SURE: Shizuoka University REpository http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/ Title Author(s) Citation Issue Date URL Version 浜岡からのメッセージ : 浜岡原発に携わる人々の声 小池, 美紀; 旭, 真理奈; 佐藤, 瑠美 御前崎市・浜岡佐倉. - (フィールドワーク実習調査報告書 ; 平成24年度). p. 5-44 2012-12 http://hdl.handle.net/10297/7046 publisher Rights This document is downloaded at: 2015-02-01T02:55:56Z 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 小池美紀、旭真里奈、佐藤瑠美 3 . 3マスメディアの報道 はじめに 3 . 3 . 1浜岡原発停止前の報道 1浜岡原発の立地の経緯 1 .1浜岡原発 1・2号機 3 . 3 . 2浜岡原発停止後の報道 1 . 3浜岡原発 5・6号機 4浜岡原発に携わる人々の声 4 .1浜岡原発佐倉地区担当として働く人 1 .4リプレース計画等 の声 1 .2浜岡原発 3・4号機 1 .5浜岡原発 1・2号機運転終了 4 . 2 御前崎市役所でのインタビュー 1 .6浜岡原発停止要請 4 . 2 . 1市役所の政策 2浜岡原発と共生する浜田町 4 . 2 . 2従来の想定を上回る『南海トラフ k地震』の想定 2 .1浜岡原発建設当時の浜岡町の様子 2 .1 .1当時の町の概要 4 . 3浜岡原発 0 8の声 2 . 1 . 2揺れる浜岡町 4 . 4 防潮堤工事に来ている中央開発の 2 . 2浜岡原発建設における町の変化 人々 4 . 5浜岡原発見学時のインタビュー 2 . 3浜岡原発建設における町の取り組み 2 . 4浜岡町の財政の変化 3福島第一原発事故後の原発をめぐる動向 3 .1福島第一原発事故 5今後のエネルギー 5 .1 風力発電の概要 5 . 2 風力発電の現実 3 . 2国民、政治、経済界の動向 5 . 3 再処理と廃棄物処理の課題 3 . 2 . 1 脱原発を主張する意見 3 . 2 . 2脱原発派がとらえる国民世論・ おわりに P 参考文献・参考資料・参考 H 政治界・経済界の変革 3 . 2 . 3脱原発に否定的な意見 はじめに 平成 2 3 ( 2 0 1 1 )年 3月 1 1日、未曾有の大震災が東日本を襲った。震源地は宮城沖で、後に マグニチュード 9 . 0と判断され、世界第 4位の地震で、あった。死者と行方不明者は 2万以 上で、圏内戦後最悪の自然災害となった。この東日本大震災によって福島第一原発は、地 震と津波による電源喪失から炉心溶融に至り、 3基で水素爆発、 4基で放射能の大量放出が 起こった。国際原子力機関 (IAEA)の評価尺度で、この福島第一原子力発電所事故は、昭和 6H 198ω年に起こった人類が最初に直面した原子力発電所(以下原発)問題であるチェルノブ -5- 御前崎市・浜岡佐倉 イリ事故 1と同じ、レベル 7であるとされた(戸田 2012)。 福島第一原発事故を皮切りに、マスメディアからは原発についての情報が多く流され、 国民の問では反原発の動きが高まった。各地の原発の停止に伴い、日本全体では電力不足 が叫ばれ、日本の電力状況に計り知れない大きな打撃を与えた。東日本大震災以降、電力 は「湯水のように使えるもの」ではなく、「大切に使うもの」となり、私たちはエネルギー の重要性とありがたさを再認識し、そしてエネルギーに対する大きな意識の変換を迫られ た 。 静岡県御前崎市旧浜岡町には、原発と風力発電の二つのエネルギー供給施設がある。と りわけ中部電力株式会社(以下中電)の浜岡原子力発電所(以下浜岡原発)が立地されている町と して有名であり、今回の東日本大震災の後にも改めて大きな注目を集めた。そこで、私た ちは、メディアではあまり取り上げられないエネルギーの生産者や地元住民の視点に重点 を置き、フィールドワーク調査を行うことにした。現場で働く人から見た原発の存在、浜 岡町と浜岡原発との歩み、浜岡町に住む地元住民にとっての浜岡原発の存在、そしてメデ ィアから流れる情報と、当事者や地元住民とのギャッブロについて調査を行った。本調査を 通して見えてきた、現場で働く人々や地元浜岡町に住む人々の生きた声が、本報告書を手 に取った人に一人でも多く伝われば幸いである。 1浜田原発の立地の経緯 まず、浜岡原発が│日浜岡町に建設されるまでの経緯をたどってみよう。なお建設及び立 地の経緯について、『中部電力 30年史I I(中部電力 30年史編集委員会 1981)、『中部電力 40年 r I(電気事業史・社史編纂会議 1991)、『中部電力 50年史I I(社史編纂会議 2001) 中部電力 60 史I 年史I I(社史編纂会議 2011)を参考にし、記述している。 1 .1浜岡原発 1・2号機 浜岡原発 1号機(出力 54万キロワット)は、昭和 42( 19 6 7 )年に地点決定以来、幾多の変遷を経 て、昭和 46( 19 7 1 )年 3月、地元の理解と協力を得て着工の運びとなり、昭和 51 ( 19 7 6 )年 3月 17日、中電初の原発として待望の営業運転を開始した。 同 2号機(出力 84万キロワット)は昭和 47(1972)年 1月、静岡県、浜岡町および関係 7漁業協 同組合(榛南 5漁協と遠州 2漁協)に増設の申し入れを行った。これに対して浜岡町議会での検 討、地区ごとの町政懇談会の開催などにより、町としての総意を決定する活動が行われた。 昭和 47(1972)年 2月、県は地元の意向を踏まえ、国の計画に組み入れられることに同意す る旨を回答し、電源開発調整審議会(以下電調審)において電源開発の基本計画に組み入れられ ることが承認された。そして昭和 48( 19 7 3 ) 年 6月、原子炉設置変更および電気工作物変更に ついて許可された。 1 1986年 4月、ウクライナの首都キエフ北方にある原子炉発電所 4号炉で、炉心の爆発・溶融破壊、建屋 破壊事故が起き、多数の死傷者が出て、欧州諸国など広い範囲に放射能汚染をもたらした。 -6- 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 0月、県の立ち合いのもとに浜岡町と中電の間で f 2号機増設に伴う相互協 また、同年 1 力に関する協定」を締結した。したがって、残るは 7漁業協同組合に対する漁業補償のみ ということになったが、その後、漁業協同組合側に中電との交渉体制ができたことから補 9( 19 7 4 ) 年 3月、榛南 5漁業協同組合・遠州 2漁業協同組合と中電 償交渉が進展し、昭和 4 9年 3月に は、漁業補償の協定を締結した。この漁業補償の解決にともない、中電は昭和 4 1 9 7 8 )年 1 1月 29日営業運転を開始した。 浜岡原発を着工し、昭和田 ( 1 .2浜岡原発 3・4号機 2( 19 7 7 )年 6月、中電は浜岡町および関係 7漁業協同組合に 3号機 (110万キロワット) 昭和 5 増設の申し入れを行い、同時に静岡県および隣接 4町(旧御前崎町・旧相良町・旧小笠町・旧大東 町)に増設について協力を要請した。これを受けて、浜岡町当局は議会・対策協議会などで 説明を行うとともに研究会、講演会、見学会などを実施した。住民の意見を集約するため に開催された地区ごとの町政懇談会においても、前向きに検討がなされた。 7 8 )年 6月、中電は環境影響調査書を通商産業省へ提出するとともに、地元で説 昭和田(19 明会などを開催し、広く一般に調査書の公開・縦覧を行った。同年 10月、第 76回電調審 2月、原子炉設置 において、国の電源開発基本計画に組み入れられることが決定し、同年 1 変更許可を申請した。 4 ( 1 9 7 9 )年 1月に原子力行政体制の改革が実施され、安全審査はダブ、ルチ 申請直後の昭和 5 ェック(通商産業省による 1次審査、原子力安全委員会、原子力委員会による 2次審査)で行われること 8 1 )年 3月の第 2次公開ヒアリングでは、約 5000名の浜岡原 になった。さらに、昭和田(19 発反対派がデモを行うなど、地元ばかりでなく全国的にも注目を集めた。 4年 3月にスリーマイル島発電所の事故2、 昭 和 田 年 4月に日本原子力発電(株)敦 昭和 5 賀発電所の廃液漏洩問題、さらに東海地震問題が生じたため、これらの影響を受けて厳し 6年 1 1月に許可された。一方、地元関 い安全審査が行われ、約 3年の年月をかけて昭和 5 係者に対しては原子力に対する不安を解消するため、中電は積極的に PR活動を展開し、引 き続き理解と協力が得られるよう努めた。 その後、浜岡町との話し合いが解決して着工同意を得て、昭和田(1982)年 8月、静岡県の 立ち合いのもとに、浜岡町と中電との間で 3号機増設にかかわる協定書を締結した。また、 1月に仮協定を 漁業補償について榛南 5漁業協同組合と精力的に交渉を進めた結果、同年 1 2月に遠州 2漁業協同組合 締結して着工の運びとなった(本協定は昭和田年 3月締結)。同年 1 との漁業補償も解決した。 1985)年 3月、中電は多年にわたる地元の深い理解と協力のなかで、 1・2号機な 昭和 60( らびに着実に建設工事を進めている 3号機の実績をもとに、浜岡町および関係 7漁業協同 1 1 3万 7, 000キロワット)増設を申し入れ、同時に静岡県および隣接 4 町に増設 組合に 4 号機 ( 2 1 9 7 9年 3月、アメリカ東部ペンシルヴァニア州ハリスバーグ、市のサスケハナ川にある島にある原子力発 電所の加圧水型炉で、炉心の半ばが溶融する事故が発生し、放射能が外部に漏れた。 -7- 御前崎市・浜阿佐倉 について協力を要請した。これを受けて浜岡町当局は、議会・対策協議会および各地区の 町政懇談会などで増設計画の説明およびこれに対する住民の意見を集約したが、そのなか で、原子力発電所が町の振興に役立っていることを踏まえて前向きに取り組む意向を明らか にした。 8 6 )年 3月、中電は環境影響調査書を通商産業省へ提出するとともに、関係 5 昭和 61(19 町対策協議会、各漁業協同組合など各種団体に環境影響調査書の説明会を開催する一方、 広く一般に調査書の公開・縦覧をすすめ、早期に同意が得られるよう努めた。 同年 4月、浜岡町は 4号機増設について町議会全員協議会の同意を得て、静岡県の立ち 合いのもとに、浜岡町と中電との間で 4号機増設にかかわる協定書を締結した。 昭和 61年 4月に、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生し、世界的に反原発運動が 激化した。そのなかで中電は、地元住民や漁業関係者に対し同事故についての説明を積極 的に行い、 4号機増設の理解と協力が得られるよう努めた。 漁業補償については 7漁業協同 組合と交渉を進めた結果、昭和 61年 10月榛南 5漁業協同組合と仮協定(本協定は昭和田 ( 1 9 8 7 ) 年 3月)を、同年 1 2月には遠州、12漁業協同組合と協定を締結した。 一方、このような情勢のなかで、昭和 61年 8月、第 1次公開ヒアリングが開催され、同 年 10月には第 104回電調審において、国の電源開発基本計画に組み入れられることが決定 され、同年 1 1月、原子炉設置変更許可申請を行った。第 2次公開ヒアリングは、公開ヒア リング方式のような大規模なものとせず、昭和 63( 19 8 8 ) 年 1月に「地元意見を聴く会」とし て開催され、同年 8月に許可となった。 1 . 3浜岡原発 5・6号機 将来の電力需要の伸びにこたえるとともに電源の多様化を目指して、中電は 21世紀初頭 以降の重要電源の開発を着実に進めるため、 4号機東側に増設可能との見通しを得て、平成 5 ( 1 9 9 3 )年 1 2月、浜岡町および関係 7漁業協同組合に 5号機(13 8万キロワット)増設の申し入 れを行うとともに静岡県および隣接 4 町に増設についての協力を要請した。これを受けて 浜岡町は、議会・対策協議会および各地区の町政懇談会などで増設計画の説明およびこれ に対する住民の意見を集約した。 平成 6( 19 9 4 )年 10月、中電は、環境影響調査書を通産省に提出するとともに、関係 5町対 策協議会、各漁業協同組合など各種団体に環境影響調査書の説明会を開催する一方、広く 一般に調査書の公開・縦覧を行い、早期に同意が得られるよう努めた。 ところが、平成 7( 1995)年 1月、兵庫県南部地震が発生した。国は、原子力発電所の安全 審査に用いる「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」が兵庫県南部地震を踏まえ ても打倒であることを検討するため、原子力施設耐震安全検討会を設置した。平成 7年 9 月、同検討会の検討結果が公表され、同指針の妥当性が示された。この時期、 5号機増設の 地元意見集約時期と重なったこともあり、中電は積極的に原子力発電所の耐震安全性につ いて説明を行った。 -8- 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 また、平成 7年 1 2月、動力炉・核燃料開発事業団(旧動燃現核燃料サイクル開発機構)の高 速増殖原型炉『もんじゅ』においてナトリウム漏洩事故が発生した。このような情勢のな かで、中電は地元住民や漁業関係者に対し同事故の説明を積極的に行い、 5号機増設の理解 と協力が得られるよう努めた。 ( 1 9 9 6 )年 10月、浜岡町が 5号機増設について町議会全員協議会の同意を得て、同年 平成 8 1 2月、中電は浜岡町との間で 5号機増設にかかわる協定書を締結した。