乙女ゲームの悪役なんてどこかで聞いた話ですが

乙女ゲームの悪役なんてどこかで聞いた話ですが
柏てん
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︻小説タイトル︼
乙女ゲームの悪役なんてどこかで聞いた話ですが
︻Nコード︼
N9111CB
︻作者名︼
柏てん
︻あらすじ︼
ファンタジー系乙女ゲー世界の悪役に転生した主人公が、フェー
ドアウトしようとしていたのに図らずも命を助けてくれた王子のた
めに奮起する話です。8歳で王子の学友になり、現在味方を増やし
つつ9歳になりました。
1話∼33話までは書籍化の為ダイジェスト化しています。
2巻準備の為、2月26日20時には64話まで引き上げとなります
詳しくは活動報告にて
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ダイジェスト化なんてどこかで聞いた話ですが
貴族の娘編︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
25歳にして交通事故で他界した“りる”は、流行の乙女ゲーム
悪役転生を果たします。
生まれついたのは﹃恋のパレット∼空に描く魔導の王国∼﹄、略
して恋パレというゲームの世界。
五歳の時、母親の死をきっかけに強大な力を持つ精霊ヴィサーク
を呼び出し、更にはそれが元で前世の記憶を取り戻した彼女。
その力に目を付けた父親であるメリス侯爵に引き取られ、巨大な
魔力に死にかけながらもリシェール・メリスという貴族としての生
活が始まります。
しかし義母も異母兄も、果てにはメイド達にすらいないもののよ
うに扱われ、彼女は失意のどん底に︱︱︱︱と滅入ってしまう様な
可愛らしい性格でもなかったので、いつもベッドの中では悪役転落
回避のシナリオを練っていました。前世とトータルで三十歳にもな
ると、人間多少の図太さも身に付くみたいです。
伯父として見舞いにやってくる攻略キャラでエルフのシリウス・
イーグ魔導省長官に、心を許しすぎないようにしつつ、小型化した
ヴィサークと暮らしていたリシェールの部屋に、ある日窓から突然
の闖入者が。
彼は金の髪を持つ豪奢な衣装の少年でした。
尊大な態度の彼に最初は戸惑ったリシェールでしたが、話し相手
に飢えていたこともあり、そんな態度の中にも不器用な優しさを隠
し持つ少年に、少しだけ心を許してしまいました。
ところがそんな彼こそ、主要攻略キャラでこの国の王太子でもあ
る、シャナン・ディゴール・メイユーズ王太子殿下だったのです。
できるだけ彼にも関わらないようにしようと思ったリシェールで
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したが、足繁くリシェールの元を訪れては他愛もない話をして帰っ
ていく彼に、いつしか絆されてしまいます。
そしてもう来ないでほしいと言えないでいる内に、その日は訪れ
ます。
急な発作に苦しむリシェールを、魔導で救おうとした王子。
貴族と平民のハーフで、魔力に対して耐性を持たないリシェール
を救うには、危険な禁術を施すしかなかったのです。
王子のおかげで無事健康な体を手に入れることのできたリシェー
ルでしたが、それと引き換えるように禁術を施した王子は倒れてし
まいました。
動揺するリシェール。
騒ぎを聞きつけてやってきたのは、義母のナターシャでした。
倒れた自国の王太子を目にした彼女は、前々から目の敵にしてい
たリシェールを蹴り上げ、命じました。
貴族としての名前を捨て、もう二度とメリス家には戻らないよう
に︱︱︱と。
辺境の村編︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
気絶した少女が次に目覚めたのは、国境付近にある森の中でした。
夜が更けるまで森の中をさ迷い歩いた少女は、風に流れてきた火
の気配に引き寄せられるようにそちらへ向かいました。
しかしそこにいたのは、仕事終わりらしい盗賊団の方々。
彼らに見つからないようにと息を潜めていた所に、一人の若い女
性が連れてこられます。
盗賊達の襲った商隊の主の後妻だという彼女が手籠めにされかか
っているところを、少女は機転を利かせて助け出しました。ゲーム
の中で使われていた魔導を、初めて駆使して。
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彼女の名前はリズ・カールストン。
名前を母親から愛称で呼ばれていた“リル”に改めた少女は、リ
ズの弟妹が暮らす彼女の実家に孤児として身を寄せることになりま
した。
穏やかな村での生活に、リルは久しぶりの安らぎを覚えました。
エルとアルというリズの双子の弟妹も、リルをまるで本当の妹の
ようにかわいがってくれました。
しかし、その村には少し妙なところがありました。
それは、豊かすぎるという事。
農民としては豊かな暮らしをしている村人達に疑念を抱いたリル
は、エルとアルにそのことを尋ねます。
そして、その理由を説明するからと連れてこられたのは、なんと
あの日の盗賊団のアジトでした。
そこで盗賊団の頭目を務めていたのはなんと、攻略対象キャラで
ある騎士団所属のはずのミハイル・ノッドでした。
うっかりと潜入捜査中の彼の名前を口にしてしまったリルは、ミ
ハイルに拘束され、そのまま盗賊団のアジトでの暮らしを余儀なく
されてしまいました。
しばらくは監視と言う名目で小間使いをさせられていたリルでし
たが、五歳の彼女に出来る仕事などそれほど多くなく、エルやアル
とも会えなくなってしまったので、リルは暇を持て余していました。
そんな時脳裏に浮かぶのは、王都を出る時に目にした王子の苦しげ
な姿。
一目彼に会いたいと思いますが、王都に戻れば、再び悪役ルート
に転落しまうかもしれません。
元々、それを回避するために国外脱出を企んでいた彼女です。
その意味では、この豊かで平和で更には国境付近にある村は、リ
ルにとって最高の場所でした。
しかし、自らの危険を顧みずに自分を助けてくれた王子の役に立
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ちたいと、リルは自ら王都への帰還を希望します。
ミハイルの側近であったゲイルに文字の読み書きを教わり、機会
を窺っていたある日、その事件は起こりました。
それは、闇の精霊の出現。
ミハイルの率いる盗賊団の襲った密入国を行う商隊の中に、闇の
精霊に取りつかれた人間が混じっていたのです。
それは、かつて盗賊団に所属し、掟を破ったことにより放逐され
ていたカシルという男でした。
闇の精霊に憑依された彼は我を失い、その凶悪な力があたりを覆
いました。
人々は逃げまどい、ミハイルと一緒に盗賊団に潜入していた騎士
達は、それを必死に食い止めようと戦いました。場所は国境近く。
もしその精霊が国境を越えてしまえば、外交問題になる可能性すら
あったのです。
しかし少数で潜入していた騎士団の手には負えず、闇の魔力は強
まるばかりでした。
ミハイルはゲイルに命じて、リルをその場から遠ざけさせようと
します。
自分が足手まといにしかならないと痛感したリルは、誰でもいい
から助けてほしいと必死で祈りました。
死んだ母親、優しくしてくれたシリウス、そして己の契約精霊で
あるヴィサーク⋮。
そしてその名前が頭に浮かんだ時、辺りに一陣の風が吹きました。
その風は勢いを以て闇の魔法粒子を吹き飛ばし、辺りには静寂が
訪れました。
そして降り立ったのは、巨大な白銀の獅子。
彼こそ、真の力と姿を取り戻したヴィサークでした。
彼の力によって事態は沈静化し、リル達は無事に山を下りること
が出来たのでした。
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騎士団入門編︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
ミハイルに取引などを持ちかけつつ王都へと戻ったリルは、ゲイ
ルの好意で彼の養子になる事になりました。
新たな名前は、リル・ステイシー。
貴族とはいっても、ゲイルは家督を継ぐ資格もない子爵家の三男
でした。
それでも、優しい彼と彼の奥さんに見守られ、リルはしばらく穏
やかな時を過ごしました。
そして将来の為に、ミハイルに師事して歴史や戦術等を学ぶこと
になりました。
ミハイルの勧め︵ごり押し?︶で男装して小姓として騎士団に入
団することになったリルは、初めて王城に上がった日にシリウスと
再会します。
リルに特別な思い入れのある彼は、リルを自分のいる魔導省へと
誘いましたが、彼に頼りきりになる事を恐れたリルは、その誘いを
断るのでした。
可哀そうなシリウス。
実は彼は、前世でリルの飼っていたペットの青星なのでした。
そうとは言いだせない彼の、苦悩の日々は続きます。
リルは赴いた騎士団本部で少々手荒な歓迎を受け、その未知数な
能力を詳しく検査されることになりました。
しかしその結果は悉く﹃謎﹄。
結局騎士団長の計らいで、リルはミハイルの小姓ではなくカノー
プス・ブライク副騎士団長の従者となる事が決まりました。
カノープス副団長は、騎士団の中でも最も魔導の扱いに長けた人
物だったのです。
ところが、冷徹な鉄仮面として知られる彼は、五歳のリルを教え
導くには徹底的に向かないのでした。
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おかげでリルは、六歳の身空で自分で寝床を作って寮に住みつき、
何も言わない副団長の為に自ら仕事を探しては彼に遣えるという、
精神的なハードワークを課せられてしまいました。
騎士団の中では憧れの的である副団長の従者になったせいで、他
の小姓達からはいじめられ、全くさんざんです。
それでも、リルは暇を見つけてはミハイルに教えを乞い、いつか
王子の役に立つためにと、自分磨きを続けました。
そんなある日、リルは訓練中に魔導を暴走させてしまいます。
それは彼女の能力を図ろうとしたベサミという魔導師の策略でし
たが、それによって騎士団本部は大きな打撃を受けました。
ゲイルやミハイルに迷惑を掛けてしまったと青くなるリルでした
が、現れたカノープスは、監督責任を放棄した自分に全ての責任が
あるとリルを慰めました。
そしてリルは、カノープス自身も幼すぎるリルの面倒をどう見れ
ばいいのかわからず、困惑していたのだという事を知るのでした。
ついでに知らされた、カノープスがシリウスの甥でエルフであると
いう知識は、完全ある蛇足でしたが⋮。
そしてリルは、今まで出世と勉強のための足掛かりだと思って勤
めていた騎士団で、今度はカノープスにも誠心誠意遣えようと決め
ました。
いつか王子の役に立つために。
その遠い目標のために、リルは今日も尽力し続けています。
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34 閑話 弥次喜多城中︵前書き︶
やっぱりシリウスはヤンデレかもしれません
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34 閑話 弥次喜多城中
﹁⋮どうにかならんのか?﹂
静かな部屋、仄暗い闇の中に年老いた男の声が響く。
その声は弱り果て、今にも泣きだしそうな哀れさを押し殺してい
る。
﹁こればかりは、私の手には負えん﹂
﹁賢者たるエルフの力を以てしてもか?﹂
どう応えれば王は納得するのだろうか。
この半年、何度も繰り返したはず問答を、二人は今日も繰り返し
ている。
﹁ただ力を注ぐことならばできる。しかしそれでは⋮﹂
﹁﹃王子は人ではなくなる﹄、か﹂
肩を落とした王は、普段は家臣に見せない老いた父親の顔をして
いる。
ここ半年で、めっきり老け込んでしまった。
もともと年齢よりも若かっただけに、その落差は王の周りの人々
を痛ましい気持ちにさせる。
エルフであるシリウスには、王の心労が理解できるとは言い難か
った。
人間と長く暮らし、他のエルフと比べたら格段の感情の機微を有
しているとはいえ、不老不死である彼は人の儚さに慣れ過ぎていた。
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﹁眠っているだけだ。体に異常はない。それだけに、これとした手
段もないのだ。こればかりは時を待つしかない﹂
何度も言い聞かせてるはずの言葉を、今宵もシリウスは辛抱強く
王に伝えた。
王は分かっているとでも言うようにため息をつき、シリウスに背
を向けて王子の手を握った。
温かい手、安らかな寝顔。
本当に、ただ眠っているだけに見える。
朝が来れば目覚めて再び利発な笑顔を見せてくれるだろうと、夢
想してしまうぐらいに。
シリウスは音を立てずにそっと部屋を出た。
そして自分の部屋に戻り、再び机に向かう。
ユーガンは帰宅してしまった。
空気振動が伝わらないようにと術を施された部屋は、しんと怖い
ほどに静まり返っている。
﹁⋮いつまで付いてくる気だ﹂
﹃そっちこそ、もう無視はやめか?﹄
空中で退屈そうに伏せをしていた犬が、顔を上げた。
いや、あれは断じて犬ではない。犬はもっと控えめで従順な一族
だ。
﹁いい加減にリルの所に戻れ。守ると言ったのは自分だろう﹂
溜息まで付け足して、シリウスは吐き捨てた。
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﹃いいのかそんな態度で?さっきのこと、リルに言うぞ﹄
この精霊を小さな瓶に詰め込んで海に流してやりたい。
シリウスはその様を想像して自分の中の憤りをやり過ごした。
﹁やめろ。リルが傷つくだけだ﹂
条件反射のように答えたシリウスに、ヴィサークは鼻を鳴らした。
﹃やっぱりな。お前がやけに簡単にリルを引き取る事を諦めたと思
ったら、裏にはこういう理由があったわけか﹄
図星を刺されて、シリウスは黙り込んだ。
﹃魔法省でリルの身柄を預かれば、その力はいずれ王家に目をつけ
られるかもしれない。それよりも騎士団の下働きに留めておいて、
リルを隠したつもりかよ。
だが、もしリルにこれが知られたらどうする?あの子は知らなか
った自分を責めるだろう﹄
常にない真剣な口調で、精霊はシリウスの痛いところを責め立て
る。
﹁言うな。それは私も本意ではない﹂
シリウスは苦いものをのんだような顔をした。
本当は自分の力を無理やりに注ぎ込んででも、王子を目覚めさせ
るべきなのかもしれない。
でなければ、自分を助けたせいだとリルは自分を責めるだろう。
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しかしそんなことをすれば、王子は人ではなくよりエルフに近い
“なにか”になってしまう。
そうなればもうそれは以前の王子ではない。
シリウスは過去の苦い経験から、ここ半年その処置を施すことを
躊躇っていた。
﹁お前になら、何か策があるとでもいうのか?﹂
﹃エルフに治せないものが、我ら精霊の手に負えるはずがないだろ
う。俺は心配なのさ。もちろん、リルがな﹄
精霊は人々には慈悲のある存在だと思われがちだが、その実残酷
で無邪気な力の塊だ。
自分の気に入ったもの以外、どうなっても何とも思わない。目の
前で苦しむ人間がいたとしても、それを助ける意味が分からないと
いうような連中だ。
更に言うなら、元々﹃精霊使い﹄という厄介な存在がいたことか
ら、精霊たちは人間を良く思っていない。
﹁あの子ならば、もしかしたら⋮﹂
考えないようにしてきた可能性を、シリウスはつい零してしまっ
た。
﹃治せるかもしれないな。しかし只では済まん。多くの代償を必要
とするだろう。それをリルにやらせる気か?﹄
﹁まさか﹂
冗談のように見せかけて強い獣の眼差しを、シリウスは睨み返し
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た。
自分がリルにそんなことをさせるはずがない。それこそ、何に代
えても守ろうと思う唯一の存在だ。たとえこの国が滅びようとも、
それは違えない。
﹁力は尽くしている。お前は何も知らないふりをしていろ。もしリ
ルに知られそうになったら、お得意の可愛い魔法でも使うんだな﹂
シリウスの言葉に、ヴィサークは毛を逆立てた。
﹃お前がこの下らない術を解けば、世界中の音を消してやるさ。そ
れこそ朝露が滴り落ちる音までな!﹄
シリウスはそんなヴィサークを見つめながら、本当にエルフと精
霊と人間は全く違う者どもなのだと不意に思った。
エルフは感情がない。有り余る力と英知を持つ。しかし何かを新
しく生み出すことはできない。
精霊は感情しかない。思慮は苦手でより心地よい方に流れていく、
実体はなく魔力だけの存在だ。
そして人間は、他に比べて圧倒的に非力でか弱いにもかかわらず、
感情と理性を併せ持つ。そして様々なものを生み出すことが出来る。
もしかしたら、その本質は一番神に近いのかもしれない︱︱︱⋮
﹃無視すんな!﹄
精霊の叫びに、シリウスは我に返った。
今自分は、何を考えていた?
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﹃とにかく、リルは俺が護る。お前も絶対リルに王子の事言うなよ﹄
﹁言われずとも﹂
反射的に返事をすると、満足したのか知らないが精霊は窓からひ
ょいと出て行った。
いつも突然来ては怒鳴って去っていく。
ようやく行ったかと思い、シリウスは窓を閉めた。
あれはああいう性格ではなかったはずだが、やはり守護精霊とも
なると違うのかもしれない。
元々ヴィサークは風の精霊らしく自由を愛する、何物にも執着し
ない孤高の精霊だった︵かつては︶。
それがリルを護るとあれほど張り切るのであれば、心強い気もす
るが何より腹立たしさと妬ましさが先に立つ。
本当は、撫でられるのも褒められるのも私の役目だったのに!
感情がないという割に、しっかり欲望まみれの自分を持て余しな
がら、シリウスは書類に向かうことにした。
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35 そんなにうまくはいきません
自慢ではないがわたくし、そろばん検定も電卓検定も簿記検定も
持っていた。ついでに数検と英検と漢検と秘書検定と販売士検定と
ワープロ検定と日商PC検定と普通自動車免許︵中型車は中型車︵
8t︶に限る︶も持っていた。
どれもさして難しくはないが、履歴書を埋めるのには一役買って
くれた検定達だ。
別に検定オタクだったわけではなく、学生時代の杵柄と、ハロー
ワークで失業期間の繋ぎに職業訓練で取得した資格達だ。大半は今
更役に立たないが、とりあえず計算とお茶出しは得意である。
そんな地味スキル達が、まさか異世界で役立つ日がこようとは。
﹁騎士団での事務仕事を手伝いたい?﹂
訝しげな顔︵いつもより少し眉間に皺が寄った程度︶をした副団
長に、私は出来るだけ不安げな顔をして彼の長身を見上げた。
﹁はい、先日のシリウス様のお話を聞き、昼間に寮に一人で残って
いるのは不安を感じます。お邪魔は致しませんから、本部の隅にで
も置いていただけたらと思いまして⋮﹂
か弱い子供を演じてみる。演じなくても、実施私はか弱い子供な
んだけれど。
副団長は考え込むような顔を見せた。
その理知的な頭で、私の提案を両天秤にかけているんだろう。
そして決断は早かった。
﹁分かった。寮の警備も決して甘くはないが、不安に感じるという
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のであれば同行を許そう。ただし決して邪魔にならず、勝手に出歩
いたりはせぬように﹂
﹁はい!ありがとうございますカノープス様!﹂
私はハキハキと返事をして笑顔を見せた。スマイル0円は大得意
だ。
***
﹁彼は団長の第二従者で、名前はクェーサー・アドラスティア。彼
に付いて仕事を覚えるように﹂
朝の一通りの仕事を終えて騎士団に行くと、副団長に一人の青年
を紹介された。
仰々しい名前の割に、平凡な外見の青年だ。
東洋人のような見た目で、小柄で童顔らしくちょっと小年っぽい。
でもその困ったような笑顔が年齢を感じさせた。
貴族に囲まれていると平凡な外見というものが逆に珍しいので、
なんだか無条件にほっとしてしまう。
﹁君が噂の副団長の従者君だね。僕は団長の従者だからこれから一
緒になる機会も多いと思うけれど、どうぞよろしく﹂
﹁こちらこそよろしくお願いします﹂
敬礼されたので、こちらもそれに応える。それらのやり取りを確
認すると、副団長はあっさりと私を残して去って行ってしまった。
基本的に薄情な方ではないから、忙しいというのは本当らしい。で
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も私を放っておくこともできないから、今度は別に教育係を付ける
ことにしたようだ。
﹁申し訳ありません、アドラスティア様。お手を煩わせてしまいま
して﹂
私がそう言って頭を下げると、彼は恐縮したような顔をした。
﹁いやいや、僕は団長の従者と言っても第二だし、貴族としての家
格もそんなに高くないんだから硬くならないでくれよ。同僚として
よろしく頼む。名前もクェーサーでいいよ﹂
﹁でも私の方が新参者ですし⋮﹂
﹁いいんだ。むしろ君が来てくれて助かるよ。カノープス様は今ま
でに従者を持ったことのないお方だから混乱することもあると思う
けれど、頑張ってね﹂
﹁はい、よろしくお願い致します﹂
新入社員の心得一として、とりあえずはきはき返事をしてみる。
久しぶりに家政婦以外の仕事が出来そうで、私は不謹慎にもワク
ワクした。
いや、別に家政婦が嫌いなわけではないんですがね。
たまには机に向かって仕事したい時だってあるんですよ、人間。
前世ではパソコンの見過ぎで究極のドライアイだった私だが、今
世ではディスプレイもないと思うとちょっと寂しかった。
﹁まず覚えてもらう仕事は、カノープスさま宛の手紙や荷物の仕分
けだよ﹂
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そう言って連れてこられたのは、カノープス様の私室の横にある
従者の控え室だった。
なぜここに?と疑問を持つよりも前に、目の前を埋め尽くす手紙
や包装されたままの荷物の山に私は目を丸くする羽目になった。
言葉も出ない私の反応を見て、クェーサーは困ったように笑う。
﹁驚いたろう?これらはすべてカノープス様宛なんだけれど、あま
りにも量が多すぎて手つかずになっているんだ﹂
﹁でもこの中に急ぎの手紙とかあったら大変ですよね?﹂
﹁いや、急ぎの知らせや優先順位が高いものは、着た時点で僕らが
ざっと仕分けしてカノープス様に渡していたんだよ。これらはカノ
ープス様に懸想する令嬢の手紙だったり、繋ぎを作りたいその親た
ちからの手紙が主かな。君にはこれらを差出人別に仕分けして、あ
とは中身にざっと目を通してその内容を重要と思われることだけ書
類にまとめること﹂
﹁え、読んじゃっていいんですか?﹂
﹁ご本人の許可は頂いているよ。たださすがに僕たちもそこまでは
手が回らなくてね﹂
クェーサーは既にそれがデフォルトになっているらしい困り笑顔
で私を見下ろした。
その顔から、私は不意に悟ってしまう。
カノープス様は、私に﹃仕事をしている﹄という名目を与えるた
めに、特に必要性のない仕事をわざわざ見つけておいて私に割り振
ったのだろうということを。
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これで私は気が済んで満足。カノープス様も私に煩わされずに満
足⋮。
ってなるかボケェ!
最初に感じた呆れを通り越して、私は俄然燃えてきた。
副団長がそのつもりならこっちだってやってやろうじゃないか!
この山となった手紙たちを、見事に仕分けしてやりますよ!
黙り込む私を違う意味に取ったのか、クェーサーは私の肩にポン
と手を置いた。
﹃⋮﹄
こんな時率先して悪態をつきそうなヴィサくんが、その時は何も
言わなかったことを、私は特に気に留めてもいなかった。
19
36 お仕事モード発動中
﹁これがノストラード子爵家で、これが⋮またルマンド侯爵家?!﹂
私はまず、山積みの手紙を差出人別に仕分けすることにした。
仕事を始める前から、付き合ってられないと判断したのかヴィサ
くんは姿を消してしまっている。
それも当然で、その量は一日だけでは到底終わらず、更に手紙は
届くほどにどんどん追加されるのでなかなか終わらない。
こんなときは、心の中で私は会社の歯車ですよーと念じてみる。
もともと単純労働は苦にならないタイプなので、差出人ごとの簡
単な仕分けはなんとか三日で終了した。
次はその内容だ。
この中に魔術が掛かったものはないそうなので、遠慮なく封を切
り中身をななめ読みしていく。
最初は貴族独特の迂遠な言い回しや、複雑すぎる人間関係に苦慮
したが、山の半分を切り崩したころからその作業にも慣れて効率が
上がった。
私は手紙にガンガン目を通し、重要と思われる事項についてはメ
モを取った。
差出人別に読んでいくと、ある特定の個人の事を異常に意識して
いたり、自分が悪く思っている人間について遠まわしに扱き下ろし
ていたりして、今の貴族社会の情勢が窺い知れて大変面白かった。
令嬢は他の令嬢の足を引っ張り、その親達もまた然り。
ふつう自分あての手紙に他人の悪口を書いてくるような人、好印
象なんて抱けないと思うのだけれど、彼女らやその親らにその考え
はないらしい。
この作業によって、私は少なくとも十以上の貴族の弱みを握った
と思う。 20
でも、手紙が最近の物に近づいてきたところで、私は面白いとは
言えなくなってしまった。
それは、色々な人の手紙のあちらこちらに、王家に対する不満や、
それに対する騎士団の対応を窺うような文面が記されていたからだ。
そういえば、ミハイルはかつて怠惰王の時代、騎士団がクーデタ
ーを起こしたと言っていた。
それの名残で、今でも騎士団内に単独の会計機関が存在している
のだと。
ということは怠惰王の時代以来、それを廃止するだけの強力な権
力を持った王が登場しなかったということかもしれない。
何気なく聞き流していたけれど、今の状態でもし軍が独自の資金
源を持っていたとしても、王様はそれになかなか気づけないだろう。
普通は国が平和になればなるほど、軍事の決定権は軍を離れて文
官に近づく。
日本でいうところの文民統制、つまりシビリアンコントロールだ。
でもこの国は、違う。
乙女ゲームの中では、﹃とある平和な王国﹄という設定だったか
らその可能性をまったく考えていなかったけれど、この世界にだっ
ておそらく内乱や戦争があるのだ。
ミハイルの授業は前世の歴史の授業と同じように遠いどこか別の
国の話として聞いていた私だけれど、改めてその認識は間違ってい
たのだと思い知らされた。
手紙から立ち上るきな臭い匂いに、知らず身震いがした。
そして一通の手紙に、私は目が留まった。
﹁シャナン王子の⋮留学?﹂
その文章の意味を理解するのに、私はしばらくの時間が必要だっ
た。
21
慕わしい、でも知りたくはなかった、シャナン王子の近況。
その手紙は確かに、シャナン王子が最近身を隠すようにひっそり
と他国に留学したという話が書かれていた。
嘘、だろうか?
そんな話は、聞いていない。
いくら下っ端の下っ端の私にだって、自国の王太子が他国に留学
するとなったらその噂話くらい耳にしているはずだ。
特に、私はステイシーの家にいたのだから、平民の家よりは貴族
社会の傍にいた。
なのに、そんな話は知らない。
でも、それを一概に否定することが出来ないのは、今まで読んで
いた手紙の中にも、王太子の体調不良を伝えるものや、公式の場に
出てこない彼の存在に疑問を呈するものなどがあったからだ。
私は混乱し、恐怖した。
本当にただ留学しているのなら、いい。
離れていても、いつか役立つ日が来ると思えば、頑張れるから。
けれど、それがもし別の理由だったら?
王太子が貴族の前にも出てこられないなど、この世界の常識に疎
い私だって奇異だとわかる。
もしかしたら、王太子の地位まで剥奪されかねないほど重大な事
態だ。
体調不良とは、どの程度の物だったんだろうか。
それが酷くて、例えば病を治すための外遊とか、不調を隠すため
に留学という嘘をついたのだろうか?
思考はどんどんと悪い方へと転がっていく。
まさか私が、私の治療を王子が無理に行ったから?
考えたくないと思いながら、思考は二転三転しながらどうしても
その考えにたどり着く。
なのに私はそれも知らず、のうのうとステイシーの家で甘やかさ
れて暮らしていたというのか。
22
こんな、下民街出身のつまらない子供を助けるために、王子が?
そんなバカなこと、あるはずない。あっていいはずがない。
手紙を持つ手が震えた。
暑い吐息が漏れる。
泣かない。泣く資格なんかない。
まずは、真実を確かめるんだ。
情報に大切なのは速度と正確性だと、ミハイルに習ったじゃない
か。
私は更なる情報を得るために、手紙の山に没頭した。
それから私は、副団長に無理を言って何日も本部に泊まり込んだ。
勿論寮の副団長の私室の掃除や、料理などはきちんとこなしたが、
それ以外の時間はずっと本部に詰めて手紙を読み込むことに専念し
た。
一度読んだ手紙も、更に目を皿のようにして読み返す。
どんな些細なことでも、どんな情報につながるかわからないから
だ。
幸い、普段は口うるさい副団長も、手紙を読んでいる分には危険
もないだろうと判断したのかそれほど干渉しては来なかった。もし
かしたら、自分が押し付けた仕事だという負い目があったのかもし
れない。
それでも、毎日食事が終わると早く寝るように通告が来るので、
私は彼の眼を盗んで布団の中に光のペンタクルを描き、それに潜っ
て手紙を読み続けた。
そして半月が経った頃、手紙の整理の仕事がようやく終わりを告
げた。
私は必要事項や重要事項を書類にまとめ、あとで役立ちそうな手
紙は何通か懐に残し、残りは副団長の指示ですべて焼却する事にな
った。
騎士達に運び出されていく手紙の山を見ながら、私は彼に手紙を
23
出した令嬢たちにちょっと同情した。
﹁こちらが手紙の内訳や差出人の方の氏名一覧になります。手紙の
内容やそれについて類推される事項をまとめた書類はこちらです。
重要度が高い順に記してありますので、少なくとも一枚は目を通し
ていただきたく存じます﹂
私の対使えない上司用社会人モードに、副団長も負けず劣らずク
ールな目で私を見た。そして渡した書類に目を落とす。
﹁⋮﹂
﹁なにか?﹂
﹁いや。書類仕事は得意なようだな。他に経験のある業務はあるか
?﹂
仕事の評価は上々のようだ。私は思い切って考えていた言葉を口
にした。
﹁はい。計算や会計処理が得意です﹂
言ってから、胸がドキドキした。
嘘ではない。どっちも得意だった。前世では。
でも、本当はこの世界での会計処理なんて知らない。
なのに私がこう答えたのには、ある目的がある。
副団長は今、会計処理に四苦八苦しているらしい。それを手伝え
ば、副団長の側にいる時間も増えるだろう。彼の側にいれば、王子
について何か有用な情報が得られるかもしれない。私はその小さな
希望に賭けた。
24
ついでに、軍部︵騎士団︶のお金の流れを知れば、この国のきな
臭い部分を少しは知ることが出来るかもしれない。副団長やミハイ
ルの様子から言って騎士団がクーデターを起こすことはないとは思
うけれど、例えばどの地方の支部に対して警備に力を入れていると
か、それが分かるだけでも色々と思案する材料にはなる。
別にスパイするわけじゃない。王子の役に立つためだ。私は自分
に言い聞かせた。そしてゲイルやミハイルに若干の疾しさを覚えつ
つ、副団長の反応を待つ。
副団長はしばらく何かを思案した後、口を開いた。
﹁では、明日になったら新しい仕事を説明する。今日は休め﹂
緊張していた分、私は肩透かしを食らった。
﹁まだ昼ですよ?まだ働けます﹂
食い下がる私に、副団長はため息をついた。
﹁顔色が悪い。寝不足だろう﹂
痛いところを突かれ、黙り込む。
確かに仕事を片付けるために、ここ何日かは睡眠時間を少ししか
取れなかった。それは早く仕事を終わらせたいからというより、何
かしていなければ余計なことを考えてしまって眠れないというのが
大きな理由だったのだけれど。
﹁もういい、眠れ﹂
そう言って副団長手を翳すと、まぶたがどんどん重くなってきた。
私は抵抗しようと頑張ったのだけれど、結局それに抗いきること
25
は出来ず意識を失ってしまった。
何かに温かいものに抱き上げられたような気もするけれど、その
胸は母の物とは違って硬かったように思う。
26
37 怒り心頭
約束通り次の日から、会計業務の手伝いが始まった。
はじめに簡単な計算問題をいくつか出され、それに回答する。
足し算にこんなに緊張したのって、初めてかも。
ちなみにこの世界、日本で作られたゲームだけあって十進法の上
にアラビア数字が使われているので、私的に違和感がなくて非常に
楽だ。
筆算をするほどでもないので、私は手元に架空の算盤があると想
定してひょいひょい暗算していく。
社会人になってからは計算機ばかり使っていたので錆びついては
いるが、ステイシーの家にいる間に習った初等数学の授業で慣らし
たので大分勘が戻っているはずだ。
いくつかの問題の答えを記した所で、カノープス様に手元の紙を
浚われてしまった。
﹁⋮どうやって答えを出した?﹂
あれ?ステイシーの家では何もつっこまれなかったよ?
﹁暗算です﹂
﹁この桁の合算でか?それに、その指の動きはなんだ?魔導でも使
っているのか?﹂
質問攻めだ。
それにしても暗算しただけで魔導って、今更だけどファンタジー
世界だな。
27
﹁これは魔導ではなく、手元に道具があると仮定して計算していま
す﹂
﹁道具とは、算術用の道具か?﹂
﹁はい、現物がないのでうまく説明できませんけれど⋮﹂
しばらく難しい顔で眉間を揉んでいた副団長だったが、やがて諦
めたように重い溜息をついた。
﹁いい、今は詳しく問わない。これらの計算は全て正解だ。お前に
このレベルの計算を任せても大丈夫だということが分かれば十分だ。
今はな﹂
なんだか、自分に言い聞かせてるみたいな言い方だった。
そんなに異常みたいな扱いされると、地味に傷つくんですけどね。
カノープス様は、自分の執務机に乗っていた大量の書類を私用の
小さなテーブルの上に置くと、言い放った。
﹁ここに記されている計算をすべて検算しろ。間違えのないように﹂
私はよくもまあここまで積み上げたなという書類を見て、心の底
からパソコンが懐かしくなった。
それから二人で黙々と作業に取り組む。
それにしても、今まで副団長は一人でこの量の書類をこなしてい
たのだろうか?
プラス通常業務をこなしていたなんて、それは忙しいはずだ。忙
しいはずというか、完全にオーバーワークだと思う。こんなことな
らもっと早く手伝うって申し出ればよかった。小さな下心はあるに
せよ。
28
積み上げられた書類には、騎士団で購った備品などが箇条書きに
されていて、その横にその個数や金額が書かれ、更に紙の一番下に
その合算の答えが書かれていた。
それにしても⋮これ。
なんだかすごく雑な書類だ。字も汚くて読みずらいし、数字が抜
けているところがいくつもある。
やる前から嫌な予感しかしない。
私は書類の山をもう一度見て、溜息をついた。
陰謀だのなんだのの前に、伝票ぐらいちゃんと書こうよ!
結局、何枚かの書類をチェックしただけで私はとても消耗してし
まった。
なぜ上司に提出する書類に計算間違いなどあるのか。
それも一ヵ所ではなく大量に。
この世界の労働観念とはどうなっているのだろう。
真面目にサービス残業とかしてた過去の自分が馬鹿らしくなる。
﹁副団長⋮間違っているところがとても沢山あるのですが﹂
﹁それを検めるのがお前の仕事だ﹂
と、にべもない。
ああ、さいですか。
やがて夕刻の鐘が鳴る頃、私はようやく最後の書類に正しい解を
書き入れた。
達成感でのびーっとする。
この体のいいところは、肩こりがないところだ。
ちらっと副団長に目を向ければ、最初に腰かけた時とまったく同
じ体制で座っていた。
29
そういえば、今日一日ずっと副団長はここでデスクワークをして
いた。
この人は本当に騎士団所属かと、私は内心で呆れた︵勿論この書
類を提出した人間に対して︶。
﹁終わりました。カノープス様﹂
﹁ああ⋮ちょっと待て、全てか?﹂
﹁えーと、そういうご指示でしたよね?﹂
﹁途中の品目と数量もちゃんと確認したか?﹂
疑われて、ちょっとムッとする。
﹁致しました。それではわたくし、ご夕食の準備がありますので、
先に寮に戻っております。カノープス様はいつ頃お戻りになります
か?﹂
﹁あ、ああ⋮これが終わったらすぐ行くが﹂
カノープス様の視線を背中に浴びながらきびきび歩く。
頑張って夕食前に終わらせたのに、疑うなんてひどい話だ。
私は本部を出ると、早足で寮の食堂へと向かった。
***
30
﹁騎士団の主計部って一体どうなってるの!?﹂
カノープス様の食事の給仕を終え、私はその足でミハイルの私室
に駆けこんだ。
出会い頭の私の剣幕に、ミハイルは驚いたようだった。
この部屋はヴィサくんに風の魔法を掛けてもらって防音になって
いるので、安心して大声を出すことが出来る。
ちなみに、ゲイルは自宅へと帰った後だ。
﹁なんだ藪から棒に﹂
﹁今日カノープス様の書類を手伝ったんだけれど、ひどい書類だっ
た。間違いだらけだし見にくいし、あんなの上司に提出すべきじゃ
ないよ!﹂
私の怒りに、ミハイルは納得したような微妙な顔になった。
﹁まあ主計部はなぁ⋮それにしてもお前って、仕事に対してほんと
真面目な﹂
私が真面目なんじゃなく、平気でサボってるやつらが不真面目す
ぎるのだ。
国民の作ったシュピカでパンを食べてるくせに、サボるとはマジ
で何事だ。
﹁あそこは今ではお飾りみたいなもんだからな。お前が怒るのも無
理はないが﹂
私の怒りを宥めるように、そう言ってミハイルは苦笑した。
31
﹁お飾りって?でも主計官様には特別な権利が認められているんで
しょう?﹂
﹁それは昔の名残ってやつだよ。今の主計官はほぼ名誉職だから、
自ら業務に携わるなんてことなさらないし、上がってきた書類に判
を押すだけの仕事さ﹂
﹁あの書類を!?﹂
私は本気で驚いた。
あの書類がそのまま通過しているとしたら、主計部なんて全く意
味のない部署だ。
誰か査察入れ。査察に。
﹁じゃあ、騎士団の予算はどうやって決めるの?﹂
通常は前年に使ったお金によって予算が決まるものじゃないだろ
うか?
少なくとも私の常識では。
﹁騎士団の予算は割合で決まっている。税収の一割程度だったかな﹂
﹁一割!﹂
﹁お前、さっきからいちいちうるさいぞ﹂
ミハイルは迷惑そうに眉を潜めたが、私はそれどころではなかっ
た。
税収の一割ということは、国家予算の一割ということだ。
そんな大金がつぎ込まれている騎士団の、会計機関があんな杜撰
32
な書類を上げてくるなんて!
私は呆れを通り越して泣きたくなった。
だって税収ということは、それは国民たちが頑張って稼いだお金
の何割かということだ。それをそれこそ湯水のように、戦争もない
のに無駄に使っているなんて、許しがたい。
﹁⋮ねえミハイル。最近遠征って行った?﹂
私の突然の問いに、ミハイルは面食らったようだった。
﹁いきなりなんだよ。国境から帰ってきて以来、遠征なんてないよ。
ゲイルの家にいたんだから、お前だって知ってるだろ?﹂
戦闘用の魔道具とか、新しい武器はまだわかる。
だけど、鎧の装飾用の宝石とか、行ってもいない遠征の費用請求
ってなんだよ。
後者は明らかに架空請求だし、この国の法律は知らないが普通な
ら違法行為の筈だ。
もう陰謀どころじゃない。ちょっとでも手がかりがあればと思っ
たけれど、二重帳簿とか騎士団にはまったく意味がない。だってち
ゃんとした監査機関が存在しないのだから。違法だろうがなんだろ
うがいくらでも通過できるだろう。こんなのザルですらない。ただ
の穴だ。
﹁騎士団は抜本的な改革が必要だよ﹂
﹁⋮お前ってさ、ほんとそんな言葉どこで覚えてきたんだ?﹂
ミハイルに撫でられながら、私は心の中で闘志を燃やした。
33
34
38 状況を整理しましょう︵前書き︶
タイトル通り
35
38 状況を整理しましょう
抜本的な改革と言ってはみたものの、どうしたもんかな。
窓から差し込む月明かりの元、私は小さなベッドの中で、寝返り
を打ちつつ今後の行動について思案していた。
騎士団の主計部に対する怒りは、ちょっと冷めたがやっぱりまだ
納得はできていない。それは真面目に仕事をしない人間に対する怒
りで、要は義憤というやつだ。
でも今は見ず知らずのサボり魔たちに義憤を感じるよりも、王子
の助けになることが先決なんじゃないかという気持ちもある。
私の中の重要性は何を置いても一番が王子の役に立つことであっ
て、他は割とおまけだ。もちろんゲイルやミーシャが好きとか、ミ
ハイルにケーキを焼いてやろうとか、副団長が仕事大変すぎるから
しっかりサポートしようという気持ちはあるにせよ。
その目標を見失ってあっちこっちにフラフラしていたら、結局私
は何も成し遂げられなくなってしまうような気がする。
それを考えると、自分は今どういう行動を取るべきなのか悩まし
かった。
現状として、私は王子の状態を知らない。
ただ副団長宛の手紙によると、王子は半年以上前から体調不良で
あり、貴族の前にも姿を見せていなかった。そして最近になって、
国民に十分な説明もなく隣国に留学したという。
正直、とても心配だ。
でも貴族たちでも知りえないのに、今の私が王子の情報を得る方
法なんてない。
シリウスに聞いたらもしかしたら何か分かるのかもしれないが、
彼がいるのは王城の中心部であり、騎士団の騎士ですらない見習い
従者がおいそれと近づける場所ではなかった。
36
私はこの間副団長に連れて行かれてシリウスに会った際に、王子
について尋ねなかったことを心底後悔した。
本当は少なからず知りたい気持ちもあったのだ。
でも聞けなかったのは、中途半端に近況を聞いて会いたい気持ち
が膨れ上がるのを恐れたからだ。
いつか自力でその御前に立てる日が来るまで、どうせ会えはしな
いと思い定めてここまできた。
中途半端に会ってしまって、未来のために努力できなくなること
を私は恐れた。
たとえ死にそうに苦しい思いをしていたとしても、毎日のように
窓辺から訪れる王子を心待ちにしていた日々が、今は懐かしい。
センチメンタルになるつつある自分を叱咤して、私は首を振った。
ざんばらな髪がバサバサと音を立てる。
考えたら動けなくなるんだから、今は先に進まなければ。道のり
は遥かに遠いとわかっているけど。
そう自分に言い聞かせ、私は頭を切り替えた。
副団長の手紙から得ることのできた、諸々の情報。
まずは貴族の中に広まりつつあるという王家への不信感だ。
これは王の後継である王太子の不審な動向と、更に今まで圧倒的
な指導力を誇ってきた王様が、最近は執務にも身が入らないでいる
ことに起因しているらしい。
それぞれに原因は謎だが、どちらも同時期であるとするならばこ
れらは関連した事象なのかもしれない。
ジグルト・ネスト・メイユーズ”
又、色々な人の手紙からやけに登場した名前。
“王弟
この人、ゲームには登場しなかったので顔も知らないが、現王の
異母弟でかなり優秀な人物らしい。
問題なのは王の不調が囁かれ始めた昨今、彼の影響力が急に増し
37
ているということだ。
王以外の王族に実権を持たせないという国の方針から、今までは
名誉職に就くに留まっていた彼だが、最近ではどうもサロンで頻繁
にロビー活動を行っているらしい。
まあその辺は明確な情報として手紙に書かれていたわけではなく、
私の文章からの類推だから確証はないんだけれども。
でも、これってかなりきな臭い状況だよなー
王弟が権力を掌握しつつあるとか、いい予感は全くしない。
ラノベのテンプレと言ってもいいと思う。
正直、私一人でどうにかできることではないから、早急に誰かに
相談するべきだとは思う。
まだ言ってはいないが、ミハイルの家は騎士団では名の知れた名
門らしいからもしかしたら既に何か知っているかもしれない。
一番いいのは、やはり副団長に相談することだろう。
彼は︵秘密にしているけれど︶エルフだから人間の権力闘争に興
味がないし、完全に実力で今の地位まで上った人だから余計なしが
らみもない。つまり、すでに王弟に取り込まれているという心配を
しなくていいのだ。相談する上で、この条件は大きい。
勿論自分には関係ないと切って捨てられる可能性もあるが、その
時はその時だ。
最悪、彼の名前を借りて届いた手紙に返事を返してみるのも手だ。
ミハイルの話では彼は社交界に滅多に出ないそうだし、バレる心
配もない。
手紙から察するに貴族たちはすでにいくつかの陣営が出来始めて
いて、みんながみんな巨大な魔力と騎士団での発言権を持つ副団長
を取り込みたがっている。
その内一枚にでも手紙を返せば、喜んで情報を流してくれそうだ。
人の手紙に勝手に手紙を出すなんて気が咎めないでもないが、そ
んなの構ってる場合じゃない。
情報は力だ。
38
そして碌な力さえまともにない私は、そんな目に見えないものに
頼るしかない。
もしも杞憂ではなく、王弟がクーデターなんて起こしたら、王子
は帰る国を無くしてしまう。命だって狙われるだろう。
そんなこと、絶対にさせるもんか。
決意を新たにして、私はそろそろ眠ることにした。
不良精霊のヴィサくんはここしばらく戻ってきていないので、私
としてはちょっと寂しい。
こんなに頻繁に家出するなら、今度首輪でも作ってあげようかな。
その姿を思い浮かべて、私は思わずニヤケてしまった。
可愛い上着をレース編みしてあげてもいい。勿論嫌がらせだ。
そして今度こそ眠りに付こうと、私はもう一度寝返りを打った。
主計部の事は、とりあえず一旦保留にしておこう。
冷静に考えてみると、あの決算報告は手抜きによる杜撰というよ
り、もしかしたら︱︱︱︱⋮。 寝ると決めてしまうと、一日の労働で疲れた体がすぐに睡魔に取
り込まれてしまった。
寝入りばな、何かを思った気もしたが、もう私に真っ当な意識は
残っていなかった。
39
39 二番目に明るい︵前書き︶
話が二転三転しております。
分かりにくいかも⋮自分の構成力に失望中。
40
39 二番目に明るい
“どんな状況にあったとしても、王子を最優先にする”
私の行動方針が定まったところで、私は朝から、早速行動を開始
しようと意気込んでいた。
まずはそれとなく副団長に相談し、彼が人間社会の闘争に興味が
ないと言ったならば、ではその名前を借りて手紙による調査の許可
を取るつもりでいた。
もしそれが許されなかった場合には、勝手に手紙書くだけだ。
勿論他人の名前を騙るなんて気が引けるが、他にいい方法が思い
つかないのだからしょうがない。
私は別に正義の味方になりたいわけではないので、道義に悖るこ
とだってできる。王子の為なら、何だってやってやる。
と、決意を新たにしてきたというのに、嬉しそうに朝のパンケー
キを食べていた副団長に、私は先制パンチをくらった。
﹁そういえば、君の所見を読ませてもらった﹂
﹁所見、ですか?﹂
この後の片づけの手順を脳内で確認していた私は、一瞬何のこと
だろうと目を丸くした。
そんな私を、副団長が訝しげな顔で見ている。
﹁君が寄越したものだろう?まさか別の人間が書いたものか?﹂
﹁ええと⋮だからなんのことでしょうか?﹂
41
副団長は呆れたような溜息を一つついた。
﹁私宛の手紙をまとめた書類の最後に、今後の王国に対する考察が
書かれていただろう。あれは君の考えじゃないのか?﹂
そこまで言われて、私はようやく副団長が何のことを言っている
のか理解した。
それは手紙の内容をまとめた書類の最後に添付した、貴族の噂話
を総括した今後の情勢へ対する自分なりの考察だった。
でも手紙を何カ月も放っておくほど貴族間の人間関係に無頓着な
副団長が、まさか書類の最後にあったそれにまで目を通していると
は思わなかった。
﹁あれは確かに、私が書いたものですが⋮﹂
﹁なかなかに興味深い考察だった。手紙など装飾文ばかりでうんざ
りしていたのだ。誰も彼も君のように単刀直入に本題のみで済ませ
てくれれば難儀しなくて済むのだが﹂
限りなく無表情に近いしたり顔の副団長に、私は結局彼は何が言
いたいのだろうかと頭がインテロゲーションマークでいっぱいにな
った︵ハテナマークのことですよ︶。
まず、彼が自分からこんなに喋ること自体が珍しい。
﹁そこで、君の考えを聞きたい﹂
﹁考え、とは?﹂
﹁君も知っているように、私は人間社会について疎いし、正直興味
42
もない。たとえこの国でクーデターが起きようと職を失おうと全く
どうでもいいのだが、私は叔父上から君の身柄を託された。その為
にはまず、環境の安全を図る必要がある﹂
﹁はあ⋮﹂
結局何が言いたいのだ、この人は。
﹁なので君に今後の対策などを問いたい。君はどうするのが最上だ
と思う?﹂
最近感じることなのだが、副団長はエルフなので相手の年齢など
気にしない。究極の実力主義だ。
だから私がただの子供であっても、侮ったりしないでちゃんと意
見を聞いたりしてくれる。バカにしたりしない。多少過保護気味で
はあるにせよ。
使えるとわかった者はどんどん使うし、使えない者は早急に切り
捨てるなんて、なんだか外資系企業みたいな人だなぁと思わなくも
ない。有給はないけど。
それにしても、このタイミングでまさかこの議題が振られるとは。
ナイスタイミングすぎて逆に怖い。
もしかしてこの人は私の頭の中を読む魔法でも使えるんだろうか?
だとしたら今までいろいろ失礼なツッコミばかり入れててごめん
なさい。
﹁⋮私は、貴族の方々から頂いたお手紙にいくつかお返事を書いて、
情報収集をすべきだと考えます。同時に騎士団内での意識調査も行
うべきです。もちろん表立ってはできませんが﹂
43
﹁騎士団内で、だと?﹂
﹁はい。みなさん騎士とはいえ貴族の家柄の方が殆どです。それに
よって既に何がしかの派閥に属している方もいるかもしれません。
場合によっては、その方々の働きで騎士団が内部分裂することもあ
り得ます﹂
﹁もうそんな事態になっているのか?﹂
﹁いえ、あくまでも私の推測ですし、そうなるとしてもかなり先の
事だとは思います。ですが、用心にこしたことはありませんので。
味方の中に敵がいれば、安全の確保は難しくなります﹂
﹁確かに⋮﹂
副団長は考え込むように腕を組んだ。
私も、言いながらある一つの疑問が浮かんだので、この機会に率
直に口に出してみる。
﹁そもそも、カノープス様はなぜ人間の世界に降りてらしたのです
か?﹂
副団長は今、“たとえこの国でクーデターが起きようと職を失お
うと全くどうでもいい”と言った。
つまり副騎士団長という役職にすら、まったく魅力を感じていな
いことが分かる。
ここしばらく彼に近い生活をしてみて分かったことだが、彼には
プライベートで仲のいい人間もいないようだし、これといって趣味
もなさそうだ。
特に執着するものがなさそうなのに、なぜ人間界になどいるのだ
44
ろう。
彼の行動原理を知るには、まずはそれを知らねばならないようだ。
﹁それは叔父上がいらしたからだ﹂
特に隠していたわけでもないのか、副団長はあっさりとそう言っ
た。
﹁シリウス様を追ってらしたのですか?﹂
この間の会談の際には、それほど親しそうにも見えなかったのだ
が。それとも、人間にはそう見えただけでエルフ的にはあれですご
く仲がいいのだろうか?
﹁まあ、そうだな。と言っても、私はこちらに来るまで彼に会った
ことはなかったのだが﹂
﹁え?﹂
﹁叔父上は私が生まれる前に人間界に降りてしまわれた。私が生ま
れた時には、既に天界に彼はいなかったのだ﹂
副団長は遠い目をした。
﹁会いにいらしたのなら、なぜ帰らなかったのですか?﹂
今の言葉だけでは、彼がなぜ人間界に留まっているのかの説明に
はならない。
﹁叔父上がなぜ人間界に留まるのか、興味があった。彼はエルフの
45
中でも特別な存在だから﹂
﹁特別、ですか?﹂
人間がエルフについて知っていることは少ない。
それはゲーム知識を持っている私にしても同様だ。
シリウスがエルフの中で特別だなんて、全然知らなかった。
正直さっきから初耳の話ばかりで、その情報処理に頭が四苦八苦
している。
﹁⋮エルフは、その力によって序列が決まる﹂
﹁⋮﹂
﹁私の名前は二番目を意味している。つまり私はエルフの中でも二
番目に魔力が多いことになる﹂
﹁ええ!﹂
驚きで思わず仰け反りそうになった︵古典的︶。
だってエルフの中でも二番目なんて、人間には想像もできない程
強い力ということだ。
しかし彼の次の言葉が、私に更なる衝撃を齎した。
﹁そして、一番が﹃シリウス﹄。つまり叔父上だ﹂
﹁えええ!﹂
今度は仰け反っている場合ではなかった。
そんな設定があったならなぜゲームに生かさない!スタッフよ!
46
それとも私が死んでから追加ディスクでも発売されたんだろうか?
情報を細切れにして売り上げを伸ばすとは。製作会社マジ資本主
義。
混乱して脳内ツッコミを連発していたが、その時ふと、思い当た
ることがあった。
なんてことはない。
それは、﹃カノープス﹄という名前。
それは前世の世界の星の名前だ。
冬の星座。
シリウスの輝くおおいぬ座の下にある、シリウスの次に明るく輝
く星。
不意に私は、前世で親とケンカして飛び出した夜のことを思い出
した。
一人では怖いから、青星を連れて。
星が驚くほど綺麗な晩だった。
夜空の中に私はシリウスを探した。
分かりやすいオリオン座の近くに、一際大きく輝いていたシリウ
ス。
あれがお前だよと、私は青星を撫でた。
青星は何も知らない顔で、無邪気にこちらを見上げていたっけ。
その下に輝いていた、シリウスよりも少し小さい明るい星。
遠い。
あの頃と今は、果てしなく遠い。
47
40 理想の上司≠エルフ︵前書き︶
短めすいません
48
40 理想の上司≠エルフ
﹁どうかしたのか?﹂
ぼんやりしていた私は、副団長の声で我に返った。
﹁いえ⋮それより出仕はよろしいのですか?﹂
﹁まだ大丈夫だ。ルイに手伝ってもらうと早く終わって助かる﹂
そう言って、副団長は微かに笑った。本当に微かに。
この人に、名前を呼ばれたのは初めてかも。
正直知らないんじゃないかと思ってた。シリウスは彼の前でも堂
々とリル呼びだったし。
それに、褒められてしまった。
どうしよう、嬉しいぞ。
﹁あ、名前⋮﹂
﹁騎士団での名前はこれだろう。叔父上はリルと呼んでいたが﹂
﹁そちらが本当の名前です。ルイという名前は⋮騎士団にいること
を隠しておきたい相手がいるので﹂
﹁詳しくは聞かん。興味もない。私は君の働きがあれば十分だ﹂
﹁⋮﹂
49
なんか、この人って悪意はないんだろうけど、きっと今の言葉っ
てひどいよね。
でも嬉しいと思ってる自分は、もっとおかしいのかもしれない。
女だとか、子供だとか、名前とか環境とか、そんなものは全部無
視してこの人は私の能力を買ってくれているのだ。
それってなんだか、私にはとっても嬉しいことなんだ。
﹁ありがとうございます。今後も誠心誠意勤めさせていただきます﹂
頭を下げたのは、多分赤くなっている顔を見られたくなかったか
ら。
﹁では手紙の返信に関しては君に一任しよう。私の名前は自由に使
ってもらって構わない。ただし特定の勢力に肩入れしすぎたりはし
ないことと、事後で構わないから定期的に私に進行状況を報告する
ように。騎士団内部の調査に対して、何か君の意見はあるか?﹂
﹁私は騎士団に入ってまだ日が浅いので⋮。しかしカノープス様が
自ら動かれてはどうしても目立ちます。特に信頼してらっしゃる部
下の方はいらっしゃいますか?﹂
﹁仕事ができるものはいるが、それと信頼できるかどうかは別問題
のように思う﹂
そうかもしれない。概して、仕事のできる人というのは内面を隠
すのがうまい。
それにしてもどうしようか。
ミハイルとゲイルの名前を出してもいいが、それだと私に下心が
あるように思われるかもしれない。
でも、私には二人以外に騎士団の中で信用できる人なんていない
50
し。
﹁私が個人的に親しくしている騎士でよろしければ﹂
﹁ミハイル・ノッドとゲイル・ステイシーか?﹂
﹁ご存知でしたか﹂
﹁君は本来ならばミハイルの小姓になっていたのだからな。それに
君はゲイルの養子だろう﹂
てっきり私には興味がないのだろうと思っていたのだが、どうや
ら基本的なプロフィールについては既にご存知だったようだ。
﹁はい。二人の能力については私が保証致します。しかし任務の内
容から言って、事は慎重を期さねばなりません。私はカノープス様
のご指示に従います﹂
﹁二人の能力は私の知るところでもある。しかし、ミハイルの家は
騎士団の中では名の知れた名門だ。そちらに取り込まれている可能
性もある。一度会って直接話がしてみるか。時間などの調整はルイ
に任せる﹂
二人を副団長が即座に採用されなかったことに、私は安堵した。
人間社会に興味がないという割に、丸投げにするつもりでもない
らしい。
これが彼が副団長にまで上り詰めた理由なのかもしれない。
力だけで上り詰められるほど、騎士団は甘くはないはずだ。特に、
身分差がものを言うこの世界では。
51
﹁では今晩にでも。場所は城外では無用な憶測を呼びますので、私
にお任せください﹂
私の脳裏にある場所が浮かんでいた。
少し無謀な気もするが、逆に誰もそこに副団長が赴くなんて思い
もしないだろう。
﹁では、そろそろ出仕するとするか﹂
﹁かしこまりました。では片づけが終わり次第私も執務室へ参りま
す﹂
﹁いや、実は君に他にもやってもらいたいことがある﹂
﹁?⋮なんでしょうか?﹂
出来る秘書気分でノリノリだったのに、副団長に水を指されてし
まった。
書類仕事以外に一体どんな用事だろうかと、私は首を傾げた。
***
﹁結局、こうなるわけね﹂
騎士団二階のひんやりとした石造りの廊下を進みながら、私はた
め息をついた。
私の横ではクェーサーさんが、分厚い書類を手に標準装備の苦笑
いしている。
﹁あの手紙を一人で整理したなんて驚きだけど、だからってまさか
52
あそこに君を連れてくことになるなんてね﹂
クェーサーさんの口振りに、私の不安と虚脱感はより一層大きな
ものになった。
﹁そんなにひどい場所なんですか?﹂
﹁うーん、とりあえずは自分の目で確かめて見たらどうかな?環境
ってのは人によって受け取り方が違うものだし﹂
彼の言葉に、私は確かにと納得した。納得したが、だからといっ
て不安が消えるわけではない。
更に継ぎ足された言葉が、余計だった。
﹁でもこれは僕からの忠告だけれど、決して深入りはしないことだ。
何を言われてもにこにこ笑って書類の受け渡しだけしてればいい﹂
思わず私はクェーサーさんの手にある修正箇所だらけの書類の束
に目をやり、殊更大きなため息をついてしまった。
そんな会話を交わしている間に、クェーサーさんの足が止まった。
そこは騎士団本部の中でも二階の端にある、古ぼけた扉だった。
中からはやいのやいのと騒がしい声が微かに聞こえる。
そんな騒がしくなる部署ではないはずだ。むしろこの騎士団の中
でもっとも静かでなければない場所だろう。もう扉を開けることさ
え嫌だと思う。
﹁ついたよ。ここが騎士団の主計室だ﹂
そこにある半透明の球体に、私はどうしても触りたくなかった。
53
54
41 hello!主計室︵前書き︶
クェーサーさん活躍︵?︶
55
41 hello!主計室
﹁失礼します﹂
まるで職員室に入るときみたい。
クェーサーさんの挨拶に、私は場違いな感想を抱いた。
実際にはその部屋の中は職員室なんてとんでもない。
どころか、地域の不良を集めた学校の教室みたいに酷い有様だっ
たのだけれど。
騎士の制服を簡略化した衣装を着崩している、むさい男たち。
一応貴族らしく不潔ではないが、その姿は果てしなくだらしない。
そして見覚えのある琥珀色の液体が注がれたジョッキと、テーブ
ルに投げ出された無数のカード。
私は目を疑った。
え、ここって場末の酒場とかじゃないよね?騎士団本部の中だよ
ね?
﹁団長から返却された書類をお持ちしました﹂
クェーサーさんは慣れているのか素知らぬ顔だ。
﹁おー、ジガーのとこ置いとけ﹂
ダラ︵しない︶男の一人が適当に応える。
その他のダラ男の、バカにするようなにやにや顔といったら!
クェーサーさんは慣れているのか、書類の束を彼らから離れた机
に置いた。
その机には、ナヨッとした地味顔の男の人が疲れた表情で座って
56
いる。
彼がジガーらしい。他の人がいささか筋肉質なのに比べ、如何に
も文系ですといった具合の頼りなさだ。
返却されて書類の束を見て、ジガーは深い溜息をついた。
なんかこの人って、如何にも⋮。
﹁それでは失礼します﹂
﹁待てよ、今日はちびっこつれてるじゃねーか。挨拶はねぇーのー
?﹂
ちびっこと言われ、私はぎくりとした。
遊びに興じて無視してくれてもいいじゃないか!
そう思いつつ、礼をする為に膝を軽く折る。
﹁初めまして。カノープス様の従者をしておりますルイと申します﹂
私の挨拶に、男が一人ピューと口笛を吹いた。
あああ、私だって言いたくなかったよ副団長の従者とか。絶対絡
まれるじゃん。
すかさずクェーサーさんが彼らと私の間に入ってくれる。
クェーサーさん超いい人!
私は普段は醒めている彼の男気に感動してしまった。
﹁お前が噂の?本当にただのガキじゃねーか﹂
﹁カノープス様はどういうつもりかねー?さてはお前、お稚児ちゃ
んか?﹂
ガッハッハと、品のない笑い声。
57
お前ら本当に貴族の端くれか?
恐怖よりも、イライラが先に立った。
自慢じゃないが、治安悪すぎの下民街出身者としては、彼らレベ
ルのチンピラなんて怖くもなんともない。
からかって囃し立てている内は、中学生男子の集団と変わらない
レベルだ。
こういう輩は徹底無視に限る。
しかし全然平気ですという顔をしても難癖をつけられそうで嫌な
ので、私は高速で頭を下げた。
とりあえず頭を下げる。これ日本人の基本です。
﹁お仕事のお邪魔をして申し訳ありませんでした!失礼いたします﹂
できる限りの大声でそう叫んだら、一瞬誰もが呆気にとられたよ
うだった。
この隙にと、私はクェーサーさんのズボンを引っ張る。
そして二人で足早に部屋を出た。
﹁驚いた﹂
部屋からしばらく離れたところで、クェーサーさんは口を開いた。
﹁君、結構いい度胸してるね﹂
﹁そうですか?ただ世間知らずなだけですよ﹂
﹁うーん、あれってそういう問題かな?﹂
そう言って、クェーサーさんは標準装備の苦笑を見せてくれた。
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それでも今回の件で、さり気なく庇ってくれたクェーサーさんへ
の好感度はかなり上がりましたけど。
﹁見て分かったと思うけれど、今じゃ主計室は騎士団の厄介者の巣
窟になってしまった。だから騎士団が独自に持っている会計機関と
は言っても、ほとんど機能していないのが実情だ﹂
クェーサーさんの説明に、私はどうりであんなに間違っていたは
ずだと呆れてしまった。
﹁元々は問題を起こした騎士団員を、反省させるために一時的に主
計室に預けていたらしいんだけれど、主計室の設立時から時間が経
過して、仕事に慣れている者がいなくなってしまったんだ﹂
﹁引き継ぎとかはしなかったんですか?﹂
﹁今の団長もそうだけれど、主計室を立ち上げた団長の次の団長は
親王家派の方でね、主計室に新しい事務官を補充なさらなかったん
だよ。派閥同士のバランスの問題で無くなりこそしなかったけれど、
今ではほとんど機能していないというのが実情かな﹂
それにしてもクェーサーさんはずいぶん詳しい。
若く見えて実は、相当年がいってるのかもしれない。
﹁だから、君も彼らに関わる時には十分に注意しなよ。出身が貴族
だけに、あいつらは下手なチンピラよりたちが悪い﹂
心底嫌そうな顔で、クェーサーさんは言った。
普段は苦笑がテンプレなのに、なんだか珍しいものを見た。
59
﹁でも騎士団の会計業務は誰かがしないといけませんよね?本当は
王宮の方で管理されてるんですか?﹂
﹁いや、あそこにジガーという男がいただろ?﹂
﹁はい﹂
﹁彼はこれではいくらなんでということで最近補充された事務官な
んだ。彼が手がけた書類だけは、まあどうにかまともだよ。期日も
守ってくれるし。あの労働環境じゃ、同情はするけど﹂
﹁あの方も騎士なんですか?﹂
その割にはなよっととし過ぎだったような。
﹁ジガーは平民出身なんだ。なんでも有名な商店に奉公していたら
しい。だから計算なんかはめっぽう強いよ﹂
なるほど、ジガーさんはあの中で唯一本職さんな訳か。
それにしても貴族で騎士の爪弾き者の中に平民のビジネスマン︵
私の認識でいうと︶を放り込むなんて、団長も無茶をする。
それじゃよくなるものもよくならないじゃないか。
腐ったみかんの中に普通のみかんを入れるようなものだ。
腐ったみかんは全部捨てて、たとえ一個だとしても、お皿には普
通のみかんを置いておくべきだと思うけどね、私は。
﹁ジガーさんって寮に暮らしてるんですか?﹂
﹁いや、確か外に家族があるはずだけど⋮そんなこと聞いてどうす
るの?﹂
60
﹁いいえ、新しく入団されたにしては、ずいぶんお年を召している
ように思えたので﹂
私がそう言うと、クェーサーさんは声を殺して笑った。
﹁それ、可哀そうだから彼には言わないであげなよ。あれでも26
歳なんだ﹂
﹁えぇ?!﹂
私の裏返った驚きの声に、クェーサーさんは耐えきれないとでも
いう風に吹き出してしまった。
61
42 疑惑の騎士団
副団長を誰の眼にも触れさせずミハイルの部屋に連れて行くため
に、私はまず自分の体に﹃隠身﹄のペンタクルを描いた。
﹁見えますか?﹂
﹃隠身﹄は魔法粒子で体を取り巻いて姿を認識させないようにす
る魔導なので、声に影響はない。
副団長は難しい顔だ。
﹁魔法粒子を用いて姿を消す魔導か⋮初歩ではあるが、これほどの
魔法粒子を集めてしまうとは⋮﹂
言葉では感心しているようだが、副団長はあきれ顔だ。
すいませんねと内心で拗ねつつ、私は副団長の手を握った。
﹁失礼いたします。ではミハイル・ノッドの部屋までお連れします。
彼の部屋には音が外に漏れない魔法が掛けられているので、部屋に
入る姿さえ見られなければ大丈夫かと思われます。ご不便おかけし
ますが、しばらくはご辛抱ください﹂
﹁いいだろう。だが君の足について行くのは時間の無駄だ﹂
そう言って、副団長はひょいっと私の体を持ち上げてしまった。
どうやら前回シリウスの執務室まで抱えられて移動したことで、
副団長的にはこうやって移動することがデフォになりつつあるらし
い。
62
人に見られないとはいえ、そして子供であるとはいえ、壮絶美形
エルフさんにだっこされるのは心臓に悪い。
私は内心のパニックを悟らせないように、大きく深呼吸をした。
病気の時は別だが、平常時に縋りついたりする勇気はないのので
彼の腕に腰かけながら肩に手を置く。
エルフは概してとても長身なので、下を見るともれなくとっても
怖い。
﹁では、この廊下をしばらくまっすぐでお願いします﹂
一刻でも早くミハイルの部屋に着けるように、私は口早に副団長
に指示を出した。
いつもミハイルの部屋に行くのには使用人用の細い通路を使うの
で、初めてそこを通ったらしい副団長は少し窮屈そうだ。
途中、昭和アニメの悪役たちが体を寄せ合って通路を塞いでいた。
どうしたものかと困っていると、彼らはこともあろうに副団長の
目の前で、私の悪口に興じ始めた。
﹁聞いたか?ルイのやつ本部に出仕してカノープス様の仕事を手伝
っているそうだ﹂
﹁最近見かけないと思ったら、そういうことだったのか。流石は平
民様はご機嫌とりがうまいな﹂
﹁カノープス様もどうかしている。あんな役に立たないガキをお傍
に置くなんて﹂
﹁団長の命令で仕方なくだと聞いたぞ。でなければあんな貧相なガ
キ、誰が召し上げるものか﹂
63
口々に彼らは私の悪口を言い合う。
あっちゃー
別に辛くはないが、副団長に聞かれていると思うと肩身が狭かっ
た。
なんだか学校で軽くいじられてるのを親に知られた、みたいな。
﹁カノープス様といえば、結局あのお方はどちらの陣営につくのだ
ろうか?﹂
トンガリがぽつりとつぶやいた言葉に、私は体を緊張させた。
副団長も心なし身を乗り出す。
﹁なんでも、どの貴族から誘いがあっても梨の礫らしいぞ﹂
﹁カノープス様は騎士団長に取り立てられたのだから親王家派では
ないか?﹂
﹁しかしあの方は貴族出身ではないから、表に出さないだけで王家
に反感を持っている可能性もあるぞ?その証拠に、夜会や王家主催
の舞踏会などにもほとんど出席なさらない﹂
﹁それに、最近では団長も革新派に翻意なさったとか﹂
﹁バカな!﹂
小姓たちがざわめく。
私も、思わず自分が叫んでしまったのかと思う程の衝撃だった。
私たちは驚きで顔を見合わせる。
﹁ともかく、革新派としては是が非でもカノープス様を引き入れた
64
いところだろうな。そうすれば革命の為の武力が手に入る⋮﹂
﹁おい、滅多な事を言うなッ﹂
﹁我らの主人は革新派だからな。家の意向とはいえ、面倒なことだ﹂
﹁考え方を変えろよ。僕らは跡取りにもなれない二男や三男だが、
今回の件に乗じてうまくやれば、実家での株も上がるかもしれない。
つまりチャンスだよ。もし騎士団がすべて革新派に付けば、それに
乗じて家格だって⋮﹂
﹁それも国の平和があってこそだと思うがな。では俺は戻るぞ。そ
ろそろ主人が風呂から戻ってくる﹂
﹁ああ、では何かあったらまた﹂
そう言って、彼らは散り散りになって立ち去っていった。
比較的単純なキャラクター達だと思っていた彼らに、まさかそん
なバックボーンがあったとは。
それにしても、まさか団長まで革新派についたかもしれないなん
て。
頭の処理速度が追いつかない。
﹁⋮どうやら、予想以上に団の中で二極化が進んでいるようだ。リ
ル。彼らの主人の名を調べておけ﹂
﹁かしこまりました﹂
彼らの話を聞けたのは思いもよらない収穫だったが、知ってしま
った事実が重すぎて恐れのような気持ちを抱く。
65
彼らの言葉をすべて信じるわけではないけれど。
﹁ルイ、もしや君は彼らに仕事上の妨害などを受けているのか?﹂
﹁へ?い、いえ、子供の遊びですよ。お気になさらず﹂
あ、それ忘れてた。っていうか忘れてくれよ。
よりにもよって副団長に仲間外れを心配されてしまうとは。
自分的にまったく堪えいなかっただけに恥ずかしすぎた。
副団長は重苦しい表情で私を見下ろしている。
うう、身の置き場がない。しかし副団長の腕から飛び降りるわけ
にもいかない。
無事、誰にも呼び止められずミハイルの部屋の前まで辿りついた
頃には、私は大いに精神力を削られていた。
私が予め決めておいたリズムでドアをノックすると、待ち構えて
いたらしいミハイルが扉を開く。
因みにここは騎士の私室なので、例のドアを自動開閉するための
石は設置されていない。
﹁ようこそいらっしゃいました﹂
部屋の扉をミハイルが閉めたのを確認して、私は腕に書かれてい
た隠身のペンタクルをこすった。
身体の周りに集まっていた魔法粒子が散っていく。
副団長に抱えられた私を想定していなかったらしく、二人が一瞬
びくりと身動ぎしたのがわかった。
しまった。降りてからペンタクルを消せばよかった。
﹁邪魔をするぞ。早速だが、まずはそなたらの所属をはっきりとさ
66
せたい。それぞれの実家について、何か言っておくべきことはある
か?﹂
厳しい副団長の問いかけに、二人が緊張したのが分かった。
敬礼し、普段は見ないハキハキとした様子でミハイルが答えた。
﹁ミハイル・ノッド。騎士団第三部隊所属。現在のところ実家から
の意向はなにも。私自身は団長のご意向に従うつもりです﹂
﹁ゲイル・ステイシー、同じく騎士団第三部隊所属。実家は一応子
爵ですが、王都から遠く離れた領地を賜っているため今は静観の構
えです。私自身はミハイルと考えでおります﹂
副団長は何か考え込むようにしばらく沈黙した。
私の方がドキドキしてしまう。
﹁⋮とりあえず、楽にしろ。これは非公式な会談であるから、形式
ばった儀礼行為などは必要ない﹂
そう言いながら副団長はソファに腰かけた。
ミハイルとゲイルは一瞬戸惑うような顔を見せたが、やがて観念
するようにソファに腰を下ろした。
﹁君たちが信頼できるということはルイから聞いている。私も君た
ちの能力の高さはすでに知るところだ。なので折り入って頼みたい
ことがある﹂
早速本題から入ろうとする副団長に、私は驚いてしまった。
そんなに信頼の根拠にされてしまっても困るのだが。もちろん疾
しいことはないけれど。
67
とにかく今は音を立てないように急いでお茶の用意をする。付け
合せは昼間焼いておいたクッキーだ。
﹁騎士団内でどれほど派閥化が進んでいるか、君たちには秘密裏に、
そして早急に調査してもらいたい﹂
﹁早急にですか?﹂
﹁ああ、どうやら私の想像していた以上に事態が進行していたらし
い。手遅れにならない内に手を打っておきたい﹂
真剣な表情で話しながら、副団長はクッキーに手を伸ばした。
どうやら甘味の誘惑には勝てなかったらしい。
﹁私も君ら同様に団長を支持するつもりでいるが、騎士団内には団
長が翻意したというような噂が出回っているようだ。二人とも耳に
したことは?﹂
二人は目を見開き息をのんだ。
それはそうだろう。団長の意向に従うつもりだという二人だが、
それはあくまで団長が親王家派であった場合の話だ。
その先は実家との兼ね合いもあるだろうが、彼らが積極的に革新
派を望むとは思えなかった。
しかし、騎士団内でも信頼の厚い団長がもし革新派についてしま
ったら、騎士団は一気に革新派に傾いてしまう可能性があった。
そうなれば辿りつく結末は一つ。
軍事クーデターの再来だ。
﹁いいえ。初めて耳にしました。そのような噂が?﹂
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﹁ああ、あくまでも噂だ。団長は王家に絶対の忠誠を誓っておられ
る。騎士団を混乱させ内部分裂を起こさせるために革新派が流した
ものだろう﹂
﹁不敬な⋮﹂
ゲイルが呟く。
ミハイルはしばらく考えた後口を開いた。
﹁だとしたら、相当頭のいい人間が扇動に当たっているのでしょう。
いくらなんでも穏便に事が進み過ぎている﹂
﹁おそらく内部の、それもかなり上位に近い人間だろう。このまま
だと厄介なことになるぞ﹂
副団長は甘いクッキーをかじりながら苦い顔をした。
ミハイルとゲイルも深刻な顔だ。
私は不安で服をぎゅっと握った。
まだあの手紙の山をまとめてからそれほどの日数は経っていない
のに、まさかこんなことになるなんて。
本当にクーデターが起こるとは思わないけれど、事態が早く進行
しすぎている気がした。
革命は一度火がついてしまえば止まらなくなる。
王子が国を追われるのを想像して、私は息が詰まった。
そんなこと、絶対にさせるもんか!
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43 闇の呼び声︵前書き︶
ひさしぶりのヴィサくんです
70
43 闇の呼び声
オオーン⋮オオーン⋮
闇の満ち満ちた空間に、もの悲しい声が響く。
それは動物の唸りにも、慟哭の叫びにも聞こえた。
ピチャンピチャンと、どこからか水が滴る。
あとは闇。ただ只管の、原始の黒。
﹁かわいそう、だね﹂
闇の中に、意味のある声が落ちた。
それは憐れんでいるようにも、嘲っているようにも聞えた。
﹁精霊の中でも、風は特に自由を愛する。闇に取り巻かれては辛い
だろう。気が狂うほど﹂
ひたりと触れた手は、まるでトカゲの膚の様に冷たい。
ヴィサークは渾身の力を振り絞って、その手を振り払った。
オオーン⋮オオーン⋮
嘆き。苦しみ。怒り。焦り。
精霊の感情は、人のそれより激しく濃い。
ヴィサークの中で荒れ狂う感情が、闇の粒子に紡がれたいとでキ
リキリと締め上げられる。
﹁それにしても、なんて弱い精霊だろうね。三下の術者の飼い犬か
71
な?僕以外の精霊使いがいるとは驚きだけれど、使役してるのがこ
れじゃ期待もできない、か﹂
残念そうに、彼は呟いた。
主人をバカにされ、己を侮られ、ヴィサークは更なる怒りを持て
余し唸った。
﹁しかし言葉を解するということは、或いは強力な精霊の眷属なの
かな?﹂
楽しそうな声。それはまるで、死にゆく虫を見つめる子供の様に
無邪気な。
﹁あまりにも計画が上手くいきすぎているとは思っていたけれど、
だからって飛び込んできたのがこんな飼い犬一匹じゃなぁ。この国
は平和に埋もれて、肥えた家畜と同じだ。あとは収穫を待つだけ﹂
最後だけ吐き捨てるように、声は言う。
ヴィサークは想った。
只管にリルの事を。
己が守らなければならない、か弱い小さな主人の事を。
リルに心配を掛けたくなくて、単独行動したのが悪かった。
まさか怪しい相手を探っていたら、自分の方が囚われてしまうな
ど考えもしなかったのだ。
彼は風の精霊の王であり、誇り高い獣だった。
いくらシリウスに力を封じられているとはいえ、己を捕まえるこ
とのできる人間が生き残っているなんて。
精霊使いは滅びたはずだった。
シリウスの力を借りて、精霊と人の手で闇に葬ったはずだった。
72
﹁君も、闇の者だったらよかったのに⋮﹂
心底残念がるような声音に、ヴィサークは寒気がした。
ヴィサークを縛るのは冷たい闇の力だ。
それはつまり、この精霊使いの属性が闇であることを示している。
よりにもよって!
