「山城国踊歌九番」について - 中世末期歌謡の一考察 -

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Title
「山城国踊歌九番」について - 中世末期歌謡の一考察 -
Author(s)
橘, 健二
Citation
橘健二: 研究紀要(奈良女子大学文学部附属中・高等学校), 1959, Vol.
2, pp. 1-26(後ろから)
Issue Date
1959-06-01
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/2400
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「山城国踊歌九番」にっ
いて
l中世末期歌謡の一考察I
橘健二
中州末川から近枇初頭にかけて畿内を中心として樅んな踊欧時代
を現川したのであるが、京都近郊における農村民衆の力強い歌声と
しての踊歌は、周知のごとく東北大学蔵本「踊鴫歌」{鋤蛎麺唾釧)
(柱I)や「型鍍踊歌」{““綱“》岬)(:》にその古調を過存している・
本柵においてはそれらとほぼ時と処を同じくするもののごとく思わ
れる「山城国踊歌九番」《注3》について、その樹成・内容の特質及び
その歌謡史的怠義について考察してみようと思う。
浅野廸二氏も岐近、兵庫県の山間部に過存する由来の極めて古い
風流踊歌「ザンザヵ踊」の歌詞の内容・榔成等の特色から見て本番
の踊敬また「ザンザヵ跡」・「踊岨歌」・「型醗踊欧」と側系の風流
踊歌にして共通の発生地瀝を有するものど推定しておられる(注4)が、
竃町末期において山城国に咲き且つ散っていったこの民衆の歌謡こ
そ我々の胸に今なお強くよみがえってくるなつかしい風物時である。
一一
「踊昭歌」については高野博士が日本歌謡染成巻六における同書
解鋭において「鯏山に時・人・処ともにわかっていないが、歌によっ
て判ずれば、京都近くの地に行われた廟の歌で、時代は前掲の聖迩
踊叩歌の類と川じく、江戸の初世というよりは巾価に近づいた頃の
ものかと思われる。」とし、供養蹄・雨乞踊・餌ざし鰯の歌詞から
此の踊の菰ぜられ北地を推定し、さらに播廟師の歌に耐十郎の名の
川ていることによって、いかにしても彼とお哩との川に浮名の立っ
た寛文二年以前に輯聚せられたものとはなしがたいとしておられる。
近頃浅野翅一一氏は原本についてその表紙料文轡の評入れを考察され
たが、山城掴久我肥を中心として行われた踊欧の染録であることが
明らかとなり、「所収の大部分の踊歌(御伊勢鋪・しうとめ踊・餌さ
し鮒・既後醐・朝日艮者・鍬介踊・忍びをどり)は柵成・内容の特
質及び律調等からみて明らかに中世末期の小歌の系統を引く、いわ
おられる。
ゆる組歌形式Aである点に於て、たとえ本書の筆写は蝿文二年前
後とするも、その大多数の歌謡の猟突上の成施は遥かにこれを棚b、
少とも「聖霊臆」よりも完全な彩艫において近世初期(慶艮l寛
永)の風流踊歌の概式を低えるものと断ぜざるを得ない」と税いて
「聖霊踊歌」は、日本歌謡染成巻六の高野仰士の解説によれば、
石田元季氏が踊歌一一十七瀞と題して歌舞伎研究の上に寄せたものを
収めたものであり、前半十番は山城国相楽那上狛村において、後半
の十審は同郡鹿背山において、孟蘭盆の聖塾踊に用いたものであり
は作況や雨乞などにも他したものだという。いまこの聖霊踊は行わ
、新しい粉壁のある家へ行って踊るのがならわしであったが、もと
れず、わずかに古老においてその節を知るのみという現況である。
「山城閃踊軟九稀」の名称については、もと無題の族写本を鉦者
が京都府相楽部和束町稲垣式次郎氏宅において寓目した際に、仮り
-1-
夢
城川杣楽川和収
欄
|#
|近
侭§!
羅
建.
茶避梁とし、古くより木池川・淀川によって大阪・京都にも交逝の便あ
り、木抑・加茂・奈良は至近の地股である〕
に称したものである。木井は写本一冊。半紙判袋縄冊子本。縦一一十
この鋪も現在すでに和束地力においては行われず、古老に尋ねて
五棚。横十七脚。渋紙災紙。堅付十五丁。
6その蹴欧の存在をすら知る背は吐く、早くより耐擁したものと魁
われる。従ってその踊敬がいかなる曲節・扮装によったかは全く知
る山もなく、今は川本歌謡典成巻大所収の「型鐡蹴歌」につての石
川沁季氏の解脱によって間接的に偲ぶのほかはない。
これら「踊川歌」・「型翻踊歌」・「山城国劇歌九番」の、首て
しており、それらの歌謡は杣埖間に連関があり、共通の発生地盤を
允峨した地域は、止例によってもわかるように、杣兀に極めて近接
の挽かれるごとく容翰に決し難いと.一’回わればならないが、これら三
汀するものと思われるが、それらの前後関係については浅野皿二氏
らかでも解明するに功にその検付遊巡めねば拡らない。
背の内容を吟味することによって、その飲鍋史上占める位魁をいく
水井は山城旧机楽郡和束の地に曾て行われたと思われる踊歌の轡
る(川瀬一蝿博上ご示教)が、その期の歌謡よりもその内容律鯛と
制であり、その沖が作時は明らかでないが、享保馴かと推進せられ
もに過かに古捌であり、欣捌には多く批前・刀汀・古諦を含み、音
が栂められる・所収歌謡において歌われている地域は、山城風を中
便形・敬砺法・助釛洞・助洞などにおいて川らかに中仙語法の痕跡
て迎く戯聡にまで及んでおり、「大腕踊」は幸務舞仙「百合若人臣」
心としてk和・摂沐・和泉・河内・伊勢よりさらに淡路・四脚を椎
に拠ったものであり、「躯肋」は寵町時代の柳の城商勘川氏との凹
巡極めて密接にして、湯川氏は安土桃山時代にはあまり現われなく
なる点より処てそれ以前のものと考えられる(咄川武仰上ご示教)
など麺その所収飲鍋の州火上の庇立はふるく卜圧阯紀末にまで6棚
-`-.-2--
S■●。
鶚
肛都府杣楽邪和奴町は、Ⅸ部より川吸にあり、和米川に沿い、付近は製
、
ろう6ののごとくである。
九句形式・十句形式・十四句形式がそれぞれ一京ずつとなっている。
七五七江の今搬半形式が優勢で、古川をぷすものということができ
総じて、本件においては未だ近仙紺は酬芽を示しているにすぎず、
るであろう。
九稀六十値なの所収歌柵は
Hかぐらおどり(神楽剛)五章①I⑤
かぐ巳お守り
(世並)
面について叩兄をのぺて行くことにしよう。
H神楽廟
(今年)
(寓川)
(神楽剛)
(鮪魅×収)(散珠)
(即)
(抑腿)
のことしのとしハ、よな『くがよて、いざさらさらと、おいせまいろ
(伊勢参)
次に本件所収軟鋼につい関係歌綱を例求しつつ、内容・柵成の特
’一一
口砂んしよれど0(名所跡)五章⑥-⑪
国しまのおどり(島の蹄)八章⑫I⑲
大軍⑳l⑪
画しのぶおどり(忍ぶ蹄)六章⑳-⑮
因にからおどり(醗剛)
内にわのおどり(座の剛)五章⑫l⑳
㈲だいじんおどり(大原剛)六章⑰’@
十九章⑳’@
wじんたちおどり(帥立踊)六章⑬I⑲
伽こじんやく
上り成しⅥっている。
(郷)
げくやないくを、おかむやら、かぐらおどりハ、おどるよノー
(外宮)(内廊)
を、ミャがわで、こりとりて、ゆずさらさらと、おしもんで、
に始まる五章の「神楽踊」は、和歌山県有田郡の耐乞踊歌として
㈹の「ごしんやく」は祁鯛もさまざまであり、ほぼ述綱体である
がその巾には及短詩形の断続があり、いの「神楽踊」よりいの「陣
△先づ一棟に御雌よ、神楽の耐壱一剛0、宵にⅢえし詫川に聞えし
の神楽踊一魏惟鐵癩呼成)
立踊までの八番は、それぞれ連謡体の長詩形であって叙事的な色彩
が強く、几瀞全般を通じて組歌形式をとっている。
全体をⅢじての祁綱は未だ3.4’4.3’3.4-5の、完全
な近枇小唄調は現われておらず、五七調・七五調・七七棚が混在し
ようひlうろやひやうろ、ひやうろ、音に聞えし音に聞えし、
松坂門所で宿取っていざや此処らで神楽参らしよ(下酪、音に
鏑潴の名所で描取つていざや弦らで神楽参らしよ、神楽参らし
Ⅲえし宮川名所山田の名所を像返す)
ており、形態上においては一貫した統一性は見られない。全六十七
十孤噸で爪倒的に多く、七七七五形式の.もの八章、短歌形式(五七
△イヤこ、はおい衿の打川よ・いざよ人々、こりをとる。お伊勢
蹴りは一蹴り。
△イヤあすは古川、伊勢参り。蝋しやおい籍へ参るぞよ・お伊縛
に見られる、
よりも、Ⅸ部府加佐川の爾乞踊歌つ潴佗踊欣)「伊勢鮒」(”魍鯉)
厳のうち、七五七五の今様半形式ないしはその破格形式のものが三
五七七)のものが七竃、七七形式の反覆が五京、五七五七形式の・も
のⅧ章、七五七七形式・七五二句形式七五七七形式が二軍ずつ、五
五七七形式。七七七七形式のもが一章ずつであり、句数現形態は四
句形式のものが二十四章、六句形式の06のが十八章で圧倒的に多く、
五句形式は九章、七句形式・八句形式は四束ずつ、十一句形式が二軍、
--3---
踊りは一蹴り。
や、中仙末期から近壯初期へかけて磯行した風流踊歌の洞型を忠
実に仏える求郁近郊の農村欣鋼たる「M川欣」愈桃大学)の「御伊
△きやうハ御伊勢のミやめぐり、いきや人々。こりを収ノー
舞踊」に見える、
△しやうUわるくハ河川て。水かき上功の。こりをとるノー
△あまのいわとの油火ハ。神の御りしよて。きゑもせぬノー
△いせ蕊参りてげく内宮。とれヲばんしやと。おが6やらノー
に、より関係ぷかいことをボしているといえようし
中仙民衆の伊勢価仰あるいは参浦懲識については、永胤編太郎氏
は(髄偏)「現肚利益のそれであり、市場祭文に見えるように伊勢大神
が商猶神とも雄っているが、現》火的な農業仲としての娯敬が主であ
った」と挽いておられるが、「蹄川敬」の「御伊勢助」との比較に
おいては、「蹄唱歌」にはその末尾六・七章に
△⑪う,へゆめ…たよういゆ山を・しらげにわらをcつむと…に
△ことしャ世の中いねのますづきしして、§たら。いれハ三そく。
米ハ五斗丘升五合つく。ますととかげとミとよせて。ことしや
伽の中。ゆり虻おすノー
とあって、本評の「神楽踊」よりも現実的な農業抑崇敬の傾向が
つよく、「神楽蹄」の万がより純粋に仰猟蹴的袈衆が強い凋章を伝
えているように思う。
伊勢蹄の踊り子にまぎれて城内に入ったことがあり(コーー河妃」)
今川氏兵も伊勢鋪、兵駆踊を好んだといわれる弓総見妃」)。さら
に「満狐准后Ⅱ肥」などの組録によれば、伊勢鮒は幽及十九年九月
より十月にかけて畿内はもちろん関東の諸国まで殆ど全国的に大流
行し、神事鋪ないしは仏寺的色彩が渡いものであったことも認めら
通水十二年七月尼州家より将抓家光に献じに上艶蹴の中に見られ
れる。(症7》
る伊勢蹄lこれは上覧廟の中でもその他の踊歌が堀杏庵の作になる
ものに比して、その狩形、琉球欧鍋に近くただ一つ古風のものとさ
れているlは、
これはどこ蹄、松坂越えて、伊勢踊。
