Navyany

Navyany
めなにおける S
a
b
d
a
b
o
d
h
aの構造分析
一 一S
aktivada研究序説一一
官
宥
坂
洪
序
Nyaya学派の言語論はp 古来,正しい認識を得る手段 (pram拘 a
) のーっとされる s
a
b
d
aの問
y
a
y
a
s
u
t
r
a1
1
1に規定したこの学
題の関連のもとで論じられてきた。学派の開祖 Gautamaが N
派の十六の論議項目を,
G
a
n
g
e
s
a(
1
3
世紀)はその著 T
a
t
t
v
a
c
i
n
t
a
m
a
t
:
liにおいて,四つの p
r
a
-
,すなわち p
r
a
t
y
比和, anumana
,upamana
,
品a
b
d
aを主題とする章 (
k
h
a
l
J
C
.
l
a
) のもとに再
m初 a
構戎し直すとともに,
Navyany
亘y
a と呼ばれる術語体系および技法の基礎を確立した。 s
a
b
d
a
-
l
)aによって得られる結果としての認識を s
孟b
d
a
b
o
d
h
aといい,これは他の prama
l
)aによ
prama
って得られる認識と区別される。
s
a
b
d
a
) とは何か」あるし、は「正しい認識を得る手段としての言葉とはどのようなもの
「言葉 (
,また「言葉の対象は何か Jr
言葉と表示対象との関係は常か無常か」といった問題は学派成
かJ
dabodhaそのものに
立の当初から論じられてきたがp 言葉によって得られる認識,すなわち担b
江戸y
aの時代に入ってからのことである。
関心が払われるようになったのは Navya
品b
dabodha とは,何よりもまず,文章の意味の認識
(
v
a
k
y
a
r
t
h
a
j
n
a
n
a
) のことである。この
v
i
!
;
>
a
y
a
) は Navyanyaya独特の言語 (
t
e
c
h
n
i
c
a
ll
a
n
g
u
a
g
e
) によって記述されうる o
認識の内容 (
したがって,
哲学上の概念の定義づけと検討をその主要な研究課題とする Navyanyaya学派に
d
a
b
o
d
h
aの記述方式は極めて重要な方法論的役割を荷うもので、あった,と言うこと
とって p 品 b
が出来る。
aghunathaS
i
r
O
f
f
ial)iの Nanvada
,Akhya
・
言語論を扱った Navyanyaya学派の論書として, R
t
a
v
a
d
a,J
a
g
a
d
I
s
aの ふb
d
a
s
a
k
t
i
t
r
a
k
a
s
i
k
a
,G
adadharaの 門 的'
a
t
t
i
v
a
d
a
,S
a
k
t
i
v
a
d
aなどがある。
adadhara (
1
7
世紀)の著作において, Navyanyayaの精鍛を極めた分析的技法は完
とりわけ, G
adadharaは Raghunathaの T
a
t
t
v
a
c
i
n
t
a
m
a
l
)i
d
I
d
h
i
t
iに対する大
成の域に達したといってよし、。 G
の文体
部の注釈 GMMlJを著した人として最もよく知られているが,典型的な Navyanyaya
で書かれたテキストを近代語に移しかえるには多くの技術的な困難がともなし、,これまでのとこ
ろ,彼の著作に関する近代的な研究は皆無である。
adadharaの S
a
k
t
i
v
a
d
aに照準を合わし,同テキストを理解するために
本稿はp とりあえず G
必要と思われる基本的な幾つかのことがらを論じ附随して筆者のテキスト解釈上の方法を示L-.
時
3 ー
それにもとづいて,同テキストの一部の和訳解説を試みようとしたものである。
1
.
Vi
品
v
a
n
a
t
h
aの学説綱要書 Bha
手
a
p
a
r
i
c
c
h
e
d
a (別名 K
a
r
i
k
a
v
a
l
めには,話.
b
d
a
b
o
d
h
aを得るプロ
セスが次のように記されている。
「語の知が主原因であり, 語の意味の認識(=想起)がそこにはたらく作用である。その補助
国は表示機能。a
k
t
i
) に関する知である。そうして生じた果が言語認識(品bda
加制で
2
る
。J
聞き手が話し手の言葉を聞くとし、う場面を想定してみよう。聞き手には,まず個々の語 (
p
a
d
a
)
が直接に知覚される。これが第一段階としての「語の知」である。次に,聞き手は知覚した語の
意味を想起する。そこで必要とされるもの(補助因)は,聞き手が語と意味との関係すなわち語
の意味表示機能(品北 t
i
)を知っているということである。意味の想起に引き続いて,第三段階目
に果として生じる認識が品b
dabodhaである。 G
a
f
t
g
e
s
aは第四段階として, そうした認識を得
。
)
たという自覚 (
a
n
u
v
y
a
v
a
s
a
y
a
) を掲げてし、る。
ここで留意すべき点は,品b
dabodha とは語 (
p
a
d
a
) の認識でも語の意味の認識でもなく,す
でに述べた通弘文 (
v
a
k
y
a
) の意味 (
a
r
t
h
a
) の認識 (
b
o
d
h
a
) だということである。語そのも
のの認識は聴覚等による直接的な認識 (
p
r
a
t
y
a
k
担j
加 n
a
) であり,次の段階での語の意味の認識
は想起 (
s
m
a
ra
J
J
.a
) にすぎなし、。幾つかの語が表示するそれぞれの意味を理解したうえで,一つ
の文章から一つのまとまった意味を得るというのは,
知b
daprama
I
)
.
aが p
r
a
t
y
a
k
相等の他の
それらとは異なった認識のあり方である。
prama
1
)
.aと区別される根拠は,まさにこの点にある。つま
り,“X,Y,Z
" と単語が並んた文章からくX,y,z
> とし、う意味が個別に認識され,最後にくx-
y
z
>とし、うように個々の意味が結びついた全体としての意味が認識される。これが品bdabodha
であり,別名 a
nvayabodha ともいわれる。その理由は,品bdabodha とは,くx-y
ーののよう
な,個々の意味の結合関係 (
a
n
v
a
y
a
) 認識 (
b
o
d
h
a
)のにほかならなし、からである。こうした認
④
識内容を構成する個々の意味の結合関係を記述する仕方こそ, Navyanyayaの分析的技法と称す
るものである。
金
9
p
a
d
a
)
J の定義である。語の本性とは何かという問題
ここで,もう一つ留意すべき点は「語 (
③
は,古くから文法学派の聞で議論され, s
p
h
o
t
a説とし、う独特の言語本性論を展開させてきたが,
v
a
r
1
)
.
a
)であり,
今はこの問題には立入らなし、。 Nyaya学派によれば,語とは単なる一連の音韻 (
a
k
話a
)の属性 (
g
u
1
)
.a
)としての音,つまり空気の振動以外の何
人のロから発せられた語は虚空 (
物でもなし、。 Nyaya学派は, s
p
h
o
t
aのような語の本性を想定することなく,そうした言語音と
しての語に直接的な意味表示機能があるとしている。そして,
Xという語(例えば, r
牛J
)が zと
いうモノ(例えば,牛)を表示するというように, Xとzとの聞を,ごく単純に直線的に捉えてい
る。厳密に言えば, Xという語は zのグラス
他)
{
X
lX2……ゐ}の中のどのメンバー (
j
a
t
i
v
i
s
i
託avy
誌面)
をも表示するわけである。 こうした個々のメンバーは, 外界に実在する事物ないし事態であり,
- 4-
それがそのまま語の意味である。逆に言えば,このように意味を表示する単位が語 (
p
a
d
a
)であ
mirnimum m
e
a
n
i
n
g
f
u
lu
n
i
t,
ると言い得るわけで, 結論的には, 単一の意味を表示する単位 (
i
ム b
o
u
n
dmorpheme) が Navyanyaya学派の考える語 (
p
a
d
a
) である。
これに対して,純粋に形態面からみて文構成の最少単位を p
a
d
aとみなすのが Pa
D
.
i
n
iをはじめ
D
.
i
n
iはサンスグリ
とする文法学派の見解である。 Pa
s
?
τ
雪
?
a
n
令
(
γ
ト語の全単語を, 格変化語尾を有する語
叩制
批t
刷
した。しかしながら,意味表示という観点に立てば,変化語尾それ自体にも意味および意味表示
機能があるわけだから,語幹と変化語尾とから構成される一語は,
P
拘i
n
iによれば一つの p
a
d
a
(
f
o
r
m
a
lu
n
i
to
rf
i
n
i
s
h
e
df
o
r
m
) であるが, Navyanyaya学派によれば二つの p
a
d
aである。さ
⑧
らに, tadaの集合が文である Jという定義により,それは一つの文(哨a
) であるというこ
とになる。
⑩
Gautamaの め!
a
y
a
Su
t
r
a2
2
6
0(
t
ev
i
b
h
a
k
t
y
a
n
t
a
l
)
.p
a
d
anI)は明らかに P詞 i
n
iの p
a
d
aの定
⑪
義にもとづくものであり , Nyaya
b
.
均 ya の説明もこれに準じてし、る。しかし, V
i
s
v
a
n
拍 aの
Gaut
仰
,
誠t
r
a
v
r
t
t
iでは,
i
p
a
d
aとは表意機能を有するもの J(
可
V
何r
t
t
i
r
m
捌
立
n
し直されており札, 同様の定義は V
均'
a
.
必
i
ι
s
勾
手i
必
:
k
a
s
;
i
露
t
t
r
a2
之
2
一
2
担1に対する 8
弘ar
p
.
k
a
r
aMi
恰
品r
aの E
り
争G
郎s
k
a
r
a
G
£
2
)とみられる。
にも「旬
p
柑
a
d
aとは表意機能を有する一連の音韻(令s
a
拍a
剖刷
k
匂
E
e
伽
伽
剖
t
t
前
a
v
詞
a
d刊v
a
町
叫
r
削
伐
1
抑
1
I
早
)
.
