Philharmony January 2015 a d e s o N a e r d n a n a i G ©Ramella & Giannese 今月のマエストロ ジャナンドレア・ノセダ 成長し、成熟する指揮者 文 堀内 修 トリノの歌劇場はどうなるのだろ た。すでにサンクトペテルブルクの う? 予断を許さない状況らしい。 マリインスキー劇場で首席客演指揮 イタリア・オペラの今後がどうなる 者として 10 年間仕事をしてきてい か関心のある人は、ムーティがロー たのだが、マリインスキー劇場には マ歌劇場を降りた後、ノセダまでト ゲルギエフという監督がいる。歌劇 リノ王立歌劇場から離れてしまった 場の音楽監督になるのは初めてで、 ら、イタリアのオペラはひどいこと どんな成果を出せるのかはわからな になるのではないか、と危惧してい い。 る。 ノセダがトリノ王立歌劇場の名を ジャナンドレア・ノセダがトリノ 上げ、音楽監督として成功したこと 王立歌劇場の音楽監督に就任したの は、今では疑う余地がない。 《ボエ は 2007 年のことだった。アバドや ーム》を初演し、もともとイタリア ムーティのような大物ならともかく、 でも有数のオペラ・ハウスだったト ノセダはまだこれからの指揮者だっ リノ王立歌劇場だが、ノセダとのこ 今 月 の マ エ ス ト ロ ジ ャ ナ ン ド レ ア ・ ノ セ ダ の 8 年間は勢いを持っていた。今後 の最初の日本公演が 2010 年だった どうなるかわからないとしても、音 から、すでにノセダは控え目な印象 楽監督ノセダが築いた黄金の 8 年は、 など捨て去っていて、成熟したオペ 長く記憶されることだろう。 ラ指揮者になっていた。それでも、 来日公演に見る、 ノセダの大きな変化と成長 ナタリー・デセイやマシュー・ポレン ザーニが出演した《椿姫》で注目さ れたのは当然ながら歌手だったし、 ノセダはトリノ王立歌劇場ととも バルバラ・フリットリとマルセロ・ア に、この間 2 度の日本公演を行って ルバレスが出演した《ボエーム》で いる。さらに、メトロポリタン歌劇 も、関心を集めたのはスター歌手で、 場の来日公演でも、この歌劇場の主 その両方を指揮した歌劇場の音楽監 要な指揮者のひとりとして加わって 督ノセダは、控え目な印象を維持し いるので、私たちはオペラ指揮者ノ ていた。 セダの実力を存分に味わえたことに だがその翌年、東日本大震災の年 なる。コンサート指揮者としても登 に、メトロポリタン歌劇場の指揮者 場しているから、聴く機会は多かっ として来日公演の《ルチア》を指揮 た。そして何回か聴いてくれば、気 した時のノセダは違っていた。この づくことがある。それは大きな変化、 時の公演は、なにしろ大震災の後だ というより成長だ。 けに、予定されていた歌手が何人も ゲルギエフとともにマリインスキ 来日を中止していた。カウフマン、 ー劇場のオーケストラを指揮したこ ネトレプコなどスター歌手を何人も ろから、ノセダが有能な指揮者であ 欠いての日本公演だったが、さすが るのはわかっていた。同時に、どこ に天下のメトロポリタン・オペラで、 か控え目であるのも、ゲルギエフと 緊急事態をなんとか切り抜け、破綻 較べれば明らかだった。テンポを整 しないよう上演の水準を維持するや え、とてもきちんと演奏するけど、 り方に舌を巻いた。 《ルチア》だっ イタリアの指揮者らしい外連味はま て無傷ではなかったのだが、この時 るでない。つい、実力はあるけど人 のノセダの指揮が見事だった。ディ 気指揮者ってわけにはいかないかも アナ・ダムラウがルチアを歌い、ロ しれない、などと勝手に推測してし ランド・ヴィラゾンまで急に参加し まった。 て、歌手が充実していたのは確かな だが、ゆっくりとノセダの演奏は のだが、ノセダは《ルチア》の悲劇 変わった。日本でノセダが指揮する 的色調を存分に描き出したのだった。 オペラやコンサートを聴いてきた人 には、幸運にもその変化がはっきり とわかる。 オペラの場合、トリノ王立歌劇場 歌と場面だけでなく、 オペラを作り上げる指揮者 その次のオペラでの来日は、2013 はなっていた。 公演だった。この時も音楽監督ノセ いうまでもなく、オペラにおける ダは 2 つの演目、《仮面舞踏会》と 成熟は、コンサート指揮者としての 《トスカ》を指揮している。本領を 成熟に直結している。トリノを中心 発揮したのは《仮面舞踏会》だった。 としつつ、世界中のオーケストラに ヴェルディの本格的悲劇を、ノセダ 客演しているのも、その成熟が認め は大きなスケールで実現させた。歌 手だって十分に質が高かったのだけ れど、この上演はトリノの、そして ノセダのヴェルディになっていた。 細部に気を使うところは相変わら ずだったが、歌と管弦楽を合わせる ところでは、歌手の呼吸に従うとい うだけではなく、指揮者がリードし られている証だろう。 日本のステージに登場した時は、 ゲルギエフに呼ばれてサンクトペテ ルブルクにいるイタリアの若い指揮 者、だったけれど、いまは違う。ひ とつの歌劇場の実力と名声を築くと いう偉業を成し遂げ、世界の歌劇場 やコンサート・ホールに登場する人 て場面全体を作り上げてゆく。 《仮 気指揮者だ。いまが聴きごろである 面舞踏会》は、幕切れの悲劇と赦し とともに、まだ成長が止まらない指 に向かって、巧みに組み立てられた 揮者でもありそうなノセダは、今後 構築物になった。つまり、歌だけで も射程に置きつつ、いまを聴く指揮 なく場面を、場面だけでなくオペラ 者ではないだろうか。 を作ることができる指揮者にノセダ (ほりうち・おさむ 音楽評論家) プロフィール 2007 年にトリノ王立歌劇場の音 ック首席指揮者などを歴任。フィラ 楽監督に就任したジャナンドレア・ デルフィア管弦楽団、シカゴ交響楽 ノセダは、この歌劇場の実力を上げ、 団、ロンドン交響楽団、ウィーン交 その評価を高めた。世界的にもいま 響楽団など、世界各地のオーケスト やその演奏が期待される、限られた ラの指揮台に立つようになって、次 人気指揮者のひとりとなっている。 第にその実力が認められていった。 ノセダは 1964 年にイタリアのミ これまでもN響には定期的に客演 ラノで生まれた。生地で学び、1994 するほか、トリノ王立歌劇場の日本 年カダケスの指揮者コンクールに優 公演も行っている。トリノのほかメ 勝して世に出た。ゲルギエフに認め トロポリタン・オペラやウィーン国 られ、1997 ∼ 2007 年には外国人に 立歌劇場でも振り、生地ミラノのス して初めてサンクトペテルブルクの カラ座では《アイーダ》で登場する マリインスキー劇場の首席客演指揮 など、オペラ指揮者として定評があ 者として活動している。その後マン る一方、コンサート指揮者としての チェスターのBBCフィルハーモニ 評価も高い。 (堀内 修) Philharmony January 2015 年、2 回目のトリノ王立歌劇場日本 Program Program " A 第 1799 回 NHKホール 1/10[土]開演 6:00pm 1/11[日]開演 3:00pm [指揮] 1799th Subscription Concert / NHK Hall 10th (Sat.) Jan, 6:00pm 11th (Sun.) Jan, 3:00pm ジャナンドレア・ノセダ [conductor]Gianandrea Noseda [ピアノ] [piano] [コンサートマスター] [concertmaster] アレクサンダー・ガヴリリュク 篠崎史紀 Alexander Gavrylyuk Fuminori Shinozaki フォーレ Gabriel Fauré (1845-1924) 組曲「ペレアスとメリザンド」 Pelléas et Mélisande, suite op.80 作品 80(17 ) Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ 前奏曲 糸を紡ぐ女 シチリア舞曲 メリザンドの死 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Prélude Fileuse Sicilienne Mort de Mélisande プロコフィエフ Sergei Prokofiev (1891-1953) ピアノ協奏曲 第 3 番 ハ長調 作品 26 Piano Concerto No.3 C major op.26 (27 ) Ⅰ アンダンテ―アレグロ Ⅱ アンダンティーノ Ⅲ アレグロ、マ・ノン・トロッポ Ⅰ Andante – Allegro Ⅱ Andantino Ⅲ Allegro, ma non troppo 休憩 Intermission ベートーヴェン Ludwig van Beethoven (1770-1827) 交響曲 第 5 番 ハ短調 作品 67「運命」 Symphony No.5 c minor op.67 (34 ) Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ アレグロ・コン・ブリオ アンダンテ・コン・モート アレグロ アレグロ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Allegro con brio Andante con moto Allegro Allegro Soloist アレクサンダー・ガヴリリュク Alexander Gavrylyuk 1984 年ウクライナのハリコフ生 そして 2005 年にはアルトゥール・ 楽学校及びセント・アンドルーズ・カ テドラル学院の奨学生としてシドニ ーに移住。