ヴィサークは歯噛みした。
闇の属性は、他の属性とは明らかに異なっている。
その他の属性が自然から力を得るのとは異なり、闇の属性だけは
動植物の憎悪、そして恨みや妬みなどの醜い感情から生まれるのだ。
例えば無念に死ぬ動物の最後の一声や、生存競争に負けた弱い個
体の嘆きから。
そして人類が生まれたことで、世界に満ちる闇の粒子は圧倒的に
増えてしまった。
人の感情は動植物のそれとは異なり、鮮明で複雑だ。そして容易
く人を妬み、恨んだりもする。
そこから生まれた魔法はやがて、集って意思を持つ闇の精霊にな
った。
闇の精霊というのは、精霊界にあってすら異端の存在だ。
彼らは“魔族”とも呼ばれ、極めて厄介で残忍な性質を持つ。
﹁いい子で、ご主人様が来るのを待っておいで。そしたら僕が、そ
の主人を殺してあげよう﹂
グルルル⋮グルルル ピチャンと水の一滴が落ちた。
73
恨めば、怒れば、憎んでしまえば、相手の力は増すばかりだ。
そうとわかっていても、ヴィサークは自分の中に膨れ上がる凶暴
な感情を抑えることが出来なかった。
リル。リル。
だからお守りのように、心の裡でその名前を呼び続けた。
自分に残された一片の理性が、闇に紛れて消えぬように。
74
44 火は燃えあがる前に消しましょう︵前書き︶
最近短めすいません
75
44 火は燃えあがる前に消しましょう
﹁主計官様が殺された?﹂
ヴィサくんが帰ってこないからそろそろシリウスに相談しようと
思っていたら、副団長ともども向こうから呼び出された。
何かと思って行ってみたら、衝撃の事実を告げられたという訳だ。
﹁主計官様って確か、体調を崩されてたんですよね?病死ではない
のですか?﹂
﹁死体は爪と皮が剥がされた状態だったそうだ。いくらなんでも自
然死ではありえないな﹂
思わぬ内容に、私は気持ち悪くなってしまった。
しばらくごはん食べれないかも⋮。
しかしエルフ二人組はといえば、素知らぬ顔だ。
﹁発表はどうなさるのですか?﹂
﹁隠してはおけぬから、二三日中に病死ということで発表されるだ
ろう。子供もなく夫人も先に亡くなっているから、これと言って騒
ぐ親族もいない﹂
﹁それで⋮それをなぜ我々に?﹂
﹁本来なら騎士団長に先に知らせるのが筋だが、リチャードは確か
害獣狩りに国境際まで遠征中の筈だな?それによりにもよって殺さ
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れたのは騎士団の主計官だ。これが昨今の騒ぎと関わりがないはず
がない﹂
﹁ご存じだったのですか?﹂
副団長は驚いたよう言った。それは私も同感だ。
なんとなく、シリウスは人間が何をしようが気にしないのだとば
かり思っていた。
その考えを読んだように、シリウスがちらりと私を一瞥する。
﹁騎士団は閉じられた組織だが、だからといってパイプがないとい
う訳ではない。それにしても、最近リルをずいぶんと働かせている
ようじゃないか?私が気がついていないとでも思ったか﹂
げ。新入社員の子供に干渉して勤め先にまで殴り込むモンペが出
ましたよ。
信じられない話ですが、意外にいるんですよ最近は。
私も前世では、残業が多すぎるって会社に電話しようとした親を
何度止めたことか⋮。
おっと話がずれた。
あわてて私が弁解しようとすると、副団長に手で制される。
﹁リルはすでに騎士団の所属です。あなたに干渉される謂れはない﹂
ちょ!そんな挑発する様な言い方しなくても。
ノーモアケンカ。ノーモア諍いですよ。
﹁なんだと!!﹂
あー怒っちゃった。
77
エルフなのになんでシリウスって短気なんだろう?
ゲームじゃもうちょっと﹃大人﹄なポジションだったのに。
﹁あの、別にいっぱい働かされたりはしてないですから!皆さん良
くしてくださいますし、ちゃんと休憩も頂いてますし、衣食住も保
障されてますし、実家に比べたら天国みたいです﹂
それは私の心からの思いだった。
そしてそれよりも。
﹁国のために、ひいてはシリウス様や殿下、国のために働けるのな
ら私も本望です﹂
シリウスは泣き笑いのような顔をした。
ほんの微かにだが。
﹁⋮私も、この国を再び戦火に晒す訳にはいかぬ。前は武力蜂起に
まで至ってしまったが、今度はなんとかそうなる前に止めたい﹂
シリウスが言っているのは、怠惰王の時代の事だろう。
何代か前の王様の御世の出来事も、シリウスにとっては昨日の事
も同じだ。
﹁では、シリウス様が介入なさるのですか?﹂
﹁いや、私はこの国の政治に直接介入が出来ない。この国の初代王
とそう約束したのだ﹂
はあー、初代王とは。話に出てくる相手の格が違う。
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﹁ではどうするおつもりで?﹂
﹁カノープス。お前が調べろ。解決法もお前に任せる。それが人間
界に残る為の試験だ﹂
﹁な⋮関知しないとおっしゃったではありませんか﹂
﹁確かに言った。しかし事情が変わった。今回の件はどうやら騎士
団から始まっているようだ。つまりお前にも責任がある﹂
んな無茶な。
すぐ人のせいにする上司と同じこと言わないでください伯父様。
私は内心でちょっと白けてしまう。そんな場合ではないんだけど。
副団長は憮然とした顔だ。
﹁お前はまだ人間界に来て日が浅い。人間というものを知る為に、
いい機会になるだろう﹂
シリウスの言葉に、副団長はしばらく黙り込んでから、不承不承
で口を開いた。
﹁⋮叔父上のご命令とあらば﹂
こうして私たちは、騎士団内での不満分子の調査をするのに魔法
省長官のお墨付きを得た。
何かと突き放すように言うシリウスだが、彼が味方だと思うと心
強いのは確かだ。
﹁あ、そういえばシリウス様。最近ヴィサくんが帰ってこないので
すが、なにかご存知ではないですか?﹂
79
﹁それだったら、しばらく前に里に帰ると言っていた。用が済んだ
らまた戻ってくるだろう﹂
シリウスの言葉に、私はほっとした。
迷子になってるんじゃないかとか、攫われたんじゃないかと本当
は心配していたのだ。
王城に結界を張っているシリウスが言うんだったら間違いない。
﹁よかった⋮。それにしても何も言わずに行ってしまうなんて﹂
﹁あいつもああ見えて忙しいのだ。わかってやれ﹂
そう言ってシリウスに撫でられたので、私は機嫌を直した。
ヴィサくんはいたらいたで煩いけれど、いなければいないで寂し
い。
シリウスの掌の温もりが、なんだか余計に胸に染みた。
六歳児は人恋しくていけない。
﹁では、我々はこれで失礼いたします。報告は﹃伝達﹄の魔法で行
いますので﹂
﹁ああ﹂
魔法はエルフと精霊にしか使えないので、他人に盗み見られる心
配もなく安心だ。
もちろん、私も受け取ることはできないんだけれど。
そうして私たちはシリウスの執務室を後にした。
この時もっとしつこく訊ねておけばよかったと、後悔するのはず
80
っと後になってからだった。
81
45 悪い病気が始まりました︵前書き︶
進んでるんだか戻ってるんだか
82
45 悪い病気が始まりました
シリウスから衝撃的な話を聞かされてから三日後、騎士団では臨
時朝礼で主計官の死が発表された。
といっても主計官は普通の騎士とはそれほど接点もなかったらし
く、その知らせは特に騎士団を騒がせたりはしなかった。
これまでのように主計官の仕事は一時的に副団長が処理するとい
うことになり、新たな人事は団長が戻ってからということで一時的
に棚上げになった。元から有名無実であった役職なので、急いで後
続を決めなくても特に混乱は起こらないようだった。
歯車を一つ失っても、結局組織はちっとも揺るぎはしないのだ。
それが少し、もの悲しくもあった。
表面上は何事もなく、何日かは穏やかに過ぎて行った。
しかしそれがフラグのようでもあり、私は副団長の名義で手紙の
書いたりしながら、落ち着かない日々を過ごした。
﹁この書類を運んでおくように﹂
副団長に命じられて、主計室に書類を返却するのもすっかり慣れ
っこだ。
束になるような書類には台車を使うが、台車には軽量化のペンタ
クル︵風属性︶を勝手に刻んだので、労働が辛いということもない。
その日も私は、書類を載せた台車を押しながら二階の端にある主
計室に向かった。
主計室はいつ訪ねて行っても、相変わらずダラ男達が種類が異な
るだけの賭け事に興じている。
彼らも私の存在に慣れてしまったのかしっかり無視してくれるの
で、私はそのままジガーに書類を預け、主計室を後にした。
83
しかし今日は、いつもとは違うことが起きた。
﹁待ってくれ!﹂
しばらくして私を追いかけてきたのは、ジガーだった。
その手には一枚の書類が握られている。
﹁何か分からないことでもありましたか?﹂
私が彼を見上げて尋ねても、ジガーは挙動不審に辺りを見回すば
かりで応えようとしない。
﹁?﹂
私が首を傾げていると、彼は心持ち屈んで私に囁いた。
﹁君に聞きたいことがあるんだ。ちょっといいかな?﹂
﹁⋮はぁ﹂
嫌な予感はしないでもないが、彼のあまりに深刻そうな顔に断る
こともできなかった。
副団長などには迂闊だと怒られるかもしれないが、私も生前の主
計官を知る彼の話を聞いてみたかった。
***
連れてこられた先は、厨房の裏にある、忘れ去られたようにボロ
84
い東屋だった。
人気もないし、周りに高い木が茂っているので少し薄暗い。
小さなテーブルに向かい合うと、私は身長のせいでどうしても足
が浮いてしまう。
ジガーはおどおどとして、なかなか話を始めようとしなかった。
私が退屈し、仕事に戻りたいと思い始めた頃、ジガーはようやく
口を開いた。
﹁君は⋮カノープス様の従者なんだって?﹂
え、今まで知らなかったの?
私は少し驚いて、こくんと肯いた。
なら今までただの書類運びのガキだとでも思っていたのか。
﹁やっぱりそうなのか⋮すまない。私はいままでに何か失礼なこと
をしてはいなかっただろうか?私は平民の出なので、どうしても貴
族の家格や地位というものに疎くて⋮﹂
おどおどと弁解するジガーを見ながら、私がもし根っからの貴族
だったら、その言葉って余計に火に油を注ぎそうだけどとぼんやり
他人事のように考えていた。
﹁ご用件はそれだけですか﹂
私が席を立とうとすると、ジガーは慌てて立ち上がった。
﹁いや!本題はそれじゃなくて⋮君がカノープス様の従者だという
のなら、どうしても聞きたいことがあるんだ﹂
﹁なんでしょうか?﹂
85
﹁それは⋮﹂
そう言って、ジガーは再び口ごもってしまった。
どうやらおどおどした第一印象の通り、なかなか煮え切らないタ
イプらしい。
どれほど時間が経ったのか、曇天から小雨が降ってくる。濡れは
しないが肌寒い。
私が“就業時間中に無駄な時間遣わすなやぁ!”と﹃カイゼン﹄
精神を無駄に発揮させてイライラしていると、それが伝わったのか
ジガーはようやく重たい口を開いた。
﹁あの⋮カノープス様は今の主計室をどうお考えなのだろうか?君
は何か知っているか?﹂
﹁は?﹂
知っているも何も、あの状態を忌まわしく思わない中間管理職な
んているのか?
﹁私にハッキリ何かを申された訳ではありませんが、カノープス様
は現状の改善を望んでらっしゃいます﹂
﹁そ、そうだよなぁ﹂
そう言って、ジガーは木でできた古いテーブルに項垂れた。
﹁僕が経理担当で特別採用された時から、主計室はずっとあんな状
態なんだよ。死んだ人の悪口いう訳じゃないけれど、主計官様はず
っと見て見ぬふりで、出勤なさることすら稀だったし⋮﹂
86
グチグチグチグチ。
うわー、ウゼー!
気持ちは分かるが、用件ってまさかそれだけか?
雨は止みそうにないし、弱音吐きたいだけなら他を当たって欲し
い。
そんな私の目線に気付いたのか、ジガーは気まずげに視線を落と
した。
﹁すまない。家族以外と言葉を交わすのは久しぶりなんだ。つい盛
り上がってしまって﹂
う、そう言われるとうっかり同情してしまいそうになった。
確かに夢希望に溢れて大手企業に入ってみたら、配属先が荒れく
れ男の巣窟だったら辛いよね。
でも私みたいな子供にそれを打ち明け始めたら、それって末期で
すよ。
﹁因みに、ジガーさんは主計室をどうしたいとお考えなのですか?﹂
﹁そりゃあ、もっときちんとしなきゃダメだ!騎士団は国の税金で
賄われている組織なんだから、費用を明確にして経費削減できれば、
それだけで節税になるだろう?無駄な費用を抑えることが出来れば、
今年の冬に凍えて死ぬ子供が一人は減るかもしれないんだ!﹂
ジガーさんは急に熱く語りだした。
どうやら彼は志あって騎士団に入団してきたらしい。
不覚にも、彼の言葉に私は少しジーンとしてしまった。
王城の人間は良くも悪くも、平民たちの生活を知らない。
87
実際に国を動かしている人たちの筈なのに。
彼らは冬に、薪を一本も買うことのできない、どころか毛布一枚
も持っていない子供が城下の道端で死にかけたりしていることを知
らない。
一かけのパンもなく、ひもじさに耐え兼ねて盗みを働いた子供が、
店主に打ち据えられて力尽き、見上げた空の虚しさを知らない。
﹁僕も、そうなればいいと思います。いいえ、そうしなければなら
ないんです﹂
私が同意するとは思っていなかったのか、ジガーさんは口を開け
て呆けた顔をした。
﹁私も協力します。ジガーさん、主計室を真っ当な会計機関にしま
しょう。副団長には私から報告しておきます﹂
﹁え⋮っと?ありがとう。でも、誰かを新しく派遣してもらえるん
だろうか?私だけではとても⋮﹂
・・
﹁ええ、私がお伺いします!明日からよろしくお願いします!﹂
気づけば、私は明日から主計室に出向することを自分で勝手に決
めてしまっていた。
最近、独断専行事後承諾の常習犯になりつつあるな。元社会人と
してはまったく嘆かわしいが、この世界では査定もないし好きにさ
せてもらおう。
副団長の呆れ顔を想像しながら、私は熱っぽくジガーさんとこれ
からについて話し合った。
その話し合いを陰で見ていた人がいただなんて、私は全然気が付
88
きもしなかった。
89
46 まずは退去願います
たのもーう!とか、気分はそんな感じ。
ジガーと話し合った翌日にはもう、私は副団長のサインの入った
書類を持って、主計室を訪れていた。
﹁副団長からのご命令をお伝えします。皆様には指示があるまで各
自寮の自室で待機するようにとのことです﹂
私が書類を読み上げると、ダラ男達はお約束通り私をねめつけて
﹁あぁ?﹂とか﹁はぁ?!﹂とか騒ぎ出した。
テンプレすぎてちょっと引く。
こちとら五歳まで、治安最悪の下民街育ちだっつの。
ジガーさんは私の後ろでおろおろしていた。
この人はこの人で、少しこの先が思いやられる。
﹁もう一度繰り返します。これは副団長のご命令です﹂
そう言うと、私は背筋を伸ばして彼らに副団長のサインの入った
書類を見せた。
人相の悪い視線が私及び書類に集中する。
﹁おいガキンチョ。なめてんじゃねぇぞコラ﹂
押し殺した声で脅されるが、すぐに手が出てこないあたりが貴族
様だ。
﹁なんで俺たちが謹慎しなきゃなんねーんだよ﹂
90
﹁謹慎ではありません。待機です﹂
﹁同じじゃねーか!﹂
勢い余ったガチムチマッチョに襟首を持ち上げられる。
こ、これはさすがに苦しい。
やっぱり、はいそうですかとはいかないか。
そうこうしている間に、テーブルの奥に今まで座っていた男が立
ち上がってこちらに近づいてきた。
そしてガチムチを手で制し、私を下ろさせる。
私は激しく咳き込みながら、その男を見上げた。
周りの反応から見ても、こいつがリーダー格らしい。
オレンジ色の髪を撫でつけた、神経質そうな男だ。
﹁ガキ。その副団長とやらに伝えてもらえるか?俺たちを従わせた
きゃ、自分の家系図でも持って来いってな﹂
下卑た笑い声が男の言葉に追従する。
この世界で、家系図があるのは貴族の家柄だけだ。
それが長く古いほど、家格が高く権力もそれに比例するとされて
いる。
男は、貴族ではない︵エルフなので︶叩き上げの副団長をあげつ
らったのだ。
私にはこんな野次を飛ばすような男たちが、高貴な血筋とかいう
方が全然信じられないと思ったりした。
﹁ルイく⋮﹂
91
見るに見かねて割って入ってこようとするジガーを、私は手で制
した。
﹁ゴホッ⋮皆さん、誤解です。これは謹慎ではありません。皆さん
の為の処置なのです⋮ッ﹂
襟首を掴まれたおかげで、演技なんてしなくても真剣な声を出せ
た。
だからと言って絶対感謝なんてしないが。
﹁あぁー?何言ってんだ?﹂
﹁意味わかんねェっての﹂
どしりと大きな掌が頭に置かれる。重い。重力に負けそうだ。優
しく撫でてくれるミハイルや副団長なんかとは全然違う。
それにしても、彼らはこんな下町の言葉遣いどこで覚えてきたん
だろうか?
まあ彼らが下町の娼館にでも遊びに行って性病を移されようが、
私は知ったことではないけどね。
﹁これは極秘の情報なのですが⋮ゴホッ﹂
演技ではなく、私は更にゴホゴホとむせてしまった。
これは昨日、少しだけ小雨に打たれたせいかもしれない。
﹁んだよ早くしろよ!﹂
こらえ性のないらしい男が叫んだ。
ゴクンと私は唾を飲む。
92
﹁⋮主計官様は病死ではありません。自宅にて無残な遺体となって
殺害されているのが発見されました﹂
﹁なんだと!?﹂
男達は一斉に驚愕の声を上げた。
ガチムチ男などドングリ眼をきょときょととさせている。
この反応だと、彼らは主計官様の殺害を本当に知らなかったっぽ
いな。
私は脳内で彼らが犯人だという可能性に横線を引いた。
彼らが新鋭の劇団だというならまだしも、演技にしては彼らの驚
きはリアルすぎるし、なにより本当だったとしたら演技をする必要
なんてない。本当に関わりがあればにやにや笑って私を追い返すか、
私を二度と返さないかのどちらかだっただろう。
彼らの反応をそうして吟味しつつ、私は言葉を続けた。
﹁副団長のお考えでは、これは主計官様ご本人にではなく、主計室
全体に対する恨みによる犯行の可能性があります。なので皆様には
厳重な警備の下、安全が保障されるまで寮にて待機していただきた
いとのことです﹂
正しくは副団長の考えじゃなくて、この人たちをこの部屋から追
い出すための私が考えた言い訳だけどね。
一応その可能性があることは否定できないし、嘘は言っていない。
昨日の内に副団長の許可もとってあるので、書類のサインも本物だ。
私が言い切ると、男たちはお互いの顔色を窺うようにきょろきょ
ろし始めた。
集団で粋がるのは得意だが、最初に尻尾を巻いて逃げるとは言い
出しにくいのだろう。
それぞれの顔に虚勢が浮かんでいるのは明白だった。
93
あと一押し、何かを言えば崩れるかなと思っていたら、余計な横
やりが入った。
﹁そんな話は初耳だ。どうして正式に発表しない?﹂
それはさっきのリーダー格の男だった。
黙って従えボケが。
﹁正式な発表がなされないのは、起こるであろう混乱を憂慮されて
のことです。なにせ主計官様のご遺体は尋常な様子ではなく⋮﹂
私の深刻な顔に、男たちが恐怖心を煽られているのが分かった。
﹁⋮カノープスは、その犯人が俺たちも狙う可能性があると?﹂
﹁確証はございません。私にもカノープス様のご意向はさっぱり。
何か─主計室全体が︽・・・・・︾恨まれるような理由があるのな
ら別ですが⋮﹂
すっとぼけた顔でそう呟くと、何人かがギクッという顔をした。
⋮この人たちって嘘がつけないのかな。
新手のリアクション団体として旗揚げしても面白いと思うよ。
リーダー格の男は流石にちょっとマシで、私に対してにやりと笑
った。
ギクリとしたが、こちらは外見年齢六歳だ。
精一杯無知で背伸びしている振りをするしかない。
﹁⋮なるほどな。無用な心配だが、休みをくれるってんならちょう
どいい。精々頑張って犯人を捜してもらおうじゃねーか﹂
94
そう言って、肩をばしばし叩かれる。
うう、もう勘弁してくれ。
率先して部屋を出ていくリーダーに従って、他の男たちもがやが
やと部屋を出ていく。
誰も反論などしないところから見ると、どうやらあの男の統率力
は主計室の中では絶対のようだ。
そして最後の一人が出て行った後、私は後ろから突如ジガーに抱
き着かれた。
﹁すごいよルイくん!あいつらがこんなに素直に言うことを聞くな
んて!!﹂
テンションだだ上がりなところ申し訳ないが、痴漢で訴えるぞコ
ンチクショウ!
95
47 三つの知らせ
主計室を占拠していた不良騎士たちを退去させた後、私はジガー
さんと一緒に書類の選別を始めた。
会計処理のやり直しや予算配分の見直しは今やっている場合じゃ
ない。後からじっくり時間を掛けてもっと大人数でやるしかないだ
ろう。専門家も交えて。
今私たちがしなければならないのは、騎士団の予算が横領されて
いる証拠を見つけ出すことだ。
副団長の仕事を手伝ったときに見つけた露骨な粉飾決済。
予めジガーさんにもそれとなく尋ねてみたが、そんなものは知ら
ないと首を振られてしまった。
どうやら下っ端のジガーさんには、見ることのできない書類が多
くあったらしい。
私たちの暫定の目的は、それを見つけ出してその資金の流れ込む
先を突き止めることだ。
以前私がちらっと見ただけでも、かなり大量の資金が横領されて
いる様子だった。
ただの欲をかいたオヤジの仕業ならまだいいが︵よくはないけど︶
、時期的に見て反政府組織の資金源になっている可能性もある。
騎士団ならば武具などの調達も安易だろう。
王家は自らの番犬に牙を向けられているのだとしたら⋮。
私は必死になって書類の文字と辿り、数字を見比べた。
ジガーさんもさすが本職だけあって、どんどん不審な点のある書
類を選別していく。
私たちは主計室に泊まり込みで、何日もその作業に当たった。
途中副団長が訪れて何かお小言を言ったような気もしたが、正直
あまり覚えていない。
お食事は厨房でお願いしますと言ってしまった。
96
もともと従者のいなかった人なのでどうとでもなるだろうが、私
は従者失格だと思う。
でもそれでたとえ首になったとしても、私には王家に牙をむく人
間を探し出すことの方が重要だった。
王家に、王子に害を及ぼすものを、放っておくことはできないか
らだ。
そして私がジガーと一緒になって書類に埋もれている内に、三つ
の進展があった。
一つは、ミハイルとゲイルの調査結果だ。
どうしてもこいと言われ、副団長の執務室に行くと少し疲れた顔
の二人が立っていた。
正直、彼らに副団長が調査を依頼したのがもう大昔の事のように
感じられて、最初は何の用だか分らなかったぐらいだ。
現実には、一週間ほどの時間だった訳だが。
二人は私を見て、揃って眉を寄せた。
片方は色男で、片方は顔に傷のある男なのですごい迫力だ。
私は疲労と寝不足でそれどころじゃないんだけど。
﹁⋮カノープス様。差し出がましいようですが、ルイはまだ子供で
す。しっかりと休ませてくださいますよう、父としてお願い申し上
げます﹂
ゲイルが苦渋の顔で言う。
ああ、そんなことを言わせてごめんなさい。
冷静で度量の広いゲイルが、上司であるカノープスに直接こんな
ことを言うなんてよっぽどだ。
せめてもお風呂に入ってから来ればよかったのかも。
私は隠れて、くんくんと自分のにおいを嗅いだ。
おおっとそんな場合じゃない。
97
﹁ゲイル様、これは自分で望んでしていることです。決して強制さ
れたりしているわけではございません﹂
精一杯見上げると、ゲイルの目が潤んだ。
え、泣くの?まさか泣くの?
﹁⋮分かっている。私もルイの暴走には頭を悩ませているところだ。
お前たちからも後で言い聞かせてやってくれ。今は報告を﹂
副団長は相変わらず冷静だが、その眉間にはちょっぴり苦渋の皺
が寄っていた。
本当に命令を聞かない部下でごめんなさい。
私は我が身を振り返って反省した。
反省したからと言って、主計室での仕事をやめるかと言われたら、
それは出来ないですけどね。
﹁まず、副団長がおっしゃっていた団長に関する噂だそうですが、
ここ数日の内で騎士団内に爆発的に広まっております。出所はどう
やら数か所に分けられているようで、その大元を現在調査中です。
しかし問題は、その噂によって親王家派である騎士達に混乱が出て
きています。革新派に転向しようとする動きも少なからずみられ、
このままでは騎士団内部が真っ二つに割れる可能性もあります﹂
ミハイルが深刻な顔で告げた。
私もその報告に血の気が引くのが分かった。
早い。いくらなんでも展開が速すぎる。
まだ何の準備もできていないのに。
絶対どこかに仕掛け人がいるはずだ。でなければこんなにスムー
ズに騎士団を分裂させることなんてできない。
98
そして今一番問題なのは、団長がいないからその噂をはっきりと
否定できる人間がいないということだった。
ミハイルの報告では、現在騎士団は大まかに分けて三つの派閥に
分かれつつあるという。
一つはもともと最大派閥の親王家派。これが今も最大勢力ではあ
るのだが、刻一刻と人員が減り勢力を削られつつあるという。
もう一つは新しく登場した革新派で、これは騎士団の中でも下位
の若い人間が多く参加している。指導者がいるらしいが、それは未
だ不明だという。ミハイルやゲイルもしつこく勧誘されて辟易して
いるらしい。
そして最後は団長派とも呼ぶべき派閥で、こちらはあくまで団長
の帰りを待って、その真意を確かめてから立場を決めようという所
謂“日和見派”だ。中堅の将官クラスのほとんどがこれだといって
よく、誰もが慎重に事の成り行きを見守っている。彼らが革新派に
流れていこうとする若手騎士をよく纏めているので、事態の急速な
悪化に歯止めが掛かっているのだそうだ。
国内最大の軍事力と言っていい騎士団がこんな状態では、今他国
に攻め入られ大変なことになるんじゃないだろうか。
この国の騎士団はもう長い間戦争を経験しておらず、訓練を重ね
ているとはいえ名誉職の意味合いが強い。
だから呑気に噂に振り回されて内部分裂なんか起こしているのか
もしれない。
私は心底バカバカしい気持ちになった。
﹁僭越ではありますが、カノープス様には早急に自らの立ち位置を
ハッキリと宣言していただきたく思います。中にはカノープス様が
王家を憎んでいられるというような噂もございますので﹂
﹁ばかばかしい﹂
99
副団長は深いため息をついた。今は私もまったく同じ気持ちだ。
﹁団長から留守を任されているものとして、事態をこのまま放置し
ておくことはできない。近い内に発表の場を持つ。二人はご苦労だ
った。訓練に戻ってくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
二人は敬礼して部屋を出て行った。
残された私は、複雑な気持ちで副団長を見上げた。
﹁人というのは本当に愚かしいな。真偽も確かめず足元をぐらつか
せ、容易く翻意し諍いの種を生み出す﹂ 副団長は吐き捨てるように言った。
私も同じ感想を抱いたが、同じ人間としては身の置き場がなかっ
た。
副団長はその後しばらく黙り込み、そして口を開いた。
﹁ルイ、お前に告げておかねばならないことが二つある﹂
﹁二つ⋮ですか?﹂
﹁ああ。一つは、先日お前が主計室から追い出した騎士の一人が殺
された﹂
﹁え﹂
先日見た、いやらしい笑いをする男たちを思い出す。
100
﹁寮の自室で主計官殿と同じ方法で殺されていた。図らずも、お前
の出まかせの予想が当たったな﹂
当たったと言われても、ちっとも嬉しくなかった。
サインをもらう時に﹃こうこうこうやって彼らを説得するつもり
だ﹄と副団長には説明はしてあったが、あれはダラ男達を主計室か
ら退去させるためのその場しのぎの嘘で、決してそれを望んでいた
わけじゃない。
それに主計官様と同じ殺され方なんて、どんなに痛かっただろう
か。
﹁混乱を避けるために伏せてはいるが、そう遠くない内に話は広ま
るだろう。ただでさえ団員が分裂して疑心暗鬼になっている時期だ。
今後はより一層身の回りに気をつけなさい﹂
﹁はい⋮﹂
私の心配なんて、している場合じゃない。
この連続殺人と騎士団内での分裂が関連しているかどうかはまだ
わからないが、あまりにもタイミングがよすぎる。これでは騎士団
内で余計な諍いが起きかねない。
一刻も早く、裏で暗躍している人間を見つけなくては。
私は掌をぎゅっと握った。
しかし間を置かず、もう一つの知らせの方がメガトン級の衝撃で
私に襲い掛かってきた。
﹁もう一つは⋮団長閣下が現在行方不明だ﹂
﹁え?!﹂
101
一瞬、副団長が何を言ったのか理解できなかった。
﹁伝令を飛ばしたが返事がない。精霊に見に行かせたところ団長が
赴いていた国境付近で大規模な山崩れがあったらしく、情報が錯綜
している﹂
苦虫をかみつぶすように、副団長が言った。
この人がこんなにはっきりと表情を変えるのは珍しいかもしれな
い。
﹁このことはまだ、私とお前と叔父上しか知らない。もし発表すれ
ば、大変なことになる﹂
私の脳内は一瞬副団長の言葉を処理することを拒否して真っ白に
なった。
だって、もし今団長が死んでしまったら。
保守派を押し止めている箍はなくなり、親王家派は瓦解しかねな
い。団長が革新派に翻意していたという噂は永久に訂正することが
出来なくなり、もしかしたら団長は王家に殺害されたのではないか
と疑う者も出てくるだろう。革新派は、それに乗じて一気にクーデ
ターを︱︱︱⋮。
﹁落ち着け﹂
副団長の声に、私は我に返った。
気付かず、手が震えていた。
恐怖で、体の芯からカタカタと震えてしまう。
思わず右手で左手をぎゅっと握リ占めた。
怖い。怖い。本当に内乱になるかもしれないなんて。
102
前世で、テレビ画面で見ていた遠くの国の内乱の様子が思い浮か
ぶ。
同じ国の人間同士で憎しみ合い、殺し合う。
いやだ、いやだ!
この国にはそんな風になって欲しくない。
ただ他の国に逃げ出せばいいと思うには、私はこの国に大切な人
を作りすぎていた。
自分の大切な人たちが、傷つくのが怖い。苦しむのが嫌だ。
その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
所詮私なんて、今まで誰かに守られてきただけの子供なのだと思
い知らされる。
﹁怯えるな、大丈夫だ⋮﹂
そんな私をどう扱ったものかと困った様子で、副団長が見下ろし
ていた。
その狼狽えた声を聞いただけで、私はもうダメだった。
目の前に聳え立つ足に縋りつき、顔を埋める。
副団長の狼狽が伝わってくるが、今だけは勘弁してほしい。
もう少ししたら、頑張って前を向くから。
それまでは、少しこのままでいてほしい。
103
48 夏の虫
夜、主計室での仕事に一区切りをつけ、私はふらふらと寮に向か
って歩いていた。
ジイジイと虫が鳴いている。
気づけば季節は既に夏目前の紫月に差し掛かっていた。
王都に来てからちょうど一年になる。
頬に落ちかけた汗を拭いつつ、私は歩みを進める。
あれから、騎士団は大変なことになった。
団長の失踪は公けになっていないから、大変だったのは主計室所
属の騎士の殺害事件に対する騒ぎだ。
その猟奇的な手口もさることながら、騎士団の寮で堂々と行われ
た犯行に騎士団、ひいては王城中が蜂の巣をつついた騒ぎになった。
警備が杜撰だったのではないか。はたまた内部犯の犯行か。もし
そうであれば、未だ犯人は王城内に潜んでいる可能性がある。王城
内は猟奇殺人犯の存在に騒然となった。
また、どこから漏れたのか主計官が殺害された事実も流布され、
混乱に拍車をかけた。
人々はびくびくと行動するようになり、王城は陰鬱な雰囲気に包
まれた。
副団長は何度も王城へ呼び出され、口うるさい貴族たちから諮問
を受けてうんざりしているし、王城の召使たちは怖がって滅多に騎
士団のいる区画には近づいてこない。
おかげで寮へ続く道は虫の音しかせず、静かなものだ。
夏とはいえまだ涼しい風に吹かれながら、私は疲れた目頭を押さ
えた。
あれから、私はどうせ犯人探しにはちっとも役に立たないと見切
りをつけ、より一層主計室に籠るようになった。
104
そしていままででわかったことは、やはり何者かが騎士団の予算
をかなりの額横領していたということだ。
ジガーの知識と記憶を頼りに、私たちは過去の書類をあさりまく
った。
そして分かったのは、その横領が比較的近年になってから始めら
れたものであるということと、そのお金が流失している先だ。
ちょうどその横領が始まったと思われる頃から取引が始まった取
引先で、大きな船と各国にいくつも支店を持つ巨大な商会。
そこに、毎月多額の金が商品代金として支払われていた。
輸入の食材や武具など、些細な消耗品から高額な商品まで。一見
普通の取引に潜ませてはいるが、なにしろ額が大きすぎた。
ジガーの言うその商会の子会社等への支払いも含めると、その額
は実に年予算の四分の一ほどに相当していた。
今までは見ることの許されなかった書類に目を通しながら、ジガ
ーの顔は青ざめていた。おそらく、私も同様だったことだろう。
私は騎士たちの予算に対する管理の杜撰さに頭を抱えたくなった。
そしてその予算が流れ込んだ先が世界各国に支店を持つ商会であ
るというのならば、そのお金が流れ込んだ先は外国である公算が高
い。
この国は狙われ、すでにその糸に絡めとられつつあるのだ。
私は今、この結果を知らせる為に寮にいる副団長の許に向かって
いた。
夜に出歩くなと言われてはいるが、寮までの短い距離だしなによ
り副団長に早くこの事実を知らせなければと気が焦っていた。
早く、早く。
焦る意思に反して、何日もデスクワーク漬けで酷使した体は思う
ように動いてくれない。
ようやく闇の中から現れた寮の明かりが遠くに見えた時、私はほ
っと息をついた。
しかしその時、傍らの植え込みがガサリと不吉な音を立てる。
105
私は一気に血の気が引いた。
気のせいであることを祈り、振り返らずにそのまま走り出す。
タッタッタ タッタッタ
すると、すぐ後ろで足音が付いてきた。
大人の足音だ。
私は恐れ慄き、叫ぼうにも声が出なかった。
今できるのは、歯を食いしばって走り続ける事だけだ。
必死で走り、ようやく寮が目の前まできたという時、とうとう足
音が背後まで迫り、私の肩を捕まえた。
思わず絶叫しそうになったが、新たに伸びてきた手が私の口を抑
えたのでそれは叶わなかった。
暴れようにも、手足が固まって恐ろしくて動けない。
やっぱり、ジガーに付いてきてもらえばよかった。強がらなけれ
ばよかった。
私の頭を今までの回想シーンが巡る。
短い人生だった。もっと色々な事がしたかった。最後に王子に会
いたかった⋮。
泣きそうになっている私に、追いかけてきた犯人が耳元で呟いた。
﹁⋮叫ばないでね?﹂
﹁?﹂
あれ、知った声だ。
私の涙は速攻で引っ込んでしまった。
手がそっと外され、振り返ってみるとそこにいたのはクェーサー
さんだった。
106
﹁君が一人で寮に行ったと聞いて、慌てて追いかけてきたんだよ﹂
﹁はい、すいません﹂
呆れた様子のクェーサーさんに、私はペコペコと頭を下げた。
どうやら心配して追いかけて来てくれたらしいのだが、勘違いし
た私が急に走りだした上、寮のすぐ近くで叫ぼうとしたので慌てた
らしい。
こんな夜中のしかもこの時期に、悲鳴なんか上げて寮の騎士を叩
き起こした日には、どれだけ迷惑をかけるだろうか。そしてどれほ
ど嫌味を言われるか。考えただけでうんざりした。
﹁今は物騒な事件も起きているんだから、ちゃんと気を付けないと﹂
寮の中に入りながら、クェーサーさんは説教を続ける。
寮の広間は明かりが落とされ閑散としていた。
クェーサーさんは団長室の隣に部屋があるというので、一緒に幹
部用の上層階へ向かう。
階段は私のスピードに合わせてくれているので、説教を聞く時間
はたっぷりとあった。
﹁っと、そういえば君は、こんな時間まで主計室で何をやっていた
の?﹂
説教の合間、クェーサーさんの質問に私は言葉に詰まった。
今までの経緯などを、クェーサーさんは何も知らなし、これから
も知られるわけにはいかない。
﹁⋮ジガーさんのお手伝いをするように、副団長に命じられまして﹂
107
伝家の宝刀、副団長の命令。
クェーサーさんは驚いたようだが、別に私を疑う様子はなかった。
﹁こんなに遅くまで?たいへんだな﹂
嘘をつくことに、少し心が痛む。
私は話を逸らそうと、彼に水を向けた。
﹁クェーサーさんは、こんな遅くまで本部でなにを?﹂
﹁ああ、団長に報告する書類をまとめていた。第一の従者は閣下が
遠征にお連れになってしまわれたからな﹂
﹁クェーサーさんは第二の従者なんですもんね?もう長いんですか
?﹂
﹁いや、結構最近だな。去年の半ば程か﹂
﹁え、そんなに仕事ができるのにですか?﹂
﹁ばか、お世辞を言ってお何も出ないぞ﹂
クェーサーさんがお得意の苦笑いを零す。
﹁ジガーさんみたいに、特別な採用があったんですか?﹂
﹁いや、僕の場合は紹介だね。僕を紹介してくれたのは⋮主計官様
なんだよ﹂
暗い顔をして、クェーサーさんは言った。
108
予想もしていなかった答えに、私は言葉を失ってしまった。
そんな私の様子に、クェーサーさんは再び困った顔で笑う。
﹁主計官様は優しいお方だったよ、争い事を嫌い、穏やかで風流を
愛した﹂
今まで知らなかった主計官の人となりを聞かされ、私は複雑な気
分になった。
私は主計官を、杜撰なお金の管理をしたということで少なからず
憎んでいたし、知らない人だと思うから殺されたと聞いても冷静で
いられた。
だから今更、そんなつらそうな顔でそんな話を聞きたくはなかっ
た。
﹁なのになぜ⋮あんなことになってしまったのか﹂
彼の溜息が、夏の夜に紛れる。
﹁犯人はきっと、すぐに見つかりますよ。なんせ騎士団自ら調査し
ているんですから!﹂
空元気で、クェーサーさんを元気づけるために私は明るく言った。
王城内での事件は本来近衛の管轄だが、騎士団が彼らの捜査を拒
んだために、捜査は騎士団内部で行われることになっていた。
そして私たちは階段を上りきり、副団長の部屋の前で別れた。
﹁じゃあ、もう無茶はしちゃだめだよ。おやすみ﹂
﹁はい、おやすみなさい﹂
109
彼の穏やかな目を見ながら、私は手を振った。
そして彼の背中が、団長の部屋の手前にある小さな扉に入ってい
くまで見送る。
静まり返る廊下で、私は握りしめていた片手を解いた。
クェーサーには、気付かれなかっただろうか。
私がずっと怯え、震えていたことを。
︱︱︱あなたから馨る微かな血の匂いや、纏わせている闇の粒子
に。
私は逃げるように、副団長室に飛び込んだ。
もしかしてと思い、関係ないはずだと何度も自分に言い聞かせて
いたのに。
﹃アドラスティア商会﹄
それは主計室の書類から浮かび上がった、世界を股に掛ける商会
の名前だった。
110
49 遁れることの出来ない者
﹁なぜわたしが、こんなことをせねばならない﹂
執務室の安楽椅子に深く座り目を閉じているシリウスは、まるで
悪夢でも見ているかのように眉間に皺を寄せた。
しかし彼の視覚だけは遠く、ぼんやりとした闇の粒子の中を彷徨
っている。
闇の精霊が生まれては消えていくその海は、本来天界の生き物で
あるシリウスを不快な気持ちにさせた。
事の発端はある日、シリウスが王城に張り巡らせている結界の中
で、ヴィサークの反応が突如消えてしまった事に由来する。
もしやリルになにか危機が降りかかったかと思い、慌てて遠見で
彼女を探したが、彼女自身には何の異変もないようでほっとした。
シリウスはリルが心配しないように彼女には嘘をつき、その日以
来仕事の合間にヴィサークの存在を探し続けている。
仕事、仕事、捜索、仕事でシリウスは鬱屈が溜まっていた。
王の意向に同意はしたが、自分にこれほどの負担がかかるとは聞
いていない。
まさか、こっそりとリルの様子をのぞき見する時間まで奪われる
とは!
加えて、どうも最近王城の中に闇を遣う者が侵入したらしく、日
に日に城の中は闇の気配が濃くなっている。それに影響されている
のか、王城に出入りする貴族たちも無意識に感情を波立たせ、悪意
に心を奪われやすくなっている。
計画には好都合かと思い放置してあるが、こちらもいつまでも好
き勝手させておく訳にもいかない。
人の世の面倒な事よと思いつつ、やはりシリウスは今日も仕事と
111
ヴィサークの捜索に明け暮れていた。
このエルフの美点は、たとえ不本意でも任された仕事を投げ出さ
ないところかもしれない。
﹃ヴィサーク、いるのだろう﹄
寄せては返す闇の中で、シリウスは念じた。
遠くでオオカミのような獣が、鳴いているのが聞こえる。
それは遠吠えか、或いは呻きや嘆きなのか。
﹃精霊の王の一角を担う者がなさけない﹄
バカにしたように吐き捨てると、遠くで微かな反応があった。
木枯らしのような、小さな風だ。
その流れの方へ、シリウスの意識は一瞬にして跳んだ。
﹃ヴィサーク、ここか?﹄
﹃⋮ガルルル﹄
﹃すでに言葉すら失ったか。そこまで堕ちたとは﹄
シリウスの呟きに、グルルルという激しい怒気が闇を揺るがした。
﹃ガ⋮ガ⋮⋮チカラを、よこせ。オレの⋮ヂガラ⋮﹄
﹃理性のない者に、力を返してどうする。闇に染まって精霊使いの
手先になるつもりか﹄
﹃オレの⋮チガラだ⋮オレの⋮﹄
112
シリウスはその闇に締め上げられた力の塊に、憐みの視線を向け
た。
あまりにこの空間に長くいすぎたせいで、それは己の姿形すら忘
れてしまったらしい。
ただ猛った意思だけが、そこで強く渦巻いている。
﹃哀れな。ならば一思いに消してやろう。かつて友であった者の弔
いとして﹄
﹃ガ!⋮オれ⋮の!チカラ⋮!﹄
高く掲げたシリウスの右手に、光が生まれた。
光に照らされ、シリウスの意識は明確な輪郭を持つ。
光どんどん大きくなり、それを嫌った闇の粒子がどんどんと辺り
から逃げていった。
より強く、大きく。
強い光に焼かれるように、凝っていた闇は解けて消えてしまった。
***
確かに副団長の部屋に飛び込んだはずなのに、そこに副団長はい
なかった。
﹁よく来たね、ルイくん﹂
そこにいたのは、副団長ではなかった。
113
ニコニコと微笑む彼は、いつもとは違い混じりけのない笑みを浮
かべている。
見慣れた人の、見慣れない表情に、リルの背筋をゾクッと悪寒が
通り抜けていった。
﹁⋮クェーサーさん﹂
リルは思わず後ずさったが、さっき入ってきたはずの扉に触れる
ことが出来ず、驚いて後ろを振り返った。
そこにはただどこまでも続く黒い闇が、まるで新月の夜の様に満
ち満ちていた。
﹁ダメだよ。もう帰れない﹂
﹁どうして、あんなことをしたんですかクェーサーさん﹂
思い切って、リルは聞いた。
例え血のにおいを感じても、闇の粒子が見えたとしても、リルは
やはり半信半疑だった。
こんな虫も殺せないような顔をしたクェーサーが、仕事で疲れ果
てて困った笑顔ばかり見せる彼が、まさか殺人を犯すなんて信じら
れなかった。
﹁どうしてって、言われてもなぁ﹂
﹁⋮﹂
﹁闇の精霊を養うにはね、人の悲鳴や嫌悪や恐怖が最適なんだ。だ
から皮を剥いでじっくりと死に至らしめることで、その効果は何倍
にもなるんだよ﹂
114
まるで仕事について説明するように、クェーサーは言った。
しかしそのおぞましい内容に、リルは吐き気がした。
﹁優しい人だったって、穏やかで風流を愛する人だったって言った
じゃないですか⋮﹂
﹁そうだね。でも彼は穏やかだけど強欲だった。その風流のために
沢山のお金を必要としていた。本当に馬鹿でお人よしで吐き気がし
たよ。団長の従者に推薦してもらうためだって理由がなかったら、
すぐにでも殺してやりたいくらいだったよ﹂
ああなんで、この人はこんなにきれいに笑えるんだろう。
ひどく残酷なことを言いながら。
リルは総毛立つ。
ここにはいたくない。
早く、ここから逃げなければ。
﹁君の事はね、あの国境からずっと気にしていたんだ。君、夜の森
で盗賊から隠れるのに闇の魔法粒子を使っていただろう?僕は感動
したんだ。僕以外にも闇の粒子を従えられる人間がいるんだって﹂
そんな時から見られていたのかと、リルは思わず自分の手首を握
りしめた。
カタカタと体が震える。
怖い、怖い、こんな人と今まで一緒に仕事をしていただなんて!
﹁カシルの時も、あなたがやったんですか?﹂
﹁あのぼんくらの名前かな?うん、ごめん。つまらない人間になん
115
て興味がないから忘れてしまったよ﹂
﹁どうして、こんなことをするんですか?なんでそんなことが言え
るんですか?どうして平気で人を傷つけたりできるんですか?﹂
その様を想像するだけで、自分はこれほどまでに恐ろしいという
のに。
﹁どうして、だって?おかしいな。君って下民街の生まれなんだろ
う。むしろ僕の方が不思議だよ。どうして君はそんなに真っ当であ
ろうとするんだい?そんなに力があるのに、どうして支配しない?
どうして貴族のバカどもにいいように蔑まれているんだ﹂
﹁ッ!﹂
クェーサーの指摘に、リルは身を竦ませた。
確かに、自分は元は悪役だ。
自分の生まれを憎み、世界を神を憎んだのも一度や二度じゃない。
彼の問いかけに、共感できる自分だっている。
下民街で自分たち親子を虐げた男たち。自分をいないもののよう
に扱った義母や異母兄たち。騎士団の中でもつまらないいたずらや
何かにつけて嫌味を言う貴族のガキども。
全部、全部憎たらしかった。
リルは懸命に、声を張り上げた。
﹁あなたには、きっとわかりません﹂
﹁うん?﹂
﹁あなたがどんな生まれかなんて、知らない。どれほど貴族を憎ん
116
でいるかなんて、私には関係ない。私は私で、自分を愛してくれた
人の為に生きるんです。その為なら、くだらない蔑みなんか気にな
らない!﹂ リルには、ちゃんと愛してくれる人たちがいた。
本当の母親も、シリウスも、ヴィサークもミハイルもゲイルもミ
ーシャも、そして王子も。
彼らがいたから、リルは真っ当に生きてこれたし、頑張って人の
ためになる仕事に就きたいと思った。
王子を支えて、貴族が一方的に搾取するだけじゃない、頑張って
働けば報われる国にするのが、今のリルの目標だった。
勿論、簡単な事じゃないのは分かっている。
でも前世の知識を使えば、そして子供である今から努力を始めれ
ば、その夢の一端ぐらいは掴めるかも知れない。
自分を愛してくれた人に、それを返したい。
その想いが、今のリルを支えていた。
﹁ははっ、素敵だね。とっても素敵だ。だけど僕は君のそういうと
ころ、嫌いだな﹂
﹁ええ、嫌いで結構です﹂
﹁そうか、残念だ。君とは分かり合えると思ったのにな﹂
﹁ええ、残念です。あなたがそんなつまらないものに拘って罪を犯
したなんて﹂
﹁罪っていうけど、誰が僕を捕まえられるのかな?精霊使いはもう
大昔に抹消された存在だよ。それを取り締まる法律なんかない﹂
117
﹁でもあなたは人を殺したんでしょう?﹂
﹁精霊を使って、ね。だから証拠もない。誰も僕を捕まえられない﹂
﹁ならどうして、私にそれを話したんですか?﹂
﹁そりゃ、君をここから出すつもりなんてないからさ﹂
彼がそういうと、突如周りに浮かんでいた闇の粒子がリルに襲い
掛かってきた。
逃げる間もなく、それに取り囲まれてリルは身動き一つ出来なく
なる。
その場から去ろうとするクェーサーに、リルは問いかけた。
﹁アドラスティアって、一体なんなんですか?﹂
それは横領に関わる商会の名前でもあり、目の前の精霊使いの姓
でもあった。
クェーサーの足が止まる。
﹁⋮アドラスティア。それは﹃遁れることの出来ない者﹄﹂
﹁?﹂
﹁この名前だけで気付いてくれたら、こんな面倒なことまでせずに
すんだのにね⋮﹂
そう呟いて、クェーサーは消えてしまった。
リルは闇に取り巻かれて、やがて意識を失ってしまった。
118
119
50 青い星の流れる先
ひとりぼっちのエルフの話をしよう。
エルフの里に馴染むことが出来ず、人間界に降りた変わり者のエ
ルフの話を。
これは人も知らないことだが、天界に暮らすエルフという生き物
は、基本的にそれぞれが孤独を好む習性を持っている。
彼らはもっと獣に近い姿で生れ落ち、成長するにしたがって人型
に近づき知性を高めていく。
彼らは群れず、親ですら生まれたての子供を突き放して生きる。
天敵のいない天界でなら、子供のエルフはそれでも生き抜くこと
が出来るからだ。
そして彼らは親子の愛情や仲間の友愛などは知らず、ただただ淡
々と成体に為る。
それは一個体でも強大な力を持つ彼らが、決して諍いを起こさな
いようにする為の遺伝子に刻まれた絶対のルールかもしれなかった。
彼が生まれたのは、そんな天界でのことだった。
きらきらと光る星の生る木の茂る森でのこと。
彼の親のエルフはその他のエルフと同じように、彼をその場に残
して去ってしまった。
取り残された彼は、それでも大気に満ちる魔法を吸収し、長い年
月をかけて成体に為った。
生まれた時から、彼には前の一生の記憶があった。
それは他の世界での、人間を愛し、愛し、愛しすぎて死んでしま
った犬の一生だった。
彼は寂しかった。
120
生まれたばかりで一人きりだというエルフならば当たり前の環境
も、彼には耐え難かった。
そして彼には他のエルフとは違う点が、もう一つだけあった。
それは“貪欲”だということ。
エルフというのは、基本的にあまり欲求というものがない。
それは生まれながらにして、危険もなく全ての物を恙なく与えら
れているからかもしれない。
しかし彼にはその“欲”があった。
主人に会いたい。人間に会いたい。一人ではいたくないという差
し迫った“欲”が。
その欲が大気中の魔法をより多く引き寄せ、やがて彼はエルフの
中でも最も力が強い個体へと成長した。
それは他のエルフたちにとっても、驚くべきことだった。
やがて彼は、エルフの中でも最も強い個体に継承される﹃シリウ
ス﹄という名前を得るまでになった。
彼が人間界に降りることにしたのには、とある切っ掛けがあった。
人間が恋しかったから?
いいや、それだけならば彼は天界を出ることまではしなかっただ
ろう。
彼を地上へと駆り立てたのは、あるもう一つの﹃記憶﹄だった。
地球で暮らした犬の一生の他に、彼にはもう一つの記憶があった。
不思議なことに、その中でも彼は“シリウス”だった。
幼いころはぼんやりとしていたその記憶も、年月を経るごとに鮮
明に思い出されるようになっていった。
不思議だった。エルフは夢を見ないし、幻覚などの症状に陥るこ
ともない。
しかし彼には、その﹃記憶﹄が確かにあった。しかしそれがいつ
121
のものであるかはとんと分からなかった。
それは彼が人間界に降りて、とある人間の少女に恋をする記憶だ
った。
名前は思い出せない。
ただ、愛らしい少女だったことは憶えている。
容姿を思い出せるわけではない。
ただ、自分が彼女を愛らしいと思い、そして恋しいと想った記憶
だけが、無秩序に蘇る。
シリウスは混乱した。
主人を恋しいと思う気持ちが、エルフとして生まれてからはずっ
と自分にとって一番重要な気持ちだったはずなのに。
シリウスはその記憶に引きずられてしまいそうな自分が怖かった。
なぜならその記憶の中で彼は、その少女の為にある人物を殺して
しまうからだ。
記憶の中でシリウスは、エルフではありえない程冷静さを欠き、
恋に溺れ、やがて少女と対立していたその人物を疎ましく思うよう
になる。
シリウスにとって、その人物は浅からぬ縁のある相手だった。
・・
気まぐれに情けを掛け優しくした、魔力を持つ卑しい血筋の子供。
貴族に引き取られて─学園に現れた彼女は、やがてシリウスの愛
する少女に危害を加え、暴言を吐き、看過できない言動を取るよう
になる。
それを知ったシリウスは怒りに燃え、衝動でその人物を殺してし
まうのだ。
ただ愛する少女を害するものから守りたい一心で。
シリウスとは正反対の漆黒の髪と、不気味な灰色の瞳を持つその
122
人物の名前は﹃リシェール・メリス﹄。
彼女が死にゆくその瞬間に、シリウスは彼女が恋い焦がれたかつ
ての主人だったことに気付くのだ。
そんな教訓のある童話めいた、耐え難い悲劇の﹃記憶﹄。
それから逃れるように。
もしそれが真実ならば新たな記憶を刻むために、シリウスは地上
へと降りた。
そして長い年月が過ぎ、無数の国を通り過ぎた後に、やっとあれ
はただの思い違いだったのかもしれないと思い始めたところで、シ
リウスはとある縁で一つの国に腰を落ち着けることになった。
短い生を生きる人間たちと関わりながら、或いはこんな生き方も
いいのかもしれないと、そしてそろそろ天界に帰ってもいいのかも
しれないと思い始めていた時、その国に国同士の協定で大きな魔導
学園が出来ることが決まった。
それはどこの国の人間でも受け入れる、人類全体のための巨大な
学園だった。
その知らせを聞いた時、シリウスの中には鮮明にあの残酷な﹃記
憶﹄が蘇ってきた。
忘れたはずの、逃れられたはずのあの﹃記憶﹄は、再びシリウス
に取りついて離れなかった。
そしてシリウスは、その学園を見守る為にその国に留まり続ける
事を決めた。
長くと留まるには力を制限し、或いは面倒な人間の決め事にも従
わねばならなかったが、シリウスはそれを甘受した。
全ては、いつか主人と出会う為に。
そしてその主人を殺さない為には必要な事だった。
123
そして再び長い年月経て、ようやくシリウスはその少女と巡り合
うことが出来た。
心は歓喜に震えた。しかし同時に空恐ろしかった。
それは彼女が、本当にこの国の、しかも卑しい血筋に生まれ、や
はり﹃記憶﹄のままに貴族に引き取られることとなったからだ。
自分は彼女を殺すのかもしれない。そう思えば安易に近づくこと
は躊躇われた。
でもできるだけ傍にいたかった。どうしようもなく慕わしかった。
そんな相反する感情がシリウスを揺さぶった。
殺すと思えば傍にはいられない。でも彼女が本当に主人であるな
らば、もう二度と離さずに一生を共にしたいと思った。あるいは彼
女が死んだ時に、自分の悠久たる時と終わらせたいとすら願った。
誰も、彼の苦悩を理解することなどできない。
愛する存在を自らの手で殺すかもしれない恐怖など。
シリウスは確かに彼女を見守りながら、しかしある一定の距離を
保つように努めた。
傍にいたいと願いながら離れ、何度も自分を自制しなければなら
なかった。
そうしていくうちに或いは、彼は歪んでしまったのかもしれない。
エルフが何を考え何を望むかなんて、所詮人には窺い知ることな
どできはしないのだ。
・・
そして彼は、その─計画に乗ってしまった。
***
124
今日はもう休むようにとリルに言いつけ、カノープスは執務室の
椅子に深く座り込んで目を閉じていた。
意識を集中させなければ、先ほどの少女のか弱い様子が脳裏に蘇
ってしまう。
いくら仕事が出来て理性的であるとはいえ、彼女はエルフでいえ
ばまだ自我すら芽生えていない年だろう。
カノープスは改めて、その事実を思い出していた。
﹃騎士団はどうなっている?﹄
そんなカノープスの脳に直接声が響く。
﹃内々調査したところによれば、親王家派が五割の団長派が二割、
革新派が三割といったところでしょうか﹄
それは﹃伝達﹄の魔法だった。
魔法を使えるのはエルフか精霊のみであり、エルフ同士のそれを
傍受したり妨害したりできる者は人間界には存在しない。
﹃ほう、思っていたよりも少々多いな。まあ想定の範囲内だが﹄
﹃私は近日集会を開いて自らの立ち位置を公表し、騎士団の分裂に
歯止めを掛けたいと思います﹄
﹃後手後手に回っているな。このままでは試験は合格できないぞ﹄
揶揄する様な叔父の物言いに、カノープスは僅かに苛立ちを感じ
た。
﹃分かっております。しかし騎士団の事は私にお任せくださるとお
125
聞きしたつもりですが﹄
﹃人間界の事などどうでもいいと思っている割には、いっぱしの口
を利く﹄
﹃⋮何が言いたいんですか?﹄
﹃いいや、喜ばしいと思っているのさ。お前は王家も騎士団もどち
らも見捨てると思っていたからな﹄
﹃いくらなんでもそれは⋮﹄
この叔父上はおかしい。
そんなカノープスの戸惑いを切り裂くように、シリウスは突如言
った。
﹃集会では自分は革新派であると告げろ。そして同時にリチャード
の行方不明も発表するのだ。そして自分が暫定的な騎士団の総司令
官になると﹄
﹃そんなことをすれば騎士団は!いいえこの国までも!!﹄
﹃いいのだ、カノープス。これはこの国の為だ。黙って従え。決し
て悪いようにはならない﹄
その言葉と同時に、カノープスの脳裏には強制的にあるヴィジョ
ンが浮かび上がった。
それは城内の立体図で、そこには軍を布陣させるべき位置までが
指示されていた。
126
﹃これは⋮﹄
呻くように、カノープスは言った。
﹃あなたは私に嘘をついていたのですか?﹄
﹃気付かなかったのは、お前の迂闊さだろう。私を非難する前に己
の未熟さを恥じろ﹄
相手には伝わらないように、カノープスは深い深いため息をつい
た。
・・
﹃ようやくわかりました。─あなた方の目的が。まったくくだらな
いことに私を巻き込んで﹄
﹃そう言うな。これはお前の意志を試す意味合いもあったのだ﹄
﹃⋮私に否はありません。あなたの希望に反する意味もない。それ
よりもリルは、一体どうするおつもりですか?﹄
その質問はカノープスなりの意趣返しだった。
冷徹な叔父が唯一心に留めている少女の名前を出すというその幼
稚な方法が、少々情けなくもあったが。
﹃あの子は︱︱︱⋮﹄
先ほどまでの無機質な様子と違い、狂おしい愛情と果てしない哀
惜を込めた声が、まるで雫の様に零れ落ちた。
その時、コンコンとノックの音がしたので、カノープスはあわて
127
てシリウスとの回線を切った。
叔父の答えを聞き損ねたが、それは今度何もかもが終わった後に
ゆっくり問い詰めればいいだろう。
今からどうせ、そんなことはどうでもいいほど忙しくなるのだか
ら。
﹁失礼します﹂
入ってきたのは、団長の第二従者であるクェーサーだった。
団長が自分の不在を任せただけあって、任官から間もない割に有
能な男だ。
しかし彼が側にいると、カノープスにはどうしても拭えない違和
感があった。
見えるはずのものが、見えていないような気持ち悪さ。居心地の
悪さと言ってもいい。
﹁カノープス様宛の書状をお持ちいたしました。王弟殿下からでご
ざいます﹂
厄介なものが届いたと、カノープスは舌打ちした。
クェーサーはそんなものは聞えないというように、無表情でその
書状を差し出している。
やはり人間世界に降りてきたのは間違いだったのかもしれないと、
カノープスはため息交じりで思った。
128
51 人々は幻を追いかける︵前書き︶
時系列がおかしくなっていたので修正しました。ご指摘いただきあ
りがとうございます!
129
51 人々は幻を追いかける
王都の下民街と平民街の境目。
続く石畳が踏み固められた土に変わるその場所の近くに、一組の
双子が立っていた。
﹁平民街の孤児院にはいなかったね﹂
﹁リルは、一体どこにいっちゃったんだろう?﹂
赤茶の髪と新緑の目を持つ双子は、あまり治安のよくなさそうな
下民街を心配そうな目で見ていた。
﹁まさか、下民街にいるってことはないよね?﹂
﹁わからない。一緒に行ったのは盗賊団の人たちだし、リルは孤児
だからもしかしたら⋮﹂
エルとアルは不安そうに見つめ合い、ぎゅっと握った手に力を入
れた。
﹁ちょっとあんたたち!危ないからこんなとこでうろちょろしてる
んじゃないよ!﹂
洗濯棒を振り上げた女に声を掛けられ、二人は飛び上がりそうに
なった。
﹁下民街になんて遊びでも近づくもんじゃない。攫われる前にとっ
とと帰りな!﹂
130
険しいその容貌に対して、彼女は二人を心配して声を掛けたらし
い。
二人は反射の様に頭を下げると、慌ててその場所から駆けだした。
カシルの親戚を頼って、二人は現在姉も含めた四人で王都にきて
いた。
カシルから酷い扱いを受けたらしい姉のリズは当初カシルに頼る
ことを良しとしなかったが、姉一人を娼館で働かせるわけにはいか
ないという二人の必死の説得が功を奏し、王都までの四人の旅とな
った。
盗賊団での不始末から隻腕になったカシルだったが、旅の間、彼
は心を入れ替えた様に精一杯リズに尽くしていた。まだ完全にはカ
シルを許していないリズも、王都につくまでには大分彼に対する接
し方が優しくなってきたように思う。
王都にいるカシルの親戚というのは、カシルの叔母にあたる子供
のいない老婆だった。
わが子の様にカシルを可愛がっていたという彼女はカシルの片手
が無くなっていたことに大層驚いたが、温かく四人を迎え入れてく
れた。
さる貴族の侍女頭も務めたことがあるという彼女は平民街の立派
な家に住んでいて、カシルは叔母の紹介でどこかの家に手伝いに行
くようになったし、リズも老婆の家の事を良く手伝った。
妹や弟と一緒に暮らせる今の生活にリズも幸せを感じているよう
で、最近はよく昔のような屈託のない笑顔を浮かべる。
村で見張られていたころとは大きく変わった王都の生活に、双子
も今では馴染みつつあった。
しかし二人には、王都に到着したら絶対にやろうと決めていたこ
131
とがあった。
それはリルを探すこと。
やせっぽちの、いつもどこか悲しい目をしていた二人の妹分。
二人に分かるのは、彼女が盗賊団について行ったのを見たという
頼りない情報だけだ。
王都に来れば盗賊団の行方も分かるかもしれないと思っていたが、
着いて半年以上が経っても、彼女の行方は依然分からないままだっ
た。
やがて人通りの多い通りまで来ると、二人はスピードを緩めて呼
吸を整えた。
﹁探すにしても、二人じゃ下民街にはいけないね﹂
﹁ああ、それにこっちじゃ盗賊団の噂もないし、もしかしたら王都
にはいないのかも⋮﹂
﹁そんな⋮﹂
アルの予想に、エルは泣きそうな顔になった。
王都に来てからずっと、アルは赤い髪と金の目をした盗賊団の団
長の噂がないかと聞いて回ったが、芳しい成果を上げることはでき
なかった。
考え事をしていたからか、アルが大人の足にぶつかってしまう。
相手は屈強な目つきの鋭い男だった。
﹁ごめんなさい﹂
二人は慌てて頭を下げ、その場を立ち去った。
132
﹁⋮王都は、色々な人がいるよね﹂
﹁うん、でも最近は特におかしいみたいだ﹂
エルの呟きに、アルは深刻な声で返した。
﹁おかしいって?﹂
﹁市場の隅に、さっきみたいな男がよく屯しているだろう?﹂
﹁うん。だから王都は怖いところだなって﹂
﹁でも僕が聞いた話じゃ、あんな男が立つようになったのは最近の
ことらしいんだ﹂
盗賊団の行方を追う為に話を聴いて回る過程で、アルは色々な不
穏な噂を耳にした。
それは例えばこの国の王子が病気らしいということや、アル達の
住んでいた東から届く中身の知れない荷物が最近になって急に増え
たということ。体つきのガッチリした素性の知れない男たちを良く
見かけるようになったという話から、王の弟が難民の為に屋敷を開
放して炊き出しを行っているという話まで様々だった。
﹁ふうん。でもその王様の弟さんが炊き出しをしてるのって立派な
ことだよね?なにがおかしいの?﹂
﹁いいことだよ。でも大人たちはみんな噂してる。﹃ジグルト様は
素性の知れない連中を王都に引き入れてるって﹄﹂
﹁すじょう⋮の?﹂
133
エルは意味が分からないというように首を傾げた。
アルもうまく説明する言葉がないのか、暗い顔で黙りこくってい
る。
﹁なにか⋮大変なことにならないといいけど⋮﹂
アルは空を見上げた。
さっきまで晴れていた空が、いつの間にか陰りだしている。
***
騎士団本部の一階中心部に位置している屋内訓練場に、白い軍服
を着た騎士たちが規律を以て整列する様は壮観だった。
しかし突然の招集で、騎士たちも内心では動揺している者が多い
のだろう。そこかしこで小さな囁きが聞こえる。
最近の騎士団はただでさえ内部で殺人事件があり揺れていた。何
かそれについての発表かと、難しい顔をした者も多くいた。
内密に副団長から命令を受けていたミハイルとゲイルは、第三部
隊の列の中から壇上を見ていた。
彼らは今日何が発表されるか知っている。
そして自分たち調べた騎士団内部の分裂について、ここ数日歯が
ゆい思いを隠しきれずにいた。
﹁平和ボケのせいだな﹂
吐き捨てるようなミハイルの呟きに、ゲイルは苦い顔をした。
134
﹁ミハイル、誰に聞かれるか⋮﹂
﹁本当の事だろう。もし他国と戦争中であったなら同じことになっ
たか?団長の不在だからと言ってこんな事態になるとは﹂
実家が武門の名門であるだけあって、ミハイルは現在の騎士団の
状況を非常に腹立たしく思っていた。
特に彼は歴史にも通じているので、古今東西仲間割れをしている
間に他国に侵略された国はいくらでもあるという事実に焦燥を抱い
てもいた。
ふと、ゲイルの普段にはない落ち着かない様子が目につく。
そういえばと思い、ミハイルは口を開いた。
﹁それで、ルイはみつかったのか?﹂
ここ最近仕事に熱中しているらしくミハイルの部屋に来なくなっ
たルイだが、昨日からは閉じこもっていた主計室にも顔を出してい
ないらしい。
﹁いや、集会の直前まで探していたんだが⋮﹂
ゲイルの顔にははっきりと﹃心配だ﹄と書かれている。
普段それほど感情がそのまま顔に出るタイプではないだけに、珍
しいと思う。
ゲイルの答えにミハイルは若干の不安を抱いた。
いくらしっかりしているとはいえ、リルはまだ子供だ。
もしかしたら無理をし過ぎてどこかで倒れているのかもしれない。
﹁これが終わったら二人で探そう。心配するな。もしかしたら寮の
食堂あたりにでも籠っているのかもしれないぞ﹂
135
ミハイルの冗談に、ゲイルは弱々しく笑った。
その時、一瞬訓練場がざわめいた。
ミハイルが顔を上げると、そこには厳めしい黒の鎧を纏った騎士
団副団長が立っていた。
それは騎士団の規範に反して黒一色の、かつて国王から直接下賜
されたこの国でカノープスのみが身に着けることの許される鎧だっ
た。
他の者が式典で身に着けるものよりは圧倒的に実践的だが、それ
でも小さな宝石や魔法石がそこら中に埋め込まれて角度によってき
らきらと光る。
まるでこれから戦争に赴くような物々しさに、騎士たちはこれか
ら何が発表されるのかと息を殺してその時を待った。
﹁まずは皆に、知らせねばならないことがある﹂
カノープスは普段通り平坦な声で言った。
しかしその声は、魔導でも使っているのか驚くほどよく通る。
﹁先日、国境へ遠征中の団長閣下が行方不明であるという知らせが
届いた﹂
会場が大きくどよめいた。
そしてそれが予想していた内容と全く違っていたことに、ミハイ
ルとゲイルも戸惑い視線を交わす。
﹁至急捜索の者を差し向けているが、問題の地点で大規模な山崩れ
が起こったらしく情報が錯綜している﹂
136
絶対のカリスマを持つ団長のまさかの知らせに、騎士たちは騒然
とした。
中には今すぐに広間を飛び出して、団長の捜索に向かおうとする
者すらいるほどだ。
﹁鎮まれ!!﹂
副団長の檄に、その場は静まり返った。
その大声に反して、副団長の冷徹な表情はちらりとも揺らいでい
ない。
十分にその場に静寂が満たされたのを確認した後、カノープスは
何の衒いもなく口を開いた。
﹁⋮最近、この騎士団内にも陛下による為政に不満を持つ者がいる
と聞いたが、それは本当か?﹂
誰もが予想もしなかった展開に、会場に見えない緊張が走った。
﹁そして団長閣下が不在の今、騎士団の総指揮権及び意思決定権は
すべて私にある。それに異論がある者はいるか?﹂
カノープスの問いかけに、誰もが黙り込んだ。
若年で騎士団に入ってまだ年数が浅いとはいえ、彼の戦闘能力の
高さは誰もが知るところだ。加えて団長との関係も良好であり、彼
がその役目を継承することに意義のある者はいなかった︱︱︱今の
ところは。
﹁沈黙は了承とみなす。それでは、私はこの場で自らの立ち位置を
明言し、これからの騎士団の方針について発表したいと思う。クェ
137
ーサー﹂
﹁は!﹂
壇上に登ってきたのは、本部に居残りになっていた団長の第二従
者だった。
彼はカノープスに何がしかの手紙を差し出し跪いた。
﹁ここに、王弟であるジグルト・ネスト・メイユーズ様よりの書状
がある﹂
一度宙に掲げた書状を、カノープスはクェーサーへと返した。
彼は心得ていたようにその書状を開き、内容を読み上げた。
﹃我、ジグルト・ネスト・メイユーズは、我が国メイユーズ王国お
よびその王の現状を憂い、ここに告発する。王太子は怯懦に震え国
外へと脱出し、王は王城奥深くに籠って享楽に耽っている。民は血
の涙を流して作物を育てるも決して富まず、貧しい日々をおくり乳
飲み子に飲ませる乳すらない。
騎士団の志を同じくする者たちよ、愛国の士よ、そなた等がかつて
の気概を持ちて立ち上がれば、必ず王は目を覚まされ、再び名君と
して君臨なさるだろう。王国の名誉のために、いざ立ち上がれ!﹄
カノープスは内心でそれを陳腐で口当たりがいいだけくだらない
文章だと思ったが、確かに騎士団には幾ばくかの効果があったよう
で、広間の中の三割ほどが腕を振り上げ賛同の声を上げていた。
﹁私はこれより王城の前に陣を敷き、ジグルト様をお迎えする。貴
君らにそれを強制するつもりはない。志を同じくする者は続け。続
かないことは決して怯懦ではない﹂
138
言い捨てると、カノープスはマントを翻して壇上から去って行っ
た。
それから一瞬を置いて、騎士団本部の屋内練習場は混乱に陥った。
大半の者は呆けたようにその場に留まったが、先ほどまで賛同の
声を上げていた者たちは喜び勇んで広間を出て行った。熱くなりや
すい若年の騎士を宥める壮年の騎士があちらこちらに見られた。し
かし彼らも団長の行方不明の知らせに動揺しているのか即座に態度
を決めかねている様子だ。
﹁やってくれたな⋮﹂
ミハイルが吐き捨てた。
﹁これは一体⋮﹂
ゲイルがゴクリと息をのんだ。
﹁行くぞゲイル!﹂
﹁まさか、カノープス様に続くのか?!﹂
﹁バカ言うな!これは罠だ!それもとびきりくだらない、俺たちの
正義を試す罠さ!﹂
そう言うと、ミハイルは居ても立っても居られないという風に駆
け出してしまったので、ゲイルも仕方なくそれに続いた。
後に歴史書にまで残ることになるこの演説を、カノープスは生涯
139
己の汚点として忌み嫌ったという。
140
52 役立たずの私ですが
それは、何もかも死に絶えたような黒だった。
ああ、これでやっと安らかに眠れる。
私はなぜか、そう思った。
﹃君はひどい!どうしてこんな運命ばかり選び取るんだ!﹄
それは聞き覚えのある子供の声だった。
癇癪を起こしたような、耳に触る甲高い“声”。
︱︱︱鬱陶しいな。
私は深い眠りの直前のような、泥のような倦怠感の中で思った。
﹃僕は君のために“世界”を用意したのに、君はちっとも幸せにな
ろうとはしない﹄
苛立たしげな“声”を、私はイライラしながら聞いていた。
そんなのはお前の勝手だろう。
もう眠いのに。本当は深く眠ってしまいたいのに、“声”がそれ
を許さない。
﹃⋮君のせいだ﹄
八つ当たりの様に、“声”は言った。
﹃君のせいで、誰も幸せになれない。もちろん君にも幸せは来ない。
141
世界は終末へと向かってしまう。すべては君のせいだよ﹄
︱︱︱ああ、もう黙れ。
私は寝返りを打つように、その“声”に背を向けた。
深い苛立ちだけが、胸に凝って濁った炎になる。
それでも私は決めたのだから、お前に何か指図される筋合いはな
いんだ。
︱︱︱たとえ相手が、神であったとしても。
***
闇の中は静かだった。
リルは何度も、昏睡と覚醒を繰り返した。
そう言えば地獄先生にもこんなシーンがあったなと、ふざけてい
られたのは最初だけだった。
こうしている間にクーデターが本格化していたらどうしようかと、
リルは幾通りもの最悪な想像をして時を過ごさねばならなかった。
自分がいたとしても、大した助けにはなれないだろう。
それでも、もし王子に危険が及んでいたら、せめても一緒にいた
かった。身代わりにはなれなくても、彼には僅かなりとも恩を返し
たかった。もし戻った時に王子になにかあったら、リルは一生自分
の事が許せないだろう。
他にも、自分の近しい人々の面影が浮かんでは消えていく。
付き合いは浅いが、顔見知りの騎士団の人々。リルに良くしてく
れた、庭師や厨房の使用人たち。お菓子が好きな常識知らずのミハ
142
イル。親バカな父親代わりのゲイルと、優しくてちょっとドジなミ
ーシャ。
もし騎士団がクーデターを起こせば、彼らは絶対に無事では済ま
ない。
そしてそれが内乱になれば、国全体が荒れてたくさんの人が死ぬ
だろう。
最初に死ぬのは子供だ。
リルは下民街で、いやというほどそのことを学んだ。
非力な自分が、いやだった。
クェーサーの本性も見抜けず、書類あさりにばかり奔走していた
自分はさぞ滑稽だったことだろう。
数字を追う前に、他に調べなければならないことがあったはずな
のに。
ゲームの世界なのに、全然自分は上手くできないのだ。リルは落
胆した。
もしこれが本当にゲームならば、リセットして前のセーブデータ
からやり直せばいい。
本当に分からなければ、攻略本を見ようがネタバレサイトを見よ
うが個人の自由だ。
でもここでは、そんな方法は使えない。
ただ自分で考えて、選んで後悔するしかないのだ。
滂沱の涙が、リルの頬を伝った。
子供の様に、癇癪を起して泣きわめいてしまいたい。
しかしその願望に反して、喉はひくひくと静かに収縮を繰り返す
ばかりだ。
干からびてしまいそうなほど、たくさんの涙が溢れてくる。
どうして!自分はこんなにも役立たずだ。
143
ゲームの設定を知っていたって、少しの魔導が使えたって、結局
誰も救えない。母親も、そしてこれから死ぬかもしれない大勢も。
何度も涙の中で、こんな自分は嫌だと悔いた筈なのに。
リルはいつも、誰かに慰められ助けられるばかりだ。一方的に助
けられる小さな子供に過ぎない。
悔しくて、リルは自分の人差し指に噛みついた。
必死に噛むと、子供の弱々しい顎の力でも血が滲んで鉄の味がし
た。
怖気づきそうな自分を叱咤して、もっと強く噛み締める。
痛みを伴って、鉄の味が強くなった。
リルは口を放すと、目を閉じて集中した。
皮膚の破れた指先がじんじんと痛む。
頭の中で、自分の血液が光の魔法粒子であると仮定する。
そして瞼の裏で、その魔法粒子を糸状にして空中に編み込む様を
想像する。
︱︱︱紡ぐように、織るように。
練習では失敗したが、暴走しただけで作動はしたのだ。
あのペンがなくたって、魔力さえあればできるはず。
闇を制するのは光。
光だけが、闇と相克することが出来る。
光だけが、闇を振り払う標になる。
リルは脳裏に、王子の柔らかな笑顔を思い出した。
彼を取り巻く光の粒子は、いつもきらきらと輝いて、リルに優し
く降り注いでいた。
﹃燐光﹄
144
それはベッドの中で文字を読むためだけに使っていた簡単な魔導
だった。
しかし力を加減せずに注ぎ込めば、それは全く違うものに変容し
てしまう。
白い光が、稲妻のように闇を切り裂いた。
まるでガラスにヒビが走るように闇が割れ、すぐにかすんで消え
ていった。
リル本人さえ目が眩んでしまい、しばらくは目を開けることが出
来なかった。
できたのか?自分はあの闇から這い出ることが出来たのか?
