Archiv/Re-edited/2014/12/25[PDF]

2015/1/9
ラフリンは、名うての口の悪さで有名なアメリカの物理学者である。その
学問観を記したエッセイ:
「物理学の未来(原題:。。。))は、いかにもアメリ
カの学者の磊落さと横柄さを併せ持ったものを表明したものであり、興味が
ある一方、反感も買う面もあるかにみえる。
1980年台のはじめに、量子ホール流体とよばれる量子物性論の分野を
開花させるきっかけをつくって一躍勇名をはせたことで知られている。量子
ホール効果というのは、その道の専門家にとってはなかなか興味深いものだ
が、はじめて聞いたころ、実のところなにが面白いのか、
「変なもの」という
印象をもったものである。これは量子物理の最大の偉業である、超伝導理論
(ランダウ理論と BCS 理論)と比較してのことである。
さて、変なものといったのは、まず、2次元の電子系という対象であるこ
と。なんだか人工的なものをデッチあげたという疑念。つぎに、磁場中の電
子の問題であること。磁場中の電子なんて、量子力学の演習問題でしょうが。
さらに多体系を特徴付ける原因がクーロン力というのである。クーロン力と
は!1ミステリーの要素などないだろう。多体問題は、ランダウと BCS で終
焉したと思っている者にとってインパクトはなかった。
しかし、量子物理の世界は、豊富であることを示したという面があること
も事実である。ちょっと蘊蓄をいうと、量子ホール効果は2種類あって、整
数量子ホール効果と分数量子ホール効果に分けられる。物理量として、ホー
ル伝導度が、超微細構造定数に比例するという著しい発見が研究を推進する
動機となった。数理的には、いわゆるトポロジカル不変量という概念がこれ
によって導入されて定着したといえなくはない。この概念が、ここ数年のあ
いだにトポロジカル絶縁体という名前で、
(ゾンビよろしく?)復活している
ようである。しかしなにが興味があるのかよくわからない。なんでも絶縁体
と金属を接合したところで、端っこ状態ができて云々ということらしいのだ
が。。。。
一方、分数量子ホール効果は、磁場とクーロン力とパウリの原理の兼ね合
いで生じる多体効果がその現象の特徴であるといえようか。ラフリンの功績
は、その基底状態をいわゆるジャストロー型の波動関数でうまいこと表現し
たことである。トポロジー不変量というもので明確に特徴ずけられるものか
どうかわからないが、多体系の特徴である素励起が量子的渦になるというの
が最大の興味の対象である。という意味でトポロジカルな現象ではあるが、
渦の集合体の量子力学というのは、オンサガーの先駆的業績以来現今におい
1
ても興味はつきない対象である。
ラフリンは、理論物理学者としての「矜持(誇り)」を率直に表明してい
る。
(普通の理論家には、このような表明はしにくいものである。偉大なる先
達のまえにとてもそんな大それたことなどいえない)。いわく「自分は、反権
威主義者である」と自負している。たいていの人は人生を妥協によって生き
ざるを得ない。なんらかの「権威」におさえつけられている。理論物理学者
という人種は、その能力をもとに、自説を公にすることができる数少ない人
たちである。この言明は、たしかにそのとおりであろう。同業者が相手では
あるが、自分の学説を公に認められた機関を通じて発表できるのだ。現実に
は、通念からはずれた新説などつくることは容易ではないが、それに近い試
みは、努力をすれば可能であるというのだ。
まぐれとブレイクスルー: ラフリンは、自分が書いた論文の重要さを認識
していなかったと告白している。たまたま、宝石箱をひっくりかえしたとい
う極めつけの例が、ハイゼンベルクの量子力学(行列力学)のきっかけ論文
であろう。ハイゼンベルクは、それがとてつもないブレイクスルーをやった
ということには認識してなかった。行列のなんたるかを知らなかったという。
ボルンとヨルダンおよび、独立にディラックがことの重要性(数理的構造)を
みぬいて量子力学の理論体型を完成させた。おそらくハイゼンベルクは、彼
らを追うために必死で勉強したのではないか。シュレディンガーもかれの方
程式の重要性を認識していなかったらしい。ドブロイ波の従う波動方程式を
書いただけだと思っていたらしい。ディラックはそれをみてしまったと思っ
たという。行列と演算子の関係をもう少し真剣に考えていれば、彼の能力で
は、波動方程式(量子状態の方程式)をみちびくことは一晩でできただろう。
自分の業績の真の意味(評価)を認識しているものは意外と少ないのでは
ないだろうか。意味付けは、多くの場合他の人間がやる。それができてこそ、
真の偉大な理論物理学者といえるのではないだろうか。千里眼的に未来を見
通すことができた学者こそ偉大といえる。ディラックはその一人である。ポ
アンカレ(数学者であるが)もそうであろう。彼らはいまだに、隠然と物理
学者に影響(霊感)を与え続けている。
2
最近のこと, dec 2014
久しぶりに、イギリスの某雑誌から、ある論文の審査(ぞくにいう referee)
の依頼がきた。まえにも言ったことであるが、このレフェリー制度というの
は、いわゆる peer review というやつで、同業の研究者がお互いに審査をし
合うのである。普通の(文芸の)出版などでは、編集者がいて彼らの判断で、
掲載の可否がきめられるが、物理(科学)の専門誌では、編集者自身は、
(普
通は)投稿論文の内容を判断できないので、専門家に依頼するのである。
さて、件の審査原稿の内容であるが、それ自体は、とりたてて興味がひか
れるものではなかった(これは、もちろん主観的なものである。だいたい、一
般読者の目を引く論文など滅多にない)。しかし、そこで、取り上げられてい
るテーマがちょっと気にかかった。それは量子ホール流体における輸送係数
というものと関連していて、量子ホール効果といえば、もう30数年前に最
初に指摘されて以来量子物理のひとつの分野になっている。自分もその末席
につらなって(あるいは悪ノリ?して)いくつか論文を書いた。
気になったというのは、この論文で扱っている輸送係数のアイデアが発表
された元々の論文が、ちょうど20年ほどまえに、別の雑誌からレフェリー
の依頼がきたことを思い出したのである。この雑誌は少々敷居が高くかなり
厳格な採用基準をもうけていた。その当時、ここに投稿された原稿の審査を
立て続けにやったのであるが、どうにも程度の低い論文ばかりで、閉口して
いた。(ちなみに、程度の低い論文の却下は簡単である。つまり雑誌がかか
げている水準に達していないとひとこといえばよい。編集部は意図して「ゴ
ミ」処理をやらせているのではないかと疑念をもったくらいである。それほ
どひどいのがまわされてきた )。そんななかで、この輸送係数の原稿は一風
変わっていた。有り体にいえば、自分の考えていることと、一脈通じるとこ
ろがあって、うまいところをやられたという気がしたのである。そんなわけ
で、論文の数式を一通りチェックし、
(じつは著者の知識のほうがかなり上手
をいって真剣に勉強した)、アイデアの独創性が認められたので、掲載可の
判断をした。ただし、どうしてもひとつだけ式が導出できないところがあっ
たので、念のためにこの式の導出をやってくれないかと丁重に頼んだもので
ある。著者としては、信用しろといいたいのであろうが。一見簡単な式なの
で、すぐに返事がくると思っていたが、半年ちかくなってようやく返ってき
て、すっきりと導出されていた。自分も何度か試みたができなかった。つま
り、ちょっとした工夫をするのであるが、思うに著者も式をきちんとチェック
しないまま、見込みで投稿してしまったのではないかと推測された。そんな
こんなで、論文はめでたく出版されて、この件は忘れてしまった。ただし、量
子輸送係数の新観点を提示していたので、ちょっと変わった試みであるとい
3
うことが、印象づけられたのである。
最近審査した論文に話を戻すと、この論文に引用されているいくつかの論
文から、昔レフェリーをしたかの論文の『今日的位置づけ』が確認できたと
いう気がしたものである。数年まえから、以前の著者たちが指摘した量子輸
送係数が、ちょっとしたブームになっているらしい。ある種の可能性を含んで
いるようで、研究者の意欲を刺激するところがあるらしい。ただし、その深
い理由がなにかよくわからないところもある。ともかく、20年の時をへて
昔つきあった女性と巡りあわせた気分と似ているかもしれない。すくなくと
も、自分がその論文の価値を最初に認識して一流のジャーナルに掲載された
ことで、自分の判断がまちがっていなかったという奇妙な満足感がある。却
下した論文が、その後ブレークしたというのは、あまり気分のよいものでは
ない。これはよくあることだが。すぐれた内容の論文を審査するというのは、
世間に先駆けて、アイデアを得ることであり、そこから自分の研究へのイン
スピレーションが得られる可能性もある。現今、archiv なるもので、ネット
のうえで、自由に学術雑誌へ出版の前の論文を、ロハで入手することができ
る。しかし、こうしてながめる論文というのは、印象が薄いものである。レ
フェリーという業務によってある種の精神的緊張を課せられることにより、
優れた内容の論文を審査することによって、そこから刺激が喚起されるとこ
ろがあると思いたくなる。ただし、こういう経験は非常に少ないであろう。
結末:今回のレフェリーサービスのおかげで、あるアイデアが得られた(と
思う)。以前考えて放ってあった理論に、昔レフェリーをした論文でとりあげ
られた数式をあてはめると、ちょっとした結論がでてきたのである。これが
はたして出版に値するかどうか思案のしどころである。
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2014/8/21
とりとめもないこと
自然現象(物理現象)が、数学を言語としているのは、一般の人には、奇
異なことであるのは仕方がないとしても、専門家と称するものにとっても、
ある特定の数式だけが有効で、すこしかえると、そうではなくなるというの
が不可解であるという印象をもつことがあります。
例をあげると
ニュートンの力学の第二法則は、加速度(位置の2階微分)が力をきめる
わけですが、もっと高次の微分に対してもよいのに、そうはなっていないの
はなぜか。
量子力学では、指数関数が圧倒的な支配をしているかにみえる。煎じ詰め
れば、ユニタリー演算子で制御されるという仕組みに支配されているという
のであるが、ユニタリー演算子は、エルミート演算子に虚数単位をかけて指
数関数の肩にのせたもので表されるということで、すべてうまくいくように
なっている。ところが、ユニタリー演算子は、それ以外の表示:ケーリー変
換(分数式の形)もあるわけで、それでもいいはずである。
最近の新聞(あるいは雑誌の)記事に生物学者が、なにか細胞の模様を例
に出して、
「生命は渦」である(これは正確ではない)という意味のことを書
いているのをみて、ファンタスティックな思考をするものであると思わず微
笑をしたものである。幾何学模様を生命の神秘に結びつけるという発想はさ
ほど目新しいものでないが、物理学者からみると、形態というのは、やっか
いなものである。渦は、比較的よく理解されていて、ケルヴィンが、原子を
渦であるという説を出した。しかし、原子は、もっと散文的で、特定の素粒
子の構造体であるいうのが現代確定していることである。ただし、要素還元
主義は必然的に袋小路に陥る。あげくのはてに、「毛子=モートン!
!
??」に
いきつく(毛沢東が、いいだした、すべての物質のもとになる究極の粒子:
毛沢東以外だれも信じていない。カミジョウくんが、言いだしてもいい:
「神
子=ゴッドン」)
もとにもどると、渦は、巻いているというのが直視できる現象である。こ
れが「輪廻」を連想させる。台風、竜巻全部渦である。もとをただせば、大
気運動のひとつの形態である。大気は空気の流れである。ゆえに、流れがあ
るところ渦ができるというわけである。一般の人(物理学者および数学者以
外の人)はこれで終わりであるが、専門家は、流体力学を持ち出す。これは
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やっかいな数学である。しかし、非常に興味のある学問である。現代物理は
量子力学が支配しているという見方が物理学者の共通認識であるが、量子力
学も流体力学であるという考えも出来ないことはない。実際、渦は量子論で
も登場する。量子渦というやつで、
(液晶物理のお御所である、故 de Gennes
いわく,「精巧の極致で習得するのに少々時間がかかる」)、わたしの愛好する
トピックスのひとつです。ちなみに、液晶にみられる模様もひろい意味の渦
です。
生物学者は、あえて偏見をのべるが、観察をもとにする思考を巡らすので
あるが、物理学(および学者)は、現象の背後にあるものを、数学で記述す
ることを、あたかも本能のごとくやる。素粒子学者のワインバークの言:
『物
理現象は、究極のところ無味乾燥なもので、それをたどるものだけが、ある
種の満足をえるだけである』
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2014/7/31
かくてわたしの生涯、あるいはわたしと同じく数学者としてすごした何人
かの生涯のための弁論は、つぎのとおりである。わたしは、
(数学の)知識に
何ものかをつけくわえ、また他の人がより多くのものをつけ加える手助けを
した。これらの如何ほどかは、ある価値を有する。後世になんらかの印を残
した偉大な数学者の、または、偉大であれ平凡であれ、芸術家の仕事の価値
と等しくみられる点において、ただ、その程度において異なる価値である。
(G.H. ハーディ:
「ある数学者の弁明」より)
少々まわりくどい言い方であるが、一言でいえば、数学者(あるいは物理
学者)は、学者という枠のなかでは同じで、やったことの程度の差だという
ことですね。あなた(わたし)とアインシュタインの差も程度ものというこ
とです。程度によりけりですがね。真剣になにごとかに没頭するという行為
においては等しいのだ! ちなみに、アインシュタインの名声は、巧妙に仕組まれたという疑念をも
つ物理の専門家がかなりいるのないでしょうか。最近ではホーキン (Steve
Hawking) 。彼を「偉大な学者」であると思う専門家は多くはないでしょう。
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2014/7/xxxx
まがりなりにも研究をはじめて40数年たちますが、まず、人間の寿命と
して、これだけ生きながらえてきたことに愕然とすると同時に、これだけもっ
た体を与えてくれた両親に感謝すべきところです。ともかく、原理的に人類
が発祥して以来先祖をたどることができることはたしかです。どこかに祖先
がいる。無から生じたのではないですからね。たどれないだけです。なんだ
か妙な気持ちがしないでもない。
さて、40年も研究をつづけると、研究の過程でいろいろと経験してきた
ことの意味などがわかってくるものです。有り体にいえば、くだらないこと
をやってきたという思いですね。
具体的にいうと、だいたい10年くらいが、とりあえずの研究の価値をは
かる目安になる。10年たっても、論文が読まれているようであれば、とり
あえずは、合格といえるかもしれない。40年の時点でみると、4つの節目
を経験したということである。
昔のことであるが、素粒子論研究者の X 氏いわく、
「素粒子ではいろんな理
論がどんどんできてくるんです。そして、どんどんつぶれていくんです。そ
れが、どんな意味があるかどうかというのは、あまりいわなくてもいいので
す。ともかく、その場を賑わせていればよい」ということを聞いて、あきれ
ました。ここまでいうと、もう自嘲的ですね。どうせ究極の理論などいます
ぐ見つかるわけがないのだから、どんどん珍奇なアイデアをだせばいい。そ
こから奇跡的になにか本物がみつかる可能性もある(じつはゼロかもしれな
い)。こういう態度は、科学研究のひとつの道を示しているかもしれません
が、なにか見当がちがっているという気がしました。
悪名高いストリング理論が勃興して30年。10次元とか11次元とか物
理学者が空想の世界に数学という武器をつかって乗り込んでいって幾星霜。
科学として成り立たせる実証という点からまったく証拠のかけらすらみえな
いというのは、科学ではないという論争が当初からありましたが、10のマ
イナス39乗を平然として受け入れた時点で素粒子研究者は物理学者ではな
くなったと言う気がしたものです。超対称性というのも同じです。昔々、湯
川秀樹が『素粒子をやっているかなりの部分が、数学者になりそこねた連中
で、さりとて物理のわかってない連中だ』という意味のことを書いてあるの
をみて、ひやっとしたことがあります。自分は素粒子論の専門家ではないが、
理論物理学一般と拡大すれば、なにやらあてはまりそうな気がしたからです。
(ただし、湯川秀樹も中間子論で一世を風靡したのち、非局所場理論という変
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なところに迷い込んでしまいましたが)。あやしげな物理理論をつくる程度の
数学ができるが、物理がわかっていないと正面切っていわれるとおだやかで
はありません。よく考えれば、物理研究者として最大の屈辱ですね。
『物理の
ようでも物理ではない。数学のようでも数学ではない。それがなにかと尋ね
たら。アラ。。。。。。』
ストリング統一理論の導師である Edward Witten (エドワード. ウィッ
トン)の評価はなかなか難しいものがある。
(日本ではウィッテンと呼ぶよう
だが、ただしい発音はウィットン)。大学以来の同級生で素粒子研究者の B 氏
の評価は厳しい。「物理的にオリジナルな功績はない」。たしかに、知られた
理論を高度な数学をつかって、まとめあげていくところに絶大な能力を発揮
するというのが身上のところがある。膨大かつひとつの論文が長大ですっき
りとして、数学的なマインドをもった研究者には感銘をあたえる。わたし自
身の彼の論文の愛好家なのですが。たとえば、
「モース理論と超対称性」とい
う論文は非常に深いものがある。しかし、これだけの膨大華美な業績にして、
物理としてもの足りないのですな。そこが、量子力学の創始者たちとちがう
ところです。数学としても本式の数学者からみればきのぬけたサイダー? プリンストンで、Gross の生徒であったそうで、グロスいわく「ひとつも計
算しないで答えを出す」。答えがわかっている問題はそうだが、わからない
ものには手がでない。しかし、多くの信奉者(リトル. ウィットン?)を擁し
てまさに教祖の面目躍如といったところです。ちなみに、最近メジャーな賞
を受賞したようです。20数年まえに日本で開かれた数学国際会議でフィー
ルズ賞を受賞した件で数学者のひんしゅくを買ったらしい?数学者でないも
のに数学の最高の賞を与えたかどで。おそらく推薦者も同罪とみなされたか
も。数学者の Andre Weil に似ているかもしれません。夭折の数学者谷山
豊氏の言;
『ヴェイユは既存の理論をまとめあげる名人であるが真の独創性に
欠ける。ジーゲルの独創性におよばない』。 ちなみに、Siegel は、独創性の
みならず、数学者のなかでも抜きん出た腕力のもちぬしで、ゼータ関数に関
する計算も手でやっているらしい。現代のガウスというところでしょうか。
素粒子論をはなれて統計力学では、カオスというのがはやりましたが、現
状をみてみると、なかず飛ばずのようです。学問の分野として確定できるに
至っていないというのが正直なところでしょう(A 教授へごめんなさい)。3
0数年まえに登場したときには、おおいなる期待をしたものですが。カオス
と表裏一体のソリトンも同様ですね。戸田盛和氏は優れた物理学者であるこ
とは疑いのないところですが。
正直のところ、大学へ入学以来、学問への才能に疑念をもたなかったこと
が、今日にいたるまで、一度もなかった。ディラックの量子力学は自分にとっ
9
てバイブルですが、それにに圧倒されて、あんなものを超えることなど、ど
うせできるわけがないと学生のころに悟ってしまった(学部学生の時期にあ
んなものを読む無謀をやらかしたということです)。しかし、その直感は正
しかったという思いがあります。素粒子の標準理論というのも、ディラック
が創始した場の量子論の思想圏内から「本質的に」一歩もでていないと断言
できる。おそらく、ワインバーグ自身がそのことをいちばんよく認識してい
るでしょう(こんなことをいうと素粒子論研究者に袋だたきにあいそうです
が)。畢竟するに、現代物理学は量子力学に注釈を加えることをやっていたに
すぎないということです。
それでは、自分はなにをしてきたか? 学生のころ、多くの才能ある物理
の同級生が、研究という道に見切りをつけてさっさと別の道へ転身して成功
をおさめたものも多いと思います。そのなかで、自分は決着がつけられなく
て、ぐずぐずしているうちに、歳をとって、にっちもさっちも行かなくなっ
てしまった。うえで言ったように、量子力学への注釈を、まあ自分なりに地
味にセコくやってきたということです。
しかし、あえて言わせてもらうと:まがりなりにも自分で量子力学の本質
的な部分を理解し咀嚼して自分なりの新たな理論を組み立てるのはやさしく
ない。見た目が簡単そうにみえる問題でも、微妙な点が隠されていて、音程
の調整と音色を聞き分けるわざが必要です。この歳になって、ほんの一端が
読めた程度ですね。
量子力学はそれだけで壮大な理論体系をつくっています。しかし、量子コ
ンピュータというのはなんですかね。なにか、cripple ( あるいは freak といっ
たほうがいいか)という気がします。物理の理論としての華麗さが欠落して
いるということです。なにやら、どくとくの隠語を発明して、業界内部で使
い回している。学問として最悪の状況ですね。志村五郎教授の言葉をかりれ
ば、『やるにことかき皆で徒党をくんで、へんは言葉をあやつっている』
10
20146/xxx
現在という時は、過去の忘却と記憶という相反する心的活動の拮抗のうち
に成り立っているもので、このバランスを崩れるときが不安が訪れるという
ものかもしれません。「アホ抜かせ。」「なに。。。。」
さて、辛抱あるいは、忍耐という言葉が辞書から抜け落ちてしまっている
という気がするのであります。すぐに、行動を起こす。あいつが持っている
のに。おれが、持っていない。だから、やってしまう。とまあ、こんな具合
で、日々、事件がたえません.
話は飛躍しますが、数学者のグロタンディークいわく、「現在の数学者は、
数学概念の最も深いところまで掘り下げる忍耐に欠けている」。数学では、あ
る概念をつかむことで問題がすっきりと解決することがあるということです。
しかし、有効な概念をつかめるのは数学者のなかでも選ばれた人間ですがね。
しかし、どこに問題があるか、しっかりと考え抜くという訓練をする機会が
与えられなかったといういいかたもできるかもしれません。残念ながらそう
いう訓練というのは、学校では教えてくれません。
イデアの世界の住人である数学者にしてそうですから、普通一般の人間に
は、忍耐というのは、厳密な意味では不可能なことかもしれません。それで
も、自分の置かれた制約の多い環境のなかで、なにがベストかと考えてみる
というのは、忍耐のひとつの形であるという気がします。
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最近のニュースより (5.22)
「英国のチャールズ皇太子が、ロシアのプー珍を「ヒトラー」になぞらえ
る」。(余談:Charles といえば、かのハーヴァードに Charles V. とかいう
インチキ祈祷師よろしくの医者がいるようですが。どうも、歴史上の人物で
チャールズと言う名前には、碌なのがいないとか読んだ(聞いた)ことがあ
るような。かの偉大なるシャルルマーニュは例外ですが。)
よくぞ言いました ?? さすが次期英国国王の面目躍如?? をいうところです
ね。
呉(くれ)のヤクザ山守組の親分のセリフ:
「ようゆうた。それでこそ男ぞ。
若いもんに、コンナの CMP のカスでも煎じて飲ましたいくらいや。。。。。」
(深作欣二監督;
「仁義なき戦い」より)
さて、個人的体験をここで披露させていただきます。健康に関することです。
先週の火曜日に、頸動脈狭窄症の治療を受けました。要するに血管拡張工
事ですね。昨年の暮れに、右手の動きに異常を感じて、診断した結果この症
状が発覚したということです。軽い、脳梗塞を発症したのです。MRI 画像を
みて、ほぼ80細くなっているのに、驚愕しました。これはいかんというこ
とで、何度か検査を受けたのちに、いやゆる「ステント」治療を受けること
になったという次第。カテーテル(ガイドとなるパイプ)をまたの付け根(専
門擁護で鼠蹊部という)から、大動脈を通じて頸動脈までもっていき、その
ガイドを通して、まず、バルーン(風船)で、狭窄部をひろげて、そこにス
テント(長さ 12mm, 太さ4 mm の金属のメッシュ状の筒)を装填するわけ
です。
この手術(正確には、surgery ではなく, treatment ですが)は、最近かな
り普及したものであるしく、その道の専門家であるドクターを信頼して施術
を受けました。術後の結果は、いまのところ良好なようで。ともかく、極端
に細くなった血管が突如広がったものであるから、その反動として、血圧低
下という事態が招来して非常に気分が悪くあって吐き気までもようすに至っ
て、これで一巻の終わりと思ったのですが、この事態は、担当医師には想定
内として直ちに血圧上昇の点滴を施し、難を逃れられました。もともと高血
圧であったのに、血圧低下とはなんたることかと。。。。
ともかく外科治療の驚異的な進歩というのを実感した次第です。
12
2014/5/2
ニュースのつづき
今回の事件で、よくわかったこと。
ひとつ:一般人(科学に無関係な)は、ことの本質をわかっていないこと。
『新細胞がないことは証明できない」のだ!
! たとえば、羽のはえたライオ
ンはいないとみんなが思っているが、絶対にいないとはいえない。アフリカ
の奥深い渓谷にひっそりと生きているのが発見されるかもしれないのだ。し
かし、科学はそういうものを相手にしない。現時点で起こりうることがもっ
とも少なそうなものはとりあえず、うっちゃっておこうというのが、公の科
学の立場である。ガロア理論が50年以上数学界で無視されてきたのとわけ
が違う。
立花たかしが、この「仮想細胞」に関して、週刊誌で擁護する立場で発言
していたが、あれはまずかったな。だってあれだけの知名度があるのに衆愚
に与するような発言ですね。「あんたの知性」が疑われますぜ。これまでも、
いろいろと科学に関する解説を書いているようであるが、今回は腹のなかで
は擁護する気持ちがあっても、ここは黙してしかるべきところであろう。
(床
屋のおやじがファインマンに向かって「UFO がないってどうしていえるん
だ。あんた科学者だろう」
:F 「たしかに、UFO はないとはいえない。しか
し、これまでのところ、それが存在するという確実な証拠がほとんどない。
このように確からしさが非常にないものに対して存在がしないようだと判断
するのが科学だ」
: ファインマン:
「物理法則は如何に発見されたか」
(江沢
洋訳)より引用)
ひとつ:stap とかなんとか名前をつけて、あるかのごとき印象をあたえる
が、おそらく UFO と同類というのが最終的な結末であろう。。。。。むしろ
「ねつ造」という意味の新語として認定されるかもしれない。
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2014/4/11
年次のはじめに、「不易流行」という言葉が思い浮かびました。「不易」は
いつまでも変わらないこと。
「流行」は時代々々に応じて変化すること。つま
り、組み合わせれば、=いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中に
も、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求
めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。
なかなか格好のいい言葉ですが、現実には主体的に新味をもとめることは
やさしくなく、仕方がないので漫然と繰り返しをするのが関の山というとこ
ろでしょうか。
さて、世の中いろいろと動きがある風にみえますが。我が身にとって差し
迫ったことがない限り、無頓着でいるというのが大半でしょう。かくいう私
めにして。
鴨長明、兼好法師の故事をおもいおこしつつ、あるいは、かのコメを主食
としないのにコメの国とよばれる国?の Henry David Thoreau に思いを馳
せながら世相を切ってみたいと思います。それにしても、現在文明の虚の象
徴であるアメリカにおいて、ソローという偉大なる超越主義者を生んだこと
は皮肉ですね。
一言でいえば、人間社会は不必要なものをこしらえて、それによって自ら
を苦しめている。うえで引用した昔の碩学たちは、このことをよく認識して
いた。科学的事実が集積するに従って人間社会に多大なる利便がもたらされ、
現在は、その極限に近づいている。人間の欲望は限度がなく、究極のところ
生命までもてあそぶようになった。人間は死ぬということを忘れているです
のからね。再生医療というのはなんですかね。とどのつまり、人間を死から
開放するとでもいうのでしょうか。
科学技術は、考えることを基本としている。ある事実を「これは本物か」
と内省という行為が不可欠であるする。これがなければ、ただの技術である。
しかも危ない。物理学者は核という未来永劫かたがつかないものを放り出し
てしまった。そして、この暴走を制御することには寄与できないでいる.
さて、最近世間を大いに騒がせた事件:
ひとつ:
「コウチノカミ」事件。じつのところ、芸術の分野の話で、芸術は
もともと虚構の世界ですから、科学とははじめから異なるもので、云々して
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も仕方がない。ただ、CD を買った人が、かまされたという意味で詐欺とな
るかどうか。しかし、ゴーストであろうが、作品は作品である。その価値は、
変わらないものでしょう。
「狡知の神」に一杯食わされたという意味で腹がた
つのは、テメエに本当の鑑識力がなかっただけのはなし。しかし、科学上の
発見は、それが、捏ち上げであるとすれば穏やかではない。
ひとつ:
『万能細胞』という触れ込みで華々しく登場して、華々しく散って
行った『事件』。あれはなんだったのか。
今回の事件の発端となった、センセーショナルなマスコミデビユーの直後
に、直感的に疑念を感じて、X 氏へのメールの PS で、コメントをしておい
た。以下引用すると:
『ところで新型の細胞初期化で騒いでますが、あれは大
丈夫ですかね。昔の試験管核融合というのがあったですが』。
はからずも危惧が的中しました。どうも、
(素人)研究者は、あり得ないこ
とを言い出すのがいるものである。物理などでは、一言二言理論の枠組みを
問いただせば、たちまちボロがでて終わり。偏見を承知のうえでいうが、生
物分野では、畢竟するにやってることは、試験管と顕微鏡の観察だけである。
理論もへったくれもない。たんに、かき混ぜるだけ。まあ、蛍光を発生させ
るのをみるとかいう少々手の込んだ技術(料理のレシピと一緒ですな)を必
要とするが。そんなところでも、常識を疑うようなことを言いだすと、たい
ていは、一蹴されて終わりだが、巧妙に、
(誰かに入れ知恵されて)衆目の目
をかすめるなんざ、相当な「ワル」あるいは「タマ」ですね。そのうえ、悪
事が暴露されそうになると、弁護士まで雇って、ドラマ仕立てでマスコミを
利用して、聴衆にアピールしようとまでする図太い神経は、どうやら詐欺を
働く人間のひとつの類型のようです。それに乗ろうとするマスコミはおのれ
の下劣さに無頓着であるというのがなにをかいわんや。科学的能力など、ほ
とんどないのに、見せかけだけで、周囲を手玉にとる。まあ、科学の世界と
いえども例外ではない。下品な想像を覚悟でいうと、女子であることを武器
に、教授に言い寄るという手の延長であるかもしれない。アメリカの名門大
学ですら:プリンストン大学で、某有名女優が特別入学して卒業できたのは、
body を提供したからだとかなんとか。まあ、これは本人同士が合意のうえ
で取引したのであれば、とくに問題はないたぐいのものだと、さるアメリカ
在住の教授から聞きました。欧米での感覚はそんなものらしい。ただし、バ
レなければですがね。
閑話休題:今回の事件で、わかったこと。
1:まず、とりあげるできは、ネットの「恐ろしさ」である。サイバーパ
15
トロールがこの事件をあばくきっかけになった。天網恢々粗にしてもらさず
とはこのことだ。
『粗にして』どころでは、ない。きわめて「蜜」である。ク
ワバラクワバラ.
2:科学のなかの捏造は、圧倒的に医学生理学関係であること。
3:捏造の当事者たちは黙りを決め込む。
4:生ものをあつかうものは事実上再現などほとんど不可能である。だか
ら、問題の所在を複雑にして、決定的な悪の証拠をつかませない。
5:再生医療と名のもとでの国家事業なるものは実のところ、いい加減な
ものである。
6:都合の悪いものは、隠蔽される。
7:医学生理学関係の実験は、極めて雑である。
加えて、気になった報道:センセーショナルなマスコミ発表から時を経ず
して、万能細胞の旗手である山中氏がコメントを発表したのが気になった。
以下のものである。
山中伸弥氏:「STAP研究に協力、小保方さん大歓迎」毎日新聞 2014
年 02 月 08 日 05 時 00 分(最終更新 02 月 08 日 11 時 00 分)
インタビューに答える山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所長=大阪市北区
で2014年2月7日、 あらゆる細胞に変化できる万能細胞のiPS細胞
(人工多能性幹細胞)を開発した山中伸弥・京都大iPS細胞研究所長(51)
が7日、大阪市内で毎日新聞の単独取材に応じた。理化学研究所などが開発
したと発表した新型万能細胞・STAP(スタップ)細胞(刺激惹起(じゃっ
き)性多能性獲得細胞)について「(万能細胞になる)メカニズムはiPS細
胞と同じ可能性がある。ノウハウを提供し、協力したい」と話し、共同研究
の必要性を強調した。50年、100年先を見据えた、もっとずっと大きな
夢を持っているようだ」と評価。
「同じような立場なので、彼女の苦労が理解
できる。彼女を助けてあげたいと本当に思う」と話し、何度も「我々の研究
所に移ってほしい。大歓迎だ」とラブコールを送った。【斎藤広子、根本毅】
私は、これを読んで、この教授はいったいなにを考えていたのかと思ったも
のである。まるで、うろたえているではないか。だってそうでしょうが。仮に
16
もその道の第一人者ですぞ。どう考えても、どこの馬の骨ともわからぬ、格
別に才気があるという噂もない研究者が鳴り物入りで出てきたのに幻惑され
て失言してしまったとしか言いようがない。わたしは、彼が、落ち着き払っ
て一言、
『様子を見ましょう』とだけいうことを期待したのです。これは、Y
教授の名誉に関わることでもあるが、ネットの書き込みで、
「無駄に小物ぶり
を露呈したな」というコメントをみて、おなじ感想を持つ人物がいると思い
ました。ネット社会の魔の性格をあらためて認識した次第。ただし、実際の
ところは、
『様子を見ましょう』とだけ発言したつもりが、マスコミのバカな
interviewer のおかげで、ねじ曲げて書かれてしまったというのが真実かもし
れない。
まあ、医学生理学というところは、いまだ科学になりきっていない。要す
るに、経験の学であって、Y 教授といえども、基礎科学の素養などは、さほ
ど持ち合わせていないというところでしょう。これは物理科学をやっている
ものの傲慢で言っているのではありません。医学は科学になり切らないほど
困難なものということです。経験の学でも、実用的なところで、おおいに役
立っているのですから敬意を払わないわけがありません。精密科学だけが、
学問ではありません。
この手の科学詐欺は、どうも後をたたないようで。現在、50台以上の世
代にとって、うえで触れた、1989年の「常温核融合」の二の舞のように見
えなくもない。試験管のなかで、核融合が起こるというキが狂ったことを言
いだして、大騒ぎになった「事件」(http://ja.wikipedia.org/wiki/常温核融
合:を参照されよ、よく描かれている)。まったく再現性がなく、結局化学反
応と核反応の区別ができない電気化学家の妄想ではないかということで、認
知されるには至らなかったというものだ。言いだした張本人が雲隠れしたと
いうのもそっくりです。ただし、この場合は、捏造というより、錯誤といった
ほうがいいかもしれない。実際、論文としてはでていないそうである。それ
よりも、今回の事件は、核融合の場合とちがってはるかに悪質な捏造である
『シェーン事件』の場合と非常に類似性があるようである。ネット情報による
と、今回の事件の経過がまったく、シェーン事件と平行しているようで、つ
ぎの被疑者の行動が読まれるらしい。今後の成り行きが、楽しみ??である。
ここで、以下のような警句を引用して置こう。けだし名言ですね.
「ラングミュアの『病んだ科学』の症状6項目+1」
1:観測される現象は、いちばん大きいものでも、ありやなしやの瀬戸際
でしかない。また、現象の大きさは、これを生んだ原因の大小にほとんど関
17
係しない。
2:現象の大きさはたいてい検出限界すれすれのところにある。
3:精度この上ない形で現象が報告される。
4:お粗末な実験の割には、すばらしい理論が考え出される。
5:批判に対しては、その場その場で適当な言い訳がある。
6:信者と不信者との比はおおむね五分五分まで行くが、やがてゆっくり
ゼロに近づく。
7:不信者は絶対に効果を再現できず、信者だけができる。
これは物理に関してあてはまるが、生命の場合も、言葉を置き換えれば現
在の事件にほとんどあてはまります。項目5、7などは、まさにぴったり当
てはまるではないですか。
18
2014/1/16
受験シーズンが始まるようで。その企画のひとつとして話題提供というの
だろうか、以下の記事が目にとまりました。
『6浪して東京芸大入学!
!』(毎日新聞1/13)
74年生の女流日本画家の体験談。六年浪人して芸大に入ろうとする執念
はすざましいものがあるが、記事によれば六浪などめずらしくないそうで、
10年以上も浪々の身をやつす強者もいるとか。これだけやっても『元をと
れる』(経済的なものだけではない)ということらしい。
これを読んで一般新聞読者はどう反応するか。よくやったとため息をつく
か。芸術部門は特殊なところだから、とにべもなく言いきるか。(ちなみに:
全身ポートレートが載せられていて和服姿の相当な美人であるのが気になる)
いわずもがなの、評論を加えるが、六年浪人してももとはとれると、クー
ルな考えを「開き直った」ように告白しているところが興味を引かれるので
ある。普通なら、あんた六年もかかって入ったんかと軽蔑のまなざしを向け
られるところだが、そうではないところが『倒錯の世界』を形成しているか
のようである。
ともかく、絵画の世界というのは、ギルドを形成していて、特定の流派の
なか徒弟をこなし、そのなかでしか、評価されない仕組みができているよう
である。価値の基準がそもそもないところでは、流派をつくってそのなかだ
けで評価しあうしシステムをつくるのは自然の成り行きである。科学の世界
ですら、学問的価値が相対的に低いとみられるところでは、みな徒党を組ん
で必死に権益をまもろうとすることを思えば、絵画の世界などおして知るべ
しである。
絵画芸術の才能などは、もともと学校教育とは無関係な価値を形成してい
るはづである。学校では問題解決の技法を学ぶが、図画というのは通常の科
目、たとえば、数学をまなぶというのと違う。どちらかというと、付属的な
ものである(これは偏見に基づいた物言いであることは断っておく)。売れる
絵を描けるというのは、もともと学校教育とは無関係な才能があるからだろ
う。ピカソの絵は変な絵であるが、ああいう奇妙な絵が自然と描けるという
のは天才のなせる技であろう。
『錯覚』を利用して見るものにだまし討ちをか
ける仕掛けを周到に用意しているのである。絵筆をもった臨床心理学者では
ないか。
19
浪人の話にもどすと:ずっと昔のことであるが、田舎の知り合いの人の息
子さんが、東大医学部をねらって3回とも落ちたという話を聞いたとき茫然
としたものである。芸大に入るのに6年あるいは、それ以上を費やすという
のはもっと過酷な世界である。
もう一つの例:20年近く前のこと。京大理学部を3度おちて、わが物理
学科に入学した学生がやってきて、どうしても京大へ行きたいというのを説
得これ努めたことがある。早く大学に入って物理の基礎をきっちり勉強すれ
ば道はひらけると、トコトン説教したのだが、結局消えてしまった。いまご
ろなにをやっているのやら。こういう『倒錯』に取り憑かれたような学生が
かならずでてくるのが、いまの受験制度である。延々と接続していくと、合
格することが、自己目的化してしまう。司法試験を延々と受け続けるという
のも同じだ。合格したころには、普通の人が定年のころというのは、寂しさ
を通り越している。もっとほかの道があるからそこへ行けと言っても聞く耳
を持たないのは、自分の責任だと言いきれるのか。
翻って、この学生の同級生である X 君は、東大京大でなければという幻に
とりつかれないで、わが物理学科にすみやかに入学したのちに、大学院に進
学し博士を取得して、フランス、ドイツ、アメリカで研鑽をつづけて最近注
目すべき成果を上げた。これが、正準ルートである。
大学浪人という現象は、日本を含むアジアの国々だけであろう。予備校と
いうものがかならずある。医学部、芸大に特化したもののもあるらしい。皮
肉な言い方をすれば、予備校の教師の食い扶持を提供するために文部省と大
学が結託しているかのようである。日本の受験(教育)制度はどこか狂って
いると、自分が大学へ入学した頃(半世紀前)にすでに感じていたことであ
る。この「倒錯した世界」は、いまもって、寸分の違いもなく生きづいてい
るのをみるにつけ、日いずる国がいまだ『開国』されずと思いをいたすので
ある。
20
最近のこと 2013/12/14
good: NY の大学でポスドクをしている、わが研究室 OB の X 君がコロ
イド物理の分野で一発当てた、もとい、すばらしい業績をあげました!! 長
年、フランス、ドイツで研鑽をつんできた粉体力学と流体力学の手法を組み
合わせによって、みごと実をむすんだというわけです。物理の分野で当たる
ことなんて滅多にない。40年近く、未解決の問題に、新しい数値モデルを
提案して、うまくいったとのこと。サイエンスライターの目をひく格好のネ
タであったとか。2013年をしめくくる快挙として慶賀すべきことです。
congraturaion !!
bad and silly いうまでもなく秘密法です。こういう法律をつくった意図が
よくわからないが、最近の国をとりまく情勢になんとか対処するというのが
背後にあるのであろう。NK なる国による偶発的攻撃にそなえて?じつはこ
ういうこのは作った本人に跳ね返ってくることを考えないといけない。サメ
のような無表情の目をした石ば某が。。。。クワバラ、クワバラ。。。。
おまけ:
昨日の講義で、いちばん前に座っていた留学生が「ストリング理論で、九
次元が。。。。という話を知ってますか。。。。ホーキングが。。。。」
一年生で物理を教えていると、よく勉強する学生でこういう通俗科学をか
じってひとかどのことをぬかす手合いがいるが、久しぶりである。トクナガ
だ!
!
(ずっと昔、着任したてのころトクナガというのがいた。一年生のクラス
だがわたしの担当する量子力学にもでていた。しばらくして、こいつは怪し
いと思ったが、あんのじょう、力学の初歩すらできたなかった。きみは、力
学にもどってまじめにやれ!)
例によって、思わず、「そんな話は全部デタラメである !
