幻喰と三性説

(1
9)
龍谷大学悌教学研究室年報第
1
8号 2
0
1
4年 3月
幻喰と三性説
-w大乗荘厳経論』第 XI章 1330備をめぐってー
・
問中充
o
.はじめに
本稿は,拙稿 [
2
0
1
4
]および加納・上野・早島・間中 [
2
0
1
4
]を基にして,その内容
を補うものである.
議伽行唯識学派の論書『大乗荘厳経論 (Mahayanasutrala"
,k
a
r
a:MSA)J第 XI章述
k
.
1
3・1
4では真実義 (
t
a
t
t
v
a
r
t
h
a
),k
k
.1
5・2
9
求 品 (Dharmaparye~ty-adhikãra) のなかで, k
では幻喰たること (
m
a
y
o
p
a
m
a
t
a
),k
.
3
0で は 昏 晴 義 (a
u
p
a
m
y
a
r
t
h
a
) についての探求が
説かれており 1,この三つの項目はその内容からセットで考察すべきである.なお
MSA全体の構成そのものに関しては,すでに多くの先行研究 2が指摘しているよ
議伽師地論(均gacarabhumi)Jの『菩薩地 (Bodhisattvabhumi)Jの章立てをほ
うに, w
ぼ継承していて,そこに類似性や対応関係が見られることは明白である.しかし,
MSA 述求品に対応する, w菩 薩 地 』 の 力 種 姓 品 (B
a
l
a
g
o
t
r
a
p
a
t
a
l
a
) における求法
(Dharmapaηe~aka) の項目に,真実や昏喰に関するテーマは見当たらない.では,
このようなテーマはどの文献の何を基にして,どのような理由でこの章に取り上
げられたのか.管見の限り,それを直接支持するような文献は見当たらないが,
MSAは偏あるいは章の構成に優れた論書であるため,それぞれの偶の順序や関係
性を正しく把握することが大切であると思われる.
本稿では,先に加納・上野・早島・間中 [
2
0
1
4
]で再校訂した箇所を含めた和訳
k
.
1
3・3
0の内容を概観し,後に拙稿 [
2
0
1
4
]で論じた k
k
.
1
5・1
6におけ
を提示して, k
る問題,すなわち mayaと m
ayakr
t
aで表される幻町議と三性説との関係性について
再度詳細に検討したい.
r
l
智吉祥 (
Jf
i
a
n
a
s
r
i
) 荘 厳 経 論 総 義 (mDosdergyangyidonbsduspa)~の分科ではは.15 ・30
を一纏めとし, 1
1に分けている. C
f
.野 津 [
1
9
3
8
]
p
.
1
31
.
2C
f
. 早島 [
1
9
7
3
]
p
p
.
l・1
5,小谷[1
9
8
4
]
p
p
.
1
5・4
7など.
1
0
0
(20)
幻日散と三性説(間中)
1
.MSA第 XI章 1
3・30備の和訳
当該箇所を通した和訳に関しては,すでに長尾 [2007]があるが,加納・上野・
早島・間中 [2014]で再校訂した際に,新しい読みを採用した和訳を掲載しなかっ
k
.
1
3,
k
k
.
2
8・3
0
) に関し
たため,ここで改めて提示する.なお再校訂した箇所以外 (
ては,脚注に MSAの L
e
v
ie
d
.に対する訂正案を附すのみで,紙面の都合上サンス
クリット本文は省略させていただく.
1
-1
.MSA第 XI章 1
3・1
4偽
くk
.
1
3
>
3
法の真実義4を探求することについて二偏がある.
真実 (tattva) とは,絶えず二つのものから離れたものであり,迷乱の依
り所であり,あらゆる点で全く言語表現ができないもの,また無戯論の
性質をもつものである. (それぞれ〕知られるべき,断じられるべき,
また清浄にされるべきで本性として無垢なるものと考えられ,虚空・
金・水のように煩悩から清浄となるものであると考えられる 5
「絶えず二つのものから離れたものが,真実である j とは遍計所執性〔について〕
である. (それは〕所取・能取という相(あり方)としては永久に非有だからであ
迷乱の依り所 J とは依他起〔性〕で,それによってかの〔虚妄〕分別がある
る. r
言語表現すべきでない,また無戯論の性質をもつもの Jとは円成実
からである. r
性である.そのうち,第一の真実は〔非有であると〕遍く知られるべきであり,
第二〔の真実〕は〔所取能取が〕断じられるべきであり,また第三〔の真実〕は
本性として清浄であるが,客塵の垢からは清浄にされるべきである. r
虚空・金・
水のように煩悩から清浄となるもの Jが,本性として清浄なるものである.実に
虚空等は本性として清浄でないということはないが,客塵の垢を離れることによ
り,それらの清浄〔の性質〕が認められないわけではないからである.
3
4
5
L
e
v
ie
d
.p
.
5
8,1
.
1
4
.
O
t
a
t
v
a
O →。t
a
t
t
v
a
r
t
h
aO(舟橋 [
2
0
0
0
],Ns,T
i
bdekhonan
y
i
dかid
o
n
)
.
まず, (法の〕真実 (tattva)が述べられる.世親釈 (Mahayanasutralamkara-bha$ya:MSABh)
では, r
絶えず二つのものから離れたもの Jが遍計所執性, r
迷乱の依り所』が依他起性,
「言語表現できない,無戯論の性質をもつもの Jが円成実性というように,ここでの真実
(
t
a
t
t
v
a
) は三性であるとしている.ただし,偏自体に三性にあたる言葉は直接記されてい
ない.
9
9
(21)
龍谷大学悌教学研究室年報第 1
8号
2
0
1
4年 3月
くk
.14>
実にこの世間において,それ(法界) 6とは別に何ら存在しない.かの世
間はまた,それ(法界)について余すところなく迷妄な智を有している.
どうしてこの世間の愚かな種類の者は,有〔なる法界〕を完全に捨て去
って,何らか(世間)の無なるものに執着して 7¥
,増上する(騎る)のカか瓦:
¥
8
実に世間には,このように特徴づけられたかの法界とは別に何ら存在しない.法
は法性とは区別されなし、からである. (備の〕残りは意味が明白である.
1
・2.MSA第 X
I章 I
S・29偶
<k.15>
〔法の〕真実に関して,幻向転たること 9を探求することについて十五偶がある.
幻 (maya) 10のように,虚妄分別〔のあり方〕が説明される.
m
a
y
a
k
r
t
a
)1
1のように,二の迷乱〔のあり方〕が説明される.
幻事 (
「幻のように Jとは,呪文をかけられた木片や土塊等が迷乱の因 12となるように,
依他起性〔という行相を持つ〕虚妄分別が〔迷乱の因となると〕理解されるべき
幻事のように Jとは,その幻 (maya)において象・馬・金等の形相 (
a
k
r
t
i
)
である 13. r
6
k
.
