SURE: Shizuoka University REpository http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/ Title Author(s) Citation Issue Date URL Version 3つの観点からの音楽における啓蒙 : 公共性、批判、自律 によるシンフォニーの成立 上利, 博規 人文論集. 65(1), p. A1-A25 2014-07-31 http://dx.doi.org/10.14945/00007999 publisher Rights This document is downloaded at: 2015-02-01T03:56:52Z 3つ の観点 か らの音楽 にお ける啓蒙 一公共性、批判、 自律 によるシンフォニーの成立― 上 利 博 規 序論 啓蒙 は、主 として18世 紀 の ヨーロ ッパ にお い て理性 に もとづいて既存 の考 え 方や社会体制 を捉 えなお そうとす る思 想傾向を指 し、 それは文化領域 にも影響 が及んだ。これを音楽史の立場か ら見れ ば、バ ッハゃヘ ンデルが活躍 したバ ロ ッ ク時代 か らハ イ ドン、 モー ツァル ト、 ベー トー プ ェンの古典主義の時代 へ の移 行期 と見 ることがで きる。で は、バ ロ ック音楽か らウィーン古典派 へ の移行 と、 諸領域 において進 んだ啓蒙主義 とは どの よ うに関係す るのか。 本論 は、以下 の三つの観点 か ら音楽 における啓蒙 について間 うものである。 啓蒙思想 は、権威や習慣 ではな く「自然 の光」 である理性 のもとに中世的 な宗 教や封建制度 を非合理的 なもの として廃 しようとす るが、 それに とどまらず原 理的 には 「万人 が理性 をもつJと い う前提 のもとに普遍的な自由や公共性 を万 人 に保証すべ きとい う考 えを含んでい る。 これを音楽 とい う観点 か ら考 えれば、 どの ように して官廷文化 であった音楽 が市民 へ と開放 され、音楽 が社会的共有 財 となったのか とい う問題 にもなる。 カン トが『啓蒙 とは何 か』(1784)で 語 っ たような 「理性 の公的使用」 とい う観点 か ら考 える時、啓蒙君主 と呼 ばれる人 たちの文化施策 において音楽 を私 的楽 しみではな く公的なものである として捉 える意識 が どの ように見 出せ るか。 これが音楽 にお ける啓蒙の第 一 の観点 で あ る。 第 二 の観点 は、啓蒙 とい う考 えに含 まれて い る、理性 によって既存 のものを 捉 え直 そ うとす る反省的意識化、すなわ ちカ ン ト的な 「批判 Jと い う点か ら考 えるな らば、音楽 にお ける啓蒙 は音楽 を どの よ うに 「批判 」 的 に捉 え直そ うと したのか とい う問題 である。 これ を、 当時 の音楽理論書 な どの出版物 を手掛 か りに考 えたい。 第 二 の観点 は、啓蒙 とい う考 えに含 まれてい る 「理 性 を用 いて 自ら考 える」 - 1 - とい う自律 の問題 である。啓蒙思想 に含 まれる自律 の要請 は、音楽 においては 道具的音楽から自律的音楽への変化 として現れる。これを具体的にシンフォニー の形成過程 とい う音楽 の内在的構造 を通 して考 えたい。 とい うのも、今 日交響 曲と訳 されている「シンフォニー」 はオペ ラの序曲であるシンフォニアから発 展 したと考 えるのが定説であるが、オペ ラの序山に過 ぎなかったオペ ラ・ シン フォニアが交響曲へ と発展す る時代 はまさに啓蒙の時代 と重なっているからで ある。 「批判」 「自律」とい う契 啓蒙 とい う概念 に含 まれる上記 3点 、即 ち「公共性」 機 が音楽 にどのように現れているか、以下順を追って検討 したい。 1 啓蒙君主と音楽 (1)2つ の意味での啓蒙君主 音楽 における啓蒙を三つの観点から考 えるにあた り、先ず啓蒙 とい う言葉 に 含まれる多義性 について予備的に述べてお く必要があろう。 とい うのも、 これ ら啓蒙 に含まれる公共性、批判、 自律 とい う3つ の契機 はいずれもカ ン ト哲学 に含 まれるものであるが、啓蒙 とい う言葉の一般的意味 とは異なっているか ら である。 このような意味の混乱は、中国から輸入 された「啓蒙」 とい う言葉 は 教え導いて「蒙味を啓 く」とい う意味を担 ってお り、これが明治時代 にヨーロッ パの啓蒙思想の訳語 として用い られたことに主な原因がある。中国から輸入 さ れ日本 で使用 された 「啓蒙」 と、 ヨーロ ッパの啓蒙思想 とは内容が異 なってい るにもかかわらず、それらが結びつけられたために今 日の 「啓蒙」 とい う言葉 は多義的な意味において用 い られることになってしまった。 さらには、明治時代は「上からの啓蒙」 によって急速 な近代化をなそうとし ていたが、その際 プロイセンにおける 「上からの啓蒙」 を一つのモデル として いたとい う問題 がある。すなわち、既 にプロイセンにおいて当時の政治状況 の 中でナショナ リズム的な観点から「国家 が教育者 となって急速な近代化を図る 必要がある」 と考 えられていたのである。それはカントが理性 の公的な使用に よって世界市民的な普遍性を目指 していたのとは異なった姿である、 とい うよ りもカントは啓蒙思想がプロイセンにおいてナショナ リズム的な意味で使用さ れることを批判 したのである。つ まり、明治 におけるヨ■ロ ッパ思想の輸入 の みならず、既にヨーロ ッパにおいても啓蒙は多義的に使用されていたのである。 「啓蒙専 したがって、啓蒙君主 とい う言葉も多義的 に使用されることになり、 - 2 - 制君主Jと い う言葉 さえ生 まれ、 なぜ 啓蒙的 であ りなが ら同時 に専制的であ り 得 るのか、 ととまどい を感 じることになる。 啓蒙 とい う言葉 をめ ぐる以上 の ことを踏 まえた上 で 、啓蒙君主 と呼 ばれ る ウィー ンのマ リア・ テ レー ジ アとョーゼ フ 2世 、 そしてプ ロイセンのフ リー ド リヒ大王が いかなる意味で啓蒙的 であ り啓蒙的でなかったかについて考 えよう。 (2)音 楽文化の市民開放化の動 き 啓蒙君主 が行 なった音楽文化 に関わる施策の意味 を考 える上で、当時の音楽 文化 が どの よ うに市民 に開放 されつつ あったか とい う状況 の概 略 を確認 してお こ う。 1700年 代前半、 宮廷 にお ける音楽 は公開演奏会や楽譜出版 な どを通 して市民 に開 かれつつ あった ことは広 く知 られて い る。公開演奏会 としては、 フランス の コンセール・ ス ピ リチ ュエルや、 ドイ ツの コ ンギウム・ ムジクム、 あるいは ロン ドンにお けるバ ッハ =ア ーベル演奏会 な どが有名 である。 1736年 の音楽雑 誌 では コレギウム・ ムジクムについて、音楽家 は誰 でもこの演奏会 に参加 して 演奏す ることが許 されてお り、有能 な音楽家 の価値 を判断 で きる聴衆 が集 まる ことも多 い と書 かれてお り、演奏会 が市民 に開 かれてゆ く様子が うかがえる。 また、楽譜 出版 に関 しては、印刷産業全般 の興隆 もあ り、 パ リそして ロン ド ンな どで相次 いで楽譜 出版社 が創立 され、特 に1700年 代中頃 か ら出版業者 が急 増 し、や がて 100人 近 いパ リの楽譜 出版業者 の も とか らイタ リア音楽 も含 めて 様 々な楽譜 が 出版 されるよ うになる。 また、作 曲家 たちもパ リで楽譜 を出版す ることを求め るようになってい た。 こ うした状況 をもう少 し詳 しく見 てみ よう。 まず1700年 代前半のイタ リアであるが、ヴィブ ァルデ ィがい たヴェネ ツィア、 Aス カル ラ ッティたちナポ リ楽派、 1708年 ハ プス プルク家 の支配下 に入 った ミ ラノなとが音楽 の 中心地 で あ り、オペ ラが多数 の公 開劇場 にお いて上演 されて い た ことは知 られてい るところであるが、 ほかにも貴族 の私邸 で も楽 団 による 音楽が盛 んに演奏 されていた。 しか し、イタ リアの諸都市 では財政的な困窮が訪 れ、次第 に ヨーロ ッパ にお ける音楽 を主導する立 場 か ら退 いて ゆ くようになる。 1600年 代 におけるヨーロ ッパ の音楽 の中心がイタ リアであったのに対 し、1700 年代 ではこれ にかわってパ リ、ウィーンなどが重要 な役割 を果 たす よ うになる。 ル イ14世 の時代 のフランスでは、 ブェル サイユ官殿 で礼拝堂 での宗教音楽、宮 殿 内 の室 内楽、野外 行事音楽 が演奏 されてお り、 イタ リアか らリュ リ (163287)が 招 かれ F町人貴族 』(1670)に よってフ ラ ンス・ オペ ラの基 本 の形 を確立 - 3 - した。 また、当時室内楽の中心 に置かれていたものの一つはクラツサンである が、ルネサ ンス時代 に流行 したリュー ト音楽 はクラツサンに書 き換 えながら発 展 したが、フランソフ・ クープラン (1668-1733)力 =多 数 のクラブサ ン音楽を 残 しクラヴサ ン奏法を確立 した。宮殿音楽のもう一つの中心は「王の24の プァ イオリン」 などの室内楽であるが、 この組織 は主 として官殿 でのバロ ック・ ダ ンスの伴奏を担 っていた。 1700年 代 に入 リルイ15世 の時代を迎えるが、 この時代 のフランス音楽を代表 するのはラモー (1683-1764)で ある。