や定 家 かづ ら の ま と ふ 塔
逸
古 里 へ田 植 に か へ る 織 子 か な
目 む
変 秋 を 見 下 す 縁 や 一夜 庵
︵
高 松︶ 佐 々 木 令 山
戸 田 河 畔 子
萩 若 葉 吹 か る ヽ 風 の 一夜 庵
︵
幅 巴
小 夜 姫 の小 さ き 祠 の 夏 前
湯 女 の呼 ぶ 闇 に 應 え て 螢 舟
阿 部 小 壺
茶 殻 火 の全 き 闇 と な り に け り
需 0
藪深 く 葺 き 替 り し と 見 ゆ る 屋 根
山 内 の 二番 茶 を 摘 む 人 手 な く
青 柳 や博多 にあ り し武 家 屋 敷
田 紫 汀
村 尾 し ん子
変刈 ら れ 楽 殻 焼 か れ し 野 は 平 ら
︵
李 g
奥
雨降りて水 玉 ま ろ ぶ蓮 浮 葉
鵞 3
書 顔 に 一雨 あ り し 砂 丘 行 く
今 燒 け し楽 の 盃 花 に 酌 む
因幡 に も 春 め く 一日 あ り 初 め し
NO‐ TOMO
THE ROTARY―
en)
谷
54
/1ヽ
高 濱 虚 子
︵
八 戸︶ 大 沼
虻 も が き 残 る 力 に破 璃 戸 遺 う
穴 戸︶ 大 沼 波 奈 女
寛水 落ぢ る と こ ろ に ト マト 冷 ゆ
代掻 いて し ず ま る 水 に水 馬
田掻 き や め 火 事 は 近 し と 皆 走 る
哺
曾 多方︶ 佐 藤 一
山 本
・
水 野 清
風
岳 南
河 野 三 千 雄
里入 り の つ も る は な し に 綜 と く
枚 型
︵
待 望 の鯨 の 群 末 は 五 年 ぶ り
と し こど の鈴 蘭 の花 途 ら ば や
静 のあ と の 淋 し く 炭 を つ ぐ
♀ さ
潮 騒 の 間 こ ゅ る 花 の 丘 にイ つ
旅 戻 り崩 る 牡 丹 に イ め り
需 3
買物 を抱 ヘバ ス待 つ町 薄 Z
架殻 人 のあ る時赤 き薄 暮 かな
燈 豪 の廻 り く る 灯 に夜 涼 か な
ス缶︶山 田 ま も る
鐵 線 の花 の 散 る 時 逐 に 末 じ
帯 止 め の翡 翠 さ み ど り 夏 羽 織
一
花 谷¨
岬 井︻
︵
名古屋南︶ 塾
鮨 の桶 洗 ひ 干 し あ り 藤 の 宿
紺のれ ん老 舗 静 か に五 月 雨 る 、
久 蝸 牛
︵
´
昌 ‘
大 阪︶
藤 本 如 竹
松 そ ゝる 覺 回 峰 の 雲 の 峯
︵
大 じ
朝 食 の卓 のす ゞ ら ん 山 ホ テ ル
小提灯 いく つも 吊 し 藤 の花
藤 の雨 止 み し ば か り の 棧 敷 借 る
袖 垂 ら し 巫 女 欄 に 藤 白 し
生 駒 城 山
あ れ こ れ と登 山 の用 意 明 易 き
至 賀
︵
大阪北︶ と
川 成 洋
原 木 の山 な す 工 場 五 月 富 士
実 津︶ 早
春 惜 し む 心 とな り ぬ宇 治 の水
黄 乗 や 女 車 掌 の 茶 摘 唄
清 水 海
も 合 ひ 傘 し て春 雨 の宇 治 の橋
頼 じ
普茶料理 食 べ 黄 果 の春 惜 む
牛を借 る た め の変 刈 手 博 に
変 刈 に蘭 刈 る 渡 り 人 夫 か な
変刈 つて島 は甘 藷 挿 す ば か り な り
讐 者 通 ひ し て 変 刈 も に ど ノヽ に
夕
環︶ 田 川 は ち ろ
比 良 の嶺 の 楊 梅 の 瀧 五 月 晴
杜 桂
実 阪︶ 中 野 静 山
瓢 亭 の鯉 に し づ け き 端 居 か な
︵
大 し
木 屋 町 の定 宿 古 き 簾 垂 れ
棧 敷 皆 あ い て ゐ る な り 藤 の雨
九 桃 村
︵
七 尾︶ 松 一
水 車 小 屋 閉 め て諦 り ぬ 蕗 の雨
杉 本 品 風
鴨 が っき 苗 代 寒 の 日 が つ ゞき
需 じ
穂 積 静 荘
緑 濃 き 宇 治 の 山 川 ほ と 、ぎ す
盆 じ
汀
ロ
ロ 南
隅 野 泉
掻 い て居 る 代 田 に低 く ぬ れ 燕
8 B
お 田植 女 耐 家 の式 菫 借 り書 前
零 治︶ 宇 野
宇 野 つや 女
前 栽 に蛙 鳴 く な り 夕 し ゞ ま
︵
今 じ
ゆくりなく茶摘 さな かの宇 治 に 末 し
﹂
円 耕
不 土
︵
神戸東︶ 委い
田 餘 瓶
李 松 葱 籠
榮螺 焼 く 今 も 馬 車 あ る 二 見 か な
貧 J
中
鮎 宿 の 篇 行 燈 の 字 は ﹁つ た や﹂
飛 J
お書像 に紙魚 一 卜 つ な し 八 つ橋 忌
(e23) 55
コ ー タ リー の 友 -8月 駐
[選 ,ョ
RCか
新 参 の
ら
大阪東 RC
山
―
中
郎
○最早御承知 の ことと思 い ますが,今 度 ,「 大阪東」RC
結婚披露會場にやつ と決 りま したが,仲 々,魅 力のある
が誕 生 いた しま した
例會場だ と些か自慢 し度 くな ります。明朗 な、 そ して楽
しい例會 を開 くには,何 として も,雰 園氣 ですが之は
.
そこで,新 入 りの RCか ら,「 ロー タ リー の 友」誌 を
通 じて、全國 の先輩 ロー タ リア ン各位へ,一 寸御挨拶 を
中 Lげ 度 い と存 じます
.
