胃潰瘍診療ガイドラインのアウトライン 菅野 健太郎 はじめに 胃潰瘍診療ガイドライン

胃潰瘍診療ガイドラインのアウトライン
自治医科大学 内科学講座消化器内科学部門 教授 菅野 健太郎
はじめに
胃潰瘍診療ガイドラインは、21世紀型医療開拓推進事業研究費の補助を得て、胃
潰瘍診療に関わる様々な問題点に対し 1980 年から 2001 年までに出版された文献を
検索・収集し、それらのエビデンスに基づいて、全体の診療の流れ、治療選択におけ
る優先順位などについて全体の研究班会議で討議して策定したものである。その内
容は研究報告書とは別に、胃潰瘍に関する一般的知識に関する解説記事も盛り込ん
だ書籍(1)として出版されているので、その詳細はこれを参照していただきたい。本フ
ォーラムでは近くインターネット上に公開される予定となっている胃潰瘍診療ガイドライ
ンの概要について紹介するとともに、今後の課題についても触れることとする。
胃潰瘍診療ガイドラインの概要
今回の胃潰瘍診療ガイドラインはその治療的側面を中心に検討をしたものであるが、
特に患者の大多数が内科医によって診療を受けていることをふまえ、その診療範囲に
関わる事項について検討を行った。診療の流れとしては、患者緊急の初期対応を必
要とする吐血・下血を呈した胃潰瘍出血の有無を診療の出発点としている。
出血性胃潰瘍の場合には、全身状態を把握し、全身的管理(輸血・輸液等)を行っ
て安定した生命維持を図ることが、引き続く内視鏡的診断と治療の前提となる。ガイド
ラインでは緊急内視鏡検査で現に胃潰瘍出血が認められる場合、あるいは再出血の
リスクの高い病変(露出血管)が認められた場合には内視鏡的止血を行うことを推奨し
ている。止血の方法にはさまざまあるが、いずれの方法を用いても有意差はなく、各施
設で最も手慣れた方法で止血を試みればよい。止血不成功例では手術移行の早期
の見極めを行い、すみやかに外科手術によって止血を行う。外科術式については施
設毎あるいは出血部位毎に異なり、また適切な文献的証拠が乏しいこともあって今回
のガイドラインでは触れていない。
通常潰瘍の治療
止血に成功したら通常の潰瘍治療に準じて治療選択を行う。通常の胃潰瘍治療に
は、その原因を検索することが必要となる。非ステロイド消炎鎮痛薬(Nonsteroidal
Anti-Inflammatory Drugs: NSAIDs)については、その服用歴を確認し、Helicobacter
pylori(H.pylori)感染症については、日本ヘリコバクター学会が作成した H. pylori 診
断と治療のガイドライン(2)に従って感染診断を行う。NSAIDs 服用歴のある場合には、
H. pylori 感染の有無に拘わらず、原則として NSAIDs を中止し、潰瘍治療を行う。
NSAID を中止できれば、非 NSAIDs と同じ扱いとなるので、H. pylori 陽性であれば
除菌治療、陰性であれば PPI などによる抗潰瘍薬治療を行うことになる。NSAIDs を中
止できない患者の場合には、治療としては PPI またはプロスタグランジン薬(PG 製剤)
が推奨される。なお、NSAIDs 潰瘍は予防が重要であり、選択的 COX2 阻害薬への切
り替え、PPI, PG 製剤のほか高用量のH2受容体拮抗薬も有効である。しかし、わが国
の医療制度では保険未承認(COX2 選択的阻害薬)、予防的投与に対する保険診療
上の制約など、実際の日常診療にガイドラインの勧告が反映できないという問題が残
されている。
わが国の胃潰瘍の大半は NSAIDs 服用歴のない H. pylori 陽性の潰瘍である。こ
の場合には除菌治療が最優先される。その理由は、除菌成功により、潰瘍治癒率の
向上、潰瘍再発が著しく抑制されることにより維持療法が不要となり、医療経済的にも
きわめて優れた治療法であることによる。従って除菌治療が成功すると、胃潰瘍患者
の治療は終了することになる。除菌治療は現在のところ80−90%の成功率があるが、
初回の除菌治療では不成功に終わる症例もある。この場合には再除菌を行うが、その
治療には初回と異なる薬剤の組み合わせが推奨されている。これは現行の保険診療
では認められていない。除菌治療薬に対するアレルギーや全身疾患の合併等によっ
て除菌治療が行えない場合も存在する。このような除菌適応のない胃潰瘍患者は H.