彼 はクープランに続 いてクラヴサ ン曲 を作っていたが、1730年 代からは「イポリットとアリシー』(1733)な どのオペ 「優雅 なイ ン ド』 「イポ リットとアリシー』 、 ラに力を注 ぐようになる。 しかし、 (1735)、 『カス トル とポルクスJ(1737)、 『エベの祭』(1739)、 『ダルダニュス』 (1739)な どのオペ ラが上演された場所 はヴェルサイユではな くパ リであつた。 これ は、ルイ14世 の死去 (1715)に 伴 ってヴェルサイユの貴族 たちはパ リに 戻 り、音楽 の中心 がヴェルサイユからパ リに移 うて来た ことと関係 している。 パ リでの演奏 の場 │よ 一つには私邸 にお けるサ ロンであ り、一つには1725年 に 創設されたコンセール・ スピリチュエルなどの公開演奏会 であつた。 ラモーは 16931727年 頃 に国税長官であ り音楽愛好家で もあつたラ・ ププリニエール 〈 1762)と 知 り合い彼 の館に住 むようになり、1731年 には私設楽団 を創設 して音 楽監督兼指揮者となった。ラモーがオペラ作曲に力を注ぐようになったのはこ うした庇 護 があつたか らである。 ラモーがプォルテール や ル ソー に出会 ったの も、 ラ・ ププ リニエールのサ ロンでの ことであつた。 当時のパ リのサ ロンではこうした演奏会がた くさん催 されてい たが、コンセー ル・ ス ピ リチ ュエ ルをはじめ とす るい くつかの公開演奏会 では、 イタ リア・ シ ンフォニアのほかに、次第 にドイツ、ウィーンの作曲家 による作品 も演奏 され るようになっていた。 また、既 に述べたように当時のパ リは近代 ヨーロ ッパ の印刷・ 出版 の中心地 の一つであり、パ リの多数の楽譜出版業者のもとからイタリア音楽も含 めて様 々 な楽譜が出版されるようにな り、作曲家たちはパ リで楽譜 を出版することを求 めるようになっていた。つ まり、1700年 代 のフランス音楽 は、演奏会や楽譜出 版によってイタリアやウィーン、ドイツの音楽の演奏や出版 などの集積場 となっ てお り、パ リは音楽のコスモポ リタン的 な交流 の場 となっていたのである 1。 1い うまでもなく、モーツァル トがコンセール・ スピツチュエルの依頼 により作曲 したのが交響曲 第31番 「パ リ」(1773)で あ り、 コンセール・ ド・ ラ・ オランピックの依頼 によってハイ ドンは - 4 - (3)ウ ィー ンのマ リア・ テ レージア と音楽施策 マ リア・ テ レー ジ ア (1717-1780、 在位 1740-80)の 在位時代 はまさに啓蒙 の時代 そのものであった。 マ リア・ テ レージ アはその文化施策 にお いて啓蒙 と どの ように関わ ったので あろ うか。 マ リア・ テ レージ アはオ ース トリア継承戦争 (1740-1748)に よ リプ ロシ ア な どとの政治的・ 軍事的関係 に苦慮 し、軍事、教育、税制 な どの改革 を進 め、 貴族や教会 の権力 に制限を加 えて近代化 を図ったが、彼女 自身 は啓蒙思想 には 関心 をもたず、啓蒙思想 に関心 があった息子の コーゼフ 2世 としば しば衝突 し ていた。 マ リア・ テ レージ アが望 んでいたのは国際的緊張関係 の中で いか して 財政難 と戦 い なが ら帝国 の中央集権化 を進 め、近代的で訓練 された軍隊 を整 え るか とい うことで あったので、彼女 が進 めた改革 が中世的 なものを廃 し近代的 制度 の整備 に寄与 した面 があった とはい え、啓蒙思想 に基 づい た君主 とは言 い 難 い。 マ リア・ テ レージ ア と音楽 との関 わ りについていえば、 まず彼女 は小 さい頃 か ら音楽 をは じめ とす る芸術文化 に親 しんでお り、 モ ン (1717-1750)と 並ん で 当時のウィーンを代 表す る作 曲家 ヴァー ダ ンザイル (1715-1777)を 音楽 の 師 として い た ことを指摘 してお く必要 があろ う。財政難 と軍備強化のために宮 廷楽団その他芸術文化 に関す る予算 を縮小する必 要 に追 られたことはさてお き、 1741年 にブルク劇場 を宮廷劇場 として設 立 した ことゃ、 プルボン家 へ のライパ ル意識 か らパ リの文化 をウィー ンに導入 し、新 しい音楽作 品や演奏家 によって 賑 わった ことは、 ョーゼ フ 2世 の政策 と相 まって結果的 に啓蒙的 な影響 を与 え た。確かに、 マ リア・ テ レージ アの時代 は未 だ宮廷 が ウィーンの音楽生活 を監 「1750年 代 と60年 代 を通 じてプィーンで活 督・ 支配 している状態 ではあ ったが、 躍 した音楽家 の多 くは、それにつづ く時代 の音楽生活 をも形 成 し続 け」 「長 い間 ヨー ロ ッパ最高 の音楽 と音楽家たちにふれ ることによって、 プル ク劇場 の聴衆 は教養 ある聴衆 となっていたJ2の である。す なわち、 マ リア・ テ レー ジ アは意 識的 に啓蒙君主 たろ うとしたわ けではないが、回 りにい た啓蒙的な立場 の人 々 の影響 もあ り、結果 として啓蒙的な施 策 も行 なった と考 えるのが妥 当で あろう。 これに対 して ヨーゼ フ 2世 は意 識的 に啓蒙的であろ うとしたが、彼 は母 マ リ 1785年 から1786年 にか けて 「パ ソ交響 曲J(第 82番 ∼第87番 )を 作 出 した。 それ以前にも、 1750 年 頃か らシュター ミ ッツをは じめ とす るマ ンハ イ ム楽派の シンフォニーがパ ソで演奏 されてい る。 2『 西洋 の音楽 と社会 ⑥古典派 啓蒙時代の都市 と音楽J(音 楽之友社、 1996)、 p147、 150。 - 5 - ア・ テ レージ アの宿敵 で あ つたプ ロイセンのフ リー ドリヒ大 王 を啓蒙君主 とし て崇拝 してい た。では、 フ リー ドリヒ大 王がいかなる音楽施 策 を取 ったのであ ろうか。 (4)プ ロイセ ンの フ リー ドリヒ大王 とベル リン楽派 ドイ ツでは1616年 か ら1648年 の30年 戦争 による荒廃 か らいかに立 ち直 るかが 最大 の課題 で あ ったが、多数 の領邦国家 に分かれてお り、 パ リ、 ウィー ン、 ロ ン ドン といつた 中心的な大都市 を形成す るには至 ってお らず、立 ち遅れた近代 化 をどの ように進 めるかはそれ ぞれの領邦君主 に任 されてい た。 ドイツにお い て 中心 となって い たのは、 ミュンヘ ンを首都 とす る南部 ドイ ツのパ イエ ル ン、 ドレス デ ンを首都 とする中部 ドイ ツのザクセン、 ベル リン を首都 とす る北部 ド イツのプランデ ンプルク =プ ロイセ ン、 そして 自治都市 として独 自の発展 をみ ていたハ ンプルクなどで あ った。 これ らの都市 における音楽 上の状況 は次 の よ うなもので あ つた。 まずバ イエ ル ンで あるが、首都 ミュンヘ ンでは1500年 代 か ら既 にイタ リア音 楽家 を招聘 し、音楽 の都 として栄 えていた。 1700年 代 中頃 にはマ クシ ミリアン 3世 ヨーゼ フ・ カ ール が (在 位 176=1777)が 自 らブィオ ラ・ ダ :ガ ンバ を演 奏 し、 1763年 にはモー ツ ァル トが官廷作 曲家 │こ なることを希望 して ヨーゼ フの 前 で演奏 して い る。 しか し何 よ りもプフ ァルツ選帝侯 カ ール 4世 フィ リップ・ テオ ドール (1724(1799)と 音楽 の名手 を集 めた宮廷楽団 の存在 が重要 である。 シュター ミ 親子やカ ンナビ ッヒをはじめ とす る50∼ 60人 か らなるこの官廷 'ツ ンハ イ ム楽派 として知 られ、 バロ ック期 か ら古典期 へ の移行 にお 楽団 の名 はマ いて最 も重要 で あ り、強弱 の変化 をは じめ とす る様 々なオ ー タス トラの近代的 な表現技法 を作 り出 した楽団 として有名 で ある。 しか し、1778年 にフィ リップ・ テオ ドール が ミュンベ ンに移 るに伴 って楽団 もミュンヘ ンに移 ったが、楽団員 の拡散 もあ りそれ以降音楽的 な勢 い は失 われた。 音楽 次 に ドレス デ ンで あるが、ザ クセン公 モー リッツ (在 位 1547-1553)力 ` に力を入 れた こともあ り、 1600年 代 に入 るとイタ リア人 を中心 とした楽団員 は 40人 を超 えて 高 い水準 の音楽 を提供 してお り、 当時 の ドイ ツ音楽 を代表 す る シュッツを輩出 してい る。1700年 代 にはゼ レンカ (1679-1745)、 ハ イニ ヒェン (1683-1729)、 やがてプロイセ ンに移 るクプァン ツ (1697-1773)、 やがてハ ン ブルクに移 るハ ッセ (1699-1783)、 グラウ ン (1703-1771)た ちが活躍 した。 ハ ンプル クは貿易 を中心 とす る豊かな 自治都市 として、他 の都市の官廷音楽 - 6 - とは異 な り、都市 の市民 が育 んだ独 自な道 を歩んだ。す なわ ち、市参 事会 を中 心 に音楽文化 が運営 され、参事会 に雇われた器楽演奏家 による世俗音楽 が 中心 に演奏 された。 また、他 の諸都市 のよ うな宮廷作山家ではな く、 自分 たちで作 曲家サ ー クル を形成 した。 コ ンギウム・ ムジクム、即 ち音楽仲間 とい う名が こ れを象徴 して い るが、既 に1660年 にはマ ティー アス・ ベ ックマンが コンギウム・ ムジ クム による公 開演奏会 を開始 して い る。 