2013年度 農学研究科 博士学位請求論文(要旨)

2013年度 農学研究科
博士学位請求論文(要旨)
乳酸菌 Lactobacillus helveticus により生成される血圧降下ペプチドに関する研究
Studies on the Milk Protein derived Antihypertensive Peptides
Produced by Lactobacillus helveticus
学位請求者
前野正文
発 酵 を 10 時 間 程 度 で 止 め て 酸 味 を 抑 え た L.
内 容 の 要 旨
helveticus 発酵乳や、L. helveticus から精製したプロ
厚生労働省の平成 23 年度患者調査によると、高血
テアーゼでカゼインを直接分解したペプチドにも、自
圧患者数は約 900 万人であり、平成 20 年度の前回調
然発症高血圧ラット(SHR)への経口投与で血圧降下作
査から約 100 万人増加した。高血圧症の予備軍である
用が示されため、風味良好な機能性食品開発の可能性
正常高値血圧者も含めるとその数は 5000 万人とも推
が示された。しかし、いずれの素材も、VPP や IPP
定され、早急な対策が必要である。血圧は、加齢とと
を含有しておらず、血圧降下作用を示す活性本体は明
もに上昇するが、脳卒中や心筋梗塞などの発症リスク
らかになっていない。
も高まるため、血圧上昇を抑えるための対策が必要で
さらに、VPP と IPP を含んだ酸味の強い L.
ある。それには運動や食事など生活習慣の改善が推奨
helveticus 発酵乳についても、乳酸を低減した粉末化
されるが、予防効果を高めるために、血圧降下作用な
素材が開発された。これによっても酸味の影響を回避
どの機能性を持つ食品の活用が期待されている。
した食品開発への可能性が広がったが、原料発酵乳由
食品成分でもあるペプチドは、アミノ酸が数個から
来の様々な成分が濃縮されたため、過剰摂取を想定し
数十個結合した物質だが、その組み合わせにより、血
た安全性を考察する必要が生じた。
圧降下作用などの様々な生理活性を持つために、機能
本研究では、機能性食品に利用可能な風味良好な血
性食品への応用が期待できる。ペプチドは、一般的に
圧降下ペプチド素材の開発に向けて、L. helveticus が
は、乳タンパク質はじめとする食品タンパク質を消化
生成する VPP と IPP 以外の血圧降下ペプチドの存在
酵素などで分解して製造されるが、苦味を呈するペプ
と、その作用メカニズムを明らかにして、機能性食品
チドの生成により嗜好性の低下が懸念される。
一方で、
への利用可能性を探る基礎的知見を得ることを第一の
発酵乳は、乳酸菌のプロテアーゼの作用で乳タンパク
目的とした。次に、L. helveticus 発酵乳の乳酸低減粉
質が分解されて様々なペプチドを含有しており、風味
末の実用化に向けた一助とすべく、本粉末素材につい
良好なペプチド素材として有望である。なかでも、乳
て、動物細胞および動物を用いて安全性に関する基礎
酸菌 Lactobacillus helveticus は、他の乳酸菌に比べ
知見を得ることを第二の目的とした。
てタンパク質分解活性が強く、多くのペプチドを産生
する。これまでにも、L. helveticus を含むスターター
第1章 緒 論
を用いて 37℃で 24 時間発酵させた発酵乳から、血圧
第 1 章では、L. helveticus 発酵乳の血圧降下作用を
降下作用をもつアンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害
持つ機能性食品としての有用性と課題をレビューした。
ペプチドである VPP と IPP が見出されてきた。この
血圧調節メカニズムのひとつに、レニン-アンジオ
発酵乳は、発酵で生じた乳酸が強い酸味を呈するため
テンシン系があり、キー酵素が ACE である。ACE 阻
に、直接飲用が困難なことが課題であった。一方で、
害による血圧調節は、1970 年代初頭、蛇毒から見出さ
1
れた ACE 阻害ペプチドが、高血圧患者への静脈投与
し、tail-cuff 法にて血圧値を測定した。最も血圧降下
で、血圧降下作用を生じたことから注目された。
作用が高かった分画を、逆相 HPLC を用いて精製を繰
各種乳酸菌による発酵乳を比較した結果、ペプチド
り返した結果、最終的に 10 種類の主要ペプチドを単
含有量が高いものほど、ACE 阻害活性も高いことが示
離し、エドマン法による N 末端分析と、アミノ酸組成
され、これらの発酵乳を SHR に投与すると、 L.
分析により、各配列を決定した。これらのペプチドを
helveticus 特異的に血圧降下作用が認められた。L.
