Title 年金改革と保険主義 Author(s) 下和田, 功 Citation - HERMES-IR

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年金改革と保険主義
下和田, 功
一橋論叢, 103(5): 499-522
1990-05-01
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/11048
Right
Hitotsubashi University Repository
年金改革と保険主義
下 和 田 功
1 はじめに
1880年代に他国に先駆けてドイッで社会保険が導入されてから,すでに一
世紀が経過している・社会保険を取り巻く社会的経済的ないし政治的状況は,
社会保険成立当時と現在では激変しており,ドイッ社会保険百年の歴史は,こ
うした社会経済環境などの変化への適応の歴史として位置づけることができる.
しかし,他方では,ビスマルク社会保険の基本的特質は第二次大戦後は連綿
と西ドイッに継承されて,その歴史的な一貫性ないし連続性は保持されてきて
いる1)・たとえぱ,西ドイッの現在の公的年金制度の特質は,職能別多元的制
度,保険主義,自主管理,強制加入などに求められるが,これらはいずれも
1889年の廃疾・老齢保険法にその淵源を見いだすことができる.とりわけ保
険主義の重視は,ドイッ(戦後は西ドイッの)社会保険の伝統となっている.
’したがって,保険主義はドイツ社会保険の歴史やその特質を理解するためのキ
イ]ンセプトといえよう.
ところで,西ドイッでは,石油シ目ツク以後,高成長経済から低成長経済へ
の移行・失業者の急増,人口高齢化の進展などの影響を受けて,年金財政の危
. 機がクローズアヅプされてきて,1970年代後半から財政再建を中心とした藷
対策が相次いで実施されてきた2〕・しかし,超高齢社会を迎える21世紀に向け
・ て長期的に安定した年金制度を確立するためには,従来のような彌縫的な対応
のみでは不十分であって,本格的な取り組みが必要なことが広く認識されるよ
うになり,80年代中葉にはいわゆる年金制度のr構造改革(Strukturre10m)」
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一橋論叢第103巻第5号
が盛んに論議されるようになった。連邦政府も,82年頃から予算随伴法や年
金調整法,85年の遺族年金・養育期間法などにより,構造改革の試みに着手
している3).
80年代に提唱された年金構造改革案は,現行制度との連統性を維持しなが
ら犬幅な改革を行う立場から,現行制度を全廃して全く新しい制度を導入する
立場のものまで,実に多種多様であり,活発な論争が展開されてきた.しかし,
現在なお国民的コンセンサスが得られるには至っておらず,戦後最大の年金改 .
革であるアデナウァー年金改革(1957年のいわゆる第一次年金改革)に匹敵
するような大改革はいまだ実現していない.年金制度は老後の生活保障の中心
的柱であり,その改革は多数の高齢者の生活設計に直接重大な影響を及ぼすも
のであるだけに,西ドイツ最大の政治的課題の一つとなっている.
わが国では,1986年4月施行の新年金法により,全国民共通の基礎年金制
を導入する年金改革が実施された.しかし,21世紀における年金制度の全体
像が提示されないままに,性格を異にする国民年金,厚生年金,共済組合の分
立を前提にして実施された今回の年金改革も,財政対策のみが先行しており,
明確な改革の理念やコンセプトについて十分な議論が行われないままに,国民
の公的年金に対する信頼を失わせる形で押し進められてしまったといわれる4).
西ドイッの近年の年金改革においても類似の状況がみられ,基本理念や長期
的ビジ冒ンが明確にされないままに,当面の財政間題を解決するための短・中
期的な視点からの対応策が繰り返されてきたといわれる.しかし,現行制度の
問趨点を把握するためにも,各種の年金改革案を評価して,将来の問題に対応
するためにも,長期的視点に立った確固たる理念ないし原則を確立することが
必要である.このことは,社会保険のなかでも,とりわけ長期安定的に運営さ
れる必要のある年金制度にとっては重要なことである.その意味からも,シュ .
メーノレの指摘するように,百年の歴史を有するドイッ社会保険の基本原理とな
ってきた保険主義ないし保険思想に,今後実施される年金改革のなかでいかな .
る意義や役割を与えるべきかが,一つの中心的課題であるといえる5)1多少旧
聞に属するが,こうした間題意識から,1983年12月から翌年1月にかけてシ
500
年金改革と保険主義
(15)
ユメールの所属するペルリン自由大学で,学者や社会保険実務家などが参カロす
るコロキウムが開催され,西ドイッの疾病保険と年金保険の両都門における保
険主義の意義が種々の観点から諭議されたのであった6)、
本稿は,西ドイッ公的年金保険制度の戦後における保険主義の変容をみるこ
と,80年代の主要な年金構造改革論を保険主義の視点から検討することを主
な目的としている.
1) ドイツ社会保険の連続性の問題を検討した文猷としては,さしあたり以下の二文
献をあげておく.
Hans G伽ter Hockerts,Sichemng m A1t肌K㎝ti㎜it包t md Wande1der
gesetz1ichen Rentenve帽ichermg1889_1979,in:Conze/Lepsius(Hrsg.).Sozia1−
geschichte der Bundesrepublik Deutsch1…㎜d,Beitr直ge zum Kontinuit昼tsprob1em,
Stuttgart 1983,SS,296_323.
薯方幹逸r公的年金制度の連続性と非連続性一ピスマルク社会保険よりアデナ
ウフ1一年金改革への遺」『比較社会史の諸間題一犬野英二先生準暦記念論文集』(川
本和良他編),未来牲,昭和59年,245−272ぺ一ジ.
2)下和困功r第二調整期の西ドイツ年金問題」『保険挙雑誌』第486号(昭和54年
9月),1ぺ一ジ以下参照.
3) VgL DまB1】ndesmiI1ister f竈r Arbeit md Sozjalordエiung,Sozialbericht1986,
Bonn 1986,SS.27_30.
4)坂本重雄r公的年金改革と企業年金」『一橘論叢』第99巻第3号(昭和63年3
月),322−337ぺ一ジ参照。
5)Vgl.Winfried Sc止㎜色hl,Vorwort,i皿:Winfried Schm邑hl(Hrsg.),Versiche−
nmgsprinzip und soziale Sichemng,TObing釦1985,S.III.
6) このコロキウムで発表された報告は,注5)の文献に収録されている.
2社会保険と保険主義7〕
(1)社会保障と保険主義
西ドイツにおいても各種の社会保障制度が戦後導入され拡充されていった
が,各制度を支配する形成原理に従って,それらは保険(Versichemng),援護
(Versorg㎜g),扶助(FOrsOrge)の三領域に大きく分類されている.保険すな
わち社会保険では,社会的平均の原理(Prinzip des sOzialen Ausgleichs)と
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(16) 一橘論叢 第103巻 第5号 ’
関連づけられた保険原理ないし保険主義(Versicher㎜gsprinzip)が,援護(国
家援謹)では援護原理(Versorgmgsprinzip)が,また扶助(社会扶助)では
扶助原理(F廿rsorgeprinzip)がそれぞれの基礎をなす形成原理である.もちろ
ん,各領域でこれらの原理が理想的な形でそのまま適用されているわけではな
く,むしろ実際は混合的形態がほとんどで複雑な様相を呈しているが,少なく
とも各形成原理によって主に導かれているといえる8).