O現 在,大 阪市には,匠 が22あ りま して,姜 間 の人 口は
280萬 ,夜 間 の人 口は250萬 といわれてい ま す が,「 大阪
東」 RC結 成 に壼 つて,ス ボ ンサー・ クラブか ら,氣 前
,
満鮎に近 いのでは ないて しようか
.
〇丁度,夏 にかかる頃 の交渉 で したか ら,結 婚式は季節
外れて,そ れに,丹 念 に暦 を繰 つて見 ると,大 證今年中
は,本 曜 日には大安 の 日が,殆 ん どない とい うのが幸 し
ま した。
よ く, 6E(大 阪 の東部地E)を 頂戴 しました。 よ く調
べ て見 ます と,そ の 6厘 の人 口が,何 と95萬 もあ り,地
それで も秋 ともなれば 2組 や 3組 の式は,大 安 ならず
ともある筈で,大 いに若返 りの機 會には忠まれ る筈です
域 も恐 ろ しく廣大な耐會 である ことを獲見 して,先 づ間
誤 ついて しまいま した。
か ら,是 非 メーク・ ア ップに御立寄 り下 さい
○凌足早 々, 2人 の仲間が,ア メ リカに渡 つて行 かれ ま
したが,私 共 の代表 として,員 の国際親善 の機 會を得 ら
れ ることは,大 へん嬉 しい ことです.何 せ20名 のP員 で
′
すか ら,暫 くは,出 席競 に最上位 を占めることは,一
「
寸望み薄 ですが,留 守 の一同大 いに頑張 つて,平 均粘は
確保 しよ うと,Hlllま し合 つています
特別代表,室 賀國威氏 の御指導 で,去 る 6月 6日 に、
倉J立 線會 を開 い たのですが,チ ャー ター・ メ ンパ ーは
最 少限 の20名 で,獲 足 した次第 です
,
.
「小 さく生ん で,大 き く育 て るのが、母親 の理想」 と
特 別代表は,意 氣込 んで下 さつていますが、之か らのエ
キ ステ ンシ ョンも一仕事 です
,
.
○例會 日は,木 曜 日,例 會場は,松 阪屋 の長生殴 とい う
.
.
○ さあ之か ら「奉仕 の理想」 と取組みます。 どうか皆様
御鞭達下 さい。
継 目 無 鋼 管
各 種 ボ イ ラ ー 用 鋼 管 。高温 高圧 用 鋼 管
化 学 及石 油ェ 業用 鋼 管 。各種 合 金鋼 鋼 管
自 動 車 及 構 造 用 鋼ヽ
管 ・ ガ ス管 。水 道 管
取締 役 社 長
eu)
田
勇
本
社
東 京 都 板 橋 区 舟 渡 三 ノニ 八 四 八
工
場
電話
丸 ビル事 務所
56
安
赤
治
羽 (90)3171(代 表 )
東京都千 代 田区丸 ノ内 (丸 ビルニ 階 )
電話 和 田倉 (20)1441(代 表 )
THE ROTARY‐ NO_TOヽ 10
札 幌 南 チ ヤー タ ープ レゼ ンテ ー シ ヨ ン
札幌 南 RC
6月 7日 (金 )こ の 日は
晴 れ,新 緑 の若葉青葉 岬風
薫 り恵 まれた好 き 1日 であ
つ た.我 等札幌南 ロー タリ
静
夫
い
お
く
今後共宜敷
願 致 しま
と
す ,何 か感激 あ らたな も
のが あつ た
.
これに封 し末賓札幌市長
よ り,今 後共一層 の御襄展
ークラブ會員 の心 も何 とな
くすがすが しく,張 り切 つ
をお所 りす るとのl m辞 ,パ
ス トガバ ナ ー小松隆氏 よ り
ている.會 場 グラン ドホテ
ル正面は,チ ャー ターナ イ
異例 のス ピー ドで承認 され
た事 に対す るお褒 の言葉 あ
トの文字が鮮かに張 り出 さ
れている。 今 日はま ぎれ も
な く待望チ ャー ターナイ ト
の 日なのだ 夢 ではない
湊
り,チ ャーター ナ イ トの
伊藤 ガパ ナーよ リチ ャーターlei逹 の光景
午前 9時 40分 階上 ホール前 にはすでに,登 録 委員待機
の姿勢 で胸 を膨 らしている 11前 10時 登録は始 め られた
意義 について「世界 を結ぶ
100カ 國 ,10.000の クラブ
455,000人 の 1人 として, 1つ の 目的にむかい手に手 つ
末賓並びに東京 を初め企國か らお いで ドさつ た参加者 の
敷 220餘 名 の大賑 い (33ク ラブ213名 , 道内154名 , 道
ないで特樅 と責任 とを持 つ もの となつたのであ ります
チ ャー ターナ イ トが終 つて安心 してはな らない.こ れは
第 一歩 で す 今後 が大 切なのです 」とその重要性 を述 べ
外59名 )午 前11時 愈 々博達式 に入 る_特 別代表伊藤聖次
られた
氏開會 を宣す_一 同起立,會 員九島勝太郎氏 の タク トに
よ り「君 ヶ代」 を齊唱.次 いで ロー タ リー ノング「本仕
次に他 クラブllll物 贈呈,記 念品順呈があつて,最 後 に
ロータ リー ノング「我等 の/1_業 」 を盤高 らかに うた う
の理想」 を唱 い静かに着席す る 特ガ」
代表伊藤翌次氏 よ
り獣迎 の挨拶,次 いでガバ ナー,末 賓,末 訪 ロー タリー
古谷商lE會 議所而會頭 の音頭 に よ り萬歳 を三唱 し,特 別
代表伊藤豊次氏 の閉會の辞 を もつて,本 大 會 はなどやか
ア ンの紹介あつて,チ ャー ター博達 に移 る 札1院 南 ロー
タリー會長富樫長吉氏静かに伊藤 ガバナーの前 に進み、
にJ_つ 戯粛に終了 した。
.
.
