Title Author(s) Citation Issue Date 虚無と美 : ポーの詩論における唯物論的背景 伊達, 立晶 文芸学研究. 5 P.61-P.89 2002-03-31 Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/11094/50916 DOI Rights Osaka University 虚無 と美 一一ポーの詩論における唯物論的背景 伊達立晶 序 アメ リカの作家エ ドガー・アラン・ポ早 (Edgar Allan Poe,1809,49)は 、 い くつかの批評文や短編小説のなかで、 独 自のイマジネーシヨン論 を展開 している。この イマジネ ーシヨン論は、後 にポー ドレールを経て フランス の詩や絵画の領域 に多大な影響力をもつた理 論だと考 え られるが 0、 その 本稿で 思想的背景 についてはこれまで十分な考察 がなされてこなかった。 は、ポーの イマ ジネーション論の背景 に独特な唯物論が あることを明らか にしたい。 まずポーのイマジネー ション論 の概要を要約 してお こ う。 ポーのロングフェロー 評によれば、 「不死な る本性 (lmmOrtal nature)」 として「審美感」をもつ詩人は、地上世界 の模 倣 では満足できないとい う (Xl,71)。 む しろ詩人が描写すべ きものは、 「 天上 の 美 (beauty above)」 なのである (72)。 )。 この「 天上 の美」は五感 によってではな く霊感に よつて詩人に開示 され るものであ り、その美 をその まま再現で きるもの ではない (71‐ 72)。 ヒする それゆえ何 とか「 天上 の 美」に近 い美 を作 品イ ことが求め られ るのであ るが、それ を可能 にす るのが「 イマ ジネーショ ン」 なのであ る (73)。 トマス 。ムーアの詩「 アルシフロン」についてのポーの評論 によると、 「 イマジネーシヨン」は、既存 の諸観念を新奇 に結合す ることによって新 奇な美を生み出す作用 をもつ という (X,62)。 逆 にこの「 イマ ジネーショ ン」を用 いなければ、斬新な発想を生み出す ことはで きない。なぜならば 人間は無 から物事 を想像す る (imagine)こ とがで きず、何 か新 しい発想の ように思われるもの も、 結局はすでに存在 した事物や観念 を新奇に結合 し ただけにすぎないか らであ る (62)。 い わば地上的な事物 についての観念 を越 えて超越的な美 を招来す るためには、新奇な美を生み出す「 イ マジ ネーシヨン」 に頼 るしかないのだといえよう。 それではイマ ジネーシヨンの作用 によって求め られるべ き美とは どのよ うな ものなのだ ろうか。1844年 12月 の「 マージナ リア」(“ Marginalia'')の 一篇 では、 「不明瞭 さ (theレ ¨ル ル )力 S真 の詩における一 要素であ る」と か「不明瞭 さが真の音楽にお ける一要素であ る」と述べ られた後、詩 に「確 定的な調 子 (detemhat tone)力 S加 わると、作 品 が地 上的なものに堕 して しまう」 と論 じられている (XⅥ ,28‐ 30)0。 つ ま リポー は、地上世界 の 具体的な事象を指示 しない「不明瞭 さ」が詩や音楽を「 天上的」な ものた らしめて いる要因であ り、そ の「不明瞭 さ」を詩 に取 り込む ことによって 優れた詩が制作 されると考 えていたのである。もちろん作 品がまつた く不 明瞭 な もの となって しまえば、地上の人間にとって理 解できない ものに なつて しまう。ポ ーが求めるのは、そ のような まつた く不明瞭な「 天上の 美」その ものではな く、あ くまでも「 天上の美」に近い美であると考えら れよう。 この考え方 を如実に示す のが1847年 の短編小説「アル ンハイムの地所」 (“ The Domaill of Arnhdm")で 示された造園論 である。 ここでポーは、イ マジネーシ ヨンによって 自然物を結合 し、新奇 な美を産出するとい う造園 方法を主人公 に語 らせてい るが、その際に求め られてい る美が、人間 の審 美眼 に印応 しつつ「 天使たち (angds)」 の審美眼 にも訴えかけるような美 だとしている (Ⅵ ,188)。 ここでポーが天使といつた架空 の存在を引き合 一見 したところこのイマジネーシヨン論自体がとり いに出 しているため、 とめもないもの と思われかねないが、この主張はポーの真摯な思想 に基づ 次節ではその独自の天使論がもつともまとまった形で展開 くものである。 される短編小説「メスメリズムの啓示」(“ Mesmenc Revdalon",1844)に ポーのイマジネーシヨン論の背景をなす思想について考察 ついて検討し、 を進めてみよう。 1,「 メスメリズムの啓示」 とイマジネ ーシヨン論 短編小説「 メスメ リズムの啓示」は、死 の際 にあってメスメ リズム (催 眠術 )に かかつた被験者 ヴアンカー クと医師 との対話か ら成 る作 品であ 「魂 の不滅 る。ここでは対話部分 に先立 って、 (soul's immortality)」 の間 題が論理 によつては証明で きず、ただメスメ リズム (催 眠術 )の 実験 に よつて信憑性 をもちつつ あるとされている (V,243)。 つ ま り身体的知覚が 麻痺 した催眠状態 においてなお特殊な知覚 が体験で きるとい う実験結果 (241)が 、生身の身体の死後 も残 る不滅の存在 を示唆す るものと して理解 催眠状態の被験 者が世界 の あ り方 について語 るとい されているので ある。 う物語 の設定 は、当時のメスメリズムの実験 か ら得 られ た成果に基 づいて 伝統的な人間の不死性 の問題をとらえ直す ことに起因 しているのだ といえ よう。いわばこのように設定する ことによっては じめて、本来は知 ること のできない死後 の世界 について語 りうるとい うわけであ る。メスメ リズム については後で説明す ることにして、さっそ く対話部分 の 内容を検討 して みよう。 ここではまず聞 き手 (医 師)の 問いに応 じて、被験者 ヴアンカー クの回 から、 「神」 が最 も希薄な「物質 246)。 (matter)」 であることが語 られ る (245- ヴア ンカークによれば、物質には金属 のような濃密 なものか ら電気 のような希薄 なものまで様 々な段階 があ り、通常は「 物 質」として理解さ れていないほど希薄なもの さえあるという。その希薄な物質のうちで最も 希薄 なもの、分子さえ形成 しない「 無分子の物質 (an unpadded mattr)」 が「神」だ とい うので ある (246)。 まず ここで、この考え方の基盤にある主張、す なわち「 物質でない もの は存在 しない」(245)と い う主張に注 目してお こ う。我 々は通常、物質以 spirit〕 」 外 の対象 (た とえば「精神 〔 )に ついて、あたかもそれが存在す る かのように語つている。だが抽象概念 を用いて語 られるその「存在」は物 質的な存在 とはいえず、それゆえ物質について語 られる意味での「 存在」 とはいえない (254)。 こう した非物質的な「存在」など「 存在」とは呼ベ ず、む しろ単 に空虚な言葉 によって存在するかの ように錯覚されたものだ というのである。だがこの主張は、単 に対象物 をもたぬ名辞の虚妄を批判 するだけのものではない。む しろ存在が認められ るものはすべて物質 とし て存在するので あ り、物質だ とは通常考 えられていない もののうちにも、 希薄な物質 として理解すべ きものが あ るというのである。それゆえ神が存 在す るとすれば、それは知 覚 できないほ ど希薄 な物質として存在するとい うわけである。神 を無分子の物質 と同定する主張は、こ う した独自の唯物 論か ら理解できるだろう。 一見 したところ冒涜的 にも思われ るこの主張 は、 逆に神特有の性質を語 るうえで有効なものとなる。