1
3から引き続き, t
a
s
m
a
tと t
a
t
r
aを『三性」としてもよい. C
f
. 長尾 [
2
0
0
7
]
p
.
5
8
.
異読はなく文字そのものに訂正の余地はないが,これを複合語とするか否かについて解
釈が分かれる.舟橋 [
2
0
0
0
]および長尾 [
2
0
0
7
]は
, yada
s
a
dabhinivi~tab と各語を分けるが,筆
者は a
s
a
d
a
b
h
i
n
i
v
i写t
a を,第七格格限定複合語として『無なるものに執着した J という意味
何らかのものについて
で理解した.一方の yadの文法的価値はそれほど自明ではないが, r
a
g
a
tを間接的に指示するものと理解し,複合語の一部
のj という意味,あるいはめ句の j
f
. 加納・上野・早島・問中 [
2
0
1
4
]注記 (
a
)
.
とした. C
8k
.
1
4は,ダノレマミトラによる Abhisamayala"
,k
a
r
a
l
i
k
aPrasphufapada(D3796,
5
a
7・b
l
;P5194,
6
a
2・3
)に引用される.
7
'
g
r
ob
adagn
ad
el
a
sg
z
h
a
nyangcungz
a
dyodminl
a1
1
'
g
r
obamal
u
spayangd
el
amamp
a
rrmongsp
a
'
ib
l
o1
1
yodpakunn
a
ss
p
o
n
g
ss
h
i
n
gmedl
amngonz
h
e
ngangy
i
npa1
1
'
j
i
gr
t
e
nrmongsp
a
'
imamp
at
s
h
a
b
sc
h
e
n'
d
ikoj
il
t
abu1
1
C
f
. 加納・上野・早島・間中 [
2
0
1
4
]注記 (
b
)
.
9 m盃y
opama。→ mayopamataO (長尾 [
2
0
0
7
],
肉
,N
s
)
.
1
0m
ayaという語の一般的なサンスクリットとしての意味には,力 (
p
o
w
e
r
)・幻想(il1u
s
i
o
n
)・
m
a
g
i
c
) などがある.
幻術 (
1
1 幻事 (
maya
訂t
a
) とは. r
幻術で(によって)作られたもの j と筆者は解釈している.
1
2b
h
r
a
n
t
i
n
i
m
i
t
t
a
r
p→ b
h
r
a
n
t
e
rn
i
m
i
t
t
a
q
t(肉).
1
3p
a
r
a
t
a
n
t
r
a
bs
v
a
b
h
a
v
o→ p
r
a
t
a
n
t
r
a
s
v
a
b
h
a
v
o(肉).
Nsは p
a
r
a
t
a
n
t
r
a
bs
v
a
b
h
a
v
o
.T
i
bは
・p
a
r
a
t
a
n
t
r
a
bs
v
a
b
h
a
v
a
k
a
r
oであり,舟橋 [
2
0
0
0
]および長尾
[
2
0
0
7
]は p
a
r
a
t
a
n
t
r
a
bs
v
a
b
h
a
v
a
k
a
r
oという校訂を示すが,肉の通りに読んでも問題はない.
C五加納・上野・早島・問中 [
2
0
1
4
]注記 (
c
)
.
9
8
(22)
幻噌と三性説(間中)
がそれら〔象・馬・金等〕の本質 (bhava) として顕現するように,かの虚妄分別
において遍計所執性という行相を持つ二の迷乱が所取・能取として顕現すると理
解されるべきである.
<k.16>
そこにおいてその本質 (bhava)が無いように,勝義はあると考えられる.
一方,それが認識されるように,世俗諦はある〔と考えられる)
1
4
.
『そこにおいてその本質が無いように J とは,幻事 (mayakrta) において象たるこ
と (
h
a
s
t
i
t
v
a
) 等が非存在であるように,かの依他起〔性〕において勝義は遍計所
執〔性〕の二の相が非存在であることと考えられる.その幻事 (mayakrta) が象等
の本質 (bhava) として認識されるように,虚妄分別が世俗諦として IS認識される.
くk
.17>
それの非存在において,その因〔となったもの〕の顕現が得られるよう
に,転依において,非有〔なるもの〕の分別(虚妄分別)が得られる.
幻 事 (maya財t
a
) の非存在において,その因である(素材となっている)木片等のも
のの顕現が真実の義 (
b
h
f
i
t
a
r
t
h
a
) として認識されるように 16,転依において,二の
b
h
f
i
t
a
r
t
h
a
) 17が認識される 18
迷乱が存在しないから,虚妄分別の真実の義 (
1
4k
k
.
I
5・1
6はヤマーリによる Prama1
J
a
v
a
r
t
t
i
k
a
l
a
1
f
lk
a
r
a
f
i
k
aS
u
p
a
r
i
s
u
d
d
h
a
(
D4226,
3
a
2・3
;P5723,
3b2・4
)に r
w荘厳経輪』において (mdos
d
e唱 yan1
a
s
)J として引用される.これはジュニヤ
ーナシュリーミトラの Sakarasiddhi
S
a
s
t
r
aからの孫引きの可能性が高い.
s
g
y
umaj
iI
ta
rdeb
z
h
i
ndu1
1yangdagmay
i
nkunr
t
o
gb
r
j
o
d1
1
s
g
y
umasb
y
a
spadeb
z
h
i
ndu1
1deb
z
h
i
ng
n
y
i
sn
i'
k
h
r
u
1b
a
rb
r
j
o
d1
11
51
1
j
iI
ta
rde1
ad
emedpa1
1deb
z
h
i
ndondamy
i
np
a
r'
d
o
d1
1
j
iI
tardedagdmigspabzhin1
1kunrdzobk
y
in
ibdenpan
y
i
d1
1
1
6
1
/
C
f
. 加納・上野・早島・問中 [
2
0
1
4
]注記 (
d
)
.
1
5 s
a
r
p
v
r
t
i
s
a
t
y
a
t
o
O→ s
a
r
p
v
r
t
i
s
a
t
y
a
t
v
e
n
o
O(
肉
)
.
s
a
r
pvr
t
i
s
a
t
y
a
t
o
p
a
1
a
b
d
hi
b という Ns の 読 み を 諸 校 訂 本 は 採 用 す る . 長 尾 [
2
0
0
7
]では
s
a
r
pvr
t
i
s
a
t
y
a
t
v
e
n
o
p
a
1
a
b
d
h
i
bという読みについて『外形的には合理的に見えるが,意味的には
承認できないから採用しない Jとしている.確かに長行所出の s
a
r
p
v
r
t
i
s
a
t
y
a
t
aという語形は,
6
d
) に現れ,長行が偶文の語句をパラフレーズしている可能性は残る.し
そのまま偏文(1
b
h
f
i
t
a
p
a
r
i
k
a
l
p
a
s
y
a
か し な が ら , mayakrtasya hastyadibhavenopalabdhib と , 当 該 の a
s
a
r
pvr
t
i
s
a
t
y
a
t
v
e
n
o
p
a
1
a
b
d
h
i
bは対句となっているため,この読みを採用した.