あの菰様は、伊勢の浜育ち、Hもとに、しばが、こぼれかかる。
火に照る月は、十五夜が服b、あの対槻は、川時もざかり。
に見られるように、古風な感じは道しつつも、神事踊的色彩はう
さすやようでざ、山は、人待つ宵の斑木戸。又もさすものは、
すれてゆき、さらに「柴の一本」に紐するところの
追手の風に、水馴悼。
!←・も‐
松坂越えて、やっこのノー、はつめよいやざ、愛に一つの、く
どさがござる。
のごとく延宝瓜の伊将鮒には全く本来の形態は存せず、踊口説さ
え加えられていく。木井の「神楽踊」は「松坂越えて」を代表的な
唯一の川疋句と敵っている伊勢剛と令く麺を兇にし、古風を保つⅢ
勢踊の一と魁ぬられる。「踊昭歌」の「御伊舞踊」と共に、古維に
して典に神輔踊歌としての風格を其えている農村民衆の伊勢踊とい
伊勢神踊りについては、評山側録に起すところの、応化二年東軍
に燗する疾足三百人が、帆衣細菌の半裸形で頭上に金円、獅笠、赤
うぺさであるが、「踊川歌」に比,〕て、「ゆずさらさらとおしもんで
げくやないくをおがむやら」の歌詞に兄られるごとく、神仏習合時
●■’●■●●●●●●●●
毛などをつけて蹄欣作剛して半流人刺に胴でたことを、その源流か
ともし、又文明十一作七川十五Ⅲ、服収挺伯光の宏祥城攻めの際、
4-
代の踊歌の様相をより如実に見せていろといえよう乖認劉騨剛郵岬
蝉癩砺卵←辨輌繩蛎孵錫繩埣劫咄秒誰}・
伊勢踊については既に井川芳価氏庁鳳》を飴め附家の桁摘されたよう
に、同じ伊勢踊と称するものでも、風流賊としての場合、一般の珊
いせおとり低しまり
合、また盆踊としての場合、座敷蹄の場合等もあったが、「村繊醐
確りあげていったかは想像に余るものがあろう。
なめⅢ峨個杣楽Ⅲ和束は吸郁府の耐肌に位般し、求部と比に水小
・奈良に近擁し、巾肚における伊勢参りはい斑越えより6人川脇粍
めんしトヘ抄さり
由で災谷寺。萩原山を経て伊勢街道によったものと思われる
ロ名所鋪
満所
(江川)
名所を「めんしよ」というのは「まずもと川がつきやするまいが、
エヤざか
(見)(参)
大阪・播際・丹波淳の地潴を列鑑している。
圭司か
に始まって、類型的な発想のうちに求郁・尾張・江.卿・沌略・
よや、さんどこるノー
歌」所収の「さんおきおとり」は
△いさやさんおき、みやこへまいりてきんなら巻、みやこめいし
の富士川・伊.兇の節桜川・杣椣の小川原外郎をあげており、「師川
うゐらう
に始まって、尾張の熱田の宮・三河の八橋・遠州浜松の茶・駿河
れて亀山越えて、桑名の渡しが名所かな。
△花の都を立川でて爾大派の加わのこらず見える、伊勢路にわか
いっても「型迩踊歌」所収の「止狛助欲」の「名所蹄」は
の川はい川の森、孤搬の河内の川は生駒川に及ぶ。おなじ名所Mと
和の国は奈良の七峨伽膿、三稀の授沖の凶は難波の浦、川稀の和泉
いのは、川城阿については自刎のこととしたのであろう。一一審の大
のめんし上をみてよかろ」とあるのみで瓜体的に特所をあげていな
まり、山城。大和・摂沐。和泉・河内の五幾円の個々の名所を歌っ
ていろ。しかし山城の川については①「まつ一ばんにⅢしろのくに
どりてみせまいらしやう、めんしよおどりわびとおどり」の敬に始
(名所鮪)
られるが、これは⑥「くには六十むくにのくになれど、いつくにお
(恥◇(川)(川)
舜仙林」一湘鐸曄岼)の末尾「伊勢踊飴」には腿災凶、美男枕麟内と
牙のかみ
あの淌川はめんしよかや」(広川雌安佐川飯宗材きりこ剛)にも兄
かひら
めzこい
山吹という小歌の名手との間の恋畷をそねんだ敬「松坂こ動へてゑい
かみちた
このさいた桂おとこのながかたなふやはいつかいな」が起源で、「征背
は神野をう仁ふておどりしが、後に雨乞などの祭に専ら〈「の伊勢上や
どりの拍子にてありしと也・」と税いているCこの脱について井洲
労、氏は「以上の税はいじがたい点も多いが、しかし慶艮と地永と
延宝の三例を雁史的展棚のうちに几ようとする時、本件の脱はな外
に実を念むものではないかと思われる。」と賛怠を表しておられ、
來者また「山城岡踊歌九番」に見られる「神楽踊」こそはいまだ近
仙調に変じきらない伊勢蹄本来の神醐踊としての古雅な歌川をぶす
ものでは厳いかと推定するものである。
巾枇末期より近枇初期にかけて流行した伊勢蹄は、かくのごとき
神事歌謡であり、農村の民衆の素朴真撃な歌声であった。
伊勢参宮こそは永島福太郎氏の説かれるごとく、都市以上に対処
灼来細の強く娯楽も少なく、しかもその制限もきびしかった農村の
民衆が、そのときだけではあるが伽仰行耶にかりて内川を鞭押しえ
たものであり、民衆にとって旅行の快楽もそこで初めて得られ、民
衆の見聞もその道中で一層ひろめられたことであろう。
かかる参宮は、木悪所収の「神楽蹄」をはじめとする各地の「御
脈勢踊」の踊歌によっていかに農村民衆がその参狗怠識を向ら強く
5
”本譜の「名所剛」は、加担二者が取都から凶く離れて尼眼地力な
いしはそれ以辿の地を敬っていることの多いのに比して、山城を中
,心とした近隣の満所をよみ、その鋼い手と聴衆と側には杣互になじ
みのある地名を通して一川親しみのふかいものを感じ取ったことと
思われる。
し江おとり
国島の蹄
⑫蕊は誇護の鰻座夢、詫蕊の鑪型健胤鯨纒て、い
(今)(菌摩)(余所)(兇)(駒)(則)(師)
まはざつまの、よそにみる、しまのおとりは一おとりDII
とあり「われは薩摩の為の者」とあるのは、「聖迩踊‐|中の「藤
△おれが殿御は今年始砂て薩摩下りのあき人よ、薩麟下りのなっ
曝踊」の
かしやノー、(下略)
和敵山雌有田耶捕本地方の「趣川蹴」の
△己れが殿御の腿を見れば良い刀に小尺八、己れが殿御の腰を兄
れぱ越前小琵琶に琴の糸、襲飛の白鷺どこへ行く、藤醗下りか懐
かしや薩廉上りで腰御簾るなら文をも過りたい薩摩まで、(下
略)
.(沖)
と考えられよう。
都と鹸摩との交渉の深さが、かかる船欧的な6の巷生み川したもの
●◆B●●
「職雌の殿御に目がくれて」の表現は、端王県秩父郡の「さ■ら
歌」(獅子舞)に見られる、
に。
△十七の立つたすがたに目がくれて適い圭李のささらの気色わすれ
にその類を求めうるが、股も類似するものとして、「閑吟染」の
△我は舷雌の餌羽の者、阿波の群衆に脚触れて、尼よや皿よ増
餌羽の酬も忠はい。阿吟架二九○)
の系統を引くものと挑定され、その低承系舗は古いものと言わねば
ならない。
(薩摩)(凡)(今朝)(早)(糠)(四国)(迄)(島)
(則)(剛)
⑬さつまのしまをもけさ立てはやとついだよしごくまて、しまの
おとりは一おとり11
から引統き、醐隙を生Ⅲとして、四阿・淡跣・堺・大坂・八輪を
総て戒都に至り、祇剛淌水の見物を歌いあげているのはやはり当時
●●■●●●●①●●●
の舟皿に関係を持つものと思われる。各章に見える
「……のしまをもけさ立て、はやとついだよ.…・・まで」の共通発
けぴ
想は、愛宕の山伏が吉野の拳入りする「三爪県山伏踊歌」(「佃綱
兆拾過」所収)の
をお渡りやりて、急げば鼎よ流く吉野までノー、
△大和の潴所を〈可刺立おて、梨原峠を鼎や打ち過ぎて、六川の渡
などと同調のものであり、さらには「踊川歌」の十瀞「班後師」に
見える、
△ふんどの剛をけさたちて、いまはめかしのうらゑつくi、
「巷謡簡」巻下土佐川神川小肋歌「ぷんご」に兄えろ、
●
及び広脳県安佐郡の「大師縦」の中に見える
△柵水寺でおきうながかれば、ほかけた船や兄えて縦、ほかけた
・船が見えては険が、/にしきのやほで風をまつ。風まつ船はどな
たへ参る。きづき参るさつま殿。さつまをおりて上人なりて、
いのや加賀しらいとへ。ざつまの国にさいづる鳥は、ざつまの
国へ綴らいで。
のごとく、薩鱗の川よりの仙魁による海上交汕をうたっており、京
-6.-
△鰹後の港をけさだして11、ヤヱいまは附後の鞆へつくノー
(下略)
(忍)
杜どとともに近枇洲に迎い古調を過存している舶欲的癒ものとみ
ることができよう。
しのお寺り
口悪歩踊
(夜)
⑳裾ぷく鱈は鞄ど、ま癖醇さだめたよさも雄や、しのぶ
おどりは{おどり11・
の圖頭の一蹴は、「睦達小歌染」の
△其方忍ぶと名は立ちて、枕並ぶろ側もなやの。
と内容同じく、七五七五形式(今嫌半形式)の祁捌また川越のも
のと見ることができ、さらに陸達小歌に比して素朴な古鯛を示すも
のというべきであろう。
「こまい」は「来るまい」の意であろう。近仙調のものには、楴
(畷)
⑳七里山道五里なハて、あと鑓一雄ら、舞いもの.
岡県雑鰯癖金地万民鋼製所gに
△三里柴山、一一里の河越えて、米ろは維故、お前ゆゑ。
があり、「:里山遁、…里畷」の表現は、
△お伊勢樺へ健これから何里、三里山道、五里畷。三五県一志郡亜謡
があるが、本瞥の忍ぶ蹄の歌詞はそれらに比してはるかに古絡で
ある。以下、.「しのぶこくや」の迎綱体四軍が紬くが、
(ハ)
愈鑓鍼簸麓、鍍騨は、かつらい遮らす、…すもの、
糎鑑懲騨一おどりく
(亜)
臼鑓鰯翰溌、にかつのこ、なァもういとよ、ぎしやくき
と、疑癬誌宛ば一おどりく
は他に緬欧を処川しがたいものであり、「くる鱈と(柧木)」は汀
ぽそに戸まらをさし込んで戸をⅢ川させる装腿で、桂の椛木であれ
ばぎいぎいと音がするから忍ぶ小部殿には都合がわるいとするのか、
或いは「かつらはならず、きかずもの」として桂の枢木は音がしな
hか守浄
いからよいとするのか、杵写の不分明なるままにその趣は判然とし
仁かつの。』
ない。「にかつのこ、敵了も」も沸写不分明で今のり「糊泌戸」か
「闘角子」か、「なアも」は「名も」か今のきらかでないが、「ざし
やノー1きと」に忍蕊小部膿へはいる時のけはいをあらわしたものと
(汕火)
(湖)
「けそするもの」は「消させるもの」の意か。その成立は古く中
のびおどりは一おどりノーl
⑳しのぷこへやの、まとの月、あふらひ虻らぱ、けそすもの、し
(窓)
と鳴りそる、背戸のくるま戸が(三河間花祭)
△求人がはせるげて求人がはせるげて、背戸のくるま戸がぎりし
棚噸紙」晩欧)
がな・忍ぶ御殿は狗犬やら戸をⅡけかねて・ソめいだ。(「広馳処川
火⑭こいい
△忍ぶ殿のおりやるやら褒の水戸が、きりきりつとなる喪の水戸
しておもしろい。
こ
世にさかのぼる大和国吉野邪大塔村の「篠原師」2.)の「宝踊」
△おらが厨にや、【川がさす、汕引きずば消さすもの
とあり、山城同相楽郡の「聖霊繭」の「皿背山師」のうちの「小
しのび蹄」に
かきかけてン笠と判ればよびどこ(木ノマ、)ノー忍ぶ周に月が
△忍び細道絲はへてンふシときりだや此道をノー、忍ぶつほれに
7-
さすン汕火ならばし必さんせり11(下略)
とあり、同じく「小しのび跡」にも
△(上略)忍ぶ川に川がさすノー、汕火ならば油さうもの11、
しンのぷ秘こそ耐臼や,11、いよ、今宵はこ詮にあらはれに
11.