膨大な力を使ったせいでリルが荒い呼吸をしているところに、聞
き覚えのある声が近づいてきた。
﹁リル!リル!よくやったリル!﹂
感極まったような声が、懐かしすぎてリルはもう一度泣きたくな
った。
こんな大事な時に、まったく何をしていたんだこの精霊は。
﹁おかえり、ヴィサくん!﹂
涙は乾いていなかったけれど、リルは多分笑えただろう。
145
146
53 相変わらずの二人︵一人と一匹︶︵前書き︶
一応最初からこういう予定でした
147
53 相変わらずの二人︵一人と一匹︶
白い光の中から、水色の粒子を纏った白銀の大きな獣が飛び出し
てきた。
それはあまり見慣れない、それでも懐かしいリルの召喚した精霊
の獣だった。
﹁何してたの!ずっといなくなったままで⋮ッ﹂
ぼろぼろと涙をこぼしながら、リルは泣き笑いの表情でヴィサー
クの逞しくなった胸を叩いた。
小さな腕はその度にふんわりとした毛皮に埋もれ、優しい温もり
をリルに伝えた。
ヴィサークは言葉すら惜しむように、リルの小さな頭に頬擦りし
た。本当はその涙を舐めてやりたいと思ったが、今の自分の姿でそ
れをやるとリルを涎塗れにしてしまうと、彼はすでに学んでいた。
リルは気付くと、精霊を叩いていた小さな拳を解いて、精一杯そ
の毛皮に抱き着いていた。
そしてその時になって初めて、ヴィサークと離れていた間自分が
寂しかったのだということに気が付いた。
リルが前世の記憶を取り戻してからずっと側にいた口うるさい精
霊が、今ではリルの中で掛け替えのないものに変わっていたのだ。
﹁ごめんな、リル。もうずっと一緒にいるから。一人ぼっちにはし
ないから⋮﹂
熱い獣の息が掛かる。
しかしそれがちっとも恐くないのだ。
リルは心底安心して、自分の体重のすべてをヴィサークに預けた。
148
しかしそんな感動の再会を、面白く思わない者もいる。
ヴィサークを後から追ってきたらしいシリウスは、ヴィサークに
抱き着いていたリルを無理やり抱き上げた。
﹁え⋮?伯父様?﹂
大粒の涙が浮かんだ痛々しい灰色の瞳に、シリウスは眉を潜める。
﹁主人を悲しませるとは、下僕失格だなヴィサーク﹂
シリウスは恐る恐るといった風に、優しくリルの頭を撫でた。
﹁ぐッ⋮元はと言えばお前がだな!﹂
ヴィサークがシリウスに向かって牙を剥く。
リルは意味が分からず目をぱちくりとさせるばかりだ。
﹁一人で突っ走って敵に捕らわれた挙句、闇の魔力を吸収しすぎて
自我すら失いかけた駄犬が何を言う。私がその精神を浄化してやら
なかったら、今頃精霊界の西の守護は破られていたんだぞ﹂
﹁それは悪かったと思ってるよ!でも俺だって真の姿だったらあん
な人間風情に後れを取ったりしなかった!﹂
﹁ふん、言い訳とは見苦しいな。大体無断で主人の元を離れるとい
うのがそれだけで不遜なのだ﹂
﹁くー!俺だって悪いけどお前もいちいち紛らわしいんだよ!一瞬
本気で消されるかと思ったじゃねーか!﹂
149
﹁精霊の王があれしきのことで何を言う。お前には一度忠犬の何た
るかを叩きこんでやろうか﹂
なぜ伯父様が忠犬の何たるかを知っているというのだろうか。
リルは一瞬激しく突っ込みたい衝動に駆られたが、空気を読んで
口を閉ざした。
ヴィサークはしばらく悔しそうに歯を食いしばっていたが、やが
て獣の姿で器用に項垂れると、悔しそうにそっぽを向いた。
﹁⋮一応今回の事は感謝しといてやる﹂
﹁ふん﹂
シリウスはつまらなそうに鼻を鳴らすと、リルを抱き上げてよし
よしを繰り返していた。
﹁えーと、伯父様?私状況が全然読めないのですけれども⋮﹂
﹁ああ、一人でよく頑張ったなリル。君が内側からあの殻を破らな
ければ、私たちは君を見つけることが出来なかった﹂
﹁ええと、ここは⋮?﹂
そうして周りを見渡してみると、既にあたりを取り巻いていた光
も闇も消え失せ、そこにあるのは見慣れた副団長の寮の部屋だった。
しかしそこに部屋の主人はいない。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
部屋の外が少し騒がしかった。
150
﹁あ!クェーサー・アドラスティアは?それに騎士団はどうなった
んですか?!﹂
自分が閉じ込められるまでの経緯を思い出したリルは、自分を抱
えていたシリウスの襟元にしがみついた。
自分がいない間に取り返しのつかないことになったんじゃないか。
そう思うといてもたってもいられなかった。
﹁お、おちつけリル。そのクェーサー・アドラスティアというのが
闇の精霊使いなんだな?﹂
﹁はい。騎士団長の第二従者を勤めていました﹂
﹁なるほど、やはりリチャードの読みは正しかったか⋮﹂
﹁?﹂
シリウスの呟きに、リルは首を傾げた。
﹁伯父様、ちゃんと私にも分かるように説明してください。騎士団
はどうなったんですか?﹂
とびかかる勢いのリルに伸し掛かられて、シリウスは目を丸くし
た後、ちょっとだけ果てしなく幸せそうな顔をした。
ヴィサークが鼻の下の伸びたその顔を軽蔑したように見つめる。
﹁ゴホン、リル。落ち着いて聞きなさい。騎士団は現在内部分裂を
起こし、王弟を支持する革新派が王城前に陣を敷いている﹂
シリウスは至極冷静にそう言うと、あまりの事に唖然とするリル
151
をヴィサークの上に乗せ、自らもその上に跨った。
﹁おい!お前は自分で飛べよ﹂
﹁浄化してやった礼をしようという気持ちはないのか﹂
﹁くそー⋮絶対いつか尻尾掴んでやる﹂
﹁残念ながら私に尻尾はない。お前と違ってな﹂
﹁黙れ耳長族め﹂
ヴィサークはそう吐き捨てると、二人を乗せて窓から空中に飛び
出した。
ほどなく見えてきたのは、王城前に陣取っている沢山の騎士だっ
た。
二百人はいるだろうか?
それぞれが武器を持ち、ピカピカの鎧を纏っている。
リルはあまりの状況に息をのんだ。
﹁そんな⋮﹂
自分は間に合わなかったのか。
そんな無力感が全身を覆う。
手元にあったヴィサークの背中に、リルは掌を押し付けてうつむ
いた。
﹁見ろ、リル﹂
シリウスが指差した先、騎士団の先頭には唯一黒い鎧を纏った騎
152
士がいた。
よくよく目を凝らすと、それが見覚えのある人物であることに気
付く。
﹁そんな!カノープス様がなぜ⋮﹂
動揺したリルが身を乗り出そうとするのを、シリウスは彼女が落
ちないように片手で制した。
ヴィサークがどんどん高度を下げると、リル達の存在に気付いた
のかカノープスがちらりとこちらを見た。シリウスによって魔法が
掛けられているのか、他の騎士がリル達に気付く様子はない。
﹁リル、大丈夫だ。計画通りにいけば誰の血も流れずにすむ。今か
ら始まるのは、愛すべき人間のバカらしい茶番劇だよ﹂
シリウスの美しい微笑みを、リルは不安な気持ちで見上げるより
他になかった。
153
54 闇を照らす光︵前書き︶
久々の人たち色々登場
154
54 闇を照らす光
カノープスが即席の反乱軍に最初に命じたのは、城門を固く閉じ
て命令があるまで決して誰も通してはならないということだった。
即席ではあったがもともと革新派として結束を深めつつあった彼
らは、嬉々としてその命令を遂行した。
蒼天の空の下、王城の前の広場には白くきらきらしい鎧をまとっ
た騎士たちが整然と並ぶ。
この状況を知らない者ならば、まるでなにかの式典を催している
ようにすら見えたことだろう。新品の様に真っ白い騎士団の旗が、
厳めしくはためいている。
王城を護る近衛兵は固く門扉を閉ざし、王城に仕える者たちは皆
こわごわと事の行く末を見守っていた。
それは宣言も何もない、かつてないほどに静かなクーデターだっ
た。
やがて連絡役の騎士に半ば引きずられるようにやってきたのは、
カノープスに宛ててあの檄文を書いた王弟のジグルト・ネスト・メ
イユーズだった。
カノープスは厳めしい黒い鎧を見せつけるように膝を折り、彼を
出迎えた。
﹁これは一体どういうことなのだ、カノープス!﹂
ジグルトは明らかに動揺していたが、それを隠すように虚勢を張
っていた。
﹁ここに集まったのは皆、殿下と志を同じくする騎士団有志の者達
です。我々はジグルト殿下の高いお志に感銘を受け、微力ながら国
を変える力になればとここに参上いたしました﹂
155
無表情のカノープスとは対照的に、ジグルトを取り囲む騎士たち
の顔には爛々とした期待が込められていた。
自分の書いた檄文がここまでの効果を及ぼしてしまうとは考えて
いなかった彼は、反論をし掛けて言い淀んだ後、再び口を開いた。
﹁⋮わが意思に賛同してくれたこと、心より嬉しく思う。我ら一丸
になって国の難事を乗り越えようではないか。ついては、私の屋敷
にいる召使たちを呼び寄せたい。若い男たちも多くいる。この局面
に際し大いに役立つだろう﹂
この国では貴族といえども私兵を持つことは固く禁じられている。
ジグルトがしどろもどろになりながらそう言うと、カノープスは冷
たい微笑を見せた。
﹁ご心配には及びません。我らが全力でジグルト殿下をお守りいた
しますので﹂
カノープスはジグルトを守る為という名目で彼の周りを騎士に取
り囲ませ、彼を屋外用とはいえ王族が使うのに遜色のない、繊細な
彫刻の施された椅子に座らせた。
そしてカノープスは王城に対して先ほどの檄文を読み上げさせた
後、王との直接の面会を希望すると宣言したが王城からの返答はな
かった。
王城の中で震える人々は王弟の目的に驚き、身を寄せ合って国の
行く末を案じていた。
事態は膠着し、緊張感を孕んだまま時刻は夕刻に達しつつあった。
ずっと胸が潰されそうな想いでそれを見つめていたリルは、もう
我慢できないといった風にシリウスの裾を引いた。
156
﹁伯父様。せめても伯父様のお力で王城から非戦闘員を非難させる
ことはできませんか?このままでは彼らがあまりにも⋮﹂
﹁心配するなリル、何かあったら俺が守ってやるから!﹂
力を取り戻し自信満々のヴィサークだったが、それでもリルの表
情が晴れることはなかった。
﹁ありがとう。でも私は、誰にも傷ついてほしくないんだよ⋮﹂
改めて言葉にすると、それはとてつもなく偽善の様に聞こえてリ
ルには苦しかった。
思わずシリウスの裾を掴む手に力が入る。
夜が来て、痺れを切らした騎士団が王城に攻め入ったらどうなる
だろう。
リルは最悪な想像を繰り返しては、白い顔で事態の推移を見つめ
るより他になかった。
﹁心配ない、こんな騒ぎはすぐに終わる﹂
シリウスは無表情のままリルの頭を撫でると、遠く城壁の外を指
差した。
灯りはじめた貴族たちの邸宅の明かりに交じって、そこには火の
玉のような橙の明かりが浮かんでいた。
リルが驚いて目を凝らすと、その明かりは王城へ通じる大通りに
沿う様に段々と増え、移動しているのかこちらへと近づいてきた。
やがてそれが門前にまで達すると、城門を堅守していた騎士から
小さなざわめきが起こった。
157
﹁不肖リチャード・バンクス、ただいま帰りましたぞ!﹂
高らかに響いた上機嫌な声の主は、行方不明でいたはずの騎士団
長その人だった。
鎧で固めた反乱軍に動揺が走る。
絶対のカリスマ性を持つ騎士団長の安否が確認できないからと、
この即席の反乱軍に参加した者も少なからずいたのだ。
﹁門を開け!﹂
カノープスはざわめきを圧する様な大声で命令を下した。
城門を守っていた騎士たちはしばらく戸惑ったようだったが、現
在の指揮官であるカノープスの指示を尊重し結局は城門を開いた。
そこには、火の魔導によって浮かぶ大量の松明代わりの火の玉と、
そして筋骨隆々とした兵士たちがリチャードの後に続いていた。
王城の下なだらかな坂を下り平民外まではるかに、その火の玉は
続いている。
反乱軍と凌駕する兵士の数に、騎士たちの動揺は更にひどいもの
になった。
﹁これはどういうことだ、カノープス!﹂
ジグルトがカノープスに掴みかかる。
しかしカノープスの表情はちらりとも変わらない。
あわてた周囲の騎士がジグルトを恐る恐る取り押さえると、カノ
ープスはジグルトの手を振り払い騎士の間を縫ってリチャードの前
に出た。
﹁留守をよく守ってくれたな、カノープス﹂
158
﹁あなたの戯れに振り回されるのはこれを限りにしていただきたい﹂
﹁まあそう言うな、心配せずとも、今日限りでお前は騎士団にはい
られなくなるさ﹂
﹁⋮﹂
カノープスはその言葉の意味を探るようにリチャードを睨んだが、
彼はそんな視線などどこ吹く風でにやりと笑った。
﹁ジグルト殿下!貴公の私邸を占拠していた不逞な輩は残らず捕縛
いたしましたぞ!つきましてはその館に大量に集められていた武具
について説明願いたい!!﹂
リチャードが年齢を感じさせない大声で問うと、浮足立っていた
騎士たちの視線はジグルトに集中した。
周囲の騎士に押さえられていたジグルトは逃げることもできず、
唖然とそこに立ち尽くしている。
﹁そんな⋮貴様私の邸を勝手に捜索したというのか!?私は王族だ
ぞ!﹂
怒るような怯えるような叱責に、リチャードはふてぶてしい笑み
を崩さない。
・・
﹁私は街で悪事を働こうとしていた不逞の輩たちを取り締まっただ
けですぞ。彼らは偶然あなた様の私邸を占拠していた。そうではな
いのですかな?﹂
痛いところを突かれ、ジグルトは黙り込んだ。
159
それは、王都で私兵を囲ったものは仔細問わず即刻死刑というの
が、この国の法律だったからだ。
武器だけならばまだコレクションが目的だと言い逃れもできるが、
もし自ら望んで兵を集めていたとばれればジグルトは即刻で暗く冷
たい牢に繋がれることになるだろう。
﹁それにしても⋮﹂
夕闇を昼の様に照らし出す大量の光に照らされ、リチャードは反
乱軍を一瞥する。
﹁私のわずかな不在の間に、王家に絶対の忠誠を誓ったはずの騎士
がこれだけ心をグラつかせるとは情けない!!﹂
リチャードの顔から笑みは消え、戦場にあるような険しい顔で彼
は言い放った。
反乱軍に身を投じていた騎士たちはその剣幕に驚き、そして団長
が親王派から翻意したというあの噂が真っ赤な嘘であることを知っ
た。
﹁そして、クェーサー⋮﹂
リチャードは自らの第二従者に向かって呼びかけた。
ジグルトの椅子のすぐ後ろに控えていたクェーサーが、ゆっくり
とリチャードの前に出てくる。
闇に照らし出されたその姿に、リルも思わず息をつめた。
﹁お前がちまちまと何かくだらない企み事をしているらしいという
報告は受けていたが、まさか俺が革新派に翻意したなどという噂を
流して騎士団内に内部分裂を招くとは⋮﹂
160
リチャードがクェーサーを睨みつけた。
クェーサーはオレンジの光に照らされて黙りこくっている。
リルはそういうことだったのかと驚きで目を見開いた。
そういうことならば、すべて説明がつく。どうしてあの噂があん
なに急速に騎士団内に広まってしまったのかも、そしてそれを信じ
る者が続出してしまったのかも。
団長に一番近い場所にいる従者がそうだったのだと肯定すれば、
事実無根の噂が真実味を持って語られたのも当然だ。恐らくクェー
サーは、小姓などまずは下働きの者を通じて噂を流したに違いない。
利害関係のない小姓たちに耳に入れられた言葉であったなら、騎士
たちも大して疑わずに信じたことだろう。
﹁一体何が目的で騎士団に入り込んだ!主計官を殺したのもお前か
!!﹂
リチャードの激昂とその内容に騎士たちはどよめいた。
ダメだ!
リルは思わず悲鳴を上げそうになった。
無表情のクェーサーの元に、どんどん闇の粒子が引き寄せられて
いく。
リルはカシルが闇の精霊に取りつかれた時の事を思い出し、ヴィ
サークから身を乗り出した。
﹁リル、危ない﹂
シリウスの大きな手に掴まれる。
161
﹁伯父様!クェーサーが闇を集めています。このままでは!﹂
リルの焦った顔に、シリウスも表情を引き締めた。
そして手を翳し、宙に大きな光の球を作る。
それはリチャードが引き連れてきたのとは違う、熱を持たない純
粋な光の集まりだった。
光に照らし出されてその場の夕闇は駆逐されたが、すでにクェー
サーの元に集まってしまった闇は不気味にゆらゆらと揺らめいてい
る。
恐ろしいのは、それが他の騎士やリチャードには見えていないと
いうことだ。
﹁何とか言ったらどうなんだ!﹂
リチャードが剣に手を掛けたのと同時に、リルの目にはクェーサ
ーの内側から闇が噴出したように見えた。
クェーサーの周りに黒い炎が燃え上がる。
直撃を受けたリチャードはその場に膝をついた。
﹁騎士団長!﹂
リルはたまらず、ヴィサークから降りようとした。
しかしシリウスの手がそれを許さない。
﹁大丈夫だ。大丈夫だからリル﹂
言い聞かせるようなシリウスの声は、どこか懇願の響きを持って
いた。
しかしなかなか立ち上がらない騎士団長に、リルの焦燥は募る。
カノープスは慌ててクェーサーの周りに光の障壁を張ったが、闇
162
は増大するばかりで留まることを知らない。
光が、もっと光が必要だ。
リルは必死に頭を巡らせた。
光の属性の持ち主というのは、この世界には圧倒的に少ない。こ
の国にいるのは王族かエルフ二人ぐらいのものだ。王族ですら光の
属性を全ての者が持っている訳ではない。
自分にもそれはあるが、どうやって活用していいのかまでは知ら
ない。
﹁ヴィサくん!あの闇を吹き飛ばしてよ!﹂
﹁だめだ、今風を起こしたら、あの松明が城下まで燃え広がっちま
う﹂
ヴィサークは忌々しそうに言った。
リルは彼の毛足をぎゅっと握る。
なにか、少しでも彼の気を逸らせれば。
﹁クェーサー・アドラスティア!﹂
リルは大声を張り上げた。
地上にいたすべての人々の目が上空に向く。
シリウスは光の球体を作り出すために不可視の魔法を解いていた
ようで、彼らの目には驚愕が浮かんだ。
それは闇に浮かび上がる真っ白い魔獣の上に、魔法省の長官と小
さな子供の姿を認めたからだった。
﹁あなたに、この国は滅ぼせない!この国には光を遣う人がいるの
だから﹂
163
リルの時間稼ぎの投げかけに、クェーサーは笑った。
﹁何かと思えば⋮親に捨てられた子供が何を言う﹂
嘲るような言葉に、リルは身を震わせた。
まさか、彼は自分の正体を知っている?
脳裏に彼との問答が蘇る。
彼は絶対的にリルの意見を受け入れない。その闇に凝った目はど
んな光にも照らし出されることがない。
竦んで震えるリルの肩に、シリウスの手が乗せられた。
﹁大丈夫だ。じきに来る﹂
何がと問いかけようとしたその時、王城のバルコニーから大量の
光が零れた。
爆発のような大きな光は、その場にいたすべての人の目を眩ませ
た。
﹁我が国の民を虐げることは、何者にも許さぬ!﹂
やがて光を伴って現われたのは、引き籠っていたはずの王様と、
そして海外に留学しているはずの王太子だった。
164
55 遠すぎる再会
まぶしさに眩んでいた目が、吸い寄せられるようにその影を見入
ってしまう。
懐かしい姿形。忘れようとしても忘れられなかった、別れた時と
ちっとも変わらない王子がそこに立っていた。
﹁なんということだ⋮﹂
シグルトは目を見開きフラフラと椅子に座りこむ。
あまりにも目映い光に接し、闇の粒子はその場に留まることが出
来ず霧散してしまった。
照らし出された無力なクェーサーの影が、騎士たちに取り囲まれ
る。カノープスの肩を借りてようやく立ち上がった騎士団長はしか
し、闘志を示すようにクレイモアを差し向けていた。
ほっとしたような、悲しいような、ちくりとした痛みがリルの胸
を刺す。
自分をただの仕事仲間として扱ってくれた、彼の優しさが胸を突
く。
痛みの理由を探すことを、リルは拒否した。
今は何も考えず、事の成り行きだけを見守ろうと思った。
﹁自ら姿を見せたか、メイユーズの王!﹂
その時、クェーサーは跳躍した。
立っていた騎士の肩を蹴り、小柄な影がバルコニーへ向かって飛
んでいく。
165
﹁ヴィサくん!﹂
リルの悲鳴のような声に反応したヴィサークが、クェーサーに向
かって咆哮した。
咆哮はそのまま突風になり、クェーサーを横から吹き飛ばす。
王城の綺麗に刈り込まれた芝生に叩きつけられたクェーサーは、
すぐに騎士に取り囲まれて見えなくなった。
王はそんな闖入者など眼中にないという顔で、ただ弟だけをまっ
すぐに見下ろしている。
﹁ジグルトよ⋮﹂
呼びかけにシグルトが上を向く。
﹁我々は、決して仲の良い兄弟ではなかったかもしれん。しかし余
は、確かにお前を愛していた⋮﹂
﹁なにを⋮ッ﹂
王の言葉に、シグルトのぼんやりとしていた表情が表情が豹変し
た。
﹁あなたに何が分かる!同じ王の血を引きながら、生まれた順番が
違うというだけで、ただほんの少し生まれるのが遅れただけで、す
べての権力から切り離され、己の力を試す機会すら与えられず、た
だ慈善事業に埋もれながら生きていくことを決めつけられた人間の
気持ちなど!﹂
166
唸りは慟哭のよう、鋭い光に木霊した。
誰もが無表情で、彼の叫びを聞いている。
自分の人生がどれだけ虚しいものであっても、だからといって国
に騒乱を起こしていいということにはならない。
彼の姿が惨めであればあるほど、その場に留まった騎士たちの胸
には王家に反逆する虚しさが染み入ったことだろう。
騎士団長の命を受けた騎士二人がシグルトを拘束すると、彼は項
垂れて以降一言もしゃべらなかった。
光に照らされたその影はまるで、操り手のいない人形のようにガ
クリと動きを止めた。
夏の夜に沈黙が落ちる。
そして誰もが吸い寄せられるように、バルコニーに視線を向けた。
王族の証である光を放つ王と王太子は、あまりに神々しかった。
革新派に属し踊らされたとはいえ望んでクーデターに参加した騎
士たちも、その圧倒的な存在感に完全に飲まれている。
﹁皆の者、迷惑をかけたな﹂
沈黙を破ったのは、王太子のシャナンだった。
﹁私は体調不良故に臥せっていたのだが、侍医の尽力によりこうし
て再び皆の顔を見ることが出来た﹂
その場がざわつく。
シャナンは秘されていた己の不調を自ら打ち明けたのだ。
しかし微笑むその顔はまるで天使のようで、しっかりと立つその
姿に病気の影は見当たらない。
王子のまっすぐだけれど少し強引な性格を知っているリルは、あ
167
まりの立派な姿に思わず笑ってしまった。
﹁貴公らがここに集った理由は知っている。国民から国を任された
我らを、そなたらは情けなく思っただろうか?頼りなく思っただろ
うか?﹂
あまりの率直な言葉に、気まずい沈黙が落ちた。
王子を所詮は子供と侮っていた者たちも、ぎくりと肩をすくませ
ている。
﹁⋮そんな皆の国を想う気持ちこそが、得難い宝だと私は思う﹂
王子の言葉に、そして慈しむ様なその表情に、リルは息をのんだ。
ああ、やっぱりこの人なのだ。
この人が自分をあの闇から救い出し、そして進むべき道を与えて
くれた唯一の人なのだ。
﹁貴公らには、これからそなた等自身の目で、国の行く末を見つめ
てもらいたい。
気に入らなければ己で談判に訪れればよい。私は諌言を歓迎しよ
う。
しかし影に隠れて交誼を結び、私欲で簒奪を企てる者に容赦はせ
ぬ。それは決して正義などではない。ただの国取りの盗人だ!﹂
あどけない王子の苛烈な言葉に、その場にいる誰もが威圧されて
いるのが分かった。
騎士たちはまるで夢から覚めた様に立ち尽くし、誰もが王子の言
葉に聞き入っている。
その時予告もなく、無言でシリウスに目元を拭われた。それで初
めて、リルは自分が泣いていることに気が付いた。もう泣きたくな
168
いと決めていたのに、シャナンの無事な姿を見たら、どうしても堪
えきれなくなってしまったのだ。
﹁処分は追って知らせる。クーデターに参加した騎士すべてに謹慎
を申し付ける。リチャード、後は頼んだ﹂
王がそう宣言してバルコニーを去ると、強い光は消えて庭園には
無数の橙の光だけが残った。
そしてその光を引き連れてきた団長の兵たちが、立ち尽くす騎士
たちを拘束し次々に武装解除させていく。
その中には驚くことにミハイルとゲイルの姿もあった。
彼らは騎士団の制服ではなく、団長の連れてきた兵士たちと似た
ような服装をしている。
なんとあの大量の火の玉はミハイルの魔導であるようで、彼の手
の動きに合わせてその炎が騎士達を取り囲み、他の兵士たちの仕事
を助けていた。
﹁終わった⋮のでしょうか?﹂
思わず気の抜けたような声が零れた。
﹁ああ、詳しい説明は明日してやろう。今はゆっくりとおやすみ﹂
シリウスに頭を撫でられ、緊張していた神経がようやく解けるの
が分かった。
リルはまだ知りたいと思うことが山ほどあったのだが、今はその
言葉に従って、襲い掛かってくる睡魔に身を任せることにした。
だからリルの安らかな寝顔を、シリウスが悲しそうな顔で見下ろ
していたことなど、彼女は気付けなかっただろう。
169
170
56 それまでと、これから︵前書き︶
一人称に戻りました
171
56 それまでと、これから
騎士団入団以来の無理が祟ったのか、私はその後、結局高熱を出
して寝付いてしまった。
もともと丈夫な体ではないのに、徹夜したり魔導を使いまくった
りしていたので完全に許容量を超えたらしい。
王城は後処理で騒がしくなるからと気付けばステイシーの家に帰
されていて、最初の一週間ほどの記憶は飛んでいる。
ようやく意識がはっきりとしてくると、次に私を待っていたのは
ミーシャのお説教の嵐だった。
まだ幼いのに無理をし過ぎだとこってり絞られ、少しでも起き上
がろうとすればあれダメこれダメの厳しい指導を受けた。
ミーシャこそ体が弱いのだからそんなに興奮しない方がいいと私
は何度も言ったのだが、それが火に油だと気づいてからは何も言わ
ずただ黙って体を休めることに専念した。
ゲイルは毎日帰ってきて私を見舞ってくれるし、ミーシャはもち
ろんのこと屋敷の人たちも皆私に優しい。
勿論たまにではあるが、ミハイルも見舞いに来てくれる。
ゲイルとミハイルの二人の説明で、私はその時になってようやく
事のあらましを知ることが出来た。
まず私を驚かせたのは、騎士団で副団長が行った演説についてだ
った。
騎士団内で反乱分子のみを引き連れて王城の前広場に陣を引いた
副団長は、実は内密に団長の指示を受けていたらしい。
私と話していた時はそんなことは知らない様子だったから、多分
その指示を受けたのは集会のある直前ぐらいだっただろう。
団長がどんな方法で連絡を取ったのか知らないが、その直前に受
けた指示を見事に遂行して危険な任務を一人で成し遂げた副団長に、
私は思わず溜息をついてしまった。
172
それは彼を責める溜息ではなく、むしろ自分を責める溜息だった。
ゲイルはむしろ私が副団長の側にいて巻き込まれなくてよかった
と言ってくれるが、やはり私としては
役に立たないなりに側にいるべきだったのではないかと思う。もち
ろん私みたいな子供が役に立つわけはないし、むしろ戦力にもなら
ず邪魔になるだけだっただろうが、だからといって後悔や落胆は消
えなかった。
副団長の演説の後、反乱分子を引き離しにかかっている副団長の
意図にいち早く気付いたミハイルは、まずゲイルを連れて団長派の
有力幹部に会いに行ったらしい。
そしてその人物に出来るだけ若い騎士が反乱軍に参加しないよう
に押し止めてほしいとお願いして、二人は急いで城下に降りたのだ
そうだ。
実際二人が出てすぐに城門は反乱軍によって閉ざされてしまった
そうだから、その判断は正しかったのだろう。
王城を包囲するにはあまりに少ない人数で、しかも城門に完全に
背を向けて陣を引いた副団長を見て、ミハイルはおそらく城外に彼
らを急襲する為の兵がいるのではないかと考えた。
軍というものは背後からの攻撃に滅法弱い。
三百年ほど前の優れた小国の参謀が大国の軍を破ったのも、敵を
引き寄せるだけ引き寄せてから背後から急襲するという方法だった。
その戦以来、騎士が学ぶ戦術では必ず山などを背後にして陣を敷
くか、背後を警戒する部隊を置くようにという教えがある。
つまり、副団長はそれを無視して敢えて背後に弱い陣を敷いてい
たのだ。
その考えは当たりで、ミハイル達は城外ですぐに、協力者と思わ
れる兵士を見つけることが出来た。
市場の隅などに立ち、王弟の私邸への物や人の流れを見張ってい
た彼らは、団長の家の私兵だったという。
王城内で私兵を持つことは禁じられているが、自分の領地で尚且
173
つ、特殊な事情がある場合は私兵を抱えることを許可されている。
団長の実家も、国境沿いの辺境伯であるという理由からそれが許
可されていた。
そしてミハイルとゲイルは団長と合流し、副団長が王弟を王城内
に足止めしている間にその私邸を捜索して、たんまりと反乱の証拠
の品や書状を押収したのだそうだ。ついでに炊き出しに来た難民を
装っていた傭兵と思わる男たちも捕縛し、彼らは満を持して王城へ
と向かった。
例の火の玉はミハイルの案で、夕闇の中で視覚を確保することの
他に、兵を実際より多く見せて反乱軍に心理的な圧力をかける意味
があったそうだ。
火牛の計か?牛じゃなくてミハイルだけど。
そして無事、王弟殿下は捕縛され、今は塔の上にある王族専用の
牢に入れられているらしい。
彼の財産なども国に接収されてしまったのだそうだ。奥さんや子
供たちは奥さんの実家に戻されたそうだが、今後の彼らの人生を思
うと少し不憫だった。
その後、反乱軍に参加した騎士たちは謹慎が解かれ、総じて準騎
士への降格処分になったという。
それを良しとしない何人かは実家に帰ったらしいが、騎士の多く
は国王の温情に感謝してその処分を受け入れたのだそうだ。確かに、
反乱に参加しておいて降格だけで済むなんてデレ甘な裁定と言える
だろう。
ファンクラブ
何より私を驚かせたのは、彼らは今では王太子に心酔していて、
その熱意は私設親衛隊を作るほどの盛り上がりを見せているという
ことだった。
一度反乱を企てた者たちに集団行動を認めることに難色を示す貴
族もいるが、国王は事の推移を見守る構えだそうだ。
随分懐の広い王様だなと、私はそれを聞いて半分は感心し、そし
て半分は呆れた。
174
一ヶ月が過ぎた頃にはミハイルとの授業も再開し、私は通常営業
に戻りつつあった。
騎士団で過ごした怒涛の半年間が、まるで嘘だったかのように穏
やかな毎日だ。
そういえばあの日をきっかけに本来の力を取り戻したというヴィ
サくんだが、私の要望を受け入れて今でもぬいぐるみサイズのまま
で私の傍にいてくれる。
本当はとっても強い力を持っているらしい彼だが、そんないたい
けな姿をしているとイマイチ実感がわかない。窓の外で一心不乱に
蝶々を追いかけている時など特にそう思う。なんでもヴィサくんに
よると、動いているものを見ると追わずにはいられないのだそうだ。
今度ねこじゃらしでも作ってあげようかしらと、私はひそかに企ん
でいたりする。
彼を介して、伯父様もたまに手紙をくれる。
私は彼にその後王宮はどうなったのか、そして王子の体調は大丈
夫なのかという質問を書き送ったが、すべては実際に会ってから伝
えると言われてしまい、なにも勿体つけなくてもいいのにともやも
やしている。
それでも伯父様から体調を心配する手紙をもらえば嬉しいものが
あり、その手紙が届くたびに私はいそいそと返信を書いた。
今まではけじめをつけるために決して頼るまいと意地を張ってい
たが、あの事件を介して私にもちょっとした心境の変化があった。
それは、﹃自分一人では結局何もできない﹄という、至極当たり
前の結論だった。
多分あの事件が起こるまで、私は心のどこかに驕りがあった。
それは﹃前世ではすでに大人だったのだから﹄という驕りだった。
だから大人に助けを求めることを必要以上に避けてきたし、主計
室の書類の整理だってジガーと二人で取り組むなんて無茶もしてし
まった。
175
でも結局、それで私が役立てたことなんて、一つもなかった。
ベッドの中で只管休養を取っている間、私はそのことを深く反省
していた。
結局私がしたことと言えば、やすやすとクェーサーに捕まりシリ
ウスやヴィサくんに迷惑をかけ、肝心な時に脱落して副団長の役に
立つこともできなかった。
私はもっと、自分がまだこの世界で六年しか生きていないという
ことを自覚するべきなのだ。
休養の間、私は以前の様に勉学に励み、更には医師の許可も得て
剣も習い始めた。
勿論剣といってもおもちゃみたいなもので、私に扱えるのはナイ
フくらいだし、ミーシャは今でも激しく反対している。
それでも体を丈夫にするためには鍛錬が必要だという意見を容れ
て、何とか黙認してくれている状態だ。
本当は騎士団に戻りたい気持ちもあったが、従者をしていたクェ
ーサーが騎士団内の分裂を招いたということで従者の制度自体が見
直される見通しだという。
騎士団内部の情報操作を行うためにクェーサーが小姓たちも利用
していたことで、そちらも既に全員実家に戻されてしまったのだそ
うだ。
そうして私は騎士団に、延いては王城に戻る術を無くしてしまっ
た。
だから今はいつか役立つと信じて、勉学や剣術に励むより他にな
い。
ただ、ほんの一瞬の事だったが、あの夜に見た王子の立派な姿が
私を支えていた。
王立魔導学園の初等部に入学できるようになるまであと四年。
そこで五年学び、問題がなければ十五歳で高等部に上がることが
出来る。
176
更に卒業するにはどんなに早くても八年はかかる。
気が遠くなるような時間だが、今は自分を磨くより他に方法がな
い。
ゲーム通りならば、王子は主人公が王立魔導学園に入学する年に、
一つ上の学年に編入してくる。
私と同い年の主人公は高等部からの入学だから、それまであと九
年か。
さすがにその頃には男と偽るのは難しいから、折を見てどうにか
女に戻らねばならないだろう。
女として学園に行ったら、私は自分にそのつもりがなくてももし
かしたら悪役になってしまうかもしれない。
けれど、それでもあと九年たてば王子に会えるのかと思うと、心
が躍った。
私なんて、目に留めてくれなくてもいい。覚えていなくてもいい。
ただ一目会えたら。少しでもお役にたてたら。恩返しが出来たら。
そんな些細な夢だ。
でも、たったそれだけだって、私には人生を丸ごと賭ける価値の
ある願いなのだ。
月日は瞬く間に過ぎ、私は色濁月を二回経験した。
そして八歳になったその年、ある驚くべき知らせが齎された。
それは私を王子の学友にしたいという、王様直々の勅命だった。
177
57 王子様の秘密
緊張を堪えてどうにか出仕した王城。
しかし最初に通されたのは、王子のいる王太子宮ではなく魔法省
にあるシリウスの執務室だった。
来客用の布張りの椅子を勧められ、ユーガンさんに手ずからお茶
を入れてもらう。
身分に見合わない歓待ぶりが怖い。
彫刻の施された高そうな執務机に向かうシリウスは、難しい顔を
していた。
やがて一礼してユーガンさんが去ると、私の上空でヴィサくんが
騒ぎ出した。
﹃なんでお前の呼び出しなんだよ!リルは王子に会いに来たんだっ
ての﹄
うるさく騒ぐヴィサくんに、シリウスが冷たい一瞥で応戦する。
﹁今日はお前と戯れる気分じゃない。後にしろ﹂
﹃俺がいつお前と戯れたよ?!﹄
﹁ヴィサくん。とりあえず話を聞こう?あとで遊んであげるから﹂
﹁リルまで俺を小動物扱いする⋮﹂
不貞腐れたヴィサくんは、ひゅるひゅると降りてきて私の膝に座
った。
178
﹁⋮リル、大切な話がある﹂
基本無表情なシリウスが、こちらの様子をうかがうような素振り
を見せる。
私はこの不愛想な伯父に会うのも二年ぶりだった。
折々で手紙を交わしてはいたが、実際に相対してみるとやはりそ
の顔は神々しいまでに美しい。
私を気遣う文面の手紙をくれはしても、決して会いに来てはくれ
ない彼に、少しのわだかまりがあったのも本当だ。
王子については実際に会った時に話すと言っていたのに、結局私
は何も知らないままで二年間を過ごしてしまった。
私との約束など忘れているのだろうと思っていた。
しかし今のシリウスの憂鬱そうな顔を見ていると、なにか私に話
せない事情でもあったのかと勘繰りたくもなる。
﹁お前が王子に会う前に、どうしても行っておかねばならないこと
がある﹂
シリウスはそう言うと、目線を私の背中にある扉へと向けた。
﹁入れ﹂
その声に応じるように、ガチャリとドアが開く音がした。
反射で振り向いてしまいそうになるのを、徹底的に叩き込まれた
マナーを思い出して堪える。
毛足の長い絨毯は来訪者の足音を消してしまうが、その存在が私
のすぐ横まで来たのが気配でわかった。
彼は私の前に出ると、振り返って私に一礼した。
179
﹁久しぶりだね、ルイ﹂
・・・・・
そう言ってにこりと微笑んだのは、紫色の巻き毛の麗しい美少年
だった。
初めて見る顔だが、私は彼を知っていた。
彼こそ四番目の攻略対象。
ベサミ・ドゥ・テイト、その人だった。
﹁は、はじめまして﹂
私は立ち上がり、とりあえず礼を返してみる。
彼は非常に珍しい人と精霊のハーフで、国内の有力貴族の子息で
もあったはずだ。
しかし彼と今生で出会った覚えのない私は、戸惑ってシリウスに
視線で説明を求める。
﹁リル、とりあえず座りなさい﹂
シリウスが私の本当の名前を呼んだことで、とりあえず警戒しな
くてもいい相手なのかと思い椅子に座りなおす。
その間ずっと、ベサミは楽しそうにこちらを見ていた。
﹁彼の名前はベサミ。今現在は一応王子の世話役の一端を担ってい
る﹂
﹁一応って酷いな。命じたのは君じゃないか﹂
ベサミは不服そうな顔をしたが、彼の発言をシリウスは綺麗に無
視した。
180
﹁リル、話さねばならないのは王子の事だ。王子には現在、時の魔
法が掛かっている﹂
﹁時の魔法?﹂
意外な展開に、私は目を丸くした。
﹁とても難しい術だ。それは時を戻す魔法だ﹂
話の流れが掴めないまま、私はとりあえずこくりと頷いた。
なぜ王子にそんな魔法が掛かっているのか。危険ではないのか、
副作用はないのか。私の感情が困惑で満たされる。
﹁それを掛けたのが僕ってわけー。全くシリウスってば無茶言うよ
ね﹂
話の内容に反して、ベサミは気軽な口調で言う。
﹁ちょーっとルイくんで新しい魔導具試しただけなのにさ。ペナル
ティにしたら重すぎるよ﹂
﹁ベサミ!リルはそれで死にかけたんだぞ!少しは反省しろ﹂
シリウスの剣幕に、ベサミは素知らぬ顔だ。
私はようやく出てきた自分の名前に反応したが、その内容には全
く身に覚えがなかった。
﹁私で、魔導具をですか?﹂
181
﹁あれ、覚えてない?騎士団の解析室で君にペンを渡したじゃない。
カノープスとの訓練の時にさ﹂
﹁ええっとー⋮﹂
私の記憶が正しければ、あのペンを手渡してくれたのは翁だった
はずだ。
﹁ああ、あの時とは姿が違うもんね。これが僕の本来の姿だよ。こ
れは所謂仮の姿ってやつ﹂
そう言っている最中にベサミの外見はみるみる老けて、言い終わ
る頃にはすっかり“翁”の姿になっていた。
あまりの事に私が言葉を失っていると、隣でシリウスの咳ばらい
が響いた。
﹁その件について私はベサミにペナルティを課した。それが王子の
時を巻き戻す魔法だ﹂
﹁巻き戻⋮す?﹂
次々にわけのわからない話をされ、私の処理能力は既にパンク寸
前だ。
﹁三年前、王子は一度瀕死の状態で私の所に担ぎ込まれた。理由は
リル、君が一番よく知っているな?﹂
そう尋ねられ、私はドキリとした。
やはりシリウスは知っていたのだ。私と王子の関係を。私たちの
拙いままごとが招いた悲劇を。
182
こくりと頷いた時、もう一度顔を上げるには勇気が必要だった。
﹁でも、王子は回復したのでしょう?二年前に私はバルコニーに立
つ王子を見ましたッ﹂
動揺がそのまま声になって零れた。
確かに、私はあの時王子の姿を見たのだ。私の部屋を訪れていた
時と何も変わらない、立派に立つ王子の姿を。
﹁君は、おかしく思わなかったのかな?あの年の子供が、一年経っ
て同じ姿なんてことがあり得るのかな?身長も伸びず成長もせず、
髪形も変わらないことが普通だと?﹂
ベサミが笑いながら私を覗き込んだ。
その言葉に、私は愕然とした。
遠くから見ただけだから、身長までは分からない。でもあの時、
確かに私は王子を﹃あの頃と全く変わらない﹄と思ったはずだ。顔
も、髪形も、そして声も。
﹁あの内乱の晩、僕は眠る王子に魔法を掛けた。それは一年間時を
巻き戻す魔法だった。そして王子は、眠りの原因である君に出会う
前まで戻った﹂
その言葉の意味を、私は一瞬理解できなかった。
﹁⋮つまり、今の王子はお前の事を何も覚えていない。そのことを、
心しておきなさい﹂
重苦しい溜息のように微かな声で、シリウスは言った。
私は椅子に座っていたのに、上も下も分からないような闇に突き
183
落とされた気分になった。
確かに、覚えていてもらえなくてもいいと思った。
でもまさか、語り継がれている王子のあの晩の雄姿に、こんな事
情が隠されていたなんて知らなかった。
﹁学友の話は、王が是非にとお前を指名したものだ。リル。胸を張
っていい。二年前の君自身の働きが高く評価されたのだから﹂
﹁そんな⋮私は何もしていません⋮﹂
反射の様に、私は答えた。
それは心底の思いでもあったし、そして酷く狼狽えていた私いは
他に応えようがなかった。
うつむいた私の目に、心配そうに私を見上げるヴィサくんの姿が
映った。
歩み寄ってきたシリウスの手がぽんと頭に置かれる。
﹁辛くなったら、いつでもここに来なさい﹂
平気だと言いたかったが、私は成されるがままで俯いていた。
ベサミの呆れたような呟きが、妙に耳に残った。
﹁甘いね、君たち。僕はルイの面倒まで見きれないからね﹂
184
58 ベサミの忠告︵前書き︶
短めです。進展しねーなー
185
58 ベサミの忠告
シリウスに見送られて部屋を去った後、私はベサミに案内されて
王太子宮へと向かった。
部屋を出て以来黙って私を先導していたベサミだったが、王太子
宮に入るなり振り返り、私をまっすぐに見てこう言った。
﹁君がシリウスと関係があるのは、王太子宮の中では僕しか知らな
いし誰かに言う気もない。無用な諍いを望まないならば、君も口を
閉ざすのが賢明だね﹂
巻き毛の美少年の要望の割に、その口調は辛辣だった。
もとより出自を隠すためにシリウスとの関係を公けにする気のな
い私だったが、彼のその物言いには引っかかるものを感じた。
﹁諍い⋮ですか?﹂
﹁王子の学友なんてものは、将来の勢力図が決まる食い合いの社交
場だよ。騎士団の小姓制度が無くなって以来、貴族たちは一層そこ
に自らの子息を潜り込ませようと熱心だ﹂
忌々しそうに、ベサミは舌打ちした。
﹁君は軽く考えているかもしれないが、今上陛下が勅命を出すなど
常にないことだ。貴族たちは皆君に注目しているし、もちろん地方
の貧乏子爵の更に三男の養子が王太子の学友に召されるなんて、常
識で言ったら考えられないことだ。今いる学友たちがどういう行動
186
に出るか、少し考えれば分かるだろう?﹂
ベサミは私を見下すように言った。
私は騎士団にいた頃の彼を少なからず知っているが、あの好々爺
といった風情の翁がどうしても彼とは結びつかなかった。シリウス
から聞いたのでなければ、きっと信じなかっただろう。
ヴィサくんは私の真横に浮きながら、尻尾をピンと立てて牙をむ
き出しにしている。
そのせいか知らないが、長い回廊に外からの風が吹き込んだ。
﹁⋮もし地位や名誉を求めてきたのならば、今すぐ帰ることだ。痛
い目を見ることになる。それに、君がどれほどの魔力を持っている
かは私が一番よく知っている。正直君は未知数な存在で、その上連
れている精霊の力も段違いに増しているようだ。私は王子の側仕え
として君を警戒しなければならない。分かるね?﹂
私はこくりと頷いた。
めい
しかし彼の語った言葉のすべてに、同意した訳では決してなかっ
た。
﹁私はこの国の民として王の命に従ってここに来ました。地位や名
ひとえ
誉とおっしゃいますが、養父にはこの件について反対されておりま
す。それでも参内したのは、偏に王子殿下にお仕えしたいという私
の強い希望あってのことです﹂
私はベサミを睨みつけて啖呵を切った。
それは最初が肝心だという思い以上に、私が地位や名誉が目当て
でここに来たのだと言われたことが耐え難かったからだ。
養父母であるゲイルやミーシャは、むしろ今回の件について反対
187
していた。養子である私が王子の側に行けば、自分たちの身分や境
遇が引き立てられる可能性があるというのに、だ。
現在王子の周囲を固めているのは誰もかれも国内の有力貴族の直
系の子息であるから、子爵のしかも跡継ぎでもない三男の自分の子
供が行けば、どうなるかわからないとゲイルは心配していたのだ。
でも、私はゲイルにそんなことを言わせてしまったこと自体が悲
しかった。
確かに私の実家はその国内の有力貴族とやらだったが、私は断然
ステイシーの家の方が大好きだ。
どこの誰とも知れないみすぼらしい子供だった私を引き取ってく
れた彼らの方が、あの冷たかったメリスの家よりどれほど私を幸せ
にしてくれたか。
だからこそベサミの言葉に、私は必要以上に反発してしまった。
﹁新しく来た者への抵抗や排斥はどこに行っても多かれ少なかれあ
るものです。ならば私は私の望む場所に在ることを望みます。殿下
自身が去れと仰ったなら、私は大人しく姿を消しましょう﹂
私の言葉にベサミは黙り込んだ。
そしてしばらくは品定めをするように私を見下ろしていたが、や
がて気が済んだのか振り返り再び前へと歩き始めた。
しかし長い回廊の途中、彼は唐突に口を開いた。
﹁意気込むのも結構だけど、王宮内は騎士団以上に地位や権力が物
やから ほとん
を言う場所だよ。そして貴族たちは人の足を引っ張ることにばかり
情熱を傾けるような下劣な輩が殆どだ。不本意に去りたくないのな
ら、十分に用心することだね。言っておくけど、僕の手助けは一切
期待しないでね﹂
冷たく言いはしたが、その内容を私は彼が多少なりとも妥協して
188
くれたのだと好意的に解釈することにした。
ゲーム内ではふざけたり周りをからかったりシーンが多かっただ
けに、ベサミ今回の態度は新鮮だ。
でも彼が王子のために私を警戒しているのだと思えば、彼に悪意
を抱くことはできなかった。
むしろ事前に忠告をくれただけ、彼は貴族の中でも格別良心的な
のかもしれなかった。
189
59 王国の守護者
天蓋のついたベッドは一人で寝るとは思えない程に巨大だった。
王の寝室。
歴代の王が眠り、そしてその内の幾人かが永遠の眠りについた。
曇天のせいか窓からの光も薄い。
近づくシリウスの気配に気づいたのか、ベッドの主が身体を起こ
した。
﹁気にするな。休んでいろ﹂
﹁ゴホッ⋮お前は優しいな、このような不甲斐ない王にも﹂
四隅の柱に括られたカーテンの陰から、痩せ衰えた男が陰鬱な表
情を覗かせる。
この一年ほどで一気に老けたな。
見るたびに病み衰えていく王に対して、シリウスは口にするつも
りだった言葉を呑み込んだ。
﹁シリウス、そろそろ聞き分けてはくれないか?﹂
﹁私を幼子のように言うな﹂
哀れな王の懇願にも、シリウスはただ憮然として言葉を返した。
﹁余はそう遠くない内に死ぬ。しかし王子は未だ幼い。あれはまだ
十にも満たないのだ。幼くして王冠を戴いた者の末路など、私より
もお前の方が詳しかろう﹂
190
確かに、シリウスが今までに見てきた幼い王達は、みな等しく虚
しい勢力争いに巻き込まれていった。ある者は成長してから実権を
取り戻し、ある者は賢い後見のおかげで無事に国を継ぐことが出来
たが、大抵は身の危険に晒され闇に消えた者も思い出せないほど多
くいる。
﹁しかし私は、政治不介入の誓いを立てている﹂
﹁介入などしなくてもよい。ただ幼い王子の傍で、金に目が眩んだ
愚か者を退けてさえくれれば﹂
﹁魔導省の長官として、魔力を使った攻撃から守るだけならば約束
はしよう。しかしそれで足りるのか?幼い王太子の為に実の弟すら
陥れて牢獄に繋いだ者が﹂
シリウスの淡々とした指摘に、王は動揺するでもなく小さく笑っ
た。
﹁手厳しいな。あれは確かに簒奪を企てていたよ。それはお前がよ
く知っているだろう?﹂
﹁ジグルトは確かに反乱を企てていた。しかしあの時、それが﹃今﹄
だとは思っていなかった。賢いお前ならば穏便に済ませることもで
きたはずだ。しかしお前は巧みに弟をけしかけ、済し崩し的に反乱
を起こさせた。それもこれも後に残された王子の為だ﹂
﹁否定はしない。王座とは決して綺麗なだけのものではない。幾人
もの王族の血を吸った、いわば魔物のようなものだ。それを乗りこ
なすには相応の覚悟が必要だと、余は父上に教わった﹂
191
落ち窪んだ王の目が、ぎょろりとシリウスを睨む。
存外に強いその視線に、シリウスは怯むどころか睨み返した。
﹁お前が王子を愛する気持ちはよくわかる。しかしだからと言って
嫌がる相手を人質を取ってまで従わせるのがお前のやり方か?﹂
﹁何の話だ?﹂
王はとぼける様な、老獪な顔を覗かせた。
﹁知っているのだろう、ルイの事だ。あれはただの少し聡いだけの
子供に過ぎぬ。私を従わせるために、あれを無理に王子の学友にし
たな?﹂
﹁どうしてそんな子供がシリウスにとっての人質と成りえるのかな
?私はただ彼の有能さを見込んだだけだ。憶測で物を言うのはやめ
てもらおう﹂
病の苦しさを隠して微笑む彼が、言葉に反してシリウスに脅しを
掛けているのは明らかだった。
王はシリウスが自ら迎えに行くとまで言った主人の顔を知らない。
しかしあの内乱の夜に側に連れいていた少年がいたことを突き止め、
シリウスの反応を見るために一か八かでその少年を王子の学友へと
招いたのだった。
そしてまんまとその事を自分に意見しにきたシリウスに、王は自
分のカンが正しかったことを知った。
恐らくあの少年はシリウスの主人と何らかの関わりを持っている
のだろう。それにしても、美女にも財宝にも地位にも名誉にも興味
のないこのエルフが、あんな他愛もない少年の事を気にかけている
192
とは意外だ。
その事実は王にとって驚きだったが、今はシリウスを自分の側に
取り込むために手段は構っていられなかった。
王の態度にシリウスが眉を顰める。
﹁ルイになにかあれば、お前とて容赦はしない﹂
﹁おお、恐ろしいな!しかしどうせもうすぐ死ぬ身だ。容赦など貰
っても使い道がないさ﹂
自らのカンが当たったことに王は高揚していた。
そして彼が高揚した分だけ、シリウスの機嫌は悪化する。
﹁死に行く身ならば大人しく聞き分けたらどうだ?王子を護る為に
関係のない者まで巻き込むな!﹂
シリウスの言葉に、王は表情を豹変させ牙を剥いた。
﹁⋮何を聞き分けろというのだ。このように無慈悲な死を待つしか
ない哀れな人の身で!わが子の事だ、可能ならば余自身の手で護り
たかったさ。しかしそれが叶わぬからお前に頼むのだ。お前に分か
るのか?志半ばで死に逝くしかない人の虚しさなど!﹂
叩きつけるように王は言った。
途端、シリウスの脳裏を無数の記憶が駆け巡っていく。
この部屋で、何人の王から糾弾を投げつけられたことだろう。
長い歳月の中には、幾人もの王がいた。
彼らは時には気高く国を治め、時には欲望に溺れ殺された者もあ
193
った。
戦争で死ぬ者もあり、毒で死ぬ者もあった。幼い者も、年老いた
者もいた。
みな、生まれた時からよく知る者たちだった。
彼らはシリウスと時には兄弟の様に過ごし、そして時には親のよ
うに慕ってくれた。
しかし死ぬ間際、こうして無限の命を持つシリウスを妬む者も少
なくなかった。
︱︱︱この王にも、その時が来たのか⋮。
英明で知られる彼が、これほどまでに追い詰められた姿は見たこ
とがなかった。
シリウスは人の命へ対する虚しさや、そしてまた見送るしかでき
ないのだという事実を改めて思い出した。
シリウスは口を閉ざし、ただ背を向けて王の寝室を出て行った。
194
60 どこへ行ってもこうなる運命
﹁おい、お前﹂
後ろから呼び止められたが、私の名前は﹃お前﹄ではないわ!と
思い振り返らずに私は進み続けた。
すると声の主がガシリと肩をつかんで私を振り向かせようとした
ので、私は逆に思いきりのひじ打ちを喰らわせてみた。
ぐふッというくぐもった声がして、バサリと人の倒れる音がした。
あ、やばいやりすぎだ。
﹁何をしている、新入り!﹂
・・
私が図らずも再起不動になってしまった学友を助け起こそうとし
ている所に、タイミング悪くやってきたのは王子の学友の中でも最
年長の纏め役。
アラン・メリス、その人だった。
そもそも﹃王子の学友﹄というものは、別に王子と一緒に学校に
通う仲間という意味ではない。
なぜなら王子が通うのに相応しい学校などこの国にはないからだ
︵彼は後年自らの希望で魔導学園に入学するわけだが、それはさて
置き︶。
王子の教師は既に王城の中に住んでいる。
各分野の第一人者が集められ、王子には王位継承者として相応し
い教育が施される。
では学友の役目とは何か?
それは幼い頃から共に学ぶことで将来に役立つ関係性を構築し、
195
更には競争しながら学ぶことで王子のやる気を活性化させようとい
うシステムである。
故に王子の学友には国内でも有数の貴族から、特に有能な子息達
が集められている。
それにしてもまさか、こんな場所で再び会いまみえることになろ
うとは。
幼いながらに整った不機嫌な顔を眺めながら、私は内心で溜息を
ついた。
そう、名前からして丸わかりだが、アラン・メリスは私の腹違い
の兄上様なのだった。
彼は攻略対象でもあるので、いつか再会するだろうとは思ってい
たが、まさかこんなに早くとは。
彼は私とは似て非なる宵闇の髪を肩口まで垂らし、色素の薄い榛
色の目をしていた。
﹁聞いているのか、平民風情が!﹂
向こうはちっとも気付いていないのが、不幸中の幸いか。
ま、私達って三年前にほんの一回か二回会っただけですしね。
まさか死んだことになっている妾腹の妹が弟になって戻ってくる
とは思わないわな。
そういう意味では、男のままでここにきてよかったのかも。
﹁無視するな!﹂
ダンッと音がして、顔の脇の煉瓦造りの壁に拳が刺さっていた。
あっちゃー、それ痛いでしょ。間違いなく痛いでしょ。
私の真正面にいた少年が、痛みを懸命に堪えているのが分かる。
泣くな。泣いちゃダメだ男の子だろ!
数人の少年に囲まれて攻め立てられていた私だったが、場違いに
196
も思わず前世由来の母性を発揮しそうになってしまった。
だってみなさん選ばれているだけあって大層な美少年達なのだ。
こんな立場で無かったら、私は眼福だなーとか呑気に彼らを眺め
ていたことだろう。
﹁いい加減、何かいい訳の一つも吐いたらどうだ?﹂
ボソリと呟いたのは、まさに今まで私の思考を独占していたお兄
様だった。
私は思わずピクリと緊張してしまう。
それに反応したのか、いつもの事だと飽きて昼寝決め込んでいた
ヴィサくんも、のそりと上体を起こした︵どうせ姿は他の人には見
えていないのだけれど︶。
﹁我々は貴様がカルロに一方的に暴行を働いているところを目撃し
た。その事に異論はないな?﹂
﹁⋮はい﹂
肘鉄を喰らわしたのは本当なので、私は不承不承で肯いた。
今私の目の前で涙目でいる少年が、カルロという名前だというこ
とは初めて知ったが。
アランは更に表情を厳しいものに変えて、私を睨みつけた。
﹁それではまず謝罪するのが筋だろう。その程度の礼儀も習ってい
ないのか!﹂
いや、謝罪しようとしたところにあなた方が現れて騒ぎを大きく
したんですがね。
しかし謝罪の言葉を口にしていなかったのは本当なので、私は素
197
直にその場に膝をつき、頭を垂れた。
別に、今さら頭を下げたところで、傷つく矜持など私にはないの
だ。
﹁大変無礼を致しましたこと、どうかお許しください﹂
私が従属と言ってもいいほど深く頭を下げたため、取り囲んでい
た連中は驚いて言葉を失ったようだった。
彼らはプライドが第一という教えを受けているので、人前で頭を
下げるという行為を酷く厭っている。
したた
そこまでさせるつもりではなかったと、目の前のカルロの顔にも
書いてあった。
意地悪貴族出身とはいえ、彼ら自身はまだ年端もいかず強かさも
ない、私から見ればただ可愛いだけの子供たちだった。
そんな彼らに頭を下げて、一体私の何が傷つくというのだろう?
﹁顔を上げろ!プライドはないのか?!﹂
いち早く我に返ったらしいアランが動揺した声を張る。
それが面白かったのでしばらくそのままでいたら、アランの声を
聴きつけたらしい大人が近づいてきてしまった。
その気配を敏感に察し、少年たちは我先にと逃げて行ってしまう。
なんて根性のないいじめっぷりだろうか。
私は彼らに呆れてしまった。
﹁ルイ、やっぱりお前か⋮﹂
そう溜息をついたのは、つい最近王子の軍事学の教師として取り
立てられたミハイルだった。
198
﹁なあ、やっぱり俺から言ってやろうか?﹂
﹁いい!というか絶対やめて﹂
王太子宮の庭園の片隅にある東屋で、私はお手製のサンドイッチ
を広げながら叫んだ。
﹁そんなことしたら金輪際私の料理は食べさせない﹂
﹁だからってお前な⋮﹂
サンドイッチを人質に取った私に対して、ミハイルは呆れたよう
な顔をした。
﹁今日だって俺がもし見つけなかったら、お前なにされてたかわか
らないんだぞ?もし女だってバレたらどうするんだ﹂
﹁ミハイルが余計なこと言わなきゃバレないし、ミハイルが見つけ
なくたって私だけで切り抜けられたよ。伊達にこの二年体を鍛えて
きたわけじゃないんだから﹂
﹁バカ、その油断が危ないんだ。俺が何度も口を酸っぱくして教え
てるだろうが﹂
﹁“ギーグの堤崩し?”﹂
ギーグとはこの世界の蟻の事だ。つまり日本でいう“千丈の堤も
蟻の穴より崩れる”と同じ意味の慣用句になる。
199
こんな時にまで戦争関係の慣用句を混ぜ込んでくるミハイルは、
本当に教師向きだと私は変なところで感心した。
﹁とにかく、だ。変な意地張ってないで、何かあったらすぐにでも
俺を呼べ。俺はお前をここに連れてきた責任があるんだから⋮﹂
いい声の色男が、随分と優しいことを言う。
出会った頃とは大違いだと、私は小さく笑った。
﹁ありがとう、ミハイル﹂
笑って私が差し出したサンドイッチを、ミハイルが美味しそうに
食べ始めた。
彼はゲイルと一緒で、今では私のこの世界の父親のような存在だ。
最初こそ周囲を振り回す強引さを見せた彼だったが、今ではむし
ろ私︵と親バカのゲイル︶に振り回されているように思える。
こんなことでゲーム本編が始まったらキャラがブレちゃうんじゃ
ないかと、私は明後日な心配をしながらサンドイッチにかぶりつい
た。
200
60 どこへ行ってもこうなる運命︵後書き︶
シリアスにそろそろ飽きました
201
61 プライドとプリンの攻防
さて、晴れて王子の学友に抜擢された私ではあるが、実はいまだ
に一度も王子には会えていない。
それは毎日毎日、飽きもせずにあのお坊ちゃま軍団が私にこまご
ました用事を言いつけるせいだ。
やれ、逃げた飼い猫を探して来いだの、失くしたブローチを探し
て来いだの、図書室に本を返してこいだの、役人の鬘を暴けだの。
よくネタが尽きないものである。
私と彼らは学友という立場こそ同じだが、騎士団の頃と違いここ
では明らかな地位格差が存在している。
つまり、私は貴族的上位である彼らに何かを命令されれば、絶対
に断れない訳だ。
いつも姿が見えない私を心配してミハイルがどうにかしようかと
言ってくれたが、私はそれを断った。
何とか自分の力で、あの世間を知らないお高く留まった御曹司た
ちに泡を吹かせてやるのだ!
私の熱意は、明後日な方向に向けて燃え上がりはじめていた。
朝、ゲイルと一緒に意気揚々と登城した私は、まず初めに王太子
宮に行くふりをしてゲイルと別れ、それから足を騎士団寮の調理室
へと向けた。
﹁おう、よく来たなルイ!﹂
出迎えてくれたのはお馴染みの独身料理長だ。
因みに彼は、最近城下の花屋の看板娘が脈ありらしく、いつ会っ
ても上機嫌でいることが多い。
202
時間的には寮にいる団員達が朝食を終えて出仕した頃なので、食
堂は閑散としていた。
﹁ほら、早く見せてくれよ昨日のやつ!﹂
料理長が騒がしいので、私は急いで手を洗い、半地下になってい
る貯蔵室の扉を開けた。
これは機能でいえば冷蔵庫のようなものなのだが、高価な魔導石
がそこかしこにふんだんに使われていて、電気がなくても冷えると
いう優れものだ。
おそらく箱ぐらいの規模の物なら貴族の館にもあるだろうが、一
部屋丸ごととなると王城ぐらいにしか無いと思う。
待ちきれない様子の料理長がやってきて、上の方の棚に置かれて
いた金属製のトレイを引き出してくれる。その上には小さなカップ
がいくつも行儀よく並んでいた。
料理長がトレイごと調理台の上に置くと、厨房にいた料理人や料
理女がわらわらと集まってくる。
私はよっこいしょと椅子の上に上ると、上に掛けていた埃よけの
薄の布を仰々しく持ち上げた。
﹁⋮なんだぁ、こりゃ?﹂
歓声を期待していた私は、料理人たちのイマイチの反応にがっく
りしてしまった。
﹁これはですね﹂
そう言って私は一つのカップを持ち上げると、そこにスプーンを
差し入れた。
すると思った通りの弾力が返ってきて、私の指先が興奮で痺れる。
203
﹁おい今、妙に震えなかったか?﹂
﹁ああ、ありゃただのスープじゃねぇ!﹂
﹁まさか寝かせてる間に妖精にでも魅入られたか?﹂
﹁なんだって!王城には結界があるのにまさか﹂
大人たちが騒ぎ出したので、私は安全ですよーと示す意味でもそ
のスプーンをパクリと口に入れた。
すると広がる濃厚な甘みと、後からやってくるほろ苦いカラメル
ソース。
料理人たちが私を指差して大騒ぎする中、私は束の間の幸せに浸
った。
はぁ⋮焼きプリン最高っす。
﹁俺も食べるぞ⋮ッ!﹂
意を決した様にスプーンを持った料理長が周囲の料理人に止めら
れている。
いやいや今目の前で子供が食べた物ですよ。
﹁放せお前ら!﹂
実は婚活以上に料理人という職業に情熱を注いでいる料理長は、
そんな彼らの静止を振り切ってプリンを口に含んだ。
﹁⋮⋮﹂
204
落ちる沈黙。
﹁りょ⋮料理長?﹂
あれ、口に合わなかったかな?
まあとろっとした生っぽい食感が合わなかったのかもしれない。
私が慌てて椅子を下りて料理長に駆け寄ろうとすると、その前に
私は料理長に抱き着かれてしまった。
﹁何だこれはとても美味だ!ルイ、お前は天才だな!﹂
頬に髭面の熱烈なキスが降ってくる。
ぎゃー!放してー!!
私はじたばたと暴れた。
そんな料理長の様子を見て、他の料理人たちも恐る恐るそのカッ
プを手に取った。そして彼らの顔には次々と笑みが広がる。
いっぱい作っておいてよかったな。
私はその後の質問攻めからどうにか脱出して、王太子宮へと急い
だ。
俺も食べたいと駄々をこねるヴィサくんを宥めつつ、王子の学友
たちが集う学習室の扉を開ける。片手には蓋のついた小さ目のトレ
イが乗っているが、ヴィサくんの風魔法で補助してもらっているの
で重さ的には全然ないのだ。
学習室に入ってきた私の姿を認めると、部屋の中にいた子息たち
は一瞬沈黙した。
﹁おはようございます﹂
205
返事はないが、堂々と歩き私は自らの机へと向かった。
学習室の机と言っても小学校の教室のようなものではなく、一つ
一つがずっしりとして彫刻の入った見事な品だ。
私がその上にトレイを置くと、無視したくせにわらわらと何人か
の子息が集まってくる。
﹁平民が荷物を持たせる使用人もいないのか﹂
﹁毎日勉強するわけでもないのに、よく顔が出せるものだ﹂
はいはい。クソガキども黙らないと××××するからね︵自主規
制︶。
﹁ああ、そういえばルイ、実はな﹂
にやにやしながら今日も用事を言いつけようとする坊ちゃんの声
を、私は大声で遮った。
﹁はい!今日は実は皆さんに、特別に遥か遠方の国より調理法の届
いたとても珍しいお菓子をお持ちしたんですよ!﹂
そう言って蓋を開けると、そこには美しくデコレーションしたプ
リンが行儀よく並んでいた。
メレギクリームとツェリ︵さくらんぼ︶とメリオ︵メロン︶!
古き良きプリンアラモードスタイルだ。
少年たちの視線がトレイに突き刺さる。
ふふふふ、古今東西この魅力に抗える子供なんていないよね!
