『100年史ダイジェスト版』第8章23ページの

第8章
平成元年〜平成8年
1989-1996
旺盛な
橋梁・鉄骨需要を
背に受けて
昭和から平成へと移り変わったこの時期は空前の好景気を背景に、当社も数々の
大型プロジェクトに挑みました。しかし、やがてやってきたバブルの崩壊と阪
華
号埋
一九八〇年代後半からの東京で、と
やかな首都改造ビジョンが描かれた
市浮島沖合にあり、「風の塔」の名で知られ
をそれぞれJVで受注しました。また、川崎
と橋長一、一〇八メートルの連続鋼床版箱桁
中でも最も背が高い橋脚であるP七鋼製橋脚
のが東京港連絡橋(レインボーブリッジ)で
計画当初から社内の関心を一身に集めていた
社のプライドに掛けても受注しなくては」と
発基本構想」でした。そのなかにあって、
「当
立地)の開発を中心とした「臨海部副都心開
が、溶接量が多く高所作業も多かったことか
行い、袖ヶ浦港の岸壁で地組立を行いました
グ)を施工しました。製作は千葉臨海工場で
橋脚工事では、幅二八×奥行き二八×高さ
一〇メートルという巨大構造物(フーチン
ら受注しています。
る人工島の換気塔(大塔)もゼネコンJVか
号埋立地)と有明(
りわけ大きなプロジェクトとなった
す。上層を首都高速道路、下層を新交通シス
のが、お台場(
テム「ゆりかもめ」、その両側に歩道も併設
に計画が開始され、数々の橋を開通
家プロジェクトとして一九七〇年代
も手を焼いたといいます。
国
させてきた本四架橋は、いよいよそ
の佳境を迎えようとしていました。
ほかにも東京都から、関連工事として芝浦
ループ部・台場海上部をそれぞれJVで受注
ることから、橋梁メーカーとしては何として
明石海峡大橋は世界最大の支間長の吊橋とな
残された大型橋梁は、来島大橋と明石海峡
大橋の二つ。来島大橋は世界初の三連吊橋、
しています。周辺部の工事も合わせると関連
も参加したい案件でした。技術力を十二分に
キロメートルの距離を結ぶ東京湾横断道路
ト ン ネ ル ・ 人 口 島 ・ 橋 梁 で 一 五・一
ジェクトが進行していました。海底
こうした努力が実を結び、当社は来島第三大
る際の浜出し設備の整備などを進めました。
るフェーシングマシンの導入・製品を出荷す
設・塔の接合面をミクロン単位で切削加工す
その思いを叶えるために当社は早々に生産
体制の整備に着手して、千葉臨海工場の増
発揮できる絶好の機会だったのです。
社は、木更津市中島沖合に位置する橋梁部の
崎市と木更津市の間でも巨大なプロ
施工を受け持ちました。
九工事で合計鋼重一万五、
〇〇〇トン以上の
と胸をなでおろしました。
まったときには、だれもが喜ぶとともにホッ
を含むJVは補剛桁の半分を受注。それが決
まず、工事の吊橋部が首都高速道路公団よ
り五JV(全一四社)に分割発注され、当社
二の故郷である芝浦だったのです。
ら、その作業には当社の百戦錬磨の職人たち
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されるこの橋が結ぶのは、お台場とわが社第
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(現・東京湾アクアライン)の建設です。当
川
神・淡路大震災。時代はいつしか厳しい方向へと向かっていきます。
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レインボーブリッジ
旧・首都高速12号線
現・首都高速11号台場線
1995(平成7)年、当社
は箱根登山鉄道の早川橋梁の
補修工事を受注しました。
1888(明治21)年に英国
で製造されたものを輸入した
後、天竜川に架けられていた
橋梁の一部を現在の場所に移
設したもので、鋼製の鉄道橋
として120年を超える歴史
的構造物です。
の列車を通すための強化が目
橋の主塔を受注することができました。
安定性の確保などからトラス形式が選定され
場管理指針の策定・試験体によるシビアな検
して調査・検討を進め、基本方針を立案。現
械的性質に問題がないことを確認しました。
事前に溶接施工試験を実施して、施工性や機
明石海峡大橋では従来品とは異なる予熱低
減鋼が使われることとなったため、当社では
ました。
証など万全の準備を行って本番に臨んだ結
さらに、さまざまな試験体によるテストを繰
この工事の最大の課題は主塔の精度にあり
ました。当社ではプロジェクトチームを編成
果、高い製品精度のみならず、工期短縮も実
峡大橋の工事に携わった業界各社のなかで高