語 り手ヴアンカー クによれば、希薄な物質は 濃密 な物質に浸透する性質 をもつ という (245)。 こう して最も希薄 な物質 である神は、さな が ら電気 が 固体状 の電導体 の 内に浸透す るように、万物 「分 に浸透すると考え られよう。 しか し万物に浸透するとは いえ、神 は、 「無分子 の物質」 子」を形成 して個 々の個体性 をもつ他 の物質 とは異な り、 として単一性 を保ちうる たが つて神は世界全体に遍在 しつつ単一 性を `し 保つ絶対者 として、その存在が認め られるので ある。つ ま り神が「 物質」 であるといつて も、通常我々が考える概念 としては「物質」というよ りむ しろ霊的なものに近いので ある (245-246)。 続けてヴアンカークは、我々が「 心 (milld)」 と呼ぶものも、じつは人 間の身体 に浸透 した (静 止状態の)希 薄な物質のことだと述べる。すなわ い」は、無分子の物質 (神 )の 一部なのであ り、この物質が運 ち人間の「 ′ 動状態 にあるとき、心の運動、すなわち「思想 (thought)」 と呼 ばれるの 「 心 」を物質 とは考えな い。しか し「 心」と である。もちろん通常我 々は、 い う言葉 で理解すべ きものが存在するとすれ ば、それ も希薄 な物 質として 理解 され るべ きなのである (246)。 もちろん思想 は、身体 という個体的物質 に囚われた もので あ るため、 我 々の抱 く思想 も神の普遍的な思想 (運 動状態 にある無分子の物質)そ の ものではな く、その ご く一部にす ぎない。それゆえ人間は部分的 に神の思 想 を分有す るとはいえ、神 の思想全体 を知 ることはで きない。いわば人間 は、精神的 な レベルで神の本性 と結びつ きつつ、個別的 な身体 をもつ とい う限定 のゆえに神の意志を知ることができず、普遍者 たる神 と完全に合一 す ることもで きないので ある (249‐ 251)。 さらにヴア ンカークは、人間の身体の種類 を「未発達 な身体 (rudimental body)」 「未 と「完成 された身体 (compLted body)」 との二つ に区分す る。 発達な身体」とは五官を備 えた我々の生身の身体の ことで あ り、地上に生 「完成 された身 きている人間の ご く普通 の身体 のことで ある。これに対 し 体」 とは、 「 未発達な身体」が死 によって滅びた後になお個 人の個体性を 保ち続 ける希薄な身体 のことだ という。この「完成 された身体」は、生前 「未発達な身体 」の 内に潜 んでお り、死を迎 にはそれ と知 られることな く えた後に、あ たかも毛虫が蝶に変態するように、それ までの身体 達な身体」)を 抜け出 して現れる不死なる身体なのである (「 未発 (250)。 この二種類 の身体の知覚作用 はおのずか ら異な る。すなわち「 未発達な 身体」は濃密な物質であ るため、それに対応す る濃密な物質 しか知覚でき ず、た とえば電気 のような希薄 な物質を直接的に知覚す ることはできな い。これに対 し「完成 された身体」は、五官 のような限定 された器官をも たず、 「未発達 な身体 」 に浸透 しうるほど希薄な物質であるため、生身の 人間には知覚で きない ような希薄 な物質さえ直接的 に知覚 しうる。すなわ 「未発達 な身体」に ち器官のない「完成 された身体」をもつ死後 の 人間 は、 は知覚で きなかった世界の実相をほとんど完全に知 るようになるとい うわ けである。そもそも生身の我 々は「器官 の特異性 を通 して触れる限 られた 世界」(251)し か認識することがで きな い。それゆえ世界 の実相を知 るた めには、 「器官な き (unOrganレ ed)」 身体 によって世界を知 覚せねばな らな いのである (250‐ 251)。 逆 に「未発達な身体」の死後に生まれ 変わつた存在た る「天使 (angd)」 たちは、 「未発達 の身体」をもたないため、我 々が具体的 な物質として認 識するものをも、固有の存在 としては知 覚 しない。天使たちにとって「 真 に実体的なもの (th,tru,st SubstanlaHty)」 は、我 々が「空間 (space)」 と 呼んで いるものだ という。つ ま り我々には知覚されず「無」と思われてい るもの さえ天使 たちにとっては知覚対象であ り、空間その ものが実体なの である (253‐ 254)。 ヴアンカー クによると、そもそも我 々が具体的 な物質と して知覚 してい るものは、ただ我々の「未発達 な身体」の生活のためであ つて、それ以外 に存在理 由はないのだ とい う。それではなぜ完全なる神 は、このような 「未発達 な身体」をもつ人間 とそれに応 じた物質のような不完全な存在 を 創造 したのだ ろうか。この 間いに対 してヴァンカークは、完全性が善であ り快であるためにはその対比物たる悪や苦が存在せねばな らなかったか ら だ とい う。つ ま り完全なる絶対者・神は善悪、快苦 のような相対的な レベ ルを超越 したものであ り、それ 自体 として善ではないのだが、悪 しき存在 を創造す ることによって、 相対的に善 き性格を獲得できるというわけであ る (253)。 以上 のことを語 つた後、ヴァンカークは力尽 き、息を引 き取る (254)。 「 メスメ リズムの啓示」 とい う作品は、こうして終結を迎 えるのである。 ここに示された思想をふ まえたうえで、再びポーの イマ ジネーション論 を見直して李よう。 「アルンハイムの地所」の造園論では、人間と天使と が 区分 され、それ ぞれの審 美 眼 に優 劣 の差が あ る ことが示 されてい た。こ れは「未発達 な身体」を もつ人間と「 完成された身体」をもつ人間 (天 使 ) との区分、お よび人間の知覚する個物 と天使の知覚す る「真 に実体的なも の」 (す なわち個物が個物 として存在 しない「空間」 そのもの)と の区分 に相応するもの と考え られる。つ ま り「未発達な身体」をもつ人間にとっ て知覚対象はあ くまで も個 々の事物であ り、 (天 上の美 を求めな い限 り) それ らの個 々の事物の美に満足す るしかないのに対 し、 「 完成された身体」 をもつ 天使 にとつて個 々の事物は存在 しないも同然 であ り、天使 の審美眼 にかなう美 もまた、個物 の美 とは異なる次元にあると考 えられ よう。た し かに人間にとつてその 天上的な美は手の届 かないものであ り、ただ身体的 な知覚が麻痺 した特異な状態において、自己の 内に潜在す る天使的身体を 通 じて瞥見されるにす ぎない ● それゆえ (造 園家 な ども含む広義の)詩 )。 人は、天使 の知 覚す る天上の美 をそのまま再現す ることはで きないのだ が、しか し人間の審美眼に即応 しつつなお天上の美に近 い もの を産出する ことはできる。 すなわち個 々の詩句 を扱 う詩人や個 々の 自然物 を扱 う造園 家は、個物 の美ではな くむ しろ全体的な効果 を重視 し、かつてなかったよ うな新奇性 を追求する ことによって、地上的な個物 の美 よりも高次の美を 産出 しうるのである。 もちろん ここで要請 される能力がイマジネーシヨンであ る。天使 の審美 「 アルン 眼にも適 うような美をイマジネーシ ヨンによって産出するとい う ハ イ ムの地所」の主張は、 こう した背景か ら理解す ることがで きるだろ 「唯物主義 (materiJお m)」 に傾倒 していた主人/AAエ リソンが物質的操 う。 作 によって「新奇な気分 」の産出を目指すとされてい るのも (Ⅵ ,180)、 こ のポー独自の物質観に基 づ くもの と考えられよう。 このイマジネーシヨン論は、もちろん造園のような物質的操作 にのみ妥 当す るものではない。1845年 のウ ィリス評では、諸観念 の結合 によって新 奇なイメージを産出するイマジネ ーションの作用 自体 が、物質的結合 に ヒ合物 を産出する化学変化の作用 と即応するもの として論 じ よって新奇なイ 67 られて いる (XⅡ ,38-39)。 