Title 戦国大名領国における重層的領有構造 : 毛利領国を - HERMES-IR

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戦国大名領国における重層的領有構造 : 毛利領国を例と
して
池, 享
歴史学研究, 456: 1-20
1978-05
Journal Article
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/18622
Right
Hitotsubashi University Repository
(
論
文)
戦 国大名領 国にお ける重層的領有構造
- 毛利領国を例 として-
池
亨
を積極的に推進するとともに,それを通 じて在地小康主
は じめ に
層を家臣として隔成 し,権力基盤の拡大強化をはかった
近年の戦国大名領国研究の発展には,目覚 しい ものが
とする理解である.とりわけ,武E
E
l
領国の場合の,盲姓
ある.その源を求めれば,村田修三氏による戦国大名の
への免除分 も含めた 「貫高」の定量的掌握,名田宛行を
「独白の権力構造」論の提起に行 き着 く1
)
.氏が問題にし
通 じた在地小領主層の軍役衆 としての編成,今川旗国の
たのは,それまでの研究が,戦国期を過渡期 として しか
場合の,名職所有者 としての在地小額主層の家臣化は,
理解 していない点であった.一万では幕藩制 との,他方
注 目すべ き指摘である7
1
.
では荘園制 との通読面が強調 されるという相違はあって
こうした在地掌握の深化 (
-額国支離の進展)の指摘
も2
)
. 私は,この視角は依然有効であると患 う.中世か
自体は,重要であ り,不掌握説への決定的批判 となるも
ら近世への移行期 としての故国期社会 (
その主要な構成
のである.しかし,その戦国期的独自性の実体について
要素である戦国大名領国)のあ り方の独自性の解明によ
は,十分解明されず,むしろ,近世的-職支配 ・兵農分
って こそ,中世社会発展の到達点,及び近世への移行の
離への接近度を主な指標 として評価が行われている印象
内容- 変化 と継承の次元 と質-
を明 らかにす ること
を私は もつ.それでは,またして も過渡期説 となるであ
が可音
別こな り,安長城盛昭氏の中世-家父長的奴隷制社
ろ う.それは単に視角の間魔だけではあるまい.事実の
会我発表以来の,中世史研究 と近世史研究 との 「断絶」
聞題 として も,中間持分の給分化が-職支配への-階梯
状況の克服への道 も開けるのである.
としてのみとらえられないのは,有光氏 らが明 らかにし
しか し,村田氏がそのための仮説 として提示 した 「
賓
た事実それ自体が物語るとお りである8
)
.
高利」論3
)は,封建制の基礎である土地制度か ら切 り離
従って,「独自の権力構造」は,未だに明らかにされて
され た権力構造論であるとい う,致命的欠陥を有 してい
いるとはいえず,よ り具体化 きるべ き課題 として残 され
た.即ち,戦国大名による新たな敏有体制の形成の評価
ているのである.では,それは如何にしてなされねばな
を全 く欠落 させたた桝 こ,領主階級の結集の根拠を反践
らないか.その際の中J
C
h
課題が,戦国大名が直面 した歴
賦課権-守護公権に求めざるをえず,守謹公権論の一人
史的状況の最大の特徴である,在地小領主層○
)及び彼 ら
歩 きによって,藤木久志氏の守護職重視,ひいては戦国
の掌撞する中間持分の処理の問題であることはい うまで
大名-荘園制依拠極力論へ と ひきつがれたのである4
)
.
もない.しかし,前述の批判か らも明 らかなよ うに,そ
これでは,村田氏の当初の意図 とは正反対に,再び過渡
れを単に量的問題 として検討するのみでは不十分である.
期説に戻 ってしまったといえよう.
如何なる性格を もった家臣 ・給分 として編成す るのかと
以後,氏の欠陥の克服のために,領有関係 ・土地制度
いう質的問題 としての検討に,よ り力点をお く必要があ
の研究が活発化するが,在地不掌垣-荘園制依拠説は,
る.そして,それが如何なる矛盾の反映 ・産物なのかを
依然一方の有力な潮流 となっている.即ち,戦国大名は, 確定 した とき,「独自の権力構造」は眼前に現われるであ
外延的には公田体制を,内包的には本年貢体系を基本 と
す る収取体制, 知行制をとっていたとする理解である5
)
.
しかし,こうした観点か らでは,「独自の構造」を明 らか
ろう.
本稿が対象 とした毛利故国は,東国大名 と比べて遅れ
たイメージのある西国大名である.現にこれまでの研究
にすることは困難であろう.戦国大名が,新たな歴史状
は,荘園制的性格を色濃 く残す面を強調 して きた1
0
)
.し
況に対 し,守旧的政策を もって対応 した とするのでは,
か し,現在問題 となっている戦国大名鎮国支配の進展は,
独自性の評価はさしたる意味を もたないか らである.
決 して毛利領国において も見 られない ものではない.そ
事実,研究の主潮流は,検地を媒介 とする在地掌握の
8
)
.即ち,戦国大名は,外延的
こで,前述の問題意識に従ってその内容 を握示 し,-事
深化を重視する説である
例を加えるとともに,東国 ・西国に共通する戦国大名儀
には非公田部分の掌鼠 内包的には加地子得分の給分化
国の独白な歴史的意義を解明する-階梯 としたい.
- 1-
歴
史
学
研
1
) 村田修三 「戦国大名研究 の問題点」
『
新 しい歴史学
4号 1
9
6
4
,参照.
のために』9
2
) 代表 として中村吉拾 「蛍乾固大名論」『岩波講座 日本
歴史 中世 4』 1
9
6
3,佐 々木潤之介 「統一政権の形
成過程」北島正元編 『体系 日本史茸 審 2 政治史 Ⅰ』
1
9
6
5, をあげてお く.
3
) 村 田 「戦国大名 の権力構造」『日本史研究』7
3号
1
9
6
4
, とりわけ.1
2頁 の 「貿苗制」 の概念規定参照.
4) .
事実藤木氏 は,氏 の守態公権論が村甲氏の 「貫高
制」論 に触発 された ものであると発言 している(
『シ
ンポ ジウム日本歴史 7 中世国家論』1
9
7
4 「四.敬
,
,1
8
4貢).
国大名 と統一政権」
5) 藤木久志 「戦国筋の土地制度」竹内理三編 F
I
体系
9
7
3,第三節 「在地
日本史荘番 6 土地制度史 Ⅰ』 1
領主 ・職国大名 と荘園体制」, とりわけ5
0
5頁の結論
参照.
6
) この諸成果については,永原慶二 「大名横国制 の
97
6 「二.大
構造 『岩波讃盛 日本歴史 中世 4』1
名領国制 の農民支配 と権力編成」.参照.
7) 勝俣瑛夫 「戦国大名検地 に関する一考察」永原慶
二輪 『
戦国期の権力 と社会』 1
5
7
6,2
0
4貢 「戦国法」
」
究
徴 を検出 し,後の個別分析 の指針 としたい. しか し,毛
利領国においては,戦国期には全領国的検地は行われず,
また,全家臣的知行関係 を明 らかに しうる史料 もない.
従 って,それ は,中央政権へ の服属以降の全額国的検地
の分析 を通 じて遡行的に行 う以外にはない.天正1
6-9
年 (
1
5
8
8-91)の惣国検地 (
以下本章では① と略す),顔
1
5
9
9・1
60
0
)の兼重蔵田検地 (
以下本章で
長 4・5年 (
は⑧ と略す),慶長1
2- 5年 (
1
6
0
7-1
0
)の三井蔵田検地
1
6
2
5
)の熊
(
以下本章では③ と略す),そ■
して寛永 2年 (
野検地 (
以下本章では① と噂す)がそれである日.
検地帳及 び打波坪付に示 された数値 を使っての分析 は,
その意味す る ものの不明確 さか ら,十分慎重 に行わねば
な らないが,一般的憤向をつかみ,具体的分析の指針 を
得 る目的には,有効であると考 える.
,
1) この うち⑨,⑧,④ については.松下志朗氏によ
1
9
7
6年度 日本史研究会大会報
る簡単な分析があ り (
7
6
告 「近世初期の石高 と権力編成 『日本史研究』1
号 1
9
7
7,1
4
7
1
5
0貢),参考に させていただいた.
」
,
『
岩波講座 日不歴史 中世 4』 1
9
7
6,2
0
4
革 有知友
学 「戦国大名 今川氏の 歴史的性格」 『日哀史研究』
1
38号 1
97
4
,36
頁,参照.
1
8) 名職が,年貢定納 の請負 を伴 った ものとして知行
一別 に 組 み 入れ られてい る 点 に,端的に 示 きれよう
5
3
6頁参照).
(
有光前掲論文 .3
9) 中世後期ゐ生産力上昇 と農民闘争 とが相倹 って,
′ 剰余を在地に留保 させ,それを取得す る階層が形成
きれ る∴彼 らは,農民 とも領主 とも搾取 .対立関係
を もつ中間的存在 である.従 って,彼 らは,彼 らを
:_
畠定す る中間得分 の.
取得の安定化 を志向す る.中間
得分 は,歴史即 乙は封楚地代の端緒的形態 として位
置付 けられ, その搾取 は経済外的強制によってのみ
安定化 しうる.そこで.彼 らを,領主化の方向性を
もちつつ も,首姓 として支配 されている過渡的存在
という意味で,在地小債主 と観定で きよう.
この中間層の想定 をめ ぐって論議 の分かれ ること
は,一
周知 の通 りであるが,
本稿においては,以上のよ
うな市境 として理解 していることを示すにと軍める・
ユ0
) 松 岡久人 「戦国期大円 ・毛利氏の知行制の進展」
『史学研究』8
2号 1
9
6
1 「二.戦国期毛利氏の知行
制」 をはC,
め,食近では岸 田裕之 「室町戦国澱 にお
ける諸梼力の 図田支離 と村落農民 『日本史研究』
.1
7
2号 1
97
6 「二.戦国大名毛利氏の園田再演成」
な ど.
,
,
」
ヽ
Ⅰ
欝45
6号
1.戦国的検地の総決算と しての惣国検地
前堤 として,検地の性格 を簡単に検討す る.
①は,中央権力への服属 に伴 う知行高の確定作業 とし
,
て行われた もので,その結果 は 「八ヶ国時代分限帳」と
して残 されてい る1㌧ それによれば,莱- に範囲 として
は,蔵人地 ・給人領 ・寺社領 ・地方関係知行地 を含む,
まきに全領国的検地であった.第二 に方式は.
打渡坪付21
の記載方式か らす ると,
面積の丈畳単位 として 1
・
反 -3
60
歩制 をとっていること,確定 され る高が収納高で,田地
では石高,島地では貫高が用 い られ,屋敷 は高付けされ
ていない ことな ど,戦国的検地 と共通 している.また,
,
有力 国人の給地 の場合は 「冷塊付立 」に 「指出前」と記
されてい る例 も多 く3
㌧ 一律に竿入れ した とは考 えられ
ない.第三 に,掌握度 を戦国期 との開連でみると,同一
絵地 において確定で きる例 は一つであるが,〔表 1コに見 .
るよ うに,面積,反当高 ともに,殆ん ど同水準 を継承 し
ている. これ らか らすれば,①の結果は,戦国期に行 う
て きた検地 の方式 ・内容 を うけつ ぎ,それ を全額国に適
用 して得 られた,いわば戦国大名毛利氏の在地掌握の総
決算的性格 を もつ ものなのである.
⑧は防長移封直前に行 われた もので,検地条 即
) によ
れば,太閤検地 の施行原則に則 った近世的検地 を目指 し
戦国期毛利領国における
た もので あ り,実際に も, 1反 =3
0
0歩制 をと り,石高
領有制の一般的特徴
が初 めて生産高で表示 された5
_
)
. ③ は,後 にこの結果 を.
分 析.
をはじめるにあたって,まず,領有制の一般的特
6
万石が確定 され る検地である.
基礎 として近世の朱 印高3
-.2 -
戦国大名領国における重層的領有構造 (
弛)
表 1 防州都池郡須々万内伊藤氏給地の内容
弘 治 4年 7月2
4日
地
字 d面硬 F
高
l反 当 高
天正1
7年 5月1
5日
名 請 人
地
字 1面積 r
高
反 当 高
名 謂 人
7
年の捻出には昌地も含まれているが,比較の便宜のた
天正1
r
或藩閥同線J(
山口県文台鉛版)退漏.3
4頁 (
以下,r
萩滞
れ周囲
E
E
壕
地の
Jに
みつ
にい
限っ
ては
た,
合山
計と
口県
し
文
た
昏
.