社会保険は疾病,老齢,障害,災害,失業などの社会的リスクを保障するも ‘
ので,西ドイツでは社会保障の最も重要な分野を占めており,疾病保険,年金
保険,災害保険,失業保険・雇用促進などの制度から構成されている.国家援
護は西ドイッでは隈定的範囲で適用されており,国家のために犠牲になった人
々に対する補償給付をさし,戦争犠牲者援謹と負担調整(戦争により財産上の
損失を受けた人々に対する補償)などからなる.国家援謹は社会扶助と同様に
一般税収により賄われており,その点で保険料を主要財源とし,予め保険料を
払い込むことによって受給権の発生する社会保険とは異なる、しかし,国家援
謹は社会扶助と異なり,受給者の個別的な困窮状態や必要度を調査することな
く,特別の犠牲を証明すれぱ支給される.社会扶助の代表的な制度はわが国の
生活保護に相当する社会扶助制度(Sozia1hi1fe)である.
形成原理を異にし,それぞれの特質を有する三領域が有機的関連を維持しな
がら,世界的にもハイレベルの社会保障が社会国家(SOzia1staat)を標傍する
西ドイッでは実施されてきた、しかも,戦後西ドイッの指導原理となっている
社会的市場経済(sozia1e Marktwirtsch乱ft)原理との整合性から,保険主義を
基本原理とする杜会保険が社会保障の三本柱のうちで最も重視されてきたとい
える.スエーデンのような援護原理を中心とする社会保障体系への方向転換を
求める動きが西ドイッでも一部にみられたが,むしろ中央管理的な援護国家 ’
(Versorgungss七aat)への傾斜には批判的警戒的な考え方が根強く,社会保険を
杜会保障の中核とする現行の保険国家(Yersicherungsstaat)のあり方が広範
な支持をえてきたのである.
複雑多様な社会保障制度全般を展望し,国民経済に占める比重が急速に増大
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年金改革と保険主義 (17)
してきた社会保障財政を統一的に把握しコントロールするために,1968年か
ら社会予算(SOzia1budget)が作成されてきた9)・それをみると,社会保陣にお
いて社会保険がいかなる比重を占めてきたかを知ることができる.社会予算で
は社会給付(So・ialleis亡ung)はきわめて広義の概念として用いられているが,
1 その制度別占率をみると・戦後被保険者範囲の拡犬や給付改善などにより拡充
されてきたことを反映して,社会保険がその重要性を年々増大してきたことが
. わかる。いわゆる一般制度(児童手当も含まれているが,他はすべて社会保険)
が65年で47.9%,70年49.4%であったが,ア5年には58.2%,80年59.2%,
85年61・8%と社会予算全体の半分以上を占めるに至っている.なかでも年金
保険が65年で27.脇。70年29−0%,75年29.2%,80年30.0%,85年30,6%,
疾病保険が65年14.O払70年14。脇,75年17.6%,80年18.9%,85年20.O%
となっており,この両保険のみで65年で41.脇,70年43.脇,75年46.8%,
80年48.9%,85年50.6%と社会予算で最大の比重を占めている10).社会給付
の範囲をさらに隈定すれぱ,社会保障に占める社会保険の比率はさらに上昇す
ることになる.西ドイッの社会保障体系では,保険主義を形成原理とする被会
保険,とりわけ被用者階層を主な対象とする年金保険と疾病保険の二部門にそ
の重点が置かれていることがわかる.
7) このテーマについては,別稿で詳論する予定であるので,ここではその索描にと
とめる、
8) 保険・援護・挟助のいわゆる社会保障の三本柱とそれらの特質については,邦文
文献としてはJ・ミエラー(替見静子訳)r社会保陣の原理」『現代のドイツ・第7
巻・社会保障』(犬西健夫編),三修社,昭和57年,30−41ぺ一ジ参照、ただし,
32ぺ一ジで「大数の法則」が「多数の原則」と訳されているので,注意されたい.
9)社会予算の内容と特色については,R。ヘルパー(下和田功訳)「社会予算」『現
代のドイツ・第7巻・社会保陣』,195−212ぺ一ジ参照.
10)Vg1・D・・B㎜d・・mi・i・t・・fO・A・b・i・㎜dS。刎・b・d・㎜g,・.。.O.,S.181.
(2)社会保険学説と保険主義
成立当初のドイツの社会保険は,①私保険と同じく個別危険の原則により,
疾病,災害,廃疾・老齢の危険別の保険部門が設けられ,保険事故を特定して
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(18) 一橋論叢第103巻第5号
いた,②私保険にならい,給付の財政的基礎を労使の拠出する保険料に求めて
いた,⑧保険料の危険への比例性の原則は災害保険に限られたが・収入に応ず
る保険料,保険料負担に応ずる金銭給付が採用された,などにみられるごとく,
個人主義的色彩,したがって保険主義のきわめて濃厚なものであった11)・しか
も,保険主義の対極にある扶養主義の顕現ともいうべき国庫負担金の詣11度は ’
1889年の廃疾・老齢保険において初めて採用されている.したがって,ドイ
ツでは保険主義の概念は社会保険との関連でかなり古くから用いられてきた・ ・
ヴェ・ヅディゲンは1931年の『社会保険改革の基本問題』で保険主義と扶養主
義を取り上げ,社会保険における二重性の間題を本格的に論じている12)・
わが国でも,大林,印南,近藤,広海,箸方等の諸教授によってこの問魑は
論じられてきたが,とりわけ犬林博士は保険主義とセヅトで取り上げられる扶
養主義ないし扶養性概念を中心にその杜会保険理論を樹立されている13)・博士
は,保険の手段により社会的目的を達成しようとする社会保険には,’危険およ
ぴ給付と保険料との比例性に忠実な保険主義と,貧困な被保険者などを救済す
るために保険料との関係を考慮せずに必要な給付を行う扶養主義という相対立
する恩想が必ず何らかの形で共存し,「保険主義か扶養主義かの二つの志向の
何れか一方に向って最後的な決定をなすことは二社会保険を止揚することとな
る……社会保険の枠内の問題としては保険主義と扶養主義とが相互に随伴する
場合でなくてはならぬ.その隈りにおいて保険主義の問題は同時に扶養主義の
問題である」i4〕とされている.社会保険における保険主義と扶養主義の相亙随
伴の様相は国により,また時代により変化し,r経験的には,時に,より多く
保険主義の方向へ,又時に,より多く扶養主義の方向へと変動せるために,そ
の現象形態は時に保険性の,又時に扶養性の濃厚なものになる」15)といわれる・
スイスの学者トリッペルもr……社会保険の中には保険主義と扶養主義とい ・
う二つの異なった原則が実現している・保険主義は保険技術的に組織化された
自助に重きをおく.被保険者は実質上保険の資金を支払わなけれぱならない。 .