1
協
a
抗
刷
凶
t
刊
v
a
r
p
.p
詞a
試t
V
a
羽i
品
釘
v佃
a
n討
a
t
h
aの めl
a
y
a
s
i
d
d
h
a
n
t
a
m
u
k
t
a
v
a
l
i(
B
h
a
$
a
t
a
r
i
c
c
h
e
d
a に対する自注),
同じく V
あるし、は
Ma
がお仰, J
a
g
a
d
i
s
aの Tarkamrta
,An
na
r
p
.
b
h
a
t
t
aの T
a
r
k
a
s
a
r
r
t
g
r
a
h
a とし、った後代の学説綱要
蓄には,
⑭
いずれも i
p
a
d
aとは表意機能を有するもの J(品紘t
a
r
p
.padam) という定義が採用され
ている。
a
d
a を意味論的観点から定義するようになったのは,恐らく Gange旬以降のこ
このように p
とであり, そのことは G
ange
伺が v
akya (文)を「限定要素をともなう意味を表示する言葉」
⑮
(
v
a
k
y
a
t
v
a
r
p
.c
av
i
均t
a
r
t
h
a
p
a
r
a
句
.
b
d
a
t
v
a
m
) と初めて定義した事実によっても裏づけられるが,
それはまた実際に品b
d
a
b
o
d
加を分析し記述するための意味論的分析言語とも言うべき t
e
c
h
n
i
c
a
l
l
a
n
g
u
a
g
eを創案し発展させた Navyanyaya学派の学説上の必然的な成り行きであったと言えよ
、
炉
う
。
2
.
話b
d
a
b
o
d
h
aとは“X,Y,Z
"
と語 (
p
a
d
a
) が並んだ文から得られるそれぞれの意味である X,
y,z
が結合した関係の知であるとわれわれは了解したが,
厳密に考えれば,このあ y,
zはそれ
a
d
a
r
t
h
a (語の表示対象)であるが,それらを結びつける関係そのものは p
a
d
a
r
t
h
aではな
ぞれ p
いのである。では,このように文章の中のどの語も表示していないものを人はどうして認識する
d
a
b
o
d
h
a は如何にして可能かという問題が次に起ってく
ことが出来るのか,言い換えれば,語.b
る。現実には,われわれが文を読んだり聞いたりして,それを理解した時点、で品b
d
a
b
o
d
h
aが成
- 5ー
一一一
立しているのだから,問題というのは,担.
b
d
a
b
d
d
h
aの成立の条件と,
成立に至るメカニズムを
どう説明するかということである。
dabodha成立の条件であるが,
まず9 品b
Gangesaはそれを四つ掲げ, それぞれ論議 (
v
a
d
a
)
⑮
を展開している。その第一はp 先行する p
adaが後続する padaと相互依存関係 (
a
k
a
n
k
;
;
a
) にあ
e
v
a
d
a
t
t
a
l
)g
ramarpg
a
c
c
h
a
t
i
" とし、う文における‘gramam' の語幹‘g
r
a
m
a
'
ること。例えば,“d
f
こ
は
,
目的性 (
k
a
r
m
a
t
v
a
) を表わす語尾‘ a
m
' との間にこの相互依存関係が成立している, とい
adaが表示する意味
うように,これは文法上の語の配列に関する条件である。第二は,個々の p
y
o
g
y
a
t
a
) があること。例えば,“v
a
h
n
i
n
as
i
負c
a
t
i
"(
1火を撒く J
)と
し
、
相互の間に連関可能性 (
う文は文法的には誤りではないが,火とそれを撒くと L、う動作とが連関する可能性はなし、から,
dabodhaが生じる余地はない。第三には,各々の padaの問に接近性 (
a
s
a
t
t
i
)がある
そ こ に 品b
n
a
y
a
" という文を,‘g
h
a
t
a
'‘
a
m
'‘
a
n
a
''
y
a
'と padaに分解して,それ
こと。例えば,“ghatama
a
d
aを介して発したならば,
らを一時間おきに別の p
そこに接近性がなし、から,聞き手に姐凶a
-
t
a
t
p
a
町a
)であり
bodhaは生じないで、あろう。第四は,話し手の意向 (
9
これを文脈 (
p
r
a
k
a
r
a
l
.
1a
)
等によって理解することである。例えば,“s
aindhavama
n
a
y
a
"(
I
s
a
i
n
d
h
a
n
a::r:持ってこしリ)と
a
i
n
d
h
a
v
a
' という語には「塩」と「馬」の両義がある。これが食卓で述べられ
いう文における‘ s
た場合,話し手の意向がどこにあるか明白であるが,聞き手が話し手の意向を無視すれば,誤っ
た 品b
dabodhaが生じないとも限らない。
kank
詞と y
o
g
y
a
t
aと a
s
a
t
t
iはp 既に Mimarp語学派では
以上の四条件のうち3 最初の三つ, a
⑫
文義理解のための前提条件として自明のこととされていたようである。 Veda解釈学を学派的使
命とする Mimarpsa学派では,
文章の意味認識のあり方は早くから問題とされてきた。 しかし,
Nyaya学派の側から文章の意味認識に関わる問題を初めて批判的に取りあげたのは, A
.D
.8
9
0
⑬
年頃の J
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aである。彼はその著 Nyayama
匁i
j
a
r
iの中で, Mimarpsa学派および文法学
(
!
?
l
I
派の言語論を詳しく紹介し,それらを批判している。その中に紹介されている Mimarp
語学派の
B
h
a
t
t
a派が主張する a
b
h
i
h
i
t
a
n
v
a
y
a
v
a
d
aと Prabhakara派が主張する a
n
v
i
t
a
b
h
i
d
h
a
n
a
v
a
d
aとは,
⑫
言語認識のメカニズムを説明する二つの有名な理論である。われわれの S
a
k
t
i
v
a
d
aにおける M
i
-
marpsa批判もこのこつの理論が予想されているから,ここで簡単に触れておこう o
~
⑧
まず, P
rabhakara派の a
n
v
i
t
a
b
h
i
d
h
a
n
a
v
a
d
aとは,文学通りには「語が結合し合った意味を表
rabhakaraによればp 文中の各語はそれぞれ個有の意味を表示
示する」と考える理論である。 P
l
)
.aとしての旬.
b
d
aを Vedaに限定する
すると同時に,意味相互の関係をも表示している。 prama
n
j
u
n
c
t
i
v
es
e
n
t
e
n
c
eに限るのであって,そうした文によ
この派にとって,有意義な文とは実は i
k
a
r
y
a
) につながるものである。
って表示された意味相互の関係は究極的にはある種の結果 (
こ
れを詮じつめて言うならばp 言語の単位は語ではなく,一つのもたらされるべき結果を表現する
文である, ということになる。例えば,子供は年長者達が話す言葉を聞いていて,その言葉が必
ず決まった行為と結びつくのを知って,やがて文義を理解するに至る。この例が示すように,文
全体の意味了解がまず起こり,
a
n
v
i
t
a
a
r
t
h
a
) を語が表示している
その後に結合し合った意味 (
←
6
ー
こと (
a
b
h
i
d
h
a
n
a
) が確認される,
というのである。 S
a
l
i
k
a
n
a
t
h
aは P
r
a
b
h
a
k
a
r
aの B
r
h
a
t
iの釈
⑫
r
語は単独では如何なる意味も表示することはなし、」とすら述べている。
⑧
これに対する B
h
a
t
t
a派の a
b
h
i
h
i
t
a
n
v
a
y
a
v
a
d
aとは, r
表示された意味同士が結合し合う」と考
R
j
v
i
m
a
l
aの中で,
える理論である。これによれば,文中の各語はそれぞれ個有の意味だけを表示する。こうして表
a
b
h
i
h
i
t
a
a
r
t
h
a
) 相互の関係 (
a
n
v
a
y
a
) が理解されるのは, 意味自体にその力
示された意味 (
{
s
a
k
t
i
) が潜んでいて,それは前述の三条件がそろったときに発現する,というのである。
@
この二つの理論は,
VaC
部 p
a
t
i
m
i
s
r
aの T
a
t
t
v
a
b
i
n
d
uの中でも紹介されている。彼は五種の言
語理論を紹介 L,五番目に B
h
a
t
t
a派の説を定説として掲げている。 Nyaya学派の方法論的見地
からすれば, Nyaya学派の立場は大綱において B
h
a
t
t
a派の a
b
h
i
h
i
t
a
n
v
a
y
a説に近いといえるが,
j
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aはこのし、ずれの理論をも手厳しく批判し,独自の説として, t
a
t
p
a
r
y
a
v
a
d
aを唱え
⑧
ている。
t
a
t
p
a
r
y
aとは話し手の意向ないし意図 (
v
a
k
t
u
J
;
ti
c
c
h
a
)のことであり,既に見た通り, Ga
白g
e
s
a
はこれを品b
d
a
b
o
d
h
a成立の条件として加えている。前述の四条件は, V
i
s
v
a
n
a
t
h
aとか Anna
r
p
.