館版の刊本の巻数貢数のみを略記する.
編」は「
イ」と略す.従って,この場合を例と
なお「
i
改
ここで初
すると,閥イ・
3
4と衷示することになる)
.該当期の部分 に拠 って
いる.以下同様.
3
)
例
えば天正
1
9
年 9月2
5日 「山内氏知行
近世的検地が達成
めて検地条
された.
目6
)と実際7
しか し,
)とが一致
「益田元祥覚
し,本格的な
沓」8)に
『山内首藤家文 番
検地持出」
強引な搾取を日的
よれば, この検地は,防長移封後の財政難克服のための
とし,その結果 「両国百姓分散」し,
「両
国大分荒所出釆
が行われ,本格的な
」 とい う状況 を もた らしたD
)
. そ こで◎
は,実測に基づいた近世的知行 瓢の基礎 とされた. これ
納高の平封 を出 し, ものではな く,村毎の過去 4年の収
ものである1
0
)
.そこで
それ を五 ツ成 として石高 を逆算 した
納高 は現実の状況 をふ,石高 自体は架空の数値だが,収
い1
えよ
う.
まえてお
り,倍寂度の高 い数値
) 『
毛利家文 庫』5
2
-1 (山口県文苔館乱
なお, と
こ
の 『毛利家文庫』 の分類番号 は,山口県文書館にお
」3
3
1
4
5
)「
) 打渡坪付
党」『益,
田家文
香』
.
号.
「兼重蔵E
E
l
抑検地帳」『毛利家文庫』
6
)
-2
「蔵人再検申
,(
二) (
≡).
・
l
l
付侯条々」 (
「詳録」 み 4 『毛利家文
7
) 』2
打渡坪付
3
). ,「三井蔵 田御検地帳」『
-2, (四) (
l
毛利家文庫』l
8
) 『毛利家文 香
五).
ては,
』1
5
5
7号,以下 『毛利家文番』につい
9) 森 田良書
毛 ・1
「
5
5
7のように略 して表示す る.
方史研究』1
萩藩財政成立過程の諸問題」『山口県地
0
1
0
) 「熊野研 周防国村
号 1
9
一
6
3
,2
1
頁参風.
庫 』1
1-2, (
七)
紙 長門国村 一紙」『
毛利家文
庫
の全体
ける整理作業
は,『山口県文書館史料
によって,付 けられたものである.
目録J1-4として公
そ
刊
してい
きれてお り,本稿において も,それに従 って表示
地の る).この 「分限帳」の史料 的価値及び惣国検
領国支
評価については,利岡俊昭 「天正末期毛利氏の
1
9
寵の 進展 と家 臣団構成」『
史林』4
9巻 6号
6
6
,参周.本稿の論
旨との関係で重要な点は,
「現
存する諸家
ら考 え
の知行 目録 に内容がほぼ-致す ることか
い
て,その史料的価値は極 めて高 い」(
8
6頁)と
る例の
う指摘である.特に,打渡坪付 の絵計値 と一致す
行高が,
かな りあることか ら,「分限帳」に記 された知
う. この検地 をふまえた正確な ものであるといえよ
高2
3
万石が,(
ことは,
勤の結果打
「分限帳」における防長両国の知行
ち出 される収納高2
2
万石 と
ほぼ等 しいことか らもいえる (
後出 〔
2) 打渡坪付 につ
表 2⊃参府)
.
もの (
一部 に山口県文書
(
『
毛利家文庫』2
いては
3
)所収の
『
萩藩閥閲録』及び
「諸鐙」
館蔵及 び東大史料編纂所蔵 の文督中の ものを含 む)
八).
2分析の第.「全剰余労働」の拳捜
として (
頭毛利領国における絵
,各検地の結果 をまとめた 「
近世初
2コに基づいて 総高を石高 ・収納高及 び面積の変化」〔表
る1
石高
)
. をみると,
して,③で 1
,
比較 し,全体的 掌垣度 を 検討す
① と⑧ とがほぼ等 しく,その後急上昇
やは り,① と①
6倍,④で
と
2倍 となる.収納高 をみると,
は逆に低下 して 1が等 しく,③で 1.
7倍 となるが,④で
,
の うちの
歴
史
学
研
一
究
弟 456号
表 2 近世初頚毛利領国 におけ る総石高.収納高及 び面積の変化
〔・コ内の数値は筆者の計辞r
Eよるもの.その他は史料上の
それでは, この1.
43倍 は如何 な る内容の も
数値.
のか.質- に,田島以外 の従来年 貢のかか らな
のであった
敷 ・樹木へ の課弓
削こよる増加が ある (
両方で全か った屋
約 1割).第二 に,従来賦課の弱か った と思われ収納高 の
課税強化が あげ られ る2
)
. 第三 に,田地 に対す る昌-の
み る と,面積で は,表 には載せ なか ったが,⑨-③の変
る凪課 を
化のわか る防州で1.
17倍,反当収納高で は,〔表 芦
〕(
後
13倍,全収納高 では1.
1
出) によれば,同 じ く②-◎で1.
×1.
13-1.
32倍 とな り, はば③-④の田島収納高 の
1.
36 倍 に見合 った数倍が得 られ る.(昌地へ の凪
加度 の方が古 いか ら,
■
多少低いのは妥当で ある
で 2割弱,反収増 も1
7
増加
課の増
).面積増
す る もの とは評価で きな
斗程度で あ り,体制的 に段階 を面
っ ま り,① ・①→①の総高
い 8).
の増力血 ,搾取
化 による もので あって,中間得分 の処理 ,即ち
の全般的強
定 と給分への組 み こみをめ ぐっては,①段階
. その香
で基本
,即 ち,年 貢 +中間得分 としての
「全 的に
終 了 してい る
労働」4
)搾取体制が成 立 して い ると考 え られ るのであ
剰余
ここか らすれば.① q)
方式 ・
■
内容が戦国的検
る.
的性格 を もっていた ことは, その後進的性格地
をの総決算
も,
い.む しろ在地掌握の深化が, ここ毛利鎮国において
意 味 しな
戦 国期か ら相 当程度進行 していた ことを示 してい るので
十分成 り立つ と考 ■
ぇ 去.
■また,江戸 の東
推測 は,
れ ろのは寛文期 である・従
研へ統一 さ
同一基準 の もので あった と?て了該 当期 の使用研 は,
① につ いて は 「分限帳」の由長両国
しでお く.
高 を もって収納高 とし,打渡坪付 の高 にお ける総石
限 られていることか ら, それ を田島収納高
表示 が田島 に
租率 は,天正1
8年 に豊 臣氏か ら宛行 われた とした.
112万
く
毛 ・956)香 「分限帳」で示 された全収納
石
(
実際 に記載 されてい る数値),乃至 は81 高76万有
として示 されて いる数値) 右仮定 の_
租率万石
で除 し
(
森高
られた もの と推定 して,76
て得
算 によって割 り出 した もの-81万/11
2 万 とい う計
⑧ について は.「検地帳」には惣石高
である.
島の面積 及 び物成高 が記載 されて いる.
とその内の田
率 を算 出 した.惣高 の内 として田昌のみそ こか ら唾
示 されてい ること,① との関係か ら, が面積 を衷
田島の
一応,惣高 は
も田島みの石高であ ると推定 した. よって,物成高
③ について
のみ とした.
は 「検地帳」には田 ・畠
ぞれにつ いて面積 と石高が記戟 きれ, ・屋敷 のそれ
どが石高 のみ記載 きれ, その全体 の石 他 に小成物 な
て いる. そ こで,総石高 ・田島石高 は高が合計 され
に確定 で きる.租率 は,検地条 目に蔵 それぞれす ぐ
して記載 されてい
人地 の もの と
高 に乗 じたのが収納高
る七 ウ三分 を借用 した. それ を石
① につ いて は 「検地帳」には③
であ る. とほ
があ るが,前節 で述べた ことか ら,収 ほ同様 の記載
を史料上の数値 とし,石高 を計算上 の納高 と租率 と
2
) 表 には載せ なか ったが, 島地 の面 数値 とした.
.
5倍 に拡大 さ
いて,①-① で 1
軌 ま,防州 にお
3) 面積増 につ いて は,隠田摘発か新
れてい
田開
る.
評価 は簡単で はないが,毛利氏が青 田庄発
なかな
ど ど,
30町に対 し実 際 には 700町余 を掌握 していた で公
(
毛 ・
26.27) i:うな意味での,公.
田体制苔定 的意義 は も
,
,
,
,
・
ある.
1) 表 の数値 の算 出末法 について説 明を加 える必要 が
あろ
前提
う.
として,① が戦国的検地である以
と近世 とにお ける使用研 の変化 の有無 を上,城国期
れば, 比政 は無意味 となろ う.宝月主音氏
確定『中
しなけ
制史 の研 究』 1961,によれば,大 円領国で
世皇
徴収 に際 しては,判折が使用 されていた (は,租税
33
漁).判桝 は,支寵領域 にお けける公定折
2貢参
研 を整理す るものである.私桝 の統一
として,私
宿敵 を媒介 とし, その商業活動 において
自体
はは,商業
国 は淑戸 内水運 を通 じて蔵 内L
t密接 な関 ,大 内領
い る以上,大 円氏 の判所か京研 の もととな
係を
る京都十
もって
田
,
_
.
4)たない.
以下,本稿 においては 「全剰余労働
いて本年貢 ・中間得分 として搾取 の対 」を中世 にお
た剰 余の全部分 を表わす用語 として使用
象 となってい
- 4 - 台所 との共通基準 によって作製 きれた とい う
戦国大名坂国 に串ける重層的領有構造 (
鞄)
保 していた剰余部分 に草で準 取が貫徹 していたか は
考察 されず, また,本節 でみたよ うに,近 世にはい
って搾取が強化 されて い る以上,厳密 には,全剰余
労働搾取体制が成立 して いるとはい えない (
近世 に
お いて成立 していたか どうか も保留 したい)
.
∵
しか し,幕藩体制下で問題 とされる 「全剰余労助
搾取 とい う 『年貢搾取』原則 は,『
太閤換地J
lを通 じ
■■I■
表 3 近世初頭 にお ける田地反 当石高 ・収納高の変化
換
地
名
石
盛
(
斗
/
皮
)
典
①題 国 換 地
打境坪付
◎莱重蔵B]
境地
打渡坪付
◎三井蔵 田検地
打
薩
坪
付
「
三
井
鹿
田
抑
検
地帳
」
◎熊 野 検 地
「月某野 概周 防国村一
紙長門国村一紙 」
Q的帰
て の 『作 あい』石崖 と 『-職』女配確立 の必J
I
結 」(
安良城盛栢 『
幕藩体制社会 の成立 と構造
増補
版』 1
9
6
4
,1
2
8貢,傍点著者) とされてお り, こ れ
との対比 において は一 当該蹴研究 の特殊概念 として
の 「全剰余労働」 を, 前述 の内容 に適用 す るこ とは
許 きれる と考 えろ. その意味 で
」をつ けたので
ある.
,
「
拠
1
) 〔ゝ〕内の数値は筆者の計某によるもの.その他は史料上の数値の
平助.
・
2
) 1度=3
釦歩 として, ◎◎④については換算 してある.
とす叫
jこ,
.
収的高が分別 して表現 され る こ とは,十分 に
想定で きる・■
ここか ら.① の町渡坪付 に変わ され た数値
3.一般的編成原理 と しての重層的領有制
紘,重層的蘭有関係の存在 考前琴 として, その一方 の取
次 に視角 を変 えて,
「近世初頭 における田地反 当石高 ・
〔
宇3〕Lに基 づいて・反当の 草道度 の比
収 納高 の 変化」
戯 ・検討 を行 うl).
直 ちに注 目 され るのは一 厘 当収納高 にお ける①-⑨の
鞄1
.
7倍 の増加 であろ う (⑨-③-㊤の変化 につ いては,
前節 と同 じ説 剛 王
可能 で卑る)
.これ を ①での在地掌握
.
度 の低 さ
得す る剰余 を表現 し,⑧では,重層申簡有関係か ら-職
支配的額有囲係へ と移行す る ことによって,打荘坪付 に
全収納高が表現 され , .