!」
と言ったものである。いい年をして大人げないことを言ったものだが、少々
語気をつよめていたことは事実である。だってそうでしょうが。X 君のよう
な堅気の物理の問題に真剣に取り組んで、きちんとした成果をあげるという
のが研究というものであるのに、こういう浮ついた、あやしげな数理理論を
喧伝する科学ジャーナリズムに、プロの研究者としておもわず鉄槌をくだし
たくなるというものです。まあ、留学生に怒鳴ったところで仕方がない。す
こし冷静になってですね。
留学生は、さらに、
「科学というのは、いろいろな説があるのでは。。。。」と
21
すこしわかったようなことを言った。そこで、すかさず、
「しかし、そのなか
でまともなものはほとんどない。ブラックホールが蒸発する?? 誰もそんな
ものはだれも確認してない。数学をつかえば、なんとでも理論はでっち上げ
られるのだ」
(ちなみに、宇宙論というのは私見によれば神学に属するもので大学の神
学部に帰属させるのがよい。そのなかで数理神学科というのをつくればよい。
昔の司祭などは占星術をやっていたではないか)
教室から外にでると、おもわず、寒風が頬をうった。歩きながら、説教の
つづきをやる。
「こういう通俗ものをみるのもいいが、きみの段階では、ただ
しい判断はできないから、まずまともな物理をきちんと勉強することだ。力
学、熱力学、電磁気。。。。。こういう科目を辛抱つよく習得することだ。。。。。」、
留学生は、わかりましたとうなずく。彼らは、日本人学生とことなる純粋さ
をもっていると期待したいのであるが。実際、見込みはありそうだ。と思う
が、実際のところはどうだろうか。トクナガとはちがうようにみえるが。や
つはいちばん簡単な微分すらできなかった。ようは物理などできるタマでな
かったのだ。
ともかく、はじめをすっとばして、最先端理論をかじるという手合いが、あ
とをたたない!
! 最悪のばあい、そのまま大学院には積分がまともにできな
いまま、大学院で論文を書くやつがでてくる。。。。。
こういう風潮に、異をとなえるのがでてこないというのは、学問の末期症
状である。素粒子統一理論という麻薬にすいよせられるのがあとを立たない。
「自殺志願者」を製造している研究室の責任な重いということを自覚すべきで
ある。どうも、こういう学生を自分たちの食い扶持を確保するために人質に
しているようである。学生が興味をもたなくって来なくなれば、その存在の
根拠はなくなる。もともと、根拠のない数理遊びをやっているだけであるか
ら、あっと言う間に崩壊する。
22
ヒッグスへのオマージュ (2013/10/xxxxx)
X 様:まずは、CERN において公式に存在の確定声明がだされて、それを
受けてストックホルムのお墨付きによって、晴れて認定され一件落着という
ことで関係諸氏にお祝いをもうしあげねばなりますまい。
わたしはいまも実験家の「申しあわせ」という疑念が払拭できてません。
ずっと昔のこと、院生の学位論文でゲージ場とヒッグス場との結合というテー
マをとりあげました。しかし、ああいうものを真剣になって実験でみつける
という企てをやるなどと思っていなかった。だから、あれは加速器実験家が
自分たちの生き残りのためにヒッグスをダシにしたといまでも思っています。
それで、ものすごいカネをかけた(税金を投入した)のに、なんにもでなかっ
たでは、ただではすまされない。なんとしてでも見つけたことにしようでは
ないか??というのが真相ではないかと邪推したくなるのですな。しかし、素
粒子の質量の起源など、ヒッグス粒子なるちゃちなもので説明できるわけが
ない(南部教授の1984年の「科学」の解説記事参照)。そもそもヒッグス
ボソンの質量はどこからくるかとなると堂々巡りになる。標準理論といって
いるが、未定のパラメータがどっさりあってそれについてはいっさい口をつ
ぐんでいる。
だれがつけたか知らないけど、ちょこっとしたまぐれあたりの論文で、並
の研究者であったヒッグスが、ヒッグス粒子という法外なネーミングをかぶ
せられて内心おおいに困惑をしている?あるいは人がかってに呼んだだけで
俺はしるかとたかをくくるか。まあ、往々にして こうなるのですな。それ
にしても、Englert-Brout までくると、who’s that ? ということになる。結
局、賞というのは、Selberg が言っているように、まばゆい才能が出ている
間はよいが、そのうち『資源が枯渇して』普通の連中に出さざるを得なくな
る。そのとおりになっている。しかし、
外からなんと言おうが、結局選ぶものが独自の基準をもっている
ということですね。これが、N 賞を N 賞としてならしめる所以なのでしょ
う。専門家の立場からいえば、Goldstone はワリをくっていると思っている
人が多いのではないか。あとからでてきた小物たち?(BEH 諸氏にはわるい
が)が、うまいところ(うまくみえるところ)をかっさらっていった。わた
しは、彼こそ真の意味で, BIGSHOT だと昔から思っています。
Y 様:Higgs 自身も「1964 年の数週間だけしか取り組んでなかったのに、
他のひとたちとならべられるとは・
・
・」と、至って謙虚な模様ですよ。それ
からアンダーソンの貢献も。。。。
23
X 様:結局単純に考えて、ヒッグスという非常に短くインパクトのある名
前がよかったのでしょうか。これが、ドフトエフスドロクスなどという名前
であったら、とても人の口にのぼらなかった。親に感謝をしなければ。誰か
が軽い気持ちで名付けたのが一人歩きしたしたということ。たしかに、ゲー
ジ場が質量を獲得する機構はアンダーソンが初めて指摘したことであるから、
彼にクレジットをあたえてしかるべきですね(ただし例によって彼の論文は
非常に読みにくい)。どこかで書いてあったと思うが、アンダーソンはこれに
関して素粒子の連中に対して相当怒っていたらしい。ひょっとしたら、テキ
サスの SSC 計画が中止になった背景には、彼が素粒子の連中の傲慢さにおお
いに腹をたてたことも背景にあるのではないか。
Y 様:このひとたちは (Englert, Brout)、もとは固体物理をやっていたよ
うですね。でもいつも無視されているようでかわいそうですが・
・
・。Englert
自身は BEH mechanism と書いていましたね。
X 様:Brout の名前は知っていました。電子ガスの集団振動理論:いわゆる
random phase approximation (RPA) というやつで、Sawada, Bruckner,
Fukuda, Brout という論文は院生のセミナーでとりあげたことがあります。
Brout というのは、Sawada(沢田かつろう) 氏のおまけと思っていた。沢
田氏というのは、朝永振一郎の高弟で、RPA の創始者です。われわれの世代
にとっては、南部氏も沢田氏も同格の学者と思っていました。Bruckner とい
うのは、その当時多体問題における名うての大物だったのが、物理の歴史か
ら消えてしまった。。。。。いつか、再評価される日がくることがあることをい
のります。
ところで、液晶とヒッグス(ゴールドストーン)の関係ですが、単純なこ
とで、スメクティック液晶というのが、超伝導のランダウ秩序変数でかけて、
LG free energy でかけるという話があります。それに、ゲージ場(その起源
はちょっとわかりにくいが)を結合させると、まったく電磁場中の超伝導理
論と同等になる。これを、さらに、時間依存をもたせて、つまり、秩序変数
にかんする運動エネルギーを加えてやる。そして、秩序変数を極表示すると、
ヒッグス場と質量をもったゲージ場の形に帰着するというわけです。要する
に、液晶に対する秩序変数という装いを変えただけの話だが、膨大なカネを
かけないで、実験室で簡単に実験的にモードを観測できる可能性がある。ま
あ、いまのところ話だけですがね。
結論として、ランダウがすべて見通していたというのはまぎれもない事実
ですね。これは、わたし個人のバイアスがかかっています。微視的多体問題
24
で論文が書けなかったが、LG 理論にのりかえることにより、凝縮系理論が
「理解できる」ようになったということです。平均場理論だが、『凝縮』とい
う現象が、秩序変数なるもので一発で制御できるところが自然に受け入れら
れた。
25
2013 夏 フランスーイギリス
8/30- 31
今日は、空港での手続きが簡単にすませたので、早い時間にホテルにチェッ
クインした。
今度のフライトで、チェックインでちょっとした問題があった。といっても
実際に問題がおこったのではないが。web で予約をしたのだが、帰国便をロ
ンドンからにすると行きもロンドンまで予約しないといけない。つまりルー
プにならないといけないのである。関西空港のカウンターで、パリで途中下
車したいのでそのように変更してくれというと、それはできないというので
ある。搭乗券は、ロンドンまで通しでないと発行できないという。
「こまった
な。。。。」女性は上司に電話をしてたづねてくれたが、やはり、ロンドンまで
しか発行できないので、あとは、自分の判断で途中『下車』してくれという。
荷物が問題であるが、さいわい今回は、少なかったので機内持ち込みができ
たのでその点は問題がなかった。しかし、機内持ち込みができなかった場合
は、荷物もロンドンまでいくのかということになるが、その場合は、荷物だ
けパリでおろしてもらえることは当然可能であろう。ということを聞こうと
思ったがやめた。ただし、関空の担当の女性は、『パリについたらかならず
AF の担当にロンドン行きは放棄することを申告してください』と念をおされ
た。その指示通り、パリについて、AF のカウンターで、ロンドン行きはキャ
ンセルすると言ったのだが、フランス人の係の女性は、ただひとこと、
「オー
ケー」といっただけで、PC のうえで処理する様子はなかった。勝手に降り
たのだからあとは知らないということだろう。フランス流である。まあ、帰
りのフライトに影響することもなかろうと、そのまま荷物の受け取りのテー
ブルで待つ必要もなく、RER の乗り場までいつものように移動していった。
RER B 線の POrt Royal から、ポールロワイヤル通りを、「いつものよう
に」、ゴブランにむけてスーツケースをころがして下っていった。ゴブランは
ちょうど傾斜の底の位置になっている。ちなみにゴブランといえば、ゴブラ
ン織で知られている。「いつものように」という表現は正確ではない。年々、
体に経年効果を身をもって感じるのである。この状態がいつまで保てるか。
こんな将来を考える回数がますます増えていくことに悲哀をおぼえる。有限
の命を実感する。
通いなれた大通りであるが、よく注意すると、少しずつ変化していく。こ
の前にあった店がべつのものにとって変わっている。ゴブランから数えて、4
つ目の通りの角に「Sadaharu Aoki」という、Patessier (フランス菓子)の
店がある。はじめてパリに滞在した2002年にはすでにあったので、ブラ
ンドは定着したのだろう。大和たましいの面目躍如といったところで慶賀し
26
たい。フランスへ思い入れをもった日本人の典型であろう。かの画家の藤田
つぐじがその嚆矢であろう。女優のキシケイコなどがそれにつづくのだろう
が、フランス人に格別知られているわけではないだろう。サンルイ島のアパ
ルトマンの住人だろうか。
自分は、フランスの科学文化に敬意をもっているが、思い入れといったも
のではないと思っている。偶然ボテ教授に知遇を得て、パリに滞在するよう
になったのである。しかし、パリは生活が高くつくが好みの街である。よく
できていると思う。科学研究者にとっては、興味のある街である(と思う)。
デカルト、パスカルにはじまる長大な科学の歴史がきざまれている。それと
相まって、物理の理論をつくるという思考パターンとこの街の構造が非常に
マッチする気がするのである。贔屓の引き倒しといわれるかもしれないが、
いろいろの意味で変化のパターンが複雑に入り組んでいる構造をもっている。
摩天楼の NY とはまったく異なる。かまぼこ細工からできたようなイギリス
の街ともちがう。アイデアを得るならパリだ! たとえば:ポールロワイヤ
ルととなりの大通りがアラゴ通りであるが、その通りには監獄がある。高い
塀に厳重に囲まれた窓から、ときたま、受刑者が通りの人間にむかって、手
で合図を送ってくる。世界屈指の都市に、監獄が人の住む界隈に無造作に存
在するのは奇妙な気分にさせられるではないか。 ともかく、カルチェラタンの端に位置する適度に快適な場所だ。ゴブラン
交差点から東に向かって上ったところが、Place d’Italie で、その手前が、rue
de Coypel である。ここを上りきったところ、ロピタル大通りと交差する手
前に、ホテルーコイペルがある。
ホテルにチェックインして、名前を告げようとすると、フロントのアフリ
カ系の女性が、さえぎってなにか言った。ちょっとわからなかったが、
「また
会いましたね」と言ったので、ちょっと驚いて、
「覚えていてもらえて光栄だ」
と返事をした。実際、こちらが覚えてないのに客の顔を覚えているのは、な
かなかないだろう。かなり認識能力のある女性であるらしい。
部屋は、5階であった。狭くはないが、ダブルベッドと予備のベッドがし
つらえられていて場所をとっていた。なんでもバカンスの家族用なのであろ
う。一人客には邪魔である。衣服をぬいで置いておくのにつかっている。し
かし、バスルームがひろびろとして、浴槽がついているのが、秀逸である。
狭苦しい、シャワーボックスに比べるとはるかに快適だ。
9/1
今日から9月。午前7時すぎ。晴天。
おもわず、窓を全面的に開け放す。涼風が吹き込み、9月の息吹がしっか
りと、体を包み込む。狭いバルコニーにでて見渡す景色は格別である。窓か
27
ら日の出が心もち右の方角に、拝むことができる。
ともかく、ホテルコイペルの5階からの朝ぼらけを堪能する。筋状の雲が
晴天のなかにいくつか走る。パリ朝焼けをこういう具合に楽しめたのは、は
じめての経験である。
高さによって、景色が変化することは、理屈では考えられても実際に経験
してみるとずいぶんと違うものだ。
朝食をすませて、もどってくると、太陽はもうかなり高くなって、風景は
平凡になってしまった。ときたま風景がその本質を表すということが重要で
ある。
ゴブランは、いくつかの通りの交差点になっている。このあたり一体が、パ
リ名物のブラスリーがひしめいている。そして花屋がある。その隣の雑誌売
場の看板に、アメリカのゴシップ雑誌 Vanity Fair の広告が掲げられていて、
その表紙に、わが 敬愛する?ハリウッドスター:マイケルダグラスの顔写真
がデカデカと出ていた。かれも、なんとかガンにやられたとかで、その消耗
ぶりがみごとに顔相にあらわれていた。もともとは、肉づきのよい精悍な顔
立ちであったのが、ひからびたほお肉のうえに、鋭いが, (父親(カークダグ
ラス)ゆずりの)弱い眼光をたたえて、病魔と苦闘している様子がいたいた
しい。この記事を読んでやろうと思ったが、英語のオリジナルはなかった。
9/2
午前5時、空は夜明け前。三日月がくっきりと青い背景のなかにくっきり
と浮かあがっている。今日も晴天である。後少しの睡眠をとってと思って、目
を閉じているのであるが、ほとんど目覚めてしまった状態である。(夕べは、
7時前に眠ってしまい、夜中の1時に一度目覚めてまた眠りこんで再びめざ
めると4時まえ、それからうつらうつらと)。6時すぎ東の空があけ始める。
筋じょうの雲が朝焼けの背景のなかにたなびいている。調和のとれた建物群
が、バルコニーの鉄の柵を通して見通せる。つくづく、この街を設計した人
物の美的センスに感心する。
「等質空間」という概念をこの設計者は、認識し
ていたかのようである。つまり、町中のどの地点からみても調和のとれた景
観がのぞまれるということである。これは権力者(ナポレオン3世)の意思
の帰結でもある。
起きあがって、バスにゆっくりとつかったあと、東のそらに朝日がのぼる
のを、ベッドに横たわって窓を通してながめるのは、もっとも贅沢な時間で
ある。これこそ旅の時間を満喫できる時間である。
「パリの空の下:ながめの
よい時間」と小説の題目にでもなりそうではないか。
さて、今日は月曜日。バカンスがおわり、今日からパリも仕事始めだ。窓
をあけはなつと奔流のごとき騒音の攻撃にみまわれる。しかし、遮音ガラス
のおかげで、閉めれば、騒音は大幅に緩和される。騒音は都会の宿命である。
7時40分:朝食におりていくともう、4人くらいきていた。どうやら、彼
28
らは、ドイツ人ではなかろうかと推測した。フランス人が、ど早くおきてく
るわけがないからである。一組のカップルの言葉はよく聞き取れなかったが、
フランス語ではなかった。彼らは、そそくさと、食事をすませて、観光に飛
び出していった(と見えた)。
まかないの女性は、例の「「スペインの黒髪」である。どうやら、今日は早
番であるらしい。愛想がいい。1 E のチップは感謝の気持ちを表すものだ。
過分な額を支払うと、なにか背後によからぬ意思が働くという警戒心を起こ
させるかもしれない。
9/3 ウィンチェスター
今度も、ユーロスターでロンドンへ。今回も、ムッシュ ボテに切符の手
配を頼んでおいた。一等で150 E である。
今回こそ、トンネルの入り口に描かれている Euro-tunnel の表示をカメラ
におさめようと頑張ったが失敗した。高速列車から安物のデジカメで対象を
撮るなどは素人には無理のようである。
ロンドン、kings cross-St.Pancras 駅から、地下鉄で、Waterloo 駅まで行
き、そこから、Weymouth 行き急行に乗って、Winchester までかっきり一
時間だ。非常に便利にできている。ウィんチェスターという名前の都市があ
るとは今にいたるまで知らなかった。どうしてもその名前のついたかの有名
なライフルを、B 級西部劇「ウィンチェスター銃73」とともに連想してし
まう。(ちなみに、家内は、「ウィンチェスターというのは、有名な寺院があ
るところね」と言ったので、一瞬そうだなと思ったのだが、すぐに、
「あれは
ウエストミンスターだろう」と修正した。)
Winchester まで途中の停車駅は、ひとつであった。ロンドン往復が、36
ポンドであるから円に換算すると、片道3200円くらいであるから日本の
新幹線よりは安いであろう。ともかく、ゆったりとしているのが快適である。
車窓からながめる田園風景は、イギリス独特であろう。汽車の線路にそって
灌木が生い茂ってそこから畑が垣間見える。刈り入れのあとであろうか、円
筒状にまかれた麦わらのかたまりがころがっている。通過駅のまわりの町は
店などまったくなさそうで、この調子でいくと Winchester というところも、
なにかうらさびれた感じのところだろうかと気になってきた。しかし、それ
は杞憂であった。Winchester 駅は、このあたりで有数のリゾート地で、由緒
ある瀟洒なところであった。歴史的にも由緒があり、古くはイングランドの
首都であったとか。
ホームの側から、改札をでると、少し坂になっていて、そこから町の中心
に向かうようであろう。改札があるのは意外であった。このごろは、キセル
は、万国共通になったのだろうか。できるだけきめ細かくチェックすること
29
で、損害を減らそうという努力をどの国も強いられてきたのか。システムを
便利にすればそれによってかえって余分の仕事が発生するというのは現代の
業であ r そう。
サウスハンプトンへ。
ウィンチェスターから、15分くらいのところに、有名な Southhampton
という港町がある。昔、学校の地理の時間で、サウザンプトンと習ったと思
うが、実際の発音は、サウス- ハンプトンであった。アメリカ英語では、サ
ウザンプトンと発音するのかもしれない。
会議が終了した。それまでの晴天が、うってかわって曇天に変わった。1
0ポンド払って、ガイド付きの Winchester 市内観光に申し込んであったが、
ロンドンに早くつきたいと思ったのでそれはスキップした。
来たときと同じ改札をでて、反対側オームへ地下通路で移動しようとする
と、また改札をとおる必要があった。もちろん問題はなかったが。日本とお
なじく、のぼりの改札からはいって下りのホームに地下道で移動できないよ
うになっていた。まあ、規模の大きな町なので、のぼりと下りの入り口(改
札)をもうけているのかもしれなかった。そういえば、NY の地下鉄は、の
ぼりと下りが完全に別の駅になっているところがある。まちがって改札をす
ると、いったん出る必要があり、一度も乗らないのに金だけ払わされるとい
う不合理なことになる。息子いわくこれにはアタマにきた。こういう大雑把
なことがまかとおるのが英米流なのかもしれない。
Winchester 駅で汽車を待っていると、会議のセクレタリーをやっていた
IOP の女性が、スーツケースをころがしてきた。ロンドンから来ているよう
であった。声をかけようと思ったが、食事のときにすでに十分話しをしたの
で、無理に英語で話題を作り出すのが面倒なのでやめた。彼女は少しはなれ
たところにたって、列車の到着を待っていたが、どうもこちらに気がついた
らしく眺めているような気がした。女性の年齢はわからなかったが、おそら
く、みかけの年齢よりはかなり若いのではないかと推測する。ただしこうい
う科学関係の仕事をしている女性は、そうでもないかもしれない。列車が到
着したが、行きとちがってかなり混雑していた。もちろん、空席がないとい
うことはない。
ともかく、ロンドンから南西部に位置する、イギリスでもいいところだ。
また、来てみたところだ。
Waterloo 駅に到着して、ホームをおりてコンコースへむかって歩いている
と、若い女性がけたたましい声をあげて、Wait wait..... I have left ............
とおりた列車にむかって走っていった。彼女は、おなじ汽車に乗っていた女
性で、ひょっとしたら PC かなにか忘れたのかもしれなかった。
30
ホテル Thisle city Birbican は、かなり規模の大きなホテルである。
ヒースロー行き空港バスがでていると思った。
アラブ系の掘りの深い小柄な女性が、この前とおなじく受付にいた。2月
に世話になったというと、ありがとう。どこから来ましたか。日本です。日
本はいいところですね。という会話をして、ところで空港行きのバスがここ
から出ていると思うが、というと、残念ながらそれはありません。タクシー
をよびますか。タクシーは高くつくので。それでは、公共の手段でいくなら、
あちらのコンシェルジュの James .... というのに聞いてください。指差しな
がら、依頼のメモを書いて渡された。コンシェルジュというのは、案内人の
ことである。大柄な黒人の男で、なにか電話で応対をしていて、しばらく待
たされた。教えてくれたのは、地下鉄でヒースローまでいけるが、一時間以
上もかかる。
空港行きの特急列車があることを思い出した。インターネットに接続して、
ヒースローへのアクセスを調べると Heathrow express がでてきた。パディン
トン駅から、15分だ。ただし、18ポンド !! ドゴール空港とパリ間の3倍
ちかくもする。しかし、便利であることはたしかた。
ロンドンの空港で、帰国便にチェックインした。。。。。。しかし、行きのパ
リーロンドンをスキップした結果がここで効いてきた。いつもにくらべても
たついているのである。なにか問題が発生したのかとたずねると、インド系
の担当者が、あんたは、パリーロンドンを放棄したので、画面がフリーズし
たのだと言って、別の担当に電話をした。すぐに男がやってきて、ちょいと細
工をすると PC の動きが再開した。女性は、ユーロスターできたのかと言っ
た。ともかく、PC のうえでループが途中でとぎれるとつなぎ変えをする必
要がある。手動でやっていると問題がないのに、こういう場合は却って面倒
が生じるという例である。
31
プライドそのほか
2013/7/18
最近ながめた読み物:
「プライドの社会学」。もうひとつ:少し古くなるが、
筒井康隆の「アホの壁」(これは最近ある筋から知ったもの)。これら二つに
は、直接的な関連はない。むしろ無関係である。前者は、書名から推測され
るように、社会学という学術的な枠組みから論じられている面がつよく、後
者は、数多の「武勇伝」で鳴る作家の書いたいわば、人間観察録とでもいう
べき軽いタッチの読み物である。しかし、本質をついている。反面、前者は
学術的な色合いのために、いまひとつ焦点が定まらないという印象をもつ。
さて、アホとプライドは、表裏一体であるという言い方ができるであろう。
「ぼくアホやねん」というのは、自分が小学低学年のときに発した言葉である。
プライドは、人間存在における業である。プライドは、しかし、
『達成』に反
比例(比例ではない)するようであるというのは逆説的事実のようである。
科学の研究者に共通する性格の負の(あるいは憂鬱な)面に関してのべて
みたい。とくに自分の属する集団である物理学研究者を例にとる。この人種
は、プライドという点では、天下逸品であることは言をまたない。たとえば
素粒子論の専門家と称する連中は格別にそうであろう。高尚な学問に参画し
ているという根拠のない自負だけが頼りである。
(わが友人である何人かの素
粒子専門家は、謙虚で自分をわきまえていることを断っておく)。
プライドは、自己愛と同義語である(といっていいだろう)。一言でいう
と、
「自己愛」が何らかの形で、研究生活全体をささえている。物理を研究し
ているもののかなりの部分は自己愛がつよい。あるいは、自己愛の塊である
かもしれない。問題は、科学研究で自己愛を満たされる場合というのはほと
んどない。満たされるというのは何かという問題があるが、単純にいえば、
自分のやったことが、世間さまに認められるかどうかということである。こ
れがあると、真の意味で達成されたといえる。残念ながら、ひとに認められ
ることなど非常にまれである。ああ、あれは誰かの亜流だなという評価がく
だされるのがいちばん怖い。だから、その認識ができないものが、自分が評
価されていないことに対する、場合によっては「異常なまでの僻み」をもつ
に至る。プライドが「変質」する。
そもそも、
『物理学者』になれるほどの才能をもったものなど、物理を志し
て研究しているもののなかでもほんの一部である。
(ほぼすべて(自分をふく
めて)タイラボンタロウ教授である。ただし、たまたま、当てるというのも
ある)。自分は、はたして一人前の学者といえるのかという疑念にたえず苛ま
れながら研究なるものをつづけているというのでなければウソであろう。科
学を研究するというチャンスに恵まれただけでもラッキーであることを忘れ
てはならない。
32
閑話休題:さて、僻みが嵩じると「自分至上主義」となるのはきわめて自
然な成り行きかもしれない。プライドの「毒素化」というべきである。人の
やったことを無視するという態度に出るというのがひとつ。自分を評価して
いない人の論文をあえて読もうというものは少ない。いいものは、いずれ人
目を引くものであると悠然と構えられる研究者はまれである。これだけ論文
書いてやっているのになんの評価も得られない。下らんものばかりをやって
いるからそうなるのだということはわかっているが、この冷厳な事実をなか
なか認めがたいのである。物理理論を提案した論文を書いても通常は無視さ
れるということを認識しなければならない。要するに売れるのはまったく偶
然であるということを理解しなければならない。
「科学というのは厳しいもの
で、つまらないものは認められない仕組みになっている(朝永振一郎)」(し
かし、テメエの頭のお粗末なことを、他人にすりよる、あるいはタカルこと
で、すり抜けをやるヤツがいる)。
そういうときには、自分たちで、たがいに「愛し合おうではないか」いい
かえれば、徒党を組むようになる。あるいは、みずからその業界社会に仲間
入りをしようと試みる。でも、所詮門外者としてはじき出されると、孤独に
なっていく。そして「敵をつくる」ようになる。とても一匹オオカミになれ
るはづもないから吠え続ける。こういう、暗い表情でうらみの感情をもつと
いう状況に対して、ニーチェは、「ルサンチマン」という用語を発明した。
物理学(科学)研究者を念頭においていたが、ここで、一般化をする。通
常は、自己愛は忍耐と双対 (dual) の関係にある。ひらたくいえば、『忍耐か
ける自己愛』は一定である。忍耐は客体化と比例する。耐えるということは
自分をいかに、他者とおきかえてみられるかということだ。人間は、うまれ
た瞬間から社会のなかに放りだされる。親の厳重な庇護のもとで成長すると
いう過程は、まさに自分を他者のなかでどの位置にあるかという訓練をさせ
られることであるといえよう。
自分の位置が見いだすということは、社会という劇場で自分の座席をさが
すのとおなじく、それなりに努力がいる。人生での成功というのは、いい座
席を得ることだともいえる(いい座席というのは勿論相対的な価値判断にも
とずく)。それを実現するためのひとつの重要な要素が忍耐だと思う。耐える
ことによって、評価を得るということにつながる。いろんな意味で、ドロッ
プアウトするのは、忍耐をする訓練ができないまま、他人に評価される機会
のないまま大人になってしまって、
「自分がなにほどのものでもない」という
ことを悟らされる機会を逸する。
そういう意味では、いまの「日本の」社会は、きわめて危ない状況にある。
親も教育者も、子供たちに、
「自分がじつは大した存在ではない」という冷厳
なる事実を教えこむ機会がまったくないのではないか。あるいは、なぜか、そ
33
ういうことをいうのが怖いと思っているふしがある。
「子供には無限の可能性
がある」という幻想だけを煽っている。しかし、そこらにいるガキが、
(母親
にはわるいが)いずれショボイ人生を歩むことはどう考えても明らかなこと。
冷たい現実から、
「忍耐することによりいかに自分を磨くか」ということを
真剣になって教える必要があるのではないか。ただし、忍耐努力をしたすえ
にきちんと応え(利得)を用意しておいてやらないといけない。このことが、
そもそも欠如しているのが日本社会の根本的欠陥である。
「人の命は地球より
も重い」ということを平気でいう馬鹿ばかりであることに唖然とする。人間
はうまれたときから、不公平にできているという現実を教え込んで、そこか
ら、いかに自分の分を認識しつつ、味方を増やしていくかということを教え
るべきなのだ。いい言葉がある。「控えめ= modest」は、響きがよい。
さて、自己愛が実現できるのは才のあるものである。うえの公式(『忍耐か
ける自己愛』)にあてはめると、才あるものには自己愛(プライド)が無限大
であるが、それは、自己愛がそもそも不要あるともいえる。かれらの忍耐は
正確にゼロである。しかし、社会性の完全な欠落という犠牲をともなう。し
かしながら、才によってなされた達成に帳消しにされる。こまったのは、不
完全な自己愛である。自己愛があるが、忍耐力がかぎになく小さいがゼロで
はない。であるから、達成されたものがないが故に帳消しにはされない。極
端な場合、欠陥人間であるということだけが残る。
喧嘩を売るようなことを書いてしまった。お前はいかなる了見でこんなこ
とを書いたのかといわれそうである。弁明すれば、自分のまわりをみて、ど
こをつつけば道が開けるかということに関して、自分のアタマでしっかりと
考えて精進はしてきたつもりである。しかし、世の中の研究者(人)は、こ
ういうことをひごろ真剣になって考えているのがどれだけいるかとギモンを
持ったのでうえのようなことを書いてみたくなったのである。
しかし、おもえば『アホと賢は紙一重』。なけなしの専門以外では学者など
は全部アホであるというのが自分を顧みてつくづく思うことである。
34
エゲレス国渡航記
This note is a report on the travel that was carried out during Feb.23 to
March 8.
プロローグ:パリ13区ゴブラン界隈
Feb. 24: Hotel coypel :
ゴブラン通りを上りきったところにあるコイペル小路がロピタル大通りに
合流するところにたっている。このホテルは、これで2度目である。ちょう
ど3年前に一度泊まった。
飛行機の疲れで、前の晩は、ハンバーガーを食って、9時頃に眠ってしまっ
た。朝起きると5じ前であった。
いつも泊まっていたホテル desArt は閉鎖されたいた。おそらく名を変え
るかしてあらたな所有者のもとで再出発するようである。新しいホテルの名
前が張り出されていた。 booking com で予約ができなかったのでなにかが
あったと推測したが、案の定そうであった。ホテル deSArt の日本語を話す
品のよいおばさんと愛想のよい兄ちゃんにあえなくなったのが、ちょっと寂し
いが、パリのホテル業界では、このようなホテルのオーナーの入れ替わりは、
日常茶飯事なのだろう。ともかく、すごい数のホテルがあるのだから。そう
いえば、ゴブランの中心に位置する カロフテルももう4年まえに所有者がか
わって、名前と従業員をそのまま引き継いだようだ。もとのオーナーである
マダム クリスティーヌ・カロフがいなくなったのは残念であった。なんで
も故郷のブルターニュに帰って、結婚でもしたのだろうか。
Coypel の部屋は、ちょうどロピタル大通りに面して、遮音ガラスの窓で
も、かなりの騒音がある。日曜の今日でこのくらいだから、週日はもっとひ
どいだろう。
アフリカ人の政府関係者かビジネスマンが、何人か投宿している。かの国
の黒人は、つまりエリートであろう。黒光りのするなかにもの静香な荘厳さ
をたたえている。
「黒檀美」とでもいうべきものであろうか。フランスを旧宗
主国とする国からきたのであろう。彼らエリートたちはフランス語を自由に
あやつれる。いつも思うのであるが、かの国々の貧困なる大多数の国民をほ
んの一握りのエリートたちはどのような意図でもってなにかをしようとして
いるのだろうか。つるつるに剃られた黒檀の貴公子の頭の天辺から、春の淡
い太陽光が照り返すのを眺めながら、コーヒーをすすりつつ、窓外に目をや
ると、そこから向こうに見える高い建物は、おそらく13区の警察薯であろ
う。黒の貴公子は分厚い唇からヨーグルトをすくっていた。
フランスでは、ホテルの朝食が楽しみのひとつである。この朝食の時間の
過ごし方でホテルの価値が決まるという意見をもっているのだが、いかがだ
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ろうか。two stars のホテルでは、たいてい 0階(日本流にいうと1階)が、
レセプションのあるフロアが食堂をかねている。ここでは、フロントのほと
んど目の前に位置するところに食卓がいくつかおかれている。しかし、さす
がに、カウンター台が高くしつらえられていて、係の女性が仕事をしている
姿は見えないようにできていた。ヴェトナム人(であろうと推測するが、ア
ジア人)が給仕をして, 愛想良く対応してくれる。3年前のときは、朝食をす
るスペースがなかったらしく、注文すると部屋に届けてくれた。エリザベス
テイラーを下品にしたような(比喩がまずいが)部屋係が、朝食を持ってき
た。それが終わると部屋掃除に来たので、あとにしてくれ(apres ) というが
通じなかったらしく、今すぐに終わるかとさっさと掃除機をかけて、あっと
いう間に片付けてでていった。
ともかくも、贅沢な時間を過ごしているのは、たしかである。この時間があ
とどれだけ持てるだろうか。残された時間は、次第に少なくなっていく。。。。。
若者たちよ。いまという時間を大切にしたまえ。
さて、現在11時半。美味なるフランスパンを主とした、朝食をたっぷり
と腹にためこんだのでもう昼はいらないくらいだ。
ゴブラン界隈を散策することに決めて、ホテルを出たが、かなりの寒さで
みな深々と厚着に身をつつんで、歩いている。しかし、この小雪が舞う、曇り
ぞらのパリを歩く人影もまばらだ。電話ボックスのなかに男が占拠している。
さすがに、このまま歩き続けるのは、つらいものがあるので、ブラスリー
にはいった。ここは、もとのすみかであった、
「フェラムラン小路」とゴブラ
ン通りの角にあるところである。ここも、10年前からオーナーがかわった
らしく、少々内装も変わったようである。
奥まった場所のテーブルに案内された。通路と兼用の空間にテーブルをお
いてあるのでガルソンとマドモアゼルが、客のそばをひっきりなしにたち歩
くのを横目でながめるのであるが、気にならないところが、パリにいるとい
うことからくる余裕であるかもしれない。ともかく、ガルソンたちは、多忙
である。こまネズミのように動き回る。一日中歩き回るとはたしてどれだけ
の距離になるのだろう。
テーブルは、ちょうど壁際に据えられていて、壁には Paris Match のステッ
カーが掛けられている。そして、往年の女優のブロマイドがいくつか。エヴァ
ガードナー、ジャンヌモロー、グロリアスワンソン(これは、ずっと古い世
代である)。ジャンヌモローといっても、いまの世代が知る由もないだろう。
岸恵子、淡島千景、京マチ子。。。といった世代である。
壁際のテーブルと通路をはさんで、レストランの中枢というべき、戸棚が
備え付けられてて、そこの引き出しにすべてのアイテムが入れられている。
下のほうに冷蔵庫があって、そこから時をおかず、出し入れをしている。
36
ちょうど、前のテーブル席に、おかっぱ頭の女性が陣取っていた。これは
後ろ姿のジャンヌモローだ。若作りをしているがちらりと横顔をみせたとき
の印象からみて、老女というのに近いくらいであると判断された。一人暮ら
しの女というところであろう。
さて、フランス語のメニューはいまもってわからないが、例によって推測
で適当に注文したところが、マカロニグラタンであった。これに、生ハムが
添えられていて、サイドに野菜サラダがたっぷりともられていた。ともかく、
13 E であるから、かなりの量があると想像できたのであるが。味 j は普通
であった。特別のシェフが作っているわけでないので、うまいとは期待など
できない。
毛皮を着込んだジャンヌは、ゆっくりとした時間を過ごしあと、おもむろ
に立ち上がった。店のマドモアゼルと話をしていながら、様子をみていると、
口元が、どうしようもない年齢を物語っている。歯の抜けたあとのすぼんだ
口は、いかんともしがたい。これを入れ歯で補うという煩わしさをあきらめ
たのであろう。
オックスフォード
『 ロンパリ(1)』
:
きょうは、オックスフォードへ出発だ。こんどの旅行の目的のひとつは、
Paris-London を結ぶかの Euro-Star に乗ることであった。Botet 氏に切符
を手配してもらったが、first class で往復が 200 Euro ( 26000 円ほど)で、
ちょうど東京大阪くらいであった。昼食がついていてこの値段であるからヨー
ロッパでの汽車旅行は快適だということになる。もっとも、こちらの人にとっ
て、汽車を使うのは贅沢なものと考えているかもしれない。バスの連絡網が
イギリス中に張り巡らされているからである。フランスではどうだろうか。
Euro-star は、北駅(Paris Care de Nord) 発である。Coypel hotel もよ
りのゴブランから地下鉄7番線にのって、Chatelet で乗り換えて一駅だから
アクセスは比較的よい。北駅といえば、前回の Oxford 滞在のときも北駅か
らカレー経由で船でドーヴァーまで行きそこからロンドンへ向かった。この
ときに、乗り場がわからなくて往生したものである。上のホームへの階段が
見つからないであった、何人かのフランス人に訪ねたがさっぱり要領をえな
かった。今回は、ユーロスターの乗り場を目指せよい。ホームがわかったが、
パスポートコントロールは一段高いところに特別のフロアがもうけられてい
る。あらかじめ入国審査を乗り込む前に終えておくのだ。入国カードの書き
方で少しもたついた。オックスフォードの誰に会うのだというので、自分は
物理学者でオックスフォードの友人に面会に行くのだと適当にごまかした。
かかりの女性は、少し怪訝な顔をして、住所欄の oxford univ. に横線をいれ
て消した。
「期間は一週間でパリへもどる」と答えた。パリへ戻ってからどう
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するのかと聞いてきたので、余計なお世話ではないかと思ったが、4日ほど
いて日本に帰国すると正直に答えた。どうもフランスへの入国に比べると厳
しいようである。
審査を終わって、待合室でおよそ40分ほど待ってから、改札があって、列
車に乗り込んだ。firstclass の二人がけであったが、となりは空席であった。
発射すると、すぐに昼食がはじまった。ワゴンサービスで、サーモンのマリ
ネ(というのか)にチーズ、デザートがトレイにもられえている。飲み物とパ
ンがお好みで配られるもは機内食とおなじだ。量は適当で味はわるくなかっ
た。パリから一直線にノルマンディーをめざしてカレーまでいく。そこまでの
風景は平坦なとりとめもない風景のなかを突っ走るだけだ。一面に真っ白い
雪に覆われていた。外は、まだかなり寒いのであろう。一時間をすこしすぎ
たくらいすると、速度がすこし落ちて、そろそろトンネルに入ることを予感
させる。アナウンスがあった。トンネルの入り口のところに、
『Euro-tunnel』
という表示が大きくかかれていた。この表示をデジカメでとればよかった。
およそ、25分くらい海底トンネルをくぐって、英国側にでた。たぶんドー
ヴァーであろう。定刻どおり、昼の12時40分にロンドン/ Kings-Cross.