﹁何だこれは⋮﹂
206
ざわざわしている少年たちの中で、私は目的の人を見つけるとお
皿を一つ手に取り、自らその人の前へと運んだ。
﹁アラン様。まずはあなたに、この一皿を捧げます﹂
“この一皿を捧げます”は格下の者が格上の者に料理を饗する時
の常套句で、大抵食事の最初に最も地位の高い者に対して料理をサ
ーブする時に使われる。そしてその者が最初に料理に口をつけるこ
とで、会食はスタートしたとみなされるのだ。
これを受けた者はよほどの事情ががない限りその役目を拒否でき
ず、最低でも一口は口をつけなければいけない決まりだ。また、プ
ライドが高い貴族にとって最初の一口を断ることは恥とされている。
アランは最初に私をとんでもなく鋭く睨みつけた後、椅子に座っ
た。立ったまま食事をするというのは貴族のプライドが許さないら
しい。
辺りは静まり返った。
まさか私がこんな手段に出るとは思っていなかったらしい。
私が音を立てずそっと勉強机に皿を置くと、アランはしばし沈黙
した後、プリンにスプーンを突き刺した。
プリンがぷるんと揺れる。
私にはおいしそうにしか見えないが、学習室内は見たこともない
動きにざわめいた。
アランは息をのんで目を丸くしている。
なんだ、かわいいな。
しかし動揺している素振りを見せたくないのか、相変わらずの不
機嫌そうな顔を保っている。
アランは意を決して、その一口を口に放り込んだ。
﹁⋮﹂
207
﹁⋮アランさま?﹂
もぐもぐゴクンの後も、何も言わずにプリンを見つめ続けるアラ
ンに、堪りかねて取り巻きの一人が声を掛けた。
それに我に返ったように、アランははっとしてプリンから視線を
外す。
﹁いかがでしたでしょうか?﹂
声を掛けた私の方を見るアランの顔は、すっかり固まっていた。
もしかして不味かったのだろうか?厨房のみんなは太鼓判を押し
てくれたのだが。
私の案じる様な視線に気づいたのか、アランは慌てて口を開いた。
﹁あ⋮﹃皆も匙を取れ!﹄﹂
アランが最初の一口を受けた貴族の儀礼的な一言を口にすると、
何人かの少年は待ちかねたように、そして更に何人かは恐る恐るお
皿を手に取った。他にも遠巻きに成り行きを見守っている者が何人
かいる。
そして彼らがプリンを口に運ぶ中、アランもそっと二匙目をすく
っているのを見て、私は安堵の溜息をついた。
﹃何かを言いつけられる前にお菓子で誤魔化せ!﹄作戦は、どう
やら成功のようである。
208
62 そしてゲームになる
さて、結局あの後、王子より先に入室してきた教師にプリンを食
べているところが見つかり、全員学習室を追い出され余計な課題を
山ほど出された私たちだったが、あの日以来、私に対する低俗な嫌
がらせは一切なくなったと言っていい。
勿論、未だに学習室内では村八分扱いが続いているが、それは無
視されたりとか遠目にぼそぼそ噂されたりとかかわいいもので、持
ち物が隠されたりだとか、つまらない用事を言いつけて授業に出席
させないようにしたりだとか、そういうつまらない嫌がらせはなく
なった。
また、あれ以来人気のない場所で呼び止められ、あのプリンのレ
シピを教えろと言われたことも数回あった。やっぱり皆、貴族と言
えども子供だ。プリンの魔力には抗えないようである。
そして私は、山ほどの課題をほぼ徹夜で片付けた翌日、学習室の
隅でようやく王子を間近に見ることが出来たのだ。
従者の掛け声に反応するように学習室にいた全員が跪き、そして
王子が入室してきた。
その時の気持ちを、どう表せばいいだろうか。
もう二度と、間近に見ることは叶わないだろうと思っていた人が、
側で歩いて息をしているという感動。
けれど今の自分の立場では、王子から一番遠い席で跪いているし
かないという少しの切なさ。
寝不足の隈の浮いた目に、王子は以前以上にキラキラしく映った、
王子は私を一瞥すらすることなく、彼が手を微かに振ったことで
全員が立ち上がり、そして授業が開始された。
王子が受ける授業というのは、特殊だった。
クラスに王位継承者がいるというのがその最たるところだったが、
209
それ以外にも。
まず、授業は王子の事情が最優先にされるため、例えば王子が公
式行事や体調不良で欠席であった場合、その日は授業自体が休みに
なった。
更に、その進行速度も王子に合わせるため、王子が躓いたところ
で全員がいったん止まり、更に詳しく内容を反復するという事が繰
り返された。
もちろん、王子は基本優秀らしく滅多に躓いたりはしない。なの
で、むしろ学友の内で何人もの落伍者が出た。
定期的に学友のみが受けさせられる試験というものがあり、これ
をクリアしなければ学習室に残ることはできない。
代わりはいくらでもいるらしく、いなくなった生徒と同じ数だけ
の子息たちが翌日には学習室にやってきた。そのサイクルは何度も
繰り返され、学習室にいるメンツは幾度も変わった。更にその試験
の順位によって席順も決まるので、そのテストで高得点をとればと
るほど王子の席に近づくことが出来た。
私は必死に授業に喰らい付いていった。
私の場合、基本ミハイルから教わっていた戦術や歴史、それに元
々得意の魔導の分野については余裕だったが、貴族の家系やマナー、
それに帝王学については本当に必死に学ばねばならなかった。
なんせ元が貴族ではないから、本来なら意識せずとも貴族ならば
自然にできる様な身のこなしが全くできなかったのだ。
勿論ステイシーの家で勉強していた分、全くできないということ
はなかったが、やはり彼らは上位貴族の子息たちだけあって、動作
の一つ一つに品があり、それを習得するまでに私はかなりの時間を
要した。
それでもどうにか毎回のテストではどうにか合格を拾い、本当に
少しずつではあるが学習室の端にあった机からどうにか王子の側へ
と近づいていくことが出来た。
学習室での王子は、いつも気品があって落ち着いていて、最初に
210
私の部屋を訪れた時のような横暴さはどこにも見当たらなかった。
ただ、学友とも必要最低限の言葉しか交わさず、私には彼がとて
も孤独なように見えた。
もちろん、見間違いかも知れない。半ばストーカー化している私
の都合のいい妄想かもしれない。
だけど、私は王子の無機質な横顔を見るたびに、悲しい気持ちに
なった。
あの、ちょっと我儘で理不尽で、だけど本当は底抜けに優しくて
私を救ってくれた王子様。
時間を巻き戻してしまったから、もうそんな彼はどこにもいない
のかもしれない。
私はそんな不安や虚しさと戦いながら、勉強に没頭した。
そんな日常が、半年を過ぎた頃。
それは橙月が終わり、暑さよりも肌寒さを感じるようになった頃
のことだ。
その頃の私は、上位争いの一角にまで食い込むようになっていた。
学習室の構成は5行×3列の15人が基本になっている。その中
でも、王子がいるのは最前列の中央だ。
勿論、不動の一位は兄であるアラン・メリスであり、彼が常に王
子の隣の席をキープしていた。
私は一列目の一番端。通路側の席を宛がわれることが多い。
これは多分テストの順位もあるのだろうが、席次を決める教師が
貴族内での地位も鑑みて席を決めているのだろう。日本と同じよう
に、こちらも出入り口に近い席がより下座であるとされている。
ここにきて、私はある重要なことに気付いてしまった。
この教室に半年もいて気づいたのは今頃かと言われたら、確かに
その通りなのだが。
この学習室の一列目の五人、私を抜いた四人の並ぶ姿には、どう
211
も見覚えがある。
まずは中央にいる王子。
王子の右隣、わが兄アラン・メリス。
王子の左隣、勉学においてはいつもぶっちぎりの秀才、伯爵子息
のルシアン・アーク・マクレーン。
更に窓側の端にいるガタイのいい短髪の少年は、騎士団長の遠縁
にあたる子爵子息のレヴィ・ガラット・マーシャル。
ここにミハイルとベサミとシリウスを足すとあら不思議、ファン
タジー系恋愛シミュレーション﹃恋するパレット∼魔導の王国∼﹄
というクソみたいなゲームの出来上がりだ。
212
63 ゲーム設定
﹁なあ、ほんとうにここでいいのか?﹂
﹁うん。ありがとうヴィサくん﹂
現在のクラスメイトが残りの攻略対象だったと気づいた日、私は
まっすぐ家には帰らず、ヴィサくんに頼んで王都の外まで飛んでも
らった。
内乱の時に力の制限が解けたらしいヴィサくんは、今では意のま
まに元の大きさに戻って私を乗せて運ぶことができる。
ステイシーの家にいた頃も、勉強で煮詰まった時には何度か連れ
出してもらったのを思い出す。
私は草原の続く小高い丘に降ろしてもらった。
人影も動物もいない、光と緑と大地と風の粒子しかない心地のい
い場所だ。
私はそこに座り込むと、しばらく一人にしてほしいとヴィサくん
に頼んだ。
﹁でも、もし獣にでも襲われたら⋮﹂
﹁そしたら名前を大声で呼ぶから、絶対助けに来てねヴィサくん﹂
﹁おお、任せろ!﹂
たまに、ヴィサくんって本当は火属性じゃないかと思うほど単純
だ。
私はなんとか言いくるめたヴィサくんの遠ざかる背中に手を振っ
213
た後、なだらかな草の上に座り込み、膝を抱えた。
丘の上は風が心地よかった。
もうずっと勉強ばかりでいたから、こんなにのんびりとするのは
久しぶりだ。
束の間、頭を真っ白にして休息を取ると、私は一つ大きな息を吐
き、懐から小さいサイズのノートを取り出した。ノートと言っても
A4でもB5でもない、紙の束を紐で束ねただけの粗末なものだ。
私はその見開きの1ページ目に、日本語で﹃恋するパレット∼魔
法の王国∼﹄と綴った。
日本語で書くのは、もしこのノートを誰かに見られても内容を悟
らせないようにするためだ。
もしノートに知り合いの特徴とか家庭環境をメモしているのがば
れたら、身近な人には心配されるだろうしその他には気味悪がられ
るだろう。
そう、私はこの世界の元になっているゲームの内容を思い出すた
めに一人になりたくてここに来たのだ。衝動的に、一人になりたい
と思ったのも本当だが。
ページをめくり、まずは登場人物たちについて個別に綴っていく。
とは言っても、私が転生してから八年と半年程が経過しているの
で、忘れてしまっていることも少なくない。一度はこのゲームから
逃げようと思ったし、それから王都に戻ってきた後も、副団長の従
者やら勉強やらに忙しくて、半ばゲームの事など忘れかけていた。
しかし、王子の学友が攻略対象で占められているとわかれば、そ
ういう訳にもいかない。
彼らは私にとって学友であると同時に、ライバルでもあった。彼
らを蹴落とさなければ王子に近づくことはできない。
そしてその王子自身も、将来主人公と恋に落ちるのかもしれない
と思うと、私は重い気持ちになった。
私はノートに1ページごとに、攻略対象の名前と基本的なプロフ
ィールを綴った。主人公について、王子について、それにシリウス、
214
アラン、ミハイル、ベサミ、ルシアン、レヴィについて、そしても
ちろん私の事も。
ゲーム上のプロフィールで、思いつく限りのことを書いた。彼ら
のシナリオをプレイする上で明かされる秘密や、各人が抱えている
筈の問題などもそこに詳しく書き込む。
正直、顔見知りの人間が他人に隠しておきたいと思っていること
を明文化するのは、たとえこのノートを人に見せるわけではないと
わかっていても気が滅入った。
そして全員のゲーム上のプロフィールを書き終えると、今度はそ
の下に一行空けて、この世界にきて初めて知ったことやゲームの設
定とは違ってしまったことなどについてページの空白に書き入れて
いく。
ゲーム上では全く捕捉されていなかった悪役である私の詳しい事
情や、他にも王子やミハイル、シリウスなどのゲームでは知りえな
かった細かい情報に至るまで。アラン、ベサミ、ルシアン、レヴィ
についてはまだ知らないことも多いが、彼らについてはその実家に
ついて知っていることを追記していく。
他にも、出来れば思い出したくなかったゲームのストーリーにつ
いても私は記憶を遡った。
この﹃恋するパレット∼魔法の王国∼﹄略して恋パレは、魔導学
園に入学した主人公が魔法石の研究に励みつつ、攻略対象たちとい
くつものイベントをクリアすることで愛情や友情を深めていく恋愛
シミュレーションゲームだ。ちなみにタイトルに入っている﹃パレ
ット﹄というのは、主人公が魔法石を生成する際に使う魔導技師用
のパレットに由来している。
主人公が魔法石にどんな魔導を込めるかは、ゲーム画面上にタッ
チペンで描いたペンタクルによって決定されていた。よって、私も
この世界に初めて来た時にいくつものペンタクルを覚えていたわけ
だ。
恋パレはそういったやりこみ要素が女性だけでなく男性にも受け
215
た人気ゲームだったが、このゲームには実は、そういう一般のファ
ンにはあまり知られていないいわくがあった。
もともと、恋パレは無名の同人サークルが製作し、じわじわと人
気に火が付いたゲームだった。しかしその頃はやりこみ要素のない、
至って普通の単純なノベルゲームだったと聞いている。
もちろん、私は比較的ライトなファンなのでそのゲームを実際に
プレイしたことはない。現在その初期のゲームは販売が終了してい
るし、中古でもプレミア価格となっているため、やりたくてもでき
なかったというのが実情だが。
なのでディープなプレイヤーのブログや某有名掲示板から得た知
識に過ぎないのだが、この初期の恋パレは別名﹃ヤンデレ矯正ゲー
ム﹄と呼ばれていた。
というのも、初期の恋パレは魔法石生成などのシミュレーション
ゲーム的な要素が薄く、むしろファンタジー世界のイケメンと付き
合い、やがてヤンデレ化した彼らに如何に問題を起こさせずに学園
を卒業することができるかという、メインストリームをちょっと︵
かなり︶ハズしたストーリーに主軸が置かれていたのだ。
しかも、個々のストーリーは短いがエンディングの種類はそれこ
そ無数にあったらしく、当時は﹃絶対に商業化できないゲーム﹄と
して名を馳せていたらしい。
そんなゲームがほぼファンタジーアドベンチャーとして大手ゲー
ム機に移植までされたのは皮肉だが、私は移植された後のファンな
のでなんとも言いようがない。
ただし、この攻略対象キャラが必ずヤンデレ化するというのは聞
き捨てならない、と思う。
ならば、魔導学園に入学してきた主人公と恋仲になった人物は、
もしかしたらヤンデレになってしまう可能性があるからだ。
聞いた話では、王子が主人公可愛さに婚約者を陰湿な方法で学園
から追い出したり、シリウスが幼いころから可愛がっていたリシェ
ール︵※私︶を殺してしまうENDまであったらしい。
216
一体全体、どうしてそんなゲーム作ったんだろうか。あの会社の
初期メンバーは⋮。
私は初期の恋パレに関する情報を、うんざりとしながら書き加え
ていった。
217
64 もう誓う言葉もない
思いつく限りの内容を書き加え、私はその冊子をぱたりと閉じた。
気づけば日はかなり傾いており、草原は西日に照らされ肌寒い風
が吹いている。
私は冊子を再び懐にしまうと、可能な限り丸まって体温を逃がさ
ないように努めた。
冬に向かう黒月の太陽は足が速い。
みるみる地平へと呑みこまれていくそれを見ながら、私はヴィサ
くんを呼ばなくてはと思いつつ、その時を先延ばしにしていた。
日本にいた頃は、私はそれなりの田舎に暮らしていたけれど見渡
す限りの草原なんて見たことがなかった。
今私がいる場所は背の低い草が延々と遠くまで生い茂り、所々に
コスモスに似た花が揺れている。
夕日に照らされた世界は美しかった。
GodRayエフェクトではない生身の自然が、胸の奥にまで迫
ってくる。
私は陳腐な表現だが胸がいっぱいになってしまって、少しでもそ
れを軽くしたくて重いため息をついた。
考えをまとめるために改めてゲームの内容を思い返してみると、
この世界は確かに私の知っているゲームの世界の筈なのに、ゲーム
には出てこなかった複雑な内政事情や、ゲームには出てこない人々
の営み、広大すぎてまだ知識でしかない外の国々のこと等、いくら
前世でゲームをプレイしたと言っても知らないことが沢山あった。
ゲームの世界では、全年齢対象ソフトなだけあって過激なシーン
などはなかったけれど、この世界の人々は実際に生きていて、病ん
だり死んだり傷つけあったりすることができる。
218
血にも禁止用語にも一切規制のない、ここは生身の世界だ。
私は自分の柔らかい二の腕を強く握った。
こんな世界で私はちっぽけで、王子のためなんて言って結局何が
できるのだろう。
普段は押し込めている、不安の虫が騒ぎ出す。
この半年の間、私の必死な思いを容易く打ち砕くものがあった。
それは学友たちの冷たい視線でも、王城内での差別でもない。
そんなもの、関係ないと切り捨てればよかったもの。
今までのように前だけを見て、王子の傍に辿り着くのだと必死で
いれば、私はそれだけで前に進めたのだ。例えそれがつらくとも、
いくらでも歯を食いしばることができた。
でも、だけど。
私の心を折ったのは誰でもない、王子その人の無関心だった。
王子はもう私のことなど知らないのだと、そう覚悟して受けた学
友の話だったのに。
王子は一度も私を顧みたりしなかった、私だけじゃなく、学友た
ちの誰も必要以上には近づけようとしなかった。
冷たい、どこまでも高貴で冷たいその横顔。
覚えていてもらえなくてもいいと、覚悟していたはずだった。
なのに、たった半年足らずで私の心は悲鳴を上げたのだ。
一日また一日と、王子との綺麗な思い出を現在の王子の冷たい眼
差しが塗りつぶしていくようで。
そんなことを思いたくはないのに、そんな考え方はしたくないの
に。
なんのために今まで、必死で王子の許へ辿り着こうとしていたの
か、と。
私は弱い自分が嫌だった。弱い自分では誰も守れないし、誰も救
えないから。
だから自分を救ってくれた王子を、守るために強くなろうと誓っ
219
た。そのためなら何も厭わないと思った。
でも私はやっぱり、あの頃の弱い自分のままだ。
誰も救えない、母が死んでいくのをただ見ているしかなかった、
あの頃の私のままだった。
八歳の小さな体が、夜の風に当たってがたがたと震えている。
気付けば日は暮れていた。
後はただ黒く塗りつぶされた世界に、数えきれないだけの星と、
日本よりも大きな兎も蟹も蛙もいない、卵のようにつるりとした月
が昇った。光の粒子は消え失せ、風の粒子が静かに残る。私はどこ
までも一人だった。
こんな時、日本だったら青星がいてくれたのに。
私は手のそばにあった草の先っぽをぶちっと千切った。
胃の弱かった青星は、散歩に連れ出すとよく先の尖った葉っぱを
食べていた。
最初に葉っぱと一緒に泡を吐いた時は、眠れないぐらい心配した
っけ。
私はもう会うことのできない愛犬のことを思い出して小さく笑っ
た。
泣きたくなるといつも、私は青星を連れて遠くの公園まで出かけ
て行った。
そして家族にも友達にも言えない悩みを打ち明けては、いつまで
もぐずぐずと泣いていた。
青星はなにもわからないような顔で首を傾げていたけれど、たま
に慰めるように手をなめてくれた。
そのざらざらとしたくすぐったい体温に、私は何度も慰められた。
でもここには青星はいない。
私を慰めてくれる小さな体温がいない。
声を押し殺して泣きながら、私は歯を食いしばった。
王子の力になりたいと戻ってきたけれど、私は本当にこのまま王
220
都に残るべきなのだろうか?
もし魔導学園に入れば、王子やシリウス、ミハイル達と親しくす
る女の子のことを横で見ていなきゃならないんだ。いつまでも王子
には顧みてもらえない男のような私のままで。
そんなの、本当に耐えられるんだろうか。そして本当に、それに
耐えてまで王都に残る必要なんてあるんだろうか? 他に行くあてもないのに、私は無性に帰りたいと思った。
叶うなら、この世界ではない場所。本当の家族がいる日本のあの
温かい家まで。
ほんと、泣き虫で嫌になる。
すんすんと鼻を啜っていると、近くでガサリと草を踏む音がした。
ヴィサくんが迎えに来たのかと振り向くと、そこに立っていたの
は明らかに人型の黒い影だった。
﹁まさか、こんな所でお目にかかるとはね﹂
呆れたような、そして笑う様な気軽な口調で言ったのは、忘れも
しない、内乱を煽動した罪で幽閉されているはずの、クェーサー・
アドラスティアだった。
221
65 暗黒からの使者
以前は苦笑としか映らなかった笑みも、今では不敵なものに思え
る。
二年経ってもちっとも変わらない童顔気味の顔に浮かぶ笑みに、
ぞわりと鳥肌が立った。
彼と再会して初めて、私は彼の事を故意に忘れようとしていた自
分に気が付いた。
彼にはいろいろと酷いことも言われたが、私には未だに勤め先で
よくしてくれた先輩としての顔が忘れられずにいるようだった。
足に力が入らず、立ち上がることもできない。
私は逃げるという選択肢も、助けを呼ぶという選択肢も選べずに
そこに座り込んだままだった。
﹁ふふふ。本当に君は、タイミングが悪い﹂
そう言いながら、クェーサーはばさりと右手を払った。
ぴちゃんと粘つく水音と、不快な鉄の臭いが一瞬鼻につく。
﹁何を⋮﹂
恐ろしくて、その先を問うことが出来なかった。
彼はいつ脱獄したのだろうか?
今日?それとももっと前に?
彼に幽閉による疲れは見当たらなかった。
ただ全身黒い衣服にくるまれて、白い顔だけがその場に浮かんで
いるようだった。
﹁見られたからには、うちに帰す訳にはいかないな﹂
222
﹁!﹂
﹁なんて、この間読んだ小説に書いてあったんだけど、実際に使う
となるとどうもイマイチだな﹂
おどけた様子のその人から、ずりずりと私は少しだけ後ずさる。
﹁どうして⋮﹂
喉が渇いて、それ以上の言葉が続かない。
﹁どうしてここにいるかって?何も聞いてないのかい?それはおめ
でたいね﹂
楽しそうに、軽やかに彼は私を侮辱する。
こんな人ではなかったのに。いや、こちらが本性なのだろうが。
﹁言っておくけど、今君をここで簡単に殺してもつまらないからね。
なにもしないよ﹂
そう言った彼の周囲に、ぞわぞわと凝った何かが湧き上がった。
濃密な闇の魔法粒子に、思わず息を止める。
それは夜の闇の中にあってすら鮮明なほどに濃く、そして感情を
持つ雲の様に活発に動いている。
﹁今夜はこいつらも機嫌がいいんだ。もちろん、俺もね﹂
﹁一体何を⋮﹂
223
考えることを拒否していた私の思考回路が、やっと彼の纏う鉄の
においが血のにおいであることに気付く。
多分私は、それを気付きたくなくて現実を直視することから逃げ
ていたのだ。
﹁哀れな君に、一つだけいいことを教えてあげよう。王都は近く酷
いことになるよ。沈む船から初めに逃げるのは鼠だ。君も浅ましく
その列に加わるといい!﹂
﹁なッ!﹂
私が聞き返そうとするのも構わず、彼はそのまま闇に呑み込まれ
て消えてしまった。
びょうびょうと風の音が耳に戻ってくる。
辺りを見回してもただ平穏な夜が横たわるばかりで、先ほどの出
来事が夢ではないと否定してくれる要素が何一つ見当たらない。
私は恐る恐る立ち上がり、空に浮かぶ月を見上げた。
私はガタガタと震えながら、しばらくその場で立ち尽くしていた。
***
﹁なぜだ⋮なぜだなぜだ!﹂
闇の中に、血反吐を吐くような叫びが起こる。
あわてて部屋に明かりが灯され、控えていた不寝番の侍従たちが
わらわらと部屋に入ってきた。
﹁陛下!お気を確かに!﹂
224
錯乱した様子の王を、彼らは必死で抑えつけた。
しかし玉体を傷つけるわけにはいかず、彼らは四苦八苦している。
振られた袖に弾かれ、強かに腰を打ち付ける者もいた。
﹁シリウスを呼べ!ベサミもだ!私の時間を巻き戻してくれ!ああ、
なぜ私なのだ!なぜ!﹂
怒りのような嘆きのような声音に、弾かれたように一人の侍従が
部屋を走り出る。
他の者達は王の混乱を鎮めようと、水差しを運んだり侍医を呼ん
だりと忙しい。
大勢の人に囲まれ、巨大なベッドの上でのた打ち回る王に、その
場にいた誰もが王国の行く末に不安を抱いた。
月は陰り、風がびょうびょうと吹いている。
黒月の名前そのままに、再び厳しい冬がこの国に戻ろうとしてい
た。
225
66 あの人は今
王が寝付いた後、王宮には再び深夜の静寂が戻った。
そこは王の寝室からは遠い魔法省長官の執務室だ。
魔導によって生み出されたぼんやりとした光に、二人の男が浮か
び上がっていた。
﹁あんのジジィ!いくら説得しても聞きやしない﹂
顔に似合わない汚い言葉を吐き捨てたのは、紫の巻き毛の麗しい
青年だった。
﹁ベサミ、口を謹め。あれでもまだこの国の王だ﹂
﹁はん、人間界の地位に一番頓着してないやつに言われたくないね。
孤高のエルフさま﹂
﹁⋮私に八つ当たりをしてこの件が解決するなら、いくらでも好き
にしてくれていいのだがな﹂
シリウスが溜息と共につぶやいた言葉に、ベサミは不機嫌そうに
黙り込んだ。
二人は現在、己の時間を巻き戻せという王の繰り返される要求に
辟易していた。
もう何度も、それは不可能だと説明しているのに、全知全能のエ
ルフに何を不可能があろうかと、王は聞き入れたがらない。
﹁こんなことなら王子にもあの術は使うべきじゃなかった。あんた
のせいだぞ﹂
226
ときがえ
王子に時の精霊のみが行使することのできる時返りの術を掛けた
のは、王宮内で内乱がおき掛けた時に、反乱軍に王子の無事な姿を
ときがえ
見せるための苦肉の策だった。
しかし簡単に時返りの術とは言っても、世界の時間に働きかける
のだからそう安易なものではない。
強い術にはリスクが付き物だ。
特にそれが自然の流れに逆らうものであれば、抵抗も激しくなる。
﹁大体あの術は、時の精霊の中でも禁呪なんだよ。本来なら、人に
知られるのなんて以ての外だった。それをあんたが⋮﹂
ベサミの恨みがましい視線を、シリウスは軽く無視した。
﹁恨むのなら、己の迂闊さを恨め。お前にはルイを殺しかけた責任
を取ってもらうと言っただろう﹂
﹁まったく、割に合わないよ。ちょっとした悪戯心と、国の大事を
天秤に掛けられたんじゃ﹂
﹁ちょっとした悪戯心で、ルイは死にかけたんだぞ﹂
絶対零度だったシリウスの目に、険しいものが宿る。
力量では圧倒的に劣っているベサミは、つまらなそうにソファに
腰かけた。
﹁それで、対策はあるのか?﹂
﹁今は、ない。王の不調は、ただの体調不良というには不可解な点
が多すぎる。こちらは私が抑えるから、お前は王子の安全確保に努
227
めてくれ﹂
﹁はん!一度の過ちで随分とこき使ってくださること﹂
﹁そのつまらない口を閉じろ。嫌ならば人間界は捨てて精霊界にで
も戻るんだな。それが出来ればの話だが﹂
シリウスの最後の言葉に、ベサミは闇の中で目を光らせた。
彼の態度からふざけた様子は消え、ただ精巧な人形のように、そ
の顔からは表情が抜け落ちる。
彼は黙って部屋から出ると、叩きつけるように扉から外へ出て行
った。
シリウスは何事もなかったように、机の上に広げられた書類に意
識を戻した。
***
結局、昨日はあの後、焦れたヴィサくんが迎えに来て、なかなか
迎えを呼ばなかったことについて私はねちねち怒られたのだった。
家に帰ると今度は、帰りが遅いとゲイルやミーシャにも心配かけ
まくりの怒られ放題だった。
私はただただ小さくなって、今度は二人に只管に詫びを入れなけ
ればならなかった。
心配だったから怒っているのだと涙ながらに言われれば、誠心誠
意反省するより他にない。
昨日の晩はそんなこんなで疲れ果てて眠ってしまったので、今思
い返してみるとクェーサーと会ったのは夢の中の出来事だったよう
にも思える。
228
だけど、あの鮮明な血の匂いが記憶にこびり付いて、そんな楽観
的な考えに寄りかかることはできなかった。
私はどうにか王宮に出仕したが、学習室に向かう気にもならず、
騎士団へ向かう道をで朝からうろうろと頭を抱えていた。
こんな時は、昨日の出来事を相談できる冷静で頼りになる大人が
必要だ。
しかし私の知り合いの中でその条件に該当する人間は、残念なが
ら一人しかいない。
一瞬ミハイルに相談しようかとも思ったが、クェーサーは闇の精
霊使いだ。不用意に知らせては、後々彼に危害が及ぶかもしれない。
という訳で私は現在、その唯一頼りになる大人を探して王城内を
彷徨っていた。
あの内乱騒動の後彼がどうなったのか私は知らないが、恐らく未
だに騎士団に所属しているはずだ。
しかしあの騒ぎがあってから騎士団のセキュリティは厳しくなっ
ており、私が入れるのは寮の厨房ぐらいだ。
本部にいるはずのあの人に会うには一体どうしたものかと、私は
頭を悩ませていた。
﹃リルーいつまでここでうろうろしてるんだ?﹄
空中でふよふよしているヴィサくんが、退屈そうに欠伸をした。
﹁うーん、退屈だったら遊びに行っていいよ、ヴィサくん﹂
﹃いや!リルは俺が守るんだ!ずっと一緒にいる!﹄
途端、きりっとしたヴィサくんだったが、またしばらくすると今
度は転寝をし始めた。もちろん空中でである。これって放っておい
たら風に流されたりするんだろうかと、私は頭の片隅で考えた。風
229
に流されてしまったら、後で探すのが大変だ、とも。
﹁あ﹂
ぽむと、私は思わず古典的に手を打ってしまった。
そう言えば、こんな時に便利な魔導があった。確か。
私は必死で記憶を遡る。
あれは確か⋮闇の属性の⋮。
私は建物の影まで来ると、そこにしゃがみ込んだ。
そしてその影の中に闇の魔法粒子があることを確認して、それが
指先に集まるようイメージをする。
負担を少なくするために地面の土に描いたのは、﹃探索﹄という
︵ゲームの中では︶初歩のペンタクルだ。期待した通り、脳裏にダ
ンジョンのようなマップが浮かんだ。
それは、王城内の行った事のある所だけが鮮明に描かれた地図だ
った。
その中に、大きな八つの丸が浮かんでいる。
色とりどりのそれらの丸は、それぞれに移動したり、その場に留
まったりしていた。
私はその中で、黒く塗りつぶされた丸を探す。
その丸は移動中のようで、地図の上を滑るように移動していた。
﹁えーと、これが図書館でこれが中庭だから⋮え?﹂
その丸が丁度私の近くを通り過ぎようとしていることに気付き、
私は慌てて目を見開いた。
きょろきょろと周囲を見回すと、幾人かのメイドがきゃぴきゃぴ
︵死語︶しながら私の横を通り過ぎて行った。
﹁近衛隊長様が見られるなんて今日はラッキー!﹂
230
﹁救国の騎士様ですものね。素敵だわ∼﹂
近衛隊長?救国の騎士?
正直、耳慣れない単語ばかりで首を傾げる。
いや、﹃騎士﹄という部分だけは彼に当てはまっているかもしれ
ないが⋮。
彼女たちが向かった方に意識を向けていると、しばらくして対岸
の建物から黒づくめの男が中庭に出てきた。
彼は裏庭の回廊を渡ってこちらに近づいてくる。
私は逃げるでもなく、頭を下げるでもなく、立ち止まったままぽ
かんと彼を見上げていた。
ぐんぐん近づくほど、彼がこの国の男性の平均身長を軽く上回る
ほど長身であることが分かる。
この国には珍しい、私と同じ黒い髪と、知的そうな眼鏡。
マントはしていないし、騎士団の制服も来ていないが、その人は
間違いなく、私の探し人その人だった。
﹁⋮⋮そんなところで、なぜ口を開けている?ルイ﹂
二年半ぶりの再会は、探していた理由が深刻である割にひどく間
抜けなものになった。
﹁カノープス⋮様?﹂
231
67 今は隊長様ですか?
﹁それで、お前があそこに蹲っていた理由を聞かせてもらおうか?﹂
白と青の、戦う為と言うよりは見た目重視の制服を纏った近衛兵
にお茶を出され、私は面食らう。
久しぶりに会ったカノープス様はと言えば、相変わらずの威圧感
をお持ちだ。
﹁えーと⋮ですね。実はカノープス様にご相談したいことがありま
して﹂
﹁相談?﹂
重厚な執務用のデスクの傍らで、書類を片手に難しい顔をしてい
た副団長が顔を上げる。
あ、今は副団長じゃないんだった。
彼は私にお茶を出してくれた近衛兵︱︱︱流石審査基準に容姿も
含まれるだけあって、テライケメン︱︱︱を、視線で退席させ、私
の向かいのソファに腰を下ろした。
﹁えーと⋮﹂
とはいえ、なんと説明していいものか悩む。
それに、この話をヴィサ君の前でするのも、気が引けた。
私が出だしの言葉を見つけられずにいると、すぐさま忍耐が切れ
たのかカノープス様は溜息をついた。そして、わかるかわからない
かぐらいの微かさで、ちょこっと笑う。
232
﹁体は大きくなった割に、お前は相変わらずだな。息災か?﹂
キュン。
は!いやいや違った。
﹁カノープス様も、お変わりなく⋮ですか?えーっと、近衛隊に移
籍なさったんですか?それに救国の騎士って⋮?﹂
なんとなく緊張が途切れてしまったので、私はさっき引っかかっ
たことをおもむろに聞いてみた。
するとカノープス様の目が急にマジになった。
﹁その救国の騎士とやらは今すぐ忘れろ。いいな?﹂
﹁は、はい⋮。それで近衛隊長というのは?﹂
なかなか見れないカノープス様の剣幕に、私は肯くより他になか
った。とりあえず、よりソフトそうな話題の方を振ってみる。
するとカノープス様は今度は遠い目をした。
こんなに感情表現豊かな人だったっけかな?
﹁これは⋮団長の面倒事を押し付けられた﹂
憮然としたカノープス様に、思わず私は聞き返す。
﹁面倒事、ですか?﹂
﹁団長はクェーサーを警戒しているのだ。だから私に王をお傍で護
る様にと﹂
233
私はまさしく相談しようとしていた人物の名前に、ビクリと反応
してしまった。
﹁やつが脱獄して一年。今のところは大人しくしているようだが、
あいつはこの国を恨んでいる。このまま大人しくしているとも思え
ん﹂
﹃へ!あの時残らず始末しておくんだったぜ﹄
ヴィサ君が忌々しそうに吐き捨てた。
私は、クェーサーが一年も前に脱獄していたのかと寒気がした。
そしてそれを今日まで知らなかったのは、私が子供だからだ。子
供だから大人たちに重要なことが隠される。歯噛みしたくなる衝動
をどうにか堪えた。
隠されたのは仕方ない。理性ではわかっていても、なぜ誰も教え
てくれなかったのかと言う苛立ちが募った。そして今日までのうの
うと暮らしてきてしまった自分に、吐き気がした。
すべて、どうしようもないことだ。過ぎ去った過去は戻らない。
今が無事ならそれでいいと思うより他にないだろう。
私は何とか感情のスイッチを切り替え、目の前の男に問いかけた。
﹁⋮カノープス様、昨日王宮内で、なにか事件はありませんでした
か?﹂
深刻な顔をしているだろう私の問いかけに、カノープス様はよう
やく無表情を取り戻した。
﹁いや、特に報告は受けていないが⋮何かあったか?﹂
234
﹁昨夜、私は王都城壁外の郊外で、クェーサーに会いました⋮﹂
﹃何だと!?﹄
カノープス様は黙り込み、ヴィサ君が吠えた。
﹃どうして言わなかったんだ、リル!﹄
詰め寄ってきたヴィサ君から、私は視線を落とす。
﹁だって⋮言ったらヴィサ君心配するでしょう?﹂
﹃当たり前だろ!﹄
怒鳴りつけられ、私は肩を落とした。
隠し通せるつもりでいた訳ではないが、やはり愛犬︵愛シーサー
?︶に怒られると地味に堪える。
﹁それで、やつはなんと?﹂
﹁⋮﹃王都は近く酷いことになる﹄と。闇の精霊達も興奮している
様子で、それに血の臭いがしました﹂
カノープス様は表情こそ変えなかったが考え込むように黙り込ん
だ。
ヴィサ君はまるで目に前に敵がいるように毛を逆立てている。
﹁不穏だな。あいつには主計官殿や騎士の他にも余罪がいくつかあ
る﹂
235
﹁余罪ですか?﹂
・・・・
・・・・・・
・・・・
﹁ああ、のちの調べで分かったことだが、二年前に王都で人の手に
よるものとは思えない殺人事件が数件起こっていた。全てとは言わ
ないが、その内いくつかは奴の仕業だろう﹂
﹁そんな⋮﹂
私は言葉を失った。
あの、職場で困ったように笑っていた彼は、裏では精霊を使って
頻繁に殺人を行っていたという事実が、今更ながらに私を痛めつけ
た。もう、何もかも踏ん切りをつけたと思っていたのに﹂
﹁とにかく、その件に関してはこちらで調査する。ルイは必要以上
に関わらないようにしろ。精霊、お前の主人をしっかりと守れ﹂
﹁はッ!エルフの若造に言われなくても!﹂
やはり私は、護られる側にしかなれないのか。
少し体を鍛えたからと言って、8歳の子供が戦闘に関して何かの
役に立てるはずがない。
その現実にどうにか心を沿わせようと苦心しながら、私は沸き起
こる無力感と戦うのに必死だった。
こんなことで拗ねてもしょうがない。
私は私で、戦うフィールドは他にあるはずだ。
﹁それと、もう一つ気になることが⋮﹂
深刻な顔で切り出した私に、一人と一匹は揃ってなんだ?という
顔をした。
236
私がここで、これを誰かに言うのは、ルール違反かもしれない。
ゲームの未来を知っているからと言って、私にその他人の未来に
手出しする権利があるのだろうか?
そんな悩みを振り切るように、私は勢いよく言った。
﹁王太子の学友の中に、その姓と名を偽っている者がいます﹂
237
68 持てる者と持たざる者
学習室にほど近い回廊を歩いていると、目的の人物を見つけた。
彼は人気のない裏庭に置かれた夜の恋人達の為のベンチで、ぼん
やりと座り込んでいた。
特に彼とは接点のない私だが、気付いたからには、黙ってもいら
れない。
私はできるだけさり気ない風を装い、彼の隣に座った。
﹁ルイ・ステイシー?﹂
一応問いかけはしたが、どうでもいいという表情を隠しもしない
・ ・ ・
彼こそ、将来この国の宰相を担うはずのルシアン・マクレーン。そ
の名前の、現在の持ち主だった。
隣に座ったはいいが、私はなんと切り出せばいいのか悩む。
そして口から零れたのは、酷く陳腐な挨拶だった。
﹁ご機嫌いかが?ルシアン﹂
ルシアンは不可解そうに︵或いは眠そうに︶眉を顰めた後、億劫
そうに口を開いた。
﹁別に﹂
なんだ。お前は某有名女優か?
﹁寛いでいた所、すまないな﹂
﹁いや、問題ない﹂
238
言葉少なだが、特に不機嫌な訳ではないらしい。
どちらかというと、人間関係そのものが得意ではないようだ。
その性格も、そして顔の雰囲気も、私の記憶にあるルシアン・マ
クレーンとは違っていた。
同じなのは赤茶の髪と新緑の瞳、それだけだ。
最初、彼が攻略対象だと気付けなかったのも、このせいだ。
ゲームの中で、彼は胡散臭く笑う策略家タイプだった。
今の彼に、その片鱗は全くない。
今まで王子ばかりに意識がいっていて深く考えることもしなかっ
たが、先日ゲームについての知識を改めてまとめた事で、私には新
たに思い出したことがあった。
例の初期のゲーム設定。それを噂で聞いたところによると彼は︱
︱︱⋮⋮。
﹁君は、逃げる気はないのか?﹂
そう呟きながら、私はようやく表情らしい表情を取り戻した彼の
腕を掴んだ。
そしてその裾をまくりあげる。
暑くなりつつあるこの季節に、彼が厚ぼったい服を着ている理由
がそこにはあった。
無数の打撲根と、何かを押し付けられたような火傷の後。
ご丁寧に服で隠れる場所にばかり。
私は込み上げてきた怒りと吐き気をどうにかやり過ごした。
そしてぞっとする。
彼の運命は、きっと私の運命だった。
﹁こんな⋮酷い⋮﹂
239
半ば無意識に、私は光の魔導粒子を手に集め、傷に直接は触れな
いようにしながら、彼の腕を何度かさすった。
ルシアンの目は驚きに見開かれている。
子供の柔らかい肌に刻まれた傷が少し薄くなったところで、私は
手を止めた。
﹁逃げるのならば、力を貸す﹂
彼に近づくまで、こんなことを言うつもりはなかった。
そこまでゲームのストーリーに介入していいのか、正直私には迷
いがあった。
でもまだ小学校も卒業していないような少年が、こんな傷や痛み
に無関心になるくらい虐げられているだろう環境にいるのに、放っ
ておくことなんてどうしてもできなかった。
﹃へっ、人間の貴族ってやつは、獣よりよっぽど野蛮だな﹄
ヴィサ君が吐きすてる。
普段なら言葉遣いが悪いと叱るところだが、その言葉には私も全
面的に同意だった。
﹁お前は⋮一体?﹂
ルシアンが、何か眩しいものでも見るかのように目を眇めた。
その表情には、彼の普段凍てついた顔の裏に隠された、年相応の
幼さが滲んでいた。
***
240
彼としばらく話した後、私はその場を立ち去る時に、予想外の人
物に出会った。
私たちからは見えなかった壁にもたれていたのは、兄上だった。
大丈夫。話の内容は人に聞こえないようにヴィサ君に結界を張っ
てもらっていたのだからと、自分に言い聞かせてはいても動揺は抑
えきれない。
私は小さく目礼をして、足早に彼の前を通り過ぎようとした。
しかし。
﹁下民が、点数稼ぎか?﹂
おそらく私に言っているだろう言葉に、足が止まる。
頭上ではヴィサ君の不機嫌そうな唸りが聞こえた。
﹁ルシアンを懐柔しても、お前の益にはならんぞ﹂
﹁⋮何の事を仰っているのか﹂
私の言葉には、隠しようもない険が混じっていた。
それは、恐らくルシアンの傷を見た直後だったせいだ。
私もあのままメリスの家にいれば、遠からず彼と似たような運命
を辿ったかもしれない。
私には無関心だった兄上。義母が何をしようとも、私をゴミを見
るような感情のない目で見ていた。
﹁無駄だぞ。あれになにかを動かせるような権力などない﹂
アランは吐き捨てるように言った。
もう、我慢ができなかった。
241
﹁﹃あれ﹄なんて言うな!!﹂
突然の私の剣幕に、アランは驚いたようだった。普段纏わせてい
る高貴な雰囲気が崩れ、その顔には年相応の驚きの表情が浮かんで
いる。
﹁貴族の、何がそんなに偉い?いい家に生まれたからと言って、な
ぜそんなに人を見下すことが出来る?どうして虫けらのように扱う
んだ。⋮同じ、人間なのに⋮﹂
懇願にも似た私の言葉に、意外にもアランは黙り込んでいた。
普段なら、何倍もの嫌味が返ってくるところだろうに。
﹁⋮失礼﹂
我に返った私は、彼の取り巻きが来ることを恐れて、急いでその
場を離れようとした。
私の腕を掴もうとした腕から、反射的に逃げる。
﹁ッ⋮マクレーンは危険だ!﹂
背中に投げかけられた言葉を、私は無視してその場を去った。
242
69 閑話 メイユーズの蜘蛛
それは、妄執に取り憑かれたある女の物語。
天上にまで届きそうな清らかな讃美歌と、祝いの鐘。人々の喜び
の声。
それはメイユーズ国に、新しい王妃が迎えられた年の事だ。
ルーシーは金の目と豊かな緑の髪を持つ美しい娘だった。
ヘリゼイのように細い腰と、少し厚い甘そうな唇。労働を知らな
い白くすべらかな手。鈴を転がすような愛らしい声音。
名門に生まれた彼女には、婚約者候補がそれこそ山の様にいた。
真面目な男。誠実な男。家格が高い男。王に信頼される有能な男。
誰もかれもが彼女を褒めたたえ、我こそが彼女に相応しいと競い
合った。
しかし内気な彼女は、男性と話すことが苦手だった。
そんなルーシーが、ある一人の男性に恋をする。
彼の名はイアン。
赤茶の髪と、新緑の目を持つ社交界でも名の知れた色男だった。
数々の女と浮名を流す、彼の名に彼女の両親もいい顔はしなかっ
た。
しかし、彼女は初めての恋に夢中になった。
家を飛び出しかねないその真剣さにやがては両親も折れ、ついに
ルーシーは彼と結婚するに至った。
さて、最初の不幸は、なんだったのだろうか。
彼女がより家格の劣る家に嫁いだこと?
243
イアンの家がルーシーの家よりも財産を持たなかったこと?
或いはルーシーが何も知らない少女であったこと?
両親が反対した結婚であったこと?
いいや、そのどれもが当たっているようで、遥かに遠い。
二人を語る上で、最初にこれだけは明記せねばなるまい。
︱︱︱その時すでに、イアンは彼女の事を大いに憎んでいたのだ。
夜会で付き纏ってくる邪魔な蝶。
彼が愛を囁いた花達に、悉く悪意を向ける残忍な心根。その嫉妬
深さ。
尽きることない独占欲と、両親を泣き落としてついには結婚まで
漕ぎ着けた強引さ。
自由恋愛を尊んでいたイアンには、そんな彼女の全てが重荷だっ
た。
だからイアンは、結婚すると殆ど家に寄りつかなくなった。
ルーシーは毎日泣き暮らした。
嫁いだ家で一人ぼっち、誰にも愛されることなく彼女は数年を過
ごした。
貴族達は噂好きだ。
彼らの不仲は既に公然の秘密となっていた。
最初にそれに耐えきれなくなったのは、ルーシーの父親だった。
彼は娘に、夫と離縁して実家に帰ってくるようにと命じた。
このまま不幸な結婚を続けるよりも、子供のいない今ならば離縁
のしようもあると、彼はルーシーの為を思ってそう言ったのだ。
しかしそれはルーシーにとって恐怖の宣告だった。
悲しいことだが、彼女はいまだイアンを深く愛していたのだ。
思いつめた彼女は、イアンが珍しく帰宅した隙を狙って彼に薬を
盛り、遂に契りを交わした。
244
そうして生まれた息子は、イアンの特徴をそっくり受け継いだ愛
のち
らしい男の子だったという。
それから後、イアンはより一層家に寄りつかなくなり、ルーシー
はその悲しさを埋めるように子供を溺愛した。
ルーシーは息子と一緒に家に籠りきりになり、やがては社交界か
らも忘れ去られた。
しかし悲劇は、それだけでは終わらない。
数年のち、雨の降りしきるある夜の事。道の泥濘に車輪を取られ、
一台の馬車が石橋の下へと落ちた。
その馬車にはイアンと、そして彼の愛人が乗っていた。
その出来事は、既に十分打ちのめされていたルーシーを絶望に追
いやるには十分だった。
そうしてすべてに恵まれていた美しい令嬢は、自ら暗い闇の深淵
に身を投じたのだ。
︱︱︱何も知らない、自分の息子を道連れにして。
***
メイユーズのみならず、その周辺の国々も法律で密猟及びその獲
物の売買を禁じているが、それが定められているからと言って、そ
の法の手が大陸の隅々にまで張り巡らされている訳ではない。
何事にも抜け穴があるように、その禁じられた商品を売り買いす
る闇のネットワークというのは、大陸の陰に確実に存在していた。
珍しく採取が禁じられている植物や、狩りの禁じられている希少
な動物。それに妖精や精霊の類。
245
しかし売り買いされる商品の中で、最も業の深いモノ。より深く
まで潜らねば手に入らないモノ。しかしどこでも手に入るモノ。
それは生きた人間だった。
そんな商品を売り買いする商人達の間で、近年まことしやかに囁
かれている噂があるという。
曰く、︱︱︱メイユーズ国の王都に、赤茶髪と黄緑の目の男児を
欲しがるお大尽がいるらしい。十歳ぐらいに見える子供ならば、何
人でも高値で買い取るのだそうだ。だが、決してその主に深く関わ
ってはいけない。一人二人子供を売ったら、後は欲を掻かずにメイ
ユーズから去るべきだ。欲を掻いて長くその地に留まった者が、戻
ってきたことはないという。
その商人たちがどこへ消えたのか。そしてその少年達はどこへ消
えたのか。
詮索してはいけない。我が身が可愛いのならば。生きて帰りたい
と願うのならば。
悪名高きマクレーン伯爵家。
その謎に包まれた未亡人を、彼らは恐れて、“メイユーズの蜘蛛
”と呼んだ。
それは、妄執に取り憑かれたある女の物語。
そして、それに囚われた哀れな少年の物語。
246
70 私の身勝手
ルシアンの傷を見た時、私の背筋には寒気が走った。
それは子供への暴力に対する生理的な嫌悪であり、そしてこの世
界が、初期のゲームの世界であるという確信への恐怖だった。
私がプレイしたゲームでは、ルシアンはただの腹黒宰相だった。
常に笑顔でたまにどす黒い事を言う。敢えて自分が前に出るので
はなく、王子の影として国を支える忠義の臣だった。
そんな彼が主人公にだけ砕けた笑みを見せるところを、私は画面
の前でただニヤニヤしながら見ているだけでよかった。前世では。
でも。
かつて正規で発売されたこともない同人ゲームのストーリーを、
私は知らない。
ただ、聞きかじったことがあるだけだ。
﹃宰相は幼少時に母親に虐待されていたせいで、性格が歪んでしま
った﹄
知っている情報は、それぐらい。
︱︱︱本当は、彼に構っている暇なんてないのかもしれない。
クェーサーの意味深な発言も気になるし、本当は王子を守ること、
自分の目的をかなえることに集中しなければならないのかもしれな
い。
けれどあの傷を見て、表情を失ったあの顔を見て、どうして見て
見ぬふりなんてできただろう。
前世と足したら、三十三歳になっているであろう私だ。
本当なら、人の親でもおかしくない。
だから許せないし、何より彼を救い出したいと思う。たとえそれ
247
が、身の丈を知らない願いでも。
兄上の忠告を無視して、私は急いだ。
従順に命令に従うリシェール・メリスは、もうどこにもいないの
だ。
***
﹁貴族を取り締まる法律がない?﹂
素っ頓狂な私の声を、ミハイルは迷惑そうに聞いていた。
場所はお馴染み騎士団の寮にあるミハイルの部屋だ。
ミハイルは執務用の椅子に、私は一人掛けのソファに体を預けて
いた。
﹁ああ。お前が何をするつもりなのかは知らんが、そんなものはこ
の国にはない。貴族とは民草の手本となる者。つまりは間違いなど
犯さないと言う訳だ﹂
言葉とは裏腹に、皮肉そうにミハイルは言った。
﹁でもその﹃間違い﹄が具体的に何を指すか明らかにされていなけ
れば、貴族はどんな非道な振る舞いをしても許されるということに
なってしまうでしょう?﹂
﹁その通りだよ﹂
﹁そんな!﹂
プライド
﹁だが、貴族というのは何よりも矜持を大切にする生き物だ。だか
248
ら自らの恥になるような事はしないし、弱者博愛の精神で募金や奉
仕活動なども率先して行う事が美徳とされる。実際は金だけばら撒
いて後は知らんふりの輩が多いのが実情だが︱︱︱⋮。つまり、そ
れほど悪さはしていないさ、表向きはな﹂
ミハイルの悪ぶった物言いに、普段ならば声を荒げそうなゲイル
はここにはいない。
こんなことを相談すれば心配をかけるのは目に見えていたので、
今は博識で冷静なミハイルだけの意見を聞きたかった。
﹁しかし裏では、どんな悪事に手を染めてても不思議じゃない。貴
族社会ってのはほんと、魑魅魍魎の世界だからな﹂
伯爵家の末子であるミハイルの顔には、明確な蔑みの色が見て取
れた。
﹁ミハイル⋮。もうちょっと言動に気をつけないと、その魑魅魍魎
に足を引っ張られても知らないよ?﹂
﹁バッ、俺はお前に聞かれたからだな!﹂
っと、年上を茶化して遊んでいる場合ではなく。
﹁じゃあ貴族が何をしていようと、誰も咎められないんだね?﹂
﹁うーん、対外的にはそういうことにはなっているが、さすがに全
くの野放図ではない。貴族の儀礼を定めた﹃貴族憲章﹄によると、
﹃天に恥ずべき行為は改めよ﹄とある。この﹃天に恥ずべき行為﹄
への解釈は学者によっても様々で⋮﹂
249
﹁あー、今はそういうのいいから!そういうことじゃなくて﹂
﹁そういうのってお前な。俺は仮にもお前の専属教師だぞ﹂
最初は嫌々だったくせに、自ら専属教師を名乗ってくれるとは。
なんて感慨はさておき。
﹁とにかく、貴族が例えば子供に暴力を振るったとして、それをや
めさせることはできないの!?﹂
苛立った私の様子に、ミハイルは口を噤んだ。
﹁なんだ?また余計なことに首を突っ込むつもりか?﹂
﹁別に。教え子の質問には的確に答えて。それが教師の役目でしょ
う?﹂
自棄になった私の物言いに、ミハイルは鼻を鳴らした。
﹁二年前を忘れたか?お前は本当に俺達に迷惑と心配をかけるのが
得意だな﹂
痛いところを突かれて、私は黙り込む。
私を引き取ってくれたゲイルとミーシャに、心労を掛けたことな
んて百も分かってるさ。
でもだからって、親に暴力を振るわれている子供を放っておけと
言うのか。
実の親に否定される、その苦しさは、その孤独は、痛いほど分か
るというのに。
私には愛してくれる母との思い出があった。ヴィサ君、シリウス
250
が傍にいてくれた。
けれどルシアンには誰もいないのだ。
あの表情を殺した子供を、私は見捨てることなどできなかった。
﹁⋮本当に迷惑になるようだったら、親子の縁を切ってでも、私は
その子供を助ける!﹂
﹁⋮ッ!﹂
﹃オイッ!﹄
まさしく衝動的にという動きで、ミハイルが私に覆いかぶさって
きた。
私は驚きで体が竦んでしまう。
ヴィサ君は驚きつつも成り行きを見守っているようだった。
合わせられた金の目が灯りで揺れる。
﹁お前は⋮迷惑だから俺達がお前を縛っているとでも思っているの
か!!
どうしていつも、自分だけでどうにかしようとする?どうして俺
達を頼らない!なぜ平気な振りをして、どうして率先して矢面に立
とうとするんだ!まだお前は八歳の子供なんだぞ!?﹂
ミハイルの部屋にヴィサ君の消音魔導が生きていてよかった。
咄嗟にそう思うほど、ミハイルの声は大きく、そして常にない感
情の色が乗せられていた。
﹁ミハ⋮イル?﹂
私の掠れた呟きに、ミハイルは我に返ったように体を起こした。
251
そして私が体を起こす所を、その場で気まり悪げに見ていた。
﹁あ⋮、どこか痛めたところは?﹂
﹁ううん。大丈夫。ミハイル⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁ごめん⋮﹂
﹁いいや⋮とにかく、何があったのか話せ。そして何かするなら必
ず俺達に報告しろ。お前はもう、一人だった頃のお前じゃないんだ
から﹂
ミハイルは赤い綺麗な髪をガシガシと掻いた。
ゲームの中ではひたすらに俺様で変わり者で、けれど主人公より
十も年上で余裕のある圧倒的な大人だと思っていた。
けれどそれは、あくまで十年後の彼であって、今のミハイルはそ
うじゃない。
今まで何年も彼の近くにいたのに、彼の本質に今日初めて触れた
気がした。
部屋にはまだ火の粒子が余韻のように立ち上っている。
抑えつけられた肩が、未だに熱い。
252
70 私の身勝手︵後書き︶
キャラクター人気投票はじめました。お暇な方にはご協力いただけ
るとありがたいです。目次画面のアルファポリスロゴの上にありま
す
253
71 昼下がりの庭
何もしてあげられないのに見て見ぬ振りもできないのは。
例えば鼻の頭に出来たニキビみたいに、鏡を見るように私に訴え
かけてくるからだろうか?
﹁ルシアン、この問題だけれど⋮﹂
﹁一緒にお昼を食べないか?新しいデザートのレシピが手に入った
んだ﹂
今まで自分の事に必死過ぎて気づかなかったが、無口で異様に頭
がいいルシアンは学習室の中で浮いていた。
そしてルシアンは、いつもそんなことまるで気にならないとでも
いう様に無表情で、それを私はどうしても放っておけなかった。
ルシアンにしてみれば迷惑な話だろうが、彼はいつも特に何も思
わないという顔で、諾々と私の誘いに従った。
そんな私たちを学友の連中はまた悪しざまに噂しているのは知っ
ていたが、そんなこと興味もなかった。
東屋で広げたお手製弁当を、小皿にとって二人でつつく。
ルシアンは小食なのに、私は張り切って作りすぎてしまったよう
だ。
ガリガリに痩せこけたルシアンに少しでも栄養を取って欲しくて、
私は弁当箱の限界に挑戦してしまった。
﹁⋮﹂
254
ルシアンが皿に取り分けられた唐揚げを凝視していた。
見覚えがなくてもしょうがない。
小学生男子の弁当と言えばこれでしょと思いつく限りを詰め込ん
でみたが、よく考えたら私の料理はこちらではその調理法すら未知
なのだった。
﹁大丈夫。害はないよ﹂
それを証明するように、私はその一つを口に入れて嚥下した。
ジワッと下味が効いて美味い。
前日から張り切って準備した甲斐があった。
ちなみにこちらの経験で鳥はオロロン鳥を。下味をつけるのには
酒も醤油もないので苦労したが、大分いい味になっている。
おずおずと、ルシアンもフォークに手を伸ばした。
ルシアンは机に向かう科目は敵なしだが、テーブルマナーや剣技
などの成績は平均以下だ。だから総合点では兄上に負けてしまう。
それが何を意味するのか、私は深く考えないようにしていた。
今にも折れてしまいそうな華奢な体と、まるで後から躾けられた
様なぎこちない礼儀作法。
本当にルシアンは、鏡に映した私自身のようだ。
﹁ここでは見ている人もいないし、自由に食べていいかな?マナー
は僕には窮屈で﹂
そう言って笑いながら、私はお弁当をつつき始めた。
唐揚げを噛み締めながら俯いていたルシアンは小さく肯くと、少
しずつ他の料理にも手を伸ばし始めた。
ルシアンと二人でいると、相手が殆ど喋らないので私ばかりが喋
ることになる。
それでも食事中に口を開いてもいい無礼講の食事は久しぶりだ。
255
東屋にはいつもの様に、ヴィサくんの消音魔導が機能していて盗
み聞きの心配もない。
前世で青星を飼っていた私だから、喋らない相手との会話は大得
意だ。
カウンセリングの真似事などできないと自分でもわかっていたか
ら、話すのは日常のなんてない失敗談ばかりだった。
無表情で機械のように食べるルシアンだが、たまにそれに集中し
すぎて水分を取らないので料理を喉に詰まらせたりする。
それに適度に飲み物を勧めたりしていると、まるで自分が母親に
なったような錯覚を覚える。
︱︱︱実際にはルシアンの方が年上なのだが。
可愛い可愛い、前世での友人の子供たち。
彼らも今頃、ルシアンぐらいの年になっているはずだ。
彼がお茶を飲む姿を見ながら、私はミハイルとの会話を思い出し
ていた。
***
﹁⋮法律はないが、貴族には厳しい掟がある﹂
どこか気まり悪げなミハイルは、再び椅子には座らずこちらに背
を向けて言った。
﹁掟⋮?﹂
﹁ああ。下位の貴族などはこれを恐れて、大きな悪事などは基本的
256
に行わない。この掟こそが貴族の規律を保っていると言っても過言
じゃないな﹂
﹁なに、それ。それを最初に言ってくれれば﹂
﹁お前が途中で余計な茶々を入れたんだろうが。だがそれを行使す
るのは、この場合難しい﹂
ルシアン・マクレーンの名前を聞いた時の、ミハイルの複雑そう
な顔が私に嫌な予感を抱かせた。
あた
﹁その掟とは、﹃己より上位の者には決して逆らってはならない﹄。
マクレーン家は伯爵家だ。俺の家とは同格だから掟には能わない。
それより高位なのは侯爵、公爵、そして王家の方々か⋮﹂
﹁⋮﹂
私の実家は侯爵だが、既に実家と縁は切れているどころか生きて
いることがばれれば殺されそうだ。
あれ、そう言えば今更だが、兄上は義母上に私の事を話していな
いのだろうか?
﹁公爵家は怠惰王の時代に全てが取り潰しとなっていて、現在は空
位だ。つまり伯爵家に物言いが出来るのは侯爵家か王族のみ﹂
余計な事を考えていた私だが、ミハイルの呟きにはっと我に返る。
﹁それにしたって、貴族が他家の事情に口を出すというのはよっぽ
どの事態だぞ。たのんでホイホイとしてもらえるようなことじゃな
い﹂
257
﹁そう⋮﹂
私の隠しきれなかった失望の声に思うところあったのか、ミハイ
ルはこちらを向いた。
﹁とにかく、俺もできる限り調べてみから、お前は今は大人しくし
ていろ。派手に行動してメリスの家にに目をつけられたくはないだ
ろう?﹂
言い聞かせる様なミハイルの目があまりにも真剣だったので、私
は既に習い性になっている口応えを止めて力なく肯いたのだった。
***
思考に耽っていて黙り込んだ私を、ルシアンがじっと見ていた。
その感情のこもらない目線に気付き、私は慌てて立ち上がる。
﹁ああ、ぼうっとしてしまった。失礼﹂
場を取り繕う様に笑った私に、ルシアンの口元が、わずかに上が
った。
﹁わ⋮わらった⋮﹂
﹁?﹂
﹁いや、なんでもない!さあて、僕の帰りの荷物を減らすのに協力
258
してくれよ。ルシアン﹂
そう言ってナイフとフォークを手に取った私に、ルシアンは今に
も消えそうなささやかな笑みを見せた。
259
72 ブラフと鶏の唐揚げ
任命されてから二年以上経った執務室は、未だに物が少ない。
味気のない部屋に、ふと自分にも従者がいた時期があったと思い
出す。
ほんの短い間だったが、全ての規格から外れすぎた従者だった。
あれから少し、自分は変わったのかもしれない。
﹁下民街で⋮?﹂
カノープスは書面の上に走らせていたペンを止めた。
そして別にずれてもいない眼鏡のつるに触れる。
部屋には黒ずくめの女が一人。
ひどく存在感の薄い、しかし美しい女だ。
名をパール・シーと言う。馴染みのない響きだから、偽名だろう。
彼女は近衛隊長になってからその存在を知らされた、王立秘密諜
報部の隊長だった。
有能だが、騎士団出身のカノープスはどうも彼女らに馴染むこと
が出来ない。
諜報部は手段を問わず、様々な方法で王に仇なす者の懐に入り込
む。
それがどんな方法なのかは、想像はつくが本当の事など知りたく
もなかった。
しかし仕事の上では有能なので、その慣習に対して否を言うほど
の正義感もカノープスは持ち合わせていないのだった。
﹁ええ。貴族がまた一人、下民街で遺体で発見されたわ。前回同様、
野犬に食い荒らされたようなひどい有様よ。ついでに持ち物は住民
に持ち去られたんでしょうね。下ばきぐらいしか残っていなかった
260
わ。貴族としては哀れな有様ね﹂
﹁それでよく貴族だと断定できたな﹂
﹁いつもの殺られ方だったから、一応魔導省に解析に回したのよ。
体内には魔導脈が確認されたわ。でも身元までは⋮﹂
魔導脈は魔力を持つ者の体にしか発現しない。
そしてこの国で魔力を扱えるのは貴族出身の者だけだ。
﹁貴族の在所確認を急がせる。こうなっては王都の治安維持部隊と
の連携も必要になってくるな。まだ騒ぎにはなっていないが、貴族
の噂は早い。不安が広がる前に、せめて犯人の検討でも付けば⋮﹂
ルイから聞いていた話がカノープスの頭に浮かんでいたが、彼女
にそれを話す気はなかった。
諜報部は蛇だ。
不用意に情報を渡せば、その出所までしつこく追及されることだ
ろう。
彼女らとは別に、カノープスは子飼いの精霊にクェーサーが王都
に入った形跡がないか調べさせていた。
しかし前回は、カノープスにすら悟らせずやすやすと騎士団内部
にまで潜入してきた男だ。
そう簡単に見つかるとは思えなかった。
﹁⋮本当は、検討がついているんじゃなくて?﹂
女が艶っぽく笑う。
ブラフだ。
261
﹁もしそうなら苦労はしない﹂
いつもの無表情でそう言うと、カノープスは扉に一瞥を向けた。
出て行けと直接言えないのは、実質彼女が地位的に近衛隊長と同
格にある為だ。
全く。本当に団長は面倒な仕事を押し付けてくれた。
﹁かしこまりまして。救国の騎士様﹂
女はカノープスの過去の汚点をピンポイントで突くと、そのまま
優雅な所作で礼をして、足音もなく部屋を去っていった。
雌雄の別が乏しいエルフ出身のカノープスにとって、人間の女は
ただでさえ扱いづらいのに彼女はその中でも頭一つ抜けている。
カノープスは眼鏡を外すと、眉間を揉んで溜息をついた。
本当に、人間というのは面倒くさい。
***
﹁では、今から“片栗粉”を作ります﹂
毎度お馴染み騎士団の食堂の厨房で、料理人や使用人、ミハイル
とゲイルに果てには学友御一行様まで見守る中、私は麻袋の中から
じゃがいもそっくりのポッテを取り出した。
ギャラリーの中の数人が驚いたように身動ぎする。
この世界のポッテはかつて、その芽が毒を持つことから﹃悪魔の
植物﹄と呼ばれ、安全性が証明された現在でもあまりポピュラーな
食材ではないのだ。
ああもったいない!これ蒸かして塩コショウしてバター乗せるだ
262
けでどれだけおいしいと思ってるんですか?
あ、バターないんですけどね、どうせ。
私は現実逃避を止め、引き攣った笑みを浮かべた。
どうしてこうなったのか、誰か教えてくれよ。
涙目の私の脳裏に数日前の事の成り行きが浮かんだ︱︱︱⋮
﹁⋮これは、一体どうやって作るんだ?﹂
うん・いいえ以外初めてルシアンが発した言葉に、私は嬉しさの
あまり飛び上がりそうになった。
それは一緒にご飯を始めてから数日後、彼は初日から気に入った
らしい鶏の唐揚げを食べている最中だった。
フォークに刺さったそれに微笑みながら、私は前のめりで答えた。
﹁オロロン鳥のモモ肉を一口大に切って、粉をつけて揚げるんだ﹂
わかりやすいように簡単に説明したが、それが余計にルシアンを
困惑させたらしい。
ルシアンは不思議そうにフォークの先の唐揚げを見つめている。
﹁そうだ!今度一緒に作ってみる?﹂
本当に軽い気持ちで、私はそう言った。
ルシアンが勉強以外の何かに興味を持ってくれるのが、嬉しくて
浮かれていたのだ。
と、そこに。
﹁何を一緒に作ると?﹂
263
そこに現れたのは、なんと殿下だった。その後ろには腰ぎんちゃ
くのように兄上その他が付いている。
私とルシアンは、慌ててその場に膝をついた。
今日はいつもより学習室から遠い東屋で食事していたので、防音
魔導を怠ったのが悔やまれた。
﹁⋮報告があった。欲を掻いた平民が、伯爵家子爵に取り入り王宮
内に混乱を齎そうとしていると﹂
﹃欲を掻いた平民﹄という言葉が、胸に突き刺さった。
そんな言葉、誰に言われても平気だった。
でも、まさかこの人に⋮身を捧げようと思う唯一の人に疑われる
とは思わず、想像以上の衝撃が私を襲った。
﹁殿下、それは誤解にございます﹂
静かなその言葉が、ルシアンの口から零れていると、私は最初気
付かなかった。
彼は普段のぼそぼそという喋り方とは違い、演説の授業の講師の
ように滑らかに喋りだした。
﹁この者、ルイ・ステイシーはその名の示す通り貴族に連なる者。
そして我らはただこの場で交誼を深めていただけにございます。彼
の学習室入りは国王陛下の勅命によるもの。さすれば、その尊きご
意向に従い、彼に新しきを学ぶのが我らの家臣の正しき道と存じて
おります﹂
場には沈黙が落ちた。
無口なルシアンの長口上と、そして畏れ多くも殿下に意見した事。
更にはルシアンがまるで私を庇う様な言動を取ったことに、その場
264
にいた全ての人間は口を閉ざし、固唾を呑んで殿下の反応を窺って
いた。
悲しみと驚きが綯交ぜでごちゃごちゃになっていた私に、その沈
黙は二メニラにも感じられた。
﹁顔を上げよ﹂
私たち二人は顔を上げ、礼儀に習い王子の口元を見つめた。
目下の者が目を直接見ることは、この世界では非礼とされている
からだ。
﹁⋮では、お前は何を学んでいた?﹂
殿下の言葉は固く乾いていた。
それは共に過ごしたあの時間とも、そして王宮が揺れたあの夜の
堂々たる響きとも異なるものだった。
これは本当に、あの王子なのだろうか?
﹁ルイの知る異国の料理について学んでおりました﹂
私がその疑問に囚われている間に、ルシアンは先ほどまで食して
いたお弁当を王子の前に差し出していた。
あーーー⋮
そんな絢爛豪華な食事に慣れているお方に、私のエセ運動会弁当
をお見せするなんて⋮。
知ってたら、もっと色々工夫したのに!
昨日作った残りのきんぴらとか入れなかったのに!
しばらくお弁当をじっとみつめていた殿下は︱︱︱⋮残っていた
唐揚げをモグッと食べた。
265
﹁﹁﹁﹁︱︱︱︱︱︱ッ!﹂﹂﹂﹂
その場にいた殆どの人間の顔が驚愕でゆがんだ。
平静を保っていたのは当の殿下とルシアンぐらいだ。
この二人、顔面に鉄仮面でも内蔵しているのか?
﹁へ、殿下そんな得体のしれない⋮毒見も済んでいない物を!﹂
﹁お戻しください!どんな厄災があるか⋮ッ﹂
し、失礼な!直前まで二人で食べてたっての!
と頭の片隅でセルフツッコミをしていたが、私の混乱は彼ら以上
だった。
わ⋮私の鶏唐モドキが殿下のお口に⋮。
ちゃんと火ぃ通ってたよね!生焼けだったらどうしよう!
もう何に動揺していいのか分からない。完全にパルプンテだ。
﹁⋮うむ﹂
長い咀嚼行為の後、殿下は一言。
﹁確かに、ルシアンの言い分は尤もだ。では、ルイに皆で学ぶとし
よう﹂
はーーーーー!!!!????
東屋の上空には、大量の感嘆符と疑問符が浮かんだ。
266
267
72 ブラフと鶏の唐揚げ︵後書き︶
好き勝手やりすぎですいません
268
73 楽しいお料理教室
という訳で、この臨時お料理教室と相成った訳だ。
場所は私の願いが通って使い慣れた騎士団の寮の調理室になった
が、騒ぎになってはいけないからという王子の計らいで学習室の面
々は一応﹃ルイの友人とその保護者﹄という触れ込みでここにいる。
しかしこの国の王太子の顔を知らない国民はいない。
料理長はこの話を最初に聞いた時、顔を引き攣らせて﹃説明しろ﹄
という必死の目で私を見ていた。
おかげで私は、何度も目力でごめんなさいと繰り返す羽目になっ
たのだ。
何かあったら言えというミハイルにこの件を報告したら、身辺警
護でゲイルとミハイルまでついてきた。ついでにどこで聞きつけた
のかベサミまで。まあ、彼が監督してくれれば安心かもしれない。
彼は王子に見えないところで苛立ちを隠そうともしないが。
﹁こちらはポッテという植物で、寒さに強く荒れた土地でも育ちま
す。又その収穫量は、同じ作付面積でパンなどを焼く際に用いるシ
ュピカの三倍にもなり、この作物の原産地である北方の国ではこれ
によって飢饉による餓死者が大幅に減ったという記録もあります。
また、淡白な味なので様々な食材との相性がよく、栄養も豊富です﹂
私は今日までに暗記してきた内容を、素知らぬ顔で話すが内情は
冷や汗ものだ。
調理人たちは当然知っているのか何の反応も示さず、先ほど身動
ぎした使用人の何人かや学習室の面々は驚いた顔をしている。ルシ
アンは相変わらずの無表情で、王子とベサミはまるでこちらを値踏
みするような顔をしている。
私は無理やり笑顔を作った。
269
並み居る人々は人参かぼちゃ大根で、ほうとうが出来上がりそう
なメンツだと思い込み、緊張を押し殺す。
王子やその他の将来国で重要な役職を占めるであろう学友達に料
理を教えるとなった時、大変だと思った反面、チャンスだとも私は
思った。
これは、今まで言いたくても言えずにいたことを彼らに伝えるチ
ャンスだ。それを、少しでも授業に盛り込めたら。
学習室での授業は歴史や帝王学、それに剣技やマナーに重点が置
かれていて、実際の国民の暮らしや問題点を考えるような授業はな
い。
十歳前後の子供たちの授業だ。それも当然かもしれないが、その
人間の基礎と言うのは子供の頃に培われるものだと思う。
別に明確な効果はなくていいんだ。自己満足かもしれない。でも
別に、やるなと言われた訳でもないし。
﹁このポッテが我が国では﹃悪魔の植物﹄と呼ばれている理由は、
この芽や根を食べて食中毒を起こした人間が過去にいたからです。
少しの根でしたら、このようにくりぬけば問題ありません﹂
別に、小麦粉の代わりになるシュピカだけでも唐揚げは作れるの
だが、我が家は小麦粉と片栗粉を割合7:3でブレンドしていた。
手間を考えればシュピカだけで作るべきだっただろう。
でも私は、このポッテという植物を王子達に知っていてほしかっ
た。
かつて、私の国を飢饉から救った植物を。
私が小さなナイフでちょびっと出ていた根っこをくりぬくと、ま
さかの人物から手が上がった。
興味津々な顔のレヴィ・マーシャルだ。
270
﹁そのポッテというやつは実から直接根や芽が出るのか?﹂
﹁いえ。ポッテは地中の根っこに成ります﹂
学習室の数人が眉を顰めた。
この国で植物の根を食べるのは貧しい人々が空腹に耐えかねた時
という常識がある。それで地中に出来ると聞いて嫌悪感が出たのだ
ろう。
﹁デザートなどによくかかっているペリシもメレギの根から採れま
すし、ピッツも花が地中に潜って地中で殻のある実をつけます。地
中にある部分を掘り出して食べる植物と言うのは、実は結構多いの
ですよ﹂
言わずもがなだが、ピッツはピーナッツ、つまり落花生だ。
ペリシやピッツは貴族も口にするが、これが地中から採取されて
いると知っている貴族は殆どいない。
料理長がうんうんと頷く。
先ほどまで恐縮していたが、どうやら調子が戻ってきたらしい。
ふう、ここ二日、準備のために庭師さんの紹介で植物学者さんに
会ってきておいてよかった。
この世界の植物は前の世界の常識が通用するものとしない物があ
る。
勿論私も、植物の知識は中学校の生物で習ったのが最後で後はク
イズ番組の豆知識レベルなので、今日のために知識を詰め込んでき
た。
﹁それではこのポッテの皮を剥きます﹂
そう言って私が料理長さんに目くばせすると、料理長さんと数人
271
のコックさんが待ってましたとばかりに猛スピードでポッテの皮を
剥き始めた。
いくら料理教室とはいえ、王子や高位貴族の子息達に皮むきなん
てさせられない。
と思ってみていたら⋮ちょ、やりすぎやりすぎ!
そう思ったが、時すでに遅し。
本当は二三個でよかったのだが、あっという間に盥に山盛りのポ
ッテが剥かれてしまった。
えー、じゃあついでにポテトフライでもつくるか。どうせ油は使
うんだし。
﹁そ、それでは次の行程は、このポッテをすりおろします﹂
またしても料理長&コックの一団は、厨房用の巨大なおろし金で
次々とポッテをすりおろしていく。
今度は下働きのメイドやおばちゃん達も加わり、人海戦術でもの
すごいスピードですりおろしポッテの山が出来ていく
今度はさすがにあっという間とはいかなかったが、それでも予想
より遥かに早く終わった。
終わった時には思わず使用人一同と私は拍手をしてしまったぐら
いだ。
学習室の面々は、興味深げに、或いは少し怖気づいた様に、その
光景を眺めていた。
﹁そしてここからが重要なのですが、このすりろしたポッテを布に
包み、水で洗います﹂
私はできあがったすりおろしポッテの山から適量を布に取り、そ
れを水を溜めておいた器に移して川で洗濯の要領で揉み洗いした。
それを見ていたコックや使用人達も、同じように作業を始める。
272
さすがにみなさん王宮勤務だけあって、動きに無駄がなく仕事が
丁寧だ。
﹁ふむ。では我々も実地で学ぶか﹂
王子の呟きに、その場にいたほとんどの人間が硬直した。
勿論私もその一人だ。
王子⋮今なんと?
尋ねる間もなく、王子は腕まくりで調理台へと近づいて行く。
﹁王子!﹂
あわててベサミがそれに続く。
学習室の面々は目を白黒させながら、それでも王子には逆らえな
いという様にその後に続く。
全員が華美な上着を脱ぎ、質のいいシャツを腕まくりでポッテの
もみ洗いが始まった。
わ、わわわ。
これって私の責任かなぁ?
後でばれたら吊るされるかも。
ベサミは恨みがましく私を睨んでいた。
私だって、こんな成り行きは想像してませんでしたよ!!
呆けていた私の手から、布に包まれたポッテが取り上げられる。
相手はルシアンだった。
彼は私の代わりにポッテのもみ洗いを始める。
﹁も、申し訳ない⋮﹂
273
なんとなく、反射でルシアンに謝ってしまった。
ルシアンは手を止めずに、私を見て少し笑った。
﹁ポッテ⋮懐かしい⋮⋮﹂
﹁え?﹂
しかしルシアンの表情はすぐにいつもの無表情に戻ってしまって、
その呟きの意味を聞くことはついにできなかった。
作業が終わり、王子とレヴィだけが元気で、ルシアンは無表情。
残りは全員疲れた顔をしていた。調理人や使用人たちは完全に気疲
れだ。あとで彼らにはちゃんと謝っておこう。
﹁では良く絞ったら、そのポッテは布にくるんだまま捨ててくださ
い﹂
﹁﹁﹁えぇ!?﹂﹂﹂
そこかしこから驚きの声が上がる。
こんなに頑張ったのにとか、低い呻きもちらほら。
私はそれに苦笑した。
﹁今回使うのは、こちらの洗った水の方です。皆さんのおかげで、
ポッテの栄養は全てこちらに溶けだしています﹂
茶色く濁った水を見ながら、いくつもの疑いの視線が私に刺さっ
た。
失敗した。先に説明しておけばよかったな。
274
﹁しばらく待つと、この器の底にポッテのベタベタした部分が沈殿
してきます。それまでお待ちください﹂
﹁待つとはどれほどだ?﹂
きらきらしい衣装を見るも無残に汚した王子は、楽しそうに私を
見ていた。
この間﹃欲を掻いた平民﹄と呼ばれたことを考えれば、大きな進
歩だ。
﹁半メニラほどでしょうか﹂
﹁なるほど。ではベサミ﹂
﹁⋮はい﹂
命じられたベサミは不承不承と言う様に、調理台にカリカリとペ
ンタクルを刻んだ。
そしてそれに手をかざす。
するとその茶色く濁った水の色が、あっという間に変化する。
これってまさか⋮。
﹁半メニラ時間を進めました。では次は?﹂
こんなことに力を使ってしまって不服ですと顔に書いてあるベサ
ミさんの鋭い声に、私は我に返る。
﹁そ、それではですね!この水の上澄みだけをそっと捨てて、くだ
さい﹂
275
私は慌てて手前にあった器を手に取り、その水をそっと排水溝へ
と流した。
器には、薄茶色のねばねばとしたでんぷん質が沈殿している。
群衆からは驚きの声が上がった。
﹁ペリシに似ているな。色はまだ汚いが﹂
料理長に指摘され、私は肯く。
﹁はい。完全に白くするために、更にこの工程を二回繰り返します﹂
言ってから、私は自分でギクリとしてしまった。
うう、ベサミさんが睨んでる、睨んでるよ!
