江戸時代の朝鮮通信使の航海について Voyage of the Delegation from

21
江 戸 時代 の 朝鮮 通信使 の 航 海 に つ いて
―対 馬宗家文書 「信使記録下 向船 中毎 日記 」 を事例 と して―
古藤 泰美
*
田 口 由香
林
Voyage of the Delegation from the Korean Yi Dynasty in the Edo Period
: Over "the diary on board of the Chosen Ttrshinshi "
Yos∪ miKOTOH*
Yuko TAC∪ CHI**
Abstroct
The government official of "the Tsushima Clan" joined "delegation from the Korean Yi dynasty", and has
kept a record ofthe voyage by making "a diary on board." By investigating the record, the voyage ofthose
days in the "sea route" from Pusan to Osaka could be known. In this research, the contents of "the diary on
board of the Chosen Tushinshi" which are record of the 11th "delegation from the Korean Yi dynasty" in
1748 arc analyzed. As for "the diary on board of the Chosen Ttrshinshi", the voyage from Osaka
Kawaguchi to Katsumoto in Iki, July 4 to July 17, was recorded by the lunar calendar of those days. The
content showed the port called by "delegation from the Korean Yi dynasty" and the time spent on the
voyage. And the distance of the voyage was able to be found from the present chart, and also the speed
could be guessed. So we can Buess the voyage and current of those days by investigating "current
data",by "Maritime Safety Agency", which showed current of those days.
Keyward: Chosen Tushinshi, Voyage, the Edo Period , the Tsushima Clan
1.は
じめに
江戸時代 においては、主に北前船が国内を航行 し、当
時は鎖国を していたため、外国か ら来航する船は、朝鮮
通信使 の一行が、現在 の釜山か ら対馬経由で玄海灘を渡
り、瀬戸内海に入 り大坂まで乗船する船のみであつた
現在の朝鮮半島 (韓 半島)か らの最初の使節は、 66
8年 か ら8世 紀後半まで続 いた。その後、朝鮮半島では
南北朝が統一 されて室町幕府が安定 した頃の、1404
年 に三代将軍足利義満により国交が再開され た。その後、
豊臣秀吉の朝鮮侵略 により再び、朝鮮半島 との交流は途
絶 えて しまつた。その後、関が原 の戦いに勝利 した徳川
家康 は、対馬藩主の宗家を通 じて国交回復を求める使者
を、その 当時朝鮮を支配 していた 「李王朝」に度重ねて
送 つている。朝鮮国王 も「信義に基づ く国交であ りたい」
との意味の 「朝鮮国王の国書」を持 たせた使節団を、1
607年 帳振■ 2年 )に 日本に派遣 し、公式に、「江戸
幕府」 と 「朝鮮国王」 との国交が回復 した。 その後、1
811年 (文 化 8年 )ま での間に 「朝鮮通信使」は 12
回にわた り日本に来航 している。
曜訓 1幕府 」に対す る警戒心 と、豊臣秀吉による朝鮮出
兵による 「戦後処理」をす る目的で、 3回 目までの、朝
鮮 か らの使節団は「朝鮮通信使」の名称は使用せずに「回
答兼刷還使」と呼ばれていた。 1636年 (寛 永 13年 )
