ドイ ツにおける倫理科にっいての研究序説 ~教科書 涙址PZayを例 と して~

ドイ ツにお け る倫理科について の研究序説
一教科書Fair Playを例として
城 田純平 (名 古屋大学大学院)
Prolegomena zu einer Untersuchung iiberEthikunterrichtin Deutschland
Am Beispielvon Schulbuch Fair Play
Junpei SHIROTA
0。
はじ めに
第 二 次 大 戦 後 の1946
年 、UNESCO は 、 民 主 主 義 教 育 の 一 環 と し て 、 い わ ゆ る 「哲 学 教
育 (Ph
i
losophy Education) 」 に 取 り 組 み 始 め た 。 こ れ は 当 初 、 中 等 教 育 段 階 な い し 高 等 教
育 段 階 に あ る 者 を 対 象 と し た プ ロ グ ラ ム で あ っ た が 、1970
年 代 以 降 の教 育 現場 にお け る
様 々 な 実 践 を 踏 ま え 、1998 年 の 報 告 書 で は 、 初 等 教 育 段 階 に あ る 子 ど も た ち も 哲 学 教 育 の
対 象 と し て 取 り 上 げ ら れ て い る 。 そ し て 今 日 で は 、UNESCO に よ る 推 進 の も と 、 幼 い 子 ど
も た ち を 対 象 と し た 哲 学 教 育 が 各 国 で 盛 ん に 行 わ る よ う に なっ て き たi。
こ うし た事 情 は、 ドイ ツ に 目を 移 して みて も 、や は り当 ては ま る。 現在 、 ドイ ツ の多 く
の州 では 、基 礎 学校 を 終え て ギ ムナ ジ ウムに 進 学し た 子 ども たち の た めに、 選択 科 目 とし
て の倫 理 科 が開設 され てい る。 そ れ では 、 ドイ ツにお ける 倫理 科 は、 具 体的 に は どの よ う
な 教科 なの であ ろ うか。
本稿では、この倫理科についての概要を示し、教科書の一つであるFair Playを例に、ギ
ム ナ ジ ウ ム の 5 年 生 ( 日本 の 小 学 校 5 年 生 に 相 当 ) が 、 基 礎 学 校 か ら 進 学 し た 直 後 に 学 習
す る 内 容 を 紹 介 す る。 具 体 的 な 論 述 の 順 序 は 、 以 下 の 通 り で あ る。 ま ず 、 第 1 節 で は 、 倫
理 科 の 法 的 な 位 置 づ け と 、倫 理 科 の 学 習 目 標 に つ い て 、教 科 書Fair
Play を 採 用 し て い る 州
の 一 つ で あ る ヘ ッ セ ン 州 を 例 と し て 確 認 す る 。 つ ぎ に 、 第 2 節 で は 、Fair
Play シ リ ー ズ の
概要を確かめ、ギムナジウム5年生・6年生用のFair Play−Ethik 5/6の第1章について
瞥見する。最後に、第3節では、Fair Playシリーズにおいて重視されているコンピテンシ
ー の一つ であ る 「自己 コンピ テン シー 」に 焦点 を合 わせ 、教 科書 第 1 章第 2 節 の 内容 を具
体的 に 紹介 す る。 つ ま り、い わば 徐々 に レン ズ の倍 率 を上 げて い き、 最 終的 に は教 科 書の
学 習 事 項 を ク ロ ー ズ ア ップ し て 見 て い く 、 とい う論 述 の ス タ イ ル を と る 。 そ し て 、 お そ ら
く 読 者 の多 く は 、 ギ ム ナ ジ ウ ム の 5 年 生 が 学 ぶ 内 容 の 高 度 さ に 驚 か さ れ る こ と に な る だ ろ
う。
1。倫理科の位置づけと学習目標→ヘッセン州を例として
本節では、まず、ドイツ連邦共和国基本法(い わゆる「ボン基本法」)や、ヘッセン州学
校教育法等を参照し、倫理科の法的な位置づけを簡単に確かめ(1)、つぎに、ヘッセン州
のレアプラン(日本の学習指導要領にあたる)を参照し、倫理科の学習目標につい て見て
いく(2)。
(1 ) 倫 理 科 の 法 的 な 位 置 づ け
−48
−
で は 、 ま ず 、 倫 理 科 の 法 的 な 位 置 づ け が ど の よ う な も の で あ る か を 見 て み よ う。 先 に 回
