〔連続講座「琳派の誕生 ―俵屋絵師と尾形光琳から見た宗達―」〕 2014・12・6 於 Bunkamura・B1 第二回 光琳筆「紅白梅図屛風」と宗達筆「楊梅図屛風」 講師=林 進 国宝 尾形光琳筆「紅白梅図屛風」 ( 部分) 熱海・MOA 美術館蔵 【「紅白梅図屛風」の主題。老樹の紅梅の根元から生え出た (ひこばえ)に花が咲く】 「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」 (『古今和歌集』仮名序)。 梅の花はすべての花にさきがけて咲く、春の到来を告げる花であり、冬の死から春の新しい生命 の復活、再生を象徴する花である。 光琳は「紅白梅図屛風」の右隻で、老樹の紅梅の根元から生え出た若い芽、 を印象的に描い ている。この は、旺盛な生命力を象徴する。儒教の基本経典、五経の一つ『易経』 (『周易』)の 卦(か) 「 大過」 ( 九二、きゅうじ)によると、 「枯楊 を生じ、老夫その女妻を得たり。利(よ)ろしから ざるなし」とある。枯れた楊が春の陽気で根元から を出す。つまり齢をとった男が若い娘と結婚す るのはよい、というたいへんめでたい卦(か)である。光琳は晩年、本妻多代が住む中町薮内町の 本邸とは別に、正徳元年に新町通り二条下ル東入ルに広い絵所(画室)のある屋敷を建て、妾あ やと二人の子供と暮らした。光琳は長生きするという「菊水」 ( 謡曲「菊慈童」の故事)を吸って生え 出た老紅梅の に回春の願望を託した。 「紅白梅図屛風」は、早春の気が横 II - 1 する画である。 【「紅白梅図」の主要モティーフ = 金地に群青・金銀泥の流水と胡粉盛り上げ彩色の菊花】 図 1 光琳画団扇「流水に菊図」 図 2 光琳筆「流水〔洲流し〕図乱箱(みだればこ)」 《 絹地の裏に金箔を貼る。側面は白菊 》 《 白菊は胡粉盛り上げ彩色。流水は群青に金泥 》 図 図 3 光琳筆「流水図広蓋(ひろぶた)」絹本 金地著色 絹地裏箔 大和文華館蔵 《 側面は胡粉盛り上げ白菊 》 《 江戸後期の琳派絵師・鈴木其一の収納箱の箱書に「菊水之絵広蓋、法橋光琳筆」とある》 光 琳 筆﹁ 流 水 文 下 絵 ﹂小 西 家 旧 蔵 光 琳 資 料 4 「紅白梅図屛風」の主要モティーフの一つである「流水」は、 「菊水図」からきている。この「菊水 図」は、古来、 ≪長寿≫を象徴するものとして、さかんに描かれてきた。 「菊水」の故事は、日本では『太平記』に記述され、謡曲『菊慈童』の本説になっている。穆王 (ぼくおう)に仕える慈童が王の枕を跨ぐという罪を犯し、酈縣山の山奥に流された。穆王は憐れん で法華経普門品の二句の偈「具一切功徳。慈眼視衆生」 「 福衆海無量。是故応頂礼」を慈童に与 え、この偈を毎日唱えることを命じた。慈童はこれを菊の下葉に書き付けた。菊の葉に置いた露が 滴りおちて水に流れると、その水は天の霊薬となり、これを飲んだ慈童は不老不死の長寿を得て、 童顔のまま仙人になったという。 II - 2 【光琳の梅図は水墨画の勁い筆法で描かれている。激しく屈曲する枝が光琳梅の特徴】 図 5 光琳筆「竹梅図屛風」 ( 部分) 紙本金地墨画 図 6 光琳筆「白梅図団扇」紙本墨画 《 本紙は胡粉下地 》 《 竹は「冬」 、梅は「春」のモティーフ》 図 7 光琳筆「白梅図扇面」紙本金地著色 「扇面貼交手筥」のうち 大和文華館蔵 図 9 光琳絵・乾山合作「銹絵梅図角皿」鳴滝窯 《銹絵は鉄砂と呉須による絵付け》 図 8 光琳筆「白梅図香包」 絹本著色(裏に金箔) 《 聞香用の香木を包む》 図 10 光琳筆「月に白梅図杉戸絵」二面 フリーア美術館蔵 《「紅白梅図」に繋がる》 II - 3 【光琳が江戸滞在時代に得たもの(Ⅰ) 狩野派の絵手本「写生図」を模写した】 図 11 光琳筆「孔雀立葵図屛風」 ( 公家、九条家伝来の衝立、のち屛風に改装された) 図 12 光琳模写『鳥獣写生』二巻より「孔雀図」 小西家旧蔵資料 《 江戸において狩野探幽本『鳥獣写生図』を模写したものか 》 図 13 俵屋絵師筆「夏秋草図屛風」 「伊年」印(右隻)右第三扇上部に紅白の立葵 惟雄氏によれば、大英博物館に狩野派の絵師・野田洞泯が狩野探幽の「鳥獣写生図」を模写 したものがあり、それは光琳の写生図と共通するという(『美術研究』第 310 号)。