にな り、初 めて 「朝鮮通信使」 と呼ばれるようにな り、
それ以後 の 8回 の 日本への来航は、曜勁 1将 軍」の代替 り
*商
船学科 *十 _般 科 目
を祝賀す る使節 として、 日本に来航 している。
「朝鮮通信使」の一行は、釜山か ら大坂までは「海路」
を使用 し、淀川 を川舟で遡 り、そ こか ら江戸までは 「陸
路」を使用 している。
「対馬藩」の役人は 「朝鮮通信使」 に随行 してお り、
その様子を「船中日記」に記録 として残 している。その
釜山か ら大坂までの「海路」
記録を調査することにより、
における、当時の航海 の様子 を知ることができる。本研
究は、 1748年 (延 享 5年 、寛延元年)の 第 11回 目
の 「朝鮮通信使」の記録である「信使記録下向船中毎 日
記」(対 馬宗家文庫、長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵)
の内容を解明 した ものである。「信使記録下向船中毎 日
記」は、当時の 旧暦で 7月 4日 か ら 7月 17日 (新暦で
│1口 か ら壱
は、7月 28日 から8月 10日 )ま での大坂り
の
い
の
が
までの
る。
その内
されて
航海
様子
記録
岐 勝本
、
「
の
の
の
か
容 らは、 朝鮮通信使」 そ 間 寄港地 と入出港時
刻、その航海に費や した時間がわかる。よつて、現在の
その間の速力を推沢1す る
海図から距離を求めることで、
ことができた。 また、「信使記録下向船中毎 日記」 と当
時の潮流がわかる「海上保安庁」の 「潮流デー タ」によ
り、当時の航海 と潮流 の関係を推算す ることがで きた。
2005年
9月 30日 受付
独立行政法人国立高等専門学校機構大島商船高等専門学校紀要
2.「 信使 記録下向船 中毎 日記」におけ る航海 の様子
21
大坂川 口か ら兵庫
七月四 日
「正 使 。従事難波橋 ヲ被渡、北浜船場 よ り上船、公
儀川御座 其外 、御 大名様方 よ り被差 出候川船淀 下 り
之通也 」
この記述 よ り、 正 使 。従事 が難波橋 を渡 り、北浜
船場 よ り乗船 し、幕府や大名 か ら差 し出 され た川御
座船 で淀川 を下 つた こ とがわか る。
七 月六 日 晴天南西風
「不順 、川 口滞船」
天候 不順 のため 、川 口に留 ま った。
七 月七 日 晴天朝之内北嵐昼 よ り南西風
「三使川御座 よ り小 隼 二 乗 り、本船掛浮在 之所 まて
段 々二被乗移 、御船 よ リー番 太較打候付船 々
被罷越 、
相仕 廻、 二番太較 二 雨卯下刻川 口出船」
この記述 よ り、 三使 (正 使 。副使 。従事官 )が り
御座 か ら小隼 に乗 り、本船 の停 泊場所 まで行 き、乗
り移 つた ことがわか る。 そ して 、太鼓 を打 ち、 7月
7日 の卯 下刻 (6時 か ら 7時 )に 大坂川 口を 出航 し
てい るこ とがわか る。
││
第38号 (2005)
着船 してい ることがわか る。 室津 か ら牛窓まで の所
要時間は 6時 間、距離 が 20海 里 であ るの で速力は
約 3ノ ッ トであるこ とが推 察で きる。
2.4牛 窓か ら日比
「北東風 と相見 え順能 候 間、愛元御馳 走所故五 日
次物等相請取、直 二 出帆仕度 之 旨被 申越候故、弥御
ロ ニ 可被 □ 旨御返答在之、御馳走方 えは御使 者 を以
右 之段 被仰遣 、未 ノ中刻牛窓出帆」
北東風 な ので 、牛窓 に入港 着船後 、直 ちに出帆 の
支度 を して 、 7月 9日 の未 ノ中刻 (14時 )に 牛窓
を出帆 してい る。
「子 ノ辰 刻備前手前迄御 乗掛被成候得共、潮 当 り候
付御船 三使船其外船 々潮掛 りい たす 、
尤 (判 読不能 )
潮直 り候付御 出帆」
備 前 の 手前 まで航海 して きたが子 ノ辰 刻 (23
時 )に 、潮 が悪 くな ったの で潮掛 りした こ とがわか
る。そ して 、時刻 は不明であ るが 、潮 が 良 くな った
の で出航 してい る ことが推察で きる。
「申中刻兵庫着 」
7月 7日 の 申中刻 (16時 )に 兵庫 に入港 して い
る こ とがわか る。 大坂 の川 日か ら兵庫 まで の所要時
間は、 9時 間 30分 、距離 が 10海 里な の で、速力
は、約 1ノ ッ トであることが推察で きる。
七 月十 日 晴天南西風嵐後北風
「辰 上 刻備前 日比御着船 」