すなわちイ マジネー シヨンを5区 使す る人間に とって、諸観念は結合 の素材 としての物質性をもつのであ る。いわば無か ら何 かを想像することので きない人間には、 物質的 な存在 しか思い描 くこ とがで きないのだ といえよう。したがってこのイマジネー シヨン論は、唯 「 メスメ リズ ム 物論であ ると同時 に観念論でもあると考 えねばな らない。 の啓示」 に示 された身体論や唯物論は、 この ようなかたちでイマジネー ション論 と結びつ くのである。 2.「 メスメ リズムの啓示」の思想的背景 以上 の考察によって、 「 メスメ リズムの啓示」 に示された思想がポーの イマジネーション論の基盤 となってい ることは十分に確認できた。しか し その身体論や唯物論 自体が、現代の我々にとって荒唐無稽 な虚構のように 思われ ることも否定できない。 本節では さらにその思想的背景を検討 する ことによって、ポーがなぜ この ような思想 を構想するに至 ったのか考察 し てみたい。 a.デ カル ト、モア 、グラ ンヴィル まずは じめに、デカル ト、ヘ ンリー・モア、ジ ヨゼフ・グランヴィル、 ポー とつ らなる思想的伝統 について考 えてみよう。 周知 の ように、デカル トは延長実体 としての「 物質」と思惟実体 と して の「精神」 とを峻別する物心二元論を採 つてい る。そ して「 希薄な物質」 と呼ばれ るもの も、空虚な空間の 中 に散在す る微細な物体 のことではな く、じつ はある物質の諸部分の間隙に他の物質が入 り込んだものにす ぎな いと考え る (Descartes,99‐ 100)。 間隙 に入 り込む物質が我々の感覚 によつ て とらえられ るもの とは限 らないにせ よ (101)、 物質のない空虚な空間な ど存在 しない というのである (107‐ 108)。 したが つて「 空間」の概念 は、 延長実体 として理解さ 物体をうちに収める空虚 な入れ物 としてではな く、 れることになる。いわば「 空間」は、ひしめき合う諸物質を定点観測的に とらえる視座 として個 々の物質とは区別されるものの、その内実は物質以 外のものではな く、物質としての延長をもつわけである (103)。 このデカル トの学説に対 し、ヘ ンリー 。モアは次のように反駁する。デ カル ト流の物心二元論に即すならば、精神、霊、神の ような非物質的なも のは延長をもたないことになり、延長をもつ この世とは無縁の、どこにも ない存在とい うことになってしまう。 しか しそうした精神的存在が「実 在」 として認め られ るか らには、延長をもたないわけにはいかないだろ う。すなわち物質 と精神 とはともに延長実体 として理解 されねばな らない ので あ る (More,108)6)。 そ して精神 と物質 とのullは 、精神 が物質の中 に浸透 しうるのに対 し、物質は他 の物質に浸透 しえない とぃ う相違 に、す なわち「透入性 (penetrabilty)」 と「不可透入性 (lmpenelrability)」 とに よって判断されねばな らない (146-147)。 こ う考えることにようてこそ、 この世の万物に遍在する神の存在を認めることができるのであ る。また万 物を内に含む宇宙空間は、万物に浸透する神的な延長 として、すなわち精 「空間」そのものが神であるとい 神的実在 として理解されることになる。 空間は物質的延長とは質を異にする至高の実在な うわけではないにせよ、 のである (108)。 デカル トとモアとの見解の相違は、自然界 に霊的な働 きを認めないデカ ル トの機械論的世界観 と、自然界への神の参与を積極的に認めるモアのケ ンプリッジ・プラ トニス トらしい世界観との対比を示 したものとして理解 できよう。また同時に、デカル トが延長をもつ物質はどこまでも分割可能 だという理由から原子論を否定 し、自然界に「空虚」を認めないのに対 し、 モアが原子論を積極的に認めて「 空間」の物質からの独立性を主張するこ とにもその原因を求めることができるだろう。 この対立に対 し、モアの友人であるジョゼフ・グランヴイルの見解は微 妙である。グ ランヴィルは、定 言主義 (ド グマテ イズム)に 対 しては懐疑 主義的見地か ら容赦ない攻 撃 を加える一方で、 蓋然的仮説 による科学的説 明を容認す ることによって 、徹底的な懐疑主義 をも回避す る立場 (構 成的 construct市 e skepldsm〕 )を とちている 0:そ れ ゆえグランヴィ 懐疑主義 〔 ルは、霊的な存在が延長をもたないとい うデカル ト派の学説 に疑念 を示す 一方で (Glanvm1 1661,100‐ 101)、 霊魂 を浸透す る延長実体 と見なすモアの 学説 にも全面 的に賛成する ことはで きない (22)。 なぜな ら霊魂が無抵抗 に身体 に浸透するな らば、霊魂が身体 に運動 を与 え、生動イ ヒすることもで きな いと考えられ るか らである (22)。 霊的な存在 と物 買 がいかに して結 ′ 合 しうるのか、人 間 には定言的に語 ることがで きないとい うわけである。 しか し人間が身体 と精神 とを兼ね備えているように、 精神 と物質とが結合 しうること自体は(紛 れもない事実である。また遠距離に位置する人間ど うしが精神的感応 の手段によって情報 を伝達 したというような霊的な現象 も、当時は信憑性 をもつ事例 として知 られていた。英国学 士院の一員であ るグランヴィルにとって為 すべ きことは、その霊的な現象 を完全に解 明す ることができないにせ よ、科学的な仮説によって説明す ることなのであ る。この精神感応の事例に対 してグランヴィルは、モアのい う「世界 霊魂 (由 幽″滋 soul)」 が通信 の媒体 とな るという仮説 を採用 し (199-200)、 さ “ らには希薄な物質より成 る流動体が伝達の媒体 になってい るという仮説を も提唱 している (200‐ 201)。 ここで注 目しておきたいのは、グランヴィルが霊的な事象を希薄な物体 の運動 によって説明 しうる可能性を示 している点である。先にもふれ たよ うに、デカル トは「希薄な物質」と呼ばれるものが じつ は異質な物質の混 合物 にす ぎない と考えていた。一 方 モアは、新た に「透入性」の概念 を導 入 し、霊的なものが物質に浸透 しうることを認めたものの、霊的なものと 物質 とを明確 に峻別 し、浸透する実体 が物質ではないことを主張 してい た。これに対 しグランヴィルは霊的なものを希薄 な物質 として説明 しうる と考えているのである。 このように 目に見えぬ現象を「 希薄な物質」の働 きによって説明 しよう 原子論 へ の厚 い信頼があ とするグラ ンヴイルの生気論的思考 の背後 には、 る。すなわち現在の人間に とつて希薄 な物質を見 ることができな い として 「原子の も、堕罪以前 の人間・ アダムは完全な身体器官をそなえてお り、 流れ (Atottical Effluviums)」 さえ見ることができたというのである (6)。 現代の我々はアダムのような完全な身体器官をそな えていな 逆に言えば、 いために、懐疑主義から完全に脱却することができず、原子論仮説によっ 霊的なものに て様々な現象の原因を推論するしかないというわけである。 および完全な身体をもつアダムと不完全な身体を 近い希薄な物質の存在、 もつ我々という対比において、グランヴィルの思想が「 メスメリズムの啓 示」の主張 と似通 つていることが確認できるだろう。 グランヴイルのポーヘの影響を判断する材料は、ご くわずか しかない6 -つ は短編小説「 メールシュ トレームヘの降下 (“ A Decsent int6 the Madstr6m",1841)」 のエビグラフとして挙げられた、次のようなグラン │ ヴ ィル の文章で あ る。 「神の業は、自然においても摂理においても、我々のものとは異なる。デ モクリトスの井戸よりもはるかな深みのある神の作品の広大さ、深速さ、 計 り知れなさに釣 り合 うようないかなる範型論的なものをも我々は作 りあ げることがで きないので ある。 