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「ミドルマーチ」序論
山本, 和平
一橋大学研究年報. 人文科学研究, 6: 41-86
1964-03-31
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/9965
Right
Hitotsubashi University Repository
マーチ﹂序論
山 本 和 平
●
﹁、・、ドルマーチ﹂序論 四一
﹃、・、ドルマーチ﹄は、ヴィクトリア朝随一の知的作家といわれるジョージ・エリオットの多様な関心1さまざま
う。なぜなら作品の印象︵あるいは感銘︶は個々の情景やエピソードではなく、それらの全体の印象だからである。
さて、﹃、・、ドルマーチ﹄全体のうちで最も印象的な揚面はどこであろうか。おそらくこういう設問には疑間があろ
盤がなくなることもまた事実である。この意味で﹁印象﹂に支えられない一切の﹁論﹂は虚妄にすぎない。およそ作
︵2︶
品論の展開をみちぴき窮極的にその統一を支えるのは、良くも悪くもこの﹁印象﹂をおいてないからである。
に変化し、固定した明確な対象としてとどまりえないからである。しかし﹁印象﹂をぬきにしては批評の成立する基
およそ文学作品を論ずるにあたって﹁読後の印象﹂ほどたよりにならないものはない。なぜなら﹁印象﹂は時と共
﹃、・・ドルマーチ﹄︵一八七一−二︶は全八巻八六章に序と結語をもつ長篇である。本論はその成立過程は一応間題外
︵1︶
とし、現作品をひとつの統一的全体として論ずることにする。
序章 主題について
ノ
﹁ミドレ
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 四二
なタイプの結婚の様式とその倫理、恋愛の心理、学問や科学と生活の関係、芸術と実生活、幻想と真実、宗教と偽善、
殉教、遺産相続、金銭と愛、鉄道新設、選挙法改正⋮・−1これら一切を包含する関心の所産であるから、読後の印
象は特定のある情景ではなく作品の全体にかかわるものであろう。そしてそれらを統一するものとして表題の﹁ミド
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ルマーチ﹂があると考えると、はたして叙上の関心が﹁ミドルマーチ﹂として統一されているかということが、読後
印象に照らして検討されねばならないであろう。
表題のミドルマーチとはイギリス中部の地方都市︵コヴェントリがそのモデルといわれる︶の名であり、これには
ッシ.一を舞台にさまざまな階層の人々の上に展開されている。
副題﹁ある地方生活の研究﹂が附せられていて、事実、叙上の関心事がミドルマーチ及ぴその周辺のいくつかのパリ
したがって、﹃ミドルマーチ ある地方生活の研究﹄を題目にした時、ジョージ・エリオットの意図がミドルマ
ーチという町を主人公とする小説にあったとみてよいであろう。さらに、たとえば十一章︵ここで﹃ミドルマーチ﹄
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
を構成する二つの物語、カソーボン“ド・シア主題とリドゲイト”・ザモンド主題のうち、後者のリドゲイトがはじ
めて登揚する︶で、人間関係を微妙にあやつる﹁運命﹂は当事者たちの意識とは別のところで働いているといい.○匡
鷲o≦9置一80δ蔓げ&埠ωω冨お9爵訪窪げけ一Φ目o語誉o旨、、だとしてその﹁社会﹂の﹁微妙な運動﹂、のさまざま
なタイプの例をあげているが、その中のたとえば、一Φωの目畦犀&≦9誘欝ム8、・.鉱5詠轟三9島Φα窪三Φ畠き鴨
9器開帥昌山げ魯o猛雪、とか、Bに99Φ舞巳08博9目o︿o旨①艮き自目ぼ9お、とかいう表現からうかがわれる
●
ようにジョージ・エリォットには、事物の変化、歴史の運動という意識︵少なくとも観念︶が存したことも疑いない。
■
●
﹁、・、ドルマーチ﹂序論 四三
れ を主張するのである 。
されていなかったということになるであろう。ミドルマーチそれ自体にはなにも生じなかったという素朴な印象はこ
このような意味での変革が体験されなかったとすれば、ミドルマーチは生きものとして、有機的統一体として把握
迫ってこなければならない。﹁時﹂の経過はそうした変化のなかで始めて知覚されうるのである。
発端におけるミドルマーチがその物語の展開たる生活過程を通して、その末尾においては変革されたイメージとして
て展開されねばならない。すなわちゴ瞠玄ざ、ではあっても.目○お巨o暮、としてとらえられねばならない。物語の
一地方都市ミドルマーチが主人公として感銘されるには、それがひとつの有機体として、そのいわば生活過程とし
人公として充分な感銘を与えてくれないというのが真実であろう。 ,
ヤ ヤ
人物たちを紹介し、十一章でリドゲイトの詳細な説明をしはじめるまでは、物語はほとんどオースチン的に、ド・シ
ヤ
ア・ブルソクのカソーボンヘの﹁幻想﹂が辿られている。この部分はしばらく措くとして、ミドルマーチなる町が主
第一巻﹁ブルソク嬢﹂の第十章の途中まで、すなわち、作者がブルック氏に晩餐会を開催させて、この作晶の主要
しかし、はたして読者の読後印象として特定の一時代の地方社会ミドルマーチが鮮明な姿をもって感銘されたか、
︵3︶
すなわち作者の叙上の意図が実現されたかとなると問題はまた別といわざるを得ない。
えないであろう。
しかも小説の中でしばしば一八三二年の選挙法改正のための政治運動への言及があるところからみて、﹃ミドルマ
ヤ ヤ
ーチ﹄は、一八三二年に至る数年間のイングランドのある地方都市の﹁社会﹂の動きを意図していたとみてさしつか
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 四四
これに関連してもうひとつ素朴な疑問を提出しよう。なぜ﹃ミドルマーチ﹄の時間はド・シアの結婚に至る経緯
︵カソーボンとの出会い︶にはじまり、彼女の再婚に終らねぱならないのか、ドロシアの経験する時間は、はたして
ミドルマーチの世界の展開における時期的必然性と結ぴついているのか、という疑問である。
ド・シアの結婚から再婚までの時間的枠の中で、ドロシアの物語以外に、たとえばリドゲイトと・ザモンドの不幸
な結婚、銀行家バルスト・ード氏の偽善の曝露をはじめ、大小さまざまな事件が起る。しかしそれらが、、、ドルマーチ
という﹁主人公﹂の生活過程の展開の、ひとつの具体的表現として、ミドルマーチのいわば本質といったものを表現
すぺく描出されているかは極めて疑わしい。
地方都市ミドルマーチの本質は基本的には、たとえばフ・ーベルの﹃マダム・ボヴァリ﹄におけるが如く、ドロシ
アやリドゲイトをミドルマーチと対立せしめることによって曝露されるであろう。そしてド・シアやリドゲイトの精
神の偉大さは、ミドルマーチの﹁社会﹂との葛藤が困難であればあるだけ偉大になるであろう。精神がそのみみっち
いエゴイズムの牢獄﹁私性﹂を脱してパブリックなものへと高まりうるのは、そうしたエゴイズムを本質とする、、、ド
ルマーチという﹁社会﹂と抗争する以外にはないわけである。
ところが・ドロシアもリドゲイトも叙上のエゴイズム脱却の契機を充分に具えてはいるけれど、ほとんど、、、ドルマ
ーチそのものとの抗争にまきこまれることはなく、ミドルマーチの外で孤独にその劇を展開しているといってよい。
ミドルマーチはド。シアを中心とする個人的な、倫理的な人間関係の劇から疎外されたいわば書き割りとして、彼ら
ヤ ヘ ヤ ヤ
●
が空しい騒音をたてて去ったあと、劇の発端と変わらず白々しく残るのである。
●
﹁フィナーレ﹂によって一層強化される。ここで作者は物語の緊迫した劇的時間との断絶を
﹁ミドルマーチ﹂序論 四五
カソーボンとの出会いにはじまりウイルとの再婚に終る物語の時間的枠内で、すべての登揚人物が︵奇怪にも︶まっ
われるのである。すなわち、彼らの﹁劇﹂は一時期の悪夢の所産にすぎなかったのではないか、しかも、ドロシアの
いずれにせよ日常的時間の・ング・ショットのなかで、かつての︵?︶劇中人物たちが忽ち色槌せていくという印
つ
象は蔽いがたいのである。それと共に、彼らの﹁劇﹂が一時の迷妄にすぎなかったのではあるまいかという想念に襲
かは疑問であろう。
と﹁日常的時間﹂との断絶は明瞭であるが、はたして作者が当然視しているようにすべての読者が後日課を要求する
このように一般的な叙述に支援されて、以下物語中の三組の若い夫婦たちの後日調が語られる。ここに﹁劇的時間﹂
暫冨雪Φ畦o励目遂葺㎎①餌讐きαお艮Φ奉一
鷺号旨o暮ψg目錯幕ho=○≦&ξ89窪ω一自二暮Φ旨宕要①お目檬ゆ&爵oヰ一8αq出︵巴けao署曾g昌蔓“
9蟄まρぎ≦雪震な豆。即斜房け9爵①舞営覧09程Φく曾譲①マ蜜o目冨霧日畠け9訂ぎ冥”螢&き
℃き鴇昌島跨Φ目る巳ロg留鴇Φ8雪o≦≦げ異ぎh亀島①日ぼ島霞鋒3学︸。跨聡司9跨。ぼ夷目。旨
はかる。
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.国くΦ蔓犀巨二ω暫げ。αQ一旨ぎ⑫器毒Φ一一器§①注一轟■≦げo。窪ρ鼠け図g凝一一お。。鋒け臼竃冒巴o凝ぎ8目−
乙うした印象は巻末の
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 四六
ヤ ヤ
ヤ ヤ ヤ
たく時を同じくして悪夢に陥っていたのか、という印象、したがって﹁フィナーレ﹂のなかの彼らはさながら狐がお
ちたという印象をまぬかれないのである。
では何故こうした結果になったのであろうか。余りにイギリス的な、﹁秩序﹂への復帰という良識が作用したのか。
あるいは、ジョージ・エリオットの悪しきリアリズム観の所産であろうか。いずれもほんとうであろう。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
しかしいかに弁解してみたところで、作中第一の人物たるド・シアが、ミドルマーチの中で生きのびてしまったこ
どは致命的である。ド・シアはそれがたとえ迷 妄にすぎぬとはいえその迷妄と共に生死するとき劇的人物としての
イリユ ジヨソ
リアリティを獲得しえ、と同時に、ミドルマーチのリアリティは浮き彫りにされたはずである。
ヤ ヤ ヤ ヤ ち ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
むろんド・シア的人物、﹁後代のテレーザ﹂は統計的には、現実世界では、死なないであろう。しかし文学的には彼
女の狂気か自殺によってしかミドルマーチのリアリティは、したがってド・シアのリアリティは獲得されないのでは
ないか。悪しきリアリズム、悪しき実証主義への屈伏がかえって文学的リアリティを奪うことになったのではないの
か。
かくてド・シアの﹁テレーザ的熱情﹂は一挙に﹁幻想﹂ないし﹁空想﹂に転化し色槌せる。ド・シアを中心とする
劇は、白々しい空騒ぎの印象を残して終る。
そこで、﹃ミドルマーチ﹄の世界を、一地方都市ミドルマーチを主人公とする物語という観点から眺めることをや
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めよう。そして作者の意図にかかわりなく、実現された結果から判断して、副題の﹁ある地方生活の研究﹂を﹁あ
●
●