1
・
7倍化が実現 された とい う仮説
が成 り立 っ
. こ う考 えれば,総収納高 に変化が生 まれ
a)
ない ことに,何 の矛盾 も生 じない・そ してまた. 与のよ
うに考 えない限 り
.
, 前述 の矛盾 は解 けないのである4).
◎ での 「全剰余労働」搾取俸制へ の移行 と評
こ うして,惣 国検地か ら兼重蔵 田検地へ,即 ち戦国か
価す ることはで きない,向故 な ら,総高か らすれ.
ば,①
ら近世への転換 は,重層的領有関係 の解消 として行われ
においで既 に 「全剰余労働」.
は掌超 されていたのであ り,
⑨では微減す らしているか らで ある. しか も,① での総
たのである.
,
1
) 表 の数値 の算出方法について説明を加 える必要が
収 納高算定の根拠 とな っ_
てL
、る 「分限帳」 の給分 の高 bl
i
,
あ ろ う.
実 際の打渡坪付の高 と一致 し, その打渡坪付 の数値 を鹿
?て反当収納高 を算定 した以上
前提 として, 1反=3
6
D歩 に単位 を統一 した こと
を断わってお く_
.
■①では 1反 -3
6
0.
歩昔U, ⑧∼① で
0
0歩制が とられているが,本稿 の主対象
は 1反 -3
即 ち,掩収納高 と反当
収 納高 とは同一のデータによって算定 した と考 えてよい
以上,その どち らか一万 にだ け大 きな誤差が あるとは考
が戦国期 のため,◎∼◎ の場 合,史料 か ら算 出 した
0
0
/
3
6
0で験した数値 を表 に弧せて,単位 の
数値 を 3
統一 巷はかっ たのである:
■
次 に. 反当高 自体の算 出方法について述 べ よ う.由⑧ については,打薩坪付 の一筆毎 の反当高 の平均
値 である.③ については, 同様 に算出 した もの と,.
こよ り絵石高 を誼面積 で 験 して得 た もの
「検地帳Jf
且 られ.
ない・それでは.①で既 に 「全剰余労働」_
が掌笹
●i
●●■■■
.
され,
しか
も
①か
ら⑳
にか
けて,総高
ではは嘩変イ
ヒが
●●
■●i
■●i●●●
な も、
に もかかわ らず,反当高 では_
1
.
7倍 も増加 してい る
,
とい う,矛盾 と も患われ る数字的事実 を, ど う.
説明すれ
ば いいのだろ うが 】
.
L
一
反当収納苗 ×総面積 -絶収納高で.
あろ以上
とがあ る・ニ ?はは仔-致 してお り.史料的 に限 ら
れた打痘座付か ら導 き出 され た数値 の一般 性 を保障
'
.
しよ う.④ に■
ぅ いて は,⑨ の後者 と同種 の算出方法
■
による もののみが得 られるのは,夷施事情か らも理
直 ちに想
定 で きるのは嘩面積の激 減である「 それ .
は,.
嘩村荒野か
■
ら生 まれ る荒地等 の激増 による,
ときれ 串 う・.しか し,読
当矧 こそ うした状況 は設定、
し辛
こくせ、し,
一毎 て も,その
.
解 で 善よ う.
?
,
中 で反当収納高が激増す る ことな どあ.
りえない,
総面革 に手掛 りの年い以上 一反 当収的高 にのみ可軍性
が残 され る・そ こで,打硬坪付 に表わ されていろ数値 申,
'
何 を意味 しても
■
1るのか を,問い直す必要 が ある・畦 日.
し
たいのは,①では.声帯が収納高 として史鞘 馴 千草 わ阜
れ てい る_
点で ある.
_生産高 は分割 して表現す る こ与はで
きない. しか し,一個 の土地 に複数の剰余取得者がい ろ
.石盛 と収納帯 との開店 は 〔表 2
〕の租率 を硬 い,
②⑨ について は,石盛か ら収節苗 を算出 した.◎ に
っL
互 は,算 出方畠は同様 だが,前節注 1と同 じ理
由か ら,収納高 の方を史 料上の数値 とした.① にI
j
■いては,後述す る理由か ら.石盛 を表示 しなか った.
2) 史料的片 寄 りは,殆ん どない と思 われ る.何故 な
-ら,
一中心的史料_
である 『萩藩閥閲録』及 び 「譜鐘」=
T
r 5:
・
・
「
は,共 に革 臣の殆木 ど草野羅 す る ものだか らであろ.
歴
史
学
研
実際,⑧ においては,打渡坪付か ら算出した数値が,
検地帳か ら算出した数値 とほぼ一致 しているのであ
究
第4
5
6号
図 1 惣寓検地反当収納高 グラフ
㈹
る.
3) 従 って,①の反当収納高 を租率で除 した数値 を,
石盛 とすることはできない.
4
) こう考 えてこそ,豊臣氏か らの宛行が,生産高 を
,
技 した石高によって 行われたに もかかわ らず 「分
限帳」・打渡坪付の石高が,依然 収納高で 表現 され
ている意味 も,理解 できるのではないだろうか.重
層的領有関係においでは,生産高表示 による宛行 は,
無意味かつ不可能 なのであろ.
戦国的検地の総決算 としての惣国検地において,毛利
氏 は 「全剰余労働」 を基本的に掌握 していた.そ こには,
荘 園制的搾取体系の解体状況 を克服 した,在地掌握の探
化 を見 ることがで きる.しかし,それは,重層的領有制
とい う形頓をとって,一般的に編成 されていた (
勿論,
そのすべてを定塁化 していた).従 って,在地掌握の深化
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
1
1
0
は,一昭支配的体制-の道程 とは,単純にな らない. こ
の点 こそが,戦国大名毛利氏の在地掌蛙の鼓大の特徴で
,
あ り 「独自の梧力構造」の解明の鉦 ともなる ものである.
表 4 芸州山原郡河戸村
(
斗/皮)
伊藤新三治地打波坪付田地
9.
l
l
.
2
0
天正1
以上が,本章の結論であ り,次章以降への問題提起であ
る.
Ⅰ 一般的特徴の検証 と具体化
- Ei
A
旧型と-職型との併存関係として本草では,打渡坪付の個別的分析に移 ることt
・
こよって,
視野 を戦国親全体に拡げ,前章の結論 を検証するととも
に,その具体的内容の検討へ と歩 を進 めたい.
1.惣国横地段階における検討
そ こで,惣国検地の結果に基づいて発給 きれた打渡坪
可・35面
るので
典拠 :珊イ
可
分
高
名 詩 人
)
. 更に,打波坪付の名話人はその土地か
ら
ある2
付の,田地一筆毎の反当収納高 を,グラフに した 〔図 1コ. 一定の絵分
を取得
している場合 もあることが予測 され る.
我々の閲心か らまず注 目すべ きは,兼重蔵田検地段階で
,
.
1斗に匹敵す る数値の検出である. この意味を, れ 以上か ら,惣国検地段階では 「全剰余労肋」が掌握 さ
の平均 8
自作地-
即ち船人自身が名話人 となっている土地-
し それが,重層型 を基本 としつつ.一職型 との併存 と
の場合に着 目して検討す る. この場合には,重層的領有
そこ
て,領有制に編成 されていた ことが明 らかにされ る.
関係は,名請人 とは間には存在 しないか ら,その給人が
「全剰余労勘」にあたる8斗前後,重層型
時型の場合は
で,平均反収高
も二つ設定す る方が正確だろ う.一
,
更に上納 していない限 り,全絵分が定塩化 されている以
上,在地学軽度 を純粋に表現するはずである1). 一例 と
均高
の場合は,打渡坪付に表示
を
された高の方でみると,総平
して,伊藤新三の給地の打疲坪付 を,表にして掲 げる⊂表
こで 多少下回 るか ら4斗前後 とい うことになる3
㌧ そ
4コ.自作士
別こおける反収高の高 さと,名請人が仙人の場
を除,打波坪付及
く
び面章 と高の表示のある宛行状 (
寺社
合の低 さとが,際立 った対比 を見せている.自作地 にお
亡妻 5
分数 してみた
)について,田地
における平均反収高 を穿出 し,
いては,全給分が坪付の数値にそのまま表わ され るため
,
に 「全剰余労助」を示す高 さとなる.名請人が他人の場
合は,重層的領有関係が存在す るために,その一万の給
分 しか坪付の数値には現われず, 自作地の半分以下にな
戦 国大名領 国 にお け る重 層 的領 有構造 (
紬)
表 5-1 惣 国検地 段階 で の反 当収納高
1
)「評価」のラノクはA
.
-3斗,B 3三
1
-61
1
3
) 「文杏所在」にある詔は
:
C 6斗収筒が不明のもの.
2) 「
反収」で ( )のついているのは,一箪毎の反
歴
日
代卜給 人.名
地
.
小二郎 かい ち中之村
L
U,
願 主 布 門大夫
芸 ・伴
、究
佐 藤 彦 三 郎
熊 野 ・
刑 部 丞
備後 ・申須
河・
北 六郎 次郎
備後 ・山中取敷各
粟 島 与 十 郎
軍 ・佐 々部次郎丸名
児 玉 木 工 允
芸 ・壬生,_
舟木,佐 々部
入 江 加 賀 守
大 呑 小 次 '
郎
芸 ・北庄
伊 藤 .
幸 三 郎
芸 ・長束
木 村 又 四 郎
芸 ・長束
岩 内 左 馬 允
芸 ・北圧
山 解 采 女 .丞
葦 .北庄
山 田 民 部 ・丞
芸 ・北圧,温科,温井
打
源
明
六
福 井 源 五 郎
.
芸 ・北庄
芸 ・下安
児 玉 与 次 郎
芸 ・佐乗下安
金 山 右 京 逢
芸 ・加茂部広浦
飯 田 弥 五 郎
芸 ・五ケ
信 常 周 防 守
三著
大はら
児 玉 与 次 .郎
芸 ・佐東下安
児 玉 四郎兵 衛
芸 ・佐 々部吉広名
弘 七 郎 次 郎
芸 ・西条熊野村
福 井 十 郎 兵衛尉
コ言
楊 井 隠 岐 守
弘治 3 粟 屋 縫 殿 丞
飯 田 弥 五 郎
■
土
上
●
防 ・山代南桑
防 ・佐波部首海保
防 ・岩国
旦
防 ・岩国
中 村 源 兵衛尉
防 ・岩国
白 木 .隼 人
臥 .中 民 部 丞
防 ・岩 国
増 原 四 郎 右 南門
防 ・玖珂郡河 内
防 ・玖珂郡大野
宍 ′戸 但 馬 守
中尾 名
智
高
治
常
防 ・岩国
中 村 奇 兵 帝
防 ・岩国
大 春 小 次 郎
防 ・都浪郡長穂
井 上 新 次 郎
防 ・都濃那須 々万
伊■ 藤
防 ・都濃郡須 々万
新
大
児 玉 内 蔵 丞
児 玉 若 狭 守
e
4
6
(
(
3
5
の釣 5239292
芸J
・
伴 ■
井 上 三 郎太 郎
B
A
06
38
小 倉 新 田 ノ
郎
(
(
S
6
8
7
弘 治 4 児 玉 四 郎 兵衛尉
芸 ・伴,後 山,多治比
A
B
A
B
A
B
A
a
A
追
ち
A
B
A
ち
B
a
C
ち
C
6
8
7
防 ・岩 国
児玉 次郎着荷 門尉
(
■
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1
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0
8
帯重半名,佐藤大夫名
郎
和
欝4
5
6号
匝 項(
a)I高 (
右目 雫斗)
ClL評 価
域
三 上 民 部 J丞
研
)
23
26
2
7釣
2針
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39
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ー50
釦7
3e
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小
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t
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e
B) の 幻 l 幻 2 8 1 9 4
年
史 1
.
_
学
4
6
5
野 ・都溝部失地令
防 ・都渡部失地 令
(
5
- 8-
C
C
戦 国大名領 国 にお け る重 層 的領 有構造 (
抽)
給
人
名
卜面 郡 反 )
城
防 ・都濃郡失 地令
山 田 民 部 丞
防 ・佐 波郡宮 海保
品 川 与 平 次
防 ・佐 波郡 富海倖
富 原 刑 部 丞
防 ・佐 波郡 富海床
木 村 又 四 郎
防 ・佐 波部富 海保
防 ・鼻息
入 江 六 郎 右循門
永禄 3 申 伏 又 右 衛 門
芸 ・西 条寺 町
佐武 次郎 右衛 門尉
防 ・吉 敷 郡宮野 庄
江 山 弥 次 郎
防 ・都 濃郡失地 令
防・
.