-
b
h
a
t
t
aにも受け継がれており, Navyanyaya学派の定説とみてよいが, J
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aはそれら
とはやや異なった考えのもとで,この t
a
t
p
a
r
y
aの理論を提唱した。彼によれば,
語はその表意
機能によって直接的な意味表示 (
a
b
h
i
d
h
a
n
a
)を行うのであるが,語が文中で用いられた場合には,
a
t
p
a
r
y
a
s
a
k
t
i,つまり「意図力」ともいうべき機能を発揮し,こ
もう一つの別の機能,すなわち t
れが語義相互の関係の理解をもたらす, とした。
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
a以後, Nyaya学派の聞で,この t
a
t
p
a
r
y
a
s
a
k
t
iなるものがそのままの
ただし, J
形で承認された形跡はなし、。また,批判の対象ともならなかったようである。しかしながら,こ
のt
a
t
p
a
r
y
a
伺k
t
iは G
a
d
a
d
h
a
r
aが V
yu
司
p
a
t
t
i
v
a
d
aの冒頭に記すところの s
a
r
p
.
s
a
r
g
a
r
n
a
r
y
a
d
aと,術
⑧
語こそ違え本質的には寸分も達わないものである。その意味で, J
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aが Nyaya学派の
立場から文義理解のあり方について初めて見解を表明したことは意義深 L、。しかも, G
a
n
g
e
s
aが
t
a
t
p
a
r
y
aを 担b
d
a
b
o
d
h
a成立の一条件として加えた事実をもってしても,少なくとも J
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aが V
a
c
a
s
p
a
t
i
m
i
品r
aを一歩進めて‘t
a
t
p
a
r
y
a
'の概念を導入した意義は看過すべきでな L、。も
っとも, J
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aの著作においては,先述の p
a
d
aの定義は明確にされておらず,したがっ
d
a
b
o
d
h
aの内容に立入った議論は,他の学派同様,この時点ではまた現われていない,と
て,鈎b
いうことを付言しておく。
3
.
さて,認識を得る手段が言葉であれ,あるいは直接知覚であれ,認識の内容は常に一定の構造
を持つ,と N
avyanyaya学派の人たちは考えた。 し、かなる認識も,
それが明瞭な像を結ぶもの
であれば,その認識には必ずただ一つの焦点とそれを限定する種々の要素とがある。これが大原
則である。
一7 ー
一一一一十一一一一一一一一一一一
杖を持った人を見て,その対象に関する認識を得たとする。その場合,認識の焦点は人であり 9
これを限定する要素は杖である。その限定関係は物理的な接触 (
s
a
q
l
y
o
g
a
) である。同様にして,
壷を見て,その対象に関する認識を得たとすれば,個物としての査が認識の焦点であり,査を壷
たらしめている一般性としての壷性 (
g
h
a
t
a
t
v
a
) が,その焦点の限定要素である。この場合の限
s
a
m
a
v
a
y
a,和合)である。逆に言えば,こうした限定要素ならびに限定関係を伴
定関係は内属 (
わない事物が単独で認識の内容となり得ることはなし、。もっとも p 一つの確たる認識が生じる前
段階としての無分別知 (
n
i
r
v
i
k
a
l
p
a
k
a
j
n
a
n
a
)はそのかぎりではないが, Nyaya学派によれば,そ
⑫
れは論理的に仮設されたものに外ならず9 記述の対象とはなり得ないものである。
査を見た人が「ここに査がある」と話したとしよう。この文を聞いた人は,一つの認識すなわ
d
a
b
o
d
h
aを得る。その場合,この文が予想する限りの要素,
ち品b
つまり個物としての萱p その
属性としての壷性,査と壷性との間の内属関係,査のある場所,その場所と査との間の接触関係p
これらは全て品bdabodha の内容 (vi~aya) となる。この内容は,
大きく分けると一つの焦点と
それ以外の要素とから成札それらを含む全体としての認識そのものは,
Lたがって一つの構造
体 (
v
i
号a
y
i
n
) なのである。
ひとたび,
以上のことがらが N
a
v
y
a
n
y
a
y
a学派によって明確にされると,
他学派でも, 認識
内容を記述する仕方を, N
a
v
y
a
n
y
a
y
aの術語を借りて,それぞれの立場から打ち出すようになっ
d
a
b
o
d
h
aとし、う認識の焦点をどう定めるかということである。
た。ここで問題となるのは,品b
その前に9 ここで筆者の用いる訳語について説明しておきたい。われわれが,
と呼んできたものは,原語では‘ Vl品巴~ya とし、う。直訳すれば,
が,これからは「基相」とし、う訳語を用いたい。これに対して,
r
認識の焦点j
r
被限定要素」とすべき語である
r限定要素」の語は‘vise~alJ.a'
の直訳語としてそのまま用いるが,特に認識の構成要素としての v
i
s
e
与a
l
J
.
aには‘p
r
a
k
a
r
a
'の語
、。この p
r
a
k
a
r
aに対して,
が用いられることの方が多 L
r
表相J とし、う訳語を用いることにした
r
い。「基相 J 表相」はし、ずれも認識の中の一つの相に外ならなし、からであり,また,これらにも
i
s
呂町a
t
a
'を「基相性J
,‘
p
r
a
k
a
r
a
t
a
'を「表相性」 と容易に訳せる利点があるからで
とづいて‘v
ある。
さて,直接知覚の場合は,視覚を例にとれば,まさしく視線の向うところが認識の焦点すなわ
ち基相となる。机上の査を見れば,壷がそうであり,逆に,壷が置かれた机を見れば,机が基相
となる。そして,それぞれ基相以外の要素は全て基相を限定する表相として認識内容を構成する
ことになる。では,文章から得た認識の基相はどこにあると考えればよいだろうか。
d
a
b
o
d
h
aの基相になる。こ
文章の中で第一格(主格)語尾が付された語の表示対象が常に臼.b
a
v
y
a
n
y
a
y
a学派の見解である。それに対して,完全な文章には必ず動詞 (
t
i
n
a
n
t
a
)があり,
れが N
d
a
b
o
d
h
aの基相になる,
その動詞語根が表示する対象が品.b
と主張するのが文法学派である。ま
⑧
た,動詞の人称語尾が表示する対象は志向 (
b
h
a
v
a
n
a
)であり,これが品.bd
a
b
o
d
h
aの基相になる,
とM
i
m
a
q
l
S
a学派では考える。(動詞語尾の表示対象については学派によって見解が異なり, M
i
-
h
a
v
a
n
aであるが,文法学派によれば k
a
r
t
rであり, Nyaya学派によれば k
r
t
i
m
a
q
l
s
a学派では b
- 8一
である。)
“
d
e
v
a
d
a
t
t
a
J
:
lt
a
l
)
<
:
.
I
u
l
a
J
:
p
.p
a
c
a
t
i
"(
fデーヴァダッタが米を調理する J
) という文を例にとって,
この文から得られる品.
b
d
a
b
o
d
h
aの内容を分析してみよう。 Nyaya学派によれば,
第一格語尾
s
u
'が付いた語‘d
e
v
a
d
a
t
t
a
'が表示する d
e
v
a
d
丘
.
t
t
aその人が品b
d
a
b
o
d
h
aの基相となるのである
‘
から,その他の語の表示対象が何らかの仕方で,
その結果を示せば,
これを限定するように記述すればよし、。 まず,
t
a
l
_
1
c
l
u
l
a
n
i
号t
h
a
ベr
i
k
l
i
t
t
i怜 n
a
k
a
p
a
k
a
n
u
k
u
l
a
k
r
t
i
r
n
a
nd
e
v
a
d
a
t
t
時というのが,
この文から得られる品b
d
a
b
o
d
h
aである。
e
v
a
d
a
t
t
a
b
h
i
n
n
a
i
k
a
k
a
r
t
r
k
a
]
;
ltaw
l
.
u
l
a
k
a
r
r
n
a
参考までに,文法学派による記述方法を示せば, d
与pakaJ:lであり, Mima
r
p
.
s
a 学派ならば, d
e
v
a
d
a
t
t
a
b
h
i
n
n
a
i
k
説r
a
y
at
a
l
_
1
Q
.
u
l
a
k
a
r
m
i
k
ap
a
k
a
ka
n
u
k
u
l
abhavanaとするであろう。三学派の記述方式を比較することは, われわれの本題からそ
れることになるので,ここでは Nyaya学派の方式だけをもう少し検討してみよう。
ま
ず
.
, Nyaya学派が示す品.b
d
a
b
o
d
h
aの内容を図式化すれば9 次のような構造として捉えられ
ていることがわかる
talfÇlulani~thaviklittijanakãnukülakrti
図1.
上の囲みが表相 (
p
r
a
k
a
r
a
) であり,下の囲みが基相 (
v
i記号y
a
) である。両者を結ぶ線は,前
者が後者を限定している関係 (
s
a
r
p
.
b
a
n
d
h
a
) を示している。既に述べた通札この三つの要素は
d
a
b
o
d
h
aの内容 (
v
i
$
a
y
a
) である。ところで,
全て,この担b
この表相すなわち限定要素じたい
a
w
;
l
u
l
a
'とし、う p
a
d
a
の中にも各要素の聞に限定被限定関係が含まれている。詳細にみていくと,‘t
が表示する t
a
l
_
1
c
l
u
l
a (米)は,動詞語根、/
p
a
cが表示する paka (調理)の目的であり,そうし
た目的性 (
k
a
r
m
a
t
n
a
) は‘I昭和l
aJn'の第二格語尾‘a
m
'によって表示されているわけだが, r
米
v
i
k
l
i
t
t
i
) をもたらす調理」
を目的とする調理J とは「米における柔化 (
j
a
n
a
k
抵のがある,
調理には能成性 (
ということができる。
i
' が表示する意欲 (
k
r
t
i
) が引き起こすものであるから,
尾‘t
j
a
n
a
k
a
t
v
a
) がある。そして,
ということであるから,
さらに,この調理は,‘p
a
c
a
t
i
'の語
意欲にも能成性 (
a
n
u
k
u
l
a
t
v
a
=
この意欲の所有者がデーヴァダッタというわけである。 このよう
にみると,認識の基相を構成する d
e
v
a
d
a
t
t
aは
,
いわば根本基相 (
m
u
l
a
v
i
s
e
$
y
a
) で、あって,
そ
v緑町a:1).av
i品e
$
y
a
b
h
a
v
a
) あるいは生成関係
れを限定する表相じたいの中にも幾つかの限定関係 (
(
j
a
n
a
l
処j
a
n
y
a
b
h
a
v
a
) が含まれている。 この事実に沿って, 先の図式をより明確に書き直すと,
- 9-
一一一一一一一一一一一一十一一一
一一一一一一
次のようになるであろうの(矢印の方向は生成の関係を表わす。)
(mülavise~ya )
図2
.