ロータ リー奨學金贈呈,第 60匠 ガバ ナー伊藤文吉氏 よ
チ ャー ター博達式 を終 リホ ッ トー息 ,正 午明 るい氣持
で市内棚光 に出かける 先ず雪印乳業 KKの 工場 を一巡
し次に月寒種羊場 に向 う,最 後 に北大附島植物園 を同 り
午後 4時 再 び グラン ドホテル に戻 る
り喜びのお言葉 あ り,更 に「同 じ信念 を持 つて進 む ロー
タリークラブが,色 々誤解 され て もおつたので一寸説明
チ ャー ター博達式は終 つ た 祀而 とつつ み きれ ぬ喜び
に満 ち,そ れぞれ徴笑 をたたえてい る 定刻午後 6時
いたします.」 と前置 され,毎 週 の出席 の弧要 によ り自己
練成をす る, これが先輩 の考えであつた と述 べ られ,最
披露宴 は石上會員司會 の もとロー タ リーソングR・ 0・
T。 11口 │,宮 樫會長 の挨拶 ,バ ナーの贈呈あ り,績 いて
後 に「ただ心か ら感謝 を棒 げ記念すべ きこの 1日 を,I●
なる過去 の事賞 としてで な く,特 末への大 きな教訓 とし
藝能 人の餘興に拍 手大1場 釆,和 氣あいあい として来 しく
過 し, ロー タ リー ソング `手に手 つ ないで、 を盤高 らか
て生 き行 く事 を所 ります.」 と結 ばれた 次 いで會長富樫
長吉氏 よ リロー タリークラブの誕生 日の感激 ,線 會を開
いてか ら8日 日に承認 されたのは,ア メ リカに もその例
閉會 の辞 を もつて午後 7時 チ ャーターナ イ ト披露宴 は継
つた
チ ャー ターは侍達 された 拍手 の嵐 は場内にあふれ る.
感激 の一 瞬 で あ る。
,
.
,
に,小 緯 會長藤原 九郎氏 に よる萬才三唱 ,古 谷冨」
會長 の
.
が珍 らしい と一寸 自慢 を述 べ,そ れ も札幌 クラブの伊藤
型次氏 と,パ ス トカバ ナー小松隆氏 の名 コンビの大 なる
御淮力によると心 か らのお程 を述べ られた.次 いでスポ
ンサークラブ札llBR C會 長員崎健夫氏 の挨拶,新 クラブ
札幌南 RC會 員家族 の紹介があ り,會 員,家 族起立 し
,
ロー タ リ ー の 友 -8月 峡
(e5)
57
カ リフオ ル ニア 州サ ラ トガ RC
│『
四つのテス トの 作 文募 集
ウエ ス トウ ァー ジニ ア州 ブ リ ソ
」クラブは クラブの滑 革を韻文
カプレッ ト (封 句)《 ′
ジポー トRCの 會員26名 はイ
ザ年 7
8, 9旱 年 の 生徒達 の 篤 に四 つの
で著 した
4行 連句 の詩 に して タイプで打 つ
テ ス トの エ ッセイ コ ンテ ス トを行
の プリン トは クラブの出来
た 21′ 〔
Jfを 年代順 に歌つた ものである
つてい るが,イ F々 反應 が熱心 lCな
りつ ヽあ る。 作 文審 査 は附近 の 人
それ故 もし諸君 の クラ ブに もrr・ 心
的 な詩 人が い た ら早速 同 じ試 み を させ た らよい と思 う
)な いの
因 に サ ラ ト lJ R Cは まだ1誕 ′
L後 1イ FZド に しか な ′
學 の英文科の先生方 に頼ん でいる
Чつのテス ト
アイオエ州 チ ャールズ市 RCは 額入 りのり
であ る
を公 ウ
1學 校監督 fに l10り , 又地方の會は等 に同 じく小版
の コビーを20枚 贈 つた
,
.
1・
ハ ンガ リー難民救済 と RC
テ キ サ ス 州 の サ ー ビス ク ラブの 交徴
ニ ューヨーク州 オ ネオ ンタRC
マ ウン トブ レザ ン トにあ る ロー
では97人 の 會員 が協力 してハ ンガ
リーの難lt・ であるキ ューラバル テ
タ リー, キワニア ンズ, ライオ ン
ィフ ァイ氏 の家族 5人 を助 けて定
ズの 3サ ー ビスク ラ ブが ク ラフ相
性出来 る様 に した 父 にllt職 業 を
母 と子供達 には家庭 を興 え皆 に多
互 で訪問 し合 う計 1[を 樹 て,
くの新 しv.友 人を興えた
ニ ュー ヨー ク州 サ ウガ ーテ ィーズの ロー タ リアンもハ
ンガ リー難民 の家 族を助 けている.先 づ父に職 業 を興 え
― トメン トを提供 してか ら家庭用!11の 2.要 な
家族にア ′ヽ
1年
間 に クラ ブの 會員 がf也 の二 つの ク
ラ ブ を訪臓lす る11に して い る."│
えば毎週 RCは 地方の ライオ ンズクラブか ら 1名 , キ ワ
ニスクラブか ら 1名 を招 く,他 の クラフ も同様 にするの
である
RCの
の キ ングカレヂに 2名 のハ ンガ リー學生 を通學 させ てい
スポークスマ ンは.「 これによつてクラブ相互間
の連絡親善 が助長 され るが,そ れ よ りももつ と大切なの
は,公 共事業 をする際お この協力 によつて よ りよい成果
る 1有 J占 1の 援助額 は2.000プ ル程 に_Lる と云 う。
が得 られる ことである.」 と云 つてい る
!I」
1々 を夫人 の 夕の例會の際 に 募集 した。
ヴ ァージェアーテ ネシー,の フ リス トル RCで は附近
出 席 率 コ ン テ ス ト
.
