2015.3.31 長崎平和推進協会 NO.52 継承部会 長崎市平野町7-8 編集・発行 広報班 平和を築くもの、阻害するもの 日本国憲法の前文は、読むほどにその崇高な精神 それを玉砕とか転進という美辞麗句で報道して、国 に感動さえ覚えます。 は国民を騙しました。餓えに苦しみ、戦場に放置され 広報班 廣 瀬悲惨な状況で戦死した父親や若者達を、家族や故郷 方 人 「・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることの ないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存す や国を守る為に命を捧げたという物語や戦争美談とし ることを宣言し、この憲法を確定する。(中略)国政の権 て、武力を肯定する人達によって、創り上げられてい 威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれ ます。首相はじめ一部の保守政治家の靖国参拝の意 を行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは 図は、悲惨な戦争の実態を、美談化するものではな 人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基 いでしょうか。 くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法 安倍晋三首相は、2 月の国会論戦で、「日教組」と 令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を 突然に野次りました。ネット右翼の人達や、ヘイトスピ 念願し、(中略)平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏 ーチ(憎悪表現)で、特定の人達を攻撃したり、罵倒 狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会 するときに「在日」「売国奴」「反日」の他に「日教組」と において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。(後略)」 いう語を使っています。そして相手を問答無用とばか 今、世界に誇る日本国憲法は、安倍内閣の下で、な りに言論を封じる手段にします。安倍晋三首相は、献 し崩しに改悪されつつあります。紛争地域を制圧する 金問題を追及する論戦の最中に野次ったのです。ネ 同盟国への軍事支援とか、日本の安全保障の為にと ット右翼(ネトウヨと言い、ネット上で、罵詈雑言で特定 いう理由で、集団的自衛権を行使し、若者を戦場に送 の人を攻撃する)の人達は、戦前に「非国民」というレ ろうとしています。戦前の軍歌の一節には、 ♫東洋平 ッテルを貼って戦争を批判した人達を、攻撃して抹殺 和の為ならば、なんで命が惜しかろう・・♫とありますが、 しようとした人々に似ています。これからの憲法論議 米国主導の武力制裁に加担することを世界平和の為と で、反対意見者に対しても、彼は野次るのでしょうか。 か、正義と考えるのは、独りよがりの思考です。 一国のリーダーたる首相がネトウヨの真似をしては日 15 年戦争では、近隣のアジア諸国を侵略し、1000 本の将来が案じられます。首相としての資質が疑われ 万人以上の中国の兵士や民衆を殺害したのは紛れも ます。 ない事実です。フィリピンやベトナムでも多数の民衆が 70 年の間、平和国家として世界から認められてきた 犠牲になりました。しかし今、侵略という語句は禁句に 日本は、これからは、武力で紛争を解決する国に変 なりつつあります。教科書から侵略や加害の記述が削 身するのでしょうか。「天皇又は摂政及び国務大臣、 除や修正されています。 