・事情いかんにより,社会保険では保険主義と扶養主義のいずれかがより強
調される」i6)と大林博士と同様な見解を展開している.また,アメリカのレジ
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年金改革と保険主義 (19)
ダも社会保険を私保険性(private insurance elements)と福祉性(weHare
eユement)の両要因を含有するものとして把握し,社会保険が私保険や公的扶
助と示す共通点や相違点を説明しようとしている1ク).ただし,レジダは社会保
険における私保険性の定義は示さず・社会保険と私保険の共通点と相違点を列
挙するにとどまっている18).
11)大林良一『社会保険』審秋社,昭和2ア年,61−62べ一ジ参照.
12)v・Lw・一t・・w…i・・…m・・f・・・・・・・・…i・1・…i…m・。・。。f.m,J、、、
193L大林・前掲書,60,71−72,ア9べ一ジ参照.
13)犬林・前掲薔。とくにその第一章と第三章を参照のこと.
14) 犬林・前掲書,60ぺ一ジ.
15)犬林・前掲書,61ぺ一ジ.
16)M・・ti・T・ip・・1・・m・ti。・mdG・・・・・・・・・…i・1・…i・・。。mg.i.M。・、、・m,
der Sozialpolitjk,St−GaHen1952,S.13.訳は広海孝一「社会保険の『扶養性』
概念における雇主酸出金の地位」『一橘論叢』第51巻第1号(昭和39年1月),80
ぺ一ジより引用・広海論文は,大林博士とトリヅペルの所説を手がかりに,社会保
険の財源調達との関連で,扶養性概念における雇主酸出金の地位を詳紬に考察され
た労作である.
17)α・G・。…E・R・j・・,・…1・・・…m・・・…。・。mi・…町it。,・。g1。。。。。
c1岨s,New Jersey1976,PP.33一壬1.
18) Cf・Rcjda,op−cit一,PP.37−39、
(3)社会保険における保険主義
ビスマルクはもともと国家による扶助ないし援謹の制度を希望し,援謹国家
を志向していたといわれるが,成立した社会保険の三部作はかれの当初の計画
とは反する内容を多く合んでおり,ビスマノレクの意思に反して導入された第一
のものは保険主義であったといわれる19)一皮肉なことに,保険主義の重視はそ
の後のドイッ社会保険史の伝統となっており,戦後は西ドイッに継承されてい
る.
しかし,ワーグナーが「]般に受入れられた保険主義の定義は存在しない」20〕
といい,マインホルトが「保険主義が何を意味するか,さらに社会保険主義と
は何かについては,無数の解釈がある」21)と指摘しているように,保険主義の
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(20) 一橋論叢 第103巻 第5号
明確な統一的定義はなお存在しない、コノレプによれぱ,年金保険における保険
主義の把握の仕方は大きく三種類に分けられる22)・第一の立場はシュライパー
(Wilirid Schreiber)に代表されるもので,「公的年金保険は給付・反対給付の
等価原則が金面的に適用されるべき,そして全体として大部分適用されている
自助施設である」とするもので,私保険と同一の等価原則が適用されるものと
する.第二の立場はこれとは全く正反対の見解であり,「社会保険とは給伺・
反対給付の期待値の均等原則が適用されない保険と定義できる」とするホイベ ‘
ツク(GeOrg Heubeck)に代表されるものである.第三の立場はムーノレ(Gerd
Muhr)に代表されるが,r年金保険には等価原則と連帯原則が等しく存在し,
保険料によってもカロ算期間から遺族保障に至る連帯的平均の給付が賄われてい
る.年金保険は連帯原則ないし社会的平均の原則と等価原則ないし給付・反対
給付均等の原則とを統合(Synthese)したものである」とするものである。
第一の立場にたって,第一次年金改革に際してシュライバーは,古典的なド
イツ社会保険における二重性を反省して,扶養主義の強化に低抗し,保険主義
のより一層の強化を要請するシュライバー構想を提唱したといわれる23〕.しか
し,シュライバーの主張と現実との距離は大きく,第一次年金改革により実現
した年金保険も依然として第三の立場にみられるごとく,保険主義と社会的平
均,換言すれぱ危険乎均(保険的所得再分配)と階層間の人的所得再分配が一
定の仕方で結合された中間的形態ないし混合形態であった.したがって,前述
の大林博士に代表される所説(社会保険における保険主義と扶養主義の二重性
理論)がなお社会保険分析のツールとして多くの学者により援用されることに
なる.
第三の立場が西ドイッにおける多数説といってよく,個人保険におけると同
様に社会保険においても等価原則(Aquiva1enzprinzip)を保険主義としてとら .
えるが,社会保険の二重性のゆえに,社会保険における等価原則は純粋に個人
保険においてみられる等価原則とは同一のものではなく,扶養主義ないし社会 一
的平均の要講からデフォルメされた形で適用されているとする24)。
等個原則とは因果主義(Kausalprinzip)と給付・反対給付均等の原則(Prin・
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年金改革と保険主義 (21)
zip der G1eichheit v㎝Leistung md Gegen1eist㎜g)をさす.前者は社会扶
助などに適用される結果主義(Fin乱1prinzip)と対立する原則である.後者は
保険料は保険給付の数学的期待値に等しいといういわゆるレクシスの公式(純
坪険料を只危険発生率を叫保険給付をzとすると,P=ωzで表される)
・ を意味する.その含意は概略次のとおりである.事前の保険料(掛金)拠出に
よって契約における保険給付講求権は確保される、保険料はできる限り正確に
, 危険発生率に比例して支払われ,その限りで個人保険は完全な自助施設である.
しかし,それは集団的自助であって,危険発生率の把握には大数法則が適用さ
れ,危険発生率を同じくする保険団体内においては危険平均が行われ,収入保
険料の総額は支払われる保険給付の総額に等しくなるタうに収支相等の原則が
適用される.なお,カルテンは等価原則を給付・反対給付均等の原則をさす個
別的等価原則(individue11e Aquiva1enzprinzip)と,収支相奪の原則を示す集
団的等価原則(Gruppen身quiva1enzprinzip)に分類している25).
社会保険は保険主義をその指導原理の一つとしており,個人保険と同様に保
険料(掛金)を負担することによって,給付請求権が発生する.社会保険が等
価原則志向的であり,契約志向の給付請求権の特質をもつということから,所
得ないし賃金の多い者は掛金を多く負担し,それに応じて年金を多く支給され
る(このことを所得・掛金の連結性EinkOmmens−und Beitragsbezogenheit
または掛金等価Beitrags的uivalenzとよぶ)という比例拠出・比例給付の形
態を西ドイツの年金保険は採用している.このことから,年金保険が賃金代替
機能(LOhnersatzfunktion der Rente)をもつことになる.みを定数,γを所
得ないし賃金とすれぱ,社会保険の保険料Pはア=πで課せられることが多
く,保険料はωやzではなく,yに比例して決定され,応能負担の原則により
. 課せられている.したがって,個人保険の場合と異なり,社会保険では危険相
当以下の保険料を支払う者もあれぱ,それ以上の保険料を負担して強制加入さ
せられる者も存在することになる.さらに,社会保険は完全な自助施設ではな
く,自助のために国家的扶助が加わったものとなっており,国庫負担金が社会
保険財源の一部を構成することになるが,財源の少なくとも半分以上が被保険
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(22)
一橘論叢 第103巻 第5号
者またはその雇主によって支払われることが必要であり,財源の大半または全
てが租税収入によって賄われる場合には、もはや社会保険とはいえないことに
なる26〕.
