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くわ
将 旧主と敵対
な
や
じ
べ
遺臣たちの、究極の選択。
他家も欲しがった名
関ヶ原合戦後に改易となった長宗我部氏。
そのとき、家臣たちは自らの判断でそれぞれ
の道を選びました。主人盛親とともに土佐を
え
桑名弥次兵衛
出た者と土佐に残った者。あるいは、新しい主
人に仕官した者と、二君に仕えず武士を捨て
藤堂高虎自ら書状を送って家臣に加えたと
いうほどの戦上手。藤堂家では 2000 石も
た者。遺臣たちはそれぞれの選択に基づき、新
旗指物
伝藤堂玄蕃所用
(八尾市常光寺蔵)
の 禄 高 を 得 た と か。
事
事前に盛親の承認を
しい人生を歩み始めます。
しかし、14 年後に勃発した
「大坂の陣」は、彼
得たうえでの再仕官でしたが、なんと
得
らが一度決断したその後の人生を再度問い直
「大坂夏の陣」ではかつての主家である
「大
すことになりました。果たして旧主盛親の大
坂入城を知った遺臣たちの運命は…?
長
長宗我部軍と戦うことに…。 そして、その究極の選択の結果は…?
大坂を舞台とする徳川・豊臣両軍の激戦、
藤堂家仕官後の旗指物
「当家旌旗図」
(部分)
(三重県蔵)
「大坂夏の陣」からちょうど 400 年。
長宗我部
氏の遺臣それぞれの選択とその後の人生を検
証します。
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はま
地下役人として
て
国衆 ご
ろ
べ
え
濱五郎兵衛
二君に仕えず
長宗我部氏の招きで土佐に来国
した元阿波国日和佐城主。盛親
に恩はあるものの譜代の直臣で
肩衣(館蔵)
はない五郎兵衛は、新国主山内
伝山内一豊より拝領
氏に地下役人として仕える決断
をします。晩年には赤岡浦の庄屋役を次男に譲り、
自身は再び日和佐へ。
みょう じん げん
盛親
ぱち
側 近中の側近 明神源八
終始盛親のそばを離れな
かったという側近中
かったという
かったという側近中の側近。
盛親から他家
家への仕
盛親から他家への仕官を勧
められますが
が、二君
められますが、二君に仕え
る気はなく、また病気
る気はなく、また病気を患っ
たため帰国。
。まもな
たため帰国。まもなく病死
します。
失意の帰国
主に
殉じた忠臣
なか
うち
そう
え
中将姫六字名号曼陀羅︵館蔵︶
はたして その運命は
他
中途採用の
ীȋଗȄDŽ
ฑৡǤ੏ȄDŽ
もん
中内惣右衛門
衛門
残兵を
関ヶ原での敗戦時にも残兵を
佐へ帰
統率し盛親を無事に土佐へ帰
重臣。
還させたことで知られる重臣。
活動を
主家改易後も京で再仕活動を
盛親の
する盛親を支えます。盛親の
命で一時
は他家に仕えるものの、大
坂 入 城 時 に は 直 ち に 帰 参。
喜んだ盛親から褒美を与え
られたと伝えられます。
三十三間小星筋兜(館蔵)
新天地を求めて
き
ら
また
ご
ろう
名を残す 吉良亦五郎
九州の地で
九州の
の地で
薙刀
︵館蔵︶
三又槍︵館蔵︶
両資料とも吉良系長宗我部家伝来
※
――
長宗我部盛親書状
明神源八宛
(個人蔵)
一門のため
一門のため、浪人となって土佐を出た吉良
亦五郎。盛
亦
亦五郎。盛親の入城に呼応して
「大坂の陣」
に参戦
に参戦します。
敗戦後は再び浪人となっ
て江戸へ
て
て江戸へ行き、苗字を「町」と変えて細
川忠興に
川忠興に仕官します。
とさでん交通電車
至高知港
至高知龍馬空港
/
上「大坂夏の陣図屏風」
(大阪城天守閣蔵)
下「大坂市街図屏風」(林家蔵)