これはごく簡単な作図例であるが,この図式方法は, Navyanyayaの分析的言語をその思考の
プロセスおよび枠組みをそこなうことなく提示する最も有効な仕方であると筆者は考える。 N
a-
vyanyayaの Textを記号論理学の手法を用いて再構成することが一部の学者の間で試みられて
いるが,それはそれなりに意義があるとしてもタその重大な欠点は9 インド人の思考のプロセス
を無視してしまうことである。 Navyany
孟y
aの分析的言語は, インド人がみずからの思考回路を
分析し記述するために工夫した t
e
c
h
n
i
c
a
l
l
a
n
g
u
a
g
邑であり,それはまたサンスグリット語の特性
を最大限に生かした人工言語でもあった。したがって,その分析方法がサンスグリット語という
言語の枠を超えてどこまで普遍妥当性を持ち得るかということは今後の課題であるが,
Navya-
nyayaの研究がほとんど未開拓の現状のもとでは,当面の課題は何よりもまず,インド人の思考
のプロセスを忠実に辿って,その思考の枠組みをそこなうことなし現代の読者に理解可能な形
で再現してみせることではないだろうか。
4
.
以上で,話.
b
d
a
b
o
d
h
aの構造についての概略はほぼ明らかになったと思われる。次に9 この構
造を分析するための, Navyanyaya特有のニ,三の術語について説明しよう。
まず,
r
関係J (
s
a
r
p
.
bandh
乱)について。
Nyaya学派が承認している V
a
i
s
e
早i
k
aの体系において
s
a
m
a
v
a
y
a
), 或は具体的な事物間
「関係」といえば,実体と属性などとの聞に存ずる内属関係 (
s
a
r
p
.
y
o
g
a
) である。これらに加えて, Navyanyaya学派では移しい数
相互の物理的な接触関係 (
のs
v
a
r
u
p
a
s
a
r
p
.
ba
ndhaとし、うものを想定する。
そもそも,関係とは二つのものを結びつけるもの (
c
o
n
n
e
c
t
i
n
gf
a
c
t
o
r
)の謂である。物理的な
事物を結びつける f
a
c
t
o
rとしての接触 (
s
a
r
p
.
y
o
g
a
) は一種の属性 (
g
u
l
)
.
a
) であるから,属性と
a
c
t
o
rとして内属関係がある。では,さらにこの内属関係と事
しての接触と事物とを結びつける f
- 1
0ー
物とを結びつける f
a
c
t
o
rがあるかというと,それが s
v
a
r
i
1p
回 r
u
p
b
a
n
d
h
aである。これを想定す
ることによって,もはやさらに「結びつける f
a
c
t
o
r
jを必要としない。何故ならば, s
v
a
r
i
1
p
a
s
r
u
p
-
handhaとはそれが結びつける事物そのものを関係とみなしたものだからである。したがって,
この関係は,無限に「結びつける f
配 t
o
r
jを想定することを防ぐために論理的に仮設された関宮
であって,詮じつめれば,それは「接触関係と内属関係以外の全ての〔直接的な〕関係」である。
xは少
具体的には次のような場面で活用される。任意の zとyとがともに認識の対象であり ,i
の Aである」と同時に i
yは zのBである」というように,両者の聞に相対的な A ・
B関係(例
えば,因果関係)の成立が認められたとする。この場合,xの Aそのもの (
A
s
v
a
ri
1
p
a
) である
こと (
k
a
r
a
明.t
a
),および yのBそのもの (
B引 r
a
ri
1
p
a
) であること (
k
a
r
y
a
t
a
),これらはそのま
ま両者聞の,一方が他方に対するそれぞれの関係 (
s
a
r
p
.
b
a
n
d
h
a
) を表わしている, と考えるので
ある。
因果関係を例にとれば,xが Fの因であり ,yが zの果であるとし、う場合,常識的には,下図
のように,われわれは xYの二者聞に一つの関係があると考えがちである。
(
k
a
r
y
a
)
(
k
a
r
al)a
)
図3
•
しかし , i
yの zに対する」関係は, xが因であること,
すなわち xに困としての性質 (
k
a
r
a
-
c
.
a
t
a
) を認めて成立することであり,同時に, 全く同様に i
xの yに対する関係Jはタが果であ
ることすなわちタに果としての性質 (
k
a
r
y
a
t
a
) を認めて初めて成立する。 これらの性質は x y
にそれぞれ本来的なものでなく ,xyが並列された時点で臨時に添加された限定的性質であるか
p
a
d
h
i
)である。これらがそのまま「タの xに対する」関
ら限定的添性というべきもの(原語は u
xの yに対する」関係にほかならないのである。だから, r
因果関係j(
k
a
r
a
1
)
.a
k
a
r
y
a
b
・
係および i
Mva) とは実はこの二方向の関係の総称にすぎず,端的に言えば,因果関係という一つの関係が
.
どこかにあるわけではないのである。強いて図示すれば,むしろ次のようなものになる。
図 4
.
図 4の読み方は, r
yは zに対して k
a
r
a
I
)
.a
t
a
s
a
r
p
.
b
a
n
d
h
aによって関係し, かつ,xは yに対し
てk
a
r
y
a
t
a
s
r
u
p
b
a
n
d
h
aによって関係して L、る」である。前者の場合, k
a
r
a
I
)
.
a
t
aの関係所依 (
a
n
u
y
・
.
&
咽E
官
'
-
一一一一一一一
o
g
i
n
) は Zであり, 関係能依 (
p
r
a
t
i
y
o
g
i
n
) は少である。後者の k
a
r
y
a
t
aの場合はこの逆である。
基本的には,一方の限定的添性の基体 (
a
d
h
a
r
a
)が関係所依となり,そこに他方の限定的添性の
基体が関係能依として結びついている,と考える o
zの k
a
r
a
J
)
.a
t
aおよび少の k
a
r
y
a
t
aが限定的添性 (
u
p
a
d
h
i
) であるということは, それぞれ相互
に一方が飽方を条件づけていることに由来する。もしも,この条件づ、け合っている事実が認めら
れなければ,こうした隈定的添性も想定されることはなかったししたがってまた x y聞の「関
係」の認知もあり得なかったはずである。そこで, xの k
a
r
a
l
)
.a
t
aは少の k
a
r
y
a
t
aを条件づけて
いる (
n
i
r
u
p
a
k
a
), と同時に yのk
a
r
y
a
t
aによって条件づけられている (
n
i
r
u
p
i
t
a
),ということが
出来る。このように,
n
i
r
u
p
a
k
a
n
i
r
u
p
y
a
b
h
a
n
a
)が
,
条件づけ合う関係 (
相対的な二つの項(二
基体)におけるそれぞれの限定的添性の聞に成立している。
条件づける方向は, xとyのいずれを関係所依とみなすかによって決定される。もし ,xV
こ着
目して,
i
yが k
a
r
a
l
)a
t
昌s
a
I
J
l
bandhaによって xに関係している J というように,
を関係所依と
a
r
a
n
a
t
aは yの k
a
r
y
a
t
aによって条件づけられている (
n
i
r
u
p
i
t
a
)
する場合を設定すれば, xの k
ことになる。さらに進んで,
i
yの k
a
r
y
a
t
aは n
i
r
u
p
i
t
a
t
v
a
s
a
I
J
l
bandhaによって zの k
a
r
a
♀a
t
aに
関係している J(図的ということも出来るであろう。
国 5
.
上述の「関係」概念に関連して,言及すべき(恐らく最も)最要な術語は, a
v
a
c
c
h
e
d
a
k
aとそ
⑩
の対をなす a
v
a
c
c
h
i
n
n
aである。詳論を避けて簡単に述べると,
った基体に存する属性問の関係で、あったのに対し,
n
i
r
u
p
a
k
a
n
i
r
u
p
i
t
a関係が,異な
ava
配c
c
h
記
吋
d
討
a
k
沼a
は同一基体に存する二つの属性の間の関係だ, ということである。
「ここに査がなし、」
とし、う表現を例にとってみよう。 否定の対象となった査には,
ただちに,
所否性 (
p
r
a
t
i
y
o
g
i
t
a
) すなわち否定されるべきものとしての性質とし、ぅ限定的添性が想定される。
ところで,査の無が指摘されている場所には,査以外にも存在しないものがあるにもかかわわら
ず,特に査の無が指摘された以上,所否性は漠然としたものではなく,制限されていなければな
g
h
a
t
a
t
v
e
n
a
) 否定されたので、あって,他の何物として否定され
らなし、。つまり,壷が査として (
- 1
2-
ているのではない。すべての壷が,そして壷だけが否定されているのであるから,全ての壷を壷
たらしめている一般性である壷性がまさに査における所否性を制限する要素(伊
a
刊
v
a
c
∞
c
h
犯
e
品
d
a
加
k
E
但a
,μ
i
ぷ
.
6
a
肝v
a
配c
c
h
邑
吋
d
紘
a
kadh
紅
a
rm
鴎a
司)である。またもし,ある特定の査だけが否定されているとするならば,所
e
t
a
d
g
h
a
t
a
t
v
a
) あるいは個物性 (
t
a
d
v
y
a
k
t
i
t
v
a
) としなけ
否性の制限者は,この歪であること (
ればならなし、。またp 実際に査が存在していても,査は机の上に「内属関係によって」は存在し
ていなし、から,
内属関係を査の所否性の制限関係 (
a
v
a
c
c
h
e
d
a
k
a
s
a
r
n
b
a
n
d
h
a
) として捉えれば,
「ここに査はなし、」という命題も成立し得ることになる。
これは何も詑弁ではなし、。われわれは,日常,一つの文章からさまざまな意味を理解すること
があるしときには相反する意味を読みとる場合すらもある。しかし,一般的な文章から得られ
る認識の内容を可能な限り精密に分析してみるならば,その分析図は本来の意味を確定するため
の有効な手がかりとなるはずであり,多義性や矛盾が生じた起因をその分析図の中に探りあてる
ことも可能であろう。まして,哲学上の議論の為の術語の定義に多義性,矛盾性p 暖昧性は許さ
れない以上, それらを排除するために工夫された Navyanyayaの分析的技法は外見上 L、かに煩
v
a
c
c
h
e
d
a
l
王a
,a
v
a
c
c
h
i
n
聞を始め
雑なものになろうとも,そこにその真価を発揮したのである。 a
とする術語が Navyanyaya学派の人たちによって考案されたのは,
まさにそうした目的のもと
で思考回路の分析図を徽密に描出するためであった。その図の基本構造がはからずもインド人の
思考の枠組みそのものであったことは当然であり,われわれはただそのことを忘れてはならない
のである。
5
.