7月 10日 の辰 上 刻 (7時 か ら 8時 )に 、備前
の 日比 に入港 着船 してい る。牛窓か ら日比 まで の所
要時間は、17時 間 30分 で 距離 は 18海 里であ る
が 、そ の 間 の潮待 ちの 時間 が 不明で あるの で 、速力
の確定 は出来ないが 、約 1ノ ッ ト前後ではな いか と
推 察で きる。
2.2
2.5
兵庫か ら室
七 月八 日
「人 ツ時 三使被致 上船候得は 、全体 □風 二 而嵐 も無
之候付 、御 見合被成候段御船 よ り被仰遣 、追付北東
風嵐 二相 見 え候 間、御 出船被成候段御船 よ り御側歩
行使 二 而被仰越 、壱番 太鼓打 、船之 (判 読不能 )三
使船 も引続 キ出船在之 」
7月 8日 、人 ツ時 (2時 )に 乗船 し、太鼓 を打 ち、
出航 した ことがわか る。
「三使成上刻室着船在 之」
三使 が 7月 8日 の 成上刻 (19時 か ら 20時 )に
室 に着船 した こ とがわか る。 兵庫 か ら室 まで の所要
時間は、 17時 間 30分 、現海 図にお ける距離が 3
5海 里 な ので 、速力 は約 2ノ ッ トで ある ことが推察
で きる。
2.3
室津か ら牛窓
七 月九 日 北東風
「辰 ノ上 刻御船 よ り太鼓打、船 々致船仕 廻 三番太鼓
二 而御 出帆 、 三使船追 々 出帆 」
7月 9日 の辰 ノ上刻 (7時 か ら 8時 )に 太鼓 を打
ち鳴 らし出航 してい る ことがわか る。
「未 ノ刻比牛窓御 着被成候 処」
7月 9日 未 ノ刻 (13時 か ら 14時 )頃 に入港 し
日比か ら輌
「潮風宜候付 、巳 □刻 日比御 出帆 、三使 船 同前 、午
刻比下津丼 え暫時潮掛被成」
潮 と風 の状況 が 良 か ったので 、7月 10日 の 巳刻
(9時 か ら 10時 )に 日比 を出帆 し、午刻 (12時 )
頃 に下津丼で、 暫時潮掛 りしてい る。
「三使 申中刻備 前輌着船」
7月 10日 の 申中刻 (16時 )に 備 前 の輌 に入港
着船 して い る。日比か ら輌 まで の所 要時間は 6時 間
30分 で距離 が 30海 里であ るか ら速力は約 4.5
ノ ッ トで あるこ とが推察で きる。
2.6
輌か ら忠海
七 月十 一 日 晴天西風卵 上 刻輛御 出帆
「伊達大膳大夫様家 老 。中老 。大 日付 。物頭 為見送
船場迄被罷 出、物頭其以下隼船 二 而被罷 出蒲刈迄被
相 附、船 中為案 内御 同人様船奉行大船頭 、右 同所迄
被附廻、午 中刻比 よ り潮悪舗 相成 、未刻比忠海 え御
着 、潮掛御繋船被成」
7月 11日 の 卯 上 刻 (5時 か ら 6時 )に 日輌 を出
航 したが 、午 中刻 (12時 )頃 か ら潮 が悪 くな り、
7月 11日 の午刻 (13時 か ら 14時 )頃 に忠海 に
入港着船 し、潮掛 か りのために繋船 してい る。
輌 か ら忠海 まで の所要時間は、8時 間 で 距離 が 2
2.5海 里であ るか ら速 力は約 3ノ ッ トで あるこ と
江戸時代の朝鮮通信使 の航海 につ いて 一 対馬宗家文書「信使記録下 向船 中毎 日記」を事例 として一 (古 藤・田 日)
が推察 で きる。
2.7
忠海か ら蒲刈
「今程汐留通船難成 、暮 比 よ り潮直 り候間夫迄御 繋
船 、尤御 揚陸被成間敷 と之□御返答被仰越 、此所御
馳 走場 二 而無之候処、御馳走方御 □介 二及候而は如
何敷、□晩之 潮 二 は御 出帆可被成候 間、三使衆御揚
陸無之候様 可取計 由大蔵方 よ り申来候付 、裁判 よ り
上 々官 を以 申達 させ 、揚陸無之、嶋雄 人左 衛 門病気
差重候付 、朝鮮 医師 え見せ 申度 由、同姓多門を以被
相願 、指掛候儀故 人左 衛 門乗船 え被相招候儀差免候
段 申渡、尤添御 聞被 置候様 二 は大蔵方 え以 手紙 申
遣 、潮 直 り候付 、酉 上刻忠海御 出帆被遊 、西風嵐故
夜通御 」
七 月十 二 日 晴天西風
「卯 中刻蒲刈御 着船」
上 記 の記述 か ら、今 は潮が止 ま つてい るの で、航
行す るの は難 しい 。 夕暮れ 頃 か ら潮 が 良 くな るの
で、それ まで繋船 して潮待 ちを し、7月 11日 の 酉
上刻 (17時 か ら 18時 )に 忠海 を出帆 し、 7月 1
2日 の卯 中刻 (6時 )に 蒲刈 に入港着船 してい る こ
とがわか る。忠海 か ら蒲刈まで の所要時間は 12時
間 30分 で距離 が 18海 里で あるか ら速力 は約 1.
