初めてイチローを見た日

初めてイチローを見た日
■新編集講座 ウェブ版
第22号
2015/2/15
毎日新聞大阪本社 代表室長(元編集制作センター室長)
三宅
直人
米大リーグのイチロー選手は、このほどマイアミ・マーリンズと契約を結び、1 月 29 日に東京都内で記者会見を開き
ました。会見の模様を伝える記事を読みながら、私は 21 年前の春、初めてイチロー選手の記事を扱い、見出しにも
「イチロー」 と大きく取り上げた時のことを思い出しました。まだ 「打率 4 割」や「年間 200 本安打」 でイチロー選手が
著名になる前の時代。他の選手の添え物のような扱いでした。これまでの偉業を考えると、隔世の感があります。
■ 鈴木一朗って誰やねん?
右の紙面は、1994 年 4 月 8 日の毎日新聞(大阪本社版)朝刊の社会面で
す。『「パンチ」と「イチロー」』という大きな見出しで、プロ野球・オリッ
クスが 2 選手を愛称で登録することにした、と伝えています。
名前の順番から分かるように、当時は
■ 以前から「パンチ佐藤」
パンチ選手は本名・佐藤和弘。1964
年生まれ。社会人野球の熊谷組から、
1989 年にオリックス入団。トレード
マークのパンチパーマとユニークな
言動で、
「改名」前から「パンチ佐藤」
の愛称で親しまれていました。
パンチの方が有名でした(左欄参照)。と
言うか、イチローなど誰も知らず、ゲラ
(点検用の仮刷り)を見た社内各所から
「鈴木一朗って誰やねん?」という声が
出ました。それほど無名だったのです。
この日の社会面担当は私でした。これ
が編集者として初めてイチローのことを
知った日です。㊨㊦は同じ日の東京本社紙面(スポーツ面)ですが、同じ記事ながらイ
チローは見出しにもなっていません。でも私が「イチロー」を見出しにしたことに先見
の明を誇ればうそになります。単に写真に2人写っているから見出しを2人にしただけ。
当時の有名演歌歌手「さくらと一郎」に似た響きなのも念頭にありました。
■ 昔からクールな選手だった
阪急電車の沿線で生まれた私は、幼い時から阪急ブレーブスファン。往年の名選手、
長池やスペンサーを生で見たのも
自慢です。でも 88 年秋、オリック
スに譲渡されると興味をなくし(オ
リックスファンの皆様ごめんなさ
い)
、選手の動向にも無関心でした。
改めてイチローの軌跡を縮刷版
でたどると、92 年 7 月 13 日の朝刊
には初ヒットのテーブル(㊧㊤)が載っています(本名
の「鈴木」
)
。同年 8 月 15 日には、初打点の記事(㊧)が
あり、今と同様、
「初打点だな、というだけで感慨はない
なあ」という、クールな本人談話も出ていました。
■ 「4割」で表舞台へ
さて、鈴木一朗から名を改めたイチローは、この 1994 年のシーズン
にブレークします。開幕時からレギュラーの座を獲得して、ヒットを
量産。6 月 30 日の朝刊スポーツ面(㊨、大阪本社版)では、ついに打
率が 4 割に到達したことが報じられています。
この記事では、当時 20 歳だったイチローのあどけない表情が印象的
です。同時に、4 割達成のプレッシャーがかかる日に、2四球をはさむ
4安打、つまり6打席連続出塁を成し遂げた集中力や、「いつもと一緒
ですよ」という、一見あっさりしたコメントなど、後年の片りんを見
■ 「改名」がブームに
山本和範→カズ山本(94 年ダイエー)
大村三郎→サブロー(95 年ロッテ)
山田喜久夫→キク山田(95 年中日)
友利
結→デニー友利(95 年横浜)
野村克則→カツノリ(96 年ヤクルト)
山本昌広→山本
昌(96 年中日)
て取ることもできます。
こうして「イチロー現象」は
スポーツ面を超えて社会的な
広がりを持つようになります。
プロ野球の世界では、
イチロー
の活躍にあやかってでしょう
か、
登録名の変更も次々現れま
した(左欄参照)
。
■ その日、村山氏が首相指名
上図は、「イチロー4割」と同じ 94
年 6 月 30 日の朝刊1面です。新首相に
■ 夢の 200 本安打を実現
こうしてシーズン終盤には前人未到の 200 本安打を達成。9 月 21 日
の朝刊は 1 面から社会面まで大展開でした。
■ 「アタマ」と「ハラ」
紙面中央を編集用語で「ハラ」
、トッ
プを「アタマ」と呼びます。紙面での
位置を体の部位でたとえています。
ちなみに紙面の上半分は「北半球」
、
下半分は「南半球」と呼びます。こち
らはなぜか、世界地図のたとえです。
1 面(㊨、大阪本社版、以下
受けた記事がトップに。1面もスポー
ツ面も大変な日だったわけです。
同)は意外なことに紙面中央
ちなみに「パンチとイチロー」の記
の扱い。トップにしている減
事が出た4月8日は、細川首相が辞意
税の話は、決定ではなく見通
表明しました。不思議な偶然です。
しを書いた記事です。である
なら、200 本安打をトップにし
ても良かったと思います。
㊨㊦が社会面。「200」をか
たどったイラストに写真をはめ込みました。形で勝負です。㊦はスポ
ーツ面。「名月もかすむ大記録」(新星の輝きで月もかすむ)、「列島揺
らした振り子打法」(振り子だから揺れる)と、見出しに凝りました。
「パンチと…」から「200 本」まで。大阪整理部がイチローとともに
あった 1994 年のシーズンでした。
「自社さ」連立の村山氏が国会指名を