と側じく、木沖の「忍ぶ肋」は、「蝿砿蹴」の「しのび蹄」と柵
組を同じくしており、しかも「し功さんせ」ないしは「洲きうもの」
とあるよりは「けそすもの」とあるのが古型であり、忍ぶ小部展に
おる女をして「けそすもの」とするのが梢緒遊ただよわす帷灘とい
いうるであろう。
「かさとたすに、よはでよひめに」は趣味不分明な評写簡所であ
ひめに、しのぷおどりは処迄よノー
(忍)(則)
⑮鑓蕊蕊噸{に鴎か)、淫護箏かさとたすに、よ緯でよ
る。
閖吟典歌謡以来、娘も時人の好尚に適した歌詞として、各加踊歌に
低承されている佳吟であり、低播率も高く類歌はおびただしいが、
水神と時代と所を腿僻Ⅲじくする「荊咄歌」と「収砿蹴歌」との三
杵に見られる「忍び鮒」歌詞の関辿を考察するに、「型銀跡歌」に
は「大しのび鰯」・「中しのび蹄」・「小しのび跡,|と忍び蹄が大
叩】もん}ご
中小三柵あり、その巾の「大しのび蹄」、
やれ、もしかも人がいざ川はぱ、門松はやすと艀へさんノー、
おれを忠ばば御門戸わきでお待一□やれ、もしかも人がいざ問は
ぱ御川の審衆と答へさんノー、おれを忠ぱぱ小松の下でお待坊
おれを超ぱぱ柳の下で御待ちやれ、もしか6人がいざ問はぱ、
楊枝木はやすと符へさん11、おれを忠ばぱ店竹戯で御待ちや
れ、もしかも人がいざ問はぱ、こきりこはやすと将へさんノー、
おれを忠ぱぱ細谷川で御待ちやれ、もしか6人がいざ川はぱ、
手水を便ふと答へさんilo
おれれをしのぱ、、御門の脇にお侍坊あれ人がとがぬうば、
は、「賊川歌」の「忍び剛」、
Ⅲの稀と符へあれ,おれをしのぱ猫、腫側の脇にお待ちあれ。
「かきかけて」の「かさ(笠)」は、
△笠を召せ、笠も笠、浜凹の滴に流行る、背の白い尖り縦を召せ
なう、召さねばお色の凪げに。(閑吟雄一五○)
ら癒る川にお待ちあれ。人がとがみやうば、山の瀞と鱒へあれ。
がみやうば、柵技けづると鱒へあれ。
と全く川調であるが、
と比岐すれば「皿砿則歌大忍び師」よりも-1則川欲忍び剛」の刀
(閑吟蛆Ⅲ二)
△柳の陸に御待ちあれ、人川はぱな.J、楊枝木切ると仰れ。
野し⑬
稀と鰐へあれ。おれをしのぱ田、柳の元にお待ちあれ。人がと
おれをしのばきうらなる戯にお待ちあれ、人が衿めぱ、蔵の
人がとがみやうば、広間の瀧と鱒へあれ。おれをしのば■、う
とあるもののようでもあり、それが忍ぶ小部股に掛けられるのは、
△身は破れ笠よなふ、軒もせで掛けて趾かるる。個吟蛆一四九)
△身は破笠、着もせで、すげなの君や導出けて画く。
(隆達小歌架江式ご
△雛がこれのⅢの脇の斌の麺にかかりと出っだ、あら不忠縦や(.
(兼安小歌雌)
と欄通ずるものであり、「過ぷ小部展」の鯉にかたりと慨っだと
でもいうのであろうか。
この「忍び剛」は、傘波野処エ氏もすでに指摘せられておるごとく、
8
蝦川博士の挽かれるところによれば(筋〕、塀の雁史においては、
文明大圷の過川船の時から兵印池に代って群がⅡⅢ貿易の荻地と
して利川されることとなり、堺商人は海外臼銚に秋極的に乗川した
が、その貿易商の主なものには、池永・沖田・日向展等の財閥があ
り、さらにこれらに比して第一位に置かれる湯川氏があった。堺の
鴨が閑吟集により近いと言わればなるまい。されば水沖の一‐忍び伽」
の順序によるものであろうとほぼ推定せられよう。
「踊胴歌」↓「型鐡踊歌」↓「川城川踊歌九冊」
よりして、三沸のうぉに収められた「忍び肋」の成立については、
の歌詞が、聖懸踊歌の「巾忍び剛」「小忍び蹄」にのみ兄・られる点
ともあれ、「忍ぷ踊」は隆達小歌、踊叩歌、聖溌踊歌と時代を共
△此れのお家の腿に井阿ほりそめて、水がⅢもせで金が川に、有
銀を汲むノー。(京都府相楽耐股肱師)
△足のうら膿に井戸ほれば、水はわかいで銭がわく、黄金柄杓で
(松の葉第四巻蝿制一体)
△神の御前・やれ井阿伽れぱ、水は川かいで金が初く
(志賀山流乱曲霊稀型)
△此所のお庭に池伽れぱ、サァーー水はわかいで金がわく
(延宝三年評写踊歌、歌謡染(中)所収)
とふりやれれかいしゆなにがた、ざつさふりそでゆきながに
△足のれにわのいどほれば、みづわれかいでかねがわく、さっさ
ねばならない。この歌川は全旧的な流布を見せており、類欲としては
のことであり、したがって湯川家の井戸の頭が出るのも当然と云わ
この「宝肋」に兄える湖の川こそば、まさにこの柳の畿商勧川家
の祭礼にも鋤川の一族である新几郎が頭人になっていろ。
の征家に一耐、新兵街の所の柘柵風Hに人湖している。釧守Ⅲ村社
大乗院の靴岬は延徳元年九月十五Ⅲ市小路にある湯川新兵術の北災
は、文明十五年の辿明船に乗り込んだ有力な群衆の一人であったご
その卵儀は人の目をそばたたせるものがあった。その子の新兵術
られに秘であった。文明十五年川月十一Ⅱ七十七才で死去したが、
徳人といわれ、文明八年の過叫舶は、彼の巾沙汰になるものと称せ
南庄に住んだ豪商で、伽中屋とも云い、この家の湯川宜阿は希代の
にして広く農村民衆によって愛川された肋欧と腿められよう・
仏から旬ごり
国宝鍋
本書の「宝踊」は、画「忍ぶ廟」と共に時代の好尚に合致したも
ののごとく、その類歌はおびただしい。京町時代の新興都市堺の湯
川における勘川家の井戸棚0に托した黄金礼臓の歌岡であり、堺の
豪商捌川氏を撒芙した注Ⅲすぺさ欧州である。蝋川武椰止のこぶ戦
によれば勧川氏は宏土桃山域にはあまり現われなくなる点よりして、
この踊歌はそれ以前のもの、すなわち、湯川氏の醗人であった文明
(堺)(掛)(瀬)(尽)(井面)(棚)(宝
作側前後に堺で歌われたものと考えられようC
⑳きてもさかひの、ゆの川の、せをつくして、いどをほる、たか
(師)(師)
らおどりは、おとるよl~
(水)(山)(金)(耐)(姫御)(金)(汲)(生
⑰みつはでもせで、かれがわく、十七ひめとが、かわくむて、す
(別)
綱)(帷子)(竣柳)(宝)(剛)
秘しのかたびら、あやだすき、だからおとりは、おとるよ’1
(銀)(釣賦)(批金)(柵)(金)(汲)(洲)
。⑳しるかれつろくに、こがれおけ、このかれくむて、ゅの川の、
(宝)(剛)(蹄)
(圏)(川×様)(宝)
ゆのかわさまの、おたからよノー、だからおとりは、おとるよ
ノー
9
難や金が州だ。(宝双瓜志摩加初午歌)
(爪郁府胤井川打倒欧)
△井戸掘りそめて、水がわかずに、金がわく、而口や
うらふノー。(山形殿殿上郡瀞莱獅歌)
△ところみたてて、ゐどほれば、みづもでてくる。かれもわきさ
ば‐狐く
。』邸、
△こ■の屋敷に井戸掘りござる。井戸をほるのに水がわく、水の
(苛樺肌北汕轆伽雑鯏上され節)
わく勢で黄金わく、そこの御亭主のよろこびだ。
泉酒の湧き候。臼銀埋に黄金のくしやく、汲んでも汲んでも、
△祝うて印す、こ-れの御庭に、ゆ川を棚りて、水は机かれども、
尽きしはせぬ。祝うて巾す。函児川殿熊毛耶正Ⅱ七日祝欧)
△これのお庭に井戸はりて、アイャ水もでもせぬみつみする。口
銀のあけぷしやくての、アイャくめば黄金のゑにしゆまず、ア
イャくめば黄金のゑにしゆまず。(愛媛県北宇和郡盆師唄)
(千葉蝋安例耶「みるく即」(つくばⅢご
△十七が沢にさがりて、黄金柄杓で水を汲む。
△十七が沢に下りて黄金柄杓で水を汲む、水汲まば袖が溺れ》てろ、
たすき掛け添え愛な十七(神奈川県片耐村江之浦「鹿島廟」
え‐)(加州肛力)
(宝)(剛)
へて、いまこそかししやうへまいれや。おたからおとりは、お
とりろよ’l
(跡)
「尼銀の川の而涯殿」は米昨である。似川博士のご}が戦によれば
織川伯及の邪ではないかと推定されるが、偏長を高妻殿といつに史
料は現在見州し難い。もし高妻殿が伯艮のことだとすれば、「かし
の簡所であり、後考にまたればなら狂い。いずれにせよ、織舩時代
しやう」は糀城(肛都)を指すものかとも思われるが、祥写不分川
の武士たる「商妻殿」が戦果をあげつ記⑳にもみえる都なる「御所
の御前」に参る陥れ盗を想わせる。
東)(名脇)(疋)(宝)(恥)
(御所)(Ⅱ)(引川物)(金覆鯰)(太刀)(蛾)(坂
⑳こしよのおまへのひきてもの、さんぷくりんのたち百ふり、ぱ
んどうめいばか百ひき、だからおとりおとるよノー~
高妾殿の上肛に「御所の御前の引川物」として坂氷満蝿面疋があ
△ャI近江の囮の大角殿から、典正坊への引川物には何々ぞや
った。煎歌として山川雌玖珂郡「南条剛」(誠礫轍雛鏥訓娠癖浴醐摩
噸醗吋宛凹。)の「返踊」に、
(小酪)ヤー典服坊から大角殿への引川物には何々ぞャ。先づ
上わしら
△十七は浜へおりて、黄金の柄杓で水を汲む、水汲めば、快は滴
一稀に鹿毛栗毛ャ、椚毛、河原毛、璽彼毛、月毛、真処、蹄吋
かけくりけ
れるぞ、たすきを出けてやいの、十七の掛けた擁は深紅から糸
土店をや
馬、類型ャ、名馬伽へて御引きあるノー。
綱を綴操り廻しャ、井沢の鞭を御泄ひあれば、さらりと出るが、
△ヤー坂東名馬に金覆輪の鞍投げ掛けて、逸放出しては馬手の派
半ひ、舵手、珊当にャ、鎧、Ⅲ巻、赦皮共に御引きあるノー~。
。』f
△ヤーさて其外に総鰍に鞍鉦ャ、太刀及刀奥羽の征矢、絃巻、
。-&しり餅ひくらめでくみ
の八房。(大阪府東成郡住吉御凹械式の田舞)
△塩汲む姫のこのいで北ちよ、はだにすぎしのかにぴらよ、前に
錦のまへかきよ・(京都府愛沼獅筋子祭畑箙師歌「しはくみ猛どり」)
これら類歌の多くは井戸のある膿敷を祝う欺制であること、木歌
謡が燭川家を祝うのと同じい・分布またひろしと満われよう。
(尾製)(国)(高変殿)(加賀)(趣前×崎)(従)
⑳おわりのくにの、たかつまどのは、か晋と段ちせんきりしたが
10
きらりと瀞ろャ、借も凡邪な潴腐か雄,l1g
く詠み、古細といわねばならない。緬歌として、
△ハンャ、及荷さまノーおばけれど、ハンャ、みなみつ災荷と巾
・・がい
⑪の「からのいどにて」の一軍は、「たからおどりは迅迄よ」に
r⑨
するは、いとな此背でおばします。ハンャ、大打に黄金をゆり
がむれば春の難色とうち見えて、日月はんじやうか晋やかに、
ハンャ、四万に四せつをあらはせり、ハンャ、束をはるかにな
