Title 最近の選挙権論の動向について(一) Author(s) 小沢 - HERMES-IR

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最近の選挙権論の動向について(一)
小沢, 隆一
一橋研究, 13(4): 33-57
1989-01-31
Departmental Bulletin Paper
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URL
http://hdl.handle.net/10086/6030
Right
Hitotsubashi University Repository
最近の選挙権論の動向について(一)
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最近の選挙権論の動向について(一)
小 沢 隆 一
目次
はじめに
1. 問題の設定一奥平氏の問題提起をめぐって
2.通説(「二元説」)とその検討
11)r権利説」による通説批半1」,同通説の論理矛盾,lb〕国家法人説的思考(以
上本号)
(2〕通説の問題点
3. 「権利説」の検討
はじめに
近年,わが国の憲法学界において,選挙権とりわけその法的性格をめぐる議
論が活発に展開されている(後に詳述するが,私は,この選挙権の法的性格に
関する議論それ自体に検討されなければならない問題が潜んでいると考えてい
る。すなわち,選挙権の法的性格を問うこと自体の意義,その際のr法的性格」
という言葉に込められる意味が,十分に検討されずに議論されてきたように思
う。本稿ではこれらの点についても解明を試みるが,とりあえず,ここでは,
現に展開されているr法的性格」の論議を念頭においている)。
わが国の選挙制度をめぐっては,いわゆるr議員定数の不均衡」・厳重な選
挙運動規制・立候補制限(供託金制度)等の重大な問題点が指摘され続けなが
ら,遅々として改革は進まず,ある領域ではむしろr改悪」の方向で事態は推
(1)
移している。選挙権の性格について,権利という側面と公務執行という側面を
あわせもっと説明してきた通説(二元説)に対抗する形で,1970年代後半以降
にわかにr選挙権=権利」説(以下r権利説」)の主張が多く現われてくるこ
(2)
とになるが,その背景には,かかる状況と,これを克服しえない従来の説に対
する批判的見地が存在することは言をまたない。とりわけ,選挙権の性格を主
権原理に遡ってとらえ直そうという「権利説」の方法的視座は,70年代前半の
いわゆるr国民主権論争」から派生する個別的・具体的「成果」の一つとして
評価されよう。
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一橋研究第13巻第4号
このような「権利説」の展開にたいして,奥平康弘氏が,批半1」的な問題提起
をおこなった。氏が提出した論点の詳細は後にゆずるが,ここでそれを私なり
に要約すれば,以下の通りである。①選挙権はr基本的人権」か(氏は,r基
本的人権」をr人間が人間であることによって自然に具わっている権利」と規
定し,これとr憲法上保障された権利」とを区別する。選挙権は後者に属する
とされる)。②(①のような理解を前提として)選挙権の特性は,。「権利説」が
主張するように,「権利」という性格づけのみによって把握されうるのか。③
(②の疑問を前提として)通説は「権利説」がそれを把握するような仕方で理
(3〕
解されるべきか,r権利説」による通説批判は適切なものか。
奥平氏の問題提起は,批半1」の対象となった学説にたいする少なからぬ誤解も
(4) . . . .
介在したこともあって,当初から反批判に暴きれたが,それらは,主として①
(5)
の論点に関わるものと思われ乱②・③については,いまだに正面からとりあ
げられていないようである。その意味において,「権利説」の側からの反批判
は,なお全面的なものではない。私が思うに,この②・③の問題提起は,従来
のr権利説」の論理構造の弱点を補い,その内容を前進させるうえで正面から
受けとめるべきものである。行論の中で明らかにするが、従来の「権利説」に
は,問題提起の②にこたえるべき論理構造(それをささえる方法的視座)が欠
落しており,それによって,選挙制度の現状の改革をめざすうえでの通説の限
界を必ずしも適切な形で示しえていない。そして,このことは,r権利説」の
理論自体に改革を不徹底にする要因を残してしまうことになると思われる。
以上のような問題意識に沿って,本稿は,近年の学会における選挙権論の動
向を整理し,その前進のための課題を設定することを目的とする。その意味に
おいて,これは,私のこの領域における研究の予備作業の域を出ない。
(註)
(i) とりあえず以下参照。隅野隆徳「参議院比例代表制の導入による『議会改革』」,
松井幸夫「選挙運動の自由一その現状と課題」r法律時報』第56巻3号1984年。
(2) 日本国憲法の解釈論として「権利説」を展開したものとしては,とりあえず
以下参照。杉原泰雄「参政権論についての覚書」r法時』第52巻3号1980年,
辻村みよ子「選挙権の本質と選挙原則」r一橋論叢』第86巻2号1981年(以下,
辻村①),同「選挙権」大須賀明他編『憲法判例の研究』1982年(以下,辻村
②),同「選挙権および被選挙権の性格」r別冊法学教室 憲法の基本判例』1985
年(以下,辻村③),同r選挙権論と選挙問題の現況」憲法理論研究会編r参
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政権の研究』ユ987年(以下,辻村④),金子勝「わが国における選挙権理論の
現状」r同上』,伊藤良弘r参政権」杉原編r講座・憲法学の基礎2 憲法学の
基礎概念■」1983年。
(3)奥平康弘r選挙権はr基本的人権」か」r法学セミナー」ユ983年5月号(以下,奥
平①),「選挙権の法的性質」r同上』1983年6月号(以下,奥平②),「参政権
論一最近の学会の動向から」rジュリスト増刊総合特集 選挙』王985年(以下,
奥平③)参照。
(4)浦田一郎「選挙権論をめぐって」『法セミ』1983年9月号,長谷川正安「選
挙権論をめぐって」『同上』1984年1月号参照。
(5)奥平氏が,「権利説」を総括して,r選挙権=基本的人権=自然権」説として
プーブル
いる点について,辻村氏は,「人民ま権」論を基礎とする「権利説」の立場か
ら,選挙権の主体はあくまでも「意思決定能力をもった主権者としての市民」
であり,奥平氏の整理は誤解にもとづくと指摘する(辻村④9頁参照)。この
点も,私の整理によれば①の論点をめぐるものと考えられる。
1口問題の設定一奥平氏の問題提起をめぐって
{1〕奥平氏の問題提起
まず,奥平氏の問題提起②・③の意義を明らかにする。実は,両者は分かち
がたく結びあっている。すなわち,選挙権の特性は,その「権利」としての性
格によっては説明しつくせない,通説(二元説)はそのことをとらえたまでの
ことであって,「権利説」が指摘し,批判するような反動的な内容を有するも
のではない,というのが,氏の問題提起における基本的な立場と見てよかろう。
以上のような相互関係の存在をとりあえず念頭におきつつ,便宜上,②・③
の順に氏の説くところを具体的にみてみよ九
同 選挙権の性格づけについて
奥平氏は,選挙権がr基本的人権」(「人問であるということにもとづき…す
べての人問に保障すべきであると考えられる権利」)ではなくr憲法上の権利」
であるとする根拠を,その特殊な制約の存在に求める。具体的には,年齢制限,
禁治産者・受刑者という欠格事由,選挙犯罪者の権利停止,立候補供託金など
を挙げる。そして,これらは,r人権の内在的な制約」によっては説明できず,
結局,選挙権(被選挙権)がr実定統治システムという個人を超えた客観的な
制度の組み方によって左右されざるをえない運命にある」ことに由来すると指
(1)
摘する。なお,氏は,これらの制約について,rある種の制約は違憲の疑いが
ある」としつつも,「大綱において…やむをえない」と評価している。このよ
うな評価の当否はひとまずおくとして(後にふれる),氏が,選挙権に加えら