国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊 人を殺し、殺されるのが戦争の姿です。日本も、日 重し擁護する義務を負ふ」と憲法 99 条で規定されて 中・太平洋戦争を通じて、約 300 万人の兵士が亡くなり います。それにも拘わらず、安倍晋三首相は、馬耳東 ました。しかも、日本兵士の戦没者の半数は、戦闘行 風の素知らぬ顔で平然としています。平和を阻害して 為ではなく、補給がなく餓死で亡くなったと言われてい いく要因が、はびこってきました。今、立ち上がらない ます。 と、再び戦前戦中の悪夢が、形を変えて蘇ってくるの かと心配です。 1 森口 貢 っ た 友 を 忘 れ る な 」 だ な あ た 大 生 の し か っ 原 故 。 か の ば 被 き か 節 て さ た 爆 永 っ 戦 か 爆 さ さ 目 か れ 。 で 井 た 争 り 体 に れ 」 ら た あ 未 隆 の が の 験 、 た と 早 者 れ 来 博 か 終 若 を 改 命 簡 5 は か へ 士 ― わ 者 伝 め と 単 年 皆 ら の の そ る た え て 一 に 余 80 70 夢 遺 れ 僅 ち る 深 方 言 の 歳 年 も 訓 を か が こ い で う 齢 を 、 希 問 6 、 と 感 生 が を 越 当 望 子 い 日 戦 は 慨 か 、 重 え 時 も ど か 前 場 同 を さ 70 ね 、 1 無 も け に で 時 覚 れ 年 た 後 年 残 た 続 何 も に え な と 。 期 生 に ち ず か い 世 高 で も け 故 な 、 よ 青 間 る 死 い 春 に っ う で 齢 幸 打 、 こ は こ な た 歳 は 者 運 ち あ の と な こ 入 い 命 月 一 の に 砕 の で け 長 り ら と は 口 仲 今 か 日 崎 れ も れ の 口 な の 、 に 間 日 れ 死 あ ば 地 に い 格 原 入 ま た ん る な で た 。 差 爆 70 り で の で い の で 年 を 生 だ の ら 、 っ 「 「 こ れ が ” あ の 日 ” を 語 り 継 ぐ 私 の 原 点 に ほ か な ら な い 。 生 を 、 戦 の な い 世 界 を と 願 う も の で す 。 を 読 み 取 っ て ほ し い 」 と 思 っ て い ま す 。 残 り 少 な い 人 け た 惨 状 を 知 っ て も ら い 、 長 崎 は 何 を 物 語 っ て い る か 今 、 平 和 都 市 と し て 平 和 の 発 生 の 地 と し て 、 長 崎 が 受 し て 灰 の 街 に 化 し 、 七 万 四 千 人 が 白 骨 化 し た 土 地 で す 。 ガ サ キ を 訪 れ ま す 。 私 は 、 「 緑 豊 か な 長 崎 の 街 が 一 瞬 に 原 爆 被 爆 都 市 と し て 、 多 く の 外 国 人 が 珍 し が っ て ナ 界 の オ ア シ ス に な る よ う で す 。 の 戦 が あ る が 、 日 本 は 島 国 。 平 和 な 国 と し て 、 今 や 世 に 安 心 で き な い 。 世 界 で は い つ の 時 代 で も 小 競 り 合 い 2 ろ い ろ と 変 わ っ て い く 。 核 は 大 き く な り 、 テ ロ の 動 き い つ 変 化 す る と も わ か ら な い 。 戦 後 七 十 年 経 っ て 、 い 歳 に な っ た が 、 今 、 世 界 は 平 和 な 時 代 と は 言 え な い 。 中 学 1 年 と 言 え ば ま だ 幼 さ の 残 る 12 、 13 歳 の 少 年 、 被 爆 者 が 他 界 し た 人 も 多 い 中 、 自 分 は い つ し か 八 十 の こ と で 遺 体 さ え も 見 つ か ら な か っ た 者 も 少 な く な い 。 ち が 非 業 の 最 期 を 遂 げ た の で あ っ た 。 