」 (II,225) │ この文章で述 べ られて いる「 デモクリトスの井戸」 とは、原 子論者で あったデモクリトスのことば「真実について、我々は何も知らない。なぜ なら真実は井戸の底にあるからである」9)に 由来 している。つ ま りここで は、 神の創造 した世界が人知によっては完全に理解できないとい う懐疑主 義的な見解 が示 されているのだと考えられよう 。 )。 また短編小説「 ライジーア (“ Ligda",1838)」 では、グランヴィルのこ とばとして、次のようなエ ビグラフが挙げられている。 │ 「 そ してそ こには不死な る意志がある。その意志の力強さと神秘 を、 いったい誰が知っているだ ろう。とい うのも、神 とは、その意図の本性に よって万物に浸透する偉大な意志にほかならないのである。人間はその 弱々しい意志の無力さによらぬ限 り、天使 にも死にも屈服することはな い。 」 (II,248)0) ここで示された「万物 に浸透する偉大な意志」としての神 という考 え方 が 「 メスメ リズ ムの啓示」の主張 に直結す ることは、容易 に理解できよう。 だが じつ は このエ ピグラフはグランヴィル 自身 のことばではな く、ポーが それ らしく創作 したものと考えられている (M,479n)。 つ ま リポーは、い かにもグランヴィルが考えそうな こととしてこのエ ピグラムを創作 したの である。 実際 にどの くらいポーがグランヴィルの思想について知 つていた のか正確なところはわか らないが、少な くともグ ランヴイルの ことばとし てこの ようなエ ビグラフを創作する程度 には、彼 の思想 を知 つていた とい えよう。万物 に浸透する希薄 な物質 としての神 という設定、およびそ の神 の業 を十分には知 りえない という人間知性の不完全性 の問題には、こうし た 17世 紀 の思想が影響を与 えていると考えられ よう (10。 b.エ ビク ロス 17世 紀 のグランヴィルの世界観が 19世 紀 のポーにお いてもなお 一定の エ ピクロス 説得力を もつて いた原因は、ポー 自身 のギ リシアの原子論者 。 の思想 への関心にも求められよう。 ポーは「 メスメ リズムの啓示」のはるか以前か ら原子論的な唯物論 に興 味を示 し、1835年 8月 には、エ ビクロスの登場する「 ボ ン 。ボン (“ Bon‐ Ёon")」 とい う短編小説を発表 してしヽる。この小説は、魂 の取引を生業 と する悪魔 と対面 した学者 ボ ン・ボ ンが、悪魔 と「魂」について談義 を交わ すとい う内容 の作 品であ り、この悪魔が「 エ ビクロス」を自称するのであ る (II,140)。 ここで悪魔 とエ ピクロス とが同一視 されてい る理由は三つ考 えられよう。第一の理 由は、魂を取引の対象物 として扱 う悪魔 が、唯物論 ・ 者 として知 られるエビクロス像 と結びつ くことであ る。ボ ン ボ ンは直接 的に知覚 できない魂について、学者 らしくさまざまな推論を車 て、その本 質 について論 じてみせ る (141)。 しか し直接的に魂 を取 り扱 う悪魔 にとっ てそのような推論 は机上の空論にす ぎず、あ つさ りとボ ン・ボ ンの推論を 否定 して しまう (141)。 人間には知覚 されな くとも、悪魔 にとつて魂は知 覚 されうるものであ り (138)、 食べ物 となる物質なので ある (141-143)。 こ こで示され る悪魔の食道楽 (エ ピキ ュリアン)ぶ りが、悪魔 とエ ビクロス とが結びつ く第二の理 由である。そ して第二 の理 由は、その唯物論ゆえに 無神論者 と非難されがちなエ ピクロスと、神を嫌悪す る悪魔 (143-14)と の類縁性 である。 この「ボン・ボン」に示されている唯物論的な見解、および懐疑主義的 「悪 「魂」を物質としてとらえる見方は な見解は注目に値しよう。もちろん 魔」という存在を設定することによって成 り立つものであり、これがフイ クションの域を越 えな いことは明 らかである。しか しあえて この ような設 魂について解明できな い思弁的推論 の 限界を明 定を立てる ことによつて、 らかにするとともに、物心二元論 を克服する視座 を提示 してみせ たのだと 考えられ よう。観念的事象をも唯物論的にとらえる考え方は、本格的な執 。 筆活動の始 まつたこの時期か らすでにポーの胸中にあつたのである '。 ポーのエ ビクロス哲学へ の関心は生涯続 く。ラプラスの星雲論 を修正 し て練 りあげた晩年の宇宙論『 ユ リイカ』C“ ″滋,1848)に おいて 、その星 雲論 の基盤がエピクロス原子論にあると述べ られてい る (XⅥ ,266)。 "。 この『 ユ リイカ』は、宇宙 を生成消滅の相で とらえ、そ の運動の過程を物 個物の普遍的な永続性を否 質的な離合集散 によつて説明す るものである。 定す るこの字宙論 は、原子論的世界観を如実 に反映 したものといえょう。 「 メスメ リズムの啓示」で も、人間 にとつて具体的な すで に見たように、 存在 と考え られている個物 が天使 にとつては存在性 をもたず、む しろ個体 性 のない状態こそ本来的な世界だと考 えられて いた。人間 に認識できない ものをも物質として理解 し、人間の認識する個物 の本質的固有性を否定す るポーの唯物論 については、エ ビクロスの影響 を抜 きに して語ることがで きないだ ろう。 c.メ スメ リズム 「メスメ リ グランヴィルや エ ピクロスの影響 が多大であつたとして も、 ズムの啓示」 の 唯物論に直接的な影響 を与えた源泉 として最も重要 なの は、その表題 にもあるメスメ リズムである。メスメ リズム とは今 日では 「催眠術」ない し「 催眠状態」を意味す ることばだが、本来はオース トリ アの医師メス マー (Fratt Allton Mesmer,1734‐ 1815)の 学説 のことを意味 していた。メス マー は、宇宙 に充満す る希薄な流体が不断 に動物の身体に 浸透 し、影響を及ぼ してい ると考え、これを「動物磁気」と名づけた。そ してメスマーは、この動物磁気の作用を人工的に調整 して身体に調和状態 をもた らす医療方法を確立 し、ウィー ンやパ リで実際に治療行為に携 わつ たのである。このメスメリズムは広 く西洋で受け入れ られ、ポーのい るボ ス トンにも 1841年 6‐ 7月 にコ リヤー博士 (Robert H.Collyer)に よって活 動 の拠点を得 たという 。つ。ポーは1846年 11月 の「 マージナ リア」におい て、メスメ リズムの理論家タウンシ ェン ド (Chauncey Hare Townshend)の 著作 が正当に評価 されていないことを批判す るな ど (XⅥ ,115)。 →、メス メ リズムの普及を好意的にとらえていた。 「 メスメ リズムの啓示」は、 こ う した風潮のなかで執筆 されたのである (3)。 すで に述べ たように、 「 メスメ リズムの啓示」の冒頭部分では、 メスメ リズム治療法によって身体的感覚が麻痺 した催眠状態にお いてなお特殊な 知覚が保たれ ると述べ られている。 「 未発達 の身体」の感 覚が失われても なお「完全な身体」の感 覚が残 るとい う構想は、こうしたメスメリズムの 成果を解釈 したものと考え られ よう。そ して、宇宙に充満する希薄な「動 74 「 メスメ リズムの 物磁気」が催眠状態の被験者に作 用す るとい うことが、 啓示」の特異な物質論に影響を与えているので あろう。おそ らくは、当時 信頼 しうる科学であつたこのメスメリズムの流体論 が、グランヴイルの思 想や原子論 と結びついて、ポニ独 自の新奇な発想 に結実 したと考 えられる のである。 3.′ 個物 の融解 とことば 以上のように、ポー はグランヴィルやエ ピクロス、メスマーの思想的影 響を受けて、独 自の観念論的唯物論 を形成 していつたと考えることがで き る。だが今 日の我々にとって、先行するそれ らの思想 も、それ 自体 として 十分な説得力 をもつ理論 とは言い難い。そのため、結局 のところ「 メスメ リズムの啓示」に示され るポーの思想 も単なる空理空論 にすぎないと思わ れ るかもしれない。