5ノ ッ トであるこ とが推察で きる。
2.8
蒲 刈か ら上関
「信使参 向之節 、当蒲刈 二 而 中官 一 人令病死、右 死
躯此度以継船被差送候付 、為宰領対馬守足軽弐人相
附 申候間、出船以後 出帆被仰付、所 々無滞御送可被
成候 、此段拙者 共 よ り可相達 旨申付 、如此御座候 、
以上
宗之内
平 田直右衛 門
大蔵
杉村
蒲刈
上関
赤間関
藍嶋
勝本
御馳 走方御役人衆 中
昨 日、正使 よ り伊達大膳大夫様漕船之者共 え御酒被
下候付、為御礼彼方様船奉行 岡生 田又十郎 口上 書持
参 、中庭作 左 衛 門迄被差出候段作 左 衛 門 申遣候付 、
則 上 々官 を以正使 え申達、今 日之様子 二 而 は晩方 ニ
は御 出船可被成候 間、御 出船前為御知在 之候 は、三
使 衆無遅滞御 上船 有 之候様 可 申達置段 大蔵 方 よ り
申来候付 、則 上 々官 を以 申達候故 三使 よ り為御知被
成 次第致 上 船居 、無手違御 同前出船可致 旨被 申候段
上 々官 申聞候付 、其通大蔵方 え申、御家老岡本大蔵
被罷 出候付 、直右衛 門致面謁何角御 丁寧之御馳 走御
礼等相応 二致挨拶 、殿様 よ り三使 え御返物之為御礼
御使者難波 田兵衛指越候付 、上 々官罷 出取次、大坂
残之朝鮮 人之内病人在 之、彼地 二 而町医樋 口道興 と
llk候
間、右 為礼分 左 之単翰之通
申医師薬服薬 致全
上 々官 中 よ り相送度 旨申出候付 、遂吟味候故別条無
之候付 、通詞 下知役 よ り御馳 走方 え大坂被差越被下
23
候様 申達相渡候様 二 と下知役 え申渡
正 騎 船格 軍致傷於 大薬者症情 危 重非 但渠 之 自分
必死舟 中人莫不危之而専頼
足下往 来 □病 隋症投薬 以 至於 起死 回生此外諸船
沙 中病者 亦 多而並皆救救護倶 得復 常 ― 行 上下就
不感歎
三 使道到 大坂 聞此報 □即致謝 而 因行 期 卒迫未果
起即 挙行到鎌刈 後 更為告 達 自三 行 次各有 取送深
致報謝之意幸
足下領 之
戊辰七月 日
李深 玄命知印
大羊洪命知印
士
口
浪華医 樋 道典公
大坂城浪 華 医 士樋 口道典公前取送
上房 薬果 五立
大 口魚 参尾
扇子弐柄
黄毛筆 弐柄
真黒弐笏
副房扇子弐柄 石魚 二束
三房扇子弐柄 石魚 二束
震許 之儀参向下向共 二御馳 走諸事御丁寧 二被 入御
意候 段 三 使 よ り御 礼被 申上 、 上 々 官 罷 出 申達候
仏 裁判小野六郎 右衛 門取次御馳走方役 々 え申達 、
尚又直右衛 門 よ り諸事被入御意候次第御馳 走役衆
方 え奉礼 を以 申、安芸守様 よ り三使 以下 え先規之
由二 而煮麺 御振廻被成 、御 同人様 よ り左 之通 出船
為御祝詞被遣之
杉半紙 壱箱
干鯛 壱箱
宛 三使 え
上 々官
右 同断 宛
上判事
素麺 壱箱
千鯛 壱箱
製述官 中え良医
多葉粉 弐箱
上官 え
干鯛 弐箱
素麺 五 箱
中官 中え
同 六箱
下官 中 え
右御使者前 二 同
未潮直 り不 申由二候得共、未刻比 三 使衆致 上船可 申
由、上 々 官 を以被仰 聞候付潮 直 り次 第 為御 知在 之
候 、右 二候間御控 え被成候様 二 と申達候得共段 々 乗
船有之候故、其段取次役 を以御船 え申遣 、御馳 走之
御 談上 々官 を以上判事相添 え被指 出候付 、裁判 よ り
¨
取次節 申達 御船 よ り壱 番 太鼓 打候付 、船 々相仕
廻、三番 太鼓 二 而御船 三使船共 二 申下刻御 出船 、安
芸守様御家老其外之衆、隼船 二乗 り組為御 見送浦 口
え被罷 出、西風 ロニ 而汐 も当 り候付 、子上刻比之浦
御 泊船被遊」
七 月十 三 日 晴天西風