答 を端 的 に述 べて お く と、 倫理 科 と は、 必修 科 目 として 定 めら れて い る宗 教科 の 代替 科 目
で あ る。 そ の 宗 教 科 に つ い て 、 ド イ ツ 連 邦 共 和 国 基 本 法 の 第 七 条 で は 、 次 の よ う に 述 べ ら
れ て い る。「宗 教 科 は 、 非 宗 教 学 校 を 除 く 公 立 学 校 に お け る 正 規 の 授 業 科 目 で あ る 」
。宗教
科 が 正 規 の 授 業 科 目 で あ る と い う 文 言 は 、 す な わ ち 、 宗 教 科 が 必 修 科 目 で あ る とい う こ と
を 意 味 し て い る 。 基 本 法 に お け る こ の 規 定 に 応 じ て 、 以 下 で 例 と し て 取 り 上 げ るヘ ッ セ ン
州 の 場 合 に も 、 そ の 学 校 教 育 法 に お い て 、「宗 教 は 、 正 規 の 教 授 科 目 で あ る 」 と 定 め ら れ
て お り 、 原 則 とし て 宗 教 科 の 履 修 が 義 務 づ け ら れ て い る わけ で あ る 。
た だし 実 際に は、 ドイ ツ の ほ とん ど の州 におい て は 、宗 教科 に 参加 し ない 生徒 た ち に対
し て、 代 替科 目とし て の倫 理科 が開 設 され てお り、 ヘ ッセ ン州 も また そ の例 外で は ない。
先 に 見 た ヘ ッ セ ン 州 学 校 教 育 法 で は 、「宗 教 科 に 参 加 し な い 生 徒 は 、 倫 理 科 に 参 加 す る こ と
が 義 務 づ け ら れ て い るヽ・
」 と 謳 わ れ て い る。 ま た 、 同 法 に 基 づ い て 作 成 さ れ た 、 ヘ ッ セ ン 州
の レ ア プ ラ ン (以 下 LP と 略 記 ; 略 語 の 後 の 数 字 は ペ ー ジ 数 を 示 す ) に お い て も 、「倫 理 科
は 、 宗派 別 に義務 づ け られ た 宗 教科 に 参加 す る意 志 がない 、 あるい は参加 で き ない 生 徒の
た め に 、 ヘ ッ セ ン 州 学 校 教 育 法 に し た がっ て 開 設 さ れ て い る 」(LP, 3) と 述 べ ら れ て い る 。
つ ま り、 倫 理科 は、 宗 派的 宗 教 教育 に 参加 す る意 志 のない 生 徒た ち のた め に、ヘ ッセ ン州
を はじ め とした多 く の州 で設 け られ てい る、 宗 教科 の代替 科 目なの だ と言 える
(2)倫理科の学習目標
つぎに、倫理科の学習目標について、ヘッセン州の倫理科のレアプ ランを手引きとして
見てみよう。同レアプ ランには、「科目の課題 と目的」の項目が設けられており、そこで倫
理科の学習目標が詳しく述べられている。ただし本稿においては、その全てを検討するこ
とは紙面の都合上不可能であるので、大きな枠組みだけを簡単に押さえておくことにする。
それにあたって以下では、「科目の課題と目的」の項目の中でも、特にその第ニパラグラフ
に注目してみたい。同項目では、第一パラグラフにおい て、(1)で見たような倫理科の位
置づけが述べられているが、それに続くこの第ニパラグラフにおいては、倫理科の目標の
骨格が表明されてい るのである。
その第ニパラグラフの前半部分は以下のようなものである。
倫理における教授は、倫理的な判断形成と、倫理的に反省された行為へ向けての教育
に資するものである。[また、]
倫理科は、価値観や倫理的原則についての理解を仲介し、
そして、倫理学的、哲学的、宗教学的な問いへの通路を開くものである。(LP, 3)
こ こ か ら 、 倫 理 科 の 主 な 学 習 目標 に は 、 主 に 次 の 四 つ の ポ イ ン ト が あ る こ と が 分 か る。 す
な わ ち 、 子 ど も た ち が 、a.
倫 理 的 な 判 断 を 形 成 で き る よ う に な る こ と 、b .
倫理 的 に反省 さ れ
た 行 為 が で き る よ うに な る こ と 、c.
価 値 観 や 倫 理 的 原 則 に つ い て 理 解 す る こ と、d.