しか しここで提示された身体論、認識論 は、単に一時 今 日においてもなお重要な問題をは らむもの 代の産物 であるに留まらず、 である。本節では、身体論、認識論の観点から、もう一度「メスメリズム の啓示」 を見直 し、ポーの問題意識 を探 つてみたい。 おお この作品 に示 された論を身体論的ない し認識論的 に整理するな ら、 よそ次のようにまとめ られよう。この世 に生 きる人間は感覚器官 を備えて お り、その器官を通 じて得 られた知覚に基 づいて世界 を理解 している。し か し感覚器官が五官に限定 されているため、人間は五官 を刺激す る対象 し つ ま り五官を刺激 しないものの存在 は人間に か知覚す ることができない。 とつて存在 しない も同然であ り、その存在に気 づ くことさえない。いわば 人間は五官 を刺激するもののみを知覚 し、その知覚をもとに世界像 を思い 描 いているのだが、その知覚が五感 に限定 された不完全なものである以 上、構想 され る世界像 もまた常に不完全なものとならざるをえな い。した がって世界が真 にいかなるものかは、この世 を生 きる人FH5に は知 る由もな いので ある。いわば五官に限定されない 天使 という存在を想定することに よつて、人間の認識能力の不完全性 が あ らためて強調され、人間知性 の根 本的な欠陥が明確 に 自覚され るようになったのた といえよう。 この ようにポーの身体論は、いつさいの 人間の思考が真実に到達 しえな い という深刻な不 可知論へ と到達す る 。の。歴史上に名を残す賢人 であれ 天才であれ、不完全な身体的経験に基 づいて世界像 を構想する限 り、世界 が真 にいかなるものなのか解明す ることはで きないとい うことにな る。 我 々にとっていかにもつともらしく思われ る知であれ、それが真実 らしく ヒ的 コンテクス トに適合するか らに 思われ るのは、単にその知が我々の文イ すぎず、それ 自体 として真実た りうるわけではな いのであ る。つ。したがっ て世に認め られている思想や理論もまた、それ 自体真ではないもの と して 批判されね ばな らないだ ろう。 もちろん この懐疑主義的な見解に基 づ くな ら、一定の世界観につい て論 ずるポーの「 メスメ リズムの啓示」もまた、真な らぎるものとして批判さ れねばな らな くな る。 「 メスメ リズムの啓示」が小説 として書かれたこと は、まさに この理 由か ら説明されるだろう。1845年 8月 の「 マージナ リア」 には、あるスウ ェデ ンボルグ主義者 がこの作品を「絶対的 に真実」と評価 したことが紹介 され、ポー 自身がその 評価 の誤 りを指摘 し、この作 品が 「純然 たる虚構」であることを明らかに している (XⅥ ,71)。 もちろん この 小説に示された思想 がポー 自身の真摯な思索に基づいてい ることは、1844 年 7月 2日 のロー ウェル (James R.レ )well)宛 書簡 (Ostrom,256-258)、 1844 年 7月 10日 チ ヴアーズ (Thomas H.Ch市 es)宛 書簡 (259-260)か らも明 らかである。さらに 1845年 1月 4日 の プッシュ (George Bush)宛 書簡で は、この作品が純粋に虚構ではあるものの、そこに自分の独創である思想 をも りこんだ とも述べ られている (273)。 それゆえポーが虚構によって思 想を表現 しようとしていたことは明 らかだろう (10。 逆 に言えば、思想の 虚構 という形式を 限界を明示 しつつ その思想 を表現 しようとするな らば、 とらねばな らないのである。 もちろんこの懐疑主義的な見解は、単に学問的な レベルにとどまる問題 ではない。む しろすべての人間に妥当する問題だといえよう。この世に生 まれ、感覚的体験 や通念 的な知識の学習を通 じて何 らかの世界観 を形成す る人間は、ふ つ うその世界観を疑 うことな く生活 してい る。しか しこの懐 疑主義的見解は、身の回 りのものすべてが知 覚 されたとお りのものではな く、また当然 のように思われている世界観も信用 できず、世界 が真 にいか なるものか知 ることがで きない という状況 を自覚させ るものなのである。 実際 にその自覚を我が ものにするな らば、既存 の知識、や通念的 な思考の 底知れぬ不安 に陥 らざるをえ 枠組みがいつさい通用 しない現実に直面 し、 ないだろう (19)。 知覚を通 じて認識され る世界 がそれ 自体 としていかな るものなのか、そ その ことを十分 にわきまえたうえ れはお そらく答えの出ない問いである。 で、ポーは、世界の実相 を知覚する天使にとつて「 空間」その もの こそが 「真 に実体的なもの」であ り、人間が知覚 している具体的な個物 は じつは 実体性 をもつ ものではない、とい う。もちろん虚構 として示され たこの世 界観 も、それ 自体 として真実とは判断されえない。世界 がいかな るものか 「個物 は実体性 をもたない」 とい う定言命 は知 りえない ということか ら、 題 が導 き出せ るわけではないので ある。それで もあえてポーがこの ような 世界観 を構想 したのは、おそ らく次の三つの原因によるもの と思われる。 先 に挙げた原子論的な思考が当時のメスメ リズムの流行に まず第一に、 よって説得力をもちえたことが考えられ る。第 二 に考 え られる ことは、五 官 に基 づかない感覚をポー 自身が体験 し、その特異な体験 のうちに非具象 的な世界 が瞥見 されたと自覚 していたことで ある。1846年 3月 に発表され た随筆集「 マージナ リア」において、ポーは、熟睡する直前 に、五官が麻 痺 しつつ知 覚 されるといつた、ことばで形容で きぬ感覚 が体験で きること に言及 している (XⅥ ,87-90)(")。 もちろん この個人的 な体験は他 の人間 には知 りうるものではない。それゆえ我 々はその体験の 内実を検証す るこ とはで きないのだが、この体験 がポー 自身にとって重要な視座を与えたこ とは明 らかであろう。そ して第二に、こ うした新 しい世界観が従来の慣習 つ ま り個物 的な通念 を打破す るもの として意識されたことが考えられ る。 の実体性 へ の懐疑が、さらにその否定 へ と傾 いた と考えられるのである。 こうしてポー は、単なる懐疑主義の立場か ら一 歩外に歩み出 ることにな る。そ して個物が実体性をもたない とい う新 しい世界観 は、 「 ことば」に 対する新 しい理解 へ と発展するので ある。それ まで人は、ことばに先立 っ て事象が存在 し、その事象 を指示するものとして「 ことば」が存在す ると 考えてきた。個物 に先立つ普遍 をことばがあ らわすと考え るにせよ、ある いはことばが単 に個物 から抽象されたものにす ぎないと考 えるにせ よ、こ とばが存在 を指示することは当然のこととして理 解されて きたのである。 しか し個物が本質的な実体性 をもたな いとする考え方は、事象とことばと の関係 を一 変させて しまう。 地上的な個物の模倣ではな くむ しろ天上 的な 世界を描 くとい う詩作 の理 想は、 個 々の事象を指示 しない ことば を求める ようにな るのであ る。 ' 「天上の美」に近い美を作 品化 しようとするポーが、詩 の「不明瞭さ」を 高 く評価 していた理 由もここか ら理解できよう。た しかに詩として作 品が 成立す るためには、事物を指示する日常のことばを用いねばな らず、その 意味では「天上の美」に到達 することな どまった く不可能である。また「天 上の美」を瞥見させる霊感 も、ことばによって説明できるものではない。だ が詩人は、押韻や リフレインなどを5区 使することによって、詩句の意 味 レ ベル以外に音の レベルで美的効果を追求することがで きる。さらには意味 よりも音の効果を優先 した り、表面的な意味に曖味な「意味の底流」を伴 わせることによって、意味的 レベルの具象性を抑制す ることさえ可台ヒであ る。