山代 阿賀郷
永禄 1
0 井 上 孫 兵 衛
芸 ・富 田
芸 ・白砂
永禄 1
1 軽 少 柿 五 郎
芸 ・宮 内村
藤 豊 後 守
間
防 ・下松
源 十 郎
弟
丸
芸 ・深 川
藤 十 郎
二 万八 田川北
助 九 郎
備 中 ・加 脇郡八 田部郷 ,刑
芸 ・佐 乗府 中
防 ・秋 枯庄
天 正1
4 粟 屋 市 若 丸
芸 ・山原郡壬生
防 ・吉 敷 郡小晴庄
長 ・美 帝 都厚 保
義
昭
料
所
防 ・吉 敷 郡黒 川
防 ・吉敷 郡宮野
長 ・美 南 部秋吉
長 ・厚 東郡吉見
長 ・厚 東 郡宇部郷
長 ・厚 東郡細井 村
長 ・厚 東部 須恵郷 ノ
諾 い2
1
0
イ ・5
0
2・6
2
9
3・1
3
4
3・3
2
0
3・3
8
8
詔 ま6
4
4・3
8
7
2・3
3
4
イ ・4
3
4・1
0
5
4・1
0
6
譜 た1
イ ・8
1。
8
9
4
●
1
防 ・吉 敷 郡宮野
榎 本 弾 正 息
4・2
8
9
1・7
4
6
4・2
6
1
諾 よ5
4
譜 き2
1
4
6
5
■
1
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l
ノ)
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8
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波 多 野 掃部 助
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2 井 上 七郎三郎
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6 5
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芸 ・生 田
所
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蕃
文
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譜 2
.
十 部
aaAC Ca A AAAC BBBAC
)
7・)
6
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3t
2
部郷 ,阿 宗郷 .
)
問 L
L
J; 上 貞
ウ
ハ
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亀 正 正
元 天 天
近 作 作 田 国
永禄 1
3
芸 ・惣 平 良
))) )
防 ・山代 阿貿郷
永禄 4 松 原 隼 人 佐
*
三 分 - 式部 丞
)
舟 木 越 前 入 道
6.
_
辛
2
3
小
8.
3
2.
6
0・
1
大
8.
1
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辛
5
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小
8.
41
.
6
0
6
0
.
辛
5
0
.
6
0
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2
1
8
6.大
2
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1
3.
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2
7
1
0
.
半
(
石)JL
i
(
斗 ヂ l評 可
C BちBBaA CBE
qB a B B 追 C B B ち B
甲 田 三 郎 兵衛尉
r 高
9 66 84 (58 44 95 64 (82 <6U 93 44 25,′)74\・(64.(43 (43 (65 44 (5 84 41
地
1
)「評凪」のランクは一A:-3斗,B:3斗∼6斗.C:6斗∼.
2) 「
反収」で ( )のついているのは.一撃毎の反収高の不明な もの.
3
) 「文等所在」にある軌 よ 「潜錘」の晩 その次の平仮名数字は,
■
r
毛利宏文刷 における分現番号.他はすべて r
裁涛閥閲蘇」
.
4) 苗が貫高表示の ものは一貫 =一石 の和市で石掛 こ挽乱
■ 牡 については,0
.
5倍 して米 に換昇.
,
毛 利氏 は重 層 的読有 関係 を 「納所 」 と 「下
2
) 勿 論,土 地生 産性 に格差 が あ るか ら, 自作地 の反
作」 とい う形 で,給人 と名 請人 との関係 として設定
す る こ とを,基 本 として い るので あ る (
後 述).
当高がすべて高 い とは限 らな い: また逆 に, 自作地
以外 に も-職支 配 が成立 して いる土地 のあ るこ とは
1)・実 駄
ニ
ー 9-
歴
史
学
研
第4
56号
究
い うまで もない.
表 6 防州岩国
3
) 次郎 でみ るように,永禄 3年の山代検地では,皮
弘治 3年 9月 1
9日
中村源兵衛給地打波坪付
当分米苗の基準が 3斗 ∼5斗 となってお り, この数
値は,従来 の年貢部分にあたるもの とも考 え られよ
う.
4
) 分類 は.歪屈型の平均 4斗 と-職型の平均 8斗 と
の中間値で ある 6斗 と,従来 の本年貢部分の最低値
で ある 3斗 とを境界 とし, 6斗以上 をC型, 6斗未
満 3斗以上をB型, 3斗未満 をA型 とした.
2.戦 国期全体への拡弓
長
4
B
J
AL
拠 :珊4・
4
)
.年代的にみ ると,防長
行 い,対比 を試みた ⊂表 5-2⊃l
555-58
コ) を暁 に, それ 以前の 芸州 を
征服 (
弘治期 〔1
児玉三郎右衛門就忠 額守左近衛将監房顕 平佐原七郎
山
千叫
T
との併存状況 とが対照的で ある. と りわけ,弘治 3 ・4
年 (
15
57I58) の岩国での一連の打渡坪付の一筆毎の反
*
1
T -一就之
l 糸賀平左衛門尉殿
中心 としたA型 (
重層型にす ら及 ばない低い掌握度)優
重層型)とC型 (
-織塾)
位の状況 と. それ以後の B型 (
反小居廻 弘治
四年三月十九日
以上 ■i
無公役預ケ進之候
時点三
右前,
次に,惣国検地以前 について も,同様 の方式で分数 を
収高 における,兼重蔵田検地段階に匹敵す る数値の検 出
す る条件 を有 してお り,一部で は-職支配的関係 を成立
させ,直接耕作者 を名請人 として確定 していた ことを物
語 ってい る. ここか らすれば,毛利氏は戦国大名 として
1
556)
を示すのが,同 じ防州山代 における,弘治 2年 (
の横井隠岐守 に対す る打渡坪付の平均反収高 8斗 1升 と,
1
560) の三分一式部丞に対す る打渡坪付の平
永禄 3年 (
均反収高 4斗 4升 との対比である.拾地のある南桑村 と
阿貴郷 とはほぼ隣接 してお り,近世にはい って も.生産
条件 を同 じくして い が ). また,三分一氏の給地の反収
・・下 田 3斗 は山代検地では
高で ある上田 3ニト 中田 4三1
一般 闘 旨襟であ り4
)
,特 に悪所ではない. だか ら. む し
ろ散布関係の編成のあ り方 の問題だ と考 えるべ きであろ
この点 を,次の史料によって逗付けたい.
史料 A (
閥 4・477)
藤かいち 田四反歩
定米弐石
砲手八 反 米四石
林田かへ り田
中垣内
田二反大
米壱石五升
田弐反
米八斗
河本三反
道きり
田三反
米壱石三斗
芝原
壱 反大
米七斗
臆昌珊 目
服によ
て
っ
,
う.
阿賀郷検地下札
が
産力水準 の地域的差異 t
.
こ基 づ くものではあるまい.それ
層的領有BS係
の政治的 自立期2
)か ら.既 に,新 たな祷有体制の形成 を
開始 した といえよ う. こうした併存状況 は,やは り,坐
事件によ
て
っ
,戦国大
防長征
しての支配権を確立し,第
内氏との目下の同盟関係から独立したこと
二,国人領主との家
知行閑係
に
の反収高
の不明な場合が多
いた
井上衆課伐
れているが
T
事動員を通じて
i
l
,臣関係
名として自立したとしたい
に
その指標は
一
,
.第
大
前述のように芙T
Bが不明
Lf 確になるが
筆毎
一
,めの措置であること 価が分か 国人領主と
糸賀氏は預地
の「定米」
これによれば,
口県文整理版)
糸賀氏が年貢負担者だから
ていな
いのは,
4)
を成立させたことである.﹃防長風土注進案
奥山代宰判﹄(山
3)
・ 参照.「
を断
ておく
っ
.戦国大名毛利氏の成立期に
評
2)
ついては,
からだと考え
即ち
られる
いう形態による重.
,上納高のみが指示されているため
せ
こうした方式をとると,
斗と低
5
4
い
. 貢納入の請負
の納入を詣負 年
反当上納高は
たのだが
っ
名詣人が給分
- 見出
で
の,測
伊藤氏の打渡坪付
の際の予
の分析
糸賀氏が取得
伴う
している
の得分を
一
,預地と
の
取得者である場合
との照応関係が
のあること
- るであろう, 1)
また
5︼
.
,荊述
れ
それは
,
これを「話納」と表現する)に
い(以下.定
反当
成立しており, 名話人が記載さ
高は低く表示されるのである
〔表 6〕 は, この期 において,既 に 「全剰余労物」を掌握
m国大 名辞国 における重層的田有稲造 (
池)
言
己召
戎きれた分米 の取得者 を糸賀氏 とす る解釈 もあろ
う. に もかかわ らず,本文 のよ うな解釈 をとったの
は,節- に,打渡坪付 な らば,名請人 が記賊 され る
のが一般的 であること,第二 に,公役免許が打疫坪
付 に併記 され る例 はな く,逆 に請納型 の場 合 は,負
担内容 として納所,公役が併記 され るのが通例だか
ら,「韓公役」とい う文 言 は,年貢納所 とあわせた負
担園係 の確認 と解すべ きであることによる.
こう解釈 す ると,糸賀氏 の取得分の内容 が不明な
点,及 びその毛利氏の知行制 の中での位置付 けとい
っ た問題 が出て こよ う. これにつ いて は,筏 に検討
す る.
取関係の複雑化,百姓 の一元 的支配 の不可能化 を]
窒
由 として, こうした評価 に疑義 を提出 し,分地 によ
る一職支配の形成 こそが戦国大名 による知行政策の
基本 だ と主張 している.
私 自身の評価 は未文 中で述べ るとして, ここで は,
村田氏 の見解 自体 について,二,三批判 してお く.
第- に, 分地 は,所領 の散在 .零細化 を もた らし,
直接 の在地支配 の非能率 ・園難化 を招 き,再 び重 層
関係 に戻 らざるをえない.従 って, この方式では,
問題 の解決 はで きない (
本革第 2節参照).第二 に,
百姓支配 は,有 力家 臣領 では,一元化 j
:り, む しろ
その直接的支配 を規制す ることこそが志向 され るで
あろ う.
こうして,戦国期毛利領国では,「全剰余労働」の掌損
と,その領有/
t
,
l
J
におけ る,一 昭支配型 と請 網 によ る重層
型l
'との併存的編成 とい う,惣国検地段階 での特徴が,
1
.「下級預有権」の性格
「下級領有権」 の成立辞 倍 として 唱 ちに 想定 され るの
その成立期か ら形成 きれつつ あった ことを明 らかに した.
は,中間得分 の給分化 である.毛利領国 において も,忠
ここか らすれば,戦国大名毛利氏 を荘園制 に依拠 した桔
(
主)職, (
下)作職 といった名称 の権利が,安堵 .宛行
力 と評価す るのは,歴史 の発展面 を見ず ,一面的である
の対象 とな っている.一例 をあげよ う1
㌧
とい えよ う. しか し, これだ けでは 「独 白の権力柄造」
8
3
9
)
は解明で きない.重層的領有脚係が基 本で あ り, それが
史料 B (
閥3 1
詔納関係 として成立 している とすれ ば, この関係の分析
其方乳 今度正党寺令贋遠,関所城蕃以来度々高名無
く
周
比郵政,(
中略)就中損井市中仮屋三郎左循門今度至山
■
`
;
l
口取退侯故彼抱名田暇罫.任望被仰何娯虞,彼者令懇
こそが, その核心 となろ う,
1) 重層 的頒 有閑係が,一般 に詣納 関係 として成立 し
ているとは限 らない.単一 の負担者 が複数 の給人 に
年貢 を納入 す る場合 も想定 され るか らである. しか
し,毛利領 国では,重層関係形成 の前提 とな る中間
待分 の 始分 化は,必ず 上納義鍔 を 伴って お り (
後
述),r
k生 的I
な 中間得分権 は,知 行 の 対 象 となって
いない と考 える.従 って.以下,重層的領有関係 は,
論納関係 として成立 して いた ことを前提 として,検
討 を行 う.