「辰上刻潮 直 り候付 、御船 三使 共 二 比之浦御 出帆 、
遊 □之前辺通船之節 、丸尾崎支配松 平大膳大夫様御
家 老 田中九郎右衛 門魚 菓持参、兼而 申付置候 由二 而
三騎船被差 出候付、通詞下知役 よ り致挨拶 、室津前
二 而右 御 同人様 よ り御使者 を以右 之通也 、酉 上刻 上
関 え着船」
上 記 の 記述 よ り蒲刈 で通信使 の 中官 が一 人病 死
24
独立行政法人国立高等専 門学校機構大島商船高等専門学校紀要
したので 、蒲刈 、上 関、赤間関、藍島、勝本 とい う
寄港地 を定 めて そ の順序 、搬送 しよ うとして いた こ
とがわか る。
7月 12日 の 申下亥J(16日 寺か ら 17時 )に 蒲刈
を出航 して 、7月 13日 は晴天で西風 であ り、潮 も
逆 であつたため 、子 上刻 (23時 か ら 24時 )頃 に
比之浦 に停泊 を し、辰 上 刻 (7時 か ら 8時 )に 、潮
が 良 くな つたの で出航 してい る ことがわか る。
7月 13日 の 酉上刻 (17時 か ら 18時 )に 上 関
に入港 着船 してい る こ とがわか る。
輌 か ら上関 まで の 所 要時間 は 25時 間で 、そ の
内、潮待 ちの 時間が 8時 間あ り、距離 が 44海 里で
あ るか ら速力は約 2.5ノ ッ トであ ることが推察で
きる。
2.9
上 関か ら向浦
七 月十四 日 晴天北東風
「松平大膳大夫様 よ り三使並上 々官 え、出船之為御
祝儀御使者 を以左 之通被遣
極 壱椿
香茸 壱箱 宛 三使 え
枢 壱権
鮮鯛 壱折 宛 上 々官 え
但 三使 え之御 □物 之儀 、日本 国 □□故 □を可
遣哉 、所 々御馳 走□せ は如何 二候哉 之 旨、夜
前彼 方御馳 走人 よ り裁判迄被 向合候付 申請
候 上 、国忌 日之事 二 候 間、 □□□被 遣 可 □
哉之 旨申達候 故、右之通被遣之也
今 日就 □菓盆平 田直右衛 門、御船 え参上仕於御屋形
御 目見被仰付、御船 よ り御使者 を以順風之様 二相見
え候間、正使使御仕 廻被成候 は御 上船候様 二 申来、
上 々官 を以 申達 、追付御 上船在之 、巳中刻 上 ノ関御
船御 同前 出帆、大膳 大夫様・左京様 役人衆 え上 々官
罷 出御馳 走之御談 申達候付 、裁判誘 引御礼相応 二 取
合せ 申達 、右御 両人様家老以下参 向之通為見送早
船 よ り浦 口迄被罷 出居候付 、取次役 を以相応 之挨拶
申達、笠戸前辺通船 之節 、大膳大夫様御家来兼 而 申
付置 向由二 而三使船 え□菓持参 、御船浅刻 過 向浦
え御着」
上 記 の 記述 よ り、 7月 14日 の 巳中刻 (10時 )
に上 関 を出航 し、同 日の成刻過 (19時 )に 向浦 (現
在 の 向島 か )に 着船 し停泊 して い る ことがわか る。
上 関 か ら向浦 まで の所要時間 は 9時 間 で 、距離 が
32海 里であ るか ら速力は約 3.5ノ ッ トであるこ
とが推 察 で きる。
2.10向 浦か ら赤間関
七 月十 五 日 晴天東風
「今卯 上刻 、防州 向浦御 出帆本 山崎船 之節 、大膳大
史様 よ り水本船被 差出、三使船 え御使者 を以魚菓被
差越候付 、通詞 下知役 よ り取 次、赤間関瀬 戸 口え被
乗掛候節潮 当 り候付 、瀬 戸前 え暫時被致潮掛 、追付
潮 直 り候付 申中刻赤間関 え着船 、追付 三使衆被致揚
陸」
上述 の記録 よ り、7月 15日 の卯 上 刻 (5時 か ら
6時 )に 、防州 向浦 を出帆 し、赤間関 の瀬戸 口で潮
第38号 (2005)