また、 1678年 には市立 歌劇場 が設 立 され、イタ リア以外 では初 となる公開オペ ラが行 なわれ、 オペ ラが次 々 と作 曲され るようになった。 ヘ ンデルがイタ リア、 そして ロン ドンに移 る前 に、 ま ずハ ンブルクに向 かったの もこうした状況ゆえで あった。1721年 にはライプツィ ヒか らや って きたテ レマ ン (1681-1767)が 楽長 を引 き継 ぎ、1722年 にはマ ッ テゾンが F音 楽批判 Jと い う音楽情報誌 の出版 を始 め、 さ らには1736年 にライ プツィヒか らシャイベ (1708-1776)が や って きて、 マ ッテ ゾンや テレマ ンの 支援 を受 けなが ら音楽批評誌 『批判 的音楽家 』 を刊行 し、 その中でバ ッハ を批 判す ることになる。(そ の詳細 は後述する。 ) 1700年 代 の ドイツの主要都市 における音楽状況 は以上の よ うで あ ったが、 プ ロイセ ンの啓蒙君主 フ リー ドリヒ大王 は、 どの よ うな音楽施策 を取 ったので あ ろ うか。 プロイセ ン公国時代 にはフ リー ドリヒ・ ヴィル ヘルム大選帝侯 (1620-1688) の施 策 によ リベル リンの官廷楽団 が作 られたが、 1701年 に即位 した息子 フ リー ドリヒ 1世 (1657-1713)は 妻 の ゾフィー・ シャル ロ ッテ と共 にイタ リアの有 名音楽家 を官廷 に招 くな どして宮廷楽団の質的 な向上 を図 り、 1704年 にはプロ イセ ン芸術 アカ デ ミー を作 った。 その息子 フ リー ドリヒ=ヴ ィル ヘ ル ム 1世 (1688-1740、 在位 1713-1740)は 宮廷 の予算 を削減 して宮廷楽団 を解散、官僚 制度や税制、 あるいは工 業政策 ・ 重 商政策 な どの近代化 を図って軍事国家 を目 指 した。 そ して、 マ リア・ テレー ジ アの即位 と同 じ1740年 にその息子 フ リー ドリヒ大 三 (1712-1786)が 即位 す る。確 かに父親 と比較 す る限 りにおいてはフ リー ド リヒ大王 は文化 を好み、即位後直 ちにオ ペ ラ劇場 を完成 させ 、 自らもフル ー ト を演奏 しフル ー トの曲を作 った りもした。 そ して、何 よ りも ドレス デ ンか らフ ル ー ト教師 であったク ブァン ツ、 グ ラウン兄弟、 フランツ・ ベ ンダ たちを呼 び よせ 、 C PEバ ッハ と共 にベル リン楽派 を形成 す る。彼 らは啓蒙時代 にふ さわ し く音楽理論書 を著 し、クヴ ァン ツの『 フル ー ト奏法試論』(1752)、 エマ メエ ル・ バ ッハの Fク ラヴィー ア奏法試論 』(第 1部 1753、 第 2部 1762)が 刊行 され - 7 - ている 3。 この ようにフ リー ドリヒ大王 は音楽文化 の興隆 のための文化施策 を取 った啓 蒙君主 のにように見 える。 しか し他方 では、 フ リー ドリヒ大 王 は音楽 において は師 のクプ ァンツに傾倒す るあま り、他 の音楽 を軽視 し、た とえばエマ ヌエル・ パ ッハ ともしば しば衝突 してお り、 エマ ヌエル・ バ ッハ は1768年 に 自由都市 ハ ンプルクに移 っている。 また、 グラウ ンの オペ ラを強制的 に書 き直 させ ること もあった。 この よ うに彼 は音楽的 には専制的 で あ り保守的 であった とい われ て い る4。 フ リー ドリヒ大王が啓蒙思想家 ヴォルテール と親交 があ り、 プォルテール を ベル リンに招 い たが、結局喧嘩別 れになった ことは有名 である。 ヴォル テール はバス ティーユ か ら解放 された後 に、 イギ リスに渡 り、 そこでベーコンや ロ ッ クな どのイギ リス経験論、 あるい はニ ュー トンな どに触 れ、 こ うしたイギ リス の思想事情 を『哲学書簡』(1733)と して 出版 した。 プォル テールの魅力 は、当 時 の新 しい啓蒙的 な思想 とその意義 を紹介 す る点 にあった。彼 らは文通 によっ て結 びついてお り、 フリー ドリヒ大王が即位す る頃 には 「反 マ キャベ リ論 Jを 書 いて ヴォルテールに送 り、出版 を依頼 して い る。彼 はこの書 の 中で、君 主 は 人民 の僕 に過 ぎない とい う社会契約論 的立場 の君主論 を展開 したが、同時に理 性 に基づ きなから人民 に自由を保障するような専制君主制を理想 としている。 これがフ リー ドリヒ大王 とヴォルテールの喧嘩別れの原因でもある。 フリー ド リヒ大王の専制的な文化施策 は、王立歌劇場を作 リベル リン楽派 とも呼ばれる 官廷楽団を形成 しはしたが、開かれた市民社会のための音楽文化を作 り出すに は至 らなかった: 2 音楽の理念化 としての啓蒙 次 に第二の観点から音楽 における啓蒙について考 えてみよう。音楽 とは何か、 何であるべ きか等についての反省的な意識化の動 き、す なわちカン トのい う意 行 されている。エマメ `「 フル ー ト奏法試論』 の邦訳 はシンフォニ アか ら上下巻 として1976年 に干」 エル・パ ッハの r正 しいク ラ ・/ィ ーア奏法』の邦訳 は全音楽譜 出版社 か ら第 1・ 2部 として2000 年 に刊行 されている。両書は、 レオポル ト・ モーツァル トの「バイオ リン奏法J(1756、 邦訳 は 全音楽譜 出版社 か ら第 3版 が1998に 刊行)と あわせて、 3大 教則本 として有名である。 そのほ か、 ヨハ ン・ ′ ソー ドリヒ・ アグ リーコラの『歌唱芸術 への手引 きJ(1757、 邦訳 は春秋社 か ら 2005年 に刊行 )な ど、 この頃多 くの音楽啓豪書が出版 されて い る。 `「 みずか らの確固 として不変 の音楽上の趣味 を満足 させ るため、音楽活動のあらゆる細部 にわた 「啓蒙主義の都市 と音楽』p274。 るまで、ほとん どものに憑かれたような統中1を 行 なったのである」 - 8 - 味 での 「批判 Jが 音楽 の領域 では どの よ うに起 こったのか、 そしてそれ は古代 や中世 に見 られ るよ うな音楽理論 とは どのように異 なって い るのか。 (1)理 念に従 った音楽 の分類 音楽 が教会 か ら解放 され、 さ らにはテキス トか ら解放 され、種 々の器楽 曲が 演奏 され るようになったバ ロ ック時代 には、古代・ 中世 を支配 して きた ピュタ ゴ ラス 的な比例 と古 代 ギ リシ ア的ない しは中世 キ リス ト教的 な字宙観 に基 づい た音楽理論 は通用 しな くな り、新 しい音楽分類 とそのための理念が必要 とされ るようになった。 それはち ょうど、ルネサ ンスか らバ ロ ックヘ の新 しい学問 が芽生 えつつ あっ た転換期 に生 きたRベ ーコン (1561-1626)が 、 『大革新 Jの 第 1部 『学問 の尊 厳 と進 歩 J、 第 2部 『ノゾム・ オルガメ ムJ(新 しい学問組織体系)に おいて新 しい学問体系 や方法論 な どを提示 しようとした ことに似 てい る。 ベーコ ンが学 問体 系 をや り直 そ うとした意図 は、 自然 の光 によって 「知識 の限界 と目標 」 を 照 らし出 しなが ら 「自然 の解明Jを 行 な うこ とにあった。すなわ ち、 ここには 既 に 「啓蒙Jと い う言葉 の語源 である 「光 による照明」 とい う考 えが現 れてい る し、 また F知 識 の限界 と目標」 とい う考 えにはカ ン トの「純粋理性批判 Jの 考 えも現れ て い る。 ベーコ ンはイギ リス経験 に属す る人 物 だ とみ なされている が、単 に綱 験 に依拠 すれ ばよい と考 えて い るので はな く、 ただ ひたす らに経験 に頼 るのではな く論理的必然性 をもった方法 が必 要だ と考 えていた。文芸復興 の潮流 の中で15世 紀 のプ ェネ ツィアでは じめて印刷 されたプリニ ウス (23-79) の『 自然誌』 は、 1601年 にイギ リスで英語訳 が 出版 された。 ベーコ ンはプ リニ ウスの『 自然誌』 に触発 されなが らも、単 にプ リニ ウスの よ うに様 々な知識 を 集積 す る ことを目指す のではな く、知識 の無限の拡散 につ なが る恐れがない よ うに、集 め られた ものをいか に整理 して保存 し、必要 な ときに取 り出せ るよう にす るか とい う問題 に取 り組 んだのである 5。 この よ うなベー コ ンの学問分類 の考 えは、や がて音楽 にも波及す る。すなわ ち、様 々な種類 の音楽 を体系的 に整理 しよ うとす る試 みが現れ るのである も ちろん、 ベーコ ンに先 ん じて古 くはプ リニ ウス にも 自然 の収集 と整理 は行 なわ 6。 ° 拙論「Rベ ーコンにお ける自然の解明 と職人技術」(いよ 論集J静 岡大学人文瓢 58-1、 20089 参照。 6醸 劃 ドイツ・ パロ ック機 論 1650∼ 1750年 頃の ドイツ音楽理論 における器楽のタイ ― ボロジーJ(慶 応義塾大学出版会、2005) に、 プレ トリウス、キル ヒャーな ど前史的な音楽分類 力鑓 べ られてい る。 - 9 - れてお り、音楽 にお いて も分類 の試み はあった。