倫理 学的 、
哲 学 的 、 宗 教 学 的 な 問 い に 取 り 組 む こ と が で き る よ う に な る こ と 、 とい う も の で あ る。 ち
なみ に、 こ れ らの 四つ の ポイ ン ト は相 互 に関 連づ け て構 想 され てお り 、こ れ らを 学 習の 順
序 とい う 観 点 か ら 並 べ 替 え る と 、 次 の よ うに 整 理 す る こ と が で き る だ ろ う。 つ ま り 、 子 ど
も た ち は 、 ま ず 、 倫 理 学 的 、 哲 学 的 、 宗 教 学 的 な 問 い に 取 り 組 み (d )、 そ の 中 で 、 価 値 観
-
や 倫 理 的 原 則 に つ い て 理 解 す る こ と で (c)、 倫 理 的 な 判 断 を 形 成 し (a)、 最 終 的 に は 、 倫
49 −
理的に反省された行為をすることができるようになるわけである(b)。
上の引用に続いて、第ニパラグラフの後半では以下のように謳われてい る。
[なお、]
倫理科は、ヘ ッセン州憲法ないしドイツ連邦共和国基本法において表明されて
いるような根本価値に定位してい る。 その根本価値に属してい るのは、とりわけ、人
間の尊厳、自由、寛容、正義である。[つまり、]
倫理科が重きを置いてい るのは、世界
観的に中立な国家における、信教と思想的立場の多元性であり、この多元性は、開か
れた社会の自由な価値基盤の表明なのである。(LP, 3)
こ こ で 「思想 的 立場 の多 元性 」 と言 われて い るこ と から は、 かつ て ナチ ス時代 に 、 単一 の
価 値 観 ・ 世 界 観 に よっ て 社 会 が 統 一 的 に 支 配 さ れ 、 価 値 観 ・ 世 界 観 の 多 元 性 が 失 わ れ て い
っ た こ と へ の 強 い 反 省 を 読 み 取 る こ と が で き る 。 ま た 、「 信 教 の 多 元 性 」 とい う こ と の 背 景
に は 、レ アプ ラ ン の 他 の パ ラ グ ラ フ に お い て 指 摘 さ れ てい る よ う な
、ド イ ツ に お け る 世 俗
化 の 傾 向 が 存 す る。 そ し て 、 引 用 文 の 最 後 で は 、こ の よ う な 「 信 教 と 思 想 的 立 場 の 多 元 性 」
が 「 開 か れ た 社 会 の 自 由 な 価 値 基 盤 の 表 明 」 な の だ と 述 べ ら れ て お り 、 倫 理 科 にお い て は
多 元 的 な パ ー ス ペ クテ ィ ブ の 形 成 が 重 要 な ポイ ン ト に な っ て い る こ と が 分 か る 。 こ の こ と
は 、 先 に 見 た 四つ の柱 の う ち の C や d に 関 わ る も の と 思 わ れ る 。 つ ま り 、 倫 理 科 に お い て
は 、子 ど も た ち が 価 値 観 や 倫 理 的 原 則 を 理 解 す る こ と が 目指 さ れ て は い る も の の 、た だ し 、
そ れ はー
い わ ゆ る 「徳 目 主 義 」 的 に一
価 値観 や 倫理 的原 則 を 実体 的 に存 在す る も の と
し て 子 ども たち に教 え込 む こ とを 意 味す る ので はな く 、む しろ 、子 ども た ち一人 一 人 が価
値 観や 倫 理的 原則 を新 たに創 造 し てい く こ とが 求 めら れてい るわけ で あ る。 そ して 、そ の
た め に は 、 子 ど も た ち が 、 哲 学 的 ・ 倫 理 学 的 次 元 の 問 い に つ い て 他 者 と繰 り 返 し 議 論 し 、
自 分 た ち が 暗 黙 裡 に 前 提 と し て い る パ ー ス ペ クテ ィ ブ を 見 つ め な お す こ と が 不 可 欠 で あ ろ
う。
以 上、 本 章で は 、倫 理科 の位 置 づけ と学習 目標 につい て 、ヘ ッ セン 州 を 例 として 瞥 見し
てき た。 つ ぎに 、 次章 では 、そ のヘ ッセ ン州 な どで 採 択 され てい る 倫理 科 の教 科 書の 一つ
であるFair Play一Ethik 5/6の序盤部分を見てみることにしよう。
2.