はめてハンャ、白銀はやしを七はやし、こがれの御蔵が七みくら、
しろ泓仙
終るまでの簡所従来未凡の肱川もあり興味ぷかいが非〃不分川で遮
味また判明しない。後者にまつ。
胆、缶きり
肉庭の踊
賊のがとは見えにけりノー、ハンャ、南をはるかにながむれば、
(巣)(我)(泉水×兇)(梅)(桜)(咲)(乱)
⑫ひがしれもての、せんすいみれば、うめにざぐらに、さきみだ
夏のけしきとうち見えて、池水までもぬろうして、みいとのか
北(冬)の順序で庭の炎を歌っているのが瀦国共通の柵成である
「庭の蹄」の歌詞のなかでは、束(春)・南(夏)・西(秋)・
んど荷の歌」などは欧洞の系統を異にしている。
胤県那賀川「お腿蹴」。川棋鮎知夫邪「柑ご・蝸取県仙脊地方「と
などがあるが、おなじ庭剛にしても、大分照速見川「庭借歌」・徳
その他、補間県西臼杵郡「おちシどの」.「四季」・「梅の小木」
ンャ、袖にふる雪しみムーと。(稲岡泉八女郡ばんや歌「花四せつ」
こ記ろさえればやみでそよ・ハンャ、冬は野見の富士の川、ハ
れい水のもとに。ハンャ、秋はさやけきお月槻ノー、ハンャ、
もと。ハンャ、虹はすぎしき木のもとに、ハンャ、立ちものか
△ハンャ、祥は花さく、この奥に。ハンャ、立ちも退かれぬ花の
けしきとは見えにけりノー・厨同県八女郡ばんや歌「花四せつ」)
うへにまつMゑて、松に曲ゆきふりか。ろ。ハンャ、誠に冬の
冬の趾色とうちみえて、臼かれつい灯をおつきやる。ついなの
する。城の秋とは見えにけりノー・ハンャ、北を篭に桃むれば、
るかに眺むれば、秋の賊色とうち見えて、十二のぼさつをまゐら
まどをみがきたて、誠の夏は見えにけりノー、ハンャ、西をは
(柄)(鶴)(卿)(稀)(殿色)(兄)
れ、こすゑにうぐいすさひつるは、はるのけしきと、みゑてや
(庭)(師)(鮒)
ろ、にわのおどりは、おどるよノー。
にはじまる「庭の剛」五章は、Ⅲ鯛典.Ⅱ木欣綱典成巻十二所収
の玖都府机楽那雨乞踊歌「庭の剛」と比鮫するに「にわのおどりは
(庭)(剛)(惚)(船)(近)(志)
おどるよノー」及び「にわのおどりはこれ迄よノー」の制が兄えず、
⑳にわのおとりにうちおれて、かゑるみちおもわすれたりけり、
(庭)(師)(足)
にわのおとりハこれ迄よノー
が「帰る道を忘れなよ」となっており、水神の災現の刀が古川と
見られよう。
「庭の踊」の類歌は前記の相楽郡のもののほかに
△東表を眺むれば、梅や桜が咲き乱れ、春を知らせる侭が、はな
ふみちらすとさ’へづる。(軍耽瓜安型川「大宮』(翼承以下衙略)
があるが、全体を通じて、木押の歌詞より而略になっており「苛
めをいむ今・やう
に花菖蒲」の転化ではなかろうか。木故叩ないしは州謡染所収の一雌都
が、熊本雌蕊北川-1石捌欣」のごとく、束(作)・西(辺)・北(秋)
きあやめがさきみだれ」などあるのは、おそらく木評の「葵に桔梗
・なし?、ぷ
府机楽郡の「腿の剛」の歌洲の刀が、京部の泉水の英組や風物をよ
11
、南(冬)の栂成になっている場合もあるP水神のごときが原剛と
いうべきではないかと推定せられる。祷見によれば、「庭の剛」は
たいじん釦きり
本州西部にかなり砿く分布されてはいるが、東部には砧ど兄川され
虻い。
個大臣踊
「大臣踊」は幸若舞曲「百合浩大原」の蹄欧化せられたもので、
・I
緬歌として側謡典所収の徳川肌勝洲川・那慨川の紘瑚歌「大峨蹴」
あるのみで一のる。落莱典所収「郭はやり歌巻第七」の「十-さまが
便り」に同じく百合砦をよんだはやり歌があるが、面接本諏の歌訓
に関係がないので今はこれに触れない。
幸若舞には幸辨郷仙のほかに「幸杵軟鋼」と茨われている小節が
あり、笹野堅氏がその諸正本についても、「幸汁歌謡折本所収炎」を
掲げておられる(化皿)が、本脊の「大臣廟rの歌詞にあたる筒所はそ
れらの中には見出されない。
由来、幸辨舞仙における「百合特大腕」は、その幸僻仙Ⅱ三十六
(弓)(始)
によるものである。
(的)
(苔九)(欠×を)せう
⑰ゆみかはしまる、まとかたち、さらばこげまろ、やおとらしよ、
たいじんおとりは、一おどりノー~
(大脈期)
むし鉛へは。苔丸と名付叩やとりの役老ぞさしにける。
oいたはしや大原殿には。御かほにも御足手にもJさなから背の
(や蒋獅曲「大腕」大狐左兵衛本)
○瓶はしや人腕殿には、御顔にも御足下にも、さながら背のかし
(上田万年校訂舞の本・明腰四年版舞の本)
鉛へぱ杵丸と満づけ、矢取の役にぞさしにける。
○(悦綿節爪木Ⅱくらし小太夫正本この郊分欠丁。)
○九かこくの太みやう、くつふをいわふとて、弓のたうをこうげ
うし、いたはしや大原殿を、こけ九となづけ、矢とりのやくに
さしにける。(東北大蔵、説維節正本「ゆり若大じん」六段目)
○(來大蔵本「ゆり粁大じん」殆ど右と川文)
べつふ兄弟うだる弘珊」に依拠していることは明らかで、幸衿舞曲の
右の比較によって、木井は「百合排大腕」の六段Ⅱ「大原州川井
踊歌にとられていることは、徳島県の「人腕踊」と共に伽か一一例に
審中では長曲十二瀞の中に入り、古仏税諦を剛付としたものとして、
し、税経節正本にも存し、井上柵瞬橡の「百合衿暦」・近松の浄璃
なければなら江いが、水井の川、たる山城凶に関しても、「山川満跡
すぎず、百合俳悦研の流布が各地にみられるのに比して袖だ鯵とし
日本記、入鹿、大織冠、信田、張良と共に、愛好された川であった
刑「百合鵜大厭野守鏡」も幸耕郷に取材されており、巾肚後川より
近世にわたり時人の人気を柳した詞章であったのである。「百合群
志」第六葛野郡の条に百合鍔説話中の愛臓緑丸に関係ある濡縁松と
いう低税が犯されてあり、いかに百合朽税締が愛好ざれたかの脈拠
大原」の説話に関しては、すでに和辻祈郎博化の「百合譜大原」に
ついての論孜一生脳)や金関丈夫博士の「百合衿大腕物濡」・「小川の
(引手)(趣)
が踊歌の巾にのこされていること亦もっともと耐わざるを得ない。
(せう)(大医師)
(踊)
よ、ゆめにこなんと、じゃりしやう、淀いじんおとりは、一お
(弓)
⑱乙・な物の、をしてのわるさよ、そこなもの、ひきてのわるさ
(抑手)(皿)
百合籍大臣」《魁)のごとき耕細砥鹸考がある。
以下、本書と幸若舞曲・説経節本文との比較を試みるが、それら
本文は笹野堅氏編「幸若舞曲染」と横川正・藤原弘綱「税経節正本
築筑二」に拠り、また明解四年版舞の木の木文は前川淑氏の目小数
12
とりく
(ママ)
○大版窃期に川きせ総ひ、愛にて叩(迎明勝本)をためざばやとお
ばしめし。あそこなる殿の弓立のわるさよ・笈なる殿のをして
のふるふと・ざむノーに悪口し総ふ。
(大吸本・明騰版御の本)
○大版殿は弓叫に血ち川で総ひ、愛にて旭をだめさばやと忠召し、
(上山万年校訂鈍の本)
こ■なる殿の抑手の噸ふは下手げなりとさんざんに悪口し絵ふ。
○Ⅱくらし破水欠丁。
○人しん殿は、こ笹にてうんのひらかばやと思刊、そこなるとの
出弓にちのわかさよ、こLなるとの齢をしてのふるシ事と、さ
ん↑にあつかうなされける。(蝋北大蔵$率勲大蔵本)
せられる。
これら析本の比雌によれば、水什は悦締節正本よりも、大頭本・
舞の本すなわち**獅仙の捌章に近似していることが明瞭であり、
百合汁大原説話の踊歌に流入したのは、説経節以前であろうと推定
なお「ゆめにこなんとじやりしやう」は趣味不分明の簡所であり、
簸者はさきに「ゆめ」は「夢」と想定したが(「旧識」昭和一一一十一一一年三月
「山鱗国師歌九番」校訂・解説)、前田淑氏のご教示によると、福岡地方
の万百に「こんなん、こなん」ということばがあり、「このなに」↓
「こんなん」↓「こなん」となったらしく、三人称を折すもののご
とく、これが時として二人称(あなた)にⅢいられているのではな
了
かろうか、したがって「ゆめ」は「弓」ではなかろうか、「じゃb
しやう」は戯れ(じゃれ)であろうから、「弓の上で、あなたとど
くAぺつこ
ちらが上手かかけをしよう」(あるいは「遊戯又は鏑戯しよう)(肋
田氏税)と考えるのが妥当と思われるが、方向代名詞の「こなた」
(御殿)
が中世の一人称に化川されている例より考えれば、この期合も「こ
(大臣殿)(御即)(頭)(緋鐘鎧)
なん」を一人称とみても解しえられはしまいか。
(随)(ほど)
(利)(せう)(大臣
⑳たびじんどの陸、ごじんのとう、ひよどしよるひか、とてんに
別〉
(則)
こめて、あるおとに、それとりだして、きせてみしよ、だいじん
おとりは、一おとり,ll
(御殿)(腿)
この詞章は、幸若・舞の本・鋭経・古浄璃珊のいずれの本にも、
それらしきものは兇川しえず、おそらく、次の@の本文(これは幸
耕懇に兄川されるが、)に「くろがね弓」が川てくるところから宰
若等にはない「緋鐵鎧」の章を付加したものではなかろうか、⑳と
(大臓殿)(の脱力)(御剛)(航)(鉄)
同じ型の詞である。
(樫)
(取)(出)(射)(せう)(大臣
@だいじんどの、cじんのとう、くろがね弓が、ごてんにこ
節)(剛)
めてあるほどに、それとりだして、ゐせてみしよ、だいじんお
とりは、一おとりノー~
○何も弓よはくして叩をかいたと仰げれば、別府足をみて念やっ
はくせもの哉。所詮大臣のあそばしたる。かねのゆみやを射さ
せて見よ。尤然くしとて。宇佐八幡の宝殿にあがめをく。かね
のゆみを叩おろし大麟殿に奉る。(大蝋本・切間版舜の本)
いにしへ
○何れも弓が脳くして叩を慨きねと仰せけり。別武これを見て、
彼奴は曲者かな。所詮古大大臣の遊ばしたるかねの弓箭を射さ
せて見よ。最も然べきとて、恭も宇佐八幡の御室殿に舵め奉る
かねの弓矢を巾し下ろして大原殿に奉る。(上田万年校灯卿の本)
○日くらし正本欠丁。
○いづれも弓はよはく侯と有ければ、くつふ間、いつぞやゆり着
--13-、
火しん殿のあそばしたるかねの弓、うさの宮よりも、巾おろし
(東北大磯金平本・皿大磯本)
ていさせよとて打ければ、災て舷と、やがてゆみを奉る。
この簡所においても、本評は税経節正本より幸若に近似している
(扱)(取)(欄)