問題 となるのは、分類 におけ る基準 となるものが、分類 される当のものの本質の理念化 にどれほど深 く関わ っ ているか とい うこと、 そ してその よ うな試み が求め られ るのは何 よ りも、新 し い ものの胎動 に突 き動 かされて これ までのものをもう一 度見直 さなければな ら ない とす る発展 的意識 に基 づい て い るとい うことで ある。 このよ うな問 い は、 わか りやす い言 い方 をすれ ば、伝統的 な音楽 の理念 が衰 退 し、新 しい音楽 が生 まれつつ あるときに、理想 とす べ き音楽 とはいか なるも のかを改 めて問 い直す とい うことで もある。 かつて 自由七科 の一つ と考 えられ _ て きた音楽 は、 ル ネサ ンス以降の宗教音楽 と世俗音楽 の融合、舞踊伴奏 のため 「理想 とすべ き音楽 とはいかなるものか」 とい う問 い の器楽使用 な どによって、 が必至 になった ことを意味 してい る。 と同時 に、音楽 の市民化や公共化 に伴 って、 自由 な音楽批評 が可能 になって きたこととも関係 して い る。 この ような市民的 な音楽批評 を押 し進 めたのは既 に触 れたように、宮廷 に閉 じ込 め られてい た音楽が楽譜 を通 じて ヨーロ ッパ に 広 く行 き渡 るようになった こと、公開演奏会 が行 われるようになった こと、音 楽批評誌 が登場 した ことな どを要因 とす るが、特 に音楽批評誌 は音楽 につい て 批評的 に語 るわ けで あ り、音楽 を聴 く楽 しみだけでな く、 それ を反省 し意識化 して語 る楽 しみを作 り出 した 7。 その よ うな試 み を代表 す るもの として、 ここで は まず ヨハ ン・ マ ッテ ゾン (」 ohann Matuleson、 1681-1764)を とりあげたい。 ハ ンブル クで生 まれ育 っ Critica Musica"(音 楽批評)を 刊行 し、 ミッツラー たマ ッテゾンは1722年 か ら “ (1711-1778)が これに続 いて “Neu er OfFnete muSkaLsche Biblotllek"(新 音 楽文庫 )を 刊行 した。 マ ッテ ゾンは、 これ に先 立 って都市 における新 しい音楽 Das erOfFnete Orchestra"(新 しい オー クス トラ、 1713)に お の息 吹を背景 に “ いて、音楽 の分 類 を試みている。その第 2部 で作 曲の仕方 について述 べ てお り、 特 に第 4章 で様 々な種類 の音楽 の違 い について述 べ る。 マ ッテゾンは、さらに “ Das Forschcndc Orchcstrc"(オ ー ケス トラ研究、1721) 「 の第一部 で 感覚 の復権、 または感 覚 の質 の擁 護」 について述 べ る。音楽 に関 す る 「感覚 の復 権Jが 意味する ところは、 一 言 でいえば音楽 の ピュタ ゴ ラス的 比例理論 に対する批判 である。 ピュタ ゴ ラス以来 ブィンチ ェン ツォ・ ガ リンイ 7サ ロン 文化 もそうした批評的語 りの場 ではあったが、それは限 られた少人数の世界であ り、その 意味ではそれまでの宮廷文化の延長 にあるとも考 えらわヽ 批評誌の よ うな多数の人 に開 かれた批 評 とは異 なる面 ももっている。 - 10 - (1520?-1591)に 至 るまで音楽理論 の基本 は比例 にあった。 ところが、イタ リ アでは ローマ に居住 したスウェー デ ンのク リス トリー ナ女 王のアカデ ミーが も とになって1690年 に ローマ で倉」 設 された 「アルカデ ィア・ アカデ ミーJに おい て、 このよ うな比例 に基 づ く音楽 に対 して反 対 の立 場 を取 った8。 この アカデ ミー には、 スカル ラ ッティ父 子、 コ ンル リ、 ヘ ンデル も参加 し、 マ ッテ ゾン も AHstosseno Juniorと い う名で これに参加 していた。 また、 マ ッテ ゾンは本来 は 外交官 で あ リイギ リス大使 の秘書 にな り、 またイギ リス人 と結婚 してお り、イ ギ リスの経験論的立場 も理解 して い た。 さらにマ ッテゾンは、それ ら書物 の集大成 とでもい うべ き “ Dcr volkOmmene Capclhneister"(完 全 な楽長、 1739)を 著す。 そこでは、 そもそも音楽 とは何 か 「音楽 とは、巧み で快 とい うことへ の反省的意識か ら、次 の よ うに述 べ て い る。 い響 きを思慮深 く配置 し、響 きを相互 に正 しく組み合 わせ 、好 ましい ものへ と 完成 させ るよ うな学 問 で あ り技術 であ る」(Musica ist eine WIssenschafFt und ICunst gesclllCkte und angcnehme Klange kluJch Zu ste■ en,richig an cinander 第 1部 第 2章 15)。 また、序論 「第 7 章 Von der Melodlc und HarmOme」 (旋 律 と和声 につい て)で 、 「旋律 は和声 か べ ら生 じる きであるとい う考 えは、誤 った ものであ り、誘惑的であ り有害 なも zu mgcn,und Leb■ ch hcraus zu brmgen、 ので ある」(Da3 dlc Melodie aus der HamЮ nie entspingen sol,ist ein falsche■ 述 べて、さらに第 2部 「第 5章 (良 い旋律 を作 る技術 について)で verfuhrerlschcr und schadlicher Satz,7-22)と Von der Kunst eine gutc Melodie zu machen」 も、作 曲の基礎 は旋律 で あるとして和声 に対 して旋律 の優位 を述 べ ている (2 -5-5,2-5-26)。 (2)シ ャイベ によるパ ッハ批判 マ ッテ ゾンが音楽理論 に関 して この よ うな活躍 を見せ て い る頃、市民文化 が 早 くか ら花開 い たハ ン ブル クに、 ライプツィヒで生 まれた ヨハ ン・ ア ドル フ・ シ ャイベ (1708-1776)が や って くる。 そして、 マ ッテ ゾンやテ レマ ン と知 り 合 い にな り、彼 らの支援 を受 けなが ら、 シ ャイベ は翌 1737年 か ら1740年 まで隔 週 で音楽批評誌 『批判的音楽家』(Der c五 tische Musikus)を 刊行 した。その「批 8マ ッテゾンつ cr vllnkom nene capenmeisteF序 論の「第 6章 Von der mus:kalヽ chcn Mathematikl では、 「精神 としての魂 力動 かされるは感覚的にである。 どの ようにしてか ? 音 自身 によって でも、 また音 の大 きさや形態だけでな く、 その巧みヽ 常 に新 しく響 き、尽 きることのない音の つなが,に よってい delal g.・ sno mmernell― .― 綱 硼匈 』 両 唾 … であるJ、 と述べている (6-17)。 - 11 - Z… 0 判的音楽家』(第 6号 、1737年 5月 14日 )で シャイベがバ ッハ を批判 し、修辞学 者のヨハン・ アプラハム・ ビルンバ ウム (1702-1748)が 反論 し、両者 の間で 論争があったことは広 く知 られているところである これを若 きシャイベの勇み足 と考えることは容易であるが、ここではまずマ ッ テゾンもシャイベ も使用 していた 「批半J」 とい う言葉 に注 目してみたい。 シヤ 9。 イベのみならず、既 にマ ッテゾンも雑誌 に「批判」 とい う言葉を使用 してお り、 「批判」とい う言葉が音楽 に対する反省的意識化が雑誌 とい う市民 に開かれた形 で行われ始めた ことを示 している。 さらに、 シャイベがやってきたライプニ ッ ツには、啓蒙的 自然法学者 の ゴ ットシェー ト (1700-1766)力 Sお り、彼 は Versuch einer kritischen Dichtkunst fur die Deutschen"(ド イツ人のための批判 “ 的作詩法 の試み、1730)を 書いていた:1734年 からライプツイヒ大学で詩学 と 哲学を教 えていたゴ ットシェー トは、 フランス趣味を手本 としつつ ドイツのパ ロック風の詩を批判 し、作詩法の改革 を提案 していた人物である。また、 ゴ ッ トシェー ト自身がヘンデルとテレマンを最 も優れた ドイツ作曲家 と考 えてお り、 シャイベは音楽 に関 してもゴットシェー トの影響 を受けてテレマンのもとでバ ッ ハ批判 を書いたと思われ る。 シャイベはゴ ットシェー トのように新 しい音楽 の あり方を批評雑誌を通 して市民に問いかけながら、バ ッハ音楽の批評を試みた のである。それは単なる若者 シャイベが勢いに任せてバ ッハ を批判 したとい う ようなものではな く、ライプツィヒ大学で ドイツ語による講義を宣言 しドイツ 啓蒙の父 と呼ばれるようになった トマジウスやプォルフ、そしてゴ ットシェー トたちライプツィヒに関わる啓蒙主義の流れが生んだュ象の一つ といえ ょう。 では、テ レマ ン とパ ッハ とい う対立 にお いて、 シ ャイベ は何 を批判 してい た のか。 まず、シャイベ はパ ッハ を否定 したわけではな く、彼 を ドイ ツの優 れた 作曲家 として高 く評価 して い た ことを確認 しておかなけれ ばならない。 シ ャイ ベ によるパ ッハ批判 は、批判部分 だけに焦 点 があて られがちで あ るが、批判 に 先 立 つ部分 ではパ ッパ を高 く評価 して い る。