教科書Fair
Play一 第5・6学年版の第1章「「私」− それは誰 ?」
本節では、まず(1)で、教科書Fair Playのシリーズについて概要を確認し、つぎに(2)
で 、 そ の 第 5・6 学 年 の 巻 で 取 り 上 げ ら れ て い る 問 題 を 一 瞥 す る 。 そ し て 最 後 に (3 ) で 、
そ の 巻 の 第 1 章 「「 私 」− そ れ は 誰 ?」 の 内 容 を 簡 単 に 見 て い く 。
(1)教科書Fair Playについて
以下で取り上げるFair Play - Ethik 5/6は、Schoningh社から出版されている倫理科の
教科書であり、Fair Playシリーズには、ギムナジウムの5・6学年向けのもの、7・8学年
向けのもの、9・10学年向けのものの三冊がある。また、Fair Playシリーズには、生徒用
の 教 科 書 自 体 の 他 に 、そ れ に 対 応 す る 教 師 用 の 指 導 書 で あ るLehrerband
が 存 在 す る。な お 、
同 シ リー ズを 採択 し てい る州 とし ては 、 バ ーデ ン= ヴュルテ ンペ ル ク、ベ ル リ ン、ブ レー
-
メ ン、ヘ ッセ ン 、メ クレ ンブ ル ク =フ ォ ア ポン メル ン、 ニ ーダ ー ザ クセ ン、 ライ ン ラ ント
50 −
=プファルツ、ザールラント、ザクセン=アンハルト、シュレースヴィヒ=ホルシュタイ
ンの10州がある。ドイツには16の連邦州があるから、過半数の州がFair Playを採択し
ていることになる。
木稿では、以 下、このFair Playシリーズの教科書のうち、 ギムナジ ウムの5・6学年を
対象としたFair Play - Ethik 5/6 (以下これをFPと略記)について検討することにする。
また、その際、FP のLehrerband
(以下これを『教師用本』と略記)も参照する。
(2 )FP の 7 つ の 問 題 グ ル ー プ
FP に は 、7 つ の 問題 グル ー プ が あ り 、 そ れ ぞ れ の 問 題 グ ル ー プ に 対 し て 2 つ の 章 が あ て
られている。ちなみに、7つの問題グループとは、「1.自己への問い(Die Frage nach dem
Selbst)」、「2.他者への問い(Die Frage nach dem Anderen)」、「3.よき行為への問い(Die
Frage nach dem guten Handeln)」、「4.法、国家、経済への問い(Die Frage nach Recht,
Staat und Wirtschaft) 」、
「5.
自 然 、文 化 、技 術 へ の 問 い(Die Frage nach Natur, Kultur und
Technik) 」、
「6 .
真 理 、現 実 、メ デ ィ ア へ の 問 い(Die Frage nach Wahrheit, Wirklichkeit und
Medien)」、「7.起源、未来、意味への問い(Die Frage nach Ursprung, Zukunft und Sinn)」
とい う も の で あ る 。本 稿 で は 、以 下 、問 題 グル ー プ 1「 自 己 へ の 問 い 」の 中 の 、第 1 章「「私 」
− そ れ は 誰 ?」 に つ い て 立 ち 入 っ て 見 て い く こ と に し よ う。
(3 ) 問 題 グ ル ー プ 1 「 自 己 へ の 問 い 」: 第 1 章 「「 私 」 − そ れ は 誰 ? 」
問 題 グ ル ー プ 1 の 第 1 章 「「 私 」 − そ れ は 誰 ? 」 は 、 導 入 部 を 除 き 、 7 つ の 節 か ら 構 成 さ
れ て い る 。 具 体 的 な 節 の タ イ ト ル は 、 そ れ ぞ れ 、「1 .私 は 私 を ど の よ う に 見 て い る の か ? 一
私 を 他 者 は ど の よ う に 見 て い る の か ?(Wie sehe ich mich?
anderen?
―Wie sehen mich die
)」、「2 .
私 が 私 で な か っ た ら 、私 と は 誰 の こ と だ ろ う か ?(Wer ware ich, wenn
nicht Ich ware?
ich
)」、「3 .( き み に と っ て/ き み の ) き み は 確 実 か ?(Bist du (dir/deiner)
sicher? )」、「4 .
鏡 の 中 の そ れ は 誰 ?(Wer ist das im Spiegel?
)」、「5 .