望帰参供条,右為替海田四郎左街門尉拘提井土E
E
I
行新庄末松名,楊井有里名,光安名,東益名等之事預泣
言
Z,如前々納所公事相調之,可相抱侯,縦給主相定険
共,下作職聾者不可有相違焼,0
3執蓮如件
7
弘治弐
児玉三郎右衛門尉凱恕判
卯月廿九 日
(
元 任)
Ⅱ
国司右京亮元相
判
粟屋右京亮元裁
判
赤川左京亮元保
判
高井彦二郎戯
重 層的 領 有 関係 の構 造
剰余の一定部分 が上納 され,かつ他 の部分 が その古住
この場合,
「名」が預 け られ,
「納所公すぎ
」 を 「相調」
者 によ って取得 され る関係 (
即 ち講納関係) において,
える ことが義務付 け られ る一方,「絵主」が定 まって も,
言
古納 され る側の 権利 を 「上級領有権」,講納す る側 の 権
「下作職」は 「不可有相違」とい う保障 を うけているので
利 を 「下級領有権」 と仮 に名付 け る.赤軍 で は, この二
)
.
ある2
つの権利の性格 ,内容 を分析 し. こ うした関係 の形成 の
)
.
意 義につ いて考案す る1
分析 に先立 って,毛利氏が このよ うな多様 な権利 を,
どのi:うに編成 しよ うとしていたか をみてお こう
ここ
で注 目 したいのは,一職支配 を成立 させ る場合,「作職地
1) 戦匡大名 にj
:る領有関係の喜眉的編成 につ いては,
有光氏前掲論文,木村忠夫氏 「実得 時元 大石寺名坪
9
7
6,な どの駅
付注文」F年報 中世史研究』創刊号 1
究が あ り,在地掌握 ・家 E
E団統制 な どの観点か ら,
横板的評価が与 え られて いる.
一万,
村 田悠 三氏 は,
「戦国大名 の知行 制 について」
3号 1
9
7
4
,三∼玉 において,年貢収
『
歴史評論』29
閥4・3
9
3
)な どとい った表現が とられてい
頭納所共」 (
6
年 (
1
5
4
7)の永末越 中守 に対
る点で ある 特 に,天文1
す る僻後大田庄本郷内助富名,貞末名の宛行のよ うに,
額有単 位が名 として 存在 している場合 で も,
「諸納所下
4
54
)
.即 ち,毛利
作共」 として宛行 われている (
閥 4・
矧3
:
,基本的には 「納所」 と 「下作」 との関係 として,
-l
l-
歴
史
学
L研
弟 45
6号
究
表 7 重層的鏡有関係事例
tA
晋 号,年f
地
掛
名
授
称
者 l 受
者`
-
孟
形 機 式
I義
務
L権
利
郎右
常宋半名作
己宕た.随
就
兼弘名作粒職
井 上 新 衛門尉
三
軍功 ・預
永 末 越 中 郎
備後 ・大 田庄本郷之 内助書名,貞宋
名 (
下作)
防 ・楊井正 中名将
郎
毛利奉行
毛
元 高 井 彦 次 守
防 ・楊井土 田行一新庄 の諸名
毛利奉行
利奉行
高 井 彦 次
芸 ・西条 したみ鴻巣両村内の五 ヶ所
の小席
毛利奉
万
防 ・能宅郡塩田村公文名 な どの
職
名主
毛利
田地 1町反
毛利奉
奉行
E
文
名職
下作職
作 職地銀納
障
の知
の保障
行
の保
3
行
福
郎
寺
八 木 新 兵
防 ・音数郡吉敷酉庄上村之内宋房名
小など
金艶院納行
陸
防 ・吉敷部 小鰐庄
防 ・得地上
内八幡免
障
申次郷内一王丸名
村乏 内下作職
諸給
有
官
糸
三賀
河
戸
馬
内平善
与
村
申
左兵衛門尉
蕗
四
衝
衛・郎
尉
丞
久
すは神田
輝
元
毛利奉行
石 ・領下作職
砕毛堆之内大神菜名主脇
益 田元 祥
田4反小 ・分米 2石 6
児玉就方
家来名 ・秋 寺名下作職等
斗 4升
芸 ・西条等町十英名二相 之
井
輝
長
賀 ・厚母郷国街芳名 田中
科・
(
3石
公役
諸公役納所
社役
公
貢
公役
元 林秋重
就
町 5反
福
三
三上七郎右衛門尉
井
原 弥 次 郎
某
執務
祭公役
7斗 8
・奉公
升) 詔納所下作
共2
4買 BO
O
野
又 原右 太
門
平
熊 荷王 郎
九
円一反一
元
輝上元豊
元
防 ・花河庶 阿弥 陀免一反 名主職
児玉就英
芸 ・佐東郡北庄矢 口
輝
福 田沢下作職
塾元 ・元就
元 児玉
元
平
山 腐四
賀
彦 右広
待門尉
三 ・望
相
④の
み .預
新宮神田
所共
持
1
余
助
名
00
得分の扶
の詞
に2
月の扶
の苫
元所
大
芸 ・下麻膚
年貢
納所
年 ・公役
公事
_元
鵜所秋
芸 .小山之 内ひち屋 田 2
酋 ・預
行
渡
厚 友
母辺治
譲助部
兵
源三
少
衛郎
尉
輔
.r
毛利家文樺」2
2
所収の もの.他はすべて T萩譜閥脚録」
.
「文野所在」にある判物写は
重 層的領有関係を整理する方針 をとっていた と考 えられ
余
障
保
行
田得分の知
の旗知
畠山以下
,
次 に権利を見てみよ う..
④の場合 「下級領有権」
湖
るのである.それは,その間にたって請納す
的権利 を否定す る方向であ り, これ こそ,検地を通
る名 (
主)
じ
政
て一筆毎の名請人
策に
を把握 し確定 してい く在地掌塵深化の
,
井氏は,義務
に 「縦給主相定候共.
を果たす
ことを前提
とはしているが,同時
者高
倖障を,
大名か
らうけている
下作牧草者不可有相違侯」とい
〔
史料
B〕
.この
う
.
こうした重
,ま さしく沿 った もの といえるのである.
層的領有関係は,史料上
.
項.
されているも
に「職」 として表
の
しているa
)
. そこで,両者
ちのい くつかに存在
A〕のよ うな領地の
う
ののほかに,〔
史料
年 代的に列挙 したのが
,
史料 C
一つ⑳
を例に検討 してみよ う.
(
安 婁)
(
鵬イ ・168)
...
点 を,もう
事例 を
で ある. こq)
表 を もと 「
重層的領有関係事例」〔表 7⊃
_
て いきたい.
下級額有権」の性格を検討 し
に 「
,
,
_
公事」
,即
まず,義務 を見てみると 「納所」と「
納 入 と反銭 .
.
棟別践 ・夫役等の諸役の負担が
ち年貢
い る. この二つは中世の百姓の負担の中心内容であ
免 じられて
り;I
その限 りでは,他の百姓 と同一性格 を もっている.
戦国大名諸国 における重層的領有構造 (
池)
働」 を, しか も定量化 して学長することが,可鰭だ った
のである.
天正拾弐年冒卯月十二 日
井上神左衛門尉元豊 判
行友藤兵衛尉殿
如此令異見相定申候畢
同日
元勝
判
この場合 も,「下級読有権」者行友氏は,「申定辻無々
沙汰候者」 とい う限定 はあるが,やは り 「
末代預ケ可申
侯」とい う保障を,「
上級嶺有権」者か らうけている.そ
して,直接文言上には現われていないが,農民負担 とし
ての 1貫文に変化はないのだか ら,行友氏は通常,収取
分 1買文一上納分5
0
0
文 王5
0
0
文の剰余 を取得で きたはず
上級領有権」者 あるいは大名か ら,
である. このよ うに,「
剰余の取得権が保障 されているところに,新 しい側面が
あるのである.
しか も,それが単な る請負料ではな く,大名に対す る
奉公への恩賞,即ち絵分 としての性格 を も持 っていた点
が,「下級宙有権」 としての特徴である.◎の場合,「名
職」は 「
任望被仰付」 たのであるが,それは,「
度 々高名
享
耗比類」がゆえの宛行だ ったのである 〔史料 B).それで
揺,絵分 としてどのよ うな扱いを うけていたのか.当初
は,従来の年貢部分 とは区Bl
l
され,給分か ら外 されてい
た場合 もあったi
:うで,⑤の場合 ,弘治 2年 (
1
5
5
6
)4
月に 「下作職」が宛行われたに もかかわ らず,同年1
0
月
の安堵状には,その記載がない (
閥3・8
3
8
)
. しか し,
-職支配が成立 した場合には重層関係が解消 され るか ら,
こうした区BI
lも早期にな くなる.打波坪付の検討の厭に
も確認 した ことであるが,◎のよ うに,天文1
6
年(
1
5
4
7
)
で早 くも 「助雷名 ・同貞末名諸納所下作共 ニ」2
4貫 8
0
0
文 と定量化 して 宛行われている.(
むで も同様に,「作職
地頭納所共 ニ」2貫 1
0
0日の宛行を うけている.-方,
天正期 (
1
5
7
3
-9
2
)にはいると,「下級領有権」が独 白に
知行安堵状に名を連ね るよ うになる.⑬ ・⑩ ・⑳がそれ
である.⑯の場合は,「諸給領下作職」が,他の定量化 さ
れた 給分 とともに 一括 して 「
克行」われ.「早令執務之
1
) この史料 をめ ぐって. また,一般に毛利領国にお
ける名 (
主)職 と (
下)作職 との性格の相選につい
て,見解が分かれている (
河合正治 「
戦国大名 とし
4
号 1
9
5
4
,松岡 ・
ての毛利氏の性格」『
史学研究』5
木村前掲論文参照)
. しか し, こ こでは,それ らにつ
いて詳説す る紙幅の余裕がないので,諭 旨 との関係
で必要な限 りの私の理解 を述べるに止 める.
名(
主)
職 は,名主の名単位での請納義務 に伴って,
(
下)作職 は,一筆毎の土地に関する百姓の負担義務
に伴って,それぞれ剰余を取得す る椿利 と考 える.
これ らはいずれ も中間得分権的性格を もち,百姓一
名主-給主 という基本的納入ルー トに付随 して,多
様な形で存在 した.
2) 名が預 けられ1
=のに,下作職が安堵 された事情は,
以下のように考 える.名 を単位 とした収納が存続 し
なが らも,名主職 は成立 しえず,名主の機能 に付随
して存在 していた数筆かの土地の下作職が保障 され
た (
木村前抱論文,71
三参府).
3) 預地 と表現 される土地領有 には,三つの型闇があ
る.昇一,正式の知行宛行 までの臨時措置.第二,
代官支配 第三,本文で述べた型態.紙幅の都合で,
例示は,有馬与四郎の 「
長州松岳 山額半済二十石内
石八」 の街有が,罪-型態を雇過 している (
閥4・
1
3
2
-1
3
3
)事例のみとす る.
4
) 安堵状の上で走塁化 されていないことか ら,直 ち
2
に現実 もそ うだとは断言で きない.例 えば,天正1
年 (
1
5
8
4
)の 児玉塩法士の 知行相続 に おける村立
5
2
3
)に は,「-,田一町二反 佐 々部 書広
(
閥 1・
名」 とい う項 目があ り, それ自体では知行高が不明
だが,弘治 2年 (
1
5
5
6
)の宛行状 (閥 1・
5
2
2
)では
「佐 々都之内吉広名 田数二町 四反 米二石五斗足」
と記載 されているような場合が,多々あるか らであ
る. この点及 びもし定量化 されていないとした ら,
その部分の軍役等の詣役は,何を基準 として負担 さ
れたのか といった問題が,貰高利 との囲係で,当然
出て こよう. この点 は,他領国に おける 「
名田」・
「名職」について も同様の問題があ り,戦国大名領国
研究の重要課題 の一つであろう.