翌 1999 年にホロヴィッ ツ記念国際ピアノコンクールで第 1 位を獲得。2000 年浜松国際ピアノ コンクールに優勝し、審査委員長で ある中村紘子氏に「20 世紀後半最高 の 16 歳」と絶賛されたことで、日 本では早くから注目を集めた。 しかし、2002 年交通事故に遭い 重傷を負う。奇跡的に快復しピアニ ストとして復帰した後はますます音 楽に深みが増し、活躍の場を広げた。 ールで優勝に輝く。 2009 年、 ウ ラ デ ィ ー ミ ル・ア シ ュケナージ指揮シドニー交響楽団 と、プロコフィエフのピアノ協奏曲 全曲を録音。2011 年 6 月には、そ のプロコフィエフのピアノ協奏曲か ら《第 2 番》を、アシュケナージ指 揮NHK交響楽団と共演した。また、 2013 年 5 月ネーメ・ヤルヴィ指揮ス イス・ロマンド管弦楽団にデビュー するなど、数々の著名オーケストラ や指揮者と共演を重ねている。 (高坂はる香/音楽ライター) まれ。1997 年、オーストラリア音 ルビンシュタイン国際ピアノコンク Philharmony January 2015 ©Mika Bovan ピアノ Program Gabriel Fauré 1845-1924 フォーレ 組曲「ペレアスとメリザンド」作品 80 A 近代フランス音楽を代表する作曲 づいて組曲を編み、1901 年に初演した。 家のひとりであるガブリエル・フォー その後〈シチリア舞曲〉が 3 曲目に レは南仏の街パミエに生まれた。9 加えられ、現在の形となる。この作 歳で親元を離れてパリのニデルメイ 品は原作が持つ神秘的で荒涼とした エール宗教音楽学校の寄宿舎に入り、 雰囲気を巧みに描き出している。 ここで 11 年間を過ごした。洗練され、 第 1 曲〈前奏曲〉冒頭の主題は内気 気品に満ちた音楽は、パリ音楽院で で無邪気なメリザンドを表し、やが 学んだ作曲家たちとは一味違い、教 て現れる単純な第 2 主題は運命を暗 会旋法を織り込んだ旋律や和声法、 示する。終結部で聞こえるホルンの 巧みな転調を特徴としている。 音は狩りをするゴローを表す。 『ペレアスとメリザンド』はベルギ 第 2 曲〈糸を紡ぐ女〉メリザンドが ーの象徴主義の作家メーテルリンク 糸を紡ぐ場面(ドビュッシーのオペ の 5 幕からなる戯曲で、中世の架空 ラでは省略されている)に先だつ間 の国アルモンドの王子ゴローが、若 奏曲。弱音器をつけた弦楽器が糸車 い妻メリザンドと異父弟ペレアスと の回る音を描写し、それに乗ってオ の仲を嫉妬し、密会中のペレアスを 刺殺し、メリザンドも子供を残して 死ぬという物語。原作はフランス語 ーボエが息の長い旋律を歌う。 第 3 曲〈シチリア舞曲〉ペレアスと メリザンドが泉のほとりで戯れる場 だが、1898 年ロンドンで英語版によ 面の音楽だが、元は付随音楽《町人 る初演が行われた際、付随音楽を作 貴族》 (未完)のために作曲された。 曲したのがフォーレだった。パリ音 ハープの分散和音に乗ってフルート 楽院教授としての校務等で多忙を極 が典雅な主題を奏でる。フォーレの めたフォーレは 1 か月ほどで曲を仕 作品の中でも特に親しまれている曲。 上げ、オーケストレーションだけは 第 4 曲〈メリザンドの死〉第 5 幕へ 弟子のシャルル・ケックランに委ねた。 その後、フォーレはこの音楽に基 作曲年代:1898 年 5 月 初演: [付随音楽]1898 年 6 月 21 日、ロンド ンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場、作曲者 自身の指揮による。 [組曲版]1901 年 2 月 3 日、 パリのコンセール・ラムルーにてカミーユ・シ の前奏曲として演奏され、管楽器が 葬送行進曲を奏でる。 (井上さつき) ュヴィヤール指揮による 楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ ット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペッ ト 2、ティンパニ 1、ハープ 1、弦楽 1891-1953 プロコフィエフ ピアノ協奏曲 第 3 番 ハ長調 作品 26 ロシア革命の混乱を避けて外国 れらが見事に融合しており、20 世紀 で暮らしていたプロコフィエフは、 最高のピアノ協奏曲の呼び声も高い。 1921 年夏、フランスのブルターニュ 第 1 楽章 アンダンテ―アレグロ 自 で《ピアノ協奏曲第 3 番》の作曲に 由なソナタ形式。素朴で哀愁を帯び 集中的に取り組む。ブルターニュに た序奏から始まり、激しく快活な第 は、以前から親交のあったロシア象 1 主題と、平明にしてプロコフィエ 徴派の詩人コンスタンティン・バリ フらしいモダンな第 2 主題を中心に モントも滞在していた。ふたりは互 曲が展開していく。終結部は急激に いの芸術世界に惹かれあう。プロコ 盛り上がり、力強く結ばれる。 フィエフはこの協奏曲の作曲中、何 第 2 楽章 アンダンティーノ 主題と 度もピアノでバリモントに断片を弾 変奏。皮肉交じりの優雅なガヴォッ いて聞かせ、そして完成後、曲を献 ト風の主題と 5 つの変奏曲からな 呈した。一方のバリモントもこの曲 る。各変奏ではリズムや音型が大胆 の印象をもとに、 「第 3 協奏曲」と に変化し、風刺の込められた曲想か いうソネットを残している。 ら、異界を彷徨うような瞑想曲、そ 「小さな貝 殻 で子供たちが城を築 して威勢のいい舞曲まで、幅広い世 く。オパールのバルコニーの優雅で 界が展開される。 美しいことよ。だが寄せ波が激しく 第 3 楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッ しぶき、すべてを洗い流す。プロコ ポ ロンド形式。明快な主題をさまざ フィエフよ! 音楽と若さが盛りを迎 まに展開しながら、ピアノとオーケ え、君の中でオーケストラが賑やか ストラがかけ合う。この主題は、プ な夏を懐かしむ。無敵のスキタイ人 ロコフィエフが日本滞在中に聴いた が太陽のタンバリンを打ち鳴らす」 。 《越 後 獅 子 》から着想したといわれ ソネットでこうバリモントが描いた ることが多いが、しかし今のところ ように、この曲は、構築性と奔放性、 それを裏付ける資料はないようであ 美しい叙情性や素朴さと野性味、そ る。 (高橋健一郎) 作 曲 年 代:1921 年( 部 分 的 に 1913 年、1916 ∼ 1917 年にスケッチされている) 初演:1921 年 12 月 16 日、プロコフィエフの ピアノ独奏、フレデリック・ストック指揮、シ カゴ交響楽団、シカゴにて 楽器編成:フルート 2(ピッコロ 1)、オーボエ 2、 クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、ト ランペット 2、トロンボーン 3、ティンパニ 1、 カスタネット、タンブリン、大太鼓、サスペ ンデッド・シンバル、弦楽、ピアノ・ソロ Philharmony January 2015 Sergei Prokofiev Program Ludwig van Beethoven 1770-1827 ベートーヴェン 交響曲 第 5 番 ハ短調 作品 67「運命」 A ベートーヴェンの《交響曲第 5 番》 は、アントン・シンドラーの著した ベートーヴェン評伝にある、作曲 家が作品冒頭のモティーフについて 「運命が扉を叩く」と表現したとい るかを問うのは難しい。しかし、今 日この「運命」像が見直されて、宿 命の雷から解放された爽快な《第 5 番》が盛んに演奏されるなかで、そ れでも今なお私たちはどこか「運 う信憑性の低いエピソードから「運 命」に呪縛されているように思われ 命」という標題が広まり、その結果 る。 この作品は作曲者の意図とは別の解 この作品の最初のスケッチは《交 釈が行われるようになった。第 1 楽 響曲第 3 番》完成後の 1804 年頃に 章冒頭の同音連打の動機は宿命の過 るが、本格的な作曲に取り組む 酷さを象徴し、第 4 楽章のハ長調の のは 1807 年頃からで、1808 年に完 堂々とした楽想は、運命を克服した 成をみた。ベートーヴェンはこの作 意志の勝利を表すという解説は多く 品で、特定の動機を徹底的に発展さ の人々を惹きつけ、第 1 楽章の冒頭 せて、作品全体を精緻かつきわめて は運命の過酷さを強調するかのよう 立体的に構成した。