固相法により合成し、SHR に経口投与して降圧値を調
helveticus 発酵乳の ACE 阻害活性は、対数増殖期後
べたところ、KVLPVPQ の配列を持つペプチドの降圧
期から急激に増加し、VPP と IPP は、その活性を指
作用が最も強かった。カゼイン分解物中の本ペプチド
標に見出された。これらペプチドは、カゼインが L.
の含有量を定量した結果、26 μg/ml であった。さら
helveticus のプロテアーゼで断片化された後に、ペプ
に、本ペプチドは、SHR への経口投与において、0.5
チダーゼの分解を受けることで生成されるが、ペプチ
から 2.0 mg/kg 体重の投与の範囲で降圧作用が認めら
ダーゼ活性の低い発酵前期の段階や、L. helveticus か
れた。以上の結果から、KVLPVPQ は、L. helveticus
ら抽出した菌体外プロテアーゼによるカゼイン分解物
CP790 株のプロテアーゼによるカゼイン分解物の血
も、SHR で顕著な血圧降下作用があったことから、
圧降下作用の主要成分であることが示された。
L. helveticus は、VPP と IPP 以外にも、血圧降下ペ
第 3 章 血圧降下ペプチドの作用メカニズム解析
プチドを生成している可能性が強く示唆されていた。
安全性については、L. helveticus 発酵乳は、日本で
KVLPVPQ は、ACE 阻害活性がほとんど認められ
90 年以上の食経験があるが、動物やヒトでの安全性評
なかったため、経口投与後のペプチドの消長を探るこ
価試験も行われた。L. helveticus 発酵乳を、ICR マウ
とから作用メカニズムを推定すべく、人工消化試験を
スへ 4 週齢から投与した結果、対照群より平均寿命が
実施した。その結果、本ペプチドをカルボキシペプチ
有意に 8%延長した。その理由として腫瘍、腎障害、
ダ-ゼ A で消化すると、ACE 阻害活性が顕著に上昇
感染症などの遅延が示唆されたため、安全性に加え、
することが認められた。分解されたペプチドを逆相
健康効果を保有する可能性も示された。
ヒト試験では、
HPLC で単離して分析した結果、本ペプチドの C 末端
健康な成人への過剰摂取および血圧への影響や、高血
の Gln 残基が分解された KVLPVP が同定された。こ
圧患者での評価が行われ、いずれも安全性に問題ない
のペプチドの ACE 阻害活性 (IC50)
は 5 μM であり、
ことが示された。
分解前のものと比較して活性が 200 倍以上に上昇した。
以上のように、L. helveticus 発酵乳は、安全性も高
従って、本ペプチドは経口投与後に消化管内で分解を
く、血圧降下作用をはじめとする様々な健康機能性を
受けて活性が出現する可能性が示された。さらに
持つ可能性がある有望素材であることが示されていた。
KVLPVP を SHR に経口投与して、血圧降下作用を評
価した結果、分解前の KVLPVPQ と同様に血圧降下
第 2 章 カゼイン分解物からの血圧降下ペプチドの単
作用を示した。
離同定
一方、KVLPVP には、ACE 阻害作用を示す配列が
本研究では、乳酸菌 L. helveticus CP790 株から単
内在している可能性があったため、N 末端、C 末端か
離精製した菌体外プロテアーゼによる乳カゼイン分解
らアミノ酸残基ひとつずつ削減したペプチドを合成し
物から血圧降下作用を持つ有効成分の同定を行った。
て ACE 阻害活性を測定した。しかし、いずれの合成
ペ プ チ ド も ACE 阻 害 活 性 が 低 下 し た た め に 、
最初に、ACE 阻害ペプチドの可能性を再確認した。
分解物を逆相 HPLC で分画し、それぞれの ACE 阻害
KVLPVP が、活性本体であることが示された。
活性を測定した(ACE 阻害活性は IC50 値(酵素活性を
50%阻害するペプチド濃度)とした)。しかし、いず
第 4 章 発酵乳からの血圧降下ペプチドの単離同定
れの分画物も ACE 阻害活性は非常に低かった。そこ
本研究では、L. helveticus CP790 株から派生した
で、ACE 阻害活性が弱い血圧降下ペプチドを単離する
酸生成力の弱い変異株 L. helveticus CPN4 株を用い、
ため、従来の方法とは異なり、SHR への経口投与によ
発酵初期段階である pH 4 付近で止めて一般的なヨー
る血圧降下作用を指標に、
有効成分を直接絞り込んだ。
グルトと同等の酸味に改良した発酵乳を用いた。