テ イ ー ンエ ー ジ ャーの 馬 の職 業 指 導
アーカ ン ノー州 ロー ジ ァーズ R
ペ ンシル バ ニア州 ジ ョンズ タ ウ
Cと ス プ リングデ ール RCが 出席
′
率 の競 を した結 果 9881y.19880
「
の 人接 戦 で ロー ジ ァーズ RCの 勝
者 の助 けで小規模 な商賣 を組誉 し
て賞際的 な経 験 を積 んで い る こ
ンでは, ヴォラ ンチ ャの助言指 導
利 となつ た.そ こで敗れ た ス プ リ
ン グデ ール RCの 會員 及び その 夫
の 計査 は 「 ジ ュニ アアチ ープメ ン
人逹が‖│「 クラフ員 を招 fキ した.ス プ リングデールRC
の スボーク くヽ′ン│」 く, これは多分 ロー ジ ァーズRCの
ノ
、
達 に新設 スプ リン グデール公園及び競技場 を見せた い
地 に損 ま りつ ヽある.元 末 は ジョンズタウ ンの RC會 員
]09名 に よつて開始 された ものでジュニアアチープメン
Eに わ ぎ L敗 けたのであろ うと
58
(926)
ト」 と橋 す る催 しの 1詢 Sで 段 々各
ト會祗 の話による と, この種 の會祗 は全米32州 に於 て30
00以 11あ り, 5萬 人の テ ィー ンエージャーがlplぃ ている
THE ROTARY_NO・ TOヽ IO
ボ ー イ ス カ ウ トと
髄赫痺患者 セ ンターヘ2800弗 の金 を寄附 して,小 兄競痺
の子供達 を病院へ蓮ぶ篤 のステーシ ョンワゴンを 1壼 購
RC
9年 前 に45名 のボーイスカウ トを収容出来 る様 にカ リ
フォルニア・ クローバーデール RCは 集會F/rを 建 てたが
入 した
ケ ンタ ッキー州 マヂ ソンヴ ィル
.
今 日ではその敷が 150名 に も達 したので ロータ リア ンの
援助で新 に もつ と廣 い集會F/rを 建 てることが出来 た
RCは 地方 の歯科診療所 の篤 に毎
年必要 な設備や讐療品 を全部提供
している。 今年 は更に叉別な新計
.
又 キャ ンサス州 ラッセル RCも 1928年 以来多年 ボーイ
スカ ウ トを援 けて,集 會F/rの 経費 を賄 つた り,毎 年 ガー
ル スカウ トや幼少ガールスカウ ト
に援助 を興 えている。
ミシガ ンリ
11パ ッ トル ク リーク地
匠の七 つの RCは 共同 で地方 のボ
ーイ スカウ トの篤 に番人小屋 を建
て ヽあげた。殆ん ど完成 したので
今100エ ーカーの敷地 の番 をする尊任 の 番人が住み込ん
でいる。
ニユ ー ジ ー ラ ン ド
ミル トン RC
この姜展 している町の RCは 祗會奉仕, とりわけ少年
の篤 の奉仕 に於て見るべ きものが
ある.自 口ちRCは 子供達 の篤 に運
差 を附 け加 えた。自Πち看護婦養成
所 の學生 の鳥 に 500弗 3カ 年間 の奨學資金 を 1口 設 けた
のであ る
.
カナダ オ ンタ リオの四 つの RC自 口ち トロン ト, スカ
ーボ ロ, ドン ミル ズ,エ グ リン トンの各 RCが 共同で ト
ロン ト東綜合病院 へ絶額 15_000弗 の小切手 を寄附 した。
色
々
創
意
想像力 を働かせ る事 によつて クラプのプ ログラムが如
何 に生彩 あるもの となる事 であろ うか.例 えばll卜 年 ノー
スカ ロライナ州 のシ ャー ロッ トRCは パ スを借 りてグ リ
ー ンズボ ロRCの 例 會に會員 を途 つ た.最 近又 その返祀
に グ リーンズボ ロRC會 員が シ ャー ロッ トRCの 例會を
,そ の際 グリー ンズボ ロ高校の合唱除 をつれて行 つ
l JJれ
動場 を設け,更 に一居 これ を摘張
しよ うと計蓋 しているが,町 の子
た。 ウイ スコンシン州 の ワウケシ
ャRCは ,元 會長達 を記念す る鳥
に會員全部 に彼等 の姓名,在 lIE年
次,職 業分類,會 員 の種類,現 在
供 の歓喜 の馨 が設備 の行 き届 いた
運動場 か ら響 てい る。
t/・
病人 の局 に奉 仕 す る
な
のlla業 等 を リス トに して謄富 して
RC
渡 した
ミシガ ン州 ランシ ングRCは 會員 の 1人 に依頼 し, ク
ラブの聖金曜 日の例會 の講演 を求 め,又 プ ロテ スタン ト
の牧師 を他 の クラブ員 =ク ラシ フ ィケ ーシ ョン宗教一 ユ
.
アーカンソー州 ノース・ リッ トル・ ロックRCの 55名
の會員 の 1人 が この地方 の病院に入院 してい る他州 の人
達 を見舞 つて働 ましてあげていたが, この御見舞計差は
急速に他 の地域 lCも 蹟 まつて行 つてい る。
又 ニ ューヨー ク州 ゴ ッシェンRCは 最近 オ レンジ郡層
簡
ダヤ教 =に 頼 んで紹介 して貰 つ た
.
資 本 金
15億 8千 万 円
日
本
苗日
製 品 種 目
曹 達 薬 品 ・ 無機 薬 品 ・ 有 機 薬 品 。医
脂
薬 。油
イ
ヒ 成 品 ・農
薬 ・ 防 疫 用 殺 虫 斉1・ 非 鉄 金 属 。ポ ゾ リ ス
株
達
取締役 社 長
東 京 都 港 区 赤 坂 表
ロ ー タ リー の 友 -8月 腕
F「
式
大 和 田
4の 1
電 話
会
社
悌 二
(48)5351-9番
Qn\
59
SERViCE
崎
尼
R
C
會報雑誌委員長
濱 本 ll:Iギ
第 です
.