が逆 潮 にな り、瀬戸の手前で 暫時潮掛 か りを して 、
潮 が 良 くな り出航 し、同 日の 申中刻 (16時 )に 赤
間関 に入港 着船 してい ることがわか る。
向浦 か ら赤 間関まで の所 要 時間 は 10時 間 30
で
分 、距離 が 36海 里 であるか ら速力は約 3.5ノ
ッ トであ ることが推察で きる。
211赤 間関か ら藍 島
七 月十六 日 晴天北東風
「今朝御船 よ り御徒 士使 を以順風 と相見 え候 間、御
仕 廻御 上船 被 召候様被仰 遣 、今 朝 三 使 上船 被致候
前 、大膳 太夫様 御 馳 走役 よ り裁 判 迄先規 も差 出候
間、左 之通致用意段如何可仕哉之 旨被 申間、差掛 り
候場所故 、先規被差出御用意被成候 事 二候 は 、御勝
手次第被指 出候様 二致返答候付 、三使 よ り中官迄煮
麺吸物其外酒肴等、下官 えは赤飯酒 □御振 廻被成 、
右相済而上 々官罷出、諸事御馳 走之御礼 申上候付 、
裁判 同道相応 二 取合御礼 申達、三使卯 中刻被致 上 船
候付、重役 人旅館 井船場 え被相詰 、
辰 上 刻御船 よ り、
々
壱番太較打二番 太較 にて追 出船 、大 膳 太夫様重役
人以下浦 口迄為見送 、早船被罷 出、内裏前 二 而小笠
原右近将監様 よ り漕船数艘被差 出、大膳太夫様 よ り
之漕船 二 引遣 ル 、尤水木船総碇等被差 出、若松 沖 ニ
而松平筑前様 よ り被差 出重漕船 引遣 、申上刻御船 同
前藍 島え着船」
上述 の記録 よ り、7月 16日 の辰 上刻 (7時 か ら
8時 )に 赤間関 を出航 し、同 日の 申上刻 (15時 か
ら 16時 )に 藍 島 に入港 し着船 してい るこ とがわか
る。赤間関か ら藍 島ま での所要時間は 8時 間 で 、距
離 が 17海 里 で あ るか ら速 力 は約 2ノ ッ トで あ る
こ とが推察できる。
ここで 、現在 の海 上保安庁 の潮流調和定数 に よる
潮流推算 で 、 当時 の潮流 を出 し、史料 と比較 した。
地形 の変化 な どで、約 3時 間 のずれ があ る と思 われ
るが、海 上保安庁 の 資料 では 13時 頃 か ら関門海峡
の潮流 は、逆潮 で強 くな り、 16時 に1頂 調 に戻 つて
い るので 、古文書 の潮流 とほぼ一 致す る と考 え られ
る。
212藍 島か ら勝本
「辰 上刻 、御船 よ り壱番 太較 打 二 番 太較 にて追 々 出
船 、大膳 太夫様 重役 人以下浦 口迄為見送、早船被罷
出、内裏前 二 而小笠原右近将監様 よ り漕船数艘被差
出、大膳 太夫様 よ り之漕船 二 引遣 ル 、尤水木船総碇
等被差 出、若松 沖 二而松平筑前様 よ り被差 出重漕船
引遣、申上刻御船 同前藍 島 え着船 、申中刻 三使 衆被
致揚陸候付、重役人衆波戸場 え被罷 出」
七 月十七 日 晴天北風
「三使致上船居 可 申由 二 而、卯 上刻被乗候付 上 々官
罷 出、御馳走役 人衆 え御礼 申達候付 、裁判 同道相応
二 取繕 申達、今朝不順 之様子 二相見候段御船 よ り直
右衛 門方 二 申来候付 、三使船 え取次役 を以、今 日は
不順 二 而御 出船難成 旨船 よ り申来候趣遣候 処 、様 宜
相成候付 、御船 よ り御 □徒 士三使騎船 え被遣 、段 々
二番太較打、卯 下刻御船御 同前 出、筑前守様 よ り家
老為 見送 浦 口迄被 罷 出、 申中刻 比 よ り御船 三 使船
江戸時代 の朝鮮通信使の航海 につ いて 一 対馬宗家文書「信使記録下 向船 中毎 日記」を事例 として一 (古 藤・田口
)
追 々壱州勝本浦御 着船」