すなわち、逆相 HPLC での分画物を SHR に経口投与
このヨーグルト様発酵乳は、ACE 阻害活性が弱いこ
2
とから、
有効性成分は KVLPVPQ だと推察されたが、
乳を風味良好な機能性食品として実用化する際の有効
定量の結果、有効量は含まれておらず、他の有効成分
成分としての活用が期待できる。また、KVLPVPQ は
が存在する可能性が示された。そこで、SHR への経口
プロテアーゼ単独の分解で生成されるために、プロテ
投与による血圧降下作用を指標に活性成分の単離同定
アーゼとペプチダーゼの併用が必要な VPP や IPP よ
を行った結果、顕著な血圧降下作用を持つ新規ペプチ
りも、製造方法の単純化や安定化が期待できる。そこ
ド YP を見出した。YP を SHR に経口投与すると、0.1
で 、 今後 は 、 様 々な 食 品素 材 や酵 素 分解 物中 の
から 10 mg/kg 体重の投与の範囲で血圧降下作用を示
KVLPVPQ ペプチドを分析して生成方法を研究し、よ
した。本ヨーグルト様の発酵乳における YP 含有量は
り効率的で安価に製造する技術開発を行う価値がある
8.1 μg/ml であった。
また YP は ACE 阻害活性が 720
と考える。
また、KVLPVPQ は、消化酵素で分解されて ACE
μM と非常に弱いことから、血圧降下作用発揮には別
のメカニズムがある可能性が推察された。
阻害作用を発揮する、プロドラッグタイプのペプチド
であることを見出した。この知見は、新規機能性ペプ
第 5 章 L. helveticus 発酵乳の安全性評価
チドを探索する際のひとつの着眼点となる、重要な知
L. helveticus 発酵乳のホエー成分を粉末化すると、
見と考える。YP は、KVLPVPQ と同程度の血圧降下
血圧降下作用を発揮するペプチド以外にも、発酵由来
作用を持つが、ACE 阻害作用が弱いために他の作用メ
の様々な成分が濃縮される。本粉末素材は、発酵乳原
カニズムも持つ可能性が示された。ACE 阻害以外の血
料の食経験から安全性は高いことが想定されるが、血
圧降下メカニズムとしては、交感神経の抑制作用が知
圧降下ペプチドを含めた発酵生産物全体の過剰摂取安
られている。YP は、別の研究で、ラットの交感神経
全性を考察するために、特定保健用食品で原則求めら
系の抑制作用が見出されているが、血圧降下作用との
れる遺伝毒性(染色体異常試験)
、急性毒性(単回投与
関係は不明であるために、今後はこれらの関係を詳細
試験)及び、亜急性毒性(28 日間反復投与試験)を実
に調べることが必要と考える。
施し、安全性に係る用量と反応を評価した。発酵乳製
また、L. helveticus が生成するその他成分を含めた
造には、VPP と IPP の生産能力が高いことで選抜さ
安全性についても、正常ラットを用いた遺伝毒性、急
れた L. helveticus CM4 株を用いた。
性および亜急性毒性を評価した結果、いずれも投与に
その結果、チャイニーズハムスターの肺由来の繊維
起因する毒性はなく、
安全性が高いことが考察された。
芽細胞を用いた染色体異常試験では、本素材に起因す
本研究で得られた以上の知見は、血圧降下作用をは
ると推察される変化は見らなかった。単回投与試験で
じめとする、風味良好な機能性食品開発に向けた研究
は、試験系の最大量(4000 mg/kg 体重)を SD ラットに
および、実用化のための技術開発に重要な基礎的知見
経口投与したが、本素材が起因と判断される変化は見
であると考える。
られなかった。粉末 4000 mg/kg 体重の用量は、VPP
換算でヒト有効量と比較して 100 倍量に相当した。28
日間の反復投与試験においては、SD ラットへの投与
量は、
500, 1000, 2000 mg/kg 体重の 3 用量としたが、
いずれの用量も本素材投与が起因と判断される変化は
見られなかった。以上の結果より、L. helveticus 発酵
乳のホエー成分を乳酸低減後に粉末化した食品素材の
安全性は高いことが示された。
第 6 章 総括と展望
本研究において、L. helveticus のプロテアーゼを利
用したカゼイン分解物と、ヨーグルト様発酵乳におい
て、それぞれ KVLPVPQ と YP のペプチドが血圧降下
作用を発揮する主要成分であることを見出した。これ
らペプチドは、本カゼイン分解物とヨーグルト様発酵
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