ST.Pancras 駅に到着した。時差が1時間マイナスである。
ST.Pancras 駅から、地下鉄で Paddington まで行き、そこから Oxford 行きの列車にのる。地下鉄料金は、4.5Pound で、これは円にすると700円
くらいで、日本の水準からしてもかなり高い。オックスフォードまでは、2
3であった。これも安くはない。およそ、1時間たらずで到着した。その間、
2駅に停車した。距離にすると90キロくらいか。
Hotel Eurobar
1990 年の夏から翌年の3月まで滞在してから23年になる。その当時は言
葉ができないことが原因で自己を客体化できないで、つねに upset していた。
加齢の効果と、外国生活になじんできたせいかこのような鬱屈した気分から
は、(完全ではないが)解放されている。
国鉄駅周辺の風景は、あまり記憶になかった。オックスフォードからロン
ドンに出るときは、もっぱらバスを利用したので、めったに駅にはこなかっ
た。ホテル Eurobar は、たしか駅に近いところのはづであったが。とりあえ
ず、タクシーに乗り込んだ、英国式の座席のまえがたっぷりとスペースがとら
れているやつである。気安い運ちゃんと一言二言話しただけで到着した。し
かし、どうみてもホテルにはみえない。
「ここが本当にホテルか」とたずねる
と、たしかにそうだというので、ともかくタクシーからおりた。
「そこのドア
をたたけ」というのだが、鍵がかかっていて誰もいそうにない。すりガラス
の窓からのぞくと、上の階へ上る階段があるのがみえた。もたもたしている
と、もうひとつの入り口があって、そこから入れということで、ようやくド
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アがあいて建物に入れたのであるが、そのあいだドライバーは、見守ってく
れていた。さすが、紳士の国英国である。わずかの距離で1ポンドのチップ
をはずんだので、最後まで見届けるという仕事は果たしてくれたともいえる
だろう。しかし、どうみてもホテルにはみえない。バーである。薄暗いなか
に、長椅子と背のたかい丸テーブルがおかれていてゲーム機がおかれている。
フロントなどあったものではなく、完全にバーのカウンターである。昼間か
ら、客が何人かビールを飲んでいた。髪の毛を三つ編みにした黒人の女性が
いたので、彼女にここはホテルかとたずねるとうなずいた。女性は、ペン書
きした宿泊リストをもってきて、代金をはらえという。しかもゲンナマでは
らってくれときた。カードを扱う機械が故障しているとか。こういうときの
ために用意してきたポンド札で支払って、領収書をよこせというと、いった
ん奥へ引っこんで、だいぶたってから現れて、また,トラブルがあってあとで
渡すと行ってから、こっちへこいと手招きしてバーのカウンターの横の入り
口から客室へ通じる階段に移動した。なにか入り組んでいた。しかし、バー
と客室が単純につながっているだけのことであった。部屋へ通されて、なお
も領収書をくれとせまったが、あとでもってくるといってでていった。部屋
は、天井が低かったがダブルベッドで十分すぎるくらいである。英国独特で、
紅茶(とインスタントコーヒー)が、どくとくのケトル(底にニクロム線を
巻いて熱を発生させる T-fal の原型となったもの)と一緒におかえれていた。
wifi は自由であるとあったが、パスワードを聞くのを忘れたので、フロント
に電話をしてたずねると、さきほどの女性がでてきて教えてくれたが、ベッ
ド脇の小テーブルのうえにちいさなメモがあってそこにおなじコードが書か
れていた。はじめから、教えてくれればよかったのだ。また、レシートが気
になって、階下におりて、あらためて、くれとたのんだ。女は、心配するな
ドアの下から入れておくといった。
Eurobar の向かいが、chinese レストラン Opium Denn である。これは覚
えていた。変わった名前であったからである。Ian Aitchison 氏が、これは
「アヘン吸飲窟」のことだと教えてくれた。
Eurobar は、ちょうど駅前どおりと、George street の角にあって、この通
りには、映画館、銀行、その他レストランなどなどが並んでいる。さらに、ホ
テルの隣が、ちょうどバスステーションであった。移動にはきわめて便利な
立地である。カーディフへは、汽車で行くつもりでいたが、バスがいいかも
しれないと考えなおした。ただし、どこかで乗り換えが必要であることはた
しかであった。
滞在当時、いつもなじんでいた theoretical physics に通じる通りを探した
が、よくわからなかった、とりあえず通りを歩きことにする。それほど大き
な町ではないからすぐにみつかるだろう。
ジョージストリートから、Cornmarket street へ曲がって、さらに High
street でまた曲がって、しばらく歩くともとに戻ってきた。その途中で、ダ
39
ドクリフカメラにでた。ここは、記憶があった。とりあえず、i のマークをた
よりに、ツーリストオフィスを探して、地図をもらい(30ペンス払った)、
phyisics をさがしたが、地図の範囲外であった。しかし、St. Giles 通りをみ
つけた。St.Giles までくると、記憶が鮮明によみがえった。
左手に映画館があり、ここで、GodFather II を観た。とりあえず、このあ
たりの様子がわかったので、physics へでかけるのは明くる日にすることにし
て、ホテルに引き返した。
『St.Giles 界隈』
:
翌日、朝飯を食いにバーにおりていった。若い男がいて、朝食を食えるか
と念押しをすると、メニューを聞いてきた。といっても、二者択一で、
「ベー
コンエッグ」か「サーモンといりたまご」のどちらか。後者をたのんだ。もっ
てきたのは、オムレツにサーモンがまざったものであった。それに、トース
トが4枚分と紅茶。
St.Giles は教会を境に2つにわかれる。その右側は Oxford street となり
North Oxford に行き着く。教会の敷地に墓地があって、そこをぬけると信
号があり、その向こうが、Keble Road で、その名のとおり、右側に, Keble
college がある。規模がかなり大きい。1988 年のはじめに、はじめて Oxford
へ来たとき、道を尋ねたとき、「ケブルロードはどこか」と言って、通じな
かった。
「キーブル」であった。かつて通いなれた Theoretical physics は、そ
の反対側にある。名称が、Rudolf Peirers Institute と頭につけられていた。
Peirls は、量子論の歴史では、最終列車に「乗り遅れた世代」(Weisskopf に
よる) に属するかもしれない。際立った業績はない。Oxford の教授として、
その生涯を全うした。第2次大戦の最中に、ディラックと、もうひとりドイ
ツからきた研究者と3人で、ケンブリッジのディラック宅でウランの臨界量
の計算をやっていたらしい。そのときに、ドイツの研究者がじつは、ナチの
スパイではなかったかという推測がされていた(ディラックの伝記による)。
理論物理の入り口は通りからコンクリートの階段を何段か上ったところに
ある。ここは出入り自由であった。つまり外部に対して解放されていた。あ
とで立ち寄った数学研究所は、セキュリティがかけられていた。ID カードが
ないと入れなかった。入り口をはいったところのスペースに、メンバーの顔
写真、種々のポスター、液晶パネルでのセミナー案内。いずこも同じだ。右側
が、秘書室になっていて、女性が見慣れない東洋人がはいってきたので、一
応顔を出してチェックをしてすぐに奥にひっこんだ。人畜無害であると判断
したのだろう。かつての滞在者であることを言って、挨拶をしようと思った
のであるが、なにぶんあまりにも古く、当時のホストの Ian Aitchison の名前
を持ち出したところで、秘書の女性自身が面食らうと思ってやめにした。た
だし、セミナー案内で、高分子理論のセミナーが、Clarendon Lab. で、午の
40
2時半から開かれることだけ確認した。まだ、11時半であるから、3時間
ある。それれまで、あたりを散歩してみることにする。
23年もたつとシステムは変わる。最たるものは教授の数であった。いま
は、メンバーの半分くらいが教授である。当時は、理論物理の教授は、素粒子
論と物性論でたった二人だけであった。Michael Berry をオックスフォードに
引き抜くという企画があったそうであるが、彼はブリストル大学の研究教授
を放棄する気がなくて断ったという話を聞いたことがある。オックスフォー
ドであっても学部学生むけの講義ないし指導などしたくなかったのかもしれ
ない。
滞在当時に、下宿をしたのは、Keble Road を突き切って、Park Road に
でて、右に曲がって公園を右にみながら進んで、Norham Road にあった。そ
こまでは、覚えているが、その家がどこであったかまでは同定できなかった。
Clarendon Lab :
Theoretical physics は衰退したか? かつて、50年まえまでは、素粒子
論と原子核といえば時代の花形であった。狭義の原子核物理の凋落は、はや
くも1970年台はじめにはじまって、現今、事実上消滅したといえる。素
粒子論も、いまは、ニュートリノとヒッグスの2つの吹けば飛ぶようなもの
にほとんどすべて望みをかけているというガンの末期症状を呈している。
Computer science の進展は、とどまるところをしらず、TP と同じ棟のと
なりの部分をおよそ2対1くらいの割合で占有しているかにみえる。目先の
効く連中で素粒子から転向したのも多いだろう。転向しても必ずしもよい目
がでるとはかぎらないが、座して餓死するよりは。。。
オックスフォード公園にて:昼飯までまだ時間があるので、Norham road
の突き当たりの小さなカレッジの横の入り口から、公園に入った。典型的な
イギリス庭園であろう。フランスおよび大陸とは明らかに異なる。当然アメ
リカの人工的自然ともまったく異なる自然を最大限とりいれた景観美である。
静寂のなかに散策をする場所である。イギリス庭園は瞑想にふけりながら散
歩する象徴といえるだろう。典型的な田園風景をみて、創造にたずさわる人
間、想像にたずさわる人間(詩人と作家)は、いずれもそれぞれのアイデア、
言葉を見いだすのであろう。こういう空間があれば、それにこしたことはな
い。ニューヨークや東京で絵画を描いたり作曲するなど碌なものができない
という気がする。Bethoven の第5は、このような風景に触発されて作曲され
たということが現実実をもってくる。散歩をするオックスフォードの老若男
女の学究たちに出会った。あるいは学生がジョギングをしていた。なぜ、皆
な走りたがるのか。健康に必ずしもよくはないだろう。
公園のなかには、池がありそこに鴨の一段が泳いでいた。寄贈されたベン
チがおかれていて、そのなかに、“Elizabeth Stone... 1927- 2007, 永久の眠り
につく” というのがあった(この名前は適当である)。川が流れていて、
(テー
41
ムズ川の支流)、そこに太鼓橋がかかっていた。これをわたると、少々ぬかる
んだ牧草地になって、牛が放牧される。ただし、いまはまだ時期がはやく放
牧されていなかった。
一通りまわってから、Park road へ出る門から外へでた。そろそろ昼メシ
の時間である。St.Giles 教会の向かいの小路が little Clarendon street であ
る。ここの右側に、食い物屋がならんでいるのは、以前と変わらない。ひと
つの店で、髪の毛の黒い女性が巻き寿司を食べていた。どれにするかと店の
メニューをながめて、フランス風レストラン Cafe Rouge にはいった。魚料
理のセットメニューを注文した。
(実は、どんな料理だったか思い出せない。)
客はかなり入っていることからわるいレストランではないのだろう。食後の
コーヒーを飲んで、たっぷりと食後の休みをとった。セミナーの時間までま
だたっぷりと時間があったからである。
そのあと、Oxford street をぶらついて、昔みなで出かけた病院付属のレ
ストランをさがそうとしたが、見つからなかった。そこは、建前は、病院関
係者だけが利用できるのであるが、おかまいなしに一般市民が押しよせて、
結局野放し状態になっていた。ともかく、べらぼうの安くて量があるが、お
そろしくまずかった。それでも、なんども利用すると、それなりに食えると
いうのは不思議であった。
それから、数学研究所という案内表示をみて、入口までたどりついたが、
セキュリティカードがないと入れなかった。このごろは、どこも、ID を持っ
ていないと建物に入れない。人間すべて泥棒扱いにされるという面倒な世の
中になった。
2時半になったので、Clarendon Lab. のセミナーにでるために、Keble
road を急いだ。セミナー室への入り口は、ここもセキュリティがかけらてい
て入れなかった。少しはなれたところにある受付にでかけて、秘書の女性に
来意をつげると、こころよく受け入れてくれた。「カードをもっていないの
で、開けてもらいたい」というと、その必要はない。こちらから行けとドア
を示してくれた。わざわざ外へ出る必要はなかったのだ。セミナー室は、少
し急な階段室であった。たしかに、2時半とあったが、だれも聴衆はいなかっ
た。たまたま、はげて背の高い男が通りかかったので、
「今日のセミナーのア
ナウンスをみたが間違いか」ときいた。受付で聞いてくるといってくれた。
しばらくすると戻ってきて、「プラズマかレーザーのセミナーか」と聞いた。
「高分子関係であったと思う」というと、もういちど聞いてくるとまた受付に
戻って、すぐに戻ってきて、
「こっちだ」と3階の奥の小さな部屋に案内され
た。例をいって、ドアをあけて入ると、20人たらずの院生とおぼしき若い
連中が、白板に向かってなにか説明している男の書いた数式をノートをとっ
ていた。これは、まずかったなと思った。一般公開のセミナーでははなくて、
院生用の指導セミナーであったのだ。いつ退出するかタイミングを伺いなが
らしばらく様子をみていた。こういうセミナーは、どこでも同じだ。はげた
42
40代なかごろとみえるチューターが院生たちに、指名して報告させていた。
日本と違うのは、予習は全員にやらせて、その場で手をあげさせて志願者に
報告させることであった。その時間いっぱい一人ないし二人だけにやらせる
ということはなさそうであった。その結果は必ず、点数をつけている。とい
うようなことを確認して、およそ15分くらい経ってから、すごすごと退散
した。研究所から、Park road を歩いていくとラドクリフカメラにいきつく。
途中で博物館があって、そこは以前の滞在のときに入ったことがある。
HIgh street をぶらついて、かつてこのあたりで、ステーキを食べたことを
思い出した。ひどいだみ声の、化粧がきつく口の臭い女が、給仕をしてくれ
た。美人ではあったが、どうも怪しげな雰囲気をかもしていた。ひょっとする
と、これは、「オカマ」ではないかという疑念をもったものである。しかも、
英語の訛がひどくなにを言っているかわからなくて往生した。それが、bar
“Maxwell” であった。その向かいに、flight center があり、そこで、シアト
ル行きの航空券を購入した。
オックスフォード中心街と ST.Giles を結ぶ通りが、Magdalen street (この
正確な発音はどうするのだろう)。マグダレンでないことは確実である。モー
ドレンではないか。また、Worcester college は、ウオーセスターではなく、
ウースターと発音する。Magdalen street が Cornmarket street と交差する
ところが St.Michel at the north gate で、その名前のとおり教会がある。そ
の角に本屋があって、それが “ waterstore” という名前の本屋であった。こ
こで、Zinn JUstin の Field theory and critical phenomena の初版をみつけ
た。かなり大部のもので買わずに、帰国してから購入したと思う。
Magdalen street と St. Giles が交わる手前に、The Randolf という 5 stars
のホテルがあり、そのとなりが、Cinema Odeon だ。ここで、当時封切りの
God Father II をみた。
現皇太子が、在籍したという Merton college は、HIgh street からもうひと
つの通りを入った奥まったところにある。表どおりから隔離されたなかで、な
かなか静香なたたずまいである。
「高貴な人」が生息するのにたしかに、もっ
てこいの環境である。彼がオックスフォードで学んだことが国家のシンボル
たる資質に反映されているであろうか。ボンボンが、親父に「ともかく行っ
てこいや」といわれて滞在したというようなことだけでは。。。。。。
カーディフ
Oxford ー Bristol ー Cardiff
いざ、カーディフへ。オックスフォードとカーディフ直通はない。マイナー
路線だからだろう。9時50分発のブリストル行きに乗って、そこで乗り換
えである。料金は通しで25 P である。これは列車に比べてかなり安いこと
は確かであった。ロンドンーオックスフォードが、23 P もとられた。ちな
みに、バス(私営バス路線;London-Tube と名前がついている)の往復は、
43
シニア料金で13ポンドである。
ベーコンエッグの朝食をゆっくりととってから、切符売り場にでかけた。売
り場は、ホテルのすぐとなりである。それから部屋にひきかえして、荷物を
整えて、バーへとって返した。日本人とおぼしき若い女子学生ふうのふたり
ずれが、朝食をとっていた。フロントの若い男に鍵を返して、good bye を
言って、うらのドアをあけて、ブリストル行きの、ゲートにむかった。
Eurobar では、結局、領収書はもらえなかった。ろくにフロントもないホ
テルかどうかわからないところで、泊まり客が支払いをしないでずらかるこ
とをさけるために、きちんと前払いをさすのは合理的ともいえるが、こちら
としては、領収書がないと2度支払いをさせられるという危惧がある。
バスは英国の平坦な田園風景を軽快に飛ばしていくとやがて、なだらかな
丘陵地帯がやってきた。非常に、シックなたたずまいの町に到着した。ここ
が、かのバース (Bath) であった。金持ちのリゾートの名残をとどめた、英国
のなかでも有数の場所という雰囲気がバスの窓を通じても伝わってきた。こ
こに逗留してもよかったかなとふと、思った。また次の機会でも。
それから、しばらくして、ブリストルのバス停留所に到着した。このバス
停は、鉄道駅から離れていた。ここで、カーディフへのバスは、1時間半ほ
どの待ち合わせである。 Bus station のバスのたまりと反対側は、なだらか
な坂になっていて、そこに広場ができていた。少々寒かったが、そこのベンチ
で少しのあいだ時間をつぶした。ちょうど昼飯どきで、何人かの人がサンド
イッチを食べていた。バスステーション併設されているカフェテリアで、チ
キンサンドとコーヒーを注文したが、おそろしくまずいものであった。
Bristol = Dirac and Cary Grant
ブリストルといえば、ディラックとケーリーグラント (Cary Grant = CG:
Wikipedia 参照) という超セレブを輩出したところである。ケーリー. グラン
トといっても誰のことだといわれるだろう。ハリウッドがいまだ華やかなり
しころの銀幕のスターであった。ヒッチコックのお気に入りの俳優のひとり
で、『泥棒成金』では、当時一世を風靡したが、それを故郷の田舎の映画館
でみたのは、中学生のころであった。子供心に外国俳優というのはかくも格
好がよいものかと瞠目をしたものである。ちなみに、かの『007』は、イ
アンフレミングが、ケーリー. グラントをモデルにして書いたものだという
(Wikipedia を参照)。CG がブリストル出身であるというのは、ディラック
の伝記を通じてはじめて知った。まずしい労働者階級の出身であったという。
どこかの一座で旅芸人をしていたということは聞いたことがある。ディラッ
クを知ったのは二十歳になって量子力学の勉強をはじめた時である。あこが
れの?ハリウッドスターと自分にとって「導師」である偉大なる理論物理学
者がおなじ町の同じ小学校にほぼ同時期に通っていたという史実は, 自分に
44
とって奇妙な偶然であった。
しかし、ディラックの評伝本を読んだときの印象と、現実の町はまったく
違った。いつものことであるが。これらの名士を育んだところとはみえない
ただの変哲もない町並である。時間があれば、ディラックが華麗なる成功を
おさめるまで過ごした家を見物してもよかったが、ただの家であるという印
象しかもたなかったであろう。それでこそディラックである。ブリストルの
住人にとってディラックがそこの名士であったことなど全く関知していない
そうである。かたや、ケーリーグラントは、どうであろうか。彼が故郷に戻っ
てきたときのために、テレビ局は, いつもぬかりなく準備をしていたそうであ
る。かたや、ニュートンの再来といってもよい物理学者、かたやハリウッド
スター。。。。世間とはこういうものであろう。
『ホテルオースティン』
:
カーディフのバスプールに到着したのは、午後3時すぎである。結局、天
気は曇天のままであった。この時期ではこれが普通なのであろう。ちょうど、
国鉄の駅前とつながっている。駅の名前は、Great Western Railway (BR 西
エゲレス=> JR 西日本とちょうど対応している)である。
(ちなみに、あと
て気がついたことであるが:トイレを使おうとすると、ホームへでないとな
いことがわかった。ここも日本とにたところがある。ただし、駅から少し離
れたところに、公衆トイレが設置されていた。夫婦ずれがなにやら物色して
いるあとをつけていくと判明した。しかし、夕方6時でしまる) さて、ホテルまでのアクセスをどうするか。地図があれば歩いていくのだ
が、面倒なので敵前のタクシーに乗りこんだ。BB Ausitins に到着した。ア
ングロサクソン独特の建築様式というのか、通りにそって細長い直方体が並
んでいて、均等に区画がされてあるやつ。各戸の戸口から階段を何段かのぼ
ると分厚いえび茶色色の木製ドアに把っ手がついている、右側に白枠の出窓
がある。どこの家もかくのごとく同じだから、なにかサインがないと、迷っ
てしまうが、さすがに、ホテル Austins という看板がかけられていた。しか
し、ちょっとみただけではわかりにくい。
ベルをならすと同時に把っ手をたたくと、しばらくして、小柄な神経症気
味の女将が現れて、
「ベルと把っ手を二回も鳴らすな」とさっそく文句をいわ
れた。彼女は無言で部屋に案内してくれるのだが、リフトなしで、4階くら
い上ったところの突き当たりに招じ入れてくれた。なんのことはない、屋根
裏部屋ではないか。天窓がついているが、これで3晩寝るのは少々鬱屈する。
そこでちゃんとした部屋はないのかと文句をいうと、
「シャワーつきと言った
ではないか」と切り返してきた。しかし、一応、窓のある部屋にかえてくれ
んかと注文してみた。
「シャワーのついて部屋はここしかない。共用だ。それ
に空き部屋はない」と言って出て行った。まあ、郷に入ってはしかたがない
ので、ケースを開こうとごそごそやっていると、ドアがノックされて、部屋
45
をかえるから来いと促してくれたので、荷物をもとにもどして、階下へおり
ていくと、ちょうど一階の部屋に案内された。あの出窓がある部屋だ。今度
は、まともに通りからみえるので、ちょっとひるんだが、幸いブラインドが
ついていて外からは遮断されていた。しかも静かな通りであるから、この点
ではまったく問題はなかった。
支払いは、前払いで、visa card で支払った。オックスフォードでは、ゲン
ナマで前払いで、結局領収書はもらえなかった。共用シャワーは、ちょうどペ
ンキが塗りたてらしく、2階のを使えといった。あとで使用したのでわかっ
たが、このシャワーはかなり快適であった。ちなみに、エゲレス滞在中、シャ
ワーはすべて快適であった。
ともかくホテルを確保したので、さっそく町の様子を把握するのに、でか
ける。ホテルのある通りは、河口にそっていて、ちょうど新しく開発された大
きなドームの形をしたモダーン建築様式のコンベンションが川向こうにあっ
た。どうにもこのたぐいの建築物にはいい気分がしないが、駅前からのびて
いる目抜き通りを散策して、ツーリストによって、予定している Brecon-
Beacons へのアクセスを聞いた。バスで一時間半ほどかかるという。愛想の
よい腹がおおきな(つまり妊娠しているようにみえた)女性が丁寧に教えて
くれた。 Brecon の手前のバス停でおりて、そこから歩くとよいと言ってく
れた。
晩飯は、イタリアレストランで、パスタを食した。味と比べると明らかに
割高であった。きちんとしたレストランで食事をすると高くつく。
翌日、朝食をとりにダイニングへいくと、女将が、例によって、『tea or
coffee』と聞いてきたので、「コーヒーで」。思えば、およそ30年ほどまえ
にはじめて英国にきたときに、ロンドンの BandB で、朝食のとき、『tea or
coffee』と聞かれて、こんな単純な英語すら聞き取れなくて、往生したもので
ある。english breakfast が運ばれてきた。分厚いベーコンの切り身2枚に、
2つの目玉やき。これは白身が小さくまとまっているところをみると、型に
いれて焼くようである。それに豆が添えられている。これにうすでの三角に
きったトーストが4枚。かなりの分量である。これをあと2回食わされると
思うと少々憂鬱になった。
おかみは、おカッパがよく似合う。こちらの英語の能力を瀬踏みしながら、
少し聞いてきた。
M:「なんで一人できたのか」。
I:「家内は自分の母親の面倒でこられない。母親は今年95になる」。。。
M:「どこも老人の世話で大変だ。自分の母親も85になるが、兄弟姉妹が
故郷の近くにいて面倒をみている」。
I:「この近く出身ではないのか」
M:「いや、New Castle からきた」
46
I:「こんどは、自分たちの番だが、子供たちはあてにならない。老人ホーム
へ入るには金がいる。英国ではどうか。」
M:「同じだ。世界中どこも同じだ。ホームへはいるためには、家を売らな
いといけない。」
I:「ところで、子供はいるか。近くに住んでいるか。結婚しているのか」
M:「息子はいるが、近くに住んでいない。結婚は最近した。あんたのとこ
ろは」
I:「一人息子がいるが結婚はしていない。いま、NY に住んでいる。」
M:「NY。わたしは好きではない。ロンドンも嫌いだ。大都会はいやだ」
I:「わたしは、今回はパリから来て、またパリに戻ってから日本に帰る」
M:「パリはいいところだ」
とまあ、こんな会話をした。はじめは、少し偏屈マダムのようにみえたが、
案外いい人間であるようだ。テーブルが4ほどのダイニングで二人だけで顔
をあわせていれが、なにか会話でもしなければ、場がもたない。
WIFI のこと:最近の two star hotel は対外これがつかえる。Austins も最
初の2日は問題がなく接続されたが、3日目から接続不能になった。食堂にホ
テルの事務机があってそのうえに発信機とおぼしきものがおかれて、そこか
ら電波がとばされていると推測した。女将に調子がおかしいが、どうなって
るのかとたずねると、予想通り「わたしゃ知らないね。機械のことなど。。。。」
という返答が帰ってきて、それだけであった。これも値段に反映しているの
であろう。3 nights で、130ポンドで朝食つきであれば文句をいうなとい
うことかもしれない。
What is Cardiff
カーディフ。じつのところ、ここを訪れたのは深い訳があったのではない。
イギリスのなかでどこが訪れるに価値があるかということを考えて、カーディ
フという名前の響きが耳に心地よかったというのがひとつの理由である。オッ
クスフォード、ケンブリッジというのも、耳への響きと関係しているといえ
るかもしれない。
『ブレコンへ:我が谷は緑なりき』
;
バス代が、往復7 P であるのにちょっと驚いた。ロンドンの地下鉄の一回
券が4.5p にくらべるとべらぼうに安い。乗り合いバス(stagecoach) であっ
たが、片道70 Km ほどあるところがこの値段だ。 こういう公共の乗り物
を快適に安価にしているのは先進国の証拠である。その点、混むわ、高いは、
乗り心地が悪いはの日本のバスはまだまだ後進国であろう。
バスの待合室で、背の高い紳士が横にすわった。映画にでてくる西洋の隠者
の風格をしていた。このバスは、Brecon 行きかと念おしに来てみた。「。。。。
47
へ行く途中だ」と答えてくれた。ただのパスをドライバーにみせていたとこ
ろをみるとシニアパスなのだろう。おそらく同じ世代だろうが、白人は一般
にふけて見えるので年齢は、自分より少々若いのであろうと推測した。髪の
毛は、フサフサしているが、真っ白でモーゼよろしくの風格をただよわせて
いた。ときどき、横を向いて、ちらりとその容貌を観察するが、終始おちつ
いた雰囲気の調子で寛いでいた。持参の魔法瓶からコーヒーを注いでゆっく
りと飲み干していた。話の様子では、終点の、XXXX まで行くのであろう。
そこで住んでいるのであろうか。カーディフへ用があって出てきたか。
バスは、カーディフ市内を何度か停車したあと、 A470 号線をつきすすん
だ。ある町で一度停車しただけであった。景色は、両側がなだらかな丘陵に
なってその裾を道路が走っている風景である。眼下に河が走っている。つま
り、巨大な谷を形成しているのだ。
広大な谷間をぬける風景は、数年前に、Botet 氏に連れられてドライブを
したフランスアルプスからドフィーヌへぬける風景と重なった。グルノーブ
ルからイタリア国境のブリアンソンへ通じる道も、眼下に谷底を見下ろすド
ライブウェーを下るのであった。
ジョン. フォードの名作「わが谷は緑なりき」の舞台そのものであろうと
推測される。モーリン. オハラ扮する可憐な乙女が愛する牧師に切ない思い
をよせながら成就しないという心情を、ウエールズの象徴である炭坑の落盤
事故という命がけの人間模様と重ねながら、つづった背景が この谷であった
のだろうか。バスの窓から点在する小さな集落は、もとは炭坑の労働者の住
宅であったのかのしれない。映画のなかの風景から推測される情景と、現実
の広大な谷の風景の間のギャップに戸惑うのはいつものことである。
Brecon へ近づくにつれて、ツーリストオフィスで教えてもらった 手前の
バス停を探してみた。そこで降りて、そこから、歩きながら広大な風景を楽
しんで、ブレコンまでたどりつくという予定をしていたのである。ある、非
常に眺望が開けた場所にバスストップがあった。そこで降りることを考えて
みたが、周囲にはなにもなかった。こういう場所で降りることのリスクを考
えてあきらめた。はたして、ブレコンからどれだけの距離があるのか見当が
つかないので、下手におりることが躊躇された。結局、ブレコンまで行って
しまった。あとで考えるとこれは少々考えすぎであった。あの場所で降車し
てもよかったのだ。ブレコンまでは、おそらく、6, 7キロで、下り坂であっ
たので、ゆっくり歩いても一時間あまりで到着したことであろう。
ブレコンの町に入ってすぐの停留所で、おりようとすると、白ひげの紳士
が、ここではないもう少し待てと言ってくれた。つぎも飛ばして、4つめく
らいで、ようやくバスセンターに到着した。こんな小さな町でも、ちょこちょ
48
こと停車するのはいずこも同じで、住民の便利を考えているのだろう。
帰りのバスまで、4時間近くもあるので、この小さな町でどう過ごすか思
案した。とりあえず案内所で、地図をもらって、公衆便所の位置を確認して、
町の中心を歩いてみた。
かなたにみえる丘陵のいただきに雪をいだいていたが、残念ながら、期待
していたものではなく、少しがっかりした。やはり、途中の KKK で下車す
べきであったのだ。仕方がないので、川にそって歩くことにして、川に望ん
だ家々のたたずまいをデジカメにおさめた。それでも、ウェールズどくとく
の雰囲気は、感じ取れたと思っている。
少し空腹になったので、町の中心にもどって、食堂をさがすと、fish and
chips の看板が目についたので、なにはともあれ、飛び来んだ。イギリスへ来
てこのかた F and C をまだ食っていなかったからである。十分に腹ごしらえ
をして、トイレは、どこかとたずねると、no toilette という返事が返ってき
た。
ロンドン
前日に、ロンドン行きのバスの切符を買っておいた。バスプールのあたり
を適当に歩いていると Cardiff bus tickets という看板が目についたので、入っ
てきくと、ここでははい、向こうの建物だと指示された。外にでて、通りを隔
て、バスのたまり場と平行にたっている建物群のひとつに、national express
とあった。いろいろな店舗が雑然と並んでいて、おしゃれなパリとはだいぶ
違う。バス代は 1 6ポンド也。これは、日本にくらべても半分以下であろう。
google earth で距離をしらべると 240 Km ある。もっとも、土曜日は週末料
金で安くなるという。しかも、時間帯によっても値段が異なる。12時発で
あった。11時のほうがよかったが、これは 18 p で満席であった。需要と
供給の関係で、変動相場を採用するシステムは、消費者にとって有利にでき
ている。つまり、法外な利益を得ようとするような企みをだまって見過ごさ
ないという市民意識が長い歴史のなかで出来上がっているのだろう。
10分くらい前に、所定のブースにいくとすでにバスは停車していて、運
転手が客の案内をしている。ともかく応対が丁重である。ちなみに、
「ロンド
ンまで、いくつ停車するのか」と聞いたのであるが、
「すべての乗客がそろっ
たら出発する」と言ったように思えた。なんのことかわからなかった。
実際は、半時間ほど走ってから New port というところに停車しただけで、
あとは一直線にロンドンまでノンステップバスであった。ロンドンが近くな
ると、高速道路は近くに飛行場(ヒースローかガトウィックか)と平行に走っ
ているらしく、ひっきりなしに飛行機が飛来してくる。降下していって着陸
寸前までの目で追いかけるのは飽きることはなかった。ロンドン、ヴィクト
リアにはほぼ予定どおり、午後3時半に到着した。
49
ヴィクトリア界隈は、オックスフォードからしばしば通ったものである。こ
のときは、往復のバス代が、たったの4 Pound であったから時代の変遷を感
じる。そもそも、交通費というのは、往復が基本である。つまり、でかけて
帰るということが前提になっているので、片道切符というのは、例外になる。
だから、往復も片道もほとんど差がないことになる。こういう発想でいけば、
日本の場合は、鉄道会社は、すごく利用者から簒奪していることになる。
バスステーションとヴィクトリア駅は、通り(何通りか失念した)を隔て
ている。駅は、様変わりしていた。現代風に、つまり、いずこも若者向きの
ブッティックなどがぎっしりと軒をならべていた。残念ながら、このような
現代風のファションを記述するのはむずかしい。
ともかく、昼飯を食う時間がなかったので、ここで、マクドでも食おうと
探したが、見つからなかった。別のパンショップで、英国風のスコーンとク
ロワッサンをコーヒーとあわせて買ってその場で食べた。ここの店員は背の
高い若者で、ちょっとよい男であった。英国王室の王子にちょっと似ていた。
あるいは、むしろこの若者のほうがいいかもしれない。あの王子は、父親の
Charles に似て、髪の毛が薄いのがなんとも気の毒である。あれで髪の毛が
フサフサであれば、なかなかのものだが、うまくいかないものだ。
Thistle City Barbican:
いちおう、腹ごしらえができたので、ホテルに行くために、ツーリストオ
フィスを探そうとしたのであるが、見つからなかった。グーグルで地図をプ
リントアウトしておけばよかったのだ。 駅の構内にはなかったのかもしれ
ないが、外にでて、探すのも面倒なので、構内にあった、ホテル案内でたず
ねた。しかし、案内の女性は、あまり親切ではなかった。たしかに、すでに
予約ずみのホテルへの道案内は、別のサービスである。タクシーで行くのが
てっとり早いが、たぶん、結構な額をとられると思って、地下鉄で行くこと
にして、「どこが最寄りの駅か、そこからどう行くのか地図のうえで示して
くれ」と頼んだのであるが、大きめのロンドン中心部の地図を持ち出して、
マークをしながら、
「3ポンドだ」と言った。ちょっともったいないと思った
が、結局地図の示すとおりに行くのが一番であると思って、手にいれて、地
下鉄に向かった。あとで気がついたことであるが、パンショップで、Wifi が
使えたので、それで地図検索をすればよかったと。こういう判断は、旅の途
中では、後知恵となることが多いとここでの実感した。
Central line に乗って, Euston 駅で、XXX 線に乗り換えて、2つ目の Old
street が最寄り駅である。改札をでると、出口の案内がでているのは、どの
国の地下鉄も同様である。適当な人物にたづねようと見渡すと、年配の女性
が、それらしき男にたずねていた。それがすむのを待って、CCC 通りにでる
にはどこかと聞いた。Thistle hotel Birbican に行きたいというと、それなら
がこの出口から出るとよいと指示されて、そのとおりに従っていくと、よう
50
やくホテルにたどり着いた。途中の通りは、パリの建築と違って、潤いにか
けたものであることは致し方ないことであった。
テームズ散策
ロンドンは、何度か見物したことがあるが、たいていは、忘れている。と
もかく、パリのセーヌに対応させるには、テームズであろうということで、
waterloo bridge のたもとから、左岸を、対岸にビッグベンを望みながらそぞ
ろ歩きを試みた。ちょうど土曜日であったことから、市民が憩いをもとめて
繰り出していた。ここでも、問題は、公衆便所であった。
『ロンパリ(2)』
:
Thistle City Barbican から、Kings-Cross St.Pancras までは、地下鉄で3
駅だ。12時半発であるが、パスポートチェックのための時間を見越して、1
1時すぎにチェックアウトをした。駅には少し早くつきすぎて、11時半の汽
車の改札をやっていて、12時半の列車の改札まで40分ある。ロンーパリ
は、およそ一時間に一本の割合で出ているらしい。そのほかに、ブラッセル
とアムステルダム行きがでている。時間があるので、カフェで、ココア(ホッ
トチョコレート)を注文して、wifi に接続をして気晴らしをした。公共の場
所では、free の電波が飛んでいて便利であるが、どうもセキュリティの面で
問題があるのではないかという気もするのであるが。時間がきたので改札に
進む。フランスへの入国へのパスポートチェックは、入国カードの記入はな
く判子を押されただけであった。
帰り列車で、Euro-Tunnel の表示を撮ってやろうと構えていたが、スピー
ドがはやく、結局失敗した。フランス北部の風景は、来たときとちがって、雪
がなくなっていた。気温が上昇したと推測される。パリ北駅には定刻どおり、
4時40分に到着した。
再びパリ
Confort Nation : ここは、いつも感じがよい。ここを利用するようになっ
て、丸5年はたつが、従業員も代わっていないところをみると、職場として
も居心地がいいのだろう。いいところだが、惜しむらくは宿賃が高い。まあ
当然のことでもある。ダブル料金だからだ。ひとり旅はほんとうに損にでき
ている。
今日は、はやめに LPS に向かう。今回は滞在が短いので、B 氏と集中的
に議論するためであった。Nation から, 2つめの Chatlet で、RER-B 線の
St.Remy Recheveleause 行きに乗り換えて、 Le Guichet 下車。ここは、パ
リ南の高級住宅街になっていて、駅前にブラスリーとイタリアンレストラン、
美容室まである。傾斜地になっていて、Orsay Valley と呼ばれている所以で
あろう。駅のあたりが、ちょうど谷底になっている。もうひとつの研究団地;
51
サクレー (Saclay) 行きのバスもでている。このバス停留所があるあたりが
ちょっと広場になっていて、Place de Gennes と名前がついている。これは、
フランスの物性理論の大御所であった、故 de Gennes 教授がノーベル賞をも
らったことに敬意を表してつけられたものであろう。なんでこんなところに
つけられたかというと、この広場に接したところに、de Gennes の自宅があ
るからだ。日本流にいえば、邸宅という風格である。この前に来たときはな
かったが、『Vende』(売り出し)という看板がはられていた。彼が亡くなっ
てから、4、5年たって、遺族が売りに出したのであろう。なんでも、正妻
と愛人がいて双方に4人ずつ子供がいたという艶福家であったらしい。財産
分けを巡って、もめたかもしれない。
3/6: 残すところ2日。今朝の Herald tribune の一面で、Higgs 粒子の記事
があった。昨日は、ヴァチカンの新法王の選挙に関する記事であった。ヒッ
グスを、別名「神の粒子」というらしい(「紙の粒子」のほうがいいという気
がするが)。2つの記事に共通するは神の国であるらしい。どちらも、なんと
なく胡散臭い。
『Camille Claudel (カミーユクローデール)』
:
3/7 今回の旅行の最終日: 例によってパリの街並をブラついて楽しむこと
にして、まずシャロンヌ通りへぬけて、Saint Antoine 通りからバスティーユ
広場へでた。そこから、アンリ4世通りから Shurry Morland へでて、そこ
からサンルイ島からノートルダム寺院があるシテ島を通過して、サンミシェ
ルにだどりつく。
サンルイ島というのは、パリきっての高級住宅街であるが、その河岸にそっ
たアパートに金属性の刻印がかけられていて、そこに、彫刻家であり、ロダ
ンの愛人でもあったカミーユクローデールが一時生息した場所であると書か
れていた(と思う。フランス語であるのでたしかではないが)おそらく、ロ
ダンとの「愛の巣」であったのかもしれない。
サンミシェルは、RER C 線の駅がある。そのひとつの終点がヴェルサイ
ユである。ヴェルサイユといえば宮殿であるが、実際はパリ郊外の大きな町
のひとつである。いわゆる イルドフランスといわれる町のうちのひとつとし
て位置づけられるのだろう。パリ郊外をどの程度の範囲をさすのかによるが、
たくさんのわれわれが知らない町町が点在するのであろう。
Contesse de Barrys : お目当てのプラムは、たしかにあった。値段は、ま
あ安くはないが、それほど高くもなかった。それよりも、トリフの値段には
驚いた。日本人には、味がわからないものに、なんぜこんな値段がつくのか
よくわからないと英語でいうと、店の人はただ笑っているだけだったが、年
配のフランス女性が、日本語で「味はありませんよ」と、にべもなく言い切っ
たのにちょっと面食らった。最初店の人かと思ったが、客であった。フォア
52
グラを大量に買い込んで、クレジットカードで勘定をしながら、店の人に代
わって「これはいかがですか」と、の味見ようの小さなケースにもられた粉
をまぶしたようなお例のチョコレートトリフをすすめてくれた。
エピローグ:おまけ
パリ5区のサンジェルマン通りは、パリ左岸を象徴するところである。サ
ンミシェルからオデオン、サンジェルマン. デ. プレのあたりである。ここに、
サルトルとボーボアールが同居していた、アパートがあってその一階が、有
名なカフェになっていて、いつも客でいっぱいである。とくに、アメリカ人
のインテリに人気があるらしい。ぎっしりとテーブルをよせて、そこに客を
詰め込んでいく。こんなに密着して窮屈でも、誰も気にしないで、喧々諤々
のおしゃべりに、みんな余念がない。
そろそろ、パリも陽気の気配がただよいはじめたのか、道路にはみでてテー
ブルをならべているパリ独特の風物:ホロの屋根をつけて、道路に店を拡張
するやつ。これはなんというのだろうか。当然当局の許可を得て、それなり
の許可料を支払っているのだろう。
オデオン付近を歩いているとき、とあるカフェの張りだしたテーブルで、頭
がきれいにはげた、黒いコートをきた老人が陣取って、もの思いにふけって
いるようにみえた。この人物はどこかで会ったような気がした。ブリストル
大学の Michael Berry ではないか。ベリー もとっくに、リタイアしているこ
ろであるし、暇なのでパリに気晴らしに来ているとしても不思議はない。ブ
リストルからは ユーロスターをつかえば5時間もあればこられる。ただし、
彼に最後にあったのは、もう8年前に札幌であったからそのときの印象をも
とにしている。声をかけてみようと思ったが、おそらく他人の空似であろう。
53
日食の夏: November 14-th, 2012
プロローグ
オーストラリアに来たのははじめてである。ケアンズは大陸の北東にでた
半島の付け根くらいのところにある。
午前5時過ぎに到着。日本からの時差が+1時間というのは楽である。ち
なみに、ここはビザが必要であることを出発する数日前に知って急遽代理申
請して取得した。アメリカとおなじく、ETA というものに登録して、申請日
から1年間有効である。到着ロビーに移動するガラスばりの廊下を進んで行
くあいだに、夜があけはじめて青空がひろがり、細く鋭利な釜のような月が
東のそらにかかっていた。あさっては新月であることを予感させる。
入国審査を終えて、荷物受け取りの広場からでたところが到着ロビーで、
出迎えの人が名前を掲げたカードをかざしているのはいつもの風景である。
少しうろついた後に、自分の名前の書かれた紙をかざした白ヒゲをはやした
男をみつけた。会議のセクレタリーに指示された迎えの車のドライバーであ
る。もう一組いるのでちょっと待ってくれといわれた。そのあいだに、両替
で電話をかけるためにドル札をコインに変えてもらった。
(しかし、固定電話
をかけることはなかった)。
ほどなく同じ便で到着した日本人の1組のカップルが到着して、ドライバー
に案内されて国際線のターミナルから車のたまりまで移動した。車は荷物運
搬用の荷車を引いていた。日本ではこのごろは、ほとんどみかけないもので
ある。狭い車道を多数の車がはしる日本では、こういうかさばるものを牽引
することは禁止されているのだろう。
エアコンのきいたターミナルから外にでて、ムッとする熱気を感じた。雲
が動いて細い月はみえなくなっていた。
ここは夏であることを実感する。日本の夏を感じさせるが、湿度はそれほ
どでもないと感じた。ドライバーは、スーツケースを荷車に運び込んで出発
した。気さくな人物で、いろいろと話してくれる。しかし、ときどき混乱す
る。それは発音が通じないことがひとつの原因である。二人ずれはほとんど
話さなかった。「シドニーまで、ここから2000キロ近く離れているのだ
な」。
「????。。。。」、シドニーがわるかった。何度かして、ようやく、
「ah . シ
ンニー!、Yes it is far 」と言ってやっと通じた。10分くらい走って, カッ
プルのホテルの到着した。彼らも今回のイベントのために来たのであろうか。
二人をおろして、車は Cook Highway を海岸線にそって、まっすぐに北上
した。これから30分くらいだという。すでに午前6時をまわって夜が完全
54
に明けきった。
「オーストラリアは、ビッグカントリーだ」と訪問国をまずは
ほめる。日本からすれば巨大な国土だ。
「しかし人が住めるところは少ない」
:
「奇妙な動物が生息するのに興味がある」。「そうだな。みろ、あそこにカン
ガルーがいる」と彼の示す道路脇の草原に一頭ピョコンと座っていた。小さ
なやつだ。早朝に人の気配がないときに出てきたのだろう。それに、あのカ
モノハシ。英語がわからなかったので、いろいろと説明したが通じなかった。
単純に, mixed animal of bird and rat とでもいえば通じたかもしれない
が、その場では思いつかなかった。また、