C
f
. 加納・上野・早島・問中 [
2
0
1
4
]注記 (
e
)
.
1
6b
h
f
i
t
a
r
t
h
o
p
a
l
a
b
h
y
a
t
e→ b
h
f
i
t
a
r
t
h
au
p
a
1
a
b
h
y
a
t
e(長尾 [
2
0
0
7
],
肉
)
.
1
7b
h
f
i
t
o・
r
t
h
a→ b
h
i
i
t
a
r
t
h
a(肉).
18 安慧釈 (Sütrãla", kãra-vrttibhã~ya :SAVBh) では a
b句について, r
たとえば,幻術師の薬
や呪文の力による石や木などからの馬や象などの顕現は,力が消えて馬と象の形相が無く
顕現しない時,象などの形相の因の想が認識される.すなわち馬や象は見えず石や木が見
えるという意味である (
C
f
. 早島 [
1
9
7
8
]
p
.
7
7
)J としている. MSABhでは単に abhave (存在
97
(2
3)
龍谷大学{弗教学研究室年報第 1
8号
2
0
1
4年 3月
くk
.18>
その因において,実に迷乱していない世間の者は思いのままに行動する
であろうように,転依において,顛倒していない行者は思いのままに行
動する者である 19
その因である(素材となっている)木片等において,迷乱していない世間の者は思
いのままに行動する(,すなわち〕自在であるように,転依において,顛倒して
いない 20聖者は思いのままに行動する(,すなわち〕自在である.
くk
.19>
そして,そ〔の象等〕の形相(盃匂t
i
) はそこにおいてあるが,そ〔の象
b
h
a
v
a
) は存在しない.それ故に,有なること (
a
s
t
i
t
v
a
) と非
等〕の本質 (
n
a
s
t
i
t
v
a
) とが,幻 (
m
a
y
a
) 等〔の嘗喰〕において規定され
有なること (
ている.
この備は意味が明白である.
<k.20>
そこにおいて,有 (
b
h
a
v
a
) は無 (
a
b
h
a
v
a
) ではなく,まさに無 (
a
b
h
a
v
a
)
は有 (bhava) ではない.そして,有 (bhava) と無 (abhava) との無差別
が,幻 (maya) 等〔の誓轍〕において規定されている.
fそこにおいて,有は無ではない J とは,およそそ〔の象等〕の形相 (
a
訂t
i
) とし
ての有 (bhava),それは無 (
a
b
h
a
v
a
) ではない. r
まさに無は有ではない J とは,お
h
a
s
t
i
t
v
a
) 等としての無 (
a
b
h
a
v
a
)
. それは有 (
b
h
a
v
a
) ではない 21
よそ象たること (
そして,その有 (bhava) と無 (
a
b
h
a
v
a
) との両者が無差別であることが,幻 (
m
a
y
a
)
等〔の誓喰〕において規定されている.なぜならば,そこにおいて,およそその
〔象等の〕形相 (
a
k
r
t
i
) としての有 (
b
h
a
v
a
),それはまさに象たること (
h
a
s
t
i
t
v
a
)
等としては無 (abhava) だからであり,およそ象たること (
h
a
s
t
i
t
v
a
) 等としての無
(
a
b
h
ぉa
),それはまさにその形相 (
a
k
r
ti)としては有 (
b
h
a
v
a
) だからである.
しない時)としているのに対して,少なくとも SAVBhでは呪力が有効に働いている時から
呪力の消滅までの一連の過程において三性説を示していることになる. C
f
.繭 [
2
0
0
0
]
.
1
9 k
k
.
1
7・1
8は r
(阿頼耶織の〕転依 j について述べられている. MSABhによると, k
.
1
7の
t
a
dは幻事 (may盃
k
r
t
a
)であり,それが存在しない,すなわち幻術師の呪文や薬が止まると,
木片などが現れるという喰えである.
20
2
1
a
p
a
η
a
s
t
a→ a
v
i
p
a
r
y
a
s
t
a(長尾 [
2
0
0
7
],肉).
n
a
s
a
un
a→ n
a
s
a
u(舟橋 [
2
0
0
0
],長尾 [
2
0
0
7
],T
i
bd
en
iyodpamay
i
nn
o
)
.
9
6
(2
4)
幻自散と三性説(問
中)
くk
.21>
そのように,二の顕現はここにおいてあるが,そ〔の二〕の本質 (
b
h
a
v
a
)
は存在しない.それ故に,有なること (
a
s
t
i
t
v
a
) と非有なること (
n
a
s
t
i
t
v
a
)
とが,色 (
r
u
p
a
) 等において規定されている.
そのように,ここ〔すなわち〕虚妄分別においてこの顕現はあるが,その本質 (
b
h
a
v
a
)
は存在しない.それ故に,有なること (
a
s
t
i
t
v
a
) と非有なること (
n
a
s
t
i
t
v
a
) とが,
r
u
p
a
) 等において規定されている.
虚妄分別を自性とする色 (
<k.22>
そこにおいて,有 (
b
h
a
v
a
) は無 (
a
b
h
a
v
a
) ではなく,まさに無 (
a
b
h
a
v
a
)
は有 (
b
h
a
v
a
) ではない.そして,有 (
b
h
a
v
a
) と無 (
a
b
h
a
v
a
) との無差別
a
) 等 に お い て 規 定 さ れ て い る 22
が,色(而p
「そこにおいて,有は無で、はない」とは,二の顕現〔は無いのではなし、),という
ま さ に 無 は 有 で は な い J とは,二の本質 (
b
h
a
v
a
) の 非 有 な る こ と 23
ことである. r
〔は有るのではなしつ,ということである. r
有と無との無差別が,色等において
b
h
a
v
a
)であることが,まさに二の〔本
規 定 さ れ て い る Jとは,実に二の顕現が有 (
a
b
h
a
v
a
) であることだから〔無差別〕である.
質が〕無 (
2
2k
k
.
1
9
・
22の 4偶は有 (
b
h
a
v
a
)と無 (
a
b
h
a
v
a
)の規定と無差別について示されている.k
k
.
1
9・20
は幻 (maya) で語られ, k
k
.
2
1・22 は色(而p
a
) で示されており,なおかつ偶の構造はほぼ
同じである.これは幻の昏輸を用いることによって後の『色 J という法が存在しないとい
う理解を比較的容易にさせ, k
.
1
5から今まで述べてきた mayaを r
u
p
aに置き換えろという
思考の転換・発展を促す偶の集まりのようにも感じられる.
また k
.
2
0では k
k
.