この《第 5 番》 に、休符をたっぷり長くとって荘重 の中心をなす同音連打の動機は、ベ かつ厳粛に、ハ長調の第 4 楽章は意 ートーヴェンの初期の《ピアノ・ソ 志の勝利を讃えるかのように壮麗に ナタ第 1 番》 (作品 2-1)にすでに先 演奏される傾向があった。 《第 5 番》 駆的に見られ、さらに《ピアノ・ソ の演奏史を考えるときに、 「運命」 ナタ第 23 番「熱情」 》 (作品 57)で という標題のレトリックに左右さ は重要な表現要素となっている。そ れ、その物語に感動した聴衆も多か して《ピアノ協奏曲第 4 番》や《ヴ ったのではないだろうか。とくに戦 ァイオリン協奏曲》にも共通して用 前までの日本では、 「運命」は「英 いられ、彼はこの同音連打の動機に 雄」を待望する気持ちと一体となり、 きわめて構築的な意味を見出してい 「過酷な運命とそれを克服する意志 た。その後、手掛けられた《交響曲 の勝利」というコンテクストに倫理 第 5 番》は動機労作に基づくソナタ 的、国家主義的な解釈が込められた。 形式の創作の総括といえる。 たしかに、作品解釈はそれぞれの ベートーヴェンの創作において、 時代と社会の関心の投影であるため この作品が初演された 1808 年 12 月 に、何が唯一の正しい作品理解であ 22 日の演奏会は記念すべき重要な 第 5 番》と《第 6 番》 、 《合唱幻想曲》 の初演に加えて、 《ピアノ協奏曲第 4 番》が公開初演され、 《ミサ曲 ハ 長調》も演奏されるという盛りだく さんのプログラムであった。この演 奏会によって彼は自身の創作のいわ ば過去と現在と未来を示したといえ る。 《ミサ曲 ハ長調》によってフッ クス以来のウィーンのミサ曲の伝統 をしっかりと継承し、 《交響曲第 5 番》において古典派のソナタ形式を 徹底的に究め、そして 5 楽章からな る標題交響曲の《第 6 番》ではその 後のロマン派の交響曲の先駆けをな し、 《合唱幻想曲》は《交響曲第 9 番》の第 4 楽章「歓喜の合唱」を準 備した。 第 1 楽章 アレグロ・コン・ブリオ ハ 短調 2/4 拍子。いわゆる「運命」の 動機で始まる。このリズム動機と 3 度音程の動機がこの楽章のみならず、 他の楽章においても繰り返し用いら れて、作品全体に強い緊張感と統一 感を与える。この楽章はソナタ形式 で構成され、第 1 主題の後、ホルン の響きに導かれておおらかな第 2 主 題が登場する。楽章はこの対照的な 作曲年代:1807 年∼ 1808 年 初演:1808 年 12 月 22 日、ウィーン、アン・デ ア・ウィーン劇場、作曲者の指揮による。フラ ンツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵お よびアンドレアス・ラズモフスキー伯爵に献呈 2 つの主題によってゆるぎなく組み 立てられている。 第 2 楽章 アンダンテ・コン・モート 変イ長調 3/8 拍子。第 1 楽章におけ る宿命的な印象を与える「運命」の 動機とは対照的なゆったりと落ち着 いた楽想である。この楽章は「変奏 曲」で、この主題をもとに全部で 3 つの変奏が行われる。 第 3 楽章 アレグロ ハ短調 3/4 拍子。 この楽章は一種、表現主義的な不気 味さをもつ。チェロとコントラバス が低い音域から忍び寄るように弱音 で主題を演奏し、この楽章がはじま る。この楽章は第 1 楽章と密接な関 係をもっている。とくにホルンが強 い音で、 「運命」の動機を提示して、 第 1 楽章の主題を想起させる。 第 4 楽章 アレグロ ハ長調 4/4 拍子。 不気味な第 3 楽章の薄暗い世界から、 一転して明るく力強い世界に移る。 フォルティッシモによるトゥッティ で奏される主題は明朗である。この 楽章で登場する「運命」の動機には 第 1 楽章におけるような威圧的な感 じはなく、潑剌とした印象を与える。 (西原 稔) 楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、コントラ ファゴット 1、ホルン 2、トランペット 2、ト ロンボーン 3、ティンパニ 1、弦楽 Philharmony January 2015 意味を持った。この日は、 《交響曲 Program Program B B 第 1801 回 サントリーホール 1/21[水]開演 7:00pm 1/22[木]開演 7:00pm [指揮] 1801st Subscription Concert / Suntory Hall 21st (Wed.) Jan, 7:00pm 22nd (Thu.) Jan, 7:00pm ジャナンドレア・ノセダ [conductor]Gianandrea Noseda [ピアノ] [piano] [コンサートマスター] [concertmaster] アレクサンダー・ロマノフスキー* Alexander Romanovsky * 篠崎史紀 Fuminori Shinozaki リスト 交響詩「レ・プレリュード」 (16 ) Franz Liszt (1811-1886) “Les préludes”, sym. poem ラフマニノフ Sergei Rakhmaninov (1873-1943) パガニーニの主題による狂詩曲 Rapsodie sur un thème de Paganini * 作品 43 (24 ) op.43 * 休憩 Intermission カセルラ 交響曲 第 3 番 作品 63(42 ) Alfredo Casella (1883-1947) Symphony No.3 op.63 Ⅰ アレグロ・モッソ Ⅱ アンダンテ・モルト・モデラート、クワ ジ・アダージョ Ⅲ スケルツォ:アレグロ・アルクァント・ペ ザンテ―アレグロ・ジョコーソ・エド・ア ニマート―変奏曲 Ⅳ ロンド・フィナーレ:アレグロ・モルト・ヴ ィヴァーチェ・エド・アニマート Ⅰ Allegro mosso Ⅱ Andante molto moderato, quasi adagio Ⅲ Scherzo: Allegro alquanto pesante – Allegro giocoso ed animato – Variazione Ⅳ Rondo finale: Allegro molto vivace ed animato Soloist アレクサンダー・ロマノフスキー Alexander Romanovsky 1984 年、ウクライナ中部の都市 ルで優勝、その名を知られる。2007 11 歳のとき、ウラディーミル・ スピヴァコフ指揮のモスクワ・ヴィ ルトゥオージとの共演でデビューを 飾る。1997 年、師のレオニード・マ ルガリウスがイタリアのイモラ国際 ピアノ・アカデミーの教師となるの を追ってイタリアに移住、同アカデ ミーで 2007 年まで学ぶ。翌年には ロンドンの王立音楽大学でドミート リ・アレクセーエフに師事した。 その間、2001 年に 17 歳でイタリ アのブゾーニ国際ピアノ・コンクー でにシューマン&ブラームス、ラ フマニノフの「練習曲集と変奏曲」 「ピアノ・ソナタ集」 、そしてベート ーヴェンの《ディアベルリ変奏曲》 と 4 枚のCDが発売され、好評を得 ている。2011 年のチャイコフスキ ー国際コンクールでは 4 位に入賞し た。 2000 年に初来日、2012 年と 2013 年にも日本で演奏している。NHK 交響楽団とは今回が初共演となる。 (山崎浩太郎/演奏史譚) ドニプロゼルジーンシク生まれ。 年には名門レーベルと契約。これま Philharmony January 2015 ピアノ Program Franz Liszt 1811-1886 リスト 交響詩「レ・プレリュード」 B ロマン派は、音楽で想念や心象風 景を表現する「標題音楽」を開花さ せ、リストは文学や絵画作品を表現 する 13 曲の交響詩を書いた。その ひとつ《レ・プレリュード》は、フ ランスの詩人ジョゼフ・オートラン の詩による男声合唱曲《四大元素》 の序曲として構想され、手直しを経 て独立した交響詩になったとされる。 《レ・プレリュード》の 2 つの主題と トランペットのモティーフは、 〈北 風〉 〈大地〉 〈波〉 〈星々〉の 4 部か らなる《四大元素》 (1844 ∼ 1845 年 作曲)にすでに含まれていた。そ して 1854 年のワイマールでの初演、 1856 年の出版までに、フランス・ロ 末尾にはリストの名があるが、恋人 や弟子が書いたテクストの書き換え だという説もある。 リストの《レ・プレリュード》は、 第 1 部:死へと向かう人生のはじま り ― 愛、 第 2 部: 嵐( 苦 悩 ) 、第 3 部:田園、第 4 部:闘いという緩急 緩急の構成を持つ。ラマルティーヌ の詩では、愛、苦悩、闘い、田園と いう主題が連なっていく。後半の順 番こそ違え、異なった性格をもつ 4 場面が移行部分をはさんで途切れな く続く構成が類似している。ただし リストの交響詩は、主題を次々と変 形していくことで驚くべき曲調の変 化を生み出し、聴く者を新たな風景 マン派の詩人ラマルティーヌの『新 に導いていく。そして、ラマルティ が添えられた。