光琳は探幽本 (その転写本)を模写し、それを粉本にして「孔雀立葵図屛風」を制作したと推定される。光琳の立 葵は俵屋絵師の「立葵図」をもとにして描かれた(図 13)。 II - 4 【光琳が江戸滞在時代に得たもの(Ⅱ)雪舟画や雪村画の力強い水墨画法を学んだ】 図 14 光琳筆「雪舟写山水図」 大和文華館蔵 図 17 光琳絵・乾山合作「銹絵山水四方火入(ひいれ)」 図 ﹁ 渓 橋 高 逸 図 ﹂ 光 琳 所 持の﹁ 雪 村 ﹂方 印︵ 偽 印 ︶ 図 光 琳 模 写﹁ 渓 橋 高 逸 図 ﹂ 小 西 家 旧 蔵﹁ 光 琳 ﹂方 印︵ 後 印 ︶ 15 16 図 18 伝夏珪筆「山水図」 ( 部分) 図 19 「上嶋源之丞宛 尾形光琳書状」 宝永五年(1708)八月付 大和文華館蔵 本状は江戸から京の絵の弟子上嶋源之丞に送った手紙。江戸における窮屈な生活の愚痴を述べ る。 「雪舟之絵毎日五、七幅つゝ見申候。随分写申候」という。雪村画の模写も行った(模写本あ り)。 「今十ヶ年斗の余命此まゝに而過行事無念と存候」という。 II - 5 【「燕子花図屛風」の両隻を二か所で接合すると、内に三次元の花園が現出する趣向】 図 20 光琳筆「燕子花図屛風」 根津美術館蔵 法橋叙任直後、元禄十四年(1701)頃 《 本屛風の右隻では低い視点(仰角視する) 、左隻では高い視点(俯瞰視する)で描く》 図 21 光琳筆「八橋燕子花図屛風」 米国・メトロポリタン美術館蔵 正徳年頃作 《 右隻と左隻を中央で合わせた横長の画面に燕子花の群と板橋を描く。全体的に俯瞰構図 》 図 22 光琳意匠「八橋蒔絵螺鈿金貝硯箱」 東京国立博物館蔵 正徳三、四年頃作 《 鉛の金貝による板橋は、硯箱の蓋表、四側面を繋ぎ、三次元的にデザインされている》 「燕子花図屛風」では、左隻には斜線構図、右隻には中央山形の構図が行われている。すなわ ち室町やまと絵屛風の伝統的な構図法が応用された。宗達が引退した後、俵屋絵師たちによる繊 細で写実的で散らし描きされた「草花図屛風」にヒントを得た。それとは違って、光琳は燕子花のみ の単独モティーフを明確に簡略に大胆に大きく描いた。この屛風は、当時としては前衛的であり、 評価されなかったのではないか。光琳はその絵の勁さの欠如に不満をもっていたにちがいない。 「八 橋燕子花図屛風」では、画面中央に燕子花群を斜めに割って、八橋を大胆に描き入れ、 『伊勢物 語』の「八橋」が主題であることを示した。光琳硯箱では身の内に水流を描くという趣向を行った。 II - 6 【光琳筆「波濤図屛風」は、雪村と宗達の水墨画「波図」に着想を得て描いた作品】 図 24 雪村筆「波図」紙本墨画 「波岸図」双幅のうち、左幅は「岸図」 《 蕨手状の粘着性のある立波を「雪村波」という》 図 23 光琳筆「波濤図屛風」二曲一隻 紙本金地著色(墨、群青、胡粉) 米国・メトロポリタン美術館蔵 図 25 宗達筆「雲龍図屛風」六曲一双 紙本墨画淡彩 フリーア美術館蔵 《 右隻は天空から海中に入る龍、左隻は海中から出現して天空に昇る龍、激しく波立つ 》 光琳の「波濤」は、激しく鳴動しているかのようであり、またすべての動きが一瞬静止しているよう にも見える。画面右側中央のやや上に、落款「法橋光琳」と印章「道崇」朱文大円印がある。光琳 の字「道崇」は、宝永元年(1704)七月以降から用いた名であるが、本図は、光琳晩年の正徳年間 に描かれたものと推定される。金箔地に直接、水墨の「双管」描法(二本の筆を同時に持って描く) で立波の輪郭を描く。それは、宗達画(図 25)から学んだ技法である。光琳は波の周囲には外隈 風に群青を、波頭には胡粉を加えているが、後世、群青の補彩がなされ、胡粉が剥落し、重苦し い画趣になっている。当初は明るい絵であったであろう。