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一橋研究 第13巻第4号
れている何らかの制約は「制度の土俵のうえにのっかってはじめて法的に意味
(2)
のある選挙行為をなしうる「という選挙権と選挙制度の必然的連関を基礎とし,
それは「人権の内在的制約」という一般原則によって説明されえない,と見て
いる点をおさえておく必要がある。この見地は,氏の諸論稿に一貫していると
思われる。以下,微妙に表現を変え,また相互の関係も必ずしも明確ではない
が,いくつかの指摘をひろっておく。
「国民の選挙は,…国家の統治システムそのものであるという客観的な制度
の側面と,しかも同時に,国民個々人が一定の権利意識をもって,この制度に
(3)
関与(参加)するという要素とがうかがえる」。
「論理的整合性という点だけからみれば,たしかに二元論にはおかしい面が
ある。しかし,本来的に私人であり,自分の私的な利益のために意欲する自然
人を,国民代表者の選択という国家の統治作用のための,したがって,公の目
的のための意思形成にかかわらしめるのが選挙行為だとすれば,選挙権には矛
盾態というか,論理的整合性だけで割り切ることのできない動態的な側面が,
いわば宿命的についてまわると考えられるのではなかろうかぺ一・統治作用=
公務に参加するという要素と,そのことを自分たちの権利として要求するとい
う要素…このいわば盾の両面を,二つながら認識することは,実態に即してい
(4)
る,といえるのである」。
r公法上の権利…は無数にあるが,選挙権(厳密には,ここでは,そのうち,
投票により代表者選定に参加する権利のみを指す)のように,私人の意思表明
(の集合)がただちに国家意思の形成へと結びつく効果をもつものは,ほかに
はない。選挙権を個人的な権利ととらえたところで,他の個人権一般とはかな
り性格を異にしたものが,少なくも,ついて回るのを認めないわけにはゆかな
い。……選挙権…の特性は,憲法の大原則たる国民主権の原則という,客観的
な理念の実現を個々人が,権利(主観的な法)を行使するという形態でおこな
(5)
うべしとした,憲法的決定のうちに内在する」 (傍点・括弧内いずれも原文)。
奥平氏のここでの着眼点は,r権利説」が現行の選挙権の制約を「人権に内
在的な制約」によって正当化することでr公共の福祉」の意義を不当に拡大し
(6)
ている,という誤解にもとづく批判をのぞけば,r権利説」が選挙権とr選挙
制度という実定統治システム」との関係を不当に軽視ないしは無視しており,
それはr実態に即してい」ない,という点にあると思われる。その際の「実態」
最近の選挙権論の動向について(一)
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とは,多くの権利制限を内包する現行の選挙制度の存在をさすわけではなく,
選挙制度の存在一般のことであると考えられる(ただし,奥平氏の議論には,
選挙制度の存在一般から選挙権の制約を安易に導き出す傾向がある。これにつ
いても,後にふれる)。
lb〕.通説(二元説)の理解について
奥平氏は,選挙権を以上のように性格づけたうえで,通説(二元説)が選挙
権のうちに「参政の権利」と「公務執行の義務」との二つの契機をみとめるの
は,選挙権のこのような性格の反映とみ乱
「私の理解するところにしたがい,この説(二元説一引用者)の解説を試み
れば,こうであ乱国民主権の原則のもとで組み立てられる統治システム全体
からみて,国民による選挙…は,統治作用の核心的な部分を占めるのはいうま
でもない。こうした客観的な統治システムのかかわりからみれば,選挙権(の
行使一原文)は,公務,それも憲法上もっとも重要な公務,にほかならない。
選挙権には,このように公務にたずさわるという性質があるとするのが,通説
の指摘するひとつの側面であ乱しかしこれは,選挙権を客観的な統治システ
ムの一環としてみたばあいの性格づけ,いわば客観的な性格づけなのであって,
おなじ選挙権を,個人あるいは主観的な観点からとらえたら,別の性格づけが
可能である。それが,政治に参加するr権利」という性格づけである,という
(7)
ことになる」。
「選挙権(被選挙権)は……憲法上保障された権利であり,したがって法律
によって左右されてはならない中核部分があるが,憲法により構成される選挙
制度とつき合わされる運命にある権利である・・㌔通説がr公務」と呼びr義務」
ととらえた側面は,じつは,選挙制度(あるいは広く統治システム)とつき合
わされる運命にある選挙権の特性(権利の内容)を規定する要素であるにすぎ
(8)
ない…」。
このような通説の理解は,r権利説」によるそれと極だった対照をなす。r権
利説」は,選挙権の法的性格をその「権利」性のみから説明するという構成を
とる。一方,それは,通説を含め選挙権の行使にr公務」の執行,r国家機関
としての選挙人団」による機関権限の行使の要素(側面)を認める説について
は,以下の諸点を指摘する。①選挙制度を構成する際に(たとえば,選挙人・
被選挙人の資格要件,選挙権・被選挙権行使の具体的様態,選挙権の価値の平
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一橋研究 第13巻第4号
等などの問題において)広汎な立法裁量を認める。②理論上は,投票の強制を
排除しない。③選挙運動の自由が制限されがちとなる。④選挙によって選出さ
れた者を有権者の意思に従属させたり,これを罷免する制度を当然の要請とし
(9〕
ない。総じて「権利説」によれば,選挙権に「公務」性を認めることは,その
行使における「義務」性,選挙法制の構成におけるr任意」(裁量)性を承認
することに直結すると考えられている。
これにたいして,奥平氏の見解は,次の通りである。①’たとえば,選挙権
の価値の平等の問題などは,「通説がみとめるところの選挙権の権利的側面の
r権利』たる内容をどう理解するか」というレベルで論ずることができ,通説
を前提としてもその要請を排除することにはならない。②’棄権の自由(強制
投票の禁止)は,憲法第ユ5条4項,19条を根拠として導き出しうる。③’選挙
運動は,本来,政治活動の一環として憲法2ユ条1項で保障されるべき市民的自
由に属する。④’「権利説」の指摘④は,選挙権の法的性格いかんに関わると
(10)
いうよりも,「人民主権」論の当否に関わる。
奥平氏の理解によれば,通説とr権利説」との実質的差異は,④の点を除け
ば,ほとんどないことになる(④にしても,選挙権の性格に固有に関わるもの
ではない)。少なくとも,r権利説」が問題とした選挙権のr義務」性や選挙法
制の構成におけるr自由裁量」性は,現実には,通説に概当しない。かくして
奥平氏によれば,r権利説」は通説をラーバントのr純公務説」のようなr反
動的」学説に引きつけて理解しすぎており,それは通説の内容を不当に歪曲し
(11)
ている,ということにな乱氏が,選挙のr公務」性を前提として「r公務」
(12)
だからこそ,普通・平等の選挙権を保障せよ,という議論も十分に成り立つ」,
(13)
r公務性を認識しながらも,義務づけを避け」ることはできる,としているの
をみるとき,同じr公務」という言葉でも,r権利説」と奥平説とでは,相当
に違ったニュアンスで把握されていると言ってよかろう。このことの持つ意味
も含めて,奥平氏の問題提起の意義を次に検討する。
② 検討
それでは,奥平氏の問題提起をどのように受けとめるべきであろうか。
同.まず第一に,「選挙権の性格づけ」に関する奥平氏の指摘は,選挙権をめ
ぐる法の構造の認識態度としては,基本的に正当なものであると思われる。こ
こであえて「認識態度としては」とことわったのは,そのような態度を前提と
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した上での選挙権・選挙制度論の具体的構成・帰結,また,その前提となるべ
き選挙権論の現在の到達点の総括,に関して,私の考えは,氏のそれと少なか
らず異なるからである。
奥平氏の認識態度の正当さは,すなわち次の点にあ乱普通選挙制度の存在
を前提として(このことは,選挙権が「権利」性を獲得するための最小限の基
礎である),政治的意思能力を有する市民が,すべて,等しく,選挙(とりあ