﹁ミドルマーチ﹂序論 , 四七
ある。
あるひとつの﹁人間﹂観によってすべての人間関係が、その一定の視角から把握され、強力に統御されているので
動因、の同質性なのである。
それは、それぞれの独立した関係の展開を支配する︵と作者の考える︶ある理念、あるいは個々の関係を展開する
びつけるのは血縁ではない。又舞台の同一性でもない。
しかし、物語中の主要な人間関係ーたとえぱ、カソーボンロドロシア、リドゲイト”ロザモンドーの相互を結
ラッフルズが系図的にはド・シアの遠縁にあたることになっているのだ。
まうことを発見して驚くであろう。たとえば物語の末尾近くにあらわれてバルストロード氏を脅やかす悪党ジョン・
﹃ミドルマーチ﹄に登揚する主要人物たちの系図をたどっていくと、そのこと.ことくが姻戚関係の糸で結ばれてし
ものでなく、緊密に入り組んだ関係として、しかも圧倒的な印象を与えるものはなぜであろうか。
ほとんど偶然的な人間関係の算術的総和におきかえられているけれど、それら個々の人間関係が全く相互に孤立した
ところで一地方社会ミドルマーチそれ自体が、ある一定の歴史的運動法則の実現の過程として把えられず、個々の、
を展開するのに最も効果的な人間関係を統御するものである。これについては後述。︶
であろう。︵この﹁培養基﹂とは、エゴイズムと反エゴイズム︵富ぎ≦魯首︶を対立的二大動因とする情動の諸形式
なく、培養基のおかれたシャーレである︵すなわち﹁空間的枠組み﹂にすぎない︶とみればほとんど困難はなくなる
る地方生活における人間関係の研究﹂と書き改め、﹃ミドルマーチ﹄をその研究対象でも、又研究対象の培養基でも
ヤ ヤ ヤ ヤ
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一橋大学研究年報 人文科学研究 6 四八
たとえばメアリ・ガースは作者の批判をまぬかれたほとんど唯一の登揚人物であるが、このメアリとドロシアは共
に反エゴイズムという美徳の点では共通であるが、一方メアリはドロシアのごとき幻想をもたない点でド・シアと区
別される、といった倫理的側面での相補関係がそこにあって両者を結合している。
またド・シアとリドゲイトはミドルマーチ的慣習の世界に反搬して理想を追求し、他者のエゴイズムに挫折する点
では共通であるが、ド・シアの挫折は、﹁結婚﹂をその理想実現のための不可欠の媒介たらしめようという幻想に起
因し、リドゲイトの挫折は﹁結婚﹂を﹁理想﹂の追求から区別しうるという幻想に起因する。
このように﹃ミドルマーチ﹄における﹁人間﹂は、窮極的にはエゴイズムと反エゴイズムとを両極とする簡明な対
立と、それらを内在的を本質とする﹁自己﹂を超えようとする﹁幻想﹂iそれは積極面と否定面とをもつー、こ
れら三つの極めて倫理的な要因で構成されているとみてよいであろう。
﹃ミドルマーチ﹄は個々の人物描写や心理描写にお’いては実に客観的な様相を呈しながら倫理的な視点から極めて
主観的に統一された世界 極言すれぱ、叙上の人間観によって強引に構成された世界である。そして細部の豊饒さ
にもかかわらず、全体的にはある抽象性の印象をまぬかれないのも、窮極的には﹁社会﹂に媒介されない個人主義的
人間観、倫理観に基づく人間関係の認識と設定によって、主観的にミドルマーチの﹁社会﹂を構成統一してしまった
ヤ ヤ ヤ ヤ
ところにある。
このように﹁社会﹂の表現にはリアリティを与えることができなかった、﹁社会﹂はせいぜいいくつかの人間関係
●
の総和でしかなかったわけであるが、事実ジョージ・エリオソトはこの小説の方法として個々の人間関係の劇をi
●
●
﹁ミドルマーチ﹂序論 四九
︵2︶ 批評の基盤としての﹁印象﹂の意味については、たとえぱb9薯Uロげげ8﹃↓書9皇、ゆ、一魯睾の冒頭を参照。
08暮貯o蜜o浮&︵↓富q巳く窪望耳9旨δ昌o瑳b擁①探q旨即塁,塔8︶を参照。
︵1︶ 成立過程に関する詳細な研究は甘8巨の切92”客5巳①匿鷺畠坤o臣29Φげ8犀820︿巴1︾の言自琉ohOのo茜o固δ募
と方法を分析してみよう。
以下本論では二つの典型的︵と思われる︶シチュエイションを抽き出して二つの側面から﹃ミドルマーチ﹄の主題
であると同時に、壮大な主題なのである。
﹁運命﹂としての人間関係の構成する﹁蜘蛛の巣﹂を﹁解明﹂することーこれこそジョージ・エリオットの方法
器日冥﹃oq時き鳴oh邑①くき8の。巴一&浮Φβ巳く。お9”︵一琶一。ω巨話︶
巴一島Φ一蒔窪Ho程8目目き山巨βのけげ①8ロ8暮同暮鑑自肺ミ恥唱ミ誉ミミ§黛器山8け&巷o富&o︿9爵緯
のo日暮げ83ぎ§ミ§§身喚馬ミ鼠き、§ミ9§§辛§﹄器。きQぎミ簿遷ミミ鳴ミき§9§亀帆§ミミミ§層爵暮
。冨け≦o巳αげΦ什ぼb即且$αq8器騰山。一貯Φ↓aぼ。日ゆβ巨マの80一冒帥b坦畦oけ白oロωΦ■一暮一①霧けげ鴛Φ
.≦ΦげΦ一暮&匡ω8昌毯ω目霧けロoけ一ぎ鴨↓四津醇匡のo器目筥① 鈴民昧毒o象幽のP一け諺膚oげ呂一Φ爵暮o自
と近代小説家との小説の方法の差を論じて次のようにいっている。
﹁社会の微妙な運動﹂そのものではなく1集中的に意図していたのではないか。第一五章冒頭、 フィールディング
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 五〇
︵3︶ 男界い鶏く駐は、ここにω09巴○げ讐茜霧、が見事に表現されているとみている。目ぎqぎミ目醤昏匿§・や9を参照。
反対に︾旨o一q囚9二①は、﹂き噛§﹃&曽9ご昌ε鮮ぎ閏さ魯旨気ミ9のなかで、二れと反対の意見を出しているが、これに関
する囚①琶oの分析は実にすばらしい。
第一章情動の力学
.主として﹃ミドルマーチ﹄の感銘をささえるのは、個々の情景、エピソードである。それは決して自然描写や優美
な人間感情ではなく、ある室内での二人の人間︵主として男と女︶の危機的な緊張関係のなかにある。﹃、・・ドルマー
チ﹄の展開の基軸にあるのはカソーボン目ド・シア、リドゲイト・・ザモンド、フレッド・ヴィンシーとメアリ・ガー
ス、そしてバルスト・ード夫妻といった主として恋愛と結婚による人間関係であり、それらが、ある危機にたったと
きに情動や心理の軌跡として、ほとんど科学的厳密さといってよいほどリアリスティックにかたられるときその感銘
︵1︶
は圧倒的である。
まずその一例として第三一章のリドゲイトと・ザモンドの対面の揚ーリドゲイトが噂をおそれてしばらく・ザモ
︵2︶
ンドから遠ざかっていたが用事にかこつけて訪問し、結局われしらず︵?︶婚約してしまう揚面である。
↓o図け一
●
唇ωの≦暑壽ω帥一。昌Φ㌔琶葺骨身。山Φ①暑昌Φけ電書3。誉。甘吾陣甚。聾陣。8擁。の娼。&轟
●
embarrassment,and instead of any playfulness,he beg乱n at once to speak of his reason£or callin墓,
and to beg her,almost formally,to deliver tlle皿essage to五er fat五er・Rosamond,w五〇at the且rst mo一
皿ent felt as if五er hapPi箪ess were retuming,was keenly hurt by Lydgateys manner l her blusll had
departed,and slle assented coldly,without adding an unnecessary word,some trivial chainwork which
she had in血er hands enabling her to avoid looking at Lydgate h量ghcr t五an五is chin・In all failures,
the begiming is certainly the half of the whole.After sitting two long moments while he moved his
whip an(1could say nothing,Lydgate rose to goンand Rosamolldンmade nervous by血er struggle between
mortification and the wish not to betray it,dropped her chain as if startled,and rose too,mechanic乱11y,
Lydgate instantaneo臆sly stooped to pick up t1エe chain.When血e rose血e was very near to a lovely
little face set on a fair long neck which he had been used to see tuming about under the most perfect
management Qf self−contented grace But as he raise(1his eyes now五e saw a certain helpless quivering
which touclled him quite newly,and made him look at Rosamond with a questioning且ash。At this
moment she was as natural as she had ever been when she was6ve years old;she felt that her te乱rs
llad risen,and it was no use tQ try to do anyt五ing else than let them stay like water on a blue旦ower
or let them fall over her cheeks,even as they would.
That moment of naturalness was the crystallizing feather。touch:it s五〇〇k Hirtation into love・Reme−
r〃’独トホ」逓縄 、 国1
1曄張瀞博駅母癖・く執寓齢霞駕℃ 卿1
mber that the ambitious man who was looking at tllose Forget−nle−nots u且der the water was very
warm.11earted andτas五.He di(1皿ot know where the chain went l an idea had thrilled through the
recesses within血im whic五had a皿しiraculous effect i且raising the power of passionate love lying buried
there in no sealed sepulcllre,but under the lightest,easily pierced mould.His words were quite abrupt
and awkward;but t五e tone made thetn sound like an ardent,appealing avowa1.