1
5
1
6と同様な MSABhと SAVBhの相違が見てとれる.MSABhでは「そ
〔の象等〕の形相 (
a
k
r
t
i
)Jが有 (
b
h
a
v
a
)で
, r
象たること (
h
a
s
tI
tv
a
) 等 Jが無 (
a
b
h
a
v
a
)
であるとしている.それに対して SAVBhでは,象等の形相(姿)が顕現する原因(素材)
である f
石や木 J を有とした上で,単に『象等の形相 Jではなく, r
象〔等〕の形相として
の迷乱の顕現」が無ではない(=有)と述べられ, r
象〔等〕の本質そのもの Jは無として
いる.このように両釈では,象等の本質が無であることは共通しているが, MSABhが『象
等の形相 Jを有とするのに対して, SAVBhは「象等の形相としての迷乱の顕現』を無では
ない(=有)としている点が異なる.
これは兵藤 [
2
0
1
0
]
1こよると,安慧は二取としての顕現自体は無ではないということを認め
るが,このこ取としての顕現は迷乱であり,木片から象が顕れたりするように顕現自体は
本来の形相(姿)とは異なった『虚偽なもの j と見ていて,形相(姿)そのものを虚偽と
して少なくとも有ではないとしている.対して MSABhは k
.
1
6と同様に,象の形相(姿)
を有としていて虚偽なものとは見ていない.
C
f
. 兵藤 [
2
0
1
0
]
p
p
.
3
5
6・3
5
7
.
2
3d
v
a
y
a
n
a
s
t
i
t
a→ d
v
a
y
a
b
h
a
v
a
n
a
s
t
i
t
a(長尾 [
2
0
0
7
],
肉
)
.
9
5
(2
5)
龍谷大学悌教学研究室年報第 1
8号
2
0
1
4年 3月
くk
.23>
増 益 (samaropa) と損減 (apavada) との両極端を遮止するためであり,ま
たまさに小乗によって行くことを遮止するためであると考えられる 24
また何のために,このことは,有 (bhava)と無 (abhava)とが個別の性質 (
a
i
k
a
n
t
i
k
a
t
v
a
)
でありながら無差別であると考えられるのか.順次に,増益 (samaropa) と損減
(
a
p
a
v
a
d
a
) との両極端を遮止するためであり,また小乗に赴くことを遮止するた
めであると考えられる.なぜならば
無 (abhava) の無たること (abhavatva) を知
s
a
r
n
むo
p
a
) をなさず,有 (
b
h
a
v
a
) の有たること (
b
h
a
v
a
t
v
a
) を知れば損減
れば増益 (
(
a
p
抑 制a
) をなさなし、からであり,そして, (有と無との〕両者の無差別を知れば
〔世間的な〕存在から厭離せず,それ故に小乗によって出離しなし、からである.
くk
.24>
迷乱の因と迷乱とは,色の識 (
r
u
p
a
v
i
j
n
a
p
ti)と非色の識 (
a
而p
i
Q
Iv
i
j
n
a
p
ti
)
とであると考えられる. (一方が〕非存在であるからには,他方〔も存
在し〕ないだろう 25
およそ色〔ありとする〕迷乱の因としての識なるものおは色の識(而p
a
v
i
j
n
a
p
t
i
) と
a
r
u
p
i
Q
I
考えられ, (一般に〕色と呼ばれる.一方,色〔ありとする〕迷乱は非色の識 (
v
i
j
n
a
p
t
i)である〔と考えられる).色の識が非存在であるからには,他方の非色の
識も〔存在し〕ないだろう.原因〔となるもの〕が無し、からである.
,26>
くk
.
2
5
幻〔術で作られた〕象の形相(誌が)を執取するという迷乱に基づいて,
〔所取と能取の〕二が説かれた.そこにおいてこはそのように無いが,
まさにこは認識される.
骸骨の影像を執取するという迷乱に基づいて, (所取と能取の〕二が説
かれた.そこにおいてこはそのように無いが,まさにこは認識される 27
2
4
この偶は前説の 4備の理由をまとめて述べている.なお唯識での増益と損減に関しては,
繭[
2
0
0
5
]
[
2
0
0
9
]に詳しく述べられているので,そちらを参照されたい.
この k.24は『摂大乗論』第 H 章に引用される.この点に関しては芳村 [2002]に v
i
ji
'a
p
t
i
を中心として考察されている. r 摂大乗論~ (Nagaoe
d
.p
.
6
5
;D4048,14b4・5
;P5549,1
6
a
5
)
2
S
1
'
k
h
r
u
lp
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k
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sc
a
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a
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d/
1medp
a
rg
y
u
rn
ac
i
gs
h
o
smed/
/241
/
C
f
. 加納・上野・早島・問中 [
2
0
1
4
]注記
26 y
an
i
m
i
t
t
a
v
i
j
n
a
p
t
i
b→ n
i
m
i
t
t
a
r
py
av
i
j
n
a
p
t
i
b(肉).
ω
.
27
この連続した閉じ構文の 2偶は SAVBhによると,前半の備は世間的な嘗輸で説かれ,後
94
(2
6)
幻喰と三性説(間中)
幻〔術で作られた〕象の形相 (
a
k
r
ti)を執取するという迷乱の観点から,所取・能
取の二が説かれた 28 そこにおいてこはそのように無いが,まさにこは認識され
る.また骸骨の影像を思念することにとって〔の迷乱,すなわち〕それを執取す
るという迷乱に基づいて,前のように二が説かれた.
<k.27>
迷乱を特徴とする諸法は,そのように有 (bhava) であるから,そのよう
に無 (abhava) であるから,有 (bhava) と無 (abhava) とが無差別である
から,幻 (maya)のように,有なるものであり且つ非有なるものである.
およそ所対治を自性とし,迷乱を特徴とする諸法は,また幻 (maya) のように,
有なるものであり〔且つ〕非有なるものである.どうしてか. r
有なるもの」とは,
非有なるもの Jとは,
そのように虚妄分別として 29有 (bhava)であるからであり, r
そのように所取・能取として無 (abhava) であるからである.そして有 (abhava)
と無 (abhava) との両者が無差別であるから, (諸法は〕有なるものでも非有なる
ものでもあり,幻 (maya) もまた同様の特徴を持つ.それ故に「幻のように」と
し、う.
<k.28>
能対治としての諸法は,そのように無 (abhava) であるから,そのよう
に無 (abhava) であるから,そのように無 (abhava) であるから,無相な
るもの (
a
l
a
k
$
a
n
a
) であり,また幻 (
m
a
y
a
) のようであると説示された 30
およそ仏陀によって教説された〔四〕念住などの能対治としての諸法もまた,無
相なるもの (alak$ana) であり,幻 (maya) のようであると説示された.どうして
か.愚者たちによって把握されるように無 (abhava) であるからであり, (仏陀に
よって〕説かれたように〔言語表現として〕無 (abhava) であるからであり,仏陀
によって示現された入胎・出生・出家・成道など 31のように〔示現された成道な
半の備は聖教の替轍でもって説かれている. C
f
. 長尾 [
2
0
0
7
]
p
.