弥可抽奉公忠」 とされている.⑳の場合 も同様 に,他 の
定量化 された給分 と並べ られた 「
厚母郷国衝諸名田中名
2.「上級領有権」の性格
主職等」が,「
全知行不可有相違」とされている.⑯の場
大名が 「
上級領有権」者の場合.事情は大名による知
合 は,定量化 きれた分が 「為給地宛行」われた後 に,「従
行宛行一般 と共通す る.即ち,年貢上納義務は存在す る
前々相抱家兼名 ・秋寺名下作職等之事,全執務不可有相
が,それ を除けば,知行一軍役関係が成立するし,公役
違」 とされている. このよ うに,-部では定量化につい
も大名に対 し勤 めることになるか らである.問題は給人
て不明な点 は茨 る ものの4
㌧ 他の給分 とともに宛行われ,
の場合 である.給地が宛行 ・安堵 きれた場合,大名 との
軍役義務 を讃せ られている点では,従来の年貢部分 と共
関係 では, 自由な在地支配が行われていた.年貢搾取 も
通の性格 を もつに至 っているといえよ う. こうした関係
上 か らの制約を うけない し,公役勃仕 も自らの責任で行
が成立 して いるか らこそ,惣国検地 段階で,「全剰余労
い,大名権力 による介入 も阻止 される1
㌧ 従 って.「下級
-1
3-
歴
史
学
研
領有権」の宛行 ・安堵 も.給人の権限内に (
少な くとも
究
第4
5
6号
,
,
史料 E)か らすれば,三戸善兵衛封は 「徳
この場合 〔
地上村」の 「
下作職」を抱 え, この 「
在所」 を 「
知行」
潜在的には)存在 した.
,
これに対 し,重層的領有関係の成立 した給地では,事
する捗豊後守に年貢 を納める一方,毛利氏に対 し 「諸天
情 は一変する. この点を,前述の高井氏の場合を例に考
役」 を勤めて きた皇). ところが 〔
史料 D〕にJ
:
れば,児
.
,
えてみよ う.「
相定」まった 「給主」が眼前にす る給地は, 玉就忠の 被官 として (
閥 4・4
80
) 「粉骨仕」 った 「褒
如何なる状況になっているのか.年貢は高井氏か ら 「
相
,
美」 として 「諸天役邦人夫等」を 「
免許」 され ることに
,
,
調」 えられる.しか し,名請人は講納する高井氏の掌握
なった.この場合 も 「
諸天役」義務は 「
下i
乍職」 に付
す るところになるし,その名請人自身は,毛利氏によっ
随する もの として存在 し,その 「
下作職」自体は,毛利
て,打涯坪付の発給を通 じて指定 されているのであろ う. 氏によって保障 されている.だか ら,その 「
免許」 にあ
何故な ら.毛利氏は 「
下作職」まで も掌握 しているのだ
たって も,決定権は毛利氏が握 っているのである.やは
か ら.「公事」 も高井氏の 手を通 じて 勤め られるか ら.
ら,杉氏の給地に対する権利は,年貢取得棒のみに限 ら
現実の下地支配 を行 っているのは高井氏だ とい うことに
れ,下地支配は三戸氏が行い, しか も,その三戸氏は家
「下級読有権」を毛利氏に
なる.そ して,その高井氏 は,
臣関係 としては,別人の下 にいるのである.
よって保障 されている以上,給主は彼を勝手に取 り替 え
こうした関係の行 き着 く先は,完全な俸禄化であろう.
られない.それ どころか,彼は毛利氏 と直接知行関係を
それ を思わせ るのが.防州山代の例である.山代阿賀郷
蕃 んでいるか ら,家臣 とす ることもで きない.更に,彼
の地侍三分-氏は,防長征服に際 して毛利方 につ き,天
が正党寺に従 って軍事行動に参加 していることか らすれ
文2
4年 1
0月,陶方 について没落 した同 じく阿賀郷の地
預遣」 された (
閥 4 ・3
8
2)
. その
ば,寄親 に もなれず,家臣団編成上は全 く無関係 となる. 侍鋪見氏の 「跡」 を 「
,
-
つまり 「
給主」 ( 「
上級読有権」者)は, この給地に
●i
後,永禄 3年 に山代検地が行われ, 8町 6反中の 「拘分
在 地支配権 を喪失 し,権力基盤拡大 ・強化の遠大の万策
地の うち 「作 うちつ ゝき六町付渡侯,残所吉河殿江凄 申
である,在地中領主 との家臣関係形成の途 も絶たれて し
候」 (
閥 4・3
85
) とい うことにな り, 6町半の 「
打波坪
まっているのである. ここにおいて,
「
上級韻有権」看た
●●▲●●●●■
る家臣は,従来の独立性の根拠である在地領主的支配権
i■■I●●■■■
・
を大幅に規制 され るとい う,全 く新たな串博 に直面す る
付」4
)を受け とった.
こ とになるのである.
地 として与 えられていることになる.そ して,給地以外
「給地蔵」においては 「
拘」の
3
)が与 えられたが,
関 しては,定め られた年貢を取得する権利 を もつのみで, 下札」
,
.
「拘分」としては 8町
従 って,この段階で三分一氏は,
6反小の土地にかかわ り,かつ,その うちの 6町半が給
こうした関係の夫例 として 〔
糞 7〕の⑱をあげよ う.
の土地については,吉川氏に対する上納義務 を負 ってい
史料 D (
閥 4 ・4
7
9
)
(
児
であるのみな らず 「拘分下札」とは,年貢上納の負担内
三戸善兵術尉事,去年於門司表毎度心怒粉骨之趣,就
訳的性格 をもっていると考 えられるか らである5
)
. そう
,
るのである.何故な ら 「拘」とは 「
下級領有権」の表現
(
出前)
玉)
,
息 内々申迅値令存知疾,神 妙之至供,必可加褒美侯,
でなければ,検地によって領有関係が確定 されてなお,
就夫先得地上村之内彼者抱所下作職諸天役邦人夫等之
給地以外の 「拘分下札」が与 えられるはずはないのであ
軍 令免許侯,此由能々可申開候,謹言
ち.
(
周防)
,
永禄五
こうした預地が 山代には 広汎に設定 され 「公演の所
十月十六 日
(
元旦)
隆元 卸判
務」 を担当す る 「軍使」
8
)がおかれ (
閥 3・
9
5
)
,毛利氏
によって*
L
E
L
接支配が行われた.だか ら,吉川氏の側か ら
児玉小次郎殿
見 ると,阿資で1
5
0貫の地 を拝領 したが7
)
,給地の指定ほ
史料 E (
閥 4・4
8
0
)
うけて も,実際の徴収は 「
下級領有権」者- 「
軍使」(
周防)
......
徳地上之村之内三戸普兵衛尉抱来族下作職諸天役之事,
「
上級領有権」者 とい うルー トで行われ,在地支配 とは全
●▲
別而彼者有忠隣之子細令免除之
由.
_
隆元数通過置侯,
く
切 り離 されて しま うことになるのである8
)
.
i■■●■■●i
右 在所今程御知行之儀侯条,如此間被仰付峡者可為祝
重層的故有関係は,家臣の給地において独 白に形成 さ
れることも,十分に想定で きる.前出 〔
史料 Cコの場合,
着 族,不可準自余侯之閉脚分別所仰候,(
中略)
九月十八 日
(
;
堅 持)
杉豊後守殿 御宿所
元就
御判
一貫 という反当高か らすれば,-職支配の土地 として宛
行われたに もかかわ らず,恐 らく一反 とい う狭小性 を理
由として.預地 としたのである. この囲係のみであれば,
-1
4-
戦国大名領 国 にお ける重層的領有柄造 (
弛)
「上 級領有権」者 である井上氏 は,
「少 茂無沙汰侯音別取
放可 申候」 とい う形 で 「下級領有権」 の宛行権 を確任 し,
従 って,在地支配権 も間接 的には所有 し,在地小領主 と
の被官関係 の形成の条件 を有 していた こ とにな る. しか
し,「如此令異見相定 中華」とい う,同 日の 「元勝」 な る
人物 の裏書は,何 を意味 してい るのだ ろ うか . この史料
か らは推測の手掛 りをつか めないので, もう一つ〔表 7〕
の㊥ の例 を検討 しよ う.
史料F (
閥 4 ・133)
金鶴院領吉敷郡 吉敷西庄上村 之内宋 房名車,依筋 目有
馬与四郎相抱皮之通,以赤J
r
r
折左衛 門尉元久裁判被中
之 間,任彼儀預進之,然者限有寺家年貢米 弗小済物定
役天役以下,如前 々無僻怠被勤え
永代無相違可被相
抱者也,0
5
下知如件
永禄式年十一月六 日
惑こ
有馬与四郎殿
右前存知之撃央
同日
金怒院納所
菩環
判
(
市 川)
程好 判
これ も,「上級領有権」者 で ある金鶴院が,有馬与 四郎
に,「名」の 「預」とい う形 で,「下級故有権」を宛行 (乃
至 は安堵) した ものだが ,それ は,毛利挙行 であ る赤川
源 左衛門元久が 「裁判被 中之 間,任役儀」せての措置 な
のであ った
そ して, 山口奉行 の市川選好が,決定 の執
行 を確認す る意味で,裏書 を してい るのである9
㌧ ここ
か らすれば,先 の 「元勝」の裏書 も, こうした毛利氏 に
よ る確認 ・保障の意味が こめ られてい ると解釈で きる.
このよ うに,直接 の宛行権 の掌握 とい った形で はない
にせ よ,家 臣の給地 内での重層的箭有関係 の形成 に対 し
て も,大名 は 「裁判」 とい う形 で積極的 に介入 してい っ
守設権力 と耕作農民 との関係 を断 ち切 るためには,
段銭 ・諸役の免許が必要 だった とい う見解 を示 して
7
1頁参照),引用 された史料 は,負担責任 の
いるが (
所在 を規定 して いるだ けで,必ず しも上級権 力 との
関係 を示 して いるとは思 われない.
2) この史料 に園 してBI
Jの解釈 が成 り立 つ とす れば,
,「下 作職」もこの時点で初 めて宛行 われた,
第- に
つま り,「下作職詣天役邦人夫等」が まとめて 「免許」
された とす る解釈 である.第二 ,「下作職」を保障
して いたのは杉氏で ある,もしくは,「詰天役」は移
民 を通 じて勤 め られて いた とい う解釈で ある. つま
り,何奴移民 に承認 を求 める必要 があったのか とい
う問題 である. これ らの吟味 は紙幅の都合で省 略す
るが,今回の処置 の結果 は, どち らにせ よ以下本文
で述べ る内容 と同様 で あるのみな らず,大名権力の
介入 はよ り強力な もの とな り, こうした解釈が成 り
立 つ として も,本稿の論 旨を強 め こそすれ,否定す
ることにはな らない,
3),4) 「玖珂郡阿賀村三歩-左兵衛所持之御判物写」
2
1
4
4.
『毛利家文庫』2
5) もう一 つの 「阿賓郷検地下札」 (
閥4・3
8
6) には,
最 後に全分米高が言
己され, その下 に児玉若狭守 とい
う名前が智かれてい る.児玉氏 は,三分-氏 t
こ対す
る 「拘分下札」 の発給喜任者 で もあ り,上納先 の指
定 で はないか と考 え られ る.
6) 松 岡前掲論文,1
9頁参照.
7) 永禄 3年1
0月21日 「毛利元就 同隆元連署知行宛行
吉川家文 奮』46
0号 .
状」 『
8
) 同時掛 こ, 同 じ く山代五ケで熊谷氏 な どに買高で
知行宛行 が行 われている (
永禄 5年 9月 1日 「毛利
.
E
:
谷家文 雷』1
40号な ど) 那,
元就 同隆元連署判物 『芹
これ も同様 の方式 を とった と考 え られ, こうした関
係の一般 的存在が推定 され る.
9) 毛利氏 の率行組織 について は,松村義則 「戦国大
68
名毛利氏の領国支配機構 の進展」『日永史研究』1
号 1
9
7
6. 二 _
m 国大名毛利氏の支配組識」参m.
に
」
「.
たので ある. しか も,大名権力 による 「墓畔1
J
」 によって
重層的領有関係 の特徴 は,第一 に,中間得分権 を従来
「下級恐有権」が保障 された場合,それが間接 的で あって
,
ち,実質的には 「上級韻有権」者 は,自由な改善がで き
の年貢部分 と同質 な 「下級領有権」 として,知行制 の中
ない状況 に置かれて い るで あろ う.
に確定す ることであ った, この ことは,在地小領主層の
1
) 反銭徴収の方法 について は,備後国倍数E
E西方の
段銭 が, その地の給人 の貰 任で納入 され,大名 にi
:
る催促 も,百姓 に対 して は,絵人 を通 じて間接 的 に
行 われて いた こと (
「山名政豊奮状」『山内首藤家文
45号) か らす れば,大名 による直接徴収 はな
書』1
かった と考 え られよ う (E
E
l
招陸 「公田段銭 と守 荘官i
7号 1
96
5,22頁参偲).