中 に は 、 下 校 途 中 え 、 3 0 0 人 中 1 1 4 人 、 実 に 3 分 の 1 を 上 回 る 学 友 た 宅 途 中 の 路 上 や 市 内 電 車 の 中 で 、 運 命 の 11 時 2 分 を 迎 学 校 で 、 早 い 者 は 帰 り 着 い た 自 宅 や 下 宿 で 、 或 い は 、 帰 崎 の 街 を 襲 っ た 業 火 の 一 閃 、 掃 除 当 番 で 残 っ て い た 者 は え 、 概 10 時 30 分 頃 ま で に 下 校 し た 。 そ し て 間 も な く 長 最 終 日 、 英 語 の 試 験 の 日 で 午 前 10 時 頃 ま で に 試 験 を 終 た 者 だ っ た 。 女 性 は 尚 更 の こ と で あ る 。 た く な い 。 被 爆 者 は 、 半 病 人 と し て 社 会 の 隅 に 置 か れ 心 の 自 由 が 訪 れ た 。 で も 、 自 分 は 戦 災 者 と は 公 に 言 い 和 が 来 る と 期 待 し な が ら 、 不 自 由 な 暮 ら し の 中 に も 、 け た こ と 。 不 名 誉 な こ と で は な く 、 一 日 一 日 今 度 は 平 界 に 去 っ て 行 っ た 。 戦 争 が 終 わ っ た こ と は 、 戦 争 に 負 骨 が 見 当 た る 。 大 半 の 人 は 、 人 災 と 知 ら ず に 、 遠 い 世 道 の 尾 駅 か ら 県 庁 ま で 焼 野 が 原 。 そ し て 至 る 所 に 人 私 が 在 学 し て い た 1 年 生 は 、 そ の 日 は 1 学 期 期 末 試 験 骨 と 化 し た こ と を 誰 が 信 用 す る だ ろ う か 。 あ っ た 。 戦 後 直 ぐ は 、 戦 災 者 は 死 に も の 狂 い で 生 き て き た 。 北 部 地 区 に 多 か っ た こ と 、 そ れ に 上 級 生 の 学 徒 動 員 先 学 校 が 爆 心 地 に 近 か っ た こ と 、 生 徒 の 自 宅 や 下 宿 が 市 牲 者 を 出 す と い う 悲 運 に 見 舞 わ れ た の だ っ た 。 こ れ は 当 時 の 長 崎 市 内 の 中 学 校 の 中 で 、 わ が 校 が 最 多 の 犠 方 は 、 本 当 の 人 殺 し の 神 に な っ て い た 。 分 た ち の 命 を 守 る の に 必 死 だ っ た の だ ろ う 。 軍 の お 偉 州 の 一 つ に な る と 言 わ れ て い た が 、 軍 の 指 導 者 は 、 自 争 中 は 、 国 民 に は 戦 争 に 負 け る と 、 日 本 は ア メ リ カ の は な か っ た 。 人 の 若 者 が 夏 雲 の 彼 方 へ 逝 き て 再 び 学 舎 に 戻 る こ と 15 人 、 生 徒 1 2 0 0 人 中 約 4 0 0 人 、 実 に 3 人 に 1 で 、 他 は 校 舎 と 運 命 を 共 に し た 。 学 校 全 体 で は 、 先 生 下 、 職 員 生 徒 60 余 人 の 内 助 か っ た の は 生 徒 4 人 だ け こ と も 出 来 な い 時 代 。 人 生 の 光 の な い 時 代 だ っ た 。 戦 は 谷 間 の 中 に 押 し 込 ま れ 、 子 ど も た ち に 喜 び を 与 え る ば か り を 追 い か け る 日 々 。 右 も 左 も 行 き 詰 ま り 、 人 生 人 た ち は 食 糧 難 に あ え ぎ ま し た 。 そ し て 思 い 叶 わ ぬ 夢 十 年 近 く 続 い た 戦 争 が 終 わ っ て み れ ば 、 生 き 残 っ た 原 爆 の 爆 発 と 同 時 に 全 壊 、 当 時 校 内 に い た 校 長 先 生 以 久 保 の 小 高 い 丘 の 上 に あ っ た 二 階 建 て の 木 造 校 舎 は 高 等 学 校 所 在 地 ) 、 爆 心 地 か ら 8 0 0 メ ー ト ル の 竹 の 間 に 置 か れ た 。 