「オーストラリアには、毒カエルが
はびこっていると聞くがこのあたりも被害があるか」と聞くと、
『ああ「カイ
ン」トードだな。たしかに、このあたりにもみかける。とてもやっかいだ』。
ケイントードとは発音しなかった。それから、前方の丘の中腹に住宅が点在
するのを示して、
「あそこは地滑りがよくおこるので、このごろは、みんな平
地に移動している」、さらに「パームコブはケアンズの北の端に位置するリ
ゾートだ」と説明してくれた。予告どおり、30分ほどして、ヤシの木が立
ち並ぶ地域にはいって目的地に到着した。
まず、海岸沿いのリゾート施設を案内してくれたあと道路を左におれて、
Ceder 通りにはいったしばらくいったところで、右におれる道をしめして、
このすぐが、ノボテルだと教えてくれた。さらにしばらく移動して右におれ
る道が、Warren street で, その左わきが The Villa である。指示されたと
おり、受付の建物の玄関にそなえられたデジタルキーボードにコード番号を
打ち込みドアノブを左にまわすとメールボックスが置かれていて, そのなか
に封筒に鍵と Villa の案内マップが入っていた。ここは、およそ20数個の個
別住戸の集合体であった。自分の部屋番号は6号棟であった。鍵が無事に開
けられるかどうか、念のためにドライバーに案内してもらった。コンクリで
できた通路を歩いて、各戸の番号を確かめながらすすんで6号に着いた。木
戸に丸い穴が開けれて、そこか手を突っ込んで金具でできた把っ手をあげる
と木戸がひらいて、棕櫚が植え込まれた中庭に入る。それから家の扉をあけ
るのであるが、5個ほどあって、ひとつひとつトライしたすえに、柿色のつ
いて鍵がメインのドアであることがわかった。しかし、鍵をあけるのも楽で
なかった。つまり開くには開いたが鍵穴から抜けなかったのである。外国で
は、鍵の操作で難儀することがしばしばである。あとのことであるが、同室
の N 氏が、バスルームに閉じ込められて助けを求められて内と外からノブを
まわしてちょっとした騒ぎになった。
部屋に入ると、広いリビングと寝室が2つあった。先に到着した者の特権
で、同室予定の N 氏には申し訳ないが、内側の部屋を占拠した。中庭には小
さなプールがあって、一定の時間をおいてモーターで水を攪拌させているよ
うであった。
ドラバーに丁重に礼をいってチップを渡そうとすると、辞退された。
「You
need chip ? 」と聞いたのがまずかったようだ。だまって、「This is for you」
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と差し出せばよかったのだ。
Cycle 24 Ascending;GONG 2012 / LWS/SDO-5 / SOHO27
11月12日:
Palm Cove 字のとおり、ヤシの木が一帯に植えられている。人工的に持ち
込まれたものか天然のものかわからないが、たぶん前者であろう。
午前8時をすぎたので、The Villa の受付にでかけて check in の手続きをし
た。
(ここのオーナー(あるいは管理人)は往年のハリウッドスターのチャー
ルトンヘストンにちょっと似た男ぶりがよく気さくな人物であった)。
それからノボテルにむかった。Warren street から、Ceder street にまがる
ところの側溝で、ひからびたぺしゃんこのカエルの死骸があった。雨がふって
排水溝からでてきて道に迷っていたところを、車に轢かれたのであろう。日
本でいうヒキガエルのようであったが、これがケイントードであった。Ceder
street を行くと、姿勢のよいパンツをはいたいかにも研究者然とした40後
半にみえる女性(じつのところ白人の年齢は判定しにくい)に追い越された
が、途中の住宅街のなかの道に消えた。
ほどなくノボテルの Reception のところに着いたが、会議場ではなかった。
ちょっと迷っていると、先ほどの女性が現れた。彼女は近道をしようとして
却って遠回りをしたらしかった。会議に出るのと聞かれたので、そうだと言
うと、ここではなくてあちらだと少し行った別の建物を示した。いっしょに歩
きながら、
「自分は理論物理をやっていて、まったく太陽の素人だが」と言っ
て相手の専門を尋ねたが、専門用語を使われてなにをやっているかわからな
かった。こちらはつづけて、
「自分は量子流体の渦の理論をやっていて、渦の
観点から太陽の黒点に興味がある」と半ばハッタリを言った。
「たしかに、黒
点は磁場が強くてそこが温度が低くなっている渦である」と一般的な答えを
してくれたが、そこで話は止まってしまった。(あとで気がついたことだが、
この女性は The Villa の滞在者のようであった)。
ともかく会議場に到着すると、すでに午前の招待講演がはじめっていた。
受付のところに行って会議参加費用の支払いをしようとして少しもたついた。
つまり通常のホテルのように、カードを直接処理するのではなく、PC で全部
処理するのである。背の高い女性がきて、彼女の PC に、こちらのカード番
号を打ち込むのである。
(日本円にして4マン近くで、ちょっと高いと思った
が、どうやら昼飯とお茶代が全部含まれていた)。これが終わって、wifi のア
クセスの id and pw の書いたメモをもらい、封筒を渡されて, 一息ついたが、
部屋は一杯のようで、女性がここに空いている場所があるから来いと案内し
てくれた席に座ってトークに耳を傾けた。もらった風等には、Palm Cove の
観光案内と、ケアンズ近郊のガイド地図、それからオーストラリアというこ
とで、土産用のブーメランが入れられていた。
56
13日:
こちらへ到着してから、ずっと天気は不安定であった。会議初日の昨日は、
熱帯特有のスコール状の雨が突然襲ってきたが、瞬時に止むということがひっ
きりなしに繰り返された。
世紀の天文ショーの前日になって会議の参加者も心なしかそわそわしだし
た。会議の主催者が、明日の天気に関する情報を流していた。英語がよく聞
き取れなかったが、山沿いのほうがいいらしいと言ったと、N 氏が説明して
くれた。
今回は、日頃懇意にしている日大の N 氏と宿舎の The Villa Palm Cove を
シェアできて、いろいろと話相手になってもらえるのが有り難かった。N 氏
は会議場で、Local weather のサイトなど、あらゆる情報を集めているよう
であった。このごろの会議というのは、人の話を聞きながら、PC を操作し
ているのが半分以上いる。たぶんトークの内容を PC のうえで記録して、そ
れを internet で、ライブで人につたえるか、あるいは他の話との関連をつけ
ているというのもあるのだろう。しかし、話をききながらほかのことをやっ
ているというのも多いだろう。閑話休題: N 氏によると、天候が不安定な
ときには場所の選定がともかく crucial だという。たしかにそのとおりであろ
う。たとえば、梅雨時でほとんど連日雨がふるという場合は、はじめからあ
きらめがつくが、微妙に雲がかかって時々晴れる場合というのは、少しの場
所の違いによって決定的に異なる。ともかく、早朝の6時38分から2分と
数秒の勝負だ。そのあいだ雲が切れればよいだけのこと。雲の動きが問題に
なる。ぎりぎりのところで、雲がきれるところを探すという芸当をプロ「ウ
オッチャー」たちはやるらしい。そのためには、場合によっては特殊な装置
をそなえた車で、普通にはアクセスが困難な場所にすら移動するらしい。し
かし、われわれにわかウオッチャーにとって、そんなことをできない。せい
ぜいが、公共の移動手段で、場所移動をするくらいしか手はない。
『内陸部の「KURANDA」 が、ひとつの watch point になっているよう
で、そこのほうが晴れる確率は高いらしい』N 氏は言った 。しかし、アクセ
スのよくないクランダまで出かけてダメであることもあるし。ハムレットの
せりふをまねれば、
「To watch here or not to do so, that is the question (こ
こで観るべきか否や。それが問題だ) 」. 会議の参加者の日本人の二人ずれ
に、明日はどこで観るか聞いてみた。
「まあ、ここで観るつもりですが」こん
なことを聞いても無駄であるが、人の反応をみて判断の基準にするというの
もひとの行動パターンのひとつであろう。N 氏は逡巡しているようであった。
クランダ往きの臨時列車が午前五時にでているが、いまから予約ができるか
どうかわからないし、そこの鉄道駅までのアクセスが問題である。じぶんは、
57
N 氏に従うつもりでいたが、結局のところこの場所にとどまっているしかな
さそうであった。まあ、一縷ののぞみをかけて雲がきれることを祈るだけで
あった。
N 氏と作戦を確定しないまま(けっきょく移動をすることはあきらめたと
いうことであるが)、この日のすべてのトークが終わるとすぐに引き上げた。
明日の観測地点を「下見」をするためであった。太陽は、ほどなく西の山に
かかっていたが、雲の動きがはやかった。東の方角に海が広がっていて、ちょ
うどこのあたりは湾になっているようであった。遠くに大型の客船が停泊し
ていた。ヤシの実を集めていた地元の男に、写真と撮らせてくれと頼んだ。
どこから来たのかと型通りのころを聞かれた。日本から明日の早朝のイヴェ
ントを拝むためだと答えた。このあたりは、何百キロにもわたって、海岸線
(ビーチ)が延々と続いている地形なのだろう。それにそって数々のリゾート
地が形成されているのだろう。そもそも、このあたりは、おそらくニューギ
ニアからつづく亜熱帯地帯で、文化的経済的見地からはとりたてたものがな
く、観光が主たる産業であることはまちがいない。それが高い物価に象徴さ
れているようである。
ビーチをケアンズのほうに向かって歩いてみた。昨日に比べ、天気は心持
ち安定しているようであった。途中で望遠カメラを数台据えた一行に出会っ
た。若い背の高い男がマイクをもっていた。テレビカメラには、星条旗のデ
ザインの旗がまかれていたので、『Are you American clue ? 」[ Yes」。明日
に備えて、待機しているのであった。この場所以外にも、何カ所か、置かれ
ているのであろう。
Palm Cove のリゾートエリアからとなりのクリフトンビーチまで歩いてみ
た。途中で、地元の白人の子供が投網をつかって砂浜につづくクリークで魚
をとっていた。ちょうど中学1年生くらいであったが、網を操作するなれた
手つき腕前には感心した。「You catch big fish ? 」と聞いてみたが、無言で
あった。なんと返事していいかわからないのは子供だからか。。。。。
遠くにみえた客船は、明日のイヴェントを洋上から watch するため特別企
画のためであろうことは確実であった。どれだけ金をとられるのだろうか。
クリフトンビーチからもどってくると、すでに暗くなりはじめてきた。この
戻りの道の脇をクリーク(日本でいう小川というのではなくて、沼沢地にあ
る水路を意味するようである)が走っていて、そこに「Warning: crocodiles
inhabit」という警告が立て看があった。海岸にもあった。海にもワニが出没
すると言うのは奇異であった。すでに7時まえになっていた。少々くたびれ
て腹もすいたので、ついでに晩飯を食う事にする。Palm Cove リゾート一
58
帯は、レストラン、ホテルが約一キロ足らずの続いている。R.Botet 氏に聞
いてはいたが、食事は高かった。シーフードパスタを注文したが日本円に換
算して三千円ちかくもした。観光地ということを割引しても高い。それに欧
米と違うのは、メーンディッシュにはパンがそえられていないようであった。
パンは別料金ととられるようである。日本で飯が別料金に準じているようで
あった。Villa に帰る途中で、N 氏が食事にでかけるのに出会った。
ホテルの Wifi をつかって PC でインターネットを接続し家に PC 電話をか
れた。wifi 使用料金が、滞在中50ドルとのことであった。しかし回線速度
は遅かった。家内の声は聞こえたが、向うはこちらのことが聞き取れないよ
うであった。
「明日は期待ができない」とだけ伝えた。ベッドに横になってい
ると、N 氏が食事からもどって、
「いまはよく晴れてますよ」と言った。とり
あえず、明日は朝6時まえからでかけましょうかといって、床についた。夜
中に雨の音がした。
11月14日:
早朝の5時すぎに目覚ましがなって起床した。東の空は、雲がたれこめて
いて太陽は見えなかった。N 氏は、ほどんど寝られなかったという。わたしも
うつらうつらしただけであった。日本との時差はほどんどないので、この影
響ではないことはたしかであったが、どちらも興奮していたのであろう。空
は、ところどころ青空がみえていたが、雲があつく、とても期待はできそう
になかった。しかし、雲の動きはあるようだった。二人とももうあきらめな
がら「ともかく海岸にでかけましょう」。「雲が動いていれば可能性はゼロで
はない。最後まであきらめずにいきましょう」とわたしは言ったが、なにを
あきらめないのだ?
午前6時まえ。レストラン Apres の前のビーチにはもう人がいっぱい集
まって、砂浜にすわりこんで、空をなかがうらめしそうに眺めていた。watch
spot として、最高の立地であった。日本からのツアー客とおぼしき団体もか
なり集まっていた。太陽の位置は、仰角13度くらいであった。いまだ雲に
かくされていたが、雲間から光束を投射する雄大なチンダル現象がレンブラ
ントの絵画をみるごとくこのときはとりわけ印象的であった。雲が動いて、
太陽が姿をみせた。日食グラスをかけてみるとすでに半分以上ほど欠けてい
る。あと40分たらずだ! 雲の塊が太陽をさえぎっておく。時刻がすぎて
いく。あと25分だ。雲がさらに動きをみせて、細い三日月様に欠けた太陽
がかいま見えた。もうダメかなと思った刹那奇跡がおこった。
ちょうど、8分まえくらい(だったか)に雲が奇麗に払拭されて、くっきり
と晴れ間が現れ、細く弓なりになった太陽が姿をみせた。こころ持ち、赤色
59
をしていたようにみえた。そしてこの晴れ間がかなり開けていて、つぎの雲
が来るまでに皆既が終了することはほぼ間違いなかった。おもわず、「うん、
これでいける、いける!
!」と胸の高まりをもって声にだしたものである。N
氏もなにか歓声をあげていた。時々刻々と final count down がはじめった。
6時38分 XXX 秒。太陽は真っ黒い月に完全に覆われた。ほんの一瞬光り
がとだえたのち、コロナが現出した。いっせいに歓声がとどろいた。もうダ
メだと思っていたものに、まみえたのであるから、なおさら感激もひとしお
という気持ちがその声また声のなかのこめられていると感じ取られた。日頃
喜びを分かち合うという言葉などは、しらじらしいと思う自分ですら、この
瞬間にはそれを否定し得なかったことを告白する。
ともかく、皆既日食のはじまりであった。肉眼でもくっきりとコロナはみ
ることができる。光度は満月より少し強いくらいだという。双眼鏡で後光に
輝く黒い月を目をこらしてながめた。2分数秒間の光景を目にくっきりとや
きつけるために、かたずをのみながら眺め続けた。しかし、持ってきたデジ
カメですかさず、シャッターを切ることだけは忘れなかった。2枚のショット
をものにした。あたりは完全に日没後の暗さであった。聞いていたとおりで
ある。しかし、短い時間で黒い太陽に気をとられてあたりの暗い景色にそれ
ほど印象づけられたわけではない。皆既の終焉をむかえたころ、少し雲がか
かったが、ほどんど問題はなかった。皆既の終焉をむかえたとき、少し失敗
をした。太陽と月が三回目の接触する瞬間に、出現する「漏れ光」というべ
き、通称ダイアモンドリングをはっきりと確認しぞこなったのである。この
瞬間の強度で、双眼鏡でながめると目をやられると思って、急いで日食グラ
スをとりだそうと思って手間取った瞬間に、消えてしまった。しかし、肉眼で
その一種の輝きは感じたのであるが、近眼のせいで十分には確認できなかっ
たのが心残りであった。
これで、世紀のイヴェントは終了した。あとは部分日蝕であって、とくに
観るべきもでもないので、三々五々見物人は、感激を胸におさめて散っていっ
た。デジカメに納めた2枚は、光輪に縁取られた新月をみごとにとらえてい
た。少々小粒で、望遠で撮った具合にはとてもいかないが。N 氏もよくとれ
てますね、と言ってくれた。こういうちょろいカメラでも皆既食ではとれる
のである事を確認した次第である。
「移動しなくてよかったですね。内陸部では見えなかったのでは。これば
かりは運ですね」と N 氏。たった、2分の観測ツアーに、大枚50マンを支
払って、スカタンを食らうという不運もある。なんでも、ハワイでの日食ツ
アーのとき、山岳部と海岸の二手にわかれて、山岳部にでかけたグループが
観測できなくて添乗員に食って掛かったとか。食って掛かられても、それを
60
承知で参加したはづだが。
会議場では、日食を祝って、朝食パーティが持たれた。みんな上機嫌で、
銘々がカメラにおさめたものがスクリーンに映し出されていた。専門の望遠
カメラでコロナを背景にした黒い月をみせていた。。。。。。。。
朝食パーティのあとは、shot-gun セッションがあった。一分間で、ポスター
の内容を紹介するのである。まさにショットガンで、およそ、30編ほどの
タイトルを、つぎからつぎと、スライドで紹介していくのである。N 氏も太
陽風のなかで分子クラスターが生成される理論的メカニズムを紹介した。ま
えの晩に寝られなかったのはこのことが頭にあったことからだったのかも。
ミセラニアス
今回の出張の目的は、日食にちなんで太陽現象の分析に関する専門家が一
同に会することであったようだ。重力による光の偏光に関する話題をポスター
で掲示することを予定していたが、確定的な結果が出なかったので断念した。
この問題は、会議の主たるテーマからはづれていることもあった。
太古の昔から太陽はあらゆる輝けるものの象徴であった。ルイ14世は自
らを太陽王と称した。原始女性は太陽であった。。。。。。(太陽党というのがで
きたらしいが、これはまやかしだろう)。
太陽の物理学: 太陽が輝いているのは、熱核融合でエネルギーを生産して
いるというのが通説であるが、太陽自体の構造はいまだにわかっていない。
未知なるものは探求すべしというところに、この会議の意義がある。物理学
の単なる応用分野という具合にはいかない。
物理の会議とはちがって、太陽の専門家の Jargon のオンパレードだ。この
ような話は聞く機会がないのでまじめに聞いている。理論物理という推測だ
けを働かせる人種からするとこういう話はエジプト時代の昔からの観察の延
長の学である。理解することに意味があるというようなものではないが、門
外漢としてなにが面白いのかを考えながら聞いていた。たまにはこういう天
然現象を学部程度の物理の知識を駆使して研究に関する話を聞くのは新鮮な
気分になる。「健全である」という感銘をうけたことは事実である。
その道の若い専門家とちょっと話をした。こちらが物理の理論専門という
ことで身構えて板に水のごとく専門知識を披露してくれる。これだけが命だ
といわんばかりであった。素人の観点から、
「太陽黒点のところで、温度が低
くなっているのは、ベルヌイの定理から定性的に理解できるのではないかと」
切り込んだ。それに対してただちに反論してきて、
「いや、ベルヌイの定理は
61
この問題では適用できないことがわかっている。要は自由電子からできてい
ることから、それが磁場による。。。。」とサイクロトロン運動理論をもちだし
てきた。じつは、ベルヌイの定理を拡張して、磁場エネルギーを考慮すれば
磁場ば強いところでは、荷電粒子(プラズマ)の運動エネルギーが小さくなっ
て、それを温度に換算すれば、温度が低くなるという荒っぽいが単純な描像
がでてくると思ったのであるが、相手は革新的に自分の知識が定説であるこ
れ以外に考えられないとばかりの勢いでまくしたてられるもので、ここでは
付け入る余地がなかった。つまり、こちらが口を挟もうとすると、
「人が説明
しているときに話さえぎるな」と説教をたれるのである。ちょっとムカッと
きたので、こういう既存の知識で固めた輩を「ヤル」には、その専門以外の
推測で考えるところをつくしかない。一発かましてやれと;
「太陽面を偏光で
観測するという話に興味がある。とくに磁場によるファラデー効果が典型で
あるが」と話題をかえた。「その話は知っていますが」ときたので、「ファラ
デー効果は磁場だけだが一般の光学異方性を考えにいれるとどうなるか、こ
れは言い換えると、偏光を観測してそれから太陽面の構造を逆算する『逆問
題』になる。逆問題というのはわかりますかな。。。。」「いわれていることは、
わかります。その問題は、新たな問題を提起したことになりますね」とかわ
してきた。じつは、太陽でこのような逆問題が本当に問題として成り立ちう
るのか確信があるわけでは決してあるわけでなくまったくの推測なのである
が。まあ、じつのところ、太陽表面、コロナのことなど永久にわからないだ
ろう。だってそうでしょうが。太陽の表面に降り立って、測定することなど
できませんからな。彼らもそういうことは重々承知しているようだ。何に貢
献して食っているのだと疑念はまったく然り。ひとことでいえば、電磁流体
力学+重力を基本とする、Misch- mash (ゴチャマゼ) である。そういう点か
らは面白と思う。なにか適当にモデルをでっちあげれば(それ自体は、やさ
しくないところもあるだろうが)論文を書けるという学問はどう評価してい
いのか。入り組んだ深い理論構造へはいっていけるというようなものではな
いと。これは理論物理学者が傲慢であるといわれる所以なのだという自戒が
あるが、思わず、実際現象に関係した経験の学のごたごたさに閉口してしま
う。そういう意味では、素粒子論の太陽ニュートリノの問題ですらごたごた
の物理だろう。
それから、もうひとつ興味があったのは、太陽の「地震」、つまり、太陽震
(地震業界では日震という)に関する話題。これは、いわゆる, Starquake の
一種である。
しかし、研究集会の題目:Cycle 24 Ascending;GONG 2012 / LWS/SDO-5
/ SOHO27 という長たらしい名称の意味は最後まで わからなかった。サイ
クルは、黒点の活動の周期をいうらしい。N 氏に聞いたが、彼もよくわから
62
ないという答が返ってきた。専門家にたずねるべきであったがあえてそうす
るまでのこともなかった。
エピローグ
ケアンズの飛行場はローカル空港であった。チェックインカウンターは、ひ
ろいロビーに一列に、20箇所ほど並んでいるだけであった。「ウェブチェッ
クイン」の窓口はどこだとたずねると、そんなものはない。普通に並べとい
われた。
ケアンズと日本のあいだの時差は、日本がマイナス1時間である。生理的
にはほとんど影響がない。これは楽である。帰りは、午後12時20分発で
到着が7時まえであるから、国内の長距離バスに乗って移動する感覚である。
ともかく、赤道を通過するという経験ははじめてである。
赤道を通過した効果をひとつ実感した。電池が「干上がった」のである。ホ
テルで電池のひげ剃りを使おうとして動かなくなったので、おやと思ったの
である。接触がいかれたと思って、仕方なくカミソリとシェービングクリー
ムを買った。しかし、ねんのために、あたらしい電池も買って入れ替えると
ちゃんと作動する。これで電池だけが消耗したことがわかった。しかし理由
がわからなかった。N 氏に聞くと「赤道を通過するとき、揺れませんでした
か。つよくゆれることで電池が消耗したのかもしれません」。たしかに、正
常に作動していたものが急にストップする原因がわからない。赤道を通過す
るときは、たしかに揺れがちょっときつかったことは事実である。これが主
たる原因であると確定できないが、かなり確かであるといえるかもしれない。
ちなみに、N 氏は、この揺れで「飛行機酔い」をしたそうである。同じ飛行
機に載っていた女性がゲロしていたという。自分は乗り物酔いにはめっぽう
つよく、少々のゆれはむしろ快適にさえ思うくらいであるが。。。。。
オマケ:オーストラリアは『ai (愛? )』の国
愛のある国はいいものだ。すべての言葉に「あい」がある。ほとんどの ei
が ai と発音されるように聞こえる。典型的な例が、パイパー (paper) と, ト
ウダイ (today) だ。個人的な差もあるのだろうが、ニュースのアナウンサー
の発音を耳をこらして聞くと、非常に頻繁に ai と発音するのがいる。 ナイ
ム(name), アイビーシーニュース(ABC news)。。。。 。The Villa のマダ
ムに、ポートダグラス行きの小型バスの切符の予約をしたとき名前の綴りで
聞かれた。( KURATSUJI) kei, yu, a- ei, , tie, es, yu, jei, ai とメモに記入し
ていって、ai を i ではなくて、a と書いて、すぐに i と書き直した。
63
2012/10/12
今年度のノーベル賞 に関連するニュース記事と関係して:
程度の低い日本のメディア(マスコミ)が手放しにうかれている背後に隠
されているかもしれない事情について「考察」を加えたいと思います。
まず、山中教授の弁:。。。。。山中教授はこうした過去5年間の急速な研
究の進展について。
「想像よりもはるかに早い。ここまで進むとは思っていな
かった。。。。。。」 発明の当時者の感想として至極もっともな言でしょう。この言明の裏に山
中氏の心中の思いがあるいは隠されているかもしれません。「パンドラの箱」
をあけてしまった。。。。。
iPS 細胞の合成は、おおげさにいえば核分裂の発見とある種の対応する面
がある気がします。核分裂で連鎖反応を起こすところが細胞増殖とまさに相
応するところも軌をいつにしているかのようです。
基礎的発見から技術への転用は、その意図が明確であれば、もとの発明者の
思惑など超越してものすごい勢いで進むことは歴史がしめしています。ハー
ンの核分裂発見とその後の核開発が典型である。ハーン自身はたんに核物理
の現象として純粋に分裂を発見したのであるが、すぐさま連鎖反応をに思い
をいたしたのはフェルミであり、それによって爆弾ができると発想したのは
シラードである。第二次大戦の末期から10年くらいのあいだに、想像を絶
する核技術が冷戦の名のもとで進展して人類を破滅寸前まで追い込んだのは、
まさに核という「悪魔の箱」のひらいてしまった結果であるといえる。国家
(=軍)というのは究極のところ碌なことをしない。 すでに日本国家あげて開発への支援をするということだが。いずれ山中教
授のもともとの意図から逸脱した方向へ発展しかねないことに危惧します。
国家が管理するとどのようになるかということは核開発の前例がものがたっ
ている。
出来上がった細胞をもとに戻して、それから自在に部位を再生させること
ができることは素晴らしいことです。腎臓移植を生身の人間から提供される
というようなことはもはや不要になるからである。反面、人工臓器がどのよ
うに変化するという予測がつかないところもあるのではないか。この安定性
が確立される保障などないのではないか、つまりある不安定な状況で暴走す
ることがあり得るかも。原子炉の暴走のごとく。などなど。疑念を数え上げ
ると切りがない。まあ、ことが個人の命だけに関わっていることであるから、
それですむといわれればそれまで。所詮行きながらえたとしても有限の命で
すからね。
64
さらに、この技術を悪用する輩の出現が当然予想される。結局クローン技
術と根本のところでは、同じではないかという疑念がある。ひょっとすると、
ほんとうに「不死」の人間??さえできるかもしれないという悪夢が頭のかな
を横切ります。わるい表現であるが、山中教授が、何十年か後に現代のフラ
ンケンシュタイン博士と評価されることのないことを切に祈ります。
悲観的な言明ばかり披露しましたが、ともかく非常に困難な実験をくりか
えし首尾よく目的を達成したことは科学技術の発明的見地からみて素晴らし
い業績であることに間違いはありません。遺伝子工学のまさに達人として褒
めたたえられるべきものでしょう。これが日本人によって達成されたことが
とりわけ喜ばしいことです。経済的傾き大災害の後遺症に苦悩するわが日本
にとって朗報です。数学の望月教授というスーパースターの登場と対をなし
て慶賀したい。
物理学部門
さて、物理学賞は興味のあるとろこですが。 地味で無難な分野に行きまし
たね。こういう原子スペクトロスコピーにまつわるもので理論的な面からす
ると格別面白くもない。そういうものなのですね。物理学賞は。
如何わしいと思われている量子コンピュータ、シュレーディンガー猫に言
及されはじめたのは時代の趨勢ですか。しかし、そのような未知への期待に
つながると思われる実験家だけを報償して理論家を考慮していないのは、さ
すがに用心してのことでしょうね。無難なところを狙っている。
しかし、ノーベル選考委員会の本来の主旨にきわめてかなった決定のよう
な気がします。煎じ詰めれば、物理学賞の基本姿勢は、歴史的に一貫してマ
イケルソンに端を発する光をつかった計測という根本的な課題に回帰してい
るように思われます。レーザーを用いた重力波が観測された暁には。。。。
最近でも、レーザー冷却、BEC, コヒーレント状態(グラウバー etal )な
どなど。全部筋書きがあるような気がします。前にもらったのが、強力に推
薦する仕組みができていることも確実でしょう。
ともかく、これまでの授賞を統計すれば、広い意味の光に関するものがもっ
とも多いのではないかと推測します。核素粒子の時代を別として。そのほう
が廃れても、光の分野で当分もっていける。物理の基本理論に関するものな
どは、そのあいだにちょろっとブレンドされているかにみえる。
だから、これから物理をやろうとする若い学生でノーベル賞をせしめよう
65
という野心のあるのがいたとすれば、すべからくレーザー関係を選考するこ
とですね? 格好のよい理論などをやっていてはおぼつかない。まあ、本当
にやりたいことまで犠牲にして賞を狙うというのは本末転倒であるとは思い
ますがね。華麗な理論で報賞されるのはディラックのような天才だけでしょ
うね。
66
2012 年8/9月
8/24
今年で、パリ(フランス)を恒常的に訪れはじめて10年が経過した。全
く早いものであるという月並みな表現しかできないが、それなりに、時間の
中身は充実してきたと思えるし、なにか欠落しているともいえる。欠落の意
味するところはなにかを追求してみても、結局、過ぎ去った時間に悔恨する
ということにつきてしまう。これが20年早ければ、もっと充実できたこと
であろうと。ある意味で居心地のよい国内での職を投げ打って、思い切って
この地で研究職を求めてそれが実現していたらどうなっただろう。。。。。。
失われし時を求めてさまよう時間の放浪者。。。。。(気障な表現ですね)。
イタリア広場からゴブラン通りにそって少し下がったところから入るコイ
ペル通りがある。ホテル:デザールは、その端にあるのだが、ロピタル大通
りから少し入ったところというのが位置的には特定しやすい。第十三区の警
察のセンターがすぐ隣にある。ということは、治安的にいえば、有数の安全
地域であるということになる。
この大通りの端は、Austerilitz 駅と植物園が最寄りのスポットで、セーヌ
河に通じる。イタリア広場は、ちょうど放射状の中心となっていて、もっと
も華やかな通りがゴブラン通りである。ゴブラン界隈は、カルチェラタンの
地域でもっともしゃれた雰囲気をかもしていて、ホテル代も高い。イタリア
広場からロピタル通りと反対方向に、サンオーガスト通りがあって途中でサ
ンジャック通りと名前がかわる。RER B 線のダンフェールロシュローに通じ
ている。地下鉄6番線に平行している。この通りの一角に、ルモンドの社屋
がある。世界的に有名な新聞社がシャンゼリゼー界隈ではなくて、こんなと
ころにあるのが意外な感がある。
イタリア広場のまわりは、種々のレストランが点在していて、そこにいき
つけのイタリアンレストランがあり、毎度行くので完全に顔が覚えられてい
る。
昨晩は、9時に寝てしまったために。夜中の3時半に目がさめて、それか
ら本をながめたて、またうたた寝をしたりしているうちに明け方になってし
まった。いつも思うのだが、少し頑張って、寝る時間をおそくすれば、夜中
に目がさめることもないだろう。
部屋は4階である。3人乗りのエレベータが設置されている。建物の構造
からエレベータの停車階は、部屋と同一レベルではない。つまり、4階であ
れば階段を半分下るか、のぼるかしなければならない。階段はラセン状になっ
ているのは、パリ(それからフランスの諸都市)の多くのホテルと同様であ
る。
67
窓から向かいの近代的ビルの建物の部屋部屋がが丸見えである。どこかの
会社の事務所になっているらしいのだが、9時現在、だれも人かげはみえな
い。なるほど、この時期(8月の最終週)はまだバカンスの最中なのだ。ホ
テルの部屋代も安いはづである。9月になれば、ぐっと高くなる。
フランス語の即席会話本をながめる。やはり、理屈で意味をとるような教
えかたはしないで、まったく場当たりで実用本意であるが、それもときと場
合には必要であろう。理屈ばかりいっていると埒があかない。ともかく実践
的にいくとこういう本になる。しかし、外国語は理屈もやらないと頭にはは
いらない。第一文章が書けない。フランス人でも、話すことができても学校
で教えられないと読み書きはできない。反対に日本人でも、学校でフランス
語をならえば読み書きはできるが、話せないと同じである。言語とはそうい
うものである。
(日本では、小学生に英語を教えるということだが、会話だけ
を教えて、書き方を覚えさせないと、ものにはならないということを当事者
たちは理解しているのだろうか。肝心なのなアタマで考えることだ! 思考が
できないガキのアタマに片言の会話などを詰め込んでも無駄であることを認
識すべきである)。
それから、高木貞治の初等整数論をながめる。これは、ほんとうに素晴ら
しい書物である。とことん煮詰められた形でその道の達人が著したものとい
うのは、よく書かれている。しかし、容易には咀嚼されない。具体例を理解
するだけでも難儀である。
わが専門の物理学では『ディラックの量子力学』が白眉中の白眉である。お
よそ偉大な物理学者が著作した本で、ほんとうに素晴らしい本は、古今東西
みてみても数えるほどしかない。かのアインシュタインにしても、みるべき
テキストなど書いていない。ランダウーリフシッツはその例外だろう。それ
は徹底した実践本である。ディラックはバイブルである。ほかに誰もものが
あるだろうか。
そもそも、物理は本来は実験科学であるが、テキストというのは数学をつ
かった理論物理しか成り立たないのかもしれない。上記のディラックのテキ
ストの序文にはっきりとそう宣言されている。つまり、講義では決して語る
ことができない内容を、それを読むことによってガイドをされて入っていけ
るというようなものをいうのであるが、実験科学は、基本的に「記録の学問」
である。講義のなかで、これこれの事実と口頭で伝えてやりかたを指示すれ
ば、学生はそれに従って再現することは可能である。それゆえ、短絡的思考
をする教授は、理論などいらないと考えるものもいるのはむべなるかなであ
る。しかし、少し考えると、味のない食物を食わされていることがたちまち
にしてわかる。その背後にある、よってきたる、数理的に表現された理論に
よって「理解する」という行為がなければ、物理学という学問としてはなり
68
たたない。ただし、ファラデーは別である。数理を使わないで、物理学を創
造理解できたのは、科学の歴史上、ファラデーただひとりである。
数学書は、うえでふれた我が高木貞治などのように名著は数多い。日本人
による著作をあげてもいい本がある。たとえば、岩沢健吉の代数関数論は非
常に難解であるが、すばらしい書物である。岩沢健吉は高木貞治の写真を机
において、それをながめながら研究をつづけたそうである。ワイルの古典群、
ジーゲルの関数論などなど枚挙にいとまがない。岩沢代数関数論はジーゲル
の関数論の第2巻と重なるところがあるような、しかし、もちろん独立に書
かれたものであろう.
8/27
ストラスブール。
最初に、前日(26日)に、東駅の配置を下見をしておいたことを記す。東
駅と PLace dItalie は、地下鉄5番線で直通だ。朝がはやくはないので、べ
つに下見をする必要もないのだが。とりあえず、サンジェルマンからセーヌ
河岸をぶらついて、シャトレまであるいたついでがあったということである。
シャトレから Sebastopol 大通りをまっすぐ行った先が、ちょうど東駅であ
る。歩いてみるのも興であると思ったのである。このあたりはここ10年ほ
ど毎年のようにパリに来ているがはじめてである。東駅付近にさしかかると、
少々異様な雰囲気がただよいはじめた。ここは、黒人居住地区であるらしい。
通りに面して、美容の店が何件も何件もならんでいる。ほとんど黒人の女性
が客である。フランス人のいわゆる, 美容院(Coiffure) とはかなりイメージ
がちがって、ともかくワイルドである。じっと見入っていたわけではないが、
つぎからつぎと店がならんでいる。。。。。
IDTGV は格安列車である。特別仕立てで、日に何本かあるらしい。ID と
いうのは何を意味するのか、B 氏に聞く事をわすれた。この切符は、B 氏の
はからいで、ウェブで予約したものだ。ちかごろは、切符は駅で買うもので
はないらしい。しかも、駅で買うよりの手数料の分だけ安い。自分で買うこ
ともできたのだが、クレジットカードがどういう理由か受け付けられなくて、
B 氏のそれで支払ってもらって現金を彼に渡した。ちなみに、first class で
たったの6000円弱だ。しかも、三分の一くらいしか乗客はいない。
天気は、少々寒いくらいだ。日本にいる家内からすれば、この時期脱出す
るのは、後ろめたいキがするのは毎度のことである。
車窓からの風景:厚い雲の合間から晴れ間が覗く。飛行機がつぎからつぎ
へと飛来する。ドゴール空港へ着陸態勢に入ったのが、絶え間なく到着する。
ちょうど飛行ルートと汽車の線路が平行に走っている区間らしい。
69
ともかく、TGV の旅は快適だ。なによりも、途中の停車駅などはない。パ
リーストラスブール間が二時間十五分だ。
広大な田園風景のなかをぶっ飛ばす。雲の動きがはやいと思ったのは、列
車のスピードで飛んで行く感じをあたえるのだ。パリからほぼ真東に向かっ
ているので、時間的に古い天気を追いかけているのだ。
なだらかな丘陵地は、小麦とトウモロコシ畑だろうか。かなたに教会の尖
塔がみえるのも、ここが西洋であることを確かに実感させる。風力発電のプ
ロペラが回転しているのもおなじみの風景だ。
フランスは、欧州でかくも広大な領土をしめられたのか。
山地にさしかかる。真っ平らから突然に山にさしかかるのは不思議な感じ
がする。いくつかトンネルをくぐる。案内所によると、ヴォージュ山脈と紹
介されているが、山地が適当であろう。
汽車にのれば、ほとんど山あいをいく日本からすると、欧州の人たちは、
とても不思議なキがしてその変化にとんだ風景をたのしめるのではないか。
山地がおわって再び平野になったところで、終着駅ストラスブールに到着
した。
8/27,28
ストラスブール瞥見
昨晩は、寒いくらいであったのに、今日は、日がのぼってから急激に暑く
なった。内陸性のせいだろう。
ホテル;Cap Europe はアパートホテルである。ヨーロッパの首都だとい
うことであろうが、
(たしかに、ストラスブールは、地理的にはヨーロッパの
中心に位置して EU の各種機関が置かれているようである)。
ホテルは値段が安い。通常のホテルの半分以下だ。シンプルそのものであ
る。しかもゆったりとしている。単身者用のアパートの仕様である。シャワー
とトイレが寝室と別になっている。最低限の洗面用具だけである。清潔であ
る。寝室の設備は、テレビのみで、電話もない。
今回は、ある目的をもって一週間滞在したのだ。パリでの共同研究の期間
を切り詰めて、未完成の原稿をもってそれを完成させるために来たのだ。
こんなアパルトメントホテルでも、ベッドメイキングサービスがある。昼
前にドアをたたく音がなりひびいたが、面倒であるから、断った。洗面台を
つかって下着を洗面台で水につけてあったので、見られたくなかったという
のが理由のひとつであった。
というわけで、近代的な装備は不完全である。インターネットの接続はただ
ではなく、一日10 E とられる。ただし、接続の案内も不親切で、reception
の女性は、「orange につないでクレジット番号を入れろ」というだけであっ
た。実際は、部屋への電波がとどいてなく結局ウェブへアクセスはあきらめ
た。PC 電話(スカイプ)というのが使用できないので不便である。しかも
70
わるいことに、部屋に電話がないので、外の公衆電話を使えという。実際は、
レセプション横の建物に電話ブースがあって、そこから電話をかけているよ
うであった。
かように、設備が不十分であるが、これくらいはどうということもない。
インターネットなどは、毎日ながめる必要もない。なれているものがぶちき
られると不便に感じるのであって、もともと必要がないと思えばいい。こん
な設備がついているだけで、部屋代が倍もとられるほうが問題であるともい
える。
フランステレコムのテレホンカードを駅前の tobac で購入して、やっと国
際電話で自宅に連絡がついた。公衆電話をつかって国際電話をしたのは何年
かぶりであった。
さて、町の様子:一言でいえば、素晴らしいところである。ただし、難点、
しかも最大の難点であるが、フランスの街のつくりは、どうにも一様である
という印象なのだ。この限りない一様さというのが、いたく印象に残るので
ある。なるほど素晴らしいにはちがいない。しかし、なにか足りないキがす
るのである。。。。。。
1985年にはじめて、ここを訪れたのであるが、まったく記憶から欠落
していた。かのゴシックの教会だけが印象に残っていた。当時、ストラスブー
ルの研究所にいた梅沢実博士をたずねたのである。博士もとうの昔に亡くな
られているだろう。研究所自体もなくなっているかもしれない。当時でもう
定年に近かった(現在の自分と同じくらいか)であったと思う。独身であっ
た。老齢で異境の地で一人で生涯を過ごすのはさびしくはないですかと、聞
かずもがなのこを聞いたかもしれない。駅前のホテルをとってもらったと記
憶している。車で迎えに来てもらって、
「悪くなさそうだね。駅に近いと思っ
たのでここを予約したのだ」と言ってくれたのを覚えている。今回記憶をた
どって駅前まで来て、どのホテルかを思い返してみた。たしか、ホテルの出
たところから地下道かなにかに通じる入り口がみえたと記憶したのであるが、
いまもそれがあったので、たぶんこのホテルではないかと推測したのである
が、確かではなかった。駅前広場はずいぶんと広くなってゆったりとくつろ
げるようになっている。27年前ともなれば、変化していて当然だ。
イル川に沿って、市街が形成されたのがストラスブールである。比喩をつ
かって一言でいえば、アルザスのヴェネチアと表現できようか。ヴェネチア
は、幻想都市であった。ああいう場所が地上で存在するというのは奇跡とし
かいいようがない。もちろんここは、内陸であるから海はないし湖すらない。
しかし、水の町という表現があてはまる。それは、川面にそった家並みの配
置の華麗さにある。オランダのアムステルダムも北のヴェニスといわれるが、
それとはまったく異なるアルザス様式の華麗さである。ポールヴァレリーな
らどのように表現したであろうか、きわめて興味のあるところだ。
71
ライン川の支流が少々複雑に入りくんでそこにできた中州が旧市街を形成
しているようにみえる。ヨーロッパの河は、地質的形成過程の具合(詳細は
わからないが)によって深く、船舶が通るくらいである。
イル川にかこまれるように旧市街ができている。その象徴がノートルダム
大聖堂(カセドラル)である。この大聖堂だけは、27年前の唯一の記憶に
とどまるものであったが、以前に来たときにはそれほど観光客がいなかった
と記憶する。四半世紀前という時間の経過はある意味では記憶の劣化のなか
にすでに埋没しているのであろう。
イル川散策:
Cap hotel をでて、リパブリック広場で、川の散歩道におりる。老人にで
もおりられる階段ができている。自分は、昔でいえば、確実に老人に組み入
れられる。すべて、人間をいたわるという配慮が行き届いているのがフラン
スである。
フランス人は、読書が好きな民族だ。漫画など読まない。分厚いものを読
んでいる。総じて女性が多い、老いも若きも。
有名な文芸家、かつ偉大な思想家(科学者を含む)を輩出した国である。国
民によって作家が作られ作家によって国民が啓発されていくというよい循環
が長い歴史の過程で熟成されてきたのであろう。デカルトやパスカルまでさ
かのぼるのは少々古過ぎるかもしれないが。その片鱗が、街のそこかしこで
目撃できるのがフランスである。翻って、わが日本ではノーベル賞をもらっ
たりするとメディアは大騒ぎ騒ぎするくせに、一般的文化意識がかくまでに
低いということにほとほと慨嘆する。
8/29
ストラスブールも今日で、滞在4日目。朝方曇っていたのが、昼前から日
が照ってきてあつくなってきた。
今日は、掃除の女性がノックをしたので、入ってもらった。ゴミを処理し
てもらいたかったのと、タオルが汚れてきたので取り替えてもらいたかった
からである。しかし仕事は、5分くらいで終わった。ただしチップはだして
おいたほうが今後のためによいと思って2 E をはずんだ。黒人の若い女性で
あった。白い葉をみせてメルシー。
今回の滞在の主な目的は、整数論のノートの tex ファイルを整理すること
であった。別にパリでもよかったのだが、パリはホテル代が高くつくので、地
方に滞在したほうが安くあがるという目論みがあった。
整数論ノートは、昨年度の修士の山本くんに作成してもらったものを春に
ブルターニュに滞在したときに、完成させるべく計画していたのであったが、
なまけてしまって実行はしなかった。このホテルは、インターネットが遮断
されていることもありウェブで遊ぶことができないので、仕方なく仕事をし
たというわけである。おもなところは終わってしまって、あらたに加えるこ
72
とを考えているのであるが、そのまえに、材料を吟味する必要がある。つま
り、取り入れたい項目を全部チェックして自分のあたまのなかで咀嚼してお
く必要がある。
高木貞治の初等整数論と、代数的整数論(石田信著)を携帯してきた。石
田氏の本は、具体例をあげてくれていて丁寧に書かれている。たとえば、3
次体で素イデアル分解などを例示してくれてある。ただし、丁寧ということ
と読み手が理解するということは別である。
整数論は、
『デタラメに生起するかにみえる』数をあつかう学問である。無
造作にころがっている明白な事実に、決着がつけられない。話は中学生にで
もわかるのに、その証明の手がかりがないのである。これが物理の理論であ
れば話は簡単である。たとえば、中学生に量子力学を教えることはできない
が、(なかには理解できる生徒もいるかもしれないが)、高校、大学と進んで
それなりの準備ができれば、理解が可能な道筋がみえてくる。そして、大学
院まで進んでそれなりの修行をつむと、専門の論文も書けるようになる。数
を扱うかぎり、一般論ではすまされないので、理解の程度をたしかめるため
には、具体例を解く必要がある。しかし、すぐにお手上げの状況が発生する。
物理では、首尾よく方程式を設定できるまでが勝負で、それができると、ほと
んど解いたも同然であるが、整数論は、まず独特の概念とくにイデアルの概
念になれて自在にこなすという具合にはいかない。わかったつもりで先に進
むと、結局理解できていないことが判明して、もとに戻らなければならない。
√
たとえば、 K( 2379) の類数を計算せよという問題は、手がでない。おそら
く類数公式にしたがって、計算機で処理をする以外に手がないのであろう。
√
もっとも、驚異的なことには、ちょっと信じられないのであるが、 K( −1)
√
と K( 2) はまったく世界が違うのである。さから、整数 m をあたえる
ごとにちがう世界ができあがる。ゆえに、2 次体の世界といえども、永遠に
汲み尽くすことができないのだ!