平成 8年 1 2月 、 19 9 7 )年 3月には第 1 3 4回電調審において、国の 第 1次公開ヒアリングが開催され、平成 9( 電源開発基本計画に組み入れられることが決定された。 一方、漁業補償については 7漁業協同組合と交渉を進めた結果、平成 9年 9月榛南 5漁 業協同組合と仮協定(本協定は平成 1 0( 19 9 8 )年 3月)、平成 10年 8月には遠州、1 2漁業協同組合と 協定を締結した。 原子炉設置変更許可申請については、中電は平成 9年 4月に申請し、平成 10( 19 9 8 ) 年2 月、通産省から原子力委員会および原理力安全委員会に諮問された後、第 2 次公開ヒアリ ングが同年 6月に開催され、同年 1 2月に許可となった。 許可後ただちに、第 1回工事計画認可を申請し、平成 1 1 ( 1 9 9 9 ) 年 3月に認可され(これをも って着工となった)、つづいて静岡県に建築確認を申請し、同年 7月に建築確認されたことか ら、建屋基礎掘削工事を開始した。 6号機の建設計画は、電気出力 140万キロワット級の改良型 BWRを採用し、平成 30年 代前半の運転開始を目標にした。建設場所は 5号機の東側とし、建設に必要となる用地を ( 2 0 0 9 ) 年 4月 、 6号機建設計画の基本検討(主要設備の配 新たに確保することとした。平成 21 2月に終了 置検討など)を行うため、計画地点周辺の地質調査を開始した。この調査は同年 1 した。 6 号機の建設に先立ち、最初の手続きとなる環境影響評価は、平成 9 ( 1 9 9 7 )年の環境影響 評価法の制定を受けた中電初の手続きとなる。従来は、環境影響評価が終了してから調査 書を公表していたが、新法では調査・予測・評価の手法について記載した方法書をあらか じめ公表する手順が追加された。また、環境影響評価の内容についても、生態系の評価、 人と自然とのふれあいの活動の場など、従来に比べて幅広い評価が必要となった。中電で は、この方法書の作成と公表の準備を進めていたが、平成 2 3 ( 2 0 1 1 )年 3月に発生した東日本 大震災への対応を最優先し、工程の見直しを検討することとした。 1 .4リプレース計画等 0 ( 2 0 0 8 )年 1 2月、中電は、 1・2号機の運転終了の決定、かわりに 6号機の開発を目 平成 2 指すこと、併せて使用済核燃料乾式貯蔵施設を建設することを、「浜岡原子力発電所リプレ ース計画等」として公表した。 浜岡原発について中電は、平成 1 7 ( 2 0 0 5 )年 1月に、地元住民の安心を第一に考え、自主的 に目標地震動約 1 0 0 0ガル(岩盤上における揺れの大きさの単位)による耐震裕度向上工事を実施 -9- 御前崎市・浜伺佐倉 することとした。 3-5号機の改造工事は平成 20年 3月までに完了した。しかし、 1・2号 機が目標地震動に対応するためには、相当な工事費用と工事期間を要するとの結論に至っ た 。 一方、電力の安定供給と地球環境保全の観点から、原子力発電の果たす役割に一層の期 待が集まるなか、電源構成に占める原子力発電の割合が他の電気事業者に比べて低い中電 は、何よりも優先にして原子力発電への積極的な取り組みを進める必要があった。 以上のことを踏まえ、 1・2号機について工事を実施し運転を再開することは経済性に乏 しいことから、その運転を終了することとした。かわりに、送電線路等の既存の設備を共 用できることから、浜岡原子力発電所の用地の東側に 6号機を平成 30年代前半の運転開始 を目標に建設することとした。また、 1・2号機の運転終了に伴い両号機の燃料プールから 使用済核燃料を搬出することを踏まえ、発電所施設の一部として全号機共用の使用済核燃 料乾式貯蔵施設を平成 28年度の使用開始を目標に建設することとした。 中電はリプレース計画等の公表時に合わせて、御前崎市および関係 6 漁業協同組合に対 して 6号機建設に関わる申し入れおよびリプレース計画等に関わる協力を要請した。また、 静岡県および隣接 3市に対してリプレース計画等に関わる協力を要請した。以降、リプレ ース計画等について、中電は地元住民に対し説明を積極的に行い、理解と協力が得られる ように努めていくこととした。 1 .5浜岡原発 1・2号機運転終了 0 ( 2 0 0 8 )年 1 2月 、 1.2号機の運転終了野決定に伴い、浜岡原発電気出力について、 平成 2 488, 4万キロワット(当時の 5号機出力は 1 2 6, 7万キロワット)から、 1 ・ 2号機出力分を減じた 350, 4 万キロワットに変更する旨の電気工作物変更届出を経済産業大臣に行った。また、経済産 業大臣へ 1・2号機の運転を行わないことなどを規定した原子炉施設保安規定の変更認可を 申請し、平成 21 (2 0 0 9 )年 1月に認可された。 1.2号機は、これまでに受けた地元住民から の理解・協力に対して感謝の意を表しつつ、平成 21年 1月 30日午前零時をもって運転を 終了した。累積の発電時間は 1号機で 14万 4570時間、 2号機で 1 6万 939時間で、あった。 発電電力量は 1号機で 75, 056百万キロワット h、2号機で 1 3 2, 259百万キロワット hであ った。設備利用率は 1号機で 4 8 . 2パーセント、 2号機で 5 9 . 5パーセントで、あった。 日本では、運転を終了した原子力発電所は解体撤去することになっており、その実施に あたっては、法令に基づき、あらかじめ廃止措置の計画を定め、国の認可を受けることと なっている。このため、平成 21年 6月 、 1・2号機にかかわる廃止措置計画認可申請書を 経済産業大臣に提出した。同申請書においては、原子炉施設の解体を安全かっ確実なもの とするための全体計画や、至近数年間の解体工事準備期間中に実施する、系統除染や汚染 状況調査等の作業内容および安全確保対策などを記載した。また、廃止措置の期間全体を 第 1段階「解体工事準備期間 j から第 4段階「建屋等解体撤去期間」までの 4段階に区分 し、この順番で実施していくことを決定した。第 2段階移行については、第 1段階での調 - 10 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 査・評価結果に基づき詳細計画を策定し、廃止措置計画の変更認可を受けた上で実施する 予定とした。 1月、経済産業大臣より認可を受けた。また、 1・ 廃止措置計画については、平成 21年 1 2 号機が廃止措置段階に移行することから、運転段階にある 3~5 号機(共用施設を含む)と、廃 止措置段階となる 1・ 2号機の施設とにそれぞれ分けた。平成 21年 1 0月、経済産業大臣へ、 1月に認可 必要な保安上の規定を追加した原子炉施設保安規定の変更認可を申請し、同年 1 を受けた。これらの認可により、 1・2号機は、廃止措置段階(第 1段階)に移行した。 国内で初の商業用軽水炉であり、また、 2基同時並行の廃止措置になることから、作業員 の被ばくや放射性廃棄物の発生をより低減する工夫・努力をしながら、後に続く他の原子 力発電所の規範になるような作業を進めていくこととした。その後、安全確保を最優先に、 第 1段階として計画した燃料の搬出、施設の除染状況の調査・検討、系統除染、放射線管 理区域外の設備・機器の解体撤去の各作業を進めた。 1.2号機の系統除染作業は、原子炉 1月 再循環系、原子炉冷却材浄化系および余熱除去系の機器・配管について、平成 21年 1 2月にかけて機械的な除染作業を実施し、同年 1 2月から 22年 3月にかけて科学的な から 1 除染作業を実施した。 2月に、 1・2 一方、放射線管理区域外の設備・機器の解体撤去工事として、平成 21年 1 号機の屋外に設置されている原子炉格納容器宝素供給装置の解体撤去工事を開始した。 1 . 6浜岡原発停止要請 3 ( 2 0 1 1 )年 3月 1 1日に起こった東日本大震災を受け、同年 5月 6日、菅直人元総理 平成 2 大臣は緊急記者会見を聞き、浜岡原発の停止要請を中電に行う旨を明らかにした(玉川 2 0 1 1 ) 。この要請を受け、中電は同年 5月 1 4日に浜向原発をすべて停止し、平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年 9月現在も浜岡原発は運転を再開しておらず、 6号機の建設工事も停止している。 以上、史料はすべて中電側のものであるが、中電が旧浜岡町へ浜岡原発を立地した経緯 や中電の取り組み、それに伴う地元住民の協力や受け入れが多くなされてきたことがわか る 。 2浜岡原発と共生する浜岡町 私たちが調査を行った旧浜岡町佐倉地区は、浜岡原発の建設によって、そこに住む人々 の暮らしを大きく変化した地域である。この節では、浜岡原発と共生してきた旧浜岡町の 当時の様子や町の生活の変容を、記述していきたいと思う。なお、旧浜岡町に浜岡原発立 地案が持ち上がった当時の町の概要、様子については『原発の町から 浜岡原発~ ( 森 1 9 8 2 )を参考にしている。 2 .1浜岡原発建設当時の浜田町の様子 2 .1 .1当時の町の概要 - 11 - 東海大地震帯上の 御前崎市・浜岡佐倉 静岡、浜松岡市に挟まれた小笠郡地方は、静岡県の中でも最もオープンスペースに恵ま れた土地である。いわゆる太平洋ベルト地帯で、これほど開発と工業化の手が伸びていな い地域は珍しい。それゆえこの地方は、古い言葉で言えば太平洋メガロポリス最後のオー プンスペースと言われたわけである。この小笠郡の一角を占める浜岡町も、この例にもれ ない、開発から取り残された田園地帯であった。浜岡原発計画が明らかになった頃のこの 町は人口 1万 7千人余りで、あった。昭和 30年 ( 1 9 5 5 )に池新田町と周辺の佐倉、比木、朝比 奈、新野の各村が合併して発足した町で、住民の 7割が米、茶、たばこなどを栽培してい た。農業以外にはこれといった産業がないため、毎年若い人たちが町外に流出、年 300人 前後の人口減を見ていた過疎地であった。 6 7 ) 7 月末現在の浜岡の町勢を見てみる。面積 浜岡原発計画が公になった昭和 42年(19 5 3 . 9 1平方キロメートル、人口 1万 7361人 、 341世帯となっている。 7月中に町に転入し た人 38人、同じく転出した人は 32人で、同月中の出生 1 7人、同じく死亡 1 6人である。 中電が浜岡原発建設地点として白羽の矢を建てるまで、静岡県内でもこの町の名前を知っ ている人は少なかった。また、当時の浜岡町の財政を見てみると、 1967年度の財政規模 2 億 3590万円のうち、財源トップは地方交付税で、 8700万円、全体の 37パーセントを占め ていた。典型的な過疎の赤字自治体で、あった。 2 . 1 . 2揺れる浜岡町 昭和 42年 7月 5 日付の『産経新聞』は、 1面で静岡発のスクープ記事を掲載した。「中 電の原子力発電所浜岡町(静岡県)が有力に 出力 50万キロワット 東海村の 3倍。」これ が浜岡原発計画を公にした発端である。原発の静岡県内建設を計画している中電はこのほ ど、岡県小笠原郡浜岡町佐倉地区(現在の静岡県御前崎市浜阿佐倉地区)を有力候補と決め、地元 町当局に「建設に協力してほしい」と申し入れた。開発電所の規模は電気出力 50万キロワ ットと言われ、東海村の原子力発電所の約 3倍の大規模なもので、あった。当局、町議会と も誘致賛成の態度をほぼ固めており、静岡県内初の原子力発電所建設問題は今後急速に具 体化するものと見られる、と同紙の記事はつづけている。 中電の浜岡町への原発建設正式申し入れは、同町佐倉の新野川と震川に挟まれた海辺の 約 160万平方メートルの敷地に、 500億円をかけて出力 50万キロワットの沸騰水型軽水炉 の原発 1基を建設したい、というものだった。 この計画は、『産経新聞』のスクープ記事の半年も前の 1月に、すでに内々に浜岡町に打 診されていたものだ。時の町長は、その後町議 2人と同町企画室長などの腹心をひそかに 当時の原発先進地茨城県東海村に派遣する一方、同町佐倉出身の実業界の大物、水野成夫 サンケイ新聞社長(当時)にこの計画を受け入れるべきかどうか相談した。 これが『産経新聞』のスクープに繋がったとしづ次第だが、いくら隠密行動といっても 小さな町のことである、町民がこうした慌ただしい動きを察知しないはずがない。そのた め町長が「安全性には信頼が置ける J と原発受け入れの意向を固めた頃には、原発建設の - 12 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 噂は人から人へ口伝えで、ほぼ町中に広まっていた。 原発建設の話が持ち上がった当時、浜岡町は典型的な過疎の赤字自治体で、あったため、 当時の河原崎貢町長は原発建設を推し進めていたが、原発歓迎の気持ちは、もちろん町長 だけで、はなかった。当時いわゆる電源三法(電源開発促進法、電源開発促進対策特別会計法、発電用 施設周辺地域整備法)はまだ成立していなかったが、原発を誘致すれば、町に固定資産税が入 る、建設費数百億円(浜岡 1号機の場合は約 600億円)という原発の設備投資により、雇用の増加 や資材の調達などの利益も地元に落ちるなど、このような金銭に対する思惑が、この地方 の人々の素朴な開発願望と絡み合い、それを巻き込んで、原発推進の声が町の有力者の音 頭とりで強まっていった。 昭和 42年 7月 1 2S,すなわち新聞報道から一週間後、町当局は建設地の地元佐倉二区 を手始めに原発建設計画の概要や計画発表に至る経過について地元説明会を開始、同月末 には河原崎町長自らが、御前崎町や相良町など周辺町村に出向いて経過報告をして廻った。 そして 9月 23日には、浜岡町議会全員協議会が中電との交渉に入ることを決めたことに続 き 、 3日後の 26日には自民党浜岡支部が支部大会を聞き、「原発設置の実現に向けて前進す る」との大会決議を採択した。