19)箸方幹逸r帝政ドイツの社会保険と自治」r東京経大学会誌』第125号(昭和5ア年
3月),175−176ぺ一ジにおいて,Volker Hentsche1(Deutsche Wirtschafts一㎜d
Sozialpolitik−1815川1945,D廿sse1dor士1980,S.47。)のかかる見解が紹介されてい
る.
20)Gert Wagller,Zur MeBbarkeit eines verrsicher㎜gsge触Ben Risikoausgleil:hs
und der Um平erteilung in der geset21ichen Rentenversicherung,in=Schmihl
(Hrsg一),a−a−O。,S−142.
21) Helmut Meinho1d,Die ordmngspo1itische Bedeutung des Versichemngsprinzips
in der deutschen Sozi旺1politjk,in:Sohm註hl(Hrsg.),a−a−O一,S.14.
22) Vg]・Rudo1f Ko1b,Die Bedeutung des Verslchemngsprinzips fOr dle geset21i{:he
Rentenversichemng,in:Schm邑h1(Hr5g。),a.a.〇一,S.121.
23)磐方幹逸r西独社会保険の近代理論一その隈界と修正の試み一」『現代保険
学の諸間遷一相馬勝夫博士古稀祝賀記念諭文集』専修大学出版局,昭和53年,
152ぺ一ジ参照.
24)大林博士は,社会保険の保険主義を等個原則から把握するのではなく,その保険
挙説から出発して把握する方法をとられ,社会保険の保険性が「部分的に変改され
ている」藷点を詳細に論じられている(大林・前掲書,85−96ぺ一ジ参照).
25)VgL Wa1ter Karten,Solidar焔tsprinzip und versicher㎜gst㏄㎞i畠cher
Risikoausg1eich,m l Zeitschrift fOr die gesamte Versichemngswissen5ch;1ft,
H・ft2μ9η、S・186・(箸方r西独杜会保険の近代理論」,154ぺ一ジ注2を参照1)・
この箸方論文(15ト154,160−161ぺ一ジ)では,個人保険と社会保険における等
価原則の特質が簡潔に述ぺられている.
26)大林・前掲書,4ぺ一ジ参照.
3年金保険史における保険主義の変容
(工)戦前期と保険主義の動揺
保険主義のきわめて濃厚な社会保険として発足したドイッにおいて,扶養主
義の顕現というべき国庫負担金の制度が導入されたのは,1889年の廃疾・老
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年金改革と保険主義 (23)
齢保険が最初である.第一次犬戦とその後の時期には,当時の経済状況の悪化
や高インフレーションのために,各種の補助給付がいずれも全額または一部国
庫負担により実施され,扶養主義の強化,保険主義の後退という状況が進行し
た.とくに1920年の「年金保険のための非常手段に関する法偉」では,国庫
’ が8割,地方団体が2割をそれぞれ分担して,年額3000マノレクが別途収入の
ない年金受給資楕者に支給されるに至り,保険主義の著しい後退をみた.しか
・ し,一当時においてもなおドイッ議会をはじめとして,長期的視点からは保険主
義の放棄を積極的に主張する者は少なかったといわれる2フ).ナチ体制下でも,
ライヒ労働省官僚の抵抗などにより,ドイッの伝統的な社会保険の基本構造に
は変化は起きなかった28).すなわち∵ビスマルク時代に採用された社会保険に
おける濃厚な保険性の堅持が,ナチス杜会保険改革の基礎となったのである29).
2ア)大林・前掲書I62−63ぺ一ジ参照.
28)箸方「公的年金勧度の連続性と非連続性」,267ぺ一ジ参照.
29)大林・前掲書,64ぺ一ジ参照.
(2)戦後再建期と保険主義の後退
第二次大戦終了後その機能を停止していたドイッの社会保険制度を再建し改
革す争ために,1946年から47年にかけて,統一的な国民保険を目指す社会保
険改革案が連合国管理理事会法案として作成された.同法案は可決直前までい
ったが,冷戦の発生などにより48年2月の管理理事会会議で棚上げされ,実
施されるに至らなかった.その結果,英米仏の西側三占領地区では,疾病,災
害,年金,失業の四保険部門からなる伝統的な多元的社会保険制度が引統き維
持されることになり,ビスマノレク社会保険以来の歴史的連続性が継承されるこ
とになった30).
・ 1949年5月に基本法が制定され,ドイッ違邦共和国すなわち西ドイツが誕
生した.国公債に投資されていた資産の第三帝国解体による価値喪失,戦後の
インフレ,48年7月の通貨改革などの影響により,年金財政は壊滅的打撃を
受けていた.他方で,48年の通貨改革を契機とする西ドイッ経済の急速な復興
により賃金は年々上昇したにもかかわらず,年金は低水準に取り残され,400
509
(24)
一橋論叢 第103巻 第5号
万以上にのぼる多数の年金受給者の生活はきわめて苦しい状況に置かれていた.
戦後の新しい物価水準や賃金水準に年金額を調整するために,49年6月に社
会保険調整法が制定され,年金給付や最低保障額の引き上げなどが実施された.
その後ほぼ毎年,年金給付の改善,受給資格の緩和が行われたが,たとえぱ51
年8月には年金加給法により年金保険の給付額が平均25%引上げられた.し ’
かも,こうした伝統的手法による定額の物価加算,基本額の引き上げなどの措
置による支出増は,経済復興が軌遺に乗るまでは保険料率引き上げの余地も少 ・
ないために,いきおい連邦補助金によって賄われざるをえなかった.西ドイツ
の公的年金制度の中核をなす労働者年金保険と職員年金保険についてみると,
保険料率は1954年まで10%(労使5%ずつの折半負担)で据え置かれ,その
引き上げが実施されたのは55年以後(55年に11%,57年に14%に引き上げ)
のことである.他方,連邦補助金の年金財政に占める割合は年々急増し,50年
で18・7%であったものが,55年では35.1%となり,1957年の第一次年金改革
前では三分の一を超える水準に達していた31).
このように戦後再建期には,緊急事態に対処するために,保険料率の引き上
げを伴わない給付改善がいわぱなしくずしに国の財政援助により実施され,保
険主義の後退,扶養主義の強化という状況が進行したことは明らかである.こ
うした年金財政のあり方に対しては,各方面から批判が寄せられた.
30) 下和田功r社会保険改革のための連合国管理理事会法案一占領期におけるドイ
ッ社会保険史の一駒一」『保険学雑誌』第503号(昭和58年12月),33べ一ジ以下
参照.
31) Vg1−Der Bundesminister f血r Arbe趾und Sozlalordnmg,ぴbersicht Ober die
Sozi刎e Sicherung,9.Aunage,B㎝n1975(保坂哲哉他訳『ドイツ連邦共和国の社
会保障制度』光生館,昭和53年,110ぺ一ジ参照).