以上述べてきたことは,われわれが T
ext とした G
a
d
a
d
h
a
r
a作 S
a
k
t
i
v
a
d
aを理解するうえで,
十分ではないが必要最少限の予備的考察であった。
⑧
本T
extは T
a
t
t
v
a
c
i
n
t
a
m
a
1
Ji
のS
abdakha
I
)
.
c
l
a(
B
o
o
k4
)における S
a
k
t
i
v
a
d
aの所説を踏まえて,
その論議を一層徹底させたものである。三部構成であり,それぞれに S
amanya-ka
I
)
.c
l
a,V
i
s
e
明-
ka
I
)
.
c
l
a,P
a
r
i向.
t
h
a
k
a
I
)
.c
l
aの標題が付いている。ほとんど全篇が Mimarn
持学派との論議 (
v
a
d
a
)
であり,第一部 Sam
立n
ya
ka
I
)
.c
l
aの冒頭に Nyaya学派の定説 (
s
i
d
d
h
a
n
t
a
)が手短かに述べられて
いる。その冒頭部分は, Ga
t
i
.
g
e
s
aの所説の焼き直しであり,同時代の学説綱要書に記されている
内容とも変わりがないが,その定説の提示の仕方に, G
a
d
a
d
h
a
r
aならではの表現方法もみられる。
i
t
iN
y
a
y
a
s
i
d
d
h
a
n
t
a
l).'までの冒頭部分だけを以下に
紙数の都合上, また定説の紹介も兼ねて, ‘
訳出し,今後の研究の備えとしたい。
Textは数種刊行されているが,以下の三本を参照した。便宜上,仰を底本とし,ロ}マナイ
ズしたものを随意に区切って番号を付し,段落ごとに掲載し,和訳,解説のI
J
原に配列した。
制 E
d
i
t
e
d,
w
i
t
he
d
i
t
o
r
'
sA
d
a
r
s
a
k
h
y
a
v
y
a
k
h
y
a
,
byS
u
d
a
r
s
a
n
a
c
a
r
y
s
a
r
y
aS
a
s
t
r
i
.Bombay1
9
1
3
.
‘
一 1
3ー
(
鴎 E
d
i
t
e
d,w
i
t
hKr
明a
b
h
a
t
t
a
'
s Manju$a
,Madhava B
h
a
t
t
a
c
a
r
y
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v
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t
ia
n
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'
s
V
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i
,byG
osvamiDamodaraS
a
s
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i
.K
a
s
h
iS
a
n
s
k
r
i
tS
e
r
i
e
sN
o
.5
7,1
9
2
7
.
(
C
)E
d
i
t
e
d,w
i
t
hH
a
r
i
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h
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t
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t
a
c
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y
a
'
s commentary,by Gosvanu
DamodarS
a
s
t
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.
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a
s
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n
s
k
r
i
tS
e
r
i
e
sN
o
.7
7
,1
9
2
9
.
M
H・は
rob-u
A 河
D 白
A
川 K
HA
TY
KN
A-A
QU
A
[
T
e
x
t1
J s
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k
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k
:
;
;
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l
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t
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t
h
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y
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b
h
i
d
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l
y
a
t
e
. i
d
a
mpadamimama
r
t
h
a
mb
o
d
h
a
y
a
t
vi
t
i,asm
昌tp
a
d
a
dayama
r
t
h
ob
o
d
h
a
v
y
a
i
J
.
k
e
t
a
r
i
1p
av
r
t
t
i
l
)
.
i
t
ic
ai
c
c
h
as
a
〔和訳) s
a
n
k
e
t
a(直接表示)と l
a
k
:
;
;a
i
)
.
a(間接表示)とが意味に対する語の機能である。この
機能にもとづいて理解されるのが語の意味である,
と言われている。「この語がこの意味を知ら
a
n
k
e
t
aという機能
しめよ」あるいは「この意味はこの語によって知られるべし」という欲求が s
である。
〔解語〕
⑧
‘
s
a
n
k
e
t
a
'の語は Aら
l
a
y
a
m
a
n
j
a
r
iでは‘s
a
m
a
y
a
'と同義に用いられている。‘s
a
m
a
y
a
'は
,
N
y
a
y
a
s
u
t
r
a以来の古典 Nyaya学派で主に用いられた語で,
r
慣習」すなわち「表示する語とさ
⑧
れるものとの間を確定する一定の取り決め」合意味した。 Gautamaは N
yayas
露t
r
aの中で,言葉
(
担b
d
a
) と対象 (
a
r
t
h
a
) との聞には何ら実質的な関係はなく, 言葉による対象理解は専ら慣習
@
的用法による (
s
a
m
a
y
i
k
a
) のであると述べている。 Mlma
r
p
.
s
a学派では, Vedaの永遠性を主張
する立場から,言葉と対象との聞の関係は先験的なもの (
s
v
a
b
h
a
v
i
k
a
)であり,言葉には表意能
s
a
k
t
i
) があると主張した。
力 (
J
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aは samaya説に立服して,これを批判し, samaya
は恒常的なものではないが,それはもとを正せば神 (
I
s
v
a
r
a
) によって制定され,人々に継承さ
⑧
れてきたものであるから, Vedaの権証性は揺るがないと反論している。
Navyanyayaで『は,‘s
a
m
a
y
a
'のかわりに主として‘S拍 k
e
t
a
'の語を用いる。 しかも,‘s
a
n
k
e
t
a
'
と
‘s
a
k
t
i
'とは同義である。ただし, Mlma
r
p
.
s
a学派のように品k
t
iを独立した c
a
t
e
g
o
r
yのーっと
しての可能力,すなわち表意能力とはみなさない。 c
a
t
e
g
o
r
yとしては,実に atmanのー属性とし
⑩
ての欲求 (
i
c
c
h
a
) とみる。この見解は恐らく J
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aにさかのぼる。言葉とその意味(=
a
c
t
o
rは,要するに「誰か」の欲求である。その「誰か」を結局長v
a
r
a
対象)とを結びつけた f
(神)に帰して, s
a
n
k
e
t
a
=
I
s
v
a
r
a
I
C
c
h
aとしたのである。 Textの‘v
r
t
t
i
'を「機能Jと訳したが,
これは単に‘s
a
r
p
.
b
a
n
d
h
a
'と同じく, i
結びつくあり方J という程の意味である。
G
a
n
g
e
s
aはその v
r
t
t
iを s
a
色k
e
t
aと l
a
k
:
;
;
a
l
)
.aとに分類した。語がその第一義的意味を表示する
- 1
4-
関係を s
a
n
k
e
t
aまたは旬k
t
iというのに対して, lak~a1)ã とは厳密には直接表示された第一義的
意味と第二義的意味との関係 (
s
a
k
y
a
s
a
l
1
l
b
a
n
d
h
a
) をし、ぅ。しかし,いずれにしても表示する主
2
ならない川,
体は語に
s
a
n
k
e
t
aと並んで,語の間接的表示機能として l
a
k
仰をも学説では
認めている。 S
a
k
t
i
v
a
d
aは標題が示す通り,品北t
iだけを専門に論じたものである。
e
品は s
e
n
k
a
t
aを,さらに神に由来するものと人為的なものとに分類し,前者
ところで, G拍 g
を特に品akti と呼び,後者を paribhã~ã と呼んで区別した。この学説を紹介して,
G
a
d
a
d
h
a
r
aは
次のように言う。
[
T
e
x
t2
J t
a
t
r
aa
d
h
u
n
i
k
a
s
a
n
k
e
t
a
l
;p
a
r
i
b
h
a
平at
a
y
ac
aa
r
t
h
a
b
o
d
h
a
k
a
l
1
lp
a
d
a
l
1
lp
a
r
i
b
h
匂i
k
a
l
1
l
y
a
t
h
a品 s
t
r
a
k
a
r
a
d
i・s
a
n
k
e
t
i
t
a
n
a
d
i
v
r
d
d
y
a
d
i
p
a
d
a
m
.i
s
v
a
r
a
s
a
n
k
e
t
a
ち白k
t
i
年t
a
y
ac
aa
r
t
h
a
b
o
d
h
a
k
a
m
p
a
d
a
l
1
lv
a
c
a
k
a
l
1
ly
a
t
h
ag
o
t
v
a
d
i
v
i
s
i
詩的o
d
h
a
k
a
l
1
lg
a
v
a
d
i
p
a
d
a
l
1
l
ta
d
b
o
d
h
y
o'
r
t
h
og
a
v
a
d
i
rvãcya~
回
e
v
amukhyarthai
t
yu
c
y
a
t
e
.
