46 「 潟 の み ち 」を 辿 る こやま整形外科 小 山 隆 司馬遼太郎の紀行文、 「街道をゆく」の中で新 ていたりすると、やはり半世紀の時の流れと世の 潟を取り上げた「潟のみち」に、 「山中の廃村、 無常を感じます。 小さな隠れ里」と題して村松の奥、上杉川のこと これより先、門原、上杉川と無くなった村が続 が載っています。 「村松は堀氏三万石の旧城下町 きますが、その原因は何と新潟地震だそうです。 で小さい町並みながら気品があり、人々は城下で つまり災害の復旧と建設作業に多くの労働力が必 あることを誇りに思っている」というような書き 要となり、この辺の人達も出稼ぎに行っては町の 出しです。 暮らしを知ってしまう、さらに町に近いことも災 去年の10月その「みち」に行ったことがありま いして離村が進んだとの説です。 す。上杉川村は今の杉川チャレンジランドのあた 急な坂を登りきったところが門原のトンネルで りであり、週刊朝日に連載された1976年にすでに す。入り口近く赤い前だれをつけた地蔵がおりま 廃村になっています。現在暮坪から杉川に沿って す。一体にこの道沿いには地蔵が多く祀られてい 発電所わきを抜ける道が通っていますが、1~2 ます。トンネルを抜けて坂を下り右の渓谷を見る メートルを超す大雪が降る所で路肩が崩れやすく と細い橋が架かっています。これは水道橋でコン 昨年は一時通行止めになっていました。 クリート作りでもなかなかに趣があります。さら 本に書かれているのはそれとは別の夏針経由、 に100メートルほど下ったところが上杉川の集落 仙見川に沿う道です。秋晴れの日曜日、村松公園 跡のようです。神社の石の社が記念碑のように から山に向かってしばらく走り、右夏針の道路標 立っていて道路脇の石垣が往時をしのばせるのみ 識に従って小さな郵便局の角を右折、5分位で夏 です。 針に到着です。由緒ありげな古い家もあり落ち着 彼の作家が訪れた時、ここには離村した空き屋 いた山村の風情ですが、この村から受診される患 を利用した中国語講座の研究所がありました。町 者さんに伺うとここも高齢化が進む一方と嘆いて からさほど遠くないものの、こんな山奥に10人前 おられました。 後の若者が共同生活をしながら中国語の勉強や農 家並みはすぐに途絶え、薄暗い杉林の中を縫う 作業に勤しんでいたとは。ミスマッチというか不 ように少しずつ高度を上げていきます。取材当時 思議な中国語塾です。一体いつまで続いたので は車1台がやっと通れる狭い道だったようです しょう。 が、今ではきちんと舗装され車のすれ違いも簡単 取材が終わり新潟のホテルに戻ったとき、「ひ にできます。しかし路上には落石や亀裂が随所に どく遠い国から帰ってきたような変な感じがし 見られ常常補修が必要の様でした。途中仙見谷ら た」と書かれています。確かに村松の郊外に出か しき村の跡がありましたが、廃棄された墓地にこ けただけなのに、まるで小旅行から戻った気持ち のあたりかと思われるだけで、本に描かれたわら がしたことを覚えています。 ぶきの廃屋が立ち並ぶ荒んだ光景などは見られま (五泉市東蒲原郡医師会だより せんでした。ただ首のとれた石地蔵が土に埋もれ 新潟県医師会報 H27.1 № 778 平成26年12月号より)
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