その内容を要約する ープ、シンバル、牧歌的な笛の音な (1823 年)にちなむ文章 瞑 想 詩集』 と次のようになる。 「人生は、死が 冒頭の厳粛な音を奏でるあの未知の 歌への前奏曲ではないのか。愛の幸 せは嵐に遮られ、人は野の静寂の中 に思い出を鎮める。だがやがてトラ ンペットが鳴ると闘いに馳せつけ、 そこで自分を知り、試そうとする」 。 作曲年代:1848 ∼ 1854 年 初演:1854 年、ワイマール、作曲者自身の指 揮による 楽器編成:フルート 3(ピッコロ 1) 、オーボ ーヌの詩にも響くトランペット、ハ ど、各楽器の音色の対照とグラデー ションが、変幻自在な主題と絡み合 う。一主題を変容させる書法と、大 胆かつ繊細な音の色彩感が、連続性 をもちながらも対比に満ちた作品、 時に内密で時に壮大なヴィジョンを 支えている。 (博多かおる) エ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 2、トロンボーン 3、テュー バ 1、ティンパニ 1、シンバル、小太鼓、大太 鼓、ハープ 1、弦楽 1873-1943 ラフマニノフ パガニーニの主題による狂詩曲 作品 43 ロシア革命を機に西側へ亡命した ーニの原曲自体が 11 の変奏曲とな ラフマニノフだが、その後 25 年間 っており、ラフマニノフはその主題 に彼が残した作品はわずか 6 曲しか のみならず変奏自体も引用したため、 ない。しかしこれらの作品は、ロマ いわば「変奏の変奏」である点が興 ン的な作風からより現代的で知的な 味深い。さらに第 7 変奏からは対主 作風への転換を示しており、叙情性 題としてグレゴリオ聖歌の《怒りの と超絶技巧にのみ注目されがちなラ 日》が引用され、両主題の二重変奏 フマニノフの作曲家像を一新させる が展開していくさまは、ゲーテの戯 可能性と魅力をはらんでいる。伝統 曲で有名なファウスト伝説にならい、 的な協奏曲の楽章構成を単一楽章に 悪魔と契約してヴァイオリンと恋の 圧縮し、2 つの主題による変奏形式 技巧を手に入れたパガニーニと、彼 を通して、ピアノとオーケストラの に終始付きまとい最後にその魂を奪 交響詩ともいうべき展開を繰り広げ い取る悪魔(=死を象徴する《怒り る本作は、かつてのヴィルトゥオー の日》 )による標題音楽となっている。 ゾ的協奏曲からの意識的な決別であ 中間部は、主調(イ短調)から離 り、幾度かの逡 巡のあとで、彼は れてさまざまに転調し、変ニ長調の その独自性にふさわしくこの作品を 雄大な第 18 変奏(アンダンテ・カン 「狂詩曲」と呼ぶことにきめた。 り立てるような序奏につづく 24 の変奏の主題は、人間離れした超絶 技巧から「悪魔に魂を売り渡した」 とまで評された 19 世紀イタリアの ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニ ーニ(1782 ∼ 1840)の《24 の奇想 曲》の〈第 24 曲〉である。パガニ 作曲年代:1934 年 7 ∼ 8 月 初演:1934 年 11 月 7 日、作曲者自身のピア ノ独奏、レオポルド・ストコフスキー指揮フ ィラデルフィア管弦楽団、ボルティモアにて 楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ 2、イングリッシュ・ホルン 1、クラリネット 2、 タービレ)で締めくくられる。そ の後はピアノとオーケストラが混然 一体となって「死の舞踏」さながら の多種多彩な音響を展開し、最後は 《怒りの日》の再現となるが、これま での阿鼻叫喚を一瞬にして打ち消す ように、パガニーニ主題の断片があ っけなく曲を終わらせる。(千葉 潤) ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 2、ト ロンボーン 3、テューバ 1、ティンパニ 1、ト ライアングル、小太鼓、シンバル、サスペン デッド・シンバル、大太鼓、グロッケンシュ ピール、ハープ 1、弦楽、ピアノ・ソロ Philharmony January 2015 Sergei Rakhmaninov Program Alfredo Casella 1883-1947 カセルラ 交響曲 第 3 番 作品 63 B 未完に終わったプッチーニの《ト ゥーランドット》をもって、イタリ ア・オペラの黄金時代は終わりを告 げる。主人公カラフが歌うアリア 〈誰も寝てはならぬ〉が皮肉に聞こ えるほど、イタリア・オペラは二度 と眼を覚ますことのない長い眠りに 入ってしまった。 もちろん、イタリアにはプッチー ニに継ぐ世代の才能ある作曲家た ちが多くいた。なかでも、いわゆる 「80 年世代」と呼ばれる 1880 年代生 まれの作曲家たちは、ドイツやフラ ンスの新しい音楽を採り入れながら、 オペラ一辺倒であったイタリア音楽 界を刷新しようという意気込みに燃 えていた。イルデブランド・ピッツ ェッティ、ジャン・フランチェスコ・ マリピエロ、そしてリッカルド・ザ ンドナーイといった作曲家たち、さ らに 1870 年代生まれのイタロ・モン テメッツィ、フランコ・アルファー ノ、オットリーノ・レスピーギといっ た人までを含む、この世代のひとり がアルフレード・カセルラであった。 手法をみな積極的に採り入れようと した。そして、19 世紀末のマスカー ニによる《カヴァレリア・ルスティ カーナ》に始まったリアリズム・オ ペラの様式で、イタリアから各国へ と広がって流行していた「ヴェリズ モ」を「乞食の国際主義」として嫌 い、また、音楽面とは反対に、題材 には仮面即興喜劇のコメディア・デ ラルテや、国民的な詩人であるダン ヌンツィオをはじめとする「イタリ アもの」にこだわった。彼らは一様 に、オペラだけではなく交響曲や交 響詩をはじめとする器楽作品も多く 手がけた。それまでのイタリアでは、 「作曲家」は「オペラ作家」と同義 であったから、これは画期的なこと であった。 カセルラは、そのなかでもマリピ エロと並んで、オペラより器楽を 優先させた作曲家であった。むしろ、 ヴェルディに代表されるようなイタ リアはがまんがならなかった。彼が パリで修行していた時代は、ドビュ ッシーの《牧神の午後への前奏曲》 彼らの特徴は、いわゆる「国際 の初演もあり、またロシア・バレエ ーグナーや、より新しくはヒンデミ あった。ストラヴィンスキーの三大 派」を標榜したことで、ドイツのワ ット、フランスのドビュッシー、ロ シアのストラヴィンスキー、ハンガ リーのバルトークのような作曲家の 団(バレエ・リュス)の全盛期でも バレエ、ことに《春の祭典》の初演 もカセルラは間近に観ることができ た。1926 年に彼はストラヴィンス タリアに帰ってからは、ラヴェルや ストラヴィンスキーの作品を自ら指 揮して紹介し、 《ペトルーシカ》の イタリア初演を振ったのも彼である。 もちろん、彼も他の多くの「80 年世 代」同様、当時台頭してきたムッソ リーニのファシスト党へ接近したが、 それは新たなイタリア文化を目指し ながら保守的な革命を主張する彼ら にとって、当然の振る舞いであった。 《交響曲第 3 番》はシカゴ交響楽 団の創設 50 年を祝うために委嘱さ れた。 《第 2 番》の作曲から 30 年が 過ぎていた。当初、15 分ほどの小交 響曲を構想したが、作曲を進めるう ちに創意がわき出て、結局 4 楽章の 大作となった。 《第 2 番》からの年 月の間、カセルラの作風は新古典的 なものへと変遷し、楽想の作り方や 音楽の展開に関しては、ことに両端 楽章にヒンデミットの影響が色濃く 認められる。シカゴでの初演は大成 功だったが、3 日後のイタリア初演 はまずまずの評価に留まった。 第 1 楽章 アレグロ・モッソ 3/4 拍子。 冒頭のオーボエ独奏に始まるイ短調 の旋律を第 1 主題にするソナタ形式 で、変ニ長調の第 2 主題もやや歌謡 作曲年代:1939 年 10 月∼ 1940 年 8 月 初演:1941 年 3 月 27 日、委嘱者のフレデリ ック・ストック指揮シカゴ交響楽団。イタリ ア初演は 3 日後の 30 日、ローマで作曲者自 身の指揮による聖チェチーリア音楽院管弦楽 団 楽器編成:フルート 3(ピッコロ 1) 、オーボ 性を増すが、雰囲気は似ている。展 開部を通じ、第 1 主題から派生した 楽想が中心となって大きなクライマ ックスを作り上げる。 第 2 楽章 アンダンテ・モルト・モデラ ート、クワージ・アダージョ 4/4 拍子。 全体でもっともロマンティックな楽 章で、短い導入のあと、穏やかだが 起伏のあるホ長調の主題がヴァイオ リンで奏される。やがてそこに重い 行進曲風のリズムが入ってきて、シ ョスタコーヴィチを思わせるような 音楽が次第に量感を増す。最後はま た冒頭の静けさが戻ってくる。 第 3 楽章 スケルツォ:アレグロ・ア ルクァント・ペザンテ ト短調 3/4 拍 子―アレグロ・ジョコーソ・エド・ア ニマート ト長調 2/4 拍子―変奏曲 ト 短調 3/4 拍子。ここもショスタコー ヴィチ風の威嚇的な音楽が聞こえる。 