今後 共,常 クラ ブ並 に谷 中峻 に封
し11敷 御指 導 の程 御願 い │口 上 ます
でドきつ た クラ ブ名 (ABC順
鶴l忠 り
11知 山
路,彦 根,今 治,泉 大14r,,‖ ■
■西 ,京 都 ,京 用:南 ,海 南 ,力 n古
ll口 東 ,ll “
lり
.洲
川
松 山 ,新 1:演 ,大 阪 ,大 津 .坂
)
,
│‖
Jし
寄せ られた御好意
ltt l_御 承知の通 り (ロ ーク リーの
友 4月 晩掲織` 1年 クラブの推薦致 し
tし た谷中純子襲が, υ―タ リー奨
‐
選はれ 8'1初 め,米 国 にrJう
昇
JilCな つて居 りますが,彼 女の留rlt
こ際 し, ロー タリー親 善1吏 飾 として
′
l′
│
R C
この クラブよ リイ
14た , 11罰 艘 な綸
速 ド言
葉書, バナー, Ifl li名 鑑,畑 光案内
會報 委員長
松
井
アメ リカ領事を招待
l昨 :年
後見 された新選紺l近 藤
首を
′
ト
l晰 官 ,人 樹寺
き ゝ,イ リ
11ノ ヽ
オを
員 li寺 等の 占は 11に , IT要 文化‖
f
探 り,石 │:嬰 術″FttrJ‐ では,特
面
│く
,
":イ
の
場,殊 にイ∫名のイ艦 籠
製IT]の 陳 ダ」
1`し , 敷十 墓 あ るに を散歩鑑賞 し
氏 と同夫人 を, 6月 16日 岡1崎 市 に招
た。夜に人 り “中村"に て 兜さん會
i萬 イf"の
をり
‖き, 餘興には “Yl山 奇ノ
:
t閣 前に
午前10時 岡崎公園り
徳川家康公誕生の地 である岡1崎 城跡
の「
liと て,歴 史にか らむい ろいろの
と共に厚 く御祀 中上 る次
菖蹟 を興味深 く巡卜ll,岡 崎 市│11身 故
,
岡崎 RC.大 樹寺 にて設明 を き く領 事 と同夫 人
(s28)
つ らねて,速 く郊外本宿 ‖rの 法
(ほ うぞ うじ)に 参′
F,'t地 に
国際親善の一助 として, 名古屋鼎
Tス チ ッグマイヤ ー
Ffの アメ リカ領可
大地喜ん でい る次第 で,本 誌 を通 し
て各 クラブ より寄 せ られ た後好意 を
60
蔵寺
,
弘
待 した
迎 えたが,含 員及家族20名 と先 づ記
念撮影 を してか ら,順 次国内を見物
11る
宣博 したのが常 RCで ある鼎iに
もほ ゝ笑んで うなづかれた。一行は
"の1「 も
llめ たと思われ る基所な どの
占■々を多敗御忠興 ドさり,1キ クラ
フ會長は じめ會員 一同並に谷中壊 も
披露 中
`、
女
一「円に41る の を,と て, 説り1を き ゝ‖
l_4を 思 い,此 の開係 を再認識 し最近
11を
lil・
日本1キ に│ド「地匝の産業,文 化等 の紹
介を米四 で して Iく 馬の参考資料 を
『
Hl意 すべ く,63卜 l[各 ロー タ リークラ
フに忠晴 方御依頼「‖上 ま した虎, 早
志 Ft重 昂氏 が, アメ リカテキサ ス州
サ ンアン トニオ市アラモに建立 した
′
テキサ スメ
蜀立‖
災 の時 の勇 │:,ボ ナ
「
の殉職 を讃美 した記念 lFIFが 国内の
ULに
木 1ヽ 松 I I Fr1/
岡
NEWS
「‖1其 他賑 々 しく, 9時 終了,親 善
靭
lC有 意義 であつた,r]領 J「 は 7月 10
日1lR C員 及び夫人 を,名 古 の私
Lt・
邸 lC招 待,パ ーチーをlllし て謝意 を
表 された 夫要共 日本語が巧みで通
尼崎
RC資 料の前にする奨撃生谷中純子さん
「
HE ROTARY_NO‐ TOヽ 10
,「
Iな して言
1し 合 い,叉 夫 人は1晨 近師
凹 された アメ リカ人使釘1員 であつ た
クレンシJ― 氏 の 令峡 で, 日本 史
を 1,た れ,三 度 │の 末 日で
“あ
「
り't味
とした三iり 武 J:の 」
岡崎 を可ししヽ
公開係 につ き, ‖JI杵 研
キ
キに,よ 川家月〔
に
,
郵纂 子
4tさ
れているので,英 交に して,ア メ
リカヘ糸介 したい と ││さ れていた
“
■ヽ)_,■ )│ト
RC
多 治 見
.l・ ,´ .,,●
=ニ ー
゛ギ象rぶ ′
‐
繊
「 上會本仕 委員長
金 子 義 一
多治見 RC
多治見 RCの 貸傘
多治見
暁 を に とる と
「 1時 に
「
た常 RCは 疇 li'そl月 千
ヤ ンターサ イ トのI記 念 行 の ‐
端ヒ
│に │11つ
た
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r〕 1ヽ
つの テ
"す
││キ 的救
卿 に貸 傘 を‖朽える ことは ‐
!