! 普通の理論を学んで自動的に理解できる
かというとそうは行かないのがなんとももどかしいところである。ましてや、
意味のある専門的な論文を書こうとするととてつもない壁がたちはだかって
いるかに思える。(断っておくが、わたしは専門論文など書くつもりはない。
たんなるディレッタントの資格で取り組んでいるのである。)問題の意味がわ
かるということと証明の間にとてつもないギャップがある。これが数学者を
なやませ、かつ挑戦する意欲をかきたてられるのかもしれない。多くの数学
者は敬遠するというのが理解できる。だがその反面その困難さに魅せられる
ものが少数ながらいるのであろう。それが整数論学者である。そのつど、問
題独自のアプローチが要求される。たとえば、素数の分布はデタラメにみえ
る。そこに、ある法則性を見て取るというのは、通常の理論をつかって解け
るという感覚を持たせないというところにあるのかもしれない。
さて、本日の夕食は、ちょっとはずんで?中華料理を食べた。大聖堂の近
73
く、トラムの通りぞいにある、長城酒家というところだ。酢豚とエビ焼き飯
とお茶とコーヒーでしめて、20 E 。まあこんなものだろう。朝をたっぷり
と食べているので、昼は、コンビニで買ったバウンドケーキの小さなかけら
3つほどで十分であった。
今日の予定も終わりになってきた。ヴェレリーの精神の危機をながめる。
地中海の感興という章である。ポールヴァレリーは、南仏セットの生まれで、
その地の環境がのちの詩人としての素質を存分に育んだことを吐露している。
つまり、彼の原点は、地中海であったということである。
およそ学校で習うことで、人生においてそれが決定的な役割をすることな
どはまずない。読み書き算術をのぞいて。学校をはなれて、なにかを学ぶと
いう意欲がわくのは、個人の資質に帰するものである。そのときに、置かれ
た環境に決定的に左右される。ただし、環境をととえてやっても、それを行
かせる能力がなければどうにもならないのであるが。
ヴァレリーは、非常な才能の持ち主であったが、数理的なものにはめぐま
れなかったようである。それに対する悔しい思いが、文章のところどころで、
つづられているのが興味深い。世の中には、二種類の人間がいるというのは、
けだし名言である。
『二つの世界』は、ヴァレリーではなく、エドガースノー
の造語であるらしいがポールヴァレリーが言い出しても決しておかしくなかっ
た名言である。
自分が理解できないものは、存在しないとかかるのが世の常である。現在
の政治家の科学に対する態度をみればよく理解される。できることならば、
無視したいと考える。カネがかかるからである。物理学者であっても、実験
家は理論家に不信感をいだく。あるいはその逆。
しかし、ヴェレリーは、自分に理解できないものを排斥するということは
しなかった。ギリシャ人が幾何学を発明したことが、人類のその後の文明の
発展に決定的な役割を果たしたということをはっきりと認識していた。およ
そ、文科系の人間で、このような心情をはっきりと吐露することは、非常に
しにくいことである。
およそ、自分にとって手がとどかないものを受け入れることは、忍耐がい
ることである。そこにあるものを理解しようとつとめるが、どうしても扉が
開いてくれない。とくに、文科系の人々にとって、数理は不可解である。象
形文字と区別がつかない数式記号の羅列のなかに意味をくみとることなどは、
まるで宇宙人の書いた書物のようなものであろう。この記号も、しかし言語
の一種であることに変わりがないのであるが、そういうことに思いをいたす
ことすら拒絶される。音楽にうといものが楽譜を読まされるほうがはるかに
容易であろう。科学は、途方もないところまで来てしまった。絶対に近づけ
ない絶壁のさらに向うにある。これに近づくには、数理の翼にのった飛翔す
る精神が必要とされる。ということは、科学者は、世間から隔絶された孤独
74
な道をいくことを余儀なくされる。
8/31
時間の流れるままに。ストラスブールに来て6日目である。
昨晩は、9時まえに眠ってしまった。深い眠りのなかで夢をみる。夢は思
い出すことはできる場合もあり困難な場合もある。エロス的なものであった。
いま、この瞬間に、世界のあらゆる場所でおこっている現象よりも、任意
のひとりの人間が存在する仕組みを知る方がはるかに困難であり、深い意味
をもっている。この仕組みは未知のままだ。世界は機械によって動いていく。
ほんとうに機械それだけだ。人間が機械に従属している。動きがとまれば、人
は嘆き悲しむが、そんなことはどうでもいいことかもしれない。ただし、機
械とは象徴的な意味合いもある。もともと必要でない機械などはつくらなけ
ればよかった。
ボロをまとった、ひょろ長い男がよろけながらストラスブール駅前のマク
ドナルドの店のなかでカネを求めてきた。一瞬ひるんだ。どうすべきか。結
局、無視してしまった。痩せこけて、小銭をいれる紙コップを手でもつこと
さえ、おぼつかない風であった。施設に入るよりも、もの乞いによって自己
の矜持をたもつ最後の手段としたのであろう。ながくは生きて行けないこと
を悟っているか。あるいはそれさえに、超越しているのかもしれない。人間
の命など、どう頑張ってもせいぜい100年。所詮、どこかの大統領といっ
たところで、なにほどのこともない。こういうことを平然といえるまでにな
るには少々時間がかかるのであるが。
人間のやっていることなど, たぶん意味などない。だいいち、この世に送り
出されたのが災難のはじまりなのだ(アンブロースビアス)。子供はよく理解
している。
「なぜ生みやがったのか」という難問を親にふっかける。動物社会
のひとつにすぎない。食って、交接(生殖)して死ぬだけである。
ボロをまとっていても、その心の奥底はだれも読めまい。深い考えなどあ
るはづがないと簡単に片付けられるだろうか。店員がやってきて、男を店の
外に突き出そうとする。男は、必死に抵抗する。「おまえはいったい何者だ」
とボロ男は店員に言ったかもしれない。
似た情景はパリ13区イタリア広場で目撃したことがある。ある不法移民
らしい男が、4、5人のポリスに取り押さえられて、はげしくもがいていた。
こん棒でこずかれていたが、なんとか怪我をするまでには至っていなかった。
しかし、アラブ系である男のまなざしは、彼らの民族の悲しみを飲み込んで
いるようで、それはあまりにも、大きすぎて、痛ましいという言葉だけで片
がつくものではなかった。一瞬、目があった。その刹那、なんの手助けをで
きないこの自分はいったいなにものだと、その男の目が語りかけているよう
に思えた。
「おれたちの存在がお前たちの存在と無関係ではない」と言ってい
るようであった。
75
うまいものを、たらふく食って、すきな女をいつでも抱けてという生き方
もいずれ終わりがくる。ヘンリー八世とはそういう人物であったようだ。国
王という権力の限りをつくし、かつ限りない愛欲のあげくに製造したものが、
歴史にその名の残る女王エリザベス1世であったというのは皮肉である。歴
史に名が残るということは戦争で勝つということである。負け戦は記録され
ない。母親(アンブーリン)が、その夫であるヘンリー八世自身によって首
をはねられた、その娘がスペインの無敵艦隊を撃破して英国の覇権を確立し
た張本人であるというのは喜劇であろう。世界の秩序とはデタラメから生じ
るということの証拠である。現在のエリザベス2世は、もともとは傍系であ
るが(直系エドワード8世が世紀の恋によって王位を放棄したあとジョージ
5世?が即位しその娘である)、その存在は「無」であろう。王権は存続させ
るという強固な自己目的をもっているというそれだけが存在理由である。し
かし、国家の存続意思よりは弱いであろう。時代に追随しなければ消滅する。
日本の皇室が試金石かもしれない。その存在は、象徴という名の「無」であ
る。ただ存続させたいという願望のみである。願望だけでは跡目がつづかな
い。理由をみつけるのに困難はない。
世界を理解することは精神が行うのであって、精神がなければ、もともと
人間は意味がない。精神をきたえること。これが肝心なのであるが、現実に
はそうならない。なぜか。
まず、不運に遭遇しなかっただけでも、幸せであったと思いをいたすこと
が肝心である。こういう不運は自分には関係ないのだと、はじめから思いを
いたさないこともひとつかもしれない。多くの人たちはそうしている。考え
ても仕方がないことであると。しかし、少しまちがえば、自分もおなじ悪い
道をたどっていたという想像をすることのほうが現実味があり、意味のある
ことではないか。なにか不幸がふりかかったときの心構えは持っていたほう
がよい。たとえ、災難に遭遇してうろたえることが確実であるにしろ。わが
故郷日本をおもう。
9/1
9月になった。時の流れを、惜しむために、文章をつづっている。めくる
めく想念が、脳裏をかすめていく。過ぎ去りしときを、あまく、また苦く思
い返す心が、ますます増大していくことを食い止めることはむずかしい。
昨晩は、こういう夢をみた。
ある男が、カネをかぞえている。それを別の若い男にわたしている。若い
男の家が火事になったらしい。家を造り直すためのカネであったと思うが、
あとから理由付けかもしれない。若い男は、男の息子であったようだが、よ
くわからない。札束を数えている情景がぼんやりとして脳裏に残っているが、
細部はもちろんわからない。なんでこんな夢を観たのか、自己分析するがわ
からない。ヒントがない。
76
昨日から、旧に冷え込んだ。カッターシャツを2枚着込む。
今日は、昨日ツーリストで購入した観光パスをつかって、観光ボートにの
るべくでかける。じつは、これは厳密なパスではない。ただ券を含んだ割引
券である。つまりすべての施設(乗り物)がただになるのではなかった。1
4 E だから仕方がないかもしれない。ただになるのは、博物館(美術館)が
一つ、大聖堂観覧、それから、ボートトリップ、サイクリングだけだ。あとは
半額かディスカウントとなる。しかも有効期限が3日だけだ。船着き場にい
くと、人がならんでいたが、どうも様子がおかしかった。ボートは、2せき
並んでいた。天蓋がついたほうは、すでに乗り込みが開始されていた。オー
プンデッキのほうはこれから開始されるのだろうと思って待っているのだが
一向に人の流れが進まない。それは道理で、並んでいるのは切符を購入する
ためであった。しかし、切符売り場の横にボートが待機しているのがまぎら
わしい。そこで、パスをもっているから、切符の購入は不要であると思って、
天蓋のついたボートに急いで、駆け出した。しかし、ときすでに遅く間一髪
ででてしまった。ちょうど一時発であった。なにか、妙な気分であった。入
れ替わりに、帰りのボートが入ってきた。人が降りるのをまって、乗り組み
員に、このパスで乗れないのかというと、切符に引き換えよという。なんの
ことはない。やはり並んでおくべきたったのかと思い返して、また並び直し
た。途中で割こむ形となったが、まわりの人々は事情を察してくれたのか、別
にとがめられることもなかった。こういうところは、フランス人は寛大であ
る。しかし、パスは切符の代わりをするので、直接に切り取れば終わりであ
るのに、なぜ二度手間なことをするのか不思議であった。よくみると、パス
の説明書きに、引き換えよと書いてあった。1時半出発の船にかろうじて間
にあった。二時から四時のあいだは、ただ劵はつかえなかった。
船は川にそった旧市街を一周するコースですでに歩いて見終わっているの
であるが、建造物の由来を聞けるという利点がある。
つぎは、アルザス民族博物館だ。
それが見終わったのが、四時半。夕食には早過ぎる。モノプリで、ちょう
どうまいセーターをみつけて購入した。39 E なり。これで『寒さ』はしの
げる。
。。。。。。
Gutenberg という名のブラスリーで、20 E の定食を食したあとで、船着
き場から河沿いにホテルまで帰った。途中、若者がルアーつりをやっていた。
なにをつるのかというと、でかいやつだという。50から100センチくら
いだと。マスの一種かというとそうではないという。たしかにマスで100
にもなるやつはいない。どうやら、パイクであるらしかった。フランス語で、
ピエーチと言ったように思えた。わかものは流暢な英語で説明してくれた。
I-Phone に撮った写真をみせてくれた。たしかに、開高けんの本にのってい
た写真とおなじであった。パイクにまちがいなかった。“Do your best ” と
77
いって離れた。
9/3
今日で、ストラスブールの最終日だ。明日は、ドイツに移動。
最後にもう一度、パスのただ券をつかって、大聖堂の天文時計というもの
をみにでかけた。なにか要領を得ないのであるが、昼頃いくとよいと説明に
は書いてあるので、その時刻に行くと、閉まっていた。観光客が集まって開
くのを待っていたが、30分待ってもブースが開かないのでみんなあきらめ
て帰っていた。なぜ開かなかったのは理由がわからなかった。
インターネットから遮断されて一週間。こういう生活もいいものだ。ただ
し、普段なれているものを断ち切られるのは、つらいものがある。とくに若
い世代は、そうであろう。われわれの年代では、そもそもそういうものを扱
えない人のほうが多い。扱えるのは、なにかそれが必要であるという人たち
だけであろう。
少々旅のつかれがでてきたところである。年齢のせいもあるかもしれない。
もう老人の部類に仲間いりさせられる?年齢であることを認識させられる。
一人旅は、きつくなってきたということである。まずは、体調がくずすこと
がなによりも、用心しなければならない。
土産に、本場のファアグラのパテを2個買う。レストランでフォアグラの
サラダを頼んだつもりが、チキンサラダが来た。
9/4
ハイデルベルクよいとこ一度はおいで。ここは。多分三度目である。
最初は、27年まえに、Bielefeld で path integral の会議があったときに
たずねた。ドイツといえば、音に聞こえたハイデルベルクであろうと。しか
し、そのときの旅程はほとんど覚えていない。
かつての共同研究者 I 氏が、ポスドクで Kernphysik institut でいたとき
に、訪ねてからももう20年以上になる。
ゲストハウス Backmulde は、メインストリートから SchiffGasse には
いって、少しのところにある、ドイツ式建築物のとても感じのよい家である。
ホテルは、昔の工場の敷地のなかに建てられているようで、敷地全体が壁で
通りから隔てられているようであった。
まず、ドイツ式のサービスは、フランスとずいぶんとちがう。気配りがき
め細かい。なにかにつけて素っ気ないフランス式とは違う。日本人の感覚に
ぴったりくる。多分、ドイツ人も個人主義ではあるが、他人と接する態度が
根本においてちがうのであろう。
こんなに陸続きでありながら、民族がちがいというものの違いに不思議に
思う。これが人種の遺伝子の違いというもので、地続きとは別の概念である
78
ことがわかる。海をへだてて入れば民族の違いはすぐに理解できるものであ
るが。
9/8
昨日(9/7)の昼過ぎに、ハイデルベルクをあとにして、マンハイム、ス
トラスブールを経由して、夕方、ナンシーに到着した。
旅の経過:ハイデルからマンハイムまで、ノンストップで15分たらず。マ
ンハイムで、ストラスブール行きの TGV に乗るための待ち合わせ時間が一
時間半ほどあるので、時間つぶしに駅の構内のイタリアレストランで昼食を
することにする。ここで、PC をつかおうと考えたからである。電気の差し
込みがあるかどうかを、ウェイトレスにたしかめて、奥のほうのテーブルを
指示された。ここは、ウィフィが飛んでいるらしく、只でインターネットに
接続できたが、その分だけ、値段に反映されているのだろう。試しに自宅に
スカイプ電話を試みたが、話は聞き取りにくくはやばやと切断した。論文を
書こうと思ったが、とてもそんな雰囲気ではなかった。
TGV は14時40分発であるから、20分ほどまえに5番線に移動した。
このごろは、TGV もドイツに相互乗り入れをしているのだ。ドイツは、か
の IC で名をはせている。どちらに軍配があがるか一概にいえないが、とも
に対抗意識はあることにまちがいはない。
列車は、カールスルーエで、停車時間がながく、ストラスブールで、ナン
シー行きに接続できるかどうか心配になってきた。しかし、最終的には、ス
トラスブールに定刻より10分たらずの遅れで到着した。ちなみに、この列
車は、ベルリンーマルセイユという長距離列車であった。マルセイユには、
夜の10時ころに到着するらしい。
ストラスブール駅で、10分たらずの接続時間ののちに、急行ナンシー行
きが定刻にやってきた。これは、ストラスブールが始発で、主要駅のあいだ
を結ぶ定期便のようであった。結構な人数が待っていたように思ったが、始
発であるから、実際はほとんどガラガラであった。一時間20分くらいでナ
ンシーにつくことになっている。
この路線は、TGV とはちがう在来線である。しかし、区間急行であるが、
もの凄いスピートで飛ばす。停車する駅などは数えるほどしかない。途中で、
4つほどの駅に停車した。最初の停車駅; SAVERNE ? を通過したあたりか
ら、景色は変化をみせはじめた。線路は山地のあいだの谷間をぬっていく。
ヴォージュ山地というらしい。曲がるたびに、西に傾いた太陽が座席の右と
左のあいだを入れ替わる。ここ数日、独仏国境からアルザスロレーンにかけ
た地域は、晴天にめぐまれているようで、きつい日差しをさけるために乗客
はそのつど、窓からの直射日光をさけるために左右に移動する。それほど、
客がまばらであった。
山間を塗って行く景色を車窓からながめるのは、いつみても気分がよいも
79
のである。水路がはしっている。これは、ライン川の支流から引き込んでい
るものと想像するが、実際の川がちかくになければ運河で掘って水路を引く
というのは、西洋人の古来からの知恵であるらしい。
景色をみながら、NJP の論文をザックから取り出してながめる。(New jour-
nal of physics はいわゆる「紙なし」ジャーナルの最初のものである。紙での
打ち出しは読者がやる)今朝、ホテル BACKMULDE のフロントにたのん
で、打ち出してもらったものである。光弾性の伸縮モードを光子と結合させ
て解析する理論の論文であるが、量子化された光弾性のモードを観測できる
という段階にまでになっているらしい。しかし、この試みをみてある種の感
慨をおぼえる。結局、ディラックの輻射の量子論がいかに偉大であったかと
いうことをあらためて認識するのである。
さて、旅というのは、移動ばかりくりかえしていくと印象がうすれる。一
カ所にとどまって、ゆっくりとその地の場所を記憶して反芻するのが理想的
であるのだが、実際は高い金をつかって遠くから来ているのだから、ついつ
い多くの場所をおとずようとする気持ちが先行する。貧乏性というやつだ。
しかし、あまりにも多くを見物したあげくほとんど記憶に残らないというこ
とになる。
そのために、写真というのが重要な要素になる。写真におさめることで、
それをみてそのときの状況を再現できる。
このごろは、デジタルカメラという超近代アイテムのおかげで、自由自在
にとれて PC で編集できるのだ。
ナンシーといえば、われわれにとっては重要な人物の生誕の土地として知
られている。かのポアンカレである。父親がナンシー大学の医学部教授をし
ていた。またその一族は、フランスの典型的なエリート家系で、兄弟が大統領
にまでなってるらしい。いま滞在しているホテルは、ちょうど、この偉大な数
学者にちなんだポアンカレ通りに面してある Hotel Akena である。SNCF
の駅からすぐのところにある。
9/10
ナンシーは一言でいえば、パリのミニチュアというところか。ここは噂に
聞いていたエミールガレがいたところで、ナンシー派美術工芸館があり、そ
の作品が展示されている。ガラス工芸は、ヴェニスが有名だが、ここでもそ
の歴史があったのであろう。それほど興味があったわけではないがともかく
話のネタに訪れたようなものである。
スタニスラス広場が町の中心を形成している。それを核にしたところが観
光の起点である。
ホテル AKENA は、50 E という格安である。日本流のちょうど、ビジ
ネスホテルそのものと行って間違いはない。このチェーンホテルは、ことと
ごくこの形態であろうと推測できる。かの「悪名高い? 」東横インと比較す
80
るのは失礼かもしれないが。ぎりぎりの広さまでダブルベッドをいれて、と
もかくスペースがなく。デスクで仕事をする気にはあまりならない。
支払いは前払いである。この方式も、日本のビジネスホテルをまねたかの
ようである。ただしカード支払いは可能である。
今日で予定のほぼ半分がすぎることになる。
8日もストラスブールにいたことになるが、観光としてなら、2日あるい
は、ゆっくりとまわっても3日もあれば十分である。しかし、自分はノート
と論文を仕上げる目的のために滞在したのであってそのあいだに観光をした。
観光といっても、フランスのエレガントな街のたたずまいを鑑賞する楽しみ
だけである。しばらく日本をはなれることにより、別の考えが出てこようで
あろうと期待してのことであるが、毎度のことであるが、そういう具合には
いかない。
ハイデルベルクでは、まったく書かなかったので、ひさぶりの記録である。
今回のフランス (ドイツ)滞在も、残すところあと一週間である。
ハイデルベルクの滞在の総括をまだやっていない。ともかく彼の地は、ド
イツ学術の総本山であるという意味で、敬意を表するということの一語につ
きる。象徴的にいえば、
「哲学の道からのぞくネッカーと旧市街」ということ
になる。この風景は、世界のどこにもない独特の風景である。パリのカルチェ
ラタンからセーヌにぬける風景、トリエステの「リルケの小道」からながめ
るアドリア海の風景は、ならぶ自分にとっての三大景色といってもいいかも
しれない。哲学の道は、後者の二つとはまったく異質のものである。小高い
丘の小道からながめる風景はなんと形容してよいか。ドイツ文芸の象徴であ
るトーマスマンを想起する。その印象は別途記すことにしよう。写真と地図
をもとに思いでを再現することは、それほどむずかしいことではない。
9/11
パリに帰還。再びホテルデザールに戻る。なにか自宅にもどった気分であ
る。なにかにつけて、生活のリズムがなれているので、安心感がある。
今日は雨だ。一時すぎに、LPS にでかける予定をしているが、いつものよ
うに RER B 線のポールロワイヤルまで、PC をザックにいれて歩くのは面
倒な気がする。イタリア広場から6番線でダンフェルまで行って乗り換える
のが一番であるが、運動不足を解消のために、雨のなかを歩くのもいいかも
しれない。
昼食は、朝の残りのパンとヨーグルトですます。パゲットは、すこしふや
けてきている。雨で少し湿気があるためだろう。これが日本であれば、もの
の一時間もすれば、もうふにゃふにゃになる。湿気の少ないフランスでも一
日たつとだめである。あの、パチットひきしまった歯触りがこのパンの特徴
である。フランス文化を象徴する典型的物質である。shoku(食と職) は人間
生活の最大要素である。
81
9/12
パリは、すでに秋の様相である。
フランス料理の名物;生ガキ(ユイットル)の季節になったようで、ナン
シーのレストランでも、フランス人は老いも若いも、みなチュウチュウと牡
蠣のエキスを飲み込んでいるのが、さまになっていた。食い物は風土による
のだろう。日本で生ガキなどは食う風習がないのは気候と関係して、食って
もあまりうまくはないからであろう。フランスはともかく気候が乾燥してい
ることが、なによりも生で貝類をなまで食っても衛生上の心配は少ないと思
われる。
9/16
そろそろチェックアウトの時間だ。飛行機の時間までにまだだいぶ時間が
あるが、いつものとおり、早めにでることにしている。
ホテルデザールの当番のいつもの兄さんは休みをとっているらしく、かわ
りにおばさんがでている。いずれも流暢な英語で話す。朝から昼にかけては、
英語が話せるのが担当になっているようだ。ことしもここまでは、無事に予
定は修了した。
ただし、帰国してからが問題が待っている。時差の後遺症の克服にほぼ一ヶ
月かかる。
82
Geometric Phase の思い出
以下、知人の M 氏との対話という形式で述べます.
M: 『J. Math. Phys. 21(1980) に出た Kuratsuji-Suzuki の論文を九大
ではじめてみたとき, まったく自然に geometric phase を理解できる方法ある
と認識しました。』
私:そう言っていただくと光栄です。geometric phase を経路積分ではじめ
て定式化した論文:H. K. and S. Iida, Prog. Theor. Phys. 74, 439 (1985).
PLR 56, 1003 (1986) を出版した経緯は、いまでもはっきりと覚えています。
自分の研究歴のなかでとくに、印象深いものです。Berry の論文をみた瞬間
に、これは自分のやっている coherent state path integral (CSPI) でいけ
るのではないかと思いました。だから、Phys. Rev. Lett. 61, 1687 (1988).
は、PTP (1985)のあとすぐに出しておくべきだったのです。 Berry phase
という形で、あれほどブレークするとは思わなかったので不覚をとりました。
まったくあれよあれよという間でした。唖然としましたね。誰よりも、Berry
自身が驚いたことでしょう。自分の名前をダシにしてお祭りをやる。
追記:B.Simon の Berry phase をタイトルにした論文が PRL にでたのは、
1983 年の終わりで、そのときはなにか変なものだなと思って放っておきま
した。それから、1984 年に Maryland の群論の会議に出席したときに、D.
Thouless が Berry’s phase and quantized Hall effect という招待講演をして、
彼から直接原稿のコピーをもらい、topological charge になるということをは
じめて認識をしました。
(ちなみに, Thouless はスマートな英国紳士でした)。
それから Berry の原論文をながめた結果、これは経路積分そのものだと悟っ
たというわけです。
時間を遡れば、geometric phase という概念は、CSPI の canonical term で
あったわけで、1980 年の JMP paper で、特別になにか名前をつけておいて
もよかった。しかし、そんな知恵が当時働くわけはなかった。別のことで必
死でしたからね。これが、下衆の後知恵というやつ。ただし、coherent state
は特別な状態で一般のハミルトニアンに対する断熱定理に比べて特殊である
という気がいまでもしているのですが。
『M: このままでは、K さまが『不憫』でなりません。ささやかながら当方
は引用しておりますが、この程度の宣伝では・
・
・』
私:「憐憫の情?」をかけていただくのはありがたいことです。物理の世
界の非情さは格別のものがあり?、結局一番のりだけが、その功績をたたえ
83
られる栄誉に浴することができるということになるのでね。ただし、Berry
の場合は、いまだに Berry phase という呼称が確定していなくて geometric
phase という一般的な呼び方をされる場合が多いのは、彼だけに帰するもの
ではないということの反映ですね。
M:
『手下(院生諸君など)に協力してもらって、もっと宣伝してもよかっ
たのではないですか。いじめは、じゃない、Kuratsuji-Iida はなかった、など
とほざかれることは、よもやないとはおもいますが』
私:院生をつかって宣伝するということは、あまり考えませんでした。じ
つのところ、断熱定理というのは見かけ上、単純にみえても、なかなかやっ
かいなところがあって 2 かける2行列でちょろっと演習みたいなことをやら
せたくなかった。それから、わたしの浮気性のために、ほかのテーマに興味
を移したこともあります。業界をつくって、そこの元締めにおさまって手配
師をやるべきだったか。そうすれば、いろんな分野で論文を書くことはでき
なかった。
しかし、わたしの仕事もゴミ扱いされているわけではないと思います。か
なり人を意識させているところがあったと思っています。われわれの論文を
引用をしないで、まがい物をつくるというような論文がけっこう目につきま
した。こういう論文はいやですね。真正面に引用して、批判できるところは
批判して、それを乗り越えた新たな視点を切り開くというのでないと価値は
ありません。しかし、GP の基本的アイデアは、われわれの経路積分が出た
あたりで事実上終わったといまでも思っています。しかし、いろんな分野で
便利なキーワードとして使われてきた。
まあ、
「知ってる人は知っている。知らない人は覚えてね」というところで
すかね。あるとき、SUNY Albany の C 氏に、「経路積分でやっているとあ
まり読まれませんね」と言われたことを覚えています。実験家には無理です
からね。ベリーの原論文は実験家も読める。引用回数とかいうが、読みやす
いものばかりが引用されるので、それでもって物理の理論的内容の深さなど
を判定されてたまるかといいたいですね。傲慢な言い方ですが、これが理論
家の矜持というものです。
M:
『あるいは、いまから どこかの review 雑誌で大上段に一席ぶってやれ
ばどうですか』
私:もう30年近くになるのに、いまだにみんなつつく。最近では, topo-
logical insulator というのが流行っているようで、その理論のキーワードに使
われている。なんでしょうかね。あなたの論文も、今から10数年に書いた
84
ものを書き直して投稿しても、なんの違和感ももたれずに、そのまま通用す
る。なにかの特定のモデルを扱った論文を流行が終わったころに投稿すると、
なんとなく様にならないですが、GP というのはそういうことはない。とも
かく、そんなこんなで, あなたの論文をきっかけに、また昔にもどった気分
です。
85
GTF へのオマージュ
ディラックの原論文:
“The Lagrangians in quantum mechanics ” ; Physikalische Zeitschrift der
Soviet Union. Band 3, page 1, 1933.
この論文が出版された年代と、ソ連邦の雑誌というところに興味が引かれ
る。その当時の世界情勢を反映していることが偲ばれる。新生ソヴィエトの
物理科学を象徴する雑誌であったのであろう。ランダウの初期の有名な論文
のいくつかもそこに掲載されていたようである。
(ソ連は崩壊すべくして崩壊
したが、ランダウ理論は, その光輝を失なっていない)
ともかくも、現在の研究者からすれば、完全に「化石」のような感がある
が、その根底の思想は全く色あせてはいない。
(わたしの個人的な感触でいえ
ば、変換関数の概念は、たとえば、現代トポロジーのコボルディズム理論に
つながるものがあるのではと思っている)。
もっとも、原典にもどらずとも、主要なアイデアは彼の有名な『量子力学』
の section 32 (fourth edition) に提示されている。ただし、場の理論に関す
る GTF は省略されている。おそらくディラックとしては、一般読者に無用
の混乱を与えることを避けるという配慮したのか、あるいは、自分で言って
おきながら、それほど重要な概念であると思っていなかったのか。
テキストは読者が論理的にいちばんフォローしやすい形で書かれるのが通
常である。それゆえ、生のワイルドなアイデアから新しいヒントを得るため
には、ときに原論文にお立ち戻ることによることによってなされる場合もあ
るかもしれない。
この論文はファインマン経路積分の原型となっているのであるが、この事
実を知るものは、現在ではあまり(あるいはほとんど)いないと思われる。
量子力学の経路積分理論はファインマンの専売特許のようであるが(実際そ
うであるかもしれないが)、実際は、ディラックがその概念を夙に把握して
いたことは、この論文を読めば明らかである。尤も、華々しいディラックの
業績全体からすれば、スナック菓子くらいの意味しか持たないかもしれない。
ともかく、経路積分の意味が当時の物理学者に「全く」認識されていなかっ
たと思われる (completely un-appreciated or ignored !!)。早すぎるアイデア
というのも不運である。ちなみに、ファインマンが経路積分のアイデアを得
たときに、
『量子力学』の第2版が出ていたはづで、そこにはすでに「作用原
理」の節が加えられていたと思うが、そうであれば、ファインマンはきちん
と読んでなかったということになる。
(こういう経緯は物理学史の研究課題に
属するものかもしれないが)
86
論文が著者のねらいとは別の観点が強調されるということがままあること
だが、この論文も、その後の場の理論の発展にとっては、経路積分の観点が
没却されていわゆる超多時間理論という観点のきっかけをあたえた論文とい
う意味合いに転化された面があると思われる。この点に関して少し説明を加
えたい。要点は、論文の最後の節で、一般変換関数 (g.t.f) を導入していると
ころにある。これは、粒子系における変換関数を場の理論において、相対論
的不変性を保つ形で拡張したものである。そのポイントは、粒子系における
『瞬間的な時間』の考えをつかって、2つの時刻のあいだをつなぐ変換の考え
を拡張したところにある。
: 通常の非相対論的変換関数は、
x , t2 |x, t1
と書かれるが、これは、時刻 t1 において、力学変数 x
ˆ (演算子であることを
考慮して, ˆ をつけておく)を観測したときに、固有値 x を見いだしたとき、
後の時刻 t2 において, x
ˆ を観測したとき、固有値 x を見いだす確率振幅を与
える。場の理論へ拡張するときには、|x の変わりに、すべてにの時空点にお
ˆ
ける場の演算子 φ(x)
の固有値という、いわば、汎関数 |{φ(x)}, t を導入し,
場の変換関数を定義する:
{φ (x)}, t2 |{φ(x)}, t1
そして、これをさらに、相対論的不変にするために、時刻 t を『空間的』超
平面 σ におきかえる. 超平面の意味は、そのうえの空間座標 (x, y, z) である
点において局所的時間 txyz が定義されているものである。詳しくいえば、こ
の曲面の微小に近い 2 点 (x, y, z, txyz ) と (x , y , z .tx y
z
) のあいだに,
(x − x )2 + (y − y )2 + (z − z )2 > c2 (txyz − tx y z )2
をみたすような曲面を意味する (少々のみこみにくい考えではあるが)。
このような2つの超曲面のあいだで、変換関数
{φ (x, tx )}, tx |{φ(x, tx )}, tx ≡ {φ (x, σ2 )}, σ2 |{φ(x, σ1 )}, σ1
(x ≡ (x, y, z) と略記) を定義できる。これが、ディラックのいう g.t.f である。
このように、ディラックは, GTF なる用語でもって、たった1ページの内に
式による展開を用いないで、いとも無造作に場の量子的遷移を相対論的不変
性を保持する形で定義しきったのである。この考えは、Tomonaga, Schwinger
に引き継がれた。いわゆる超多時間理論である。しかし、その輪郭はこの両
名が理論構築する10年以上前に、はっきりと提出されていたのである。
この論文は、ディラックの多くの論文と同様、きわめて簡潔に書かれてい
る。しかし、最高潮の時代においてみせた華麗なる数学的定式化と少し趣き
87
が異なり、ほとんど計算はない。みたところ、ざっとアイデアを提示してい
るだけである。そういう意味で、きわめて深淵な思索のすえに,
『たった一晩
で』紡ぎだされた、世にも不思議な一編の叙事詩のように思える。
天才だからなんでもできるのだという安易な評価で片付けられないものが
ある。うえで述べたように、ディラックは、この論文において、2つの新立
脚点を提示している。このことを少し敷衍しよう。
• 変換関数から経路積分のアイデアを編み出したことに関して:
これはファインマンによって完成されたが、アイデアとしては、ほとんど
そっくりファインマンの経路積分と同じ内容を、はるか先んじて提示してい
る。作用関数を経路で和をとるという箇所を中途で明示的に数式化すること
をさぼったという点だけが「咎められて」しかるべきであるが、なによりも、
古典極限を「鞍部点の手法」(method of stationary phase) によって完全に定
義していることは驚くべきことといわなければならない。鞍部点という考え
は、ディラックの supervisor であったファウラー(統計力学で名が知られて
いる)が開発したもので、師匠のアイデアを借用したものかどうか定かでな
いが。ただし、ここからプランク定数による展開(いわゆる準古典展開)の
理論構築が出てくるところまでは思いがいかなかったのは、当時としてはそ
れを追求する動機がなかったからであろう。
(個人的な思い出であるが、大学
3年のときに物理数学で鞍部点をはじめて習ったときのことであるが、なん
のことかよく把握しないままに、ディラックのテキストの作用原理にさしか
かったとき、これは鞍部点法をやっているのではないかと微かに感じ取った
記憶がある)。
•; 一般変換関数について:
シュウィンガーは量子変分原理というものを提示しているが、経路積分に
は言及していない。さらに、朝永に至っては「作用関数」はもちろんのこと、
経路積分など論外であったようである。彼にとっては、せっかく量子力学が
できたのに古典的な考えなどを持ち出す理由が理解できなかったのかもしれ
ない。
朝永の主要業績である超多時間理論に関しては、ディラックはさらに、多
時間理論形式という形で、先鞭をつけていた。2つの電子に別々の時間をあ
たえて、「場」を見かけ上消してしまおうというアイデアである(ちょと短
絡的な表現であるが)。これを N コの粒子に拡張し、さらに、時空点での場
に拡張したものが超多時間論である。多時間理論は、Heisenberg-Pauli を嚆
矢とする場の量子論に不満を持ったあげくに提案したものであるらしい。粒
子と場の相互作用をハミルトニアン形式で安易に扱うやり方に対して、我慢
88
がならなかったのかもしれない。いわゆる発散の困難である。功なり名をと
げても、その安逸な地位に満足せず最後まで困難を追求していく姿勢こそ、
ディラックの名声を真に永続させていく所以となっているのであろう。ただ
し、超多時間理論も、残念ながら、それによって場の理論の根本的な問題が
解決されたわけではない。
結局、標語的にいえば、
Dirac = Tomonaga + Feynman + Schwinger
となろうか。こんな等式を書くのは TSF に失敬ではないかといわれかもし
れないが、原理の提出とそれを実行することの関係という一般的見方からす
れば、反駁の余地はない。
『彼が提案し、あなたが計算し、そしてわたしが適
用する』。すべてこういう図式になる。どの部分が欠けても、なりたたない
が、ともかく最初にナマコを食った人間はエラい。
さて、近代的ゲージ場の量子化の展開において、経路積分がその威力を発
揮して、その後の量子論的定式化の標準的手法となっている。このことを考
えれば、ディラックのもっとも華々しい業績と目される「相対論的電子論」よ
りも、予言的性格をおびた『一般変換関数』を提示したことのほうが、ある
いは意義が深いといえるのではないだろうか。
(グロタンディ−クのスキーム
理論のように? )物理理論の展開は、そのときの「時代の意思」ぬきには考
えることができないということかもしれない。
最後に、その『前線』が完全に崩壊し、無秩序の極に至ってしまった感のあ
る現在物理学において、このような英雄時代における『理論物理のシェイク
スピア』の試みを再考し、物理復権(これぞルネッサンス)を目指して、再
出発をするための縁(よすが)ともならんことを祈っている。
89
付録:研究(と研究者)のピーク
上記のディラックの論文は、彼の研究人生のなかで、絶頂期を少しすぎた
時点で書かれたものである。このとき、30才!