えず国民代表議会議員の選挙を念頭におく)に参加する場合,選挙権は,市民
の側からすれば,当然に要求することのできるものという意味において法的な
r権利」と規定される。一方,市民による選挙権行使の結果,その集積は,国
家権力の機関たる議会(議会制民主主義を念頭におく場合,それは最高機関)
を形成・創設する行為であり,これについては,法的な意味においては,r権
(14)
力」と性格づけることができる。
このように,国民代表の選挙という行為は,個々の市民の行為一つ一つをとっ
てみれば選挙権というr権利」の行使であると同時に,その集合・総体として
は「権力」の行使である(少なくとも法的にはそのように規定されうる)とい
う,それ自体としてはきわめて単純な事実の認識から出発するべきことを,奥
平氏は前掲の諸々の引用文において指摘しているのである。氏は,r選挙権の
特性」を「選挙制度…とつき合わされる運命にある」ものとする。選挙権の行
使は,代表の選出という効果を生み出すr制度しての選挙」を前提としている。
他方,選挙制度は,個々の構成員への選挙権の保障を,これまた前提としてい
る。選挙権と選挙制度は,お互いをその本質的な内容として相互依存的に,不
可分に結びついているのである。このことは,r当然のことである」と言われ
るかも知れないが,このr当然のこと」を理論の原点に措定する方法,すなわ
ち「選挙」という行為の現実の構造を正しく反映する概念の構成,が,従来の
「権利説」では十分にふまえられてこなかったのではなかろうか。選挙権をそ
のものとして認識するためには,ここで言う「権利」性と「権力」性の二つの
契機のいずれをも欠くことはできないのであって,選挙権を「権利である」と
規定するだけでは,それが「なにものであるか」が明らかにならないからであ
る。
ここで,選挙権の「法的性格」を論ずることの意義が問題となる。それが有
してきた学説史上の意義については別途考察する必要があろうが,r法的性格」
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一橋研究第13巻第4号
の議論が選挙権論の起点に位置する限り,それは,選挙権が「なにものである
か」,すなわちその本質を規定することを課題としなければならない。その際,
他の権利と比較した場合の選挙権に特殊な契機(=r権力」性の契機)を内包
しない本質規定には問題があ孔そして,従来のr権利説」は,方法上,この
(王5)
契機を欠落させて構成されていると言わざるをえない(このことのもつ具体的
な意味は,後にrr権利説』の検討」のなかで明らかにする)。私が,選挙権の
r法的性格」についての議論のし方そのものに問題があると,本稿の冒頭で述
べたのは,以上のことを明確にしておきたかったからである。
なお付言しておけば,私がここで選挙権のr本質」はr権利」性とr権力」
性の両者によって規定されなければならないと言う場合,そこでは,特定の統
治システムを想定しているわけではない。もちろん,選挙権のr権利」性が普
通選挙制を前提として問題とされる以上,その点での限定はある。しかし,こ
の点をのぞけば,実定統治システムをどのように構成しようと,また,それを
いかなる法原理にもとづいて説明しようと,常に共通の土台として根本を規定
しているという意味において,r権利」性とr権力」性(その相互の連関)は,
選挙権のr抽象的な本質」を指し示す概念である。実定選挙制度がどのように
構成されようと,各人の選挙権の行使が代表の選出という効果を有するという
点に変わりはないはずであるし,また例えば,国家法人説にもとづいて,選挙
を選挙人団という国家機関の「権限」としつつ選挙権をこの権限行使への参加
請求権とみなす場合であっても,人民(政治的意思能力をもつ市民の総体)主
権原理にもとづいて,選挙を主権行使の一様態とし,選挙権を主権行使参加権
と規定する場合であっても,いずれも,選挙権がr権利」性とr権力」性の相
互依存関係のなかで規定されざるをえないという普遍的なr土台」に基礎づけ
られているのである。もちろん,選挙制度を具体的に構成する段階では,具体
的な規定性を付与された選挙権保障のあり方は,多様なものとなるであろうし,
その際,国家法人説やr人民主権」・r国民主権」(国籍保持者の総体ないし
は過去・現在・未来の世代の総体に主権を帰属させる原理,いずれにせよ主権
主体としての「国民」はそれ自体として意思能力をもたない観念的・抽象的存
在である)等の主権原理の上での分岐も少なからぬ意義をもつことになろう。
しかし,一方で,選挙権のr抽象的な本質」が不変の基礎として具体的な制度
(16)
を貫いていることを閑却するわけにはいかないのである。
最近の選挙権論の動向について(一)
41
そして,奥平氏の前述の諸々の指摘は,普通選挙制を前提とした選挙権のこ
のr抽象的本質」をそのものとして言いあてた(と解されうる),その限りに
おいて,正当なものであるということになる。
lb〕.しかし,奥平氏の問題提起はこれにとどまらない。氏によれば,従来,通
説がr選挙権には権利と公務の二重の性質がある」と述べていたのは,選挙権
の叙上のような本質のことであるということになるようだが,はたして,通説
をそのように評価することができるであろうか。これが,第2の「通説の理解」
に関連して考えなければならない問題である。
後に具体的に検討するが,私見によれば,通説のこのような理解はやはり正
当ではない。通説のいう選挙権のr権利」性と「公務」性とは,単に選挙権の
「抽象的本質」を示すものではなく,そこから,具体的な選挙制度のあり方を
引き出したり,あるいは一定の選挙制度を前提としてこれを総括的に表現する
ものとして用いられている。奥平氏の通説理解は,この点において一種の「混
同」が見られる。
たとえば,氏が代表的な通説として引用する清宮四郎氏の説があ乱
r選挙権の性質については,いろいろの説があるが,選挙人は,一面におい
て,選挙を通して,国政についての自己の意志を主張する機会を与えられると
同時に,他面において,選挙人団という機関を構成して,公務員の選定という
公務に参加するものであり,前者の意味では参政の権利をもち,後者の意味で
は公務執行の義務をもつから,選挙権には,権利と義務との二重の性質がある
(17〕
ものと認められる」。
このような清宮氏の論述を奥平氏は,r私人である国民が選挙においては公
(18)
人的な性格を希有する」というr常識」の表明として受けとっている。しかし,
清宮氏の論述は,r主権の保持者としての国民」(立憲法を制定する国民)と
「憲法上の機関としての国民」とを区別し,選挙は後者の「国民」(選挙人団と
いう国家機関)としての行為とする,という理論枠組みにもとづいておこなわ
(19)
れている。r選挙人は…選挙人団という機関を構成して,公務員の選定という
公務に参加する」という見方は,このような特定の主権原理に立脚しているの
である。清宮氏の議論は,私のいう選挙権のr抽象的本質」(まさしくこれは
r常識」とみなされうる)を指摘しただけのものではない。われわれのr常識」
のなかに,主権を超実定的な憲法制定権として把握する考え方や国家法人説を
42
一橋研究 第13巻第4号
すべり込ませるわけにはいかない。
私は,選挙権のr抽象的本質」としてのr権利」性とr権力」性(その相互
依存的関係)を確認することと,特定の統治システムや主権原理を前提として,
そこにおける選挙権のr権利」性やr公務」性ないしはr公共」性(人民主権
原理を前提とする場合の選挙権の「権力」性をこの言葉で表現する)を問題と
することとは厳密に区別するべきであると思う。奥平氏の通説評価は,この両
者の混同にもとづいているといえる。もっとも,この混同の責任は,ひとり奥
平氏が負うものではない。従来の通説自体が,この二つの違いをあいまいにし
てきたと思われるからである。たとえば,やはり通説の代表的論者とされる林
田和博氏は,「選挙権の法的性格」論議を総括して,次のように述べる。
r選挙を国家目的のための公務(Funktion)として,また,選挙権を憲法並
びに選挙法によって保障される主観的権利…として,区別するとき初めて妥当
なこの問題の解決に到達し得るものと思われるパ…・・要するに,一方選挙権の
