古 代 文 字 資 料 館 発 行 『 KOTONOHA』 138 号 (2014 年 5 月 ) 十 九 世 紀 の 広 東 語 (7)文 末 助 詞 “ 呢 ” の 発 音 竹越美奈子 一 現 代 粤 語 に は 漢 字“ 呢 ”で 表 記 さ れ る 語 が 二 つ あ る 。近 称 の 指 示 詞“ 呢 ”[ ⊂ ni] と 文 末 助 詞 “ 呢 ” [ ⊂ nɛ]で あ る 。 同 じ 漢 字 で 表 記 さ れ る が 、 発 音 は 違 う 。 (1) 指 示 詞 の 例 : 呢 個 人 ( 这 个 人 ) (2) 助 詞 の 例 : 我 係 王 麗 , 你 呢 ? ( 我 是 王 丽 , 你 呢 ? ) 両 者 は 十 九 世 紀 の 前 半 の 資 料 で は と も に ⊂ ni と 書 か れ て い る こ と か ら 、 か つ て は 同 じ 発 音 で あ っ た と わ か る 。こ れ に 関 連 す る こ と で あ る が 、十 九 世 紀 か ら 現 代 に 至 る ま で の 間 に 、粤 語 の 母 音 は [i]>[ei]と い う 体 系 的 な 母 音 推 移 に よ る 変 化 を 経 て い る 。 1 た と え ば 現 代 粤 語 で は“ 你 ”は [ ⊆ nei]で あ る が 、十 九 世 紀 前 半 の 資 料 で は ⊆ ni と 表 記 さ れ て い る 。“ 你 ” nei は 、 体 系 的 な 母 音 推 移 の 結 果 [ni]>[nei]と な っ た の で あ る 。 こ れ に 対 し て 指 示 詞 の “ 呢 ” ⊂ ni は 母 音 推 移 の 影 響 を 受 け な か っ た 。 で は“ 呢 ” ( 助 詞 )は 十 九 世 紀 前 半 の ⊂ ni か ら ど の よ う な 歴 史 を た ど っ て 現 在 の 形 “ 呢 ”( 助 詞 ) [ni]>[nɛ]は 体 系 的 な 母 音 推 移 ⊂ nɛ に な っ た の で あ ろ う か 。 小 文 は 、 が 完 了 し た 後 に 、そ れ と は 無 関 係 に 個 別 に 起 き た 弱 化 現 象 で あ る と 考 え る 。以 下 、 早 期 粤 語 資 料 の 記 述 か ら“ 呢 ” ( 助 詞 )[ni]>[nɛ]の 変 化 が 起 こ っ た 要 因 と 時 期 に つ いて考察したいと思う。 二 早期粤語資料における表記の変遷は以下の通りである。 表 1: 指 示 詞 と 助 詞 の 表 記 の 変 遷 2 Morrison Bridgman Williams Bonney 1828 1839 1842 1854 (参 考 ) “你” 表記 音価 ne “呢” 指示詞 表記 音価 表記 音価 ne “呢” 助詞 ⊆ ⊆ ní ní Devan 1858 nee ⊆ ni nee ⊆ ni Chalmers 1859 ⊆ ni [ni] ⊂ ní ⊂ ní ⊂ ni [ni] ne ⊂ ní ní [ni] ⊂ nee ⊂ ni N.D. 1 こ の 現 象 に つ い て は す で に 李 新 魁 (1994)、 高 田 (2000)な ど で 指 摘 さ れ て い る 。 特 に 高 田 (2000) では、この変化を早期粤語資料の記述から裏付けている。 2 Morrison(1828)と Bonney(1854)は 声 調 な し 。Devan(1858)で 指 示 詞 の 声 調 が 陽 上 と な っ て い る の は誤植か。 1 Lobscheid 1867 ⊆ Chalmers 1878 ⊆ ní ni Ball 1883 Ball 1888 ⊆ ⊆ néi [ni] ⊂ ní Fulton 1888? ⊆ néi ni ⊂ ni, ○ ni ⊆ ni [nei] ⊂ Chalmers 1891 ni [ni] ⊂ ni, ○ ni ⊂ ni ⊂ ni [ni] ní [ni] ⊂ N.D. Ball 1907 ⊂ ne, ⊂ ni, ○ ne, ○ ni ⊂ ne, ⊂ ni, ○ ne, ○ ni [nɛ]/[ni] Baronsfeather Jones & Woo Cowels 1912 1912 1915 ⊆ néi [nei] ⊂ ni, ○ ni ⊆ N.D. ⊂ ni nei, ⊆ ne 3 ⊂ ni ⊆ nei [nei] ⊂ ni ni [ni] ⊂ Chao 1947 [nei] nhi [ni] ⊂ ne, ⊂ ni, ○ ne, ○ ni [nɛ]/[ni] ni [ni] ⊂ nɛ: [nɛ] ○ ni [nɪ] ⊂ 現代標準粤語 nee ○ nhe [nɛ] N.D. 