!物理学者は30で終わりだ
といわれた時代であるから、まともにとると物理学者になれるものなどいな
いことになる。物理学者の基準が斯くも左様に厳しかった時代である。この
ような天才は、参考になるべくもないのであるが、研究者の活動ピークある
いは、研究のピークを少しのべてみたい。
物性理論の大物アンダーソンを例にだす。彼は、つい最近まで論文を書い
ていたのではないか。もう90になった?あるいは、鬼籍に入ったか。 彼
は、アンダーソン局在というチンケなものが最大の功績とされているが、あ
んな汚いもので評価されるのは、彼自身にとってもおそらく不本意であっただ
ろう。超伝導を狙っていたのに決まっている。BCS にやられてしまってがっ
くりきたひとりだ(ファインマンもそのひとり)。あくまでも、「偉大である
はずの自己の能力」に見合う理論を創造したいという野望が、年齢をこえて
持続していたのではないか。そこで、高温超伝導がでたときに、こんどこそ
巻き返しとばかり、RVB という奇妙キテレツ理論をひねくり出したが、見事
不発に終わった。その当時すでに、60半ばを過ぎていたようで、よくやる
と感心したものである。ともかく、物理学者も往生際がむずかしい。
大物物理学者をコケにするような言い方をしたが、これも年の功というも
のである。ともかく、40年も研究をつづけていると、生き残る理論とそう
でないもののあいだにある程度の篩にかけられる見極めがつくというもので
ある。
超伝導理論の BCS 理論は、積年の難問を解決したという真に意味ですばら
しいものであった。それは物理学に対称性の自発的破れという奇妙な考えを
もちこんだ。奇妙であるというのは、なにかを言い換えただけではないかと
思ったからである。その行き着いた先がヒッグスである。じつは、アンダー
ソンが最初にプラズマ振動が質量をもつという形で予言していたものである。
比喩的にいえば、ワインボトルをしたポテンシャルのなかでの振動が素粒子
に質量を与えるというのである。ここで問題であるのは、それが登場した当
時、言いだした本人たち自身が、そんなものが現実に存在するとは考えもお
よばなかったことである。しかし、加速器の実験家たちは自分たちの食い扶
持を確保するために、これを現実に見つけるというアイデアに飛びついたと
いうわけである。なにか話題づくりをしたいどこかの市長の発想と同根であ
る。最近のニュースで見つかったと喧伝されているが、確定するにいたって
いない。ほぼ50年もかけて、延々と物議をかもしてきて、やっとこさ何か
見えたと報道の手段で発表するような代物は本物といえるのであろうか。最
90
後は、研究者の内輪での多数決で決めるらしい??
!
!
ずっと昔のことであるが、これに関係した統一理論に関する一連の話を聞
いたとき、基礎理論であるべき場の理論に、物性論の話を持ち込むことに、
胡散臭く思ったものである。だから真剣になって取り組まなかった。いまも
この疑念は解消していない。1960年代はじめの素粒子論では、アイデア
は出尽くしていたようで、なかばヤケクソのように超伝導理論からアイデア
を借用したのではないかとワイスコップがどこかの回想録で書いていた。そ
れは、まともな物理学者のまともな反応であっただろう。なにか変なことを
やっていると、当時の大物物理学者はほとんど無視していたことがその状況
を物語っている。本物の理論であれば、ただちに受け入れられたはずである。
量子力学が出現したときのように。
思えば、脚光をあびてきた物理の理論もいったん本質が理解されてしまう
とつまらなくなる。ファインマンは、かつて、アメリカの物理が進歩した理
由を聞かれて、「易しかったからだ」と答えたそうである。
院生のころに憧憬の的であり、かつ難解であった量子多体問題もすっかり色
あせてしまって久しい。たとえば、近藤効果というのがある。スピンと伝導電
子が相互作用するだけの単純な問題でなんで難しいのか理解するのがむずか
しいという変な問題だが、それをどうしても理解していないと困るというよ
うなものではない。 log T という関数が発散するのが重要かどうかというの
は趣味の領域になるのかもしれない。思い返すと、超伝導にしても、Landau-
Ginzburg 理論で、物理の内容はほぼ尽くされていると思う。クーパー対はラ
ンダウの秩序変数を電子演算子をつかって表現し直したに過ぎないともいえ
るからだ。ひとつの理論の真相が判明するのには, 結局半世紀かかるという
ことかもしれない。(ただし、ここはバイアスがかかっている。BCS で論文
を書けなくて、LG 理論を自分の研究の道具としてつかったからである)。
基礎物理学の象徴であると目される素粒子論においては、まったく資源が
枯渇して、いうならば、樽の底にはニュートリノという名のパウリの亡霊の
ような滓しか残されていない瀕死の状況である。テレビのサスペンスドラマ
の再放送を何回も何回も延々と流しつづけているようなものである。
(理論)物理学のこの惨憺たる末期症状をみると、その周辺に思いを巡ら
したくなる。広い意味での数理科学にである。
ヘンテコな素粒子よりも、
「ある種の性質を付与された多様体のほうが、は
るかに実在性がある」という小平邦彦教授の言葉を思い起こす。
そういう意味では、代数的整数論の華である類体論を理解するほうがはる
かに意味があるのではないか。そして、それははるか彼方にある。ダイヤモ
91
ンドよ永遠に!! (ちなみに、類体論の背後には、かのゼータ関数が控えてい
る。それを通じて量子論とつながっているかもしれない。)
『その理想は、玲瓏にして些かの陰翳も留めざるところにある』
(高木貞治
の初等整数論の序文にある)という表現は、けだし名言である。はっと目を
見開かされる。しかし、理解をするのにさえ人智を超越したかのような難儀
を強いられる整数論という名の数学理論をどう捉えてよいのか頭を抱え込ん
でしまう。
しかし、それでも量子力学の根本原理にいささかの揺らぎも生じない。量
子コンピュータという如何わしいものが横行しているのも量子力学が理解さ
れていない証左である。
このあたりで、オデュッセーが長い遠征と流浪の旅から故郷のイサカ (Ithaca)
へ帰還した冒険譚(ホメロスの叙事詩)の気分に戻って、最初から出直すの
もよいのではないか。
註:イサカ(イタカ)は、古代ペルシャの都市国家。有名なコーネル大学
のあるニューヨーク州の西北に位置する小さな大学町イサカは、これにちな
んでつけられた(と推測する)。残念ながらまだ訪問したことはない。湖が
あって、そこにかかる橋は自殺の名所であるとのことである。
92
O 先生とベクトルの思い出
高校生時代の思い出として、2年生のときの数学担当であった O 先生のこ
ともふれておきます。当時で、40歳前であったかと思いますが、いかにも
数学教師という端正な顔立ちの人でした。小柄(背が低い)であったのが惜
しかった。そういう先生はそのほかに何人かいたのではないかと。
その当時、田舎の高校で数学天狗であったわたしは、高校数学あるいは受
験数学にあき足らず、本物のつまり大学でやる数学とはいかなるものである
かというところに目がいきました。少々生意気なる高校生ならばありがちな
ことで、これはいまも昔も変わらないでしょう。
ともかく、日本が誇る数学者高木貞治の名前は、すでに聞いていました。
類体論なる言葉も聞いたと思います。いなか町の書店で、特別に注文をして、
かの名だたる「解析概論」を購入しました。普通のサイズ B5 ではなくて、A4
だったのに印象つけられました。格好をつけて、大判の分厚い本を鞄にいれ
て学校へ持って行って O 先生にみせたところ、「こんな(高度な)ものを読
むのか」と怪訝な顔をされました(このところは確かではないのですが)。た
しかに、高校生がいきなり読めるようなものではなかった。
さて、話しの本題に入ります。O 先生は、ある期間(たしか高校2年生の
ころだったかと)、新しい数学の試みとして、ベクトルの話しを課外として授
業をされました。ベクトルとは力学の力の合成で使うということは物理でお
なじみで、平行四辺形の合成の話しを習っていましたが、系統的に、成分を
つかって計算するというひととおりの話しは、この O 先生の話しがはじめて
でした。当時の高校数学の教科書には、ベクトルの単元はなかった。その後、
行列とともに正式の項目として取り入れられたので、いわば、O 先生は先取
りをしたことになります。
この先生のありがたい企画に、わたしはまじめに取り組まなかったのです。
なんだか形式的なもので、とくに有難いことがでてくるわけではないという
印象でした。これが将来、ベクトル空間につながり、さらに無限次元にもって
いって、ヒルベルト空間から量子力学につながる壮大な理論の入り口になっ
ているなどとは、知る由もなかった。そのころは、円と直線がまじわる条件
とか、判別式を使ってパラメータがはいった放物線の存在範囲をきめる、あ
るいは根と係数の関係とかいった問題のほうに気がとられていた。なにより
も、微積分でやることが一杯あって、ベクトルの初歩の話しなどいらないと
思ったのです。しかし、大学に入ってから、線形代数を勉強しはじめたとき
に、O 先生の授業をまじめに聞いておけばよかったかと思ったものです。
93
ベクトルから発展した線形代数およびベクトル空間の概念は、その後自分
の専門となった量子物理学の要のものとして、大変な苦行の果てに、脳みそ
に刷り込まれました。しかし、高校生のころでも、その方面になにかがあると
感じて、適切な本を探すか、あるいは O 先生に教えてもらっていれば、もっ
と量子力学の習得も楽にいったかもしれない。ただし、数学をやりすぎて、
先入観がじゃまをしたかもしれない。我がバイブルである「ディラックの量
子力学」では、状態ベクトルという形式でベクトルを量子力学の道具として
独自のスタイルで全部定義してくれてあったので、それだけでよかったのか
もしれません。
O 先生は阪大の数学科の出身だったそうで、「帝国大学」(化石のような言
葉ですね)を出て田舎の高校の先生となるのはその当時はちょっとめずらし
かったのではないかと。教育大出身の先生がたが結構いたと思います。その
ような次第で、高校数学(受験数学)には、あまり熱心に取り組むというこ
とはなかったのではないかと。自分の研究課題を、先生をしながら学校発行
の機関誌になにか発表していたかもしれません。
(そういうものが、我が母校
にあったかどうか知る由もないですが)
この O 先生の試みを通じて、ひとついえることは、先生方がこれぞという
題目を真剣にとりあげてくれるようなときには、生徒達も真剣になって聞い
てそのよいところを取り入れるという開いた心をもつべきであるということ
だと思います。
いまでは、こんな気風など薬にしたくともない。みんな、せわしく目のまえ
の細切れ肉のような利益のために追いまくられている。大学教授だって、自
分の狭い了見で解けるセコい研究課題に汲々として、学生を鼓舞するような
講義などしたくともできないという情けない状況に落ち込んでいるのではな
いかと思います。こんな体たらくでは、日本は遠からず沈没すると悲観的に
なってしまいます。この情けない状況に慨嘆するしかないのでしょうか。し
かし、騒々しい世の中になっても、変らないものは変わらない、いまも昔も
価値のあるものは変化はないということも事実であると思います。日本の将
来は安泰です!
!
94
オマケ:
解析概論のコアな部分は、ずばり複素関数論にあるということは漠然と感
じ取れました。関数論という言葉をはじめて知ったのはこのときです。そこ
で、一松信という人の「関数論」
(培風館新数学シリーズ)という小さな本を
別途購入してながめました。(すでに高三の受験の追い込みに入っている頃
だったと)。かのオイラーの公式は習得していたので、関数を複素数に拡張す
るというところはクリアできました。ちなみに、オイラーの公式をはじめて
知ったのは、高校一年生のときに読んだ遠山啓の「数学入門」
(岩波新書)を
通じてです。多くの人と同様、凄まじい衝撃を受けたと記憶します。どのよ
うにして理解したかまったく思い出せませんが。
実のところ高校在学中に、関数論の核心であるコーシー/リーマン (CR) 関
係式の真の理解にはいたりませんでした。「本物の数学」(real mathematics)
と「学校数学(含受験数学)」(school mathematics) のギャップを感じた
瞬間です。ひとつの原因は多変数の微積分がきちんとできていなかったから
です。これに関係して、
「等角写像」という概念(というより言葉)にもいた
く印象づけられました。(それにつけても、悪名高いエプシロンーデルタで
もって本物の数学の理解のバロメータにするという神話は、いまにいたるま
で馬鹿げたことであると思っています)。
ちなみに、これだけ思い入れをした関数論は、自分の専門においてさした
る役割をしませんでした。しかし、機会があるごとに、その高い香り理論を
極上のコーヒーを喫するように楽しんでいます。
註:real mathematics と school mathematics というのは, ダイソン(Freeman Dyson) による造語か。20数年前に, 学外留学でオックスフォードに滞
在したときに、セミナールームの本棚にあったダイソンの未公表のエッセー
なかにでてきた言葉。コピーをしたと思うが紛失したのが惜しい。
解析概論は半世紀たったいまでも、自分にとって『現役』として役立てて
います。山内恭彦の「一般力学」とならんで、ときどき忘れた公式などがあ
るとページをめくります。
95
黒い月
みなさま。この21日の世紀の天文ショー=金環食はいかがでしたか。
日頃から世間の喧噪には我慢がならない私めも、この時ばかりは、大いな
る期待をこめて待ち望んでいたのです。さながら、オリンポスの山上に降臨
せられるゼウスを拝顔するような畏怖の念をまじえた厳かな気持をもって。
自然が、時々みせる妙技によって、つかの間の存在である人間の儚さに思
いをいたし、傲慢な気持ちも、その前では玉のごとく砕け散ることを認識さ
せられる機会でもあるのでしょう。もっとも、現実にはそんな畏敬をもった
ヒトなどは本当は非常に少ないでしょうがね。かくいうわたしだって。
この思い入れ(この言葉は好きではないのですが)を、いかに実践したか
という、いわずもがなの個人的経緯をここで開陳します。ひとことでいえば、
下世話にいう『追っかけ』をやったということです。
ことの発端は、かれこれ3年ちかくまえにさかのぼります。フランス人共
同研究者の X 氏夫妻がバカンスで中国上海に滞在したことです。彼らの主要
目的は、当地での皆既日食鑑賞であった。ご存知のとおりあのときは、悪天
候に阻まれたわけですが。そのときの X 氏との談話を切っ掛けに今後の日食
の「予定表」を調べました。その結果まさに「驚くべきこと」に、3年後の
5月21日に日本列島で金環食がみられることがわかった。金環観測地点が
広域に広がっていることも。これぞ天の采配と思ったという次第。まずは好
天であることが条件ですが、梅雨入りまえの時期で、天気になる確率は、経
験上高かろうと、ひそかな期待をよせて。。。。。。ともかく、金環なるものが、
自分のすんでいる地域でみられるとは期待してなかったのです。小学生(中
学生か)の頃の理科の教科書に、『礼文島の金環食』なる写真が載っていて、
いつの日にか、こういうものが見られるチャンスがあればと子供ごころに。
あたかも悠久の時間スケールでの恋人をまつかのように。。。。。
さて、3年たらずの時間がこともなげに過ぎ去り、その日は近づいてきま
した。ひと月くらいまえから、心は、そわそわし始めました。恋人を待つ気
分です。いつからか日食用遮蔽グラスが、本屋あるいは玩具やで売られるよ
うになった(中学生のころ日食をみたときには、ガラスに煤をつけたもので
太陽を眺めたものだが)。盛り上げですね。おそらく、直前になると売り切
れるであろうと予想して、2週間くらい前にはやばやと購入、500円なり。
ドイツ製であるとか。黒茶色をした薄めの板チョコ状のものです。さっそく、
ためしに日食の起こる時間帯の午前7時ころに自宅マンションの廊下にでて
太陽をのぞきました。真っ暗な背景に太陽だけが黄緑色に輝いていた。双眼
鏡にあてて拡大してみると、左うえのほうに黒いマルが見えました。これが
黒点というやつ。はじめて観ました。それから何日間は、晴天の日には太陽
96
観察をしました。黒点は移動することを認識したという次第。移動するのは、
太陽が回転しているのだろうと推測して調べるとそのとおりであった。まあ
単に知らなかっただけですがね。にわか勉強で知識を仕入れました。ちなみ
に回転周期は一月ほどであるらしい。
ともかく、唯一の気がかりは天気です。web で金環食専用の HP が開設さ
れて、これをおおいに活用させてもらいました。日本列島を縦断する形で金
環食帯が平行線でひかれ、その中心線が、南は鹿児島から北は銚子のあたり
まで走っている。近畿では、潮岬が絶好の観測ポイントになっていることが
わかった。各地の金環の形と継続時間の詳細も克明に記述されています。ど
こに行けば一番効果的に観察できるかを考えました。日食の達人である N 氏
によると、絵的には黒い月が完全な同心円的におさまる形が綺麗かもしれな
いが、たいした差もないだろうとのこと。しかし、できることなら、持続時
間が長いほうがいい。最長で5分以上つづく地域がある。恋人との逢瀬の時
間をできるだけ伸ばしたいという心理と同根ですね。
ともかく天気との駆け引きです。気象と駆け引きなど無意味であるが、で
きうることは、局所的な天気をいかに推測するかということになります。所
詮素人の判断にすぎないのですが。
10日くらい前になって、場所を選定しました。潮の岬というのは、こうい
う天文観測のスポットになっているであろうから、宿の確保はむずかしかろ
うと諦めて、中心線の走る静岡近辺と宮崎近辺にしぼりました。宮崎は、中
心から少しずれていたが、ここは天候を勘案した両面作戦です。
(聞けば、雲
の動きまで計算しながら、車で移動したということもあったとか。ここまで
くると、プロの域ですね。車に無縁の当方としては、そんな芸当はできませ
ん) 結局、浜松と宮崎のホテルを予約しました。
(宮崎へのアクセスは、最
近開通した九州新幹線でいけば、前日の朝おそくにでても夕方までにつく)。
グーグルの地図で、観測ポイントを選定することもやりました。
しかし、遠征した場合にスカタンを食らうこともあるので、地元で狙うこ
とも考えておかなければと。京都の自宅近辺は、持続時間が短く、金環もほ
とんどかする程度。そこで、滋賀県の草津を候補にいれておきました。草津
駅前の広場が適当であろうと目をつけたわけです。
さて週間予報が発表されて当日の予想がでた。雲の動きと天気図も参照も
しました。静岡:曇り時々晴れ。近畿:曇りときどき晴れ。南九州:曇り。こ
の予報をもとに、4日まえに宮崎のホテルをキャンセル。厚い雲が九州の一
帯を厚い雲が覆ってこれでは、4日後でも晴れないことは、明らかであろう
と推測して。結果その通りだったようです。
前日になっても、一向に晴れのサインがでない。そわそわしながら、行き
つけの喫茶店にでかけて、明日の決行に思いをめぐらせました。どこにいけ
97
ば、雲に邪魔されないか。夕方、家路につくころになると、曇天ではなく薄
曇りのなかに青空がところどころにのぞきます。この調子なら、雲がシルエッ
トになって、金環がみえるであろうという期待をもって。。。。。床につくまえ
に、最後の天気をチェックすると、京都滋賀近辺は、曇りときどき晴れ。。。。
ともかく、当日がきました。朝は5時前から起きて空を確認すると晴れ間
が多く、これならいけそうだと期待してさて、どこで観察すべきかと。自宅
周辺は持続時間が短いので、鴨川べりなどが、観察地点としてはもってこい
であろうが、持続時間が短いであろうと推測して、賭けをして、市外に向か
うべく京都駅に向かいました。このときも空の様子が気になっていました。
地下鉄に乗って駅に着いたのが6時23分。この時点でもどこに行くべきか
逡巡しました。西か東か。西に行くなら時間的には長岡京くらいが最適です。
長岡京は10年まえまで棲息していた場所だが、太陽を適正にながめる位置
がどうなっているか探すのにもたもたするあいだに、決定的な時間を逸する
ということになれば元も子もない。そこで、やはり事情がわかっている草津
駅に向かうべく、6時30分発の電車に乗り込みました。この早朝時間でも
満員だった。長い列ができていて電車が到着するとき、はじめに並んでいた
列から、隣の列に、不用意に移動しようとしたら、横から「列に割り込むな」
と、殺気立った声が聞こえて、おもわず「すみません」。よほど、天気に気を
とられていたとみえてちょっとショックを受けました。放心状態というやつで
すね。満員電車から空を臨むのもままならず。しかし、日が建物を照らして
いるようであった。陽光が気にすることなど普段ではほとんどないことです。
さて、草津駅に到着した。何度も通っているところであるのに、このだけ
は、なぜか特別の場所にやってきたような気分です。あらかじめ目をつけて
おいた草津駅前の橋上広場に本番の30分まえに到着すると空はすっかり晴
れ上がって、絶好の条件です。
すでに、20名くらいの人出があり、広場に設置されたベンチに陣取って
います。あるいは、大理石でできた花壇の枠に腰をかけている人も。当方も
花壇の端っこに座りこんで、グラスでのぞくと、すでに4分の1くらいに欠
けている。これほど正確に月の運行を予測するニュートン力学の予言能力に
改めて感じ入ります。ともかくも、時間通り、新月は太陽を「蝕んで」いき、
クライマックスを迎えました。ちょうど、5分まえくらいに、ワイフにケー
タイ電話をかけて、あらかじめ説明したとおり、偏光フィルターを4枚重ね
て金環を観察するようにと再度念押しをしようとしたら出なかった。あれほ
ど、言っておいたのに、出て行きやがったと。。。。さて直前になってきわどく
うすく雲がかかってきましたが、なんら問題なく2分20秒の世紀のショー
を堪能できました。完全対称性からずれているのは残念ともいえるが、実際
はほとんど問題なかった。
98
これで、世紀のイヴェントは、終了しました。この日一日、ゆったりとし
た気分で過ごしました。
浜松在住の知人によると、浜松では、幸運にも金環の間だけ雲がきれてくっ
きりと眺めることができたそうです。たしかに、テレビで各地の様子を流し
ているのを聞くと、幸運にもうす雲を通して金環が出現したところが多かっ
たようです。浜松のホテルは結局前日の午前0時にキャンセルしました。で
も泊まってもよかったのですな。ただし、わざわざでかけて行ってスカタン
を食うこともあったわけで、結果的には地元に近い滋賀で観察したのが功を
奏したようです。ちなみに、家内は自宅マンションの廊下から、無事偏光フィ
ルターをつかって拝めたとか。お隣さんが総勢十数人ほど繰り出して、空を
ながめていたそうです。
さて、こんなアホな文章でも、なにか締めくくりが必要です。つまるとこ
ろ、太陽をほかの天体が隠すというのは、ものが間に入って見えるものがみ
えなくなるだけなのだが。それが、天体のスケールで起こるのはまれな現象
でそれが人間をひきつけるのですね。しかし単に、そういう稀な現象である
からというだけでは、なぜ、興味を引かれるのか説明しにくい。わたしは、
金環皆既食という現象は太陽を参照物体として、新月を丸ごとみせるところ
に意味があると思っています。真っ黒い月は、日常では絶対に見ることがで
きない。部分食では、新月をまるまる拝むことはできない。金環と皆既のと
きのみ可能なのです。
99
研究とはなにか?
2012/2/26
寒い日がつづきますが、太陽は春の兆しを感じさせ、ときに心地よい風が
頬をなぜてくれます。皆様お元気でご活躍のことと思います。
さて、最近の経験をもとに書きます。Sk 君, しっかりと睡眠をとったあと
で読んでください。
20数年来の知己である A 氏が最近長年研究をつづけてきた理論をまとめ
て論文として投稿する決心がついたとのことで、よろこばしいと思った矢先、
A 氏から、「イギリスの某雑誌 X に原稿を投稿して断られた」という連絡が
きた。X というのは、そんなエラそうなことをいえる雑誌であったかなと。
編集部からの通知が添付されていて、
『数学的すぎる内容はこの雑誌では受
け付けないことにした。しかるべき別の雑誌で成功をいのる』ということで
あった。門前払いということであるが、どうもバカにしているとしか思えな
いふしがある。もともとこの雑誌は数理物理の専門家である某氏が編集長を
しているはづなのである。どうやら、個々の編集員の個別の判断で決定され
ているのではないかと思えるこころがある。ともかく、処理すべき原稿の数
があまりにも大量になりすぎて、担当編集者の裁量にまかされているものと
推測される。20年前くらいは、ともかく投稿者に敬意を表する姿勢があっ
たように思うのだが、いちいちかまってられるかということでこういう措置
がとられるようになったのかもしれない。
ここで、決定的に重要なことは、学術論文の場合には、peer review 制度が
根幹になっている。直訳すれば、
「同業者による審査」である。編集部がしか
るべき、個々の専門研究者に referee を依頼するのである。多くの研究者がレ
フェリーの経験をもっている。つまり、自分が論文を投稿してほかの研究者
に審査されながら、同時に他の研究者の論文を審査しているということにな
る。だから、場合によると、A の論文が B のものを審査しながら、B が A
の論文をみていることが、同時進行で起こるということもありうるのである。
ともかくも、referee にも回さないで、編集部の判断だけで却下というのはケ
シカランと思うが、レフェリーというのも、またいい加減なものであるとい
う問題が発生する。
出版社(あるいは学術協会)としては、世間ではやっている論文をのせる
のがいちばんよい、ともかく、売れるからである。だれかが、ある仕掛けを
してある分野をでっち上げるのである。たとえば、
「量子コンピュータ」とい
ういかかがわしい部門が席巻している。
(私見ではヒッグスというのも疑念が
ある。捏ち上げではないか)そんなあやしげなことをやっているのに、A 氏
100
がやっている正調なものを断るというのはケシカランといいたくなるのであ
る。しかし、雑誌の掲げているポリシーと合致しないという原則を楯にとら
れると反論のしようがない。あやしげであるかどうかは二の次で、ともかく、
投稿数がふえて、にぎわっていれば雑誌は潤うのである。
まあ、一般の作家たちが、文芸雑誌に原稿を投稿して没にされることにく
らべると、はるかにマシといわなければならないかもしれない。文芸雑誌と
比較などできるわけもないが。。。。文芸雑誌は編集員の胸三寸である。ここ
が、学術雑誌と決定的に異なる点である。文芸賞の選考は、当代文壇の大御
所たちが選考委員となって応募作品を読んで、点数をつけるのである。まあ、
論文のレフェリーとかわらないが、もちろん評価とはいっても、恣意的になっ
てしまう。一言でいえば、感性というものがあるかどうかというのであるが、
これが科学とはちがうところである。通念に反する若者の生態を暴きだすと
いったセンセーショナルな観点を打ち出すといったものを文芸界は期待する
のである。その元祖が、誰あろう Shintaro の「太陽の季節」である。そもそ
も虚構の世界であるからなんでもありということであるが、そのなかで、な
にか読ませる観点を打ち出せというわけである。科学論文は通念と著しく異
なっているようなものは、まず疑われると思わなければならない。常識と著
しくことなるつまり、ブレークスルーなどは滅多ということは経験上科学者
は知っている。ずっと昔に常温核融合という詐欺があったが結局葬られた。と
もかく科学者はつらいものがある。名状しがたい発見などほんとうに1世紀
にひとつくらいである。星が破裂したのが発見されたといっても、これは地
震の発生と同じである。ほしいのは、概念上のブレークスルーである。
科学論文は一定の規準を満たしていれば、原則的に出版が許可されるので
あるから、もし、なにか書きたいという欲望がある人がいれば、一定の修行
をして(これには少々数学的能力が必要であるが)、書き方をおぼえて、書く
のがいちばんてっとり早いといえる。一定の規準をみたしていれば載せてく
れるのであるから。ただし、カネにはならないことははじめから承知しなけ
ればいけない。カネにしようとすれば、科学記事をもとに、解説記事を書く
ことである。
さて、A 氏の論文にもどる。普通にある話しではあるが、個人としては、
ある努力をしたあげくにこのようにつれない仕打ちには落胆する。別の雑誌
に投稿し直せばいいだけの話しである。しかし、研究者の心理で、ひとつの
ところで、断られるとまた別のところでも断られるのではないかという不安
もある。
ところで、A 氏の話しによると、10年以上まえに書いて、archiv に載せ
た論文が、アメリカのさる大学の某教授 B 氏の目にとまって、それをもとに
101
B 氏が論文を書いて、それがある雑誌に発表されたというのである。もちろ
ん、A 氏の archiv に載せている論文には、きちんと引用されている。ところ
が、もともとの A 氏の論文が、さる雑誌に投稿したがレフェリーからやっか
いなコメントがきて、それで立ち往生して結局そのままになったという。こ
れもよくある話しであるが。
A 氏と話した結果、archiv という発表形態が定着している以上、従来型の
雑誌に発表するという必要はないではないか。第一次情報として、archiv な
るものが認知されてきている以上、それを正式の論文として認知してもいい
のではないかと。問題は、それが人々にとって実質的インパクトをあたえる
かどうかである。かの100年来の難問であるポアンカレ予想を解いたペレ
ルマンの論文は、archiv に載せたが, それ以後、正式の雑誌に載っていない
そうである。どこの雑誌にのせようが、いいものは関係ないということの証
拠である。
もうひとつの提案であるが、会員制の雑誌をつくるというのはどうか。一
定の実績のある著者を一定期間特別ゲストとして迎えて執筆してもらうので
ある。自分が、こういう雑誌を創刊してみたいという欲望にかられる。
102
最近のこと
2012/2/20
あれよあれよと見ているまに、Hashi... なるものが、切れ味のよい(しか
し、おそらくは実体の希薄な)アジテーションによって不満分子を糾合して
いるかにみえる。人が落ち着いて考える隙を与えないで、矢継ぎ早に、その
場限りの決め台詞を打ち出すのである。これこそ、新式の、その「場の理論」
だ。こういうアジテーターに与するのがいまの世相(電脳世界)である。ちょ
うど一年まえのエジプト革命を思い起こすがよい。かの国の民は幸福の糸口
でもつかめたか。また、ロシアはソビエト独裁が倒されたのはいいが、プー
珍と言う名の別の独裁者にとってかわられただけだ。閑話休題:へたをすれ
ば、国家権力まで掌握しかねない。クワバラ。。。。
これをどうみるか。こういう類いの連中のやることは、だいたいおなじ方
向を向いている。そのひとつは、弱いところから狙う。その最たるものは、イ
ンテリ(学者)を血祭りにあげることだ。インテリに対する大衆のなんらか
の妬みと恨み。マスコミが大学入試でミスをやるとここぞとばかりかき立て
る。日頃の含むところを思いきり叩くという性根(ルサンチマンの心根)。手
始めに大阪市大と府立大学を統廃合するという。おそらく、それは実現する
だろう。大学教授など腰抜けだということを心得ている。ゼネコンをいじる
のに比べれば屁のようなものだ。(「学者はなにもできない」。あたりまえだ。
汚い仕事は政治家がやるものだ)大阪都を標榜しているかぎり、先取りをし
て「大阪都立大学」あるいは「大阪帝都大学」とでもするのがいいだろう。
Shintaro が都立大をつぶしたことが、彼の知事としての唯一の成果となった
ように。
しかし、ほかのことなどなんにもできはしないし、下手をすれば、いまよ
りいっそう悪くなるのだ。それによって役人が肥え太る。小泉改革どころで
はない。アホな改革でも、法律できまった限り適用されるのだ。結局役人の
仕事を増やすだけだ。そのあげく、利益を期待したものは、まったく失望し
てしまうのがおちだ。皆様よく考えないといけませんぞ。あとさきのことを
考えないといけませんぞ。?br? ?br? 国会(衆議院)であばれるとは非常に
結構だ。まず、首相になってだね。。。そうエラけりゃ?、東大をつぶしてみる
ことだ! ある意味で、日本のガンでもある「東大法学部」を解体すること
であろう。それでこそ。。。。しかし、結局、日本はアメリカの51(50か)
番目の州なのだ! 日本の官僚組織と政治形態は、結局アメリカに握られて
いるということを認識しないといけない。いかにも、アメリカは、
『戦後』一
貫して、日米安保によって自民党を思いのままにあやつり、かつ平和憲法な
るものを日本人の精神構造に骨に髄までしみ込ませてしまった。この機構の
根っこにあるのが、
「東京大学法学部」というきわめて精巧な役人製造機関な
103
のだ。アメリカは、東大でやられている学問など屁とも思っていないことは
明からである。ただ官僚機構の優秀さだけは認めている。これだけは温存し
ておきたいのだ。これによって、アメリカは、日本を奴隷として働かせて、
自分はドルを印刷するだけでなんの生産もしない惰眠国家となりさがった。
Wall street は、その象徴なのだ。アメリカという国家は、結局、日本のこと
など考えていない。沖縄をみれば明らかである。沖縄は、いっそ独立したほ
うがいいのではないか。
日本国家は、政治的にまことにいたましい状況になっているといわねばら
なない。これが佐伯啓思氏の言である(佐伯啓思著:反幸福論;新潮新書)。
つまり、日本人が骨の髄まで、アメリカに毒されている。もとをただせば、
太平洋戦争の集結まで遡る。そもそも、『戦後』という言葉が60数年経た
現在においてもなんの違和感もなく堂々と通用するところが異常なことであ
る。アメリカの庇護のもと, 驚異的な経済的発展をなしとげたものの、精神
的なものの喪失という代償を支払ってのうえである。自からが厳しい状態に
置かれていることを認識しようとしない、ひたすら、この快適な環境を変え
たくない。このワーキングプアがひしめいているなかで、快適な環境とはな
にごとかといわれるかもしれないが、世界には、真に過酷な民がもっといる。
日本民族は、しかし、モノがつくれる民族である。米粒に千個の文字を書け
る狂愕的手先をもつ人間は、世界のどの民族にもいない。佐伯氏の言葉を借
りれば、
「不幸という言葉を忘れた」カナリアというところでしょうか。しか
し、民族として、決して幸福とはいえないかもしれない。だってそうでしょ
うが。地震という爆弾のうえに座らされている民族に真の幸福はないという
のが悲しい現実なのです。この悲しみは、咀嚼することはできない。だから、
幸福への意思表示である『頑張ろう』という言葉を空念仏のごとくとなえた
くなります。幸福というのは不幸と紙一重であるということをおそらく理解
していると思うのですが、不幸は口にはだせない。またぞろ、自嘲的なこと
を言ってしまいました。しかし、この脆弱な国土にあるにもかかわらず、日
本国は独自の文化を築いてきたのです。このことを心にとめて、静かに黙々
と進む以外に道は開けないでしょう。
104
雑感
2012/2/xxxxx
選考委員の石原都知事、芥川賞候補作は「バカみたいな作品ばかり」
:産経
新聞 1 月 6 日 (金)17 時 13 分配信 「自分の人生を反映したようなリアリ
ティーがないね」
『芥川賞の選考委員を務める東京都の石原慎太郎知事は6日の定例会見で、
いまの若手作家に欠けているものについて、こう語った。石原知事は「太陽
の季節」で第34回芥川賞を受賞している。 石原知事は「(作品に)心と
身体、心身性といったものが感じられない」と指摘。「見事な『つくりごと』
でも結構ですが、本物の、英語で言うならジェニュイン(正真正銘)なもの
がない」と述べた。石原知事は昨年11月の会見でも「みんなマーケティン
グで、同じ小説家がくるくる違うことを書く。観念というか、自分の感性で
とらえた主題を一生追いかけていくのが芸術家だと思う」などと語っていた。
第146回の芥川賞候補作は6日付で発表され、17日に選考委員会が開
かれるが、石原知事は「苦労して読んでますけど、バカみたいな作品ばっか
りだよ」とぼやくように話した』
コメント:慎太郎といえば、太陽の季節。こんな品のない小説を書いて売
り出して、その後いろんなことをやり国会議員をやったり知事でございのよ
うだが、心棒がないあるいは中身が乏しいと思うのは多々いるかと。「衆愚」
を後だてにしているだけではいけません。豪腕な敵対者がいないとダメです。
ともあれ、威勢よくどこかの首相を罵倒したりする姿勢が受けるのかも。本
当にゾンビよろしく復活して、首相になってしまうかもしれない。これぞま
さしく nightmare !!!! という次第で、とくに慎太郎を弁護する要素などまっ
たくないのですが、いずこの分野も、若手と老人の感覚のズレは、いかんと
もしがたいですな。ともかく、読まないで、書きたがるのが無数にいるのだ
!
! 作文の延長のつもりで。。。だから、まともな文学を志す作者にとって
は、どこの馬の骨かわからないものに行くと、どうにも納得がいかないと動
転してしまう。あげく爆弾を送りつけるというところまで。受賞を辞退しろ
とかまで。。。。。気持ちはわからないではないですが。選考というものは不平
等そのものです。だれかが特殊な意図で作ったのですからね。あなたの命と
は違う。そういうものだと理解しないと。。。。。。科学の世界においても新し
く登場する研究者というは、往々にして、旗を掲げたがる。banner というや
つ。....banners are dancing ......... しかし、物理 and 数理科学の世界はきび
しく、つまらないものは、認められない仕組みになっている。徒党を組んでそ
の親玉になるのが関の山。。。。PTP (TPP とまぎらわしいけど)も、JPSJ
と合併するとか。久しぶりに眺めたのですが、その昔、わたしが少し関係し
た分野の論文が掲載されていました。おどろいたのは、40数年前のテーマ
そのままやられているのですね。思うに、昔を知らない世代にとってはまっ
105
たく新しいことになるのかも。こういうのはどう判断していいのか。。。。誰
かがこれは50年まえに終わっているのだよと、教えてやらないと。ひょっ
とすると、自分が40年まえに書いてとこかのジャーナルに掲載されている
ものを、何の修正もなしにそのまま新たに投稿しても載ってしまうというこ
とが起こるかもしれない。レフェリーが変わってしまっているのでわからな
い!
!
!これも研究者の寿命がながくなった結果起こりうる椿事というもので
しょうな。Everything is accepted !!!