公務的性質を否定し難いとしても,他方選挙権は立憲政における国民の法意識
(20)
の中では明らかに国民の権利として存在する」。
ここでは,「公務」性をもつのは「選挙」なのか「選挙権」なのかが不明確
にされている。「選挙権は権利であるが,選挙は公務である」と規定した場合,
表現的には,私の選挙権の本質規定に近くなるが,いずれにせよその場合でも,
「公務」性を抽象的にとらえるのか,あるいは具体的な選挙制度のもとで選挙
権保障の内容を規定するものとして(とりわけ選挙権のr制約根拠」として)
(21)
とらえるのかによって,その持つところの意味は全く異なってくる。そして,
この点を区別しないところに通説自体の「混同」を見ることができると言えよ
う。また,r権利説」には,通説のこのような問題点を適切に指摘してこなかっ
たという点に,その問題点があるとも言え札
13)課題の設定
以上のように,奥平氏の問題提起には,選挙権論の発展のうえで積極的に受
けとめるべき提言が存在する。と同時に,それによって氏の所論も含めて従来
の通説の問題点を再検討するという課題が,あらためて提起されたように思わ
れる。そして,このことを通じて,従来のr権利説」の到達点と限界をも明ら
かにし,通説とそれとの間の原理的差異を措定し直すという作業がせまられて
いるように思われる。
最近の選挙権論の動向について(一)
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課題を具体的に設定するならば,次のようになる。
まず第一に,通説の問題点の再検討とは,すなわち,それが,奥平氏のいう
ように選挙権についての「常識」的な理解の表明にほかならないのか,それと
も,それを越えて,一定の内容を与えられた具体的な選挙制度のあり方を指し
示し,あるいは枠づける原理的表明としての意義を有していたのか,が主題と
なる。そして,このことの関連で,奥平氏自身の所説と通説との関わりが問題
となろう。
第二に,第一の検討を通じて明らかにされる通説の問題点にたいして,「権
利」説はどのように対応してきたのか。この対応に問題はなかったか。あった
とすればそれを克服するためにr権利説」はどのように論鹿されなければ
ならないのか。これらの点が検討されなければならない。
(1) 奥平①9−10貢参照。
(2) 同上10頁。
(3) 奥平②9頁。
(4) 同上王O頁。
(5) 奥平③7頁。
(6) 奥平①1O頁参照。なお,反論として,浦田前掲論文参照。
(7) 奥平②8−9頁。
(8) 奥平③王2頁。
(9) これらの指摘については,とりあえず,杉原前掲論文,辻村①,金子前掲論
文,伊藤前掲論文参照。
(10)
奥平③8−10頁参照。
(11)
奥平②9−1O頁参照。なお,ラーバントは,選挙権は個人の権利ではなく公
務であり,「憲法の反射」にすぎないとする。この点については,山本浩三「選
挙権の本質」r公法研究』第42号1980年31頁以下参照。
(ユ2)
奥平②1O頁。
(13)
同上11頁。
(14)
ここで問題としているのは,選挙権とその行使のr法的構成」のレヴェルに
おける性格規定である。普通選挙権者(の総体)が,ただちに「国家権力」の
現実の主体であることを意味しない。それは,当該社会・国家の内容的編成に
依存する問題である。ここで選挙権(とその行使)の「権力」性ということの
意味は,それが,国家権力の法的な(正統的な)担い手(議会)のあり方を決
定的に左右する法的な力を有するという程度のものである。以下,選挙権の「権
力」性という場合,このことを指す。
(ユ5)
もっとも,「権利説」は,選挙権の権利としての特殊性を問題にしていない
わけではない。それは,選挙権の「法的性格」と区別されたr権利の性格」の
44
一橋研究 第13巻第4号
問題として論じられている(辻村④12頁以下,金子前掲論文62頁以下参照)。
しかし,そのような区別の方法論上の意義があらためて問われなければならない。
(16)
このように,主権原理をどのように構成しようと,また具体的な選挙制度の
あり方のいかんにかかわらず,選挙権の「抽象的本質」に一貫性を確認しうる
のは,なぜか。これ自体,一つの大きな問題である。本格的な検討の準備をも
ちあわせてはいないが,とりあえず現段階では次のように考えてい孔国家法
ナシオン プープル
人説(国家主権),「国民主権」,「人民主権」等は,その理論の構成・内容にお
いて種々の差異を有するが,ブルジョワ国家の最も抽象的なレヴェルにおける
法的表象として,一つの共通点を有する。すなわちそれは,国家権力(主権)
は特定の個人の私的な所有の対象ではないということである(人民主権説にお
いてもそれはすべての市民のものであるとされている)。このことは,いわゆ
る「国家と市民社会の分離」,国家権力の純粋な「公的権力」としての成立,
というブルジョワ社会・国家の基本的属性を法的に映しとったものである。国
家権力が「公的権力」として表象される以上,市民が選挙というその活動に参
加する場合,それがあるがままのr私人」としてではなく,r公人」として,
その社会的内容を剥ぎとられた「抽象的な市民」(一票)としてである。かく
して,選挙権は市民の「権利」であったとしても,彼はそれを純粋に自らの私
的な所有の対象とすることはできない。国家権力が彼の私有物ではないのと同
様に。ブルジョワ国家においては,(あくまでも表象のレヴェルにおいてでは
あるが)国家権力はすべての人のための権力,すなわち「公的確カ」であるほ
かない。この国家のr公的確カ」たる性格こそが,普通選挙制が実施され,個々
の市民の総体が主権者として観念されるようになっても選挙権が「権利」性だ
けによっては把握されえないということの背後に存在してい乱
(17) 清宮四郎『憲法I〔新版〕』1971年135頁。
(18) 奥平③7頁参照。
(19)
清宮前掲書127−134頁参照。
(20)
林田和博r選挙法』1958年39−40頁。
吉田善明氏は,清宮説と林田説とを区別して,後者を「基本権説」と呼ぶ。
(2ユ)
その特徴は,「自然権説とは権利の性格を異にした政治的権利であるとして,
権利性を重視しながらも,行使の形態をみるとき,社会的職務としての性格(公
共性ないし,この点で公務性と呼んでもよい)をもつ点が強調されているとこ
ろ」にあるとし,「選挙権を権利だとしても,他の人権とは異なる法律への留
保事項が多く存し,選挙権行使の際のやむを得ない制約をともなう場合が多い
からである」と続ける(吉田r政治的権利一選挙権の再検討」rLaw schoo1」
第21号1980年77−79頁)。ここにも,選挙権のr公務」性をめぐる「混同」が
生じていると思われる。
2.通説とその検討
1で,私は,選挙権のr抽象的本質」と一定の選挙制度におけるそのr具体
的性格」とを区別するべきことを指摘し,奥平氏の問題提起にはそれが混同さ
最近の選挙権論の動向について(一)
45
れている,と述べた。要するに,選挙権が何らかの選挙制度の存在を前提とす
るということと,特定の選挙制度のもとでの選挙権が人権保障における一般的
な制約原理では説明のつかない特殊な制約をこうむるということとは,とりあ
えず別個の事柄であるということである。2では,この二つの事柄の混同が通
説とされてきた諸説においても存在してきたのではないか,という仮説を軸心
にして考察をおこな㌔通説の問題点の究極の源泉は,この混同にあると思わ
れる。
ところで,「通説」をどう定義するのか。ここでは,より明確な規定が必要
となろう。一口に選挙権の法的性格をr権利」性と「公務」性の両方によって
規定する説といっても,①選挙権の内容(選挙人団加入請求権のみか,選挙権
の平等・立候補の自由などは含まれるのか),②選挙権の「公務」性の意義(そ
れは選挙権・被選挙権にたいしてどのように制約の根拠としてかかわってくる
のか)について必ずしも一様ではない。さらに,選挙権のr権利」性と「公務」
姓とがどのような関係をもって結びついているのか,という点になると,通説
ではほとんどふれられていないのが現状である(このこと自体,私のいう「混
同」の結果ともいえるが)。
ここでは通説とおぼしきものをあれこれの基準に従って仕分けをおこなうと