第 4 楽章 ロンド・フィナーレ ハ長調 2/4 拍子。ロンド主題は明るい行進 曲調で、第 1 楽章の第 1 主題から派 生している。マーラーの《第 5 交響 曲》のロンド・フィナーレを思わす ようなところもあるが、カセルラに とっては勃発したばかりの第二次世 界大戦の勝利を予感させる音楽だっ たかもしれない。 (長木誠司) エ 2、 イ ン グ リ ッ シ ュ・ホ ル ン 1、 ク ラ リ ネ ット 2、バス・クラリネット 1、ファゴット 2、 コントラファゴット 1、ホルン 4、トランペッ ト 3、トロンボーン 3、テューバ 1、ティンパ ニ 1、小太鼓、タンブリン、タムタム、シロ フォン、シンバル、大太鼓、ピアノ 1、弦楽 Philharmony January 2015 キーの最初の評伝も書いている。イ Program Program C 第 1800 回 NHKホール 1/16[金]開演 7:00pm 1/17[土]開演 3:00pm [指揮] C 1800th Subscription Concert / NHK Hall 16th (Fri.) Jan, 7:00pm 17th (Sat.) Jan, 3:00pm ジャナンドレア・ノセダ [conductor]Gianandrea Noseda [ヴァイオリン] [violin] [コンサートマスター] [concertmaster] ジェームズ・エーネス 堀 正文 James Ehnes Masafumi Hori リムスキー・コルサコフ Nikolai Rimsky-Korsakov (1844-1908) 組曲「見えない町キーテジの物語」 “The legend of the invisible city of (25 ) Kitezh and the Maiden Fevroniya”, suite Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ 前奏曲:自然をたたえる歌 婚礼の行列 ケルジェネツの戦い 見えない町への道 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Prelude: Hymn to nature Bridal processions The battle of Kerzhenetz Ascent to the invisible city プロコフィエフ Sergei Prokofiev (1891-1953) ヴァイオリン協奏曲 第 2 番 ト短調 Violin Concerto No.2 g minor op.63 作品 63(26 ) Ⅰ アレグロ・モデラート Ⅱ アンダンテ・アッサイ Ⅲ アレグロ、ベン・マルカート Ⅰ Allegro moderato Ⅱ Andante assai Ⅲ Allegro, ben marcato 休憩 Intermission Modest Mussorgsky (1839-1881) / Ravel “Tableaux d’une exposition”, suite プロムナード Ⅰ ノーム―プロムナード Ⅱ 古い城―プロムナード Ⅲ チュイルリーの庭 Ⅳ ブィドロ―プロムナード Ⅴ 卵のからをつけたひなの踊り Ⅵ サミュエル・ゴールデンベルクとシュミ ュイレ Ⅶ リモージュの市場 Ⅷ カタコンブ Ⅸ バーバ・ヤガーの小屋 Ⅹ キエフの大きな門 Promenade Ⅰ Gnomus – Promenade Ⅱ Il vecchio castello – Promenade Ⅲ Tuileries Ⅳ Bydło – Promenade Ⅴ Ballet de poussins dans leurs coques Ⅵ Samuel Goldenberg et Schmuyle Ⅶ Ⅷ Ⅸ Ⅹ “Limoges”, le marché Catacombae La cacabane de la Baba Yaga La porte des Bohatyrs de Kiew Philharmony January 2015 ムソルグスキー(ラヴェル) 組曲「展覧会の絵」 (33 ) Soloist ©B. Ealovega Program ヴァイオリン ジェームズ・エーネス C James Ehnes カナダ出身のヴァイオリン奏者ジ ジュリアード音楽院の卒業時に 術と音楽性が世界で評価されている。 1976 年生まれ。13 歳でモントリオ ール交響楽団と共演してオーケスト ラ・デビューを果たし、以後マゼー ル、デュトワ、ゲルギエフ、ノセ ダ、アシュケナージ、ナガノ、パー ヴォ・ヤルヴィなど世界的指揮者と も共演を重ねてきた。 NHK交響楽団とは 1998 年に初 共演し、2006 年 2 月の「N響創立 80 周年/武満徹メモリアルデー・ コンサート」などにも出演している。 定期公演で共演するのは 2004 年 6 月以来になる。 讃えられてピーター・メニン賞を受 賞。2005 年にはエイヴリー・フィッ シャー賞も受賞した。ソロ活動の他 に、シアトル室内楽音楽祭の芸術監 督を務め、エーネス・カルテットと してのツアーも行っている。録音も 積極的で、グラミー賞受賞作品を含 む約 40 作のCDがすでにリリース されている。 現在はフルトン・コレクションの 厚意によって、1715 年製ストラデ ィヴァリウス「マルシック」を使用 している。 (片桐卓也/音楽ライター) ェームズ・エーネスは、その高い技 は、優れた業績とリーダーシップが 1844-1908 リムスキー・コルサコフ 組曲「見えない町キーテジの物語」 《交響組曲「シェエラザード」 》等 で管弦楽法の大家として知られるリ ムスキー・コルサコフ。しかし彼の 創作活動の中心はオペラであり、そ の作品にはロシア五人組によって築 き上げられた国民楽派の伝統が、世 紀末ロシアにおけるワーグナー受容 を通じて変容していく過程が如実に 示されている。スラヴ伝説とキリス ト教的博愛、そして女性による救済 で目に見えなくなり、神の奇跡を目 の当たりにしたタタールは退散する。 昇天したフェヴローニャは、天上の 都でフセヴォロドとの婚礼を続ける。 組曲は、物語にそった 4 つの楽 章からなるが中断せずに演奏され る。 〈前奏曲:自然をたたえる歌〉 はワーグナーの楽劇《ジークフリー ト》の〈森のささやき〉を連想させ る音楽で始まり、やがて民謡風の素 をテーマにしたオペラ《見えない町 朴な主題が奏される。つづく〈婚礼 キーテジと聖女フェヴローニャの物 の行列〉と〈ケルジェネツの戦い〉 語》はその代表作だ。 物語は、13 世紀のタタール侵略の 際に湖底に沈んだとされる町キーテ ジと聖女フェヴローニャの伝説に基 づく。森の娘フェヴローニャは自然 と交感しあい、隣人愛を説く敬 な 正教徒である。彼女はキーテジ公子 フセヴォロドとの婚礼に向かう途中 でタタール軍の捕虜となり、フセヴ ォロドも戦いに敗れて悲運の死を遂 げる。しかしキーテジの町はフェヴ ローニャと住民たちの祈りのおかげ 作曲年代:1903 ∼ 1904 年。組曲版編曲はマ クシミリアン・シテーインベルグによる 初演:1907 年 2 月 20 日(ロシアの旧暦では 7 日)、サンクトペテルブルク、マリインスキ ー劇場(オペラ) 楽器編成:フルート 3(ピッコロ 1)、オーボ エ 2、イングリッシュ・ホルン 1、クラリネッ は、全音と半音が交替する特殊な音 階を駆使して、西欧的な和声進行と は異なる独特の色彩を発揮する一方、 五人組の伝統に従いロシア民謡《タ タールに捕われて》が主題に用いら れる。 〈見えない町への道〉の前半 では〈前奏曲〉の音楽が変容しなが らフェヴローニャの聖化を表し、後 半は鐘の響きを伴って、ワーグナー 《パルシファル》に類似した金管コ ラールでフェヴローニャの昇天と婚 礼が祝福される。 (千葉 潤) ト 3(バス・クラリネット 1)、ファゴット 2、 コントラファゴット 1、ホルン 4、トランペ ット 3、トロンボーン 3、テューバ 1、ティン パニ 1、グロッケンシュピール、鐘、トライ アングル、シンバル、スレイベル、タムタム、 小太鼓、大太鼓、ドムラ、バラライカ、ハー プ 2、チェレスタ 1、弦楽 Philharmony January 2015 Nikolai Rimsky-Korsakov Program Sergei Prokofiev 1891-1953 プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲 第 2 番 ト短調 作品 63 C 人は皆、人生の中で何回か岐路に 立たされる。セルゲイ・プロコフィ エフの場合、その後の人生を大きく 左右したのが、1936 年のソ連への完 彼の成功は陰に陽に舞台作品におけ るディアギレフとの共同作業に支え られており、1929 年にディアギレフ が急逝すると、プロコフィエフは強 全帰国であった。帰国後のプロコフ 力な後ろ盾を失うこととなる。1930 ィエフは、1930 年代後半の粛清 時代、 年代に入ってまもなく、プロコフィ 1948 年のジダーノフ批判と、ソ連に エフ自身が新しい単純性を標榜し始 おいて最も過酷な音楽文化統制の時 めたあたりからパリ音楽界との間に 代を生きることになる。 