〔和訳〕
その [
s
a
n
k
e
a
t
aの〕中でp 人為的な s
a
n
k
e
t
aは規定 (
p
a
r
i
b
h
弱めである。これによ
p
a
r
i
b
h
母i
k
a
) である。聖典学者によって規定された‘n
a
d
i'とか
って意味を知らせる語が術語 (
‘
v
r
d
d
h
i
'などの語がそうである。〔それに対して〕神の s
a
n
k
e
t
aが s
a
k
t
iである。これによって意味
を知らせる語が直接表示語 (
v
a
c
a
k
a,能詮)である。例えば,牛性に限定された個体の認識をも
たらす「牛」 とし、う語などがそうである。 こうした語によって認識される意味であるところの牛
v
a
c
y
a,所詮)であり,これが第一義的意味である。以上のように言われている。
が直接表示物 (
6
司
t
a
〔解説J '
a
d
h
u
n
i
k
a
'の原義は「現代的」であるが,注釈にもとづいて「人為的J(
j
i
v
a
k
r
)と
訳した。聖典学者とは,ここでは Pa
1
)
.
i
n
iを指す。‘n
a
d
i'は(河を意味する語ではなく) i
,Uで終
⑧
⑩
わる女性名詞を指す術語のこと。また, '
v
r
d
d
h
i
' とは母音 a
,a
i,a
uを指す術語である。
t
iは話v
a
r
a
i
c
c
h
aに限定される。言い換えれば, 学者の造語である術語
この節によれば,担k
t
iはないことになる。
などにはねk
この学説はやがて S
aktiuMGの中で多くの反論に遭って修
正される。参考までに ,N
y
a
y
a
s
i
d
d
h
a
n
t
a
m
u
k
t
a
v
a
l
lをみると,
i
しかし,新しい学説を奉ずる人
a
k
t
iなのではなし、。どのような欲求でも品k
t
iである。
たちは,次のように言う。神の欲求が s
⑮
したがって,人為的な表意関係も s
a
k
t
iにほかならなし、」となっている。だが,
とりあえず今は
extを見ていこう。
「旧」学説に従って T
さて, 次節に移る前に明らかにしておかなければならないことがある。 Nyaya学派では認識
(
j
n
a
n
a
=b
o
d
h
a
) と欲求 (
i
∞ha) と意欲 (krti) の三つを savl号ayakapadarthaと呼んでいる。つ
まり,この三つには必ず対象がある。認識とは,必ず何かの認識であって,対象なき認識には意
tmanの属性としてのこの三つは一連の心の働きでもある。
味がなし、。欲求も意欲も同様である。 a
例えば,水を飲むとし、う動作には,それに意欲が先行しているはずで、あり,さらに欲求が先行し,
さらにまた水の知が先行していなければならない。そして,一つの確たる知には必ずその焦点す
- 1
5-
なわち基相 (
v
i品e
$
y
a
)とそれを限定する表相 (
p
r
a
k
a
r
a
)とがあるように,欲求にも意欲にも同様
の構造がある。 Textの第一節には,二種類の文で表明される欲求が述べられていた。すなわち,
b
)i
この意味はこの語によ
例「この語がこの意味を知らしめよ」とし、う文で表明される欲求と, (
って知られるべし」とし、う文で表明される欲求である。 ここで,
組b
d
a
b
o
d
h
a分析の手法を用い
a
)は主語の‘ i
d
a
出 p
a
d
a
m
'が表示する e
t
a
t
p
a
d
a(この語)が欲求の対象すなわち内容
てみると, (
(
v
i
号a
y
a
) の基相であり, (防は主語の‘a
y
a
r
na
r
t
h
a
l:_l'が表示する e
t
a
d
a
r
t
h
a (この意味)が欲求の
内容の基相となっており,このこつの欲求の内容は全く異なったものであることがわかる。以下
((
b
)を分析して,それを図示してみよう。
に
, 吋
(
a
) “
i
d
a
r
pp
a
d
a
r
ni
r
n
a
r
na
r
t
h
a
r
pb
o
d
h
a
y
a
t
u
"i
t
ii
品
v
a
r
e
c
c
h
a
.
=
“e
t
a
d
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r
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h
a
v
i
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y
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k
a
b
o
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h
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j
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n
a
k
a
r
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d
a
r
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a
d
a
r
pb
h
a
v
a
t
u
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t
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s
v
a
r
e
c
c
h
a
.
=e
t
a
d
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r
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h
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v
i
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b
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h
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ja
n
a
k
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v
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r
a
k
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r
a
k
a
・e
t
a
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p
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v
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品開y
akai
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v
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r
巴c
c
h
a
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(
b
) “
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l
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l
:
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l
:
_a
y
a
r
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h
a
v
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t
ii
品v
a
r
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c
c
h
a
.
=e
t
a
t
p
a
d
a
ja
n
y
a
b
o
d
h
a
v
i
早a
y
a
t
v
a
p
r
a
k
a
r
a
k
a
e
t
a
d
a
r
t
h
a
v
i
s
e
号y
akaI
s
v
a
r
e
c
c
h
a
.
欲求(司の構造
巴tatpadajanyabodhavi~ayatva
(
p
r
a
k
a
r
a
)
(vise~ya)
国 6
.
欲 求(
ω の構造
e
t
a
d
a
r
t
h
.
a
v
i
$
a
y
a
k
a
b
o
d
h
a
ja
n
a
k
at
v
a
I
(
v
i
s
e
$
y
a
)
国 7,
- 1
6-
(
p
r
a
k
a
r
a
)
個別的な語 (
e
t
a
t
p
a
d
a
) が能成因 (
j
a
n
a
k
a
) であり,その意味認識 (
a
r
t
h
a
b
o
d
h
a
)が所産(ja
n
-
y
a
) であるとしヴ事実関係はし、ずれにしても変わりがなし、。ただ, 特に e
t
a
t
p
a
d
aを欲求の対象
とすれば,その欲求の内容の構造は図 6のようになり,
また特に e
t
a
d
a
r
t
h
aを欲求の対象とすれ
ば,その欲求の内容の構造は図 7のようになるわけである。
G
a
d
a
d
h
a
r
aは次節以降で, 欲求(めにもとづいて個別的な語が「表示する J (
v
a
k
t
i
) あるいは,
そうした語で「表示される J(
u
c
y
a
t
e
) というあり方はどういうことなのかを, 彼独自の言い回
しで説明している。
a
k
t
i と呼ばれ,
そもそも, 語と意味とはどのようにして結びついているのか。両者の関係は s
また担k
t
iとは i
c
c
h
a (=話v
a
r
a
i
c
c
h
a
) であるとされているが, では, i
c
c
h
aそのものはどのよ
表示する j
うな仕組みで両者を結びつけていると考えたらよいのだろうか。その仕組みこそが, I
(
v
a
k
t
i
) あるいは「表示される J(
u
c
y
a
t
e
) とし、う動詞の語根、/
v
a
cの第一義的意味となるはずで
ある。そこで, G
a
d
a
d
h
a
r
aは次のように言う。
[
T
e
x
t3
] v
a
c
y
a
v
a
c
a
k
a
d
i
p
a
d
ai
s
v
a
r
色c
c
h
a
y
ab
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
e
n
ayav
i
早
且y
a
t
as
ae
v
ad
h
a
t
v
a
r
t
h
a
,
t
:
Jt
a
s
y
品 説r
a
y
a
t
v
a
r
u
p
a
:
r
pk
a
r
t
r
t
v
a
:
r
pp
a
d
邑 k
a
r
t
r
p
r
a
t
y
a
y
e
n
ab
o
d
h
y
a
t
e
.
〔和訳〕
‘
v
a
c
y
a
'‘
v
a
c
a
k
a
' 等の語における動詞語根の第一義的意味は, 認識能成性〔を表相〕
とする神の欲求の対象性(=基相性)にほかならない。それ(=基相性)の主体すなわち所依が
i
ム e
t
a
t
p
a
d
a
) であることは,作用主体を表わす語尾によって理解することが出来る。
語 (
〔解説〕
表現は難解であるが,趣旨は単純である。ただし,若干の説明が要る。われわれは既
に,語と意味との間の関係としての品k
t
iはイコール欲求 (
i
s
v
a
r
a
i
c
c
h
a
)であることを了解した。
つまり, 欲求が語と意味とを結びつける f
a
c
t
o
rとして機能しているわけである。 この f
a
c
t
o
rは
語を関係所依 (
a
n
u
y
o
g
i
n
)とするか,意味を関係所依とするかによって,二つの方向性を持って
いる。だからこそ,欲求 (
a
)と(
b
)とのこつのあり方が区別されたのである。今は欲求 (
a
)が取りあげ
られているので,
この f
a
c
t
o
rが語に関わるあり方だけを検討する。欲求(叫においては語 (
e
t
a
t
-
p
a
d
a
)がその対象 (
v
i
担y
a
) となっていた(図 6参照、)。だから, e
t
a
t
p
a
d
aには対象性 (
v
i
?
i
a
y
a
t
a
)
が存するはずである。 (
e
t
a
t
p
a
d
aは基相であるから,そこに基相性 v
i
s
e
号y
a
t
品が存ずる。これは,
v
i
品e
?
i
y
a
t
a
r
u
p
a
v
i
?
i
a
y
a
t
a である。) そして, e
t
a
t
p
a
d
a を対象とする欲求すなわち v
i
?
i
a
y
i
nには
v
i
早a
y
i
t
a が存する。 v
i
?
i
a
y
a
t
aも v
i
$
a
y
i
t
a も限定的添性 (
u
p
a
d
h
i
) であることは言うまでもな
い。ここで,
r
欲求
(=vi
早a
y
i
n
) が語 (=vi
?