いう方法はとらない。必要なことは,選挙権にr権利」性とr公務」性を認め
る説に共通する性格,その意味において,それの最も基本的な属性を抽出する
ことにあると思われる。思うに,それは,それらの説が選挙権の「公務」性を
人権一般の制約原理によっては説明のつかない制約の存在と結びつけて理解し
ているということであ乱たとえば,次のような指摘があ乱「選挙権を権利
だとしても,他の人権とは異なる法律への留保事項が多く存し,選挙権行使の
(1)
際のやむを得ない制約をともなう場合が多い」。また,選挙権に特定の欠格事
(2)
由を定めることの合理性を,そのr公務」性から導き出すものもある。
そして,この選挙権を法律によって具体的に保障するさいに現在課せられて
いる種々の制約を,通説が「公務」の名において安易に正当化してきた,とい
う点に「権利説」の通説批判の大きな力点がおかれてもいるのであ乱実際の
ところ,r権利説」には,選挙権者と被選挙権者の年齢要件の差異や受刑者・
(3)
選挙犯罪者にたいする権利制限に違憲の疑いをかけるものが少なくない。この
点に関しては,「権利説」は通説の問題点をするどくついている。通説の現実上
46
一橋研究 第13巻第4号
の問題点がこのような現行選挙制度の安易な受容にあるとするならば,この「受
容」の根源は何なのか,それは通説の論理構造のなかから必然的に派生してく
るものなのか,これらの点が,通説批判の中心的な論点どなる㌦通説をその
ようなものたらしめているもの,すなわち,通説をして選挙権の「公務」性を
その特殊な制約と結びつけて把握させているものとは何か,これを明らかにす
ることが,通説批判の真の要点である。すでに私は,それを通説における選挙
権のr抽象的本質」とr具体的性格」との混同にある,と示唆しておいたが,
批判は具体的になされなければならない。この混同が通説のなかに具体的にど
のような形であらわれているのか,を解明しなければならない。
そこで,まず最初に,「権利説」による通説批判がこの要点をついているか
を検討する。「権利説」は通説のいくつかの実践的帰結を批判し,そして,そ
れらには正当に評価されるべきものが多く含まれていると思うが,それらと,
「権利説」による通説の論理構造への批判とが有機的に結びついているか否か
は,別の事柄である。結びついていないとすれば,それは通説批判の要点をつ
いていないことになる。
11)r権利説」による通説批判
同.通説の論理矛盾
「権利説」による通説の論理構造への批判の第一は,それが「権利」と「公
務」という本来あいいれない性質のものを選挙権の性格規定に用いている,と
いう点にある。たとえば,次のような指摘がある。
r支配的な見解(二元説のこと一引用者)については,論理的な整合性が欠
けがちとなる……二元説の立場から,投票について公務性のほかに権利性が指
摘され,その理由として,r近代の立憲国家は単なる自己目的でもなければ個
人目的でもなく,ここでは協同利益と個人利益が不可分に絡み合っている』と
する近代立憲国家の理念や…国民の法意識論などがあげられている。ここでも
論理の整合性の欠如,少なくとも論証の不十分性が気になる。そこでは,たと
えば,公務性と権利性がつねに矛盾することなく両立しうることは論証されて
いない。権利について個人の利益の観念を要素とする場合,それが公益目的の
公務とっねに両立しうるとするためには特別の論証が必要とされる。同様にし
て,その理由としてあげられている近代立憲国家理念についても,協同利益と
最近の選挙権論の動向について(一)
47
個人利益がどのような法的論理を媒介として不可分に絡み合っているかが説明
(4)
されなければ,二元説を正当化しえないといわなければなるまい」(杉原)。
r二元説のうち,権利の内容をr選挙する権利』と解するものについては,
同一の行為に対して同時に権利と義務の法的性格を付与することの理論的矛盾
(5)
が指摘される」(辻村)。
「先ず,…二元説について,この説の特色は,選挙人となることのできる資
格を参政権的権利とし,選挙権に含めた選挙行為を公務執行(国家権力から強
制される行為)=義務とするところにある。選挙人となることのできる資格を
権利として所有する人が,選挙行為を国家権力から強制される存在となるとい
(6)
うのは,矛盾であるr(金子,なお括弧内は原文)。
第一の杉原氏の指摘によれば,権利(私益)と公務(公益)の両立性が一定
… (7∼
の法的論理を媒介として論証される可能性が残されていると思われるが,後の
辻村・金子両氏の指摘は,「公務」をr義務」:強制のモメントを重視して把
握し,これと「権利」との非両立性を述べるものであ乱そして,選挙がr義
務」であるとすれば,法律によって選挙人に投票を強制することも可能になる
とする。たとえ,任意(自由)投票制が採用されるとしても,それは「立法裁
(8〕
量」の結果であるとされる。また,辻村氏の指摘は,二元説が選挙権をr選挙
人資格請求権」とする場合にのみこの理論的矛盾は解消されるが,その際には,
選挙をどのような制度によっておこなうかはr権利」の問題ではならなくなる
という評価に接続している。かくして,二元説ではr投票価値の平等が論理必
(9)
然的に選挙権の平等に含まれるわけではない」,という評価が導かれる。
結局,「権利説」によれば,通説に立脚する論者がr強制投票制は採用する
べきではない」,r選挙権の平等の要請はそのr価値の平等』にまで及ぶ」と述
べるとき,それは,自らの論理に忠実ではない,少なくともその内在的な論理
とは無関係に結論を引き出している,ということになる。それは,「公務」性
イコールr義務」姓ととらえていることからきてい乱
ところで,通説をとっている論者はこの点について実際にどのように論じて
いるのであろうか。強制投票性をめぐる問題について見てみよう。
r選挙権には,国家機関として公務を執行する義務的性質が伴うとすると,
投票を強制してもよさそうであるが,わが現行法は,強制してまで投票させる
のは適当でないとみているのである。理由としては,…選挙は義務であると同
48
一橋研究第13巻第4号
時に権利でもあり,その行使はむしろ任意とすべきこと,…などが考えられる」
(io)
(清宮)。
「選挙が公のr職務」であり,社会的もしくは政治的なr義務」だとすれば,
強制投票制が選挙法上の要請だという議論も成り立つ…。しかし,選挙権が公
務執行の義務たる性質を強くもっとしても,それはr道徳的な義務」であり,
法律によって強制されるr法律的な義務』だと考えるのは正当ではない」(芦
(11)
部)。
総じて,通説においても義務(強制)投票制の導入にたいしては消極的であ
る。その際,清宮説は選挙権のr権利」性を強調し,芦部説はr義務」性の方
の意味を特定するという視角の違いはあるが,双方とも,選挙権のr公務」性
を具体的に把握することなく,すなわち,選挙権の行使を「国家機関の職務権
限」の行使という具体的な規定性を有するものとすることなく,抽象的な社会
的職務という程度の意味しかそれに与えていない,という点では共通している
と言ってよかろう。この点はr権利説」と対称的である。すなわち,r権利説」
にとっては,選挙権に「公務」性を認めるということは端的に義務投票制を承
認することであるのに対して,通説は,義務投票制の可否を語る際には,選挙
権のr公務」性を抽象化し,これに積極的な内容を与えないことによって対処
しているのである。
この点に関する限り,通説とr権利説」は論点がかみ合わないまま対時して
いると言わざるを得ない。そして,このことは,通説と「権利説」のいずれも
が,別々の意味あいにおいてではあるが,私のいう選挙権の「抽象的本質」と
そのr具体的性格」とを混同していることを意味している。通説は,義務投票
制の可否を論じる際には選挙権のr公務」性を抽象化しているが,r公務」性
を一貫してそのように理解しているわけではない。後に具体的に検討するが,
選挙権の欠格事由を問題とする際には,r公務」性は「権利」性に対立してそ
れを制約する性格として把握されている。たとえば,芦部氏によれば,「公務」
性は,r選挙に関してみずから不適格者たることを表明した者を一般の刑罰を
(12)
科せられた者と区別し,異なる取扱いをすることは,当然の措置というべき」