7
2
.
g
r
a
h
a
k
a
nc
aId
v
a
y
a
nc
at
a
t
r
a(
肉
)
.
29 a
b
h
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p
a
r
i
k
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l
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v
e
n
a→ a
b
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t
a
p
a
r
i
k
a
l
p
a
n
a
t
v
e
n
a(
肉
)
.
30 この 2備も構造は似ていて, k
.
2
7は貧などの所対治なる雑染の諸法について, k
.
2
8は信
.
2
8に関し
などの能対治なる清浄の諸法について,幻の如くであると説かれている.なお k
i
bと漢訳で r
y
o
d
J と「有』が混在している.
ては,三種の無を説くにもかかわらず, T
C
f
. 長尾 [
2
0
0
7
]
p
.
7
5
.
3
1O
s
a
l
T
lb
odhyadaya
l}→。 s
a
l
T
lb
odhadaya
l
}(長尾 [
2
0
0
7
],
N
s
)
.
2
8g
r
a
h
a
k
a
l
T
lc
at
a
t
r
a→
9
3
(2
7)
龍谷大学悌教学研究室年報第 1
8号
2
0
1
4年 3月
どが〕無 {abhava} であるからである.このように〔能対治に関する諸法は〕無相
なるもの (alak~ana) であり,また現に存在しないものが顕れる.それ故に幻 (mãyã)
のようである〔と説示されている).
く
k
.
2
9
>
また幻の王 (mayaraja) が他の幻の王 (mayar司a
) によって征服されるよ
うに,一切諸法を見る最勝者の子らは無慢 (nirmana) 32である 33
およそ 34能対治としての諸法が幻の王 (mãyãr遺~a) に喰えられるのは,雑染を断滅
して清浄について増上がある(力勝れている)からである.およそ雑染の諸法もま
た玉 {
r
a
j
a
} に喰えられているのは,雑染の生長 (
n
i
r
v
r
t
t
i
) について増上がある(力
勝れている)からである.この故に,その能対治〔としての諸法〕によって雑染に
打ち勝つことは,幻の主 (mayaraja) によって王 (
r
可a
) を征服するようであると見
るべきである.そして,そのことを知るから,諸普薩は両方の場合(雑染と清浄)
について無慢 (nirmana) 35である.
1ふ MSA第 XI章 30偏
く
k
.
3
0
>
替輸義についてー偶がある.
実に最高覚者の諸仏によって至る所で語られた諸行は,幻・夢・陽炎・
影像と似たもの,光の影・反響のようなもの,水〔に映る〕月の像と似
たもの,また化作と等しいものであると知られるべきである. (これら
の嘗喰は〕六つと六っとこつと,さらにまた六つが二つのこととして考
えられ,そして三つは一つ一つに〔嘗輸が〕ある 36
世尊によって諸法は f幻 (maya) のようなもの j 乃至「化作 (nirm句 a
) のようなも
n
i
r
m
a
r
a
s→ n
i
r
m
a
n
a
s(舟橋 [
2
0
0
0
],長尾 [
2
0
0
7
]
.N
s
)
.
所対治なる雑染の諸法も,能対治なる滑浄の諸法も幻の知くであるので,幻王によって
征服された場所こそ無覆無記の阿頼耶織であり,征服しでも菩薩に慢は無いという輸えで
ある. C
f
. 長尾[1
9
7
8
]
p
p
.
2
1
9・220,長尾 [
2
0
0
7
]
p
.
7
6
.
34 y
a→ ye(舟橋 [
2
0
0
0
],長尾 [
2
0
0
7
],N
s
)
.
3
5n
i
r
m
a
r
a→ n
i
r
m
a
n
a(舟橋 [
2
0
0
0
],長尾 [
2
0
0
7
],N
s
)
.
36 k
.
3
0では諸法(諸行)を幻以下,より一般的な八喰の形で示している.
C
f
.長 尾 [
2
0
0
7
]
p
p
.
7
7
7
9
.
32
33
9
2
(2
8)
幻輸と三性説(問中)
の Jであると〔善く〕説かれた 37 そのうち,
r
幻
(maya) のような J諸法とは,
六つの内的な処(根)である. (なぜなら〕我・命たるもの等は非有であるのに,
そのように見える(顕れる)からである. r
夢 (
s
v
a
p
n
a
) のようなもの J とは,六つ
の外的な処(境)である. (なぜなら〕それを享受する事物はないからである. r
陽
炎 (
m
a
r
l
c
i
) のような J 二つの法とは,心と心所である. (なぜなら〕迷乱をなす
(起こす)からである. r
影像 (
p
r
a
t
i
b
i
m
b
a
) のようなもの J とは,また同じく六つ
光の影 (
p
r
a
t
i
b
h
a
s
a
)
の内的な処である. [なぜなら〕前の業の影像だからである. r
のようなもの j とは,また同じく六つの外的な処である. (なぜなら〕内的な処の
影となるものであり,その増上(力勝れていること)によって起こるからである.
「六つが二つのこととして考えられる J とは, (前に述べられた〕六つからなる
反響 (
p
r
a
t
i
s
r
u
t
k
a
)の
〔内・外の〕二つのもの 38が考えられるということである. r
水〔に映る〕月の像(udakacandrabimba)
ようなもの Jとは,説かれた諸法(教え)である.r
のようなもの J とは,三味に依拠した諸法(教え)である. (なぜなら〕清き三味
化作 (nirmaoa) のようなもの J とは,故意に有
が水のようなものだからである. r
〔の世〕に生を取る時にである. (なぜなら〕雑染のない一切の所作に加行するか
らである
39
3
7y
a
tt
u
k
t
a
JTl→
y
a
t
r
as
u
k
t
a
Q
1(長尾 [
2
0
0
7
]
)
.
~atkadvayaJTl (長尾 [
2
0
0
7
],
N
s
)
.
39 MSA第 X
I章 k
k
.
1
3・3
0のシノプシス
3
8$
a
tdvayaJTl→
l
k
.
1
3
三性(
t
r
i
s
v
a
b
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v
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)
k
.
1
4
k
.
1
5
k
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1
6
c
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k
k
.
1
7・1
8
k
k
.
1
9
2
0
法界(
d
h
a
r
m
a
d
h
a
t
u
)
依他起と遍計所執 1
「三性
円成実/勝義諦
4
L二締
世俗諦
J
転依(誕r
a
y
a
p
a
r
a
v
r
t
t
i
)
幻(
m
a
y
a
)
1
k
k
.
2
1・22
k
.
2
3
k
.
2
4
k
.
2
5,
26
k
.
2
7
k
.
2
8
k
.
2
9
k
.
3
0
幻 轍 (mayopama)
十有と無の規定
色(而p
a
)
J
増 益(
s
a
m
a
r
o
p
a
)と損減 (
a
p
a
v
a
d
a
)
識(
v
i
j
f
i
a
p
t
i
)
世俗(幻術)と聖教(骨鎖)
所対治(雑染)なる諸法
能対治(清浄)なる諸法
無慢 (
n
i
r
m
a
n
a
)である菩薩
幻(
m
a
y
a
)な ど の 八 輪 一 一 ー 一 一 昏 轍 (
a
u
p
a
m
y
a
)
k
.
