富海宿篤姫が江戸に向かう際に休憩した 大和屋政助船倉と飛船 富海は南沙織の 17 才の舞台 問屋口聖蹟碑 中関港・善正寺(西郷隆盛 薩摩兵寄留) 下関、上関と共に長州を代表する良港で、幕末には東 上する薩摩藩の寄港地。薩摩兵は善正寺などで接待、 饗応され、旅の疲れを癒したとある。 小田港 慶応 3 年(1867)11 月 25 日、毛利内匠 藤内と楫取参謀に率いられた第一陣の長州軍は、小田 港沖から軍艦 7 艦に乗船、倒幕のため東上した。戊辰 戦争のスタート 問屋口聖蹟碑 明治 18 年 7 月、三田尻問屋口に上陸 した明治天皇来防を記念して、明治 32 年 7 月、楫取 素彦撰で建立された聖蹟碑 飛船問屋の大和屋政 助は、中山忠光、高 杉晋作、久坂玄瑞な どを支援した。 大和屋政助船倉と飛船 伊藤井上両公上陸の碑 天徳寺明治 3 年の諸隊騒動では、、 反乱軍が立てこもって戦場となる 佐波川舟橋跡明治 3 年には脱隊 兵と藩正規軍の戦いの場になった 暁天楼 維新の志士たちが ここで密談を交した 防府天満宮千年大祭記念碑 防府天満宮大専坊跡 防府天満宮春風楼 防府天満宮貞宮遙拝所 禁門 防府天満宮暁天楼 旅館藤村 の変において出兵を止める高杉晋 屋の離れで、2 階では勤皇の志士 作と総大将来島又兵衛が激論を交 たちが密議を交わしていた。名前 わした場所 は山縣有朋によって名付けられた 大楽寺 松陰の 妹文の墓がある 鋳物師 山田雪斎碑 貞永屋敷石垣跡:長州の海外との応接室 山田顕義により建立 光妙寺山田顕義整武隊屯所。 三田尻御舟倉跡 毛利水軍の拠点 英雲荘鞠生幼稚園日本初の仏教幼稚園 野村望東尼終焉の宅と終焉の地と墓 鞠生松原 小烏神社 楫取・山田顕義必勝祈願 英雲荘 参勤交 代のための宿 正福寺:都落ちした七卿が三田尻御茶屋(招賢閣)滞在の時に、 護衛の兵の屯所となった 七卿落ち 1863 年 (文久 3 年) 、薩摩藩 ・会津藩 などの 公武合体 派が画策した八月十八日の 政変で失脚した 尊王攘夷 派の 7 人の公家が京都を追放され、長州藩 へと落ち延びた。 公武合体 幕府側にとっては、日米修好通商条約 の調印を巡って分裂した朝廷・幕府関係の修 復を図り、幕府の権威を回復するための対応策として推進された。尊王の立場から 朝廷と幕府の君臣間の名分を正すことで反幕府勢力による批判を回避する一方、既 に慣例化していた 大政委任論 を朝幕間で再確認し、改めて制度化することにより、 幕府権力の再編強化が目指された。この公武合体政策を単なる名目に終わらせず、 具体的にその成果を国内にアピールするため推進されたのが、将軍・徳川家茂 に対 する皇妹・和宮 (和宮は身代わりとの説がある)の降嫁策であった 幕府内では 将軍継嗣問題 を巡る政争が進展していた。松平慶永(越前藩 主) 、島津 斉彬(薩摩藩主)ら有力大名は自藩の政治参加を求めて 一橋慶喜(一橋徳川家当主) の擁立を図る運動を起こし、雄藩協調策を採る阿部ら幕臣もこれを支持した(一橋 派 )。一方、幕府の権威再興を目指す保守派の 井伊直弼 (彦根藩 主)らは徳川慶福 を支持した(南紀派 )。 大老に就任した井伊直弼は 1858 年 (安政 5 年)5 月、紀伊藩 の徳川慶福(徳川家 茂)を将軍後継に決定して将軍継嗣問題を決着させ、一橋派幕臣を失脚させた。 徳川斉昭 (前水戸藩主 攘夷派)らによる陰謀とみた井伊は反対派に対する大弾圧 を行い、即時攘夷を求める天皇を屈服させた(安政の大獄 =吉田松陰が斬首刑)。井 伊の強引な政治は各方面の反感を買うところとなり、1860 年 (安政 7 年)に水戸・ 薩摩浪士により井伊は暗殺される(桜田門外の変 )。 老中首座には 安藤信正 が就任した。安藤らは井伊政権時から検討されてきた孝明天 皇の妹和宮と将軍家茂の結婚を推進し、朝廷との連合(公武合体)をもって権威の 修復を試みた。天皇は侍従 岩倉具視 らの献策を受け、幕府による将来の攘夷に期待 して和宮降嫁を受け入れる(実際の婚儀は 1862 年 (文久 2 年))。