(辺×悉)(大臣
点は、さきの⑳とMじいが、倣かではあるが「ごてんにこめて」の
部分において、大頭本よりも舞の本に近づいていることがわかる。
(束)
(師)
⑪十三ぞくに、五人ばり、とってからめて、おつつがひ、淀いじ
師)
んおとり、一おとりノー
この歌詞の部分は
みた出し
○いつしか本より御泥らしか己0松にをし当・ゆらりとはって
すぴきし。かねの御でうすをつかはせ絵ひ。(大政本)
○いつしかもとよりの御手執、か記りの松に押し当て、ゆらりと
(上川万年校町卸の本)
張ってすぴきし、かねて御てうづを打恭はせ総ひ、
○大臣殿は弓おっ取、足こそ天のあだへと思召、か・り松におし
あて、ゆらりとしりをかけ総ひ、(中略)かぶらやを打つがい、
(東北大漉金平本)
とあって、いずれも「十三束に五人強」なる詞はないが、山口麻
太郎氏採災の「壱岐の百合將税経」の中には、弓の条についてはほ
とんどなく、その代り、小栗判両の鬼鹿毛仙のりに似た税循があ
り、その次ぎに
……其儀においては乗りて見んよと弓矢化まはれとの船へは五
人銀に十五束なてつがふてⅢしける大価殿御覧して斑繊の物に
て溌魁乗たる刎史になし五人強遊引しぼりたすぎに懸させ総ひ
ける…・…・・(第十神に勧調之段)
とめる。(耐、淑氏ご狄数)
このことは、水神の、介汁歌謡の柧源を出わせるものがあろう。
その税弼の本凹地たる九州、ことに伊岐の大台ヤポサ神をまつる巫
女によって語られること、すなわち「いちじよう」の語りものであ
って、「ユリ」という器を梓弓で打ちながら、「百合将」を錨調す
る壱岐の脱線は、省岐とユリワカとの関係の案外深いことを示すも
のであり、本諜⑩oに見える弓こそ贋壱岐の弓祈鰯に根ぷかくつ
江がり、中山太郎氏所鋭のごとく、ユリという祭具をかついで地方
(己)(誰)(忠)(侯)(己)・(百合着大臣)
をまわった神人によって譜られたものであったろうか。
、おれぞはたれと、をもひそるよ、おれこそゅりはかだいじんょ、
(大脳踊)
だいじんおとりは、廷迄よノー
「をもひそるよ」は、原文では「をもひそめ」が、「をもひそる
幻」の見せ消ちになっているが、これは本番の脊写者のさしらとも
召うぺく、もとのごとく「をもひそるよ」とあるのが、よく文意に
かない、また語法上からもしかめるべき表現といえよう。
○いかにや九国のざいちやうら。我ぞば錐とか忠ふらん。いにし
へ蝿に拾てられし。ゆりわか大臣が。今群草ともえ出る。北う
いにしへ
りに任せてわれやみむ。非道に任せて別府やみ⑪。いかにl~
と有しかば(大頭本・明暦版)
いかむう
いか
○如何にや九脚の在〃よ、我をぱ椎と忠ふ←て。占いに棄てられし
百合狩人爪が、今恭草と肋え川づる。道理に任せて我や見ん。
(上川万年校訂卸の本)
非道に任せて別武や見ん。如何にノーとありしかば
○Ⅱくらし派水欠Ⅲ。
○我巷はたれと忠ふらん。いつぞや蝿にてすてられし、ゆり若大
----
14
腕とは我邪山、いかにノーと存ければ、(収北大蔵金平本・東大蔵本)
△われをぱ雛とか忠ふらんノー~.われこそ背のゆり劃大じんよ・
一踊りノー。(但謡染所収、徳島県那賀郡「大蔵剛」)
さらば船をもよばせて、ろをとりかぢを押し直す。大じん廟は
ここにあらわれる百合片上腕は、その悦踊の巾でも聴手をして彼
て民衆に親しまれたのであろう。
も耳を傾けさせるクライマソクスな場面におけるものである。別府
兄弟の下尅上な御家横領調もここを頂として、「人どもしよきやう
樫浦たう。一度にはらりとかしこまり。君にしたがひ奉る。別府も
はしり折。かうさむ征りと手をくいる〕いかてかゆるし総ふへき・ま
つらたうに仰付。たかてこてにいましめ。汝がしたのさえつりにて。
われに物をおもはせつる)ぬんぐわの程を見せむとて。口の内へ御
手をいれ。したをつかむて洲ぬいてかしこへかばとなけすて。くぴ
をぱじⅢ値皮に。引くぴにし総へり。上下万瓜をしなへてにくまぬ
者はなかりけり。」と別府は亡ぼされる。
おそらく、百合衿大原の幸砦の舞が広く武士・民衆に愛好された
時代、とくに京都・堺・阿波のあたりにおいては、踊歌にまでなっ
「百合杵説経」と「浄珊璃物調」とが非幣に関係ぷかいというこ
とを察木弥太郎氏が示唆しておられる《篇)が、阿波の人形浄瑠璃発
祥の地阿波図徳脇に、この百合杵の「大腕肋」が低承されているこ
とは、何らかの側汕があるように思われて興味ぷかい。
ともあれ、幸群歌謡としては従来米見の踊歌であり、今後の幸若
研究ないしは百合粋独活の歌謡化の一盗料として、その価値は認め
られるべきであろう。
汀織卿旭天文二十圷班月五Ⅱの灸に「(上鼎)今Ⅱ北側之千秋万
歳参、仙嫌和田酒搬、次こし趣、次ゆり杵少等也(下啓)」と見え
ているが、幸片舞については岐近顎木弥太郎氏がその命.醗川を帖災
以前の時代に求めておられる。磯村を基醗として成育した幸若郷
が、都市の大衆の持つすぐれた財力と鑑賞力とを求めて中央に進出
し、その円熟した演技力を激しく競いあい、さらに峨国武将がこれ
に関心をいだくようになった時期から忽迎に比柵して行ったのは大
衆の支持をいつとはなしに失いつつあったからであると考えられる
〈鶴)が、この「大臣踊」も、おそらく農村民衆の強力な支持を得た
時代の幸若舞歌謡の一つと組めうるものであり、その成立は織豊時
代を下り栂ぽいものと推定せられる。
ピベ汀らお守り
w陣立踊
「しんだる」は印を蚊く繊式であり、帥ぞなえ、配剛の忍にして、
川剛に際しての裟嚇を光令にすることをも趣味すると凡てよく、三
五雌飯南加踊欣の「人立」も、「即血」の宛字とみてよいであろ
う。奈良県、三近県、和歌山県さらに徳島県の「具足廟」・四国土
佐国の「虎松蹴」など、近畿にかなり広く分巾しているが、本番所
収の「剛Ⅵ蹄」は他の緬欧に比鮫して価古、その椰捌もいたく近世
調を離れ戦国時代の追風をここに見川し得、中仙未、近世初期、未
だ戦票おさまらざる頃の踊歌と認められるであろう。
(館)(和子×概)(明)(今年)(初)(抑剛立)
(剛)
⑬やかたのわこさま、あけ七つ。ことしはじめて、とじんたち、
(人代力)(伽)(剛凪)(剛立踊)
にんしろそろへて、おたちやを、じんだちおとりは、一おとり
?-
△われの和子のがあけ七つ、明日はごぜんたち、かぞえでおしよ
(奈良県添上加大柳生村賀当踊「具足繭」)
う、こぐちをほんとたしなみよ・
、
15
マ
△伊勢の陽川の虎松はノーまだ十五には足らねども、返し「今年
初めて御町立ノー。(和歌山隈紀伊熊野邪翻「虎松踊」)
△とら松殿はまだ十五にはなられも、親のかたきをうたんとて、
小だちを一人たしなむ、とら松をどりはしとや老どりおもしる
や(血持雅液悶「巷摘綱」所収土佐圏安芸郡「とら松』
か仁§
△虎松殿はどこそだち、鞍馬の川の寺そだち、まだ十五にはなら
ねども、親の敵を打むとて、小太刀を一じとたしなめて、虎松
殿ハシトャオドリオモシロャア(巷囲筋、土佐岡秀美邪「虚松踊』
△イヤ己が弟の下松は、まだ十五には江られども、小口老いちぢ
とおたしなむノー。(徳島原名東郡「千松」)
く値ざかbい
△おれがわとLの虎松殿は、まだ十五にはならねども、小太刀を
いちじとれたしなむノー(巷圃畑所収・土佐郡「ぐそく」)
(徳島県那賀郡「具足別」)
△これの御子息虎松は、都そだちか、国侍か。
ある。(一一一m染飯南郡「人立」)
△あすは人血御人血、今はかき兄の御人兀、街ひらだちのおふれ
△己れが子孫の虎松がまだ十五にはならねども小口をいちとお噌
む。(極蝿隈打川脇城山「虎松剛」)
(好)
(撹垂)(次逆)
△いや己れが弟の虎松は明けて十三、まだ十五にはたらねども、
小口を一事とお嗜む。(和欧山県有田郡下湯川附近「虎松踊」)
これらは、雨乞蹴欣ないしは盆踊歌としてであって、その剛立の内
容は、兜(日)、具足、〃、馬、鞍、さらに槍、弓に及んでいる。
(兜)
⑭かぶとはなにと、このまれた、四方しなだれ、ふきかへし、ご
か葆と
霊ひ幽霊と、乙蕊れだ、輌渡誕緬趣は、一溌炉I
△胃は何と好まれた。四万しらたう厚(きかやし、みな金かぶとと
好まれた。(三Ⅲ県飯南郡「人立」)
か.けど
(奈良県擁蹴剛「近江朗」)
△叩は何と好まれた。かんば千鳥の金頸、四万四而と振冠り。
ノー。(徳島県名東邪「千松」)
△兜は何と好ませた。八方白銀お兜に、唐のしやぐまと好ませた
(奈良県賀当踊「具足即」)
△兜はなんとこのませた。三枚しころに、四方しまだれふきかへ
す、大小鍬形おとしたノー。(徳島県那貿郡「具足蝿」)
△閏ほ何と好ましと、元は白金臼がしら、こいづみ胃と好ましだ。
しようノー~はかたおどしたノー(土佐図土佐邸「ぐそく」)
△兜は何と好まれたノー、もつこう鍔にかすし鋼、辺し「縁は黄
金の単鋼ノー。(和歌山県紀伊熊野那智「虎松踊」)
△とら松殿のかぶとは何とこのましだしぶとしらがにたつがしら、
大将くはがたおどしとしとやおどし。(土佐国安芸郡「とら松」)
△甲はなにとおどされに、五枚さがり四方しるにふきかへし、犬
△兜は何と好まれた、兜も同じ毛色で四万島田に吹さ返し、大将
鍬形遊ぱしだ。(和敬山県有田部下掛川附近「虎松踊」)
これらの顛歌と比峡するに、本背の漱洞が股も簡潔にして正確で
(好)
あることは、これら類歌の祖源をなす6のではないかと推定するも
のである。
(具足〉
(好)
(則)
⑯ぐそくはなんと、このまれた、かたくそくとよのそでに、こ
(五色)
し誉あしと、このまれに、鱗浄霜諏斫は、一錆どりく
△具足は何と好まれたノー、上七段は唐紅よ下六段は紫よ綾のは
づれを、“し「十三段とをとしたノー。
(和敬山県紀伊熊野那智「虎松剛』)
--
16
△此処は何と好ましだ、かみ六だんは紅絲でおうこして、下六だ
んな紫絲でおとざして、いしをばこむてのはなせた。
(奈良県賀当踊「具足節」)
△とら松殿のぐそくは何とこのましだ、上ミ六だんばから紅、下
モセだんは紫一卜亜に、あやのはつしを十三ほろりとおどした
り(土佐同安芸邪「とら松」)
(土佐国香美郡「虎松踊」)