i
a
y
a
) に関わる」あり方は, 関係所依である語に
I
$
a
y
a
t
aがその「結びつける f
a
c
t
o
r
J である
おける限定的添性すなわち v
(
7
2
頁参照)。この
v
i
担y
a
t
a とは, 図 6にもとづいて言うと, 認識能成性 (
b
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
a,i
ム e
t
a
d
a
r
t
h
a
v
i
明y
a
k
a
b
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
a
) を表相とする神の欲求の基相であること (
v
i
s
e
与y
a
t
a
) であり,これが欲求
- 1
7-
一一一一一一一一一一一一一一一
-_一一一一一一一一一一一一一一一
(
a
)にもとづく動詞語根イ克己の第一義的意味となるのである。
そこで,“p
a
d
a
r
p
.ga
r
p
.v
a
k
t
i
" (次節参照)とし、った(能動表現の)文の品b
d
a
b
o
d
h
aを検討す
ると,まず p
a
d
aが基相になる。その p
a
d
aが
‘v
a
k
t
i
'の語根‘v
a
c
'の第一義的意味であるところ
v
a
k
t
i
'の語尾‘t
i
'によって理解される。
の上述の基相性の所依であるとし、う事実は, '
というのは,
k
r
t
i
=
k
r
t
i
m
a
t
t
v
a
=
k
a
r
t
r
t
v
a
)なのであるが,動詞が一般に意
通例,動詞語尾の表示対象は意欲 (
味する作用 (
k
r
i
y
a
)の主体(それは主格語尾の付いた名詞で表示される)が意欲を持ち得ない場
合,つまり今の p
a
d
aのように主体が無生物である場合に限り,動詞語尾は単なる所依性(話r
a
y
@
a
t
v
a
) を表示する,と Nyaya学派では考える。したがって,今の場合,、/
v
a
cの第一義的意味で
i
$
a
y
a
t
aが p
a
d
aを所依としている事実は,‘v
a
k
t
i
'の
‘t
i
'によって理解できる,と G
a
d
a
d
ある v
h
a
r
aは述べたのである。
整理すると,
p
a
d
a
r
p
. ga
r
p
.v
a
k
t
i
" のような文の品b
d
a
b
o
d
h
aは,欲求(叫を前提とする場合,
“
(
1
)‘
p
a
d
a
'が表示する p
a
d
a(
=
g
o
p
a
d
a
)を基相とL., (
2
)‘
v
a
c
'が表示する b
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
a
p
r
a
k
a
-
r
a
k
a
i
s
v
a
r
a
-i
c
c
h
i
y
av
i
$
a
y
a
t
aを表相とする構造を持ち, (
3
)‘
t
i
'が基栢と表相との関係(=所依
唱
o
d
h
a
性)を表示している,と分析できる。そして,この構造において,表相の一部を構成する b
の内容 (
v
i
$
a
y
a
) である e
t
a
d
a
r
t
h
aを特定する語が‘g
a
m
'である,
ということが次節で述べら
れる。
[
T
e
x
t4
J p
a
d
a
r
p
.ga
r
p
.b
r
u
t
己g
o
rvacakami
t
y
a
d
a
uk
a
r
m
a
p
r
a
t
y
a
y
a
n
t
e
n
aa
r
t
h
a
v
a
c
a
k
a
p
a
d
e
n
a
t
a
t
t
a
d
a
r
t
h
a
v
i
$
a
y
a
k
a
t
v
a
r
u
p
a
r
p
.t
a
t
t
a
t
k
a
r
m
a
k
a
t
v
a
r
p
.d
h
a
t
v
a
r
t
h
a
i
k
a
d
e
s
eb
o
d
h
eb
o
d
h
y
a
t
e
.
〔和訳〕
“
p
a
d
a
r
p
.g
a
r
p
.v
a
k
t
i
"“
ga
r
p
.b
r
u
t
e
"“
g
o
rvacakam" とL、った文の場合,目的を表わす
a
m
''
g
ol).')によって,これこれの個別的な
語尾を有する語,すなわち対象を直接表示する語(‘g
対象を認識内容としている事実p すなわち個別的な対象を表示目的としている事実は,語根の第
b
o
d
h
a
) の中において理解できる。
一義的意味の一部を構成する認識 (
〔解説〕
a
d
a
r
p
.g
a
r
p
.v
a
k
t
i
"の s
a
b
d
a
b
o
d
h
aの構造を図示すれば, 図 8の通りで
参考までに“p
ある。
a
d
e
n
ag
a
u
l
)
.u
c
y
a
t
e
"のような受動表現がと
次節では,同じく欲求(めにもとづいて,今度は“p
d
a
b
o
d
h
aが説明される。その場合も,
られた場合の品b
‘
v
a
c
'の第一義的意味は同じであり,
そ
れが p
a
d
aに存ずることにも変わりがない。しかし, 品.
b
d
a
b
o
d
h
aの基相は,主格語尾のついた
‘
g
a
u
与'の表示対象である g
o
a
r
t
h
aに変わる。その分析の手順は,能動表現の逆の手I
J
民を辿るこ
とになる。すなわち,語と意味とを結びつける f
a
c
t
o
rとしての欲求(めの対象が語であることをそ
のままにして, g
o・p
a
d
aが g
o
a
r
t
h
aに関係する仕組みが得られるようにすればよ L、。その準備段
。
。
階として,図 8をもう少し分析的に書き直すと,図 9のようになる。
「僧司ー---ー町四ーーーー司ー一ーー』ー---ーーーーーーーーーー
'
g
a
m
'
申
go-vi~ayaka-bodha寸 anakaìva-prakãraka-
7
s
"
v
a
r
ai
c
c
h
T
y
av
i
号a
y
a
t
a
白 血 E
・
v
a
c
.
(
p
r
a
k
a
r
a
)
四回一ーー一一ー一ー一一ー一一一一一一-.
t
i
'
時ーーーー司ーーー四ー一一ーーーー
'
p
a
d
a
m
'
(
v
i
s
e
>
t
y
a
)
図 8
.
I
s
v
a
r
ai
c
c
h
I
y
a
>
t
y
a)
(
m
u
l
av
i
s
e
図9
.
(矢印は
n
iI
i
ip
a
k
a
n
i
r
世p
y
a関係を表わす)
分析的に書き直した表相部の各要素には全て順番に表相基相関係(限定被限定関係)が成立し
ているのであって,それゆえに g
o
p
a
d
aが根本基相 (
m
u
l
a
v
i
記号 y
a
) となって,出発点となる g
o
-
p
r
a
k
a
r
a
t
a
) だけが存する。次に,図示した通り, g
o
-vi~ayakabodha­
a
r
t
h
aには,ただ表相性 (
j
a
n
a
k
a
t
v
aに存する p
r
a
k
a
r
a
t
aが
,
v
i
明.y
a
t
aの所依である go・padaと
,
go-pada に存ずる vi~ayatä を条件づけている。その理由は,
p
r
a
k
a
r
a
t
aの所依である goマi
宇a
yakab
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
aとが
咽
・
v
i
平a
y
a
k
a
b
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
a
p
r
a
k
相対的な表相基相関係にあるからである。その結果として, go
r
t
h
a
)も
,
a
r
a
t
aの一部である go(=go・a
go・pada に存ずる vi~ayatã を「間接的にJ
(
p
a
r
a
m
-
p
a
r
a
y
a
) 条件づけている,ということが出来る。これらの点を念頭に置いて,次節に移る。
[Text5
J padenag
a
u
ru
c
y
a
t
ep
a
d
a
s
y
ag
a
u
r vacya i
t
y
a
d
a
upadani~thadhãtvarthïbhüta­
- 1
9-
tãdr品avi~ayatãyãl,l
paramparayan
i
r
u
p
a
k
a
t
v
a
I
f
l
, t
a
cc
ad
h
a
t
v
a
r
t
h
i
b
h
u
t
a
t
a
d
r
担v
i
号a
y
a
t
a
n
i
r
u
p
-
.
a
k
a
b
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
a
p
r
a
k
a
r
a
t
a
'
ntal).pãtibodhani計havi担yatãnirüpakavi~ayitãsaIflbandhãvacch­
i
n
n
a
p
r
a
k
a
r
a
t
a
'品r
a
y
a
t
v
a
I
f
lg
avadauk
a
r
m
a
p
r
a
t
y
a
y
e
n
ab
o
d
h
y
a
t
e
〔和訳〕
“
p
a
d
e
n
ag
a
u
ru
c
y
a
t
e
"“
p
a
d
a
s
y
ag
o
rvacya
l)."などの場合,語 (pada=go
ゃa
d
a
)に
存する上述の語根の意味であるところの対象性(=基相性)を〔表示対象である g
o
a
r
t
h
aが〕間
c
y
a
t
e
'の語尾‘ぜ, '
v
孟c
y
a
l
)
.
'
の
‘y
a
'など)に
接的に条件づけている事実は,目的を表わす語尾(‘u
=
g
o
a
r
t
h
aが条件づけている事実, すなわち g
oa
r
t
h
aが「表示
よって理解できる。そのこと (
圃
されるという作用の目的であること)が理解されると同時に, 語根
[
J
百c
Jの意味であるとこ
b
o
d
h
a
j
a
n
a
k
a
t
v
a
p
r
a
k
a
r
a
t
a
) の一部で
ろの上述の対象性を条件づけている認識能或性の表相性 (
ある認識 (bodha) に存する vi~ayatãnirüpakavi号ayitã とし、う関係によって制限された表相性の
所依が,表示目的 (=goa
r
t
h
a
) であることも,同様にして,目的を表わす語尾によって理解で
司
きる。
〔解説〕
“
pad
邑n
agau
l
)
.u
c
y
a
t
e
" の 品bdabodh
a1
,
t
: (
1
)g
op
a
d
aを基相とL., (
2
) padani~tha­
融
d
h
a
t
v
a
r
t
h
i
b
h
u
t
a
ぺa
d
f
i
s
a
v
i
号a
y
a
t
必n
i
r
u
p
a
k
a
b
o
d
h
a
ja
n
a
k
a
t
v
a
p
r
a
k
a
r
a
t
aa
n
t
a
l
)
.
p
a
t
i
b
o
d
h
a
n
i
宇t
h
a
v
i
甲a
・
鵡
yatãnirüpakav~yitã-saIflbandha-avacchinna-prakãratã を表相とする構造をもっ。
この基相と
c
y
a
t
e
'の
表相とがまさしく所依能依関係にあることは,前節の場合と同じく動調語尾すなわち‘u
A
t
e
'によって理解される。ただ,今のような受動表現の場合, その語尾はまた目的を表わす語尾
(
k
a
r
m
a
p
r
a
t
y
a
y
a
) でもある,とし、う点に留意しなければならな L、。もし,図示しようとすれば,
ちょうど図 9における g
oを今度は基相とし,表相となるべきその他の要素を全て goに存する
p
r
a
k
a
r
a
t
aに結びつくように描き出せばよし、。一言つけ加えるならば, goはそれを対象 (
v
i
号a
y
a
)
とする b
odha(=vi号ayin) に存する vi早ayitã と L 、う関係 (bodhani平tha-vi平ayatãnirüpakav~ayitã)
によって b
odhaに結びついている。したがって,この関係が goに存する p
r
a
k
a
r
a
t
aを制限する
a
v
a
c
c
h
e
d
a
k
a
s
a
I
f
l
b
a
n
d
h
a
) となる。逆に言えば, p
r
a
k
a
r
a
t
aはこの関係によって制限され
関係 (
a
v
a
c
c
h
i
n
n
a
) わけである。他はもはや説明不要であろう。
ている (
[
T
e
x
t6
J d
v
i
t
i
y
a
i
c
c
h
a
y
a
l
)
.s
a
I
l
k
e
t
a
r
u
p
a
t
v
ev
a
i
p
a
r
i
t
y
a
muhyami
t
in
y
a
y
a
s
i
d
d
h
a
n
t
a
・
.