1
6
a
b
9
1
真実例
(2
9)
龍谷大学{弗教学研究室年報第 1
8号
2
0
1
4年 3月
2.MSA第 XI章 1
5・1
6備における解釈
同箇所は兵藤 [1991]をはじめ,松田 [2006]・松岡 [2007]・本村 [2012]などの近年
の諸研究においてよく指摘されている所である.ここでは三性を,幻術師が石や
木片等に呪文をかけて幻の馬や象等の姿を見せる様子で喰えており,三性それぞ
れがこの喰えのどれに当てはまるかが問題となる.拙稿 [2014]では主に,三性説
を醤喰で説明している幻 (maya) あるいは幻事 (mayakrta) が指し示す意味内容に
関して,世親 (Vasubandhu,
ca.400・4
8
0
) の MSABhと安慧 (
S
t
h
i
r
a
m
a
t
i
.c
a
.510・5
7
0
)の
SAVBhとの間での,見解の相違に関する問題を提示した.
くMSAk
.15>
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7
5
b
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1
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"
'
.
.
.
両注釈を比べてみると, ab句では依他起性である虚妄分別が幻 (maya) に輸え
られるという点は合致しているが,下線部のように SAVBh は石や木などが虚妄
4
0C
f
.L
e
v
ie
d
.p
.
5
9
.
(
1
5
a
b
) たとえば幻術師によって呪や薬でかけられた〔幻術の〕力により,幻の馬や象な
どが顕現する原因(素材)である石や木などのような[もの]が虚妄分別であって,心心所,縁起によって生じたもの,依他〔起〕相であると考えられる.何故かと言えば,呪
や薬によって〔幻術を〕かけられた石や木もまた,馬や象として顕現することの原因とな
るように,依他〔起相〕もまた,所取・能取としての顕現の原因となるから,石〔や〕木
t
s
h
uI)のように見られるのである. C
f
. 早島(l9
7
8
]
p
.
7
5
.
の様相 (
41
90
(30)
幻轍と三性説(問中)
分別であると明言している. cd句は遍計所執性であるこの迷乱は幻事 (mayakrt
a)
に町議えられるという趣旨で, MSABhは幻事 (mayakrta) を「幻 (maya) における象
等の形相(批判)Jとし,
r
それら〔象等〕の本質として(tadbhavena) 顕現する J と
限定しているが,これに対して SAVBhは tadbhavenaを注していない 42 このよう
に「木片等」が依他起性,
r
象等の形相」が遍計所執性に対応するという関係は両
釈において大きな違いはないが, MSABh の tadbhavaに留意しながら続けて k.16
を見るとその違いは明らかとなる.なお, MSABhの網掛け部分の Tib訳は sgyuma'i
sngagsk
y
i
sb
t
a
bpaとなっており, m
a
y
a
m
a
n
t
r
a
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i
g
r
h
I
t
a
r
pとして複合語の Gen.Tp
で解釈しているようであるが,そもそも MSABhの yathamayaは備のそれを引用
し て い る は ず な の で , 注 釈 と し て は [mantraparigrhItarp] [bhranter nimittarp]
[kã~thal o~tãd i
k
a
r
p
]が mayaと同格であると考察すべきである 43
く MSAk.16>
y
a
t
h
at
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b
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1
l
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1
6
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く MSABhk
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く
SAVBhk.16>
(
1
6
a
b
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'
i
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'
jm
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y
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s
h
a
ddo//44,
世親はおそらく,後の包盛主旦l
aca t
a
t
r
a
s
t
i辺地瞳盟三 c
an
av
i
d
y
a
t
e(
1
9
a
b
) を意識して
r
t
a
d
b
h
a
v
e
n
a
J という限定を附しているのであろう. C
f
. 兵藤 [
1
9
9
1
]
p
.
l
O
.
43 舟橋 [
2
0
0
0
]・長尾 [
2
0
0
7
]の校訂や,兵藤 [
2
0
1
0
]の『木片や土塊が幻術の呪文をかけられて」
という訳からも,諸研究者は mayaを複合語として捉えている.ただし松岡 [
2
0
0
7
]は筆者の
読み方と同じである.
44 (
1
6
a
b
)諸経典の中に「勝義締と世俗締 J と説かれる二諦の相(特徴)を考察する.たと
えば幻の馬や象などの(という)形 (
d
b
y
i
b
s
) は,石や木などの〔幻術の〕原因から,馬
42
8
9
(3
1)
8号 2014年 3月
龍谷大学悌教学研究室年報第 1
ま ず 両 釈 の ab句を検討すると,兵藤[1991]
で tasminの 解 釈 の 違 い が 指 摘 さ れ て
t
a
s
m
i
n
)J を f
幻事(=象等の
いるように, MSABhは k.16本 備 の 「 そ こ に お い て (
m
a
y
a
k
r
t
e
)J で あ る と 解 釈 し て い る . お そ ら く こ の ab句 は 「 依 他 起
姿)において (
性 ( 虚 妄 分 別 ) に お い て 遍 計 所 執 性 が 存 在 し な い こ と が 円 成 実 性 で あ る Jと い う 文
脈であろうが,これに対して安慧は下線部のように「そこにおいて (
t
a
s
m
i
n
)J を
fその石や木(=幻の素材)において Jで あ る と 解 釈 し て い る . ま た cd句 で MSABh
は k.15 と 同 じ く 再 び 「 象 等 の 本 質 と し て (bhavena)J と限定しているが, SAVBh
は そ の よ う な 注 を 附 し て い な い . こ の よ う に 世 親 は こ の kk.15・16の 注 釈 で 「 象 等
の 本 質 と し て (bhavena)J と い う 限 定 を 加 え て い る が , こ れ は 世 親 の 著 作 45と さ れ
る 『 三 性 論 (Trisvabhavanirdda:TSN)~でも同様である 46
<MSABhk
.
1
6
a
b
>
「勝義の喰え J = r
幻事において象等の本質が無いこと j
f
勝義 J =
<SAVBhk
.
1
6
a
b
>
r
依他起において遍計所執が無いこと J
f
勝義諦の喰え J =
r
木片等において象等の本質が無いこと」
依他起において遍計所執が無いこと」
『勝義締 J = r
<MSABhk
.
1
6
c
d
>
幻事が象等の本質として認識される J
「世俗諦の噛え J = r
「世俗諦 J= r
虚妄分別が世俗諦として認識される j
<SAVBhk
.