保守系が議席の 9 割を占める町議会の原発に対する態度は ここで決まった。翌々日の 28 日には再び全員協議会が聞かれ、「補償などの諸条件が満足 されれば、原発建設を受け入れる」と、原発受け入れの用意を申し合わせ、 29 日には当時 の中部電力副社長が、町会本会議で型通りに「電気出力 50万キロワットの原発を佐倉地区 に建設したい」と申し入れて、浜岡原発は正式にスタートした。中電が町の有力者を通じ てひそかに計画を打診して以来、半年余りというスピードぶりで、あった。 2 . 2浜岡原発建設における町の変化 以上が文献による当時の旧浜岡町の様子であるが、ここでは私たちが地元住民にインタ ビ、ューを行い、得ることができた生の声を参考に浜岡原発が立地される前と後での町の様 子の変化について記述していきたいと思う。 8 3歳)は語ってくれた。鴨川氏 「この辺りはとにかく財政力が低かったんと鴨川義郎氏 ( は、昭和 50( 19 7 5 )年から昭和 6 2( 19 8 7 )年までの 1 2年間、旧浜岡町町長を勤めた経歴をもち、 まさに浜岡原発で浜岡町が揺れた時代を生きてきた人物である。 浜岡原発が立地される前の浜岡町は、整備された道路や街灯もなく、 トンネルで固まれ ていたため、陸の孤島や低開発地域と呼ばれていたそうだ。工場誘致もままならない土地 であったが、浜岡町には広い土地、岩盤、冷却水の 3 つの条件がそろっており、中部電力 の原発設置の候補地として挙がった。原発は誘致という形で設置されることが一般的だが、 浜岡町の場合は中部電力から請願をしてきた。浜岡原発建設に伴う地主と中部電力の交渉 に、鴨川義郎氏も立ち会った。浜岡町に土地をもっ 293人の地主たちは、先祖代々受け継 いできた土地を譲りたくはなかったが、国のエネルギ一政策のため、浜岡町の発展のため にと協力してくれたそうだ。 - 13 - 御前崎市・浜阿佐倉 浜岡原発ができてから、浜岡町の財政は一気に上がったという。市立御前崎総合病院が 建設され、田んぼだ、った土地に大型ショッピングセンターが建つようになり、最初は地域 の人々も、目覚ましい発展ぶりに驚いていたそうだ。この 4 0年間の浜岡原発による恩恵は 実に大きいものであった、と鴨川氏は感慨深そうに語った。 私たちが旧浜岡町佐倉地区滞在中お世話になった「民宿たけゅう J のご主人、竹田雄三 郎氏 ( 5 9歳)にもインタビューをさせてもらった。浜岡原発ができてから、浜岡原発の定期点 検で佐倉地区に業者関係の人が大勢来るようになったが、近くに泊まる宿がなかったため、 もともと自営業を考えていた竹田氏は、昭和 56( 19 8 1 )年に「民宿たけゅう」を始めたそうだ。 民宿を通して宿泊客である浜岡原発関係の業者と 30年来の付き合いがある方もいるとのこ とである。竹田氏は浜岡原発の立地における当時の中部電力と浜岡町との様子を語ってく れた。 浜岡原発ができる前の当時の浜岡町は、藤枝・袋井聞を走るディーゼ、ル機関車が通って いたぐらいで、他は特に何もなかったそうだ。昭和 43( 19 6 8 ) 年に中電から浜岡原発建設の申 し出が浜岡町へ提出された際、当時の『産経新聞社』社長に相談した当時の町長は「金の 卵を産む鶏が空から降ってきた J という話をされ、浜岡原発の建設はお金になる話しだか ら受けよう、ということになったのである。浜岡原発が建設されることによって町が潤う のではないか、と町の人々も期待し、中電の原発建設を容認した。中部電力に土地を売り、 商売が成り立たなくなった人が中電に雇われ、職をもらっていた。中電が建設される土地 には 7軒ほど貧しい家が建っていたが、中電がその家々を移転したことで、その家の人々 は以前よりも良い暮らしが送れるようになったとしづ。 浜岡原発ができてから、半年に 1回ある 90日間の定期点検のたびに、佐倉地区には浜岡 原発関係の労働者が大勢来るようになり、民宿も賑わいを見せていた。 3号機建設の時期は 一番経営状況が良く、その後もリプレース計画で、持ち上がった 6号機建設における地盤調 査や地質調査のボーリング業者や、工場増設や橋の建設での工事業者が宿泊客として民宿 を利用していたが、 1 0年前からそのような宿泊客は少なくなってきているようだ。定期点 検日数の短縮や、労働者の削減、ビジネスホテルの開業が原因である。今は浜岡原発建屋 の屋根の防水加工業者や、送電線の建て替えを行う業者が「民宿たけゅう j を利用してい るそうだ。浜岡原発ができてからというもの、民宿やガソリンスタンド、飲み屋など町の 庖の景気は良くなり、その頃の浜岡町は人口に対して飲食庖が 1番多い町だと植われてい たが、今では町の活気も失われつつある、と語った。民宿を営んでいるだけあって、浜岡 町の活気の変化を肌で感じているようで、あった。 2 . 3浜岡原発建設における町の取り組み 浜岡原発が建設されるにあたって、旧浜岡町佐倉地区では、どのような取り組みがなさ れてきたのだろうか。この節ではインタピ、ューによって得た町の取り組みを記述していき たいと思う。 - 14 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 まず、御前崎市町内会連合会副会長である平林和丸氏 ( 7 3歳)にお話を伺った。 原発建設後、佐倉地区対策協議会(以下佐対協)というものが設置されたそうだ。佐対協は昭 和 43(1968)年に設立され、役員は 16人で構成されている。会長は選挙で選ばれ、任期は 2 年となっている。月に 2 回対策協議会が聞かれ、中部電力側が佐対協の役員に原発の状況 を説明する。年に 1回聞かれる説明会は住民向けのものであり、佐対協役員が各公民館に 中電を呼んで、住民に質疑応答をとるものである。つまり佐対協は住民の代表であり、中 電の窓口でもある。説明会については回覧板で住民に知らせ、それを受けて中電の説明を 聞きたい人が集まる会である。原発についての詳しい説明は難しいため、普通の人が聞い てもまず分からないだろうし、知識を持っている人でなければ専門的で鋭い質問ができな 91人中、毎年 50人ほどが説明会に足を いため、ここ佐倉 3区の町内会に入っている人数 1 運んでいる。参加者は積極的に中電へ質問を投げかけているなど、熱心な様子であるよう だ 。 また、前節にも登場した「民宿たけゅう」のご主人、竹田雄二郎氏が佐倉協力会に参加 しているということで、佐倉協力会についてお話を伺った。 佐倉協力会とは、土建やノ〈イク、電気屋などの地元経営者が、中電から仕事が出たとき、 地元のことは地元でやらせてもらう商工会のような、中部電力に協力する組織である。サ ービスセンター協力会というのは、昔は中電の草刈りや、浜岡原発で出た温水から発生し たカキを収穫、粉砕して肥料にする作業などを行っていた組織であり、佐倉協力会はこの サービスセンター協力会が元となっている。この組織から独立してできた組織が協力会と なった。佐倉地区に中電があるため、佐倉地区の人々優先に使ってもらっており、主に土 建業の人に仕事が多い。この組織は 80社程で成り立っており、彼らは自分たちの儲けとい うよりも、佐倉地区を一つにまとめるために働いているそうだ。 浜岡原発が建設されるにあたって、浜岡町では受動的なだけではなく、町自らが能動的 に中電や浜岡原発にかかわってきたこと、そして雇用面で人々の生活と中電とがかかわり 合ってきたことがわかる。 2 . 4浜岡町の財政の変化 50号から県道、町道が 浜岡町には道路網が整備されており、町を東商に貫通する国道 1 延びる。町道とは言っても、道幅は広く、両側には並木のある歩道が続いている。中電の 電柱もうすい茶色に塗装され、環境美観に配慮している。浜岡町は社会資本も充実してい る。教育、文化、スポーツ、医療、福祉などの施設と制度は極めて高水準である。道路、 下水道の整備はもちろん、下水道設備も平成 13(2001)年現在建設中だ。言うまでもなく、豊 かな財政力が背景になっている(森 2001)。実際私たちが本調査で旧浜岡町を訪れた際、町に はコンビニエンスストアや大型スーパー、パチンコ届や公共施設なども充実しており、都 会的な印象を受けた。旧浜岡町は浜岡原発ができてからずいぶんと変容を遂げたのである。 000万円、財政 浜岡原発を建設する前、昭和 40年度の浜岡町の一般会計はわずか 2億 6, - 15 - 御前崎市・浜岡佐倉 力指数も 0.32の低水準であり、財政の 70パーセントは国や県からの支援を必要としてい た。しかし浜岡原発立地による固からの交付金や固定資産税等による税収の増加により、 2年度には大 自治体財政が大きく躍動した。浜岡原発 1号機の営業が始まった翌年の昭和 5 規模償却資産に係る固定資産税が飛躍的に増収となったことで、財政力指数も1.02 となっ た。昭和 5 3年度に 0 . 8 8と 1を割り込んだが、昭和 54年度以後は 2号機から 4号機の運転 営業も始まり、1.3以上を維持している。合併年度の平成 1 6年度には1.1 8となったが、平 成 17年度に 5号機の営業運転が始まり、平成 23年度は1.27となっている。 税収の増加により、さまざまな事業に資金が交付され、設備施設も充実した。市立御前 崎市総合病院、市立図書館『アスノ勺レ』、観光物産会館『なぶら館』、市民プール『ぷるる』、 ふれあい福祉センター『なごみ』、佐倉多目的ホール、御前崎ケープ、ルテレビ、佐倉幼稚園 など、町の教育、文化、医療、福祉施設などは、交付金でまかなわれた。(小池美紀) 3福島第一原発事故後の原発をめぐる動向 「はじめに J でも述べたが、平成 23( 2 0 1 1 )年 3月 1 1 日、東日本大震災に伴い福島第一原 発事故が起こった。福島第一原発事故は国内史上最悪の原発事故であるとされ、原発を取 り巻く状況は緊迫したものとなった。浜岡原発は数ある原発の中でも「世界一危険な原発」 と称され、日本中から大きな注目を集めることとなった。この節では、福島第一原発事故 後の国民、政治、経済界、マスメディアの原発に対する動向はどのようなもので、あったか を明らかにしたい。そのために、まず福島第一原発事故の特徴を述べる。続いて福島第一 原発事故の後に主張された脱原発派の意見と、脱原発派がとらえた事故後の原発に対する 国民、政治、経済界の動向を取りあげる。その上で、福島第一原発事故後に主張された脱 原発に否定的な意見を取りあげる。最後に、新聞による原発に関する報道、特に浜岡原発 に関する報道を取り上げ、マスメデ、ィアが原発に関する動向をどのようにとらえ、どのよ うな情報を伝えてきたかについて論じる。 3 .1福島第一原発事故 国内史上最悪の原発事故であるとされ、原発をめぐる状況を大きく変えることとなった 福島第一原発事故とはどのようなものであったか。ここでは福島第一原発における事故の 特徴を述べることにする。本節における福島第一原発事故に関する記述は、主として『原 発のコストーエネルギ一転換への視点j] (大島 2011)を参考にしている。 冒頭でも述べたように、東日本大震災は世界的に見ても最大級のものであり、地震とそ の後に発生した津波により福島・宮城・岩手の沿岸地域は壊滅的な被害を受けた。東北地 方は、日本の食糧生産の拠点であるのと同時に、大消費地としての首都圏の電気を作る拠 点でもあり、火力・水力・原子力の発電所が多く立地している。原発に関して言えば、福 島県には、東京電力福島第一、福島第二、宮城県には東北電力女J 1、青森県には東北電力 東通がある。また、原発関連施設として青森県には日本原燃六ヶ所再処理工場、高レベル - 16 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の芦 放射性廃棄物貯蔵管理センター、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター等 が集中的に立地している(大島 2011:2)。 東日本大震災での地震後、最も深刻な事態が起こったのは、福島第一原発においてであ った。福島第一原発の事故の特徴は、次の 5点に整理できょう。 第一に、世界初の地震や津波によって起こった大事故だということである。平成 20(2007) 年の新潟中越沖地震のときには、東京電力柏崎刈羽原発に大きな影響がでたものの、大事 故までには至らなかった。その意味では、神戸大学名誉教授・石橋克彦氏が警告を発して いた「原発震災」が初めて現実となったといえる。このことは、地震国日本にとっては重 大な意味を持っている。地震・津波被害を受けた人々は、放射能汚染に見舞われた。これ により、津波で被災した人々の救出が妨げられた。さらに、震災復興そのものも困難にな っている。 第二に、事故を起こした原子炉の数が複数に及んでいるということである。今回の事故 では、スリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故と異なり、事故を起こした原子 炉が 3 つ (1~3 号機)もある。さらに、原発内にある使用済燃料プール 6 つのうち、 4 つ (1~4 号機)の冷却機能が失われた。使用済燃料プールに貯蓄されていた使用済核燃料の数は 1号 、 2号機 615本 、 3号機 566本 、 4号機 1535本で、原子炉に装荷されている量よ 機 392本 りも多かった。原子炉に加えて、使用済核燃料プールを冷やし続けなければならないが、 プールが破損すれば、これも大量の放射性物質を環境中に放出することに繋がる。このよ うに、震災による事故が起きれば、一度に数多くの原子炉で大事故が起こることが明らか になった。 第三に、事故の一定の収束に非常に長い時間を要しているということである。スリーマ イル島原発事故は事態の収束までに数日しかかからなった。チェルノブイリ原発の事故で も、事故後約 2週間で収束し、 7カ月後には石棺によって封じ込めが行われた。ところが、 福島第一原発事故は、事故が起きてから数か月を経過しでも収束の目途が立たなかった。 