(3)第一次年金改革期と保険主義の強化
第二次大戦後の激変した経済的社会的状況に適応させるための本格的年金改
革が,アデナウアー・キリスト教民主同盟(CDU)政権下で実施され,その後
の西ドイッ年金制度の基本的性格を決定づけることになった.1956年からの
510
年金改革と保険主義
(25)
議会での審議を経て,57年2月にr労働者年金保険改正法」およぴr職員年
金保険改正法」,同年5月にr鉱業従業員年金保険改正法」が成立し,さらに
同年7月にr農民老齢扶助法」が新たに公布されることにより,年金改革は完
結をみた.
・ ところで,鉱業従業員年金保険と農民老齢扶助では,各根拠法において,毎
年の総支出が保険料・利子収入を上回る場合には,その差額を政府が補填する
ことが規定されている.その結果,農民老齢扶助ではその財源の実に7∼8割
を連邦補助金に依存しており,鉱業従業員年金保険でもその財源の5∼6割が
連邦補助金によって占められており,保険主義の後退した,換言すれぱ扶養主
義の顕著な特殊な財政構造を示している.その点で,この両制度には国庫によ
る毎年の支弁を予定せず,保険料を主要財源とする労働者・職員年金保険制度
とは本質的に異なる特色が認められる32)、すなわち,両制度は農業ないし鉱山
業という特殊な産業部門を保護助成するための産業(構造)政策上の理由から,
大幅な公費負担が当初から公認され,予定されている特殊な制度といえる.以
下では,専ら労働者年金保険と職員年金保険を考察する.
第一次年金改革では,伝統的な分立的制度とその実施組織を継承しながら,
シュライバープランの基本思想を取り入れた以下のような特色を有する改革が
実施された.
①伝統的な年金計算方式(定額の年金基本額プラス報酬比例部分)が廃止さ
れ,被保険者の過去の賃金と被保険者期間に応じて年金額を決定する比例年
金方式が導入され,在職中の所得の一定割合を保障する従前所得保障の原則
が確立された.すなわち,賃金代替的機能が年金に付与された.
②年金額がその時々の賃金水準(保険事故発生の前暦年に先行する3か年に
. おける被保険者全員の平均年間賃金の平均値)に原則としてスライドして引
き上げられる賃金スライド式年金(いわゆる動的年金)が採用され,年金の
実質価値が確保されることになった.
年金制度の財源は従来同様に労使の拠出する保険料により主に賄われ,保険
料は被保険者の所得に保険料率(57年で14%)を乗ずることによって算出され,
511
(26)
一橋論叢第1C3巻第5号
労使が折半負担する.すなわち,①の特色とあわせて,比例拠出比例給付の形
態をとっており,保険主義の強化がみられる.他方で,被保険者期間には兵役,
疾病,育児,失業などのために保険料負担を免除されている代替期間,脱落期
間,加算期間も一定条件のもとで算入されて,年金額に反映されることになっ
ており,一定の国庫負担が新年金制度でも引き続きみられる.ただし,従来は ’
年金額の三分の一を国家が負担することになっていたが,一定金額を国が負担
する方式に改められ,57年では労働者年金保険支出の35.3%,職員年金保険 ・
支出の18.3%,両部門の支出合計の29.8%を負担していたjこの一定額の連
邦補助金は毎年の年金保険支出額ではなく,総賃金額の推移に応じて決定され
ることになっており,年金保険の支出額の増カロ率が総賃金のそれよりも高い
(たとえば57年から86年までをとると,前者が13.6倍に増加したのに対し,
後者は7.3倍の増カロにとどまっている33))ために,年金支出に占める連邦補助
金の比率は57年以後年々低下し,8ア年には17、脇に減少している.その結果,
年金財政に保険料の占める割合は増大し,その点でも保険主義の強化,扶養主
義の後退がみられた、
シュライバーが第一次年金改革でめざしたものは,古典的なドイツ社会保険
における二重性への反省であり,扶養主義の強化に低抗し,保険主義をより一
層強化することであったといわれ34),改革の成果としては「従前所得保障原
則」の確立と「等個原則」の強化が摘摘される35)が,そのことを以上の叙述よ ・
り確認できる.
しかし,第一次年金改革では,保険主義の確保強化という伝統の維持に加え
て,②の動的年金の導入,それを実現するための世代間連帯契約の思想に基づ
く財政方式の転換(従来の積立方式から修正賦課方式へ)などが行われ,薪機
軸も打ち出されている36〕.そして,現行の年金保険は依然として保険主義と扶 .
養主義の混合形態となっている.
第一次年金改革はその後の高度経済成長に支えられて順調に実施されてきた
が,66年に経済不況が訪れ,年金財政の再建が必要となったことから,保険
料率が従来の14%から68年に1脇へ,さらに69年16%,70年1脇,73年
512
年金改革と保険主義
(2ア)
18%と段階的に引き上げられた3ア).こうした収入増による財政対策がとられ
たことにより,第一次年金改革の特質は維持強化されたのである.
32)下和田功r戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題」生命保険文化
研究所『所報』第卑2号(昭和53年3月),91ぺ一ジおよぴ90ぺ一ジ第4表参照.
33) VgL Georg Faupel,Rentenreform:An Prinzipien orientieren,m:Soziale
Sicherheit,8_9/1988,SS.226_22ア.
34) 注23)の文献参照.
35)磐方「西独社会保険の近代理論」160ぺ一ジ参照.
36)箸方r公的年金制度の連続性と非連続性」271−272ぺ一ジでは,公的年金制度
の非連続性の証左として,①動態年金の原則,②年金計算方式の変更,③年金改革
の国民的コンセンサスの成立,をあげておられる.
37)筆者は1966年から第二次年金改革の実施されるまでのこの時期を第一調整期と
よんでいる一下和田「戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期」102−105ぺ一
ジ参照.
(4)第二次年金改革期と保険主義の後退
66■67年の経済不況からの回復が早まり,68年以後保険料率が段階的に引
き上げられたことなどから,年金財政が好転し,積立金が年々急増してゆくこ
とが予測されるに至った.69年に政権の座についたブランゴ社会民主党(SPD)
政権下で,連邦議会選挙直前の72年10月に第二次年金改革が実現した.その
主要な改正点は次のとおりである.
①従来65歳と固定的であった老齢年金の支給開始年齢を,一定条件を満た
せぱ,婦人と失業者は60歳から,重陣者,稼得不能者は62歳から,一般の
被保険者も63歳から本人の意志で選択できることになった.これを年金年
齢選択制(F1exible A1tersgrenze)とよんでいる38).
②被保険者が平均賃金の7脇以下の賃金をえていた期間については,75%
の賃金をえて保険料を納付したものとみなして年金額を計算する,いわゆる
最低年金保障制(Rente nach M1ndesteinkommen)が導入された.
⑧既裁定年金の調整時期の半年繰り上げ.
④既存の年金制度に従来は加入できなかった自営業者,自由業者などに任意
加入が認められることになった.しかも,新たに任意加入する者は56年ま
513
(28)
一橘論叢第103巻第5号
でさかのぽって保険料を追納できるという非常に有利な保険料追納制(Bei−
t「agsnachentrichtmg)が認められた.