い つ も 私 だ け ?(lm mer
nur ich?)」、「6.私は誰?一君は誰?(Wer bin ich?―Wer bist du?)」、「7.君が感じていない
も の を 、 私 は 感 じ て い る ?(Ich
fuhle was, was du nicht fuhlst?
)」 と な っ て い る 。
こ れ ら の 7 つ の 節 に つ い て 、各 節 の 内 容 を 詳 し く 述 べ る ス ペ ー ス は な い の で 、
『教 師用本 』
に お け る こ の 章 に つ い て の 概 要 を 参 考 ま で に 引 用 し て お こ う。
この章では、自己への問いを取り扱 うが、その際、次のこ とを顧慮す る。 どのように
して私たちが自分たち自身を見ているのか、どのようにして他者が私たちを見ている
のか、私たちは何者か、私たちが自我とい うことで理解してい るものは何であって、
自我 と私たちの自己の確実性 とを構成しているものは何か、どのよ うな(自己)欺瞞
に対して私たちは屈する可能性があるのか、い かにして私たちは自分たち自身 と他者
を認識するのか、利己主義はどのような位置価値を有しており、いかなる位置価値が
このような連関において感情に届くのか。(
『 教師用木』、9)
つまり、第 1 章では、自己の探究ということをモチーフにして、心理学的な意味での自
己のアイデンティティについ ての問い、自己 とい う存在者につい ての存在論的な問い、利
-
己主義についての倫理学的な問いなどが幅広く取り扱われるわけである。そして、以上の
51 −
ような内容を取り扱 うこの章の学習においては、特に次のことがポイントとなるのだとい
う。
に の章では、]
生徒たちの経験から出発しつつ、しかもまさに、[ギムナジウムへの]
進学、新しい クラスの仲間たち、新しい教科 「実践哲学」ないし 「倫理」といった物
事と共にある第 5 学年における生徒たちの経験から出発しつつ、次のことに生徒たち
の認知 が向けられてい るべきである。すなわち、私たちは自分たちを他者たちに対し
てい かに見せるのか、私たちは どのように他者たちを認知し、 自分たち自身はどのよ
うに認知されるのかとい うこと、このことに生徒たちの認知は向けられてい るべきな
のである。[なお、]
個人的なパースペ クティブは、次のような練習と課題を通して、つ
まり、おのれを知り、互い を観察し、互いに交流するための練習と課題を通して、繰
り返し、様々な問題設定とテーマの出発点になるが、そ のような個人的なパースペ ク
ティブ と並んで、社会的な視点が、少年向けの書籍からの抜粋によってもたらされる。
これは、きっかけとして、討議と反省に寄与する。思想史的なパースペクティブ は、
デカルトとマンフレッド・フランクのテクストの抜粋によって取り入れられ る。(『教
師用本』、9)
つ ま り、 ここ で は、 学習 の スタ ー ト に際 して 、 も とも と子 ど もた ち が持 っ てい る 個人 的 な
パ ー スペ クテ ィブ が尊重 され る が 、他 方 、児 童 書や 哲 学 書か らの 引用 に よっ て 他者 のパ ー
スペ クティ ブ も 導入 され 、 次第 に子 供 た ちは 、多 元 的 なパ ー スペ クテ ィブ を獲 得 す るよ う
促 さ れ る わ け で あ る 。 こ の ポ イ ン ト は 、 ま さ に 、 第 1 節 (2 ) で 私 た ち が 見 た 倫 理 科 の 学 習
目 標 に 対 応 し た も の で あ る。
な お 、FP に お い て は 、 ほ と ん ど の 章 に お い て 、 次 の 三 つ の コ ン ピ テ ン シ ー 、す な わ ち a.
