〔連続講座「琳派の誕生 ―俵屋絵師と尾形光琳から見た宗達―」〕 2014・12・13 於 Bunkamura・B1 第三回 俵屋絵師から見た宗達 ―「蔦の細道図屛風」と「伊勢物語図色紙」― 講師=林 進 烏丸光広賛・俵屋絵師筆「蔦の細道図屏風」六曲一双の内 紙本金地著色 相国寺蔵 【六原(ろくはら)の「俵屋」と烏丸光広賛・俵屋絵師筆「蔦の細道図屏風」】 第三回講座では、京の町絵師・野野村宗達の作品と、彼が経営する絵屋(書跡や冊子のための 装飾料紙や扇絵などを制作・販売する絵画工房) 「 俵屋」で仕事をした宗達配下の絵師たち、後継 の絵師たちの作品とを区別することが可能か、どうかを検討する。 江戸時代初期の慶長年間(1596∼1614)、宗達の俵屋は、鴨川の東、清水道に面した「六原(ろ くはら)」の地域にあり、数人の職人と家族による小規模な工房兼店舗であったと推定される。元 和期(1615∼1623)には、俵屋の扇絵が都で評判になり、優秀な職人絵師を抱えるまでになった。 寛 永初年(162 4∼)には、扇 面貼交 屛風や水墨 画 押絵貼屛風も扱うようになった。寛 永七年 (1630)に、宗達は法橋が叙位されてから、本格的な「本間屛風」 ( 通常の六曲屛風)を制作した。 宗達は寛永十一年(1634)頃に隠居し、宗達の娘婿の宗雪(寛永十五年までには、俵屋宗雪を名 乗り、寛永十九年には宗雪法橋と呼ばれた、喜多川氏)が俵屋を継承した。後、俵屋宗雪は加賀 の金沢に行き、 「俵屋」を開き、北陸の地で活躍した。一方、京の俵屋は、宗達の女重春、その子 の女国春が受け継いだ。烏丸光広(寛永十五年・1638 没)の賛がある「蔦の細道図屏風」は、宗達 隠居後、俵屋絵師による斬新な構成の作品で、緑青と金地の蔦の細道が夢幻の世界に誘う。 III - 1 【宗達筆「松島図屏風」の円環構成】 図 1 宗達筆「松島図屛風」六曲一双 紙本金地著色 フリーア美術館蔵 図 2 宗達筆「松島図屛風」の右隻と左隻を接続させ、円筒形(図 3 のイメージ)を作る 図 3 「屛風を向い合せに立てた俯瞰図」 図 4 「松島図屛風」 ボストン美術館蔵 〔画面右上の光琳落款・印章は後入れ〕 《円の中央に視点を置き、見回す》 《「松島図屛風」はめでたい図様なので、ヒット商品として多数制作されたと推察される》 【宗達筆「松島図屛風」の趣向 《歌合》と《絵合》】 本図右隻の左方にある小島の背後、金砂子による「霞形」は、鑑賞者の視点が左隻に移ると、 金砂子の「洲浜形」に変容する。このメタモルフォーゼは、この絵の眼目である。左隻の二か所で 浜の磯馴松の下枝を白波が洗っている。これは、摂津国の住吉神社の浜を暗示する表象である。 本屛風は、住吉の浜(左隻)と住吉の浦(右隻)の「白波」を詠んだ二つの名歌、すなわち凡河内躬 恒「住吉の松を秋風吹くからに 声打ち添ふる沖つ白波」、源経信「沖つ風吹きにけらしな住吉の 松の 下枝(しづえ)を洗ふ白波」を絵画化したものである。 III - 2 【俵屋絵師筆「蔦の細道図屛風」の円環構成】 図 5 烏丸光広賛・俵屋絵師筆「蔦の細道図屛風」六曲一双 紙本著色 《金地に禄青という鮮やかな配色、奥行きを無視して二次元化した画面構成が特徴》 図 6 烏丸光広賛・俵屋絵師筆「蔦の細道図屛風」 〔図 5 の左隻・右隻を入れ替える〕 《右隻と左隻を入れ替えても、緑青の土坡(細道)と蔦が垂れる金箔地の土坡は繋がる》 図 8 渡辺家本(文化庁本) 《寛永七年作、俵屋絵師筆》 図 7 出光美術館本 宗達筆「西行物語絵巻」と光広奥書 《寛永七年・1630 年、光広奥書》 【烏丸光広の「蔦の細道」を詠んだ和歌七首と絵画「蔦の細道」とのコラボレーション】 歌人である公 、烏丸光広(1579∼1638)は、寛永七年(1630)に伊豆守本多富正の依頼によ り、禁裏御文庫より「西行法師行状之絵詞」四巻を借りだし、その模写本を宗達法橋に作らせた。 光広はそれに詞書を染筆した。