続 く批判部分 で は、次 のように述 べ てい る。 「この偉大 な人物は、もしもっと快適で、ごてごてと飾 り立て混乱 した複雑 な や り方 (durch ein schw01sdges und ve■ vorrenes Wesen)に よって 自然 をは く 奪 し (das Naturliche entzOge)、 過剰すぎる技巧 によって 自然 の美を曇 らせ隠 す (lhre schonhcit durch allzugrosse Kunst verdunkelte)こ とがないならば、全 '本 村佐千子 「シャイベによるパ ッハ批判再考」(「 転換期の音楽J、 音楽之友社、2002)参 照。 12 - 国 の讃嘆の的 となって い たであろ う。彼 は指 によって判断す るか ら、彼 の作品 はいたるところで演奏 困難 で ある。 なぜ な ら、彼 は歌手や演奏者 に、彼 がクラ ブィアで演奏 で きることをそのまま彼 らの喉や楽器 によって行 なうように求 め るか らである。 しか し、 それ は無理 で ある。す べ てのや り方、すべ ての装飾、 そ して人 々が奏法 のもとで演奏す べ きと理解 して い るすべ てを、彼 は 自分 の記 譜法 で表現 し、 それによって彼 の作品 か らは和声 の美 しさがな くな り、歌 が全 く聞 き取れな くなってい るのである。(注 :す べ ての声部 は相互 に同 じよ うな重 要 さで機能す るので、人 は主声部 (=旋 律)が わか らない (man erkennet darunter kcine Hatlpts― c)の である。)」 ここには、複雑 なポ リフォニ ーではな く、旋律 を基礎 として人間の感性 に訴 える 自然 な音楽 を理想 とする姿がある。 それは後述 する よ うなル ソー にも通 じ る音楽 の理想の先取 りで もあ った。 (3)ク ヴァンツによる音楽 の分類 と「よい音楽家、 よい音楽の見分 け方 」 次 に、既 に触 れ たクヴ ァン ツの『 フル ー ト奏法試論』 に日を向 けてみ よう。 室内シ ンフォニ アが次第 に大 きな編成 のオー ケス トラに変 わるに伴 って、 それ まで使用 されて きた リコーダーは よ り大 きな音 の出 るフル ー トヘ と移行 したが、 この書 には 「バ ロ ック音楽演奏の原理 Jと い う副題 があるように、 その奏法 に ついて書 かれた本 である。最後 の第 18章 では 「よい音楽家、 よい音楽 の見分 け 方Jと して、 当時の音楽 には どの ようなものがあ り、 それぞれのタイプに応 じ た よい音楽 とはどの ようなものであるかについて述 べ てある。 そこでは、 まず音楽 の質 全般 について次 の よ うに述 べ られてい る。 「音楽 とい うもの は、…一定 の規則、 そ して多 くの経験や練習 によって得 られ 且 つ 洗練 され た良 い趣 味 に従 って判 断 され な けれ ばな らな い もので ある」 (§ 7) 「音楽 を評価 しようと思う者 は、理性、よい趣味、技術に関する規則 を認識す る為 に充分努力 しなければならないJ(§ 9) ここで も 「良 い趣 味Jと 関連 づ けて よい音楽 が説 明 されて い る。 また、良 い演 奏 には変化 が必 要 であ り、 フォルテ とピアノを交替 させ なが ら音楽 の「光 と影 J をはっき りさせ ることが求 め られてい る。逆 に悪 い演奏 とは、同 じ色合 いで ピ アノ とフォルテの交替 もな く、 また頼 まれて人のために歌 った り演奏 した りし てい るように 自 ら心 を動 かされ ることな しに冷 たい感 じで演奏 するような場合 である。 この ような悪 い演奏 の場合 には、聴衆 は楽 しむよ りは睡魔 におそわれ、 -13- 「光 と影」を明 曲が終わ ると喜ぶ とい うことが起 こってしまう、 と述べてい る。 確 にする ことはンオポル ト・モーツァル トも求めていたことであり、マンハイ ム楽派 のデュナミークの表現技法 にも通 じることであるが、1750年 頃 には 「光 と影」を明確 に示すことによって誰 にでも簡単明瞭 にわかる音楽が求められる ようになってきたことを示 している。 また、 よい演奏 のためには音楽の分類について知 り、それぞれの特性 にあっ たような演奏が求められる。クプァンツはまず 「音楽 とい うものは、声楽山か 「声楽曲は教会 か劇場 か室 内かのいずれかの為に 器楽曲かのどちらか」であ り、 「器楽曲は、 これらの三つの場所 のどこででも演奏されるも 作 られているJが 、 のである」 とする (§ 詳細には触れない。 ) 18)。 (さ らに細かい分類が続 いているが、 ここではその (4)ル ソー と音楽の啓藤 クヴ ァンツがプロイセンで音楽の分類や よい音楽 とは何 かについて記述 して いる頃、パ リではルソーが精力的に音楽論を展開 していた。ルソーがラモーを 批判 したことはプフォン論争 とい う名 とともに広 く知 られてい るが、 ここでは イタリア音楽 とフランス音楽 をめ ぐる論争には立ち入 らず、啓蒙思想家ルソー が音楽 をどのように考 えていたに焦点をあてたい。 ルソーは少年時代にジュネ‐プで トリノの官廷楽団の演奏 に触 れ音楽 を学 び ラモーの「和声論』 などの音楽理論を吸収 しながら、1743年 にパ リで「近代音 楽論究』を出版す る。 また音楽家 としては、1745年 にオペ フ『優雅 な詩の女神 たち』 を完成 し、その一部 をラ・ ププリニエールの私邸 で演奏 している。 この ときのラモーによる厳 しい批評など、ルソーはラモーによって音楽家 としての 行 く手を塞 がられるような思いをする。 しか し、ル ソーの作曲 したい くつかの 曲はコンセール・ スピリチュエルで演秦 された。1749年 に『百科全書』 の音楽 に関連す る項 目を執筆 し始め、1750年 の「学問芸術論』 の出版 によってルソー の名は広 く知 られるようになる。さらに、1753年 には『フランス音楽 に関す る 手紙』を出版 し、既 にできあがっていた『音楽辞典』を1767年 に刊行 している。 このような音楽 に関す るルソーの活動の中で、 ここでは「近代音楽論究』 と 「音楽辞典』 を取 り上げてみたい。 「近代音楽論究Jで は、 それまでの複雑 な記 譜法に対 し、誰でも簡単に習得で きる記譜法を提案 しているが、その中でルソー 「音楽 は理性的活動 の友」 は次のような興味深 い言葉を記 してい る。す なわち、 であるにもかかわらず、音楽の喜 びが冷静さを失わせるためか、あるいは音楽 -14- 家 があま りものを考 え る人 たちではないためか、 これ まで音楽 は考察 の対象 に なって こなかった学問 の一つで ある、 そして音楽 の習得 には大変手間 がかか る とい う問題 が あるにもかかわ らず、 その問題 の原 因を明 らかに しようとして こ なかった、 自分 は ここで規則 を簡略化 して、誰 で もす ぐに楽譜 を見 て歌 えるよ うに したい、 とい うので ある。 ここには、一般的 には感性的対象 で あると考 え られ る音楽 を、 その内的構造 を論理的に把握 し、原理 に従 って整理 しようとす るル ソーの姿 が うかがえる。 音楽論 の集大成 ともみ なす べ き F音 楽辞典』 には音楽 に関する多数 の項 目が 記載 されてい るが、その中か ら重要 と思われるものを抜 き出 してみ よう。 まず、 ル ソー は音楽 を 「音 の組み合せ の芸術」 と考 え、組み合わせ の原理 とその効果 の究明は深 い学問 になる とい う。 それは音楽 の理 論 であるが、実践的 には、音 楽 の理 論 をい か して具体的に適用 して よ り効果的た らしめるか とい う技術であ り、すなわち作 曲法 である。演奏 は音 の産 出に関す る機械的操作 である。 では、 どの ようにすれ ばよ り効果的な作 曲が可能 となるのか。 ル ソー は、す べ ての芸術 は精神 に喜 ぴを与 えるが、 そのためには対象 は統 一性 を持 ってい る 必要 が あるとい う。 なぜ なら、対象が分 散 して い るならば、注意 が分散 し、落 ち着 かず、精神 的 な満足 が得 られない か らである。 では、音楽 にお ける対 象 の 統 一性 とは何 か。 ル ソー は二つ の ことを考 えて い る。 一つは、UNITЁ DE MЁ LODIE(旋 律 の統一性)の 項 目で説明されてい るよ うに、様 々な声部 が同時に響 く際 に、それらが互いに障害 となって混同するの ではな く、逆 にそれぞれが協力 し合 って結合された声部が一つの歌 になって間 えて くるよ うな場合 である。 これが「旋律の統一性」 と呼ばれるものであ り、 自然の美 しさが曇 らされ、主声部が間 き取れ ない とい うシャイベのバ ッハ批判 と共通す る考 えをみることができる。 またもう一 つ の統 一性 について、ル ソー はDESSEIN(構 想)の 項 目で次 の よ うに述 べ てい る。構想 において重要 なのは、美 しい旋律や和声 を作 るだけでは 十分 ではな く、各声部 が主題 に関係 し、旋律 や和 声 が主題 に結 びつ けられ、曲 の流 れ全体 が主題 にお い て一つ になって い なけれ ばな らない。す なわち、 曲 に お ける音楽的 なものす べ ては、曲を統 一 す る共通 した想念 に関連 して い な けれ ばな らない とい うので ある10。 