できた溝は決定的なものに思われ 1918 年、27 歳のプロコフィエフ た。そのような状況の中、1932 年以 は日本を経由してアメリカに渡っ 降、ソ連では対照的に華々しい成功 た。後に『自伝』 (1941 年、 『ソヴィ を重ねたのである。自分の演奏会の エト音楽』誌掲載)の中で、この時 チケットがソ連では 1 日で完売とな 期の作品にみられる 5 つの傾向とし る。その人気ぶりをプロコフィエフ て、古典的要素、現代的要素、トッ は素直に喜んだ。またソ連に住む親 カータあるいは「モーター」の要素 友ミャスコフスキーから再三、帰国 (20 世紀初頭の工業化を髣髴させる、 を勧められたこともあり、1936 年ま 機械が休みなく動いているような様 での数年をかけて少しずつ完全帰国 子) 、叙情性、グロテスクを認めて への歩を進めた。 いる。なかでもグロテスクという言 青年時代の作品について作曲家自 葉は酷評されたときによく持ち出さ 身が分析した先の 5 つの要素は、そ れた言葉らしく、ショスタコーヴィ のままプロコフィエフの生涯にわた チとちがってかなり毛嫌いしている る作風の 5 つの駒としても捉えるこ のが面白い。2 つ目の現代的要素は とができる。ソ連への帰国を経た作 音楽院時代に始まり、アメリカから 曲家の作風からは、前衛性やグロテ やがてパリを中心としたヨーロッパ スクな性格は影を潜め、古典的要素 での活動を後押しした要素でもある。 やとりわけ叙情性が前面に認められ プロコフィエフの和声上の語法 るようになる。 《ヴァイオリン協奏 などにみられる前衛的な現代性は、 曲第 2 番》は 1935 年、まさにこの 1920 年代のパリにおいてこの作曲家 過渡期に創られた作品。またソ連国 を時代の寵児へと押し上げた。だが 外で委嘱された最後の作品となった。 ス人ヴァイオリニストのロベール・ ソエタンと一緒に、ヨーロッパ各 地をめぐる演奏旅行に出かけている。 『自伝』によると、1935 年初めにソ エタンのファンたちから、ソエタン に 1 年間の独占演奏権を与える条件 つきで、新しいヴァイオリン協奏曲 を書いてほしいと依頼された。そこ でプロコフィエフは演奏旅行の合間 を縫って、第 1 楽章の主要主題はパ リで、第 2 楽章の第 1 主題はヴォロ ネジ(ロシア南西部の河港都市)で、 といった具合に創作を続けた。5 月 23 日のソエタンへの手紙ではスケッ チを書き終えたとあり、7 月 27 日の 妻リーナへの手紙でピアノ・スコア の完了を伝え、その後、8 月中旬に オーケストレーションをバクーで行 っている。初演は当初パリが考えら れていたが、最終的には同年 12 月 1 日にマドリードで行われた。 「音楽の点でも様式の点でも、 《ヴ ァイオリン協奏曲第 1 番》とは完全 に異なるものにしたかった」という 本人の言葉どおり、 《第 1 番》 (1915 ∼ 1917 年)と《第 2 番》は対照的 である。同じ 3 楽章構成でありなが ら、 《第 1 番》は緩急緩、 《第 2 番》 は急緩急という構成。この 2 曲はそ のまま青年時代の作風と、ソ連時代 作曲年代:1935 年 初演:1935 年 12 月 1 日マドリード、ロベー ル・ソエタン独奏、エンリケ・アルボス指揮、 マドリード交響楽団 楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ の作風を暗示しているようにも映る。 なかでも《第 2 番》では豊かな叙情 性に加え、ソ連時代の作品に顕著な 美しいメロディ・ラインがそこここ で顔を覗かせている。 第 1 楽章 アレグロ・モデラート ト短 調 4/4 拍子。ソナタ形式。独奏ヴァ イオリンが 5 拍からなる第 1 主題を 奏でる。後半部分でいったん跳躍上 行し、たゆたいながら下行する抑揚 はロシア民謡的だが、19 世紀ロシ ア・ロマンス(都会の歌謡曲)の感 傷性もほのかに香る。第 2 主題は同 じ時期に初稿を書いていたバレエ音 楽《ロメオとジュリエット》を連想 させる柔和な響き。 第 2 楽章 アンダンテ・アッサイ 変ホ 長調 12/8 拍子。3 部形式。冒頭で独 奏ヴァイオリンによって奏される甘 美な主部主題がやがて対旋律と絡み つつ、華麗に変奏されていく。 第 3 楽章 アレグロ、ベン・マルカー ト 変ロ長調 3/4 拍子。ABACAB Aとコーダからなるロンド形式。独 奏ヴァイオリンの重音奏法による主 題は、やがてカスタネットの乾いた リズムを伴い、スペインの民俗舞曲 風の色合いに染まる。生命力あふれ るパッセージが徐々にエネルギーを 増し、最後は大団円で幕となる。 (中田朱美) ット 2、ファゴット 2、ホルン 2、トランペッ ト 2、トライアングル、カスタネット、小太 鼓、サスペンデッド・シンバル、大太鼓、弦 楽、ヴァイオリン・ソロ Philharmony January 2015 この頃のプロコフィエフはフラン Program M.Mussorgsky / M.Ravel ムソルグスキー(ラヴェル) 組曲「展覧会の絵」 C ムソルグスキー(1839 ∼ 1881) のあまりにロシア的なピアノ作品と、 フランス的なオーケストレーション の魔術師ラヴェル(1875 ∼ 1937) との奇妙な出会いがもたらした傑作。 原曲が非常にオーケストラ的な曲想 であったために、作曲当時から多く の作曲家がオーケストラのための編 曲を試みたのだった。現在知られて いるその多くはロシアの作曲家によ るもので、リムスキー・コルサコフ 風の重たい響きを基調としているが、 ラヴェルはこれに対して原曲の粗野 な響きを犠牲にすることなく、大変 ソフィスティケートされ、音色的に 変化に富んだ編曲をものにしている。 ラヴェルのすみずみまで計算しつく されたオーケストラの扱い方は、自 作のピアノ作品をも含めて多くの編 曲をもたらすことになったのだが、 その中でもこの《展覧会の絵》は最 も成功した事例だろう。 フランスの音楽界において親近性 を抱かせるロシアの作曲家は、現 在でも一般的にまずムソルグスキ ー以下の「五人組」 、次いでストラ ヴィンスキーであって、チャイコフ スキーでもラフマニノフでも、まし てショスタコーヴィチでもない。当 時「ワーグナー以後」の音楽を探し 求めていたドビュッシーと同様にラ ヴェルも、情動的なロマンとは一線 を画し、簡素で粗野な、しかし表現 豊かなムソルグスキーの音楽に興味 を持ち続けた。すでに 1913 年にス トラヴィンスキーと共同で、オペ ラ《ホヴァンシチナ》の新たなオー ケストレーションを行い(この譜面 は失われた) 、さらに 1922 年になっ て指揮者のセルゲイ・クーセヴィツ キーの委嘱で、この《展覧会の絵》 の編曲に挑んだのだった。その後ラ ヴェルは、ムソルグスキーがゴーゴ リの戯曲に書いたオペラ《結婚》の オーケストレーションも部分的に試 みたようだ。管弦楽版《展覧会の 絵》の初演は、委嘱者の指揮により、 1922 年にパリ・オペラ座で行われた。 ムソルグスキーの友人であった建 築家、ヴィクトール・ハルトマンが 1873 年に亡くなり、その翌年はじめ に、ハルトマンのデッサンや絵画に よる回顧展が開かれた。ムソルグス キーはこの時展示された彼の絵画の いくつかに触発されて、原曲となる 組曲風のピアノ作品をものの 3 週間 足らずで書き上げた。 曲の冒頭にトランペットで高らか に歌われるファンファーレは「プ ロムナード」と呼ばれ、リフレイン、 ないし移行部となって、曲中に何度 も違った響きや表情であらわれる。 ー」 、あるいは絵と絵の間の「休憩」 、 ないしは文字通り別の絵へと「散 策」していく役割を音楽で見事に描 いている。 プロムナード まさにロシア的としか 言いようのない五音音階による単旋 律の主題と、それに応じる会衆の輝 ラの強奏へと至る。プロムナード 高 音域の木管楽器による少々悲しげな 調子。第 5 曲〈卵のからをつけたひ なの踊り〉ユーモアあふれる、木管 楽器を主体としたスケルツォ。第 6 曲〈サミュエル・ゴールデンベルク とシュミュイレ〉貧富の差のある 2 人のユダヤ人の会話の描写。冒頭弦 かしい和声の響き。第 1 曲〈ノーム によって奏される主題は、オーセン 割りのデザイン。こびとたちの無気 方のこの高圧的な態度に対して、よ (こびと) 〉元はハルトマンのくるみ ティックなユダヤの旋律である。一 味な痙攣や叫び、そして片足をひき り卑屈で絶望的な性格は弱音器のつ ずって歩く様子などが描かれる。プ いたトランペットでうたわれる。第 ロムナード 冒頭よりも柔らかいタッ 7 曲〈リモージュの市場〉市民生活 第 2 曲〈古い城〉ファゴットの序奏 な会話。第 8 曲〈カタコンブ〉古代 タルジックで悲しげな旋律が美しい。 ガンを連想させる。 「死せることば 中間部では弱音器をつけた弦楽器が による死者への語りかけ」──プロ 旋律の続きを奏する。プロムナード ムナードのテーマを使った音楽的な ぺザンテ(重々しく) 。