私がお願いしたんじゃいないですもん。理不尽だ。
三回目の付け置き時間を二メニラにしてもらい、出来上がったの
は真っ白のどろどろとしたものだった。
全員が興味深そうに、或いは気味悪そうにそれを見ている。
﹁これを料理に混ぜるととろみのある料理が出来ます。今からこれ
を乾燥させて、更に保存しやすく使いやすくします﹂
私は不自然じゃないように調理台にペンタクルを描いてから、退
屈そうに浮かんでいたヴィサ君を見上げた。すると彼は途端に張り
切って全ての器の中に風を起こした。ヴィサくんは自分がいるのに
私が風魔導を使うとうるさいのだ。本当は水属性の知り合いがいれ
ばよかったのだが、いないのだからしょうがない。
すると器の中のどろどろはたちまちに乾燥して、白く固形化して
やがて表面にひびが浮かんだ。
私の合図でヴィサくんが魔力の注入を止めると、私はその固まっ
276
たでんぷん質をスプーンでざくざくと崩した。白く滑らかな粉は、
見覚えのある片栗粉そのものだ。私はその出来上がりに満足した。
小学生の時、理科の実験で片栗粉を作る授業がまさかこんなとこ
ろで役立つ日がこようとは。
人生何がおこるかわからない。
﹁では、この出来上がった粉と、シュピカを挽いた粉を混ぜて、オ
ロロン鳥の“唐揚げ”を作ります﹂
唐︵中国︶もないこの世界で唐揚げって料理名もどうかと思うけ
ど、私が発案者ってことで呼びやすい名前でいいよね。異国風の響
きの方がこの場合は疑われないんだろうし。
私の今日の大きな目標は王子たちにポッテを知ってもらう事だっ
たので、ここから先は手早く進めた。
昨日のうちに料理長たちに切り分けてもらい下味に付け込んでお
いたオロロン鳥のモモ肉を、粉を塗してティガー油で揚げる。
この辺は子供の体でやるとあぶないので、全部料理長にお任せだ。
別の鍋ではポテトフライがパチパチとおいしそうな音を立ててい
る。
大量の唐揚げと、そして塩を振ったシンプルなポテトフライ。
凄いカロリーだが、今日はみんなで食べるんだから気にしない。
身分の違う者同士が食卓を一緒にすることはできないという事で、
試食こそ学習室組は別室に分かれたが、それでも今日の事は彼らに
はいい機会になったんじゃないかと思う。まさか私も実地で参加ま
でしてくれるとは思っていなかったけれど。
唐揚げはもちろん、ポテトフライを食べて驚きの声を上げる少年
達を見ながら、私の顔も自然ににやけた。
そうだよ、ポッテはおいしいんだよ!だから食わず嫌いしてたら
277
勿体ない。
その後私は今日作った物のレシピと残った片栗粉を、袋に詰めて
下働きの人を含めたその場にいた全員に配った。
少年たちはつれない顔で受け取っていたが、それからしばらくし
て、社交界ではポッテのフライと唐揚げが大流行することとなった。
278
73 楽しいお料理教室︵後書き︶
唐揚げ食べたくなった
279
74 二人の少年
ルシアンの様子がおかしいと、報告をくれたのは老年の執事だっ
た。
我が家に残った数少ない召使の内の一人だ。
ルシアンはいつもより遅く帰宅して後、なぜか厨房に籠ってしま
ったという。
いつもは部屋に籠って机に向かうこと以外、趣味もない子供だ。
執事は重ねてこう言った。
﹃坊ちゃまは最近、少し表情が出てきました﹄と。
私はそう言った執事の顔を見上げた。
私が生まれる前よりこの家に勤めている老年の執事の表情を、読
み取ることはできなかった。
この屋敷に住む者は、五年前のあの日から時が止まってしまって
いる。
きっと私の顔にも、彼と同じような冷たい仮面が張り付いている
に違いない。
それからしばらく後、読書に耽っているとコンコンと扉をノック
する音が響いた。
私の許可を確認してから、開いた扉の向こうには盆を持ったルシ
アンと、その後ろを先ほどの執事が付いてきた。
貴族の子息が使用人の真似事など。
私は気分を害し、眉を顰めた。
﹁なんの真似です?ルシアン﹂
ルシアンがテーブルの上に置いた盆からは、微かな食べ物の匂い
がした。
280
彼がクロッシュを外すと、そこから現れたのは香ばしい匂いのす
る塊だった。
見たことのない食べ物だ。
﹁これは?﹂
﹁“唐揚げ”と言う異国の食べ物です。今日王宮で作り方を習いま
した﹂
王宮で、貴族の男子に料理など教えるはずもない。
この子はどうしてしまったのだろうか。
私の心には失望が広まった。
ああ︱︱︱この子もなのか。
﹁そうなの。では後でいただくわ。あなたは部屋に戻ってなさい﹂
ルシアンはこくんと肯くと、素直に部屋から出て行った。
執事がテーブルの上にフォークとナイフを並べている。
﹁いらないわ。早く捨てて頂戴﹂
﹁⋮はい。かしこまりました﹂
執事はその動作をやめ。再びクロッシュを載せた盆を持ち上げた。
獣くさい、吐きそうな臭いがする。
まさか、こんな風に歪な壊れ方をする息子は初めてだった。
﹁あれも、もう潮時かしら?﹂
281
﹁では、次を用意しますので少々お待ちを﹂
﹁ええ、お願いね﹂
私は執事に窓を開けるように命じると、読書の続きを始めた。
今もまだ胸焼けする様な不快な臭いが部屋に残っている。
私の息子は、こんな事はしないわ。
今回の子供は、出来が良かっただけに少し残念だった。
王宮で習ったなんて、余計な事を。
ガリリと、私は気付けば爪を噛んでいた。
***
﹁おばあ様が?﹂
それまで庭で荷運びの手伝いをしていた少年が振り返る。
赤茶の髪と、新緑の目をした少年だ。
彼は滴る汗を拭うと、一緒に働いていた義兄の顔を見上げた。
﹁後は俺だけで大丈夫だから、早く行って来い﹂
体にハンデのある義兄が少し心配だったが、おばあ様が待ってい
るのならば何を置いてもいかなければならない。
﹁すぐ戻るから﹂
少年は屋敷まで走ると、しゅるりと手ぬぐいを外し、身なりを整
えた。
282
自分たちが住まわせてもらっているのは、貴族のようとは言わな
いまでも、古くて立派な家だ。
義兄の親類であるというおばあ様は、この屋敷にかつて一人で暮
らしていた。
お寂しくはなかったのかしら?姉が以前そう言っていたのを思い
出す。
扉の前まで来ると、服の埃を払い、もう一度身だしなみをチェッ
クする。
そして扉をノックすると、中からしわがれた声が入室の許可を告
げた。
部屋にいたのは、優しげな老婆だ。
彼女は編み物の手を止めて少年を見上げた。
﹁ああ、よく来たね﹂
﹁おばあ様。御用と伺いました﹂
﹁ええそうよ。話をするからそこに掛けて。疲れたでしょう﹂
そう言って、老婆は手づからカップにお茶を注いだ。
﹁そのような事は僕がやります﹂
少年が慌てて変わろうとしたが、老婆はにこにこ笑いながら注が
れたお茶を少年の前に置いた。
﹁これくらいはやらせて。あなたたちが来てくれたおかげで生活が
楽になって、本当に感謝しているのよ﹂
﹁そんな⋮こちらこそ家族で置いていただいて、学校にまで通わせ
283
ていただいて﹂
﹁ふふ、孫が出来たみたいで嬉しいわ。さ、飲んで。聞いたわよ。
あなたクラスで一番の成績なのですってね?﹂
﹁はい。姉が故郷でも学校に通わせてくれていたので﹂
少年はカップを持ち上げながら言った。
不思議な香りのお茶だ。
いつも飲んでいる物より、色も少し濃い気がする。
失礼にならないように、少年は勧められるままにすぐにカップに
口をつけた。
少し苦めの、飲んだことのない味だ。
﹁不思議な味ですね﹂
﹁ええ、そうでしょう?今日届いたのよ。特別な異国のお茶よ﹂
﹁そうなのですか?そのような高価な物を⋮﹂
少年は恐縮したが、老婆は相変わらずにこにことしていた。
﹁あなたはいつも頑張ってくれているからね。ご褒美よ﹂
﹁そんな⋮﹂
少年は続けて二口三口とカップを傾けた。
働いた後で喉が渇いていたのだ。
お茶の温度も猫舌でも飲めそうなぬるめだった。
284
こっくり、こっくり。
少年は、しばらくすると舟をこぎだした。
夜遅くまで勉強に励んでいたせいかもしれない。
おばあ様の前で眠りこけるわけにはいかないと、彼は頑張って目
を見開いた。
しかしその欲求には耐えきれず、何度もカクカクと首を落とす。
﹁疲れたのでしょう。眠ってしまっても大丈夫よ﹂
優しい老婆の声が、子守唄のように聞える。
目まで霞んできて、彼はその場で眠りこけるのは避けようと、慌
てて椅子から立ち上がった。
ところがその足に力が入らず、彼は床に頽れてしまった。
立ち上がろうとするが、体がいう事を聞かない。
﹁眠ってしまいなさい。大丈夫よ﹂
その声に促されて、やがて少年は寝息を立て始めた。
老婆がリンとベルを鳴らすと、昔から老婆に仕えていた下男が部
屋へ顔を出した。
﹁予定通りに﹂
下男は言葉もなく肯き、まだ細い少年の体を担ぎ上げた。
少年の家族には、皆屋敷での外の仕事を割り振ってある。
老婆は少年を見ながら、悲しそうな顔をした。
﹁本当にありがとうね、アル。あなたが、その髪と目の色さえして
なかったら⋮﹂
285
老婆の見守る前で、少年を担ぎ上げた下男は部屋から出て行った。
286
75 あなたは誰?︵前書き︶
アランさんがいつリルが妹だと認識したのかについてご指摘いただ
きましたので、修正しました。申し訳ない
287
75 あなたは誰?
ルシアンが学習室にこなくなって、三日が過ぎた。
最初は体調不良かと思っていたが、ベサミや講師達にも連絡がな
いというのは少し妙だ。
何より、私は日々膨れ上がる嫌な予感を抑えようがなかった。
彼の体中に刻まれていた無数の傷を思い出す。
ゲームの中では、母親からの執拗な虐待で人間嫌いだったルシア
ン。
少しでも慰めることが出来ればなんて、甘かったのだ。
本当はもっとちゃんと話を聞いて、彼を助ける手助けをしなくち
ゃいけなかったんだ。
唐揚げを食べていた時の彼の僅かに覗かせる人間らしさに、私は
心のどこかで安心していた。
この世界が、そんな甘っちょろい世界じゃないと、十分に思い知
っていた筈なのに。
﹁またか⋮﹂
﹁ああ、そうかもな﹂
私が昼寝をしていた植え込みの横を、聞き覚えのある声が通り過
ぎた。
あれは兄の取り巻きの二人だ。
私は彼らに見つからないように、息を潜める。
見つかればどんな難癖をつけられるかわからない。
﹁陛下はいつまでマクレーンを野放しにされるおつもりだろうか?
いくらなんでも常軌を逸している﹂
288
聞き覚えのある家名に、私は息を止めた。
﹁馬鹿!誰が聞いているか⋮﹂
﹁こんな寂れた庭、他の学友は存在も知らないさ﹂
﹁それにしたって不用心だぞ。沈黙は貴族の不文律だ。不用意な発
言で断絶した家は十指じゃ足りないっていうのに﹂
・・
﹁相変わらず慎重派だな。まあいいさ、あの忌々しい下民と次のル
シアンを出し抜く事ができれば、第五席の内二つは空席だ。望みは
ある﹂
﹁あの平民が来てからアラン様も調子を崩されているしな。早急に
席次を取り返さなくては。全く下民には厨房の下働きでもさせてお
けばいいんだ。陛下もお戯れが過ぎる﹂
﹁全くだ﹂
私の頭上ではヴィサ君がなにやら喚いていたが、私はそれどころ
ではなかった。
“次の”ルシアンとは一体どういう意味だろうか?
布に染みる水のように、私の思考を強い不安が染め上げていく。
﹁アラン様﹂
289
人のいない回廊。
珍しく一人になったアラン・メリスを、私は呼び止めた。
振り返った彼は、その年に似つかわしくない鋭い眼光で私を睨ん
だ。
﹁何の用だ﹂
彼とはもう関わり合いになるまいと思っていたが、背に腹は代え
られない。
﹁ルシアン・マクレーンについて、お聞きしたいことがあります﹂
その名前を聞いただけで、アランの秀麗な眉はつり上がりその表
情は厳しいものになった。
そしてしばしの沈黙の後、彼が投げた言葉は予想外の物だった。
﹁⋮あいつの事はもう忘れろ﹂
私は驚き、一瞬立ち竦んでしまった。
その隙に、アランは足早に立ち去ろうとする。
﹃待てよ!﹄
しかしそれを遮ったヴィサ君の突然の突風に、兄は驚いたように
立ち止まった。
私は夢中で、彼の袖口を掴んだ。
﹁なにをっ﹂
﹁忘れろとはどういうことですか?あなたは何を知ってらっしゃる
290
んですか!?﹂
兄は大声で縋った私に、困惑の目を向けた。
﹁⋮ここでは誰に聞かれるか分からない。こっちへ来い﹂
ため息交じりに歩き出すアランに従って、私も歩き出す。
もしかしたら罠かもしれなかったが、だからと言って学習室内に
親しい友人のいない私が情報を得る方法はこれしかないのだ。
最初私とルシアンが話していたのを見て、何か忠告しようとして
いた彼。
私の行動が気に入らないだけだろうと思っていたが、彼に何か真
意があったとしたら?
アランに先導されてやってきたのは客間だった。
王宮にはこのような客間が無数にある。
しかしそれぞれに使用人達が管理する特殊な鍵があり、勝手に立
ち入ることはできないはずだ。
﹁ここは私が下賜されている部屋だ。入れ﹂
そこは豪奢な内装の割に家具の少ない、なんとなく寂しい部屋だ
った。
勉強机と、そしてその傍らの巨大な本棚。
恐らく希少な価値を持つであろう芸術品のようなペンとインク瓶
を見ながら、それでもここで彼が日夜勉学に励んでいるであろうこ
とは安易に想像がついた。
兄様は白鳥だ。
美しく気高いが、その足はいつもその矜持を守る為に努力を続け
ている。
291
この人がただの兄であったなら、そして私がただの貴族の娘であ
ったなら、私も素直に彼を尊敬することが出来たはずだ。
﹃ヴィサ君、防音﹄
﹃へいへい﹄
私に忠告を無視されて少しご機嫌斜めの精霊さんだったが、お願
いするとちゃんと防音魔法を掛けてくれた。
アランは自分は学習机の椅子に腰かけて、私には布張りの高価そ
うな椅子を勧めた。
そして私が席に着くと同時に、口を開く。
﹁まずは、深入りしないと誓え﹂
突然の言葉に、私は面食らう。
﹁深入りとは?﹂
﹁マクレーンの家は危険だ。不用意に近づいてはならない﹂
﹁一体なぜです?﹂
﹁誓うのか?﹂
﹁それは話をお聞きしてからです﹂
平然と言い放った私に、アランは頭痛を堪えるように頭に手をや
った。
292
﹁マクレーンの家は、現在ルシアンの母親であるルーシー殿が女伯
爵として家督を継いでいらっしゃる。それはルシアンの父親である
イアン・マクレーン伯爵が、馬車の事故で亡くなられたからだ﹂
それからアランが語ったのは、社交界では公然の秘密となってい
るという伯爵家の醜聞だった。
私は愛のない両親の間に生まれたルシアンに一瞬同情した。しか
し、そんなことは貴族の家ではよくある話だ。それがなぜマクレー
ン家に限って、こんなに特別視されているというのだろう?
私の疑問を読み取ったのか、アランは面倒そうな顔でこれからが
本題だがと前置きした。
﹁これは、恐らく学習室とそれに関わる人間しか知らない話だ。そ
して、誰もが関わり合いになるのを恐れて口を噤んでいる﹂
﹁一体何を⋮?﹂
﹁我々は貴族だ。従って幼少のみぎりより社交界に関わってきた。
当然私はマクレーンの先代も、そして現伯爵の顔も知っている﹂
つまりはルシアンの両親の顔を知っているという事か。
﹁確かに、先代の伯爵はルシアンと同じ赤みがかった茶髪と黄緑色
の目をしていらっしゃった﹂
﹁はあ⋮?﹂
私は兄が何を言いたいのか分からず、間抜けなため息を吐いた。
しかし次の瞬間、話は予想もしない方向へと流れて行った。
﹁しかし、ルシアンの顔は先代とは似ても似つかない。そして母上
293
である現伯爵とも﹂
﹁え、どういうことですか?﹂
私は恐らく間抜けな顔をしていたことだろう。
兄は憂鬱そうな溜息をついた。
﹁“ルシアン”は、定期的に変わる。いつも無表情で、そして恐ろ
しいほどに優秀だが、数年或いは数ヶ月に一度長期で姿を隠し、戻
ってきた時にはまるで別人のような顔になって戻ってくる。彼らは
皆同じ髪色と目の色、そして不思議なことに同じ魔法属性まで持っ
ているが、明らかに別人だ。しかし誰もそれを指摘したりはしない。
それはあの家が恐ろしいからだ﹂
どこか疲れたようなアランの声が、遠くに聞こえる。
貴族子息を名乗り、別人が学習室にやってくることなどあり得る
のだろうか?
学習室は王子の学び舎。そして高位の貴族子息達が友好な人間関
係をはぐくむ場所だ。
そんな場所に、どうしてマクレーン家は次々と違う人物を送り込
むことが出来るというのだろう?
そしてなぜ、学習室を管理する役目を思うベサミは、それに対し
てなんの対策も取っていないのだろう。
いや、何よりルシアンだ。
私がしゃべり、そして私の作ったお弁当をおいしそうに食べてい
た彼は、一体誰だったというのか。
混乱した私に、いつの間に傍まで来ていたのかアランが肩に手を
置いた。
294
﹁命が欲しければ近づくな。貴族にとって平民を消し去ることなど
容易いのだから⋮ルイ。いや、リシェール﹂
目まぐるしく頭を回転させていた私は、彼の呼び掛けにうまく反
応することができなかった。
透き通った榛色の目が、私を熱心に見つめている。
久しぶりに呼ばれた本当の名を、私はどうすることもできずにも
て余す羽目になった。
295
76 僕の妹︵前書き︶
シスコン注意報
296
76 僕の妹
それは今から三年前。僕が九歳の初夏の事だ。
僕はその時、所用があって兄上の部屋にいた。
そしてその部屋に荒いノックの音が響いたかと思うと、母の侍女
であるメリダが転がり込んできた。
﹁坊ちゃん!﹂
メリダは昔、兄上の乳母をしていた年かさの使用人だ。
しかしだからといって、このように遠慮のない態度に出ることは
珍しい。
彼女は主従関係と言う物を弁えた、仕事に忠実な女だった。
﹁一体どうしたんだ、メリダ?﹂
兄上が困ったような顔で問いかけると、メリダは我に返ったよう
にお辞儀をした後、足早に兄に詰め寄った。
﹁ナ、ナターシャ様がッ、リシェールお嬢様を放逐なさると!﹂
普段は滅多に表情を表さないメリダの必死の形相に、僕も兄も黙
り込んだ。
勿論、彼女が告げた内容に驚愕していたというのもある。
﹁まさか⋮リシェールはまだ五歳になったばかりだぞ?﹂
﹁それも体力がなくて、毎日臥せってばかりじゃないか!﹂
297
落ち着いた対応をした兄上に反して、張り上げた僕の声にメリダ
は皺の寄った痛ましそうな顔をした。
﹁実は⋮王太子殿下がリシェール様の部屋で負傷されたとのことで、
その責任を取る様にと。リシェール様は家系図及び貴族名簿から抹
消。テアニーチェに捨ててくるようにとのご命令で⋮﹂
テアニーチェというのはメイユーズと東の国境を接している小国
だ。
無能な王が三代続いたせいで財政が圧迫され、この冬は多数の餓
死者を出したらしい。
そんな国に五歳の子供を放り出せば、どうなるかなんて火を見る
より明らかだ。
﹁なぜ王太子殿下が?!⋮いや、今はそれどころではない。今リシ
ェールはどうしている?﹂
﹁はい、ナターシャ様にその⋮ご無体をされて気を失っておいでで
す。準備が出来次第東部への移動陣のある聖教会に向かうと﹂
﹁そんな⋮﹂
僕は言葉を失った。
母が、新しくやってきた腹違いの妹の事を疎んでいるというのは
知っていたが、貴婦人であることに強烈な自負心を持っている母上
が、まさか自ら手を下すと、僕達は想像もしていなかったのだ。
﹁一刻の猶予もないか⋮﹂
﹁どうか!どうかリシェール様を⋮!﹂
298
メリダが深々と頭を下げた。
その肩が震えている。
そういえば、彼女にはちょうど五歳になる孫がいるのだった。
僕と兄上の間に、一瞬沈黙が流れた。
﹁メリダ、案内を﹂
﹁はい!﹂
足早に部屋を出る二人を、僕も慌てて追いかけた。
案内されたのは、半地下にある暗い貯蔵室だった。
なぜこんなところにと訝しんでいると、壁に灯された松明に照ら
し出されたそれに、ぼくははっとした。
棒のような手足の、ぼろ布だけを纏った少女がそこに倒れこんで
いた。
﹁リシェール!﹂
それは悲鳴のような声だった。
兄上が駆け寄る。
僕は声もなくそれに従った。
兄上が抱え上げた彼女は、息は正常だったが少し苦しげに眉を寄
せていた。
どこか打ったのか、細くパサパサした髪には血がべっとりと付い
ている。その手当すらされていない。
その凡庸な灰色の目は今は閉じられていて見ることが出来ない。
こけた頬と色の悪い膚はうちに来たばかりの頃よりも悪いかもし
れない。
しばらく会わないでいる間に、こんな事になってしまうなんて。
299
兄上も僕も、彼女のあまりの惨状に言葉を失ってしまった。
これが、いくら側室の子とはいえ、僕ら誇り高きメリス侯爵家の
血を受け継ぐ令嬢の姿だというのか?
﹁貯蔵室に放り出しておけとのご命令で⋮﹂
メリダの声が震えている。
老年の彼女にも、十分に衝撃的な光景だろう。
﹁こんな⋮﹂
最初、その弱々しい声が自分の喉から漏れたものだと、僕は信じ
られなかった。
﹁なぜ母上はこのような事を⋮﹂
胸にせり上がってきたのは、母への恐怖と自己嫌悪だった。
最初、僕ら兄弟は妹ができると聞いて、嬉しかったのだ。
それがどんな少女であろうと、僕らがその娘の騎士となり、護る
のだろうと淡い夢を見ていた。幼い頃に読んだ、絵本の中身そのま
まに。
しかし母上にはその娘に関わるなときつく言われており、一度そ
の部屋を見舞った際には後でリシェールが厳しく叱責されたと聞い
て、僕らは彼女と関わることを辞めた。
下手に手を出せば、母上が何をするかわからないからと。
その判断が、こんな形で跳ね返ってくるなんて、僕も兄上も想像
すらしていなかった。
﹁すまない、リシェール⋮﹂
300
兄上は服が汚れるのも構わず、その今にも折れそうな体を抱きし
めた。
僕はその背中を見ながら、自分の無力さに打ちひしがれていた。
﹁アラン﹂
﹁はい、兄上﹂
﹁今から見たり聞いたりしたことは、すべて他言無用だぞ﹂
﹁はい﹂
兄上の頬を、涙が伝うのを僕はじっと見つめていた。
﹁メリダ、セルガに言って金を用意させろ。あとは使用人の子供の
服でリシェールが着れそうなものを持ってこい﹂
﹁はい、ただいま!﹂
メリダの足音が遠ざかっていく。
僕らは松明の揺れる寒い部屋で、小さな息を繰り返すリシェール
を見つめていた。
﹁アラン﹂
﹁はい﹂
﹁私は、リシェールはもうメリス家から出た方がいいと思う。たと
え今日は私達で助けることができても、母上は今後もリシェールに
厳しく接するだろう。そんな飼い殺しの人生よりは、たとえ平民と
301
してでも、リシェールには平穏に暮らしてもらいたい﹂
﹁兄上⋮﹂
こんなに弱々しい声で話す兄上を、僕は初めて見た。
﹁私に力がないばかりに⋮すまないリシェール。待っていてくれ、
絶対に迎えに行くから⋮﹂
そう言って、兄上はそのこけた頬を撫でた。
僕も、兄上と同じ誓いを胸にその髪を撫でた。
べたりとした赤い血が、僕の手にへばり付く。
かわいいかわいい、僕らの妹。
許してくれ、力のない兄を。
お前の苦しみに気付いてやれなかった、愚かな僕達を。
***
私が“ルイ”を初めて見た時の衝撃が、お前に分かるか?
リシェール、お前は気付かれないと思ったのかもしれないが、お
前の顔は兄上の幼い頃に瓜二つだ。今の兄上とはそれほど似ていな
いが、古い侯爵家の肖像画を見たことのある者なら誰でも気付くだ
ろう。
それに、その髪と目の色の組み合わせだって、貴族には滅多に現
れない組み合わせだ。周囲は平民出身だからと誤魔化されているよ
うだが、見る者が見れば、例えば母上がお前を見れば、たちまちお
前の正体に気付くだろう。
302
私は、まずはお前を追い出そうと思った。
お前が王都に戻っていたことが母上にばれれば、お前の身に何が
起こるか分からないからだ。
しかしお前はしぶとかった。
私が何をしても、何を言ってもどこ吹く風だった。
そして遂には学習室での席次も、“王子の四肢”と呼ばれる第五
席を取ったというのに嬉しそうにもしない。
ただ淡々と勉学に打ち込むお前に、私は困惑した。
お前は私達を恨んではいないのか?それとも今から復讐しようと
企んでいるのか?
お前は一体、何が目的で戻ってきた。この魑魅魍魎の都に。
見開かれたその灰色の目を見ながら、僕の胸に言葉にならない想
いが去来した。
303
77 兄上は直情型
アランの真剣な眼差しから逃げることが出来ず、私はすぐに折れ
た。
﹁ご存知でいらっしゃったのですね⋮﹂
不意と目を逸らした私の、肩を掴む手に更に力が籠った。
﹁なぜ戻った!もし見つかれば、母上は今度こそ何をするか分から
ないのだぞ!﹂
ええ、そうとも。
私はそれを、覚悟の上で王都に戻ったのだ。
あの王子様の為に。
﹁母上に、告げ口なさいますか?或いは王子に?ベサミに?私が女
だと告げなくても、兄上ならば私如き容易く放逐できるでしょうね﹂
知っていたのなら、必死に机に噛り付く私をアランはどう見てい
たのだろうか?
さぞ、馬鹿げていると思ったことだろう。側女の子供風情がと。
冷静を心がけていた言葉が、途中から箍を失った。
ヴィサ君が心配そうにクーンと鳴く。
こんなことをしている場合ではないのに、かつて私を見捨てたと
思えば言葉は堰を切ったように溢れ出した。
﹁追い出せばいい、あなたの無慈悲な母親と同じように。私は慈悲
なんて請わない。そんなぬるいものは疾うに捨てた。私は何度でも
304
舞い戻る。いくら蹴り落とされても這い上がって、何度でもあなた
の目の前に戻ってくる。所詮は下民風情と侮っていればいい、最後
に笑うのは私よ!﹂
﹁馬鹿な!﹂
頬を襲う衝撃。
反撃もできず、私の体は容易く吹き飛んだ。
椅子から落ちて、床に叩きつけられた体。デジャブだ。
アランの髪の色も目の色も、母上のそれによく似ている。
﹃こんのガキが!﹄
牙を剥いたヴィサ君を、私は心の中で静止した。これは私の戦い
だ。誰にも譲ったりしない。
アランはまるで自らの行動を恐れるように、掌を凝視していた。
行儀悪く、私は血の混ざった唾を吐き捨てた。
﹁あ⋮﹂
正気に返ったような彼が、私の方へ一歩を踏み出してくる。
﹁⋮近づかないでください﹂
押し殺した私の声に、びくりと彼の動きが止まる。
﹁気に入らない下民風情に自ら手を下したと知れれば、都合が悪い
のはどちらですか?﹂
落ちつけ。私は彼を恨んだりしない。恨むぐらいなら、余すとこ
305
ろなく利用してやろうじゃないか。
﹁なにを⋮﹂
﹁今あなたがなさった仕打ち。黙ってて差し上げることもできます。
あなたがその口に鍵を掛けて、そして私に協力してくださるという
のなら﹂
腐っても、私の存在は国王陛下直々の肝入りだ。
それを力づくで排そうとしたとなれば、私も無事では済まないが
アランを道連れにすることぐらいはできるだろう。
証拠はと言われればどうしようもないが、動揺しているのかアラ
ンは信じられない物を見るような目で私を見つめるばかりだった。
リーダーシップを叩きこまれ判断力に自信がある人間ほど、呆然
自失となれば途端にガードが下がる。
相手を丸め込むのに、この好機を逃す訳にはいかない。
﹁お力をお貸しください。アラン・メリス様﹂
私はにこりと笑った。
彼を兄上と呼ぶことは、きっと金輪際ないだろう。
***
アランを迎えに来た侯爵家の馬車で、私とアランはマクレーン家
に向かった。
訓練された侯爵家の侍従は、腫れ上がった私の顔にも表情を変え
なかった、流石だ。
306
ヴィサ君は私を心配したが、アランへの圧力で私は頬の手当をし
なかった。
今日帰ったら、ゲイルとミーシャに酷く怒られることだろう。只
でさえ生傷の絶えない娘だと嘆かれているのだ。
﹁⋮どうするつもりだ?﹂
力ないアランの問いかけに、私は意識して鼻白んだような顔をし
た。
﹁まだ反論がおありで?なんなら今からでもお帰り頂いて結構です
よ?もともと馬車だけお借りできればよかったのですから﹂
﹁⋮お前を一人で行かせられるか﹂
ぼそぼそとより小声になった返答に、私は呆れた。
そこまで警戒せずとも、別にメリス家の家紋入りの馬車を不名誉
な行為に使ったりはしないさ。それぐらいの理性はある︱︱︱有事
の際は別として。
重苦しい沈黙を載せた馬車は、それほど時を掛けずに動きを止め
た。
貴族街の建物は地位が高ければ高いほど王城に近い場所にある。
マクレーン家は貴族街の外縁近くと言った所か。伯爵の割に地位は
低いようだ。
その屋敷は、古めかしくて人気のない暗い屋敷だった。その庭も
整備されているとは言い難い。
﹁酷いな﹂
307
アランの呟きに、私も内心で同意した。
仮にも伯爵家が、辱も外聞も関係なく屋敷の整備を怠るなんて。
マクレーン家の財政はよっぽどひっ迫しているか、それとも当主
が余程の変わり者かのどちらかだ。
メリス家の侍従が屈強な門番に駆け寄る。
見栄え重視の人選であることが多い貴族の屋敷の門番だが、この
家では余程実力を重視しているらしい。
それとも、何か余程守らなければいけない物が屋敷の中にあるの
だろうか?
戻ってきた侍従が馬車の扉を開けた。
﹁“お見舞い頂いて恐縮ですが、ルシアンは郊外の離邸にて臥せっ
ているので後日お越しください”との仰せですが⋮﹂
侍従の報告を受け取ったアランは、一体どうするんだという目で
私を見た。
もともと、先触れもなく相手の家を訪れるなど貴族間ではありえ
ないマナー違反だ。
いくらメリス家が格上とはいえ、この場合は訪問を断られても文
句は言えない。しかし病にかかって三日の人間を無理に移動させた
りするだろうか?
それに、ここまで来てそのまま引き返せない。
私は開いていた馬車の扉から飛び出し、鉄柵に近づいた。おいと
呼び止められたが、気にせずしゃがみ込み、植木の影に手早くペン
タクルを描く。﹃マップ﹄だ。この魔導の面倒なところは影になっ
ている場所に描かなければいけないところだが、それを差し引いて
も攻略対象の居場所が分かるというのは便利すぎる。
それを見るに、ルシアンは間違いなく屋敷にいるようだった。
﹁嘘は面倒な訪問を避けるための建前か、それとも⋮﹂
308
﹁何をぶつぶつ言っている﹂
真後ろから声を掛けられ。私はびくりとした。ペンタクルを慌て
て生えていた草で隠す。このペンタクルは消さない限り、私の脳内
にマップを再現し続ける。同時に私の魔力も容赦なく吸い上げる訳
だが。
それにしても、まさかアランが馬車から降りてくるとは思わなか
った。
﹁ここまでありがとうございました。後は私だけで参ります﹂
元々、私が一人で来れば早々に追い返されるだろうと思って頼ん
だ道連れだ。
正面突破が不可能ならば、後は一人の方が色々と身軽にできる。
﹁何を言っている。こんなところまで来て馬車もなくどうやって帰
るつもりだ?﹂
別に。最悪歩くし。
毎日徒歩で登場している私を甘く見るなよ。
そうは思ったが口には出さない。
﹁ご心配なさらなくても、ここまでご協力いただければ今日の事は
誰にも口外いたしません﹂
﹁そう言うことを言ってるんじゃない!﹂
アランが声を張り上げる。
どうにも面倒な相手を連れてきてしまったみたいだ。
309
私は弱って辺りを見回した。
すると、私の視界をあるものが横切っていく。
しめた!
私は慌ててアランに背を向け、その影を追った。
310
78 閑話 ルシアン・アーク・マクレーン
俺の一番古い記憶は、座り込んだ冷たい地面から始まる。
腹をすかし、痩せこけ、汚れた石壁にもたれて、ずっと空を見て
いた。
すえた臭い。日常的な暴力。降り注ぐ嘲笑の言葉達。
この世界に、美しく幸せな場所などないと、思っていたあの頃。
街角に転がる親のない子供達の中で、俺だけがその男に拾い上げ
られた理由は、この赤茶の髪と、そして目の色の組み合わせである
と、知ったのは大分後になってからだ。
男は俺に食事と風呂を与えて、こう言った。
メイユーズという国にいけば、お前のようなクズにでも幸せにな
る場所がある、と。
俺は馬車に揺られ、狭隘な山道を歩いて国境を越え、この国に入
った。
荷馬車に隠されるように屋敷に入り、信じられない程ふかふかの
絨毯の上に連れ出され、出会ったのが黒いレースで顔を隠した“母
様”だった。
見たこともないような、緑色の髪をした女は執事に命じて俺の代
金を支払うと、俺を売り払った男をそうそうに追い出し、俺を冷た
い目で見降ろした。
ああこの子こそ、私の愛する息子になれるかしらと、呟いて。
あの、焼けつくような痛みを憶えている。
最初に連れて行かれた地下室には、嗅いだこともないような不思
議な匂いがしていた。
冷たい石の床には不思議な文様が描かれ、壁にも似たような文様
が描かれたタペスタリーが下がっていた。
311
黒いローブを身に纏いフードで顔を隠したその男は、俺を冷たい
石の台座にうつ伏せに寝かせ、哀れだなと言って少し笑った。
なぜだろうその男が、気まぐれに俺の頭を撫でたその手が優しい
と思ったのは。
・・・・
男はこぶし大の緑色の石を持ち、ぼそぼそと何か聞いたこともな
いような言葉を口にした。
するとその石が自ら光を放ち、そして脈打った。まるで、その石
自身が生きているかのように。
美しいと、俺は溜息を零した。
男はおもむろにその石を、俺の背中に押し当てた。
ここからの記憶は曖昧だ。
石は背中にのめり込み、体中を内側から焼き尽くすような激しい
痛みが俺を襲った。
指先まで、つま先まで、余すところなく焼いた鉄を流し込まれた
ような。
俺は叫び、涎をまき散らし、こんな思いをするくらいならあの時
死んでおけばよかったと後悔した。
狭い地下室に俺の悲鳴が木霊する。
暗く冷たいあの地下室で、そうして俺は一度死んだ。
次に目が覚めた時、僕はマクレーン伯爵家子息のルシアン・アー
ク・マクレーンになっていた。
食べたこともないような豪華な食事と、与えられる皺ひとつない
上等な服。
柔らかいベッドと、冬に凍えることのない温かい部屋。
貴族になる為の勉強は辛く、少しでも間違えれば体中を打ち据え
られたが、それでも以前の生活よりは全然ましだった。
僕はその奇妙な生活の中で、感情を殺せば殺すほど母様は喜び、
312
少しでも感情を見せれば容赦なく罵声と鞭が飛んでくるのだという
事を学んだ。
僕が上手くやれば、母様は嬉しそうに微笑んだ。
それでこそマクレーン家の息子よと、僕を抱きしめてくれた。
それは温かい腕だった。僕は、誰かに抱きしめられたりするのは
生まれて初めてだった。
母様の望む息子にさえなれば、ここでずっと暮らしていける。
いくら鞭が痛かろうと、勉強が辛くても、もうあの生活に戻るの
だけはいやだった。
そうして一年の月日が流れ、あの少年はやってきた。
学習室にやってきた、平民上がりの少年だ。
建前上平民だということになってはいたが、その少年は本当は下
民街の生まれであると、学友達は口々に噂していた。根拠のない、
それは悪意のある噂だった。
この国は下民街の存在を公けには認めていない。
確かにそこにあるのに、そこで生きる多くの人々がいるにもかか
わらず、あってないもののように扱う。
汚いものには蓋をし、快楽だけを享受する事に熱心な貴族たち。
でも、僕はそんな彼らに反感や怒りは感じなかった。
母様に褒められること。それだけが僕にとっては生きる上で何よ
りも重要だったからだ。
その後、すぐに脱落していくであろうという大方の予想を裏切り、
少年は学習室で強かに生き残った。
異国の文化や歴史に通じ、特に国際情勢等に対する博識さには講
師達も舌を巻いていた。
それが面白くなくて、くだらない嫌がらせをするような輩もいた
ようだが、彼は小さな体で、見事にそれを受け流した。
異国の菓子を振る舞うというその奇策には流石に驚かされたが、
その菓子は舌の肥えた貴族の子供達をも夢中にさせるほど美味だっ
313
た。
彼は学業でもめきめき頭角を現し、一年経たない内に王子の四肢
として数えられる第五席にまで上り詰めた。
その頃だったか。
彼が、ルイが、僕に話しかけてくるようになったのは。
ルイは不思議な少年だった。
僕の体にある傷を痛ましそうに見つめ、しかし特に何も言わなか
った。
けれど次の日から、一緒に食事をしようと手製の料理を籠に詰め
て持ってきたりした。
彼の料理は、見たこともない料理ばかりだった。
それらはとてもおいしかったので、僕は彼の誘いを断ることが出
来なかった。
誰も来ない静かな東屋で、何もしゃべらない面白みのない僕に、
彼は熱心に話し続けた。
他愛もない話だ。
遠い異国の話や、農村での暮らし。自分の好きな本。マナー講師
の変な癖。
彼は、僕に相槌は求めなかった。
無言で食べ続ける僕に、彼はただなんでもない日常を面白おかし
く語り続けた。
中でも僕が一番興味を引かれたのは、ルイの養母であるというミ
ーシャ・ステイシー夫人の話だ。
ルイの語る彼女は、慈悲深く優しく、体が弱いのにルイの為には
無理ばかりしようとするらしい。
この髪を切ったのも彼女なのだと、ルイは照れ臭そうにその不揃
いな髪を撫でた。
その時僕の中で膨れ上がった気持ちは、なんだったのだろう。
羨望。嫉妬。諦め。切なさ。痛み。
僕も、彼のように愛されたかった。たとえ実の子ではなくとも。
314
明るくて、優しいルイ。
自由でいながら、ミーシャに存分に愛されているルイ。
同じようで、何もかもが違う僕ら。
それで、何かが変わると思った訳じゃない。
むしろ、そんなことをすれば打ち据えられるのだろうと、容易く
予想がついた。
でも、あの厳しく、そして悲しく笑う母様に、僕はどうしてもそ
の料理を食べさせてあげたかった。
﹁これは、一体どうやって作るんだ?﹂
ルイは僕の言葉に目を見開いて驚き、そしてとても嬉しそうに笑
った。
315
79 潜入
﹁なにも⋮ここまで付いてこなくても⋮﹂
﹁何か言ったか?﹂
﹁別に﹂
アランに独り言を聞きとがめられ、私はそれを冷たく受け流した。
彼は慣れない平民用の服を纏い、不機嫌そうにその少し長い袖口
を気にしている。
あからさまに不機嫌そうにするぐらいなら、こんなところまで付
いてくるなとマジで言いたい。
あの時私が見つけたのは、伯爵家の裏口に走るメッセンジャーら
しき平民の子供二人組だった。
貴族街でも平民の姿を見ることは多く、その中でも大事な約束や
メッセージを伝えるメッセンジャーは非常にポピュラーだ。
勿論、主人の手紙などを届けるのはその屋敷に仕える小姓等の使
用人や魔導の役目だが、例えば使用人同士のやり取りや出入り業者
と貴族宅を繋ぐのは、割合服装のまともな平民の子供であることが
多かった。
彼らはメッセンジャーをして小遣いを稼ぎ、平民街で菓子などを
購うことのできる裕福な平民だ。
私は兄弟だというその二人組に、洋服を取り換えてくれないかと
頼んだ。
明らかに貴族の物である私とアランの服装に彼らは目を丸くして
いたが、メッセンジャーとして裏口から入って使用人を驚かせたい
と言えば、割合素直に信じて服とメッセージを任せてくれた。
316
というかアラン
それ以前に、私達二人の服を売れば、かなりいい値になることだ
ろう。彼らは快くその役目を譲ってくれた。
人気のない伯爵家の裏で服を交換した私達は、伯爵家の裏門に立
ち中の様子を窺っていた。
因みに、ここに至るまでに何度も私はアランに帰る様に進言した
のだが、彼は頑としてそれを聞き入れなかった。
まさかアランが平民と服を交換するところまで付いてくるとは思
っていなかった私は、正直平民の服装をしていても背筋のぴんと伸
びた上流階級丸出しの彼を持て余していた。
とりあえず少し毛羽立ったハンチング帽に彼の艶やかな群青の髪
を押し込んでみたが、やはりその高貴さを隠しきることはできない。
監視する為なら侍従に任せればよくね?
私は口の中でもごもごと不満を炸裂させた。
決してそれを口から出すことはできなかったが。
﹃何考えてんだ?こいつ﹄
ヴィサ君も、あきれた様子でふよふよとアランを見下ろしている。
とにかく私は気を取り直し、前門よりも無防備な裏口から伯爵家
へと侵入した。
手には少年達から預かった御用達の商家からの手紙が握られてい
る。
私だけに限って言えば、変装は完璧だ。
むしろ服が大き目で髪が不揃いなだけに、メッセージを届けに来
た本物の平民の子供達よりも私の方が些か貧相なぐらいだった。
私は裏口から続く、扉のない厨房の入り口から中を覗いた。
動物の解体など汚れ物の多く出る厨房は、こうして扉を作らず半
土間のような造りになっていることが多い。勿論、日本ではないの
で三和土ではなく均等にカットされた白い石が敷き詰められている
のだが。
317
晩餐の仕込みを行っているはずの時間だというのに、厨房には誰
もいない。
私はきょろきょろと周囲を見回した。
マクレーン家は、伯爵家にしては奇妙なぐらい人気がなく不気味
だ。
﹁誰かいないのかー!﹂
アランが苛立たしげに叫んだ。
ちょ、そっと潜入と言う前提が崩れるから。
私は慌てて彼の口を抑える。
あわてて周囲を見回すが、聞えなかったらしく返事はなかった。
ほうと安堵の溜息。
﹁⋮勝手なことはしないでください。出来るだけ物音を立てないで。
このまま中に入ります﹂
もし誰かに見つかっても、メッセージを届けに来たのに厨房に誰
もいなかったと言えば大目に見てもらえるだろう。
私はこの幸運に感謝し、ついでにどこまでもついてくる不幸を横
目にしつつ伯爵家に侵入した。
マジで、どこまでついてくるんだ?このお兄様は。
アランは抑えられた私の手の下でなにやらぶつくさと言っていた。
妨害するぐらいならマジで帰れと思い、ここまで彼の馬車を足に
してその名前を利用しようとした罰が当たったのかと私は肩を落と
した。
伯爵家はひっそりと静まり返っている。
私は人の気配にすぐに気づけるように感覚を研ぎ澄ましながら、
半眼で発動させっぱなしにしている脳内のマップを確認していた。
318
伯爵家のマップは攻略前のダンジョンのように分からない所がだ
らけだが、私の現在位置とルシアンの現在位置が分かるのがせめて
もの救いだ。
私は弱々しく光るその光を目指した。
しかし不思議なことに、マクレーン家に入ってからその光が二重
になっている。
まるで、二つの光が同じ場所に重なっているかのように。
同じ色の光なので、それはどちらもルシアンの場所を知らせる光
だ。
どういうことだろうと首をひねりつつ、私は昼間なのに薄暗い廊
下を進んだ。
﹁おい﹂
﹁なんですか?﹂
﹁⋮まだ、先へいくのか?﹂
﹁ルシアンの無事な姿を見るまでは、私は帰りませんよ。帰りたけ
ればお好きにどうぞ﹂
沈黙が落ちる。
アランの様子はマクレーン家の奥に入れば入るほど奇妙になって
いった。
私とやけに距離を詰めて歩くし、さっきから何度も遠まわしに帰
ろうと打診してくる。
なら一人で帰れと思うのだが、私が素っ気なく対応しようと彼は
私の傍から離れなかった。
何なんだ一体。
319
﹃こいつ、ビビってるんじゃねーか?﹄
﹃え?﹄
﹃いや、だってこいつ、さっきから震えてるぞ?それに、やけにリ
ルと距離が近いし﹄
予想もしていなかったことを指摘され、私は思わずヴィサ君を見
上げて立ち止まった。
後ろからは、ほんの微かな押し殺された悲鳴。
﹁な⋮何を見ている?﹂
弱々しいアランの声に私は目を丸くした。
もしかして、帰らないんじゃなく一人じゃ帰れないのか?
まさか、ほんとこの人なんで付いてきたんだろう。
﹁別に、何でもありません﹂
溜息を堪えつつ、私は伯爵家というダンジョンを先に進んだ。
320
80 重なる運命
暗い地下室は、昼だというのにひんやりとしていて、ジジッとい
う松明の燃える音が嫌に響く。
﹁まったく、伯爵様にも困ったものだ﹂
黒いローブを纏った男︱︱︱クェーサーは、言葉とは裏腹に少し
愉快そうに呟いた。
彼の目の前にはあの時のように、いや、あの時よりも一人多く、
石の台座に二人の少年が寝かされている。
二人とも同じ年頃の、そして色味は少し違うのだろうが同じ色彩
の髪と目を持つ少年だった。
彼らは昏睡とも言っていいような深い眠りの中にあり、更には革
でできたベルトで隣り合わせにうつ伏せで固定されていた。
そして左側に眠る少年の背中には、その左の肩甲骨の下には、あ
の日クェーサーが植えつけた緑色の石が今もぼんやりと輝きながら
脈打っている。
﹁よく育ったな﹂
クェーサーが満足そうにその石を撫でた。
確かに彼の言うとおり、その石は当時よりも一回り程大きくなっ
ているようだ。
レッドブッグ
その石、一見魔法石にも見えるそれは、厳密にはアンテルドと呼
ばれ、国家間での移動が禁止されている危険魔導生物に指定されて
いるご禁制の代物だ。
アンテルドは厳密には石ではなくれっきとした生命体であり、そ
れもかなり危険性の高い寄生型という属性を持っている。
321
彼らは生命力の高い若い個体に寄生し、そしてその生命力を喰ら
う。更にその個体情報を収集し、寄生した個体を自分に都合のいい
個体に作り変えてしまうという恐ろしい特性を持つ。
初め、人類がこの生命体と出会った時、狂喜した。
なぜならアンテルドは宿主から生命力を効率よく吸い出すために、
貴族しか持ちえない魔導脈と非常によく似た器官を人体に作り出す
ことが出来たからだ。実際、アンテルドを寄生させた人々は次々と
魔力を持つに至った。数百年前、アンテルドは大陸に爆発的に広が
りを見せた。
しかし、それから数年してアンテルドの危険性が明らかとなった。
彼らを自ら寄生させた若者達は皆、感情を失い個性を失い、そし
て緩やかに生きる屍となった。そうして生まれた虚ろな肉体は、生
きながらにアンテルドを育む鉱脈となるのだ。
それ以来アンテルドの使用及び所有は大陸全土で禁止され、発見
次第捕獲、もしくは駆除対象とするよう取り決めがなされている。
しかしそういった品を専門で扱う商人も少なからず存在しており、
アンテルドは今でも根絶されることなく大陸の闇で高額で取引され
ているのだ。
従順な息子を求めるマクレーン女伯爵は、それを高値で買い求め
ては亡き夫と同じ外見的特徴を持つ男児に埋め込み、気に入れば育
て、気に入らなければ壊すを何度も繰り返していた。
﹁もっと、もっと大きく育てよ﹂
ペット
まるで愛玩動物に語りかける様な呟きが、闇に落ちる。
クェーサーの︱︱︱アドラスティア商会の扱うアンテルドはかつ
てのそれと少し違っていた。それは、人から人へと移植できるとい
う点だ。
育ったアンテルドの大きさは宿主の魔力に比例する。つまり、ア
ンテルドが育てば育つほど強力な魔導を扱うことが出来るのだ。
322
今、クェーサーは、ルシアンの体に埋め込まれたアンテルドを、
次の宿主へと移植しようとしていた。
深く寄生したアンテルドを引き剥がすという行為は、殺人と同じ
だ。
体に深く侵食した魔導脈ごと引き剥がされれば、ルシアンはアン
テルドの鉱脈にすらならず体中が散り散りになって死に絶えるだろ
う。
︱︱︱それはまるで、クェーサーが屠った主計官や騎士達、そし
て下民街で死んだ貴族達と同じように。
その瞬間を想像して、クェーサーは歓喜の溜息を零した。
そしてその唇が、ぼそぼそと不思議な呪文を唱え始める。
もうこの大陸からは淘汰された、既にない国の言葉、その術。
すると予め床に描かれていた巨大なペンタクルがぼんやりと光り
はじめ、それに呼応するようにアンテルドもその光を増した。
死んだように眠っていたルシアンの息が荒くなり、すぐにそれは
呻きに変わる。
きつく引き絞られた革のベルトの下で、その華奢な体が必死にも
がいていた。
クェーサーはその光景を、不思議な既視感と共に見つめる。
もう他人の苦しみになど、何も感じなくなってしまった。まるで
かつての自分のような、哀れなその少年にすら。
クェーサーの詠唱は少しずつ大きなものとなり、ルシアンの苦し
みは増していった。アンテルドの脈動はどんどん早くなり、その強
い光はまるで生き物のようにすぐ側の生贄を探り当て、その少年の
背中を侵食する。
二人の少年の呻き。
裸足の甲がびたんびたんと石台を打つ。
神々しいような毒々しいような緑の光が地下室に溢れ、それに気
323
圧されるように松明の火が消えた。
クェーサーは歌いだすような上機嫌で太古の呪文を奏でる。
その国は、かつて歌によって魔力を扱う一族が治めていた。
魔導など︱︱︱罪深い人間達が作り出した小手先の技に過ぎない!
クェーサーが最後の一小節を口にしようとした、その時。
突然の酷い振動が地下室を襲った。
﹁なッ!﹂
地下室に光が溢れる。しかしそれはあの妖しい緑の光ではなく、
健全な光の粒子だった。太陽が沈む寸前の、橙の強い光だ。
詠唱が途切れてしまったことで、アンテルドは具現化するための
憑代を失い霧散していた。
﹁何事だ!﹂
ガラガラと崩れてきた小石がクェーサーを襲う。
しかし、地下室の天井自体は不思議な事に綺麗に消滅してしまっ
ていた。
頭上に見えるのは、闇に慣れた目を突き刺す日の光と、そして⋮。
﹁なんていう無茶をするんだお前は!﹂
﹁だって⋮ヴィサ君やりすぎだってば!﹂
﹃リルが地下へ行く道が見つからないって言ったんじゃんよ∼﹄
324
﹁だからって床を丸ごと引っぺがすとか!何考えているの!!﹂
事態に比べてあまりに緊張感のないやり取りに、クェーサーは呆
気にとられてしまった。
325
80 重なる運命︵後書き︶
シリアスになりきれない私です
326
81 危機
モクモクとした土煙が去ると、そこに広がっていたのは異様な光
景だった。
私はヴィサ君へ非難をやめ、その暗がりに目を凝らした。
闇の粒子が取り巻く黒いローブの男と、石台にうつ伏せで固定さ
れている二人の少年。その背中に輝く、異様な緑の宝石。
アランもすぐに状況に気が付いたのか、口を閉じて息を呑んだ。
﹁クェーサー⋮?﹂
この男の取り巻く魔力を、私は知っている。
かつて私を窮地に陥れ、国に混乱を招いた闇の精霊使い。
憎まねばならないのに、彼はどこかで私に似ている。
﹁はっは!相変わらず、意外な登場をしてくれる。おかげで丹精込
めた術式が台無しだ﹂
彼の言葉に、その異様な部屋に視線を走らせた。
床に描かれた見覚えのない複雑なペンタクルはヴィサ君の魔法の
衝撃か所々が欠けてしまっていた。
それは横たわる二人の少年の背中も同じことで、気を失い、所々
血の滲んでいる彼らに私は血の気が引いた。
﹁ルシアンッ﹂
背格好の似た二人の少年。
それも石台にベルトで固定されているなんて、絶対に普通ではな
い。
327
まるで何かの生贄にでも捧げられているような光景に、私はクェ
ーサーを睨んだ。
﹁今度は何をするつもりですか!﹂
﹁君には関係のない事だよ︱︱︱今のところは﹂
私たちの方が位置的には見下ろす位置にあるにも関わらず、クェ
ーサーはどこか愉快そうで余裕のある態度だった。術式が台無しと
言う割に、それを残念そうにする素振りもない。
それをおかしいと思った瞬間、視界の端に揺れるドレスの裾が映
った。
咄嗟に振り返ると、そこには老年の執事に付き添われた貴婦人の
姿があった。
贅の凝らされた美しいドレスと、乱れた緑の髪。赤い唇。
しかし彼女の顔には貴婦人らしくない険のある表情が張り付いて
いた。化粧では隠しきれない落ち窪んだ目と癖になってしまってい
る眉間の皺が、彼女の身勝手な性格とそれによって失った愛を象徴
しているようだった。その鬼気迫る雰囲気は、私の義母によく似て
いる。
﹁これはどういうことなのかしら、クェーサー?この子供たちは?
“私のルシアン”は無事なのかしら?﹂
ね
言葉とは裏腹に少年達の背中を睥睨しながら華奢な扇子をパシリ
と突きつけ、彼女は優雅な言葉遣いのままクェーサーを睨みつけた。
その態度が、言葉が、私の怒りをちりちりと煽る。
﹁この屋敷の警備までは契約の範疇外ですので。むしろ、術の途中
で邪魔が入られて私も困っているのです﹂
328
﹁こんな平民の子供が?﹂
明らかに貴族の物とは違う質素な服装をした私達を、マクレーン
女伯爵はギロリと睨みつけた。
しかし、私は恐いとは思わなかった。
母親なんて名ばかりで、ルシアンを苦しめたその人を、私はどう
しても許すことが出来なかった。
しかしここで不用意な事を言えば、ステイシーの家に迷惑がかか
る。私は心のままに彼女への怒りを吐き出すことが出来なかった。
それにほんの少しだけ、アランの事も気にかかった。大嫌いだが、
約束だからとここまで付いてきたお人よしな異母兄。高位貴族の子
息が平民の服を着て他家に忍び込んだとなれば、不名誉は免れない
だろう。それが王子の学友の筆頭であったならば尚更だ。
それほど長い時間ではなかったが、私がぐるぐると逡巡している
間に、私を庇うように前に出る影があった。
それはまだ小さな背中の、アランだ。
﹁伯爵閣下、これは一体どういうことでしょうか?私の学友にあな
たは何をなさっているのですか?﹂
先ほどまでとは違う険のある声に、一瞬私は動揺してしまった。
﹁アラン、ここで身分を明かしたら⋮﹂
右手の裾を引いた私の小声の忠告を、アランはつまらなそうに振
り切った。
﹁私は“王子の四肢”第二席、メリス家次男アラン・メリス。突然
のご無礼を謝罪致します。しかし、我が学友であり“王子の四肢”
329
の第三席であるルシアン・アーク・マクレーンへの仕打ち、如何な
親子であっても、看過できるものではありません。これは王子への
反乱、延いてはメイユーズ王家への叛意ともとられかねない暴挙で
すよ﹂
アランの言葉は冷静だが鋭かった。
ルシアンへの仕打ちを王家への叛意とするのは私から見ても乱暴
だと思えたが、自分より上の侯爵家であるメリス家の名前に、伯爵
は明らかに動揺していた。
﹁⋮余迷い事を。それをどうやって証明するというの。あなたはた
だの平民の子供ではないの。そう、この家からさえ出さなければ!
クェーサー!﹂
﹁後で割増料金を頂きますよ、っと﹂
身軽な動作でクェーサーは地下室から一階の廊下に飛び上がると、
ローブについた埃を払った。
﹁早くこのガキを始末して、私の目の前から早く!﹂
伯爵の甲高い声が耳を劈く。
私はごくりと息を呑んだ。
﹃ヴィサ君、あの二人を乗せて王城へ飛んで。シリウスの所へ!﹄
﹃なんでだよ!俺がここでいなくなったらリルが危ないだろ﹄
﹃私達はどうにかするから!それより、この騒ぎでも目を覚まさな
いあの二人の方が一刻を争う。お願いだから。王城に飛んでシリウ
スにこのことを伝えて。あとカノープス様にも﹄
330
﹃そんな⋮﹄
﹃命令よ!行きなさい!!﹄
心の中で叱咤すると、ヴィサ君は尻尾をしょぼんと垂れさせなが
ら巨大化した。
可視化した彼の姿にアランと伯爵が呆気にとられる。
その隙に彼は二人の少年を背に乗せて、窓枠を破壊して外へ飛び
出していった。
﹁すぐに戻るから、絶対に無事でいろよ!﹂
言いながら、置き土産のようにヴィサ君はクェーサーに向けて巨
大な鎌鼬を放っていった。
クェーサーは自分の周囲にいた闇の精霊を身代わりにしたので、
傷一つ負ってはいなかったが。
﹁⋮リシェール、逃げろ。ここは私が食い止める﹂
小さな背中に私を隠したアランが、小声で呟く。
そして胸元から美しいガラスペンを取り出し、空中に簡素なペン
タクルを描きだした。
﹁それは⋮﹂
私は言葉を失う。
騎士団にあってすら、アランと同年の子供でも魔導をまともに発
動させるどころかこの魔導用のペンをまともに扱う事すらできなか
った。
331
学習室でも魔導の勉強はまだ危険だからと言う理由で理論が主で、
実技は殆ど教えられていない。
私の目の前で完成したペンタクルに呼応するように、細い銀色の
鉄線が左右上下の壁から飛び出し、私達とクェーサーの間に張りつ
めた網を張った。アランの属性は金だ。これではこちらに来ようと
した者は賽の目切りになってしまうだろう。
﹁ほう?﹂
クェーサーが愉快そうに眼を眇める。
確かに、物理的な攻撃ならこれで防げるだろう。
でもクェーサーは闇の精霊使いなのだ。
その様子を窺うように私が視線を向けると、彼のシルエットが一
瞬ぶわっと膨らみ、そして黒い亡霊のようなものが空気中に霧散し
た。私は思わず口を押える。伯爵とアランには見えていないのか、
彼らの様子に変化はない。
私は辺りを見回した。
何かペンタクルを描く物をと思うが、赤い絨毯の敷かれた廊下に
は何も見当たらない。
アランのペンを借りようかとも一瞬思うが、あれは恐らく金属性
専用のペンだろう。アランを攻略しなかった私は、それほど金属性
のペンタクルを知っている訳ではないのだ。
ついでにマップ魔導を発動しっぱなしにしていた事とヴィサ君が
具現化した余波で、私の魔力は思った以上に削られているようだっ
た。目が霞み足に力が入らなくなってくる。こんな時に。私は苛立
たしさで舌打ちした。
332
82 美しい世界︵前書き︶
書籍化の為、本文を一部引き上げます。詳しくは活動報告にて
333
82 美しい世界
ああくそう、ヴィサ君に偉そうな事を言っておいて八方ふさがり
だ。
こっちは幼気な子供二人で、向こうは戦闘力未知数の精霊使いと
狂気の奥方とその召使い。
後の二人は気にしないにしても、戦力的にこちらの圧倒的不利は
間違いない。
もう一か八かだ。
ああ、私はこの世界でこんなことばかりしているな。
﹁クェーサー!﹂
﹁なにかな?まさか私に命乞いでも?﹂
そんなこと、したって無駄なのはわかってるさ。
﹁いいえ、僕はご忠告差し上げたいだけです。こんなところで悠長
にガキ二人を始末している場合ですか?﹂
私を庇っていたアランが、敵を挑発するなと私を睨んだ。挑発し
て冷静さを失ってくれる相手だったら、どれほどよかったか。
﹁ほう、それはどういう意味だい?﹂
﹁あなたも見ていたでしょう?今、私の精霊がルシアン達を連れて
城へと飛びました。この国の魔導を司るシリウス・イーグの元へ飛
ぶようにと。私の精霊の属性は風。あなたの優秀な精霊達よりも素
早い事だけは保証しますよ﹂
334
暗に、追いかけさせても追いつけはしないと釘を刺しておく。
﹁ははは、相変わらず面白い子だね。僕に尻尾を巻いて逃げろと?﹂
﹁さあ。ただ、あなたらしくないとは思います。ここで僕達は殺す
のは、随分と割に合わない仕事では?﹂
クェーサーが口元に苦笑浮かべて首を傾げる。
とにかく、この会話を少しでも引き伸ばさなくては。相手の戦闘
意欲も削げれば上々だ。
﹁この館の惨状を見ても何も思われませんか?失礼ですが、マクレ
ーン伯爵家はもう終わりです﹂
﹁何をっ﹂
伯爵が鬼気迫る顔で私を睨む。
しかし、アランの作った鉄線バリアがあれば彼女を恐れる必要は
ない。あの豊かな緑の毛髪。それを取り巻く緑の粒子。彼女は木属
性だ。そして金は木に克つ事が出来る。
﹁先ほどあなたに約した報奨金も、果たして本当に支払われるので
しょうか?誇り高い貴族が使用人を減らしてまで生活の困窮に堪え
ているというのに?﹂
先ほどから、こんなにも騒ぎ立てているというのに駆けつける使
用人は伯爵の傍にいる一人きりだ。手入れの行き届かない館の外観
と、厨房からここまで誰にも出会うことのなかった状況を考えれば、
伯爵家の貧窮は火を見るより明らかだった。
335
﹁世迷い事よ!クェーサー、あなたには十分な対価を用意している
わ。私の実家は侯爵家なのよ?そんな子供の言う事などに耳を貸さ
ないで﹂
﹁⋮貴方はご実家とは縁が切れているはずですが。現侯爵家当主で
あるあなたの兄上が社交界で公言なさっておいででしたよ﹂
アランが警戒を解いていない低い声で呟いた。
﹁うーん、困ったな。ここで君達二人を始末するのは大した手間で
はないけれど、無償でメリス侯爵家の恨みを買うのは確かに割に合
わない﹂
﹁クェーサー!﹂
クェーサーの場にそぐわない呑気な口調に、間髪入れずに伯爵の
金切り声が被さる。
伯爵は貴族らしい淑やかなふるまいを捨ててクェーサーに詰め寄
る。
﹁あなたが私に言ったのよ。失った息子を蘇らせることが出来ると。
私は今までだって十分な対価を支払ってきたはずだわ。それなのに
私を裏切るというの!?﹂
それは血を吐くような叫びだった。
絵本に描かれた魔女のように、彼女は長い髪を振り乱し、痩せこ
けた顔に皺を寄せている。
そんな伯爵の白い頬に、クェーサーはそっと指を這わせた。まる
で愛しい者にでもするように。
336
﹁いいえ伯爵閣下。それは間違いです﹂
﹁なら⋮ッ﹂
伯爵はその先の言葉を続けることが出来なかった。
クェーサーが家畜のオロロン鳥を掴むように、彼女の首を握りし
めたからだ。
﹁私は別にあなたの味方ではないのですよ。だから裏切るという表
現は当てはまらない。我々はお金だけで繋がれたただの雇用関係の
筈ですよ?﹂
つま先の浮いた伯爵の足がもがいて空を切っても、クェーサーの
細身の体は想像もつかないような強靭さでちらりとも揺るがなかっ
た。
人の呼吸器の締まる音がする。そしてゴキゴキという骨のきしむ
音が。生理的な反応なのか伯爵は口を大きく開けて舌を出し、ぼろ
ぼろと沢山の涙がクェーサーの手を濡らした。
﹁私はこの国が嫌いだ。そして人々から当然のように搾取する支配
階級が嫌いだ。本当はあなたの方こそ、いつ殺して差し上げても構
わなかったのですよ?﹂
口づけするような近さで、微笑みながらクェーサーは伯爵に囁い
た。
私は気付けばアランの二の腕を掴んでいた。
恐ろしい男だとは思っていたが、目の前で彼が人を手に掛けると
ころを見たのは初めてだ。
もう本当に、絶対的に、彼は騎士団で私に優しくしてくれた彼と
337
は違うのだ。
召使いが悲鳴を上げて逃げていく。
伯爵の顔からは血の気が引き、眼球も零れ落ちそうなほどだ。陰
惨すぎる光景に、私は息を呑んだ。それを察してか、アランが自分
の背中に私を隠し、私の視界を塞いだ。
ゴキリと何かが折れる音がして、しばらくして悪臭が広がった。
聞き覚えのある水音。伯爵が失禁したのだ。
耐えきれず、私はアランの背中から状況を窺う。
クェーサーはつまらなそうに手を離し、女の体は広がった染みの
上に投げ出された。
そう望んだ訳ではないが、まるで私がけしかけて伯爵を殺させた
ようで後味が悪かった。体の震えが止まらない。私はどうして、こ
んな無慈悲な世界に迷い込んでしまったのだろう?
クェーサーは私たちに背中を向けていて、その表情を読み取るこ
とはできなかった。
﹁ルイ﹂
静かな呼びかけに、私は竦み上がる。
﹁⋮なんですか?﹂
﹁この女を見ても分かるだろう?貴族と言うのは須らく腐った生き
物だ。それを掃除しなければ、真に美しい世界は訪れない﹂
﹁貴様ッ﹂
激昂しそうになるアランの肩を強く握って押し止めた。もう彼が
私たちを殺す理由はないが、このまま去ってくれるというのならば
その方がいいに決まっている。
338
﹁⋮彼らを殺しても、また別の誰かがそれに取って代わるだけです。
真に美しい世界に、人間の存在はありえない﹂
それは多くの歴史が証明している。この世界でも︱︱︱そして過
去に暮らした地球でも。
クェーサーは背中でひらひらと手を振ると、瞬く間に闇の粒子が
彼を取り巻き、そしてその姿は掻き消えた。
緊張が途切れて、私は膝から崩れ落ちる。
アランの呼ぶ声が、遠くに聞こえた。
339
83 女の妄執
﹁魔導を起動させたままペンタクルを離れるなんて、何を考えてい
る﹂
その低い声には普段は聞き慣れない怒りの気配が確かにあった。
﹁⋮すいませんでした﹂
私はベッドの上でしょぼんと肩を落とした。
普段怒らない人に怒られるのは、正直とても怖い。
その相手が絶世の美貌の持ち主であれば、その恐怖は倍増だ。
﹁﹃位置把握﹄の魔導は広域を対象とした非常に魔力消費の激しい
術だ。決して気軽に使ってはいけないし、仮令消費の少ない術でも、
起動中は絶対にペンタクルから離れるな。分かったな﹂
﹁はい⋮﹂
ふう。決して怒鳴ったりしないその静かな口調が余計に怖いです。
本当に本当に、もうしません︱︱︱有事の際を除いて。
﹁⋮分かるだろうリル?私はお前が心配なんだ﹂
ベッドの傍に跪き、顔を寄せてくる絶世の美貌。
ひぃーーー!
勘弁してくださいまし伯父様!距離近い距離近いってかこんな時
に限ってなぜ本来の姿なの?
340
﹃いい加減に離れろシリウス!リルがゆっくり休めないだろうが!﹄
子犬ちゃんなヴィサ君ががなり立てる。
今回も彼は大活躍でした。
﹁ヴィサ君もごめんね。無茶な頼みばかりしちゃって﹂
﹃いいって、俺はリルの精霊なんだからな。むしろどんどん頼って
くれよ!でも、今度からは戦闘中に俺を遠くにやる様な命令はしな
いでくれよ。離れてちゃお前を守れないからな﹄
可愛い外見で頼もしい精霊さんです。
普段はちょっとうるさいとか思っててごめんね。
そんな頼りになるヴィサ君を、シリウスがいつにも増して冷たい
目で見ていた。
その時、騒がしいベッド周りから少し離れた場所で、ゴホンと咳
払いをする人物が。
﹁それで、いつになったら私は事情聴取が出来るんですかね?ルイ
の意識が回復したと聞いて忙しい公務の間を縫ってやってきたので
すが﹂
﹃忙しい﹄にアクセントを置くカノープス近衛隊長は、私と違っ
て実際に叔父であるというシリウスに対して以前よりも遠慮がない
ようだ。
これは余程苛立っているのだろうと、私はこれ以上ないほど身を
小さくした。
﹁近衛隊長にもご迷惑おかけしまして⋮﹂
341
青くなって謝罪を口にする私に、彼は溜息を一つ。
﹁お前の無茶は今に始まったことではない。だが、ここから先は我
々大人の領分だ。これ以上の無茶はするなよ﹂
怒ってないように見せかけてしっかり釘を刺されましたけど!
ふう、やるなカノープス。私の負けだ。
そこからは救国の騎士様による事情聴取の時間になった。
嘘偽りをすると後が恐そうだったので、私はルシアンについて知
っている事を洗いざらい吐く。ついでに伯爵家で出会ったクェーサ
ーの事も。
クェーサーの名前を聞いた瞬間、カノープスは一瞬眉を顰めて厳
しい顔をしたが、特に私の話を止めたりはしなかった。
クェーサーが伯爵を殺害して立ち去ったところまで話し終わると、
カノープスはずれてもいない眼鏡を直して再び溜息をついた。
﹁とにかく、君が自分から騒動に首を突っ込んだことだけは良くわ
かった﹂
﹁うっ!それはそのー、ルシアンが心配で、ですね⋮⋮﹂
﹁心配だったのなら他に方法がいくらでもあっただろう?前回私に
会った時にもっと詳しく話してくれてさえいたら、こちらでいくら
でも動きようがあった。君のしたことは安易に自分とアラン・メリ
スの身を危険に晒し、更には私や叔父上、他にも大勢の人間に迷惑
を掛けた。それに、君が無茶な潜入さえ行わなければ伯爵が死ぬこ
とはなかったんじゃないのか?﹂
342
カノープスの鋭い眼光に、私はぐうの音も出ずに俯く。
確かに彼の言うことは何から何まで正論だ。
私が、もっと自分で調べてから報告しようとかそんな悠長な事を
考えていないで、最初から何もかもカノープスに打ち明けていたら、
伯爵が死ぬこともアランを危険に晒すこともなかっただろう。
﹃ゴラァ!言いすぎだろがエルフのガキが!確かに伯爵は死んだが、
代わりにその子供が助かったのはリルのお手柄だろ。自分が役立た
ずだったからってリルに当たんじゃねーよひよっこ!﹄
﹁ヴィサ君!﹂
口の悪さここに極まれりなヴィサ君を叱れば、彼はふてた様に空
中で丸くなってしまった。
ああー、空気悪いよ。
私が全部悪いのは分かっているのだが、一体これ以上どう反省す
れば彼らは満足するのだろうか。
今回は本当に、本当に自分の未熟さが招いた事件だったと思う。
だけど、そんな自分の何百倍も生きているような人達に威圧され
たら、私だって泣きたいぐらい辛くなったりするのである。
でも、叱られて泣いて許してもらうなんて、そんな結婚目当ての
男受け重視派遣OLみたいなことはしたくない︵差別的表現︶。
私は涙が零れてしまわないようにしっかり前を向いた。
正論を突かれたら、誰だって涙が出るくらいには痛いのだ。自分
がその正論に納得していれば特に。
﹁⋮カノープス、それぐらいにいておけ。乱暴だが、そこのバカ精
霊の言葉にも一理ある﹂
﹃お前は俺に普通に賛同したりできないのか⋮?﹄
343
シリウスは静かに立ち上がると、私の頭を撫でて背中を向けた。
﹁私はあの子供達の処置に戻る。カノープスが行き過ぎないよう見
張っておけ、ヴィサ−ク﹂
﹃言われなくても!﹄
シリウスの背中の命令にヴィサ君は尻尾を一振り。
基本仲が悪いのに、やけに息が合うのはこの二人の謎なところだ。
カノープスは何度目かの溜息をつくと、癖なのだろう人差し指で
眼鏡のブリッジを押し上げた。
﹁⋮今回の事件の後、伯爵家には王都の治安維持隊ではなく私の部
下が捜査に入った。魔導による罠や二次災害に対処するためだ。そ
こで⋮多数の子供の遺体が発見された﹂
感情を含まないように見えて、いつもより少し低いカノープスの
声がその異常な事態を私に告げる。
・・
﹁お前が天上を破壊した地下室の続きの部屋に、それは山積みにな
っていた。まるでバラバラになって混ざってしまったパズルのよう
に、二度と復元できない程粉々にされた状態で﹂
私は吐き気を覚えて思わず口を押さえていた。
﹁微かに残っていた毛髪などから、彼らはかつて“ルシアン”を務
めた少年達であると分かった。古いものでは白骨していた物もある。
本物のルシアンが死んだ頃の身代わりだろう﹂
344
﹁本物のルシアンが⋮死んだ?﹂
﹁ああ、お前にルシアンの事を言われて秘密裏に調べていた。彼の
父親の事故調書には改竄の跡がある。そして当時遺体の検死を手伝
っていた理容師から新しい証言が取れた﹂
﹁理容師、ですか?﹂
﹁ああ、ルイには馴染がないだろうが、彼らは散髪や髭剃りだけで
なく瀉血や検死なども行っている。理容師ギルドで調べたところ、
当時の担当者が証言した。今から八年前、ルシアンの父親が亡くな
った馬車の事故現場には確かに、幼い子供の遺体があった、と。こ
れが本物のルシアン・アーク・マクレーンならば、彼は父親とその
愛人と一緒に馬車の事故で亡くなっている事になる。彼が四歳の時
だ﹂
背筋に冷たいものが走った。
それでは、マクレーン伯爵はもう八年間も、髪と目の色が同じだ
けの他人の子を育てていたというのか?それも気に入らなければ殺
して、とっかえひっかえにするという残忍な方法で。
愛していた子供を夫に奪われ、そしてその二人を同時に失った伯
爵には同じ女として同情できる部分もあるが、だからといってそん
なことが許されるはずがない。
一体何人の子供が、彼女の妄執の犠牲になったのだろう。
私は無意識に両手を握りしめていた。祈っても、誰も救ってくれ
るような世界ではないと知りながら。
345
83 女の妄執︵後書き︶
余計な設定をぶっこむのが得意な私です
346
84 新しい関係
カノープスにこってりと絞られ、彼が退室する頃には私はすっか
り疲れ切っていた。
自業自得とはいえ、眼鏡美形に理路整然と責め立てられるのは特
殊な性癖でもない限り辛い。
やはり今後は、軽はずみな行動は控えようと思う。
﹃あいつ⋮実はあんなに喋るのな﹄
一緒に聞いていたヴィサ君も疲労困憊気味だ。
﹁いや⋮うん。言われている内に直さなきゃね。こんなことばっか
りやってたら、その内見捨てられちゃうよ﹂
ベッドに体を預け、明るい部屋の天井を見上げる。
﹃俺はリルを見捨てたりしないぞ?﹄
﹁うん⋮ありがとうヴィサ君﹂
柔らかな布団にくるまりながら、とにかく休息を取ろうと目を瞑
った。
しかしそこにリンと透き通った音がして、扉の魔導装置が客の来
訪を告げる。
次はゲイルとミハイルだろうか?
あの二人にも、誠心誠意謝らなければ。
いつも心配ばかりかけて、本当に申し訳なく立つ瀬がない。
347
体を起こして待っていると、ゆっくりと開いた扉から入ってきた
のは予想外の人物だった。
﹁アラン⋮﹂
う、今回一番巻き込んでしまった人物がやってきてしまった。
彼にはどんなに責められても文句は言えない。
ただ、彼との間にある特殊な事情のせいで、素直に謝ることもで
きず私は黙りこくった。
ベッドから体を起こした私を見て、アランは少し頬を緩ませた。
﹁⋮体はもういいのか?﹂
開口一番、予想外の事を言われて戸惑う。
彼には、酷く罵倒されるとばかり思っていた。
﹁⋮⋮はい﹂
アランは先ほどまでカノープスが座っていた椅子に腰かけると、
落ち着かない様子で自分の膝を撫でた。
そしてしばしの沈黙が流れる。
私は彼への謝罪に対する心理的抵抗と戦っており、アランはアラ
ンで私に何か言うに言えないことがあるようだった。
﹃一体何しにきたんだ?こいつ﹄
ヴィサ君は空中で伏せの体勢になると、退屈そうに大きな欠伸を
した。ちょこっと見える牙が可愛い。
348
﹁⋮⋮リシェール﹂
ようやく覚悟を決めたらしいアランにかつての名前で呼ばれ、少
し和んでいた私は息を呑む。
一体彼は何を言う気なのだろうか。
さんざん迷惑を掛けた私を罵倒するだけならまだいい、罵倒なん
て慣れている。
でもアランの悲壮な顔を見ていたら、彼がそんな短絡的な事を言
いに来たのではないというのは一目瞭然だった。
﹁マクレーン邸で、あの男に言った言葉を憶えているか?﹂
﹁え?﹂
予想外の質問に、私の思考は一瞬停止した。
﹁真に美しい世界に、人間の存在はありえない︱︱︱⋮お前はそう
言ったな?﹂
確かに、言った。
貴族を駆逐しなければ、真に美しい世界は訪れないと言ったクェ
ーサーに対して。
目の前でマクレーン伯爵の殺害現場を目撃した私は、神経が昂ぶ
っていて思わず本音が出たのだ。アランがその場にいるという事も
忘れて。
﹁⋮確かに、言いました﹂
しかし、それがなんだというのだろう?
アランがそれをわざわざ私に言いに来た意味がわからなかった。
349
まさか、今更私にそんなことはないと、道徳でも説きに着たとで
もいうのだろうか?聖職者でもあるまいに。
﹁お前にそんな事を言わせたのは、私達の責任だな﹂
思ってもいなかった事を言われ、相槌すら打つことができなかっ
た。
﹁⋮リシェール、すまなかった。助けてやれなくて。お前が母に酷
い仕打ちを受けている事を、私は知ろうともしなかった﹂
アランは過去を悔いるように、難しい顔をしていた。
﹁学習室にお前がやってきてからも、私はお前の存在を義母に知ら
れる前にと言い訳して、ひどい事を言った。他の子息のくだらない
からかいから、助けてやることをしなかった⋮﹂
そんなの、今更だった。
今更そんなことを謝られて、私にどんな顔をしろと言うのだ。
感謝すればいいのか?それとも怒鳴り返せばいいのか?
私は何も言えないままで、垂れ流しにされるアランの言葉に耳を
傾けていた。
﹁多分私は、お前に八つ当たりしていたのだ。お前がいなくなった
あの日から、兄上もすっかり人が変わってしまわれた⋮﹂
﹃兄上?﹄
もう一人の年かさの兄の存在を憶えていないらしく、ヴィサ君は
首を傾げていた。
350
﹁お前さえいなければと、思ったこともあった︱︱︱酷い話だ。お
前は何もできないただの子供だったというのに﹂
まるで一気に五十年も老けてしまったように、アランは疲れた声
を出した。
私も顔は良く覚えていないが、その一番上の兄が一体どうしたと
いうのだろう?