你 [ni] 呢 (指 示 詞 ) [nɛ] 呢 (助 詞 ) ○ 体 系 的 な 母 音 推 移( [i]>[ei])を 最 初 に 資 料 に 反 映 さ せ た の は ボ ー ル で あ る 。そ れ 以 前 の 資 料 で は 一 律 に“ 你 ”[ni]、 “ 未 ”[mi]、 “ 幾 ”[ki]で あ っ た も の が 、Ball(1883) で は“ 你 ”[nei]、“ 未 ”[mei]、“ 幾 ”[kei]と な っ て い る 。し か し な が ら 、早 期 粤 語 資料の編者がこの変化にまったく気づいていなかったわけではなく、すでに Bridgman(1839:vii), Williams(1856:xvi)に 、例 外 的 で は あ る が 、[i]の 韻 が [ei]の よ う に 発 音 さ れ る こ と が あ る と い っ た 観 察 が あ る 。ボ ー ル の 時 代 に は こ れ は も う 例 外 と 言 え な い く ら い 一 般 的 に な っ て お り 、こ れ ら を [i]と 記 し た ウ ィ リ ア ム ス の 資 料 を ボ ー ル は 間 違 い で あ る と 批 判 し て い る (Ball1888:xv)。Parker(1880:364)に お い て は、 「 ウ ィ リ ア ム ス が [i]と 記 述 し た も の は 、mi,ni の よ う な 口 語 語 彙 に の み 存 在 す る も の で あ る 」と い う よ う に 、[i]と 発 音 す る 方 が 例 外 的 な の だ と 認 識 さ れ る ま で に 至 っ て い る 。( 以 上 は 高 田 2000 参 照 ) し か し な が ら 、 ボ ー ル の 時 代 に な っ て も 助 詞 “ 呢 ” の 発 音 変 化 [ni]>[nɛ]は ま だ 顕 在 化 し て い な か っ た 。ボ ー ル の 著 作 に お い て も 、指 示 詞“ 呢 ”と 助 詞“ 呢 ”の 課 文 中 で の 表 記 は と も に [ ⊂ ni]で あ る 。( 筆 者 が 確 認 し た の は Ball1883,1888,1907) し か し な が ら 、文 法 解 説 編 の 文 末 助 詞 の 項 に お け る“ 呢 ”の 発 音 の 説 明 で は 、 「 ne、 4 ま た は よ り 一 般 に ni」 (Ball1883:80, 1888:114, 1907:124)と な っ て お り 、ni と 読 む 方 が 多 い も の の 、 ne と 発 音 さ れ る こ と も あ る こ と に ボ ー ル は 気 づ い て い た 。 3 単 独 の e は 時 と し て 、 重 要 で な い 語 が と て も 短 く 発 音 さ れ る と き 、 ei の 替 わ り に な る 。 (Jones1912:xiii)(e alone is occasionally substituted for ei in unimportant words when pronounced very short.) 4 原 文 は 「 ⊂ Ne, or more commonly ⊂ ni,」。 Ball(1883)の 記 述 に は 、「 more commonly」 の 但 し 書 き がない。 2 そ の 後 二 十 世 紀 に な っ て 、こ の 変 化 は 無 視 で き な く な っ た 。以 下 の 記 述 は“ 呢 ” に つ い て の Cowels(1912)の 解 説 で あ る 。 1 . 指 示 詞 “ this” と し て は 、 ni は chi に お け る i の 音 ( 筆 者 注 :“ 知 [i]” と 同韻)で発音される。 2 . 疑 問 の 助 詞 と し て は chik に お け る i の 音 ( 筆 者 注 :“ 直 ” の 主 母 音 で あ る [ɪ]) で 発 音 さ れ る 。 こ の 用 法 は ち ょ う ど 我 々 が 英 語 の 文 の 最 後 に あ る ク エ スチョンマークを単なる疑問イントネーションにするのではなくて、声に出 して言って言葉にしたようなものである。 3 . 口 語 で は ni を 疑 問 の 助 詞 と し て 気 軽 に 使 う こ と が よ く あ る 。 