再び輝かし 展開。第 9 曲〈バーバ・ヤガーの小 チで、テーマはホルンにあらわれる。 に続いて、サクソフォンの吹くノス くトランペットにテーマがあらわれ る。第 3 曲〈チュイルリーの庭〉チ の大いなる活気と農民達のコミカル ローマの墓。金管楽器の和音がオル 屋(めんどりの足の上に立つ小屋) 〉 荒々しい音楽がスラヴ伝説の魔術師 ュイルリー庭園で子供達が遊んでい バーバ・ヤガーのグロテスクな小屋 るさま。第 4 曲〈ブィドロ〉ブィド を表す。第 10 曲〈キエフの大きな ューバにおかれた堅固な旋律は次第 ラ全体が巨大なカリヨン(鐘)と化 ロとはポーランドの牛車のこと。テ に大きくなり、ついに全オーケスト 作 曲 年 代:1874 年( ラ ヴ ェ ル に よ る 編 曲 は 1922 年) 初演:原曲のピアノ版は、ムソルグスキーの 死から 6 年後に出版。ラヴェルによる編曲は 1922 年、パリ、オペラ座における演奏会でク ーセヴィツキーの指揮で 楽器編成:フルート 3(ピッコロ 2)、オーボ エ 3(イングリッシュ・ホルン 1)、クラリネ ット 2、バス・クラリネット 1、アルト・サク 門〉宗教的なコラール。オーケスト して終わる。 (野平一郎) ソフォーン 1、ファゴット 2、コントラファ ゴット 1、ホルン 4、トランペット 3、トロ ンボーン 3、テューバ 1、ティンパニ 1、グロ ッケンシュピール、テュ−ブラー・ベル、シ ロフォン、トライアングル、ラチェット、ム チ、小太鼓、大太鼓、シンバル、サスペンデ ッド・シンバル、タムタム、チェレスタ 1、ハ ープ 2、弦楽 Philharmony January 2015 時には前に見た絵の心理的な「エコ 名 曲 の 深 層 を 探 る シリーズ 名曲の深層を探る 第 23 回 プロコフィエフの日記が問いかけるもの 文 千葉 潤 作曲家の肉声を伝える日記 のようなセンセーショナルな話題 は(幸いながら?)ないものの、若 プロコフィエフがペテルブルク音 きプロコフィエフの恋愛や音楽院の 楽院に在籍していた 1907 年にはじ 旧態依然とした教授陣との対立、革 まり、1918 年のアメリカ行きから 命後の亡命ロシア人たちの人間模様、 パリに及ぶ外国での亡命生活を経て、 1920 年代のモダニズムの舞台裏や、 ソ連帰国の意思を固めた 1933 年ま プロコフィエフがソ連帰国を決断す での 26 年間、ロシアやヨーロッパ るに至る背景等々、波瀾万丈の前半 の文化人との幅広い交流や当時の音 生を語る作曲家の生々しい肉声が聞 楽・芸術界の動向についての意見等 こえるようだ。 を、驚くほど濃密に書き綴った日記 例えば、青年プロコフィエフの気 が、今世紀に入って出版された。作 負いが伺える微笑ましい記述を次に 曲家の没後ソ連のアーカイブに所蔵 引用しよう。当時彼が交際していた されていた原本を息子スヴャトスラ 女性との対話である。 フが足繁く通って丹念に書き写し、 「 [1915 年]1 月 2 日 僕はいまや 独特の略記法が施された記述を解読 僕の協奏曲[ピアノ協奏曲第 2 番] したが、あまりにも大部なために当 で芸術家として大躍進しつつある。 初は出版社が見つからず、まずはプ ニーナと電話で話した……僕たちは、 ロコフィエフ財団により 2002 年に お互いが最終的に一緒になるために 露語版が限定部数で出版され、次い 何をすべきかを話し合った。僕は 2 でアンソニー・フィリップスによる 年間で実現できると言った。その頃 英訳が 2006 年から刊行され 2012 年 までに僕は間違いなく外国で有名に に完結した。全3巻 2700 頁に及ぶ なっているはずだ。そうしたら彼女 労作である。 もペトログラードのしがらみを振り 若き作曲家とアメリカン・ドリーム 後に真贋も含めて大論争となった、 かの『ショスタコーヴィチの証言』 払ってパリに移り、僕が彼女の居場 所や、よい仕事も見つけてやれるだ ろう」 。 2 人はイタリアへの駆け落ちまで Philharmony January 2015 アメリカへ渡った 1918 年 のプロコフィエフ 計画するが、結婚には至らずに終わ 瞬時にして大火にまで燃え上がるよ った。 うな危険な爆薬だったのだ。アメリ プロコフィエフの国外脱出の動機 カに行く! もちろん!……ここで についても新たな発見がある。日記 は虐殺の野蛮なレトリック、あちら には若きプロコフィエフが気を許し は洗練された生活。ここではキスロ た女性が複数登場するが、革命の騒 ヴォツクのみすぼらしいコンサート、 乱から避難していたカフカスで知り あちらはニューヨークやシカゴ! た 合ったルーマニア人の遊び友達リー めらっている時間はない」 。 ナ・コッリーニは、彼にアメリカン・ しかしリーナは新天地ではな ドリームを吹き込んだ張本人のよう く、祖国への帰還を選ぶことになる。 だ。1917 年 12 月の日記には次のよ 1918 年 2 月 24 日( 新 暦 3 月 9 日 ) うにある。 の日記にはこうある。 「ある日、リーナ・コッリーニがロ 「ルーマニアはドイツとの単独和 シアを離れてアメリカに発つ計画を 平を決め、彼女はまっすぐ帰国でき 話してくれた ─そうだ、私だっ るだろう。私は駅に戻り、30 分後に てロシアに留まっている必要はない んだ。……その時は一時的な思い付 きにしか思えなかったものが、実は、 汽車は出発した。リーナは失われて しまった」 。傷心のプロコフィエフ は単独でのアメリカ行きを決意する 名 曲 の 深 層 を 探 る のである。 絶技巧と ハ長調 の全音階的な響き、 ピアノ協奏曲をめぐる ストラヴィンスキーとの確執 におけるラフマニノフやスクリャー 《ピアノ協奏曲第 3 番》は、オペ ラ《3 つのオレンジへの恋》と並ん でプロコフィエフのアメリカ時代の 成功作と見なされているが、主題素 材の多くはすでにロシア時代に書き とめられていた。実際、まだ亡命す る 前 の 1916 年 12 月 18 日 の 日 記 に も、オペラ《 博者》の作曲が終わ り次第、 「わくわくするような予感 をもって、将来の《ピアノ協奏曲 第 3 番》 《ヴァイオリン協奏曲[第 1 番] 》 《 「古典」交響曲》のことを考 えよう」とある。 攻撃的な不協和音や衝動的な展開 が際立つ初期のプロコフィエフの作 品群にあって、ここで言及されてい る作品は、叙情性や分かり易さが目 立つ点で異色であり、むしろ 新しい 単純性 やメロディ優位のスタイル に傾斜し始める 1930 年代の作風を 先取りしている。実のところ、プロ コフィエフは彼独特ののびやかな旋 律や機知に富んだユーモアが発揮さ れる作品も断続的に書き続けていた。 日記ではプロコフィエフが聴衆の 反応にきわめて敏感だったことが 随所に伺われるが、それは作品によ ってスタイルを使い分ける習慣にも 影響を与えた。前衛音楽に不慣れな 新大陸の聴衆にアピールするために 《ピアノ協奏曲第 3 番》で彼が選ん だスタイルは、アクロバット的な超 そして第 2 楽章や第 3 楽章の中間部 ビン風のロマン的なメロディである。 当然ながら、新しい様式原理を一 貫して追求していたモダニズムの闘 志ストラヴィンスキーにとって、聴 衆に媚びるようなプロコフィエフの 折衷 路線は許しがたいものであった。 1926 年 9 月 29 日の日記には、この 曲へのストラヴィンスキーの赤裸々 な反応が記されている。 「ちょっと前にデュケリスキーが 話してくれたのだが、私の《ピアノ 協奏曲第 3 番》の演奏を聴いたスト ラヴィンスキーは、隣の部屋に駆け 込むなりこう言ったという、 こんな もの許されるべきじゃない! ロシア 風の擬古典主義のようなもの、ヴァ 。 スネツォーフ* 1 の音楽版だ 」 他方、プロコフィエフにとって、 ストラヴィンスキーの新古典主義は、 他の作曲家の露骨なイミテーション と映った。プロコフィエフの協奏曲 の数年後に作曲されたストラヴィン スキーの《ピアノと管楽器のための 協奏曲》 (1924 年)の初演(独奏は ストラヴィンスキー自身)について、 明らかにピアニストとしての自分の 腕前を念頭におきつつ、こう感想を 。 綴っている(1924 年 5 月 22 日) 「 [初演は]大成功だといっていい だろう。なにしろ 40 歳の作曲家が 不意にピアニストとしてデビューし た上、こんなに派手な成功だったの だから。まるで私がファゴットで独 * 1 ヴィクトル・ヴァスネツォーフ(1848 ∼1926) :19 世紀 ロシアの画家。 お 伽噺 や民話 の主人公を写実的 に描 い た絵画 で人気を得た。 Philharmony January 2015 左 からスイス 人の 指揮者 アンセルメ、 ロシア・バレエ団( バレエ・リュス) の 主宰者 ディアギレフ、ロシア人作曲家 ストラヴィンスキーとプロコフィエフ 奏するような感じだった。ピアノ演 奏上面白いパッセージはないとはい え、確かに協奏曲の演奏は容易では ない。しかし、過剰な盗用に満ちた この音楽の模倣的なスタイルには感 心しない。例えそれが大昔の音楽に 由来しているとしても」 。 