2012/1/3
新年がはじまりました。OB OG のみなさまにおかれては如何お過ごしで
すか。ガキ(もとい子女)の飼育に、はたまた。。。。。印刷術からはじまる情
報伝達の道具の現在での極限としての, internet, tex etc. はすばらしいこと
にはもちろん異論がありまっせん。ただ、このようなすばらしい入れ物が完
備するのに反比例して、入れるべき中味がますます貧弱になるのはなんとも
皮肉なことであるとため息がでます。結局、技術は「イデア」に比べて簡単
であるということなのでしょうね。イデア、つまり、ものの本質は、技芸を
こえたところにあるといえます。技芸がイデアを駆逐すると人間が存在する
意味がなくなる。人間が愚をおかすのはイデアの欠如が原因しているわけで、
こういう点からはギリシャ時代からほとんど進歩していないのかもしれない。
『技術をもったサル』から脱却して、『高次の存在』になるのは、あと数千年
かかるのかもしれませんな。それまでヒト族が存在しているとすればですが。
106
その一言
人生の段階において、ある一言に触発されて決定的な効果を生むことがし
ばしばある。例をあげる。
その1:ファインマンが量子力学の経路積分定式化に気がついたときのこ
と。プリンストンの酒場でドイツからきた少壮教授 J 氏と酒をのみながら、
F:「粒子の経路をつかって量子遷移振幅をつくりたいのだが、こんなことを
やっている論文を知りませんかな」J:「いや知りません。しかし、ディラック
の論文を知っていますがね」。。。。この示唆のおかげでファインマンは自分の
考えを無事完成させることができた。(「物理法則はいかに発見されたか」に
詳細が書かれている)
その2:整数論学者の久保田富雄教授の経験談:ある数学者のパーティで、
群論の大家が、ふとそばにきて、「セールが非合同部分群に興味をもってい
る」と一言だけいって去ったという。不思議なことだが気になって自分のやっ
ている問題を非合同の場合にあてはねると非常にうまい結果がでてきて大き
な拾いものをしたという(数論論説より)。
数学、物理の世界では、ちょっとしたヒントというのが降ってきて思わぬ
展開をみせるということはままあること。極めつけの難解な理論である高木
類体論の発想、これはだれからのヒントがない全く自発的なものであったの
であるが、あるとき、ふと発想の転換をしてみたのでないか。アーベル体と
いうものの霊に導かれて難儀な道が、あたかもインディジョーンズの聖杯へ
導く神の道よろしく、自然に高木貞治の前に開かれてそのまま導かれて行っ
たのかもしれない。高木は首尾よく美しい宮殿を発見できたのである。しか
し、あとからその道をたどるものは、高木のように霊感にはめぐなれなかっ
たので、宮殿に行き着くために身も心もずたずたになる努力を強いられたも
のであろう。再現する道すら難儀である理論というものの存在理由はなにか。
まるで、マゼランが15世紀の装備できわめつけの難所であるマゼラン海峡
を突破して世界一周をした故事との類似があるような。それを成就させたの
は、マゼランの「太平洋へ通じるパスがある」という断固たる確信以外のな
にものでもなかった。現在の装備でもそこを通過するのは容易ではないので
はないか。もちろん、このような外からの一言が、火花を飛ばすがごとく発
火するためには、長い思索の積み重ねの所産であることを忘れてはならない。
つねに問題を心のなかに、無意識のうちに持ち続けることは、精神の状態が
ある種の臨界状態に達している必要がある b。とことん考ええぬいた挙げく
に、もう引き上げようという時になって、いわば緊張を解除するかのように、
ふっと扉がひらいてくれる。
107
コンマ以下2桁の勝負
スポーツ競技の世界は瞬間芸の世界である。100メートル走で観衆が目
撃するのは頭(顔)の差である。ともかく判定できる。これを計測すると、
100分の1秒のなかでの競争になる。鼻先の差に意義を見いだせるかとい
うことが当然起こりうるが、それはスポーツにあまり感心がないものの言い
分かもしれない。1000分の一秒まで分解可能なことになってもやはり意
味をもつものかもしれない。しかしもう一桁下がるところまでいくとほとん
ど識別不可能なレベルになるだろう。これを認めるか認めないかは、結局ス
ポーツ団体が決定してしまうしまうのであろう。だれでもわかることに意味
がつけられないという妙なことになる。しかし、皮肉ないいかたをすれば、
いったい100メートル競争とはなにかということになる。どうして、11
5メートルではいけないのか。141. 4メートルではいけないか。人間が
かってなルールを作っただけであるから所詮絶対的な意味などないといって
しまえば身もふたもない。スポーツというのは、ルールをつくってそのなか
で勝ち負けをきめるだけで、所詮意味等持ち得ないと了解していれば別に目
くじらをたてることもないであろうという言い方もできる。丁半博打とかわ
るところがない?瞬間芸でも並列競走ではないもの、たとえば、高跳びは比
較的によくわかるし、その身体能力に度肝を抜かれる。2メートルの高さを
跳び越えるというのである。しかし、1センチの差が意味をもつとは普通人
の感覚からすれば理解しがたいことに変わりがない。フィギュアスケートと
いうのは、ちょっとちがう。ジャッジがついて点数を配分するのであるが、規
定の技をこなすことによって配分する仕掛けになっている。そしてもっとも
わかりやすのは転倒である。致命的なミスであるのでわかりやすい。こけれ
ば一巻のおわり。
最近の物理科学
さて、科学に話しをむける。科学において、コンマ100分の1のレベル
での競争というのは比喩的である。つまり、個々の科学者たちのいわゆる業
績の相対的な評価を示す暗喩としてつかわれる。ある意味ではじつに深刻な
状況をもたらしているともいえる。それにしてもヒッグス粒子の経緯という
のは、なんとも奇怪にみえる。いま、実験結果を解析している最中であるら
しく、あと少しであるという。理論のなかで既成事実として組み込んでしまっ
て幾星霜。延々と研究者はああでもないこうでもないとやってきた。いまさ
ら、見つからなかったら、素粒子論という学問の存続にかかわる。これまで
なにをやってきたのかということになる。ともかく、あたらしい素粒子など
薬にしたくても見つからない。そこで、研究者の集団心理として、共同謀議
をしてみつかったことにしようと。。。朝永教授が昔言っていたことであるが、
あってほしいという願望(wishful thinking ) が実験結果の解釈する心理に反
映するから、みだりに信用してはいけないと。暗示の陥穽にはまる危険性が
108
あるということだ。おそらく、ヒッグス(あるいはその他)が言いだしたと
きには、まさかそういう粒子が実体として存在するなどとは思っていなかっ
たのではないか。ともかく、素粒子論という学問の末期症状とみるべきかバ
ラ色の展望がひらけるか。なにやら宇宙論と結託して、暗黒物質やらエネル
ギーとかいいだした。エーテル、フロギストンを彷彿とさせるではないか。
考えれば、なにかの現象を特定の物質を想定してそれに起因させるというの
は、近代物理(科学)の初期のころからあったということだ。科学者の心理
状況というのはいまも昔も変化がない。現代科学(数学)の最大の弱点は形
がみえないことである。
109
挽歌
2011/11/10
暖かい日がつづいていましたが、昨日あたりから気温が低下していよいよ
本格的な挽歌の季節が到来しました。挽歌というのは、『悲しみを歌った詩、
歌、楽曲』とあるようですが、それが人間の生活と結びついた季節というの
が、晩秋といえるのではないでしょう。うすら寒い遅い午後の時間に弱い日
の光が枯れ枝のあいだからもれる夕暮れまえの散策は、一年のうちでももっ
とも思索に集中できる時間と言えそうです。こんな贅沢な時間をもちながら、
さて頭のほうは、思うほどに円滑に働かないのが悲しいところ。悲歌ですね。
目下、整数論の講義の続編をやっています。代数的整数のはなしをやろうとし
ています。といっても2次体の話なのですが。これがなかなかの難物なので
すな。有理数係数の代数方程式の根が代数的数となり、とくに、最高次の係
数が1で、その他の係数が整数であるある場合の根が代数的整数となる。こ
れから、ある種の代数的な概念:
(群、環、体)を構成して仕掛けをしていく
と、ある程度まで一般理論が構成できて、なんとなくわかった気持ちになら
される。たとえば、群の概念は量子力学でも登場するので、なんとかイメー
ジはつかめる。問題の根源は、2つに集約されそうです。ガロア群とイデア
ルの概念。こいつがとらえにくい。結局、代数方程式というのがとらえどこ
ろがないものであるということになるのでしょうか。なかなか、こちらの思
いが通じない悲しさ。いくら読んでも本質が見えない。問題をやるとたちま
ちぼろがでる。
110
独裁者
2011/10/xxxx
さて、北アフリカの丹波哲郎大佐が虐殺死したことで、わたしにとってひ
とつの時代がまた終わった気がします。はるか昔のころ、青年将校としてさっ
そうと登場したことが、なぜか新鮮に感じられました。いつまでたっても大
佐という肩書きであるのが奇異ではあったが。自分と近い世代が、リビアと
いうケチな国であるとはいえ、一国 9 を掌握したことに喝采をしたのです。
欧米列強相手に喧嘩をはちまくるという怪気炎に火事を見物する?ような気
分でながめたものです。もっとやれもっとやれと。。。。権力者の常として結
局堕落するにいたったのは残念であるが、アフリカ統一というおおいなる夢
をいだいたというのは現在のボナパルトを彷彿とさせますね。ただし、あれ
だけ敵対者を弾圧したので、いつ暗殺されてもおかしくないのに、これまで
よくもってきたものです。民主化とかなんとか綺麗ごとをいうが、これは欧
米の自分に都合のいいお題目であって砂漠の民にそんな概念は機能しないで
しょう。所詮土人の小競り合いにすぎないのではないか。
(土人というのは差
別用語でしょうな。つまり、文明化されていないという意味ですが、形のう
えでは、文明人であっても中身は土人のままということは多いにありうるわ
けで、どこかの大棟梁が土人であるかもしれない)。それにつけこんで乗り込
んでいくなんて、帝国主義以外のなにものでもない。まあ、野蛮であるとい
うことです。結局のところ、CIA (およびその他の諜報機関)の工作によっ
て転覆されたのでしょうね。リビア人(=ベドウィン?=砂漠の土民)が、自
分たちだけでなにかをできる知恵があるわけはない。そんなことはわかって
いるのに、メディアではいっさいそういうことは伏せている。i-Phone をつ
くったやつを賛美しまくっているが、こういう画策に利用されていることを
認識をいたすべきでしょう。まったく皆なお目出度いことこの上ない。石油
という膨大な利権がからんでいるので、欧米はいつ動くかという機会を伺っ
ていたのではないか。イラクの場合も結局はおなじ構図ですな。布施院とい
うのは面妖な人物であったようであるが、アメリカに利用されて都合がわる
くなると因縁をつけられて攻撃されたあげく、あえなく殺害。強者の論理で
すね。
ある種の状況では独裁者というのはいつの時代でもかならず出てくること
は歴史が証明しています。ナポレオンしかり。マオツォートンしかり。ホーお
じさん(独裁者というより導師ですが)。。。。丹波大佐は、その当時そういう
状況で登場したのだと思う。不満をもった連中を糾合して、それを組織する
能力をもったものが潜在的にいるでしょう。いまの日本だって可能性はある。
引きこもった腑抜けの連中にそんな力がないだろうともいえるが、そういう
連中は、誰かがけしかけるとあばれ出す可能性はおおいにあると思う。アジ
テータがでてくるかですね。
「ハシシタ」というのは、ひとつの兆候ではない
111
か。あれは結局ダメだろうが、もっと強面の「橋上」というのがでてくる可
能性がある。日本版デフォルトが発生するときが危ない。5年以内であると
いわれているが。。。。ある意味では、「権力をつかむチャンス」でもあるとい
うことだが。。。。。。。いい加減な憶測を言っていますが、こういう状況になら
ないことを祈っています。我が身にふりかかるのだけはごめんですからな。
112
ミセラニアス
2011/10/14
フランスの研究者 X 氏と付き合いをはじめてほぼ10年近くなります。共
同研究をはじめてからでも6年ほどになります。これほど、長くつづいてい
るのは、基本的にはお互いの相性がいいからであるといえるかもしれません。
X 氏の英語もそれほど流暢ではないのも幸いしているかもしれない。しかし、
うまくない英語でも複雑な考えを言葉をうまく選びながら、とちゅうでやめ
ないで説明仕切ってしまう。たとえ、おかしいと思う話しでも最後まで押し
とおすのに閉口することもあります。「それは間違っている」というのだが、
「なぜ」たとしつこく反論してくる。わたしよりも一回り若い世代であるが、
一家言をもっているところが、わたし自身と共通点があるといえる。つまり
ものごとを一歩退いて、かならず批判的に判断するというところですね。一
般の欧米人の見方とは、ちがう独自の見解をもっているという気概が言葉の
端々にちらりちらりとのぞかせます。たとえば、
「リヨンはよいところだと聞
きましたが」というと、
「nothing だ」と一言でかたづけるところなど、リヨ
ンの人が聞くと怒るのではないかと。ローヌ河に面した由緒ある街であると
思うのですがね。。。。さて、肝心なことを話します。物理科学の発展というと
き、欧米の専売特許であることは残念ながら仕方がない。アメリカは例外的
存在です。科学をカネに変えた国がアメリカです。素晴らしい万歳だ!
! 科学
の中心がアメリカに移動してから、科学者がいやしくなり科学が堕落したと
思うのは私だけではないでしょう。いまや、世界の科学者がその風潮に完全
に振り回されている。しかし、アメリカ(また日本人も)はかくのごとく頑
張っているが、文化の遺産と言う点からすれば, 欧州の300年の蓄積にはい
かんともしがたい。その欧州の中での序列も実は厳しいものがある。英独仏
といわれるが、英独文化圏が数理および物理科学の分野では圧倒していると
いえる。もとをただせば、アイザックニュートンがその大部分をになってい
るといえよう。ドイツは、ニュートンと対抗してライプニッツが対抗馬とし
て名を覇せ、結局この二人で数理を源とする物理科学の覇権を確立したとい
える。さて、ニュートン、ライプニッツによる覇権確立のあと、英独が惰眠?
をむさぼっているあいだに(ガウスを例外として)フランス文化圏は、コー
シー、ラプラス、ルジャンドル、ラグランジュ、ガロアといった群れなすヒー
ローを排出していった。という意味ですばらしい遺産をもっている。X 氏は
物理研究者としては、めずらしく種々の文化的素養をもっているようで、と
きたまの会話のなかで、文化論にふれることがある。そのときに、こちらと
しては、欧米の偉大なる遺産をほめたたえるのである。
『ポアンカレはすばら
しい。。。。コーシーはすばらしい。。。。』 このように賞讃することは歴史的な
事実であり、そこから学べるものがいまだにあると思うので、言及している
つもりであるが、どうも X 氏本人はそれに同意しないようなのだ。つまり、
そのようなフランスを含む欧米の科学の遺産を賞讃するときに X 氏がみせる
113
反応は、非常にクールで, 一言でいえば『それは過去の話しだ』というのであ
る。たとえば、ディラックの日本語訳をみせても、ただ笑っているだけであっ
た。「フランスでは、メシアの本がいいらしい」というと、「それは、古すぎ
る。最近では、コーエン (Cohen-Tannouji) 、。。。。がテキストとしてはいち
ばんよい」Cohen-Tann... という発音がしにくい名前を誰かが、おちょくっ
て「天王寺公園」とよんでいたことを思い出す。『あれはマニュアル本だな。
量子力学も使えてなんぼの時代になったとは』まあ、それでも量子力学は必
要ですな。その道の専門家としていえば慶賀すべきかと。。。。それから、文
学の話題になった。わたしは「なんで Murakami Haruki なんてフランス人
が読むのだ」と聞くと、彼の奥さん(カトリーヌさん)は、
「ううん、なんと
いうか独特の雰囲気が」。。。「ううん、そうですか、雰囲気ですか。。。」。「あ
れは、外国語に翻訳されやすい言葉をあやつっているからででしょう」とい
う私の応答にたいしては、反論がなかった。おそらく、認めているのでしょ
う。文学というのは、人間の感覚と感情に訴えるものであるから、まあ、な
くても生きていけるというところがあるのでどちらでもいいと思うが。
『ちょっと脱線:巷には H. Murakami の名前が N 文学賞の候補にたびた
び俎上にのぼるようで。まあ、これほど名前がとりざたされている世論を背
景にそのうちに与るかもしれません。しかし、外国語に翻訳されているとい
うのは必要条件ではあろうが、できれば人間の本性を暴きだすような要素と
いうのが必要かもしれません。いっそ、N 賞をめぐる人間の欲望と精神のも
ろさをテーマとするものを書いては如何かと。皮肉ないいかたをすれば、世
上で聞いたこともない後進国の作家達に往々にして転がり込むところから推
測すれば、かような後進国への、いわば consolation といえないこともない。
本式の科学分野での賞に与る可能性が絶対ゼロ値にひとしい国家に配慮する
ということでしょうね。国際賞というからには。文学賞というのはサルトル
を待つまでもなく。。。。平和賞にいたってはわけがわからない。アフリカの
某女史が。。。。』閑話休題:彼らは現在に関心がある。いま生きている時代
に共感がある。しかし、それは過去の延長であるにすぎないので、過去のよ
いところから、いいものを汲み取る努力をするのが、われわれ科学者のめざ
すところのはずですがね。科学者の現在はつらいもので、過去を振り返りた
くなります。過去の偉大さに圧倒されて、ヤケクソになにかデッチあげてい
る。。。。。それでも, 現在を生きよというのが西洋人の考えかもしれません。
最終的には東と西の壁は解消されないところが残るという気がします。たと
え、その壁が紙のように薄くなっていくとはいえ。いいかえれば、日本人の
西洋に対するコンプレックスの最後の残滓といえるかもしれません。
114
思い出のオックスフォード
2011/9/26
知り合いの N 氏がオックスフォードに滞在しているとのことで、なつかし
くなり、N さんへの返事という形で思いで話を披露させていただきます。
2011/9/xx
N さま牛津はいかがですか。ロンドンからはバスで行かれましたか。それ
とも列車ですか。わたしが滞在した、1990年当時は、バスは往復で4ポ
ンドでした。汽車はほとんど利用したことはなかったですが、駅から町の中
心まで結構な距離があったのではないかと。もともと鉄道を敷設するとき、
大学側が学生が気楽にロンドンに遊びに出られないための方策であったらし
い。ケンブリッジも同じですね。私は、1990-91 年のサバティカルで理論物
理研究所に7ヶ月滞在しました。(脱線しますが:ここにかのオワダマサコ
が出入りしたことがあるらしく、スコットランド出身のポスドクが、並んで
撮った写真をみせて、
「皇太子妃の候補だ」と自慢そうに言ったことを覚えて
います。それから本当にその通りになった)。かのオクスフォードのカレッジ
の雰囲気を満喫しながら研究三昧ができたらすばらしかろうと、えらく期待
してでかけたと思うのですが、町自体は、小さくてすぐに飽きてしまいまし
た。当時は英語が話すことも聞く事もあまりできないで、研究所ではかなり
鬱屈しました。留学生と仲良くなりましたが。後進国からの留学生がやたら
多いのはいまも同じでしょうね。おまけに、食い物が極端にまずいときたの
で、気分がよけいに落ちこみました。ということで、あまりよい思い出はあ
りません。そのときに世話になった、Aitchison 氏(場の理論の専門家)と
も、それきりです。当時で、50半ばくらいでしたから、とうの昔に引退し
ていていると思いますが。町の中心あたりに、噴水があって、ちょっと、パ
リのサンミシェルとノートルダムの界隈にある噴水のまわりに人がたかって
いるのと似たところがあるかなという記憶がありますが、実際は大分印象違
いでしょうね。OXFORD と聞いて思わず、当時の思いでが蘇って、おしゃ
べりをしてしましました。いちど再訪してみたいと思っています。 9/yy
N さま
オックスフォードのカレッジ生活を満喫しているようでなによりです。オッ
クスフォードのカレッジのハイテーブルでの食事というのは、
「粛々とかのよ
うに」ですかね。どこのカレッジですか。わたしは、Worcester (ウスター
と読むそうです)college というところ経験しました。どういうものを食した
か忘れましたが。Ian Aitchison 氏がそこの所属でしたので、招待されたとい
うわけです。1988 年のことだったと。
115
ちなみに、そのときオックスフォード近くのアビンドン(Abingdon?) にあ
る Cosner ’s house (Rutherford Lab. の付置施設)で行われた Berry phase
の会議に出席しました。ベリー位相の初期のワークショップで、マイケルベ
リー本人、Alvarez-Gaume, 私が特別ゲストとして招待され、わたしにとっ
ては、費用を全部出してもらって国際会議に参加した最初で最後のものでし
た。馬小屋を改造したのがホテルの代わりで、あんな経験ははじめてでした。
Michael Berry と対決?して、英語がわからずに立ち往生したことが、いまで
も「屈辱」として記憶に残っています。ついでに、Aitchison 氏は, 経路積分
で Berry phase を定式化するわれわれの手法を、Berry の原論文と並列で高
く評価してくれた恩人です。場の理論家にとって経路積分はまったく自然な
定式化だからです。すみません、いわずもがなを。
そのあと、Aitchison 氏と知り合いになって、1990 年度のサバティカルで
オックスフォードの理論物理研究所に滞在をきめたようなものです。以下そ
のときの経緯を, またぞろ少し話させていただきます。到着草々、彼と物理の
議論で意見の違いがでて、それが、気まずくなるはじまりになってしまいま
した。どういうことかというと、その当時、高温超伝導の理論をつくるのが
はやっていたころで、アンダーソンの RVB という悪名高いものが出てきて、
ポリヤコフが場の理論で知られている「チャーンサイモンズ項」
(いまでもと
きどきやるのがいますが)というやつで、説明するという画期的?理論がで
ました。それで Aitchison 氏も飛びついたというわけです。それに対して、あ
んなもので超伝導を説明できるわけはないと一蹴するようなことを言ってし
まったというわけです。超伝導多体問題には、それなりの経験と見識があっ
たもので。それに対してかなり動揺したようで、それ以後物理を話すときに
は微妙に感覚に亀裂が生じてしまったようです。つまり信頼感の欠如ですね。
英語ができなかったことが大きな原因であったかもしれません。それやこれ
やで、はじめはできれば共同研究ができたらとも思ったのですが、実現しま
せんでした。オックスフォードというからには、もっとめざましいアイデア
の持ち主がいると期待したのにがっかりしました。しかし、いかにも滞在さ
せてやるという横柄な態度が研究所全体に隠然とみなぎったいるかに見えま
した。
(滞在者は、bench fee なるものを、強制ではないが要求されたのには、
ちょっとおどろきました。経済的に余裕があれば、払わうことを要請される。
インド人などは当然踏み倒していましたが。LPS とは大違いです)。それは、
訪問者に対する接客の仕方がいかにも、
`
`ぞんざい ”だということから推測
できました。たとえ、名のある学者であっても、例外ではない。それがオッ
クスフォード流かもしれません。あるとき、かの t ’Hooft がセミナーをやっ
たことがあって、そのあとで、
(日本流に考えて)研究所あげて盛大にもてな
しをするのだろうと思っていたら、研究所の入り口でぽつんと座っているで
けでした。所長がきて、なにか話していたようだが、それがいかにも事務的
116
で、トフーフト氏はいかにも不満そうな面持ちであったという印象を受けま
した。待遇がわるいのではないかと抗議をしている風にも。トフーフトです
らこの調子なので、ほかの下っ端などはおして知るべしですね。もっとも、当
時トフーフトは、ストリングにやられてしまって過去の人にされていたとい
うことかもしれませんが。ということで、あまり、わたしの滞在は、いい印
象をもてなかったのは残念でした。つぎの年に、わたしに触発されたかどう
かわかりませんが、現奈良教育大学の M さんが滞在したようです。彼は結構
楽しんだのではないかと。すみません。またまた聞かせずもがなのことを。
117
雑感
2011/8/22
今年のお盆も終わり、ここ数日は真夏の暑さが消滅したかのような過ごし
やすい天気が。
物理科学の分野での研究職ほど需要と供給のあいだのアンバランスが大き
い職種はほかにない。本当に極端な供給過多だ。もう、タレントの選抜なみ
といいたくなる。少々滅茶苦茶な計算かもしれないが。たとえば、ある地方
の高校で、200人の進学希望者のうちで全校で数学がトップの生徒が、東
大に進学するとすれば、それだけで、200人勝ち抜いたことになる。そこ
から、人気学科に進学するとそこで、また3人勝ち抜いたことになる。そこ
から、また大学院で人気研究室にはいるのに、2人勝ち抜く。そうすると、
単純計算で、1200人から選ばれたことになる。そして、学位を頂戴して
も、そこから、苛烈な競争がはじまるのだ。東大というブランドは効果があ
るが、それだけでは足らない。誰か有力者のところで修行を積むと言うよう
な要素が入ってくる。しかし、実力というのは実は虚構であるかもしれない
と気づかされる。
本当に有能な研究者の(タマゴ)は、そういう選抜とは無関係に香気がそ
の身体から発散しているものだ。実は教授連中はそういう才能を、ほんとう
に探しているのだ。自分を棚にあげて。まあ、弱肉強食の世界だといってし
まえば、そのとおりで、単純に考えると、ほんとうに能力のあるものだけが、
最後は生き残っていくのであろうが、なかには不運にも才能のあるものが選
にもれる。研究者という身分がすきなのか。研究が本当にすきかという問題
がある。どうも、研究者という職業が好きであるというのがかなり多いので
はないか。それを実現させるには、ある種の妥協が必要になる。つまり、好
きと職業が一致するというのは本当に滅多にないという現実だ。たとえば、
本当は数学をやりたかったのだけど、才能がなかったので化学をやって、そ
こで職を得た、しかし、趣味で数学を研究しているといった人は結構いるの
ではないか。また、素粒子論をやりたかったが、半導体の研究者になって教
授になったというのも多いかもしれない。(半導体で一発あてて、たとえば、
ノーベル賞にあずかるチャンスでいえば、はるかに高いであろう)。もっと
も素粒子の教授といっても、なにかのまぐれで大学の職にありついただけで、
人の注目をあびる研究などしているのはほんの一部。ただの教師であるのが
大部分だ。卒研と称して、なにも知らない学生を集めて指導をしたようなフ
リをして慰めているのが関の山であろう。あまりにも身もふたもないという
怒りの声が聞かれそうであるが。数学でも、まあほとんどが数学教師で数学
者などは滅多にいないというのが実情であろう。
118
また、作家と言う職業は、これは自称が本当に多い職業だと思う。おそら
く好きだけでは、やっていけないだろう。食うために、くだらないポルノも
のを書いてしのいでいるのがほんとうに多いのではないか。サイエンスライ
ターというのが日本でも最近注目を浴びているが、ほんとうは研究をして教
授職につきたかったが、そのチャンスに恵まれなくて、食うために消極的に
転身した(あるいは自分で開拓した)のではないかと推測するのである。た
だし、この職業はうまくいけば、アカデミーに戻れるチャンスがあるかもし
れない。科学の啓蒙をうたう学科がいずれ必要になるかもしれないからだ。
学者といわれる身分は、適当な職について(学校の先生がもっとも適当だろ
うが)、趣味で論文を書くことで「自己実現」させることは可能であると思
う。うまくいけば業績になるのだ。考古学は典型であろう。本居宣長がその
嚆矢でろう。物理だって、真剣に基礎的な問題で盲点をつくようなテーマが
よくみればあるかもしれないのだ。
(じつは、私自身は、そういう意識をもっ
てやってきたと思う)。なにも、最先端の物質を探索することだけが物理で
はない。たとえば、American journal of physics という雑誌があってそこに
記事を投稿することはできるのだ。この雑誌はプロの論文は載せてもらえな
い。プロは、physical review に載せればよい。
119
最近のニュースから
J-CAST ニュース 8 月 9 日 (火)
「日本海」を米国が支持、「東海」に敗北ムード広がる韓国が、日本海を
「東海」(トンヘ、East Sea)と表記すべきだと主張している問題で、米国政
府が「『日本海』という表記は国際的に認知されている」などとする見解を示
した。 この 20 年近く議論になってきた呼称問題だが、韓国側には「外交力
に限界」などと敗北ムードすらただよっている。■韓国政府は「東海」
「日本
海」併記を要求発端は、国際水路機関(IHO)が出版している「海洋と海の
境界」の改訂作業だ。
「海洋と海の境界」は、世界の海域の地名が掲載されて
おり、いわば「公式の海図」と位置づけられている。改訂作業を進めるにあ
たって、IHO は加盟国に対して、「日本海」または「東海」の表記について
意見を求めていた。は大きくは変わらないとの見方が大勢だ。
うえのニュースを読むと、われわれの世代は、
『李承晩ライン』通称「李ラ
イン」なる言葉を思い起こします。李承晩とは韓国の独裁的大統領で、たし
か学生がその政権を打倒してそのあとを、別の強権的独裁大統領朴正煕が登
場したという経緯ではなかったと。朴大統領は結局暗殺されましたが、その
狙撃犯がわが故郷の出身だと聞いたことがあります。ある種、郷愁を感じる
というのは妙な表現ですが、当時は日本もいまだ発展途上で、日本海を巡っ
て極東の同列国家が、小競り合いを繰り返したことがなんとなく滑稽に見え
たということです(いまから思えばということですが)。じじつは、滑稽どこ
ろではありません。境界線で死人まででたのですから。現在、テレビで韓国
ドラマが席巻するの観がありますが、根っこのところでは。反目し合うとい
うのが文化と政治の違いでしょうか。李ラインというのは、韓国側からすれ
ば、一応根拠があるそうで、それが、いわゆる、
「大陸棚」という隠れアイテ
ムだったのですね。ここまでは、俺の領海だと。大陸棚の端がラインで、こ
の線を越えた日本の漁船が、韓国の警備的に、拿捕(だほ)されるという事
件が、当時(1950年代の終わり頃?)頻発し、新聞紙上をにぎわせまし
た。小学高学年から中学生のころであったかと。OAS によるドゴール暗殺計
画と重なっていたのではないかと。拿捕なる言葉が、鮮明に記憶のなかに沈
潜しました。
「拿」というのは日常的単語ではないですね。ともかく、領土問
題というのは、ことほど左様に根深いものがあります。
120
ミセラニアス
2011/6/30 記
はや夏至もすぎて、今年も後半に入りました。明日からは7月です。OB(OG)
諸氏におかれてはいかがお過ごしですか。今年は、核発電問題で、酷暑の夏
にむけていろいろと動きがあるようで。クールビズなる語はなんなんですか
ね。アホな外来語をとりいれたといういつものパターン。言葉は注意深くつ
くられなければならないと思う私めにはどうも違和感が。
「電話をいれる」と
いうのとは違うのでしょうがね。温度差というのもいけませんな。「事故る」
というのも。しかし、これはサボると同じ系統でしょうね。古くは「クメる」
というのもあったそうで(いわずもがなのウンチク:久米正雄という作家が
夏目漱石の娘と恋仲になって結婚したかったのが周囲の反対でつぶされ、そ
れに悄気た様子をからかって当時のマスコミがつくった造語であるらしい)。
最近の世評を反映すれば、
『カンる』というのが新語としてつくられそうです
が、語呂がよくない(しかし、KAN 総理もなかなかやりますな粘り越しで。
伝家の宝刀をチラツカセて、揺さぶりをかけて制御しようするのは首相とい
う権力の意味をよく理解している。使いかたのよし悪しは別として。周囲の
アブどもがいかに喚こうとも)。フクる(カメる、オカる、エダる。。。。)と
いうのはいけそうですがね。こうしてみると、日本人の語的センスなど昔も
いまも変化がないようで、貧弱とみるか微笑ましいとみるか。。。いや、また
おふざけがすぎたようで。
さて、まじめな話しを。久しぶりに物理の(に関係した)話しをします。
物理の研究をはじめて40数年たち、これぞという専門分野も決めずに、な
にやら量子物理一般にまたがる問題を渉猟したあげく現在に至ってしまいま
した。まあ、世の中の専門家からすれば眉をひそめることでしょう。これま
で、好きなことをやってこられたのは、要するに易しいことばかり選んでやっ
てきたからだということは、重々認識しています。たとえば大学院生のころ
ファインマンの液体ヘリウムの素励起の論文などはどうにも歯がたたなかっ
た。こういう論文がそのころ理解できていれば、すこしは世間さまにも認め
てもらえたのではないかと。こういう難しく素人には手のでない多体問題は
短小軽薄を地でいく時代の風潮で、遠からず駆逐される運命にあったのかも
しれません。しかし、毅然として香気をただよわせている難解な古典的論文
には敬意を表するのが理論家としての矜持であるとも思っています。歴史的
に確立された理論物理の由緒ただしい硬質の問題 (これぞ本家ハードマター
物理! )をなんとか自分なりに理解しておきたいと感じるようになってきた
のは、やはり年齢と関係していると思えます。若いころおろそかになってい
たことを命のあるあいだに見究めておきたいという、いうなれば、宗教家の
「死ぬまでに法王(導師)にあいみまえたい」という願望のようなものかもし
れません。
121
というわけで、昔理解できていないと思う問題のひとつで典型的なものと
して「繰り込み理論」をなんとか自分なりの納得のいく理解をしたいと思い、
場の理論のテキストを見直しているという次第。大学院のころですが、一応
自分なりに勉強してみました。量子力学を一通り勉強したあと場の理論をや
るのが普通のコースであるというのはいまも変わらないでしょう。しかし単
純に理解できなかった。それをきちんと教えてくれる先輩も同級生もいなかっ
た。その当時強い相互作用で繰り込み理論はもはや時代遅れという時代背景
があったせいもあったのでしょう。朝永振一郎氏が書いた解説ものによって、
「発散の困難」という漠然とした言葉だけはおぼえました。本音をいえば、摂
動計算が大嫌いでファインマングラフに降参してしまっただけかもしれませ
ん。あんな複雑なものから意味のある答えがでてくるわけはないと勝手に思っ
て投げ出したということですが。
ともかく繰り込み理論はよく消化できないまま、時はながれました。大学
院 DC を終ったころに、ウイルソンの繰り込み群理論がでて、その当時一世
を風靡したようです。しかし、繰り込みが理解できていなかったことで、それ
を「群」にしたものなど理解がおぼつかなかった。繰り込みというのは、は
たしてまともな理論であるかという疑念がいまでもします。これをやらなけ
れば、物理を理解したことにはならないというほどのことではないのではな
いか。量子力学は、つまるところ「重ね合わせの原理」一発で制御できます
が、繰り込みにはそのような制御機構があるかという疑問です。つまりは計
算理論なのですね。ディラックが嫌う理由はわかりそうな気がします。計算
のやりかたが理論なのかというのがディラックの疑念だったのかもしれませ
ん。
いずれ理解できた段階でノートを作りたいと思っています。いつになるや
らですが(B 君しばらくお待ちくだされ)。それから、もうひとつ、なんとな
く違和感があるものに自発的対称性の破れがあります。これは繰り込みとは
違って単純です。そのもとは超伝導の BCS 理論から派生してきたものです。
BCS はかなり時間をかけて勉強っしたので、自分のなかではよく理解できた
と思っています。量子力学の応用例として最高傑作であるという認識をもっ
ている。しかし、そこに内在している、ある種の対称性が保持されない兆候
を場の理論にもちこんで、それを原理に昇格させたところがよくわからない
というだけのことですが。BCS に関して;量子力学の応用分野として物性理
論というものがあることを知ったのは大学3回生の終わりことだったかと。
それで固体物理があり超伝導理論というものがあることを知りました。中島
さだおという人(物性理論の大御所といわれるような人)が書いた、超伝導
の小さな本をみつけてながめました。はじめてみる固体電子論には目からウ
122
ロコがおちました。固体の (なかの電子の)問題が場の理論で扱えるという
ことには本当にびっくりしました。4回生の夏休みまえまでに、BCS 理論の
入り口まで到達しました。ほんとうはよく理解などできたなかったのでしょ
うが、習ったばかりの第2量子化がつかえるという感覚がもてました。その
あと大学院入試で中断してしまいましたが。 大学院にはいってからもういちど、BCS 理論を勉強しなおしました。BCS
理論が成功したのはそれが平均場の一種だったからであるという認識はもて
ました。平均場(ハートリーフォック)理論というのはいちばんやさしく有
効な理論で、それをはずれると途端にむずかしくなる(註2)。平均場の手
口は、雑にいうと相互作用を第2量子化で演算子であらわすと4次になるが、
その2つを基底状態の期待値をとって、c-数にすりかえて一体問題になおすと
いうだけのことです(この期待値はあとで自己無撞着条件によって決める)。
このときになんらかの対称性がやぶれていると考えられる。これが自発的対
称性 (SSB) の破れと思ってよい。ただし、現実問題においてどのような相互
作用がどのような対称性を破っているのか、最初から明らかではない場合が
多いのだが。
ちなみに、大学院に入学してすぐに多体問題に興味をもって、集団運動理
論を勉強しました。とくに朝永理論は直感的でよくわかった。集団変数を分離
する手際があざやかでいたく感銘をうけました(註)。しかし、こういうもの
になぜ若いころに引きつけられたのはよくわかりません。
(朝永氏自身あの論
文は重要なものでないと言明しているのを、昔どこかで読んだことがありま
す)。それから、RPA を第2量子化でやる手法(Sawada 理論) も勉強しま
した。同級生の A 君が、あるとき, いわく、
「君, そんな『エーダガー. エー』
とかいう計算をいくらやってもなんにも出て来ないのではないか」。。。A 君
の予言通り, 論文に書けるようなものは, もはや残っていませんでした。でも
計算のやりかただけは覚えました。このようにしてみると、BCS と RPA 集
団励起をまぜたアンダーソンの理論が、SSB が組み合わさって、現在的統一
場の基礎を形成しているといえそうです。しかし、対称性の自発的破(SSB)
れというのは、ほんとうに物理の概念として必要なものかという疑念が。。。
ともあれ、大学院の講義には、標準メニューとして BCS 理論の基礎はとりい
れています。こういうところで役にたてています。随分久しぶりに RPA も
見直しています。
(註):2次元のボーアの原子核流体模型の基礎づけをあたえるものと、
Bohm-Pines の電子ガスのプラズマ振動 (いわゆる RPA) を密度演算子のフー
リエ変換を集団座標として選んでハミルトニアンから分離するやりかた。
(註
2)
『密度汎関数法』というのがあるそうです。これはある意味で量子力学へ
123
の冒涜(ぼうとく)ではないかとおもわずいいたくなります。だって、ハー
トリーフォックもくそくらえで、波動関数なしに密度で全部書き換えてしま
うというのですからね。しかし、Kohn-Sham の原論文(PR)の引用件数に
は驚きました。なんと万をこえている!
!これでもって高度な理論が如何に引
用されなくて、程度は低いが(いやちょっと言い過ぎですかな)使いやすい
論文が引用される傾向にあるかを証拠だてているというものです。
このところ、物理理論は別にして、昔から興味のある整数論にまた取り組
んでいます。整数という無造作にころがっている石ころ群に驚くべき法則性
が隠されていることを物理の感覚?で理解しようというわけです。『平方剰
余の相互法則』が典型です。精妙にできたその内実をとらえることがじつに
難しい。てのひらに掬った水が指のあいだから漏れだすという捉えがたい感
覚。。。。。汲んでも汲んでももれる。これが魅力の源のようです。とりつかれ
るというやつですね。数学のうちでも、形式的に定理を証明するというだけ
ではない、数という生身を対象とする理論を構築するというのがその根幹に
なっていて、とりつき難いが独特のスリルがあるというもの。ともかく、手
がつけられない難解な問題は無数にある。量子力学とはまったく異質の世界
です。じつは、院生の有志を対象に、こともあろうに(!)講義をはじめたと
いう次第。整数論の講義を物理学科で聞くことができるのは、わが大学だけ
ではないかと!! 由緒ある国立大学で教授がそんなことをしたら。。。。しかし、
そんな余裕などないというのが実情でしょうね。いまは初等整数論をやって
いますが、ゆくゆくは代数体までやれればと。そして類体論までも?? 高木
類体論はデデキントのイデアル論とガロア理論の交錯からヒルベルトが創作
したものが完成されたもの。。。。。ここまでいくまでに、おそらく自分が脱
落してしまうことでしょうが。そのうちに、講義ノートを作成する予定です
(乞ご期待) 。
124
ニュースより
2011/6/1xxxx
「菅直人首相は9日午前の衆院東日本大震災復興特別委員会で、与野党か
ら早期退陣要求が強まっていることについて「大震災に対する努力に『一定
のめどがつくまで私が責任を持ってやらせてほしい』と言い、内閣不信任決
議案が衆院本会議で否決された。私に『めどがつくまでしっかりやれ』と議
決をいただいた」と述べ、早期退陣に改めて否定的な考えを示した。」(from
Yapoo news)
首相のハラとしては、
『最後ッ屁である解散を行使しないことで譲歩したの
だ。致命的なエラーをやらかしたわけでもないのに、辞めろコールを連呼す
るとは、オノレ何ぬかしとんねん』とね。でも、ある意味では、ケツをまくっ
て解散して再び下野し腐った自民党と分裂した民主党がヤゴウして、マスな
んとかそのマンマとかいう意味不明の連中がでてきて、その結果、ますます
支離滅裂になり、機に乗じて、わが内なる「火虎」が登場という図式がでて
きて、ハルマゲドン。。。。。(クワバラ!
!)。というシナリオもありえたので
はないか。これからもあり得えないことではないが。。。。。
011/5/13
A 君最近のニュースといえば浜岡が停止したことであるが。中部関係の企
業には痛手であろうが、仕方がないだろうな。石炭火力発電を復活すること
だ。炭酸ガスによる温暖化なんて確たる根拠などない。欧米の原子力委員会
などが裏で操って捏造したものをキャンペーンをはって世界にバラまいたの
ではないか。欧米は碌でもないものをでっち上げて世界に押し付けようとす
る。気候は地質学的要素で決まるものだ。人為的効果などわずかなものだ。い
ずれ、地球は寒くなるのだ。ともあれ、2ヶ月もすぎると、非常事態が日常
化するのだな。生きている人間はともかく生きて行かないといけない。悲嘆
しているだけでは埒があかない。そして、時間が経過して記憶のなかにずっ
と刻まれることもあるし、忘却の彼方に消えることもあり、そしてまた何十
年後に思い出されることも。。。。。たのんでもしないのに世の中に放り出され
て、しないでもよい苦労をさせられ、人間という生き物は不可解ではある。
2011/5/6
治虫殺害のこと。
アメリカの大統領みずからが復讐劇の主役をになうとかなんともはや。オ
サマとオバマなんとなく語呂がにているようで。。。。古代ローマ帝国の時代
に、かのカルタゴの武将ハンニバルがザマの戦いに敗北したのち、ローマ軍
から捕獲のための執拗な追跡からついに逃げ切れずに小アジアのどこかで自
125
らの命を断ったという故事との相似があるような、ないような。生かしてお
いてはのちのためにならないという支配者の意思表明だけは今も昔の変わら
ない。ハンニバルの場合は天才的武将として語り継がれるのは、一武将とし
て強大なるローマ帝国を相手にして、それを心胆寒からしめたというところ
にロマンがあるからといえる。
(ハンニバルといえば、レクター博士というの
が)翻って、オサムくんの場合はちょいと話しが違うのではないかと。。。。然
り。ハイテクを使って WTC に突っ込む。セコいですな。そのお返しに、ハイ
テクで居場所を特定されて特攻作戦で射殺される。これもお粗末ですな。な
にかマフィアを主題とするギャング映画のようで。カポネが子分をつかって
敵対するボスを消すというのと寸分違わない。アメリカの大統領とアルカポ
ネが同列? になるのですな。なんとも奇妙な図式です。これが現代という時
代であると言ってしまえがなにもいえません。人間の品性もクソもない。と
もかくも、復讐というのは、憎しみの伝承にほかならない。これは神と悪魔
が結託して人間に与えた業のように思える。やるほうもやられるほうも大変
です。失うものはなにもない捨て身の自爆であっても失うものはないはずが
ない。まあ、ハンニバルの故事とは比較にならないが、アパッチ族の酋長の
『白人みな殺せ』と同じ図式ととれるともいえるかもしれません。強者の支配
がつづくかぎり抑えられたものが反発するという図式は不変の真理です。人
間も動物という名の自然の造物であり、その行動もあらかじめ自然法則に織
り込み済みであるとしれば、自然の災害と実は根っこではおなじかもしれま
せん。地球のひずみがちょっともとに戻ったときに震えが起こり地震が発生す
る。ある種の族が別の族とのあいだに軋轢が生じたときの震えが戦争になる。
人間だけが、特別であるというのは神からすれば、傲慢そのものかもしれな
い。ひとつの神は『聖なる戦い』
(聖なるとは誰が決めるのだ)を許容し、他
の神はそれをゆるさない。正義を判定するには、HYPER GOD『超神』が必
要かもしれない。
2011/4/29
だい災害から49日がたちました。49日というのは、死者が黄泉の国へ
真に旅立つ日という意味に鑑み、あらためて犠牲者への冥福を祈りたいと思
います。しかし、いまだ亡骸すら未確認の方々にはただただ、鎮魂の祈りをさ
さげるのみであります。
「アワレ」という言葉は、科学を超越したものである
という気持をあらためて実感させられます。この壊れやすい日本という土地
(大地とはいえない、マグマという海をただよう小さな船=日本列島;かちか
ち山の狸のドロ舟!