“What is the matter?you are distressed.Tell me,pr&y。”
Rosamond had never been spoken to in such tones before,I am not sure tllat she kne脚w五at the
woτds were:but she looked at Ly(igate and the tears fell over ller cheeks.There could have been no
皿ore complete乱nswer tllan t五at silence,and Lydgate,forgetting everyt短ng else,eompletely mastered
by the outrush of tendemess at the sudden belief that this sweet young creature depen(ied on五im for
her joy,actually put his arms roun(1her,folding her gently and protectingly−he was used to being
gentle with the we&k and su豆ering−and kissed eacll of tlle two large tears。Tllis was a strange way
of alriving at an understanding,but it was a shoτt way,Rosamo且d was not angry,but she moved
backward&1ittle in timid happiness,and Lydgate could now sit near her and speak less incompletely,
Rosamond had to make her little confession,an(1五e pouτed out woτds Qf gratitude and tendemess with
impulsive lavishment.In half an houτhe left the house an engage(1man・whose soul was nQt his own7
酔O≦げoヨげOげ暫αげ○ββ飢ゴゆヨωΦ一h
●
に辛くも維持された無気味な危うい均衡とをになっているー
国鎖℃甘ξ国o器日o昌α島山昌oけ跨ぎ匿900目巨一9ぎαq帥μ矯
げ$暮鷹巳ζ霧墓轟一﹄呂医讐富Hω。霞嘆o巨ξsぼ,
﹁ミドルマーチ﹂序論 五三
作者は・ザモンドの神経の徴妙な揺れをーよろこびから突然屈辱への反応の変化をー科学者のように正確に観
と化し、﹁リドゲイトの態度﹂による刺激を待ち構えるもっぱら受動的な客体として存在している。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
リドゲイトが登揚した時の彼女は﹁傲然と平静を維持して﹂いるが、すでに全身、極度に過敏な﹁感受性﹂の荷電体
α08Φ壁8帥g”昌Φ覧巴けa富↓鼠ヰ匿詫霧
、、客密くぎ曙≦霧巴8Φ,、.という冒頭の一行は、それまでのロザモンドの心理的葛藤の重みと、その葛藤のはて
ジ・エリォットの天才はきらめく。
追いこみ、その試練をくぐりぬける中で、彼らの本性を、のっぴきならない心理の軌跡として、曝露するときジョー
このような心理的緊張の揚面︵それはほとんど倫理︵当為︶と情念との葛藤のシチュエーシ日ン︶へと人物たちを
いささか皮肉な調子をまじえながら、リアリスチックに見事に把えられている。
ここに恋愛の心理におけるある決定的瞬間が、その昂揚した情動と行動との相互作用の必然的な展開過程のなかで、
げに件けぽΦ≦O域ロ曽⇒ポ
●
一橋大学研究 年 報
察し記録するー
人文科学研究 6
五四
即。雷目。呂’≦げo暮浮。呼のσ馨馨暮出。犀霧罵冨Hげ巷bぎ①ωの蓄お冨葺↓巳轟”毒。ねぎ①巳︾ビ耳ξ
■琶撃8、。目暫ロ冨ご冨帰げざ撃げ呂︵一①冨旨3暫ロq昌Φ器のo菖oα8匡ぎ三爵o暮醇&ぼαq琶ロロ昌Φ8ω蟹q
零o目ρのogΦg一≦巴o富ぎ≦○詩≦匪畠昌Φげ区一β﹃霞げ堕昌島①墨匡ぎo⇔冨↓一〇麩o箆一8匠ロ磯魯ピ鴇α撃け①
獣σqげ窪けげ勢昌巳のo匡登
ωぽ霧器旨a⋮⋮以下、裏切られた期待、傷つけられた自尊心は抵抗、反撃の色をおぴる。そしてこの緊張は彼が
立ち去ろうとするとき極点に達するー
國o紹目g9日&①諾辱○臣ξげRω葺一器一ΦげΦ薯8口目o註ゆ。舞一。旨き山跨Φ琶診bg8げ。g爵一“酵oマ
づ&冨↓oげ巴昌霧龍ω5琶Φρき山3のΦεPヨ①。富巳。巴一︾
緊張下の情動が、身体的行動の自由を剥奪するまで極点に達した瞬間のメカニズムの精妙な観察。内面的葛藤
●
旨膿げ、︶の性質の簡潔な分析。そしてその分析によるロザモンドの本性︵。。霧8営旨εbユ号とでもいうぺき︶
の曝露。
●
(.
●
﹁ミドルマーチ﹂序論 五五
以上抽出した二つのパセジの構文上の奇妙な類似性は、それぞれ﹁情動﹂の﹁行動﹂への優位性によって貫かれて
倒的な情動の論理に支配される行動、内面と外面との緊密な相互関係が一挙に把捉されている。
⋮⋮矯︶及び、彼の習慣となっている反応の型についての作者の注解︵.富≦霧富a8.⋮−、︶である。ここにも、圧
き山匹霧&塁呂9跨。薯03鴛ω..であり、あとはその行動の動因たる心理の営みの分析︵.8目甘9Φぐ日霧け9a
リドゲイトの外部的行動は、.い旨αq彗o器葺弩ゼリ葺ぼの胃ヨωさ偉昌αげoけ8一良轟げR鴨旨なきユ℃同9。。けぎ魅︸、・
hΦユ凝lp匿寓馨山g畠oh島①ヨoポ眞Φ8畦ψ
3ロ匿ぽΦびho峯ぎ凶げ醇鳴旨ぐ塑巳鷲gog一昌αq軒1ぽ毛器霧a8幕ぎのαq①旨一〇ミ一9爵。名。莫餌昌αω鼠,
α窪匿一①=訂:野ω語①け旨琶。Q。歪窪8山8①且&。pげぎす冨ユ。ざ8g蟄ξ陰け塞弩霧
い琶凶舞h。茜Φ喜αQΦくΦ蔓け喜αq。質8昌一。δ爵塁・・け①邑ξ藍。葺巨。=①§噂昌Φωω簿島①ω。&
このことはリドゲイトの側の反応においてもそのままあてはまる。
の行動との−分析と描写との1緊密な統一的な表現がここにある。
の分析である。情動の圧倒的支配下におかれた危機的瞬間におけるパーソナリティの、情動の原因とその結果として
昏o唱&げ99毘臣目自↓o器8P日8冨巳βξ・、、のわずか八語で描写され、あとはその行動を惹起した内的情動
ここでロザモンドの如艶にあらわれた行動iすなわち、読者の視聴覚に訴えるごとき行動1は、、男o駕日8自
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 五六
いるといってよい。﹁情動﹂が行為者であって主語はもっぱらその対象、客体におかれている。内的﹁葛藤﹂はロザ
モンドを器署o霧たらしめるし、﹁やさしさの湧出﹂はリドゲイトを完全に支配するのである。しかし﹁情動﹂の質
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
は両者において相異し、その相異は本性の相異である。・ザモンドの情動はω霧8冥塗。鷲答oを、リドゲイトのは
ヤ ヤ
げ一一&8&段富誘を基調としており、﹃ミドルマーチ﹄の二つの大きなストーリーのひとつ、理想にもえる医者と誇
り高い美女の結婚の悲惨の歴史の動因はこうした両者の本性の対立相剋に窮極的にはあるのだ。
ジ日ージ・エリオソトの倫理の理想は、自然流露の情動を基調とする富ぎ壽げ首にある。この揚面における二人
のばあい、ここで成立した﹁奇妙な理解のしあい方﹂には、この臨①一一〇毒のげ首への希求が根本的に欠落している、そ
れぞれ相手のoヨ9δ壼一幕富≦呂諺を自分流儀に解釈しあっている、要するに誤解にすぎない。
いずれにせよ、人間関係の理想的境位としての量一9諾三℃における﹁情動﹂の一義的重要性が、情動の層におけ
る人間の本質認識−人間の実体を、外面的行動のうちに過不足なく顕現されうる﹁性格﹂としてとらえるのではな
くて、内面の危機的相としての﹁情動﹂の軌跡のなかに顕現されるものとみなす人間観tと微妙に絡みあって、ジ
ョージ・エリオソト独特の小説の﹁方法﹂にも及んでいるといってよいであろう。
ヤ ヤ
行動の真の動因を内面の情動にみようとする人間観は、同時に、人間を変化の相下に把えるー﹁性格﹂として行
oo
8暮pぎ富ぢ竃器ρロ貯雪ぼσQ≦げ一魯8琴げ&三目ρ菖器昌雪二と
動発現のチャンネルを固定せずに、変貌する存在としてとらえる認識と結びついている。
≦ 帥
●
げo↓玖。。o負巨のo器の昌o≦琴
●
● ●
卑昌“ヨ区①鼠ヨ一8吋彗国oの即目oロα名一爵即ρ臣ω魯o巳βのゆ器﹃無簿躇§o蓉鳴ミ罫qミ§毯3ミミ匙鵠動ぎ
ぎ“富§ミ誉§罫恥き麩、竃慧ミ動。ミ”跨o囲o詳跨魯ぽ吋$貰ωげ&含ω窪⋮:・︵Hg一一畠日ぼo︶
・ザモンドの逼写轟笹Φ、によって辛くも維持されていた精神の均衡はここで忽ち崩れ、誇り高き美女の仮面は一挙
に剥奪される。・ザモンドの平常の姿としてすでに読者に与えられているイメージはi
国くΦ藁諾ミ①騨コq目島〇一〇一昌閃o器葺oコ山≦器&甘ω紳88爵Φ8コ。。o一〇ロ旨Φ器跨魯昏o≦霧宮一昌ひq一〇〇犀a
鋒曽。≦霧ξ壁菖おき器零①ωの9冒濤ω跨go旨霞&一暮o冨↓唱ざ動耐慧”ωぼ①︿g習什8げ①↓o≦β
&碧器冨↓﹄註8≦。Fけげg診o島山β9雪o≦詳酔o宮鷺8房Φξげ段○≦昼︵=一章︶
︵・ザモンドの全神経、全筋肉は、人から見られているという意識にあわせて調節されていた。生来、自分の
体格にぴったりした役を演技する女優なのであった。自分の性格ですら、しかもまことに見事に、演技したた
め、自分の性格なのかどうなのか正確には解らないほどであった。︶
ここに叙ぺられた・ザモンドの本質的な行動様式−自己意識性、演技性、人工性1がこの揚面で払い落とされる。
﹁意識﹂から﹁自然﹂へ、﹁女優﹂から﹁五歳の童女﹂への変貌。
情動的危機において相貌を変える存在としての﹁人間﹂認識は、リドゲイトの揚合にもあてはまる。一五章の全体
﹁ミドルマーチ﹂序論 五七
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 五八
を費やしてリドゲイトの経歴、性格、ミドルマーチにやって来た動機などが詳細に知らされている。すなわち、彼は
﹁知的征服と社会的善の最も直接的な結合﹂︵.跨①目o馨象お9魯臣程8げ卑≦8口ぎ琶一89巴8呂は窃けきα爵0
8。芭讐&、︶を与えるものとして医者の職業をえらんだ男であり、﹁専門研究の抽象性に抗する暖かい同胞意識をも