段は紫一と爪、綾のやつしを十三ぼろ0とぼといたり。
△虎松殿の乢足は征にと好ましだ、かみ六だんばから紅ゐ、下七
三ほろりとおどしたノー
△おいしの乢足を兄てあれば、惣毛のよるひと打兄えて、ャうし
→ハの板はnがねそるよ、川なる板はこがれでおちやる、上ミ六
段は紫糸よ、下モ七段はくれなゑてるよ、あやのはづしを、十
(土佐国土佐那「ぐそく」)
△具足は何と好まれた。上の九段の白絲よすそ紅と威したり。ふ
そくはないと威いた。(奈良県吉野郡大燃村擁凧踊「近江剛」)
△且足は何と好ませた。上段は唐金よ、下六段は板がねよ合して
ふた色十一一一はらノーと好ませた,l~。(徳島県名東郡「千松」)
△乢足は何とこのませたノー。上七だんはからくれな々下六だ
(徳島県那賀郡「具足蹴」)
んは紫上。あやのばす魚で、十一一一ところおとしたノー・
くれなゐ
△具足は何と好圭(れた。上八だんの紅に、下六だんの紫に、おや
のはづしに十三だんと好まれた。(一一一近県飯卿祁「人立」)
△典足は何と好まれた上七段の唐紅よと下六段は紫色よと綾のは
づしは十一一一さがりと好まれた
(和歌山県布川川下醐川附近「虎松踊」)
木撫は、他の麺欧とやや狐なり、一「具足は何と好まれた」以外に
は同型の歌詞を見出し難く、珍しいものとせねばならない。
(刀)(何)(好)
⑳か瀧懸賦躯んとこのまれた、式尺七澁李の灘、・途渉しっ
るぎと、このまれた、じんだちおとりは、一おとりノー
(剣)(好)(剛立師)(剛)
した。(奈良瓜斑当踊「具足剛」)
△刀は何と好ませた、二尺七寸なみのひら、うちのきざにしとさ
(奈良県篠慨踊「近江蹄」)
△刀は何と好まれた、二尺七寸浪の平、上差ないとさ出れた。
緒にそりかへそらして、こしのしなよとさ詮したり、
△とら松殿のかになは川とこのましだ、二尺七寸汲の平、三尺下
(土佐燗安芸郡「とら松」)
(土佐燗呑美川「虎松踊」)
緒にとりかへとらした、.つらのし付とさした。
△虎松殿の〃は肱にとこのましだ。二尺七寸の狐のうへ、三尺下
扣化ななに・}の
△刀を何と好まれた。二尺七寸なみのひら、金のし.つかと好まれ
かみ郡士たち
た。(三Ⅲ県飯南邪「人立」)
△まづ上方に太刀打ちに、太刀をぱ何とこのませた。一二尺さげる
(趣勘瓜那賀郡「具足廟」)
に脱皮まいて、親のしすげをさ■せたノー。
げをと好ませたノー。(御島県名取郡「千松」)
△刀はなにと好ませた。三尺七寸鎌倉よ・大のしのぎに、三尺さ
(迎鍾雅毛)(剛毛×駒)
以上の類歌と比較するに、奈良県篠原剛と水神とが価古の歌洞で
あることを示している。
(蝿)(何)(好)
⑪わま通はなんとこのまれた、れんぜんめしげに、かけのこま、
17--
 ̄ ̄
よき(瀞騨と、蕊譲れに。験浄お翻りは、一電,
ノー
△隅をぱ側とこのませた。瓜焼騨ん》ん轆吟毛に、しのぶ七くに、
川六さいとこのんだノー。(越団県那賀郡「具足廟」)
△御鳩は何と好ましだ、連錨あしげにな記け八ぷんあけ六さいと
好ましだ。(奈良県五当師「具足師」)
△蝿をば側と好まれた。七け七分に明六蝋の、
,.(一】一正県飯南郡「人立」)
鴎塚を齢冷と』蝉譲れた、瀞溌繼のさく,聡ら、じ
痢麓遮りは、是迄よく
「さくり」は「つくり」と見せ荊ろのある箇所で不分明である。
。』が⑫
△絃をぱ何とこのませた。鞍は白銀、麺茂金ぷさ、しりがへはか
ら糸。(徽励蝶那釘耶「共凪帥」)
3,蛍くりLくら
△金覆輪の鞍しかけ(一二Ⅸ県「人文」)
本神の「鰍立踊」は総じて虎松踊・典足踊と相似ているが、それ
らより而潔素朴である。虎松殿の由来は川らがにしえないが、巷鋼
鰄所収の土佐囮の「虎松」は、紘川の川の寺そだちであり、親の敵を
打たむとする者となっているのに比して、徳胤県の其足蹴のは「こ
れの御子息虎播は・・・…」とあり、さらに三m県飯南郡の「人立」、奈良
県倒当蹴及び木榊においては、虎機という人名をさえ掲げておらな
いのは注目すべき点で、土佐剛の虎松剛も、その靴調.,魑法より見
て古格を伴っているところより、今そのいずれが先出であるかを速
断することは容易には為し難いところであるが、本書の陣立踊の、
篠原剛の中の飲洞をも含んでいる点よりみても、また七五七五七五
形式である点よりみても、古格の踊歌とみとめられる。虎松がいず
れの出自であるにせよ、本書のごとく山城国を中心として発生し北
ものと認めるべきではなかろうか。
伽こしんやく
Hのかぐらおどり(神楽蹄)が、神に捧げる「口開きの歌」であ
れば、この伽「ごじんやく」は、「打留めの歌」と言われるべきも
のである。節、すなわち今年の股後の踊をこれを以て終りとする終
末の剛歌である。一一句ないし九句を以てする十九軍より成り、短歌
形式のもの、九六・八五の二句形式のもの、七七七形式のもの尋が
あるが、すべて近世調には程遠い古格の律調を持っている。股も類
似するものに、但謡集所収京都府相楽郡の雨乞蹴欧「じんやく廟」
があり、それは、
この門ひらけ、三こ寧ろ前で間のひらき。サじんやくや。』
△蹄が参るノー。踊子をつれておせんじやうが参る。一の円朋け、
に始まり、
る、ノー・
△雨降るやうか、我親型のむらl~戒る。いとま申していざかへ
の関係は密接と筒わればならない。その配列の噸序は不同で、いず
に終る十七章より成っている。「じんやく蹄」と本欝所収の「ご
じんやく」との比較においては両者に共通するもの+廓を数え、そ
れがその拠り処となったかは、にわかに断定し難い。’
よ、しんやくや
@駁沸馨る璽一の吟遜、尤縫ひ壗悸夢辨ぴ、なに
△上から下ろは、からゑのびょうぶ、たんにひとへで、噺子……
(栗田寛博士細「古餌架」(「個文箇基所収」)下総国番取那多田聾、神準
叩神祭卿子舞歌)が唯一の類欺であるが、「上から下ろは」とあるの
--18-
は明らかに下総国香取神宮の獅子舞歌の方が、本書所収のものの伝
播の跡を示すものと露められよう。
「からゑの屏風」は、獅子舞の歌に
たう姓
△からノー渡った、唐絵の屏風、さらりとひとまへひきまはし、
つくば川なかばかこ山、花咲きⅢでて、花を牡がめて遊ぶ獅子
どの、ひかひ小山にむらノー樋、羽さき老揃へてきりかはさへ
ささら
な・(埼玉県川越「緬木獅子廟」)
から△
△急に五審の噛絵の屏風をノー江てまは》てや。初春は梅と桜をよ
りまぜて、よるづを申せば限りなし。たてや獅子の子、生れて
おちて頭ふる。たてや獅子の子ノー。天竺の岩がくづれかかる
とも脈へもせぬ。遊び獅子の子-、遊び獅子の子。
(薪鬮蝋北諭鬮醐「伝吉舞繊」I正朧耀鬮より引鍵譽晶禰鳳蝿水畷町
において秋季祭礼の瞭欧わるろという。)
のごとくに見られ、また徳品県那賀郡の「軒殿踊」に
「若殿様の奥のま、かはりて見れば、からゑの屏風ゆかや立てそ
ろへ、まばりを見ればすだれノー。」
と見えている。風流踊の作り物の材料ででもあったものであろう。
(鷺)(が)(梢)(巣)(懸)(出挙)
⑳うぐいすか、竹のこす蕊に、すをかけて、すいごをとられて、
(征)(慨)
さ■おうらめた。
(和歌山殿有田郡下掛川附近「鋸踊」)
△存の初の侭は竹の小上に典をかけて竹は擁むも子は育つ。
咲けノーとさへづる。爲棋県飯石郡「山田の欧」)
△(さげ)うぐひすが枯木の枝に巣をかけてノー、(五月女)花
△ひはとこがらど鶴と、船のへさきにすめかけて、黄金よろこび
さかえて、巣をばくてさへづるノー・愈島県那賀郡「魁の期」)
(広蝿県安佐郡「あげ欧」)
△露がノー梅の小枝に典をかけて、花をまくらに月をながひる。
△やす
(広勘膿比婆郡「大奇本大踊欧」)
△侭が梅の小技に羽を休め、そこで総土口をⅢす。
△侭が梅の小技にひるmして、花のちるをゆめにみてゐろ。
(広勘県璽鹸郡「平句欧」)
⑪ふく
(堕勘瓜麓品郡邨「神楽欧」)
△繭の梅枝に盤糎して、梅の実をまくらに、梅花をながめる。
だ‐I
妙だ。(所測貼奨岡巾「手鞠唄」)
△鶴がノー、偶都へ上るとき、梅の小枝に娃寝して昨夜夢見た何
ぱ何と見た。(践野県下水内郡「手鞠頃」)
△髄やノー、側々郷に上る時、梅の木小枝に尻軽して、今日夢を
届没して赤阪ぱばさの夢を見た。愛知県碧海那「手駒唄」)
△ほうはけさやうや、侭や、たまノー都へ上る時、柵の木小技に
8Aや十た
△うぐひすが、はなのこずゑにひるねして、おどろくたびに花か
ちろノー、(郁岡雌八女加腿町村「反抽欧」六捌子)
「巣をかけて」と「狂没して」と二つの系統に分かれており、侭
が「竹に巣をかけて」とある本評所収の⑳は、和歌山県に類歌を見
るにすぎず、広川・袖岡においては、梅に侭との関係が深い。
「すいこ(川挙)をとられて」とあり、「笹を恨めた」とあるご
ときは全くその類を兇ず、素朴にして古格を偲ばしめる歌詞と言う
べきであろう。かかる発想は、
浜ばたに昼寝して、波に笠を取られた。笠も笠、四十八府の籟
笠、怨めしや狼どの、寄せて笠を取らせろ。(「邸廼一曲」所収、
おもひ三条の橋にも没だが、笠をとられた川風に。(「郎廼一曲」
幽奥Ⅲ耐拙斯波稗批和賀などの郡に在る「米踏歌」)
所収、越後の川、「立臼、並、坐臼唄」)
-19-
にも見られものである。
(が)
⑪十七か識やにしら哩漂潔らの、鞄←くで、蕊』灘
かな
「十七が」は各地に歌われ、川械歌、筑取砿、麦打歌等その数は
△十七が、忍びの殿御に締もあて、勝もろて、Ⅲれてはしられの
おびただしい。
忍び帯、鞭はもろたが、忍びの勝で
(叩石兄ⅢⅧ染、「小脳側時の唄』)
△十七が、親にかくれて歯を染めて、職に降る甥は憩かくさん。
(広脇県蔵品那「平句歌」・岩手県上川伊川「そんでこや-L)
かね
や今のの、さて、はを腿す。(落菜卵、「紳世師」)
△十七が、親にかくして鉄耀つけて、71、怖に、やあ、降る雪、
この⑪は、短歌形式であり、次に掲げる隊述小歌に比して、いか
に農村民衆に見られる純朴そのものであるか、また「おやにしらせ
で」しめた「ほそわら」の僻のいかにか肱しいものであったか、こ
の歌をⅢくもの雛か背をして強く噸じさ股ずにはおかないであろう。
△稲をやりたればしならしの緋とて非難をおしやる。勝がしなら