上述の記録 か ら、太鼓 を打 ち、 7月 17日 の卯下
刻 (6∼ 7時 )に 藍 島を出帆 し、同 日の 申中刻 (1
6時 )頃 に壱 岐勝本 に入港着船 してい る こ とがわか
る。
藍 島 か ら勝本 まで の所要時間は 10時 間で、距離
が約 30海 里 であ るか ら速力は約 1ノ ッ トで あるこ
とが推察 できる。
3.ま とめ
鎖 国政策 を とっていた江戸時代 当時 にお い て 、唯
一 外国 に門戸 を開 い て い たのが長崎 出島であ ったが 、
も う一つ 「朝鮮 王 朝」 の通信使 を受 け入れ た 対馬 を
挙げ るこ とがで きる。 しか し、そ の意味合 い は、全
く異 な つ た もの で 、長崎 の 出島は通商 が 目的であ り、
真 の意味 での外 交機 関ではな かつたが 、江戸幕府 は、
「朝鮮 王 朝」 とは正式な外 交政策 を行 つて い た。そ
の外 交政策 の 中心 が 、対馬藩 の 「宗家」 であ り、本
研 究で取 り上 げた史料 は 、そ の 対馬藩 の役人 が 、「朝
鮮 通信使」 に釜 山か ら江戸 へ の往復 に随行 した記録
の一 部 であ り、当時 の 文化交流は もちろんであるが、
釜 山 か ら大坂 まで の航海 の記録 と して も貴重な歴 史
的価値 の あるものであ る。
当時 の 釜 山には、現在 の 大使館 にあた る 「草梁和
館 」 が 常置 され てお り、広大 な敷地 に常時 500人
の 対馬藩 の役人 が 勤務 していた といわれ て い る。
本研 究で と りあげた 資料は、冒頭 に も紹介 した よ
うに、第 11回 日の 「朝鮮通信使」 の復路 の記録 で
あ るが、「対馬 の歴 史資料館 」には 、往路記録等 も残
され てお り、今後 、江戸時代 にお ける航海記録 を研
究す る上で貴重 な文献が多 く保存 され てい る。
本研 究では、大坂 の川 口か ら勝本 までを 11日 か
けて航海 し、そ の 時 の 、気象 条件 によつ て 、入出港
の 時間が決め られ 、航海 中の速力は、約 1ノ ッ トか
ら 4ノ ッ トであつた ことが解明 できた。
江戸時代 にお いては、現在 の よ うに潮流や気 象状
況 を正確 に入手す る ことがで きな い はず であ るが、
瀬 戸内海 を中心 とす る、村 上水 軍等 が水 先案 内を担
って お り、そ の意味 では 、熟練 した 現在 の水先案内
制度 の先駆 けではないか と考 え られ る。
本研 究では、平成 17年 度 の 卒業研 究で河村沙友
さんに、なれ な い 古文書 と格闘 しなが ら読み下 して
解読 して頂 いた ことに感謝 の意 を表 します 。 また、
韓国海洋大学 に も訪問 させ て頂 き、 ソ ウル 大学 の名
誉教授 を され てい る、「元仁 古代船舶研 究所」の李元
植 先生 に貴重 なア ドバ イ ス を頂 きま した。韓 国海洋
大学 でお世話 にな つた諸先生や 、 上 関教育委員会や
上関 商 工 会 の 方 々 に も、多大 な協力 を して頂 き感謝
致 します 。
参考文献
[1] 『皇国総海岸図 絵図編第一巻』昭和礼文社、
[2]
[3]
1987年
辛基秀著『 新版 朝鮮通信使往来 ―江戸時代
260年 の平和 と友好 ―』明石書店、2002年
『 日本交通史辞典』古川弘文館、2003年
[4]
[5]
石井謙 治『 図説 不口船 史話』至誠 堂 、1983年
上 関教 育委員 会資料 「御番 所展 示 パ ネ ル に
あふれ る歴 史」
25
26
独立行政法人国立高等専門学校機構大島商船高等専門学校紀要
第38号 (2005)