であるという具体的な帰結をもたらすものとされている。このように,通説の
場合は,選挙権のr公務」性をある場合は抽象的に,他の場合には具体的に理
解している。そして,そのような「使い分け」の根拠は何ら示されていない。
最近の選挙権論の動向について(一)
49
これは,まさしく,選挙権のr抽象的本質」とr具体的性格」とを混同するこ
とからくるのである。
一方,r権利説」の方はと言えば,選挙権のr公務」性がその特殊な制約を
正当化するのは当然のことではなく,一定の主権原理にもとづく場合にはその
ような制約はむしろ排斥されさえするという点を強調するが,選挙権が抽象的
には権利行使の形式を特定する選挙制度と不可分の関係にあるということを認
識していない(少なくとも,論理構成のレベルにおいてこのことが反映されて
いない)。「権利説」が通説における「混同」を指摘していないのは,これもま
た一種の混同と評価しうる。
通説の論理的矛盾は,r権利説」のいうように,選挙権にr権利」性とr公
務」性を同時に認めること,そのことにあるのではない。確かに,「公務」性
を具体的に「義務」性(r職務権限」性)として理解する場合には,選挙権の
行使が同時に「権利」であり,「公務」であるとするのは矛盾である。しかし,
「公務」性を抽象的に「社会的職務」たる性格ないしは私のいう「権力」性(選
挙権の行使の結果・その集積は一つの「権力」を構成するということ)と同義
に解する場合には,それは矛盾ではない。むしろ,それは選挙権が選挙権たる
基本的な条件である。通説の真の論理矛盾は,このr公務」という言葉に込め
られた二つの意味を混同している(それらを無意識に併用している)というこ
とのなかにある。この点から見れば,r権利説」からの「通説は『権利』と『公
務』という本来両立しえないものを両立させようとしている」という批判は,
一面性を免れえない。
lb〕.国家法人説的思考
第二に,「権利説」が通説を批判する際の要点として,「国家法人説的思考」
があげられてい孔「国家法人説」と一口に言っても,その母国であるドイツ
において一致した見解があるわけではない。たとえば,ラーバントの国家法人
(工3)
説とイエリネクのそれとは異なる構成をとっており,それは,両者の選挙権論
(14) ナシオン
の違いとなって具体的にあらわれている。そして,「国民主権」の伝統と国家
、 、 (15)
法人説との接合を試みたフランスのカレ・ド・マルベールの選挙権論などは,
両者の説とさらに異な乱
もっとも,多様な国家法人説のなかから以下の点をその基本的枠組みとして
確認することができるであろう。すなわち,法的な意味における「国家」は,
50
一橋研究 第13巻第4号
始源的な支配力としてのr統治権」の「主体」であり,それは一種のr法人」
とみなされる。このr法人たる国家」は,そのr機関」によって活動す乱国
家の機関は,法(始源的には憲法)によって規律された職務権限を行使すると
同時に,国家はこの機関を通じてのみ活動する。かくして,すべての国家作用
は,それを担う諸機関の機関権限として位置づけられることになる。r権利説」
が国家法人説を問題とする場合も,大要これらの枠組みは前提とされていると
言ってよかろう。
以上のような枠組みにもとづいて,普通選挙権者の総体としての選挙人団を
一つの国家機関とみなし,代表の選出をこの機関の権限として説明することは,
r国家法人説」に立脚しているということになる。前述の清宮説が,r憲法上の
機関としての国民」,r選挙人団という機関」という表現によってこれに依拠し
ていることは明らかである。通説とされる論者の多くも同様の表現を用いてい
る。例えば,以下の通りである。
「選挙権は,すべての人に人たるがゆえに当然に与えられる純粋に超国家的…
な基本権ではなく,国家の機関受託者(S七aa七s−Organwa1tern)としての法
的地位,したがって一定の資格を有する国民のみに与えられる国家法上…の基
(i6)
本権である」(芦部)。
「選挙権は人間に固有な基本権であるというより,選挙人団という機関の一
員としての法的地位であり,一定の資格を有する国民に対して国法により保障
(17)
される基本権である」(野村)。
r参政権の実現が不可避的に国家機関化的制度化にかかる以上,その段階で
参政権がr公務』(すなわち,選挙権の場合でいえば,公務員選定という国家
機関任務を担った選挙人団の一員としての職務)的性格をも帯びざるをえない
(工8)
ことは確かである」(手島 傍点・括弧内原文)。
しかしながら,以上の諸説が,いかなる意味において国家法人説に依拠して
いるのか,そして,それによって,それらの選挙権論にどのような限界がもた
らされているのか,は,別に検討を要する事柄である。
国家法人説に依拠するドイツの議論は,通常r選挙権の行使」と呼ばれる投
票一代表の選出を機関の「権限」として「権利」と厳密に区別するところから
出発す乱r機関は固有の権利をもたず,単に国家の権限をもつにすぎない。
ゆえにこの権限はまた機関を担う人格の権利でもあり得ない。一定の人物が固
最近の選挙権論の動向について(一)
51
有の権利としての国家の権限をもつことは,国家の分裂かさもなければ国家を
(19〕
超えた法秩序の主張を意味する」(G.イエリネク)。イエリネクにしても,ラー
バントにしても,前提としているのは,選挙権が「権限」でありかつ(同時に)
「権利」であるということはありえない,というこの枠組みである。
これにたいして,わが国における前掲の諸説は選挙権が「権利」であると同
時に機関r権限」であるという理解に立っているように思われ乱同じ国家法
人説にもとづく選挙権論といっても,出発点において大きな隔りがある。そし
て,この点は通説自体が語るところでもある。たとえば,芦部氏は次のように
述べる。rG、イエリネク的な国家法人説をとれば,……国家は共同の目的で結
合され固有の意思機関をもつ社団…であるから,彼のいう国家人格の概念は国
家意思の概念と不可分に結合したものであり,国家人格はその意思を執行する
国家機関の総体…と同視され・・・…,この結果,国家作用を行なう国民の法的地
位は当然に国家の機関としてのみ把握される。したがって,選挙は,各選挙人
の投票の集積により得られる国家機関(選挙人団)の意思によって,他の国家
機関(公務員)を選定する行為だということになる。しかし,国家法人説も学
者によって説くところは同じではない。・・一選挙人団を国の機関として位置づ
ける理論は必ずしもイエリネク的な国家法人説を前提とするものではない…。
私がさきに選挙人団の地位を機関と考えてよいといったのは,この意味の機関
であって,イエリネクのいう意思説にもとづく選挙人団の国家機関性をそのま
、 (20)
ま認めたのではない」。
もっとも,この点に関しては,そもそも国家法人説(「機関」理論)の枠組
みが,ある行為にr権利」性とr(機関)権限」性を同時に確認することを許
容するものであるのかが検討されなければならない。そして「権利説」はこの
点を問題にしているのである。通説は,概して,この問題についての理論的関
心が希薄なようであるが,国家法人説という枠組みの本質とも関わって重要な
点であ乱結論だけ先に述べておけば,国家法人説にもとづきつつ投票行為そ
のものの「権利」性を認める学説もある。たとえば,フランスにおける国家法
人説の代表的な理論家,カレ・ド・マルベールの説などがそれであ乱
彼は,r選挙権」をr投票する権利」(droit de VOte)としたうえで,次のよ
うに述べる。r選挙権は,継起的に(Su㏄eSSiVement)個人的権利であり,国
家的職務である…。すなわち,選挙人が投票権を認めてもらい,これに参加す
52
一橋研究 第13巻第4号
ることに関わる限りで権利であり,選挙行為が一度おこなわれて,生み出され
(2王〕 、 、 、 、 、
た効果が問題となる限りで職務である」。これは,実質的には,選挙権がr権
(22)
利」であると同時に「職務」(fcnction)であることを認めるものである。な
お,このような理解の前提には,次のような考え方が横たわってい私選挙人
団が国家意思を表明する機関としての議会(の議員)を指名することのみをそ
の職務とする限り(そしてフランス革命以来の伝統的なr純粋代表制」1e pur