これほどまでに長期間にわたって原発が制御不能に陥ることは、人類にとって初めての経 験である。 第四に、被害地域の広域十生である。東日本大震災において津波被害の直撃を受けたのは 沿岸地域に限られている。一方、放射能汚染は、福島県や東北地方に限らず、日本各地に 広がり、津波や地震の被害の範囲を大きく超えている。これほどまでの広域性をもった汚 染は、日本にはかつてなかったといえる。 第五に、汚染の不可逆性である。福島第一原発周辺の高濃度汚染地域では、避難を余儀 なくされ、地域コミュニティそのものが破壊された。これまでの環境問題において、この 事故のように、住民全員が短期間のうちに追い立てられるように避難し、長期間にわたっ て帰ることができないなどという経験は一度としてなかった。しかも、事故よる放射能汚 染は非常に長い間続くとみられる。広域性とともに、長期間にわたって生活環境が失われ るとし寸不可逆性が、福島第一原発事故の大きな特徴である(大島 2011:8)。 - 17 - 御前崎市・浜岡佐倉 3 . 2国民・政治・経済界の動向 福島第一原発事故を受け、原発をめぐる状況は事故以前とは比べものにならないほどに 緊迫することとなった。ここでは、まず、福島第一原発事故後の脱原発を主張する意見と、 脱原発派がとらえた福島第一原発事故後の原発に対する国民世論、政治、経済界の動向に 0 11)を参考にしている。次に、脱原発に否定的 ついて述べることにする。この記述は(大島 2 な意見を取りあげる。 3 . 2 . 1 脱原発を主張する意見 京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏は、原子力の専門家としての立場からその危険 性を訴え続けている。小出氏は著書『原発のウソj] ( 小 出 2 0 11)において「福島の原発事故 で、多くの人たちが政府や電力会社の宣伝してきた『安全神話』のウソに気がつきました j と福島第一原発事故後の状況を述べている(小出 2 0日 :1 6 2 ) 0I 原子力は現代社会にすさまじ い重荷となってのしかかっています。この恐怖から解放される方法はただ一つしかありま せん。『原発を止めること』。ただそれだけです。原発は、電気が足りょうが足りなかろう が、即刻全部止めるべきものです。そして、全部の原発を止めてみた時、『実は原発がなく ても電力は足りていた』ということに気づくでしょう。原発を止めたとしても、実は私た ちは何も困らないのです」と脱原発を主張した。壊れていた火力発電所を復旧させ、その 稼働率を 7割まで上げれば、日本の電力をまかなうことができると述べている(小出 2 0 1 1 :1 6 9、 1 7 0 )。 石橋克彦氏は著書『原発を終わらせるj]( 石 橋 2 0 1 1 )において「この期に及んでも政府は、 中部電力浜岡原発以外は安全だと言っている。しかし、地震列島の原発が『安全だ』など とは誰にも保障できない。現に、今回あらためて不備が明らかになった『発電用原子炉施 設に関する耐震設計審査指針』でさえ、『残余のリスク』が必ず存在すると明記している。 そうわかっている原発の運転を強行するのは犯罪行為といえよう。いまこそ日本は原発と 決別しなければならなし刊と政府を批判し、脱原発を訴えた(石橋 2 0 1 1:3 )。 3 . 2 . 2脱原発派がとらえる国民世論・政治・経済界の変革 国民世論は福島第一原発事故後に大きく変化している。政府に代わって、各報道機関に より国民の原子力発電に対する意識が把握されるようになっている。このうち、 N H Kが 平成 23( 2 0 1 1 )年 8月 27 日に発表した世論調査によれば、 8割近い国民が脱原発に足を踏み 出すことに支持を表明している。また、事故後初の原子力政策大綱改定にあたって原子力 4 5 6 7件)のうち 9 8パーセントが脱原発を訴えている。このように、 委員会にょせられた意見 ( 国民世論は脱原発を強く支持している。また、市民による現実の動きも見え始めている。 脱原発を求めるデモや集会も事故以来、全国各地で数多く取り組まれるようになっている。 たとえば、事故後半年を経た 9月 1 9日には、東京で「さようなら原発集会」が 6万人の参 - 18 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 加で行われた。このような規模で反原発集会が聞かれたのは極めて異例であるといえる。 w i t t e rやブログを通しでも組織されており、政治的な デモや集会は、インターネットの T 立場を超えて拡がっている。脱原発に向けて日本社会全体が大きく動いていることのあら われである。市民の力で、安心して生活できる社会を築く時期に来ている(大島 2011:173)。 政治の変革もみられるようになった。日本社会が脱原発に向けて大きく動くことを予感 させたのが、平成 23(2011)年 5月 6 日、国民世論を背景に菅元首相が中部電力に対して行っ た浜岡原発停止要請である。浜岡原発は、御前崎市の市街地に隣接し、近く起こるのでは ないかと考えられている東海地震の想定震源域のただ中に立地しており、世界で最も危険 な原発であると言われている。菅元首相の停止要請は、あくまで要請であって、法的根拠 はなかった。しかし、菅元首相による要請の社会的影響力は非常に大きく、国民的な関心 も呼び、中電は同年 5月 9日に要請を受託し、同年 5月 1 3日に 4号機、 1 4日に 5号機が止 められた。このときの菅元首相の要請は、原発の廃炉を求めたものではなく、あくまで安 全対策を十分に施すまでの期間という限定的なもので、あった。また、原発停止を他の原発 に波及させないと繰り返し述べたもので、あったが、危険性ゆえに原発が止まるということ は日本の原子力政策史上で初めてのことであり、歴史的画期をなす出来事で、あった。同年 7 月 1 3 日に菅元首相は、より踏み込んだ形で、原子力政策に対する言及を行った。「原子力事 故のリスクの大きさを考えたときに、これまで考えていた安全確保という考え方だけでは もはや律することができなしリとの認、識に立ち、「日本の原子力政策として、原子力発電に 依存しない社会を目指すべき j であり、「計画的、段階的に原子力依存度を下げ、将来は原 発がなくてもきちんとやっていける社会を実現してし、く。これがこれから我が国が目指す べき方向」と述べたのである。手続きや政府内部の調整を行っていなかったことを批判す る動きもあるが、それはともかくとして、半世紀を超える原子力開発の歴史のなかで、菅 元首相自らが脱原発への方向性を示したことはかつてなく、評価に値する。菅元首相の判 断は国民世論を見つめ、福島第一原発事故の事態を踏まえての歴史的判断であった(大島 2011:1 7 4 )。 経済界は、日本経団連を中心に脱原発に対して慎重な見解が多い。特に、素材系産業は その傾向が強い。じかし、注目すべき見解もでてきた。ソフトパンク社長の孫正義氏は、 福島第一原発事故後の早い時期から、脱原発の立場を鮮明にし、自らの私費を投じて再生 可能エネルギ一事業に乗り出した。また、経済同友会代表幹事・長谷川閑史氏は、原子力 の比率を徐々に下げていくとしづ縮原発という立場を表明している。他方、経済同友会内 部にも、日本 GE会長・藤本義明氏、ウシオ電機社長・菅回史郎氏やローソン社長・新郎 剛史氏のように、福島第一原発事故前と同じ旧態依然とした見解をとりつづける経営者も おり、経済界は混乱している ( S a n k e iB i z2011 .7 .1 5 )。そもそも、福島第一原発事故以前も、 日本の原発は新規立地が極めて困難になっていた。老朽化した原発をどんなに延命させた としても、早晩、原子力の規模は縮小し、自然に縮原発から脱原発へ移行せざるをえない 状況で、あった。経済同友会の長谷川の主張はこれを認める自然な考え方である。原子力発 - 19 - 御前崎市・浜阿佐倉 電の維持拡大は実現性の乏しいものであった。ここにきてようやく経済界の一部が、原発 をめぐる客観的情勢を認めるようになりつつある(大島 2 0 1 1 :1 7 6 )。 以上、脱原発派がとらえた福島第一原発事故後の国民、政治、経済界の変革について述べ てきた。国全体が脱原発に向かつて歩き始めていることを予感させる記述であるといえよ つ D 3 . 2 . 3脱原発に否定的な意見 脱原発派が国民、政治、経済界の動向をこのようにとらえていた一方で、脱原発に否定 的な意見も主張されていた。ただし、「中部電力は原子力発電を推進するテレビ C Mを当面、 0 11 .0 3 .1 3 )。原発を推進する意見は福島第一 自粛することを決めた」とある(W読売新聞~ 2 原発事故以前に比べ、出にくい状況にあったといえるだろう。 平成 23( 2 0 1 1 )年 3月 1 2 S,経済省幹部は「福島の原発事故で新規計画は難しくなったが、 それでも原発をやめるわけにはいかなし、」と強調していた。日本経団連の岩間芳仁環境本 長も「安全性を徹底的に追及したうえで原子力をうまく活用する方法を議論すべき」と脱 0 11 .0 4 .0 9 )。 原発には否定的で、あった(W毎日新聞~ 2 9 8 0年代以降脱原発を模索する動きが広がったが、その後、 また、実際に欧州、│などでは 1 政策を巡って再び議論が二分するケースが目立つ。スウェーデンでは 80年、米スリーマイ ル島の原発事故を受けて国民投票を実施し、当時 1 2基あった原発を 1 0年までに全廃する ことを決議した。だが、これまでに停止したのはわずか 2基で、現在も 1 0基が運転してい る。この結果を受け、日本エネノレギー経済研究所グループリーダーの村上朋子氏は「スウ ェーデ、ンは結局、原子力の代替エネルギーを見つけることができなかった。まして日本の ように電力需要が大きい国が脱原発を目指すのは難ししリと指摘した(W毎日新聞~ 2 0 11 .0 4 . 0 9 )。 3 . 3 マスメディアの報道 福島第一原発事故の直後から、マスメディアによって原発に関する様々な情報がもたら されてきた。原発に関する報道がなされない日はないと言っても過言ではないほどである。 この動きの中で、「世界一危険な原発」と称された浜岡原発に関する報道もまた劇的に増え た。福島第一原発事故、原子力推進行政の見直しに関する報道の中でも、浜岡原発に注目 しているものは非常に多い。この節ではマスメディアが福島第一原発事故後の動向をどの ようにとらえ、それをどのように報道したのかを述べていく。マスメディアのひとつとし て新聞を選び、特に浜岡原発に関する報道を取り上げることにする。まず、浜岡原発停止 前になされた報道を取り上げる。次に、浜岡原発停止後になされた報道を取り上げる。な お、ここで取り上げる新聞の報道は、『静岡新聞』と静岡大学付属図書館ホームページ『ヨ ミダス歴史館』、『毎索』、『静岡新聞データベース plus 日経テレコン のである。 - 20 - 2Uより抜粋したも 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 3.3.1浜岡原発停止前の報道 『毎日新聞』は平成 23(2011)年 4月 19 日付で、原発安全神話は完全に崩壊したとして原 発に関する特集を組んだ。「東日本大震災に襲われた東京電力福島第 l原子力発電所で発生 した事故は、園内史上最悪の原発災害に発展した」とし「原発から漏れ出た放射性物質の 拡散は収まらず、住民の健康不安に加えて、深刻な風評被害も広がっている。国や事業者 が喧伝してきた安全神話は完全に崩壊し、原発が抱えていたあらゆる危険性が一気に露呈 する形となった。主要な電力供給源を断たれた首都圏では、東電が初めての計画停電に踏 み切るなど『電力危機』が発生。企業の生産活動や市民生活に混乱をもたらしている」と 福島第一原発事故がもたらした状況を危倶した o毎日新聞Jl 2011. 04. 19)。 さらに、平成 23(2011)年 4月 18 日付で、同紙の連載『風知草』において以下のような論 評がなされた。「中部電力の浜岡原子力発電所を止めてもらいたい。安全基準の前提が崩れ た以上、予見される危機を着実に制御する日本であるために。急ぎ足ながら三陸と福島を 回り、帰京後、政府関係者に取材を試みて、筆者はそう考えるに至った」と書き出し、「浜 岡原発は静岡県御前崎市にある。その危うさは反原発派の聞では常識に属する。運転中の 三基のうち三つは福島と同じ沸騰水型で海岸低地に立つ。それより何より、東海地震の予 想震源域の真上にある。(省略)危機は去っていない。福島の制御は当然として、もはや誰が 見ても危険な浜岡原発を止めなければならなしリと他の原発よりもまずは浜岡原発をとめ るべきと訴えた(~毎日新聞Jl 2 0 11 .4 .1 8 )。 浜岡原発の停止を訴える国民の活動について多くの報道がなされた。ここでは 2つの事 例を取り上げる。平成 23(2011)年 3月 23 日付の『毎日新聞』で、高校生の団体が浜岡原発 の停止を求めて署名運動を行い、浜岡原発の運転停止を求める市民計 1, 200 人分の署名を 添えた要望書を中電に提出したことが伝えられた。また、同年 4月 10 日付で、東京・芝公 園で聞かれた浜岡原発の運転中止を求める市民集会が行われたことが報じられた。参加者 は「東海地震が起きれば、想定される震源域の真上にある浜岡原発では、福島第一原発の 二の舞かそれ以上の事態になる。即刻運転を中止するべきだ」と訴えたという(~毎日新聞』 2 0 11 .0 3 .2 3 )。 『毎日新聞』は平成 23(2011)年 4月 7日付で、静岡県が同年 4月 6 日に行った「県防災・ 原子力学術会議」の臨時会での浜岡原発の津波対策をめぐる協議での様子を伝えた。「中電 は防波壁の建設など新たな対策を説明し理解を求めたが、委員は納得せず、対策の再検討 を求めた。