それと並行して、俵屋絵師の手でもう一本模写本(粉本にするた め)が作られた。それにも光広は詞書を書いた。宗達・俵屋絵師との関係が深まった。絵は、 『伊 勢物語』第九段の東下りの場面、 「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つ たかへでは茂り、もの心ぼそく」を絵画化したもので、書の為の下絵的である。光広はその金箔地 に「蔦の細道」に着想を得て詠んだ和歌七首を書いた。 III - 3 【烏丸光広(1579∼1638)賛がある俵屋絵師の作品】 図 9 烏丸光広賛・俵屋絵師筆「関屋図屛風」六曲一隻 紙本金地著色 東京国立博物館蔵 落款「宗達法橋」、朱文円印「対青軒」 《 「宗達法橋」は、三人称のいい方である》 《たらし込み》 図 10 光広賛・俵屋絵師筆「牛図」双幅 落款「宗達法橋」、朱文円印「対青軒」 頂妙寺蔵 図 11 宗達「蓮池水禽図」 (図 26 の部分) 《たらし込み》 【宗達の《たらし込み》と俵屋絵師の《たらし込み》】 《たらし込み》と呼ばれる水墨画技法は、先に塗った墨がまだ乾かないうちに、水や濃度の異なる 墨を部分的に加え、両者が混ざり合って複雑な濃淡の墨面を作り出す手法である。浸潤する墨の 効果を追求する。室町水墨画の雪村は、雨に濡れた表現にこの《たらし込み》を用いたが、近世で は、宗達が試みている。 「蓮池水禽図」では、宗達は、蓮の葉が水に濡れ、水中に沈みこむ風情を 薄墨の《たらし込み》で控えめに表現する(図 11)。光広賛の「牛図」双幅は、弘安本「北野天神縁 起絵巻」の二頭の牛の形姿を借りて描いたものである。いずれも輪郭線を用いない「没骨」 ( もっこ つ)の手法で描き、体躯の《たらし込み》はかなり意図的である。宗達の筆ではあるまい。 III - 4 【野野村宗達が経営した絵屋「俵屋」における俵屋絵師の存在を証明する文献史料】 図 12 第三十九段 女車の蛍 《詞書は高松宮好仁親王染筆》 図 13 色紙本紙(雁皮紙)の裏書 《新史料「宗達自筆の指示書」 》 美術史研究の山根有三氏は、昭和二十三年(1948)に個人宅で「伊勢物語図色紙」第三十九段 「女車の蛍」の裏打紙に書かれた「高松殿」の文字を発見した。この色紙絵(当時、掛幅装)は、 昭和四十九年(1974)発行の美術雑誌『大和文華』第五十九号において原色図版で掲載された。裏 書の図版は掲載されていない。その後、行方不明になり、稿者は、平成二十一年(2009)に、そ の絵を京都の個人宅で見出した。いくつかの新知見を得たので、早速、美術雑誌『國華』第千三百 七十五号(2010 年)で報告した。最初の表具に傷みが生じたので、昭和四十年代に再び改装され た。折れを防ぐために色紙本紙(厚い雁皮紙)を薄くする必要があり、本紙は二枚に相剥ぎされ た。その剥がされた本紙裏にも裏書があり、裏打紙の裏書「高松様」の紙片と共に、納入箱に保存 された。 その紙片(図 13)には、絵筆のような筆で薄墨を用い、 「サキノ車 / なりひら/ すたれおろしたる也 /あとノ車もすたれおろしたり/ サキナルなりひらと女のりたり/ 車へほたるいれたり」の文言が覚書風 に書かれてあった。この書付は、工房の中心的絵師が第三十九段「女車の蛍」の大まかな下絵を描 きつけた後、配下の絵師に対して、その色紙絵を仕上げる際、とくに注意して描いてほしい主要モ ティーフ、すなわち御 を下ろした前後の車、 「なりひら」と「女」、 「蛍」を女車に入れる「源至」を 正確に描くことを指示したものと解釈される。工房の中心的絵師とは、常識的にいって、絵屋「俵 屋」の主人である宗達その人に相違ない。本色紙絵は新構想の図であるので、そのような指示を 行ったのであろう。宗達自筆の裏書から、益田家本の制作工程の実態が明らかになった。 