り返し、その結果として当社の製品は明石海
い評価を得ることができました。
現することができたのです。
く明石海峡大橋は神戸市垂水区と徳
その後、一九九一年まで続いた本四架橋プ
ロジェクトのなかで、当社は一一橋に携わる
島県鳴門市を結ぶ橋で、中央径間
ことができたのです。
(一、
九九一メートル)は二〇一四年
の今も世界最長です。補剛桁の製作だけでも
央径間補剛桁の神戸側をJVで受注。当社に
三大橋のプロジェクトに取り組みま
古屋では〝名港トリトン〟こと名港
的で、当社では健全度調査・
維持管理対策の作成などを行
った上で工事を実施しましま
した。
昨今は建設後50年以上が
経過する橋梁が急増していま
すが、当社は40年以上にわ
たり、500を超える橋梁の
補強・補修の実績を重ねてき
ました。橋梁の長寿命化のた
当社はこの橋のうち、名港中央大橋(白)
と名港西大橋(赤)に、ともにJVとして携
した。これは三色に塗り分けられた
いるのです。
長大斜張橋からなるもので、伊勢湾岸自動車
である「Re-BRI(リブリ)」に活きて
ェクト九件目の受注となりました。明石海峡
ウハウが今、当社の柱の一つ
大橋の補剛桁には六甲山系から吹き下ろす風
するところで、その経験とノ
道の整備に伴う橋梁工事でした。
めの取り組みはまさに得意と
にも、頻繁に通過する台風にも負けない耐風
とっては因島大橋から数えて本四架橋プロジ
名
全二〇社が参加する規模の工事で、当社は中
続
この補修は初めて3両編成
わりましたが、名港中央大橋の支間長五九〇
メートルは、一九九八年当時、斜張橋として
は日本一の規模のものでした。この工事の焦
点となったのが、一日四〇〇隻と航行量の多
い名古屋港でいかに安全・確実に架設を行う
かということでした。協議の結果、工区内で
の水中ベント設置が可能となり、FC船によ
る大ブロック一括架設工法が採用されまし
た。架設当日は多数の見学者が見守るなか、
100年のあゆみと私たちの仕事
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日本最古の鉄道橋・早川橋梁の補修
Episode
余震に襲われることもしばしばでした。それ
当社にとって、これほど大規模な復旧工事
は初めての経験であり、また工事中に大きな
上高さ二九六メートルと、国内一の高さの
その象徴である横浜ランドマー
クタワーは地上七〇階建・塔屋三階建・地
)の
せることができました。その後、名港トリト
でも、被災地の人々の期待に応えたいという
超高層ビルとなり、あべのハルカスが完成
(MM
ンはライトアップなどの演出もなされ、名古
熱意を持って作業に取り組んだ結果、終了ま
する二〇一四年まで首位の座を維持してい
浜ではみなとみらい
屋港の新しい観光名所となっています。
で三年ほどかかるだろうと考えられていた復
ベント上への落とし込み架設を無事に終わら
朝の町を激震が襲いました。
旧工事も一年九カ月足らずで完了することが
代終盤から一九九〇年代前半、鉄骨
ブルのただなかにあった一九八〇年
は耐震設計のみならず、耐風設計にも重点が
鉄骨製作を受注しましたが、この巨大ビルで
一万三、〇〇〇トンのうちの二、
三三〇トンの
開発が進んでいました。
一九九五年一月一七日未明に発生し
横
た阪神・淡路大震災です。住宅密集
ガラスのカーテンウォール…。甚大な被害が
事業において、数々の個性的な建築
この震災において当社施工となる橋梁の落
橋は見られなかったものの、阪神高速道路公
転した光景です。
戸線の橋梁が約六〇〇メートルにわたって横
なかでも衝撃的だったのが、阪神高速3号神
部には高さ約二九メートルの吹き抜け空間も
柱の上に大屋根の大架構を載せた高床式。内
資料を収集・展示するこの博物館は、四本の
その一つが、両国国技館に隣接する江戸東
京博物館です。江戸時代からの東京の遺産や
物に関わることができました。
MM では横浜国際平和会議場(パシフィ
コ横浜)
・クイーンズスクエア横浜・日石横
た。
かどうかなど綿密な検証作業を繰り返しまし
スチロールで原寸大模型を作り、溶接が可能
おかれました。その結果、鉄骨の部材構成が
極めて複雑となったため、技術者たちは発泡
団の5号湾岸線では前年に竣工したばかりの
にも壊滅的なダメージをもたらしましたが、
広範囲に広がりました。震災は交通インフラ
バ
地の大火、一階が崩壊したビル、砕け散った
早
ました。当社はゼネコンJVから総鋼重
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できました。