アランの話の結末が見えず、私は困惑の中でその言葉に耳を傾け
ていた。
﹁まだ八歳のお前に、この世界が美しくないと言われて気付いた。
私達がお前にどれほど酷い仕打ちをしたのか。私も直接手は下して
いないつもりで、その無関心こそがお前を傷つけていたのだな﹂
しかしアランは兄については詳しく語らず、悔恨の表情で私の顔
を見つめた。
彼の言葉は良くも悪くも私の心を抉った。
彼に謝ってほしいという欲があったのは否定しない。
でも実際にそれをされてみれば、ただ気まずいだけで私は上手い
返事をすることもできなかった。
メリス家の人々を恨んではいないと、ただ王子に恩返しがしたい
のだと王都に戻った私に、アランはあの辛かった日々を何度でも思
い出させる。
今度は不用意な言葉が零れてしまわないようにと、私は無意識に
唇を噛んでいた。
もう、謝らなくてもいい。
私はもう、リシェールではなくなったのだから。
そして今は、幸せに暮らしているのだから。
351
﹁⋮⋮たとえ美しくなくても、私はこの世界が好きですよ﹂
許すことも怒ることもできない私の口からは、そんな言葉が滑り
落ちていた。
何を言うつもりなのかと、アランが訝しげな表情で私を見る。
﹁今、私の周りには、私を愛してくれる人達がいます。心配してく
れる人達がいます。私はそれがとても幸せです﹂
﹁リシェール⋮﹂
﹁“ルイ”という名前も、その人がつけてくれました。私はもう過
去に囚われるのを辞めます。だから兄上も、リシェールの事は忘れ
てください。貴族と平民のハーフが、子供の内に命を落とすのは良
くあることです﹂
静まり返った部屋に、私の言葉がぽたぽたと滴る。
彼に弱みは見せまいと、強がる私の涙の代わりに。
﹁ただ、学友として︱︱︱リル・ステイシーとして、仲良くしてく
ださい。私はそれだけで、きっと幸せです﹂
﹁⋮最後に、一度だけ抱きしめさせてくれるか?リシェール﹂
悲しい目をしたアランに、私はこくりと頷いた。
そして優しい抱擁が下りてくる。私もその背中に腕を回した。
本当の兄妹であった時には、私達はこうして触れ合ったりできな
かった。どうしても。
ゆっくりとアランが離れていく。
それはほんの少しの時間だった。
352
けれど確かに、私の胸には温かい何かが残されていた。
﹁⋮⋮ルイ﹂
目じりを赤くしたアランが、泣き笑いの表情で言った。
私も、きっと似たような表情をしていたことだろう。
﹁ありがとうございました、アラン﹂
この美しくはない世界で、それでも確かに心が震える瞬間が、私
達には用意されていた。
353
85 二人の未来︵前書き︶
キャラ崩壊注意
354
85 二人の未来
開いた扉の向こうに、広い空間が広がっていた。
見たこともないような器具がいくつも並べられた部屋に、いたの
は男が一人と、横たえられた少年が二人。
﹁なにかご用ですか?﹂
魔法を使っての意思伝達で、シリウスから呼び出しを受けた時に
は何事かと思った。
リルからねちねちと聞きだした調書を、カノープスは今から報告
書にまとめなければならない。
・・・
﹁機嫌が悪いな。珍しく﹂
エルフであるカノープスに、機嫌のいいも悪いもない。
シリウスの揶揄する様な言葉に、カノープスは眉を寄せた。
﹁⋮叔父上は、お怒りではないと?ルイの危険行為は、いつも目に
余ります。彼女はもう少し、自分がただの子供であるという事を自
覚すべきだ。いくら魔力が通常の人間よりも多いとはいえ、一歩間
違えば何が︱︱︱﹂
・・
﹁その何かがあったとして、お前に何の関わりがある?﹂
ゆったりと腕を組んだシリウスに言葉を遮られ、カノープスは言
葉の接ぎ穂を失った。
沈黙したカノープスから視線を逸らし、シリウスは手近な台に乗
せられた二人の少年を見やる。うつ伏せにされた彼らの背中には、
355
エルフ達にとっても忌々しい輝きがあった。
﹁アンテルド⋮﹂
先ほどまで激昂していたカノープスが、冷徹な目でその輝きを見
下ろした。
少年達の背中には右と左の肩甲骨の下にそれぞれ、同程度の大き
さの石が植わっている。
それは人の体に魔導脈を構築すると同時に、それを拠り所にして
死に至らしめる恐ろしい石だった。
﹁ルイの話を聞いてまさかとは思っていましたが、やはりこれがま
だ地上に⋮﹂
﹁以前からごく少量が観賞用に流通しているのは王国も掴んでいた
が、問題はこの石に人から人への転移の形跡があることだ。人の身
で危険なアンテルドを自在に操るなど、そうできることではない﹂
﹁ルイはクェーサーが施していたと言っていますが?﹂
﹁クェーサーか。闇の精霊使いの亜流を汲んでいるだけかと思って
いたが、もしかしたら本当にあの男︱︱︱⋮﹂
考え込むように語尾を途切れさせたシリウスに、カノープスは訝
しげな視線を送った。
記憶力も思考力もずば抜けているこの叔父が、このように言い淀
むのは珍しい。
﹁とにかく、お前は城下の治安維持隊と連携して、この少年の身元
を捜査してくれ。おそらく孤児だとは思うが、浚われてきた可能性
356
もある﹂
﹁一応やってはみますが、望みは薄いと思いますよ。それで、今後
このマクレーン家への処分は?﹂
﹁それは円卓会議が決めることだ。とはいえ、マクレーン家は伯爵
・・
家だ。そして今回の事で前伯爵であるルーシー・マクレーン伯爵は
亡くなった。その財産を国が接収するか、それともこのルシアンを
後継としてマクレーン家を存続させるか、そのどちらになるかは微
妙なところだな﹂
無感情にそう言うと、シリウスは近くあったテーブルにことりと
湯呑を置いた。
一体どこから取り出したのか、そこには香しいお茶が湯気をくゆ
らせている。
﹁⋮これは?﹂
﹁見て分からないか?茶だ﹂
真顔で言い切る叔父の顔を、カノープスは凝視した。
この自分より数倍年上のエルフは、お茶はおろか今まで客をもて
なすことなど一度としてやってこなかった男だ。
まして、彼を追って地上界に降りてきたカノープスには、今まで
ことさら冷たい態度を取ってきた。
それなのに、今更茶を出してくるなど疑うなと言う方が無理だ。
﹁飲まないのか?﹂
心底不思議そうに言われ、カノープスは逡巡した。エルフは大抵
357
の毒に対して耐性があるが、もしこれが魔法による呪術であれば防
ぎようがない。
しかし、カノープスはシリウスの無言の圧力に耐え兼ね、結局は
その湯呑を手に取った。
掌にじんわりとした熱が伝わる。
﹁いただきます⋮﹂
全く表情には出ていないが、大層狼狽しながらカノープスはその
湯呑に口をつけた。
湯気で眼鏡が曇る。
こくりと、その一口目が喉を滑り落ちる最中。
﹁⋮お前、リルを妻に迎える気はないか?﹂
あまりにも普通に吐かれたセリフに、カノープスはお茶を噴出し
た。
﹁ゴボッ!⋮ゲホゲホッ﹂
じろりと、シリウスの軽蔑したような視線を向けられる。
いや、今の不意打ちに何も反応するなと言う方が無理だ。
﹁きゅっ、急になにを?!﹂
カノープスは慌ててお茶をテーブルに戻し、ハンカチで制服を拭
った。
まだべとつくような飲み物じゃなかったことだけが救いか。それ
358
にしても。
﹁叔父上、急に何を言いだすのです?リルをあれほど溺愛していた
のは叔父上の方ではありませんか﹂
﹁だが、私とリルでは年齢が離れすぎている﹂
﹁それは私でも同じですよ。千歳差か三百歳差かの違いぐらいのも
のでしょう﹂
﹁それは人間にとっては大きな違いだ﹂
﹁そこまで違えばそれほど変わりませんよ!だいたい、なぜ急にそ
のような事を?ルイはまだ八歳なんですよ?﹂
﹁人間界では八歳で婚約者がいてもさして珍しくはないだろう。七
歳の王太子にすらいるのだから﹂
なにがいけないのか心底わからないという表情をするシリウスに
対して、カノープスも必死だ。
﹁王太子の婚約者は未だ候補にすぎませんが、それは置いておいて
!どうしてそのような突飛な意見が出るに至ったかを聞いているの
です。何か理由でも?﹂
﹁いや、お前とリルが結婚すれば、私とリルは本当の親戚になれる
な、と。リルが義理の姪になるのだぞ?﹂
﹁そんな理由で⋮﹂
359
純真な目で見返してくるシリウスに、カノープスは心底呆れたと
いう風な溜息をついた。
﹁用がそれだけでしたら私は帰ります。早急に報告書をまとめなく
てはなりませんので﹂
﹁いい考えだと思ったのだが⋮﹂
まだ言うか。
カノープスは不機嫌そうに胸元を拭いながら、早足で部屋を出て
行った。
ガランとした研究室。
大きな窓から、いつの間に暮れはじめていたのか西日が差しこむ。
すうすうという二人の少年の寝息と共に残されたシリウスは、自
分専用の椅子に腰かけ、背もたれに体重を預けていた。
彼は本当に、リルとカノープスの結婚という方法が心底いい方法
だと思っていたので、こんなにもその当人にも真っ向から反対され
るとは、思っていなかったのだ。
リルをステイシーの家から引き取れば、いつでも会えるようにな
る。リルの夢を邪魔せずに、もっと傍にいられる。
それはシリウスにとって、魅力的な未来だった。
今のままでは、折角再び出会えたというのに、ただそれだけにな
ってしまう。
それに、貴族ではないとはいえ近衛隊長を預かるカノープスの嫁
になれば、リルの今後は一生安泰だ。
エルフは長寿だ。あの几帳面なカノープスならば、リルに死ぬま
で苦労のない人生を送らせてやれることだろう。
シリウスは珍しく溜息をついた。
360
その白銀の髪がさらりと流れる。
何色にでも染まるその髪が、今は艶やかな橙に染まって光を反射
していた。
﹁もう、それほど時間はないというのに⋮⋮﹂
シリウスの呟きが、ぽつりと静寂に落ちる。
361
86 勝手でごめんなさい
さて、以前の内乱騒動などとは違い、ただの疲労で倒れただけの
私は早々にステイシー家へと帰された。
てっきりミーシャとゲイルにはまたひどく怒られるだろうと覚悟
していた私だが、意外な事にそうはならなかった。あのルシアン家
での出来事は機密扱いになっているらしく、私は単に魔力の使い過
ぎで倒れ、王宮で休憩していたという扱いになっていたからだ。
心配で眉を寄せるミーシャに私は内心で土下座しつつ、静養とし
て学習室を三日欠席した。
目を瞑ると、あの日目の前で縊り殺された伯爵の顔がちらつく。
酷薄に嗤うクェーサー。
あの男はこの国の貴族を、心の底から憎んでいる。だからどんな
手段を使ってでも、それを滅ぼそうとしているのだ。
正直、何度言葉を交わしても得体が知れない。
わか
クェーサーにどんな過去があろうと私には彼が理解できないし、
理解りたいとも思わない。
欠席三日目。
明日には学習室に復帰できるからとミハイルに借りた近代史の本
きしだん
を読んでいたら、その持ち主が見舞いにやってきた。
お勤めはどうしたのかと聞けば、わざわざ抜けてきたという。
なぜわざわざと問えば、彼はじろりと私を見下ろした。
﹁お前、また無茶をしたらしいな?﹂
﹁え、なんの事?﹂
362
冷や汗でしらばっくれてみるが、その何もかも見透かしているよ
うな金の目には心理戦で勝てる気がしない。
ミハイルは口の端に皮肉な笑みを浮かべた。
﹁魔導省の知り合いから聞いたぞ。なんでも三日前に、強大な力を
持った風の精霊が長官の執務室に飛び込んでくるのを大勢が目撃し
たそうだ。白銀の巨大なタイガキャット。どこかの誰かさんの契約
精霊に、似たようなのがいたような気がしたんだが?﹂
げ。私は反射でちらりと宙に視線を向けた。ミハイルには見えな
いだろうが、そこでは案の定ヴィサ君も私と似たような顔をしてい
た。
﹁その上、貴族街にあるマクレーン伯爵家には連日近衛や治安維持
隊が入り込んでなにやらやっているらしい。本来は王族や王宮を守
護する近衛が貴族の家に出入りするなんて、反逆罪の汚名を着せら
れた時ぐらいだぞ。貴族の間では既に様々な憶測が流れているしな﹂
以前貴族は何をしても取り締まられる事がないとミハイルに教わ
ったが、それには唯一の例外がある。それは国と国王に仇なす反逆
罪だ。反逆罪の汚名を着せられたが最後、その家は断絶となり一族
郎党が処刑の憂き目を見る。以前反逆を起こそうとした王弟のジグ
ルトは王族ということで死罪こそ免れたが、代わりに王城のどこか
にあるという地下牢で死ぬまで幽閉という厳しい処分が下っている。
近衛隊が事件に関わっているのは、未知の魔導であるクェーサー
の術にエルフであるカノープスが直接事にあたっているせいだろう。
しかしそれによってマクレーン家に悪い噂が流れれば、今後ルシア
ンはどうなってしまうのだろうかと私は不安になった。
あの時は一刻を争うからとヴィサ君を実体化させたが、その判断
が今になって悔やまれる。
363
暗い顔をする私に、ミハイルは調子が狂うとでもいう様にガシガ
シと頭を掻いた。
艶のある赤い髪が乱れる。
﹁その顔から察するに、やはりお前が関わってるんだろう。他言無
用にしてやるから、何があったのか詳しく話せ﹂
そう言われ、最初は機密事項なのだからと口を噤んだ私だったが、
ミハイルの目力と誰かに相談したいという欲求には勝てず、結局は
三日前のあらましを洗いざらい吐きだしていた。
﹁伯爵は死亡。その犯人は先の内乱で捕縛された筈のクェーサーか
⋮﹂
ベッドの傍らの簡素な椅子に腰を下ろしたミハイルは、顎を人差
し指と親指で支えながら難しい顔をした。ポーズはさながら安楽椅
子探偵だ。それは考え事をしている時の彼の癖だった。
﹁その背中に埋まった石というのは、もしかしたらアンテルドの事
かもしれないな﹂
険しい顔をしたミハイルに、私はその石がどんな厄介な存在であ
るかという説明を受けた。
人を死に至らしめる悪魔の石。
その特徴に得心しながらも、それに取り憑かれた二人の少年が脳
裏に浮かび私は白くなった。
﹁そんなっ、だってルシアンの背中には!﹂
﹁落ちつけ。確かにまずい事態だろうが、だからこそお前は一刻を
364
争うと思って精霊を使って彼らをシリウス長官の元へ運んだんだろ
う?少なくともその判断は正解だった。この国で彼以外にアンテル
ドをどうにかできそうな者はいない﹂
難しい表情を崩して、ミハイルは今度は呆れたような顔で溜息を
ついた。
﹁貴族街が何やら騒がしくなっているのと同時期に体調を崩したと
聞いて、まさかと思ってきてはみたが⋮。思った通り面倒事に巻き
込まれてやがって。まったく、どういう守護星の下に生まれればそ
うも波乱万丈に生きられるかね、まだ八歳だろうが﹂
そんなの、私が訊きたい。
私だって本当は平穏な人生を送りたいのだ。
けれど私の高い目標と厄介な性格が、どうも面倒事を引き寄せる
らしい。
﹁⋮お願いだから、ゲイルとミーシャには言わないで。これ以上二
人に心配を掛けたくない﹂
﹁そう思うなら、自重しろ。友を心配するなとは言わない。ただ、
身近な大人を頼るという事を学べ﹂
太刀打ちできない正論に、私はしょげ返った。
似たようなことをカノープスにも言われた。どうも私は、大人を
頼るのが苦手なようだ。
多分、自分も大人であるという意識が先に立って、上手く甘える
ことが出来ないのだろう。
迷惑を掛ければ、また捨てられるかもしれない。
そんな恐怖を、私は未だに後生大事に抱えている。
365
ゲイルやミーシャ、ミハイルにシリウスにカノープス。
身近な大人達が、私を愛してくれていないとは思わない。
けれど、全身全霊で愛してくれた母のように、何があっても私の
味方でいてくれるとも思えない。
それは、仕方がない事だ。
私だって、彼らにそこまで求めたりはしない。
考え込んだ私に、ミハイルはもう一度溜息をついた。
そして不機嫌そうな顔をする。
﹁⋮俺とゲイルは、またしばらく遠方での任務で留守にする。せめ
てもその間ぐらいは、大人しくしていてくれ﹂
うまく甘えたりできないくせに。
こんな時にショックを受ける私は多分、卑怯なんだろう。
366
87 再会と再会
学習室に復帰した私を待っていたのは、どこか気まずそうに私に
接するアラン以外は、全くのいつも通りの日常だった。
王子もレヴィもその他の学友達も、マクレーン家の事は知らされ
ていないらしい。
それか、知っていてなんでもない様子でいるのか。
後者だとしたら少しいやだと、私は心の片隅で思った。
ミハイルとゲイルはあの日から数日後早々に王都を離れてしまい、
私は寂しくなった館でミーシャと使用人達と何も変わらない毎日を
送っている。
﹁マクレーン家の処分はどうなるのでしょうか?﹂
あれからひと月あまり。
橙月は肌寒いのに窓から差し込む光はまだまだ眩しい。
私は王宮内にアランが与えられた部屋に、学習室でのルシアンが
どういう扱いにになってるかを聞きに来ていた。一応ヴィサ君防音
も万全だ。念のため。
﹁⋮敬語はやめろと言っただろう﹂
苦々しくアランが言う。ならアランこそその命令口調を止めるべ
きだ。
﹁ええと、ルシアンはどうなる、の?﹂
﹁円卓会議では既に何がしかの結論に達しているだろうが、それが
一向に下に下りてこない。貴族界の噂は沈静化してしまったし、陛
367
下はもしかしたらこの件を、このまま風化させるおつもりかもしれ
ない﹂
﹁風化って⋮それじゃあルシアンはどうなるの!?﹂
シリウスに任せたのだから、きっとあの少年達は二人とも助かっ
ているのだと思っていた。
なのに一向にルシアンは学習室に復帰しないし、マクレーン家が
どうなったかという噂も流れてこない。
学習室からはルシアンの姿だけが消え、あとは何事もなかったよ
うに日常が流れていく。それが私には耐え難かった。
アランは苦虫を噛み潰したような顔をした。
あの日あの光景を目撃してしまった彼自身も、現在の状況は納得
がいっていないらしい。
﹁ベサミに直訴したり、実家の方から手を回したりはしているが、
なかなか難しいな。どうもこの件は、完全にシリウス長官預かりに
なっているようだ。彼にどうこう意見できる人間はこの国にはいな
い﹂
﹃あいつもよくもまぁ面倒事ばかり背負い込むな﹄
呆れたようにヴィサ君が緩く尻尾を振る。
彼は何をするにも煩雑な人間社会のやり方が好きではないのだ。
﹁そうか⋮﹂
私はシリウスに直接掛け合おうかと真剣に検討し始めていた。
シリウスとは事件直後のあの時しか顔を合わせていないが、長官
の執務室にさえ辿りつければ無下にされることはないだろう。
368
シリウスにはできるだけ頼るべきではないと思って今日まで私か
らは接触せずに来たが、背に腹は代えられない。
その時、リィンと聞き覚えのある音がする。透き通るような不思
議な音だ。
それは部屋によって音色が違うが、王宮内の全部屋に取り付けら
れている来客を知らせる魔導装置の音だった。例の壁に設置されて
いる小さな石だ。部屋の外に設置されていた箇所と対になる様に、
部屋の内部にも同じ石があり今は紫色に輝いていた。
﹁紫⋮ベサミ様が何の御用だろうか?﹂
珍しい時属性を持つ者はそれほど多くない。
アランの部屋に用がありそうな者は彼ぐらいだろう。
ベサミは王子の従者だが、同時に伯爵家子息であり学習室の監督
役でもあることからアランは彼に敬語で接している。
ドアから入ってきたのは、確かにベサミだった。
そしてその後ろには、フードを目深に被ったローブ姿の二人の少
年が付き従っている。
フードから見覚えのある赤みがかった茶髪が揺れているのが見え
た。
﹁まさか⋮﹂
慌てて駆け寄る。
扉を閉めたベサミは、私の姿に眉を顰めた。
﹁ルイもいたのか﹂
その声の根底に滲んでいる嫌悪感をものともせず、私は二人の少
369
年の前に進み出た。
本当なら二人のそのフードを今にも剥がしてしまいたいが、流石
にそこまで下品な真似はできない。
﹁ルイも私の客人です。ベサミ様、その二人は?﹂
アランも椅子から立ち上がり足早にこちらへ近づいてくる。
お預けをくらった犬のようにそわそわする私に、フードの奥から
笑いの気配がした。
﹁⋮相変わらずだね﹂
聞き間違えかと思った。
だって、その声は⋮。
外されたフードの下から、見覚えのある顔より少し大人びた顔が
現れる。ルシアンではない。記憶と違って眼鏡を掛けているが、間
違えたりしない。
﹁お前は⋮?﹂
アランの戸惑ったような声が背後で聞えた。
しかしそれに言葉を返す前に、私は彼に抱き着いていた。
﹁アル?アルなの!?﹂
咄嗟に貴族としてのマナーが木端微塵に吹き飛んでしまった私に、
ベサミが軽蔑の視線を送ってくるがそんなことは関係ない。
﹁アル⋮でもどうして?なんでここに?﹂
370
矢継ぎ早に聞く私に、アルは満面の笑みを向けた。
﹁エルと二人で随分探したんだよ?﹂
﹁感動の再会は後にしろ。事情の説明が先だ﹂
アランの手で無理やりアルから引き剥がされた私は、はっと気が
付きもう一方のフードの少年を見つめた。
その分厚い布の下から出てきたのは、珍しく苦笑を漏らすルシア
ンだった。
彼の赤みのさす健康そうな顔を見た時、私の胸を占拠した感情を
なんと呼んだらいいだろう。
再会できたら何を言おうか、ずっと悩んでいた。
彼の母親は殺されてしまった。しかしその母親は実の母親ではな
いという。きっと、私には及びもつかないような感情が沢山あるは
ずで、だから彼がどんな状態で戻ってくるか分からず、私は不安だ
った。
でも今、ルシアンは確かに小さく笑っている。
それがどうしようもなく嬉しくて、用意していた言葉なんて綺麗
に吹き飛んでしまった。
ただ、熱い涙が、ぼろぼろと零れ落ちた。
﹁ルシアン⋮よかった⋮⋮ごめっ⋮﹂
何について謝ったのか。
彼の家の事情を公けにしてしまったことか、それとも彼の義理と
はいえ母親を助けられなかったことか。
とにかく多くを失った彼を差し置いて私が泣く資格はないと思う
371
のに、どんどん溢れてくるそれを止めることが出来ないのだ。
沈黙の落ちる部屋に、私のしゃくりあげる声だけが響く。
﹃リル⋮﹄
ヴィサ君が心配そうに尻尾で私の頬を撫でた。
感触はなくても、温もりは伝わる気がした。
多分小メニラも経っていなかったはずだが、長い沈黙の後にルシ
アンが動いた。
そして彼は極限まで私に近寄ると、ぎこちなく私を抱き寄せた。
驚いている私に、ルシアンは小声で囁いた。
﹁再会の喜びは、こう表現すればいいのだろうか?﹂
その声が本当に戸惑っている様子だったので、私は思わず笑うし
かできなかった。
372
88 円卓会議の結論︵前書き︶
難産でした⋮
373
88 円卓会議の結論
ベサミにとりあえず落ち着くようにと諭され︵叱られ︶、私達は
アランの部屋の中にある応接スペースで腰を落ち着けた。同じ植物
の意匠の彫り込まれた飴色の応接セットは、椅子に布の張られた高
価そうな造りだ。二脚ある一人掛けの椅子にアランとベサミがそれ
ぞれ腰かけ、私とアルとルシアンは二人掛けのカウチソファーに詰
めて座った。
私が、アルを気にしてそわそわしていると、ベサミの鋭い眼光が
飛んでくる。
﹁それで、どうして私の部屋にいらしたのですか?テイト卿﹂
テイトはベサミの家名だ。
ベサミ・ドゥ・テイト。
ミドルネームが入っているので、ベサミはテイト伯爵家の正当な
後継者であることが分かる。この世界では王族を除いて、各家の当
主とその後継者しかミドルネームを名乗ることは許されないのだ。
視線をアランに移したベサミは、再度私に一瞥を寄越し、溜息を
ついて状況の説明を始めた。
﹁まず、アラン、君の部屋を訪れたのは、この事を他言無用とする
為だ。君は既にこの件に関わってしまっている。なのでいっそ学習
室での彼らのサポートを君に任せようというのが、僕を含めた上層
部の考えだよ﹂
さっきの溜息で、私の存在を一切無視すると決めたらしい。なら
ば追い出されないでいるだけマシか。
374
・・・
﹁彼らのですか?﹂
﹁ああ、明日からこの隣の少年も学習室へ通ってもらう。︱︱︱ル
シアンの弟、アルベルト・マクレーンとして﹂
﹁弟!?﹂
私は素っ頓狂な声を上げて、アルの方を見た。
既に了解していたのだろう。アルは私に向けて困ったように微笑
んだ。
﹁煩いぞルイ﹂
﹁あ⋮申し訳ありません﹂
す
﹁⋮マクレーン家の子息は数年ごとに挿げ替わる。これは学習室で
は周知の事実です。おそらく彼らは⋮ルシアンすら、真に伯爵家の
血は引いていない。なのに更にその弟とは、一体どういうおつもり
ですか?﹂
アランが重い言葉を吐き出す。貴族としてあの事件を看過する訳
にはいかないと、その苦渋の表情が語っていた。
しかしベサミはちらりとも表情を動かさない。
﹁マクレーン家の正統なる後継者はルシアンだ。それは揺るがない。
東の国境に情勢不安がある今、貴族間での無用な騒ぎは極力抑える
べき、というのが円卓会議の結論だ。前伯爵は不慮の事故により死
亡。伯爵家の子息達は今日まで安全な場所に避難していた︱︱︱そ
れが表向きはそういう発表がなされるだろうね﹂
375
﹁だからと言って急に伯爵家に子息が増えるなど⋮﹂
﹁彼らの背中を見ただろう?﹂
到底受け入れられないとでもいう口調で呟いたアランのセリフを、
ベサミが何気ない様子で遮った。
私ははっとして、隣に座る二人に目を向ける。
﹁アンテルド⋮﹂
埋め込んだが最後、命を喰らう悪魔の石。
ミハイルの説明が本当なら、彼らは時が来ればアンテルドの鉱脈
になってしまう。
無意識に、私は目の前にあったアルの二の腕に触れた。
アルはそんな私を安心させるように、おっとりと微笑んだ。
﹁彼らの背中に埋め込まれている石は、アンテルドという。魔力を
持たない者の体に魔導脈の代わりとなる器官を生成するという驚く
べき石だけれど、これが最終的には宿主を死に至らしめる。ルイの
報告から推測するに、術者がルシアンからアルフレドに石を転移さ
せる際、君達の邪魔が入ったことによって術が中断されてしまった
ようだ。これによって石は二つに分裂して彼らに宿った。調べたと
ころ、これは既に定着してしまっているね﹂
ならば、私が余計な事をしなければ、少なくとも片方は助かった
のだろう?
もう少し早ければアルが、遅ければルシアンが。
そんなの、どちらも嫌だ。でもだからといってどちらも助からな
いなんて。
376
動揺を現さないように必死で堪える。
本当は、叫んで謝りたい。謝って済むことじゃないけれど。
しかしベサミの話は予想もしない方向へと転がった。
﹁不幸中の幸いだ。あと少し遅くても早くてもダメだっただろう。
君達二人が転移の術を妨害したおかげで、二人は命拾いしたよ﹂
この部屋に入ってきて初めて、ベサミが薄く笑った。
それは嘲笑でも嘲りでもない、私の初めて見る彼の表情だった。
﹁それはどういう⋮?﹂
話について行けず頭が真っ白になる私の言葉を、アランが代弁し
てくれる。
﹁調査の結果、均等に等分されたアンテルドは宿主を取り込む能力
を失っている。証拠に、このひと月で二人の体の魔導脈は少しも成
長していない。背中に石は残るが、二人は魔導も扱うことのできる
ただの貴族の子供ということだ。そして魔導が使えるからには、ア
ルベルトを元の平民の家庭へ戻す訳にはいかない﹂
﹁アル⋮﹂
前半はいい知らせだが、後半は悪い知らせだった。
彼らが助かったのは純粋に嬉しいが、アルがこれからエルやリズ
と離れて暮らさなくてはいけないのかと思うと胸が痛んだ。
﹁心配しなくて大丈夫だよ。リル。ベサミ様はエルと姉さんとカシ
ルもマクレーン伯爵家で使用人として暮らせるように手配してくだ
さったんだ。僕も学習室での講義が受けられるし、本当にいいこと
377
ばかりなんだよ﹂
そう言って、アルは私の肩をぽんぽんと叩いた。
そのセリフを言葉通り受け取ってはいけないことくらい、私にだ
ってわかった。
急に貴族だとか言われて、体に変な石を埋め込まれて、名前を変
えて生きていくなんてどんなにいい条件だったとしても戸惑いがあ
るに決まっている。
でも不安なところを見せたくないというアルの気持ちも分かった
ので、私はのど元まで来ていた謝罪の言葉を呑み込んだ。
﹁⋮ルイ、僕も感謝している。二人には助けられた。ありがとう﹂
事件の前より少しだけ饒舌になったルシアンは、涙をこらえてう
まく笑えない私に困ったような顔で言った。
﹁︱︱︱それで、この二人のサポートを私に?﹂
﹁ああ。事件を目撃した当事者であり、王子の四肢筆頭である君が
適任だろう。いくら無事が確認されたとはいえ、二人はアンテルド
が進行していないか定期的に魔導省で診断を受ける必要がある。そ
の為には王城へ定期的に通う理由がいるからね﹂
あまりにも突飛な話に受け入れづらいのか、アランは相変わらず
難しい顔だ。
しかしベサミはもう用はないとでもいうように、席を立った。珍
しい紫の撒き毛が揺れる。
﹁では、邪魔したね。分かってるとは思うけど、もちろんこの件は
他言無用で頼むよ。君達以外は、学習室に通う学友のどの親も知ら
378
ない情報だ﹂
﹁殿下はご存知なのですか?﹂
﹁いいや。あの方を煩わすことはないさ﹂
そう言った時、ベサミはなぜか遠い目をした。
それがどうしてなのか、その時の私には分からなかった。
それよりも予想もしていなかった展開過ぎて、結果的には良かっ
たのだろうけれど素直にも喜べずに、私は彼ら三人を見送った。
﹁リル。エルと姉さんにも会いに来てね。きっと喜ぶよ﹂
﹁ああ、落ち着いたらマクレーン家に招待する。ぜひ来てくれ﹂
そう言うと彼らは再びフードをかぶり、部屋を出て行った。
しんと静まり返った部屋でアランと二人、まるでさっきまでの出
来事が夢だったかのようだ。
﹁︱︱︱で、お前をリルと呼ぶあの男は?﹂
ぼんやりしていた私の背後まで迫っていたアランの一言に、私は
腰を抜かしそうになった。
それから私は三メニラ程かけて、彼にゲイルとミハイルの事をう
まく誤魔化しつつ、捨てられた先の農村での生活を話す羽目になっ
た。
そういえば、アルはどうして私を見ても驚かなかったのだろう?
379
***
冷たい石のベッドに括りつけられ身動きもできずに、何度も遠ざ
かりかける意識を必死に繋ぎとめて、僕は助けが来るのを待ってい
た。
双子のエルが、遠くで僕を心配している。
それだけが、僕の意識を引きとめてくれる光だった。
王都に来て、カシルの遠戚だという老婆の家での生活が、やっと
馴染んできた所だったのに。
僕以外の家族は無事なのかと、それが心配で仕方ない。
冷たい石台には、もう一人男の子が括られている。色の白い、僕
と同じ色の髪の男の子だ。
ずっと眠っているからわからないけれど、彼は今までどんな目に
あってきたのか体中に細かな傷を沢山負っていた。
僕も彼のようにされるのか。そもそもなんのために石台に固定さ
れているのか。考えれば考えるほど恐怖が増す。
それからどれくらいたったのか、永遠のような一瞬のような時間
が過ぎ、やってきたのは黒いローブの男だった。
彼のぼそぼそとした呟きが、やがて節をつけて歌になる。寂しい
音楽を奏でる。
そしてそれに呼応するように床が光りはじめ、僕の背中は一部分
だけ燃えるように熱くなった。まるで、焼き鏝を押し当てられた様
な熱さだ。なのに叫ぶこともできなかった。僕の体は不思議な力で
完全に動きを止められていた。
助けて!助けて誰か!誰でもいいから!
いっそ意識を失ってしまいたかった。
でもそれをしてしまえば一生目が覚めないかもしれないという恐
怖で、必死に踏ん張った。
いや、何かを考えている余裕なんてなかった。
380
ただ必死に、その熱を痛みを、やり過ごしていた。
その時だ。
真っ白い光が、視界を覆った。
ついに意識を失ったのかと思ったけれど、違っていた。
大きな破壊音が耳を劈く。
﹁だって⋮ヴィサ君やりすぎだってば!﹂
それは、懐かしい僕らの妹の声。
僕はそれにどうしようもなく安堵して、堪えきれず意識を失って
いた。
381
89 波乱の招待状
アル⋮おっとっとアルベルトが学習室に参加するようになって、
最初こそなんだかんだと騒がしかったものの、黒月が過ぎて闇月に
なる頃には、それも静かになっていた。
所詮貴族達はその子息も含めて新しい物好きなので、今では流行
のコートや新大陸からやってきた新しい香辛料なんかに夢中みたい
だ。
マクレーン家の双子︵全く似ていない︶には上層部の指示で派遣
えびちゃ
されてきているお目付け役がいて、パールという名前の美しい女性
だ。葡萄茶色の長い髪を高く結い上げた彼女は、普段は寡黙だが間
違いには容赦がないとアルが言っていた。
私は昼になると必ずルシアンとアルと一緒に食事を取った。
最近では外の東屋では寒いので、王宮内にある貴族用の客間を借
りて、そこにお弁当を広げている。
﹁もう少しで、今年も終わりだね∼﹂
私は卵焼きを取り分けながらしみじみと呟いた。
闇月が終われば色濁月に入る。
色濁月は全ての属性が鎮まる混沌の月だ。王都は雪に染め上げら
れ、その下ですべての精霊は眠りにつく︱︱︱と聖教会の教典には
書いてあるが、ヴィサ君は去年も一昨年も起きていたので眉唾なの
だろう。
でも、学習室はひと月の間閉鎖になるので二人ともしばらくお別
れだ。
色濁月の間は、移動も大変になるので貴族たちは基本的にあまり
外出しなくなる。
382
﹁リルのお弁当が食べれなくなるなんて残念だよ﹂
アルはお皿を受け取りながらおっとりと笑った。
最初こそ少し戸惑っていたものの、持ち前の頭脳でアルはすぐに
学習室の授業に追いついた。ただ、魔導やマナーの授業が苦手なの
で席次こそ未だに中の下あたりだが、純粋に学力だけで言えば学習
室内ではルシアンと双璧だ。
アルの言葉に同意するように、ルシアンもこくりと頷いた。
一緒に暮らし始めてひと月ちょっと、この二人も随分息が合って
きたみたいだ。
﹁色濁月に入ったら、うちに遊びにおいでよ。エルも姉さんも会い
たがってるよ﹂
アルが楽しそうに言う。ルシアンがまたこくりと頷いたので、私
はつい笑ってしまった。
﹁アル、色濁月の間は貴族は外出を控えなきゃなんだよ。それが“
マナー”なんだって﹂
﹁本当にややこしい決まりが沢山あって、貴族も楽じゃないんだね﹂
アルのうんざりした顔に、ルシアンはまたしてもこくりと同意し
た。
その口は休むことなく、唐揚げをむしゃむしゃと頬張りつづけて
いる。
﹁そういえば、今日はアラン様はいらっしゃらないの?﹂
首を傾げたアルに、ルシアンは少しだけ、ほんの少しだけ嫌そう
383
な顔をした。
お弁当の取り分が減るので、ルシアンはこの昼食の席にアランが
乱入するのをあまり好まない。
﹁うん。忙しいみたいだよ。13歳になったらアランも成人だから﹂
この国の成人は13歳だ。
これを機に子供たちは一人の人間として正式に認められ、継承権
や相続権などの権利を持つようになる。
今年はメリス家にも、沢山の贈り物が届くはずだ。
メリス家は大きな家だから、年が明けて灰月になったらアランの
成人を祝って盛大なパーティーが開かれるのだそうだ。実家に近寄
れない私にはまったくもって関係ないが、その下準備でアランも今
から忙しくしていた。
﹁成人かぁ。僕もエルも村で済ませちゃったし、ルシアンはいつだ
か分からないんだもんね?﹂
アルの問いかけに、またこくり。
ルシアンは伯爵家に連れてこられる前の事が一切わかっていない
ので、本当の年齢も分からない。でも背格好はアルに似ているから、
多分アルと一緒で13歳ぐらいだろうというのが、彼を診察したシ
リウスの見解だった。
ちなみに、私は色濁月が終われば9歳になる。ようやく9歳だ。
先は長い。
そうやって和やかに昼食のひと時を過ごしていたら、突然乱暴に
扉が激しくノックされた。何事かと扉の意志を見ればそれは赤銅色
に染まっている。金属性⋮ってもしや。
﹃うるさいなー何事だ?﹄
384
ふよふよと空中でお昼寝中だったヴィサ君もご機嫌斜めだ。
私が石に向かって魔力を飛ばすと、扉がガチャリと開いて、勢い
よくその人物が飛びこんできた。予想通り、それはアランだった。
﹁どうしたの?﹂
ようやく彼に対するため口が板についてきた私が尋ねる。
アルは目を丸くしているし、ルシアンはアランなど一切気にせず
食事を続けていた。
扉が自動的に閉まり、息を切らせたアランがつかつかとこちらに
近寄ってくる。
彼の目には何らかの決意が燃えていて、私は思わず一歩後ずさっ
てしまった。
﹁⋮これを﹂
目の前までやってきたアランが、一通の手紙を差し出す。
私が恐る恐るそれを受け取ると、その瞬間アランはその手紙を押
し付けるようにして、私に背を向けて走り出した。
﹁え!?ちょっとちょっと!!﹂
呼び止めたが止まらず、そのまま部屋を飛び出してしまう。
普段マナーに厳しいアランが、これほどまでにマナー違反をする
のは珍しい。
一体何事だと手元の手紙に視線を落とせば、そこには﹃ルイ・ス
テイシー様﹄と流麗な筆跡で宛名が書かれていた。アランの字だ。
﹃一体何事だ∼?﹄
385
半ば寝ぼけているヴィサ君が、私の手元を覗き込む。
私はその後ろ頭をなでなでしたい衝動と戦いつつ、意識を手紙へ
向けた。
触った感じは、特に何か変わった点がある訳でもない、普通の手
紙のようだ。
﹁驚いたね。焦ってたのかな?﹂
アルの言葉にまたこくり⋮ではなく、ルシアンは手を止めてこち
らを見ていた。
その目が手紙を開けてみろと言っている。
私は近くの机まで歩いてペーパーナイフを持ってくると、それで
手紙の封を開けた。
中には、少し厚手の紙が一枚と、メモのような切れ端に、走り書
きが。
﹃貴殿、リルファ・ヘルネスト嬢を、
私の成人祝賀パーティーに招待致します。
アラン・メリス﹄
リルファって誰だ?
ハテナマークいっぱいで切れ端の方に目を落とすと、そこには。
・・・
﹃招待状の名前でパーティーに来るように。もちろん女装でだ!﹄
用件のみの簡素な走り書きを、私はたっぷり瞬き十回以上は凝視
386
しただろうか。
﹁はあぁぁぁぁぁ!?﹂
私の口から漏れ出した奇妙な声に、二人と一匹はびくりと肩を震
わせた。
私はその時頭の片隅で、部屋にヴィサ君の防音魔法を掛けておい
て本当によかったと思った。
387
90 告白
﹁な⋮な⋮﹂
なにこれ?どういうつもり?が上手く口から出てこない。
その反応を訝しんだアルが、私の手から招待状をそっと引き抜く。
﹁えーと⋮﹃貴殿、リルファ・ヘルネスト嬢を﹄⋮⋮なんだこれ?﹂
目を丸くするアルの手元を、ルシアンも口をもきゅもきゅさせな
がら覗き込む。
その瞬間正気に戻った私が彼らの手からその招待状を奪おうとし
たが、遅かった。
﹁女装って⋮﹂
﹁アランはルイに何をさせるつもりなんだ?﹂
ルシアンは招待状を見ながら首を傾げているが、アルの﹃どうい
うこと?﹄という視線攻撃が私に突き刺さる。
実は今日まで、私はアルに対して﹃事情がある﹄と言って、男装
をして学習室にいる理由を誤魔化していた。
それは、危険も伴う私の事情に彼を巻き込むことを恐れたのもあ
るし、自分でも、どう説明していいのかわからなかったからだ。
正面切って、今までだましていたと告白する勇気が私にはなかっ
た。
・・
﹁⋮ルイ、そろそろ、事情を話してくれてもいいんじゃないかな?
僕らはいたずらに君の不利になる様なことはしないし、困っている
388
ならば何か手助けができるんじゃないかと思うんだ。君が命がけで、
僕らを救ってくれたように﹂
噛んで含めるように言うアルの言葉に、いつの間にかルシアンも
同調する様な目でこちらを見ている。
﹃リル⋮﹄
心配そうにこちらを見ているヴィサ君の顔をちらりと見て、一呼
吸おいて私は覚悟を決めた。
確かに、今日まで見て見ぬふりをしてくれていたアルや、誠実に
私と付き合ってくれているルシアンに対して、これ以上嘘をついて
いるのは辛い。
﹁実は⋮﹂
私は驚きで浮いていた腰を席に落ちつけて、彼らの目を見て今ま
での事情を話した。
私が、本当はアランの腹違いの妹であること。義母に疎まれ、ア
ルのいた村近くの森に捨てられたこと。盗賊としてその村に潜入し
ていたミハイルに頼んで、王都へ戻ったこと。そしてかつて命を救
ってくれた王子の役に立つために一度は騎士団に潜入し、王様の計
らいで今では学習室にいること。
二人とも食事の手を止めて、真剣に聞いてくれた。
私が話し終えると、アルは大きなため息をついた。
﹁なるほど、そういう理由だったんだね⋮﹂
﹁⋮﹂
389
私は二人の目を見ることが出来ず、膝に手を置いて小さくなった。
自分の事情に巻きこめないという事情があったとはいえ、私は今
まで彼らを騙していたのだ。特にアルは、村であんなに良くしてく
れたのに、碌な理由も告げずに私は王都に出てきてしまった。
﹁リル?﹂
アルが久しぶりに呼んだ、本当の名前に顔を上げると︱︱︱
﹁ッい!?﹂
いつの間にか席を立ってこちらに近寄っていたらしいアルに、デ
コピンされた。
﹁なッ⋮!﹂
おでこをおさえながら、私は涙目でアルを見上げる。
﹁リルの事情も分かるけど、どうしてもっと早く、僕らに言ってく
れなかったの?﹂
アルの突然の行動に驚いていたルシアンも、その言葉には同意す
るように頷く。
﹁ごめんなさい⋮﹂
理由は色々あるはずだったが、私は結局素直に謝っていた。
あんな形で村を出たから、アルには本当に心配を掛けただろう。
390
﹁リル、一人で抱え込まないで。僕も君の力になるよ。僕だけじゃ
ない、エルや姉さんだって﹂
﹁俺もだ﹂
アルの言葉に、ルシアンも言葉少なに同意する。
﹁ルイ⋮リルには、一生かけても返せないぐらいの恩がある。何が
あっても、俺はお前を守る﹂
ルシアンの言葉に、不覚にも私は撃ち抜かれてしまった。
そんな!前世で彼氏にも言われたことないのに!
﹁あ、ありがとうルシアン⋮でも、その⋮恩なんて気にしないで。
二人を助けたのは、私じゃなくてシリウス様とか、他の人たちの力
があったからだよ﹂
そう言ってシリウスの名前を出すと、二人はなぜか嫌な顔をした。
﹁とにかく!リルが王子に仕えることを望むなら、僕らも協力する
よ。男所帯に女の子一人じゃ、困る事も色々あるでしょ?﹂
確かに、今はそれほどでもないが、今以上に体が成長してしまっ
たら、色々と差し障りが出てくるだろう。その意味でも、同じ学習
室内に協力者がいれば心強い。
﹁ありがとう、二人とも⋮﹂
不覚にも涙ぐみそうになるのを、私は必死で堪えた。
なんだかこの世界に来てから、私はひどく泣き虫だ。
391
﹁で、この手紙に﹃女装﹄ってあるけど、アランは君が妹であるこ
とを知らないの?﹂
アルの問いに、私は首を横に振った。
﹁アランは最初から知っていたみたい。でも私の存在が自分の母親
にばれるとまずいから、ずっと気付かないふりをしてたって⋮﹂
﹁アランはルイに厳しく当たっていただろう﹂
咎めるようなルシアンの指摘に、私は肩を竦めた。
﹁お義母様にばれない内に、学習室から追い出そうとしてたんだっ
て。でも今は、何も困る様な事はされてないよ﹂
そう言ってアランをフォローしてみるものの、ルシアンとアルの
表情はちょっと険しい。
﹁それなら、それこそなんでアランはこんな招待状を寄越したのか
な?メリス家で開かれるパーティーなんて参加したら、いくら偽名
とはいえ危険じゃないか﹂
﹁うん⋮でもさっきの様子だと、アランにはなにか考えがあるのか
も⋮﹂
私の代わりにアルが憤ってくれるので、逆に私は冷静に考えるこ
とが出来た。
それに、あの日学友としての私を受け入れてくれたアランに、私
はもう悪感情を抱くことができない。
392
﹁じゃあ出るつもりなのか?メリス家のパーティーに?﹂
咎める様なルシアンの語調に、ちょっと気圧される。
わかっているさ。危険なことぐらい。
でもよくよく思い返してみれば、さっきこの招待状を持ってきた
時のアランは、どこか必死な様子だった。普段はあれほど規則や礼
儀にうるさい彼が、あの時だけはそれらを無視して私にこの招待状
を直接手渡しに来たのだ。それはきっと、どうしてもパーティーに
出てほしいという事なんだと思う。その理由は分からないにしろ。
﹁⋮うん。行くよ。アランが来てほしいっていうのなら﹂
少し迷いながらも、言い切った私を、アルとルシアンは揃って呆
れていた。
393
91 天秤
無事、リルに手紙を手渡すことのできたアランは、嫌な動悸を抑
えられないまま、世話役の待つ学習室の方向へと急いだ。
そう、世話役だ。
マクレーン家の騒動以降、それに関わったアランを監視する為に
つけられた世話役。名目上は成人の儀式を前にしてのお目付け役と
いう事になっているその男は、兄の紹介で侯爵家にやってきた。
初めは、我が身を危険に晒したのだからしょうがないとその処置
に納得していたアランだったが、月日が経つにつれ、その男が妙だ
と思うようになった。
いつも顔色の悪い、痩身の男だ。こげ茶色の髪を撫でつけ体裁を
整えているが、お世辞にも貴族の出身には見えなかった。姿勢が悪
く、言葉は時折訛りが混じる。
兄は一体どこでこのような男と知り合ったのだろうか。そしてな
ぜ弟である自分の監視役に推薦したというのか。
馬車を使い世話役と向かい合って屋敷に帰る道すがら、アランは
黙りこんで思考の海に沈んでいた。
兄上は︱︱︱メリス家嫡男であるジーク・リア・メリスは、妹で
あるリシェールがメリス家を追い出されたあの日から、変わってし
まった。
初め、彼は頻繁に家を空けるようになった。どこに行っていたの
か、たまに帰ってきても、着替えて再びどこかへと出かけてしまう。
偶に見かけると、いつもジークは強張った顔をしていた。アラン
が話しかければ表情を緩めるものの、どんなに頼んでも、家に引き
留めることはできなかった。
優しかった兄のその変わり様に、アランは少なからず心を痛めた。
394
もともと、貴族の家には家庭の愛情など求めてはいけない。子育
てすら、同時期に子供を産んだ乳母の手によって行われるのだから。
メリス家もそんな例に漏れず、アランは両親の愛情をそれほど受け
ずに育った。しかし兄であるジークだけは違っていた。彼はアラン
に様々な事を教え、いつも優しく接してくれた。年の離れた兄であ
るジークが、アランにとっては兄であり父でもあった。
だというのに、ジークすら、アランとの関わり合いを避けるよう
になってしまったのだ。
その後学習室へと招集されたアランは、寂しさを紛らわすために
勉学にのめり込んでいった。
そうして三年の月日が流れた。その頃になると、アランは既に家
族に何かを期待することを止めていた。学習室に通う他の子息達も、
聞けば家族と親しく過ごすことなど稀だという。そういうものなの
だろうと、アランはその状況をすっかり受け入れていた。
ところが、アランの成人の儀式を前にした今年、事態が急に動い
た。
それは、これまであまり家によりつかなくなっていたジークが、
突然不在の当主に代わってアランの成人の儀式を取り仕切ると言い
出したからだ。
メリス家当主であるヴィンセント・リア・メリス侯爵は、王から
外交官に任命されており家を空けることが多い。なので、メリス家
では家令に大幅な裁量権が認められている。なのでアランの成人の
儀式もそれに付随するパーティーも、途中まではその家令が準備を
取り仕切っていた。ジークはどういうつもりなのか、それに突然口
出しをし始めたのだ。
出席者の構成から、客をもてなす料理から、屋敷の飾り付け、果
てには聖教会に収める為に工房で誂えていた聖具まで。
メイユーズ国の成人の儀式は、大陸に根を張る聖教会という宗教
団体と深く結びついている。
大陸の大半の人間が信仰する聖教は、神が人間を捨ててこの地を
395
去った物語を今に伝える宗教だ。
神はこの地を去る際、人が困らぬように四柱の精霊王とエルフを
残された︱︱︱。
この書き出しで始まる物語は聖典と呼ばれ、口伝から吟遊詩人の
奏でる歌となり、今でも大人から子供にまで親しまれている。
今では聖教もすっかり細分化し、国や地方によってそれぞれの精
霊王を信仰したりと様々だが、メイユーズ国は建国にシリウスが関
わっているだけあって、特にエルフを重んじている。
故に成人の儀式は、その年十三歳になる子供達が色濁月最後の晩
に聖教会へと赴き、それぞれに用意しておいた聖具を祀られている
エルフの像に納めるのだ。そしてその後教会で清められた聖具を持
ち帰り、貴族の家では子息子女の成人を祝って、それぞれに夜を徹
したパーティーが開かれる。
アランが家令と話し合って決めた聖具は、学業への祝福を願って
緻密な細工の施されたペンだった。所がジークはそれを強引に、武
運長久を願う剣へと変えてしまったのだった。
そのジークの横暴を、アランは呆然と見ていた。
物腰こそ柔らかで、この方が男らしいだろうとアランを諭すジー
クだったが、かつてはむしろ気弱でアランに何かを強要することな
ど一度もなかったジークの変化に、アランは戸惑った。
そしてその後も着々と、ジークによる侯爵家の掌握は続いている。
母である侯爵夫人はそれに反対するどころかようやく跡取りとし
ての自覚が出てきたと喜び、メリス家に仕える使用人達もいずれは
侯爵家を継ぐジークに反論する者などいない。
そして唯一彼に勝る発言権を持つ侯爵は、儀式前日に帰国する予
定だ。
アランは自分の成人の儀式に一抹の不安を覚えながら、兄の紹介
でやってきた奇妙な男に監視される日々だ。
だから、藁をも掴む思いで、アランはリルに招待状を渡した。
396
今は使用人に頼むことすら恐ろしく、監視の目をくぐってわざわ
ざ直接手渡したのだ。
勿論義母にその存在がばれて彼女の身を危険に晒すことがないよ
うにと、予め欠席の返事が届いていた令嬢の名前を利用して。
リシェールがメリス家を追われて以来、人が変わってしまった兄。
彼をどうにかできるとしたら、もうその妹しかいないと思われた。
揺れる馬車の中、アランは震えそうになる手をぎゅっと握りしめ
る。
メリス家とはすっかり縁が切れて、穏やかに暮らす妹を自分の事
情で引っ張り出すのだ。罪悪感がアランを襲う。
あの招待状を書き上げるまで、アランは幾夜も苦悩の夜を過ごし
た。
彼女の身の安全や気持ちを思いやるなら、こんなことは決してす
るべきではない。
だけれども、兄をどうにかできる、その可能性が唯一残されてい
るのも、やはりあの妹だけなのだ。
自分は兄と妹を天秤に掛けて、結局兄を選んでしまったのだろう
か。
アランは世話役に見とがめられないように俯いて奥歯を噛み締め
た。
母にバレなければいい。
兄が何も起こさなければ。
父に見咎められなければ。
いくつもの楽観的な予想すら、アランの塞いだ気持ちを晴らして
はくれなかった。
397
398
92 なりすまし令嬢
一度出席すると決めてしまえば、私にはやるべきことが無数にあ
った。
まず何よりもしなければいけなかったのは、付け焼刃のマナー講
座だ。
ステイシー家に養子に入った私は、少しでも早く王子の傍へ行け
るようにと今日まで家でも学習室でも礼儀作法を学んできたわけだ
が、それはすべて男子のものであり、私の年齢の令嬢が習得してい
なければならないものとは何もかもが違っていた。
男とは違い、女は公の場では全てにおいて一歩下がった態度が求
められる。
どこへ行くにもエスコートを待ち、声が掛けられるまでは決して
自分から話しかけてはならず、更にはご不浄の際にも侍女に言って
付き添ってもらわねばならないなど、不自由の極みでしかなかった。
私は大慌てでそれらのマナーを学んだ。
食事のマナーや姿勢などは、男と共通であるから問題はないとし
て。
しかし、夜会に必須なのはそれだけではなかった。
夜会に絶対必要な技術。
そうそれは⋮ダンスだ。
異世界の癖に、パーティーにダンスが付き物というのはやはり乙
女ゲームの世界だからだろうか。
そういえば、ゲームのエンディングでは学園卒業のプロムパーテ
ィーが舞台だったっけ。エンディングだけあってそれは手間のかか
ったスチルで、主人公は見事カップルになった相手と踊ってたっけ
な。
けっ、異世界で何がプロムだよ。日本のゲームなんだから仰げば
399
尊し歌ってなさいっての。
ゆっくりと休養に充てるべきひと月をマナーとダンスの練習に費
やした私は、内心で相当荒んでいた。
大体、日本にはダンスを踊るような風習などないのだし、盆踊り
もフォークダンスもスルーで前世を過ごした私にとって、ダンスは
全く未知の領域だった。
かじったことのあるダンスといえば、カーヴィダンスとベリーダ
ンスぐらい。勿論どちらもダイエット目的だったし、それだって三
日坊主で終わったわけで。
﹃人間ってのはほんとめんどくせーなぁ﹄
ヴィサ君が空中にふよふよと浮かびながら欠伸をしている。
私も全くもって同意だった。
でもだからって、一度決めたことを今更投げ出す訳にはいかない。
﹁違う、ここはこう﹂
そう言って私とペアを組んでダンスのお相手をしてくれているの
は、なんとルシアンだった。
あの日、パーティーに出席するという私の決意に呆れて不愉快そ
うにしていた彼だが、私のあまりにも無残なダンスに同情したのか、
練習の相手役を申し出てくれたのだ。マナーもダンスも勉学よりは
苦手だというルシアンだが、それでも徹底的に貴族教育を施された
だけあってダンスも人並みにこなした。因みにアルはなんでも用事
があるそうで、今日は来ていない。
ステイシー家の小さなホールで、ミーシャの弾くピアノに合わせ
て私達は踊る。
最初は気恥ずかしかったパニエで膨らんだドレスも、今では何も
感じなくなった。
400
ターンを決めた時にひらりと膨らんで、それに忘れかけていた乙
女心をチクリと刺される。一応前世も今生も乙女であるからして、
上手く踊れればそこまで悪い気はしないというのが本音だ。
因みに、ゲイルとミハイルには、一応手紙で今回のことを知ら
せてあった。
それでも絶対に反対するであろうことが目に見えていたので、確
実にすぐに届くヴィサ君便には任せず、商会を介してそちらへ向か
う商隊へと手紙を託した。これならば手紙の到着に時間がかかり、
届いた頃にはすべてが終わっているはずだ。
仕事で王都を離れている彼らを、私の事情でこれ以上煩わせるの
も嫌だった。
予想外な事に、パーティへの参加を一番喜んだのはミーシャだ。
私がメリス家の娘である事を知らないミーシャは、今回の集中お
嬢様講座に喜んで協力してくれた。
彼女がいつか私が着るようにと用意しておいたというドレスが何
着も出てきた時には、正直ありがたいやら申し訳ないやらで頭が下
がった。
そしてミーシャの連日の上機嫌ぶりも見ていると、これからはも
っと親孝行しなければいけないなと、素直に反省するより他なかっ
た。
一応娘が出来たはずなのに、ざんばら頭で騎士団に行ったり学習
室に行ったりで、そういう意味ではミーシャも不憫かもしれない。
学習室も休みとなる色濁月は、降りしきる雪の中物騒なその名前
に反してそんな風に穏やかに過ぎていった。
***
君と過ごした時間は、今まで僕が過ごした中で、最も穏やかな日
401
々だった。
君を愛した日々は、僕の人生の頂点であり、もうそれは二度と戻
ることはない。
君の苦悩を、その苦痛を、一体何で贖えただろう。
一度はその手を離した不甲斐ない僕を、君は怒っているに違いな
いのに。
君を奪った雪。君の吐いた赤い血。冷酷な色濁月の女王。
だから、君のためにこの家を壊そう。全てを消してしまおう。
僕らの仲を引き裂いた世界すべてに、僕は復讐してやろう。
***
﹁ここが、メリス侯爵家⋮﹂
色濁月最後の日が終わり、灰月のはじまりの日、時計は深夜1時
︱︱︱1テイトを指していた。
それは同時に、メリス家で次男であるアランの成人を祝うパーテ
ィーの開始時刻でもあった。
つい2メニラ前まで8歳であった私も、今は9歳だ。
庭には無数の松明が焚かれ、闇の中に巨大な屋敷を浮かび上がら
せていた。ポーチの車寄せには馬車が無数に並び、大勢の揃いのコ
ートに身を包んだのフットマン達が、その行列を素早く捌いていく。
もうほとんどの招待客は屋敷の中に入っており、残ったのは目立た
ないように遅めにやってきた私達のような者だけだった。
もう二度と戻りはしないだろうと思っていた場所だ。しかし、私
402
は再びここまで来てしまった。
懐かしさは全くない。
思えば、記憶もないままに連れてこられ、そのまま一度も外に出
ることがないまま、再び意識がないまま追い出された家だ。その外
観が記憶にあるはずもない。
それでも、この家で起こった数々の出来事を思えば、胸が握られ
たように痛むもしょうがないことだった。
﹁大丈夫?リル﹂
馬車に同乗しているアルが、心配そうに顔を覗きこんでくる。
隣で仏頂面をしていたルシアンもこちらに同じ意味合いの一瞥を
寄越した。
私はそれに、大丈夫だと笑って見せる。
大方の予想通りパーティーにはドクターストップがかかってしま
ったミーシャを置いて、私はアルとルシアン、そしてそのお目付け
役が乗るマクレーン家の馬車にお邪魔していた。
訊けば、学習室に通う様な子息は大抵がこのパーティーに招待さ
れているのだという。対外的に招待されていないのは平民上がりの
ルイぐらいだ。ちなみに学習室が休みに入る前、そのことで何人か
の学友に当てこすられたりもした。
まあ、そんな裏事情はさて置き。
先代でかなり散財したマクレーン家だが、それでも地位は伯爵と
いうことで流石にその馬車は立派なものだ。
リルファという偽名も、愛称としてリルと呼んでも不自然ではな
いので、お目付け役の目があってもそれほどひやひやせずに済んだ。
アルとルシアンのお目付け役であるパールという女性は、私とは
あまり面識がないがとにかくとても美しい女性だ。名前に因んで真
珠が無数に編み込まれている髪は、紫に茶色の混じる不思議な色合
い。
403
だが不思議なのは、確かにとても美しいのに、なぜか記憶に残り
づらいということだった。
美しすぎて、特徴がない。
それはまるでマネキンのような美しさだ。
ミーシャからくれぐれも私をよろしくと頼まれていた彼女は、薄
く紅を刷いた唇でうっすらと微笑んだ。
その微笑みがなぜか、私にはうすら寒く感じられた。
使用人の手で、外から馬車の扉が開けられる。
その時、屋敷の中から歓声が響いた。
いよいよ、パーティーの幕が開こうとしている。
404
92 なりすまし令嬢︵後書き︶
またまたリルの悪いくせが出ました
405
93 侯爵家の夜会
馬車が止まり、フットマンによってその扉が開けられる。
ひやっとした夜気が頬を撫でた。
令嬢の格好をするというのは本当に大変だ。
まず、スカートを膨らませるクリノリンはいちいちどこかに引っ
かかって動きづらい。
そして偽名の主である令嬢だと誤魔化し使用人達の目を欺くため、
私はピンクゴールドのつややかなカツラを被っていた。久しぶりの
長髪は首回りが温かいのはいいが重くて鬱陶しい。
私はまだ九歳なのでコルセットは大目に見てもらえたが、その分
ドレスはピンク色のふりふりでなんというか精神的にも辛い。剣ダ
コや手荒れを隠す白い手袋は、レースのあしらわれた可愛らしい品
だ。
馬車から降りるだけでげっそりとしながら、先に降りたアルの手
を借りて馬車から降り立った。
パールの手を借りて毛皮のボレロを羽織る。それでも足元が冷え
ますけどね!これで若くなかったら、クリノリンの重みも相まって
坐骨神経痛になりそうだ。
アルはまだエスコートの経験がないということで、彼はパールを。
私はルシアンのエスコートで会場であるメリス家に入った。
それは、なんというか想像した通りの“貴族のパーティー”だっ
た。
夜だというのに、高価な光の魔導石が会場を煌々と照らしている。
そして照らし出された広大な広間には、スカートを膨らませて髪
を結い上げ派手に着飾った女達。前世では結婚式でしか見たことの
ない燕尾服が、あちらこちらで尾を引いていた。ダンスの為に用意
されているオーケストラが、パーティーの開会にふさわしい威風堂
々に似た派手な曲を演奏している。
406
招待客はまず侯爵に挨拶するため、長い行列を作っていた。
ということは、この行列の先頭に私の本当の父親がいる訳か。
このパーティーが豪華であればあるほどなんとなく鼻白んだ気持
ちになりながら、私達は人の波を縫うように進み、適度にスペース
の空いた壁際に辿り着いた。
﹃うまそう!リル、食べてきてもいいか?﹄
ここに来るまで気が乗らない様子だったヴィサ君が、激しく尻尾
を振って用意された料理に狙いを定めている。
私は溜息をついた。こうなってしまえば、GOサインが出るまで
ヴィサ君は理性を失ったただの喋る犬だ。
﹃人目につかないようにね﹄
待て状態だったヴィサ君が猛烈な勢いで料理の用意されたテーブ
ルに飛んで行ってしまう。
精霊だから人の食事はとらなくても平気らしいが、どうもヴィサ
君は私の身の回りでちょこちょこと口にした人間の料理に心奪われ
てしまったらしい。おかしいな。私自身は体に良くないような気が
してあまり与えていないのに。
﹁大丈夫か?﹂
無意識に行列の先を見つめていた私を、ルシアンが無表情で気遣
ってくれた。
パールがいるから口には出さないが、アルも心配そうにこちらを
見ている。
﹁うん、人が多いからびっくりしただけ﹂
407
それは本当だ。
今更、父親にも義理の母にも、何かを思ったりなんてしない。
いや、ここにきて、思った以上に何も感じない自分に驚きすら感
じていた。
それはきっと、惜しみない愛情を注いでくれるミーシャとゲイル
のお陰だ。
﹁これじゃあ、挨拶を済ませるのにも時間がかかりそうだね﹂
招待客が主催者に挨拶をするのはマナーの上で欠かせない義務だ。
私は正体が知られるのが恐ろしいからボイコットするにしても、
アルとルシアンはそう言う訳にもいかない。
﹁大変ですが、あの列に並ぶしかありませんね。リルファ様。体調
が優れないのでしたら使用人に言って休憩用のお部屋に案内しても
らいますか?﹂
腰をかがめて覗き込んでくるパールに首を振る。
﹁大丈夫。でも、挨拶はここで待っていてもいいかしら?列が落ち
着いたら、後からご挨拶に伺うわ﹂
そう言うと彼女も納得したようで、アルとルシアンを急き立てる
ように行列の最後尾へと向かった。
彼女の役目はマクレーン家の二人のお目付け役であって、別に私
の世話をすることではない。
二人はちらちらと振り返って私を気にしていたので、笑みを浮か
べてそれに手を振る。
彼らが人込みに紛れてしまうと、私は壁に寄りかかり溜息をつい
408
た。
さあて、それにしても。 侯爵家の権勢を示すパーティーとはこれ程のものか。
その盛大さに、思わず自虐的な笑みが零れる。
会場には十分な暖房設備があるのだろう。ボレロを脱いでも、ち
っとも寒くなかった。
これほどの富があるならなぜ、その欠片でも母に分け与えてはく
れなかったのか。
下民街のあばら家で身を寄せ合っていた日々が、今更辛く思い出
されてしまう。
本当に本当に、私はこの家が嫌いだ。大嫌いだ。
でも、アランは只の友達だ。思わず彼さえ憎みそうになる自分に、
必死にそう言い聞かせた。
﹁失礼。レディ、ご気分でも?﹂
どす黒い感情に心奪われていた私は、その男性が近づいてくるの
に気付くのが遅れた。
少し屈んでこちらの顔を覗きこんでいるのは、シャンパンゴール
ドの髪を後ろで一つに束ねた、細身の男性だった。ブルーグレイの
瞳が、笑っているはずなのにどこか冷たさを感じさせる。
彼と目が合った瞬間、私の体には震えが走った。
それは別に急激に恋に落ちたからでも、レディというさむいぼ物
な呼び名に悪寒が走ったからでもない。
︱︱︱兄上。
それは、見間違えることのない。
アランとは似ても似つかない、メリス家の長男。
409
ジーク・リア・メリス、その人だった。
410
94 他人ならば楽しめますが
不味いぞ。
いきなり本丸︵?︶に遭遇するとは。
というか、なぜこの兄上はあの行列の先にいないんだ?大人しく
招待客の挨拶受けてろよ。
内心八つ当たりをしつつ、慌てて顔を俯ける。
﹁ありがとうございます。大丈夫です。あまりの盛大さに、驚いて
しまっただけで⋮﹂
おべっかも交えつつ、気弱な令嬢を演じてみる。
俯いた頭からは、﹃構うな∼﹄の念が放出されているはずだ。
なのに、である。
﹁人込みに酔われましたか?では少し静かな場所で休んだ方が⋮﹂
と言って、ひざまずいて私の顔を覗きこんできたのである。
おいおい九歳児にこれは刺激的すぎるで。
つうかいくら優しいとはいっても、これはやり過ぎである兄上様。
﹁そんな!お立ちください。侯爵家子息であるあなたにそのような
事をさせては、わたくしが叱られてしまいます﹂
動転した様子をみせると、ジーク兄上は驚いたように目を見張っ
た。
﹁これは失礼。レディ。失礼ですが付添いの方はご一緒ではないの
411
ですか?﹂
令嬢であれば、夜会に出席するにも付添いの侍女がいるのが普通
だ。
しかし、なんちゃって令嬢である私にそのような人はいない。
﹁ここで待っているようにと言われていますので。だからどうかお
気になさらず⋮﹂
﹁主を待たせておくなど、とんでもない側仕えですね。少し懲らし
めてやりましょう﹂
そう言って、兄上は私の手を取った。
﹁どうぞこちらに。休憩用のお部屋にご案内致します﹂
侯爵家の人間にそう言われれば、無碍にもできない。
私は大人しく兄上について行った。
途中、幾人かの令嬢が振り返る。
今日で二十五歳を迎える筈の兄上は、年齢さえ合えば攻略対象に
なっていそうな優美なイケメンだった。
こんな出来事も、ゲームイベントだったらスチルを見て楽しめた
だろう。
しかし名前を詐称してこの場に潜入している今は、胃がキリキリ
と痛んでしまう。
﹁どうぞこちらに﹂
人込みを抜け連れてこられたのは、誰もいない広めの客間だった。
窓があるという事は、恐らく高位な招待客専用の客間だろう。
412
仕方ない、兄上が去ってからこっそり抜け出そう。
そう思うのに、なぜか彼はなかなか立ち去らない。
﹁お手数おかけして申し訳ありません⋮﹂
余計な事は喋れないので、夜会デビューの初々しさで緊張してい
るという脳内設定を自分に付け足す。
﹃構うな∼﹄電波再び送信。
しかし兄上の受信機はバカになっているようで、私が促されるま
まに座ったソファの隣に、彼も腰を下ろした。
これは明らかなマナー違反だ。
いくら私が九歳とはいえ、未婚の令嬢に同意も得ずにこのような
事をしてはいけない。
驚いた顔で見上げる私に、兄上はくすりと笑う。長めに垂らされ
た前髪が、ゾクリとするほど妖艶だ。
私はその顔をまじまじと見つめた。
兄上は果たして⋮こんな強引な人だっただろうか?
﹁重ね重ねご無礼を。私も少し疲れました。休憩をご一緒しても?﹂
﹁え、ええ﹂
なんというか、断れる雰囲気ではない。
気圧されている私に構わず彼は呼び鈴を鳴らし、使用人に紅茶を
持ってこさせた。そしてその使用人が去って二人きりになると、口
を閉ざしたままの私の顔を再び覗き込んだ。
﹁失礼。どこかでお会いしましたか?お名前は?﹂
ナンパの常套句だが、私は九歳だし彼が極度のロリコンでない限
413
りそれは当てはまらない。
魔導による空調は万全の筈だが、背中を冷や汗が伝った。招待側
から尋ねられれば、答えない訳にはいかない。
﹁リルファ・ヘルネストと申します⋮﹂
顔を逸らそうとする私の顎を、兄上が捕まえる。
ぐえー!お前乙女ゲームか!!
息のかかりそうなほど間近で、兄上がまるで見聞するように私の
顔を見つめた。
ヤバイ正体がばれたか?それともまさかのロリコンか?
どれほど時間が経ったのか、しばらくそうしていた後兄上はよう
やく私の顎を開放した。
﹁まさかそんなはずは⋮﹂
﹁あの、何か?﹂
恐る恐る尋ねる私に、兄上はなぜか一瞬、恐ろしいものを見るよ
うな目をした。
﹁いいえ。知人に少し似ていたもので。ご無礼をしてしまって申し
訳ない。ヘルネスト家の方でしたか。遠路はるばるようこそ我が侯
爵家に。それではお父様とご一緒に?﹂
私の偽名の本当の持ち主であるリルファ・ヘルネスト嬢は、王都
からは遠方に暮らす権力とは無縁の子爵令嬢だ。私と同じ年頃でま
だ夜会デビューをしておらず、顔が知られていないというのが彼女
の名前を寄越したアランの思惑だろう。
414
﹁ええ。父は侯爵様に御挨拶に伺っております。本来ならわたくし
も一緒に御挨拶に伺うべきなのですが、慣れない魔導転移に少し疲
れてしまって﹂
先ほどの会話を考えれば苦しい言い訳だが、子爵家の領地を考え
れば不自然な言い訳ではないはずだ。
実際、色濁月には街道も雪に閉ざされてしまうので、もし王都に
向かうとすればどうしても、聖教会が管理している転移用ペンタク
ルを使わなければならない。そして転移用のペンタクルは大量の魔
力を消費するので、魔力が弱いとその影響で稀に後遺症が出てしま
うことがあるのだ。後遺症と言うと大げさだが、例えば体調を崩し
て何日も寝込むことだってある。
﹁そうでしたか。さぞお疲れでしょう⋮﹂
そう言って、兄上は黙り込んだ。
いや、そう思うならそっとしておいてくださいよ。
しかし、なぜか彼はその場から動かなかった。
﹁あの、わたくしのことは本当に大丈夫ですから、どうか会場にお
戻りください。ホストであるあなたを独占していては、わたくしが
叱られてしまいますわ﹂
マジものの困惑の表情で懇願するが、兄上は笑顔でそれを受け流
した。
﹁いいえ。私は放蕩息子でしてね。実は今まで実家のパーティーに
もほとんど顔を出していなかったのです。だから私の顔を知ってい
る人間は殆どいませんよ﹂
415
﹁え⋮?﹂
どういうことだろうかと考え込む脳裏に、どすどすと大きな足音
を立てて嫌な予感が近づいてくる。
﹁なのにどうして、貴方は私を侯爵家子息だとご存知なのかな?﹂
にこりと笑ったその顔に、音を立てて私の血の気が引いていった。
416
95 あなたに
兄上は口元に浮かべた冷たい微笑をそのままに、じっと私を見つ
めた。
息をすることすら、辛い。
真っ白になった頭で、必死に言い訳を探していた。
もういっそ正体を明かしてしまうか?でもそんなことをすれば、
私どころかゲイルにまで咎が及ぶかもしれない。この夜会を叩きだ
されるだけで済めばいいが、彼の意味ありげな表情がその想像は楽
観的だと語っていた。
どれほどの時が過ぎただろうか。
極度の緊張の中、暖炉の薪が音を立てて崩れたのを機に、高まっ
た緊張は弾けた。
﹁あっはっはっはっは!﹂
は⋮?
兄上は、唐突に体を折って盛大に笑い声をあげた。
展開についていけず、私はぽかんとするばかりだ。
そんな私を尻目に、兄上は笑い続ける。はあはあと、そして息も
絶え絶えに目尻の涙を拭った。
﹁⋮ッ、すまない。君の反応が、あまりにも知り合いに似ているも
のだからッ﹂
﹁お知り合いの方、ですか?﹂
何が何やらだ。
私の頭の上には大量のクエッションマークが浮かんでいる事だろ
417
う。
しばらくは、間抜けに口を開けたままにしていることにすら、気
付けなかった。
﹁ああ、いや、悪かったね。君の話はアランから聞いているよ。僕
たちの知り合いによく似ているからと﹂
はあ?何言い腐ったんじゃあのガキ。
理不尽な状況に、多少苛立ってしまうのも仕方のない話だ。
﹁あ、反応が似ているというのはまた別の女性なのだけれど﹂
そう言って、兄上は少しほろ苦い笑みを零した。
﹁君は僕らの妹に似ているよ。髪の色は違っているけれど、その目
がそっくりだ﹂
内心でギクリとしながら、私は固い笑みを作った。
﹁あら、妹君がいらっしゃるのですか?ごめんなさい。失礼ながら
存じ上げないのですが⋮﹂
﹁そうだね。今は遠くに暮らしているよ。体が弱くて、一緒には暮
らせないんだ﹂
そう言って、兄上は少し思いつめたような表情を見せた。
私は身分を偽っている罪悪感と、かつては私に無関心だったはず
の彼のその意外な反応に、言うべき言葉を見つけられずにいた。
﹁⋮よかったら少し、僕の話を聞いてくれるかい?﹂
418
﹁え?﹂
﹁どうせ妹に言っても言い訳になってしまうからね。それに、僕は
もう二度と、彼女に会うことはないだろうから﹂
﹁そんな⋮﹂
それは私が国境の村にいると思っているからだろうか?それにし
ては、彼の言い回しは何かがおかしい気がした。
﹁︱︱︱僕には昔、心底愛した女性がいた﹂
語り始めた兄上に、私はすぐに拍子抜けした。
は、女性?私の話じゃないんかい。
しかし、その話の続きは、驚くべきものだった。
﹁彼女は僕の家で働くランドリーメイドだった。毎日洗濯をしてい
るから、あかぎれた痛々しい手をしていた。でも、明るくて良く働
くとハウスキーパーも彼女を買っていた﹂
﹁そのような方と、どうしてお知り合いになったのです?﹂
疑問が、するりと口から出た。
メイドの中でも地位的に低く、洗濯を主とするランドリーメイド
が屋敷のご子息と恋に落ちるなど、ハーレクインでもあるまいしと
ても現実にあったこととは思えなかった。
﹁庭園を散歩していた時にね、歌が聞こえたんだ﹂
419
﹁歌、ですか?﹂
﹁ああ、どこの言葉かは分からなかったが、心地いい音色だった。
まるで人の心に入り込み、そっと寄り添う様な⋮。その歌を歌って
いたのが彼女だった。白いシーツを広げながら、気持ちよさそうに
歌っていたよ。そんな彼女に、僕は恋に落ちたんだ﹂
どこの言葉か分からないという事は、彼女は新大陸の人間だった
のだろうか?侯爵家子息ともなれば、大陸で使われているいくつか
の言葉は喋れるし、殆どの国の挨拶ぐらいは言えるはずだ。
おっと、肝心なのはそこじゃないか。
まさにハーレクイン的な出会いを果たした二人は、そこからどう
なったのか。
﹁僕は毎日彼女の元へ通ったよ。最初、彼女は戸惑ったようだった
けれど、辛抱強く通う内いつしか僕に心を開いてくれるようになっ
た。彼女はこの国の言葉が上手じゃなかったから、僕は彼女に色々
な言葉を教えてあげた﹂
﹁素敵なお話ですね﹂
内心では招待客である令嬢に何語っとんじゃいと思わなくもなか
ったが、実際兄上の恋物語に興味もあった。
﹁ありがとう﹂
そう言ってほほ笑む兄上は、先ほどまでの冷たさも鳴りを潜めて、
穏やかに笑った。
﹁両親の目を盗んで、僕らは逢瀬を重ねた。彼女は他国の生まれだ
420
から、僕の立場というものに疎かったんだな。だから、彼女はただ
単に一人の男として僕に接してくれた。それが新鮮で、心地よかっ
た。いつまでもこの時が続けばいいと、そう思ってた﹂
話の終盤、兄上は悲しげに眉を顰めた。
そんな身分差の恋が上手くいくはずがないというのは、彼も最初
から分かっていたのだろう。
彼は宙に浮いていた視線を私へと戻した。
﹁君の困った顔はね、彼女に似ていたんだよ。言うべき言葉が見つ
からない時、彼女はよくそういう顔をしていた﹂
頭を撫でられ、反応に困り私は俯いた。
兄上はなんて、悲しそうにだけど、艶っぽく笑うのだろう。
﹁⋮それで、どうなったのです?﹂
なかなか優しく撫でる手が気まずく、私は話の先を促した。
兄上の手は離れていき、私は自分でそう仕向けておきながらその
温もりを一瞬名残惜しく感じた。
﹁まあ、よくある話だ。彼女とのことが両親にばれてね。僕は国外
へ留学させられ、彼女とは引き離された﹂
パチパチと爆ぜる暖炉の火の向こうに、まるでその日の光景が見
えるとでもいう様に、兄上は遠い目をして黙りこんだ。
言うべき言葉も見つからず、私もそれに習い黙りこくっていた。
しかし、無意識に零れ落ちたのか、独り言のように呟かれた言葉
に、私は何も考えられなくなった。
421
﹁でもその時には、彼女は既に僕の子供を身ごもっていたんだ。僕
はそれを知らずに国を出た。知っていれば、身分を捨てでも彼女と
暮らす道を選んだだろう。父にはそれが分かっていたんだ﹂
長い脚を組み換えると溜息をついて、絞り出すように兄は言葉を
続けた。
﹁身重の彼女が屋敷から追い出されてどんな日々を送ったのか︱︱
︱⋮。ようやく探し当てた時、彼女は流行病で亡くなっていて、娘
はもう五歳になっていた。僕はせめてもの償いにと、父と取引して
娘に会わない代わりに彼女を屋敷へ引き取ることに成功した。そし
て彼女は、僕の娘は、僕の妹としてメリス家に迎え入れられた。彼
女の名前はリシェール。無事生きていれば、君と同じぐらいの年だ
ろう﹂
誰かの面影を追う様に細められた視線に、私は何も言うことが出
来なかった。
今語られた話が誰の話で、そして誰が主人公の物語だったのか。
私は叫びだしそうな混乱を抑えて、ただ黙りこくるより他になか
った。
422
95 あなたに︵後書き︶
ようやくこの設定が日の目を見る日がこようとは
423
96 何を
﹁どうしてそのような話を⋮私に?﹂
声の震えを、隠せたかどうか自信がなかった。
溢れ出る感情の奔流が、私の中で荒れ狂う。
﹁さぁ、なぜだろう。多分君が、あまりにも娘に似ていたからかな﹂
柔らかな表情で笑う彼は、先ほどまでの冷たい印象などみじんも
感じさせなかった。
本当は口から零れ落ちそうになる沢山の言葉たちが、喉元に仕え
て出てこない。
﹁⋮さぁて、じゃあ僕はパーティーに戻るとするよ。君はここでゆ
っくりと休んでおいで。あとで迎えの者をやるから﹂
﹁あ⋮いいえ私も⋮﹂
彼は素早く立ち上がると、先ほどまでの話の余韻を振り切るよう
に、早足で扉のノブに手を掛けていた。そして瞬く間に部屋から出
ると、最後に私を見て泣き笑いのような顔をした。
﹁いいかい。外からどんな音が聞こえようとも、この部屋から出て
はいけないよ。約束だからね﹂
そんな童話の忠告めいた言葉を残して、彼は何かを断ち切るよう
に扉を閉めて、部屋を出て行った。外からドアをロックする音が聞
こえる。ああ、彼は何かが無事に済むまで、私をここに閉じ込めて
424
おくつもりなのだ。
﹁ああぁ!﹂
大きな部屋に一人で取り残された私は、ドレスの形が崩れるのも
構わず、ソファから柔らかな絨毯へと崩れ落ちた。
彼に、ジークに、私は何を思えばいいのだ。何を言えばよかった
のだ。
醜く罵倒すれば?正体を明かして抱き合えば?