この絵を「幽暗」 「 沈鬱」と見る現在の印 象批評は間違いである。光琳の「波濤図」は、二つの波がぶつかり合い交差した直後に立ち上がる 波の姿を描いている。そのかたちを、北斎は「打合せのなみ」 (『今様雛形 歌山県すさみ町の枯木 』)という。この波は和 の海岸で見ることができる。 「夫婦波」と呼ばれる。 II - 7 【宗達筆「楊梅図屛風」は、雪解け水で増水し、白波を立てて流れ下る景観を描く】 図 26 宗達筆「楊梅図(やまももず)屛風」六曲一隻 紙本金地著色 寛永七年(1630) 図 28 「一条兼遐書状(後水尾院勘返)」 図 27 「楊梅図屛風」のうち「霞」と「果実」 《 後水尾院は宗達に「楊梅図屛風」を描かせた》 《 右第二扇上に紫赤色の楊梅の実を描く》 本屛風は、 「御せん丸宛 一条兼遐(かねとう)書状〔後水尾院勘返状〕」 (図 28)にある後水尾院 が宗達に描かせた金箔地「楊梅之屛風」に相当する作品と推定される。 「楊梅」 (やまもも)が本格的な画題として登場した最初で最後である。金箔地「楊梅之屛風」は寛 永七年(1630)から翌年にかけて制作され作品である。本図は、宗達晩年の大画面制作の魁となっ た屏風絵である。勅題として与えられた「楊梅の実」を叢林の霞の間に印象的に描き(図 27)、後水 尾院と一条兼遐の実母である故中和門院(寛永七年七月三日没)の追善の意を込めた。また本図 は、天皇家や公家社会で好まれた「歌絵」を取り入れて画面構成されている。西行の代表歌「初春 の雪積りたる山の麓に谷川の流れたる所を見て」と詞書きし、 「降り積みし高嶺の深雪解けにけり 清滝川の水の白波」の歌を絵画化した。宗達は、ふたたび巡りくる春の到来の慶びを表した。 II - 8 【「紅白梅図屛風」の水流は、俵屋製・宗達意匠「雲母刷流水文料紙」から着想を得た】 図 29 光琳筆「紅白梅図屛風」二曲一双 紙本金銀地著色 MOA 美術館蔵 《 津軽家旧蔵 初出『光琳派畫集』 ( 審美書院、明治三十六年・1903)》 図 30 同「川上の流水」銀箔地 図 31 同「巴水」白い銀箔(流水に痕跡) 《 川上の流水は細く小さな渦で表現 》 《 白色は礬水(どうさ)でマスキングされた銀箔地 》 図 32 宗達意匠「具引き地雲母刷流水文料紙」 俵屋製 《 素庵書「詩歌巻」の裏面 》 II - 9 図 33 宗達意匠「雲母刷藤水巴文料紙」 俵屋製 《 嵯峨本・謡本「紅葉狩」》 【「紅白梅図屛風」の流水の一部に礬水によるマスキングで白く光る銀箔地が認められる】 図 34 光琳筆「紅白梅図屛風」の流水図 図 35 光琳筆「群鶴図屛風」の流水図 フリーア美術館蔵 《 流水は銀箔地か?》 《 流水は銀箔地、銀箔が白く光る》 蛍光 X 分析結果 Results of X-ray fluorescence analysis 70 132 73 蛍光 X 線分析では、川の水流文様 70 および黒色地 73 からは金、銀、銅などの金属元素はまったく検出されない。 無機顔料に由来する元素も検出されない。132 からはごく少量の銀が検出されている。 図 36 東京文化財研究所による「流水図」の素材分析 《 「銀は検出されない」といいながら、ごく少量の銀が検出されたという》 『 国宝 紅白梅図屛風』 (中央公論美術出版 2005 年) 【蛍光X線分析による科学調査の問題点】 「紅白梅図屛風」の金銀箔地について、明治以来問題にされてきたが、平成 22 年(2010)の MOA 美術館と東京理科大学の中井泉教授(分析化学)による科学調査によって、紅白梅図の下地 が金箔地、流水図は銀箔地であることが検証された。銀箔地の上に礬水(どうさ)を用い、筆で流 水を描き、その上に硫黄の粉末を全面に撒き、礬水がかからない銀箔地を硫黄で硫化させ黒色化 させた。2004 年の東京文化財研究所の調査では、金銀箔がないという先入見に囚われて、 《銀》の 存在(図 36)を過小に評価してしまった。 