民 は 内 地 で 、 人 生 の 並 木 路 も 一 瞬 に 消 え 去 る 非 情 の 谷 の 敗 戦 ま で に 三 百 五 十 万 の 日 本 兵 は 戦 場 で 、 多 く の 国 3 当 時 私 が 通 っ て い た 県 立 瓊 浦 中 学 校 現 長 崎 県 立 西 こ と を 忘 れ て は な る ま い 。 ( 今 は 、 原 爆 の 面 影 は な い け れ ど 、 七 万 四 千 人 の 方 が の 工 場 が 浦 上 地 区 に 集 中 し て い た こ と が 主 な 理 由 で 軍 神 な り 」 と 言 う 一 部 の 人 に 騙 さ れ た 結 果 、 原 爆 投 下 日 本 の 人 全 て が 信 じ さ せ ら れ た 神 州 不 滅 の 心 。 「 我 た 命 が あ る 一 方 で 、 生 か さ れ な か っ た 多 く の 命 が あ る は そ れ に 違 い な い が 、 こ の 機 会 に 、 今 日 ま で 生 か さ れ し れ な い と 言 わ れ て い る 昨 今 で あ る が 、 も ち ろ ん そ れ が 確 か な 高 齢 被 爆 者 に と っ て 最 後 の 節 目 に な る か も 見 つ め る 感 が す る 。 年 毎 の 春 も ま た く 間 も な く 母 は 逝 き 、 我 々 の 生 き 姿 は 花 び ら と 成 り 人 が 去 っ た 七 十 年 前 の 悪 夢 の 今 は 、 あ の 多 く の 人 が 泣 夏 草 茂 る 八 月 も 草 花 と し て 我 を 2 0 1 5 年 は 被 爆 70 年 、 巷 間 ( 世 間 ) 、 当 時 の 記 憶 風 吹 く ま ま に 、 花 は 咲 き 雲 流 る る ま ま に 幾 星 霜 継 承 部 会 ・ 平 和 案 内 人 交 流 会 笑 い あ り 涙 あ り 盛 り 上 が っ た 2015 年 1 月 31 日(土)11:30~14:00 長崎駅近くの 「食菜厨房プリマヴェーラ(ホテルクオーレ地下)」に て開催されました。初めて参加しました。風が冷たい 日でしたが 63 名の方々が参加されました。末永部会長 は被爆 70 周年の節目に当たり今後の継承についてをテ ーマに、「お互いに体験を聞きあい、学びあい、これか らは若年被爆者にも語ってもらう。平和案内人さんと 継承部会の積極的な交流会を濃くしよう。継承の方法 として紙芝居、データ、写真の活用、碑めぐりなどを 通して、未来につなぐ継承を!」と提起されました。 山川副部会長も「70 周年は被爆者の出番。私たちの様 な体験はもうたくさんです。と叫びたい」と心の内を 語られ、ビール、ワイン、ジュースと色とりどりのグ ラスで乾杯、バイキング方式の親睦会になりました。 宴たけなわになり、出席者それぞれに順番にマイクが まわされました。トップバッターは山脇佳朗さん(継)。 ピースネット等で海外の方に英語で講話をされる時の 話を、木原秀夫さん(平)は元教師として学生たちへ の証言の仕方を披露されました。山口政則さん(平) は紙芝居による継承の方法を紹介、池田善子さん(平) は 4 歳での被爆体験を城山小で生徒さんたちへ話した こと、継承部会新入会員の森田博滿さんは 100 分の 1 秒差で奇跡的に助かった体験を語り、4 月中旬出発のピ ースボート第 8 回ヒバクシャ地球一周証言の航海への 抱負を述べられました。池田早苗さん(継)は被災協 で下大橋に花を植えるに至ったエピソードを紹介し、 谷口稜曄さん(継)はこれまでのご苦労を語られまし た。池田道明さん(継・平)は福島県から来崎したガ イドさんたちの被爆遺構めぐり案内を務め、意見交換 会で放射能汚染の風評被害に悩む彼らと、一緒に考え る時間を持ったと言う報告をされました。