III - 5 【益田家本・宗達筆「伊勢物語図色紙」と俵屋絵師筆「伊勢物語図色紙」】 図 14 宗達筆 益田家本「富士の山」 図 15 俵屋絵師筆 益田たき子本「富士の山」 図 16 俵屋絵師筆 新出本「恋せじの禊」 図 17 宗達筆 益田家本「行く水に数かく」 図 18 俵屋絵師筆 新出本「行く水に数かく」 図 19 俵屋絵師筆 団家本「立田越え」 図 20 宗達筆 益田家本「西の京より帰る男」 図 21 俵屋絵師筆 新出本「西の京より帰る男」 図 22 俵屋絵師筆 新出本「月のうちの桂」 【俵屋絵師が描いた「伊勢物語図色紙」は、宗達本と違って、より装飾性を付加した】 益田家本 36 図は、寛永九年(1632)6月に亡くなった宗達の長年の知友角倉素庵を追善する意図 で制作されたものである。宗達は全て下絵を付け、俵屋の絵師たちもその制作を手伝った。以後、 俵屋絵師たちは伊勢物語図色紙を制作し、装飾性を付加した。 III - 6 【宗達と俵屋絵師の扇面画と水墨画】 図 図 図 俵屋絵師筆 ﹁鳥窠図﹂ 宗達筆﹁神農図﹂ 図 図 俵屋絵師筆 ﹁枝豆図﹂ 俵屋絵師筆﹁犬図﹂ 宗達筆﹁白鷺図﹂ 宗達筆﹁蓮池水禽図﹂ 30 29 図 俵屋絵師筆﹁扇面貼交屛風﹂ 宮内庁三の丸尚蔵館蔵 図 宗達筆ほか﹁扇面貼交屛風﹂ 醍醐寺蔵 図 31 28 27 26 25 24 図 23 宗達筆「浜松下絵和歌扇面」 《宗達は現役の時、落款に「法橋宗達」と記す。印章に「対青」 「対青軒」円印を用いる》 III - 7 【俵屋絵師の「樹林図」と朱文円印「伊年」が捺された「草花図」】 図 32 宗達筆「雑木林図屛風」六曲一隻 金地著色 《図 33 の「楊梅図屛風」の左隻に相当する作品と推定される。現存不明》 図 33 宗達筆「楊梅図屛風」 図 34 俵屋絵師「樹林図屛風」六曲一双 紙本金地著色 フリーア美術館蔵 図 35 俵屋絵師筆「槇楓図屛風」六曲一双 紙本金地著色 《左隻の右に樹林の一部》 図 36 俵屋絵師筆「槇楓図屛風」 朱文円印「対青軒」 山種美術館蔵 《光琳筆「槇楓図」に倣って右下の秋草図は補筆を加えた》 図 37 俵屋絵師筆「草花図 」四面 紙本金著色 朱文円印「伊年」 京都国立博物館蔵 【俵屋絵師は、宗達の構図や図様を借りて、さかんに「樹林図屛風」を描いた】 俵屋絵師たちは、宗達筆「雑木林図屛風」 「 楊梅図屛風」 ( 後水尾院の勅題のため留め書きとな る)の構図を借りて、樹林や槇楓を画題とした屏風絵をさかんに制作した。 III - 8 【野野村宗達の後継者 俵屋・宗雪法橋の作品】 図 38 俵屋宗雪筆「草花図屛風」六曲一双 紙本金地著色 東京国立博物館蔵 落款「宗雪法橋」、朱文円印「伊年」 《土坡の緩やかな曲線が「蔦の細道図屛風」と共通》 図 39 俵屋宗雪筆「群鶴図屛風」六曲一双 紙本金地著色 落款「宗雪法橋」、白文重郭方印「□□」、朱文円印「伊年」 《曲線の土坡、広い空間》 図 40 『今枝民部留帳』一冊(写本) 寛永十九年(1642)∼正保四年(1647) 金沢・成巽閣蔵 《寛永十九年(1642)に京の八条宮の御内儀御殿の 絵を描く》 【俵屋宗雪法橋】 画伝書によれば、宗雪は宗達の弟、また 子と伝えられているが、確証はない。喜多 川氏の出身ともいわれる。俵屋を称し、法 橋が叙位された。寛永十六年に堺市養寿寺 の杉戸絵( 図 41 )があったが 、 焼 失した 。 鳳林承章『隔冥記』や『今枝民部留帳』に寛 永十九年に屛風絵や 絵を描いたことが記 録されている。 「草花図屛風」を多く遺した。 図 41 俵屋宗雪筆「楓に鹿図杉戸絵」堺市・養寿寺 《戦災で焼失》 III - 9 【喜多川相説の作品】 図 42 喜多川相説筆「秋草図屛風」六曲一双 紙本著色 石川県立美術館蔵 図 43 喜多川相説筆「四季草花図貼交屛風」六曲一双の内 絹本著色 落款「喜多川法橋相説七十二歳畫之」、白文方印「伊年」、朱文円印「宗説」 図 44 俵屋絵師「雷神図屛風」六曲一隻 紙本金砂子蒔地著色 クリーブランド美術館蔵 朱書きによる「伊年」円印 《雷神の肉身が白い。制作年代は江戸時代中期か》 喜多川相説は、 「宗雪」と音が共通し、同じ人と伝えられた。 