そのどれも選べずに、ただ頑なに黙りこくり、体を震わせるしか
なかった弱い自分。
今更あんな事を言われても、私はそれをうまく飲み込んだりでき
なかった。
今までずっと、顔も碌に見せない父親など、いないも同じだと強
がってきた。母は私に父について何も語らなかったから、きっと嫌
な思い出なのだろうと、どうせ歳のいったエロ爺が若い母に無理や
り手を付けたのだろうと、勝手に解釈して勝手に傷ついていた。で
もそうして心を凍らせておかなければ、この家での仕打ちには堪え
られなかった。
それを今更、私は愛された子供だったと、父と母が愛し合って生
まれた子供だなんて、そんなの。
涙が溢れて止まらない。
口からは情けない喘ぎ声。
知りたくなかった。
知ったところで、母が死んだ事実も、私がこの家を手ひどく追い
出された事実も、何も変わりはしない。
ならば黙って、恨まれていてほしかった。
私は心のどこかで、このメリス家の人間を恨むことで、多分自分
を保っていたのだ。強がって嘯いて前世では大人だったのだから平
気だと、そう思い込むことで愛されなかった自分を受け入れようと
425
していた。
なのにその前提が崩れてしまえば、そこに残ったのはただ弱々し
い、泣き喚くしか能のない子供一人だ。
﹁止めな⋮くちゃッ﹂
何度も心を奮い立たせようと、喘ぎの隙間に言葉を滑り込ませる。
彼は、ジークは、何かを覚悟した顔をしていた。
きっと今夜何かを起こす気なのだ。だから私をこの部屋に閉じ込
めた。その何かが無事に済むまで。
悪い予感を、ひしひしと感じた。
暖炉で温まった部屋なのに、体の震えが止まらない。
その時だった。
窓に、何か大きなものがぶつかる音がした。
バチン、バチン、バリン!!
そして一際大きな音をたてて窓は粉々に砕け散り、冷たい外気が
部屋の中を席巻した。
﹃リルッどうした!!﹄
飛び込んできたのは、ヴィサ君だった。
体にまとわりついた硝子の破片が、きらきらと光る。
私と心で繋がっているヴィサ君は、私の感情の昂ぶりを察知した
のだろう。
小さな姿のまま勢いよく私の腕の中に飛び込んできたヴィサ君を、
私は力任せに抱きしめた。
そしてその柔らかな頭に顔を埋める。
﹃誰かに、酷い事でもされたか?俺がやつけてやるから、もう怖く
ないぞ!﹄
426
心配してくれるヴィサ君に、何か言わなくてはと思うのに、喉の
奥に大きな塊がつかえていて言葉が上手く出ないのだ。
取り乱す私を、ヴィサ君が心配そうに見上げていた。
私の腕の力が痛いだろうに、彼はその不満を口にしたりはしなか
った。
﹁ッ⋮止めなきゃ⋮⋮とめっ﹂
﹃止めるって、何をだ﹄
﹁わ、わかんない﹂
涙と鼻水でぐしょぐちょになった顔を、ヴィサ君の体に容赦なく
擦り付けた。
ごめんね。あとで綺麗に洗ってあげるからね。
﹁わかんないけど、とめなくちゃっ。あの人に、罪を犯させたくな
い⋮ッ﹂
血を吐くように、私は言った。
別に、許した訳じゃない。愛していたと言いながら母と私が貧し
さに耐えている間、どこかで安穏と高貴な生活を続けていたあの人
を、簡単に許すことはできない。
でもジークは、もう二度と妹には会えないと言った。
それは会いに行くつもりがないからではなく、彼が死を覚悟して
いるからだ。
最後に彼が一瞬見せた泣き笑いの顔が、それを物語っていた。
私はまた何もできないまま、今度は父親を失うのか。
もう関係ないと割り切っていた筈なのに、心が拒否反応を示す。
427
﹃リル、俺がお前を困らせるものは何でもやっつけてやるから、だ
からもう泣くなよ﹄
困ったように囁くヴィサ君。その温もりが、ほんの少しの勇気を
くれた。
私はヴィサ君を抱いたままよぼよぼと立ち上がると、彼を空中に
放した。
もうもう身だしなみなど構っていられず、ぐしゃぐしゃになった
鬘を取り去り、歩きづらいクリノリンは外してしまう。形が崩れ萎
んだスカートの裾を縛り、私はヴィサ君に言った。
﹁この部屋から出して。私はあの人を止める!﹂
何も理解できていないのだろう、それでも。
ヴィサ君はにやりと笑って、本来の姿に戻った。
マスター
﹃仰せのままに。ご主人様﹄
どこでそんな言葉を覚えてきたのか。
しかし私は構わず、彼の背に乗った。
428
97 白日の下に
﹁お集まりの、紳士淑女の皆様﹂
ざわめきに満ちた大広間で、その声は玲瓏と響いた。
集まった視線を軽やかにいなし、今宵アランが持ち帰った聖具の
隣に立つのは、誰であろうこの家の次期当主。ジーク・リア・メリ
ス、その人だった。
近年公の場から姿を消していた貴公子の姿に、年配の男性客は驚
き、彼を知らない年若い女性客は色めき立った。
﹁今宵はわが弟、アラン・メリス成人祝賀パーティーに、ようこそ
おいで下さいました。兄であるわたくしからも、篤くお礼申し上げ
ます。さて、お集まりの皆様に、今宵はわたくしからお願いがござ
います﹂
ジークはそう言い放つと、おもむろに聖具である剣を手にした。
そしてそれを高々と掲げると、大勢の貴族が見守る中で彼は宣言
した。
﹁今から皆様には、証人になって頂きます。わたくしジーク・リア・
メリスが、大罪人である父、ヴィンセント・リア・メリスを裁きま
す所を!﹂
彼がそう言い放つと同時に、大広間の入り口からは先ほどまで庭
で招待客を案内していた筈の大量のフットマンが雪崩れ込み、誰も
出られないように唯一あるその出入り口を塞いでしまった。
大広間の招待客は波打つようにざわめき、あちこちから悲鳴が上
がる。そしてその集団が動揺している間に、フットマン達は窓と言
429
う窓の前に立ち、大広間の全ての出入り口を占拠してしまった。
この国では、私兵を囲うことは重罪とされる。
だからジークは、今日この時まで彼らをパーティー用に新しく雇
用した使用人として、屋敷に紛れさせていたのだ。
恐れ知らずな招待客は我先に大広間を出ようとフットマンに詰め
寄ったが、彼らの持つ魔導石を見て引き下がらざるを得なかった。
赤黒い色をしたその石は、主に土木工事に用いられる広範囲に爆発
を引き起こす魔導具だったからだ。
﹁ご安心ください。事が済めば、皆さまを平和的に開放することを
お約束いたします。ただそれまでは、静かに観客に徹して頂きたい。
でなければ、被害は拡大し、皆さまの無事は保障致しかねます﹂
さらりと言い捨てたジークの冷酷な笑みに、先ほどまではざわめ
き立っていたレディ達は恐れおののき、幾人かはショックでその場
に蹲ってしまった。しかし使用人や侍女の入室もせき止められてい
おこり
るのか、誰も彼女らに手を貸そうとはしない。招待客から一変、人
質となってしまった貴族らは、ただ瘧のように身を竦ませるより他
になかった。
﹁ジーク!どういうつもりだ!!﹂
人垣が割れ、現れたのはシルバーグレーの髪を撫でつけた貫禄あ
る壮年の男性だった。
その隣には、青ざめた彼の妻が付き従っている。更にその側には、
本日の主役であるはずのアラン・メリスの姿もあった。
彼こそがこの家の主。ヴィンセント・リア・メリス侯爵その人だ
った。遠くは王族に起因し、公爵のいないこの国では最高位を誇る
侯爵家当主の彼は、この非常事態にあってすら堂々たる風格を崩さ
ない。
430
この国の外交官を務め、更には円卓会議の一席を担う侯爵の動向
を、招待客たちは息を潜めて見守った。
﹁父上、お聞きになった通りです。今宵はあなた様の罪を、わたく
しが審らかにいたします﹂
そう言って、ジークは剣先を侯爵へと向けた。それでもヴィンセ
ントは堂々たる態度を崩さなかったが、側にいた妻のナターシャ・
メリスは竦み上がり、甲高い声を上げる。
﹁どういうつもりなのですジーク!お父上に剣を向けるなど、これ
がどういうことだかわかっているのですか!!﹂
母であるナターシャを、ジークは冷たく見下ろした。
親子であっても、彼らには何一つ似たところがない。それもその
はずで、ジークは病死したヴィンセントの前妻の息子だった。
・・
﹁ええ、十分承知していますよ、母上。あなたも、十分覚悟なさる
ことだ﹂
そう言い捨てると、ジークはフットマンの一人に合図し、その場
に一人の男を連れてこさせた。彼は華やかなパーティーには似つか
わしくない、手枷をはめられ剃りあげた頭に傷のある破落戸だった。
男の粗末で野蛮な姿に、会場からは嫌悪の溜息が零れた。
﹁この男は、二年前の内乱でジグルト公が擁していた私兵の一人で
す。彼の私兵はそのほとんどがすぐに処刑されましたが、彼は運よ
く生き延び傭兵として他国へと逃れていました﹂
ジークの冷静な語り口に、貴族たちはざわめいた。
431
王弟であるジグルト公の内乱騒ぎは彼らの記憶にも新しく、当時
はジグルト公の支援者探しで社交界でも執拗な犯人探しが行われた。
しかしそれもいつしか忘れ去られ、いくつかの位の低い家が取り潰
されることで事態は一応の決着を見ていた。
﹁さあ、言え。お前は誰に雇われていたんだ?﹂
ジークに剣先を向けられ、押し黙っていた男が口を開く。
﹁⋮誰かまでは知らねぇが、俺はただ金をもらって参加しただけだ
ぜ。王様をどうこうしようなんて思っちゃいなかった﹂
生き証人の言葉に、その場にいたすべての人間が耳をそばだてて
いた。その瞬間を聞き逃さないようにと、息すら潜めてその時を待
つ。
﹁ジーク、こんな男になにを!﹂
大声を上げた侯爵が、近くにいたフットマンに二人掛りで取り押
さえられた。そしてその口も封じられ、侯爵は髪を乱してその場に
膝をつかされる。
﹁ああ、そういえばそこのおっさんも屋敷で見たぜ。俺に金をくれ
たジジィが、そこに掛けられてる紋章のピンをつけてたしな﹂
壁に掛けられた家紋の入ったタペスタリーを指差し、男は言い放
った。
その周辺から波のように、会場にどよめきが広がる。
彼は今、侯爵が内乱に関わっていたと堂々と宣言したのだ。
432
﹁どういうことだ﹂﹁大変なことになった﹂﹁これで侯爵家は﹂﹁
侯爵は円卓会議の一員だぞ!﹂﹁まさかそんな⋮﹂﹁嘆かわしい﹂
ざわめきはうねりとなって、大広間の天井にまで届きそうな勢い
だった。
しかしそれを、ジークが一刀両断する。
﹁静粛に!﹂
鋭いその声音に、自分たちが人質であることを半ば忘れかけてい
た観客たちが、慌てて口を噤んだ。
﹁こんなのは出鱈目だ!その男に言わせているだけだろう!!﹂
フットマンの手を振り切って叫んだ侯爵に、誰もが疑いの目を向
けていた。
﹁︱︱︱さて、王太子様。あなた様のお考えをお聞かせ願えますか
?﹂
ジークの笑みとともに緞帳の裏から現れたのは、この国の王太子、
十一歳になったばかりのシャナン殿下だった。年齢の割に小さいそ
の体でしかし、王太子は不敵な笑みを見せた。
﹁これはメリス卿、ご機嫌はいかがかな?本日は学友の成人を祝お
うとやってきたのだが、どうやら妙な場面に居合わせてしまったら
しい﹂
意外な人物の登場に、大広間は更なる混乱に包まれた。
近年、王は体調不良を理由に殆どのパーティーを欠席しており、
433
また警備上の理由から王太子も王宮以外でのパーティーは参加を自
粛していた。
内乱騒動以来、久しぶりに貴族たちの前に現れた王太子は、その
幼さに似合わず堂々とした態度でその場に君臨していた。
﹁私の聞き間違いでなければ、メリス卿。そなたは我らが王に剣を
向けた叔父上に手を貸していたということだろうか?﹂
冴え冴えとした言葉に、宮廷のスパロ︱︱︱雀︱︱︱達は口を噤
んだ。
﹁殿下!﹂
その時、いち早くシャナンの御前に駆けより跪いたのは、彼の学
友第一席であるアラン・メリスだった。
﹁お見苦しい所をお見せし、大変申し訳ありません!﹂
何も知らされていなかったのだろう顔を真っ青に染め、それでも
王太子に忠義を示そうとするその姿は、悲壮ですらあった。
﹁構わん。面を上げよ﹂
王太子の言葉に呼応するように、アランの肩に温かい手が乗せら
れる。その主はジークだった。
﹁アラン、よく目に焼き付けておくんだ。これでこの家は終わりだ﹂
兄であるジークの酷薄な微笑みに、アランは言葉を失くし震える
より他なかった。
434
435
98 密約
厚いカーテンを引いた部屋に、パチパチと暖炉の温かい光が浮か
ぶ。
他に光源のない、暗い部屋にいる人物は四人。
その内一人だけが椅子に座り、二人はその両脇に立ち、更にそれ
に向かい合う様にして一人の人物が跪いている。
﹁⋮本当にいいのか?﹂
椅子に腰かけた人物が、慎重に念を押すと、跪いた人物が顔を上
げた。
﹁はい。この時のために、私は今日まで生き永らえてきました。最
早未練もございません。必ずや、貴方様の望むとおりに︱︱︱﹂
﹁そなたの忠義に感謝する。必ず、この国をよくすると、誓おう﹂
はっきりとした、誠意に満ちた声だった。
こんな密談めいた暗い部屋の出来事で無ければ、感動の一幕だっ
たに違いない。
﹁勿体ないお言葉﹂
感極まったのか、跪いた男は再び顔を伏せた。
そしてしばしの沈黙の後、ぽつりとつぶやく。
﹁ただ、どうか弟と娘だけは⋮﹂
436
その哀願するような響きに、彼の主はにこりと笑った。
﹁ああ、誓おう。貴殿が無事に事を成し遂げた暁には、弟であるア
ラン・メリスにメリス家を継がせ、娘であるリシェールは必ずや探
しだし国の保護を与えよう﹂
﹁ありがたき幸せ﹂
気にかかっていた遺される者達の処遇を知らせられ、ジークは安
堵の笑みを見せた。
そしてそれと向かい合う小柄な影は、細い足を組み王者の風格を
漂わせる。
﹁必ずや貴方様の望む世界に。シャナン殿下﹂
ジークは深々と頭を下げ、年若い主に忠誠を誓った。
***
ジークが部屋を去った後、王子は物憂げに溜息をついた。
﹁気が進まれませんか?﹂
その様子に気付いたベサミが、王子に問いかける。その反対側に
立つカノープスは、ただ静かに事の成り行きを見守っていた。
﹁いや。正直助かる。円卓会議の中でも権力を持つメリス家の権勢
を削ぐことが出来れば、王宮内の力関係も変わるだろう﹂
437
言葉とは裏腹に、王子は気の乗らない様子でベサミの淹れた紅茶
に口を付けた。
名君と呼ばれた国王が病の床に臥せり、メイユーズ国は変わった。
上位貴族で構成された円卓会議がめきめきと権力を持ち、今やそ
の総意が国を動かしていると言っても過言ではない。
そして未だ年若い王子をある身体的理由から疑問視する声も少な
くなく、王の住まう王宮は円卓会議によって支配されようとしてい
た。
﹁このままでは、父がお隠れになった後、円卓会議は私を傀儡とし
て国を動かすようになるだろう﹂
﹁実際、その円卓会議の中枢を担うメリス侯爵は、外交官として訪
れた隣国テアニーチェの力を借りて、内乱を引き起こして王家の力
を更に削ごうしていた訳ですからね﹂
その華やかな容姿とは裏腹に、ベサミは眉間に皺を寄せて顔をし
かめた。
﹁︱︱︱別に、円卓会議が国のためになる政治をしてくれるのなら
ば、私は傀儡でも構わない﹂
﹁殿下!﹂
王子の冷めた言葉を、ベサミが拒絶する。
それに動揺するでもなく、王子は言葉を続ける。
﹁だが、あれらは貴族だ。己のみが富む事に執心し、国全体の事な
ど考えようともしない。その証拠に、円卓会議が権力を握るように
438
なってから、貴族街に関する支出は増え、それと反対に下民街や公
共事業に対する支出は減る一方だ﹂
吐き捨てるように言うと、王子は紅茶を一気に飲み干した。
﹁これ以上、円卓会議を増長させる訳にはいかない。その為には、
どんな汚い手だろうが使わねば﹂
言いながら、しかし王子の言葉は少しずつ力を失っていく。
ベサミはそれに気付かないふりをして、言葉を繋いだ。
﹁作戦が成功し、多数の貴族の前でメリス侯爵を断罪することが出
来れば、今後の貴族の台頭に対する抑止力にもなります。ジーク本
人もメリス家と貴族社会に復讐できれば本望だと言っていますし、
弟と娘の無事さえ保障すれば後はどうなっても構わないと⋮﹂
﹁そして、私はアランから家族を、そしてそのリシェールという少
女からは父を奪うのだな⋮﹂
﹁殿下⋮﹂
王子のつぶやきが、パチパチという暖炉の爆ぜる音にまぎれた。
ベサミはそれ以上彼を刺激しないように、何かを言いかけてすぐ
さま口を閉じた。
﹁︱︱︱殿下はなぜ、そのように国を憂いなさるのですか?﹂
ずっと事の成り行きを見守っていたカノープスが、ここにきてよ
うやく口を開いた。
439
﹁失礼ながら、以前までの殿下は王になるという事に対してそれほ
ど執着は抱いておられなかった。なのになぜ今は、その地位を望む
のです﹂
試しているのとも違う、純粋に気になったから聞いているような
問いかけに、ベサミは顔を険しく歪ませ、王子は困ったような顔を
した。
﹁なにを⋮ッ﹂
﹁そうだな﹂
ベサミが荒げそうになった声を、すぐに王子の冷静な声が遮る。
﹁私も不思議だ。以前はこれほどまでに、国の事になど興味がなか
った。むしろ王宮や夜会が豪勢になれば、何も考えず無邪気に喜ん
でいたことだろう﹂
王子は何かを思い起こすように、遠い目をした。
﹁だが、ある時から、貧しい人々の暮らしを守らなければいけない
と思うようになった。誰も絶望することのない、すべての国民が正
しく報われる国にしなければならないと⋮﹂
﹁なぜ?﹂
﹁それは私にも分からない。誰か⋮そう誰かをもう泣かせたくない
と、そう思ったからだ。あれは⋮誰だっただろうか⋮?﹂
﹁殿下、もうお休みになりませんと!﹂
440
考え込む素振りを見せた王子に、ベサミは慌てて言った。
﹁近衛隊長殿も、余計な事を言って殿下を煩わせないでいただきた
い﹂
﹁そんなに怒るな、ベサミ﹂
苦笑した王子は、先ほどまでの面影を消すように小さく笑う。
﹁ではカノープス。お前もしっかり頼んだぞ。場所は敵の陣中だ。
万が一もあってはならない﹂
カノープスが了承を示すために胸に拳を当てて敬礼すると、ベサ
ミは慌てた様子で王子を連れて部屋を出て行った。そして一人にな
った部屋で、カノープスは眼鏡を指で直しながら、しばらく黙って
立ち尽くしていた。
﹁失われた記憶と、その守護者か⋮﹂
彼のつぶやきは、誰の耳にも入らないまま、静かに闇に溶けた。
441
99 捨て身の計画
﹁でたらめだ!殿下、こんなたわごとを信じなさいますな。国の臣
たるわたくしめが、そのようなことをするはずが⋮ッ﹂
フットマンの手を顔から振り払い、侯爵は必死に叫んだ。整えら
れた髪は崩れ、服も皺だらけになっている。伝統あるメリス家の当
主の威厳が、今は見る影もない。
﹁だまれ侯爵!﹂
その時叫んだのは、近くにあった窓に立ちふさがっているフット
マンの一人だった。彼は怒りに顔を赤くし、侯爵を睨みつけていた。
﹁反逆だかなんだか知らないが、あんたの無茶な取り立てで何人の
領民が死んだと思う!?俺のとーちゃんも、俺らにすまないと謝り
ながら死んだだぞ!!﹂
口から泡を飛ばしながら、涙ながら男は叫ぶ。
それに追随するように、他のフットマンたちもそうだそうだと侯
爵を責めたてた。
﹁彼らは、私に賛同してくれた領地の領民たちです。ここ数年、あ
なたは彼らの陳情書に一切目を通そうとはなさらなかった﹂
痛ましい顔でジークが言う。
﹁このような野蛮な輩たちを屋敷に引き入れるとは!どういうつも
りだジーク!﹂
442
いたくプライドが傷つけられたらしい侯爵がうっぷんを晴らすよ
うに怒鳴りつけると、フットマンに身をやつしていた領民たちは更
にヒートアップした。その手にある魔導石をおそれ、貴族たちはよ
り一層フットマンたちから距離を取る。
﹁鎮まれ、皆の者﹂
ジークの一声で、ようやく彼らは不承不承に口を塞いだ。
場が完全に静まるのを待って、今度は王子が口を開く。
﹁侯爵の弁明を代理する者はあるか?意見があるならば私が訊こう﹂
風の魔導を使っているのか、さほど大声ではない筈の王子の声は
不思議と大広間に響き渡った。しかし、誰も名乗り出ようとはしな
い。
酷く憐れんだ目で、ジークは父親を見下ろした。
﹁父上、ご覧ください。あなたが潔白なのならなぜ、誰もあなたを
助けようとしないのですか?このような破落戸の言葉など嘘だと、
どうして誰も声を上げないのです?﹂
ジークの言葉に、虚を突かれたように侯爵はこわごわと辺りを見
回した。
大広間には、先ほどまで侯爵に挨拶をするために列をなしていた
面々が、突然の出来事に言葉もないまま立ち尽くしている。その顔
は一様に恐怖で青ざめながらも、わずかな好奇心のようなものが覗
いていた。普段侯爵が懇意にしている貴族たちは、侯爵の視線を感
じて慌てて顔を逸らす。
443
﹁このようなものです。貴族など。沈みゆく船には、誰も手を貸そ
うとはしない。自分だけが良ければそれでいいのです﹂
威厳をすっかり失った父の耳に、ジークはそっと毒を流し込んだ。
先ほどまでフットマンともみあい、堂々と潔白を叫んでいた侯爵
が、力なく俯く。
﹁嘆かわしい事だ。侯爵、貴方の事情はあとでゆっくりと聞こう。
牢獄の叔父上と、存分に親交を深めるといい﹂
その幼い容貌に似合わず、王子は冷酷に言い放った。
その傍ではがたがたと震えながら、しかし口をつむぐアランの姿
があった。アランにとって、普段碌に顔も合わせない父の進退より
も、王子の意思の方が優先されるべき事項だった。そう必死に自分
に言い聞かせ、どうにか今の自分を保っている。
﹁嘆かわしい事だ。これより侯爵には城で詳しい事情を聞くことに
なろう。近隣国の政情不安の中、国が一丸とならねばならぬ時に、
私欲で祖国を貶めるとは﹂
さながら舞台のように、王子は朗々と言い放つ。
﹁今回の事件を鑑み、私は今まで諸君らの良心に任せるのみだった
貴族の規律を、明文化し公布しようと思う。貴公らの忠誠を疑うの
は悲しいことだが、心配はいらない。貴公らにとって当たり前の事
柄のみだ。心に疾しいことがなければ、何も恐れることはない﹂
会場がざわざわと騒がしくなる。
それは実質的に、貴族に対する法の適用を示唆していた。
普段ならば円卓議会に阻まれ絶対に通過しないであろうこの事案
444
を、王子はどさくさに紛れて貴族たちに宣言したのだ。そして侯爵
の失権を目の前にした貴族たちは、無用な疑いを恐れ王子の言葉に
対する反論を封じられていた。幾人かの貴族の顔が醜く歪み、事態
を把握していないらしい女たちは不安そうに事の成り行きを見守っ
ている。
その時、おもむろにジークは手にしていた聖具である剣を振り上
げた。
跪く父親の頭上に向かって、だ。
その後の展開を予想し、会場は波打つように静まり返る。
﹁父上、貴方にはこの国の礎となっていただく﹂
今まさに、父殺しを実行しようとするジークの顔には、喜びも悲
しみも何もなかった。
血の気の抜け落ちたその顔には、鬼気迫るものがあった。
王子は、その暴挙を止めようとはしない。王子だけではなく、こ
の場にいる誰一人。
侯爵の殺害こそが、王子とジークの密約の要でもあった。
先ほど侯爵の投獄を仄めかした王子ではあったが、メリス侯爵は
外交官も務める国の要。生きていれば本人が望む望まないに関わら
ず城の中に騒乱の火種を抱える様なものだ。
王子の意に反して、ジークが独断でメリス侯爵を殺害。その後は
ジークも捕縛され、処刑されるというのが二人の筋書きだった。文
字通り、捨て身の覚悟でジークは今日の夜会に臨んでいた。
その時だった。
張りつめていた大広間に、轟音が響き渡る。外に通じるガラスの
扉が砕け散り、広間には冷たい外気が吹き付けた。一瞬、魔導石の
445
一つが爆発したのかと誰もが思ったが、その扉も守っていた領民の
手には、魔導石がしっかりと握られたままだ。
﹁待ってください!﹂
その声は、甲高い子供のものだった。
誰もが驚いて爆発の後の土煙を凝視する。
土煙が去った後、砕け散ったガラスの破片の中に立ち尽くしてい
たのは、白く優美な姿をした精霊。そしてその背に跨っているのは、
ざんばらな黒髪に萎んだドレスを身に纏う、小さな一人の少女だっ
た。
446
100 馬鹿にしないで
張りつめた緊張を逸らすように、獣はのしのしと絨毯の上をゆっ
くりと進む。
誰もがそれに目を奪われ、しばしの間声を出すことすら忘れてい
た。
そしてその獣は誰にも邪魔されることなく壇上まで辿りつき、招
待客が遠巻きに見つめるジークの少し手前で足を止めた。
﹁お前は⋮﹂
呆気にとられたジークは、振り上げていた剣をそっと下ろした。
あまりにも異質な存在に、先ほどまで蓄えていた筈の恨みや覚悟と
言ったものが、霧散してしまったせいだ。もう一度剣を翳すには、
とにかくこの異質な事態を整理する必要があった。
少女を乗せたまま立ち止まった獣は、彼女がおりやすいようにそ
っと身を低くする。彼女はそれが当たり前だとでもいう様に、音も
立てずにそっと絨毯の上に降り立った。
﹁お待ちください⋮お父様﹂
その言葉を口にするのに、リルには勇気が必要だった。こんな男
は父ではないと、心は今も主張し続けている。それでもどうにかそ
の言葉を絞り出したのは、自分の身を明かさなければ目の前の人は
話を聞いてはくれないだろうと、そう考えたからだ。
﹁バカが⋮ッ!﹂
らしくない言葉を吐き出し、リルとジークの間に割って入ったの
447
はアランだった。
アランは右手を彼女の前に翳し、ジークから守るように自らの影
に隠そうとする。剣を手にした兄の前に躍り出た弟に、会場の空気
は一瞬にして緊張を孕んだ。
﹁兄上お許しください。彼女は私の客人です。お咎めは私が⋮﹂
震えるアランの腕に、リルはそっと触れた。
﹁いいえ、私の咎ならば私が受けます。でもその前に、そこに人に
言わなければならないことがあるの﹂
そう強く言い切ると、リルはアランを押して前に出た。
クリノリンを外し引きずらないように裾を縛ったドレスや、令嬢
の物とは言い難いざんばらの黒髪。その貴族とは言い難い出で立ち
に、会場がざわめく。それでも、リルはぴんと背筋を伸ばして胸を
張り、己に恥じることは何もないとでもいう様にジークを見上げた。
﹁お父様、私の事がお分かりですか?﹂
戦いを挑むようにまっすぐな目で、リルはジークに問いかけた。
けれどその答えを確認するまでもなく、目を見開き肩を震わせる
ジークの反応から、その答えは明らかだった。
﹁リシェール⋮﹂
まるで涙のように零れ落ちた呟きはすぐ近くの人々にしか届かな
かったが、その名前の持つ意味を知る人々は、驚いた顔つきで一様
に彼女を見つめた。
リルは驚いた様子で顔を上げた侯爵とその妻を一瞥すると、すぐ
448
に視線を逸らしゆっくりと兄に近づく。その無防備な様子に誰もが
息を呑んだが、剣を持っているジークの方がむしろ怯えるように後
ろへ下がった。それだけ今のリルからは強い覚悟や、そして絶対に
誰にも邪魔はさせないという強い意志が感じられた。
リルは降ろされた剣の先を無造作に掴んだ。峰を掴んだおかげで
血こそ出なかったが、リルはその切っ先を無理やり自分へと向けた。
﹁自ら手を汚して侯爵を殺すというのなら、まずは私に引導を渡し
てください﹂
リルは朗々と言い放った。リルが何をするつもりかまでは聞かさ
れていなかったヴィサークは泰然とした姿勢は崩さずに耳をぴんと
立て、アランは息をつめたままで立ち尽くした。下手に動けば、そ
れこそジークを刺激してしまうかもしれない。その恐れが、会場に
いるすべての人の動きを止めていた。
﹁なにを︱︱︱⋮﹂
﹁貴方は一度、私と母をお見捨てになったのでしょう?ならばそれ
を捨てさせた父が憎いという前に、救えなかった母に詫びるべきで
はないのですか?それをせずに今更復讐なんて、片腹痛いとはこの
ことです﹂
わざとジークの怒りを煽る様な言い方をするリルに、見守る人々
は気が気ではない。遠目に見ていたアルやルシアンなどは、今すぐ
駆け寄ろうとするところをパールに押し止められていた。
﹁侯爵だって貴方だって、私達を見捨てたことには変わりない。今
更正義面しないで!剣を向けるために私たちを理由にしないでよ!﹂
449
彼女は叫ぶように言った。それは血を吐くような叫びだった。
侯爵に向かって剣を振り上げるジークを見た時、リルが感じたの
は猛烈な怒りだった。今更何をしようと言うのだ。もう母はとっく
に死んでしまったというのに。そして二度と帰りはしないのに。
母の苦悩を何も知らないで、ただ不幸だっただろうと想像して復
讐の剣を取るだなんて、リルには到底許せなかった。なぜその決断
を、九年前に出来なかった?自分だって母やリルを見捨ててどこか
でのうのうと暮らしていたくせに、今更正義面して侯爵を断罪でき
る権利など、ジークにありはしないだろう。
自分達を捨ててまで侯爵家を継ごうと思ったのなら、せめてそれ
を貫き通してほしかった。こんな風にその座を唾を吐くというのな
ら、リルの母は何のために身一つで下民街に下りたというのだろう。
自分たちは一体何のために︱︱︱⋮
﹁ばかにしないで!ふざけないでよ⋮っ﹂
リルは剣を放すとジークへ駆け寄り、その上着の裾を掴んで力の
限り揺さぶった。
しばらく呆然と立ち尽くしていたジークはそれを見下ろし、そし
て剣を捨てた。そして彼はゆっくりとひざを折り、涙を堪えて顔を
赤くする娘の頬に触れた。
﹁大きくなったね、リシェール⋮﹂
慈愛に満ちたその言葉に、リルはこらえきれず涙を溢れさせた。
﹁う゛ーっ﹂
恥も外聞もなく、リルは泣いた。
その小さな体をそっと、ジークが抱きしめる。
450
﹁すまない。本当に⋮。お前に何もしてやれなかった父を、許して
おくれ⋮﹂
事の成り行きを、誰もが呆気にとられたように見つめていた。
そんな人々の視線から隠すように、ジークは娘を抱く腕により一
層力を込めた。
しばらく、子供のすすり泣く声が響く大広間で、人々は父と子の
再会に目を奪われていた。
しかし、いち早く我に返ったのは、自らは父を重税によって亡く
したという先ほどの青年だった。
﹁そんな⋮ふざけんな!ここまできて止められるかっ﹂
ジークにつき従ってこの場にいるフットマン達は、皆命を捨てる
覚悟で今日に臨んだ者ばかりだ。誰もが愛した人を領主である侯爵
の圧政によって失い、その怒りは容易く冷める筈もなかった。
﹁そうだ!侯爵を殺せ!今すぐに殺せ!﹂
﹁殺せ!殺せ!こうなればジーク様諸共!﹂
﹁侯爵一家を皆殺しにすんだ!あいつらは俺達の税金で贅沢な暮ら
しをしてやがったんだ!﹂
揃いの制服に身を飾ったフットマン達ががなり立てる。彼らの狂
気に貴族たちは怯え、会場の中心部に身を寄せ合った。
まだ幼い貴族の子供たちは泣き声をあげ、大人達は成すすべなく
震えあがった。
あたりの只ならぬ空気に、ジークは最後にリルの頬に口づけを落
とすと、彼女からそっと体を離して立ち上がった。その手に再び剣
451
が握られる。
侯爵の体を取り押さえていたフットマン達は、困惑しどうするべ
きかと彼を見上げた。
﹁静まれ!﹂
気迫ある声が広間を揺るがす。
先ほどまで声を荒げていた領民達は、侯爵家を罵る言葉を思わず
呑み込んだ。
﹁君達の無念は十分に分かっている。決してこのままにはしない﹂
ジークは朗々と宣言した、しかし再び剣を振り上げることはしな
かった。
﹁しかし、殿下の御前を血で汚す訳にはいかない。父である侯爵に
は厳正な罰が与えられると誓おう。今は堪えてもらえないだろうか
?﹂
誠意あるジークの言葉を吟味するように、男たちは立ち尽くした
まま一様に難しい顔をしていた。
話が違うと一瞬王子は思ったが、それを顔に出すような愚は冒さ
ない。
広間が再び静まりかえる。
このまま平和的に解決してくれと貴族たちは誰もが願っていたが、
そうはならなかった。
それは先ほど最初に声を上げた青年が、持ち場である窓を離れ、
ジークに向けて足を踏み出したからだ。
﹁⋮自分に付いて来れば侯爵の死に目に遭わしてやると言ったのは
452
あんただろう?それを今更⋮馬鹿にするのもいい加減にしろ!!﹂
彼は土壇場で裏切られた怒りを右手に握られていた魔導石に込め
た。そしてその拳を大きく振り上げると︱︱︱︱ジークへ向けて投
げつけた。
火の魔導石が爆発すれば、程度の差こそあれその周辺の人々が吹
き飛ぶほどの衝撃が襲う。
誰もがすぐ響くであろう爆音に身構えしながら、最悪の結末を予
想した。
453
101 侯爵
﹁リディエンヌ、今日のご機嫌はいかがかな?﹂
公務を終えヴィンセントがテラスに出ると、そこには乳飲み子を
抱えた妻の姿があった。
乳母には任せたくないと、どうしても自分で子供を育てたいとい
うのは、大人しいリディエンヌが結婚以来初めて見せた我儘でもあ
った。
﹁私の?それともこの子のかしら?﹂
微笑みながら問いかけるリディエンヌは幸せそうだ。
貴族らしく親の決めた婚姻だったが、それでも二人は仲睦まじい
夫婦だった。
緑月の眩しい光が、リディエンヌの柔らかい色の金髪を輝かせて
いる。
吸い寄せられるように、ヴィンセントはその光に唇を寄せた。
﹁勿論どちらもだよ﹂
生まれたばかりの息子は、妻によく似ている。
柔らかい色の髪も、そして神秘的な青灰の瞳も。
父から侯爵家を受け継いだばかりのヴィンセントは、妻と子の為
に侯爵家の地位を更に盤石なものにしようと、その光の中で誓った
のだ。
***
454
﹁父上!どうしてこのような事を!﹂
地に伏したヴィンセントの体を、魔導石の残り火が焼いている。
意識を取り戻した彼は、その痛みで自分が息子を守れたという事
実を知った。
投げつけられる魔導石を見て、考える前に体が動いていた。
不肖の息子だが、ヴィンセントが唯一愛したリディエンヌの忘れ
形見でもある。
妻を亡くしたショックから仕事にのめり込んでしまったヴィンセ
ントだが、これでようやく父親らしいことが出来たと、死の間際に
安堵の溜息を零した。
彼は酷い火傷を負った手をどうにか持ち上げ、自分を覗き込むジ
ークの白い頬にゆっくりと手を伸ばした。
﹁⋮⋮リディエンヌ、これでやっと⋮お前の所へいける﹂
うわ言の様なそれを唯一拾ったジークは、自らが打たれたように
傷ついた顔をした。
﹁ヴィンセント!ヴィンセント!!﹂
呆気にとられたフットマンの手から抜け出し、彼の現在の妻であ
るナターシャが駆け寄ってくる。
しかし侯爵は彼女を見ようともしなかった。
ただ目の前の愛した人の忘れ形見を、瞳に焼き付けるように最期
の一瞬まで見つめ続けた。
﹁リディ⋮エンヌ⋮⋮﹂
455
末期の一言さえ、彼は亡き妻に捧げ息を引き取った。
領地に重税を課し、内乱を手引きした容疑を掛けられた男は、そ
して何も語らないまま息を引き取った。
彼の体に縋りつき、恥も外聞もなく涙にくれる母親の姿を、アラ
ンは身動きもできずに見ていた。
目の前の信じられないような展開に、リルはしばらく息をするこ
とすら忘れていた。
あの瞬間︱︱︱フットマンが投げた魔導石がこちらへ向かって飛
んでくる一瞬の内に、様々な事が起こった。
ジークはリルを護るように手を広げ、そして群衆から飛び出した
パールが明らかに魔導ではない力で、魔導石を内側に閉じ込めるよ
うに結界を張っていた。しかし彼女がその術を完成させる前に、魔
導石は手前に現れた着地点に到達してしまった。魔導石は結界に閉
じ込められながらも火を噴き、その着地点を業火が襲った。そして
自らの体を魔導石に差し出した侯爵の体は、その表面を焼かれなが
ら倒れ込んだ。
﹁馬鹿な!﹂
スカートを広げるクリノリンを邪魔そうにして、貴婦人にあるま
じき速さでパールは王子へと駆け寄った。
﹁殿下、お怪我は?﹂
彼女の言葉でようやく我に返ったらしい王子も、言葉もなく俯い
た。
あたりには人肉の焼ける臭いが立ち込め、一拍おいて招待客たち
が騒がしくなった。
456
悲鳴と、胸の焼けつくような臭い。
ずっと、自分にひとかけらの関心を持たず、捨てられたのだと思
っていた相手が息子をかばって死んだ。リルにとって、彼は認識し
たばかりの祖父だった。
﹁⋮ちちうえ!﹂
母に遅れて、アランもその亡骸に駆け寄る。
家族三人に覗き込また侯爵はなかば消し炭となり、もう人として
の体裁を保っていない。
﹁侯爵が死んだ!﹂
歓喜に溢れる声で、叫んだのは魔導石を投げつけたフットマンだ
った。
石を失った彼を招待客から飛び出してきた屈強な男が二人掛りで
取り押さえる。
彼は狂ったように笑い続けた。そしてその笑いを聞きながら、同
じように魔導石を手にしているフットマンたちは恐々と自らの手の
中の石を見つめた。元は貧しい生まれで魔導石など持ったことのな
かった彼らは、今初めて、自分たちが手にしている物がどんなに危
険な物体なのかを知ったのだ。
思わず、リルは目の前にあるジークの服の裾を握った。
身動き一つしないその背中が、リルには恐ろしく感じられた。
自らが父を殺そうと思って剣を取った彼が、その父に身を挺して
守られた心中など、想像することもできいない。
軽薄かもしれないが、今日まで碌に相対することのなかった相手
457
を、祖父だからという理由だけで悼むことはできない。むしろ今ま
で父親だと思い恨んでいた分だけ、リルの怒りは行き場を失くし彷
徨っていた。
服の裾を握っても、ジークは身じろぎ一つしなかった。
その背中を、リルは静かに見つめていた。
﹁殿下、ご指示を﹂
跪いたパールに促され、王子が我に返った。そして忠実な自らの
家臣に目を向ける。
﹁⋮目的は達した。場の収拾を﹂
﹁御意に﹂
王子の命令を受け取ったパールは立ち上がり、声を張り上げる。
﹁掛かれ!﹂
それだけで良かった。
その命令一つで招待客から飛び出してきたのは、先ほどまで弱腰
だった貴族の男達だった。
華麗に着飾った彼らは呆けていたフットマンたちを見る間に制圧
し、その手の魔導石を奪っている。まるで訓練された軍隊の様な動
きで、彼らは瞬く間にテロを鎮圧した。
﹁え⋮?﹂
展開について行けず、驚き目を見開くリルの肩に、ぽんとたおや
かな手が乗せられる。
458
それは先ほどまで完璧な淑女だったはずの、パールの手だった。
相変わらず美しい彼女の姿をぽかんと見上げ、リルは立ち尽くし
た。
アルとルシアンのお目付け役として見慣れた彼女だが、そこに立
つ彼女は、何かが違っている気がする。
﹁怪我はないか?﹂
その問いかけに、リルは思わずこくんと肯いた。
しかしなぜ他の人間を差し置いて、自分に声を掛けてくるのか、
それが分からずリルは混乱した。
﹁パール、あなた⋮﹂
得体のしれない者を見る目で、リルは一歩後ずさった。
見知った存在だと思っていたのに、今はその微笑み一つが不気味
に映る。
そんなリルの様子に、パールは一つ溜息をついた。
﹁お前は本当に、どこに行っても騒動に巻き込まれるな﹂
私だって望んでこうなっている訳じゃない。場違いな反論を思い
浮かべながら、溜息をつくパールの口調にリルは既視感を憶えた。
無表情と、種類は違えど目の醒める様な美貌。そして呆れたよう
なその言葉。
しかしその既視感の正体を捕まえる前に、パールは足早に去って
行ってしまった。
彼女は王子に付き添い、混乱に乗じてそのままこの場を去るよう
だ。
その時、リルは初めて王子の存在に気付いた。
459
無我夢中で飛び込んだが、まさかここに王子がいるとは思ってい
なかった。
立ち去る一瞬、王子がリルをじっと見つめたような気もしたが、
それは気のせいだったかもしれない。
﹃リル!﹄
飛んできたヴィサ君は、リルの魔力消費を抑えるために省エネマ
スコット型に戻っていた。彼のぬくもりに触れて、ようやくリルは
安堵の溜息を零した。
目の前では、侯爵の亡骸に三人の家族が寄り添っている。
自分はどうしてもその一員になる事が出来なくて、リルは傍らの
ぬくもりを抱きしめジークの裾から手を離した。
460
102 侯爵家の女
﹁ヴィンセント!ヴィンセントぉ⋮﹂
ドレスに構わず膝をつき、泣き崩れながらナターシャは考える。
どうしてこんなことになってしまったのかしら、と。
半ば消し炭になった夫の体に縋りつき、周囲の目を憚らず泣き叫
びながらも、心のどこかに冷静な自分がいるのだ。
そしてその自分が言う。
どうしてこんなことになってしまったのかしら、と。
***
ナターシャがメリス家に嫁いだのは、まだ十五歳の時だ。
その時のナターシャは、まだ不安におびえるちっぽけな少女だっ
た。
妻を亡くし失意の侯爵に、親戚である父が無理やり押し付けた花
嫁。
二度目ということで豪華な挙式もない、まるで世間の目から隠れ
る様な静かな輿入れだった。
今でもあの日の事は鮮明に覚えている。
しとしとと雨の降る陰鬱な日のことだ。
見上げる侯爵家は厳めしく、メイドを一人しか連れてこれなかっ
たナターシャは内心でびくびくしながらその扉を潜った。
夫である侯爵は、公務に忙しいと出迎えてすらくれなかった。
彼女を出迎えたのは、玄関ホールの奥に飾られた、美しい女の肖
像。
461
淡い金の髪に、神秘的な青灰の瞳。そしてそっくりな赤子を腕に
抱き、微笑んでいる。
あろうことか侯爵は、後妻をもらったというのに前妻の肖像画を
そのままにしていたのだ。これは明らかに礼儀に反する行為だった
が、まだ十五歳のナターシャは何も言うことが出来なかった。
そしてその出来事が暗示するように、その日から始まった結婚生
活も、決して幸福なものではなかった。
いつも公務に忙しく各地を飛び回る侯爵とは、顔を合わせる事す
ら稀だ。
結婚から幾月が経ち、ナターシャがようやく子供を宿したことを
知ると、侯爵はそれ以来一度もナターシャの閨には近寄らなかった。
義理は果たしたと思ったのだろう。けれどその冷たさが、ナター
シャには悲しかった。
アランはナターシャによく似た子供だった。同じ宵闇色の髪をし
ていて、顔だちもそっくりだ。
けれどナターシャは、その子供を愛することが出来なかった。自
分を愛してもいない侯爵との子供だという事実が、ナターシャには
受け入れ難かったのだ。
だからナターシャは子育てを全て乳母に押し付け、その孤独を紛
らわせるために夜ごと夜会に繰り出した。華やかな社交界。美しく
着飾った紳士淑女たち。おいしい食事と、綺麗なドレス。明かりに
照らされる煌びやかなジュエリー。
ナターシャは夫から愛されない寂しさを埋めるように、貴族特有
の恋愛遊戯にのめり込んでいった。
顔も知れない男性と愛を囁きあい、褥を交わした。
ナターシャが湯水のように金を使い、社交界に男遊びの噂が立っ
ても、侯爵は何も言ってはこなかった。
多分その反応が、ナターシャの暴走を余計に加速させた。たった
一言でも咎めてくれたなら、きっとナターシャは止められたのだ。
侯爵が自分を気にしてくれていると確認できれば、それだけでよか
462
ったのに︱︱︱。
そんなナターシャに報いの時がやってきたのは、二十三歳の時だ。
まだ若く美しかったナターシャは、七歳になる息子を放り出し、
夜ごと夜会に繰り出す生活を続けていた。
そんな彼女が、一目で真実の恋に落ちた。
その相手は皮肉な事に、三年間の留学から帰ってきた二十歳のジ
ークだった。
ジークは留学している三年間で驚くほど洗練され、社交界の誰よ
り貴公子と呼ぶに相応しい存在になっていた。
夫の愛した前妻に似た義理の息子を愛してしまうなんてと、運命
の皮肉にナターシャは再び失意の底に落とされた。
それもそのはずで、ジークは貴族として洗練されてはいても、決
して恋愛遊戯には手を出さなかった。
彼の胸には今も、三年前に無理やり別れさせられた異民族の女が
いたからだ。
侯爵が内々に処理したのでナターシャも詳しくは知らなかったが、
ジークが異民族の血を引くメイドと恋に落ち、その咎で国外に留学
させられていたことは侍女から伝え聞いて知っていた。
だからどんなに美しい令嬢や未亡人に声を掛けられようと、ジー
クは決して彼女らと閨を伴にしなかった。その鉄壁の防御が更に女
たちを煽り、競わせてしまうとも知らずに。ひとたびジークが夜会
に出席すれば、彼には女たちが群がった。
ナターシャは、そんなジークに自分から声を掛けることすらでき
なかった。
勿論義理の息子だという建前もあったがそれ以上に、ジークの前
だとナターシャはあの頃の十五歳の何も知らなかった少女に戻って
しまって、うまくしゃべることがきなかったのだ。
それはナターシャにとって、間違いなく初恋だった。
だからナターシャの普段の行いを伝え聞いたジークが、彼女を毛
嫌いしていようとも、ナターシャはその想いを止めることが出来な
463
かった。
ジークが帰国して二年が経ち、そんな火種を内に孕みながらも、
侯爵家では穏やかな毎日が続いていた。
ナターシャは二年が経った今でも、ジークの前では何もしゃべれ
ない十五の少女のままだった。
そんな日常を壊したのは、侯爵がある日連れ帰ってきた一人の少
女だ。
髪の色は異なっているが、顔だちだけはジークとよく似た子供が
一体誰なのか、ナターシャは一目でピンときた。侯爵家の誰も表立
っては口にしなかったが、誰もがその真実に気づいただろう。過去
の確執を知らないアランを除いて。
ジークは侯爵とどんな密約を交わしたのか、自分からは一切その
少女と接触を取らなかった。
ただ、侯爵はその薄汚れた子供を自分の子供にすると宣言し、突
如として侯爵家に新たな家族が加わることとなった。
その子供の管理を任されたナターシャは、ジークもアランも、ど
ころか主だった使用人すらも、決してその子供に近づけさせなかっ
た。メイドにも必要最低限の世話以外は決して関わることがないよ
うにと厳しく言い含め、その子供を裏庭に面した一部屋に閉じ込め、
躍起になって彼女を孤立させようとした。
今更現れたジークの愛した女の子供など、見るのも嫌だった。
その子供が自分と同じ屋敷にいると考えただけで鳥肌が立ち、ナ
ターシャをより一層苛立たせた。
光の加減で青灰に輝く灰色の目と、白色人種が主であるメイユー
ズ国にあって少し色の濃い象牙色の肌。
見たこともない女の面影と一緒に、ジークの面影がその子供には
確かにあった。
あの女性には一切興味を持たない洗練されたジークが、どんな風
にその女を愛したのか。考えたくないのに考えてしまう。ナターシ
ャはその苛立ちを、そのままその子供にぶつけた。
464
だから、王子がその部屋で倒れていたのは、ほんのきっかけにす
ぎなかった。
ナターシャはそんな毎日に耐え兼ね、その子供を屋敷から追い出
した。
そしておそらく最後に娘のために何かしようとするであろうジー
クを注意深く見張り、彼が娘につけようとしていた使用人を殺させ、
したた
ジークが娘に託した、その使用人の持っていた物は全て巻き上げさ
せた。
金も手紙も何もかも。ジークが娘に認めた手紙を握りつぶしなが
ら、あんな子供は夜の森で獣にでも食われてしまえばいいとナター
シャはあざ笑った。わざわざ殺させなかったのも、獣に食われる恐
怖をあの子供に味あわせる為に他ならない。
しかしその日からジークは社交界から身を引き、侯爵家からも出
て行った。そして二度と寄り付かず、戻ってきたのはアランの成人
の儀が目前に迫ったつい最近の事だ。
これが目的だったのね。
私達を裏切ったのね。
あの娘の為に!
ナターシャは夫の体に縋りつきながら、心の中では怒りとそして
ジークに裏切られたという悲しみに暮れていた。
何がいけなかったというの。何が間違っていたというの。
声にならない叫びを涙に変えて、ナターシャは泣き続けた。
やがて屈強な男どもに拘束され、その場から引きずられながらも、
ナターシャは泣き続けた。
最後に伸ばした手は侯爵ではなくジークに向けて伸ばされていた
が、誰もそんなことには気付かなかった。
そう、ずっと俯いてナターシャを見もしないジークすらも、最期
までナターシャの想いには気付かなかった。
465
466
103 冷たい手
フットマン達が全員捕縛されると、我に返った招待客たちは我先
にとホールから飛び出していった。
そうして大広間ががらんとしてしまうと、屈強な貴族の男たちは
まず縛ったフットマンたちを広間の中心に集め、今度は義母とジー
クの身柄を拘束した。義母は騒いで侯爵に手を伸ばし、ジークは黙
って抵抗もせずに彼らについて行った。一度ちらりと私を見たよう
な気もしたが、何も声を掛けてはくれなかった。今はショックが大
きすぎるのだろう。それも仕方ないのかもしれない。
そうして侯爵の亡骸にはアランが寄り添うのみとなった。
私は彼に掛ける言葉が見つからず、少し迷ってから、その横に膝
をついた。
アランは突然の事態について行けず、泣くことも叫ぶこともでき
ないでいるようだった。
私はホールの床に無防備に伏せられていた手に、そっと自分の掌
を重ねた。
冷たい手だった。
ずっと室内にいる筈なのに、その手は冷たく冷え切っていた。
たった十三歳の男の子の手が、氷のように冷たくて、私は思わず
その手を握った。
力の無い手は最初、熱に怯えるように戸惑い、しかし次の瞬間、
強く私の手を握りしめた。痛いくらいに強く握りしめられたが、私
は決して声は出すまいと堪えた。
アランの目はずっと、黒ずんだ侯爵の亡骸に向けられていた。
***
467
﹁よかったのか?﹂
ベサミと王子を載せた馬車に、更に女が一人乗り込もうとしてい
る。
侯爵家の裏口に留められた馬車には、王家の持ち物を示す派手な
装飾はなかったが、その周囲を囲むように四人の若者によって警備
されていた。
﹁何のことだ?﹂
誰の手も借りずに馬車に乗り込んだその女は、不機嫌そうに声の
主に一瞥をくれた。
﹁あの娘の事さ。おいてきてよかったのか?﹂
余計な事をとでもいう様に、彼女は舌打ちをした。
ベサミはそれをからかうように、薄明かりの中で目を細めている。
馬車の中にほわりと浮かんでいるのは光の魔導。そしてそれを操
っているのは王子その人だ。
パールが扉を閉めるとしばらくして、馬車は侯爵家から離れるた
めに走り始めた。
王族のお忍び用の馬車は、それほどひどくは揺れたりしない。
﹁控えろ。殿下の御前だぞ﹂
そう言いながら、ゆらりと。
美しいパールの影が、不自然に揺らめいた。
まるで目の錯覚のように、パールの姿が揺らぐ。
468
侯爵家を離れ一目がない事を確認したからだろう。
華奢なドレス姿は揺らぎの中に消えて、現れたのは近衛の制服を
ぴしりと着込んだ眼鏡の男だった。
まるで最初からそこでそうしていたかのように、男は溜息をつく。
﹁ベサミ、いい加減にしろ。なんでもおもしろがろうとするのは、
お前の悪い癖だ﹂
男の疲れたような言葉に、ベサミは含み笑いを零す。
﹁招待客に紛れた近衛兵に効率よく指示するための変装っていうの
は理解できるけど、なにもわざわざ女性になって、しかもあの子と
同じ馬車で会場入りする必要なんてあったのかな?﹂
反論をせずに黙り込んだカノープスを、珍しいものを見るように
王子がしげしげと見つめた。
﹁カノープスにもようやく春が来たのか。相手はさぞかし美人だろ
うな﹂
見当はずれの王子の解釈に、ベサミは笑い、カノープスは更に深
いため息をついた。
﹁殿下、今は私の事はいいのです。それより、今後の方針はいかが
いたしますか?﹂
カノープスの無理やりな話題転換に、王子は一瞬不満げな顔をし
たが、その顔はすぐに真剣なものに変わった。
﹁多少計画は狂ったが、侯爵は死亡。侯爵家占拠に関わった連中は
469
・・・・
たまたま居合わせた近衛所属の貴族が捕縛したということで問題な
いだろう。首謀者であるジーク・リア・メリスと、それから侯爵が
不正な手段で得たであろう金で豪遊していた夫人の身柄も拘束する。
ジークは実際に手は下していないから、処刑というには無理がある
な。だから領地での蟄居を申し渡すつもりだ。当初の予定通り騒ぎ
を起こした咎で侯爵家の領地は二分の一を国が没収し、その後継に
はアランを据える﹂
アランの名前を出すとき、王子の顔は痛みに耐えるように歪んだ。
﹁一応の成功とみていいでしょうね。口さがない貴族共も、今夜の
事でしばらくは大人しくしているでしょう。侯爵家の巻き添えを食
うのは、誰だって嫌なはずだ﹂
ベサミが愉快そうに言うと、カノープスがそれを咎めるように咳
ばらいをした。
﹁失礼ですが、ジーク・リア・メリスはやはり予定通りに処刑すべ
きでは?いつ裏切って、今夜の我々の関与が露見するとも限りませ
ん﹂
至極真っ当だが冷徹なカノープスの意見に、王子は首を振った。
﹁いや、この状況で兄まで殺されれば、アランが王家に憎しみを抱
くかもしれない。領土の半分を失うとはいえ彼はこれから歴史ある
侯爵家を継ぐ身だ。無用な恨みを買うのは避けたい﹂
どこか矛盾のある王子の言い分に、カノープスは一瞬反論しかけ
てすぐに言葉を呑み込んだ。
彼がその言葉を呑み込んだのは、会場で見たジークの娘の姿が、
470
脳裏をよぎったせいだ。
クリノリンの外された萎んだドレスが、まるで枯れた花のようだ
った。鬘もどこで外してきたのか、いつもの不揃いな黒髪のまま、
彼女は顔を真っ赤にして泣きはらした顔をしていた。
いつもそうだ。ルイ︱︱︱リルは、誰かに傷つけられたり、辛く
て泣いても、決して逃げない。無謀でも、むしろ自ら立ち向かって
いく。
エルフであるカノープスには、そんな彼女の在り方が理解できな
かった。
弱くても、逃げない。リルにはまだ誰かを守る力なんてないのに、
いつも誰かの為に身を投げ出そうとする。前回のマクレーン家の出
来事で多少は懲りたかと思っていたが、やはりそれは思い違いだっ
たらしい。ジークを止めるために飛び込んできた彼女の姿を見た時、
カノープスは頭を抱えたくなった。見張っているつもりで一緒に会
場入りしたにもかかわらず、いつの間にか姿を消していた子供がな
ぜ、窓から精霊に乗って飛び込んでくるのか。
今度会ったら、またしっかり叱っておかなくては。
カノープスは今後やるべきことの一行目に、その項目をしっかり
書き込んだ。
馬車は闇の中を、王宮への道を駆けていく。
471
104 家族
後に苛烈王と呼ばれることになるシャナン・ディゴール・メイユ
ーズの治世において、この﹃侯爵家占領事件﹄は欠くことのできな
い出来事として、末永く語り継がれることとなる。
しかし貴族界を揺るがしたその事件の裏に、一人の少女の捨て身
の行動があったことなど、結局どんな歴史書にも記されることはな
かった。
***
近衛兵を名乗る紳士に任意の形で連れて行かれたアランを見送り、
私は大広間を出た。
先ほどまでは我先に馬車に乗り込もうとする招待客でごった返し
ていたであろう玄関ホールも、あの騒ぎから二メニラが経とうとし
ている今では閑散としていた。
玄関ホールに現れた私に、残って待っていてくれたアルとルシア
ンが駆け寄ってくる。
アルにぎゅっと抱きしめられながら、私は彼らの後ろに立ってい
た人影に目を奪われた。
先程王子に付き添って大広間を出たはずのパールが、すぐそこで
淑やかに佇んでいる。さっきのぞんざいな態度など嘘のようだ。
驚きで碌に返事もできないでいた私の肩を、アルが揺さぶる。
ぐえ⋮きもち゛わるい。
大丈夫だからと二人を納得させ、私はパールに歩み寄った。
472
﹁大丈夫でしたか、リルファ様﹂
パールは控えめに眉を寄せて、私を心配するそぶりを見せた。
その表情はごく自然で、どこかに嘘があるようには見えない。
﹁ええ、大丈夫﹂
狐につままれたような気持ちで、私は彼らと一緒に侯爵家を後に
した。
もう二度と、この家にくることはないだろう。
闇に沈む侯爵家が、雪の中で遠ざかっていく。
ステイシー家に戻ると、驚いたことになんとゲイルが長期任務か
ら帰ってきていた。
なんでも私からの手紙を受け取り、疑似精霊であるベリさんに跨
り死にもの狂いで帰ってきたらしい。圧死する勢いで抱きしめられ
て、私はギブと繰り返しながらゲイルの太い腕を叩いた。しかし残
念な事に、英語のないこの世界ではギブの意味がゲイルには伝わら
ず、私は失神寸前まで締め上げられることとなった。ベッドから起
き上がってきたミーシャが止めなければ、あのまま私は三途の川に
ピクニックに出かけられたことだろう。
﹁もう、心配をかけるのもいい加減にしろ!侯爵家にどうしても行
くというのなら、せめても俺の帰りを待て!﹂
睫毛を雪で凍らせたゲイルに涙ながらに怒鳴られて、私は塩揉み
されたホウレンソウのようによれよれになりながら、何度も謝罪の
言葉を繰り返した。それにしても、ただ侯爵家に出向いただけでこ
れでは、今日の出来事を話したら一体どうなってしまう事やら。私
は頭が痛くなった。
473
ゲイルが少し冷静になり、ようやくよれよれの私の格好に気づい
た時には、私はそろそろおひたしになろうとしていた。
それでも、養子である私をそれだけ心配してくれたのだと思えば、
先ほどあれほど泣いた目から、再び涙が零れそうになった。
結局、騎士団の中でも有数の力自慢であるゲイルが唯一絶対に逆
らわないミーシャの仲裁により、私がゲイルに侯爵家での出来事を
説明できたのは、翌日の朝食の後のことだった。
﹁それで、どうだったんだ侯爵家は?﹂
しかめっ面で明らかに不機嫌なゲイルに、私はできるだけ冷静に
昨日の出来事を伝えようと苦心した。
しかし話が私の本当の父親であるジークの事に差し掛かると、私
はどうしても言葉に詰まってしまって、なかなか話を先に進めるこ
とが出来なかった。ソファでゲイルの隣に寄り添うミーシャは、私
の話を聞きながらずっと心配そうな顔をしていた。
私が粗方語り終えると、ゲイルはずっと止めていた息を吐き出す
ように、深いため息をついた。
﹁⋮まず最初に、言っておく﹂
﹁はい﹂
ゲイルの眉はつり上がり、私は自分の話が彼の怒りに触れたこと
を知った。
何を言われても受け入れようと覚悟した私に、ゲイルは言った。
﹁金輪際、絶対何があっても、たとえ国を敵に回したとしても、お
前は俺達の娘だ!﹂
474
そう言い切ると、ゲイルはガッチリと腕を組み、再び口を閉じた。
一瞬、何を言われているのかわからずぽかんとする。
﹁え⋮?﹂
目を瞬かせる私に、こらえきれないという風にミーシャが噴き出
した。
﹁フフフ、ゲイル。言うにしてもそれじゃ、いきなり過ぎるわ﹂
﹁ミーシャ?﹂
説明を求めて二人の間に目を彷徨わせる私に、ミーシャは立ち上
がり、そして私の横へと腰かけた。
彼女の細い腕に肩を抱かれる。間近で見る彼女は、まだ若く母親
と言うには頼りない。しかし薄水色のその目には、確かな決意があ
った。
﹁リル、大変だったわね。辛かったでしょう。よく頑張った﹂
その腕に促されるまま、彼女の胸に顔を埋める。
私の頭を抱く彼女の体は、柔らかくいい匂いがした。
﹁私たちは、貴方の悲しみを理解してあげることなんてできないわ。
その悲しみに触れることさえできない⋮。でも、悲しむ貴方のそば
で、見守ってあげることはできる。どこへ行っても、貴方を待つこ
とが出来る。それは私たちが、家族だからよ﹂
ミーシャの表情が見たくて顔を上げようとした私の頭を、ミーシ
ャが強い力で抑えつけた。
475
﹁たとえ血がつながらなくても、いつか憎しみ合おうとも、私たち
はもう家族なの。だからどこに行っても、それだけはどうか忘れな
いで。いつでもあなたの心には、私たちが寄り添っているわ﹂
私の頭に、熱い雨が降ってきた。
ぽたぽたと。ぽたぽたと。
私はミーシャの体に縋りつき、彼女の強さに打ちのめされていた。
私の心のどこかにあった彼らへの遠慮に、二人は気付いていたの
だ。
私は恥ずかしくなり、顔を上げることが出来なかった。今顔を上
げてしまえば、きっと酷い顔を二人の前に晒すことになるだろう。
この残酷な世界に生まれて、こんなに嬉しい日が来るなんて、思
いもしなかった。
﹁ごめん⋮なさい⋮﹂
﹁そうじゃないわ、リル﹂
切れ切れの私の謝罪を、ミーシャが窘めた。
﹁謝ってほしい訳じゃないの﹂
頷きながら、私は何度も、壊れた様にその言葉を繰り返した。
﹁あ⋮ありがとう⋮ありがとう!二人とも、大好き⋮ッ﹂
こんな使い古された言葉では、私の今の嬉しさなんて二人に十分
の一も伝えることはできないだろう。
476
それでも、私が言うべき言葉はそれ以外に見つからなかった。
二人が、とっくに本当の家族として私を受け入れていてくれたこ
とが、私には痛いほど嬉しかった。
477
105 嫌な予感
泣き疲れた私をミーシャがポンポンと背を叩きながら宥めてくれ
る。
どれほど時間が経ったのか、高かった日が傾き橙に染まっていた。
﹁とりあえず、言いたいことはそれだけだ。ミーシャ、リルを頼ん
だぞ。しっかり見張っておいてくれ﹂
﹁はいあなた、いってらっしゃいませ﹂
﹁見張ってって⋮﹂
鼻をぐずぐずさせながら反論する私の頭を、ゲイルの大きな掌が
ぐりぐりと撫でる。
﹁それじゃあ、行ってくる﹂
そう言って部屋を出ようとするゲイルを、私は慌てて呼び止めた。
驚いたことに、いつの間にか彼は旅支度を整えていたようだ。
﹁行くって、どこへ?﹂
﹁任務に戻るよ。リルはくれぐれも大人しくしててくれよ﹂
﹁そんな、もうすぐ日が暮れるのに!﹂
﹁ベリがいれば大丈夫さ。一刻も早く戻らなきゃならないからな﹂
478
その言葉に、わざわざ私のためにゲイルは任務を放り出して王都
まで来てくれたのだと思い至る。
もちろん申し訳なくもあったが、その事実が不謹慎ながらも私は
嬉しかった。
胸にぼんやりとした明かりが灯る。
今までこんなにも、母さん以外の誰かに愛されていると実感した
ことはなかった。
確信のないその愛を受け取ることを、私は恐れていたのかもしれ
ない。
この無慈悲でどこか現実感の乏しい世界で、こんなにも誰かと繋
がれる日が来るなんて、私は思っていなかった。
﹁ありがとうゲイル、いってらっしゃい﹂
見送る私に、ゲイルが軽い調子でひらひらと手を振る。まるでち
ょっとそこまで行ってくるみたいな、軽い別れ方だ。単身任地まで
戻るのは骨が折れるだろうに、ゲイルは私にそれを悟らせまいとわ
ざとそんな態度でいるのだろう。どこまでも私を気遣ってくれる彼
らの強さが、私には羨ましかった。
私も、いつかそんな人間になれればいいのに。
幼子のようにミーシャに抱き着いたまま、私は彼の背中を見送っ
た。
しかし、私が最後に投げかけた言葉で、彼は歩みを止めてしまっ
た。
﹁気を付けてね!ミハイルにもそう伝えて!﹂
彼の直属の上司であるはずの人の名前に、ゲイルの肩がびくりと
揺れる。
479
その反応は私の予想とは違っていた。
ああと笑って去っていくはずのゲイルが、立ち止まっている。
しばらく沈黙が流れ、不思議に思っているとゲイルがゆっくりと
振り向いた。
なにか言い忘れたのか、それとも何かが気に障ったのかと、私は
彼の言葉を待つ。
西日の影になって、ゲイルの表情はよく見えなかった。
ただ、頭を掻くその影が、壁に黒々と浮かんでいた。
﹁アイツは⋮⋮。いや、わかった。行ってくるよ﹂
そう言い残して、ゲイルは行ってしまった。
不穏なものを感じて、私は思わずぎゅっとミーシャの服を握りし
めた。
***
日本でいう一月にあたる灰月は、月の中頃まで王子の公務の関係
で学習室も閉鎖になっていた。
ゲイルが行ってしまったあの日から、私は毎日ぼんやりと過ごし
ている。
出発前に、ゲイルが言いかけた言葉が何なのか。そればかりが気
になってしまい、やるつもりでいた予習復習にも身が入らなかった。
ゲイルが﹃アイツ﹄と言ったのがもしミハイルであったなら、も
しかして任地でミハイルの身に何かがあったのかもしれない。そう
思うと、私はざわざわと落ち着かない気持ちになってしまうのだ。
あのふてぶてしい男の身に、そうそう何かが起こるとも思えない
が⋮。
480
私は久しぶりにかつてゲームに関する記憶をまとめた冊子を取り
出し、ミハイルのページをめくった。しかしそこには当然六年後の
彼についてしか書いておらず、私のもやもやを解決してはくれなか
った。まだゲーム開始すらしていないのに、命に関わるようなこと
はそうそうないとは思うが、それにしてはゲイルの態度が意味深す
ぎて、私は身の入らない毎日を送っていた。
それに、思い悩んでいることは実はもう一つあって、それは今後
学習室をどうするかという事だ。
私はあの日、王子にドレス姿の自分を見られてしまった。
あの時は夢中過ぎてその事に頓着していなかったが、家に戻り冷
静に考えてみれば、これは非常にまずい事態だ。
女の私が男と偽って学習室に通っていたとばれれば、私はおろか
ゲイルとミーシャもお咎めを受けるかもしれない。
他人の空似では、通らないだろう。あの時、王子はおそらく私を
見ていた。赦される筈がない。私は王子を騙したのだ。
女である自分は本当に人に迷惑を掛けてばかりだと、一人窓の外
を眺めながら思う。これならいっそ、本当に男に生まれればよかっ
たのに。
もしかしたら、私は最初から王都に戻るべきではなかったのかも
しれない。
﹃リル、そんなに落ち込むなよ。な?﹄
不安そうに私を見つめるヴィサ君から、私を心底心配している気
持ちが伝わってくる。
私は彼のふわふわの体を撫でながら、行き詰った自分の状況に嘆
息した。
その時だ。私の部屋にメイドが訪れ、訪問者の存在を告げた。
﹁客って、私に?﹂
481
自慢ではないが、ステイシー家に滞在している間に私に客など来
たことがない。何かの間違いだろうと聞き返してみたが、メイドは
困った表情を浮かべ、私の疑問を否定した。
﹁はい、メリス侯爵家の方だそうです﹂
メイドの答えに、私はびくりと震えた。
あの家からの使者なんて、いい予感は全くしない。
客を出迎えるために立ち上がった私に、勇気づけるようにヴィサ
君が寄り添ってくれた。
メイドに案内されるまま訪れた応接間で、私を待っていたのはア
ランだった。
まさか彼が自ら来るとは想像すらしておらず、私は思わず声を上
げた。
﹁アラン!?どうしてここに⋮﹂
﹃一体何の用だよ﹄
ヴィサ君のぼやきを無視して、私は慌てて彼に駆け寄る。
私の顔を見たその瞬間に、アランの張りつめた表情が少しだけ緩
んだのが分かった。
叩き込まれた礼儀で立ち上がって私を迎えたアランに椅子をすす
め、私もその向かい側に座る。間もなくお茶とお菓子を持ってきた
メイドを下がらせ、応接間には私達二人とヴィサ君だけになった。
どうやら、アランは誰も使用人を連れてこなかったらしい。彼の様
な高位の貴族にあって、これは考えられない状況だ。ましてや彼の
家は今、騒動の渦中にあるというのに︱︱︱。
482
﹁リ⋮ルイ、よかった、元気そうで﹂
そう言うアランの方こそ、一気に五歳は老けてしまったような酷
い顔だ。
彼の状況を考えれば仕方ないとはいえ、私は彼をおいてこの家に
帰ってきてしまった自分に罪悪感を感じねばならなかった。
﹁リルでいい。学習室には、もう戻れないかもしれないから⋮﹂
そう言うと、アランは一瞬驚いた後、すぐに何かを悟った顔をし
た。
﹁そう、か⋮でも、その方がいいのかもしれない。今から貴族階級
は、騒がしくなる﹂
﹁騒がし⋮く?﹂
﹁ああ、方法はどうあれ、虐げられた領民が自らの手で侯爵を討っ
たんだ。その犯人は捕縛されたとはいえ、自分達も領地に重税を掛
けていた貴族達に動揺が広がっている﹂
自らの父親が殺された事件を、アランは痛みをこらえながら冷静
に分析していた。 ﹁あの日、殿下は混乱に乗じて貴族に対する法の整備を示唆なさっ
た。多分、兄上と示し合わせていたんだ。招待客の中に殿下を守る
為の近衛兵が多く混じっていたのも、その為だろう。貴族達は殿下
の強引なやり方に反発しているが、父上の不在で円卓会議も招集さ
れず、権力が分散しつつある。誰もかれも、次は誰に取り入るかで
483
情報収集に必死だ﹂
吐き捨てるように、アランは言った。その時、私は無性に彼を抱
きしめてあげたくなった。無論、そんなことはできないし、その資
格もないのだが。
堰を切ったように、アランは喋りつづける。
﹁侯爵家には今、殿下の指示で父上の容疑に関する証拠探しが行わ
れている。母上も兄上も連行されてしまったし、使用人の多くも職
を辞して去って行った。たった数日でだぞ?あれほど栄華を誇って
いたメリス侯爵家が⋮﹂
膝の手をぎゅっと握り、アランはその目に涙を浮かべた。
彼にどんな言葉を掛けたらいいのか、分からなかった。
彼は信頼していた兄に裏切られ、忠誠を誓っていた王子にまで欺
かれていたのだ。その上家族は離散し、今後侯爵家はどうなるかす
らわからない。
一度はあれほど憎んだ兄だが、今ではただの哀れな少年に見えた。
飴色のテーブルに沈黙が落ちる。二客のティーカップには静かに
湯気がくゆっていた。
﹁⋮リル、お前は私の妹ではなくて、兄上の娘だったんだな﹂
一息ついてから、目を細めて泣き笑いの表情でアランは言った。
怒っているのか、責めているのか。
﹁うん⋮。私もあの日、初めて聞かされた⋮﹂
真実を語ったはずなのに、私の言葉はどこか白々しく響いた。
アランは私すらも、裏切り者のように感じているのかもしれない。
484
﹁なら、お前は私の姪だな。リル﹂
一体何が言いたいのだろう。そして、彼は一体私に何を言いに来
たのだろう。
彼よりも、私が詳しく知っている情報なんておそらく何もない。
アランも、私に何かを尋ねに来たという様子ではなかった。ならば
連行されたという兄の代わりに、私を詰りに来たのだろうか?だと
したら、私は大人しくその誹りを受け入れようと思った。
ジークが、父が、あんなことをしたのは間違いなく、私達母子が
原因なのだろうから。
しかし、アランの目的はそんなものではなかった。
﹁リル、頼みがあるんだ﹂
﹁頼み⋮?﹂
慎重に聞き返すと、アランは思いつめた表情で私を見つめていた。
一体何を頼むというのだろう。私に出来ることなんて、たかが知
れている。アランの緊張が私にも伝わって、その場をピリリとした
空気が支配した。
﹁私と⋮⋮結婚してくれないか?﹂
その瞬間、私は彼の言葉を理解することが出来なかった。
485
486
106 打算と真心
﹃なぁにぬかしとんじゃこのガキャァァァ!!!!!﹄
思考停止していた私の脳裏に怒りの雄叫びが響き渡る。
びっくりした。一瞬私の内なる心の声かと思ってしまった。
ヴィサ君よ、全く同意だが今は落ち着いて。
﹁ええっと⋮?﹂
とりあえず、首を傾げて聞えなかったふりを決め込む。
必殺、今の聞えなかったんですけどもう一度冷静になってみませ
んか殺法。
しかし敵もさる者。
﹁リル、私と結婚してくれ!﹂
言い切った!言い切ったよこの人!