syst6me repr色sentatifのもとでの選挙人団はそのような存在である),それは
国家の機関ではない。r本来の機関はそれ自体,国家に一つの意思,最高の意
(23)
恩を与える,すなわち,始源的な形でその意思を創設するものである」からで
ある。本来国家の機関ではない選挙人団がそのようなものとみなされるように
なるのは,選挙制度が変化し,選挙人団が国家意思の形成に効果的に寄与する
ようになること,すなわち,選挙人団の意思と代表の意思との一致(conformit6)
が意識されるようになることによる。この場合でも選挙人団は本来の意味にお
ける決定機関ではないが,その意思が議会の意思形成に影響を及ぼすという意
味において,それは国家意思の表明に参加するr機関」とみなされることに
(24)
なる。かくして,カレ・ド・マルベールによれば、選挙人団の国家r機関」性
は,選挙人団の意思が議会意思とは別に形成されることを前提として,選挙人
団の意思の議会意思への影響力が確認される段階,すなわち彼流の表現を用い
(25)
れば,「半代表制」(1e r6gime semi−repr6sentatif)の段階で初めて獲得される
ものであ孔カレ・ド・マルベールが選挙権のr権利」性を承認したのも,実
は,r機関」としての選挙人団の性格をこのように把握していたことと無関係
ではないと思われ乱彼によれば,選挙権が「権利」であることと,選挙人団
が「機関」であることとは,「半代表制」の下で分かちがたく結びあっている
のである。
このように国家法人説にもとづく選挙権論と一口に言っても,その理論内容
は一様ではない。ドイツの議論では選挙人団の国家「機関」性をアプリオリに
措定するのに対して,カレ・ド・マルベールなどはr機関」性は一定の条件の
下で獲得されるものとしている。そして,選挙権の行使(代表の選出)はもっ
ぱらにr機関権限」の行使であるとする議論は,国家法人説にもとづく選挙権
論の一類型にすぎないのであって,法人説の枠組みがそのような帰結しか許容
しないという関係にはない。そこでは,カレ・ド・マルベールのように,選挙
最近の選挙権論の動向について(一)
53
権は市民によるその行使の局面においてはr権利」であるが,その結果として
の代表の選出は選挙人団という機関のr職務」であるとする説明もまた成り立
(26)
ちうるのである。
したがって,ここでも,通説が国家法人説にもとづいて選挙権を機関「権限」
としつつ同時にr権利」であるとするのは論理矛盾である,とする批判は的を
射ていないことにな孔通説がイエリネク流の国家法人説に依拠している場合
には,このような批判も一定の根拠を有するが,前掲の芦部説が示すようにこ
の点はむしろ否定されているのである。以上をふまえるならば,同じく選挙人
団を国家機関として位置づけるにしても,選挙権を選挙人団加人請求権に限定
するイエリネク説とわが国における通説とでは,一律に批判することを許さな
い基本的相違が存在することを確認する必要がある。たとえば,選挙行為その
ものはもっぱらに機関権限の行使であるとする前者の説によれば,義務投票制
の導入も容認されるかも知れないが,選挙行為の「権利」性を認める通説にとっ
て,導入はむしろ否定されることになろう。この点では,通説は,すでにその
「公務」観について指摘したのと同様に,選挙が選挙人団の「機関権限」であ
るということを言葉の厳格な意味において把握しておらず,抽象的に理解して
いるにとどまると言える。
ところで,このように選挙人団のr機関」性の意味がrあいまい」にされた
まま選挙権の内容について論じられるという状況の背後には,実は,国家法人
説の理論枠組みそれ自体に内在する性質がひそんでいるように思われる。国家
の統治システムの法的説明のための理論枠組みである国家法人説は,国家それ
自体をその主体とする統治権の具体的な発動を,すべて,法によって規律され
た諸機関の権限として説明する。この法とは始源的には憲法(成文主義の国に
(27)
おいては憲法典)に他ならない。こうして,この説によれば,国家の諸機関を
どのように構成し,それらにいかなる権能を与えるかは,もっぱら実定憲法の
定めによることになる。たとえは,国家の最高急患を表明するのが君主である
にせよ,人民であるにせよ,それらは憲法によって委ねられた「権限」を行使
する「機関」として位置づけられる。要するに,この説は,実定憲法が規定す
る統治システムの内容のいかんにかかわらず,そのなかで国家作用を担うとさ
れているものをすべて国家の「機関」として説明するという「純粋に形式的な」
(28)
(無内容な)理論枠組みとして存在しているのである。
54
一橋研究 第13巻第4号
かくして,日本国憲法の下で選挙人団を構成する「国民」をr機関」として
位置づけるにしても,その権限行使のあり方は憲法の定めるところによって内
容が与えられる。選挙権の権利内容もまた憲法の規定のし方に従うことになる。
この点に関して,「権利説」のなかには,通説では選挙権が憲法ユ5条1項で保
(29〕
障された権利とは必ずしもされない,と説くものもあるが,そう一概には言え
ない。むしろ,「公務員を選定し及びこれを罷免することは国民固有の権利で
ある」というエ5条1項の法文の解釈としてこれを「選挙権の保障規定ではない」
(30)
とするのは相当に無理がある。わが国において,イエリネク流の「選挙権=選
挙人団加入詰求権」説が,こんにち,学説・判例のなかで大きな影響力を持ち
えないのも,つまるところ,このユ5条!項との不整合性にあるといえよう。逆
に,通説が選挙人たる地位のみならず投票行為をも含めてr選挙権」としてい
る(この点ではr権利説」も同じ)のは,この規定の文言を字義通りに解釈し
た結果と言える。通説の解釈は,選挙人団を「機関」とみなすにしても,日本
国憲法を前提とする限り,その機関権限は国民が権利として選挙権を行使する
ことを含んで組織されているということを表明するものである,と解するなら
ば,それはr機関権限は憲法に従って行使される」という国家法人説の建前に
のっとっていると言えるのである。さらに,強制投票の禁止を憲法ユ5条4項
r選挙人は,その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」から導き出
(3ユ)
す奥平氏の見解も,同様に国家法人説の枠組みにおさまると言うことができる。
総じて,通説が「国家法人説的思考」のあらわれである「選挙人団=機関」
説を維持しながら憲法に依拠して選挙権をr権利」であるとしたり,強制投票
の禁止を主張したりすることは,何ら「論理的整合性」を欠くごとではない。
通説の真の問題点はそこにはないのである。r権利説」による通説批判が,r投
票の結果価値の平等」や強制投票の禁止は当然のことではなくなるという形で
示され,そこにある種の「歯切れの悪さ」が存在するのは,実は,この点に関
わる。r権利説」が自由・平等選挙の原則を主権原理(人民主権)から論理上
当然のこととして導き出しているのに対して,通説はそれらを,それ自体とし
てはr無内容な」国家法人(国家主権)説とは別のところで,憲法によって表
現された規範のやはり要請として論じているのである。r権利説」には,実際上
は通説が語っていないものをその問題点としてとりあげてきたきらいがある。
もっとも,通説とr権利説」の問には選挙権の権利内容について少なからぬ
最近の選挙権論の動向について(一)
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見解の相違があることもまた事実である。そこで問題は次のように措定し直さ
なければならない。すなわち,通説とr権利説」とが現実に相異なる帰結を弓1
き出しているのは,選挙権をめぐるいかなる問題に関してか。そして,この見
解の分岐は,通説における選挙権のr公務」性の強調やr国家法人説的思考」
とどのように結びついており,それらについていかなる評価が下されるべきか。
これらの点が検討されることによって,初めて,選挙権論におけるr公務」性
の強調やr国家法人説的思考」の意義とその問題性も明らかになるはずである。
そして,このことが通説批判の核心にすえられなければならない。 (未完)
(1)吉田前掲論文79頁。