1.3 ㎞で被爆 の丸田和男さん(継)は高齢化する中で語り部最後の 年代になるのではないかと危惧し、新会員の私(継)は 4 は昨年乗船したピースボートで、地球一周の途中寄 港地での体験を発表、「平和は人類共通の世界遺産で ある」と訴えたことを報告しました。健康第一である から平和案内人ができるありがたさを配偶者への感 謝とともに述べられた吉岡泰志さん、髙橋スエ子さ んは平和案内人 4 期生になった動機を、被爆二世の 山﨑務さんは平和案内人としての抱負を話されまし た。最後ちかくになって、山田一美さん(継・平) の松尾あつゆき原爆句抄吟詠は会場を感動で包み込 みました。続いて、智多館長から追悼祈念館来訪者 の様々な人間模様をお聞かせいただき、ランタンフ ェスティバルでお得意の二胡の演奏をされるという ニュースを伺いました。会の締めくくりは多以良事 務局長による交流会開催の協力への感謝のことばで した。笑いあり、感動ありのすばらしいときを過ご せた事に感謝、感謝でした。 八木副部会長の巧みな司会進行で名残尽きない有 意義な交流会でありました。 三瀬 清一朗 新刊のご案内 長崎で被爆した俳人、松尾あつゆき氏の「原爆句抄」が 復刊されました。4月から原爆資料館図書販売コーナー でもお買い求めいただけます。 5 市民対象原爆遺跡慰霊碑めぐり報告 生きて原爆・戦争の愚かさを告発し続けよう 被爆クスノキのように! 2015 年 3 月 15 日(日)「旧長崎医科大学」「山王神社」を中心に、遺跡めぐり を開催しました。前日からの雨が残り、やや心配もありましたが、約 50 人の参加 がありました。 コースは爆心地より東南約 600mの「旧長崎医科大学」と南東約 800mの「山 王神社」を巡りました。長崎医科大学は西洋医学教育の源流となった歴史のある 学校です。ここでは「ゲストハウス」「医科大学平和モニュメント」「旧長崎医科 大学正門門柱」にしぼりました。 1945 年 8 月 9 日、11 時 2 分、原爆被爆により、校舎等建築物 76 棟のうち、65 棟が爆風により倒壊し、その後の火災で焼失。一瞬にして、890 余名の教職員、 学生の尊い命が奪われ、廃墟と化しました。 「医科大学平和モニュメント」のそばには芳名碑があり、教官、学生、看護婦 (看護士)の方々のご芳名が刻まれています。医学を志していた多くの学生さん たちは 11 時 2 分までは確実に生きておられたのです。一人ひとりのご芳名を手で さするようになぞっておられる参加者もおられました。 今回は長崎大学医学部総務課の許可を得て、どの教室、どの建物で何名の方が 命を落とされたのかが示されている『長崎医科大学の被害状況』の資料を参加者 全員にカラーコピーして配布することができました。 今回は「グビロが丘」の長崎医大慰霊碑までは時間の都合で登れませんでした ので、写真と資料のみの説明になりました。1957 年当時の古谷野宏平学長揮毫に よる「慰霊碑」の裏面には永井隆博士の悲痛な歌が刻まれています。 「傷つける 友をさがして火の中へ 飛び入りしまま 帰らざりけり」 傾いたままの「旧長崎医科大学正門門柱」では、羽田麗子さんが被爆された当 時の医学生の様子を自分の気持ちを込めて証言しました。(3 月 16 日付長崎新聞 に報道されています。) 6 山王神社では、二の鳥居を中心に爆風、熱線による被害状況が語られました。 この神社には一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居・四の鳥居がありました。三の鳥 居の折れた柱を使って、地元自治会が建立した「坂本町民原子爆弾殉難之碑」 があります。碑文によれば当時生き残って、町民の救助に当たった町民も一月 後には次々と倒れ、175 所帯(780 余人)だった生存者はわずか 20 人だったと 言うことです。 