今 日のわれわれ に とって この ことは当 た り前 の ように見 えるが、様 々な事 柄 Ю 我々はここに、主題 のもとに楽山を統一的 に構造化す る「ソナタ形式」の出現 を垣間見 ることが できる。 -15- を集め記述す るのがプ リニ ウスの 自然誌 の考 えであ り、 ベーコ ンが原理的 な分 類・ 整理 を求 めた とするな らば、 ここでル ソー が述 べて い るように諸契機 が全 体 にお いて統 一 されてい ることを求 めるような思考 は、 まさに百科全書的 であ る。 とい うの も、百科全書 Encyclopё dieと は知 の並列 ではな く 「知 (paideia) を円環 (り cle)化 す ることJだ か らである。すなわち、百科全書 は単 にAか ら Zま での項 目を羅列 す るので はな く、 それぞれの項 目が相互 に どのよ うに結 び 11。 ル ソー も『音楽辞典』 にお い て しば しば他 付 いてい るかを示 す ものである の項 目へ の参照を指示 して い る。 ダランベール と共 に百科全書 を出版 したディ ドロは、 1754年 に58の 断片 か ら 然 の解釈 に関す る思索 J(Pencё es sur rintcrprё tation de h nature)を 出版 したが、 その中で 「すべ て は、感覚 か ら反省 へ、 そ して反省 か ら感覚 へ と なる F自 往来す ること、す なわち絶 えず 自己へ と立 ち帰 ると同時 に 自己か ら出てゆ くこ とに帰着す る」(Tout se rё duit a revenir dcs scns a la rё nexion,et de la r6■ αおn 断片 9)と 述 べ ている。 自己か ら出てゆ き様 々な経験 を経 て 自己 に立 ち帰 る運動 、これはやがてヘーグルによっ てエンチ ュク ロペ ディー として体系化 され る。音楽 にお いては、 それはヘー ゲ aux scntt rentrer en soi et en sordr sans cesse、 ル と同年 に生 まれたベー トー ヴ ェンによって完成 された ソナタ形式 における 2 つ の主題の展開 と再現 とい う論理 で もあった。 3 シンフォニーの形成 と啓蒙 オペ ラ・ シンフォニ アが室 内 シンフ ォニ ア、 そ して交響 曲へ と発展す る過程 は、啓蒙時代 にお ける自律 的音楽 の生成過程 として捉 え られ るが、 それ はオ ペ ラ・ シンフ ォニ アにお いて連続 して演奏 される 3部 が次第 に独立 した楽章形式 を取 り、 さらに第 1楽 章 が ソナタ形式化 してゆ く過程、すなわ ち 「知 の 円環化」 としての百科全書 と同様 の論理 をもつ、楽章全体 が主題 を中心 として展 開 。再 現 されて円環的な統 一性 を獲得す る過程 であった。 1700年 代 において、儀式 における道 具的音楽 ではな く、音楽 その ものを聞 く ために人が集 まる公開演奏会 自体 が市民 の間 に広がった ことは、既 に述 べ た よ うに啓蒙 が含 んでい る公共性 や 自律 とい う理念 と関係 す るが、 自律的音楽 にお いては音楽 を聴 くことは娯楽的で はな く、人間 の人 間性 を陶冶 し自律化 を促 し H拙 論 「 『百科全書Jに 見 るartと 職人技術J(r人 文論集』静岡大学人文学部、60-1、 2119)参 照。 -16- て人間 を自己完成 へ と導 く手助 け とならなければならない。啓蒙 における 自律 は、 ル ソー的 に言 えば、人間の自由意志 と自己完成能力 に裏付 けられたものに ほかならない。 音楽 が感性 的な楽 しみであるだけで な く、精神 的 な内容 の思考媒体 となるこ とが どの ような歴史過程 を経 て可能 になったのか、 それ を以下 において1700年 代 中頃 のシ ンフォニ アが ソナタ形式のような有機 的な統 一性 を獲得す る過程 と い う観点 か ら考 えた い12。 この時代 は音楽史的 には、 バ ロ ック期 と古典期 の狭 間 として扱われるか、前古典派 として扱われ るが、啓蒙思想 を背景 にした音楽 の 自律化過程 として極 めて重要であると思われ る。 (1)始 ま りとしてのイタ リアのシンフォニア 古代 ギ リシ ア に起源 をもつsymphOniaと い う言葉 は時代 によって その意味内 容 を変 えなが ら受 け継がれ、 バ ロ ック時代 に至 って もその意味す るところは曖 昧 なままに とどまっていた。多様 な意味をもつ シンフ ォニ アが次第 に今 日の交 響 曲の ようなスタイル ヘ と発展 したのは18世 紀 の ことである。 その始 ま りはイ タ リア にあった。 イタ リア風序 曲 と呼ばれ るオペ ラ・ シンフ ォニ アのスタイルを確立 したのは、 ナポ リのAス カル ラッテイ (1660-1725)で あ り、 それを演奏会用 の室 内 シン ・ニ ヘ と進 めたのは ミラノのサ ンマル ティー ニである ここにオペ ラか ら フォ ア 。 ′ は独立 した器 楽 シンフ ォニ アが生 まれ る。 オ ペ ラの始 ま りを飾 る一つで あるモ ンテブ ェル デ ィのオ ペ ラ『オル フェオ』 (1607)の 場合、序 曲 トッカ ー タはわずか16小 節 であった。 そのお よそ100年 後 ramor volublle e tiranno"(1709)で は、序 山 シ のAス カル ラ ッティのオペ ラ “ ンフ ォニ ア は教会 ソナタ風 か ら借 用 したPresto Andante Allegrissimoの 3部 形 式 を とってい る。 17小 節 か らなるその第 1部 はF‐ durか ら始 ま り属調 のC‐ durで ・ 終 わ る。 Memet"の 序 曲 SinfOiaは 、 Presto‐ 1732年 のサ ンマル テ ィーニ のオ ペ ラ “ Andante Presto ma non tantoと い う 3部 である。 このシンフォ■ アを古典派 に お ける ソナタ形式 と比較 す るために、 よ り詳細 に検討すれ ば次 の よ うになる。 第 1部 は ‖ 24小 節 ‖ 肝 33小 節 ‖で、後半 33小 節 は12小 節 (B)+21 2た だし、残念 なことではあるが、主 として入手可能 な楽譜の都合上、取 りあげるものについては 限 りがあ り、あ くまq列 としてはどの意味 しかもたせ ることができない。なお、 ここで検討 した シンフォニーの楽譜の多 くは、IMSLPに 拠 っている。 - 17 - ″ )の A― B― ″ とい う3部 形式 になっている。A部 分 ではちょうど中 小節 〈 A‐ durか らその属調 のE‐ durへ と転調 して、そのままBに 入る。つ ま り、 ソ で 間 ナタ形式でいえば、提示部 ―展開部 ―再現部、さらに提示部 の第 1主 題 と属調 の第 2主 題に似た構造を取っている。 これはいわゆるダ・ ヵ―ポ序曲と呼ばれ るものであるが、 ここにソナタ形式の萌芽 をみることができる。 以上のようなオペ ラの序 曲であったシンフォニアは、単にオペ ラの始 まりを 告げる役割 ではなく、それ独自の音楽的な内容を獲得 して自立化することでシ ンフォニーヘの道 が開かれる。 ここに、 コレル リやヴィプァルディの合奏協奏 由における、 ソロとトゥッティなどの音響的対比効果、第 1主 題 と第 2主 題 と い う音楽内容 の対比効果などがシンフォニアに持ち込 まれる。 また、オペ ラ・ シンフォニアが室内シンフォニアヘ と進んだ理由の一つ とし て、オペ ラ上演 にかかる費用 に対 して、独立 した室内シンフォニアは演奏者 の 数や経費があま りかからないとい う、音楽外の経済的理由もあった。ナポ リを はじめとする公開劇場でのオペ ラ上演だけでな く、 ミラノなどの私邸では手軽 に楽 しめる室内シンフォニアが盛んに演奏されていた。そして、それらの楽譜 は、パ リなどからの出版、あるいは写譜 によ り、ヨーロッパに広が り、ヨーロ ッ パ各地 でシンフォニアが演奏されるようになるのである。そこで、次 に、 フラ ンス、ウィーン、 ドイツ、ロン ドンにおけるシンフォニアの様子をみてみよう。 (2)フ ランスのシンフォニア ー般 に「イタリア風序 山」 とい う名 は「フランス風序曲」 と対比 して用い ら れる言葉である。 フランスのオペ ラを確立 した リュ リが示 したのが緩 ―急 ―緩 の 3部 形式による「フランス風序曲」である。 リュ リの代表作 で もある『町人 貴族』 の序曲は13小 節の緩、36小 節 の急 の 2部 からなっている。第 1部 に類似 する部分がこれにカロ わわれば 3部 構成 になる。 「町人貴族Jの 場合、第 2部 は 6 いフー ガで 1部 /4拍 子の早 も符点がち りばめられて対位法的に作 られて 、第 いる。 これをラモーのオペ ラ『イポ リットとア リシー』の序曲と比較 してみよう。 この序曲は、第 1部 が符点が多用 されるゆっくりとしたLargeの 14/」 ヽ 節部分 と、 第 2部 がフーガによる速 い宙teの 48小 節 によってで きてお り、構成上 は リュ リ のものとあま りかわらない。音楽的には、 リュ リのものがコメディ・ パレの始 まりを告げる序曲的意味が大 きかったのに対 し、 ラモーの方が音響やモチーフ の扱いがよ り音楽的に充実 したものになっている。 -18- サ ンマル ティーニ の楽譜 はパ リか ら出版 され、 1700年 代前半のパ リではイタ リア・ シンフ ォニ アが輸入 されて演奏 されて い た。