⑤標準年金(被保険者期間40年で,その間平均賃金をえていた年金受給者
の受け取る年金)が被保険者全員の平均賃金の50%を2年連続して下回る
場合には,連邦政府が年金水準を確保するために必要な措置をとることを義 ’
務づける年金水準確保条項(Rentemiveausicherungsk1ausel)が設けられ
た. 、
当時の予測では,①の措置の実施により86年までに630億マルク,②では
350億マルク,③で7ア0億マルクの支出増が見込まれており39),④も従来の被
保険者である被用者階級の犠牲により自営業者などを非常に優遇するものであ
る.これらの措置はいずれも,保険数理的に必要とされる保険料負担を伴わず
に実施されるものであり,明らかに等価原則の侵害であって,保険主義を犠牲
にした扶養主義・連帯主義の強化を意味する40〕.すなわち,第二次年金改革で
は保険数理を無視した改革が行われ,保険主義がこれまでよりも後退・したこと
は否めない.しかも,アO年代後半にr第一の年金の山」を迎え,年金受給者
の対被保険者比率(老齢者負担率)が上昇することが確実に予想される中でか
かる改革が実施されたのであった.
第二次年金改革実施直後の73年に石油ショヅクが発生し,年金財政の破綻
を回避するために,70年代後半より各種の財政再建策が試みられ,第二調整
期に入った4i).年金計算方式への悉意的千渉(一般算定基礎Bの算出基準年度
を変更したり,79年から81年までBを固定化して,年々の賃金水準の変動に
スライドさせないことにした),法定最低積立金の前年度3か月支出相当額か
ら1か月分への引き下げなどは,システム破壌的(systemzerst6rend)な内容
の対策として批判された.こうした対応に対しブリュヅクは,年金制度が政治 .
的干渉を受け易くなり,保険料収入・年金給付支出の等価原則や動的年金原則
が空洞化され,年金保険料がやがて目的税となり,比例年金が最低一律給付へ
と変わり,早晩年金保険が年金援謹と化することを懸念していた42).
3S) 年金年齢選択制については,下和田功r所得保障と年金保険」『現代のドイツ・
514
年金改革と保険主義
(29)
第7巻・社会保障』,90−91ぺ一ジ参照.
39) VgL Hasso H直r!en,Die zweite Sanierung der gesetz1ichen Rentonversicherung
und die dritte Rente皿reform,in:Versichemngswirtschaft,12/19η,S・ア88.
40)同様の指摘は,薯方r西独社会保険の近代理諭」161ぺ一ジでも行われている.
41)第二調整期の対応策については,下和困r第二調整期の西ドイツ年金問魑」参照.
42)Vgl・G・W・B耐ck,Kranke口versicher㎜g㎜d Rentenversichermg am Scheide−
wegP in:SOzialer Fortschritt,2/19η,S.29。本論文の要旨は,薯方「西独社会保
険の近代理諭」,158−165ぺ一ジで紹介されている.
(5)80年代の構造改革の試みと保険主義維持の模索
80年代に入っても,引続き短期的な財政再連対策が試みられた.保険料率
の改訂が繰り返され,8ユ年1月に18.5%,82年1月に18%,83年9月に18.5
%,85年1月に18.7%,85年6月に19.2%に変更された.その他の改革の中
で政庸により構造改革的要素をもつ措置として指摘されているものには,主に
以下のものがある43〕.
①年金のスライド率を従来のように過去3年間の被保険者の平均総労働報酬
の伸ぴ率ではなく,前年のそれによることとし,年金額の引上率を現役労働
者の賃金上昇率にリンクさせるといういわゆる年金調整の現実化(Aktuali−
siermg)が84年7月より実施された.
②満65歳で受給する老齢年金の受給資樒要件である保険加入期間(いわゆ
る待機期間)を従来の15年から5年に短縮し,育児のために就業が中断さ
れがちな女性の立場を配慮した改革が実施された.①と②は84年の予算随
伴法と年金調整法による改革である.
③85年7月の遺族年金・養育期間法により控除額付遺族年金(Hinterblie−
benenrente mit Freibetrag)制度が86年1月から実施され,a)配偶者が死
亡した場合の遺族年金は死亡した配偶者の年金の60%とし,男女(寡婦と
寡夫)の差別をなくしたこと,b)遺族年金受給者の所得月額が900マルク
を超えた時には,その超過額の40%(ただしこの数字は第1年目はO%,第
2年目10%と毎年10%ずつ引き上げられ,5年目から40%となる)を遺族
年金に算入して,その分だけ年金の支給を停止すること,になった.
515
(30)
一橘諭叢 第103巻 第5号
④同じく遺族年金・養育期間法により,86年から,実母たると否とを問わ
ず,生後1年間子供を養育した者はすべて1年間の保険期間を有するものと
し,その期間は被保険者の平均賃金の75%をえていたものとして評価され
る.したがって,5人の子供を養育した女性は②の改革とあわせてそれだけ
で老齢年金の受給資椿をえられることになる. ‘
このように,80年代中葉に構造改革のはしりとでもいうべき対策が,第二次
年金改革以後の第二調整期における比較的大幅な改革として実施されたが,し ’
かし,長期的ビジ目ンや明確な理念が確立されての構造改革とはなっていない.
ファウペルの指摘するごとく,80年代に入って小改革のみが繰り返され,第
一次年金改革に相当するようなr世紀の改革」は今日なお実現していない44).
約2年の準備期間を経て審議されてきたr1992年年金改革法」がついに89年
12月に成立したが,しかし,今後も引続きr経済的,人口構造的枠組条件の変
化への適応」のための模索が続けられることになる.
第二次年金改革以後の現在に至る約20年に及ぶ調整期に実施された多種多
様な対応策は,とりもなおさず第一次年金改革で実現し,曲りなりにも保険主
義をその形成原理としている現行制度の基本構造をなんとか維持してゆくため
の,一面で試行錯誤を含む関係者の懸命な努力として評価することができる.
こうした漸進的改革は,年金保険制度が成熟して,多数の年金受給者の老後生
活を支える主柱となっている西ドイッの場合,社会的安定をえて制度の信頼性
を確保す去ためにも必然的に要講されたものということができよう.
しかし,それにもかかわらず,21世紀に向けてr第二の年金の山」,しかも
70年代後半から80年代前半にかけてのr第一の年金の山」をはるかに超える
超高齢社会を迎える西ドイツでは,文字通りの意味での本格的な年金制度の
「構造改革」が現在なお必要とされているのである.80年代に提案された多種 ・
多様な年金改革案は,その必要性を広く国民に認識させ,国民的含意形成のた
めの準備期間としての一定の役割を演じたとみることができる.次に,80年
代の主要な年金改革案を保険主義の観点から整理しながらみてゆくことにする.
43) Vg1.Der Bundesminister tOr Arbeit md Sozialordnung,a−a−O.,SS.24_、…0.
516
年金改革と保鼓主義
(31)
44) Vg1・Georg F舳peI,Rentenreform l GroBer Konsens auf kleinstem gemein−
samen Nemer,ln:Soziale Sicherheitη1988,S.201.