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被害が見られました。一九九〇年竣工の深江
夙川工区鋼桁の支承が分離破壊するといった
るため、鋼材の切断から溶接・組立に至るま
製品としても大型で仕口部の構造も複雑とな
の屋根梁(一、
九五〇トン)は板厚があり、
設けられました。当社が受注した大屋根鉄骨
かなりし頃〟という言葉が似合う時代でした。
浜ビルなどの鉄骨製作も受注、まさに〝華や
出ていたことから、当社では復旧工事に奔走
京ドームに次ぐ国内最大級の無柱空間である
をもつ構造物の工事が続きました。前者は東
ほかにも、前橋市グリーンドーム・羽田空
港の全日空東京第一格納庫と大スパンの空間
用し、国内最大の展示ホールを完成させまし
八本で受けて架設するリフトアップ工法を採
材を吊り上げ、コンボックス(四角い支柱)
ガレリア棟の製作および建方を受注。トラス
京国際展示場の建設が進みました。
明では〝東京ビッグサイト〟こと東
浜第三工区の鋼桁でも桁部材に大きな損傷を
有
する日々が始まります。
イベントホール、後者はジャンボ機を含め航
た。
で、高い精度が求められる工事となりました。
横転した阪神高速3号神戸線の復旧工事も
まもなく開始され、当社は芦屋市若宮町〜平
空機を最大五機まで収納できる格納庫として
一九九四年には東京ファッションタウンビ
当社は一九九二年にこの東展示場と
田北町、そして神戸市長田区に架かる工区を
世界最大級の大空間を実現しました。
JVで担当することになりました。
また、当社施工ではないものの、東海道・
山陽新幹線の橋脚やホーム桁などにも被害が
受けていました。
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作に取り組むとともに、柱については全自動
たため、当社ではその管理基準を策定して製
厚材を用いた溶接量の非常に多い工事であっ
また、有明に隣接した豊洲では、東京電力
テプコ豊洲の建設工事にも関わりました。極
た。
さんで二つの工事現場が並ぶこととなりまし
ルの鉄骨工事も受注し、ゆりかもめの駅をは
るプロジェクトでした。のちに〝TTKキャ
るとともに、港区の地区整備計画とも連動す
項であった現寸場跡地の有効利用の一環であ
同じ頃、当社は芝浦の地に新本社ビルを建
設しましたが、これは、かねてからの懸案事
作を可能にしていたことです。
骨CADを導入し、精密かつ効率的な鉄骨製
いに習熟していたこと、そして、いち早く鉄
は、IT化に備えたインテリジェント仕様で
竣工は、一九九一年一月。地上九階建の建物
あり、一階部分は地域住民が運河べりに自由
ナルサイドビル〟と名づけられたこの建物の
骨事業の売上高が一〇〇億円を突破
に通り抜けできるような設計としました。
溶接ロボットの導入を実施し、無事に工事を
したのは、一九九二(平成四)年度
終了させました。
のことでした。その背景には超高層
れからほどなく、バブル景気は終焉
鉄
ビルや大架構建築が増えていたこともありま
を告げます。そして日本経済は出口
そ
すが、もう一つには、当社に二つの優位性が
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の見えない不況の時代へと入ってい
とは同じく撮影に立ち会った当社OB
の弁。
「てっきり断るものと思ったが、
いま思えば本社ビルを壊して建て替え
る話があったので、記念に残しておこ
うと思ったのかもしれないね」。その
言葉の通り、旧本社ビルは1990年3
月に解体され、今は映画の中にその姿
をとどめています。
きますが、当社にとっても長い冬の時代が待
よく撮影を許可したものだ」
あったことも挙げられます。
当社にあって、
「いま思えば、
ち受けていました。
堅い会社というイメージの
それは、鉄骨部材の大型化が進むなか、当
社はすでに橋梁事業において大ブロックの扱
Episode
る北野武監督。その原点とい
各国の映画賞を受賞してい
えるのが、
1989年公開の第一
作『その男、凶暴につき』です。
主演も務めた北野武が扮す
る役は、港南警察署という架
空の警察署に勤務する刑事。
そして、この映画のロケには
港区、品川区の路上などがし
ばしば登場しますが、港南警
察署のシーンのいくつかは、
6階建時代の旧本社ビルのエ
ントランスと屋上で撮影され
ました。
屋上での撮影は日曜日に行
われましたが、現場では総務
部の職員が対応。
『その男、凶暴につき』
の舞台に
明石海峡大橋(神戸−鳴門ルート)