国」『宮 内庁召渡部紀要』1
この点 は,毛利領国円にお いて も,絵人 の家 臣に対
す る知行宛行状 に 「所役等」 の負担文言が付 されて
46 T
j
-ど) か ら, 同様 の ことが い
い ること (
閥 4・2
え よ う. なお,岸 田裕之氏 (
前掲論文) は,絵人 が
広汎 な家臣化の条件 として,権力基盤の拡大 に重要 な意
義 を もつ ものであ り,戦国大名権力の飛躍的強化 を もた
らす根源 とな ったのであ る.更 にそれ は,検地 を通 じて
分米 と名詞人 とを確定 してい く方 向に照応 して,基本的
には (
下)作職 として確定 され た.即 ち,単 な る所有権
の承認ではない,鎮有閑係 の新 たな編成 ,即 ち荘園制的
関係 を完全 に石定す る方 向 を もつ ものであ った.
しか し, この点だ けな らば,その意 義 は一職支配の成
立 と変 わ らない もの とな る.重層的故有閑係 の第二 の,
そ して国有の特徴は,大名 による 「下級領有権」 の宛行
- 1
5-
戦国大名領国における重層的領有構造 (
池)
元春
,
2.領有関係の確定
- 検地の意義と契機-
少輔太郎輝元」
,
彼 らは 「
所帯三昧」 に関する 「愁訴」のため 「
此方
」
可任裁判在所をハ手を入 「押置」 くこと 〔史料 G〕
,そ
重層的領有関係の形成に際 し,所有関係の確定は必須
の条件であ り,それは検地を通 じて行われるのが一般的
して 「
思不之浅深」を究めて毛利氏が 「車付」けるまで, であろう.そこで,戦国大名毛利氏による検地が如何な
「裁判」することを任務 としていた.「
愁訴」の内容に,
る意義を もち,また,如何なる契樺で行われたのかを,
「
論所」が大 きな比重を占めているのは,わざわざ-項目
検地の実施が確認で きる給地を年代的に配列 した 「
検地
を設けていることか らも明 らかであ り,その決着におい
事例」 〔衰 8〕1
)に基づいて検討する.
,
,
ては 「
王
聖非」 とともに 「
忠不之域深」が決め手 となっ
たのであが )
.
征服地の処理の意義は, これに止まる ものではなかっ
当然のことなが ら,殆ん どの場合,増分の打ち出 しを
伴 っている.新恩地の場合は,以前の知行高がわか らず,
増分の有無の不明なことが多いが,④においては,9
0
石
た.「
所帯裁判奉行」の任務に 「明所」を 「押」えてお く
とい う知行高 と 「
在所」 とがまず定められ,当面 「
浮米」
ことがあった ⊂史料 H⊃ように,毛利氏は征服地におけ
で与えられ 検地を行 った上で 「
九十石之下地」が引渡
る朗所地を掌挺する棒限を もっていた.この閉所地の処
されることになっている (
閥 3・
3
5
9
)
.この場合,検地
理について,隆元か ら元就にあてて,
「
我々存知事二八少
による増分の打ち出しが一般的で,それが予想 されるか
なれ共明所出来供奉幸 にて侯間,人々に もーか う澄 まし
らこそ,「
九十石之下地」とい う限定が加えられた約束が
く候・ ・
・
以次而 ヲ検地申付候て,程を先校了候てと存知
なされているのであろ う,
その増分の処理に特徴が見 られる.即ち,増分打ち出
候」 とい う昏状が出されている (
毛 ・7
1
0
). これによれ
ば,「明所」がで きた場合には,まず検地をするのが毛利
2
例の うち,それが分離 きれ 別々の給
しの確認で きる1
の方針だった.在地小領主が抱 える土地 も,その額主が
人に宛行 われたのが,少な くとも7例あ り,本給人に続
没落 した場合は,当然検地の対象 となる.「
全剰余労働」
けて宛行われたのは, 3例にす ぎないのである.その う
の掌握と-職支配の形成は,戦国大名の成立期か ら岩国
ち,㊧は山内氏とい う独立性の極めて強い 「
国衆」であ
などの征服地において実現 されているか ら,
こ こにおい
り,⑳の三輪氏 も同様の性格を もつ.また,分数 しなか
て,彼 らの持分は,否定 されるか,給分化 されるかの二
った 2例の うち,②は 「
名主職余得分」のみが宛行の対
者択一が迫 られるのである.
象 となっているか ら,従来の年貢部分は別人の知行の可
中間得分権をめぐっての在地における抗争は,戦乱を
能性が強い.そこで,増分は分離 して宛行われるのが一
媒介として,暴力的結着を迫 られる.一方,戦国大名は, 般方針だったといえる.従って,
増分の打ち出しは,
搾取
征服 とい う力を背景に,検地を強行 し,領有関係を確定
強化 ・給分の厳密化のみな らず,家臣の冶地に他の家臣
してい く.こうした状況の下で,在地小領主が独立性を
の給分を設定することによって,その在地支配にクサビ
維持 したまま得分権を確擦してい くことは,困難の極み
を打ち込むテコともなっていたといえよう・ この方針こ
であった.即ち,戦乱状況-権力間抗争の激化が,在地
そ, 重層的額有関係形成の必要に応 じるものであったこ
小領主層の分解を急速に促進 し,彼 らの征服者中の最高
とは,い うまで もない,
権力者である戦国大名 との結合へ と進ませるのである.
こうした意義を もつ検地が,朗所地において実施 され
たことは,既に見た.閉所地は新恩宛行の対象であ り,
1
) 有光 ・木村前掲論文参鳳.
2
) F
I
防長 風土注進第 ・奥山代専制』
,「船越家 旧記」
(
『
船遊家文書』山口県文書館蔵)参鳳
3
) 美原, この 「所帯裁判奉行」 は,豊前貿庄革場名
の 「下作職」をめぐる 「愁訴」 を処理 してお り,そ
の際,「
豊州代以来之知行一段為重科」として,敵方
の知行地を没収 して,別人 に宛行 うことを方針 とし
ていたのである (
「黒水文書」東大史料繍茶所蔵影写
木)
.なお, この 史料 に ついては,山田渉氏の御教
示をいただいた.
新患地については,検地が前程として行われるのが原則
だったといえる.実際,④のように,有力国人周布氏に
対 して も,検地を行 った上で給地が宛行われているし,
①の場合,家臣が検地なしによる拝観を申し出て,奉行
衆が検討 し,毛利氏の許可によって認められたのだが,
逆にいえば,原則的には検地が行われるのである.新風
宛行が大規模に行われ るのは,いうまで もな く征服を通
じてである.征服は,額国拡大,直轄額の拡大 とい う量
的意味のみな らず,新たなl
在
]
i
有閑係の形成 という質的意
味において も,重要な意義を持っていたのである.
更に.当知行地に も検地が及んでいる2
)
. 本額地につ
-1
7-
歴
@
長 L船木郷
防 ・熊毛脚
a
長・
真相郡 ・
大沼!
郡
地
事
例
内
I性格 座 分 極 理 l
容
〔
外〕の検地 な しでの拝領の要 請 を認 める
⑦
天正 3 防 ・山口
1
3
当
9
ヽ
ノ
E3
1
4
井
上
元
忠
⊂
譜
コ
に
8
2
石
5
斗
5
(
天
正
6
年
に
は
2
8
石
5
斗
十
代
分
900
木
1
2
「
分
分
分
△ 9 99
⑬ ⑳ ⑬
8
1
0
行い
し
7
木原 元 定 〔諾コに対 . 田中給 を宛
,その地 の 抜 目
」の究
明 を 命 じ ,その間は 逆 目 分 とす る
乗福寺坂検地帳 (
小字 ・両群 .代 .名詩人の記載)
宇山久信 〔外コへの 1
0
0石地の宛行に際 し,坪付 を与 える
義昭料所の検地
升を検地の上で宛行 う
古職)
慈徳院の田地 を摘発 し,渡辺宗 ⊂詔〕 に宛行 う
山内隆迅 亡国つ領の沓立の うちに,近年枚地によ 1
).70
刃か ら1
8
0
賢へ増分を打 ち出 された土地あ り
榎木賢忠 ⊂外コ給拙付立の中に,以前検地 された土地 あ り
分
分
○
6
)
雲 ・大乗之内大西
新 本 E] 新 寺 新 当 当 寺
当
元 払4
⑳
T
J
J32石 5斗足 を宛行
木原元定 〔譜コに対 し,松尾領内の 「校地昌
つ
石の うち出米 4石 を宛行
井上元継 〔譜つに対 し,温科極冠先給15
つ
原武信 亡外〕 に対 し,本領地 を理由に屈屋敷の検地 を免除
検地 を行い.「帳夕子
田畠」を加盟 として三輪与三兵籍尉 ⊂外〕
える
与
一
L
⑳
5
石の地 を宛
能美宜週 〔国〕 に対 し,江木助次郎 〔外〕鎗内増分1
行う
禅学寺宏を 「検地板前」で 9反小 と確定
当 当 寺 寺
◎ ◎ ⑳
9
00 099 ○
◎
1
3 防 ・岩国
0 0
兼韮元宣 〔
譜〕 に対 し,帳はずれを軍使給 として宛行 う
宮内申惑丞に八幡免余得分与与 え,社役を勤めさせ る
重松幸忠に対 し,麻生方絵地余分を宛行 う
寺
防 ・山代本郷
防 ・吉敷郡小魚等
防 ・佐波郡岸見
也
⑬
表8 検
防 ・吉敷郡秋難庄
防 ・吉敷郡宮野庄
⑳
杉韮良
第4
56号
八木新兵緬尉に対 し,名主職余得分を宛行 う
仁保 隆 慰 〔外
〕 に対 し,検地の上,領家圏簡米共宛行 う
周布元兼 〔
列〕 に対 し,90石 の地 を検地の上で与 える ●
佳賀隆知 ⊂外〕当知行路上の うら3
0
石足
信常元芙 〔譜〕 に対 し,架
を宛行 う
a
く
ら
l
究
909△
在)
研
節 ? 斬 新 当 9
番 号l年 代 l 対 象 地 の 所 在
学
史
1
) 「文缶所在」はすべて r
Lt
欄 間B
i
l
頴.
I
.
「
内容」中の 〔
詔〕・(回〕・⊂
外コはそれぞれ譜代・国衆・外槌を示す.
「
性格」中の 「
研」は朗所出の新I
L
q宛行 「
当」は当Hl
行瓜 「
本」は本田地.「
苛」 は寺坂を示す.
4
)「
増分」中のOはあり.△はある公田大.?は不明を示す.
5) 「
処理」中の 「
分」は分即した宛行 「
木」は本給人が鳥
机,
て知行
」は不明を示す.
2)
3
)
,
,
,
「
?
六 月十五 日
い て も,㊧ の よ うに,最 も独 立 性 の強 い一 人 で あ る 山 内
氏 領 に お いて ,天 正 末 期 まで に は実施 され て い るか ら,
輝元
御判
(
井原元尚)
「
井 四兵
音色対 不 可 侵 で はな か った. 山 代で は龍 城 的検 地 を実施 し
輝 元」
て いる (
宅 ・1
4
85
, 閥 3・9
5な ど) な ど, 給 地 の性 格 を
,
知 行地 ・本 領 地 へ の検 地 の実施 の契 斑 ・条 件 につ い て は,
,
井 原 氏 は 「高 水 城 番」に任ぜ られ る こ とに よ って 「城
問 わず 検 地 を実 施 す る政 策 もと られ て い た. しか し, 当
,
領 」と して 「千五 百 石 之 地 」を拝 領 す る と と もに 「本 領 」
,
は 「上 表 」 し 「替 之 地 相 当」 が与 え られ る こ とに な った
現 在 の と ころ は っ き りして いな い.
それ にか わ る もの と して,二 重 の 意 味 で 新 患 宛行 を ひ
ので あ る.
城番 役 には
きお こす 知 行 巷 の問 題 にふれ て お きた い.勿 論 ,全 領 域 ,
,「国 衆」・r外 様」 も動 員 され て お り
,城
4)
全 家 臣 を対 象 と した知 行 番 は行 われ て い な い.注 目す べ
公 役 二被 仰
の近 くに 新 治 地 が 与 え られ るの も,「国 衆 箇J
きは, それ が 支 城 在 番 を契 機 と して行 わ れ る点 で あ る.