出席した川勝平太知事も『中電の説明が十分かどうかは疑問だ』と不満を示し た(~毎日新聞Jl 2011 .0 4 .0 7 ) J と報じた。「委員からは(中電の津波対策についての説明に対して)疑 0 問や質問が相次いだ。『砂丘が津波に流されない根拠はあるのかj] ~防波壁の高さを 12 メー トノレとした根拠は何かj] ~津波が周囲の川を逆流して流れ込まないか』など矢継ぎ早に中電 をただした。中電側は『想定では砂丘は津波に流されない。砂丘に固まれた周囲からの侵 入も考えていない。防波壁は高さ 1 5メートルを目安に検討していく』と答えたが、委員長 - 21 - 御前崎市・浜阿佐倉 側は『根拠がなし、』と一蹴した J と、浜岡原発が立地する静岡県での緊迫した様子を伝え た o毎日新聞~ 2 0 11 .0 4 .0 7 )。 3 . 2浜岡原発停止後の報道 菅元首相の浜岡原発の全ての原子炉の運転を停止するという決断は社会に大きな波紋を 広げた。各紙は平成 2 3( 2 0 1 1 )4月 7 日付、さらに中電が要請受諾を決めた翌日の 1 0日付の 社説で、浜岡原発停止について報じた。東京電力福島第一原発の深刻な事故を受け、原発政 策の転換を打ち出した『毎日新聞』では、 4月 1 5日付の社説で浜岡原発の名前を挙げて懸 念を表明していた。そのため菅元首相の要請について「決断を評価したしリと述べた。同 様に明確に原発政策の転換を主張する『朝日新聞』も、要請を妥当だとし I~危ない原発』 なら深慮をもって止めるという道への一歩にしたい」とした。一方、菅元首相の要請に「唐 突」との言葉を使ったのが『日本経済新聞』と『産経新聞』であった。『日本経済新聞』は、 「電力需給の実情を踏まえ、国民に説明する責任がある j と政府に注文し、『産経新聞』は 「日本が原発を否定したと受け止められる恐れがある」と懸念を示した。両紙は要請自体 の妥当性については言及しなかった。『読売新聞』は 5月 7日付で、福島第一原発の事故を 踏まえ I やむを得ない。中部電力は首相の要請を受け入れるべきだ J と論評した。だが、 1 0 日付では「首相の要請は事前調整もなく、あまりにも唐突だ、った J と指摘し、説明不足 への反省を求めた。『静岡新聞』は 7日付で「地元の意見を十分にくみ取った上での決断な らば、要請は妥当だろう」とする一方で、、「首相はやや唐突で、方向性と説得性に欠けた」と 0日付では「県民に安心・安全を納得してもらうための決断として受け止 批判した。また 1 めたい」とした。中電本!古のある愛知の地元紙『中日新聞』は、 1 0 日付で「浜岡原発を止 める判断は住民の不安を思えば無理もなし、」としつつ「突然の要請だった。その場しのぎ と見られでも仕方なしりと菅元首相を批判した。 浜岡原発が停止した後も、依然として浜岡原発に関する報道は絶たえることがなかった。 『静岡新聞』の取材班は平成 2 0( 2 0 0 8 )年 1 2月、中部電力が浜岡原発において 1 ,2号機を廃 炉にして 6号機を新設する「リプレース計画」を極秘裏に検討しているというスクープを 入手した。後の平成 21(2 0 0 9 )年 8月から連載『浜岡原発の選択』を展開し始め、浜岡原発に 関する情報を伝えてきた o静岡新聞~ 2 0 11)。平成 2 3( 2 0 1 1 )年 1 1月 2 0日付の連載『続浜岡 原発の選択 21Jiにおいては、中電と地元住民との関係が揺らいでいると論評した。 1 2 0 0 9 年 1月に運転終了した中部電力浜岡原発 I号機(御前崎市佐倉)の使用済み燃料プールに損傷 燃料 1体が残っている問題で、損傷燃料を処理するには受け入れ先との協議などが必要で 問題解決の見通しが立っていないにもかかわらず、 8月中旬の地元説明会で中電の幹部らが ~(青森県)六ケ所村の再処理工場さえ動けば通常の手順の中でやれる』などと説明していた ことが 1 9日までに分かつた J 1 原発の安全性や使用済みな燃料の再処理、放射性は廃棄物 0 処分の見通しについて『楽観論』を繰り返してきた固と電力会社。福島第一原発事故で楽 観論のメッキが剥がれたことで、住民との信頼関係や自治体聞の足並みが大きく揺らぎ始 - 22 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 めている J と指摘した。(W静岡新聞~ 2011 .1 1 .2 0 )。 停止要請からほぼ l年がたつた平成 24(2012)年 4月 29 日付の『静岡新聞』では、菅元首 相へのインタビ、ューについての報道がされた。全国の原発再稼働の議論をどう見るかとい う問いに対し、管元首相は以下のように答えたとしづ。「電力が足りない、としづ供給側の 話ばかりが聞こえてくる。需要側を考えれば、電力のピークカットに関しでもいろいろな 努力の仕方があるのに、議論が一方に偏っている。短期的には原発を再稼働させれば、石 油や天然ガスなどの燃料コストを抑制でき、(電力会社の)収支が改善される。それが(再稼働 の)収支が改善される O だが、核廃棄物の最終処分まで考えれば、実際はものすごいコスト になる」。再生エネノレギー普及の現状について管首相は、「大手企業をはじめ、風力や太陽 光の取り組みが日本中にかなりある。それらを積極的に引き出そうと経産省も動いている。 一層進めるのか、それとも抑え込むのか(の分岐点)が今年だ。原子力が使えないとなれば、 必ず進む。今年は脱原発依存、再生エネルギー推進の元年だ」と述べたという(W静岡新聞』 2 0 1 2 . 0 4 . 2 9 )。 以上、福島原発事故後の原発をめぐる状況を明らかにするために、脱原発を主張する意 見と脱原発に否定的な意見、マスメデ、ィアのひとつとして新聞での浜岡原発に関する報道 を取り上げてきた。原発に対する意見が飛び交いマスメデ、ィアによって膨大な量の原発に 関する報道がなされてきたことは、福島原発事故が起きた後、いかに原発に対する注目が 集まり、それを取り巻く状況が緊迫していたのかを物語っているといえよう。(旭真里奈) 4浜岡原発に携わる人々の声 フィールドワーク調査を行った私たちは、浜岡原発に携わる人々として中電職員、御前 崎市役所職員、浜岡原発が立地する地域の住民にインタビューを行った。ここでは、イン タビ、ューを通してきくことができた彼らの生の声を伝えてし、く。同時に、第 3節で取り上 げたマスメディアが伝える浜岡原発をとりまく状況と浜岡原発に携わる人々に関する情報 との聞のギャップを明らかにしていきたい。 4 .1浜岡原発佐倉地区担当として働く人の声 フィールドワーク調査初日、中部電力株式会社浜岡地域事務所に勤務している清水孝虞 氏にインタビューを行った。浜岡原子力発電所には地区別に担当者が存在し、要請があれ ば担当する地区に出向いて住民に向けて説明をしており、清水氏は佐倉地区の担当をして いるということで、あった。清水氏は主に中部電力と住民との話し合いの場である佐倉地区 対策協議会において、代表者を通して佐倉地区の住民に浜岡原子力発電所の運転状況やト ラブツレについての情報を伝えるという仕事をしている。 清水氏は浜岡原子力発電所から 2 キロ程度離れた場所で、暮らしている。清水氏は家族に 原発についての様々な情報を伝えており、奥さんがかつて浜岡原子力発電所で、働いていた こともあり、家族は原子力発電に関して何の心配もしていないと述べた。 - 23 - 御前崎市・浜阿佐倉 福島第一原発事故について清水氏は「我々が起こしてはいけない事故だ、った Jと語った。 原発が原因で多くの方に苦痛を与えたのであり、同じ発電所を運営している立場からする とつらいのが心情であるという。社会が原発をやめてしまうのであればそれは仕方がない ことだとする一方で、今の日本のエネルギーが脆弱な状態にあることを危倶していた。火 力発電の石油ガスは輸入元の国の情勢によって左右される不安定なエネルギー源で、あり、 石油ガスを使用していくのであれば、何かあれば電気がとまることを覚悟していなければ ならないという。それに対して原発は、点検のために 1 3カ月に一度停止するが、ひとつの 燃料で 2 年は運転することができ、安定したエネルギー源となることから、浜岡原発が安 全なものとなれば今後も使用していくべきだと主張した。清水氏は「運転開始時期が早い 発電所はトラブツレや弱点を乗り越えながら安全になっていくものである J と考えており、 福島第一原発のどこが悪かったのか情報を入手し浜岡原発に生かしていくことができれば、 と語った。 菅元首相の要請により浜岡原子力発電所が停止した後、生活に変化はあったのか質問し たところ、特に大きな変化はなく住民の方々も変わらず生活しているとのことで、あった。 常時点検の仕事があり、少なくとも今年中は地震と津波の対策を行うため、浜岡原発で働 く方々にも急に大きな変化が起こったということはないそうだ。中電の幹部は再稼働につ いてはまだ明言できない状態であり、安全対策に全力を注いでいると話した。清水氏は「再 稼働についての住民の方々の賛成反対は半々であるが、住民の方々に協力していただける のであれば、浜岡原発を再稼働させたしリと語る。 清水氏は、今後の日本社会全体に電気を安定して供給していくためには原発が必要であ ると主張した。現在原子力に代わるエネノレギーとして一番にあるのは火力発電であるが、 先に述べたように、火力発電は輸入元である国々の情勢によって左右されるため不安定な エネルギーであり、火力発電のみによって今後も電気を供給していくのは非常に困難であ ると清水氏話した。新エネルギーとして期待されている風力発電もまた天候に左右される ため不安定であり、さらに風力発電の設備のためには多額の資金が必要であり、風力発電 で社会全体の電気をまかなっていこうとすれば電気料金が上げざるを得なくなるそうだ。 すると社会全体が均等に電気を使用することは不可能になる。太陽光発電についても同様 のことが言え、現在のところ新エネルギーが社会全体の電気をまかなっていくことはでき ないというのが清水氏の見解であった。 - 24 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 ーーーーーー'竺竺=亘亘面画面画・圃-圃・・・・田・・園田・ーーー--- F - 写真 1 意欲に満ちている清水孝康氏(左)と岩本励氏(右) 4御前崎市役所でのインタビュー フィールドワーク 2 日目に、私たちは御前崎市役所を訪れた。そこで、御前崎市役所総 務部企画財政課原子力政策室室長を務める鈴木雅美氏 (47歳)にインタビ、ューに応じていただ いた。アポイントも取らずに突然訪問した私たちに対し、鈴木氏は丁寧に対応し、浜岡原 発にかかわる政策や、胸の内を熱心に語ってくれた。 4 . 2市役所の政策 鈴木氏の仕事は環境放射能調査であり、住民に安全と安心を届けることを目的としてい 0年間の平均値と比べ、 3カ月に一度、広報として『原子力だ る。調査で得られた数値を 1 より』を刷新する。局J 1新された『原子力だより』の表紙には、保育園の園児たちの元気な 姿が飾られていた(写真 2参照)。内容は環境放射能の調査結果で、線量率、積算線量、核種分 析の 三点の図表やグラフであらわされている。 - 25 - 御前崎市・浜岡佐倉 写真 2 市役所より刷新される原子力だより、環境放射能数値などが示されている 。 平成 22(2010)年に作成された小・中学生向けの原発についてのファイノレと下敷きをいただ いた。原子カ発電の構造や主要国の原子力保有数、日本の原子力発電所、ウラン燃料や生 活の中の放射線について、やさしいタッチのイラストを使い、分かりやすい言葉で説明し ている。 これらは教育の現場と家庭での原発理解を促すためのものである。 - 26 - 浜岡からのメ ッセージ 浜岡原発に主終わる人々の声 写真 3 イラストで原発について観明しているファイルと下敷き 東日本大震災以降、原子力政策室の窓 口に訪れた人、電話をした人は 9 0 0人以上だとい う。肪問者は住民だけでなく、 外国の人もいる。鈴木氏は、「安全の PRが難しくなったが、 原発についての知識や現状を知ってもらい、安全意識高めていくことはやはり必要である j と話した。 御前崎市は、中電と静岡県の間で昭和 5 6 (1 9 8 1 ) 年に安全協定を結び、連携を図っている。 原発に関することは、法律では固と事業者で決定できるが、浜岡原発に関することはこの 協定により 三者で決定される。また、原発にかかわることに限らず、町同士の協定も結ば れている。『災害時相互応援協定Jは、自力では対応できない大規模災害に備え、食料など の救援物資の提供、被災者の収容施設の提供、職員の派遣などをあらかじめ定めておく協 定である。御前崎市は、県外市町村を含めて 6件の協定を結ぶ(W 静岡新聞』 年 5月 平成 2 4 ( 2 01 2 ) 2 2日朝刊) 。 鈴木氏は、 『 備えは危機管理、そして心燐えである。逃げるための道を広くすること、逃 げ込める施設を作ることが私の仕事である。逃げられるところを確保するのが行政である J と語った。 4 . 2 . 2従来の想定をよ回る『南海トラフ大地震Jの想定 平成 24(2011) 年 5月 6 目、経済産業大臣が中部電力に対し、浜岡原発全号機の運転停止を - 27 - 御前崎市・浜岡佐倉 要請した。東海地震の起こる可能性が高し、から、というのが理由とされていた。しかし、 その可能性に根拠はない。それまでトップレベルの対策を行し、 大きなトラブルもなかっ た浜岡原発であるが、鈴木さんは当時の気持ちを「言語道断」としづ言葉で表した。 平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年 3月 1日、浜岡原子力発電所従事者 3, 902人のうち、御前崎市民は約 3 7 パーセントに当たる 1 , 442人、隣接 3市は 847人が発電所で働いている(御前崎市企画財政課 原子力政策室製作『御前崎市と原子力発電所』平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年)。