実際ポーは、詩論「構成 の哲学 (`Ъ c Phlosophy ofCompos‖ oll",1846)」 において、これ らの技巧を駆使 して美的効果を高める方法について、実例を 78 121). 挙げて説明 しているのである 以上 のことか らも明 らかなように、ポーが詩の内容 よ りも全般的効果を 重視 し、韻律 や リフレインなどの音楽的効果 を積極的に取 り本れたのは、 感覚によって弁別 される 単なる技巧 上の関心のみに基づ くわけではな い。 諸々の個物 が真 にそのようなもの として存在す るのか、む しろ我 夕 の感覚 の外 に広がる世界、すなわち個体性 の融解 した世界 こそ本来的な世界では ないのか、とい う懐疑 が、その芸術観の根底 にあると考 えられ よう。地上 的な事物の個体性を非本質的なもの と見る見方は、グランヴイルや エ ピク ロス原子論、メスメリズムの影響を受けていると考え られ るが、そ うした 先行す る思想 を単に継承 しただけではな く、詩論 ない し芸術論へ と転換 し たところに、ポーの独 自性 を認めることがで きるだろう。 結び一一 マラルメヘの影響 ポーの詩論はアメ リカ本国ではほ とんど正当な評価 を受けな かつたが、 フランスでは高 く評価 され ることとなった。本稿 を締 め くくるにあたり、 特 にマラルメヘ の影響 に注 目し、ポーの詩論が投 げかけた問題 の さらなる 展開を追 つてみよう 122D o i 1864年 10月 30日 付 のカザ リス宛書簡 のなかで、マラルメは「 構成の哲 学」の詩作方法に従 って 自らも「 エ ロデ ィヤ ー ド」《H6rodade)と い う 「数 詩を制作 しようという決意を語 つている(MJhrm6,1995,206)。 しか し 学的」に着実 な手順で作 品を制作す るという「構成 の哲学」の主 張 (XIⅥ 195)と は対照的に、 「 エ ロデ ィヤー ド」の制作は思 うようには か どらず、 マラルメを疲労困億させ ることになる。1865年 1月 15日 付 のカザ リス宛 の書簡 で「 エ ロデ ィヤ ー ド」のことを「僕 の貧 しい才育ヒをはるかに凌駕 し ているため、おそ らくいつかは僕 が破 り捨て ることにな る作品」とよんで いるように (M」 larm6,1995,221)、 「構成の哲学」か ら受け継 いだ詩作方 む野心的なマラルメに著 しい無力感を与え ることにな った 法は、大作にリヒ のである。 有名な 1866年 4月 28日 付 のカザ リス宛書簡は、 こうした状況で記され たものである。 ここでマラルメは、 「 エ ロデ イヤ ー ド」の制作状況につい て、 「 まだ下書 きの段階だが、途方 もな い効果をもつ もの となるだろう」と 報告 し、さらに「 ポーに匹敵 し、彼 の詩 に勝 るとも劣らない ものをつ くる ことになるだろう」と述べ る。そ して「 不幸な ことに、詩句をこの点 まで 掘 り下げて」 きたために、 「 仏教を知 ること」 な しに「虚無」を見出 して しまい、仕事が手 につかな くなるほ どの絶望に陥 つて しまつたのだ とい う。すなわちマラルメは、 「我 々は物質でできたむな しい形態 にすぎない」 とい う認識にい た り、詩 によって歌われ るもの も「真実 である虚無」の前 で演 じられる「虚偽 の栄光」にすぎない と考えるに至 つた というのである (297‐ 298)。 この 告 自のい くぶんかは、彼 の思わ しくない健康状態や鬱屈 した精 神状 態に由来す るもの と思われ る。マラルメは同 じ書簡のなかで、自分 が肺を 患 ってお り長 くは生 きられないだろう こと、それにもかかわ らず生活 の糧 を稼 ぐために貴重な詩作 のための時間を削 り、不毛な教育活動に多大な時 間を費や さねばな らないことを訴えて いる (298)。 また尊敬するボ ー ド レールが病いに倒れたとい う情報に打 ちのめされていることも、同 じ書簡 の末尾 で記されている (299)。 日ごろ目を向け ることの少ない「死」に直 面せざるを得 ない状況において、生のはかなさを実感 じ、虚無 こそが真実 だという感慨にとらわれる ことは、ある意味で 自然な反応 だといえるかも しれない。 しか し注 目すべ きなのは、その虚無の認識に至 った原因 としてまず第一 に挙げられている「詩句を この点まで掘 り下げて」とい う一節である。す なわちマラルメにとってこの虚無体験は、単なる健康上の問題にとどまる ものではな く、ポーに匹敵すべ く詩的「 効果」を求 めて きた詩作過程 に由 来す る問題だ つたので ある。すでにふれたように、マラルメが模範 とした ポーの「構成 の哲学」では、様 々な技巧によつて美的効果を高め る知的な 詩作 方法 が高 く評価 されていた。そ の「効果」を求める詩作 の徹底 が、こ れまで個 々の語 に即応するものとして存在が認 められて きた諸事物 の実在 性 に懐疑を抱 かせたのだ と考えられよう。いわば語音 の効果を追求す るこ 普段 ことばと とによつて 固有 の意味 を失 つてい くことばの認識 に伴 つて、 一致するものとして弁別されている諸事物が実際にそれ固有の実体性を もっているのかtじ つは虚無こそ真実なのではないか、というニヒリズム ヘの契機を多分に含んでいたのだと考えられよう。 個々の事物がそれ固有の実体性をもたないと すでに論 じてきたように、 いう考え方は、懐疑主義や原子論の内にも胚胎 してお り 423)、 ポ_の 思想 にもその反映を見ることがで きた。しか し19世 紀までの西洋思想史 におい てそのような考え方は例外的なものだ った とい えよう。すなわち伝統的な 西洋思想史 において、個 々の事物はそれ固有 のイデアない し形相 をもつ存 在 であると認め られて きたので あ り、認識 され る諸事物が仮象にすぎなぃ と論 じられる際にも、そ の仮象の背後 に「物 自体」としての存在 が疑われ ることな く認 められて きたのである。神学的 に見ても、個 々の被造物はそ れ固有の存在 として創造されたと考えられてい るのであ つて、その存在の 固有性 を否定する■ ヒリズムは神 の業を否定す る異端の思想だ つたといわ ざるをえない (Z)。 それゆえ芸術の領域でも、明確 な ことばや画像 で個々 の事象を真実 らしく模倣することが求められてきたのである。したがつて 虚無 こそ真実 と考えるようにな ったマラル 個 々の事物に実体性を認めず、 メは、伝統的 な西洋の思考様式とは乖離 した境地に立たされることになっ たのだといえよう。 以上のように考えるな らば、マラルメが「仏教」を引 き合 いに 出 してい ることも注 目に値 しよう。ここでの仏教 についての言及は、この 書簡の相 手のカザ リスがイン ド思想 の研究者であることとも無縁ではない。しかし そうではあ つて も、 事物や 自我 の実体性 を否定す る仏教にマラルメ自身が 親近感 を抱 き、自己の直面する切実な問題 に通底するもの としてそれをと らえて いたことは明 らかである。 現代 の 日本人の ように当初 から東洋思想 に馴染みのある者 にとっては、その仏教的認識が恐怖や絶望 を喚起す るこ とは稀だが、事物 の存在を疑 う習慣 のない西洋人にとつて、その認識が耐 えがたい苦 しみを引き起こす ことは、十分に理解できるだろう f25)。 ほぼ二年間近 く続 くこの精神的危機 のなかで、マラルメは 日常世界 とは 異なる世界を見出 したとい う。1866年 7月 13日 付 のカザ リス宛書簡では、 この危機 のなかで「僕 は『 美 しいもの』を見出 したのだ」(M」 hrm6,1995, 310)と 述 べ られている。そ もそも虚無 との出会 いが美的効果の追求の結 果であ つたことを思えば、虚無 と美 との結びつ きは不 自然 なことではな い。む しろ卑俗な事物 を離れ、詩句 の響 き合 う美的世界 こそ、マラルメの 求めた詩的世界だ つたとい えよう。こうして事物 の実体的模倣ではな くむ しろ詩句の関係性 によって激茫たる美的世界をつ くりあげ るこの詩作 は、 後 に「 象徴主義」 と呼ばれ る運 動へ と展開 してい く (%)。 