II - 1 0 【宗達「楊梅図屛風」、光琳「燕子花図屛風」、光琳「紅白梅図屛風」の作画工程】 図 37 「楊梅図屛風」 ( 部分) 《 樹木や霞の下絵を付けた後、 その周囲に金箔を押す 》 図 40 「楊梅図屛風」 《 葉の緑青が金箔とともに剥落して、 薄茶色に彩色された本紙が見える》 図 38 「燕子花図屛風」 《 燕子花も同様の作画 》 図 41 「燕子花図屛風」透過光撮影 図 39 「紅白梅図屛風」 図 42 「紅白梅図屛風」 前の「一条兼遐書状」には、 「楊梅之屛風」の作画過程が記されている。宗達は「ご用命の三双の 屛風の下絵を付け終えました。とくに、そのうちの『楊梅之屛風』は、いち早く金箔を置き終えまし た」と制作過程を摂政・一条兼遐に伝えている。 宗達は屏風絵の主題に応じて、構図を考え、素描を行い、小下絵を描き、最終の大下絵を仕上 げ、それを屛風の本紙に写す。 「楊梅図屛風」 ( 図 26)の場合、彩色する「樹木」、銀切箔・砂子・ 野毛を蒔く「霞・雲」、墨線で描く「谷川」を除いて、膠水(接着材)を刷き、その上に金箔を押す。 その前、最初に紙本全体に黄色(薄茶色)の下地塗りを行う。黄色(薄茶色)の下地塗りは、金箔 の発色をよくするためである。金箔地の上に直接絵を描くのではない。この作画行程は光琳の「燕 子花図屛風」でも同じである(『国宝 燕子花図屛風』岡泰央「紅白梅図屛風修理報告」根津美術 館、2005 年)。ただし燕子花の緑青の葉の一部には、直接金箔地に描いている個所もある。 「紅白 梅図屛風」では、金箔地の上に直接、紅白梅を描く。金箔地なので、 「たらし込み」が生じる。一万 分の一粍の極薄の金箔を用いるため、黄色の下地塗りは必須である。 II - 1 1 【「紅白梅図屛風」は、月光に照らされて浮かび上がる梅樹と流水を描いた作品】 図 43 野々村忠兵衛『光琳絵本道知辺』 「氷水」享保二十年(1735)刊 図 45 「紅白梅図屛風」流水に仰斗形の枝 図 44 光琳筆「月に梅図」紙本墨画 《 光琳の絶筆か、妻多代(尚貞)に与えた》 図 46 「紅白梅図屛風」老樹の根元に 光琳が亡くなって二十年後、俵屋宗達の末裔と目される野々村忠兵衛は、光琳を慕って絵手本 『光琳絵本道知辺』を刊行した。その中に「氷水」 (図 43)があり、春の雪解け水とともに流れ下る紅 葉の落葉を描いている。この図様は「紅白梅図屛風」と共通する。図 44 の「月に梅図」は光琳の絶 筆と考えられ、月明かりに浮かび上る白梅の枝先を描き、光琳としては、珍しく静謐感に満ちた水 墨画である。本妻の多代に与え、光琳没後、多代は、五カ月後の命日に菩提寺の妙顕寺興善院に 奉納し、供養した(「乾山添状」がある)。二輪の白梅の花が咲く表現は、二人の「一陽来復」の願 いを込めたものか。 「紅白梅図屛風」のうち、流水に向かって白梅の枝が柄 のように屈曲して伸び る姿形は「仰斗」と呼ばれ、元時代には墨梅の定形の一つになっている。光琳の「白梅図」は、北 宋の詩人林逋(和靖)の七言律詩「山園小梅 其一」の二句「疎影横斜 水清浅」 「暗香浮動 月黄 昏」のイメージを絵画化したものである(松下隆章氏)。月明かりに照らされた流水は銀色に輝いて 流れ下る。紅白梅の花は黄昏の月の下で芳香を放つ。 II - 1 2 講座時に使 用したパワーポイントのサムネイル画像です。参 考までにご覧ください。 rII-01 rII-02 rII-03 rII-04 rII-05 rII-06 rII-07 rII-08 rII-09 rII-10 rII-11 rII-12 rII-13 rII-14 rII-15 rII-16 rII-17 rII-18 rII-19 rII-20 rII-21 rII-22 rII-23 rII-24 rII-25 rII-26 rII-27 rII-28 rII-29 rII-30 rII-31 rII-32 rII-33 rII-34 rII-35 rII-36 rII-37 rII-38 rII-39 rII-40 rII-41 rII-43 rII-42
© Copyright 2024