1
6
c
d
>
「世俗諦の日耐え J = r(木片等からの〕象等の顕現(=認識 )
J
「世俗諦 J = r
依他起からの遍計所執の顕現(=認識 )
J
や象として顕現するけれども,その石や木において馬や象の自性がないように,依他起相
において遍計所執性(分別されたものの自性)である所取・能取の二がなく,所取・能取
を離れて円成実相となったものが勝義諦であると考えられるという意味である.これは勝
義諦の相(特徴)を説く. C
f
. 早島 [
1
9
7
8
]
p
.
7
6
.
4
5 近年の研究では TSNが本当に世親の著作かどうか疑う意見もあるが,今回はその問題に
立ち入らず,論を進める.
m
a
y
a
k
r
t
a
r
pm
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n
t
r
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s
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m
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t
h
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akaram盃t
r
a
r
pt
a
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r
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s
t
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s
t
in
a
s
t
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us
a
r
v
a
t
h
a1
1
2
7
1
1
呪文の力によって,幻事 (
m
a
y
a
k
r
t
a
) が象の本質 (
a
t
m
a
n
) をもって顕現する.
a
k
a
r
a
) のみがあるのであって,象〔自体〕は全く存在しない.
そこにおいて〔象の〕行相 (
s
v
a
b
h
a
v
a
l
)k
a
l
p
i
t
oh
a
s
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a
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a
s
t
y
a
b
h
a
v
o・
s
a
uparini~panna i~yate 1
1
2
8
1
1
象〔自体〕が遍軒所執性であり,そ〔の象〕の形相 (
a
k
r
ti)が依他起〔性〕であり,
f
. 山口[1
9
7
2
]
p
.
1
2
8
.
そこにおいて象が存在しないそのことが,円成実〔性〕と考えられる. C
8
8
(32)
幻自散と三性説(間
中)
兵藤[1991]ではこのように世親が「象等の本質として (bhavena)J と限定してい
t
a
s
m
i
n
)J を 「 幻 事 に お い て (
m
a
y
a
k
r
t
e
)J と解
る理由を,“世親が「そこにおいて (
釈し,その作られたものを象などの形相と規定して遍計所執性ではなく依他起性
であると見なすならば,新たに遍計所執性の定義が必要となるので,世親は「そ
の形相としての象などを実体として執すること Jを遍計所執性とするのである"
としている 4
7 つまり「象等の本質 (
b
h
a
v
a
)
Jという語を使って「象等の形相 (
a
切i)J
と明確に区別しているのだが,新たに遍計所執性の定義が必要となること自体,
l6を MSABhのように, r幻 事 (mayakrt
少 し 不 自 然 に 思 え る . た だ k.
a)J を「依他
起性」として捉えるとすると,
MSABhk
.
1
5での mayaは「木片等 J を示すので,
mayaも mayakr
t
aも閉じ「依他起性」を示すことになってしまい,一続きの MSABh
として整合性が成り立たないのである 48
拙稿 [2014]では最終的に,主に kk.15・16の MSABhにおいて,幻の替輸で表さ
れていることとそれに対応する三性(特に依他起性と遍計所執性)に混乱が生じて
いるという問題を解決するために, maya と mayakr
t
aの関係性に注目しながら,
三性説を幻で町議えられている方から検討した.その結果として,原文の分析に基
づ き 以 下 の 3点 を 報 告 し , 三 性 説 に 固 執 せ ず , そ れ ぞ れ の 偶 の 独 立 性 を 優 先 し て
解釈するという新しい読み方を提案した.
.
1
5本偏には mayaと mayakr
t
aが共に出てきているのに対して,
①k
k
.
1
6では MSABhに m
a
y
a
k
r
t
aだけが出てくるのみである.
4
7C
f
. 兵藤[19
9
1
]
p
.
l
l
.
48 以上の考察を表にまとめる.
依他起性=.IJ:妄分別
-
遍計所執性=ニの迷乱
MSA本偏
(
k
k
.
1
5・
1
6
)
m
a
y
a (幻)
m
a
y
a
k
r
t
a (幻事)
MSABhk
.
1
5
m
i
i
y
i
i
=木片等
m
a
y
a
k
r
t
a=象等の形相
円成実性(勝義締)
依他起において
遍針所執が
存在しないこと
k
.
1
5I
こは;
円成実性の記述はない
MSABhk
.
1
6 may
亙k
r
t
a=象等の形相
h
a
s
t
i
t
v
a
d
i=象等の本質
SAVBh
依他起において
m
a
y
a=木片等
m
a
y
a
k
r
t
a=象等の形相
(
k
k
.
1
5・
1
6
)
遍計所執が
MSABhと同じか?
MSAT
存在しないこと
TSN
h
a
s
t
y
a
t
m
a
n=象の本質
m
a
y
a
k
r
t
a=象の形相
(
k
k
.
2
7
・
2
8
)
.無性 (Asvabhava,c
a
.・
500・)の注釈 (
M
a
h
a
y
a
n
a
s
u
t
r
a
l
a
1
f
1
k
a
r
a
!
i
k
a :MSAT
) は説明に乏し
いが. MSABhを注釈していることから世親に従っているように思われる.
87
(
3
3)
龍谷大学悌教学研究室年報第 1
8号 2
0
1
4年 3月
②k
.
1
5が mayaと m
a
y
a
k
r
t
aの磐田愈で依他起性と遍計所執性を表しているのに対して,
k
.
1
6はあくまで勝義と世俗の二諦を主題としてその誓輸を述べているだけではないか.
③三性説では勝義=円成実性だが,
MSABh にも円成実 (parini~panna) としづ語はなく,
ただ本偶の勝義(p
a
r
a
m
a
r
t
h
a
) という語を使用しているに過ぎない.
つまり「三性説 J という概念、にとらわれて, k
.
1
5の mayakrtaと同じ対応関係を
k
.
1
6に当てはめて読むこと自体が間違いなのかもしれないということである.す
.
1
6
なわち k.16 の mayakrtaは単なる愉例として用いられている可能性があり, k
は勝義を説明する際, r
依他起において遍計所執が無いこと J を
, r
mayakrtaにお
いて象等の本質が無いこと
j
で喰えているだけなのかもしれないのである.した
.
1
5と k
.
1
6 を続けて同じ三性と幻喰の対応関係、で読む
がって,必ずしも無理に k
.
1
5については依他起性と遍計所執性とが, k
.
1
6については SAVBh
必要はなく, k
の官頭にもあるように勝義と世俗の二諦がその偶の主題で,そこに幻の昏喰がな
されているという認識が大切なのである.
そもそも MSAの幻 (
m
a
y
a
) の嘗輸には, (
a
)幻想の原因 (
t
h
ec
a
u
s
eo
fa
ni
l
l
u
s
i
o
n
)
と(
b
)幻想そのもの (
a
ni
l
l
u
s
i
o
ni
t
s
e
l
f
) という 2つの側面があるとされ, MSABhは (
a
)
の解釈に当てはまるが,同時に初期識伽行派では一般的な (
b
)の解釈も含んでいる
というのである 49 つまり漢訳で「幻 j といってもそれは「幻事 J の意味を含む
ことがあり,サンスクリットで mayaといってもそれは mayakr
t
aの意味を含むこ
とがあり得るのである.したがって ,mayaを原因としてその結果が mayakr
t
aで
m
a
y
a
)
あり ,mayaは mayakrtaの意味を包括する概念であると言える.すなわち幻 (
とは幻術師が起こす幻術 s
oであり,幻の素材であり,幻術で作られたものであり,
また一般的な幻想(現れ)をも示し得ると考えられるのである.