(2)芦部信喜「選挙制度」r憲法と議会制』1971年285頁,野村敬造「選挙に関す
る憲法上の原則」清宮四郎・佐藤功編r憲法講座3』1964年工31頁参照。
(3)辻村①224頁,辻村③,辻村④22−23頁,金子前掲論文58・60頁,浦田前掲
論文参照。
(4)杉原前掲論文74−75頁。
(5)辻村②167頁。
(6)金子前掲論文45頁。
プープル ブープ』レ プープル
(7)「r人民主権』のもとにおいては,主権は,『人民』に帰属し,r人民』の意
プープル プーブル
思にもとづきr人民』の利益のために行使されなければならない。r人民』の
意思や利益は,それを構成している個々の市民の意思や利益の集積以外には存
プープル
存しえないから,各市民は,『人民』の意思や利益の表明に参加する固有の権
利をもっている」(杉原前掲論文77−78頁)という規定は,(二元説とは別の視
角からのものではあるが)この点についての「論証」として評価しうると患わ
れる。
(8) 辻村④16頁,金子前掲論文50頁参照。
(9) 辻村②174−5頁。
(工O)
清宮前掲書145頁。同旨休日]前掲書41頁。
(u) 芦部前掲書287頁。
(12)
同上285−6頁。
(13)
とりわけ,市民の法主体性を認めるかいなかをめぐって両者の説は分岐する
(ラーハシトー否認,イェリネクー承認)。この点については,名和田是彦「ド
イツ近代公法学の基本的性格に関する一試論」森際康友・桂木隆夫編著r人間
的秩序一法における個と普遍一』1987年参照。
(14)
この点については,林田前掲書38−9頁,山本前掲論文31頁以下参照。
(I5)
cf−R.Carr6de Ma1berg,Contribution身1a th6orie g6n6ra1e de
1’Etat,tome2.1922.p.411et.s.なお,以下も参照,山本前掲論文40−42頁,
辻村「フランスにおける選挙権論の展開囮」r法律時報』第52巻5号1980年103−
4頁。
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一橋研究 第13巻第4号
(16)
芦部前掲書282頁。
(工7)
野村前掲論文130頁。
(18)
手島孝r憲法解釈二十講』1980年54頁。
(19)
G.イエリネクr一般国家学』芦部他訳1974年450一ユ乱かくして,彼によ
れば,r個人の請求権と機関行為とは厳密に区別されるべきである。後者は国
家にのみ固有のものである。そこで,個人の請求権は機関としての行為のため
(20)
芦部前掲書503頁。なお,この点に関連しては,以下も参照,芦部r憲法講
の承認を求めることにのみ向かうことができる」(同上337頁)ということになる。
義ノートI』1986年113頁。
(21) Carr6de Ma1berg,op.cit.,t.2,pp.462_3一
(22)
カレ・ド・マルベールは,選挙権が,「同時に」《互ユa fois》《en m6me
temps》権利であり職務であるとする議論を正面から認めているわけではない。
むしろ,論理構成のレヴェルでは,「国家権力に関しては,職務の観念は個人
的権利の概念と相容れない」として,これを否定する(cf.,ibid,p.447)。彼の
議論は,あくまでも,選挙権は「交代で」(tOur査tOur)「個人の権利」とな
り,「国家の職務」となるというものである。「機関たる個人は二重の性格をもっ
て行動する。すなわち,彼は個人として国事に関して自らの意思を表明する権
能を有する。この意思は,国家の決定の内容を形成するものであって,彼は国
家における公的意思の形成に協力する主観的権利を有する。一方,彼は機関と
して国家の名において発言する機能を有す乱彼が下した決定が憲法にもとづ
いて直接に国家の決定に相当し,その特殊な力を国家権力から受けとるという
意味において,今度は個人の主観的権利の問題ではなくなり,もっぱら機関の
権限そして職務に付随する機能の問題となる」(ibid.,pp,460−1)。しかし,
彼のこの「権利」から「職務」への転化の論理は,「職務」としての選挙が「権
利」としての投票行為の集積そのものに他ならない以上,実質的には「権利」
であると同時に「職務」であるとすることと何ら変わりがないことにな乱
(23)
Carr6de Ma1berg,op.cit.,t.2,p.412.
(24)
cf.ibid.,pp.417__420.
(25)
cf.ibid.,p.361et,s.
(26)
むしろ,イエリネク流の議論そのもののなかにある種の論理矛盾が内包され
ていることすら指摘することができる。彼においても,国家の「機関」とはそ
の意思が国家の意思とみなされる者とされていることから,選挙人団がいかな
る意味において国家の意思を表明するかが問題となる。イエリネクによれば,
選挙人団としての国民は,その代表を「第二次的機関」とするr第一次的機関」
として位置づけられる。「第一次的機関として国民は代表者を選定する選挙行
為においてみずから行動する」(イエリネク前掲書邦訳470頁)。一方,この二
つの機関の関係は次のように説明されている。r第二次的機関は,第一次的機
関とそれ自体機関の関係に立つような機関であって,その結果,第二次的機関
が第一次的機関を直接に代表する。この場合,代表される第一次的機関はその
第二次的機関による以外に意思を表明する手段をもたず,直接に第二次的機関
の意思がその意思とみなされる」(同上443頁)。国家意思を表明する機関であ
最近の選挙権論の動向について(一)
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るはずの選挙人団が実は固有の意思をもたず,それはもっぱら代表によっての
み表明されるというのは,明らかに論理的に矛盾する。むしろ,選挙人団がそ
のような地位にとどまる限りでそれは「機関」ではなく,逆に選挙人団の意思
を(例えば議席の配分状況にそれを読み込むなどして)実在のものとして評価
するところに初めて「機関」性が生じるとするカレ・ド・マルベールの理解の
方が首尾一貫しており,現実をリアルにとらえてもいる。イエリネク説の現実
からの乖離は,究極のところ,本質的には国家権力の担い手ではない選挙人団
(としての国民)を国家権力の他の機関とまずもって同列に位置づけることに
そもそもの根源を有しているように思われる。
(27) イエリネク前掲書「国家の法による義務づけ」の項(邦訳296頁以下)参照。
なお,カレ・ド・マルベールの国家法人説における同様の見地については,拙
稿「カレ・ド・マルベールのr国民主権』論の方法的基礎に関する覚書」「一
橋論叢』第1㎝巻工号1989年参照。
(28)芦部氏による国家法人説の把握はまさにそのようなものである。「かりに国
家を法人とみなし,それを統治権(主権)の主体と考えても,この国家の統治
意思の内容をだれが最終的に決めるかという問題(これこそ君主主権か国民主
権かの問題である)は,消滅しないこと,つまり,国家法人説を採り国家主権
論を唱えても,それと別個に,君主主権も成り立つし国民主権も成り立つどい
うことに,注意する必要がある」芦部r憲法講義ノートI』ユエ3頁。
(29)辻村④14頁参照。
(30)15条1項を「選挙権」とは区別された「参政権」の保障規定とする見解があ
る。その場合,この規定について,rすべての国民が国政に参加しうる地位が
そこで基本的人権として原理的・包括的に承認されている」(作間忠雄F現代
選挙法の諸問題」芦部信喜編r岩波講座現代法3 現代の立法』1965年128頁)
とか,「国民主権原理の一つの表明であり,主権を有する国民を構成する各国
民がみずからに代って国政の権力を行使する公務員…を選定罷免する固有の権
利を有することの宣言である」(佐藤功「比例代表制の憲法問題」r法セミ』19
81年10月号23−4頁)とかの説明がなされているが,たとえそのように解した
としても,このr参政権」とr選挙権」とがどのような関係にあるのかという
問題は残ることになる。とりわけ,r選挙権」保障のあり方は,そのような「参
政権」保障の原則によって規定されるのではないかという疑問が即座に提出さ
れうる。
(31)奥平③9頁参照。
(筆者の住所:〒ユ25葛飾区亀有1一ユ2−8)