山王神社の大楠(被爆クスノキ)2 本は、爆風により主幹の 3 分の 1 以上を失 い、熱線により、2 本とも枝葉が焼け焦げ、枯れ木同然になりました。その当時 の被爆クスノキに思いをはせ、平和案内人の渡部富重さんのお話をききました。 奇跡的に新芽を吹き、生きる生命力を見せたことは、戦後の復興に不安を抱い ていた地域の人、長崎市民に明るい希望と、復興の力になったと。 参加者の感想として、 「今日の遺跡めぐりの最後の場がこの被爆クスノキだっ たのも意義があったと思う。多くの原爆遺跡の中で、この被爆クスノキは生き ています。必死に生きて私たちに長崎原爆・核兵器の怖さ・愚かな戦争を告発 し続けているものだ。」といただき、計画した班として大きな勇気をいただきま した。 市民への呼びかけは「広報ながさき」を利用しています。参加者も毎回 60 名 ほどあり、認知度も定着してきたのかなと思いますが、やはり口コミが絶対に 必要だと反省しています。 原爆遺跡研修班として、より多くの市民に参加していただき、長崎原爆を継 承していくことができたらと考えています。 今回は池田松義さん、池田早苗さん、池田道明さん、羽田麗子さん、丸田和 男さん、渡部富重さんを中心に、説明や証言をいただきました。圧巻の約 2 時 間でした。 また事務局には、事前の調査や、掲載写真、資料作成をはじめ当日の道案内、 お茶やマイクの準備などお世話をいただきました。本当にご協力ありがとうご ざいました。 原爆遺跡研修班 山王神社被爆クスノキ 長崎医科大学正門門柱 7 八木道子 リレー随筆 隣の芝生は青い どうなる継承部会の行く末 今年は被爆から 70 年目の年と言うことで、当然の事ながら継承部会員にも多く の動員が予想されます。2014 年は継承問題をどうするかで小委員会を立ち上げ、 真剣に討議されてきました。 継承部会は、2014 年 4 月の総会で、「継承問題について」論議されました。会員 の高齢化が進む継承部会のこと、被爆の継承者を迎え入れようという話に、よもや 異を唱える会員が出ようとは思ってもみませんでした。しかし蓋を開けてみると、 実体験のない者を入会させる事など以ての外との意見が出て、それに同調する者が 続出した事に思わず息を呑んでしまいました。反対意見を集約すると、「継承部会 は、被爆体験者の聖地で他者に踏み込ませてはならぬ」という気配が垣間見え、継 承部会員が絶滅する事も已む無しという事でした。 継承部会員が注目している「ピースバトン・ナガサキ」や「紙しばい会」「朗読ボ ランティア」は着実に実績を上げ成功しています。私たちは「隣の芝生は青い」と 手を拱いて居ていいものでしょうか。 池田 道明 ようやく 50 号、まだまだ 51 号といいながら被爆 70 年節目の年の「つうしん」 52 号をお届けします。部会員以外の方々にも読んでいただいているそうですが、 毎号これでいいのか、悩みながら発行している広報班です。班員は、6 名ですが廣 瀬方人さん、安井幸子さんは病気療養中です。 今は池田道明班長以下4名でやっていますが、力不足です。新しい風を吹き込 んでいただけないでしょうか。朗報をお待ちしています。 2000 年に創刊し、豊富なジャンルで、継承については何度も座談会などを通し て、意見を出し合っていることが記録されています。そのほか、文芸作品や、思 い出、エピソード、海外研修報告など、幅広く多くの足跡を残しています。継承 部会の記録として、遺しておきたい想いで続けていますが、このあたりで、どれ くらい読まれているのか、お役に立っているのか、立ち止まって、会員読者の皆 様のご意見、ご感想をお聞きしたいと思っています。どうぞ、原稿をお寄せくだ さい。 「お勧めの一冊」は 600 字程度、そのほか、被爆体験講話、 被爆遺構等にまつわるエピソードなど、400 字~600 字に また、写真、なども歓迎します。 城臺 美弥子 8
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