旭1と してい るのは この1ヽ 傘に よつ て
,― ク リーhin「 を ‐
人で も多 くの ノ
、
そ の 後 の争 過 を リ
ヒめてみたい
本イ
1123ヵ“り」は殆 ど1ヽ 傘 の2、 要な
よ うな はなか つ たの に拘 いず 7本
の 日につ きや
1」
次の
J′ 山 に J1/tい ドさい
御
人のために「[く“ この1ケ 1/1え 返 して
'ノ
l詢
:に
せ てい る
′
午
「 あり
術J云 企画
曇識駿河台広告社
〔り
嗜
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lt‖ │lκ
'「
L(29)9459岳
ロ ー ク リー の 友
Sり 1蹟
中口11ち ,I‖ ∫子, 2 1 」
■(
替
11
1.1を
探 つ てい る
lに 納 ま つ て
f」
lえ
てお く
京
3 1fr l也
55608を
'ソ
'1味
新聞・雑誌広告
薩
lに
い るが この 傘 の姿 が いつ まで袋 つ て
。モを走
い るか そメ1に
を感 じて「
常 ‖iし てお きま しよ う
この外 に卿 長 の
「
るまで1ヽ 傘 の綺け
充 を怠 る ことは出 来
/)夜 lt30本 が揃 つ て傘 ll
か
ている人 4)あ ろ うが,わ れわれは
れ傘になつ て1ヽ 傘が傘湘lえ 返 つ て't
く
得な いで あろ う
最後 に卿長率 にll lえ た1ヽ 傘 の利用
4の 日 11を
者は案 外少ない とい う卵 ι
い た移、
が この 場(ll
この傘 は公 衆 の もので あ ります
││し
い得 るであろ う
に放 つ
そんな何 の │:渉 もな く傘‖け
ておけは な くなるといつて ll笑 し
は雨 もあ り
雨
304く が完
した
」
45月
或 は更に ・歩進 んで戦 つ て この 傘
椰lへ 只 1本 で もよい hb充 する人が ′
L
ロ
い
ー
タリーの
が 末た と
れたな ら
全に姿 をlf lし ていたが 6月
20H術 充 に行 つ た ら 3本 返 つ て きて
が な くな つ た
「え1ヽ 傘3()4く をギ
すい場 河
杵‖朽十る傘‖
趾
へ
ン
)施 1設 をな しその傘‖
の
次
示
を
‖
掲
1
由1ヽ 傘 と し
た
である
│:日
2り J自
て 傘‖
‖に304く 卿長室 に20本 を常 llllし
‖tえ 込 ちこ と力:で きな い か とい う
故に多治 )と り
半1降
'Ц
2
杵∬朽 多
多治 見卿↑
ク リー クラ ブ
(卜
治 ,こ '―
以 Lに よ り本年
ノTと い う本イ│:で あ るが われ わノしがり
│111題
ー クリー ク ラ フ
傘 の日Jは
1 6月
る こと
半に1ヽ 傘 を常 ‖
'1り
'iめ
│〔
暁 よ紙 の如 く ロー タ リー
ー精n卜 が │IJ民 の ^部 に しみ込んだ と
い うことが い ヽ得 るであ ろ う
1リ
:イ
l「
して 多治
多7台 見卿長
この傘 の,(14く で もよいllltノ して使
い ものにな らぬ よ うな姿 で傘‖け
に納
ロー
タリ
つ
い
ま て る ときが 末たな ら
吏い下 さい
tす か ら御借 りして御イ
紙の
61」
傘が
ロつ の テ ス ト貸 雨 傘
界 のレ
「 友 」掲載廣告 の取 扱代理 店指 定 のお 知 らせ
今 回「 友Jで は,利 1集 能卒 の上ル揚 と誌 1面 の 充賞
111新
を同 るた め掲織廣 イ の取扱 業務 を駿河来廣 告
1「
iLの
廣 告面iの 描 充について 1司 川
‐
待 してお ります 11と tよ ろ しくお願 い
itに 委 li[し
活JIJJを
'切
叶1上 ます
ま した
市 川
RC
最後 に 1等 人選 の 中か ら日出學園
中學部 3年 浮 谷東次郎君 の作品 を紹
介する
.
耐會奉仕委員長
石 田 長 介
良
い
民
昨年秋仙台 に地 E大 會 が開 かれた
い 市
それ を叉,新 しい型 の鐵 に改 めるヤ
民
不和な世界 を作 るには,李 和な國
がで きるのだ。そ うだ,炎 の力は想174
不和な國 を作 るには,立 派な市町
を絶するほ ど力のある ものなのだ。
村.立 派 な市町村 を作 るには,「 良 い
だか ら,「 自分達はその炎 を持 つて
いるのである」 とい う,固 い信念 を
持つて,「 良 い市民」 になるように努
際 RI會 長 の代理 として,ハ ーバ ー
ト・ テイラー氏 が出席 され「
。 四つの
市民」が必要だ
そ うだ,「 良 い市民」 こそは,世
界不和確立 の基礎 にほかな らないの
テス ト」 と「良 き市民 たる十箇條」
だ。
の普及について大 いなるサ ゼスチ ョ
ンを興 え られた。
ま じめて,正 直 で,自 分 を愛する
ぐらい他人 を愛 し,自 然 を愛 して
公共物 を大切 に し,公 共の仕事に協
llク ラブ としては,何 か こ
わが市り
れ らの問題 について具般的な プ ログ
ラムを持 ちたい ものだ と祗會奉仕委
僕達 は若 い炎だ,炎 は 1つ の型 に
はまつた いかなる鐵 で も溶か して
,
良
市
は,責 任 にお じけてはならない
.
,
力 して, もの事 を積極的に行 い,自
ら「良 い市民」 になろ うと努力す る
力 して行 けば,各 々が「良 い市民」
になるだけでな く, 市を,口 を立派
な ものに して行 くこと が で き るの
だ 僕達 の鎧 中 には,そ れ を最大限
に利用 し努力すれ ば,い つの 日か
,
か な らず世男平和 を確立する llの で
きる力が潜んで い るのだ
しか し初 めか ら大 きな「 L界 ′
ド和
員會が 中心 となつて研究 した結果
「良 い市民」 とい う題名 で全市 の 中
人 こそ,員 の,理 想 の市民 にほかな
學生 よ り作文 を募集す る ことに決定
し,営 市教育委員會教育長島津新治
誰 で も心 の奥底 では.「 良 い市民」
にな りたい とねがつているのではな
氏 に諮 つ た ところ,非 常 に乗 り氣に
な られ,後 援を諾 されたので,去 る
いだろ うか
りす ぎる とい う事 は,誰 r_で も,夕 1
ところが,ま じめな正直者がバ カ
を見た り,他 人 を愛 してかたつて う
るだろう
一段一段 としつか りふみ しめて,階
ろ,全 學校 もれな く参加 され,91通
らぎられた りす る事が今の世 の中に
は よくあるので,「 良 い市民」 となる
の應募作品 が提出 された
そ こで,教 育長 をは じめ學校関係
努力 を惜 しん でいるのではな く,皆
しりごみ しているとしか思 えな いの
5名 ,教 育委員會 よ り1名 ,計 7名
だ
の方 に審査 をお願 い し, 1等 各學年
立派な市民がバ カを見 て,鋭 い 日
を光 らせて,善 良 な市民 をグシに使
うように して行 くのだ
佳作 20名 の入選 者 が決定 し,去 る 6
つてい る人が,甘 い汁 をなめていて
月27日 には,例 會後多数 の會員 が参
よいのだろ うか
一般の人 々の中に,そ うい うのが
い るのす らがまんがな らな いのに
生かかつて も, i世 界千和確立の賞現
までは,行 かないか もしれ ない
,
6月 10日 〆切 を もつて,全 市公私立
中學校 12校 に應募 を依頼 し た と こ
.