ったエモーショナルな男﹂︵きoヨ098包。お暮葺ρ昌昌㊤留号幽鼠−玄o&器霧①o=亀o毛ω匡℃署匡&琶昌韓o&
巴一爵⑫呂誓冨9δ鴇9巷09箪のε身、︶であり、又次のような欠点ゴ℃o$98目巨魯器器、をもっているー
−・⋮浮讐象ω鼠&。ロ。隔巨注≦庄昌σΦ一。話&8げ冒馨Φ一一Φ。g巴暫a。員象α昌。一℃窪Φ跨魯器匡の胤Φ①薗αq
き臼甘凝日Φ旨費ぎ5段旨詳貰ρ9毛o旨。コo咳爵oα霧陣声玄ぽ蔓oコ富げ。ぎαqξo≦目︵惹跨o暮匡の琶に轟︶
けげ騨けげ①≦卑ooげ090円げ○目β0げ暫けo⇔げO門OO鐸昌q國ω∈,晩ΦOロω■
︵彼の知的情熱に属するあの精神の高貴さも、家具や女性やらにたいする自分の感情や判断、あるいは自分が
どの田舎医者より生まれがいいのだということを︵自分から言わずに︶人にわかってもらいたいと願っている
気持、などを看破できなかったのである。︶
要するに専門的研究ではなく人事諸般にたいする感受性、判断力の未熟さが欠点として指摘されている。更に目下研
究に専念すべく結婚の意志がない男であるとも紹介されている。又、作者は一般論で、若い知的情熱は恋の情熱とお
●
なじょうに知らぬまに衰えていく危険を警告し、ひょっとしたら﹁女のながしめに胸をときめかせ﹂たために命取り
○
●
そしてウイルにおいて実現されたのも︵たとい崔Φaではあっても︶この8日目ロ巳9なのである。
例をあげよう。ウイルが・ーマから帰ってはじめてド・シアと会う揚面である。
テキストH
﹁ミドルマーチ﹂序論
五九
間関係︶の探求者そして体現者としての役割りを担って登揚しているが、彼女がカソーボンにたいして求めたのも、
ドと彼女との対決の揚︵八一章︶において著しい。そもそもドロシアは、ジョージ・エリオットの理想的な倫理︵人
とウィル・ラジス・ウとの対面の揚︵たとえば三二章や八三章︶、あるいはドロシアをいわば﹁司祭﹂とするロザモン
ここでいう情動の危機的相下において﹁回心﹂を迫る機能18日ヨ一一巳曾をその契機としてーは、ドロシア
主張を空無化し、魂に訴えて決定的な転換を迫る情動1と極めて類似したものとなるであろう。
想的な条件がそろったばあいには、おそらくあの宗教的回心の瞬間における情動−一切の虚構、理性的判断、自己
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ち ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
こうした本性の曝露、自然への復帰としてあらわれる﹁変貌﹂をひきおこす﹁情動﹂の、﹁自己意識﹂﹁理性的抑制﹂
ヤ
﹁日常的慣習﹂にたいする優位性は、すでに言及したようにジョージ・エリオットの倫理の基調であって、これは理
の8三〇ぼPげ葺ロ注R島〇一蒔馨Φ豊Φ霧一ぐ甘忠8︵一ヨ○巳αと形容する。
な比喩を用いてこの隠されていた本性を、、践Φ慧毛雪9蜜ω巴8暮Φ一〇お一滋轟げ霞一a昌oおぎきω露一&
リドゲイトの叙上の本質的な性向を蔽う理性的な自己抑制が解放されて、この瞬間本性が露呈される。作者は巧み
になるかもしれぬといっているのである。
φ
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 六〇
田g一8匿&暮島。。爵霞霧罵昌2け鋒び。窪薯。ゆ。≦Φ3≦匡。げけ&8窪&島。ロ卑&爵。曽①・∪。,
旨o跨雷一〇H浮o日○日①旨脇o茜9ぽ需け霧げp口α、ω目場3泣oロの一畦詳巴o目騨の9島け≦⋮﹂星8ヨo山キ窃げ≦暮段
螢貯げo↓一げぼ警︸自℃oけOoo℃Φ騨犀毒詳けoβ叶断Φ暫↓けoけげΦo昌o℃o励のo昌≦げ○一昌のげoぽo降隔oロ昌α富oo℃菖<9︵三二幽早︶
︵二人は顔を見あわせた、それはさながらいまここに開いた二輪の花といったふうであった。ド・シアは一
瞬、ウイルにたいする夫の不可解な焦立ちのことを忘れた。豊かな感受性の持主だと解っているた穿ひとりの
人に気楽な気持で話しかけることは、彼女の渇いた唇をうるおす清水のように思われた。︶
ド・シアをウイルにひきつけるのは、自分の内にあるものを理解してくれる彼の器8冥三受i8ヨ旨琶一〇ロの成
立する前提としての な の で あ る 。
一方ウイルの方は、、︻5呂雪犀暫三〇8巨①暮ぼぽδ8E93巴ぼαqチ葺ゴΦ≦塁ぼ層霧窪80h費畦雷9お8
げΦ需跳9菖コoく&、︵﹁純粋な愛をうけるに価する人の前にいるのだと感じて彼の魂はいうにいわれぬ満足﹂︶を経験
する。そして更に作者が介入して次のように附け加える。
一爵ぎ犀ぼωo≦ロ断8一置鵯舞爵Φ臣○日①旨毛Φ8℃①篤Φo“協g毒ΦBo降巴の富お○ξ象くぎΦ目o日窪貫
笥ぽ一二〇くΦ諺ω暮一践a一一一浮①。gも一g雪①誘ohけぽげ巴o<&o豆og◆
●
︵この瞬間の彼の感情は純粋であったと私は思う。われわれ人間は、最愛のひとの完全さのなかで愛が満たさ
●
●
﹁ミドルマーチ﹂序論 六一
うな人物描写における無批判な展開の危険を絶えず孕み、このド・シアとウイルの揚面なども、観念的には理解しえ
チックな、理想的な情動の氾濫の観を呈し、説得性を失うであろう。積極的価値としての情動の自然流露は、このよ
こうした情動の積極的な価値づけも、小説としてリアリスチソクな観察、反省的な分析の統御を欠くとき、ロマン
巳8のなかに基礎づけようとするいわば主情的倫理観1と密接に結びついているといってよいであろう。
人間相互間に実現させようとする要求、真の人間関係を単なる8黛撃菖§や8ヨ目ロ巳8瓜8ではなく、8目e亭
宗教的体験の人間的次元における再現、普遍化への要請1すなわち本来、神との霊的交渉である8目筥偉巳Sを、
理の基調なのである。すなわち、ジョージ・エリオットの、人物描写における情動の軌跡への集中的関心はおそらく、
い証明であろう。しかし実現の如何にか㌧わらず、こうした情動の嵐のなかでの8ヨヨ偉巳8は、作者の理想的な倫
面の設定などは、ド・シアとウイルとのβ巳8がいわば﹁理念﹂としてとどまり、充分におa一器されきれていな
むろん.8目覧9Φ、とか.需ほ。9、とか最大級の空虚な形容詞の使用や、ほとんど素人芝居の大道且ハじみた嵐の揚
嵐のなかでふたりが共通に経験するこうした8三誉o巳8の瞬間、﹁神聖なる瞬間﹂なのである。
に八三章で二人を決定的な結合へとみちぴいたモメントは、自然の嵐と並行し、それを象徴として展開される情動の
的な8目日q巳曾に匹敵する。人間的次元での8目巳信巳8といってよいであろう。さまざまの内面的葛藤のはて
﹁純粋な愛をうけるに価する人の前にいるという感じ﹂すなわち﹁神聖なる瞬間﹂の経験というのは、ほとんど宗教
んるとき、聖なる瞬間を経験するものなのだからゆ︶
σ
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 六二
ても、リドゲイトと・ザモンドの場面ほど説得的ではない。
たとえば二人の対面する姿を﹁二輪の花﹂とするこの比喩の空々しさ。︵同じ﹁花﹂でもテキストーの・ザモンド
の濡れた眼を﹁露をおぴた忘れな草﹂の比喩で形容したが、これの方が説得的だ。8茜9ーヨo−き富は、ついでにいう
と、エゴイストたる・ザモンドを形容するものとして実に利いている。︶比喩のすぺてがいけないのではなく、二人
を理想化しすぎるあまりの﹁花﹂の比喩があまりに安易、内容空疎だというのである。
むろん、ドロシアの巴旨窟§多無技巧性、素朴さ︵ロザモンドのω8匡隆o諄区琴郵演技性に対立し、ε8鼠−
”9¢に通ずるもの︶を指摘して.≦崖堕目場8ユo島甘団9。&ε竃冒ωけ器臨誉覧o器警。≦霧、とあるから、ド
・シアに本質的に具わっている神秘的なカ︵魂の高貴さ︶の作用が、反抗的性格の彼に働きかけて彼もまた﹁花﹂の
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
.ことき﹁素朴さ﹂にまで高められたということなのであろう。しかしこれは理窟である。それが証拠に、作者が介入
して﹁この瞬間の彼の感情は⋮⋮﹂と説明し、﹁そもそもわれわれ人間は⋮・﹂と一般化することによって、これを
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
正当化しなければならないのだ。
さて、情動の回心的機能の最も模範的な表現は八一章のド・シア、・ザモンドの対決の揚におけるド・シアを司祭
とする・ザモンドの体験であろう。
テキスト皿
●
、、搾乏器螢器期go二忽ωぎ幻o鍔導oけ自.。なo巷oユ窪8跨弩o<窪Uo89雷8三α一誉麟頒ぎ曾ω冨琶霧ββ自g
●
●
であった。︶
そしてこれを要約してー
国o旨目○昌伍げ魯伍山巴貯Raげo厩ωo巳葺己零一日℃巳。。①の≦げ帥oげ昌oげ即αβ9犀コo≦昌
け零8蔦Φωω一8信昌山段昌Φ誓げ山巳ロ⑩ぎb葛昌80肺匂08甚毬、ωo目o江o戸
﹁、ミドル マ ー チ ﹂ 序 論
六三
げΦ隔O博Φ, ω一﹃① 一﹁蟄山 げ⑦αq偉昌
てきた未知の世界をこの女はずっと歩きつづけてきたのだと気づくと、それだけにまた彼女の魂はおろめくの
おずおず近づいたひとりの女のこんな予想外の不可思議な感情の披歴にぶつかり、自分にはたった今突然見え
を経験していた。当然自分に嫉妬のまじった嫌悪を抱いているにちがいない人として、反感と恐怖とをもって
ンドは今や、安易に自己を信じ他人を批判していた自己の空想の世界を粉砕しつくした最初の大きなシ・ック
︵それはド・シアですら想像できなかったような、・ザモンドの経験における新たな危機であった。・ザモ
ぎき毒ぎo名昌≦〇二q≦三。﹃げ&甘ω一ぼ畠窪ぎ琶8冨け
一〇葛匡象おαε≦跨房げg堕日曽3げg8巳εヰg巴一爵Φ目oお≦一爵帥器⇒器爵彗昌Φげ曽自げ8け類巴匹β頓
昌①冨負蓼署88げ&≦酵堕のぼぎ窪茜ミΦ邑8鈴且αH。貫器g。≦げ○↓諾け話8の旨↓ξ訂お堕宮−
げΦ諺〇一臨四⇒自oユニo巴90爵Φ諺一簿ロ創9諺ωけ雷昌凶①μ器図需9&誉騨巨馬塁け堕江o昌9団8一ぎ閃ぼ暫≦o巨暫昌毒げo目
爵o守馨αQお客ωげ○島跨帥けげ曽α昌卑詳雪&ゴ臼今紹ヨーミo=山ぎ≦匡9ωげΦげ即αびΦo昌$巴督8”b山①暮o出
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6
六四
︵ロザモンドはいままで経験したことのない衝動に自分の魂をゆだねていた。 ドロシアの情動の圧倒的なカに
動かされて告白をし始めていた。︶
もはやこ㌧で、.︷8賦轟、”、Φ巨o菖8、︸、一日心巳ω窃、とよばれるものの機能について、事あらためて説明する必要はあ
るまい。・ザモンドの経験した.R巨ω、㌦暮①冴巽讐$塞ぎ畠、は、彼女の、鷲峯①、の幻想させた.身雷巨ミ9崔.