これは平常よりおよそ 1 , 000人多 い。そこから仕事をもらって、生計を立て、生活を送る家族がし、るということである。 鈴木氏によると、現在浜岡原発では配管を強化したり、耐水性を高めたりするなどの 3 0 項目の対策が約 1 4 0 0億円かけて行われている。もちろん費用を負担する中部電力は赤字で ある。地震を防ぐことは難しい。しかし、安心を向上させるために、こうした対策は大き な意味を持つ。 鈴木氏個人の考えとしては、「原発は今でも安全Jである。 1 1 0 0パーセントの安全はあり えないが、小さな危険でも防ぐ努力が意味を持つ」という見解である。 原発には原子力の特性により必ず放射性物質が付いて回る。「放射性物質は絶対に外に出 してはならない。電力を供給する以前に安全を前提としなければならない。事故は肝に銘 じて起こしてはならなしリと主張した。 同年 3月末に公表された東海、東南海、南海地震の同時発生など「南海トラフ巨大地震 j についての震度と津波高は、県内でも従来の想定を大きく上回っていた。御前崎市では 2 1 メートルの津波が予想され、それは従来の予想の 2倍から 3倍も大きいものであった。防 波堤の高さは 1 8メートルで、 3メートル足りていない。しかし、この 1 2 1メートルj とい う数値は、最悪のケースを全て合わせた場合のものである。震度は 5つのケース、津波は 1 1のケースを合わせて、最大のものが想定されている。「この数値に信溶性はあるのか、本 当に現実的な数値なのか。この最悪の想定の地震・津波が起こる可能性は極めて低い。 1 0 0 0 年に一度か、それ以下である。いつ起こるかは分からない。国は数値を発表して終わるが、 現場では実際の対策と説明が求められる。守らなければならないが、限界がある」と語っ た 。 - 28 - 君主岡からのメッセージ 浜岡原発に燐わる人 々 の 芦 図 1 巨大地震による震度の最大値分布 県内の想定最大震度分布図 句 J'o 強弱 。 , ハ ① 図 2静岡県内の懇定最大震度分布図 ( 悶1 、2共に毎日 jp h t t p: / / m a in i c hi . j p / g r a p h / 2 0 1 2 / 0 8 / 3 0 / 2 0 1 2 0 8 3 0 k O ∞ 伽 制 ∞0 1 ωO c / 0 0 6. h t m l 平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年 9月 3 0日閲覧) - 29 - 御前崎市・浜岡佐倉 浜岡原発は市役所からおよそ 2キロメートル、鈴木氏の実家からはおよそ 4 . 6キロメート ルの距離にある。 EPZ( 緊急時計画区域、 EmergencyPlanningZone)は 1 0キロメートルとされて いるが、福島原発の事故では実際 62km離れた福島市からも高濃度の放射能が検出されてい る。「安全は数値で出るが、安心はそうではない。それぞれ捉え方が異なるため、納得する まで追求するべき」と主張した。 火力発電は三酸化炭素を多く発生する。火力発電を頼りとする状態で平成 3 2 ( 2 0 2 0 ) 年まで に温室効果ガス排出量を平成 21 ( 2 0 0 1 )年比で 25パーセント削減するのは困難である。 太陽光発電も原発と比べると発電効率が悪いことはいうまでもない。加えて太陽光発電 は 15年で取り換える住組みであり、使い終えた機材をどこで処理するかも問題である。 風力発電はデリケートなものである。クリーンな自然エネルギーも取り入れていく姿勢 が重要という点で、御前崎市にも導入された。隣接する牧ノ原市に民間で立てられた風力発 電がある。そこにはやはり、低周波で悩まされる住民やプロペラの影で作業が滞る農家が いるという話を聞いた。風力発電も一長一短で、実際問題、安定的な供給は望めない。 「リスクが少なく、環境にやさしいものを選んで、いくことは正しい選択である。しかし、 電気料金や設置のコスト、電力供給の安定性を現実的に考えたら、そうとばかりは言って いられない。(原発は危険だから)ない方が良いに決まっている。しかし、それだけでは済まさ れないことである」と話した。 4.3 浜岡原発 O Bの声 6 5歳)に話 かつて浜岡原発で働き、現在も浜岡原発にかかわる仕事をしている井戸正司氏 ( をうかがった。井戸氏は昭和 40( 19 6 5 )年に中電に入社し、昭和 47( 19 7 2 )年まで四日市火力発 電所に勤めた。彼は四日市火力発電で 1, 000 トンの重油タンクが毎日空になる様子、煙突 から煙が上がる様子を見てきたため、 1グラムで重油タンク 13 トン分の役割を果たすウラ ンの存在に衝撃を受けたという。そして、浜岡原発への転勤を自ら志願したそうだ。その 19 7 3 )年から平成 1 6 ( 2 0 0 4 )年まで、茨城の高速増殖炉 f 常陽Jの運転に勤めた 3 後、昭和 48( 年間を除き、浜岡原発電に勤めた。当時の担当業務は定期点検で、あった。定期点検は 1年 に 1度で、あったが、点検が行われていない時期もその準備に追われていたそうだ。井戸氏 は、他の原発で事故が起きた時はその原因を知り浜岡原発に反映させることに努め、事故 は絶対に起こしてはならないという 5 齢、意識を持ち仕事に取り組んで、いたと語った。現在 は中電配電サポートの共栄企業において、防護服関連の仕事をしている。 井戸氏は、家族は原発に非常にありがたみを感じていると話した。浜岡原発電が設立さ れ生活が豊かになったと感じているからである。彼が家族に「原発は大丈夫だ」と伝えて いるため、家族は安心して暮らしているそうだ。 井戸氏は福島第一原発の事故がテレビで報道されているのを見たとき、何が起こったの かわからない状態であったと話した。そして本当に驚いた、大変なことが起きた、もう終 わりだと思った、と福島第一原発の事故を知った時の思いを振り返った。「原発で働くもの - 30 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 はみなショックを受けた J と井戸氏は語る。事故が起こる以前は、格納容器は壊れないと いう前提で、安全対策を行ってきたため、全ての対策がだめになってしまったという雰囲気 であったそうだ。時聞が経ち、徐々に事故についての詳しい情報が入るようになり、福島 第一原発と浜岡原発の違いが見えるようになると、浜岡原発の方は大丈夫かなというぼん やりとした安心感を抱くようになったという。福島第一原発の場合、送電線、外部電力を 使用することが不可能になり、非常用のパッテりーも枯渇してしまった。全ての対策がだ めになること、ブラックアウトになることが想定していなかったのは、反省すべきことで あるというのが井戸氏の見解で、あった。 菅元首相の浜岡原発の停止要請について井戸氏は、「常に最悪の場合を考えて対策を講じ てきたのに、どうしてこうなってしまったのか」という自負の気持ちを抱いたという。仲 間内で、も浜岡原発について、再稼働か永久停止かの話題が出るようになり、浜岡原発に勤 めている者としては嫌な気持ちになったそうである。あんなに危険なものは停めてしまっ たほうがいい、といった意見を聞くとつらい部分もあったと話した。 浜岡原発が停止し、 点検がいつ行われるかわからない状態であったため、!百をたたまざるを得なくなった知り 合いもいたという。床屋を営業する友人も、停止後の一時期は客が減少したと話していた そうだが、現在は防波堤工事のために働く人々がいるため客の減少は感じていないとのこ 古を とで、あった。原発で働くといった直接的な利益ではなく、原発で働く人が利用する商J 営むといった間接的な利益を得ていた人の場合、客が減ったのは原発停止の影響ではない かと言われて初めて「ああ、そうか。」と気づく程度の影響であるという話もあった。 井戸氏は福島第一原発事故を受けて、「原発は安全です」と言ってきたのは間違いだった と考えている。「危ないから対策しています。だから安心してくださしリと、なるべく不安 を与えないよう、安全な面ばかりをアピールし、逆に危険な部分はクローズしてきたと振 り返った。原発は必要枠にあるが、原発の悪の部分を知ってもらった上で原発を選択して もらうことが必要であると考えている。火について話すのにたとえると、火を使えば料理 が作れるといった良い面ばかりを強調するのではなく、火事になるかもしれないという危 険な一面も伝えなければならないと話した。子供や孫を含めた未来の世代の人々がエネル ギーの面でこれからどう生きていくのか考えると、やはり原発が必要であるというのが井 戸氏の考えである。「不安や危険性を乗り越えてより安全な原発を後世に引き継し、でいくべ きだ j という信念は福島の事故が起きた後も変わらないことなのだという。 そもそも原発は国が進めた政策であり、設備費用が高いことなどから電力会社は原発を 嫌々始めた部分があったと井戸氏は振り返った。福島第一原発や東電も慢心していた部分 もあったのだろうが、福島第一原発事故後の国の態度はあまりにもひどいものだと感じた という。放射能の数値だけをもって国民の不安をあおるマスメディアに対しては、放射能 をやみくもに恐れるのは間違っていると指摘した。放射能についての報道がされるたびに アレルギー的反応を示す人々の不安対象が本当に原発であっているのかということに疑問 を抱いているという。放射能が本当に危険なものであるのか、国に更なる調査を求めてい - 31 - 御前崎市・浜阿佐倉 た。また、原発による安いエネルギー供給は日本の産業の底力であると語る。浜岡では荒 廃農地が増加しており、浜岡の人々の生活のためには製造業が元気を出さなければならな いとした。そのためには技術と安いエネルギーが必要だという。井戸氏は、安いエネルギ ーを供給する原発の仕事が日本を動かす重要な役割を担っていることを国が改めて公言す ることを望んで、いる。 自然エネルギーについて井戸氏は、風力発電にしても太陽光発電にでも、原発と同様に メリットとデメリットがあり、自然エネルギーへの完全な移行は現実的には厳しいのでは 3 ないかと話した。また、火力発電については、ウラン 1グラムでの原子力発電量が重油 1 トンでの火力発電量に匹敵する衝撃を忘れてはおらず、これからも大量のエネルギーが必 要であることは予想がつくが、それを全て火力発電によってまかなうのは環境の面から考 えるとよくない、やはり原発に頼るしかないのではないかと述べた。これからの日本のエ ネルギーを人々がどう選択していくのかは、大きな論点であるとしている。 写真 4 インタピュー後に井戸正司氏と(右から佐藤溜美、井戸正司氏、旭真夏奈) 4 . 4防潮堤工事に来ている中央開発の人々 防波堤工事のため、「民宿たけゅう j に宿泊していた中央開発の人々にインタビューに応 - 32 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の芦 じていただいた。お話を伺ったのは主に山田氏、君事藤氏、宮崎氏親子である。居合わせた 中央開発の人々は、「民宿たけゅう」が出来たころから利用しているそうだ。 原発で働く理由を尋ねたところ、もともと原発を目的として就職してはいないというこ とだ、った。「会社に入ってくる仕事の一つに原発関係の仕事が来るようになった J と啓藤氏 が話した。原発関連の仕事につくことについて、家族は特に気にせず、快く送り出さして くれると言う。 福島第一原発事故について、「事故が起きても原発のイメージは変わらない。それよりも、 耐震の仕事にこれまで以上に責任を感じるようになった。もし津波で福島第一原発に何も なかったら、これまで以上に原発が推進されたのではないか」と替藤氏は語った。「自分た 齢、知り合いは大 ちは 6 号機の計画がなくなっても、他の仕事があるものの、原発依存の 5 変だろうと思った」と心の内をあかした。 再稼働については、「結局のところ、原発に頼るしかないのではないか。しかし、電力不 足のために原発を稼働させる場合に 4 0年という期間は長すぎるのではないかと思う。電気 がなくなれば、病院で電気を必要とする患者さんたちが多く亡くなってしまうかもしれな い」と宮崎氏親子が語った。 風力発電について、「風力は電力会社のパフォーマンスでしかなしリと山田氏は主張する。 山田氏の計算によると、原発一基分の電力をまかなうには、風力発電が 220万基必要にな ると言う。風力一基を建設するには 10億円の費用(年々下がっている)と 3、4年の年月が必要 である。「日本の電力は風力ではまかなえない。風力を建てたら建てたで、環境破壊や騒音 問題で反対派ももちろん出てくるだろう」と話した。 今後のエネルギーについての見解は「完全なエネルギーは存在しない。どれを使っても 何かの負がある。原子力の代わりに火力に選んだとしても、需要に間に合わないし、燃料 の為に莫大な資金が必要となる。地球温暖化の問題もある。やはり、原発を動かすしかな いのではないか。国のトップたちもこのことは分かつていて再稼働をする方針も考えてい るのだから、国はどうやって国民を納得させるかが重要な問題である Jというものだった。 彼らの意識の中では、原子力発電や放射能に対して抵抗はない。「普段町の様子を見てい ても、なんともない。原発事故が起こったら、どこにいても結局は影響を受けるだろう。 それに、広島や長崎の原爆に比べたら、浜岡原発の放射能の影響など微々たるものだ」と 語った。 - 33 - 御前崎市・浜岡佐倉 写 真 5夕食を囲む中央開発の人々と、『民宿たけゅう」にて 。 4 . 5浜岡原発見学時のインタビュー フィーノレドワーク 5日目に、私たち文化人類学コ ース のメンバー全員が浜岡原発 5号機 の見学に参加した。その際に、原発内を案内して下さった中電浜岡地域事務所総括広報グ ループ専門課長の岩本励氏 (49歳)にインタビュ ーに応じていただいた。