よ り1名 ,2等 各 2名 ,3等 各 3名
,
加 して,公 民館 に於 て盛大な授賞式
を行 つ た。 この奉仕事業は今年度悼
らないのだ。
.
.
確立」 とい うのは僕達 の 目的に して
いたのでは,現 在 の世界 とて らし合
せてみ ると, その差があま りに もあ
.
初 めは下積みの もの を日的 として
段 を登 る必要 があ るのだ。 まず, 自
分を立派 に して行 き, じ よ じ よ に
「良 い市民」 になつて行 くとい う事
が大切だ その次 には,何 々, とい
.
このよ うに して行 くと,僕 達 が一
.
しか し,僕 達 がその ように して作
尾 の又わが クラブ として も輝 か しい
みんなの代表たる,者 の中に も,汚
り_Lげ た土台は,ど んな嵐 に も,そ う
たやす くゆ らぐものではないのだ。
1頁 を飾 る もの と些か 自負 し て い
る。 とい うのは軍 にテイラー氏 の期
職 をして,み んなの税金 を,わ が も
の顔 に使 つてい るのが いるとは,一
れて,あ せ らずに建て られた家,す
待 に答える ことがで きた とい うばか
りでな く,審 査委員 の方 々が 口をそ
誰何 とした ものだろ うか
しか しそ うい う人 を選んだのは
ろえて言 うてお られ るように, とか
く作文教育 の軽祠 され勝な現在 教育
市民 ににかな らな いのだ。
この よ うな一面 を見 て も,市 民 の
なす事 r」r,す べ て賓 に大事なのだ。
上 に も大 いに貢献 した し,叉 環境澤
化,文 化施設摘充 といつた面で成人
たるわれわれに も教 え られ る ところ
が多かつたか らである
.
62 (鴨 0)
,
.
,
だか ら,市 民 は自重せねばな らず
その責任 は重 いのだ。
,
しか し, これか ら市民 となる僕達
その土台の上に柱 がたち,壁 がぬ ら
なわち世界平和は,何 とすば らしい
,
何 とたの もしい ものだろ うか。
僕は,僕 達 が「良 い市民」になる
よ うに,一 心に努力 しなが ら, この
Lの 中を渡つてゆ く事 は,世 界李和
確立 の上 にお いて,家 をたてる時
地 がためをす る くらい大事である と
思 つてやまない
,
.
THE ROTARY_NO‐
TOMO
「友」 よ
り の
ロー タリー問答へ質問 を
ロータ リー問答に質問を .′
お寄 せ下 さい lfl協 パス トガパ ナ ーが,H蓄 をかたむけ
て
│口
1答
され ます 御遠慮:な く, どしどし質問 を ′
お
願
い
口"タ リーの動 き告矢口
板 告知板 は 5匡 の動 きを一 日
に しらせ る役 11を もつてお ります 1受 RCの 獲會,例
riVt日
,例 會場,事 務所 の愛更等は至急 お知 らせ下 さい
同欄記織 の要領 でお願 いい た します
.
」の通 り
富員 コンテ ス トに鳥員 を ′「友J6月 琥 で御り
なかなか良 い痢員が集 つてお ります 〆切は 8月 末 ′
}兵 術氏 が待 期 され
リ
大 きさは キャビネ以 _L,選 者木村イ
てお ります_本 仕 の ひ とこまを,又 ロータ リア ン家族
ロータ リー・サ "ビ ス・ ニユ ーズ
ニ ュースの ,て は
の
tの
国際 ,祗 會,青 少年 ,職 業 各本イ ニ ュー スをJlに
してお ります。 原稿 は簡潔 に,400字 言
rittfT l用 紙 1∼ 2
,
だん らんを,是 リトど うぞ′
枚位 を旨 としてお り,必 ず キャビネ以 11の ■」
員を附 し
てお選 り下さい.場 合 によつては,富 員 を_11に 簡 1世 な
ロータ リアンの著書紹介 .′ 長瀬委員が毎晩 ブ ック レ
ビユ ーを さノしてお ります。 御著書 11梓 の飾は御寄瞼下
説明 をつ けて下 さつて もよいわけです。
(〆
切毎 月 3H)
さい
「友への馨J欄 へ御投稿を ′ ロー タリア ン 各 位 の
「 ロー タリーの友」へ の御批夕1,御 希望をお途 リ ドさ
随想について 400字 │;占 原稿用紙 2枚 以内 のみ じかい
随想 をお寄 せ 下さい.7月 琥 自己紹介lll113L′ t,15「〔の
要領 です
.
(/UJ毎 月20日
)
い.枚 敗は 400字 │:II原 稿用紙 1∼ 2枚 以内
ロー タ リ ー の 友 -8
Jl践
(e31) 63
集だよ りで,「 友」が
「 全 日本 の ロータ
ン
リア の心 の紐帯 で ある」 と又昨年
1蔦1主 1下 1上 │¬
度各編集委員が編集だ よ りを通 じ
「 ロー タ リア ンは もとよ り,そ の家
する次第 であ ります
議決事項 につい て
8月 「友」表紙は 7
,
編 集 審 議 會 委 員
族,學 校,耐 會 に「友」 力玉
浸潤融合
月 1日 大阪 ホテルで撮
影 の新 ガバ ナー佐藤幸三,東 ヶl奇 潔
私は今年度編集審議 會の委員 の末
席 を汚す ことになつ た第 370Eか ら
し,誰 に も親 じめる機開誌に してい
た ゞきた い」 と異 口同音に述 べ られ
盛田秀干,直 木太一郎,田 中文男
の五氏の立像窮員
の新人生 で あ りますか ら一言御挨拶
申 し上 げます。私 は編 集 にはズプの
ていることを ロータ リア ンは本年 も
9月 琥 よ りの表紙は會員中洋画家
賞現 し「友」 は氣やす く奉仕精耐修
養賞行 の最 も親 しめるパ イ ブル的 の
日本画家,陶 藝家,染 色家,其 他適営
と思 われる諸君 の作品 を使用する
ものに捜育 させていただ くことが物
「友」本年 4月 跳編集だよ りで露 日
委員が ロータ リ問答欄活用につ き逃
F]司
RC小
林
明
政
素人 ですか ら任期中は先輩委員諸兄
の示唆 と ロータ リア ン諸兄 の「友」
,
,
.
.