の崩壊であり、この、8巳窃玖8、は、テキストーのリドゲイトを前にした揚合と異なり自発的なものであった。
以上ジョージ・エリオットにおける﹁情動﹂の意義に関して、人間の本質的認識及び人間相互の真の理解は、情動
の層にまで下降することによってはじめて可能であるというエリオットの人間観、倫理観、およぴその宗教的8日−
目ロ巳曾との関連について指摘した。
この情動はしかし、情動一般ではなく、各パーソナリティに応じた個性的な型︵反応形式︶をもつこと、たとえば
ロザモンドには誓ω8営ぎげ℃ユ留とでも呼ぶべき、またリドゲイトには匡ぢ住3ロ留目$ωとでも呼ぶべき独自の
情動の型があることを忘れてはならない。そして、この情動に型を与えるパーソナリティ︵逆にいうと、もろもろの
反応形式の統合としてのパーソナリティ︶は、窮極的には、ジョージ・エリオットの人間把握の根本原理であるエゴ
イズムとアルトルイズムに帰着整序される。そしてすぺての人間は、いか虻決定論的に、この両者のいずれかに分属
ヤ ヤ ヤ ヤ
●
せしめられ、それはほとんど全く相互転化する契機を見出しえない固有のものと想定されていたと考えられるふしが
■
●
﹁ミドルマーチ﹂序論 六五
8巳oヨ霧の§琴誉鳩§角き恥騨e昏ぎ四§尊■、ここにはほとんど決定論的な人間観ーどう変革しようもない人間の本性
とるであろう。、幻o紹日8匹詳&言ヨ爵①げ震一葺δ8艮霧巴o霧”呂αげΦを自&o暮≦Oaω9讐碧一葺留彗α
次の一文から注意深い読者なら、二人のこの恋愛感情の昂揚にひそむある欺隔1あるいは誤解−を容易に読み
それを彼の未熟な﹁感受性﹂﹁判断力﹂が恋の涙と錯覚したにすぎなかったのである。
彼女の涙も決して魂を切りかえる浄化の涙ではなく、その本性たるエゴイズムの打撃ゆえの屈辱の涙でしかなく、
にすぎなかったのである。
を根本的に変革するには至らなかったとすれば、テキストーの・ザモンドの﹁五歳の童女﹂への変貌も一時的なもの
ドロシアと・ザモンドの間に成立するかにみえた8巨ヨ毒一8を通じての・ザモンドの﹁回心﹂も、彼女の本性
再びテキストーにもどる。
8ぼ屋け壁$匡目ξ馨壁け轟①日■、
浮ロ&εげ。巨一山ぎけΦ:昏bg一島①臥σ一Φ旨げ①ユ且の馨鼻α菖。。・a8&§冨げげ。﹃菖ωげきρ§α匿Φ
トたることをやめはしなかったのである。﹁フィナーレ﹂で説明されている二人の関係を見給え。.ω冨ω一B℃な8⇒,
エゴイストたち、カソーボンも、フェザストンも、バルスト・iド氏も、そしてあのロザモンドですら遂にエゴイス
開が集中的に辿られていないため充分説得的とはいえないがーフレッド・ヴィンシーたマひとりである。代表的な
あるα﹃ミドルマーチ﹄の全人物中、エゴイストからアルトルイストヘの発展をとげたのはーといっても、その展
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 六六
ーといったものがのぞいている。ここには8日旨信巳8は成立しないし、またともにその必要もそれを感得するカ
もない、いわぱ完全な誤解と自己満足が、そして完全な孤独に至る危機にあるはずである。リドゲイトの﹃ミドルマ
ーチ﹄における敗北は野心的な研究者兼ヒューマニスティックな医者として周囲のミドルマーチ的生活方式、慣習に
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
屈したというよりも基本的には彼の結婚に、妻の本性を見抜きえなかった感受性や判断力の未熟さという個人的原因
にあるのだ。
彼も・ザモンド同様、自己の情動の形式の撰んだ決定的モメントをいわば﹁宿命﹂として最後まで生きぬく外はな
い1認識力の未熟さの罰として。︵女性作家ジョージ・エリオットの鈍感な男にたいするおそるぺき断罪?︶
ピ琶鵯3げ&彗8讐&匡の醤⇒o乏&一〇け註爵の&富ω蒔轟ぎ員目。げ&畠oω窪一獣の出冨讐一〇9審窪β
蟄昌αげ帥山3ドo昌跨oげ日昌Φβ9犀醇一詫Φロづo昌匡ω畦旨ω,国Φ巨霧け≦巴犀器げ08三ρo畦曙ぎαq跨暮げ阜
旨げΦ”甘9h巳 ぢ 。 ︵ 八 一 章 ︶
︵1︶ ﹁情動﹂という語は日常語として熟していないが.①ヨ9す一、の訳語として用いる。.誉9δロ、を特にあらわしたいため
である。心理学では常用されている。
︵2︶ 原文のみ掲げる。日本語訳は巻末に添えておいた。
■
第二章心理分析
●
o
﹁ミドルマーチ﹂序論 六七
H≦崖毒ユ38﹃o彗岳9費菖oPo励一≦一目8b望即ロα①図宵8け≦け碧岩賃富一一目Φ”目8けげoOhけoo島巽
巧一一一ロωρ暫βq宮凶ぼ8︵臨一Φ爵①ぎo犀≦匡oげ≦一一一旨暫犀o図○貫く即のけ犀昌o名一aの¢島o旨一ε爵o≦〇二α叩
けg8≦伍o≦け暮岩信臣&けoε。葵o鳴ー琶匡鴇oにロg誉爵①唇堵o蔭巨注≦富け冨旨Oh評。ヨ岩ρ
ω。島魯3≦呂①8巳低8け冨5巷。躊ぼ頒三島げRげg讐①。、.︾一一g。器円。壽。団<。一ロ日。ω1且一一︸。β
..ぎ自堕一ζ。g一§。∫、、の匿∪。§ぽ詳≦げ。の①ぽ暫耳げ匿巴曇身ぎヨa註匿⇒ぽR。昌まω。。3﹂①g一
テキストW
次の長い引用は第一回の衝突の一部である。
突は陰 に こ も っ た 懐 さ 。 ︶
4、四二章、死期を自覚したカソーボンがドロシアとウイルとの今後を想像し邪推と嫉妬から。︵この四回目の衝
3、三七章、ウイルに財産を分与すべきだというドロシアの提案を契機に。
2、二九章、ウイルの訪問したいという手紙をめぐって。
−、二〇章、新婚旅行中に、ド・シァガカソーボンに仕事の援助を申し出たことを契機に。
形で外化される揚面は四回ある。
神経な提案でドロシアが傷っいた時からはじまる。四八章でカソーボンが急死するまでに、二人の葛藤が衝突という
ドロシアとカソーボンとの葛藤はすでに新婚旅行の計画に際してシーリアを帯同したらどうかとのカソーボンの無
●
1曄訳貌富駕母騨く叔寵卦庫駅o K<
use.”Dorot五ea,in a most unaccountableンdarkly fenlinine manner,endeδwit五a sligllt sob and eyes
full of tears.
The excessive feeling manifested wou1(1alone have been五ighly disturbing to Mr。Casaubon,but
there were other reasons why Dorothea7s words were among the most cutting an(i irritating to him
that she could llave been impelled to use。S五e was as blind to his inward troubles as he to hers:
she had not yet leame(1those hidden conflicts i且11er husba打d which claim our pity,Slle11乱d not yet
listened patiently to his為eartbeats,but only felt that her own was beating violently.In M:r.Casau−
bon,s ear,Dorothea7s voice g&ve loud emphatic iteration to those mu田ed suggestions of consciousness
w五ich it was possible to explain as mere fancy,the illusion of exaggerate(1sensitiveness:always
w五en such suggcstions are unmist乱kably repeated from without,they are resisted as cτue1乱nd un−
just.We are angered even by the full acceptance of our humi1iating confessions−how much more
by hearing in hard distinct syllables from the lips of a near observe1・,those confused murmurs which
we try to call morl)idンa且d strive against as if they were t五e oncoming of numbness!And this crue…
outward accuser was there in the shape of a wife nay,of a youllg bride,who,instead of observing
his abundant pen−scratches an(1amplitude of paper with tlle uncritical awe of an elegant−minded ca−
nary−bird,seemed to present herself&s a spy watching everythillg with a malign power of inference.
蟹●
Here,towards this particular pQint of the compass,Mr.Casaubon llad乱sensitiveness to match Do−
rothea,s,and an equal quickness to imagine more than the fact,He had formerly observed with
approbation her capacity for worshipping the right object:he now foresaw witll su(i(1en terror that
this capacity migkt be replaced by presumption,t垣s worship by t五e most exasperating of all criti−
cisln,一that w五ich sees vaguely a great many飴e ends,an(1has not the least notion w五at it costs
tO reach them.
For the6rst time since Dorothea ha(1known him,Mr.Casaubon7s face had a quick angry flush
upon it.