岩本氏は浜松工業高 ( 1982 ) 年に中電に入社した。原子力を扱う会社であることを学校の先生 校を卒業し、昭和 57 に聞き、技術関連の仕事に就こうと思っていたため中電に決めたそうである 。 「 放射能につ いてほとんど知識がなく、まっさらな気持ちで入社した。与えられた仕事をきちんとこな していく姿勢で、働きながらやりがいを見つけて b、く。放射能について正しく覚えること で不安は消え、逆に怖さはなくなっていった j と話した。青森や名古屋など県外で 7年働 き、その後はずっと浜岡原発で働いている。現在は広報の担当だが、もともとは放射線管 挨拶 j で、入社しておよそ 30年たつが、今でも挨拶を大事 理の担当だった。モットーは f にしていると 言 う岩本氏の挨拶は非常にさわやかだった。 浜北出身の岩本氏の家族は奥さんと中学 3年の娘さんと中学 1年の息子さんで、岩本さ んは現在単身赴任中である。家族は仕事を応援してくれていると言う。奥さんは、原発を 止めるよう要請があった時、 Iなんでみんな止めろ!というの ?J と声を漏らしたそうであ る。また、小学 6年だった息子さんの友達が「お前の父さん大変だなJ と学校で言ってい - 34 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の戸 た話を聞いて驚いたと話した。奥さんもお子さんたちも原発で働く父親の良き理解者であ る。 『 浜岡に来た時にはすでに原発があった。今では栄えているが、当時は全国的なチェー ン躍などはなかった。道路が整備され、交付金で作られる施設(病院、ケーブルテレピ、ぷるる など)が増え、人が生活しやすくなり、産業も発展した」と町の変化を語った。 w 世界 原発停止後については、生活の変化はないが、気持ちの変化があったと答えた。 r 一危険な原発』と言われ、停止の要請がされたが、地震が来ることが想定されている範囲 に建てていることは承知の上である。安全対策に尽力してきた職員にとって、これほど悔 しいものはなかった J と述べた。原発の運転停止が要請された時、総合事務所長が「そう だったら世界一安全な原発にしてみせよう J と立ち上がり、職員の意思が団結したと切言 した。今では原発に携わる全ての職員が一丸となって、安全対策に一層力を入れている。 「 心 とカを一つに 安全と安心の原子力発電所を 浜岡から世界へj というワッ ペンがすべて の職員の胸に貼られている 。 ワッ ペンによって浜岡原発で働く 全員が一つになって いる。 棋 のを戸 心筋余 awm 晴 と防省 全け弘 安問、 写真 6職員全員の気持ちを一つにするワッペン 再稼働について尋ねたところ 、 f 原発を再稼働させることが一番だろうけれど、今はそれ よりも安全対策を確実なものにすることが最優先である。安全確保が出来ない限りは動か せない。福島と同じ状況になっても放射能を放出することが絶対にないようにするために。 - 35 - 御前崎市・浜岡佐倉 しかし、電気がないと生活できない。もし再稼働することになったとしたら、相当の体力 が必要になるだろう J と答えた。 岩本氏はエネルギーをバランス良く利用することが必要であると考える。「石油や石炭、 LNGを燃やすのもいいが、燃料輸入や価格不安、温暖化、なによりも限りがあることが問 題である。ウランも大事なエネルギーであり、化石燃料や自然エネルギーなどと合わせ、 エネルギーのバランスをとることが大事」と主張した。「風力や太陽光など、自然エネルギ ーも活用すればいいと思う。しかし、自然エネルギーをあてにした生活はできないでだろ う。風力にしても太陽光にしても、安定した電力の供給は期待できない。それに太陽光パ ネノレは広大な面積を必要とするうえに、そのパネルの下の日陰になった地面には植物が育 たない。地球に良いとされていながらも、必ずしもそうではないのではないか。自然エネ ルギーの利用は必要だと思うが、自然エネルギーだ、けの生活となると現実的には厳しし、」 と語った。また、今後のエネルギーについては、「地球上に存在する限りあるさまざまな資 源をバランスよく、上手に利用すべき。原子力を一つのエネルギーとして活用していくの もありなのではないか。中電というのは矛盾した会社である。電気の使用量が増えれば増 えるほど収入も増えるのに、節約して下さいとお願いをしている。だが、資源の有効活用 というのは大切なことである」としづ原発で働く人の視線からの意見であった。 平 成 24年 ( 2 0 1 2 )年 5月に行われた御前崎市長選にて、石原氏が当選したことについて尋 ねたところ、「石原市長は原発の理解者で必要性についても分かつている。同時に市民目線 であるから安全についても厳しい。市民が選んだことだが、運営する側にとっても良かっ た」と話した。 福島原発事故については、「安全管理はどうなっていたのだろうと考えさせられる。『こ れだから安全!j)は通らなくなった」と語った。地震が起きた時、岩本さんは家族旅行の 前日で、休暇を取って知人と電話をしていたが、会社は緊急時対策・通報体制に入っていた と言う。「事故後も原発のイメージは変わらないが、安全に対する意識が高まった。このよ うな事故に起こしてはいけないと強く思った」と切言した。 東日本大震災以降は、電話対応がとにかく大変だ、ったそうだ。その年の 5月半ばまでは 1 日 900件ほどの電話が鳴りやまなかったという。「電話対応している方のハートがもたない くらいだ、った。電話の内容もさまざまで、泣きながら原発停止を求める女性もいたり、強 い口調で攻め立てる男性からの電話もあったりした。原子力館では、受付担当の中電職員 の女性が長時間説教をされたケースもある。反対派の人は佐倉地区にももちろんいる。あ る民主党派の人々に呼ばれ、その人々の下へ尋ねると、まず謝れと言われ、そこから 6 時 間程度謝罪と説明をしっぱなしだった。その団体は後日、郷土新聞にそのことを記事にし、 中電は安全の一点張りだったと載せていた。向こうが同じ質問内容を何度もしてきたから で、むしろ向こうが一点張りだ、ったくらいだ」と漏らした。 「中電に対する批判で職員が落ち込んで、いるときこそ、会合を持ったり、そろいのワッ ペンを作ったりして、モチベーションを高めて心を一つにしてきた。今は世界一安全な原 - 36 - 浜聞からのメ ッセージ 君主側原発に携わる人々の,rr- 子力発電所にしてやるう!という気持ちで頑張っている。気持ちというのはやはり大切な もの J と語った。 メディアに対しては、 正しい情報を伝えてもらうために、マスコミ対象の勉強会を聞き、 情報提供を行っていると話した。 fこの勉強会に来ている新聞記者は正しく記事を書いてく れているが、外部のマスコミは勉強不足と感じる記事が多い。発電とは関係ない内容で中 電を批判した記事もあった。 メディアやマスコミを批判するわけではないが、事実を伝え てもらえればと思う j と述べた。 「 エネノレギー 自給率 4 パーセントという数字が日本の現状だ。 その日本において、残り わずかな化石燃料を利用するか、原子力を利用するかといったら、私は原子力を選択する。 原子力は管理できるが、石油などは管理できな b、。原子力を推進するわけではないが、必 要なものであるとは思う 。原子力のあり方を人々 がよく考え、知ってもらうことが必要で ある。しかし、まず安全が第一だ。日本のエネノレギ一事情を考えると、絶対再稼働をさせ なければならないが、安全をまずは確実なものにしていくことが最優先である J と主張し た 。 写真 7前向きに働くさわやかな中電職員の清水さん、岩本さんと ここまで、原発に関わる人々のインタビューを記してきた。彼らの言葉にはさまざまな 思いが込められている。つづ く第 5節では、風力発電や太陽光発電に代表される新エネノレ - 37 - 御前崎市・浜岡佐倉 ギーについて触れ、今後のエネルギーについて考えていきたい。(旭真里奈、佐藤瑠美) 5今後のエネルギー ここまで浜岡原発の歴史や、福島原発事故が起きてからの浜同原発の動向、原発に携わ る人々が原発をどのように思っているかについて述べてきた。この節では、原発に代替す るエネルギーとして期待されている新エネルギーについて検討する。 1 0種類の新エネルギ ーがあるが、その中でも御前崎市に原発と併存する風力発電について触れてし、く。 5 .1 風力発電の概要 次世代を担う可能性を持つ新エネノレギーとして、風力発電を取り上げてみよう。風力発 電とは、風の力を利用した発電方式のことである。 日本における風力発電の開発は海外で、の風力エネルギ一利用の研究開発が活発化し始め 0 ( 1 9 7 5 )年ごろから開始された。風力発電の普及は目覚ましく、急速に技術革新が進 た昭和 5 み、コスト低減と設置場所の拡大に対応できるようになった。具体的にいえば、昭和 55( 19 8 0 ) 年始めは出力 50 キロワット機が主力であったが、平成 7(1995)年時点、で 500~800 キロワッ ト機が主力となり、翌年以降には 1 , 000~ 1 , 500キロワット機が登場し、開発段階から普及 段階に達している。設備容量の現状は平成 1 2 ( 2 0 0 ω年 1月時点で、世界が 1246万キロワッ ト、日本が 8万 3, 000キロワット、アメリカが約 206万キロワットとなっており、地域的 5 8万キロワット、オラ に偏西風が年聞を通じて吹くヨーロッパで、多く導入されている(ドイツ 2 ンダ 4 3万キロワット、イギリス 4 7万キロワットなど)。日本では平成 2 2 ( 2 0 1 ω年までに 30万キロ ワットの導入を目標にしており、大規模な開発例としては青森県の竜飛岬で 275キロワッ ト 、 300キロワット、 500キロワットの 1 2台(総出力 3 8 7 5キロワット)、北海道の苫前町 600 キロワット、 1 , 000キロワット、 1 , 500キロワット、 1 , 650キロワットの 41台(総出力 5万 1 8 0 0 キロワット)のものがあり、単機容量の最大は室蘭白鳥大橋の 1万キロワット機である ( 1 9 9 9 年度末の導入基数は 2 0 2基 ) 。 5 . 2 風力発電の現実 太陽光発電や風力発電などのように、地球温暖化の原因となる二酸化炭素 ( C 0 2 )の排出量 が少なく、枯渇することのない資源を利用できる発電方法が次世代を担ってし、く、という ことが期待されている。新エネルギーは正式には、「技術的に実用段階に達しつつあるが、 経済性の面での制約から普及が十分でないもので、石油代替エネルギーの導入を図るため に必要なもの J(新エネルギ一利用等の促進に関する特別措置法(略称:新エネ法))と規定される。太 陽光発電、風力発電、地熱発電、など 1 0種類が指定され、すべて再生可能エネルギー(ほぼ 日本だけで用いられる用語で、海外では代替エネルギー (alternativeenergy)と呼ばれる分野と重なる)で ある。エネルギー資源の乏しい日本にとっては、貴重な純国産エネルギーといえる。 風力発電は再生可能エネルギーのーっとして、地球環境の保全、エネルギーセキュリテ - 38 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 イの確保可能なエネルギー源として認められ、多くの地に風力発電所や風力発電装置が建 設されている。 開発可能な量だけで人類全体の電力需要をまかなえる資源量があると考え られている。 風力発電利用には条件がある。まず、 1年を通して、風力発電に適した風が吹くことであ る。風力エネルギーは風速の 3乗に比例し、風が強いほど風車は多くの発電を行うことが できるため少しでも風況の良い所が望まれる。しかし、必ずしも風が強ければいいという わけではない。台風などで風速が 25 メートルを超えると、発電機をとめなければならず、 非常に不安定なエネルギーであるといえる。次に、風力発電機の陸揚げや運搬が可能なこ 5メートルの長さのプレード(羽根)を運搬できる道 とである。大きく重量のあるタワーや、 3 路・橋などの搬送ノレートの確保が必要である。つづいて、送電線と接続できることである。 風力発電で、作った電気は送電線を通して送られる。自然の風を動力源としているクリーン なエネルギーだ、が、風の吹き具合によって発電量が変動する。安定的な電力の供給のため には、既存の電力系統との連系が必要である。そして、周辺の環境に影響を与えないこと である。希少動植物の生態系や住民の生活に影響を与えないことが必須である。 商業目的での施設が全国各地で増加し、導入量は増加しているものの、日本の風力発電 2 0 0 2年時点)にすぎず、国際的にはまだまだ低水準である(一 は全世界のわずか1.5パーセント ( 般 財 団 法 人 新 エ ネ ル ギ ー 財 団 HP 、平成 2 4 ( 2 0 1 2 ) 年 7月 1 0日閲覧)。 風力発電のメリットは、風力は枯渇の心配がない純国産エネルギーで、あり、 C02の排出量 の低減効果があることである。安定した風力の得られる海岸線の長い日本に適し、導入し た地域では町のシンボルにもなり、「町おこし」へとつながる。太陽光発電と違い、夜でも 発電が可能なエネルギーである。設置コストが年々下がり、経済的に成立する大規模発電 事業も増えてきた。裕福な家庭がグループを作り風力発電機を設置するということが社会 0パーセントの電気を削減するに有効な手段 全体で行われれば、家庭の生活で使用される 4 であるといえ、導入率が上がることで、エネルギー自給率の向上が見込める(日本風力開発株式 会 社 HP 、平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年 0 7月lO日閲覧)。 しかし、デメリットもある。風の力を利用する発電のため、発電量をコントロールでき ないことである。このことから、安定したエネルギー供給は望めないため、社会全体に使 う電気としては不向きである。