自己コンピテンシー(Ich-Kompetenz)、b.議論すること(Argumentieren)、c.共感
(Empathie)
とい う コ ン ピ テ ン シ ー の 獲 得 に 重 き が 置 か れ て お り 、 第 1 章 も ま た 例 外 で は
ない 。 そ して 、 これ ら の三つ の コ ンピ テ ンシ ー はい ず れ も、先 に 見 た多 元 的な パ ー スペ ク
テ ィ ブ の 獲 得 とい う 倫 理 科 の 目 標 を 実 現 す る こ と に 資 す る も の で あ る 。 な お 、 こ の 三 つ の
中 で 最 も 私 た ち に とっ て 聞 き 慣 れ な い の が 、 お そ ら く a の 自 己 コ ン ピ テ ン シ ー で あ ろ う。
そ こ で 以 下 で は 、 節 を あ ら た め た 上 で 、 い よ い よ 、FP に お い て 子 ど も た ち が 学 ぶ 内 容 を 、
こ の 自 己 コ ン ピ テ ン シ ー に 着 目 し つ つ 具 体 的 に 見 て い く こ と に し よ う。
3。
「 私 が 私 で な か っ た ら 、私 と は 誰 の こ と だ ろ う か ? 」
自己コンピテンシーをめぐって
『教師用本』によれば、第 1 章におい ては、自己コンピテンシーの獲得はとりわけ第 2
節で目指 されるとされており、具体的には次のよ うに言われている。
自己コンピテンシー:第2節 「私か私でなかったら、私とは誰のことだろうか?」:こ
こでは、自己コンピテンシーに重点が置かれている。つまり、固有の自己についての
熟考に、固有 の自己の根源の探 究に、自己の独 自性 に重点が置かれてい るのであ り、
そしてそれを拠り所とし、それによって他者からの境界づけがなされているところの、
-
自己の様々な構成要素に重点が置かれてい るのである。(『教師用本』、19)
52 −
ここで言われているところの、自己の独自性とは、いったい何を意味するのだろうか。 FP
第1 章第 2節「私が私でなかったら、私とは誰のことだろうか?」の具体的な内容に目を
向けて考えてみよう。まず、この節の序盤部分では、次のような問い が子どもたちに投げ
かけられる。
「自分のものであるところのこの私には何が属するのか?」、とい う問いに関するマイ
ンドマップを作成してください。 次のお手本にしたがってマインドマップを描いて
みましょう。(FP,18
;強調は原文)
マ イ ン ド マ ップ に つ い て は 、 次 の よ うに 説 明 さ れ て い る。
マインドマップは或る種の心の地図です。その助けを借りるこ とで、あなたは自分
の考えを書き記し、それをまとめ、整理することができます。マインドマップ の真
ん中に、ひとつの核、円、箱、あるいはそれに似たようなものを書き、その中にテ
ーマを書き込んでください。 それから、真ん中から出ている枝 の部分に、思いつい
たことや考えたことをできるだけ短く書き記します。 もし簡潔な言葉でさらに項目
が思い 浮かんだときには、枝からさらに枝分かれした部分にそれを書き記します。
番号や矢印や小さな記 号をつけることで、自分の考えを整理し、より明確にし、そ
して結びつけることができます。ただし、次のことに注意しなくてはいけません。
書く際には紙を回転させず、書きとめた全てのことをすぐ読 めるように書いてくだ
さい。(FP,18)
つまり、ここでは 「この私」についてのマインドマップを作ることが課題 となってお り、
子どもたちは、
「この私」に関して一
して一
例えば任意の子 どもであるA くんは Aくん自身に関
思いつくものを放射状に書き記していくことになる。そ うすることで子 どもたち
は、自分自身の諸々の属性だものや、「(A くんは)明るい性格である」といったものー
を整理し、自分自身が何者で
あるのかをあらた めて考えることができるようになる。 このようにして、自己の属性につ
いて見つ めなおすことは、心理学的な意味でのセルフ・アイデンティティーの獲得に資す
るものと思 われる。 なお、このような課題においては、あくまで自己(「私」)は、諸々の
属性を束ねる基体として考えられていると言えるだろ う。
それに対して、実は、この節の中盤部分では、自己 (「私」)がそれまでとは異なった次
元においてとらえられてい る。そこで取り上げられている、Susanne Kilian の「時間とそ
の時間における私」とい うテクストからの抜粋を見てみよう。
私は自分自身 についてじっくり考えるとそれを止められなくなる。 私かよりにもよっ
てこの私であることの根拠はほとんどない。ここから考えることは始まるのであ る。
私は誰か他の人 間であったかもしれない。 なぜ私は、ここに生まれ、アメリカや 中国
など、別の世界のどこかに生まれなかったのか?なぜ私はまさしくこの時代に生まれ