付 院共 , 彼 近 辺 二 領 地 仰 付 侯 ハ て ハ 御 者之 儀 被 申 間数
侯」 (
宅 ・7
98
) とあ るか ら, 同様 で あ ったで あ ろ う. そ
史料 【 (
閥 2・9
0
)
3
)
の 際 の知 行 関 係 が どの よ うに変 化 す るか を,天 野 氏 の例
就 高 水 城 蕃 之 儀 ,承 院通 令 同意 候 , 然 者 為 城 銃 所 千五
■●
●■
百 石 之 地 可 進之 置 侯 ,本 領 之 儀 何 茂可 有 脚 上 表 乏 血院
0年 (
1
56
7
)雲 州 月 山城 に
す る 「国 衆 」 で あ るが ,永 禄 1
_
条 , 智 之 地 相 常 可 餌付 候 . (中略 )
在 城 し,1
7
0
0貫 に加 増 され . 元 亀年 中毛 利元 秋 が月 山城
50貫 を本 領 と
で見 て み た い .天 野 氏 は. 芸 州 志 芳 掘 庄 3
- 1
8-
単色
国大名領国 における重層的領有拭造 (
弛)
にはいると,同 じく雲州の高津場城にかわって,元秋 を
地が宛行われ るな らば,実質的には,歪屈的領有関係を
閥 2・68
6).勿論,高禄が与
補任 した との ことである (
受 け入れ ざるをえないのである.
,
この点について注 目され るのが 「明所」不足問題であ
えられ るなど,優遇 はされているが,本領地 を引 き離 さ
る.知行宛行の遅延,及 びそれに関する訴訟が頻発 して
れた事実に相違はない.
大名軍役への参加 は,所領拡大要求実現の条件で もあ
いるが,それは 「明所」即 ち宛行 うべ き朗所地の不足に
,「明
った.城番 とい う,長期にわたって本拠地か ら離れ,時
閥 2・87
2 など).そこで
起因する ものであった (
には知行哲にす らなる軍役 も,それだけ功私が大 きく,
所」がで きたとして も,全般的に不足 している以上,そ
絶対的には大幅な加増を廼得で きたのである. しか し,
れが約栗の鈴分 に相当するとは限 らない.
独 自な在地支配権は規制を受 け,大名横力への依存を強
史料 J (
閥 2 ・84
3
)
めることに もなる. しか も,領国が拡大するほど城番の
ここに も,征服 とい う契・
斑が大 きな意義を もつ戦国大名
●●■■■■●●■ ●■●●●●●■ ●●●
今度三拾弐石地錐可遣朕,只今明所無之付面,先拾五
●■■●
石造置候.相残所之儀, 明所次第可遺族,其円之儀浮
領 国の特徴が現われているといえよ う.
米拾七石之辻遺族,涯開明所閏立可申候,証言
意義は大 きくな り,参加義務 は強ま って くるのであ り,
(
分)
(
天正 4)
十一月廿一 日
1) 年代的には,防長征B
的 ゝら惣国検地以前 に限った.
また,史料上に 「故地」 と明示 されていな くて も,
:ち
「余得分 「踏上分」な どの記載 によ り,検地 にi
増分の打 ち出 して判明するもの も含 めた.
2) ㊨, ◎ にお ける 「給」 の意味については,当知行
か先給か解釈の分かれる余地を残 しているが, ここ
では,⑤のように.本給人が読 けて知行 しているも
の と解釈 して,当知行地 としてお きたい.
3) 本史料 は,宛人名 よ り天正1
5-1
9年 (
1
58
7-91
)
に発給 きれた文盲
空と推定 され,中央政権への帽属が
与 えたフ7クタ- も大 きいと考 えられる. しか し,
第一 に.城番 自体は,後述のように,戦国期 にも勿
論行われ,知行草の要因 ともなっていること,第二
に,前述のように,領有体制 は,当該蚊において も
戦国的性桜をもっていること,以上の理由か ら,城
番 に伴 う知行昔 の芙施を明確 に伝 えて くれる本史料
を,_
m 国期の領有体制を検討す る材料 とす ることは,
許 きれると考 える.
1
56
5
) 門司城番,天正
4) 外様の冷泉氏の永禄 8年 (
3年 (
1
5
7
5)備前常山城番 (
閥 3・22
4)
,杉氏の永
1年 (
1
5
68
)豊前松 山城番 (
閥 2・7
7
5)
,国衆の
禄1
南方氏の天正 9年 (
1
5
81
)備中忍 山相城蕃 (
閥 2・
24
5
)等.
輝元
御判
福間彦右花門殿
」
,
このよ うに 「明所」のないことを理由に.本来3
2石の
5
石の地のみが与 えら
給地が与 えられ るべ きところを,1
7石については.全 く別 に宛行われ,散在 ・零
れ,残 り1
細化を強要 されるのである.更 に極端な場合 としては,
20
0
石の給地が約束 されなが ら,
21
石 ・3石 ・1石 6斗な
ど,全 く零細 ・散在的所銃形態を余儀な くされている例
す らある (
閥 2 ・7
3
6).
「明所」不足問題 自体は,家臣の所韻拡大要求の強 さと,
能力以上の約束をせ ざるをえない戦国大名の弱 きを示 し
ていると もいえる. しか し,要求の強 さが逆手 にとられ,
家臣は,一刻 も早い給地控得のために,分散所領 も受 け
いれて しま うのであろ う. こうした家臣の要求 を統合 し,
戦乱を通 じた領国拡大の中で自 らを確立 してい く戦国大
名が,弱 きをす ら,家臣の領有権を規制 し,更に侵略へ
と駆 りたててい く武器へ と転化 してい くのは,象懲的 と
もいえよ う.
重屈的故有閑C
7
S
T
Jr
Z成の要因 としての.在地小紋主屑の
分解,大名権力 との結合 ・検地 ・所領分散化などは,権
3.領有関係の重層化の条件
力聞抗争の激化-戦乱-侵略-,
征服の過程の中に位田付
- 所領拡大要求と給地の分散化一
け られた. この過程 自体.領主階級の結猛を促 し,戦国
,
重屈的読有関係の形成には 「上級領有権」者の承認が
大名権力 を成立 させ る過程で もある.そのために,軍事
必要である. しか し,その権利が極 めて制限 された もの
的色彩のi
T
l
'
iい権力 として,急速な確立を もた らすが,皮
となる以上,それは 僧単では ない.実際
,「下地云,当
6など) とい うよ うに,新患宛行の場
土買云」 (
閥 2・28
合で も,下地支配を伴 う例 も多かった.そこで,彼 らが
面,統一 した支配体制を作 りえず,ために,家臣の独立
性の強い不安定な権力 と もして しま うとの評価を うけて
■●I
きた1). しか し,その過程が同時に 「独自の権力構造」2)
.
受 け入れ る条件が考察 されねばな らない.その際,井上
を形成する要因と もなった ことを見落せないとい うのが,
元豊の給地で,狭小性による厄接支配の囚難が,詣納園
本草の主張である.
■Ii
確かに家臣は,絶対的には,所期の目的である所領拡
係を形成 させた例が注 目きれよ う.即ち,零細的散在給
- 1
9-
歴
史
学
研
究
第4
5
6号
な く,家臣を新底地の宛行 において強い強制の下 にお き,
●■■
(
主 として旧在地小額主層)にお くことによって,在地箭
●■●■■■●●■i■●■■
主制 をよ り深化 させた権力構造 を もっ ことになるのであ
また,在地小額主の取 り立てによる権力基盤の拡* ・強
る.
大 を実現 した. しか し,大名 も竃悟領 を拡大 しただけで
このよ うな戦国大名権力の運動方向は,何 を もた らす
化の点では,圧倒的な差をつける. しか も,征服 自体が
こうした関係の形成要因 となるのだか ら,征服が進行す
i■●
ればす るほど,その比重は増すので ある.即ち,相対的
■●●
かつ総体的には,家臣が大名への従属 を深めてい く過程
で もあったのである.
だろ うか.在地小額主屑の髄主化は,農民 との階級対立
を政在化 させ る■
のみな らず,彼 らを媒介 として在地支配
の頂点に立つ戦国大名 と農民 との対立を全面化 させ よ う.
しか し,階級矛盾の深化は,毛利領国においては直 ちに
主要矛盾 とはな らず,むしろ,所領拡大要求の強化によ
1) 村田前掲 「戦国大名の権力構造 」
,1
3
亘参照.
って,権力間抗争の激化へ と進み,権力内部の矛盾 は,
2
) 封軍制の権力構造の基不的構成要素が,領有関係
と家臣団編成であ り,前者を基礎 として後者が形成
きれる以上,戦国期の 「独 自の権力捕造」の解明の
ためには,領有関係の独 自性に対応 L
'
た家臣田繍成
が明 らか にされねばなるまい.本稿では, この点を
詳述す る余裕 はないので, それを,大名 とは直接知
行関係を もつ直臣であ りなが らも,与力 として上層
家臣に頚 け られることを最大の特徴 とす る一所衆的
編成- 一般的にr
・
.
i寄栽寄手制- であると考 えて
更に止揚の方向をとる.中央権力-の服属 によって この
いる午とのみを,指摘 してお く・
運動が停止 された とき,外圧があったとはいえ,新たな
簡有体制の構築 は,まさにその頂点に遺 していたのであ
ち.
L
この運動方向が否定 されたのは,最 も尖鋭な階級闘争
としての一向一挺 との対決を通 じて,自己の権力基盤で
ある在地領主制の否定-自己変革 を行い.飛躍的な権力
強化 を成 し遂 げた中央権力 との出会いによってであった_
そ して,全国統一戟争,朝鮮侵略への動員の過程 を通 じ
て,戦国的敏有体制その もの も否定 され,近世的領有体
お わ りに
制へ と改変 されたのであった.
戦国大名毛利氏は,与 えられた状況の下で,直面す る
(
付記) 本稿の作成 にあた り,史料閲覧 に多大 な紗
課超の解決のために,新たな領有体制を形成 し.それに
よって権力基盤を拡大 し.大名支配権 を強化 してい った.
●
それを可誰 とした条件は,戦国大名を成立 させ 畠条件そ
●■i
の ものの中に存在 していた.
・そして, この頒有体制を基
手数 をおかけした山口県文事館のみなさんに,末筆 な
礎 として 「独 自の権力構造」が構築 されたので ある,
5回大会報告
制 に関す る研究が公表 された (
史学会第7
,
こうした独 自性は,実は,東国大名に も共通 した.戟
国大名一般の特徴ではないか と,私 は考 えてい る.何故
,
が ら感謝の意を是非 とも表 したい.
(
追記) 本稿成構後,加藤益幹氏による毛利氏知行
「戦国 ・払豊期毛利氏の 『右耳』制 について
」『史学雑
読』8
6
1
2
号 1
9
7
8
)
.氏の主張は,本稿第-章第-節
な ら 「独 白の権力構造」解明の恕 となる中間得分 と在地
と密接 にかかわるものであるが,_基本的には,私見 と
小領主層の処理に関 して.かな りの共通性があると思わ
共通す るものであると考 える..
ここでは, その具体的
れ るか らであ右.即ち,後北条韓国における内徳 と大途
内容 に論及す る余裕がな く,上述のような最小限の冶
被官の評価 とは相違があるよ うだが,武田領国における
塙 にとどま らざるをえないことを, お詑 びしたい.
名田 と軍役衆,今川韓国における名職 とその所有者の性
格 は,毛利題国における 「
下級額有権」 とその所有者の
性格 に比定で きると見 られ るのである.
これを歴史的にはどう位置付 け られよ うか.荘園制下
の中間得分の香定 ・給分化による 「全剰余労働」の掌握
とい う点では,新たな段階を画する もので あ り,近世的
一職支配 との連続性を もつ.また.在地小領主層の家臣
●■●■■
化
は,兵農分離の前程 ともなろ う・し申 し,それは単な
●●■■●●I■i■■◆●
る近世の出発点ではなか った.「上級旗有権」者 (
主 とし
て上層家臣)は.その在地支配権 を大幅に規制 され,大
名の常備軍的性格 を強 めよ う. しか し,大名は,家臣団
編成 と在地支配 において,権力基盤を 「下級領有権」者
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