しかし、この政 略結婚はかえって尊王攘夷派を刺激し、安藤は水戸浪士に襲われ負傷、程なく失脚 した(坂下門外の変 )。 島津久光 が自ら兵を率いて上洛する。久光は朝廷に幕府への勅使派遣を強硬に要求、 勅使 大原重徳 とともに江戸へ赴き、一橋慶喜を 将軍後見職 に、松平慶永を 政事総 裁職 に就けることに成功した(文久の改革 )。 久光は上洛時に自藩の尊攘急進派を粛清し(寺田屋騒動 )(薩摩藩の過激派の多くが 死ぬ)、急進派との対決姿勢を明確にした。 薩摩藩は 会津藩 らと結託して、実力行使により尊攘派公家・長州藩らを朝廷から一 掃した(八月十八日の政変 )。 朝命により幕府老中・一橋慶喜(将軍後見職)・松平容保(京都守護職 、会津藩主) に加え、松平慶永・山内容堂・伊達宗城 (前 宇和島藩 主) ・島津久光らの参加によ る 参預会議 が成立 蛤御門の変(1864 年 8 月 20 日) 八月十八日の政変 により京都を追放されていた 長州藩 勢力が、会津藩 主・京都守 護職松平容保 らの排除を目指して挙兵し、京都市中において 市街戦 を繰り広げた事 件 久坂玄瑞 もこの敗北で死す。(薩摩+会津藩対長州) 藩主 の 毛利敬親 と子の 毛利定広 は国許へ謹慎 宇和島藩は長州藩のために幕府に 対し恭順謝罪を勧め、長州藩から宇和島藩へ斡旋方依頼の使者として粟屋帯刀と小 田村素太郎(楫取)わすこととなった。 また岩国藩からも栗原純平を遣わすこととな った。その折衝応対は三机の長養寺で行われたのである。(恭順として3家老に切腹) 参預会議 では、一橋慶喜は薩摩藩の排除を狙った。天皇の信任を得た慶喜は蛤御門 の変(同年 7 月)の主力であった会津藩、桑名藩 とともに朝廷の掌握に成功し(一 会桑政権 )、ここにあくまで幕府を中心とした形での「公武合体」が実現した 薩長盟約(1866 年 3 月 7 日 )に 小松帯刀 邸(京都市上京区 )で 坂本龍馬 や 中岡慎太郎 の仲介で締結された、薩摩藩 と 長州藩 の 政治 的、軍事 的 同盟 である。 薩摩も 大久保利通 や 西郷隆盛 らを中心に幕府に対する強硬論が高まり、長州も 高 杉晋作 ・ 山県有朋 ・伊藤俊輔 の奇兵隊が実権を握っていた。 第二次長州征伐 1866 年 6 月 家茂はようやく長州征伐の腰を上げるが、 諸藩の足並みは揃わず、近代兵器の長州(大村益次郎・高杉新作)の前に散々たもので あった。家茂は同年 7 月 20 日に大坂城にて 薨去 した。21 才の若さで・・・毒殺と の説もある。かくして長州征伐も途中退散(事実上は敗北)となった。 慶応 3 年(1867)11 月 25 日、毛利内匠藤内と楫取参謀に率いられた第一陣の長州 軍は、小田港沖から軍艦 7 艦に乗船、倒幕のため東上した。戊辰戦争の始まり(1868 年 - 1869 年) 諸隊騒動 明治初年の長州藩諸隊の反乱事件。長州藩の諸隊は 高杉晋作 が創設した 奇兵隊 を はじめ庶民や他藩の浪士を含む軍隊で,第 2 次 長州征伐 や 戊辰戦争 において幕府 軍を圧倒した。そのため意気さかんであったが,新政府はこれを〈尾大の弊〉とし て整理解散を決意し,1869 年(明治 2)11 月,藩は隊員の一部を常備軍に編成する一 方で大半の隊員に帰郷を命じた。論功行賞 の 不公平 ,庶民出身者の不遇に対する従 来の不満に加えて諸隊の解散は失業を意味し,12 月に山口で諸隊の 過半数 が反乱 をおこした。 野村望東尼 「おもしろきこともなき世に おもしろく」と幕末に生きた長州の奇才、高杉晋作 は詠んだ。この頃すでに結核を患っていた彼の側には、野村望東尼という齢六十を 過ぎた尼僧がいた。彼女は高杉の句に下の句を添える。 「すみなすものは心なりけり」 と。高杉晋作の最後を看取った 勤王の母と慕われる存在 山田顕義 松下村塾 の塾生 日本大学・国学院大学の創始者
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