4 1980年代の主要な年金改革棄と保険主義
一 1980年代は年金改革論のノレネヅサンスといえるほど、政党や学界,各種機
関などにより多数の改革案が提案されたが,それらは大きく三種類に区分でき
・ る.第]グループに属するものは,所得・掛金に比例した年金を支給し,賦課
方式と動的年金制を採用している第一次年金改革以降の現行年金制度の枠組み
を維持しながら,構造改革を推進してゆこうとする立場のものであり,現行制
度における保険主義の維持をはかってゆく考え方である.この分類に入る漸進
的改革案は,CDU/CSU,SPD,FDP(自由民主党)の主カ与野党や連邦政府
(CDU/CSUとFDPの連立政権)の改革案(たとえぱ88年提案の「1992年
年金改革法案」),あるいは連邦労働社会省の諮間機関である社会審議会の意見
書(たとえぱ86年4月の「老齢保障全体の枠組みの中での法定年金保険の長
期的財政再建と体系的発展のための構造改革に関する社会審議会意見書」),ド
イッ年金保険機関連合会意見書(1987年)など,最も数が多く,バラエティ
に宮んでいる・とくに現行制度の維持を鮮明に打ち出してその枠内での改革を
論じているのはドイツ年金保険機関連合会の改革案である45).
第ニグノレープに属する改革案は,現行制度を一一部または全部廃止して,租税
方式による統一的基本年金を導入するヲディカノレなもので,後述の各種の提案
がなされている蝸)・この第二の道を探求する考え方は,現行制度の枠組みでの
改革では今後の人口高齢化と低成長経済において年金制度の長期安定化はえら
れないという立場から,新制度の導入を主張するものである.その代表例がノ
. ルトラィン・ヴェストファーレン州のCDU一党首ビーデンコヅプ(K.Bieden’
kopf)の主宰する経済社会政策研究所(IWG)関係者により85年秋に発表さ
. れたミーゲノレiIWGモデルである4フ).その他に,FDP党首バンゲマン(E.
Bangemm)が85年4月に提案したバンゲマンモデノレ,野党の「緑の党」が
85年6月に提案したr緑の党」モデノレなどがある.いずれも全国民に国家財
517
(32)
一橋諭叢 第103巻 第5号
源による統一的基本年金を支給する新制度の導入を提案しており,したがって,
その点に関する限り保険主義を全面的に廃棄した改革案となっている.たたし,
バンゲマンモデノレでは,第一層として租税方式の統一基本年金を,さらに第二
層として保険主義に基づく保険料を財源とする国家監督下の追カロ年金,第三層
には任意加入の私的追カロ年金,といういわゆる三層年金(dreigesta丘elteRente) .
システムを提案しており,第二層にみられるように,追カロ年金都分では公的年
金制度における保険主義を認めている.・r緑の党」モデルは価値創造税(Wert一 ’
schδpfungssteuer)などの新税の導入により財源を確保し,60歳以上の全住民
に均一の動的基本年金掌導入し,さらに公務員,被用者,自営業者,自由業者
を合む稼得収入ある全ての国民を対象に保険主義に基づく,拠出に応じた給付
を行う強制加入の動的追加年金を設ける二層式年金制度を提唱している.他方,
ミーゲル=IWGモデルは現行制度を全廃し,租税方式の均一の動的基本年金
を満63歳以上の全ての居住者に支給しようとする改革案であり,これら三つ
の基本年金構想の中で最も・単純明快で大胆な改革案となっており,保険主義に
固執してきた伝統的な公的年金保険制度と訣別する内容になっている.
第三グノレープの改革案は,これまでのニグループとも異なる第三の遣を探る
もので,ここではパトラー=イエーガーモデルを一例としてあげておく48).同
モデルは賦課方式で運営されている現行の年金制度をいわゆる部分積立カ式
(Teilkapita1deckungsver{ahren)によって補完しようとする提案である.すな
わち,’現行制度を変更しなけれぱ,現在の約19%の保険料率は2030年頃まで
には38%から40%を超えるものとなり,被保険者や企業の負担限度を超えて
制度自体の維持が困難になるとの考えから,人口高齢化がビークに達する2(〕30
年前後でも保険料率を30%程度に抑制するために,積立方式による追カロ年金
制度の導入が提案されている.ただし,追カロ年金を1990年に導入した揚合, ’
2020年頃までは現行方式の場合より料率は高くなるが,それ以後は低くおさえ
られると予測している・このモデルでは,公的年金の主要部分は従来の制度の 、
都分的修正によって占められており,保険料率や給付を抑制して年金水準が低
下した部分を積立方式による追カロ年金でカパーしようとするものである.新た
518
年金改革と保険主義 (33)
に導入される制度では,稼得期間申に払い込まれた保険料は資本ストヅク
(Kap1ta1stock)として稜み立てられ,その積立金と運用利息を年金源資として
退職後に追加年金を支給するもので,追加年金額は個々の被保険者の年金源資
額によって計算される・年金は死亡するまで支払われるが,早期に死亡して余
’ った残額は遺族には支払われずに,長生きして自己の年金源資を費消した人々
の年金にふり向けられることになっており,いわゆるトンチン性年金の方式を
・ とっている.このモデルでは,過去の実績から平均実質利率は実質経済成長率
を上回っていることから,追加年金額も経済成長率を上回る引上げが可能であ
るという考え方をとっている.追加年金部分については,現行方式以上に保険
主義の強化されたものとなっており,私保険的性格がきわめて強いものといえ
る.
45)89年12月成立の「1992年年金改革法」も現行制度の枠内での改革となっている。
その概要については,『ジュリスト』第950号(1990年2月15目),94ぺ一ジ参I
照。また,ドイツ年金保険機関連含会の改革案については,その機関誌のDeut畠che
R㎝te皿versichemng!7aμ987.SS.499任の関係論文を参照.
46) 基本年金をめぐる論議については,N−N.,GVG−Argumente zurGrundrente,in:
Arbeit and Sozialpolitik,4/1986,SS,99_104,Peter Hamp巳(Hrsg.),Renten
2000 L・・g・・f・1・tlg・Fm…1・・mg・一Pmbl・m・d・・Alt・…1・h・・㎜gmdL・・mg・一
ans盆tze,M廿nchen1985などを参照のこと.
47) ミーゲル=IWGモデルについては,下和田功「年金改革と塞本年金構想一ミ
ーゲル=IWGモデルをめぐって一」『現代保険学の展開一水島一也先生還暦記
念論文集』,千倉書房,平成2年4月刊行予定,を参照されたい.
48) vgl・Giinter Buttler und Norbert J直ger,Reform der gesetz1ichen Renten−
versicher1mg durch ein Teilkapita1deckungsverfahren,in:Zeitschrift fOr die
gesamte Versichemngswissenschaft,3/1988,SS,385_406.