)
l
〔和訳〕
a
I
l
k
e
t
aである場合は,
二番目の欲求が s
逆の手1
I
買で理解できる。以上が Ny
亘y
a学派
の定説である。
〔解説〕
二番目の欲求とは欲求 (
ω のことである。これまで,われわれは欲求(めにもとづく動詞
a
cの第一義的意味は何か,すなわち「表示する」あるいは「表示される」というあり方
語根ゾv
a
c
t
o
rとしての神
はどういうことであるかを見てきた。欲求(乱)の場合,語と意味とを結びつける f
の欲求の関係所依は語、であり,欲求の内容の基相が語であることから,語における対象性(=基
- 2
0ー
相 性 ) が イvacの第一義的意味であった。欲求(紛の場合は,
神 の 欲 求 の 対 象 性 は 意 味 に 存 す るσ
だ か ら 欲 求 ( 司 の 構 造 を 逆 に 辿 れ ば . janyabodhavi~ayatvani宇tha-prakäratãnirüpita-ïsvara-icch・
iya-vi~ayatã が、Ivac の第一義的意味として得られる。
こ れ が 今 度 はe
tadarthaに存するとし、ぅ
r
p
.gar
p
.vakti" “padena gau~ ucyat♂ な ど の 品bdabodhaを 分 析 す れ ば よ
前提のもとで,“pada
I
演はこれまでの例と同様である。
く,その手1
以上のように Nyãya 学~の定説を提示し終って, Gadadharaは 本 題 の 論 議 (
vada)に 移 る 。 そ
れついては,いずれ稿を改めて,紹介することにしたし、。
注
⑦ T
extの完本として ,TheGadadhari,
s
e
c
o
n
de
d
i
t
i
o
nr
e
v
i
s
e
dbyK
i
r
t
y
a
n
a
n
d
aJ
h
aandS
a
t
k
a
r
i
s
al
'ma
Vangiya [ChowkhambaS
a
n
s
k
r
i
tS
e
r
i
e
sN
o
.4
2
J(
B
e
n
a
r
e
s,1
9
7
0
) がある。 ただし,
mana-didhi
・
'
t
iだけに対する注釈である。
これは Anu
蜘
② p
a
d
a
j
泊 n
a!p t
uk
a
r
a坦a
!p d
v
a
r
a!p t
a
t
r
ap
a
d
a
r
t
h
a
d
h
功/鈎b
d
a
b
o
d
h
a]
:
Jp
h
a
l
a
!p t
a
t
r
as
a
k
t
i
d
h
i
]
:
Js
a
h
a
k
a
-
r
I
l
.
J
I
//
8
1
// (
N
y
a
y
a
s
i
d
d
h
a
n
t
a
m
u
k
t
a
v
a
l
i[
K
a
s
h
iS
a
n
s
k
r
i
tS
e
r
i
巴sN
o
.2
1
2
J,1
9
7
2,p
.2
9
1
)
.
③
T
a
t
t
t
v
a
c
i
n
t
a
m
a
n
iBook4 (
S
a
b
d
a・k
h
a
r
u
!
a
) に述べられている。遼憾ながら,同テキストが手元にな
いため,参照頁を明記することが出来なし、。とりあえず, S
.Vidyabh~üa坦a, A H
i
s
t
o
r
yo
fl
n
d
i
a
t
r
L
o
g
i
c(
C
a
l
c
u
t
t
a,1
9
2
1
),p
p
.4
4
44
4
5参照。
",
④
「認識の記述」ではなく,
r
認識内容の記述」であることに注意。
Nyaya学派によれば,認識それ自体
は,無色透明の,いわば対象を映し出す鏡のようなもの (
N
i
r
a
k
a
r
a説)であり,したがって認識内容
と認識対象とは同一である。
③
s
p
h
o
t
a説の構造については, K
.K
u
n
j
u
n
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7
7
),p
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4の図がわかりやすし、。
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sN
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.5
5
J,1
9
3
0,p
.5
0参照。これは
Navyanyayaの学説である。 Gautamaは, i
因物,相,類のいずれもが語の表示対象であると述べてい
る“ v
y
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k
t
y
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4
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.
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0
).
⑨
例えば,‘g
a
c
c
h
a
t
i
'という一語 (
t
i
n
a
n
t
a
) は,それだけで有意義な文 (
v
a
k
y
a
) として成立し,したが
i
ってぬ,b
d
a
b
o
d
h
a も成立する。極端な例を掲げると, c
a,a
p
iなどの不変化詞も Pa
l
;
li
n
iによれば,格
変化語尾 (
s
u
p
) の省略された s
u
b
a
n
t
aとみなされるから, Nyaya学派によれば,これらも文 (
v
a
k
y
a
)
であると言い得るわけだが, それらが単独で、用いられても s
a
h
d
a
b
o
d
h
aが起こらないのは,
akank
ゆ
を欠いているからであり,結局それらは不完全な文ということになる。
⑮
⑬
Nyayadarsana,p
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1
6
.
“
y
a
t
h
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al
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l
am" (Nyayabha$yaonNyayasutra2
2
6
0,NYayada
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na
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.4
1
7
)
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1
),p
.1
2
5
.
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⑭
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.3
1
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9
6
0
),p
.8
0
; Tarkamrta.e
d
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- 2
1-
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c
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1
9
7
4
),p
.8
8
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1
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,p
.5
0
.
⑮
Nyayakosa (
P
o
o
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a
: BORI,1
9
7
8
),p
.7
3
0に記録されている。 Gautamaもその注釈者たちも vakya
⑮
Vidyabhü~a1).a ,
⑫
R
a
j
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p
.c
i
t
.p
p
.1
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(文)の定義はしていない。
⑬
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5
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1に拠る。なお, V
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t
i
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s
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aにも T
a
t
t
v
a
b
i
n
ぬという言語認識の問題を扱った独立し
",,
た論書がある。これは,
金倉円照博士の「ヴアーチャスパティミシラのタットヴァピンドウ j W
イン
1年
, 3
1
9
"
"
3
5
9頁)に詳しく紹介されている通り, MimaQ1s
a
学
ド哲学仏教学研究]IJ]春秋社,昭和 5
h
a
t
t
a
派)の立場に立って論じたものである。
派(特に B
J
且y
a
n
t
a
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h
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aと V
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c
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s
p
a
t
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i
s
r
aとの年代
の新旧については,まだ決着がついていないようである(金倉博士「哲人ウゃアーチャスパティミシラ j
前掲書 2
6
1
"
"
3
1
8
頁参照)が, V
a
c
a
s
p
a
t
i
m
i
s
r
aが上記の論蓄の中で Nyaya学派の立場に関説しておら
ず,一方,
]
a
y
a
n
t
a
b
h
a
t
t
aが Nyaya学派の立場を積極的に打ち出している事実は,両者の年代論を考
えるうえで一つの手がかりになるのではなし、かと思う。
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.
⑮
SayanaMadhavaは
,
",,
この両理論を奉ずるこ派をもって M
imarpsa学派を代表させている。
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28η.金倉博士は, a
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むを「論述連関論 j
,a
n
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i
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b
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h
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)。
と訳しておられる(前掲「ウ引アーチャスパティミシラのタ v トヴァピンド::rj
⑧
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p
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7 3
7
0
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4
),p
.
⑫
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p
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6
5
.なお J
a
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a
n
t
丘b
h
a
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taが紹介するこの両理論の詳細については,C
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.
",,
1
1
3参照。
",,
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s,1
9
7
7
),p
p
.2
4
5 2
4
8参照。
",,
⑫
金倉博土,前掲論文参照。
⑧
Nyayamanjari,p
p
.3
7
0 3
7
2
.
⑫
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・
'
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.,p
.2
4
9参照。
⑫
Tarkasa
1
'
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Zg
rahadi
t
z
'
ka
,p
.6
0
.
⑮
この訳語は北川秀則先生のl'A
rthasaQ1g
r
a
h
a和訳解説 j1W名古屋大学文学部研究論集J] (哲学) XVI
(昭和 4
4
年) 4
4
頁に拠る。
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詳しくは,拙稿 TheC
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) 参照。
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aと題する論議が二篇収められている。 その一つは, Book2
,Anumana-kha1
)
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l
aにおいて,可能力 (
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t
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) を独立したカテゴリーとして認める MimaQ1S
a学派の見解を
批判したもので,もう一つが Book4
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b
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)
.c
l
aにおいて,語の表示機能(邑a
k
t
i
) について論じ
たものである。
⑫
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a!pbandholak~a早ã. (
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i
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2
)
.
Adarsakhyavyakhya (A本 p.3).
P
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3-