“My love,”he sai(1,with irritation reined ill by propriety,“you may rely upon me for knQwing
the times and the seasons,adapted to the diH!erent stages of a work whicll is not to be measured
by t五e facile conjectures of ignorant onlookers,It had been easy for me to gain a temporary effect
by a mirage of baseless opinioll l but it is ever the trial of the scrupulous explorer to be saluted
with the impatient scom of chatterers who attempt only the smallest achievements,being indeed
equipped for no other.And it were well if all such could be admonished to discriminate judgments
of which the true subject−matter lies entirely beyond their reach,from tllose of which the elements
may be compassed by a narrow and super6cial survey.’ン
r’・塵巣卜句埴縄 Kぜ
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 七〇
↓匡ω竜。①畠毒器α①一貯震。α三爵讐のロ醇讐費匿お鑑ぎ8ωρ鼻。巷霧偉巴惹爵寄甲o霧窪ぎp犀毒霧
昌gぎαo&①旨マo甘費昌一ヨ冥o≦墨江oPげ葺げ暫含9匿け旨騨b①ぎぼ≦胃︵一8一一8ロど暫昌α旨呂oqo5犀犀o
爵・8目山oq雷ぼのぎ日帥ぼ巳け≦げ魯の且α①旨鴨暮。壁。訂一壁u。鴫。些雷毒の8け。巳網匡の&隔9昌。
≦霧蟄OΦ旨o巳ゆβ菖oロohけげ暮魯騨目o乏≦oユα≦獣oぽのξ8一露緕昌Φ臣出℃℃巳8一暮&o↓留竜o口山ぼの箇信夢o↓■
UO↓o爵臼≦器冒自蒔β鉾暮一昌ゴ醇9旨甲頃即山論①口9び8昌お鷺Φωω置のo<Φ量爵ぎ閃冒げo誘o罵o区8讐爵Φ
αΦ巴おεΦ巨R一算巽旨8ωo日08=o≦呂6≦一爵げRげ臣げ㊤βα、ωoけ一Φ隔ぼ富富警ωり
、.三︾冒伍。Q幕艮暴Q餌く①曙ω毒Φ茜。巨gΦ−誰9霧H象口。鳶昏一。。=・目巨轟、、旨g塁壽8ρ且跨
騨鷺o葺鷲↓霧①暮B①鼻爵暮諾&区8お訂貰琶●
極く巳≦巴なものが重大な結果をひきだすモメントとなるばあいがある。状況によってはそれが決定的な意味を
担わせられることがある。ここにも前章で述ぺた心理的緊張の揚面があるが、ここでは緊張をうみだすモメントがド
・シアの献身的な発言という、ごく自然な、鼠三巴なことである。この緊張の展開について、作者の叙述は充分に
説得的 で あ る 。
リドゲイト目ロザモンドのばあいの展開は主として外的行動と情動との間のダイナミックな相互作用において描写
されていたが、ここではむしろ、カソーボンの内面のメカニカルな分析を中心に展開されている。そのわけは、主と
●
してカソーボンとリドゲイトのパーソナリティ︵個性的な反応形式︶の相異にあるであろう。
●
9
﹁ミドルマーチ﹂序論 七一
優位性を確立したことであろう。しかし彼らの、ぎ≦些置菖o昌一霧、があくまで彼ら個人から出て個人へと回帰する
偉大さは、人間の混沌たる内面の活動を注視し、いかなる外部的な行動にもまさる内面の︵魂の、といってもよい︶
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
︵内面がそれ自体で重大な意味をもつことーこれはどういうことであろうか。たしかにジョージ.エリォットの
ヤ ヤ も ヤ
こととうけとっているのである。それはむろん互に相手の隠された内面.ぼ≦貰α零2三霧.が見えないからである。
素材にそれを構成しうる機会をもっている読者のみであって、間題の二人は互に相手の行動を予想外のこと、異常な
ナリティの本質を掌握している作者と、この揚面に至るまでそれぞれの内面について知らされ、あるいは行動様式を
るカソーボンの言動も彼のパーソナリティの自然な反応であろう。しかしそれを自然、必然とみるのは両者のパーソ
ド・シアの献身的なしかも謙虚な協力の申し出では彼女のパーソナリティの自然な流露である。そしてそれに対す
した理想的人物として想定されている。︶
断力﹂をもつアルトルイスト、ということになろう。そして経験を積んで判断力が向上したばあいのドロシアはそう
として認識されている。従って、理想的なパーソナリティとは、積極的な﹁感受性﹂とそれを指導する透徹した﹁判
分に倫理的なカテゴリーにおいて統御されるところの、感受性︵購8一ぎ堕8冨ま葺身︶と判断力︵冒凝ヨo暮︶の統一
︵ジョージ・エリォットにおける﹁パーソナリティ﹂は、窮極的にはエゴイズム的アルトルイズム的傾向という多
ぞれのパーソナリティに応じたかかる感受性をそなえている。
に転化するように充分な鋭敏な感受性が前提とされねばならない。﹃ミドルマーチ﹄の主要人物たちはすぺて、それ
人間関係に右いて極く訂一≦巴なものが重大な意味をもつには、霞写一巴一蔓に反応する、つまりそれを巴αq昆ぎき8
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 七ニ
ヤ ヤ ヤ ヤ
ヤ
ものであるとすれば、ぼくの意見では、なにほどのことはない。要するに私事にすぎない。彼らの悲劇はほとんど、
ヤ
自己を超脱してミドルマーチという﹁社会﹂の慣習的秩序に挑戦したあげくの敗北としてあらわれるのではなく、そ
の手前で、彼ら個人の内部に仕掛けられた運命、あるいは運命としてのパーソナリティを生きることによってひきお
こされる。すなわちある種の自滅である。︶
さて、﹁結婚﹂は、それがふたつのパーソナリティを最も接近させ、最も深刻な形で対決させてその本性を曝露さ
せるという意味で、幻想を抱く存在としての人間には煉獄である。﹁結婚﹂はもはや当事者たちに傍観者の立揚を許
さない。﹁結婚﹂の揚では、互に相手は観察等にもとづく単なる﹁像﹂として自分から離れて存在するのではなく、
﹁像﹂は日常的現実のなかでたえず苛酷な検証にさらされ、時には突如決定的な変貌をうける場合もあるであろう。
引用場面のカソーボンがそして同時にド・シアが経験したのもまさにそういう瞬間であったのだ。
︵1︶
以下、このカソーボンの心理のメカニズムをテキストに即して分析してみよう。
前段階
カソーボンおよびド・シアの真のパーソナリティは互に他から隠されたものとして前提されている。カソーボンに
とってはドロシアの﹁像﹂こそド・シアである。真のパーソナリティとその﹁像﹂との間に大きな誤差があるとすれ
ばこ の ﹁ 像 ﹂ は 幻 想 さ れ た 像 、 幻 像 と よ ん で よ い 。
,
第一段階︵刺戟ー反応︶
●
’、
﹁、・・ドルマーチ﹂序論 七三
この情動層の﹁反応﹂をバネとし、彼女の言葉という﹁刺戟﹂をひとつの重大な意味をもつ﹁サイン﹂として、ド
、︾一凶9ぢo毎①一〇9≦曽三器8器マ﹄、からこの段のおわりまで。
第二段階︵﹁像﹂の変形︶
あばきだす行為であった訳である。
を揺さぶる大問題であったのは当然である。ド・シアの献身的な行動が実は彼の﹁罪の意識﹂とでもいうぺきものを
を指摘するのではなく、︶信頼しうる唯一の人間とみた妻によって訊問されるのだから、彼のパーソナリティの深部
系の頂点にあるところの学問︶そのものの存在理由が︵たんに自分の下意識が折々意識の表層に浮かびあがってそれ
い結果を招くことになるようなものである。学問に自己の一切を賭ける彼にとって学問︵彼のうちにある価値層序体
抑圧しようとしている意識とは、その意識の指摘するところを承認したばあいには彼にとって殆ど致命的といってよ
ールしえない刺戟−反応の必然的な因果関係である。︶カソーボンに潜在する意識、すなわち彼が自己から隠蔽し、
在化させることによって、。三二夷きα写葺暮ぎαQ.という情動層の﹁反応﹂をひきおこす。︵これは理性のコント・
9ロロ巨げ希錺.まで。この﹁刺戟﹂は、カソーボンに潜在する意識.日q聖&霊αq鴨旨o塁98昌ω90諾幕霧、を顕
2、内的反応及びその理由の分析 .弓富震8隆お常&お旨帥巳澄9a、から、霧崔爵2毒9Φ島Φ88菖一轟
用する。
ュアルに描写されている。ド・シアのパーソナリティの自然な展開がカソーボンのそれにひとつの﹁刺戟﹂として作
−、刺戟 ド・シアの協力の申し出とその態度。.暫ω一蒔穽8げ置自趙窃旨一一9一雷議、まで。ほとんどアクチ
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 七四
ロシアに関する推論と解釈がおこなわれて、その中で.専箆Φ、が.89ω巽.に.雷壼蔓−玄a、がゴ曙、へという
ふうに、ド・シア﹁像﹂は変貌するのである。
第三段階︵反応の外化︶
.ピ厩■○霧程げ目、ω融8げ呂帥ρ鼠鼻騨βαq曙ゆ霧げ唇雲昼、及ぴそれに続くカソーボンの言葉。
このような叙述の展開は一見、前章のリドゲイトと・ザモンドの揚面にみられた情動のアクチュアルな軌跡に似て
いるが、少したちいって分析するとその相違に気がつくであろう。すなわち、ここにあるのは、心理的緊張下の現時
点における内面のアクチュアリティの描写というよりは、緊張の性質、原因の、作者のセンシティヴな知的な分析で
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ある。
ぼくらはここで、カソーボンやドロシアのあるがままの情動の現揚に参加するのではなく、彼らを診察用ベッドの
上にのせて、ひとつの症例としてその患部の症状を分析説明していく臨床教授の声を聞いているのである。
スト リヒ ヤ ヤ ヤ ヤ
物語は、時計の時の流れと可能なかぎり一致するのが、物語展開の最も自然な、それゆえ理想的なありかただとす
ると、ド・シアの献身的な発言とそれに対するカソーボンの反応の間に介在するかなり詳細な心理分析の部分は、物
語の自然な流れをたちきる、いわぱひとつのω鼠器であって、叙上の原則には反することになろう。
はなし
われわれにはおそらく﹁話﹂とか﹁物語﹂とかに関するあるひとつのパタンー童話、昔話、お伽話、民話など、
ほとんどコトバを憶え、話に興味を感じはじめていらい、さまざまな大人や他人から物語や体験談をきき、あるいは
はなし
,
自ら話すうちにひとつのパタンをなしたものーをもっていて、あらゆる賞畦暮貯①にたいして、そのパタンをも
●
9
﹁、、、ドルマーチ﹂序論 七五
てよい。彼女にとって、人間のある存在様式、人間のある行動、そして彼らの構成する事件なるものーつまりま。−
ヤ ヤ ヤ ヤ
らかの意味を担わせられることのないーは、ディケンズとことなりジョージ・エリオソトにはほとんど絶無といっ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 登揚人物たちの行動、表情、あるいは事件の経過等そのものにたいする興味1それらが他のものとの関係でなん
ヤ ヤ ヤ ヤ
ことになろう。
しかし、およそ﹃、・・ドルマーチ﹄は、こうした作者の知的な、分析的な叙述を無視してはその魅力の大半を見失う
といってよいであろう。むろん﹁話﹂がなけれぱ﹁分析﹂もありえない。
マーチ﹄では、﹁分析家﹂が﹁話し手﹂を上廻っている。﹁話し手﹂としての興味より﹁分析家﹂としての興味が強い
ジョージ・エリオットのなかには、素朴な意味での﹁話し手﹂と科学的な﹁分析家﹂とが共在していて、﹃ミドル
いう信仰ーが前提されているのである。
とによってでなければ容易に事柄を信じない精神ー逆にいうと心理分析のなかでは、実体が正しく把握されシると
判断力を理解しうる知的好奇心が要求されるわけである。すなわち﹁心理分析﹂といういわば科学的な操作を経るこ
ヤ ヤ
せているのである。しかもそれは、いわば科学的な冷静な眼による分析的な表現であるから、読者の側に作者の知的
遮断するわけである。しかし、そこには単に素朴な行動への好奇心とは別の、内面への好奇心があってそれを成立さ
したがって、いまω鼠の諺と呼んだこの行動外的な心理分析の部分は、その意味では、﹁物語﹂への素朴な好奇心を
ヤ ヤ
って、それが﹁話﹂を一方の側から支えているわけである。
ってのぞんでいるのである。そしてその根本には、聞き手の側の、物語中の人物の行動の展開にたいする好奇心があ
ち ヤ ヤ ヤ ち ヤ ヤ ち ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 七六
讐08霧1そのものが彼女の表現への嗜欲をそそるということはない、行動は、それ自体の描写として読者になげ
だされることはなく、必ずその動機が析出され、解釈され、意味づけられるのである。
そして﹃ミドルマーチ﹄のもつ倫理性といわれるものもひとつにはこの、行動の動機への還元への操作から生ずる.