演奏 されて いた場所 は主 と してパ リであ り、 1725年 に創設 された コンセール・ ス ピ リチ ュエルな どであっ た。 コ ンセール・ ス ピ リチ ュエ ルな どの公 開演奏会 ではイタ リア・ シンフ ォニ アのほかに、次第 に ドイツ、オ ース トリアの作 曲家 による作品 も演奏 されるよ うになったことは既 に述 べ た力 フランス人 によるシンフ ォニ アない しシンフォ ニーは どうだったのであろ うか。 当時の フランスのシンフ ォニー作 曲家 として '、 最 も有名 なのは、 ベル ギー生 まれで1751年 にパ リに出て ラモー の紹介 で ラ・ プ プ リニエールの楽団指揮者 にもなった 「フランス交響 曲の父 」 とも呼ばれ るゴ セ ック (1734-1829)で あろ う。彼 は1770年 に コンセ ール・ デ・ ザ マ テール を 創設 し、 さ らに コ ンセ ール・ ス ピ リチ ュエ ル を再編 し自ら指揮者 として精力的 にハ イ ドンの交響 曲をパ リに紹介 した人 物 で もある。 彼 は1760年 代 にい くつ かのシンフ ォニ ー と名がつ く作品 を作 った後 に、 1770 年代 に入 って交響 曲第 1番 を作 曲 し1774年 に出版 してい る。曲 は 3楽 章形式 で あ り、192小 節 か らなる第 1楽 章 は、A(1-34小 節 )― B(35-126小 節 )― バ (127-179小 節 )― Coda(180-192小 節 )の 3部 形式 となってい る。中間部 の Bは 、 10小 節 ほ どの単位 の変奏 にも見 え るが、 特 にその後半 は一般 的な ソナタ 形式の展 開部 の ように、 リズム的展開、和声的展開が行われてお り、91小 節 か ら和 音進行 はF→ D→ B→ D→ g→ D→ gと な り、 さ らに102小 節 か らバス の リズ ム に促 されてDか らG、 Gか らC、 Cか らF、 Fか らBへ と変化 し主調 に戻 る。 こ の よ うな展 開 は、 モー ツ ァル トの ソナタ形式 における展開部 を連想 させ る。 しか しなが ら、 ゴセ ックの曲は、 ラ・ ププ リニエールの楽団や コ ンセール・ ス ピ リチ ュエ ル などで マ ンハ イ ム楽派やハ イ ドンのシンフ ォニー な どを指揮 し なが ら作 った ものであ り、彼 らの影響 を多分 に受 けたものだ と考 えられる。1700 年代 の フ ランス音楽 は、 イタ リアや ウィーン、 ドイ ツの音楽 の演奏や出版 な ど の集積場であ り、 それ らの活動 を通 して次第 にルイ14世 のヴ ェルサ イユ におけ るフランス風 の音楽 か ら解放 されてゆ く時期 だった と見 ることがで きる。 (3)ウ ィー ンのシンフォニー イタ リア・ シンフォニ アか らシ ン フォニーヘ の転 換期 で ある1700年 代 中盤の ウィーンは、ハ イ ドン とモー ツァル トが登場 す る直前 で あ り、 この時代のウィー ンの音楽 を代 表 す る作 曲家 は プ ァー ダ ンザ イルや モ ンたちである。 ここでは、 ヴアー ゲ ンザイルの1746年 のD‐ durの シンフ ォニー (WV368)を 例 に取 ってみ -19- よう。 この曲 は 3部 形 式 で、第 1部 は72小 節 か らなって いる。 トランペ ッ トや ヴァイオ リンの使 い方 か らみて も、 あるいは音楽 の形式か らみて も、 オペ ラ・ B。 ここで、本来 な らばさら シ ンフ ォニ ア との連続性 を感 じさせ るものである べ にモンや レオポル ト・ モー ツァル トについて も検討す きなのであ ろ うが、紙 面 の都合 上省略 したい。 (4)ド イツのシンフォニー ドイ ツのシ ンフ ォニ ■ については、何人 かの作 曲家 を取 りあげてみたい。 ま ず、C PEバ ッハで あるが、彼 は1738年 にプロイセ ン官廷 でチ ェンバ ロ奏者 と な り1740年 に官廷楽団員 になったが、 1767年 のテ レマ ン死 亡 によるハ ンブルク ヘ の転出までの間 にい くつ かのシ ンフォニー を作 つた。その 中のD dur(H651、 Wq 176、 1755)は 、AlegrO assai‐ Andantc Prestoの 3部 形式 であ り、第 1部 け 98小 節 で、完全終始 で はな く第 2部 につ ながる。 つ ま り、楽章 としての独立性 を保持 してお らず序 曲風 で あ る。 その第 1部 Alcgroは 、A(1,28小 節 )― B (28-67小 節 )― バ (67-98小 節)の 3部 形式 で あ る。曲冒頭 で示 され るテーマ は リズムの明確 な上行音型 であるが、 12小 節 ではなめ らかな下行音型の第 二の テーマ が現 れ、二つの主題 の対照 は明確 になって い る。楽器 も、前者 はティ ン パ ニ を用 い た序 曲風 であるが、後者 はフル ー トを用 いて メ ロデ ィカルである。 しか しなが ら、中間部 Bに お いては十分 な展開 はされて い ない。 マンハ イム楽派 は ドイツのみならずパ リ、 ウィーン、 ロン ドンで も新 しい音 楽 として注目を集めた。その初期 のメンバーであるリヒター (1709-1789)は 、 1740年 から1747年 までアンゼルム・ ライヒ リン=メ ルデックの宮廷副楽長 とし て過 ごしたが、 この頃パ リで彼 の 6つ の交響曲が上演 された。 リヒターは1747 年 からマンハイムにやってきて多 くのシンフォニーを残 した。その中の 1曲 を 取 りあげるならば、 その第 1部 は150小 節であ り、完全終始 を取 らず、フェル マータを挟んで第 2部 へ と移行す る。第 1部 の構造 は、A(1-59)― B(6094)― バ (95-150)と い う3部 形式である。提示部にあたるAで はフェルマー タ後 の18小 節 に、 またバではPの デクレシェン ドの後 に115小 節にノで第 2主 題 が現れるが、第 1主 題 と対照的ではない。展開部 にあたるB部 分ではAの モチー 18大 「ツァーグンザイルの 崎滋生 は『文化 としてのシンフォニー 1』 (平 几社、2005)に おいて、 一七四〇年代のシンフォニーとされるものは、彼がほんの数年、オペ ラ作家 として活躍 した時代 ・ シンフォニアの先駆 と考えるのは当 のオペ ラ・ シンフォニアであつて、それ らをコンサー ト たっていないJと している (p98)。 - 20 - フのい くつ かを展開 して い るが十分 な展開 ではないので、 3部 形式 としての明 確 な構造 を取 りなが ら、第 1主 題 と第 2主 題の対比、展 開部 における提示部 の 展開 については十分 な発達 を見てお らず、 まさにソナタ形式 へ の途上 にある と い える。 1750 次 に、同 じくマ ンハ イ ム楽派 の ヨハ ン・ シュター ミツ (1717-1757)力 ` ニー 年代 に書 い たシ ンフ ォ 作 品 3の 2D‐ durを み てみ よう。 この 曲 はPresto‐ A記 anunO Mcnuctto‐ PrestissimOの 4楽 章形式 で、第 1楽 章 は125小 節 で、A(1 -52小 節 )― A(53-102小 節 )― ″'(102-125小 節)と い う 3部 形式 をとって い る。難 しい のは、バ が展開部的性 格 と再現部的性格 の双 方 を合 わせ もつ こと で あ り、短 いA"は 再現部的 で もあ りなが ら、実質上 は コー ダの役割 を果 た し てい る。A(37小 節 )と バ (87小 節 )に は、 一 旦終始 した上で第 1主 題 と対照 的 な明瞭 な第 2主 題 があ らわれている。 したがって、バ 部分 は提示 部 が展開 さ れた再現部 と考 えるのが妥 当だ と思われる。 また、 この曲 はダイナ ミックの変 化 が豊かであ り、聞 いてい ても楽 曲の構造 が理解 しやす くなっている。 (5)ロ ン ドンのシ ンフォニー ここまでイギ リス音楽 についてはほ とん ど触 れて こなかったが、 1700年 代の シンフォニ ー作 曲家 につい て参照 してお きたい。 1711-1779)で あるが、彼は1755年 にイギリス国 まずウィリアム・ ボイス 〈 王の音楽教師 になったが、次第に耳が聞 こえな くなった。そして、当時のイギ リスでは市民 の音楽 に対する関心が高まリオータス トラ作品を聴 く機会 が求め られていたので、それに応 じるように以前の作品から幾つかを選抜 して1760年 に出版 したのが 「8つ の交響曲」である。 作品番号 2が 付 されたこの 8つ の交響曲のうち、第 1番 から第 5番 はイタ リ ア風序曲、第 6番 から第 8番 はフランス風序曲のスタイルで作曲されてお り、 書かれた当初 は 「序曲」だったものもある。それぞれの作品につけられた標題 と作曲年を示せば次 のようになる。 第 1番 「新年 の頌歌J(1756)、 第 2番 「(王 の)誕 生 日の頌歌」(1756)、 第 3番 「花冠」(序 曲、1749)、 第 4番 「羊飼 いの運命」(序 曲、1751)、 第 5番 「聖セシ リアの日の頌歌」(序 曲、1739)、 第 6番 「ソロモン」(序 曲、1742)、 第 7番 「ピューティアの頌歌」(序 曲、1740/1)、 第 8番 「ウースター序曲」(1737?) - 21 - これ らは序曲風 で あるが、 出版 された1760年 には既 に1700年 代前半 までのよ う なオペ ラ・ シンフ ォニ アや室 内 シンフ ォニ アではな く、新 しいシンフ ォニ ア、 すなわち交響 曲のスタ イルに近 い ものが現れ始 めてい た。 