53 −
たのか ?もし私が生まれなかっ たならば、私はどこにいるのだろ うか?−ただ単純に
そこにい ないだけなのか?まだいない とい うこ とか?あるいは次のように仮定してみ
よう。私は2050 年に火星で生まれたのだ、と。私!私は全く異なった仕方で存在して
いたかもしれないのだ。私はどのように話し たり考えたりするのだろうか?私がいま
考えてい ることについて、その私は何も理解しないだろう。 あるいはそんなことはな
いのだろ うか?(FP, 19; 強調は原文)
このテクストでは、「私」が今ここに存在している 「この私」であることの無根拠性につい
て語られている・。つまり、Aく んにとってみれば、自分のクラスメイトであるB くんや C
くんが「私」である可能性 があっ たのであり、あ るい は、他の場所や時代に存在する誰か
或る人が「私」である可能性 があったにもかかわらず、なぜか、現実には、A とい う名前を
もったその人物が 「私」なのである。 このことの根拠の無さは、或る人間がたまたま或る
諸々の属性を束ねているこ との無 根拠さや、諸々 の属性を束ねてい るその人間が事実的に
存在することの無根拠さとは異なる。 例えば、A く んが、「ギムナジ ウムの 5 年生である」
ことや 「明るい性格である」こと、あるい は、そのような A くんとい う人物が存在するこ
との無根拠さとは全く異なるのである。仮に A くんが現実に今そうである通りに存在した
としても、その A くんが「私」ではない、とい うことも想定できるだろ う。あくまで、こ
こで考えられてい るのは、或る人間一
例えば A くんー
こそが「私」である、とい うこ
との無根拠さなのである。そして、 さらにせんじ詰めて、そのよ うな「私」はどこにも存
在しなかったとい うこ とさえ想 定することが可能なわけであるが、それにもかかわらず。
「私」が今ここに存在しているとい うことは、それ自体が奇跡的であるとも言える。 この
よ うに、根拠が無いにもかかわらず、なぜか存在しているこの「私」 のことを自己 と呼ぶ
ならば、そこでの自己の独自性とは、上で見たような、自己の属性 に基づいて獲得 される
セルフ・アイデンティティーのようなものとは全く異なるものである。
以上のように、この節で子どもたちは、自己の独自性 とい うことを、二重の意味で考え
ることになるわけである。このようなことからも、『教師用本』で自己コンピテンシーと言
われてい た事柄の、哲学的な奥行きの深 さをうかが うことができるだろ う。しかも、実際
には、本稿第二節(3)で挙げたFP 第一章の内容は、いずれもこの自己コンピテンシーに
かかわるものであり、さらにはFP の他の章においてもその育成は企図されているのである
から、当然 ながら、本節では、自己コンピテンシーとい うことで考えられているこ との一
端にふれたにすぎない。
4。
結び に代 え て
本稿では、ドイツにおける倫理科についての概要を示し、教科書Fair
Playを例として、
倫理科の学習内容の一端を見てきた。 とりわけ第 3 節では、教科書の内容を具体的に見る
ことで、ドイツのギムナジウム 5 年生が学ぶ内容がいかに高度なものであるのかを紹介す
ることができたのではない かと思う。 とはいえ、Fair Playの特徴は、このように哲学的に
高度な問題 が扱われてはいるものの、子どもたちが楽しんで問題に取り組むことができる
よう工夫が凝らされてい る、とい う点にある。 例えば、子どもたちは、児童書から引用さ
54 −
れたテクストを読んだり、絵や 写真を見たりして、哲学的な問題を身近なものとしてとら
えることができるわけである。実のところ、筆者 自身、教科書を翻訳しつつ読み進 める中
で、つい自分自身がギムナジウムに通う子どものような気になって、考えに耽ってしまう
ことも多々あった。その面 白さをどの程度ここで表現することができたかと考えるといさ
さか心許ない。また別の機会に、この教科書の内容をより詳しく紹介するこ とができれば
と思 う。
また、第1節の(2)で確 かめたような倫理科の学習目標と、第2節や 第3節で見たよう
な教科書Fair Playの学習内容との対応についても、本稿では踏み込んで考えることはでき
なかった。例えば、第 3節で見たような自己についての哲学的な問いが、第 2節で見たよ
うな「倫理的な判断形成」 という学習目標とどのようにつながってい るのかと考えると、
これに答えることは容易ではない。もちろん、「倫理学的、哲学的、宗教学的な問いへの通
路を開く」とい うことが学習 目標に掲げられているから、その意味では、純粋に哲学的な
問題に取り組むこと自体が目標とされてい る、とも考えられそ うである。
以上のようなことを、筆者が今後取り組むべき課題 として銘記し、本稿を閉じることに
-
したい。
55 −