しならばそなたの肌はれならし。(隣述小歌雌一○疵)
奄彫)(地)
(蝿)(小切子)(而埒)
△ささらとこきりことめんなれど、薯、らをかやして、調溪
にせんやノー
⑫はⅢ楽の楽器の一肌で、三○センチばかりの竹の光を削ってた
ばれたもの(ささら)巻、きざみをつけた細い繩(ささらこ)でこ
すり合せて背を川し、調子を取ったもの、小切子は、放下価の持っ
て歩くもので、竹に赤アズキなどを入れて作ったもので、手玉にと
り、指先でⅢし、抓子をとりまた打ち岨らすなど椰々のわざ壱する
もの。
(皮){を潭処》
△おれとわごれうとめんjrlなれど、ささらをとめて、こきりこ
にせう(戒都府柵梁川雨乞剛欧「じんやく則」)
⑬おく山説》ぎく、蛎腫拳麗悉く、十五やの鳳調み
(跳)
てはねる
△兎兎奥川の兎、何を見てはれる、,J1。
(京都府楓楽邪「じんやく節」)
(茨城瓜皿脇邨迩鍋)
△うIさぎ兎、何見て跳ねる、十五夜のお月を見て跳ねる。
△ううさざうさぎ、なに凡てはねる、十五夜お月さま凡てはねる、
(職手県遊戯収、醗巾辿野地方)
十五夜お月さま松のかげ、おれとお前は小臆のかげ。
△兎々、何凡て跳ねる、十五夜お月様凡てはアねる。(叩戒府立鋼)
(拝)(げ)(ど)
③中立人よノー、中立入ればすけ敬いと
(京都府杣梁獅「じんやく剛」)
△巾立入れよ!~、中血入らねばしゆげないぞ。
(典)(が)(脚)(土
「すげない」。「しゆげない」は「祥無い」完譲離細い)であろう。
(眼)(垂)(槻)(鞭)
⑮中立のこしにさしたるしめのぷち、あれをくれかな、くにのみ
やけに。
産×げ)
に。(京都府相蕊郡「じんやく髄」)
△小皿の腰に指したるしゆげの鞭、あれなくれがな、とのの土産
(愛蝿瓜宇和船「ハツ醐則」)
△中立が腰にさしたるすだれ柳、枝折り棚へ休み小成,1-。
-20-
⑳露の(坐へ雄諒騨鹿も、蕊馳露臓廟鰹誤する
⑳より以下四章は他に類似のものを見出し雌い。⑳の「はたたぎ‐|
も古爾であり、その他、この四章は、雨乞踊、獅子蜂師飲とはいた
く趣を典にし、閑吟染、宗安小歌染時代の小歌にも比すべき古捌を
(夢)(兇)(麺)
その内容・御調の上よりくみとりうる。
(油火)(顔)(愚)
⑰あむらひがかおへかLるとゆめにみて、おきてみたれば十五
夜・月
(の脱力)
△人を待つ夜の汕火は、消えず長かれとろとろと〔
(日本歌謡架成巻六何国歌舞伎歌所収「異本何M敬舞伎蛾紙」)
△十五夜の有川月は待たねども、殿御の御川を待坊雅和ろ。
(蝕川県那賀鵬「茶捕歌」)
(奈良県吉野郡嬢蹴踊「宝師」)
△おらが川にや月がさす、汕引さずぱ消さすもの
(拍手)(拍手)
(小仙手)(殿)(寝)(せう)
のごときは、同じ技謡的境地を縦っているものと推定せられる。
②七つぴよし八つひよし、九つこひよし、とのとれてしよの
「とのと」には、七、八、九につづく「十」老掛けている。
「じんやく廟」に見える、
△太妓は芙汲の皮やが腿りて、打ち手ほこLら杵衆述。
△太鼓の胴をきり弾としめて、あのうつ人にうたきその・
または埼玉県川越の編子獅子蹄に見える、
△太鼓の胴をきりつとしめて、さ弘らをさらりと、すりそ⑫さへ
な・(舞初)
1
I
のごときよりも、はるかに技諦的な感触が強く
こつづみ
△おれは小鼓殿は鵜めよ、皮を隔てて宵におりやある、商におりや
他
ある、糎にねハゾやある。(宗安小欣雄・松の莱細歌本手「浮枇細」)
いL」。
敵ろかならぬか、なるかならぬか。(狂菰小歌.》人片愉」)
△愛し若衆,どの小鼓は締めつ緩めつの、洲ぺつつ、ねいら”先に
△川の蛾は肚小にjくl、恋といふ伽も慨といふ邪も、厳きならい
ならば、ひとり物はおもはじ、九の‐く~、夜半にも成たりや、
(閑吟雄一瓜川)
のごとく、切実な恋愛感惰というよりむしろ、紫朴な愛併、汽能
的川放の尖感性班かならのと兄ることができ、近枇の遊Ⅲ欣鋼に凡
られろ怖痴の枇界とは耕しく隔たりをお臆え、閑吟染について杉加
明平氏の言われる「感併や欲求をじかに表白するだけの健康さ‐一
(天灘力)(→、ご
(鵬”一(羽懲畔一をここにj・兄州しうるものと蘭うぺざであろう、》
(耐曲)(加川)(抑川塒)(来)
@おもしろやかしまのおば晋へきてみれば、てがいのりうにうに
(足拍手)〈手拍
天女の露く、露←し髄鞄が灘まりて、あいぴよしてぴ
よしあはしたりけり
手)(合)
未詳の筒所が多い、血川か加妬か。摂沐刷西成川の加川(加脇銭
を鋳造したるところ)と思われるが罧或いばか餌ろ歌詞を含む鹿貼
踊があるかも知れない。日本欧柵架成聯に見える山脇剛欲には見え
虻い。後考にまつ。「りうにう」は「輸岐」か。
(友達)
⑳蕊一壱瀞遜麓〉ぱ水墾す、輸鏡←蘂』窪融と
もだら
△たつ鷺があと壱にごせば、人がしる。あとをにごさいで、立つ
堅し
やとも濱ら。(京都府杣難獅「じんやく剛」)
たつ弓r
△立鷺が跡を走れば水溢一顧す、腿を忘れざ並てや友達噂
21
(埼玉県北埼玉邪獅子舞の歌「さ弘ら歌」)
(愛娘県宇和船「ハツ皿師」)
△白鷺があとを忠へぱ立ちかねて、水も濁さぬnや白さぎl~。
(山形県飽海郡「溺子剛歌」)
△白鷺は我が子思へば立ちかねる。水を濁さず立てや臼鷲、llc
(立)(汕火)
(師岡映盆則叺)
△白鷺が峠の小松に典をかけて搬個巡りて子をばとらる記。
(共廟)(野)
③七月の蕊の十日のそのころ峰のにiにも龍つゃあむらひ
(冊)
(京都府Ⅲ楽郡「じんやく則」)
△七月の中の簸川のそのよさは、脚でも山でもⅥつばあぷらひ。
Cソ
(加風)
、が震しのおば一露の村村鼈昨・蕊鐸を壹諭て、いざ”いみ
る。(京都府相爽祁「じんやく師」)
△かしばのをばごのむらノー樋は、羽さ』ご老おろして、いざかへ
(埼玉県川越「緬木獅子剛」)
△むかひ小山にむらノー微、羽さきを伽へてきりかばさへな、
⑬電聯寵乃うば鮨灘鰯準う。
(京都府机楽獅「じんやく則」)
△機がかへらば我騨もかへろ、いざかへる。
しよやら
⑭十鯰毒匹はじめて墾旋て騒浄蕊まきや、(礫や趣魯
(せう)
@と共に、類歌の存しない特異な歌軍である。
(狂)(へ)(侍×狂)
(畷)(叩)(州)
⑯中Ⅲくる魚は、みなくろへ。
△中江くろへば椿くるふ(瓶都川Ⅲ粟耶「じんやくⅢご
(親皿)(雨)(脚)(賂)
いろう。
@おやざとにあ砂がふるやらくらくなりたおひとまもしていざか
る、ノー。(戚都府相索那「じんやく師」)
△雨降るやうか、我親型のむらノ1立ろ。いと京印していざかへ
△災らがざとで、雨が降るげで、蝶が立つ。おとま(お暇)申し
て、いじゃとまらだち。(神奈川馳杣棋州久井郡偽尼村獅子舞噸)
△わがくにで、雨がふるげで謀が立つ、おいとま章逸していらか
へられろ。〈神奈川県都筑加山内村大学打川疏明神獅子舞の肌)
△み-趣みから、めlめのふろやうlに、く-らく敬った。お暇
印していざかへらlか。(千乗県安風邪ふりよ-祭)
△日はくるH、道のねぎLに鰯はおく、御哩申して戻る獅子どの◎
(埼玉映入Ⅲ伽川越「細木茄子剛」)
⑰は山城川より側班地力の神奈川・垳玉に低撤しており、京都以
注
西の関西地方には類歌を見出し難いことは沌目すべき現象である。
仙日本軟鋼鯉成巻六(近枇耐)所収。近時洩野皿二氏によってその爪
がある。
木の面影を雌も忠実に、且つ厳密に校訂・翻刻された、東北大学蔵
本「師咽駄」(同概節六巻第三・四合併勝所収、昭和三十三年一二月)
②日本歌謡雌成巻六(近肚筋)所収・
側飛祈佼灯・翻刻「山城国師欧九瀞」(国柵鋪六巻第三・四合併丹所
帆、川和二十三年三月)。ご参照凧ければ準磯である。
「す老たて出す老のまきや」は未詳であり、類歌も見川し難い。
③湖畔処二災「近仙柳川剛欲の一考察」(川緬と川文学M和三十三年
(余所)(膝)(品)(税蝉)(が)(腺)耐)
⑮よそのざ弘らにしなあらぱわれらかさ麓らにきよくあらした.
22
い。
卿月持籾牙)
浅野延二氏。東北大学戟本「即川歌」(山形大学紀要(人文科学)
氷川棚太郎氏。「小股の民衆と文化」の三「民衆文化の源流」伊勢
妬四巻第一号昭和三十三年三月)
謬廊の項
布野辰之博士・「日本歌謡史」
井祁芳侭氏。「近枇初期の欧鯛-その歌謡史的愈稚についてI」(阿
獅と国文学昭和二十九年四月)
井浦芳価氏・例論文
歌」(昭和十三年一月刊)
同氏・「日本文学史近世」(至文堂昭和三十一年)「伊勢師」の項
中尼新級氏佃・「大和吉野郡大塒村錬蹴帥附・刷川天川村川瀬師
、、
、、
、勺
、、
○さつまのしまをもけさ立てばやとついだよしごく全謀て(砧の川)
○十七ひめごがかわくむて(宝踊)
○からのいどにてかね一一いいて(蝋肘)
、、
、、
○のきぐやま△)ごぐしらきぐかわらきぐさひてわ(庭の肋)
○十三ぞくに五人ばりとってからめておつつかひ(大価踊)
、、、
□一〕舷調法・砿曾、
、、、
○みかぐらおん一一中いらしやう(抑楽師)
、、、
、、、、
○いざさらさらとこなたいまいる(神楽師)
oいつくにおどりてみせ一一$いらしやう(名所蹄)
、、
○いまこ》てかししやうへまいれや(宝別)
〔三〕肋動詞
、
○おれをハたれとをもひそるよ(大巌踊)(世。)
、
A、た・尤乢リ(f》
oはやとつ・きたよ大坂一一←て(蝿の踊)
、
、、
oおやざとに今のめかふるやらくらくなりた(ごじんやく)
、
oばやとついたよしごく一一いて(川の剛)
○まくら.さだめたよさもなや(忍ぷ剛)
、、
oこいけにおしどL⑪シはなしたるハ(庭の噺)
n
、、
○にわのおとりにうちおれてかゑるミーロおもわすれたりけLリ(庭の川)
、
oかぶとハなにとこの一一《れだ(献立蹄)
、
○すいご巻とられてさ出おうらめた(ごじやく)
oしのぷ‐ノー、‐でしめたおびか牡(ごじんやく)
○ミめよしひめこがめつまhシてあいぴよしてぴよしあハしたユリけり
、
(ごじんやく)
○よ》てのさ団らにしなあらぱわれらかざ弘らに.きよくあらした
23
磯田武椰士。「塀」(日本歴史新脊)
粧野確氏綱・「準蒋舞川染」
和辻輝郎仰士・「側水盤術史研究」節一巻
金関丈夫抑士。「木蛎と石牛」1民族学の川辺1.