次に、自然環境の破壊である。景観への影響や、風車など 発電機のプレードに鳥が巻き込まれ死傷してしまうことがある。周囲に騒音被害や、低周 波による人体への悪影響もある。風車が建設されると、 24時間鳴り響くモーター音、風切 り音に悩まされることになる。このような低周波音被害から、住民の健康を守ることも課 題とされる。 5 . 3 御前崎市の風力発電 中電の地域グループ専門課長の清水孝虜氏に御前崎の風力発電についてお話を伺った。 風力発電機は佐倉地区に 3基、池新田に 8基、御前崎市全体で 1 1基ある。風力発電機 1基 - 39 - 御前崎市・浜阿佐倉 000キロワットの電気を発電可能で、あり、 1軒の家庭で 1時間 5キロワッ で 1時間に最大 2, トの電気を使用するとすれば、風力発電機 1基で 400軒の家庭をまかなうことができると いう計算になる。年間平均で、一基あたり約 564万キロワットの発電を見込む。これは一 般家庭約 1 , 500世帯が 1年間に利用する電力量に相当する。御前崎風力発電所全体(11基)で は、年間約 6, 200万キロワットの発電を見込む(中部電力製作『御前崎風力発電所』ガイド、 2 0 1 0 年、裏面)しかし、発電量が最大になるのは常時風速 1 2メートルの風が吹いているときであ 00軒 る。普段の発電量は 1時間あたり 500キロワットであり、その場合まかなえるのは 1 分の電気とである。風力発電の設置のためには、 1基につき 3億円が必要である。したがっ 00軒の家庭がそれぞれ 300万円の設備投資をすれば風力発電への移行は可能である て 、 1 と言える。しかし、それはあくまでも計算上のことである。風力発電機は 24時間 365日稼 働できるとは限らない。年聞の稼働率は 4分の 1であり、 1日の 4分の 1は電気が使用で きるが、残りの 4分の 3は使用不可能という状態になることもありえる。風力発電機には トラブルも多く、毎日少なくとも 1基は止まっている状態であり、さらに 1基は故障して いる。御前崎市には 1 1基の風力発電機があるが稼働しているのは、ほとんどの日が 8基で ある。また、台風などで風速が 25メートルを超えると、発電機を止めなければならない。 風が強く吹けば吹くほど発電量が多くなるというわけではなく、風力発電は非常に不安定 なエネルギーで、あると言える。 実際に電気を使用するのは、もちろん一般の家庭のみではない。現在の全体の電気使用 量のうち、ベースロードと呼ばれる、社会全体のあらゆるものに使用されている電気が 30 パーセント、産業で使用されている電気が 30パーセントである。そして、家庭の生活で使 用されている電気が残りの 40パーセントである。ベースロードと産業で使用されている電 気の合計 60パーセントは削ることができない。そうなると、節約して削ることができるの は家庭の生活で使用されている 40パーセントの電気のみである。風力発電は、先に述べた ように非常に不安定なエネルギー源のため、社会で不可欠なベースロードである 30パーセ ントの電気のみで、あってもまかなうことは不可能である。同じ新エネルギーである太陽光 発電も同様といえる。社会全体で見たピーク時の電気使用量は 2, 500万キロワットであり、 そのうちの約 30パーセント、すなわち 1 , 000万キロワットの電気が常になければ社会が不 安定になる。その供給のためには、風力発電機が 1万何千基も必要となる。その財源はど うすれば確保できるのだろうか。社会全体の電気は言うまでもなく、最低限絶対に必要で、 削ることができないベースロードである電気も、風力発電のみでまかなうのは現在の状況 では困難なことなのだ。 - 40 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人身の戸 写真 8海に向かってそびえ立つ御前崎市の風カ発電後 5 . 3 再処理と廃棄物処理の課題 安全対策に尽力の浜岡原発であるが、さらに取り組んでいくべき課題がある。それは再 処理と廃棄物処理の問題である。 青森県上北郡六ヶ所村の再処理工場が現在運転を停止している。再処理工場とは、使用 済み核燃料からウランとプノレトニクムを抽出する施設である 。その後、 二つの物質を加工 し、通常のウラン燃料よりも高出力の MO X燃料伽以edOxideFue!=混合酸化物燃料の絡で、ウ ランとプルトニウムを酸化物の形で混合した燃料の こと)をっくり出す。こうして 『 核燃料サイクルJ を実現することで、輸入頼みのウランを有効活用するという。ただし、プルトニウムを含 X燃料は、原発から放射能が放出される事故が起きた場合、人体や環境に与える影響 む MO が大きい。青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場の最終準備段階として再開予定だ った『ガラス固化試験J が、高レベノレ放射性廃液とガラスを混ぜて溶かす溶融炉のトラブ ルで平成 24(2012)年 3月上旬以降に延期されることになった。 日本原燃が 2月 3 日に発表 今 年 10月の 工場完成目標は変わらないJ という 。 f ガラス固化試験J は、施 したもので、 I 2 00 8 ) 年 12月以来、中断していた。その後、別系統の溶融炉 設の相次ぐトラブ、ルで、平成 20( で試験を再開させることとして、ようやく 1月 24 日からガラス固化設備の作動確認を行っ ていたが、溶かしたガラスの流れる速度が遅くなるという異常が見つかった。調べたとこ ろ、ガラスの中に固形の異物が確認され、それは炉内のレンガの破片か、炉の加熱装置に 付着したサピのようなものと考えられた。そのため、ガラス固化試験の開始を延期し、ド リノレで除去する作業を始めることにしたと bヴ。同再処理工場では、使用済み核燃料から - 41 - 御前崎市・浜岡佐倉 ブルトニウムとウランを取り出し、原発の燃料として再利用するための施設として平成 ρ 5(1993)年に着工した。当初は平成 9( 1997)年の工場完成を目指していたが、溶融炉内でガラ ス溶液の流下を促す金属棒が折れたり、高レベル放射性廃液で、作業員が被ばくしたりする 8回も延期されている(独立行政法人科学 などのトラブ、ノレが相次ぎ、完成目標時期はこれまで 1 技術新興機構 S c i e n c eP o r t a l h t t p : / / s c i e n c e p o r t a l . j p / n e w s / d a i l y / 1 2 0 2 / 1 2 0 2 0 61 .h tml W 平成 2 4 ( 2 0 1 2 ) 年 2月 6日、六ケ所村再処理工場の試験再開延期』平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年 7月 9日閲覧、一部修正あり)。 また、浜岡原発では放射性廃棄物の処理場が決まってない。使用済み燃料はいまも原発 内に保管されている。六ケ所村の処理場の問題も解決せず、現在も模索しているところで ある(佐藤瑠美)。 おわりに 私たちは、「働く人の視線j から見た浜岡原発について調査した。浜岡原発では、福島第 一原子力発電所の事故を踏まえ、安全対策が一層強化され行われている。津波対策工事は 平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年 12月に完了することを目標としている。現在、浜岡原発で働く人は、およ 000人で、工事は 24時間体制で行われ、一日でも早く防潮堤を完成させることを目指 そ 4, している。安全対策だけでなく、丁寧な説明を行い、あらゆる質疑に応答し、地元住民を はじめ、社会全体で安心が持てるように全力で取り組んでいることを、フィールドワーク を通し自分たちの目で見てきた。 私たちがインタピ、ューを行った、原発に携わる仕事をする人々の中に、放射能や原発に 対する不安を抱いている人はいなかった。彼らは、「原発は怖くなし、 j と語っていた。放射 能が危険であるなら、それを危険でなくなるように正しく扱うことが重要であり、正しい 知識を持っているからこそ、働く本人だけでなく、その説明を受けた家族も不安には思っ ていないそうだ。原発で働く人々は、エネルギーの現実を知り、今後の日本には原発の再 稼働が必要であると考えている。製造業には安くて安定した電力が必要であり、輸入先の 状況や資源の量に左右される火力発電に頼っていくことは難しい。いま期待されている新 エネルギーとして風力発電や太陽光発電があるが、天候に左右されやすく、設置のために は多額の費用がかかる。家庭用の電力として使用することは可能だが、社会全体を担う電 力として使用するには非常に不安定である。環境にやさしいクリーンエネルギーとも呼ば れるが、発電の効率や装置の寿命と処理を考えると、これからのエネルギーの担い手とし て期待することは困難である。 原発で働く人々は、日本のエネルギー問題や次世代の将来、地球温暖化などのことを考 えると、原子力発電は必要な存在だと主張する。放射能をやみくもに怖がるのではなく、 まず正確な知識を身につけることが必要で、原発の危険な面もふまえた上で原発が選択さ れ、より安全な原発が実現されたならば、再稼働が実現されるのがベストであると考えて いる。また、「原発が動くに越したことはないが、今はそれよりも安全対策が最優先だ」と いう意見が、原発で働く人々の中で一致していた。東海地震が予想され危険であることは - 42 - 浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声 承知の上で導入された原発であるからこそ、これまでも安全対策に力を尽くしてきた。職 員は、浜岡原発の安全性には自信があり、原発が止められたことに悔しささえ感じていた。 「原発は危なしリといわれるとすぐに「原発は停止した方がし w、」と思いがちだが、「原発 反対という前に、現実的な他の発電方法を考えてほしい J という職員の言葉の通り、原発 が停止した後のことも見通していくべきである。 地震と津波は非常に恐ろしいものである。予測不可能なものであるからこそ、心構えと 対策が必要となる。このフィールドワークで発見したことは、マスメディアによる報道と 原発に携わる人々の声の聞にギャップがあるということである。原発に携わる人々から話 を聞く以前、浜岡原発に関する情報は、新聞やテレビ、本やインターネットから得てきた。 マスメディアによって表現の仕方は異なり、確かに現地の視点からその声を届ける媒体も ある。しかし、ほとんどのマスメディアの情報から強く感じられるのは、見出しなどで強 調されるように、「脱原発 j の声である。マスメディアは原発、放射能に対して過剰に反応 している。「原発が危険」であることを強調し、人々の不安を煽る。また、今後のエネルギ ーについては、新エネルギーのブ。ラスの面ばかりを強調している。その情報により、日本 の未来を新エネルギーが担うと期待できるのではないかと感じていたが、現場で働く人々 のインタビューを通し、実際には新エネルギーに多くの問題点があり、社会全体の電力を 担うには厳しいことや、その現状を理解しているからこそ彼らが原発の存在を必要として いることを知った。 現場で働く人々の本音はほとんど報道されない。私たちは質問項目を事前に準備した時、 本当のことはあまり答えてもらえないのではなし、かと思っていたが、どの方も予想以上に 本音で語ってくれた。これはきっと、「本当のことを知ってほししリという思し、からなので はないかと考える。フィールドワーク初心者の私たちではあるが、今回の調査で得られた 情報と、自分たちなりに考察したことを世界に発信していきたい。佐藤瑠美) 参考文献・資料.H P 石橋克彦編 2011W原発を終わらせる』岩波書眉 大島堅一 2011W原発のコストーエネノレギ一転換への視点』岩波書居 小出裕章 2011W原発のウソ』扶桑社 社史編纂会議(編) 2001W 中部電力 50年史』中部電力株式会社 社史編纂会議。肩) 2011W 中部電力 60年史』中部電力株式会社 中部電力 30年史編集委員会(編) - 43 - 御前崎市・浜岡佐倉 1 9 8 1W 中部電力 30年史』中部電力株式会社 電気事業史・社史編纂会議(編) 1991W 中部電力 40年史』中部電力株式会社 戸田清 2012W <核発電)を問う 3 . 1 1後の平和学』法律文化社 森薫樹 1982W原発の町から 東海大地震帯上の浜岡原発』田畑書盾 渡部行 2001 W新世紀に挑戦する 中部電力』扶桑社 御前崎市企画財政課原子力政策室製作 2012W御前崎市と原子力発電所』 中部電力製作 『御前崎風力発電所』ガイド 静岡新聞 2 0 1 1 . 11 .20,2 0 1 2 . 0 4 . 2 9,0 5 . 2 2 毎日新聞 2011 .0 3 . 2 3,0 4 . 0 7,0 4 . 0 9,0 4 . 1 8,0 4 . 1 9,0 5 . 1 1 読売新聞 2011 .0 3 . 1 3 一般財団法人新エネルギー財団 h t t p : / / w w w . n e f . o r . j p / ( 2 0 1 2 . 7 . 1 0閲覧) 独立行政法人科学技術新興機構 S c i e n c eP o r t a J 『平成 2 4 ( 2 0 1 2 )年 2月 6日、六ヶ所村再処理工場の試験再開延期』 h t t p : / / s c i e n c e p o r t a l . j p / n e w s / d a i l y / 1 2 0 2 / 1 2 0 2 0 6 1 . h t t n l( 2 0 1 2 . 7 . 9閲覧) 日本風力開発株式会社 h t t p : / / w w w . j w d . c o . j p / ( 2 0 1 2 . 7 . 1 0閲覧) - 44 -
© Copyright 2025