.
1
5 は maya と mayakrta を明らかに区別して喰えているが, k
.
1
6の
よって k
mayakrtaは単独で用いられている以上単なる喰えなので, k
.
1
5を引きずらないで
mayakrtaを mayaの意味に置き換えて読むことができるのではないだろうか.そ
うすると少なくとも「依他起性 Jの喰えは kk.15・1
6で会通できるのである.
49
SO
C
f
. 松田 [
2
0
0
6
]
.
k
.
1
5の y
a
t
h
amayaは「如彼起幻師 J と訳されている (
T
3
1,
6I
1b
2
0
)•
8
6
(34)
幻轍と三性説(問中)
3
. おわりに
以上, MSA第 XI章 k
k
.
1
3・30の再校訂を踏まえた和訳を提示し,加えて kk.15-16
の 問 題 に つ い て 詳 細 に 検 討 し た . そ の 結 果 と し て 筆 者 は , mayaと mayakr
t
aの 関
係性に注目しながら,三性説に固執せず,それぞれの備の独立性を優先して解釈
す る と い う 新 し い 読 み 方 を 提 案 す る に 至 っ た .k
k
.
1
5・29は「幻町議 j が テ ー マ で あ
るが,
r
真 実j がテーマである
k
k
.
1
3・14の直後の k
k
.
1
5・16に お け る 幻 (
m
a
y
a
)は
,
幻事 (
m
a
y
a
k
r
t
a
) と共に用いられている以上,他の偏とレベルの異なる使われ方が
なされているように見受けられる.そもそも「喰えJ というものは一種の表現技
法 で あ り , や は り 難 解 な こ と を 容 易 に 理 解 さ せ る こ と が 「 輸 例 Jの 本 来 の 意 義 で
あるので,時えられるものに明確な区別や一貫性を求めることは厳しく,それぞ
れの備に応じた替輸がなされていると言えよう
5
1
補遺清弁著『般若灯論』第 x
v章との関連文脈をめぐって
『般若灯論 (Prajnapradfpa)~第 XV 章で,滑弁 (Bhãviveka , c
a
.5
0
0・5
7
0
) は推論式
の 喰 例 に 計 3回 も 幻 (
s
g
y
uma) を 用 い て お り , た と え ば k
.
lの 説 明 で は 以 下 の よ
うである.
《梶山訳)) 52
最高の真実として,個人諸領域(内処)は本体あるものではない.【主張】
原因・条件から生じているから. (理由 1
たとえば幻化の人・牛・鹿・鳥などの事物のように.【喰例 1
あるものに本体があるならば,それは生じないであろうから
u
原因・条件から
生じている j という能証は〕異類から排除されるのである.
これに対して,語意を理解しないであらさがしをしようとするある人がいう.
なお,本村[
2
0
1
2
]は筆者と同様の箇所を扱って輪じている.要点を簡潔にまとめると,
幻暗に対する両釈の記述ははそれぞれ, (安慧)r幻術に喰えられる虚妄分別のみが存在し,
そこにおけるこの迷乱は存在しない j という構造と『菩薩地』にみられる v
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虚妄分別とそこにおけるこの迷乱の両
者についてその存在を説く J という構造と『中辺分別論 (Madhyantavibhaga)~に見られる
虚 妄 分 別 (a
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) の構造が類似していると指摘している.これ
は兵藤 [
1
9
9
1
]を基に論じられているが,注記で松田 [
2
0
0
6
]を引用し,“マイトレーヤにおい
て幻術の比輸に二つの構造があるのは,これら 2種の側面を持つ幻術の比輸が未だ統一さ
れていないことを意味する"と附しているのみで,筆者とは少し視点が異なる.しかし,
他の文献との構造比較は今後の研究に向けても参考すべきものである.
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]
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(3
5)
龍谷大学悌教学研究室年報第 1
8号
2
0
1
4年 3月
『幻術というものは,呪文と薬草を用いることにより,また泥・土・草・実・
葉などがあって,それから象などのものがあらわれるのである. (かりに象に本
体はなくても,草などの材料には本体があるの〕だから, (君の〕輸例には証明
さるべき性質がないという誤りがある.J
それは正しくない.象としてあらわれているものに象の本体がないということ
を轍例しようとしているのであって, (象としての顕現のなかにある〕草などを
主張しているのではないからである.しかもそれら〔草など〕の本体も実はあ
るのではない.それらの生起はすでに否定されたのであり,地などの実体とし
ての存在性も否定されたからである S3
このように,土などに呪文をかけて象などあらわす幻術の喰えが使われている.
第 XV章は「自性の考察」であるが, i
有と無の考察j でもあるので,有と無の規
定により,増益と損減を離れることを意図し,賢者は有と無の両極端に依拠しな
い こ と が 説 か れ て い る . も ち ろ ん こ れ は 『 中 論 煩 (Mulamadhyamaka-karika)~に対
す る 注 釈 で あ る た め , 全 く 一 致 す る 構 成 で は な い が , 清 弁 が MSA第 X
I章 の 幻
(maya) に 関 す る 箇 所 を 意 識 し て 述 べ た 可 能 性 は 十 分 に 考 え ら れ よ う .
〈略号・テキスト〉
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デルゲ版チベット大蔵経(東京大学印度哲学印度文学研究室編)
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北京版チベット大蔵経(鈴木学術財団影印版)
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大正新修大蔵経
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(
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-(
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r
唯織思想における増益と損減について一三性説との関わりを中心としてー」
[
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下川│漫季由
[
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無性造『大乗経荘厳広註』和訳 (
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龍谷大学悌教学研究室年報第 1
8号
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4年 3月
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長尾雅人
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三 性 説 と そ の 嘗 輸 Jr
東方学報.11 1
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中観と唯識.11,岩波書唐.
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<大乗荘厳経論>和訳と注解一長尾雅人研究ノート (
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)
一.11.長尾文庫.
野津静置
[
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智吉祥造『荘厳経論総義』に就て Jr
仏教研究.11 2
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袴谷憲昭・荒井裕明
[
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新国訳大蔵経・大乗荘厳経論.!I.大蔵出版.
早 島 理 (HayashimaOsamu)
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[1977-78)
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1 章求法品のテキスト校訂 J 大谷大学研究
「大乗荘厳経論の諸問題並びに第 1
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世親造説三性論偶の党蔵本及びその注釈的研究 JW
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[
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(本学博士後期課程)
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