単 体 と し て表現するには長すぎる文を区切るとき、この助詞が自由に使える。その効 果は英語で長い文のフレーズの間におくカンマのようなところがある。5 つ ま り こ の 時 代 、 指 示 詞 の “ 呢 ” は 依 然 と し て [ni]で あ っ た が 、 助 詞 の “ 呢 ” は 主 母 音 が 弱 化 し て [ɪ]に な り 、指 示 詞 と 異 な る 発 音 を 獲 得 し て い た 。し か し こ の と き は ま だ「 chik に お け る i の 音 」と い う 表 現 か ら も わ か る よ う に 、Cowels の 認 識 で は 独 立 し た 韻 に は な っ て い な い 。あ く ま で [i]の 弱 化 の 結 果 で あ る 。こ の 点 に お い て 、す で に“ 遮 、咩 、嘅 [ɛ]”な ど で 使 わ れ て い る e と 同 じ 表 記 に し て い る ボ ー ル よ り 保 守 的 と も 言 え る 。 た だ Cowels は 、 助 詞 の と き は ( 指 示 詞 と 違 っ て ) [ɪ] だと言っているのに対して、ボールの方はあくまで(指示詞と同じ母音である) [i]が 一 般 的 だ と し て 課 文 中 の 注 音 を [i]に 統 一 し て い る と い う 点 で 、ボ ー ル の と き には発音のゆれと認識されていたことを物語っている。 助 詞 の 注 音 を [ɛ]に 統 一 し て “ 遮 、 咩 、 嘅 [ɛ]” な ど と 同 じ 韻 に 合 流 さ せ た の は Jones and Woo(1912)で あ る 。 発 行 は Cowels(1915)よ り 先 で あ る が 、 こ れ は ジ ョ ー ン ズ が 音 声 学 者 で あ り 、中 国 の 伝 統 的 な 音 韻 学 な ど よ り 実 際 の 発 音 を 重 視 し た 結 果 で あ ろ う 。Jones and Woo(1912)で は 助 詞 の“ 呢 ”は [nɛ:]で 、 “ 遮 ”[tsɛ:]“ 咩 [mɛ:]” な ど と 同 韻 で あ る 。趙 元 任 も 同 様 で 、二 十 世 紀 中 葉 に は 助 詞“ 呢 ”と 指 示 詞“ 呢 ” の発音は完全に分かれたと言えよう。 三 表2:指示詞“呢”と助詞“呢”の発音 19c 前 半 19c 後 半 指示詞 ni → 助詞 ni ni/nɪ cf.代 名 詞 “ 你 ” ni/nei nei 5 20c 前 半 → nɛ → 20c 後 半 ~ 現 在 → → → 21. As a demonstrative this, ni is pronounced with the sound of I in chi. 22. As an interrogative final ni is pronounced with the i sounded as in chik. In this use it is exactly as if we vocalized the ? mark at the end of an English sentence and made a word of it instead of simply giving a questioning inflection. 23. A loose use of ni as an interrogative particle is to be noted in colloquial speech. Breaking up a sentence too long for expressing as an entity, this particle is freely used. Its effect is somewhat that of the comma in English between the phrases of a long sentence. (Cowels1915:47) 3 19 世 紀 前 半 に 、 粤 語 の 母 音 は 体 系 的 な 母 音 推 移 ( [i]>[ei]) を 経 験 し た が 、 口 語的語彙である指示詞“呢”と助詞“呢”はその影響を受けなかった。その後 19 世 紀 後 半 か ら 20 世 紀 に か け て 、 助 詞 の “ 呢 ” の 発 音 に [ni/nɪ]と い う ゆ れ が 生 じ た 。 