個物の融解 に美 を認め るポーの美意識は、マラルメを通 じて19世 紀末の詩人たちに継承さ れてい くので ある (")。 Descartes,Ren6,1644:デ カル ト 『 哲学原理』桂寿一訳、岩波文庫、 1978年 。 Diogenes Lacrtius,L市 es of Eminent Philosophcrs,1925:English transiation by R,D, Hicks,vol.2,Ъ e Loeb Ciassical Library[デ イオゲ ネ ス ・ ラ エ ル テ ィオ ス『 ギ リ シ ア 哲 学 者 列 伝 』 下、 加 来 彰 俊 訳 、 岩 波 文庫 、 1996年 ]. 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Cο ″ ι た7ο お ψ′ ,ed,,James A.Har」 げE´レ ′ArJ4″ ル ι son, 17 vols.,AMS Press,New York. 一 ″rbι ,ed,,John Ward Ostrom,Gordian Press,1966. ,1966:rみ ιttα ″rsゴE4g′ ′ハ″α ′ σ cた ノ〃ο あ げE“レ ′A′ ′ ´ ″Pο ι ― ― ,1978:Cο ′ ,ed。 ,1ヽ omas 01live Mabbott,3vols., Massachusetお ,ne Belknap Press of Harvard U P. 注 (1)こ の点については、拙稿「ポー とポー ドレールにおけるイ マジネー ション概 念」 、 『 美学』第 48巻 3号 (第 191号 )、 美学会、1997年 12月 、pp.13‐ 24;「 ポー ドレールにおける詩画比較論一一ポーか らの思想的影響を中心に」 、 文芸学研 『 究』第 2号 、文芸学研究会、1999年 3月 、pp.74-102を 参照された い。 (2)ポ ーか らの出典は、資料がもつとも充実 しているハ リソン版を主に用い、巻 数、ペー ジ数を示す (特 に誤解され るおそれのない場合 は、巻数 の表記を省略 する)。 マボ ッ ト版か ら引用する際 には、略号 (M)を 付記 する。書簡はハ リ ツン版 vol.17を 用 いず、もつば らOstrOm編 のものを利用する。なお評論の題 名はおお よそのものである。 この一 篇は詩人テニソンの韻律の技巧 を賞賛す る趣 旨の ものたが、その文章 の原形は、テ ニ ソンに関 してではな く音楽や歌について論 した 1839年 12月 の モ リス評 (1849年 4月 の「 マー ジナ リア」に転載 〔 XVI,136‐ 141〕 )に 見 るこ とがで きる。なお、先に挙 げたロングフェロー 評で も、諸芸術のなかで特 に音 楽が高 く評価 されている (xI,74‐ 75)。 いわば地上的な具象性からもつとも縁 遠い音楽が「 天上の美」に近 い ものと して評価 され るのである。他の芸術 ジャ ンルについてポーが どのように考えていたのか、具体的にはよくわか らない が、具象性 を弱め、統一的な美的効果を強めるような作 品を求めていたであろ うことは想像に難 くない。 ロングフェロー評でも、 「 天上の美」を求めずにおれない という熱情が「 人間 本性の不死な る本質」に基づ くとされている (XI,71)。 ここで扱 う文献は、モアの Ell“ ′ ′ 枡ο ″物 ″最終部分 (二 章分 )を 彼 ″Sた ″ 自身が英訳 したもので、後述するグランヴィルの論文をモアが出版 した際に付 け加え られたものである。モアの思想 については、特にア レクサン ドル・コイ レ『 閉 じた世界 から無限宇宙へ』、横 山雅彦訳、みすず書房、1987年 、pp.89lolを 参照 した。 ' 当時の構成的懐疑主義についてはヘ ン リー・G・ ヴアン・レー ウェン「 確実性 (17世 紀思想 にお ける)」『 西洋思想大事典』 1、 平凡社、 1990ヽ pp・ 363‐ 370参 照。なおグランヴィルの思想については、バ ジル・ ウィレー『 十七世紀の思想 的風土』深瀬基寛訳、創文社、195&pp.204‐ 245に 多 くを教 えられた。 この言葉は、た とえばデ ィォゲネス・ラエルテ ィオス『 ギ リシア哲学者列伝』 に見 ることがで きる(Diogencs hertius,IX,72)。 ただ しロエ ブ版で `in と英訳 されてい る箇所は原語では 'こ the well' レ βυ 00'(「 深淵のなかに」)で あ り、厳 密にはデモク リ トス 自身 の ことば と一致 していない。ロエブ版でも 「井戸 のな かに」という訳が慣用表現 に倣 つた ものたとの註釈が施されてお り (485)、 グ ランヴイル もまたその慣用表現に倣 つたものと考 えられる。 原語 とのこの不― 致は英訳に伴 う問題ではな く、すでにラクタンテ ィウス (Lchnlus,245/50‐ 当該箇所 を羅訳 した ときに `in 325 AD.)が ルs″ ′″ ″ “ “ ",chap.27で puteo'(「 井 ″″S′ Dσ 戸 のなかに」)と 訳 してい るとい う (H.G.Huebner,Dれ r″ ωL“ ι 'お ι ″,vol.4,18o3〔 rpt, み″ωψあ′″″b″ ルι "′ “ メールシュ p.470)。 ポーも トレームヘの降下」の 3ケ 月後、ウィルマー 「 g″ α ′ おο ″ο′ ″ κ ″″りヵ翡ι ,a電 ″´ 1981〕 評 (X,189)な どで この表現を用いている。 このエ ピグラムが用 い られている小説「 メールシユ トレームヘの降下」は、海 に生′ した大渦巻にのみ こまれそうにな りなが ら生還 した船乗 りの物語である。 ェピグラムの内容がその大渦巻 と対応 していることは、容易に推察で きる。以 上のことを念頭に置 いて この作品を読むな らば、この小説 が単なる冒険物語で はな く、神 の創造 した世界の不可知性、および死に直面 した極限状況 を描いた 作品であることに思い至るたろう。なお短編小説「 ライジーア」では、主人公 ライジーアの眼がデモクリトスの井戸よ りも深 いと形容されている (II,251)。 この作品の主人公ライジーアも、死の直前に このグランヴィルのことばを口 に している (258)。 その後、亡 きライジーアは強烈な意志によつて瀕死状態の 女 (語 り手の再婚相手 )の 身体 に憑依 し (浸 透 し)、 阿片 のフアンシーに耽溺 する語 り手の前で復活するのであ る。フアンシーによる異世界の瞥見 という問 題が、意志 の身体への浸透の問題 と絡み合 って いるこ とは明 らかで ある。デモ クリトスの井戸よ り深いと形容され、ライジーアの眼が、彼女の復活に際 して もつとも印象的に語 られているこ とからも、ライジーアが死後の世界 とこの世 とを結びつける存在 として構想されていることが理解で きよう。 (10)ポ ーは 1840年 1月 に発表 した「本能 vs理 性一―黒猫」(“ Inshctvs Reason― 一 A Black Cat")と い う短文のなかで、サンゴチ ユウが天災から未然 に身を守 ることや、蜂が強度に優れた幾何学的な巣を作 ることなどの事例 を挙 げて、動 物の本能 が一般に考 えられているような「 低次の理性」ではな く、む しろ「最 「身 高次の能力」であるとい う見解を示 している (M.479)。 いわば本會日とは、 体 の器官を介 さず、直接的に動物 の意志に働 きかける神的な精神 (sPidt of thc Ddty)」 だ というのである (479)。 そ してポーは、人間の理性 の方 がそ うした 動物 の本能 よ りも活動範囲が広いとはいえ、先見性 や正確さにおいては劣 ると さえ述 べてい る (480)。 劣等視 されがちな動物の本能に神的 な精神の働 きを認 め、逆 に理性の限界を指摘 するこの主張は、神的な働きの浸透性、および理性 へ の過信に対する批判 とい うポーの思想を如実に示 したもの といえよう。