5 おわりに
年金制度を低成長経済と人口高齢化という厳しい環境条件の変化に適応させ
るために,第一次年金改革によって確立された保険主義を中心とする基本原則
は何とか維持しながら,改革を進めてゆく努カが,1970年代申葉から現在ま
519
(34)
一橋諭叢 第103巻 第5号
で続けられてきたといえる.しかも,抜本的対応策をなお見いだせないままに,
今後も2030年頃の人口高齢化のビークを迎える時までなお一層厳しい対応を
迫られることになろう.
こうした状況のなかで,新しい発想に基づく各種の改革構想が提案され,
議論されてきた。前述の各種の基本年金構想のほかにも,SPDや労働組合
などの提案に基づく機械保険料(Maschinenbeitrag)ないし個値創造保険料
(Wertschδpf㎜gsbeitrag)や,家族負担調整(F乱milien1astenausgleich)を年 ’
金制度に導入する構想,連邦職員保険事務所の部分年金(Teilrente)構想など
がある49).
機械保険料は技術革新によるコンピュータ化やロボヅト化などの進展に対応
させながら,伝統的な拠出原則を現代的に適応させようとする提案である.家
族負担調整は第一次年金改革の基礎となっている世代間連帯契約の思想を出生
率低下という人口要因の変化に対応させるために,将来の年金保険財政を支え
る子供達を生み育てた者とそうでない者とで保険料に差を設けようとする三世
代の連帯(Drei−GeneratiOn−SOlidari鮒)をはかる考え方である.また,部分年
金構想は,老齢年金の早期受給者をこれ以上増加させないために,第二次年金
改革で導入きれた年金年齢選択制を利用する早期受給資格者にバートタイム労
働を認め,63歳までは保険数理に応じて減額年金を,63歳から65歳までは増
額された年金を支給しようとするものである.いずれも,保険主義に基づく現
行制度を守りつつ,年金財政の安定を図ろうとする苦心の提案である.
西ドイツの将来の年金保険制度の発展に影響を及ぼす最も重要な要因は,、引
き続き経済的要因と人口構造的要因である.とくに後者は1980年代以上に今
後20年ないし40年は状況が一段と厳しくなり,2030年頃には年金受給者数が
被保険者数を上回るという未曾有の事態の到来が予測されている50).かかる状 ・
況と1980年代の構造改革の動向を考えあわせると,利害関係者多数の支持を、
えると思われる今後の年金改革の基本的方向を集約すれぱ,コルプの指摘する
ごとく,以下の諸点があげられよう51).
①保険主義ないし賃金・掛金の年金額との連結性の原則を今後も維持すべき
520
年金改革と保険主義 ・ (35)
である.
②年金制度の改革はシステム整合的なものでなけれぱならない.すなわち,
歴史的に展開されてきた西ドイツ年金保険の基本原理との連続性が保持され
るべきである.
1 ③年金制度の改革は計画的にかつ長期的展望をもって実施されるべきであり,
さもないと・国民の年金制度に対する信頼を喪失させることになろう.
一 ④最低保障の老え方は,ユ957年以来従前所得保障の原則を採り入れて,長
年国氏の間に定着している西ドイッの年金制度には適していない.もし最低
保障制度が導入されるとすれぱ,それは国や州などの負担で公的費用によっ
て賄われるべきである.
⑤年金保険によっていかなる年金水準が今後保証されるのかを法偉の年金水
準確保条項によって明確にすべきである.そうすることによって,世代間連
帯契約を維持し・従前所得保障を今後も行うということに対する国民の信頼
が形成されることになる.
⑥各種の年金制度間の格差を縮小し,被保険者すべてを平等に処遇すること
が重要である.
ブリュヅクも,第二次年金改革実施後最初の本楮的調整が行われた19ア7年
に,もはや保険ではなく援護に変質している疾病保険と異なり,年金保険は被
用者とその老後保陣の利益となるように,相対的になお無傷な等価主義の安定
をはかり,保険主義を防衛すべきである,と論じていた52).
以上を要するに・保険主義を空洞化しないで,現行制度の枠内でシステム整
合的な構造改革を進めてゆく方向が今後もとられてゆくものと思われる53〕.そ
れは,約一世紀に及ぶ歴史を有するドイッ年金保険制度が21世紀の環境条件
一 の変化にも耐えぬく能カを有しており,現行制度を鹿止して新制度を導入する
ことは長所よりむしろ混乱や危険の方が大きいという基本的考え方にある.す
なわち,システムを変更するのではなく,新しい環境条件に現行システムを正
しく調整することが重要であるとの認識である・そして調整のための負担増は,
被保険者のみならず,年金受給者や政府など関係者全てで分担されなけれぱな
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一橋論叢 第103巻 第5号
らなし、ことになる.
シュバーン=カイザーが指摘するように,等価原理すなわち保険主義への固
執は,西ドイッではすでにほとんどイデオロギー的特質となっている54).この
ことは,たとえぱ租税方式に基づく基本年金構想に対する否定的論議のなかに
も明らかに看取される.
したがって,西ドイツにおける年金改革は,今後も保険主義の隈界を問い続
けながら,現行制度を新しい枠組条件(Rahmenbedingmgen)にいかに適合 I
させるかという方向で模索されるものと思われる.
西ドイッの年金構造改革論議は,人口高齢化,成熟経済という共通の環境条
件の変化のなかで,保険主義に基づく分立的年金保険制度を今後精カ的に改革
してゆかなけれぱならないわが国にとっても,多くの示唆を与えるものであり,
その行く方がきわめて注目されるのである.
49)機械保険料などの構想を本格的に検討した邦文文猷はないが,さしあたり,宍戸
伴久「年金制度」社会保障研究所編『西ト.イツの社会保陣』,東京大学出版会,平
成元年,1ア2−1ア4ぺ一ジ参照.
50) vg1・K・Gretschmam∫R・G.Heinze/J.Hi1bert/H.voelzkow,Durch die Krise
z1」r Reform:Finanziemngs−und Leistungsa肚emativen in der soz…alen S孟chemng,
in:Heinze/Ho皿bach/Scherf(Hrsg一),Sozialst脇t2000,Bom1987,S,18.
51) Vgl−Rudolf Ko1b,Die gesetzliche Rentenversichemng_Gegenw盆rtiges System
lmd zukOnftige A]terssicher1mg,in:Peter Hampe(Hrsg.),a.a−O.,S.66.
52)VgL B前ck,a.a.O.,S.25征箸方「西独社会保険の近代理論」158−165ぺ一ジ
参照.
53)『1986年社会報告』(Der Bundesminist己r f肚Arbeit md Sozla1ordnung,a.a.
O.,SS.29−30)では,今後の年金改革に対する連邦政府の基本方針として,①年
金の保険料連緒性の原理の縫持・②就業者の賃金と年金受給者の年金の均衡のとれ
た発展,③経済的人口構造的枠組条件の変化に年金制度を調整する際の関係当事者
すぺての公平な負担,の三つをあげている.
54) Vg1.P.Bemd Spahn md He]mut K副iser,Sozia1e Sicherheit als b丘entliches
Gut∼,in:G−Rolf/P.B.Spa㎞/G.Wagner(Hrsg.),S02ialvertrag㎜d Siohe正一mg,
Frankfurt/New York1988,S.197。
(一橋大学教授)
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