そしてその動機なるものはほとんどエゴイズムにおいてその終止点をみいだすため、心理分析は、動機分析となり、
さらにエゴイズム析出という形をとってあらわれるのである。︵あのド・シアでさえ、カソーボンの、首≦鶏山け目窪,
σ一①の、に気附いていないとして作者の倫理的な批判をうけている点をみよ。︶
ジョージ・エリオソトの、このような行動それ自体のま。出ぎな農開としての物語への興味ではなく、人間の﹁内
面﹂にたいする関心への屈折は、外部的行動にたいする素朴な興味と信頼の喪失に起因するし、またそれは、人間の
ヤ ヤ ヤ ヤ
行動の形骸化︵すなわち、行動が、外部にむかって開こうとする情念による起動をもたず、慣習化してしまってい
る︶及び行動の訪弁化︵たとえ情念が存在してもそれが外部へと円滑素朴に展開されずに、屈折し、ω8ぼ鋒8器さ
れた内塞的なエゴイズムでしかない︶に由来するといってよいであろう。
ところで、行動そのものの農開にたいする興味ではなく、内面的な動機分析にたいする傾斜は、物語としての統一
を支えるために窮極的には、作者の強力な知性、綜合的な意識を要求してくるであろう。
また、このような作者の知的なか柿的 描写的ではなくー方法、換言すれば、対象を≦釜2に描出しようと
◎
するよりも、分析的に探求しようとする文体は、作者の一般論、概括の導入を容易にする。
たとえばー
●
O曽び
ぴ08爵$、。。︿o一8鳴§恥一〇且Φ日℃富葺o答o審瓜8けo跨o¢oヨロ融&雲器①ω菖gωo噺
9
﹁ミドルマーチ﹂序論 七七
人間性論に裏づけられ統御されていて、極言すれば、その範囲での、それを具体的に例証するといういみでの、行動
ヤ
人間観察からみちびきだされ、いわばある一般的な命題として、思想として、意識化され論理化されたもの、されう
ヤ
るものをそのすぐ背後にもっているのである。つまり、彼らの個々のアクチュアルな行動といえども、作者の人間論、
そしておそらく、﹃ミドルマーチ﹄の人物たちのアクチュアルな行動の描写も、作者のこうした倫理的な自己反省、
ョージ・エリオットにあるといってよいであろう。
きそれは直ちに人間一般に妥当する真であると普遍化しうる、また普遍化しなければやまない、ある心的傾向が、ジ
ーボンの内面分析があるといえなくもない。といっては誇張になるなら、カソーボンの内面をこのように分析したと
ョージ・エリオットの﹁モラリスト的﹂人間観察や自己反省から得たある人間論的な命題の具体的な一例としてカソ
この一般的叙述は、カソーボンに関する個別的な分析の一般化という体裁をなしているけれども、むしろ逆に、ジ
ど感じられない。この時制上の差を読者は特に意識しないほど、両者の文体上の差はないのである。
冨需暮&ぼo筐三90暮・・⋮、という一般的叙述と連結されているが、この両者の間には表現上の位相の差がほとん
ち ヤ ヤ
というカソーボン個人の内面分析は、ひとつのコ・ンによって.三毛畠ω≦げ窪撃呂釜αQαQΦの瓜o霧ミ馬偉pヨ算舞昏軒
ヤ ヤ
OO口ωO一〇目の昌Oωω: ・
﹃客りσ器帥βびo昌ゴ
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 七八
であるとみてもいいのではないかとおもう。
さて、内面的な動機分析にたいするはげしい興味が、﹁物語﹂としての統一を支えるためには作者の強力な知性、
綜合的な倉諭を要求すると前に述べたが、ある意味で紬都心ぎこの意識性は、同時に危険をはらんでいるのは明瞭で
ある。なぜなら、物語の展開にあたって、作者の関心を集中しうる一般的、抽象的命題を例証しうるがごとき行動、
情況のみが撰択されるし、いわばその撰択に洩れた﹁生活のあまり﹂の部分のはたす機能、撰択されたもののリアリ
ティを補強する機能がほとんど無視されてしまうからである。
たとえば、ド・シアとカソーボンとの結婚の過程が﹃ミドルマーチ﹄の大きな主題のひとつであるのに、結婚式の
描写は﹃ミドルマーチ﹄の世界に全鮒入りこむ余地がないのである。それはリドゲイトと・ザモンドに関しても同じ
である。すなわち、﹁結婚式﹂の模様を描写するということなどは、ジョージ・エリオットの興味の外にあるのだ。
ヤ
また、二人の結婚に先立つ一〇章でブルソクス氏招待の婚約の披露のパーティの描写があるが、それもパーティそ
⑪翻⑪の描写というよりは、そこにやがて登揚するミドルマ;チの主要人物たちを紹介するための揚として利用され
ヤ ヤ ヤ
てしまっている。したがって、パーティそのものの雰囲気がそこから浮かびあがってはこないのである。
﹃ミドルマーチ﹄の世界の一種の息苦しさ、狭さは、内面への集中的関心とか、舞台の制約とか、緊密な人間関係
とかに由るというよりも、むしろ、叙上のような、たとえば結婚式やパーティをそれ自体のために描写することを拒
否するが、ことき、作者の人間論的思想化への集中的興味にあるといってよいであろう。もっともそれは、単なる﹁教
,
義﹂の提示でもなく、また教義の解説のためのお話しでもなく、ジョージ・エリオットの人間観察、自己反省等、自
●
1
たとえば次の一文を検討してみよう。
︼肖震ρε毛卑畦αωげげ房℃帥濤一〇巳騨↓唱oぎ一〇粘け崖①09βb暫ωの”竃けO霧帥gげ○旨 げ担山帥
↓9げΦ陣、ω”陣昌自ゆβΦρ皿aρ巳o犀β①ωω一〇一巨騨讐昌o目oおけげ魯昌けげΦ30壁
9−
﹁ミドルマーチ﹂序論 七九
少くとも、個々の人物、およぴ彼らの個々のアクチュアルな行動︵外的であれ内面的であれ︶のなかに、より普遍
一の側面において担えるという畠跨83二謡菖曾の傾向。それはどこに由来するのか。
およそ対照的なふたつのパーソナリティから共通項としての窪聾貯①冨鴇を抽きだし、その抽象によって二人を同
ド・シアもカソ⋮ボンも同断であるという指摘である。
ここでまず注意すぺきことは、器霧三お語器︵病的に過敏なの窪臨げま蔓︶、﹁事実以上を想像してしまう﹂傾向では、
︿窪Φωのの指摘である。
これはカソーボンの内部におけるド・シア像の変化ー9猛q−露&からω電へのーを起さしめた動因、器窃筐−
ωO旨ω一瓜くOβOωω一〇 目帥けOげUO−
述を優位せしめることは、それが随所に物語の﹁流れ﹂を遮断することによって、物語としての生命力を害う危険性
︵2︶
例えぱをはらむことはいなめないであろう。
る。しかしやはり、こうした具体的描写をほとんど拒否して、一般的命題、あるいはほとんど直ちに一般化しうる叙
分のきぴしい﹁経験﹂に発するものであるから、上述のごときおそるべき人間性の一特質を鋭く開示することができ
●
し ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 八O
的なるものを抽象的に認識しようという傾向、と同時に、ある普遍的、抽象的な概念を介して個別を認識しようとい
う傾向のひとつのあらわれとみなければならないであろう。さらに、パーソナリティの把握において、したがって人
間の価値評価において、ジョージ・エリオットのばあい、ω雪巴げ臣蔓がひとつの重要な指標になる、というひとっ
のあらわれでもあろう。
そして器笏陣げ⋮昌は、碍旨冨昌鴇、思いやり、理解、連帯感という、人間関係の完成において必須の心性の大前
提として不可欠であって、すべての登揚人物はこの器易一げま蔓という側面からの照明をあてられ、それらの個々の
質が曝露されるのである。たとえばこ㌧でカソーボンは、過度の。。魯巴げ臣¢、すなわち器霧葺語器錺という点にお
いてはド・シアと共通であるが、その感度が敏感なのは彼の自尊心にたいしてであって、ドロシアのカソーボンを理
想化するように働く敏感さとは相違するわけである。
ジョージ・エリオットはω目巴げま蔓人間評価の重要な指標とみるわけであるが、それが知的判断力によって統御
されないときには﹁幻想﹂をうむという、ωΦロ。。旨まな自体には価値の積極面と消極面があることはいうまでもない。
いずれにせよ器霧一げ臣蔓というものの異常な関心は次の一文に明瞭にあらわれている。
臼げo巴。目①旨o断貫轟。身≦匡呂一δのぎ跨①くo昌壁oげohぼΦ2窪oざ9の昌g鴇g≦8宣αq匡箒o罵ぼ8
爵Φ8塁ΦΦ馨江8逼&℃Φ旨8ω。葺富馨ω。。巳山鼠邑璽げ①畦目琴げ。=壁H協器富α魯冨窪含喜
◎,
き豊8一碁。3一一。邑β暫qビ壁三竃p淳ぎ監σΦ舜。げ①暫昌σq砕げ①讐婁αq3乏碧α一富呂・一馨一、。。
●
〆O・
コミドルマーチ﹂序論 .・ 八一●
︵2︶R国o茜。=8§醤ミq蕊§葦§風肉ε﹄蓉⇒&誉§︸≦■2鷺β江くΦ
︵1︶ 日本語訳を巻末にそえた。
体、﹁知的﹂な作家という印象を与えるのである。
いするアプ・iチーしたがって小説の叙述方法ーが﹃ミドルマーチ﹄を貫いており、それがいわゆる﹁知的﹂文
いずれにせよ、こ㌧に示されているような、ひとつの一般論として定式化されるが、ことき人間の行動やあり方にた
あるいは諦念があるということだ。そしてド・シアと作者ジョージ・エリオットを区別するのはこの﹁認識﹂なのである。
ひばりの心臓の鼓動まできこえるというーは、日常性、oa一壼q巨旨塁匡①、とはあいいれないものだという認識
ヤ ヤ ヤ
重要なことは、そうしたいわぱ詩的昂揚68ぎけβ琴Φ︶においてあらわれる感受性の極限状態 草ののびる音、
トが、カソーボンやド・シアをうわまる。。雪路貯窪①霧の持主であったことはこ㌧から明らかであるが、それ以上に
これは日常性のうちで摩滅した器島一げま蔓の持主にたいする痛烈な弾劾であろう。こう書くジョージ・エリォッ
には変りはないのである。
をもたないから結構呑気にやっていける、しかしジョージ・エリオットによれば、それがゴ9且&受、であること
日常的些事の中にも敏感なω窪巴げ蕪蔓なら悲劇の要因を認めるはずだ、幸か不幸かわれわれはそうしたω窪ωぎま蔓
o匿Φωけohβ¢薯毘犀卑げ〇一暮≦o二≦騨山α①山妻詳げ警ロ唱一象けざ
げ。豊げ雷げ﹄&討ωげ。β匡・象。崩浮舞δ碧≦げ酵一一霧8浮。。跨g濫。。隔医窪8。密⋮二の︸爵①2や
●
一橋大学研究年報 人文科学研究
あとがき
空9蟄&ω欝昌頒a,”夏器虞跨帆§馳亀Q恥ミ饗曵帆9