pylori 陰性潰瘍患者と同様に除菌によらない胃潰瘍治療を行うことになる。その治療
選択としてはプロトンポンプ阻害薬 (PPI)、H2受容体拮抗薬 (H2RA)、一部の防御因
子製剤が推奨されているが、特に高い治療効果を持つ PPI が第一選択薬として勧告
されている。またわが国でしばしば行われている攻撃因子抑制薬(PPI または H2RA)
と防御因子増強薬の併用療法については攻撃因子単剤による治療効果を上回る明
確な根拠がないという理由で勧められていない。除菌治療を行わず酸分泌抑制薬の
みで治療された場合、その後は有効性が示されている H2RA, PPI, スクラルファートの
いずれかを用いて維持療法を行うべきであるとされている。わが国で維持療法に用い
られている防御因子増強薬の大半については維持療法における上記の薬剤と同等あ
るいはこれを上回る根拠がない。
今後の課題
すでに述べたように、現行の保険診療の制約のためにガイドラインに基づいた診療
が行い得ない場合がある。行政当局としては、これら臨床的エビデンスに基づいたガ
イドラインが実施できるように保険診療との整合性をはかっていく必要があると思われ
る。また現在の国際的基準に従っていない時代の臨床試験によって認可された薬剤
や根拠が曖昧なまま慣用的に行われている治療については学会や行政当局が見直
しを行うべきであろう。
今回のガイドラインでは、潰瘍の病因に応じた治療基準を示し、特にわが国で最も重
要な潰瘍の原因である H. pylori 感染に対する除菌治療を基軸とした潰瘍治療体系を
確立するとともに、根拠に基づいた治療選択を示した。しかし、除菌に関しては、H.
pylori 陽性の NSAIDs 潰瘍に対する除菌治療の問題が残されている。本ガイドライン
ではこの場合の除菌は推奨していないが、その後に発表された文献によると、除菌だ
けでは過去に出血などの合併症患者での潰瘍合併症の再発を除くことはできないが、
一般患者を対象として考えると潰瘍発生リスクを減少させる可能性を示す報告が見ら
れてきている(3−5)。従って、将来的には、NSAIDs の使用が予定されている場合に
は、あらかじめ除菌治療を行うようにガイドラインでも推奨すべきかもしれない。このよう
に、ガイドライン発表後も新たなエビデンスが集積してきており、今後一定期間をおい
てガイドラインの改訂を行う必要がある。そのための仕組みとして財団法人医療機能
評価機構による今回の胃潰瘍診療ガイドライン搭載は重要な意義を持つと思われる。
おわりに
今回のガイドラインづくりは、さまざまな方々、特に多忙な日常臨床に加えて多大な
時間と労力を頂いた分担研究者の努力に負っている。これは、わが国の潰瘍診療を
患者にとってより合理的、効率的に行うための第一歩であり、今後もその目標に向かっ
て努力を続けていく必要がある。
文献
1.
科学的根拠(evidence)に基づく胃潰瘍診療ガイドラインの策定に関する研究班
編:EBM に基づく胃潰瘍診療ガイドライン じほう社 東京 2003
2.
日本ヘリコバクター学会ガイドライン作成委員会:Helicobacter pylori 感染の診
断 と 治 療 の ガ イ ド ラ イ ン 日 本 ヘ リ コ バ ク タ ー 学 会 誌 2 suppl. 2-12, 2000
(Helicobacter Research 4, 444-454, 2000 にも同じ内容が転載されている)
3.
Chan FKL, To KF, Wu JCY, Yung MY, Leung WK, Kwok T, Hui Y, Chan HLY,
Chan CSY, Hui E, Woo J, Sung JJY: Eradication of Helicobacter pylori and risk of
peptic ulcers in patients starting long-term treatment with non-steroidal
anti-inflammatory drugs: a randomised trial.
4.
Lancet 359, 9-13, 2002
Huang JQ, Stridhar S, Hunt RH: Role of Helicobacter pylori infection and
non-steroidal anti-inflammatory drugs in peptic-ulcer disease: a meta-analysis.
Lancet 359, 14-22, 2002
5.
Lai KC, Lam SK, Chu KM, Wong BCY, Hui WM, Hu WHC, Lau GKK, Wong
WM, Yuen MF, Chan AOO, Lai CL, Wong J: Lansoprazole for the prevention of
recurrence of ulcer complications from long-term low-dose aspirin use. N. Engl.
J. Med. 346, 2033-8, 2002