に開す る進言等の責現 に只管 奉仕す
る考 えであ ります。
心両界 に漸 く一人歩 きする ことがで
きるよ うになつた「友」 を完成 させ
第 1回 審議會 の感想 について
會 は 7月 1日 新大阪 ホテルで,新
ガバ ナー 5名 ,パ ス トガバ ナー 1名
つつ併せ て老易 を問わず線 ての人 々
に奉仕 の精励 を充満賞現 させ る こと
脇 さんが張 り切つ て措営 してい られ
ます 生活印 ロータ リ生活 の完成前
がで きる一石二鳥 の崇高な人生を画
編集委員 10名 .前 年度編集委員 2名
くことにな りま しよ う。私は 「断橋
提はル ール をよく知ることは申すま
で もない ことです.露 口さんの云わ
の水 を過 ぎて,無 月の村 lC師 る」(無
れる通 り「つ まらぬ質問 と遠慮な さ
門開四則頌 )詩 句 があ り, この濶達
自在 の心境 は青春 の頃 か ら,賞 業に
らず どしどし御技稿 を歎迎する」 と
.
.
文献委員 5名 出席 し,議 題は)「 友」
の 7月 琥批夕1及 8月 暁 目次検討り)新
年度「友」 の表紙及特集記事研究
,
べ てい られる通 リパ ス トガバ ナー宮
同趣旨 を官脇 さん も今度 の審議會 で
切望 してい られま した
第 370匝 ロー タ リアンヘ
等 について,ま ことに員揆Jに 吟味 さ
れ,こ うした熱意が賞 を結ん でパ ス
トガバ ナー鳥養 さんのお言葉 (昨 年
或は學究 に美 くしき心 と強 き忍 lJfで
9月 脱「友」編集だ よ り)を 借 ると
「友」は創刊後僅か 4年 餘 を経た今
て悟徹 され ていると信 じます 斯様
な心 の持主 の ロー タ リアンの綴 る人
日既 に物心雨界 とも漸 く一人歩 きで
きる年頃 rtな つてお るのだ」 と私 は
燃 ゆる人生 の理想 を把握せ しめ,失
頷 けました.私 共 の祀先 の遺 した古
典 や,藝 術 か らわが民族 はその素質
敗談は「掌 に きずな くば手 lCて 毒 を
とるべ し.毒 は きずな きもの を害は
い 原稿締切 りは毎月20日 です.私
は毎月初め開催豫定 の「友」編集審
議委員會 にはなるべ く出席 したい心
において世界何れ の民族 と比 べ て劣
つ ていないことは御同感 ではな いか
ず (法 句組 )」 の心境 を若人 の心理
に刻 み混濁 の祗會 の荒浪 を弧 き信念
組みです.門 司 に近 い土地 の ロータ
リアンの馨 の原稿は,責 任 をもつ て
と思 います.ロ ータ リー運動 の使命
を理解 し,「 生活自
ロロー タリー生活」
で悼 す指針に もな り,趣 味談は若人
の心 に滋味 を注入するに十三分 であ
る.か ヽる見解か ら
「友」を親 しまれ
私途 の役 をお 引受 け します か ら
邁進 され,功 成 り名逐げてい られる
ロー タ リア ンの皆様 に して,は じめ
,
間味豊 かな成功談は,若 人に高邁な
達成運動 が戦後 目立 て要望展開 した
ために本年度か ら 5地 匠 になつたの
もその現れ の一つで, この時 lC西 村
編集審議會委員長 が「友」 7月 琥編
,
「友 」力1親 しまれ る「友」に完成す
ない と信 じ敢て御協力建策 を御願 い
んか ら御利用下さい
″
四明 盛
紛
は 口林
官)
巽
東 京 都 中 央 匡 銀 座 1の 5(大 日本 国 書 ビル )電 話 京 橋 (56)8671部
印 吊1隋 大 日本 印 揺1 東 京 都 新 宿 H市 谷 加 賀 田Tlの 19____編 ■
崎覺太郎
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和 一
年 年
和
昭 昭
琥一
次一
360区
譲一
第
野一
)
委員長 (第 3“ 匡)西 村 大 治 郎
佐久 問長吉郎 (東 京南)
第365直 露
磯 部 泰 輔 (沼 津)第 370踵 I小
安一
355匠
月 一
員
第
第 8琥
一
委
第 5巷
)
)
ロー タ リー友 の編集事務所
熊本 RC中 村秀氏,長 濱 RC三 浦潔
氏 の御襲表 の ように ロー タ リア ンは
「友へ の馨」 を活浚に姜表 して下 さ
るよ う御協力下 さい またこの趣旨
の賞行性 に とむlil設 的方策は,井 聴
の上審議會へ 中逹する分 も厭 い ませ
ロ ー タ リ ― の友
編 集 審 議 書
第3∞ L古 谷 辰 四 郎 (本 L幌
″
笹 氣 幸 助 (仙 壼
第3“ Ш 長 瀬 富 郎 (東 京
「友」本年 3月 琥「友へ の盤」欄 で
る
「友」に醸成す る戦士は ロータ リア
ンの一心同般 の総動員 よ り外 に術は
8
月刊
.
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fh <n a>
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(56)8050
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支店
大阪・神戸 ・名古屋 ・福岡・ 仙台・ 富山・広島・札幌 ・高松 。新潟 ・福 島
ロー タ リーの友 8り lケ
第 5巻
第 8号 H召 和 32117月 31‖ 印澪J ‖
召和 32年
8ナ
,1‖ 発行
発行所
ロー タ リーの友編 集事務所
口Ⅲ
語
一
[
日
]
一
曰
取
質
取締役社長 三 木 春 逸
本社工場 。東京都葛飾区小菅町635
大 阪 営 業 所 。名 古 屋 出 張 所
工業の 8大 月刊誌
Modenn Mcchineny
料
工業相
1ト
・
●●●●●●●●
鮮●原勁 工業
・
ョ
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メシ
ン
工場管理
テ
レ
ビ
ジ
ヨ
ン
日
刊
工
業
新
聞
社
取締役社長
増 田 顕 邦 (RC会 員 )
東 京 都 千 代 田 IX飯 l「 ]町 1丁 :11番 地
九 曼 (33)1171-7・ 4211-2
電 話
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