ωpみ勢β寓鷺α鷺ミミ宅o慧冒&q恥ミ麓肉窒9
︼影≦8gΦ騨固甘筈o跨国帥塁o目ミミミ§肉墨菖阜欝ミ驚艶§
旨8⇒国gづΦ洋”曾ミ鷺肉討9、訓零旨ぎR麟謁良ぎ壕詠&
国器譲名三〇︸”寒醤 讐 恥 蕊 訓 9 蕊 ミ 璽 恥 婁 画 8 恥
閃●園,UO鱒く一ω”↓訪恥Q憶恥9尊↓曾黛&帖識Oき
︾目昌o崔囚曾菖9臥§﹄蕊さ亀§蔑§ざ罫恥閏き窯躇ぴ窒o竃斜竃卜国
参考文献︵主なもの︶
など論ずぺきことはまだあるが、紙数もつきたのでこ㌧で一応区切りをつけておく。
八二
オットの﹁倫理﹂の基本的問題も当然まともな考察を必要とするであろう。さらに文体における四つの叙述層の問題
いう相貌であらわれ、他者へか、わるときは超日蜜爵団から胤亀o≦警甘 へと展開するという点でジ・ージ.エリ
体のテーマを集中的に分析しなければならないであろう。また、器霧葦一一¢が自己へか﹂わるときは8霧9雪8と
﹃ミドルマーチ﹄を論ずるには以上ではまだ完全ではない。たとえば同じテキストWを用いて﹁像﹂︵幻想︶と実
6
の,野切Φ9①一一”卜§器遷q試§助ミ9§亀肉ξ騨“↓轟亀賦既§
o
国巴㏄騨&、目↓酵爵ミ鷺史賊9富鎌禽砺
●
◎
﹁ミドルマーチ﹂序論 八三
もらいたい。あの鎖をどこにやったかわからなかった。ある想念が彼の心の奥処をおののかせた。それはあの密閉されていな
させた。露をおぴた忘れな草を見つめているこの男は、大望を抱いてはいたが心のやさしい性急な男であることを忘れないで
心が自然にかえるこの一瞬こそ結晶化の作用をする羽毛の一触であった。それは恋のあそびを揺さぶってまことの恋に転化
感じた。青い花の上の雫のようにおくままにするか、頬をつたっておちるにまかせるか、ほかにどうしようもなかったのである。
に眼を輝かせて彼女を見た。この瞬間彼女は、まるで五歳の童女にかえったかのように自然であった。涙がこみあげてくるのを
の頸である・しかしいま眼をあげてみると、ある絶望的な震えが映った。それは全く新鮮な感動を彼に与えた。彼は訊問するよう
顔が彼のすぐそぱにあった。それは、自足した優雅さにいとも完壁に統御されて向きを変えるのをすでに幾度となく見てきたあ
械仕掛けのように立ち上った。即坐にリドゲイトが屈んでこれを拾った。身をおこすとあの美しい細い頸の上の可愛いい小さな
を表情にだしたくないという気持、この二つの感情の葛藤で心が昂っていたので、ぎょっとしたように鎖編みをとり落し、機
リドゲイトは黙って鞭をいじりながらもう二分ばかり坐っていたが、立って出て行こうとした。・ザモンドは、屈辱感とそれ
から上は見ないですんだのである。失敗というものはどれも、その発端だけで全体の半分に相当するということはたしかだ。
計なことはなにひとつ言わずただ冷淡に、承知しましたと言った。一寸した鎖編みだが手にしていたおかげでリドゲイトの顎
以前の幸福がもどってきたと錯覚していたのでこのリドゲイトの態度には気分を害した。頬のあからみは消えてしまった。余
からかうようなことは言わずにすぐに用件をきりだし、ほとんど礼儀正しく彼女の父への伝言を頼んだ。・ザモンドははじめ、
ヴィンシー嬢はぴとりであった。リドゲイトが入って来た時彼女の頬はひどく紅潮した。つられて彼はなにかどぎまぎした。
テキストー 試訳
一①8目Φ尉臼蔓”ミ哉包N§ミ簿昏§き悪8ご。き鼠
●
一橋大学研究年報 人文科学研究 6 八四
い墓、.こく軽い力を加えただけでも穴のあく土、に埋もれている情熱的な恋のカをよぴおこすのに奇蹟的な効果を及ぽす想念
であった。彼の言葉は全く唐突でぎこちなかったけれど、口調のせいで心をこめた熱烈な告白のようにぴぴいた。
﹁どうなさったんです。なにを悩んでいるんです。どうか話して下さい。﹂
しかしリドゲイトに眼を向けた。すると涙が頬をしたたりおちた。この沈黙にまさる完壁な返答はありえなかったろう。リド
こんな調子で話しかけられるのはロザモンドにははじめてであった。彼女にその言葉は聞きとれなかったとわたしは思う。
ゲイトは突然、この若くて美しい女の喜ぴも悲しみもおれ次第できまるのだと確信すると、湧きでてくる優しさに圧倒されて
なにもかも忘れ、ほんとに彼女の身体に腕をまわしてやさしくいたわりながら胸に抱きしめ1彼は弱き者、悩めるものにた
いしてはやさしくふるまうことにはなれていたのであるーそして二粒の大きな涙に接吻した。理解に達する方法としてはこ
れは奇妙な方法ではあったけれど近道ではあった。・ザモンドは別に怒りもせず、おもはゆげにただ一寸後ずさりした。リド
ゲイトも今や彼女の傍にすわって前よりもちゃんとしゃぺることができた。ロザモンドも二三告白しなけれぱならなかった。
ったとき、彼は婚約者になっていた。魂はもはや自分のものではなく、われとわが身を縛りつけた相手の女のものであった。
すると彼の方は、感情に駆られて感謝とやさしさをこめた言葉をふんだんに吐きだすのであった。三十分たって彼女の家を去
テキストW 試訳
﹁それからノ;トを全部﹂とド・シアはいった。彼女の胸はこの問題についてすでにひそかに燃えていた。そこでいま口に
出して言わずにはいられなかったのだ。﹁あの何列にも並んだ本もーいつも話してらしたことをおはじめになりませんの?
1どの部分をお使いになるかお決めになりません? あなたの該博な知識が世のためになるような本をお書きはじめになっ
●・
たら?1おっしゃる言葉通りに筆記したり、筆写したり抜き書きしたりいたしますわ。わたくしって抵かにはなんのお役に
●
﹁O▼
﹁ミドルマーチ﹂序論 八五
苦労するか少しも考えない批評に1代るのでほないかと思うと突然おそろしくなった。
しゃばりに代り、この崇拝は最も腹立たしい批評にーあの多くの立派な結果だけをぼんやり見てそれに達するにはどれほど
もっていた。正しいものを崇拝す.るカが彼女にあることを以前は結構なこととみていたのだが、ひょっとしたらこの能力は出
にこの方向にだけはドロシアに匹敵する敏感さをそなえていたし、ドロシア同様に、事実を超えた想像をはたらかす鋭敏さを
ではなくして、不吉な推理力をもってすぺてを見張るスパイとして存在しているような気がした。カソーボン氏も、磁石の特
嫁の姿でそ乙にいる、そして彩しい走り書やノートを、気晶の高いカナリヤの、批判をまじえぬ畏敬の念をもってながめるの
音されるのを聞いてはなおさらであろう。あまつさえこの残忍な外部からの告発者は、いま妻の姿でそこにいるーいや、花
を病的と称して、それに対しては麻痺の接近に抗らうように抗らおうとするーを傍観者の口からきぴしく一語一語明瞭に発
われは屈辱的な告白を全面的にうけいれるだけでも腹が立つ、ましてや、混沌たる心の囁きにすぎぬものーわれわれはそれ
であった。乙の瓜うな暗示が外部から的確に反復されるときはいつでも、残忍不当なものとしてこれに抵抗するものだ。われ
して説明しうるようなあの、意識がふくみ声で告げる暗示にすぎないものを、ド・シアの声は、増幅して再現してみせたわけ
とはまだなく、自分の心臓がはげしく打ちつづけていることしか感じていなかった。思いすごし、病的な過敏さのうむ幻想と
われわれの憐欄に価するあの隠れた夫の心の葛藤に彼女はまだ気付いていなかった。彼の心臓の鼓動に辛抱強く耳を傾げたこ
別の理由があったのである。彼が彼女の内面的な問題に盲目だったように彼女の方でも彼の内面の問題には全く盲目であった。
なかワたことだが、カソーボン氏にとってドロシアの言葉が痛烈で腹立たしい種類のものであったのはなぜか、それにはまた
感情の披憾過剰というのなら、ただカソーボン氏に煩さがられるだけですんだろう。彼女がはっきりと口に出して言いはし
まじっていた。
む立てませんもの。﹂ド・シァは、なんとも説明しがたい女らしい態度でこう言い終えた時、眼に涙があふれ、すすりなきが
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一橋大学研究年報 人文科学研究 6 八六
ド・シアがカソーボン氏を知って以来はじめて彼の顔にさっと憤りの赤らみがはしった。﹁ねえ諮前﹂、たしなみの手綱で怒
りを抑えつつ言った、﹁時期とか季節とかはわたしにまかしておきなさい。仕事にはいろんな段階に応じた時期があるのだし、
仕事というものは無学の見物人連中が軽々しい推測をやってみたところで判断できるものではない。蟄気楼さながら根拠のな
い意見で一時的な結果をだそうとすればとっくの昔にやってのけられた。しかし、ちっぽけな業蹟をあげるのに汲々としてほ
かにはなんの準備もないおしゃべり共の、我慢のならぬ軽蔑を浴ぴるのも良心的な探求者のいつもかわらぬ試錬なのだ。彼ら
などには全く手にとどかない真の問題を判断するのと、狭隆皮相な調査で理解しうるような基本を判断するのとは、判断は判
断でもちがうんだということを彼らに教えてやれるといいのだが。﹂
なかですでに形をなしていてちょうど穀物を急に熱するとはじけて中から穀粒がとぴだすように、とぴだしたのであった。ド
いつものカソーボン氏に似ずちからのこもった流暢な話しぶりであった。その時突嵯にでた言葉では全くなく、内的対話の
・シアは妻であるのみならず、不評のあるいは失意の著者をとりまく浅薄な世間の化身でもあったのだ。
こんどはドロシアの方がむっときた。自分は夫の主要関心事を理解したいというねがいのほかはすぺてじっとおさえてきた
のではなかったか。
﹁わたくしの判断はとても浅はかでしたわーわたくしにできるような判断なんですものね。﹂彼女はついむっときてこう
いったが、これには別に下稽古の必要はなかった。
︵附記 原稿提出後、海老池教授から拝借した∪碧箆U器げ9”恥恥ミ驚史§、ミ農褻鳴ミミ忌︵同山毛貰q︾旨o匡望9いo雫
︵の①冥■ωO這$◆︶
αoP這訟︶は、緻密な作品論で教えられるところ多かったが、驚いたことに、本論のテキストーの部分は﹁偉大な場面﹂と
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してやはり長々と引用されている。︶
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