室木称太郎氏.「郡刑璃物語と民間税蹄」(阿鑛と同文学昭和三十
三年十月)
室木弥太郎氏。「幸若と鐸だ」(悶鮒と脚文学Ⅲ和三十二年八月)
(一〕動詞の音便屋‐》
。ゆずさらさらとおしもんで(神梁川)
、、、、
かに巾枇禰法の痕跡を過していると縄ぬられる点を収0あげてみた
次に「山城国踊歌九審」を国語史的に慨鰹するに、所收歌謡の大
譲分は、少くとも室町末期以前に成戒したと推定されよう。いま明
四
(5)
(8)
(7)
(8)
(9)
(IOU、⑫ID(10
、,
.一回皿、・フ(他h》
(せ)、
oみかぐらおんまいらしやう。(神楽剛)
(せ)、
oいつくにおどりてみせまいらしやう(潴所師)
(せ)、
o・ゆめにこなんとじゃりしやう(大伍蹴)
c、やら(に侭)
、、
(ごじんやく)
(せう)
o十七かことしはじ砂てすをたて出す壱のまきやけにやなに巻しよ
やら(ご腋しんやノ、)
、、
oおやざとにあめかふるやらくらくなりだ({」じんやく)
D、いで(善’)
(で)
も、
○たシさきがあとおもへば水すますあとおにこぎいてたつやとj|□だ
でⅢ.
『ⅥⅢ
、、
D、の息皿》
已
、
oセツぴよしハツひよしルッ》」ひよしとのとねてしよの(一」じんやく)
E、の量ご
■
○さぬきのとのこにⅢかくれていまハさつまのよそにミろ(脇の師)
F、が(偶》
o十七ひめごがかれ〃、むて(宝踊)
、
、
○十七かおやにしらセてほ》てわらの(こじんやく)
、
○天女のごとくミ砂よしひめこがあつまりて(ごじんやく)
○十七かことしはいしめてすをたて記(ごじんやく)
、
G、へ【低)
も、
o北の川へいて、くれハ(座の師)
H、さへ(惟凹
じんやく)
oミすのうへ砥ることりさいもつまをおもゑばはたたきをする。}
〔瓶〕感鋤川
、、
oやらミ{」と(躯馴)(髄)
〔』o迎体刑(咋町)
、、n
、、、
oこ乱な物のをしてのわるさ肱凸(人脈川)
1卯
凸Ⅲ
、、、
○そこな8じのひきてのわるさよ(大脳蹄)
〔七〕川
○京からくだるからゑのひおぷたんだひとへにたち絃らぴ(ごじん
やく)羅舳)
「参曲十」は中古から砿縦鵬(雌kするの意)としてⅢいられ、木
謙但形においては、とくに見るべきものがなり
24
 ̄
ら(ごじんやく)
、、、
〔四〕助
A、ほどに{碇8)
、
oめでたいほどにかぐらがまいる(神楽蹄)
○だいじんどのどしんのとうくらかれ弓が》」てんにこめてあるほと
、
,、
にそれとりだしてぬ七て、こしよ(大臓踊)
B、こそ是2
原師)
、
、、
(が)
oおれをハたれとをもひそるよおれこそゆりハかだいじんよ・(大
、、
oいまこそかししやうへ一一企いれや(宝踊)
c、が雄屋血)
o巾煎のこしにさしたるしめのぶちあれをノ、れかなくにのミやけに
(ごじんやく)
(2)(】)111
たこと’六鯛・〈T狩物朏雌に兇えばじ山、徒然蛾にも「われ一」そ川
、、
泥ちよ」(八七段)など児られろ(汎山石大一一氏「古典解釈のための
、
郷でも主効捌の期介が多いが、巾肚にⅢいられた、川駈る舵鵬癒い
勺
し丁菰の恵味を添える補助動詞的な刑法も兇られろ。
、、
助詞」の中の係助醐の項。「国文学解釈と鑑食」昭和三十三年四月丹)
、、
寵川時代竹村の辿休制。「そこなやつ、]てれがし莚も打榔し一ぜるか」
℃、
「やら奇特や、表に案内がある」(狂(図川、「批癖」)
もD
やあ、あめの恵む変わす。「やら、唄かと忠ひて」(沙折躯)
の文法」)
の持っていた臘能を変わすために残るように砥って来た。(「中仙
中仙柳川をすぎてより、次節に「だに」「すら」が失われ「さへ」
だけが本来の「添加」の意味ではなしに、むしろ「すら」「だに」
をも衣わすように舷って行った。(浜Ⅲ敦氏「中枇の文法」)
ったが、中世には「へ」が次飾に「に」よりも催勢になLリ、冊狩点
「に」「へ」も本来前者は州湘点を、後調は方向毬という区別があ
(浜川敏氏「中仙」)
「が」は卑しめるという区別が酪盈存していた梯である。従って
「が」は自己或いは身分の卑しい第三者に、「の」は対老或は節一一一
新に服いて敵意を斐わし、少くとも純蝿する窓は含んでいなかった。
巾肚中川以彼、主橘が人に側する鳩合には、「の」は舷窓率」斐わし
代にも類例が多い『)
「を」の刑法に近いといわれる「の」。上代・中古避繩て、宗町時
釈と魑沈」川馴三十三年Ⅲ月咄)
形は室町蝕川時代に特に多い(森爪敏氏。「終助詞」「国文学解
「な」は「なう」「なあ」あるいは「の」「のう」ともなる。この
「時々こ唖たへ米いがな」(初ドリゲメ大文典江逝ページ)
巾肚特有の棚法である。(浜川敬氏「中砒の文法」)
願望の「がな」が動詞に汰接した例で、「引けがな」などと同じく、
・剛川川」)
こそ-や(祥の噸のみおび麓ハリだ『Oとの下にこそあるら功や「稲川
、、■
「侯ふ」の室町米川におけるくずれた形の一つ。ロドリゲメは「mc3
(そる)は、杵皿の非状に使って、粧爪北ものには余りⅢいない。
又、糊きことばの「舞」及び「物雛」に便ひ、話しことばでも亦一
部の老人が尊敬する人と話したり、その人への伝諒を高渡したりす
る時の靴孤駈簡莱にこれをⅢいる。」といっている:(「Ⅱ水大文
典」二一四ページ)
「た」が一般化したのは室町川にはいってかららしい。水神も「た」
が全般的に「たり」に比して多い。
下二段の助刺に忽志遊糞わす「う」が擁紬した川例であるが、「う」
は宗町期に入ると、先行する助詞の雌後の母音と噛合して腿母音と
ていたこと》煙示してい{◎。⑪・碗・@。③にみえる「しよ」は「せ
、じ
なり、下二段は四段と共に、2V急の変化巻辿って批艮商化され
う」の勧奨音化がさらに短宵化したものであるが、これらはすでに
近世的といいうるものである。
「やら」は「(に)やら⑪」・「やろう」の変化したものであるが、
木鱒の「やら」は未だ近肚以後の並列の通の助捌化はしてい敵い。
打消の「ず」から助詞「て」につづく場合、室町末期において京都
語では「いで」の形が行われていた。
「い」と駈ったものではないかc(浜川敦氏「中仙」脚綿の雁山所
「で」のⅢにあった界母宵が淡拙されずにあったものが、独血して
収・「中世の文法」日本文法識座①文法史所収)
順接硫定条件を斐わすのに活川棚の己然形に「ば」をつけて表わす
代りに「ほど(に)」「さかい(に)「から」雄どの助制や形式体
言を用いる瀬が多くなって来た。(浜Ⅲ敦氏「中枇の文法」原凹・班
由を表わし「故に」の窓の接統助洞で、抄物・雅代鞭に多く見えろ。
平安時代後期以後では「よ」で文を終止して結びとするものが生じ
25
⑪
00
⑫
(IiO
10
燗
IlQ
(ID
③
(4)
(5)
(0)
(7)
(9)
、、、
(狂冨、「風側子」)
「ここな者がそれがしお』駁ぷると処えた」(狂(凸、「城大名」)
、、、
燗脚跡瀞と次の有脚子齋との側に独血の胤汗が入ってきたもの。灘、
、
時代の凧記物などに「たん置鰯0に弱》◎」つ打きてんげり」肱どの高
い方が見えろ。(土井糊士「日木漉の歴史」)
、、
なお、木辨に見える枇背についてみろと、「こ虻だいまいろ」・
も
■
「あなたいまいる」(神楽鮒)にみられる「へ」を「い」と細るの
、
■
は、「踊鴫歌」の「さんおきおとり」にも「つしまい一一争いりて」.
も、、、、
「おきかいまいりて」・「たんぱい{}いいりて」と兄えているのと同
、、、
、、、、
じく、一一季だ「ごじんやく」に見られる「す強めかかいろうハなもか
、、、、
いろう」・「おひとまもしていざかいろう」は、狂簡歌謡一一三「す
つブ)
、、、、
、
ができよう。これらの古民謡を逝し中世末近世初期腱民の哀歓にじ
かに触れ合う感慨に打れろのである。これらの歌綱乙そば民衆の雁
史と歩みをともにする民衆文裟の力強い形象であり、術に民衆化派
に限り粒き洲いを与えた親しい生きた言莱であった。これらの民衆
の歌声が脳なる過去の汀莱であってはならない。我々はこれら過去
の民柵を好雄しなけれ臓なら敬い。
木番所収歌謡の発想ならびに表現形式などにおいて取扱うべき幾
多の川迦があろうと魁われるが、それらについては別に述べること
にして、小総の要旨をとりまとめて紬ぴとしたい。
とはほぼ時と所をⅢじくするものである。
⑩所収歌鋼の大部分は室町歌謡の系列にあり、幸狩鈍仙・閑吟班・
宗安小砿采・狂言歌謡との関係も密接で、「剛隅欧」「聖鐘踊歌」
②川城国を本拠としつつ、しかも弊との交渉も瀬く、その低播経
路は、一般に日本の伝承民謡にみられると同じく、西から束へ、南
から北へと低折する傾向が腿められろ。
③「Ⅲ城瓜蹴砿几恭」は、祁洲は七五七五形式肱いしはその破桁
及び装飾譜の付加したものが総数の半ば以上を占め、未だ近川調は
現れておらず、脚編史的にみて中祉調法の疫跡を過しており、「踊川
歌」虻と古捌の踊砿と共に、小仙末期から近仙初期へかけて嘘行し
た風流剛歌の詞型をよく伝えている。
・川瀬一蝿仙北・磯Ⅲ武川士・前川淑氏及び木学凹沢教授・森飛助教授から
附肥小摘遊收するに当たり、いくた光学の学恩遊戦った。特に洩野処二氏
はご商肥轌辱うしだ。謹んで感謝の恵む麦する。
(水柵はⅢ和三十二年九月二十二Ⅱ、來攻教育大学川棚川文学会研究発変
会において、逃した要旨に補正を加えたものである。)
26
ごノーとざておかいらふようの」(岡本古典文学大系本)と鐸のるに
、、、、
同じく、「かへらう」の靴音現象である。》てのほかに、「ひよどし
、、、、
よみひ」(緋絨鎧)「さびつる」(噛る)・「すけないと」(《て)
.「そるいて」(伽へて)粒ど川じ。
また、ととシの混用は近世から見え、上方でシを上と発脅し、江
、、、、、
戸語では享保頃に既に上をシと靴ろ癖がめったと満われる(「青Ⅲ
王淵梨」)が、木撫において一例、「ぬんしよおどりわしとおどりや」
(名所蹄)と見えるのは、その原因は不祥ながら山城川和束地方に
たまたま江戸語の批脅現象の混柾しているものとして興味ぷかい。
の流行を見に、風流跡にともなう踊歌の系譜をひくものと凡ること
鋼は小仙末期より近枇初期にかけて求都近郊の農村民衆によってそ
以上、「山城風踊歌几恭」について、その内容・梛調について、
関係軟鋼との凹迦を考察しつつ、概観したのであるが、その所収敬
五