同様 d の記述は短編 小説「 シェエ ラザー ドの千二夜物語」(“ The nOusand_and‐ Se∞ ■ Tale of Sheherazade'',1845)に も見 ることがで きる (VI,94)。 (11)ポ ーがエピクロス哲学を単なる狭義 の唯物論 とは考えてお らず、む しろ精神 的な者学 と考 えて いることについては、序で挙 げた「 アルシフロン」評 (X,70) 参照。 (12)『 ユ リイカ』(xVI,266)参 照。その初期構想はすでに「モル グ街の殺人」(“ 獅 e Murdettin the Ruc Morgue''11841)の なかに見 ることがで きる (Ⅳ ,155)。 (13)Sidney E.Lind,“ Poe and MesmeJsm'',PyIIA,62,1947,pp.1077‐ 1094. (14)こ こでい うタウンシ ェン ドの著作 とは、ル σおれMasrpl`ガ sIPt,(London,1840; Boston,1841;New York,1842)の ことと考え られ る (Lind,の .`j′ .,p.1086)。 (15)ポ ーは「 メスメ リズムの啓示」のほかにも、「 ギザギザ山物語」 the Ragged Mountains'',1844)、 (“ A Tale of 「 ヴアル ドマール氏 の症例の諸事実」(“ The Fac、 in the Case of M.Valdcmar'',1845)と い う、 メスメ リズム を扱 つた短 編 小説 を書 いている。 うな一文を見 ることがで きる。 (16)1849年 6月 の「 マー ジナ リア」には、次のよ、 「 いかなる哲学体系であれ、それが誤 りであるといかに容易に証明され るかを 見 るのは笑 うべ きことだが、しか しいかに念入 りな体系であれ、それが真であ るとさえ思えないのたとわかるのは嘆かわ しい ことではないたろうか」(XVI, 164)。 また短編小説「 モノスとウナとの対話」 (“ The Colloquy of Monos and Una",1841)で も「体系化、あるいは抽象化 にと りつかれ」た人間が「 知識」 によつて 自然 を支配 しようとして いることが批判されていた。ここに も、体系 的な思考や知識 が人間の恣意的な産物 にすぎない とするポーの基本的な見解を 見 ることがで きよう。 (17)短 編小説「ハンス :ブ フアールのた くいなき冒険」(“ Ъ e ture of One Hans Pfaall''11835)に Unparalleled Adven― 「人間 とはまさ は、次のような文章がある。 に習慣の奴隷であ り、人間の慣例上の多くのことで本質的に重要だと思われて いるものでも、じつは単に習慣的にそう見な しているからそう思われるにすぎ 」(II,83) ないのだと、私は思いめ ぐらせた。 (18)ポ ーは、ビールフエル ト男爵なる人物の「 フイクシヨンによつて思想を表現 する技芸 ガ (Z ttrr′ '鋼 レ "″ ο ″)」 rasP″ ″ sι σ SPar′ ′ ′ ′ ′σ に多大 な関心を示 してい 1846年 3月 の XI,74〕 、 「 マージナ リア」〔 xVI, る(序 て挙げたロングフエロー評〔 91〕 )。 (19)単 に怪奇趣味の作品と思われるポーの小説も、こうした観点から見直す必要 ― ο 力 ισ′ ‐ィ′ があるだろう。1840年 にポーが自作を集めて出版 した短編集 (物 ′ ι ωttι )の 序文では、これらの作品が描 く恐怖が、ドイツ文学に ′A′ ´ ras`lta′ ″ 「魂の恐怖」であると述 べ られて 見られるようなこけおどしの恐怖ではな く、 いる (I,151)。 (20)五官を脱した特殊な状態において事物の具象性が融解して知覚されることに ついては、特 に短編小説「 モノスとウナとの対話」の後半部分を参照 されたい (IV,206-212)。 そうした記述 も、ポーの個人的体験に依拠 していると考えられ よう。 (21)購 着 を含む と考え られ る「構成 の哲学」においても、これ らの技法論は真摯 、 な考察に基づいて書かれたものである。拙稿 「 ポーの 『 構成 の哲学』について」 『 文芸学研究』第 4号 、文芸学研究会、2001年 3月 、pp.16‐ 50参 照。 (22) マラルメの思想については、特 に菅野昭正『 ステフアヌ 。マラル メ』中央公 論社、 1985年 を参照 した。 (23)こ のように考えるとき、懐疑主義 と原子論が西洋の思想 的伝統 に とつてかな り異質な思想 であると考えられ よう。ディオゲネス・ラエルテイオ スによる と、懐疑主義の創始者た るピユロン (360-270B.C.)は 、イン ドの「 裸 の行者 た ち」 や ベ ル シア の マ ゴス 僧 との交 流 か ら懐 疑 主義 思 想 を得 た といい (Diogencs herlius,IX,61)、 原子論者のデモク リ トスもイン ドの「裸の行者た ち」 と交流 した という (Ⅸ ,35)。 当時のイン ドにおいて、事物の実体性 を認 めるウパニシャ ド哲学が批判され、相対的な関係性 によって現象を説明する思 想 (仏 教 の縁起説や、ジャイナ教の原子論)が 説かれていたことを考え合 わせ るなら、東か ら西への思想 的影響について も推察 で きそうに思われるが、浅学 に して、その可能性を論 じた専門研究を眼に した ことはない。 (24)西 洋思想史にお いて異端視 されて きた「無」の思想の伝統、およびその仏教 思想 との照応 に関 しては、 MinOru Nambam(南 原実),“ Dic ldee des absolutn Nichtsin der deulschen Mystik und seine Entsprechungen im Buddhismus'',in A′ タ″Bι gr摯 ● カル ′ c力 た,Bd.6:1966,pp.143-277参 照。 =esc力 (25)個 物がそれ固有の個体性 (本 質)を もつ と考えるのか否かについて類型論的、 比較文化的に論 した恰好の研究書 と して、井筒俊彦 『 意識 と本質―T精 神的東 洋を索めて』、岩波書店、1983年 があ る。 (26)実 体概念か ら関係概念 へ と移行す る世界認識 の転換は、その後の西洋思想史 を考察するうえても注 目で きよう。ただ しその思考の転換が西洋において通念 を打破するものであったにせよ、その新 しい世界観が所詮は一つの虚構 として 成 り立つ世界観にすぎず、一時代の所産 としての性格を少なか らずもつている ことにも留意 したい)。 (27)個 物の融解に美を認める美意識は、仏教 の影響を受けたシ ョーベンハ ウアー やその思想的影響下にあるヴァグナー にも見 ることができる。また東洋的伝統 を受け継 ぐ日本美術が 19世 紀後半の西洋文化 に受容された ことにも注 目でき よう。周知の ごと く当時の 日本人は、明暗法や固有色に拘泥 せず、図と地 とが 一体 とな つた色面構成を作 りあげた り、輪郭の曖昧な墨絵を描 いたりす ること に何の抵抗 も感 じていなかつた。 描写対象の個物性 に対するそのこたわ りのな さが、西洋芸術に衝撃を与 えたのである。この 日本美術の特性 を考察す るうえ て、やは り歴史的な仏教 の影響を看過 することはで きないだ ろう。私見に よれ ば、仏像信仰 として受容 した仏教が思想的に深化 し、無常観 や幽玄論、水墨山 水画を生み出 した中世が、この問題に関 して重要であ るように思われ る(も ち ろん浮世絵 のポ ツプアー ト的な性格 については、仏教的 ニ ヒリズムに基づ く中 世的「憂世」から近世的「浮世」へ の転換についても考察せねばな らないが)。 個物 の融解 と新奇な美の問題を日本中世文学に即 して考察 した論者 としては、 拙稿「藤原 定家の 『 歌 つ くり』と 『 歌詠み』について一 、 U造 と表現 との相違」 『 待兼 山論叢』第 29号 美学篇、1995年 、pp.27‐ 47を 参照 されたいも
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