「相説」の落款で「宗説」の印章、 「相説」の落款で「宗雪」の印章を捺すものもがある。白文方印「伊年」を捺しているので、俵屋(宗 雪)の後継者と推定される。 「喜多川法橋相説七十二歳畫之」の款識がある作品(図 43)があり、紙 本淡彩の草花図を得意とした画家である。 III - 1 0 【『古畫備考』 (昭和四十五年覆刻、初版明治三十七年)第三十五巻 光悦流】 図 45 『古畫備考』より「女重春」 「北川宗説(宗雪)」 「喜多川法橋宗説」 「野々村通正」 図 46 野々村女国春筆「扇面流図屛風」二曲一隻 図 47 「扇面流図屛風」のうち 落款「国春女書之」、朱文重郭方印「野々村氏女」 図 48 野々村通正信武筆「山水図屛風」六曲一双(部分) 図 49 印章「野」、 「通正信武」 『古畫備考』によれば、野野村宗達の後、京(六原)の俵屋は、宗達女重春が継いだ。方印 「野」を用いるが、これは宗達の学者としての名前「野知求」の「野」を継承したもの。円印「伊年」 は俵屋の商標のようなものである。女重春の後、その子、女国春が俵屋の女主人になったと考えら れる。女国春は、 『北大路俊光日記』貞享二年六月二十七日の条に扇絵二本を描いたことが記載さ れている。 「扇面流図屛風」を遺す。 III - 1 1 【俵屋・野々村忠兵衛の出版】 図 50 『雛形染色の山』 野々村忠兵衛筆 京・菊屋喜兵衛版 享保十七年(1732)刊 図 51 『雛形音羽の滝』 野々村忠兵衛筆 京・菊屋喜兵衛版 元文二年(1737)刊 図 52 『光琳絵本道知辺』 野々村忠兵衛筆 京・菊屋喜兵衛版 享保二十年(1735)刊 野々村忠兵衛(生没年不詳)は、享保から元文年間頃にかけて雛形本などで光琳風の図柄を描 いた京都の絵師である。版元の菊屋喜兵衛は京都の大書肆で、光琳模様に傾倒し、野々村氏に描 かせた(図 50、51)。 『光琳絵本道知辺』は、序文によれば、衣装のほか扇子、団扇、風呂敷、焼 き物などから光琳意匠の文様を収載し、絵手本として使われることを目的にした本である(図 52)。 野々村通正信武については、俵屋を称しているので、宗達の末裔であろうが、詳しくは不明であ る。 「山水図屛風」、京都・北野天満宮絵馬堂に「弓流し図絵馬」があり、 「元禄四年(1691)十一 月、野々村通正信武七十三歳筆」とある。野々村忠兵衛と同一人との説があるが、確証がない。 【俵屋の家系図】 宗達女重春 俵屋・女国春(貞享二年活躍) 俵屋・野野村氏宗達(野野村知求) 字「伊年」、号「対青」 「対青軒」 寛永七年に法橋を叙位 東山の六原に居住 吉田素庵校訂『本朝文粋』を出版 宗達女(宗雪が養子となり結婚、俵屋を継承) 喜多川相説 忠兵衛(忠兵衛は後、 京都に戻る) 俵屋宗雪法橋(金沢) ※野々村通正信武は、方印「野」を使用、 「俵屋」を称するが、事情があって、俵屋野々村氏から出て、 狩野派の町絵師になった人と思われる。 III - 1 2 講座時に使 用したパワーポイントのサムネイル画像です。参 考までにご覧ください。 rIII-01 rIII-02 rIII-03 rIII-04 rIII-05 rIII-06 rIII-07 rIII-08 rIII-09 rIII-10 rIII-11 rIII-12 rIII-13 rIII-14 rIII-15 rIII-16 rIII-17 rIII-18 rIII-19 rIII-20 rIII-21 rIII-22 rIII-23 rIII-24 rIII-25 rIII-26 rIII-27 rIII-28 rIII-29 rIII-30 rIII-31 rIII-32 rIII-33 rIII-34 rIII-35 rIII-36 rIII-37 rIII-38 rIII-39 rIII-40 rIII-41 rIII-42 rIII-43 rIII-44 rIII-45
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