そのため、聴衆 はポ イスの交響曲を古臭 い もの とみ な して演奏会 の曲日か ら外 してゆ き、 ポイス は 忘れ られた存在 となる。 「パ ッハ =ア ーベル・ コンサ ー ト」 で知 られ その頃イギ リスで活躍 したのは、 ているアーベル (1723-1787)と ク リス チャン・ バ ッハ (1735-1782)で ある。 イギ リス にお い てハ イ ドンの名 が知 られ るよ うになるのもこの演奏会 を通 して である。 アーベルのシンフ ォニー は、 それぞれ 6曲 ずつ含 まれ る作品番号 1、 10、 17で ある。作品番号 17の 第 1番 を とりあげる と、第 4、 7、 1楽 章 は114小 節 か ら なってお り、A〈 1-45小 節)― B(46-65小 節)― ″ (66-114小 節)の 3部 形式である。中間部は展開部 とは呼びに くいが、第 2主 題 〈 16小 節 と83小 節) は第 1主 題 と対照的であ り明確になっているほか、第 1主 題の提示の仕方、 3, ′ 度繰 り返される主和音による終止など、シンフォニー としてのスタイルヘ と進 んでいる点 もうかがえる。 大 パ ッハ の末息子 のク リス ティア ン・ パ ッハ は、 ベル リンの フ リー ドリヒ大 王のもとにいたエ マ ニ ュエル・ パ ッハ に引 き取 られ、やがてイタ リアでオ ペ ラ を上演 した後 に1762年 ロン ドンに移 った。少年 モー ツ ァル トに出会 うのはその 2年 後 の ことで あるが、 モー ツ ァル トは アーベル とク リス チャ ン・ パ ッハ のシ ンフォニー を聞 き、彼 らと親交 を深 める中 で 自らも交響曲の作 曲に着手 し、第 1番 を完成す る (1764/65)。 ク リスチ ャン・パ ッハ のシンフォニーはとい うと、作品番号 18の 第 2番 (B‐ dur、 IB 17、 1774)で は、123小 節 か らなる第 1楽 章 は、A(1-64小 節 )― バ (65 -123小 節)と い う 2部 形式 で、第 2主 題 が26小 節 (ま たは43小 節 )と 98小 節 に 現 れ る。 アーベ ル にお い て も第 1主 題 の提示 はノです ぐに ′になることによっ て主題 が際立 たされて い たが、 ク リス チャンにおい ても同様 であ り、 さらにメ ロディを弦 と管 との間 で受 け渡 しを した り、 フル ー トにオ ーボエ が応 える (50 -60小 節、 105-109小 節 )な ど、構成 に工夫 が見 られ る。 また、楽章 の終 止で は、主和音 を トゥッティによるノ で 3度 繰 り返 し、楽章 の独立性 を明示 してい du,W C27)の 第 1楽 章 は150小 節 か らな り、A(1-50小 節 )― B(51-84小 節 )― ″ (85-150小 節 )の 3部 形式 をとっ る。 また、作品番号 18の 第 4番 (D‐ ている。第 2主 題 は24小 節 と113小 節 に現 オ ヽ ソナタ形式 を取 つている。 この曲 - 22 - で特徴 的だ と思われ るのは、第 1主 題 の 8分 音符 のモ チー フが19小 節 に至 るま で保持 されて展開 されて い ることで ある。 その他楽章全 体 にお ける一貫性や発 展性 を聴衆 が聞 き取れ るような工夫 がい ろい ろ となされてい る。 (6)シ ンフォニアか らシンフォニーヘの発展 以上、 1750年 頃 のシンフ ォニー をい くつか とりあげて、 それをソナタ形 式 ヘ の途上 とい う観点 か らみて きた。 これ らを系統 だてて一つの道筋 の中 に埋 め込 むことは困難 であるが、 それにもかかわ らず どの よ うに して ソナタ形式 が生 ま れて きたかを考 える手掛 か りは得 られる。 まず言える ことは、序 曲であ ったォペ ラ・ シンフ ォニ アにお い ては急 ―緩 ― 急 とい う 3部 で あ って も、 それ らは連続す る一体 の ものであったが、室内 シン フォニ ア として序 曲 とい う意味 を失 って独立 した楽 曲 となるとき、 それ ぞれの 部分 が楽章 として独立 した もの と考 え られ始 める とい う ことで ある。 そ して、 楽章 として独立 した部分 は次第 に拡大 され ると同時 に、 さらにその 内部 が構造 化 され ることになる。 楽章内部 の構造化 においては、 それぞれの部分 が単 なる経過的 なものではな く、独立 した部分 として明確 になる必 要 がある。最 も早 くか ら明確化 されてい たのは主題 で あ り、 これは既 にオペ ラ・ シンフォニ アにも見 られ るもので ある。 次 に明確 になったのは、楽章 の終上部分である。 た とえば、主和音 をノで 3度 反復 して終わ る とい う手法がある時期 か ら見 られ るよ うになる。 次 に現れるのが、/と Pの 対比的使用やク レッシェン ドなどの強弱の明確化、 あるいは和声的な展開などによって多彩な変化を導入する試みである。 これに よつて一つのフレーズはまとまった部分 として輪郭 が明確 にな り、同時 にその フレーズが全体 においてどのような意味をもってい るかの位置づ けも明確 にな る。 また、 ある時期 か ら主題 と対照的な主題、今 日的 な視点 か らすれ ば第 2主 題 と呼ぶ ものが登 場す る。 そして、経過的に現 れて い た主題 と対照的 なフ レーズ は、次第 にそれが現 れ る前 に一旦終始 する ことによって新 しい主題 が始 まるこ とを明確 に告 げるようになる。 こ う して、 それは第 2の 主題 とい う位置 づ けを 獲得す る。 この ようにして、徐 々にソナタ形式 とい う体 系的統 一性 を確立 して ゆ く過程 が理解 で きるのである。 -23- おわ りに 後期ベー トープェンや シューベル トが古典主義的音楽 からロマン主義的音楽 への移行を示 してい るとしばしば語 られる。 これに対 して、パロ ック音楽から 古典主義音楽への移行 については、 クリスチャン・パ ッハやマンハイム楽派が 前古典主義的であ り古典主義の到来を告げているといわれるが、それは古典主 義を前倒 ししてその先駆 を見出 しているに過 ぎない。パロック音楽 から古典主 義音楽への移行 は、宮廷音楽 が市民社会に向かって開かれる過程 であったし、 またバロ ック時代に声楽 から器楽 が分離 し生まれた様々な器楽様式が、次第に 整理されてゆ く時期でもあった。 本論 は、多様 な側面 をもつバロ ック音楽が1750年 頃にどのように古典的様式 へ と整っていたのかを、啓蒙のもつ 3つ の観点 から考 えようとしたものである。 しかし、それは単 に歴史的分析なのではない。本論で検討 した啓蒙 の 3つ の観 点、すなわち公共性、批判、自律 は音楽 の本質 にも関わ るものであり、啓蒙思 想の影響 の中で、音楽 はすべての人が共有す る公共財 としての普遍的世界市民 的性格をもつ ようにな り、音楽 は反省的 に意識化され開かれた批評 などを通 し てその理念 が練 り上げられ、また音楽の内的構造 が有機的 に統合 され、再現部 分 は単 なる反復ではな く諸経験 を経た後に己へ と回帰する意味がもたされるよ うになった。 こうして、芸術 としての近代音楽 が成立する。 しかし、1750年 頃の前古典主義、あるいは1770年 代のハイ ドンやモー ツァル トなど初期古典主義では、ベー トープェンに比べなお不十分 な点があった。 そ れは、自己完成のために自ら理性を使用 しようする者 が経なければならない諸 経験であり、音楽でいえば主題の 「展開」である。 ソナタ形式においては主題 は展開部 において様 々に吟味 される。すなわち、啓蒙における「批判」 とい う 契機 は、単 に批評的意識、音楽 の理念化に見 られるだけでなく、主題の可能性 を音楽的 に徹底的に吟味す ることでもある。 これに着手 したのはベー トーヴェ ンであった そして、ベー トープェンの展 開部 の可能性 の追求、あるいは一 つの曲の中の複数の楽章の相互 の結 びつ きの可能性の探求 とともに、 ソナタ形 It4。 X論 者 はこの問題 を r超 越論の可能性 という観点からのア ドルノとデ リダの芸術論の比較J(平 成 17年 度∼18年 度科学研究費補助金研究成果報告書)に おいて、ベー トーツェンのビアノ・ ソナタ 第13番・ 14番 にQua"una Fantasla(幻想曲風)と い う言葉が付せ られていることを手掛か りに、 ベー トープェンカ彰 式にこだわらず自由な展開が可能 なパ ロック時代の「幻想山」を念頭 に置き ながら「ファンタジー・ セクションJと 呼ばれることもある展開部の可能性を追求 しようとして いたことを論 した。 - 24 - 式 の解体 が始 まるのである。 ピアノ・ ソナタ第 13番 は、 フェルマー タによって 各楽章 が連続 して演奏 される。それは 3部 形式 が一体 となったオペ ラ・ シンフォ ニ ア に も似 たや り方 であ り、 あたかも本論 で述 べ た ようなシ ンフ ォニ ー におけ るソナタ形式 の成 立過程 をその原点 にまで遡 ったかのよ うで もある。 - 25 -
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