まさか九歳にしてプロポーズされるとは思っていなかった。しか
も血縁的に実の叔父に。そしてこの間までは兄だと思っていた人に。
前の人生から通して、初のプロポーズがこれなんてちょっと泣け
る。私のさっきまでのシリアスを返してくれ。そう切実に思う。
﹁それは、どういうことですか?﹂
諦めて、私はアランから詳しい話を聞くことにした。
この先いくらしらを切っても、彼が前言を撤回することはおそら
くないだろう。残念ながら。
487
﹁⋮メリス家は、現在危機的な状況だ﹂
それは、先ほどまでの話でも少し触れていた部分だ。
私は脱力感をなんとか自分から切り離し、真剣に話に耳を傾けた。
﹁まだ正式に公表されてはいないが、前もってメリス家に下される
処分の通達が来た﹂
ごくりと、私は息を呑んだ。
﹁メリス家は領地の半分を国に返上し、前侯爵がその地位を利用し
て他国とよしみを通じ、不正に得ていたとされる財産は没収される
ことになった。その上で兄上と母上は領地に蟄居。侯爵位をはく奪
されなかっただけ、まだましと言うべきか﹂
そう言って、アランは重いため息をついた。
アランの言う処分は、重すぎるとも、そして軽すぎるとも言えた。
先日侯爵家で起きた出来事は明らかにジークの手引きによるテロ
行為であり、その上王子の身を危険に晒したということでメリス家
は取り潰しになってもおかしくはなかった。それを領地の半分を返
上するだけで無罪放免と言うのは、明らかに軽い量刑だ。しかしア
ラン自身は何も知らず、なのに家族全員が拘束ないし死亡した現在、
残された全ての課題に対処するのが彼だと考えれば、その責任は重
すぎる。
しかし、それがなぜ私との結婚につながるというのか。
私は黙って、彼の次の言葉を待った。
﹁父上が死に、兄上と母上が蟄居となれば、メリス家の当主は私と
いう事になる。侯爵になる準備もしてこなかった若造が、後ろ盾も
なしに生き抜けるほど貴族階級は甘くない﹂
488
皮肉そうにアランは言った。
後継者でもなかった彼が、爵位を継ぐ準備をしていないのなど当
然だ。
だけれど、貴族社会はそれを忖度してくれるような甘い世界じゃ
ない。生まれた時から貴族の生き馬の目を抜く世界をつぶさに見て
きたアランは、その道がどれほど困難であるか身を以て知っている
のだろう。
どれほど勉学が出来て、マナーを心得ていても。そして王子の四
肢とは呼ばれていても。
彼はまだ、十三歳になったばかりの少年にすぎないのだ。
﹁リル⋮散々侯爵家に苦しめられてきたお前に、こんなことを頼め
る筋合いではないのは分かっている。けれど、我がメリス家にはお
前の協力が必要なんだ﹂
切実な目をしたアランに、私はどうこたえていいのか戸惑う。
﹁私に出来る事なら⋮。でも、なぜそれが結婚に?私には、有力な
後ろ盾の当てなんて⋮﹂
﹁ステイシー子爵家は、領地こそ王都から離れているが、海に面し、
貿易港のあるヴィスドを擁している。故に侯爵家にも劣らない程裕
福なのだが、代々の当主が変わり者で他家との関わりは希薄だ﹂
ゲイルの実家であるステイシー家の事は、ゲイル自身が話したが
らないので私も詳しく知らなかった。
しかし、跡継ぎでもないのに王都の貴族街に邸宅を構え、メイド
と執事さんまでいて私に不自由ない教育を受けさせてくれるのだか
ら、裕福な家なのだろうという気はしていたがそこまでだったとは。
489
それにしても、代々の当主が変わり者ってゲイルのお父さんって
どんな人なのだろう。
﹁それに、ゲイル・ステイシーの妻であるミーシャ・ステイシーの
実家は、メリス侯爵家と領地を接する由緒正しい伯爵家だ。この二
つの家と縁が出来れば、今後侯爵家を運営する上で大きな助けにな
るのは間違いない⋮﹂
言いづらそうに俯きながら、アランは言った。
一時大人しくしていたヴィサ君も、アランのこの言い分には随分
猛ったようでさっきから鼻息が荒い。テーブルの上で身を低くして、
聞えもしないのに唸りを上げている。
私はと言えば、怒るどころかちょっぴり安堵してすらいた。
よかった。そう言う理由でプロポーズされたのなら、理解もでき
る。ただ好きだから結婚してくれと言われるより、よっぽど安心だ。
それに、予め私の利用価値をきちんと説明した上で理解を得ようと
努力してくれるだけ、アランは誠実なのかもしれなかった。
アランだって、自分の身を、そしてメリス家を守る為に必死なの
だ。
﹁残念だけれど、期待には沿えないと思う。私はステイシー家の当
主と会ったこともないし、養子の私を娶っても利用価値があるかど
うか⋮﹂
﹃リル!自分の利用価値とかいうな!﹄
私にまで怒鳴るヴィサ君の鼻づらをわしっと掴む。
今ね、大事な話をしているところだからね?
真剣に頭を働かさせているらしいアランは、空中を掴む私の奇行
など目に入らないようだった。
490
ただひたすら難しい顔で、冷え切ったお茶のカップを見つめてい
る。
私は彼に申し訳なくなった。
何か私にも、アランの手助けが出来ればいいのだが。
頭をひねっていると、不意にヴィサ君の鼻づらを掴んでいた手を
掴まれる。
突然のアランの動きに、私は硬直してしまった。
彼は両手で私の右手を包み、しっかりと私の目を見た。
﹁今の話を聞いたら、私がお前を利用しようとしていると思えるだ
ろう。事実、お前の今の身分が落陽のメリス家の花嫁として魅力的
なのは本当だ。けれど、どうかそれだけだとは思わないでほしい。
私は、本気でお前を⋮﹂
﹁え?﹂
何を言い出す気だ。
頼むから、正面切って利用すると言ってくれ。その方がずっと、
私は貴方を信じられる。
なのに、アランの言葉はそんな私のささやかな願望を打ち砕いた。
﹁父も、母も、兄も、殿下すらも⋮誰もが私を裏切った。私を独り
にした。リル、いや︱︱︱リシェール。お前だけが、私の傍にいて
くれたんだ﹂
目を、逸らせない。
心臓の音が大きく聞こえる。
今すぐに、嘘だと言って。
やっと普通の兄妹のように喋れるようになったのに、アランはそ
れを壊そうとしている。
491
﹁もう、お前だけだ。お前だけなんだ。信頼できる者も、寄りかか
ることが出来るのも。どうか、私の家族になってくれ。何があって
も、誰にも傷つけさせたりしないから﹂
私の手を強く握り、まるで神に祈るように額に押し付けるアラン
に、私はのどに息が詰まって、何も言葉を返せなかった。
彼の悲しみが痛いほど分かるから、私はその手を振りほどけずに
⋮ただその熱を、指先に感じていた。
492
107 旅立ち
﹁ミーシャ、話があるの﹂
未だにその決断を迷いながらも、私は彼女の部屋に入った。
***
その日は罪を犯したジーク・リア・メリスが、蟄居の為領地へと
送られる事になっていた。
雪深いメイユーズ国にあって、灰月の旅路は過酷だ。しかしそれ
を押しての出発は、或いは旅の途中で事故に遭い死んでくれればと
いう、見えない悪意を感じさせた。
おそらく彼の罪が赦されることはこの先ないだろう。その旅立ち
を見張る兵士の誰もが、そう考えていた。
地平線から、うっすらと細く太陽が覗く。
朝靄の中、貴族とは思えないような粗末な衣服で現れたジークは、
刺すような空気の冷たさに、物言わずじっと耐えていた。時折、誰
かを探すように遠くに視線を彷徨わせる。しかし見張りの兵士の他
には誰も、彼を送る者はいない。
貴族が使う物とは異なる粗末だが堅牢な馬車に乗せられ、彼は静
かに王都を去った。
のちの歴史にどうしようもない放蕩息子として語られるジーク・
リア・メリスが、これほど静かに王都を去ったことなど、知る人は
少ない。
そして、その旅路が意外に賑やかなものであったことを、知る人
間は殆どいない。
493
﹁そろそろ、顔を出してはどうかな?﹂
もの憂い気な表情を一変させて、ジークは馬車の中で膨らんだぼ
ろ布に声を掛けた。
粗末な馬車の中は意外と広いが、ジーク以外には膨らみしか見当
たらない。
貴族出身である騎士団や近衛兵は彼との同行を嫌がり、そして平
民出身である兵士や治安維持隊も又、貴族である彼との同乗を許さ
れる身分ではないことから、彼の旅はひどく寂しいものになった。
しかし見張る者がいないことから、気楽な旅とも言えるだろう。
彼をメリス家の領地まで送る御者は、ギルドから派遣されてきた
無関係の一般人だ。ジークが罪を犯して蟄居になる事すら、彼は知
らされていなかった。
その時、粗末なぼろ布がもぞもぞと動く。
その動きがあまりにも愛らしいから、どうしても手を伸ばしたく
なる衝動をジークの手に嵌った手枷が阻止した。
しかしあまりにも蕩けそうに微笑むその表情には、先ほどまでの
憂いも、そして王都を追われた悲壮さも微塵も感じさせない。
﹁ぷは﹂
ぼろ布から最初に出てきたのは、黒く艶やかな髪だ。
しかしその髪は、無残にもザンバラに切られていた。前に会った
時よりも、短くなったようだ。
その髪に、ジークは少し悲しそうに眉を顰めた。
﹁どうして、また髪を切ってしまったんだい?綺麗な髪なのに﹂
貴族には殆ど現れない黒髪を、そんな風に言われたのは初めてだ
494
った。
リルは少し気まずい思いをしながら、彼と視線を合わせる。
・
﹁そんな風に言わないでください。私の母が切ってくれたんですか
ら﹂
今は亡きマリアンヌとは違う人物を指すその言葉に、ジークは切
ないような、やるせないような顔になった。
リルだって、普段はミーシャを面と向かって母とは呼んだりしな
い。今ジークの前でその呼び名を使ったのは、ある種の意思表明だ
った。
リルが王都を出ようと思うと告げた時、ミーシャは寂しさを押し
殺したような顔で笑ってリルを送りだしてくれた。髪を切って欲し
いと、強請ったのはリルの方だ。
たとえ出来は不出来でも、ミーシャが髪に鋏を入れるほんのささ
やかな瞬間を、リルは愛していた。だからずっと忘れないように。
そしてまた戻ってきて髪を切ってもらうという誓い共に、リルはス
テイシーの屋敷を後にした。置手紙は三通。アルベルトとルシアン
とアラン宛だ。
彼女が王都を後に出ることを決めたのは、アランからの求婚がき
っかけだった。
今、彼を独りにするのは非情な事だが、リルは王都を離れて、一
度じっくりと自分の今後の人生について考えたいと思った。勿論そ
の旨も、アラン宛の手紙には書き綴ってある。
王子にドレス姿を見られたリルは、もう自分は学習室には戻らな
い方がいいだろうという決心をした。
勿論、王子に恩返しをしたいという気持ちは未だに健在だ。
ただ、リルももう九歳になった。今はなんとか見間違いだと誤魔
化せるかもしれないが、この先体が成長すれば、いずれ自分が女で
あることは誤魔化しきれなくなる。リルがルイでいられる時間は、
495
残り少ないのだ。皮肉な事に、病弱でチビでやせっぽちだった体は、
日々の鍛練とステイシー家の恵まれた食事で、健康的で標準的な少
女の体へと成長した。日本で言うなら九歳は小学四年生。これから
どんどん、性差が目立ってくることだろう。
たとえ王子にあの日知られなくても、自分はいつか学習室を去ら
なければならなかったのだ。
そう、リルは自分に思い込ませた。勿論、ルイであった自分に未
練はあるが。
リルが目指すのは、ひとまずゲイルとミハイルの任地である国境
の街だ。
そこで、義父であるゲイルにアランの求婚に対する相談をするつ
もりだった。勿論相談自体は手紙でもよかったが、また慌てて王都
に戻ってこられては困る。それに、去り際にゲイルが見せた、ミハ
イルに対する意味深な態度も気になった。
本当はヴィサークの背に乗り飛んでいくこともできたが、魔力消
費が激しいのと、それから最後にもう一度だけ話をしたくて、リル
は向かう方向の近いこの馬車に潜り込んだ。
彼女にとって、付添いのいないジークの旅路は好都合だ。
夜明け前、予めジークの乗る馬車に潜り込んでおくのは、それほ
ど難しくはなかった。
つらかったのは、夜明け前の身を切る様な寒さだ。
毛がふさふさのヴィサ君を抱き込んで暖を取りながら、ぼろ布に
くるまってリルは夜を過ごした。
この布には、﹃反応しないで!﹄とジークへのメッセージが書か
れている。
ジークの出発を見張っている兵士たちに、ばれないようにという
リルなりの工夫だ。
﹁⋮来てくれて嬉しいよ。もう会えないかと思った﹂
496
まるで愛を囁くような熱い言葉を、リルは少しだけ持て余した。
きまりが悪く、おずおずとぼろ布から這い出す。
ジークがあまり好きではないヴィサークは、それでも不機嫌そう
な顔で黙り込んでいる。
﹁貴方に、ちゃんと聞きたかったんです。どういうつもりであんな
ことをしたのか﹂
リルはなるたけ落ち着いた口調になるように気を付けながら、ゆ
っくりとそう言った。
未だに、彼に対する自分の感情は複雑だ。
勿論、憎しみもあるし怒りもある。けれど、唯一近い血縁だと思
えば非情になりきることもできなかった。
彼を愛していたから、母であるマリアンヌはあんな底辺の生活で
も、王都を離れなかったのだろう。
そして歯を食いしばってでも、自分を育ててくれたのだ。
もしジークの事を憎んでいたのなら、マリアンヌにはリルを捨て
て新しい人生を歩むという選択肢だってあった。
この時代、いやいつの時代も、子供を捨てる親なんてそれほど珍
しい話ではない。特にそこに貧困があったなら、尚更だ。
母を愛するあまり貴族社会に反旗を翻した男を、どう思うべきな
のか、リルは未だに判断がつかない。
﹁そうだね、話をしよう。私達には、今からいくらでも時間がある
のだから﹂
ジークは、そう言って一瞬堪えきれないというように顔を歪めた。
もう話すこともできない誰かを、リルに重ねているのは明白だっ
た。
馬車は朝靄の中を、がたがたと揺れながら進んでいく。
497
498
108 父親︵前書き︶
年明け一発目がこれ
499
108 父親
サスペンションなどない馬車は、がたがたとよく揺れる。
外の景色を見て気を紛らわそうにも、罪人を運ぶというその目的
故か窓は申し訳程度の小さなものだ。
舐めてた。ごめん正直舐めてた。
王都の中の整備された道を走るステイシー家の馬車に乗り慣れた
私は、なんだかんだかっこいいことを言いながら速攻で酔った。
﹁だ⋮だいじょうぶかいリル?﹂
ちっとも大丈夫ではないのだが、ここで大丈夫じゃないですとか
言うほど子供っぽくもないのでとりあえず黙っておく。嘘だ。それ
を言う気力すら今はない。
手枷をはめられたジークは、心配そうに前かがみになってこちら
の様子を窺っている。これでは昔話どころではない。
﹁アランに⋮うぐ⋮求婚されました﹂
意地で、とりあえず最大の用件だけ伝えておく。何かが出てきそ
うになったのはご愛嬌だ。
するとおろおろとしていたジークは一瞬にして真顔になった。そ
してそのすぐ後、やるせない顔をした。
﹁それはいつのことだい?﹂
﹁き⋮きの⋮う﹂
500
﹁そうか⋮﹂
いや、一人で何かを分かった気にならないでくれ。
こっちは出るか出ないかの瀬戸際なんだから。
﹁一昨日、彼の母親である侯爵夫人は牢で自害した﹂
﹁え!?﹂
思わず馬車酔いを忘れて、私は立ち上がった。しかしすぐによろ
めいて座り込む。
アランの母親という事は、あの義母の事じゃないか。
彼女が死んだというのか。私を侯爵家から追い出したあの人が。
﹁不名誉に、耐えられなかったんだ。貴族である自分が牢に繋がれ
るという屈辱に﹂
﹁牢って⋮でもあの人は⋮﹂
彼女は、別に罪など犯してはいなかった。素晴らしい人格の持ち
主とは言えないが、良くも悪くも気位の高いお貴族様だっただろう。
﹁何をしても許される貴族でも唯一、王家に刃向えば一族郎党死罪
だ﹂
私の言葉にしなかった疑問に答えるように、ジークが言った。
“死罪”という言葉が、今更重く伸し掛かる。
﹁ならアランも?﹂
501
﹁いいや。アランと君だけはお見逃し頂けるよう、王太子殿下には
お願いしてある。安心していい﹂
私とアランだけ?なら、侯爵家に勤めていた使用人達は?他の親
族たちは?
顔も碌に知らないが、侯爵の企みなど知らない者が殆どだろう。
どころか、その企みすら本当にあったのかどうか。
﹁そ⋮んな⋮﹂
どうして、どうしてそんなことをしたんだ。
もっと穏便に済ます方法だってあったんじゃないのか。
ジークに詰め寄りたいのに、体に力が入らない。
私はジークを精一杯睨みつけた。
しかしジークは、先程まで私を心配していた時とは打って変わっ
て、硬質な表情を見せた。
﹁君が言いたいことは分かる。けれど、私は間違ったことをしたと
は思わない。初めは確かに君や、マリアンヌへの仕打ちに憤って始
めたことだ。それは認める。けれど調べていく内に、侯爵家がメイ
ユーズ国の臣として、許されないことをしていたのも本当だよ。そ
して領地に生きる民をも虐げていた。私への代替わりまでは待てな
かったんだ。メリス領は本当に⋮酷い状態だった﹂
その光景を思い出すように、ジークは沈痛な面持で俯いた。
彼の言葉に、それが一番辛くて歯がゆかったのはきっとこの人自
身だったのだろうなと、私は思い知らされた。今更メリス侯爵家と
は縁を切った気でいた私が、我が物顔で口出しできることなどきっ
と何もないのだ。
502
﹁ごめんなさい﹂
がたがたと揺れる馬車の中で、私の消えかけの言葉にジークはは
っと顔を上げた。
﹁あなたが⋮きっと一番辛かったのに⋮ごめんなさい﹂
何も知らない使用人や親族を巻き込む覚悟で彼は実の父親を断罪
する道を選び、尚且つその父親に庇われて生き残ったジーク。
粗末な服で手に枷をはめられ、今はこうして質素な馬車で領地へ
と運ばれようとしている。その領地の全てが国に没収されなかった
のは不幸中の幸いだが、蟄居を定められた彼の人生に、もう栄光の
光が差すことはないのだろう。
それすら覚悟で、いいや死すら覚悟で、彼は領地の人々を救おう
とした。初めの動機が不純だったからと言って、一体誰が彼を責め
られるというのだろう。
﹁ごめん⋮なさい﹂
訳知り顔であなたを責めた、私の方こそ自分ばかりでメリス領の
人々の事など考えもしなかった。目先で苦しんでいる下民街の人た
ちばかり気にして、そこで育った自分は貧困を知っているとでも言
わんばかりに。もう何年も、暖かな部屋と柔らかいベッドで眠って
いたというのに。
思い上がっていた自分に吐き気がする。
転生前の記憶があるからと言って、何を思い上がっていたんだろ
うか。平和で平等な世界を知っているからといって、自分になら何
かが出来る気でいたのだろうか。馬鹿な。
私は自分とその周りの事で精一杯の、小さな人間に過ぎない。今
503
の世界でも、前の世界でも、それは一緒だ。前の世界でだって、平
和や平等が大切だと知りながら、そして同じ世界に貧しい人々がい
ると知りながら、特に何をしたわけでもない。たまに募金をしてい
い気になっていただけだ。
私は⋮私はそんなちっぽけな人間なんだ。
﹁ごめ⋮んな⋮﹂
壊れた様に繰り返す私に、ジークの影が覆いかぶさった。
手を戒められている彼は体ごとぶつかる様に、私を包み込もうと
する。その温もりが、やけに沁みた。
﹁懐かしいな﹂
彼の呟きに、私は疑問符を浮かべて彼の顔を見上げる。
そんな私の間抜け面を、ジークはくすりと笑った。
﹁君のお母さんも、同じように僕に謝ったよ。何かあると、“ごめ
んなさい”と言って﹂
そう言えば、この言葉はお母さんが教えてくれたものだ。
私はメリス家で王子に教えられるまでずっと、貴族の使う謝罪の
言葉を知らなかった。
あの時も、王子はそれはどういう意味だと目を丸くしていたっけ。
気づけばいつの間にか当たり前のように、貴族の言葉で喋れるよ
うになっていた私だ。
﹁私に謝ったりしなくていいんだよ。君は君の信じる道を行けばい
い。君がここまで立派に育ってくれて、私は嬉しいよ﹂
504
降り注ぐような慈愛の言葉で埋もれそうだった。
私はそうして生まれて初めて、両親に愛されて生まれてきたのだ
と実感した。
まるで雪解けのように、私の心に凝っていたコンプレックスが解
けていく。そして愛されない子供という自分で自分につけたレッテ
ルも。
私は生まれたての子供のように縮こまって、そうして父親に甘え
ていた。
505
109 けじめ
どれほどそうしていただろうか。
王都からかなり離れた場所で、その馬車は止まった。
心なしか馬車に差し込む光も少なくなっているようだ。
犯罪者とはいえ貴族であるジークを野宿させるとは考えづらい。
全く気付かなかったが、いつの間にか街に入っていたのだろうか?
そう疑問に思っていたら、御者がこちらに近づいてくる足音がし
た。
ヤバイ。
ここにジーク以外の何者かがいたら、騒ぎになる事必須だ。
どうしようどうしよう。
どこかに隠れる場所は⋮。
あわてて周りを見回すが、ジークに悪用されないようにと言う用
心か、荷物は全て馬車の外に積んであるらしい。
最初に乗り込んだ時のように、布を被っているという訳にもいか
ないだろう。
そうしてあわあわしている間に、足音はどんどん近づいてくる。
﹃リル!﹄
ヴィサ君の焦ったような声。
君はいいよね他の人に姿が見えないから。
これだから精霊は⋮という見当違いな八つ当たりで現実逃避して
いたら、はっと心の琴線に触れるものが。
あわてて私は、先ほどの布とそれに文字を書いた白いチョークを
持ち出す。うーん滑りが悪くてなかなか描けない。そんな私の様子
を、声を出す訳にもいかず心配そうにジークも見つめていた。
506
キーという立てつけの悪い音がして、馬車の扉が開かれる。
﹁大人しくしていたか﹂
御者の表情は逆光でよくわからなかった。
しばしの沈黙。
雰囲気から、御者が訝しく思っている空気が伝わってくる。
﹁あ⋮ああ﹂
ジークの返事で、ようやく沈黙が解かれた。
﹁馬車から出ろ﹂
その冷静な口調から、ペンタクルが上手く動作したことを知る。
間に合ったー!
久々に使う﹃隠身﹄のペンタクルが初心者用の簡単な図形で助か
った。
夜が間近なためか、私の周りを闇の魔法粒子が取り巻いている。
私は息を殺して馬車を下りるジークに続いた。
なんせこのまま馬車と一緒に厩にでも連れて行かれたら困ってし
まうからだ。
しかしそこは予想に反して、街でもなんでもない雪原の荒野だっ
た。馬車の背後には後から隆起したのか切り立った岩壁が控えてい
る。
馬車までの轍がくっきりと続いてて、あとは馬の蹄鉄のあとだけ
だ。他には生きる者の気配すらない。
もう日没まで間もない曇天の中、私とジークと御者の三人にびょ
うびょうという容赦ない風が吹き付けてくる。
おかしい。
507
野宿にしても、もっと水場の近くだとか、森の入り口とか他にい
くらでも選択肢はあるはずだ。ここでは落石の危険もあるし、別に
洞穴があるという訳でもない。これでは冷たい風から身を隠す場所
もないではないか。いくら前世ではインドアの名をほしいままにし
た私だって、こんな荒涼とした場所で野宿なんて自殺行為だと分か
る。
凶暴な獣は冬眠しているかもしれないが、人間だってこの寒さで
野宿なんかすれば、冬眠どころか永遠の眠りについてしまうだろう。
これはどういうことなのかと尋ねる訳にもいかないので、私は目
の前にいる帽子を深くかぶった御者の表情を何とか読み取ろうとし
た。
しかしなんとか見える唇は、生真面目に引き結ばれている。
その時、奇妙な事に気が付いた。
御者の後ろに、馬車を引いていた筈の馬が二頭いる。
驚いて後ろを振り向くと、そこには馬の外されたただの箱とかし
た馬車が立ち尽くしていた。
これはどう考えても普通ではない。
ジークはとっくにそのことに気付いていたようで、険しい顔で男
の事を睨んでいた。
嫌な予感を覚え、右手でジークのズボンを掴む。
その時だった。
男が何の予備動作もなく、右手を翳した。
何事かと思ってみていると、その男の手袋に何か丸いものが書き
つけてあるのが見える。詳しくは分からないが、十中八九ペンタク
ルだろう。
何をする気だと身構えていたら、突然その掌から巨大な石が飛び
出し、私たちの横をすり抜けて馬車にぶち当たった。
まるで隕石が飛んできたかのような音がして︵実際にそんな場面
に遭遇したことはないが︶、石の体当たりを受けた馬車は粉々に砕
け散った。
508
﹁な⋮ッ﹂
一瞬の出来事だったので、私は何の反応もできなかった。
ジークはいつの間にか私を守る様に身を屈めていた。﹃隠身﹄の
魔導は姿を隠すだけなので、触れることはできる。私は恐怖から彼
の体に抱き着いた。
ザクザクと、御者が近づいてくる足音がする。
もう夜がかなり近く、男は只の人影としか認識できない。
必死に目を凝らしていると、ようやく人相が分かるあたりで男が
足を止めた。
﹁貴方にはここで死んで頂く﹂
それは冷たい口調だった。
やつ
見たことのない男だと思っていたが、よくよく見ればその御者は
見知った相手だった。
﹁近衛隊長⋮﹂
ジークが彼の役職を口にする。
私は信じられない思いで、御者に身を窶したカノープスを見上げ
た。
﹁移送中のジーク・リア・メリスは移送中の落石事故により死亡。
メリス侯爵家での立てこもり事件は、首謀者の死亡により以降の捜
査は打ち切りとなる﹂
まだ起こってはいない出来事を、カノープスが冷たい口調で淡々
と語る。
509
王家がジークの移送を急いだ理由はこれだったのか。
このまま侯爵家の捜査が続けば、どこかで王家との密約が露見す
るかもしれない。それを防ぐためににカノープスは︱︱︱王子は最
初からジークを殺すつもりだったんだ。
波の様な感情が押し寄せる。それが怒りなのか悲しみなのか、私
には分からなかった。
道理で犯罪者の移送の割に警備が手薄な訳だ。
そりゃ客観的に見れば、ここでジークを事故に見せかけて殺すの
はありな手だ。王家は貴族殺しの汚名を着ることなく、今回の事件
への関与もうやむやにできる。
でもだからって、私だってはいそうですかなんて言えない。よう
やく心を通じ合わせることが出来た父親を、私を救ってくれた王子
が殺そうとするなんて。
私はがたがたと震えながら、ジークに抱き着いた。
殺すなら殺せ。私も一緒に死んでやる。
﹃カノープス!テメェ!﹄
ヴィサ君が怒りの雄叫びを上げる。
闇の中に、ぽわんとカノープスが作り出した光が浮かんだ。
松明とは違う揺らめかない光が、私たちを照らす。
﹁⋮いい加減、諦めて姿を現しなさい。リル﹂
呆れたような口調で、カノープスは言った。
私がペンタクルを描きつけた布を踏みつけると、私を覆っていた
闇の魔法粒子が空気中に霧散した。
カノープスは、最初から私に気付いていたのだ。当然だろう。エ
ルフである彼に、目くらましは通用しない。何より、彼は省エネモ
ードのヴィサ君が見えるのだ。
510
その時、カノープスがこちらに何かを放って寄越した。
爆発でもするのかと思い身を竦めるが、いつまでたっても衝撃も
痛みもやってこない。
おそるおそる目を開けると、それは黒々とした鉄製の鍵だった。
﹁ジークの手枷の鍵だ。開けてやれ﹂
私は驚いてカノープスと鍵を見比べる。
なんだ?どゆこと?
ヴィサ君も事態について行けずむき出しにした牙のやり場に困っ
ているようだ。
﹁はやくしろ﹂
イラッとしたっぽい近衛隊長に急かされて、私は慌てて鍵を手に
取る。
カノープスが言う様にその鍵はジークの手枷についている鍵穴に
ぴたりと嵌り、カチリと音がしてジークの両手が解放される。彼は
腕の調子を確かめるように、カノープスに視線を向けたまま用心深
く手首を撫でていた。
﹁これはどういうことですか?﹂
私が抱いていた疑問と全く同じ言葉をジークが投げかけると、カ
ノープスは深いため息をついた。変装の為か外していたらしい眼鏡
を取り出し、それを掛ける。いや、馬車の操縦に必要ないならもう
いらないだろその眼鏡。八つ当たりのように私は心の中でつっこん
だ。彼の視力が元より問題ない事ぐらい、私だって百も承知だ。
﹁ここに、王子のサインの入った契約書がある﹂
511
カノープスが懐から取り出したのは、紙ではなく正式な契約書等
に使われる皮紙だった。それがなんの皮であるかまでは知らない。
﹁﹃我、シャナン・ディゴール・メイユーズはこの書を持つ者に貴
族領地監査の全権を与え、その身分を保障することをここに誓う。
この書を持つ者の言は我の言であり、メイユーズ国の王都以外にお
いては何をおいても優先されなければならない。しかしこの書が私
利私欲により用いられた場合には、直ちにその持ち主は聖なる炎に
て焼け死ぬであろう。また、︱︱︱︱﹄﹂
カノープスが読み上げたのは、その契約書に記されているらしい
内容だった。
基本的な条項の後に、長々と注意事項が続く。生真面目な気質の
カノープスがそれを読み終える頃には、日はとっぷりと暮れて完全
に夜になっていた。その頃にはヴィサ君も完全に弛緩して、私の横
で退屈そうに欠伸をしてたぐらいだ。欠伸は私に移りそうになった
が、さすがにそこは空気を読んで我慢した。だから今目尻に涙が浮
かんでいるのは気のせいです。
﹁︱︱︱以上。お前には今後、その名を捨て国中を貴族に怪しい動
きがないか監視してもらう。その際、非人道的な領地運営が行われ
ていればそれに介入できる権限を持つ。しかしこの契約書は魔導に
よって何があっても損なわれることはなく存在し続け、効力を発揮
し続ける。それを理解した上で慎重にサインした方がいい。自分に
僅かでも私利私欲があると感じるならば、この任命は受けない方が
賢明だ﹂
私は雪原の夜風に凍えながら事の成り行きを見守った。つまり、
だ。王子はここでジークを死んだことにして、貴族の領地運営の監
512
アメンオサ
査役に任命するつもりらしい。いうなれば暗行御史か。中二脳ごめ
ん。水戸黄門か。なんかそれもちょっと違う気がするが。
今度は放り投げることなく、カノープスはその契約書をジークに
手渡した。
ジークは手を震わせながらその皮紙に目を通している。その目に
は涙が浮かんでいた。ジークに欠伸が移ったわけはないので、その
涙は心からの物だろう。私は彼の背を撫でてあげたかったが、手が
届かないので諦めて足元からジークの顔を見上げた。
﹁感謝⋮いたします⋮﹂
ジークは切れ切れにそう言うと、自らの人差し指を噛んで溢れ出
た血で著名しているのが見えた。
私は思わず、眉を顰めて自分の指先を撫でてしまった。
父親に復讐するために、領主である侯爵を恨む領民すら利用した
ジーク。しかし彼が予め手をまわしていたのだろう。事件後、事件
に関わった農民たちが表立って断罪されることはなかった。罪人は
ジーク一人であるとされ、あの日侯爵家にいたフットマンたちは監
視付きで領地に帰されたと聞いている。
原因は私と母を奪われた復讐からだったとしても、ジークが虐げ
られていた領民にまで同情してあの事件を起こしたのだと、私はそ
の時悟った。
ジークが著名し終わると、契約書は光を放ち彼の手から浮き上が
った。私たちが驚いていると次の瞬間、血でしたためられていたジ
ークのサインが緩やかに消え、別の名前が浮き上がってきた。
﹃ジークハルト・ヴァッヘ﹄
﹁それがお前の新しい名だ﹂
513
カノープスが厳かに言い放つ。
私は冷たい雪に膝をつき王子への感謝を述べるジークハルトの傍
らで、ついにメリスの姓を名乗る者がアラン一人になってしまった
と、どこかで他人事のように思った。
514
110 シャリプトラ
馥郁たる風が流れる。
風に揺れる鮮やかな緑。
ここはいつも変わらぬ。たとえ四季が過ぎようとも。
瑞々しい下草を踏みながら、シリウスは思った。
﹃おやこれは、珍しい客だ﹄
老齢の貫禄を感じさせる声。
不思議とそれは、心に直接呼びかけてくるような響きを持ってい
る。決して不快ではない。侵略するのではなく染み入る様な、心地
よい音色。
﹁久しいな。シャリプトラ﹂
そう言ってシリウスは自分より遥かに高い大樹を見上げた。樹齢
千年はゆうに超えていそうな大木だ。それを取り囲む森には光が零
れ、ざわざわと精霊達の喜びの声が木霊する。
精霊界の中でも東の地を司る木の王は、何千年と生き続ける大木
だった。彼が司る東の地はいつでも緑に溢れ、命が芽吹き自由に咲
き誇る。
たとえ人の世界が凍てつく灰月の頃であろうとも。
﹃人の世に降りて以来だから、五百年ぶりかの?﹄
﹁いいや、もう八百年程になる。私にとっては長い時間だが、貴方
にとっては一瞬のことだろう﹂
515
シリウスは心地よさそうに長い耳を寝かせ、生命力に満ちた空気
を吸い込んだ。ここにくると、自らの悩みなど馬鹿らしく思える。
﹃そうかそうか。もうそんなに経ったのか。早いものだ﹄
﹁ああ、時など絶え間なく流れゆく。少しは休めばいいものを。時
の精は働き者だ﹂
﹃違いない﹄
くふふと含み笑いをするように、木立が揺れ木漏れ日が形を変え
る。ひらりと何枚かの葉がシリウスに降り注いだ。
﹃して、何用できたのかな?地上の賢者。随分と厄介なものを纏っ
ているが﹄
シャリプトラは奇妙な事を言った。シリウスはいつも通り、やけ
に布面積の広いローブを身に着けているに過ぎない。しかし彼の問
いかけの意味を知っていて、シリウスは僅かに眉を顰めた。
﹁分かるか⋮外に漏れだすほどならばもう時間がないな﹂
いつもと同じ平坦なその声に、僅かばかり混じった焦燥の音。
﹃どうも近頃、人間界は随分と騒がしいようじゃて。ヴィサークの
馬鹿も一度降りたきり帰ってこんと、風の精霊が嘆いておった﹄
西を司るヴィサークと、東を司るシャリプトラは、場所こそ違え
ど等しくそれぞれの属性の長であり、四方を司る精霊王の位を持つ
者という事で旧知の間柄でもあった。
516
﹁ああ。あいつはこちらで好き勝手にやっている。全く精霊界で大
人しくしていればいいものを﹂
個人的な恨みを込めて、シリウスは忌々しそうに呟いた。
﹃ほっほっほ、これは愉快。天界は好かぬと飛び出した悪ガキが随
分と感情豊かになったものじゃ。このようなエルフは稀じゃて。地
上は楽しそうでいいのう﹄
シャリプトラは心から羨ましそうに言った。精霊界どころか、生
きとし生ける者の中で最も長い時間を刻み続ける彼は、この神に見
捨てられた地では最もそれに近しい存在なのかもしれない。精霊界
よりも高位である天界に住まうエルフ達すらも、彼には一定の敬意
を払って接していた。彼の年輪には、この地の膨大な記憶が刻み込
まれている。
﹃して、お主の用はその痣に関してかな﹄
シリウスの白皙の美貌にはくすみ一つないが、シャリプトラは何
もかも心得た様にそう言い放った。シリウスはごまかしは利かない
と悟って溜息をつき、纏っていた純白のローブを翻した。
﹃これは⋮﹄
翻ったローブの下、更に捲った長い裾の中には、色素の抜け落ち
たようなその白い肌に禍々しい黒の文様が浮かんでいた。規則性が
ありそうでない。まるで絡まる蔦にも似た、それは生きた呪いだっ
た。それはシリウスの右肩を起点として、緩やかに肘辺りまで広が
っている。
517
﹃闇の精霊のにおいじゃ。随分と厄介なモノを⋮。これを解くには
呪いの主を殺さねばならぬ。お前らしくもない。呪いの形代になる
など﹄
﹁そこまで分かるか﹂
呆れたように枝を振るシャリプトラに、シリウスは苦い笑みを零
した。
シリウスの右肩に巣食っているのは、別の何者かに向けて放たれ
た呪いだった。それにいち早く気が付いたシリウスは、自らの身を
差し出すことでその呪から誰かを守っているのだ。
﹁いいさ。私は十分に生きた。探していた者も見つけた。そろそろ
休んでもいい頃だ﹂
﹃たかだか千年で、分かったような口を﹄
鼻白んだような声だったが、シャリプトラは明らかに悲しんでい
た。彼の悲しみに影響されるように、辺りには白い靄が立ち込め、
草花が露で濡れる。
かつ
﹁本当だ。いつも餓えていた私はもういない。満ちてしまえば後は
失うより他にない。ならばせめても守る為に終えたいのだ。貴方に
なら分かるだろう?﹂
以前に会った時とは随分と様子の違うシリウスに、地上で果たし
て彼に何があったのだろうかとシャリプトラは考えた。しかしシリ
ウスはそれを答える気がないようだ。シャリプトラはまた一人古い
友人が消えることを惜しみ、柔らかい霧でシリウスを包んだ。
518
﹃お前がそんなに満ち足りた顔をする日がこようとは⋮嬉しいが、
儂は寂しい﹄
互いの姿も確認できないような濃霧に包まれて、シリウスは微笑
かか
んだ。自分が悩んだ時も、そしてそれで天界を飛び出した時も。こ
の友人は呵呵と笑うばかりで咎めることをしなかった。その友人が
悼んでくれていると思えば、主人を探して無様に彷徨い続けたこの
命にも、何がしかの意味はあったのだろうと。
***
同じ頃、リルは雪原で実父との別れを迎えていた。
ひょうひょうと冷たい風が互いの頬を嬲る。ジークハルトを乗せ
た馬がブルルと嘶く。
﹁⋮本当に、大丈夫か?﹂
﹁はい。精霊に乗れば一瞬ですから﹂
心配そうにするジークハルトに、リルはきっぱりと言い切った。
これは永遠の別れではないかもしれないが、一度別れれば再びまみ
えるのはずっと先の事になるだろう。その事に怯えているのか、そ
れともほっとしているのか、リルは自分の気持ちが定まらずにいた。
リルの傍らにはジークハルトの動向を見張る様に、もう一頭の馬
に跨ったカノープスが冷たい眼差しを注いでいる。
﹁君には、本当にすまない事をした。きっと謝っても許してはもら
519
えないだろう﹂
白い息を帯びながら、ジークハルトの︱︱︱いや、ジークとして
の最後の言葉が空に昇っていく。
﹁けれど確かに、私は君の母親を愛した。そして君を愛した。いい
や、ずっと愛し続けているよ。たとえ世界のどこにいても。それだ
けは、忘れないでほしい﹂
冷たい雪に靴先の埋まったリルは、しかし顔を逸らさずずっとジ
ークの顔を見上げていた。彼女の息も、白くなって空へと向かう。
結局はさよならも言わず、リルはジークを見送った。所々枯草の
除く雪原を、一頭の馬が遠ざかっていく。
愛していると叫ぶには、リルにとってジークとの距離は遠すぎた。
ただ、今からは虐げられた人のために働く彼を、いつかは誇りだ
と言えるようになりたい。
だから今はただぎゅっと、掌を握りしめて息を潜めていた。
カノープスの生み出した光が、寒々しい闇の中で瞬きもせずに浮
かんでいる。
520
111 北の森の魔女
北の森には、近づいてはいけないよ。
あの森には緑の肌をした、魔女が住んでいるのだから。
魔女を見たら、決して近づいてはいけないよ。
その緑の肌に触れれば、人は石になってしまうのだから。
***
目が覚めると、そこは知らない天井でした。
いやいや、アニメの主人公気取ってる場合じゃない。
はて、私はどうしてここにいるのだろうか。
確かジークと別れた後、額に青筋を浮かべた近衛隊長のお小言か
ら逃れて、ヴィサ君に乗って一路ゲイルのいる北を目指したはずだ
が、さてはて。
体を起こして、周囲を見渡す。狭い部屋だ。いや、元は広い部屋
なのかもしれないが、雑多な物があり過ぎてスペース自体は狭い。
窓のない暗い部屋で、壁は木でできている。石造りが基本のメイユ
ーズ国にあって、木造住宅は珍しい。部屋を占拠している小物たち
は、用途不明の不思議な形状をした物ばかりだ。つりさげられたド
ライフラワーの類はいいとして、魔導石を連ねた部屋に見合わない
贅沢すぎる飾りとか、どこかの鳥さんの羽を遠慮なく毟ったらしい
羽の扇子。何かの角。何かの牙。何かの骨。同じ形の引き出しが沢
山ついた薬戸棚に、色々な形をした色とりどりのガラスビン。
どれを取っても、何一つ見覚えがない。そしてヴィサ君がいない。
521
えーっと︱︱︱あ、段々思い出してきたぞ。確か夜だから急いで
どこかの街にでも降りようかって言ったら、ヴィサ君が張り切っち
ゃって飛行スピードをあげたんだっけ。私は途中までなんとかしが
み付いてたんだけど、そこに突然の突風が吹いて、結局ヴィサ君の
背中から放り出されたんだった。
うーん、今度会ったら、スピードは出し過ぎちゃいけませんって
ちゃんと教えなければ。
私がそうして記憶の中のヴィサ君に呆れていたら、唯一ある扉が
キィと開いて長身をローブで隠した人物が部屋の中に入ってきた。
ろうそくの火が揺れる。
﹁目が覚めたか?﹂
女の人にしては低い、けれど男にしては高い中性的な声だ。
私は室内なのにフードを目深に被って顔を見せない相手を訝しん
だが、助けてくれたらしい恩人を怪しむのは良くないと考え直し、
こくりと頷いた。
﹁助けてくれてありがとう﹂
前に宮廷語を使ったせいでミハイルに怪しまれるという痛い経験
があるので、敢えて庶民の言葉を使う様に心がける。敬語使えなく
てすみません。本当にすみません。
フードの人物はベッドの前で屈むと、私の手を掴み脈を取った。
ひやりとした冷たい手だ。そしてその手は、若いアスパラガスのよ
うな硬質な黄緑色をしていた。
はて、この世界にはこんな色の肌をした種族もいるのだろうか?
記憶をひっくり返してみても、ゲームの中にそういった登場人物が
いた記憶はない。もしかして、助かったように見せかけて私は死ん
でいるのだろうか?そしてまた違う世界に転生したとか?
522
私が眉を寄せていると、それに気づいたようで先ほどより硬質な
声が降ってきた。
﹁⋮緑の肌が珍しいか?﹂
﹁えーっと、ここでは私の肌色は珍しい?外に出るんだったら隠し
た方がいいの?﹂
混乱した私が質問で返すと、一瞬言葉の意味が分からないという
様な沈黙が流れた。気まずい。私はまたしても何かやらかしたのか。
﹁はっはっはっは!﹂
そして爆笑。
あ、私じゃないですよ。フードの人です。立ち上がって、本当に
お腹を抱えて笑っております。いやいや、こちらは一応真剣なんで
すが。
どうやら笑い上戸な人のようで、爆笑はそれからしばらく続いた。
笑った弾みでフードが外れ、そこからもじゃもじゃとした、パーマ
のかかり過ぎた髪が零れ落ちた。髪色は黒だ。
﹁あ、あのー?﹂
ひーひー言っているその人に、私は果敢にもコミュニケーション
を試みる。少なくとも怒っている訳ではないんだろう⋮多分。
﹁はー⋮くっくっ。いやすまない。まさかそんな風に言う人間がい
るとは思わなくてね。私はマーサだよ。よろしく﹂
そう言って差し出された手と反射的に握手したら、またちょっと
523
笑われた。なんなんだ一体。
﹁ちょっと待ってなね﹂
そう言ってマーサは部屋を出て行き、しばらくすると器の乗った
お盆を持って戻ってきた。器からはいい匂いと湯気が立ち上ってい
る。どうやら空腹だったらしい私は、それを見た瞬間に猛烈な食欲
が湧いてくるのを感じた。目の前に置かれた器には辛子色のシチュ
ーっぽい料理がよそられていた。見たことのない料理だが、この匂
いからしておいしいに違いない。
﹁いただきます!﹂
そう言って木を削ったらしい匙を手に持つと、私はもぐもぐと食
べ始めた。やはりおいしい。そして味もほとんどシチューだ。少し
スパイシーな風味がアクセントになっている。いやはや、クレアお
ばさんもびっくりの美味しさだ。
もぐもぐどんどんで食べる私を、マーサはずっとおかしそうに見
ていた。微妙に恥ずかしいが、空腹の前では羞恥心など無意味だ。
﹁ごちそうさまでした﹂
勿論完食だ。空腹だったのもあったんだろうけれど、凄くおいし
かった。レシピを聞いてミーシャにも食べさせてあげたいな。
﹁はいよ。お代わりはいいのかい?﹂
﹁大丈夫!代わりにあの、作り方とか教えてもらえない、かな?お
母さんに作ってあげたい﹂
524
九歳児の必殺上目遣いを繰り出すと、マーサはくしゃっと笑った。
顔の肌も黄緑色だが、表情が豊かな分もうあまり気にならなくなっ
ていた。
﹁ふふふ、あんた変な人間だねェ﹂
そう言いながら、マーサは器を持って部屋を出て行った。
その直後だ。
ドシン!という大きな音がして、部屋が揺れた。地震か?私は竦
み上がった。しかし衝撃は一度きりで、第二波がこない。しばらく
その場から動けずにいたが、私はマーサが心配になり、ベッドから
降りて部屋を出た。人の家で勝手に部屋を出るのは少し抵抗があっ
たが、もしマーサが何かの下敷きになっていたりしたら、一刻を争
う。
扉は少し広めの居間に繋がっていた。居間には窓があり、光が漏
れていることから今が昼間であることが分かる。冷たい風に、私は
身震いした。見ると、玄関が開いている。
意を決して私は玄関から飛び出した。
﹁あんた!こっちにきちゃだめだよ!﹂
マーサの焦ったような声に、私は立ち止まる。
外はどこかの森の奥のようだった。見渡す限り緑の木々が続き、
そのどれもが厚い雪をかぶっている。私は照り返しに目を細めなが
ら、マーサの声のする方向を見た。そこには家の壁に衝突して屋根
から降ってきた雪に埋もれたらしい獣と、それを警戒するマーサの
姿があった。
脳震盪を起こしているのか、獣は動かない。白いきらきらとした
雪に埋もれて、その艶やかな毛並みが光っている。
あっちゃー。
525
思わず、そう言いそうになってやめた。
私がざくざくと無防備に近寄ると、マーサは近寄るなと更に怒鳴
った。しかしわたしにも、近寄らねばならない事情があるのだ。
やがてマーサの横に並ぶと、私はその獣に向かって呼びかけた。
﹁ヴィサ君。一体そこでなにしてるのかな?﹂
艶やかな白銀の毛を雪に埋もれさせて、私の精霊さんがそこで伸
びていた。
526
112 森の民とその娘
きゅうと伸びたヴィサ君が自動的に縮んだので、私はそれを抱き
上げて雪を払ってやった。
﹁何なんだ一体。いいから早くそれと一緒に中へお入り﹂
マーサに促され、私はその山小屋に戻った。
扉を閉めてマーサが薪ストーブに火を入れると、じわじわと部屋
が温まってくる。私は王都ではあまり見たことのない薪ストーブに
興味が湧いた。あちらの家は殆ど煉瓦造りなので据え付けの暖炉な
のだ。
勧められて椅子に座り、しばらくなでているとヴィサ君が気が付
いた。目をぱちくりさせる仕草が可愛い。
﹁ヴィサ君、大丈夫﹂
しばらく、ヴィサ君は夢見心地な顔でぼーっとしていたが、正気
を取り戻したらしく飛び上がった︵空を飛べるので文字通り︶。
﹃リル!無事か?﹄
酷く焦ったらしいヴィサ君を見上げて、私は大丈夫だと答えた。
そこにマーサが、ヴィサ君にも飲めるように平皿でミルクを出し
てくれる。すこしクリーム色が強いのでアルパカウのミルクだろう
か?
しかしヴィサ君はマーサの顔を見て反応を止めた。
527
﹃なんだ。混ざりもんじゃねーか﹄
ヴィサ君の言葉に反応したように、マーサの方がビクりと揺れる。
やっぱり、この人は小型化しているヴィサ君が見えているのだ。
そしてどうやら声も聞こえているらしい。
とりあえず、おせっきょうとして私はヴィサ君の尻尾を掴んだ。
うーん相変わらずのふわふわだ。
﹁ヴィサ君。お世話になった人に向かってそれはないよね?﹂
私が笑いながら注意すると、何を思ったのかヴィサ君はシュンと
してしまった。
﹃ごめん、リル﹄
﹁謝る相手が違うよね?﹂
﹃⋮すまなかった﹄
不承不承の態度で、ヴィサ君はマーサに謝った。
全く。ヴィサ君はたまに口が悪くていけない。
そしてそんな私達を、マーサは呆気にとられたように見ていた。
﹁あんたまさか、精霊使いなのかい?﹂
﹃精霊使い﹄それは過去に排斥された、精霊を使役して人々を従
わせたという一族だ。私はめいいっぱい首を横に振った。そんな人
たちと、一緒にされても困る。
﹁ヴィサ君は私の契約精霊なの﹂
528
﹁ふーん。契約精霊ねぇ﹂
マーサが私の向かいに腰かけて意味ありげな視線をヴィサ君に送
る。私の周囲で私以外に契約精霊がいる人がいないので、ヴィサ君
が他の契約精霊と異なっているかどうかは私には分からない。
因みに、いじけたヴィサ君はペロペロとミルクを舐めていた。
﹁それにしても、随分高位の精霊みたいじゃないサ﹂
﹁分かるんですか?﹂
﹁分かるも何も⋮﹂ ﹃分かるも何も、ソイツも半分は精霊だからな﹄
ペロペロと、今度は顔を洗いながらヴィサ君が言った。
﹁ソイツ⋮?﹂
言いながらヴィサ君の尻尾を再び掴むと、ヴィサ君が竦み上がっ
た。
﹃そ⋮そ⋮そちらの方です!﹄
ヴィサ君。そんなに怯えなくてもいいんだよ?ただ、マーサさん
には沢山迷惑かけちゃったんだし、ちゃんとした態度でいなくちゃ
ね?
﹁ふふふ⋮﹂
529
マーサが、少し困ったように笑っていた。
﹁いいンだよ。その猫ちゃんが言っていることも本当だから﹂
﹃猫じゃねー!﹄
テーブルの木で爪とぎしようとしていたくせに、よくそんな口が
きけますな。
ヴィサ君の叫びなどガン無視で、マーサは話を続けた。
﹁アタシはね、北の山に住む森の民と村の人間のハーフなんだよ﹂
﹁森の民?﹂
聞き覚えのない言葉に首を傾げる。
メイユーズ国の北にある山はトラモンターナ山脈だ。この山脈は
とても険しく一年中雪で山頂が覆われているので、未だ誰もその先
を見たことがないという。
そんな山に、暮らす民族などいただろうか。
﹃森の民ってのは、山に住む木の精霊達のことだ。深い森には大抵
いるな。東のシャリプトラの眷属どもだ﹄
私の考えを読んだように、ヴィサ君が言った。
シャリプトラというのが、木の属性の首長ということだろうか?
ヴィサ君のような。
その精霊とのハーフということは、マーサはベサミのように長い
寿命を持っているのかもしれない。
530
﹁そう。だから見ての通りこの肌色だろ?これを見ると人間達が恐
がっちまってネェ。アタシも、普段だったらここまで人里の近くへ
は降りてこないんだが﹂
﹁え、じゃあこの山小屋はマーサさんのおうちじゃないの?﹂
私が尋ねると、マーサは気まずそうな顔をした。
﹁ここは、アタシの双子の妹のカーラの家なんだよ﹂
﹁カーラ、さん?﹂
こくりと、マーサがうなずく。
﹁カーラは、いつか人間の街で暮らすのが夢だと言ってね。アタシ
は止めたんだけど、もっと人里に近いところに住むんだって聞かな
くて⋮。近くに住んだところで、受け入れてもらえるわけじゃない
のにサ﹂
もの憂い気なマーサの顔に、彼女らが麓の人間達とあまりいい関
係でないことが読み取れた。人は自分達と違う生き物を徹底的に排
斥しようとする生き物だ。肌の色が異なる彼女らが、そう簡単に受
け入れられるのは難しいのかもしれない。出会ってすぐのマーサの
こちらを警戒する様子も、それが原因だとしたら納得できた。彼女
らは今までに、人間に少なからずひどい目に遭わされたのだろう。
﹁その、カーラさんは今はいないの?﹂
この家に、私達以外の人間の気配はない。私は周囲を見回す。
すると、マーサはしばらく迷うように視線を彷徨わせた。どこま
531
で私達に話していいか、迷っているのだろう。しかし何かを思いき
る溜息を一つつくと、マーサは口を開いた。
﹁カーラはね、麓の町に行っちまったのサ﹂
﹁麓の町に?﹂
先ほどまで、人間とうまく馴染めないという話をしていたんじゃ
なかっただろうか。ならば、麓の人間はカーラを受け入れたという
ことか。
疑問に思っている私の表情を呼んだのだろう。マーサは言葉を続
けた。
﹁カーラはどうも⋮姿変えの術をつかったようなんだ﹂
﹁姿変えの術?﹂
聞き覚えのない言葉だ。私は首を傾げる。
﹁ああ、アタシらは森の民と比べて、力が足りない。なんせ人間と
混じっちまってるからね。でも魔法は使える。姿変えの術というの
は文字通り、自分の姿を変える魔法のことだよ﹂
﹁そんなことが⋮?﹂
﹁でもね。その術を使うにはアタシらでは魔力が足りない。もし使
えるとすれば⋮⋮﹂
意味深にマーサが言葉を切った。
部屋の中に重い沈黙が伸し掛かる。
532
﹁人間から、吸い取るしかないだろうね。魔力の強い、誰かから﹂
﹃木の属性の奴らはそれが出来るから嫌いだ﹄
ヴィサ君が厳しい顔で吐き捨てる。
私はもう、彼の暴言を止めなかった。
魔力を吸い取る?人間から?
﹁そんなことが!?﹂
聞いたこともない。そしてその魔力を吸われた人間が、無事でい
られるとも思えない。
それに私は、嫌な予感がした。
魔力の強い人間とは、すなわち貴族だ。そしてこの土地の領主を
除いて、わざわざこの北限の地にまで来るような貴族なんて⋮。
﹁前にカーラが、赤い髪の男と歩いているのを見たんだ。多分間違
いないだろう﹂
眉間に皺を寄せて、マーサが言った。
その人物を、私は記憶の中にいる誰かと、結びつけずにはいられ
なかった。
533
113 閉じた街
マーサに別れを告げ、ヴィサ君に乗った私は麓の街へと急いだ。
彼女はしばらく山小屋に残って、姿変えの術について調べるつも
りだという。カーラについてなにか分かったら教えてほしいと、私
に頼んできたマーサは複雑な表情だった。
山を抜けると、そこから不自然に雪が途切れて茶色い地面がのぞ
く。このトラモンターナ山脈が一年中雪に覆われているのは、寒冷
な気候だけでなくなにか不思議な力が働いているのかもしれない。
山から見えていた街がどんどん近づいてくる。王都よりは小さい
が、城壁に囲まれた立派な都市だ。
それもそのはずで、この街には“最弱の辺境伯”と呼ばれるヘリ
テナ伯爵の居城がある。国境線を守り辺境に領地を持ちながらも様
々な特権が認められた辺境伯の中でも、ヘリテナ伯爵は異質だ。な
ぜならヘリテナの一族はメイユーズ国建国以来、一度も戦をしたこ
とがない。メイユーズ国の北の国境を守っているのは峻厳なトラモ
ンターナ山脈そのものであり、また或いはそこに住む森の民である。
かつてこの地の豪族だったヘリテナ家は、メイユーズ国に無条件で
組み入れられる代わりにこの寒冷だが危険の少ない土地の永続的な
統治権を手に入れた。以来彼らはずっとこの地に根を張っているの
だ。歴史書は語る。“ヘリテナ伯は戦では弱かろうと、負けたこと
は一度もない”のだと。
ミハイルの授業を思い出し、私の気分は沈んだ。
私の予想が当たっているとすれば、カーラが魔力を吸い取ってい
るのは彼だろう。魔法属性の強く表れた赤なんて髪色が、この辺境
の地にそうそういるとは思えない。
私は山から迂回して街を通り過ぎ、何もない荒野でヴィサ君から
降りた。街の山脈側には街に入るための門がないからだ。そこから
小さくなったヴィサ君を連れて、門へ続く街道へと歩く。
534
途中、屈みこんで地面にペンタクルを描いた。以前作動させっぱ
なしでひどく怒られた﹃マップ﹄だ。ペンタクルを描き終えると、
いつものように頭の中に光と地図が浮かんでくる。と言ってもこの
街に入ったことはないので、今は何もない場所に赤い光が一つ浮か
んでいた。遠く王都にいるからか、他の光は私を示す光ひとつきり
だ。
﹁この赤いところを目指していけば⋮﹂
ペンタクルを足で消して先を急ぐ。街道に辿り着くと、街に入ろ
うとする商人たちが列をなしていた。
私に気付いた者は、街道の外から子供が歩いてきたことに一瞬ぎ
ょっとする。近くにいた人のよさそうな青年に、私は声を掛けた。
﹁すいません。これは街に入るための列ですか?﹂
最初は面食らっていた青年だったが、親切にも腰をかがめて私の
質問に答えてくれた。
﹁ああそうだが、どうやら今はトステオには入れないようなんだ﹂
トステオというのがこの街の名前だ。ヘリテナ伯爵領でもっとも
大きな都市であり、伯爵のお膝元でもある。それにしても、こんな
に国境に近い場所に領主の城があるなんてどれだけ危機感がないん
だ。
﹁入れないって、どうして?﹂
首を傾げると、青年は困ったように頭を掻いた。
535
﹁それが、どうも街の中に誰も入れてはいけないという領主さまの
お達しがあったらしい。おかげで僕たち商人は締め出されてしまっ
たんだ﹂
どおりで、行列の人々は皆不満げな顔をしている訳だ。
それにしても、他の街との物流を支える商人を締め出してしまう
なんて、ただごとではない。商人達は最悪引き返していけばいいだ
けだが、自然環境の厳しいトステオが商人達に見放されれば、たち
まち食料は尽きて街を飢餓が襲うだろう。
﹁ところで、お嬢ちゃんはこんなところで一体どうしたんだい?
﹁近くの村からアルパカウのミルクを運んできたのだけれど、お父
さんとはぐれてしまったの﹂
旅のために平民の服を着ていたので、怪しまれてはいないようだ
った。青年は気の毒そうな顔で私を見下ろす。
﹁大丈夫?お父さんを探すかい?﹂
﹁ううん。先に村にかえるわ。道は分かっているから﹂
適当に出まかせを言い。私は青年と別れた。
それにしても、まさか街がそんな事態になっているとは思わなか
った。あまりにもタイミングが良すぎる。まさかカーラが関わって
いるのだろうか?
私は一目に付かないような雑木林を見つけ、そこに飛び込んだ。
そしてもう一度ヴィサ君に乗り、今度は上空から街に入ろうと試み
る。
536
﹃リルー、お腹すいた﹄
真剣な私の緊張を削ぐような声で、ヴィサ君が言った。
精霊である彼は本来なら魔法粒子を集めるだけで食事はいらない
のだが、私が毎日エサをあげるせいで、それが癖になってしまった
らしい。こんな精霊いるかいと呆れつつ、私は彼の毛並みを撫でた。
﹃もう少し、付き合って。街に入ったらおいしいもの作ってあげる
からね﹄
ヴィサ君のエサは毎回私の手作りだ。キャットフードのないこの
世界で、まさか家畜と同じ飼料を食べさせるわけにもいかない。
﹃よおっし!﹄
﹁え?やッ、ちょっとぉ!!﹂
私の声に反応したヴィサ君が、スピードをあげて急角度の滑降を
試みる。悲鳴を上げると舌を噛みそうで、私は必死に歯を食いしば
った。恐ろしくて目を閉じる。吐きそうだ。私は絶叫系が苦手なタ
イプなのに。
﹃ついたぞ!﹄
伸し掛かる重力が無くなり、喜色満面と言った感じに声が弾んで
聞える。彼には人を乗せている時にアクロバット飛行をしてはいけ
ないと厳しくしつけなければ。つい昨日スピードを出し過ぎて私を
振り落したことですし。
目を開けると、そこは目が眩むほど高い場所だった。間近で旗が
537
はためいている。まさかと思って下を見ると、そこは領主の住む城
の頂上。最も高い塔の屋根の上だった。
﹁ここ、着いたって言わないよ!﹂
高さによる震えを堪えつつ、ヴィサ君の背中に縋りつく。誰かこ
の精霊の非常識をどうにかしてくれ。この世界にドックトレーナー
をしている人はいないんだろうか?
﹃じゃあ、どこにいけばいいんだ?﹄
﹁どこって⋮﹂
そこで、私はこの先どうするべきか迷った。
最初に見つけたいのはミハイルだが、もし彼がカーラと一緒にい
るとしたら不用意に近づかない方がいいのかもしれない。ならば何
かを知ってるであろうゲイルを探したいところだが、彼らはおそら
く以前のように極秘任務でこの街に潜入しているだろう。安易に見
つかるとは思えなかった。
その時ふと、遠く街道を伸びる人の列に目が行く。
今はそれほどでもないが、携帯電話のないこの時代だ、このトス
テオに向かっているどれほどの商人が、これからここで足止めを食
うことになるやら。
この問題の原因を探れば、何かカーラや延いてはミハイルのこと
が分かるだろうか?
私はヴィサ君に頼んで、どんな街にでもかならずあるはずの商人
ギルド支部へと向かった。
538
114 商人ギルド トステオ支部
商人ギルドトステオ支部は騒乱の中にあった。
それもそうだろう。なにせ街へ入ってくる物流がストップしてし
まったのだから。街から街へと渡る行商人も管轄下とする彼らにし
てみれば、今は対応に追われて大わらわといったところか。
トステオでも一番大きな通りにあるトステオ支部は石造り二階建
ての立派な建物だった。私は向かいの建物の影からその様子を観察
する。傍らには小さくなったヴィサ君。人間の事情など関係ない彼
は、どこか呑気に欠伸なぞしている。
商人ギルドのトステオ支部の前には、武装をばっちりときめた傭
兵が数人屯していた。恐らくはお抱えの用心棒だろう。王都の商人
ギルドの前でもよくみられる光景だ。
しかし、それ以外が普通ではなかった。さっきから大勢の人間が
慌てた様子で出たり入ったりを繰り返している。それらは渡りの商
人だけではなく、その商人から商品を仕入れているであろう店主な
ども多くいるようだった。見分け方は簡単。街を渡る行商人は大抵
が若くして旅装のままであり、街に定住する店主の方は往々にして
年配で比較的立派な服を着ていた。
ギルドの前は馬車渋滞で酷い有様だ。王都とは違い土が踏み固め
られただけの通りは、清掃魔導設備も十分ではないらしく土煙と馬
糞の混ざりあった酷い臭いがした。それでも下民街よりは幾分まだ
ましだったが。
ギルドを出入りしている人間を見ていると、偶に行商人とも店主
とも違う人間がその中に交じっていることに気付く、若くて身なり
のしっかりした青年だ。手荷物の少なさから見て、恐らく彼らは商
人ギルドに勤めている職員たちだろう。そう辺りをつけ、私は路地
裏を出るとその内の一人にぶつかった。
539
﹁うわぁ﹂
大した勢いでもなかったが、向こうは焦って道を急いでいたので
大げさに尻餅をつく。そう。完全当たり屋である。金銭を請求する
気はないので見逃してほしい。
﹁うわ!ぼうず、大丈夫か!?﹂
男装の板についた私は、別に学友の制服じゃなくても男に見える
ようだ。まあパンツルックの旅装が原因だろうが。それはともかく
として、無事に手を差し伸べてくれるような相手でよかった。私を
無視して行ってしまわないだけ、彼は良識的な人間であるらしい。
顔を見れば、藁色の髪を短く刈った少しぶっきらぼうそうな青年
だ。年の頃は三十前後だろうか。とりあえず、私は差し出された手
につかまり体を起こした。
﹁悪かったな。急いでいたものだから﹂
﹁いいや。こちらこそ飛び出して申し訳ない﹂
その時、私は意識して宮廷語を使った。すると、青年が驚いたよ
うに目を見開く。
彼が私の頭のてっぺんから足の先まで一通り値踏みしているのが
分かった。簡易的な旅装だが、ステイシー家で揃えてもらった旅装
は地味だが縫製のしっかりしたある程度値が張る品だ。流石に商人
ギルドの人間だけあって、その価値が分かったらしい。私を助けた
らすぐに先を急ごうとしていた足が、止まる。
﹁本当にすまなかった。迷子かな?ここは危ないから、よければギ
540
ルドの中に入ってご両親を待ってはどうだろう﹂
彼の商人脳は私︵もしくはその親︶に恩を売った方が有益と判断
したようだ。
﹁そうさせてもらおう﹂
学友達を真似して尊大な態度を取ってみる。尊大に振る舞われた
ことは数あれど、自分でやってみたのは初めてだ。
案内されて入ったギルドは混乱の最中にあった。あちこちで人が
怒鳴り、受付の奉公人らしき少年は半ば涙目になってメモを取って
いる。暖房がなくとも熱気を感じるほどの人いきれだ。
私をさる高位な血筋の少年だと勘違いしている青年は、私を連れ
て二階へと上がった。
すると二階は一回の喧噪とは無縁になり、今度は重厚な雰囲気を
持った壮年の男性たちが行き来していた。どうやら一回は受付など
の職員でなくても入れる区画で、こちらが商人ギルドの心臓とも言
うべき実務部分らしい。
私はできるだけ姿勢を正し、足運び等が優雅になるように心がけ
た。私の今の役回りは迷子になった世間知らずの高貴な少年なので、
先を歩く青年には完璧にそう思いこませなければいけないからだ。
﹁凄い騒ぎだな﹂
タイミングを見計らって、私は彼に問いかける。
﹁ええ、うるさくて申し訳ない﹂
先を行く彼の表情を読むことはできない。
541
﹁何でも、外から来た者はトステオに入れないと聞いたが、それは
本当か?﹂
そう言うと、青年は振り返り驚いた表情で私を見た。
﹁どこでそれを?﹂
彼の態度からするに、街への出入りへの規制はまだトステオ内で
はそれほど広まっていない出来事らしい。確かに、広まっていたら
街はもっと騒ぎになっていただろう。情報に聡い商人ギルドだけが
騒いでいるのだとしたら、これから情報は追々に広まるはずだ。
それにしても、一体誰がこんな馬鹿げた規制を掛けたのか。外に
並ぶ商人に領主だとは聞いたが、噂で聞くヘリテナ伯爵がそんなこ
とをするとは思えない。
﹁私は遠くから人を訪ねに来たのだが、供の者とはぐれてしまった
のだ。それを探す内に、そういう噂を耳にした﹂
正直、口からするすると出まかせの出る自分が恐い。
青年は少し難しい顔になり、しばらく考えてから口を開いた。
﹁よろしければ、そのお探しの方のお名前をお聞かせ願えますか?
我々が力になれるやもしれません﹂
青年の顔が商人の顔になる。つまりは、感情の読めない笑みだ。
もしかしたら、彼は只の下っ端職員では無いのかもしれない。
私は焦らないよう自分に言い聞かせながら、彼を不審がる顔を作
った。ここでいきなりゲイルかミハイルの名前を出しても、恐らく
は無駄だ。彼らは潜入捜査の最中であり、名前を変えている可能性
もあった。また、彼らに迷惑を掛けるのも本意じゃない。
542
私の表情を正しく読み解いたらしい青年が、胸に手を当てて私に
礼を取る。
﹁失礼。私の名前はヘリスナー。このトステオで商人ギルド支部長
をしております﹂
おおっと、意外な大物を引き当てたようである。注:私はとても
驚いている。
私は間抜けに開きっぱなしになりそうな口を噛み締めて、目の前
の青年を見上げた。
そしてわざとらしく、周囲を見回す。
﹁どこか、人に話を聞かれぬ場所へ﹂
さあて、これからどうしようかね。
言っておくが、私の動作は意味ありげに見えて、そのほぼ全てが
その場しのぎである。とりあえず今は、ヘリスナーが案内する場所
に着く前に、色々な設定各種を脳内で練り上げなければ。
常にないほど必死に、私は灰色の脳細胞を回転させた。助けてポ
アロ先生!
543
115 猫とタヌキの化かし合い
私が案内されたのは窓のある日当たりのいい部屋だった。
南向きの壁には王城でしか見たことのないような大きなガラスが
嵌められ、その精度の高さに息を呑む。
ガラスに背を向けるように繊細な彫刻を施された立派な執務机が
置かれ、左右の壁には同じ色合いの木材で作られた本棚。その机と
向かい合うように置かれた一脚の椅子は、シノワズリとでも言えば
いいのか、どこか中華風の様式だ。重厚とは違い華奢なデザインだ
が、黒い木組みに描かれた金の蔦模様が何とも言えず美しい。恐ら
くは東大陸からの輸入品だろう。王都でさえなかなか見られないよ
うなこんな高価な品が、まさかメイユーズの北端であるトステオで
見られるとは思わなかった。
﹁どうぞ、お掛けになってください﹂
そう言って、ヘリスナーも執務机に向かった。
そして部屋には沈黙が落ちる。
逆光でよくは見えないが、ヘリスナーの目が冷静に私を観察して
いるのが分かった。そして私も、彼のことを注意深く観察していた。
ヘリスナー、トステオの商人ギルド支部長。変わった男だ。それ
が私の彼に対する認識だった。
まずは、その名前。
いいや、名前自体は何の変哲もないよくある名前だ。ただその名
乗りが、普通ではない。彼は私に、ヘリスナーという名前しか告げ
なかった。それはつまり、彼には姓がないということだ。
古くから、このメイユーズ国では王族と貴族にしか姓がなかった。
なのでそれ以下の階級に属しているすべての国民は、姓が名乗れな
かった。しかし段々と裕福な商人や地方の豪族などにも姓が与えら
544
れるようになり、近年では利便性のために自ら勝手に名づけてしま
う者も現れた。なので王都や大きな都市に住む大抵の人は自らの姓
を名乗るが、地方の農村などでは未だに姓を持たない人も多い。そ
の証拠に、アルやエルにも姓はなかった。
しかしヘリスナーは、商人ギルドの支部長と言う高い社会的地位
があるにもかかわらず、自らの姓を名乗らなかった。この世界の戸
籍など杜撰なものだ。もしどこかの村の出身で本当に姓がなかった
としても、そこは勝手に名乗ってしまってもいいのだ。その方が仕
事をする上では通りがいいだろう。それなのにヘリスナーはそれを
しない。それがまず最初に彼に感じる違和感だった。
それに、だ。最初はなんとも思わなかったのだが、室内に入って
気が付いた。ヘリスナーは北部に住む人間の中では特別肌の色が濃
いようだ。恐らく、もっと南方の生まれなのだろう。地黒の肌に藁
色の髪がよく似合っている。そしてなにより、書生風の今の服装で
はわかり辛いが、凡庸に見せかけてその体は良く鍛えられて引き締
まっていた。彼はおそらく、ただの商人ではない。
﹁それで、外から来た者がトステオに入れないという噂はどこで?﹂
なかなか口を開かない私に焦れたのだろう。先に口を開いたのは
ヘリスナーだった。
逆光になった彼の表情は読みづらい。
恐らく、この部屋のつくりはそれこそが狙いなのだろう。
高価な大判のガラスや珍しい調度品に目を奪われていては、騙さ
れてしまう。
とんだタヌキだ。
自分達の優位の為には、どんな方法すらも惜しまない。それこそ
が商人という生き物だ。
﹁先ほども言わなかったか?﹂
545
私は少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。勿論、本心ではない。この
男の前で、何か新しい情報を話すことは躊躇われた。お互いがお互
いに、出方を窺っているのが分かる。
﹁これは失礼いたしました。実は我々でさえその情報を手にしたの
はついさっきなのです。なので貴方様の情報の速さに驚きまして。
よろしければ、名前を窺っても?﹂
そう言えば、まだ名乗っていなかった。
﹁︱︱︱さる侯爵家とだけ。それではダメだろうか?﹂
出自は微妙にぼかす。まだ完全にはこの男を信用することが出来
ない。それに、貴族は平民を見下しているので、普通真っ向から名
乗ったりはしないものだ。こちらの方が、むしろ真実味が出るだろ
う。
﹁なるほど。ではせめてお名前だけでも。お呼びするのに難儀しま
すので﹂
﹁ルイ、と言う。﹂
﹁それで、ルイ様は供の方々とはどこではぐれられたのでしょうか
?場所と特徴さえ教えて頂ければ、我々の手の者がお探ししますが﹂
﹁いいや、目的の場所にさえ辿りつければ、おのずと供の者とも再
開できるだろう。そなたにはそこまでの案内を頼みたい﹂
﹁かしこまりました。それでそのお尋ねの人物とは?﹂
546
ヘリスナーの声は、感情の起伏のないまっ平らな声だ。なんだか
商人らしくない。
さあて、ここからなんというべきか。ミハイルやゲイルの名前を
出すのは簡単だが、潜入中の彼らに迷惑を掛ける訳にはいかないし、
それで見つかるとも思えない。
﹁⋮赤い髪の男を知っているか?﹂
とりあえず遠回りなところから。
火の属性が強く出た赤い髪というのは、貴族の中でもそうそうな
い髪色だ。
﹁⋮⋮赤い髪ですか?赤毛ではなく?﹂
﹁ああ。燃える様な赤だ。トステオに、そのような男はいるだろう
か?﹂
それがミハイルでも、或いはカーラの隣にいたという男でも、情
報が得られるならばどちらでもよかった。
しばらく考えるような沈黙が落ち、そしてヘリスナーは考えるよ
うに顔の前で手を組んだ。
﹁赤い髪⋮で思いつくのは、最近いらしたヘリテナ伯爵のお客人で
しょうか?﹂
﹁伯爵の?﹂
﹁ええ。王都からいらしたという、若い男性です。ヘリテナ伯爵の
お嬢様と、街を歩いている姿をよくお見かけしますが⋮?﹂
547
私の反応を試すように、ヘリテナーが首を傾げた。
私は一瞬、声を失っていた。
・・・・
﹁ヘリテナ伯爵の、お嬢様とだって?﹂
私は耳を疑った。
﹁ええ。リルカお嬢様とご一緒の所を最近はよくお見かけしますね。
ルイ様がお探しの方が、同じお方かどうかはわかりませんが﹂
リルカ。聞き覚えのある名前に、私の背中を悪寒が走った。
一体、この街で何が起きているというんだ。
私は自分に冷静になるよう語りかけ、ゆっくりとヘリスナーを見
据える。
﹁身分の定かではない私に情報を話したということは、何か裏があ
ってのことだろうか?﹂
﹁いいえ。とは言い難いですね。貴方様には教えて頂きたいことと、
ご助力頂きたいことがいくつか﹂
素直な男だ。そして話が早く好感が持てた。私は建前だらけの儀
礼的なやり取りより、こういう実利のある会話の方が好きだ。
﹁ご助力だって?私のごときただの子供に?﹂
﹁真に子供であるならば、自ら子供などとは言わないものですよ﹂
かすかな笑いのニュアンスが語尾に滲んでいた。
548
ヘリスナーは私を侮るでもなく、そして騙すでもなく、取り入る
でもなく対等な言葉を交わしてくれているのだと分かった。そして
相手を貴族だと思っても変にへりくだり過ぎないその態度に、私は
彼に真実を話す決意をした。
﹁ならば、取引をしよう。そなたが私を一人の人間として認めてい
るのなら﹂
﹁取引⋮ですか?﹂
﹁ああ、互いの情報を共有し、お互いの目的を達成する。そなたの
望みは、街の解放かな?﹂
ヘリスナーは私の真意を測るようにしばらく黙り込んでいた。
﹁︱︱︱それで、あなたの望みと言うのは?﹂
・・・
﹁それはほぼあなたと一緒だよ。この街に住みついた、魔女を追い
払うのさ﹂
いきなり砕けた私の言葉と同時に窓からの光がかげり、ヘリスナ
ーが憮然とした表情をしたことが読み取れた。
﹁魔女⋮ですか?﹂
﹁ああ。あなたはもうすでに騙されているよ。なんせヘリテナ伯爵
には、今も昔も娘なんていないのだから﹂
そしてリルカという名前は︱︱︱︱ゲームに出てくるミハイルの
かつての婚約者の名前だ。
549
550
PDF小説ネット発足にあたって
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乙女ゲームの悪役なんてどこかで聞いた話ですが
2015年2月12日21時31分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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