!ちと自嘲的な比喩ですかな。乞許)に、すがって懸命に
生きる壊れやすい民の国日本。。。。さよう日本人は壊れやすい民族なのです。
そのことを認識して出発することが肝心だと思います。
(科学)技術というの
は、所詮西洋からの借り物で日本の風土には合ったものではない。。。。。この
脆弱な地面に、おぞましい核をこしらえるお上と、それに乗せられた民。。。。。
126
広島、長崎につぐ第三の被爆を福島の民は被ったのです。わが日本国自身の
手によってです!
!西洋文明の没落をいわれて幾歳月。しかし、どうやら、日
本では欧米諸列強?に比べて、まだまだ命の値段は安いということをこの災
害を機にあらためて認識させられたようで。。。。国家の総理が国民にこれほ
ど罵倒されるというのは、もはや異常でなくなったとは。これが電脳の現在
であるといえるかもしれません。ことほど左様に民が直接に火をつけて燃え
上げるという図は、なんとも危うい。。。為政者も国民も一歩引き下がって考
えなければなりません。別にカン氏をあえて弁護することではないですが、
彼を バッシングしている人々も、結局安全地帯にいる。
『目くそが鼻くそに
文句を抜かす』というたとえでしょう。批判するものが、いざお前がやって
みろといわれたら、結局さしたることもやれない。精々少しましと言う程度。
そういうものです。だって、こんな災難に対処することなど考えていないの
だから。こういう異常事態では、当然ものすごいフラストレーションがたま
るもので、それのはけ口が必要です。殴られ役が必要なのです。それが国家
の総理の役割です。
「国家は碌なことをしない」とシモーヌヴェイユが言って
います。
こういう事態では、国民ひとりひとりが科学的判断力を持たなければなら
ないと、どこかの新聞の社説で書いていたが、これは少々オメデタイという
ものでしょう。日本国民一般がそんな判断をできるには前提がある。それは
徹底的な教育をさずけられたうえであるいう前提である。いまの(大学)教
育の実情ではそんなことは望めない。まず、教育の根底から立て直すことか
ら始めることですな。適切な判断ができる人間なんてそんなにいない。どこ
かの教授あるいは評論家がわかったような顔をしてメディアにでて無責任な
解説をしているが、この人たち自身が果たして厳しい思索の訓練を受けてき
たのか疑念がある。言葉による説得の背後には、それを支える思索の積み重
ねが必要です。知識の切り貼りではない。適当な解説をして一般国民をミス
リードさせる国は世界のどこにもないだろう。解説なんて、News caster 自
身がやるものでしょう。かれらはプロに聞いてそれを自分で分析して話すべ
きなのだ。それに失敗すれば退場するだけだ。事態が起きたときに、頼みと
なる真のプロを育ててそのネットワークつくることではないか。このために
は、教育全体を根本から立て直すこと以外にない。しかし、核という怪物の
真の正体はいまだに誰も理解できていないと私には思える。level 7 とは。こ
れは一体何だ。
3/31 記:長いこと更新をさぼっております。定年のあとボサッと過ごしてい
るうちに、ほぼ1年がすぎてしましした。久しぶりに更新をいたしたく。。。。。
3/11 の東北地方地震による巨大津波に加えて福島原発大事故という太平洋
戦争敗戦とあるいは匹敵する未曾有の国難に直面しておりますが、いかがお
127
過ごしでしょうか。被災された方々には心からのお見舞い、犠牲者には衷心
のご冥福をお祈りいたします。われわれ安全な地点からは、どのような言葉
も慰めにはならないという無力感におそわれますが。しかしながら、国家自
身が信頼のおけない情報を流しているのではないかという疑惑をもたせると
いうのは、なんとも危うい気がするのであります。国家の屋台骨が核事故に
よって揺さぶられている。。。。。。嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼。。。。
128
嵐をよぶ男
2011/2/21 記
時代は風雲急をつげるともうしましょうか。エジプトの民衆革命に端を発
して、各地に飛火した火の手の行方に固唾をのんで注目しておられる方々も
いるかと。かつて、青年将校として颯爽と登場したリビアのカダフィ大佐も
40年あまりの独裁のすえに危機を迎えるにいたるとは、おごれるもの久し
からずの喩えを絵に描いたようであります。さて、わが日本においても、やっ
と一年前に歓呼に迎えられて登場した新政党(政府)は、早風前の灯火とな
るに至っては、なにをかいわんやであります。KAN 首相もよりによって一
番悪いときに総理大臣になった。気の毒なところがあります。まあ、あまり
にも長期にわたる前政権のつけを処理するには、なにか奇跡でも起こらない
ことには、誰がなっても大同小異でしょうがね。ことここに至っては、思い
切りケツをまくるあるいは最後っぺをかますことでしょうな。しかし、これ
は不思議でもなんでもない。現代はまさに「民意」を無視しては成り立たな
い。世界の民は孤立してはいないということの単純な証明であるといえるで
しょう。しかし、為政者たるものも国民も一歩引き下がって将来に目をむけ
るべきでありましょう。いまの自分は将来の自分に跳ね返ってくるのですぞ。
129
ワイル抄
2010/
へルマンワイル:古典群(蟹江訳)より。。。。。 群の理論の発展にとって
決定的だったのは、E. ガロアが代数方程式の研究のために置換群をつかった
ことである。彼は代数拡大と基礎体の関係が、大部分自己同型群によって決
定されることを認識した。彼の理論は、ある代数方程式の根として与えられ
る数の有限集合の代数的な「相対性理論』として記述することができる。ガ
ロアの短い暗示は、長い間7つの封印がされた本の状態であった。C. ジョル
ダンの「置換論」によってはじめて、新しく獲得された分野がより広い数学
者の世界に開かれたのであった。。。。。。ガロア理論を「相対性理論」と看破
したワイルの眼力には、思わず、うなってしまう。変換の概念を時空連続体
から代数的な対象物に転用すればこうなるということだ。歴史的には、連続
群の概念は、ガロアの理論ができてそれを一般化することにより、発見さ発
展したのであるが。ともかく、この言明によって、近づきにくいガロア理論
がぐっととりつき安くなった気をもたせる。
130
OB のメールへの返事
(2010/6/24 記)
A君
お便りありがとう。返事が遅れてすみません。MUNICH にて順調にやっ
ているようでなによりです。わたしのほうは、定年後の生活もまたたく間に
時間が過ぎていく感じです。いまは平均週に2日ほど大学にでかけています。
研究の面ではあまり変化がなく、LPS の B 氏とは共同研究をつづけていま
す。それとは別にこれまでたまっていた原稿を発表しようとしているのだが
なかなか作業が進まない。昔から計算は下手だが、ますますミスが多くなっ
てきた。これが aging の悲しさというものか。ともかく、特任教授でいる間
は、論文を書いて給料をもらうことへ義務であると言い聞かせて。
しかし世の中が変化していることを感じる。世代ギャップだな。よく考え
てみれば、自分の息子のような世代が中心になりつつあるところで、昔のよ
うなやりかたで、そのまま通用すると安直に考えるのがそもそも間違ってい
るのだが。物理のような基礎科学でも時代の風潮からは逃れられないようだ。
ただし、流行っているのもよくみれば結局、昔のファッションと言葉をアレ
ンジして繰り返しているというのが多々あるのだが。
(ファッションというこ
とで思い出したが。10年ほどまえに、ケンブリッジの研究集会で、有名な
理論家 David Thouless に、「Berry phase なんて皆なんでやるのだ」と聞い
たところ、いわく「ファッションだ」。。。。。ファッションというくらいでは
な。。。)整数論の大家の志村教授曰く、『このごろの連中(欧米の)は、実質
的な結果をだせないので、独特の言葉(隠語)をやたらに発明して、それで
やったふりをしている』と。それをマネする日本の若い連中は. お目出度い
ともいえる? おそらく物理でも似たようなものだろう。物理および数学研
究の世界は, ほんとうに「資源の枯渇」という問題に直面している感がある。
基礎科学の雄であるといわれる素粒子論では新素粒子などみつかりそうにな
く、吹けば飛ぶようなニュートリノだけが頼りという始末(パウリが嘆こう
というもの)。強者どもの『夢のあと』だな。片や, 数学のほうは手がつけら
れない難問ばかり残っているかにみえる。いずれこうなることは、予測され
てきたことではあるが、それでも夢はすてられない? かくいう私だって。。。。
なにを待っているのかって?
ともかく、最近の傾向を調べてそれに合わせるので苦労している。無視す
ると、レフェリーをクリアしないからな。若いときは、こういう作業は苦に
ならなかったが、いまや大義な作業になってきた。いらない時間をとられる。
若いあいだは、ともかくペーパーを出さなければならないという圧力がかかっ
て頑張れるが、いまはそんなものはないのでいつでもやめられるという気楽
さがあるが、それが余計時間がかかる原因になる。この期に及んでも、まだ
131
やってやろうという色気もあるが、まったく別のもの(こと)にトライして
みたいという気持ちもある。絵を習え、歌を習えとか家内はいうのだが。ま
あ、こちらのほうは、ものになりそうにないことは、はじめからわかってい
るが。やはり、若いころから興味のあった数学の高貴かつ香気ただよう古典
理論(代数関数論とか代数的整数論などの古典)を勉強しなおすことなどが、
いちばん現実的な道のようだ。これなら若干心得はあるし、あわよくば物理
屋向けの本も書けるかも?いずれにしても現役のときの諸事雑用から解放さ
れたことがありがたい。現役のころから、会議などサボってばかりいたが、
後ろめたさを感じる必要がまったくなくなったという気楽さがあるね。
132
盛和スカラーズ総会にて (1)
(2010/ 5/1 記)
今年度も宝ケ池グランドプリンスホテルで開催。案内が来たときに、場所
の確認をするのを忘れて、ひょっとすると変わっているかもしれないと不安
があったが、間違ってはいなかった。どうやら、何年かに一度、場所を変え
ているようだ。財団科学研究部の T 氏と挨拶をかわす。もともとは、物性理
論で学位をとって、外国で pdf の経験もある由。例によっうろつきながら、
ホステス嬢をつかまえてだべる。そのうちの一人が、わが大学の文学部の2
回生であるという。総会の顔である B 教授と若い助成金受領者が談笑してい
た。
「ポアンカレ予想。。。。」というキーワードが耳に入った。そこで、思わず
割り込みをかけたものである。
「トポロジーの問題をあんな解析的な非線形微
分方程式を使って解決するのは、いいのか。もっと本来のやり方でできない
のか。。。。」と、わかったような顔をして切り込んだ。人の会話に、まさに不
躾に割り込んだことに対して、普通なら、「それはあとにしてくれんか。。。」
といったことわりをいれるのが普通のことだが、B 教授は、いやがりもせず
に、(本当は無礼なやつだと思われれいたかもしれないが)、飛び込みの質問
であろうが、それが数学のポイントをついていると判断した場合は、その場
で即答するようであった。「。。。。ともかく、問題がむずかしいのだ。サース
トン (Thurston) がああいう形で定式化したので解けたわけでね。。。3次元は
特異なのだな。この世界が3次元でなかったらおそらく、味気ないよ。4次
元以上は、抜け道がいくらでもあるのだな。三次元だから面白いのだ。いろ
いろな制約、困難があるので面白いのだ。4次元以上であれば、犯罪をやっ
て別の次元に逃げることができる。というようなことであれば、人間世界な
んて成り立たない。。。。。」M 大学の数学教授の X 氏いわく:
「現会長の跡継
ぎを作っておかないとこの会も長くはもたないのではないか」と。
盛和スカラーズ総会にて (2)
(2009/4/30 記)
今回は宝ケ池の国際会議場のそばのグランドプリンスホテルにて開催。新
緑の季節のはじまりで, なかなかいい場所だ。信州のどこかを思わせる場所
だ。情報科学専門の電気工学科の A 教授が今回も参加していると思ってで
かけた。だれか話しあいてがいないとぽつんとして立食をするのはつまらな
いものだ。B 氏は若くして名をなした数学者である。われわれの世代のヒー
ローであった。ハンサムで颯爽としていた姿が思い出される。老境も随分進
んで、髪の毛は完全に灰色(あれが銀髪であれば素敵であるのだが)もうか
なり薄く透けている。もうだいぶ背中が丸まっちくなっているが、それでも
姿勢は崩されていない。背丈は低いが、小さくはみえないのが不思議なとこ
ろである。貫禄がなさしめているのだろう。あいかわらず早口で喋っていた。
A 教授はいまだに B 教授の崇拝者だ。
133
13年まえにこの総会が開始されてそのときの会長をつとめていたが、当
時はまだ比較的わかく、毎年かくしゃくとして挨拶をしていた。B 教授のま
わりは多いときには10人ほどの若い世代がとりまいていて話を拝聴してい
た。数年まえに若い世代に会長職を引き継いだ。そのときに特別講演をして、
「わたしが特異点解消の問題に挑戦しようと意気込んでいたとき、ある学者
が“ シュヴァレー(有名な代数学者)が特異点解消なんて重要な問題ではな
いといっていたよ ”と聞いてショックをうけて、しばらく研究が手につかな
かったが、別の機会にある学者から、
“ シュヴァレーも歳をとったので若いも
のへの妬みからそういったのだろう。いい問題だからおおいにやれ ”といわ
れて元気がでてやりとげたのだ」という内容の話をして若い世代を激励して
いた。この機会にはじめて話す機会があり、特異点にかこつけて、
「特異点と
いうのはあったほうが面白いのではないか。たとえば、物理の対象として興
味があると思うが」という問いを発した。それに答えていわく, 「たしかに
そのとおりだ。でも、特異点はとても扱いにくいので、それを解消したほう
がいいともいえる」と控えめな答えがかえってきた。それからまた「ロシア
人の数学者というのは、よくできるのが随分いると思うが」という問いに対
して、
「そうだな、でも本当によくできるのはほんのほんの一部だ。ファデー
フ? ああ名前は聞いている」。なかなか手厳しい評価だ。功なり名をとげた
学者は、昔の業績などは忘れてしまって往々にして一般的な訓話とかをたれ
るもので、よく考えもしないでお世辞で褒めたりするものだが、自分の業績
を背景にいまだに学問を考えているという印象をもった。数学をよく考えて
いる、だから「老い」を感じさせないのだろう。数学者としての本能がそう
させるのかもしれない。
今回も数学関係のだれかが、アメリカの大学の数学の状況について質問し
て: 「アメリカの大学もサブプライム問題のあおりをうけて大変みたいだ。。。
アメリカの大学は私立だから経営なのだな。ディーン (Dean?: 学部長)が実
質的権限をにぎっている。教授の給料もきめるのだ。彼らは、教授のことをよ
く調べている。どこの大学の同じレベルの教授と比べてどの程度とかね。そ
れで、わたしが主任のときにディーンによばれて、ある教授をもうすこしあげ
てやってほしいというのだが、よく知ってるんだな。もうたじたじだよ。。。。。
教授の引き抜きもあたりまえだ。たとえば、ある大学の数学科では、いっぺ
んに5人もの教授が引き抜かれてたいへんなことになった。。。。。こまるのは
院生だな。教授が引き連れて行こうとしても、行き先の大学では院生までは
いらないとね。よくできる学生はすでにいるから来てくれてもこまるのだ。
奨学金が出せないからな。。。。。」その後、ちょっと間ができたので、著書の
話になった。「ご自身の専門の代数幾何の著書は出されないのか」との問い
に: 「もう10数年まえから、書く書くといってそのままになっている。出
134
版社から死ぬまでには書いてくれよといわれているのだ」一同爆笑。。。。。ま
た、しばらく時間がたって、料理を食っている横を通りすぎたので、つかま
えて、もうひとつ: 「アメリカの大学では、ノーベル賞をもらっても、それ
以後なにもしなければ、優遇されなくなるというのはほんとうか」という馬
鹿げた質問にたいして、
「そうだな。ノーベル賞というのは興行のようなもの
ではないか。たとえば、日本にこのごろよく出されている。というのは、ど
のタイミングでどこに出せばいちばん効果的であるかということを考えてい
るのではないか。たとえば、韓国では賞をとるためのすごい運動をやってい
るようだが、でもあそこには材料がないからな。。。。」(ここのところは正確
ではない)という意味の、こちらの意図と違う答えがかえってきた。そこで、
再度: 「アメリカの学者がノーベル賞やフィールズ賞をもらって、その後な
にもしなかったときに。。。。そのときの処遇などは」と切り込んだが、「それ
は場合によるだろうな。。。。」質問がわるかったようだ。ほどなく、閉会のア
ナウンスがあって、早々に退散。。。。
135
雑感
(2009/6/3 記)
A 君へ
さわやかな時期をすぎて、はや梅雨の季節がやってくる気配だ。パリ(おっ
と、そっちはパリでなかったな)は一年中でもっともいい時節だろうな。こ
ちらは、静かに「定年という「死」? をむかえる準備」といいたいところだ
が、今年は学生にとって未曾有の就職難で、彼らのことを考えると気がかり
である。いまだに決定していない学生が大半で、みんな疲労が蓄積してきた
ようだ。緊急避難として DC に進学する連中も今年は多いだろうが、これと
ても後が難儀だな。
ふりかえるに、(いずれ、本格的になにかまとめたものを開陳したいとは
思ってもいるが)、私学である立命で好きなことをやらせてもらえたのは、ほ
んとうにラッキーであったと思っている。研究は特定の大規模大学だけでや
ればいいという考えから、日本の大学は結局脱却できなかったようである。
それも真の意味での競争がなくて旧ソビエトのように。だから私学あるいは
小規模大学にいるものでもなんとか大規模大学のマネをしようとセコい考え
をするくらいが関の山であるかに思える。しかし、個人の創意工夫がなけれ
ば学問は進歩しないし、珍しい芽などは組織的にやっているところよりも、
往々にして小さなところから出てくるものだ。組織的にやるといっても必ず
しも効率的にやっているとはいえない。袋小路にはまった分野を後生大事に
守っているところもあるかに見受ける。怪しからんことを抜かすと血相をか
えて反撃されることを覚悟でいうと, 日本では学問研究とはお上のお声がか
りでやるもので、個人の創意工夫でやるものではないということが根底にあ
るのではないかというのが長い間感じていた疑念である。なにか同じものを
歩調をあわせてやるものが学問であって、そこから逸脱したものは正当とみ
なさないというケチな考えであるから、日本では学問が重厚に発達すること
なく現在まで至っているというのがわたしの印象である。欧米のしたたな戦
略に結局かなわなかった。偶たま成功したものに巨大なカネを投じることは
あっても、それは長い歴史の必然性があるわけではなく散発的に終わるのが
オチだろう。
学問研究を茶道や華道といった道楽の類いとみなして、そんなことをやる
のに国家がカネをださない、職を与える必要もないという考えではないかと
いいたくなる。国民もそういうものにカネを出す必要はないという意見が多
数であると思う。日本の国家が文化にカネを出すというのには、なにか別の
魂胆があるからそうするのであろう。決して、道楽とみえるものにカネをだ
さない。
「道楽にみえるもの」と単なる道楽を区別をする能力がないともいえ
る。それがフランスなどとは違うところではないか。パスカルやデカルトの
136
伝統がない国の悲しさであろう。少々聞き捨てならないことを書いてしまっ
たが、現実には世の中(世界)は動いており、日本の学問事情も変化の兆し
を見せつつあるようである。今後の50年、100年先を期待しよう。
A 君 (6/10 記)
まえの続きです。教授の定年後のことだが、もちろん皆なんらかの意味で
研究はつづけるだろう。それだけでも普通の人に比べると恵まれているとは
いえる。thinking という習慣をもって過ごすことができるからだ。通俗本で
大脳の活性化といったものをゴマンと書いている御仁がいるが、忌憚のない
ところをいえば、ハゲにつける薬といっしょだな。もともと思考の訓練がさ
れていない脳を簡単につかうことができれば、世の中に不幸な人間はいなく
なるはづだ。タマネギのスライスを毎日食えといったほうがまだ許せるくら
いだ。
閑話休題: ともかく、傲慢かつ独断と偏見をいうと言い返されることを
覚悟でいえば: ほとんどの時間を思索に充てることができるというのは究極
の悦楽といえるかもしれない。正しい思索をするにはかなりの訓練がいるこ
とであるが。ホームランを年間100本打った、すばらしい音楽を絵画を創
作したと豪語したところで、それがどうしたといえるのが哲学的思索だ。(哲
学とはなにかというのはむずかしいところだであるし、哲学なんてくその役
にたたないではないかという反論はさしあたりご遠慮ながうことにして)。そ
ういう意味では理論科学の専門家は恵まれているといえる。わたしは理論物
理の探求思索できる時間を十分与えられたことに本当に感謝している。その
延長で専門の論文を書けたということは幸運であった。悪戦苦闘の連続では
あるが。学生が純粋理論をやりたがる気持ちは結局こういうところにあるの
かもしれない。具体的にいうと、学部の段階では、物としての物理学の最も
根幹的な部門, たとえば、半導体、磁性、液晶、高分子とかいった問題は一見
ごった煮のような知識としてしか教えられないし、大学院に入ってからもそ
こに基礎理論の枠組みとしての量子力学、統計力学の微妙な音色が隠されて
されていると認識できるまでにかなりの時間がかかるからだ。かたや、ニュー
トリノの問題ときたら、なにか行列を対角化するだけのバカみないな話しを
やっているだけであるのに、そこに宇宙の本質とかが隠されているとか格好
のいいキャッチフレーズに学生はつられていくというアンバランスが生じる
ことになる。
いずれにしても、こういう思索の科学をやりたいという志をもった若い人
は少なくなっていくかもしれないが、いつの世の中にも思索をやる人間はい
るものだ。自分かってな空想理論をつくるというのはいただけないが。60
歳では早々辞めたという研究者の気持ちはわからないではない。もう実験な
137
どするのは飽きたのかもしれない(実験家には失礼な言い方をして申し訳な
いが)。実験科学では器機と人間を配置するといったことに時間をとられ、気
苦労がおおく長い期間にわたってできるものではないだろうという気はする。
だから、なにかビッグタイトル(賞)でももらわないと間尺に合わないと思う
かもしれない。たしかに、いろんな研究をオーガナイズするというのは、必
要なことではあるし、そういうところで能力を発揮する人もいるだろう。そ
れでも自分のやったことを全体として体系にまとめあげたいという欲望は多
かれすくなかれあるのではないか。だから、哲学をやろうというのは極めて
自然な成り行きともいえる。これまで科学で鍛えた頭脳を哲学的(人間の営
みとしての)に自分のなかで体系づけることは意義のあることだ。死ぬまで
論文を書く必要もないだろう。思うに、自分の職業と好きなことは一応別に
考えてもいいのではとつねづねに思っている。自分はぬくぬくとした環境に
いながら、すきなことを抜かすと言われることを覚悟でいうと、たとえば、
レストランの給仕で生業をたてながら、休日は思索に励むというのは可能で
あると思う。やる気があるかどうかということがいちばん大きい要素ではな
いかと思うのだ。いまの日本では、そんなことをやらせてくれる余裕などな
いとすぐに反論されるのがオチかもしれないが、こういう風潮が日本をダメ
にしている元凶でもあるだろう。じつは、学者ですら、ほんとうに好きでな
かったけれど、自分の能力との兼合いでやむなく別の分野で成功させて生業
をたてて、時間があれば、本来の好きなものに手をだすことを考えている専
門家もいるのではないかとね。。。。。いずれにしても, 大学院重点化というの
は大失政だったな。中途半端な博士を大量に放出しただけで、なんのご利益
もなかった。不思議なことに研究者はこういう無策に声をはりあげて抵抗す
ることをしなかった。学者というのはほんとうに腰抜けで役人のやることを
ただ冷笑するだけだ。いまからでも遅くはないから、本当の意味での大改革
をこれから20年くらいかけてやることだな。
138
リーマンブラザーズのこと
2009/3/13 記
現下の経済不況を象徴する出来事として、アメリカ大手証券会社リーマン
(ブラザーズ)の破綻なるものが伝えられたとき、そこに直接関係する職にあ
る人間は格別として、ある種の人たち(欲の皮のつっぱった人など)にとっ
ても衝撃として受け止められたにちがいない。それ以外のもの、とりわけわ
れわれ基礎科学をやっているものにとっては、さしたる利害関係もないもの
として気にとめることもなかったであろうが。しかしながらある種アタマか
ら離れないという人が何人かはいたのではないかと推測するのである。左様。
リーマンといえば、ドイツの生んだかの偉大なる数学者ベルンハルトーリー
マンその人を連想せざるばなるまい。わたしは、リーマンブラザーズなる名
称を、昼飯をしながら, ぼんやりとテレビで耳にしたとき、反射的に微笑を
禁じ得なかったと告白する(告白とは大げさな)。リーマンが現在に生きて、
かのデリバティブなるもので自ら墓穴をほったとすれば気の毒の至りではな
いかと。。。
世に「ブラザーズ」と冠する名称は多い。ワーナーブラザーズ、ブラザー
ズフォー、マルクスブラザーズ。。。。そこで、リーマンブラザーズというのも
いかにも自然なネーミングではある。近代数学の基礎を築いた偉大なるリー
マンがその偉大なる兄弟をともなっていると考えるのは、なかなか乙なもの
ではないか。
リーマンをもっとも有名にしているものは、リーマン幾何学である。この
学問の源流をたずねると、父なるガウスにたどり着くが、ガウスを父とし、
リーマンを長男とすれば、その弟たちとして、さしあたり誰が該当するか。お
そらくエリーカルタンが一人としてはいるだろう。わたし個人の趣向として
は、リー群の創始者のソフスーリーとカルタン、それにリーマン幾何学を重
力の理論として実践したかの偉大なるアインシュタイン、さらに、名著「時
間、空間、物質」の著者である「聖なるヘルマン」ことヘルマンーワイルを
末尾にすえることで環は完結するというのはどうであろうか。これこそ、本
家「リーマンブラザーズ」としての面目躍如たるものがあると思えるのであ
るが。。。。。
リーマンショックなるもののあとしばらくして、またテレビの画面をぼん
やりとながめていたとき、かのウオールストリート(WS)の風景が映し出さ
れていた。FRB の議長の顔がでていた。FRB 議長といえば、グリーンス 33
パンという名前があった。引退してだいぶたったと思うが、いいときにやめ
たものだ。後から来る奴がばかをみる。この WS のスカタンな惨状をみて、
グリーンスパン氏はなんといったかしらないが、まあ、彼個人に直接の責任
139
がないだろうが。。。。テレビカメラは、ある建物を写していた。そこには、
「Lehman Brothers」なる標札がついていた。。。。。Lehman といえば、場の量
子論における LSZ 構成法というのが有名である。たしか、ドイツ式に「レー
マン」と発音していたと記憶するのであるが。。。。。。
140
玉河数の話
2008/5/8
最近印象に残ったことについて話します。
そのとおり、「たまがわすう」とよむ。Tamagawa number である。(多摩
川ナンバーの白のセダンに乗った黒ずくめの男。。。。といえば、犯罪めいて
くるが。。。)
まず名前の由来から。玉河は、数学者玉河恒夫氏のこと。玉河恒夫氏が発
見した整数論の分野であらわれる特性数である。
(数体を幾何学的対象物とし
てみたときの位相不変量とみられる)。
当然のことながら、物理的対象物ではないが、最近の理論物理でつかわれ
るトポロジー的 l 幾何学的なものと類似点をもつという意味でなんとかこれ
を理解してみたいというのがそもそもこのようなものに興味をもった理由で
ある。なにごとも、専門的分野で満ち足りた生活を送ることは基本であるが、
それだけで終わってしまえば、人生つまらないもの。なにか、そとに向かっ
てひろがっていくという試みだけでもやってみたいではないか。なぜ、この
数に興味があるかというと。ずっと昔のことであるが、はじめてこれを聞い
たとき、まずこれを玉河という人名であるとはなぜか思えなかったことがあ
げられる。玉(ぎょく)と読んで、仏教にまつわる独特の数字のことをさす
と漠然と考えていた。ギョッカすうとでも読むのかなと。数珠との連想から
かもしれない。黄泉の国の河に玉がでてくるところがあり、そこにある玉の
数かなとか??
!
!
閑話休題:整数論と言う学問は、フェルマーで代表されるように、意味は
中学生でもわかるが、その証明に現代数学の総力を結集する必要があるとい
う魔性の性格をもっている。代数は中学でならうが、中学数学のクライマッ
クスは2次方程式である。2次方程式の係数を整数に制限したときにでてく
る根が、2次の整数になる。いわゆる2次体である。これを一般化したもの
が代数的整数である。これは、体をなす。経験によると、代数体は把握する
のがきわめてやっかいなあるいは困難な対象である。
代数的整数は、普通の整数(有理整数とよばれる)の拡張である。整数を
特徴づける重大な要素は、それが因数分解される、いわゆる素数に分解する
ことである。この分解は一通りであることが重要である。一意分解の拡張す
る必要から、イデアル論が誕生した。数体を代数的対象から解析的対象に転
化する道がある。それが p ー進体の概念である。特定の素数に注目して、そ
こから局所体を構成するという道をとる。それに位相を定義できれば、それ
141
は位相体となる。各素数に、局所位相体を定義してそこで、解析つまり微積
分を展開できる。これを構成するために、付値を定義し、そこから距離が構
成できる。また、測度も定義できる。代数体を物理的な対象の類似をもとめ
るとなにかというと。そのひとつは、粒子の軌道があげられる。あるいは、
DNA が考えられる。軌道は運動方程式の解であって、代数方程式の解と対
応する。とくに閉じた軌道は興味の対象になる。いまはやりの言葉でいえば、
ストリングである。閉軌道は、それを基本になる軌道に分解できる。この分
解は、素数分解に対応する。いずれにしても、この対応関係は、たんに類似
の域をでないが、いちおう、代数体というとらえがたい対象を、視覚化する
にはやくだつかもしれない。さて、代数的数を解析的な取り扱いでとらえよ
うとすると、各素数における局所理論を全部、総合的にとらえるという観点
が要になる。これを実現するために定義されたのが、アデールの概念である。
アデールという概念は、まったくとらえにくい。数学のセンスの真価が問わ
れるところである。これを述べることは、次回にまわします。
玉河数は、日本人の名前のついた数学概念の数少ない、その意味で大変貴
重なものであるという気が門外漢でもします。数体を素数という対象で分解
したときに、それを全体として束ねる際に、各素の部分のあいだの微妙なひ
ずみを全体としてまとめたものと解釈されそうです。事実、最終的な結果を
ながめると、微分形式を積分したもので、まさに特性数の形をしているよう
です。比喩的にいえば、どこからともなく生来する、いわば、
「おしょうらい
さん」とでもいいましょうか。いかに抽象的高度な理論でも、その抽象性故
にさっぱり、対象をとらえることができないというのは、なんとなく迫力に
かけるもの。あるいは、倦怠をもようします。そういう意味でも、この最終
的に単純な概念は、まったくうまく理論の本質をとらえたものですばらしい
ものです。(久賀道雄氏が賞賛しています)。ワイルの次元公式などとならぶ
ものでしょう。
注:
「玉河数」という呼称は、Andre Weil によるそうである。Weil の回想
録によると、玉河氏の未発表のノートのなかで定義されているのをみてその
重要性にいちはやく気づき、玉河氏に敬意を表してつけたのであろう。目利
きがしっかりと学問を監視するというような状況であってはじめて可能にな
ることであろう。しかし、振り返ってみると、わたしなどは、ただひたすら、
偉大な先人のたどった道をまねするのが精一杯だった。難問を解いたという
ことは、すばらしいことかもしれないが、それは程度の差であるともいえる。
数学者でいえば、ポアンカレやワイルといった数学以外に物理科学全般にわ
たる思想を開陳した学者が尊敬に値するのであって、難問に生涯かけてかじ
りついた学者というのはただの職人ではないかとね。職人を軽くみるわけで
はないけれど。
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物理論文の引用と価値について
(2008/6/4 記)
物理研究の営みにおいて、その結果を発表することがその実体を形成して
いる。自分の得た新しい知見を公表しそれが世間の目にさらされることでそ
の評価が定まる。現実問題として、物理の場合には研究者の注目を浴びる成
果などは滅多にないのであるが。
研究論文の評価のひとつの目安に引用件数の多寡がある。ウェブ情報があ
ふれかえった今日、自分の論文が引用される情報がすぐに手にはいるという
のは、考えてみれば恐ろしいことではある。クワバラ。。。。引用される回数が
多ければ、その論文の価値は高い、すくなければその逆であるというのが素
朴な見方であろう。それは統計的な見方である。
個々の研究者の引用する行為を考えると、引用する論文をまともにみない
で、みんなが引用するので、人の引用リストを自分もそのまま借用するとい
うのがかなりの程度であろうと推測する。とくにトピックスを扱った論文で
は、たいていそうなっていると思う。さらに、格別にヒットした仕事の場合
には引用が引用をよび膨大なものにふくれあがるということもありうる。た
だし、これはあくまでも推測的印象を述べているにすぎない。引用の行為と
いうのは個人のものに帰着するので主観的なものであって客観的評価という
観点からは決して完全なものではない。ここで、問題になるのは、引用すべ
きところでまったくふれられていない場合である。統計からするとこれは無
視されることになる。しかし釈然としない。たとえば、重要な結果ではある
が難解であるために読まれない、かつ読んで理解できないものは引用しない
のが自然であるとするならば、そういう難解な論文は引用が少ないというこ
とになる。こういう場合は別格として、自分の論文は引用されてしかるでき
ではないかというのが、結構経験することであると思う。そう感じた場合に
は、著者に手紙を書いて注意を喚起することがもっとも直接的な手段である
が、これとても、研究者のモラルに関することがからんでくるからことは簡
単ではない。また、たまたまレフェリーにまわってきた場合には直接に注意
をするということも可能である。フェアーな著者は、知らなかった謝るといっ
て次回からはかならず引用すると対応するものもいれば、なんやかやと理屈
を言って無視続ける場合もある。個人的な嗜好(怨恨?)で、無視すること
もおおいにあるのでなおやっかいである。おまけに元来が、日本人の論文は
いまだに無視される傾向にあることもある。統計的なそれゆえ客観的な観点
からすれば、引用がないものは当然カウントされないのであるが、潜在的に
は、後発の論文が先行する仕事と明らかに同じ定式化あるいは、同じ思想の
路線をたどっていながら先行する論文を引用されていない場合には、そうい
う論文は先行論文の被引用数にカウントしてもしかるべきではなかろうか。
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いずれにしても、このような気持ちをいだくのは自分がそういう経験をし
ているということが前提になるので、自分が論文を書くときには先行する著
者をできるだけ尊重するという姿勢を、自戒の意味をもって持つべしという
態度でのぞみたいものである。しかし、これもなかなか難しいところがある。
せっかく、うまい公式を見つけたのに先行する仕事がある場合にはどうして
も先行する仕事を認めたくないという心理はきわめてよく理解できる。引用
ということが、ほんとうにやかましくなったのは、ここ30年くらい前から
である。サイテイションインデックスなるものが出始めてからであると思う。
それがひとり歩きしだしたと思われる。おもえば、量子力学ができたころは、
それ自体で価値があった。どこそこの雑誌に載せたとかそんなケチな考えは
なかった。ディラックの量子力学の第一論文は、指導教授のファウラーの計
らいで、レフェリーなどなしで、直接原稿を印刷所に送ったという。そして、
その論文はだれも引用するものなどいない。彼の業績はすべて「量子力学」
のなかにおさまっている。
結局、論文引用数というのはじつはどうでもいいかもしれないのである。
一時的に引用度がきわめて高いものでも、価値がなければ遠からず忘れ去ら
れる運命にある。素粒子分野の論文ではとくにそういう傾向にある。これは
学問のはやり廃りがとくに激しい分野ではそういう傾向は仕方がない。逆の
場合、真に価値のある論文は時間がたてば評価されていく。文化一般の傾向
と軌を一にしている。引用されるかどうかとうこともあるが、最終的になん
らかの形で研究者の記憶に残ればよいのである。それには、標準的なテキス
トのなかに記録されるというのがひとつ。真に価値のある論文はなんらかの
形で再生されて保存されて残されていくものである。ある研究者の論文への
記載からもれたとしても、いずれ他の研究者がそれを訂正することもあるだ
ろう。
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マンフォードの言葉
(2008/6/6 記)
マンフォードは数学が、過度の抽象化に陥ることの危険性を警告している。
以下、それを敷衍してみる。数学(および理論、数理物理においても)にお
いて、ある概念が発見されると、研究者はなかば本能的にその概念をできる
だけ一般化しようと試みるものだ。グロタンディークの数学というのはまさ
にそれを絵に描いたようなものである。それは極端な抽象化といっていいだ
ろう。こういう抽象的なものは、とくに若い世代をひきつける。それゆえグ
ロタンは、一定の期間若い数学者の英雄(または教祖)でありえた。しかし、
祭りが去ったようである。まさに、この過度な抽象化が、災いしたといえる
かもしれない。
(このことが、グロタンをして失望せしめ、スペインの山奥に
隠遁してしまった遠因となったかどうかはわからないが)。数学といえども具
体的対象がある。関数であるか、特定の幾何学的対象、代数的関係など。こ
のしっかりと具体現象がとなりにいることで、理論が生命を得る。理論を拡
大していくうちに、次第に現象から遊離したところにむかってしまうという
のは、仕方がないことかもしれないが、そこが問題である。ガウスからポア
ンカレの数学の道をながめてみると、理論は数学的な具体現象を的確に予測
してそれを解決するというきわめて健全な営みのうえに築かれてきたのであ
る。現実の自然現象である物理との健全な関係もつねに保持されてきた。数
学には、歴史上、とってつけたような難問というものがいくつもある。この
難問を解決するために、気の遠くなるような抽象理論を構成していったとい
えるのであるが。。。。。そして、そしてそのあげく難問が証明されたのは結構
であるが、一般人はおろか数学者のなかでもごく小数の専門家にしか理解で
きないといういわば亀裂が生じてしまった。数学は難解な論理をあやつるこ
とが知的な優越をもたらすものであるから、こういう状況は当然なのだと開
きなおってしまえばそれまでだろうが。この抽象化という行為は、物理の理
論とくに統一理論を標榜する一連の試みにおいてみられる。これは一種の宗
教のようである。特別の教義のもとに司祭の指導のもとに、信徒が集合して
宗門会議が行われたというのが昔の宗教会議であるとするならば、現在の理
論物理や数学の会議というのは、現在の宗教会議に相当するとみられる。い
くつかの宗派が林立してその間で互いに敵対しあうというのもまさに同じ構
図である。
最近の言葉
(2008/6/20)
たしかに、後の世代が前の世代のことを全部学習するとなると、呆然とし
てしまう。とくに、若い人にとって現在の最前線に追いつくだけで精一杯と
いうことでまったく大変だ。でも、しばらく様子をみていると、最前線とい
うのは、じつは「細前線」であるということがわかる。つまり大部分が枝葉
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末節をやっているのだ。勉強ではなくて自分独自のものをやるのが研究だと
いうわけで、だれかがでっちあげた怪しげな理論をもとにして論文なるもの
を書きまくる。そんなもの全部読まされるとたまったものでない。まあ、な
かには重要なものも含まれているので、どれを捨てて、どれを残すかという
判断基準を定めることは若い世代にはむずかしいところはあるかもしれない。
でも、しっかりと基礎的な勉強をしておけば、ある程度は判断ができるもの
だ。発育ざかりでいいものをしっかり食っておく必要があるのと同じである。
(2008/7/30 記)
以下は口の悪い学者として勇名をはせる R.Laughlin のエッセーから適当
に改ざんしたもの。物理の学生たちは、かれらの科目を数理的演繹によって
物理法則のすべてがでてくるかのごとき幻想をもたされて学習する。しかし、
このような演繹を延々とやらされたあげく、結晶がなぜあのような構造をもっ
ているのか、陽子と電子の質量の比は、おおよそ1800なのかといったき
わめて素朴な問いにまったく答えてくれないということを知ってすっかり幻
滅してしまうのである。(1800 という数字が簡単に説明できれば素粒子学者
は苦労しない。たとえの話である)。そして、真になにかをなしとげるには、
皮肉にも、きわめて個人的あるいは、自学的な「洞察」あるいは、
「推測」と
いう古来からの人類が用いてきた手法が有効であることを悟らせられるので
ある。たしかに、そのような教育的仕組みを制度として形づくっているのが
大学の物理学科であり、そして、あえていえば、学生たちに正しい推測をす
るための筋道を教えるためには、どうしても必要であるということも事実な
のである。よほどの才能がないかぎり、量子力学をまったく独力で使えるよ
うになるまでに習得することはきわめて困難であろう。さらに敷衍する:物
理の研究をやりはじめると、とたんに教科書に書いてないことがらに山ほど
出くわすのである。そして、それが実にくだらなくみえるものだ。研究をす
るとは馬鹿げたものだと思わないのが不思議くらいだ。皮肉なことに、その
洗礼を受けない限り研究者にはなれないのである。そのあげくいつしかそれ
に馴らされてしまう。
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