ほ ど な く 新 し い 発 音 で あ る [nɪ]が 勝 利 し 、 す で に あ っ た [ɛ]の 韻 に 合 流 す る こ と で 完 全 に 指 示 詞“ 呢 ”と 違 う 発 音 を 獲 得 し 、違 う 語 彙 と 認 識 さ れ る こ と に な っ た 。そ の 原 因 は 明 ら か で は な い が 、常 用 の 語 彙 に 同 じ 発 音 の も の が あ る の は 意 味 弁 別 上 混 乱 の も と に な る こ と 、口 語 的 な 語 彙 の 場 合 発 音 が 変 化 し や す い 事 な ど が 考 え ら れ る の で は な い か 。違 う 発 音 を 獲 得 し た こ と に よ り 、今 後 は 違 う 漢 字 を 獲 得 す る 可 能 性 も あ る が 、助 詞 の 方 は 機 能 も ほ ぼ 等 し い 官 話 の 助 詞“ 呢 ”と 同 じ 漢字なのでこの漢字を使い続ける可能性が高い。 早期粤語資料(年代順) Morrison(1828) Vocabulary of the Canton Dialect. Macao: G. J. Steyn & Brother. Bridgman(1839) A Chinese Chrestomathy in the Canton Dialect. China. Williams(1842) Easy Lessons in Chinese. Macao : Office of the Chinese Repository. Bonney(1854) A Vocabulary with Colloquial Phrases, of the Canton Dialect. Canton: Office of the Chinese Repository. Devan(1858) The Beginner’s First Book, or Vocabulary of the Canton Dialect. Hong Kong: China Mail Office. Chalmers(1859) An English and Cantonese Pocket-Dictionary. Hong Kong: The London Missionary Society’s Press. Lobscheid(1867)Select Phrases in the Canton Dialect,2 nd ed. Hong Kong: DeSouza & Co. Chalmers(1878)English and Cantonese Dictionary 5 th ed. Hong Kong: De Souza & Co. Ball(1883) Cantonese Made Easy, Hong Kong: China Mail office Ball(1888) Cantonese Made Easy 2 nd ed., Hong Kong: China Mail office Fulton(1888?)Progressive and Idiomatic Sentences in Cantonese Colloquial 3 rd ed. Hong Kong: Kelly & Walsh. Chalmers(1891)English and Cantonese Dictionary 6 th ed., Hong Kong: Kelly and Walsh ltd. Ball(1907) Cantonese Made Easy 3rd ed., Hong Kong: Kelly & Walsh Ltd. Baronsfeather(1912) The A. B. C. of Cantonese. Pakhoi: C.M.S. Hospital. Jones and Woo(1912) A Cantonese Phonetic Reader. London: University of London Press. Cowles(1915) Inductive Course in Cantonese. Hong Kong: Kelly & Walsh Ltd. Chao(1947) Cantonese Primer. MA: Harvard University Press. 引用文献 高 田 時 雄 (2000) 「 近 代 粤 語 の 母 音 推 移 と 表 記 」『 東 方 學 報 ・ 京 都 』 72:754-740. 李 新 魁 (1994) 『 広 東 的 方 言 』 広 東 人 民 出 版 社 。 4
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