2 人の芸術観の相違は次第に広が る一方であったが、日記から浮かび ノを擁護する立場をとってプロコフ ィエフの信頼を失ったが、ストラヴ ィンスキーは意気消沈した彼を励ま しつづけた。日記には、1920 年代の 華やかなモダニズムの舞台裏で展開 された亡命ロシア人たちの人間模様 が克明に刻み込まれている。 ソ連帰国前夜 上がる彼らの関係は相互への尊敬に 1920 年代後半からプロコフィエフ 満ちていた。バレエ《道楽息子》の は徐々にソ連で活動を活発化してい スコア出版に際して、シナリオを作 く。1929 年 3 月 5 日の日記にはスタ 成したと主張するボリス・コフノが ーリンが登場する。 自分の名前が登記されなかったこと 「クバツカヤ[歌手]が話してく で、プロコフィエフに対する訴訟を れたのだが、スターリンがモスクワ 起こしている。ディアギレフはコフ での私のコンサートに来ていたそう 名 曲 の 深 層 を 探 る プロコフィエフ一家 だ。そしてそのあと、多少とも誇ら 紙の山」 。飾らない記述の行間から しげに、 我々のプロコフィエフ に は、打ち寄せる時代の波音がじわじ 言及したというのだ。すばらしい。 わと聞こえてくる。その後、プロコ いまや僕は何も恐れずにロシアに来 フィエフは 1936 年にソ連への完全 ることができる」 。 帰国をはたす。 さらに 1932 年 11 月 25 日、 「コン 革命前夜のロシアから日本、アメ サートにはブブノフとヴォロシロフ リカ、パリ、そしてソ連を往来しつ が来ていたそうだ。それにスターリ つ、モダニズムにゆれた 20 世紀の ンの口髭は、政府用ボックス席で一 芸術界をしたたかに生き抜いたプロ 瞬きらめいてさえ見えた」 。 コフィエフ。時代と自己を冷徹に見 四半世紀にわたって綴 られたこ の日記は 1933 年 6 月で閉じられる。 モスクワでの用事を終えたプロコフ ィエフは、一家そろってパリ行きの 大陸横断鉄道に乗り込んだ。国境を 越える際に税関で一悶着が起きたも のの、その後列車は無事に各国を通 過していく。 「ポーランド、そしてヒトラーの ドイツ、秩序と整頓。ヒトラーユー ゲントが寄付をせがんだが私は拒否 した。ノルド・エクスプレス、そし て 8 日、パリの我が家に帰宅。子供 たちははしゃぎ回る。ものすごい手 つめ続けた彼の批評の数々は、彼が 残した名曲の深層を読み解くための 新たな を提供している。 参考文献 Prokofiev, Sergei. Sergey Prokofiev Diaries 1907- 1914. Anthony Phillips tr., Faber and Faber: London, 2006. Prokofiev, Sergei. Sergey Prokofiev Diaries 19151923. Anthony Phillips tr., Faber and Faber: London, 2008. Prokofiev, Sergei. Sergey Prokofiev Diaries 19241933. Anthony Phillips tr., Faber and Faber: London, 2012. 千葉 潤(ちば・じゅん) 札幌大谷大学芸術学部音楽学科准教授。専門は ロシア音楽。著書に『ショスタコーヴィチ』 (作曲 家・人と作品シリーズ) 。 2 月、パーヴォ・ヤルヴィが、首 ョシュア・ワイラースタインは指揮者 席指揮者就任決定後、初めてNHK で、7 月にN響オーチャード定期を 交響楽団の指揮台に立つ。チェロ 振る予定) 。エルガーの《協奏曲》は、 のアリサ・ワイラースタイン、ピア ワイラースタインにとって、幼い頃 ノのピョートル・アンデルジェフス から取り組み、デッカでのデビュー キ、ヴァイオリンの庄司紗矢香とい 録音にも選んだ、特別な作品。名演 うこれからの音楽界を担っていく豪 が期待される。 華な顔ぶれは、まさにヤルヴィのN ヤルヴィにとって、マーラーは最 響首席指揮者就任の前祝いにふさわ も得意なレパートリーのひとつであ しい。いうまでもないが、パーヴ る。フランクフルト放送交響楽団 ォ・ヤルヴィは、パリ管弦楽団音楽 との来日公演で《第 5 番》や《第 監督、ドイツ・カンマーフィルハー 9 番》を取り上げ、CDでは《第 2 モニー管弦楽団芸術監督などを務め 番》や《第 10 番「アダージョ」 》も る、世界が最も注目する指揮者のひ ある。2013 年にはフランクフルト とりである。そんなマエストロが用 で《第 8 番》も指揮した。そのスケ 意してくれたプログラムは、近代的 な管弦楽の粋ともいうべき、マーラ ー、R. シュトラウス、ショスタコ ールの大きい颯爽とした音楽は、現 代を代表するマーラー演奏のひとつ といえよう。マーラーの青春の記念 ーヴィチの作品である。 碑である《交響曲第 1 番「巨人」 》 パーヴォ・ヤルヴィとN響の 新時代幕開けを祝うプログラム ートを祝うにふさわしい作品だ。 Aプログラムでエルガー《チェロ 協奏曲》を弾くアリサ・ワイラースタ は、ヤルヴィ&N響の新時代のスタ R. シュトラウスの 二大交響詩が楽しみなBプロ インは、バレンボイムにその才能を Bプログラムでは、ポーランド出 高く評価され、メジャー・レーベルか 身の鬼才ピョートル・アンデルジェ らCDを出す、最も期待されている フスキがモーツァルト《ピアノ協奏 若手チェロ奏者のひとり。古くから 曲第 25 番》を弾く。2006 年 4 月に の音楽ファンには、クリーヴランド デュトワの指揮でモーツァルト《ピ 弦楽四重奏団の創設者であるヴァイ アノ協奏曲第 20 番》を共演して以 オリン奏者のドナルド・ワイラースタ 来のN響定期公演登場。今回は、華 インの娘といった方がわかりやすい やかで堂々としたハ長調の協奏曲で、 かもしれない(なお、アリサの弟ジ アンデルジェフスキがヤルヴィとど Philharmony January 2015 *2 月定期公演の聴きどころ* A んなコラボレーションを繰り広げる Program のだろうか。 また、《ドン・フアン》と《英雄の 生涯》というR. シュトラウスの二 大交響詩が演奏されるのも楽しみ。 ヤルヴィにとって、R. シュトラウ スは、レコーディングも少なく、ま さに興味津々のレパートリーである。 ブルックナーやマーラーで見事な演 奏を聴かせてくれるヤルヴィだけに、 N響の能力を最大限に引き出して、 華麗なるオーケストラの世界を披露 するに違いない。 生誕 150 年―シベリウスの 《ヴァイオリン協奏曲》が聴きもの けつけてくれるのは本当に嬉しいこ とだ。フィンランドに近いエストニ ア出身のヤルヴィはシベリウスを得 意としている。独奏者との共同作業 が巧みなヤルヴィのサポートを受け て、庄司がメモリアル・イヤー最高 の《ヴァイオリン協奏曲》の演奏を 聴かせてくれるに違いない。 そして、ショスタコーヴィチの 交 響 曲 か ら は、 最 も 著 名 な《 第 5 番》 。ヤルヴィの父ネーメ・ヤルヴィ は、かつてムラヴィンスキーに師事 し、ショスタコーヴィチを十八番と している。パーヴォもまた、そんな 父親から影響も受けているだろうが、 彼なら、聴き慣れた名曲を今生まれ Cプログラムでは、庄司紗矢香が たばかりの作品のようにまったく新 登場し、シベリウスの生誕 150 年 鮮に聴かせてくれるだろう。 を記念して、 《ヴァイオリン協奏曲》 2 月は、今秋のパーヴォ・ヤルヴ を取り上げる。日本が誇る国際的ヴ ィN響首席指揮者就任にますます期 ァイオリニストである彼女がヤルヴ 待が膨らむひと月となるであろう。 ィのN響首席指揮者就任を祝して駆 (山田治生/音楽評論家) *2 月の定期公演* ◉ 2/7(土)6:00pm、2/8(日)3:00pm (A プロ)NHK ホール 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ チェロ:アリサ・ワイラースタイン エルガー/チェロ協奏曲 ホ短調 作品 85 マーラー/交響曲 第 1 番 ニ長調「巨人」 ◉ 2/18(水)7:00pm、2/19(木)7:00pm (B プロ)サントリーホール 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ:ピョートル・アンデルジェフスキ R. シュトラウス/交響詩「ドン・フアン」作品 20 モーツァルト/ピアノ協奏曲 第 25 番 ハ長調 K.503 R. シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」作品 40 ◉ 2/13(金)7:00pm、2/14(土)3:00pm (C プロ)NHK ホール 指揮:パーヴォ・ヤルヴィ ヴァイオリン:庄司紗矢香 シベリウス/ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品 47 ショスタコーヴィチ/交響曲 第 5 番 ニ短調 作品 47
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