祝辞が完成するまで 今回の史料は、富山県行政文書の中の大正十二年(一九二三)の 「富岩鉄道起工式祝辞」案文です。道路主事、技師から出された祝 辞案が土木課長、内務部長へ回り、 追加修正された過程がわかります。 例えば「古来藩政ノ中心タル富山市ノ門戸トシテ東岩瀬港ノ発展ヲ 偲フヘキモノ在リシ由ナルモ近来漸ク著レス」の部分は、「在リシ モ北陸線鉄道開通ニアリ近来一時不振ニ陥レリ」と追加訂正され港 の衰退した要因に北陸線開通を書き加えました。そして「先年来着 手ノ神通川改修工事及東岩瀬築港ハ近ク完成シテ其ノ面目ヲ一新ス ヘリ」と県の二事業がまもなく完成すると現状が変わると強調しま す。続けて県の重点施策である発電事業に及んだところで、かなり 修正が入っています。どのように文章が手直しされたのか気になっ ていたところ、最終稿と思われる伊東喜八郎知事の私印が捺された ペン書きの「祝辞」も残っていました。そこには、 「目下工事中ノ 神通川改修工事及び東岩瀬築港ノ近ク完成セントスルニ当リ富山市 ヲ聯繋(れんけい)スル本鉄道敷設ノ挙アルハ真ニ時宜ニ適セルモ ノニシテ事業完成ノ暁ハ地方人文ノ開発、進展ニ寄与スル所強大ナ ルモノアルヘシ」とありました。どうやら祝辞では富岩鉄道開通の 意義を強調することを主眼とし、あえて発電事業には触れなかった ようです。事実、富岩鉄道は、その後、昭和十年に完成する富岩運 河とともに富山市と東岩瀬港を結ぶ二大幹線となります。富岩運河 を開削した土壌で神通川廃川地を埋めたて、市街地が形成され、運 河沿いには工業地帯が形成されるなど都市計画に基づいた県都富山 がつくられていきました。 なお、鉄道の起工式が八月十一日で、この案文作成は前日。やや 文字が乱れていると感じるのは気のせいでしょうか。 −1− 2. 2発行 第56号 2015. 「富岩鉄道起工式祝辞」案文(当館蔵) π૨↷↹ 歴 史の途 中 保雄 、行政文書 六 月 二 十 六 日( 木 ) 実務担当者研修会を開催しました。 講師には、上越市公文書センター 指導主事の岩野学氏をお招きし、 「上越市の文書管理と公文書セン ターの取り組み」と題して、平成 十七年の十四市町村の合併にとも なって生じた公文書管理の問題点 とその後の取り組みについて講義 をしていただきました。 公文書管理の全体的な流れと中 間書庫機能の運用についての説明 十 一 月 二 十 一 日( 金 )、 歴 史 資 料実務担当者研修会を開催しまし のあと、市職員の業務効率化のた めにも目録整備が必要であること、 た。講師には、金沢学院大学文学 部歴史文化学科准教授の中村晋也 文書管理への市職員の意識改善に 氏 を お 招 き し、 「災害と歴史資料 は信頼関係づくりが大切であるこ となど、お話していただきました。 の保存―紙資料を中心に―」と題 して、講義をしていただきました。 能登半島地震や東北地方太平洋 沖地震における活動を事例に、大 規模自然災害時における歴史資料 の保全活動について話をしていた だき、日ごろから周辺地域との連 携・ネットワークづくりが大切で あることを教えていただくととも に、紙資料の水濡れに対する応急 処置と留意点について具体的に説 明をいただきました。 −2− 歡を爲すこと幾何ぞ 古人燭を秉(と)り夜遊ぶ 良に以有る也 況んや陽春の我を召すに 煙景を以てし 大塊の我を假すに文章を 以てするをや 古人が「燭を手に秉ってする夜遊び」を 良とする所以など高尚なことはさておき、 公 文 書 館 と し て は、「 価 値 あ る 文 書( も ん じょ)を時代を生きた証、共通の財産とし て後世に伝え続け、利用に供していく」役 割を「燭を秉る(煌々としたものでなく蛍 の光程度かもしれないが) 」灯台がごとく 末永く引き継いでいかねばならないとの意 を強くしている。 また、同時に時代に即した「富山に相応 しいアーカイブズの姿」も醸成していかね ばならない。貴重な文書を保存するのみな らず、広く閲覧かつ活用してもらうために は、精通したスタッフや恒温恒湿など調っ た施設設備はもとより、近年技術が進歩し、 普及が進みつつある史資料のデジタル化も 視野に入れていかねばならない。 県内でもいち早く取り組んでいるところ を耳にしているが、まもなく開館三十年を 迎えようとしている富山県の公文書館に あっても立ち止まってはいられまい。膨大 な資料を有する現状からして近未来への展 望をどのように整理したらよいか、それに 基づき何十年もかかりそうなデジタル化の 是非、可否に思いを巡らせる…、連綿たる 歴史の途中に生きているのだから、虎子を 得るため、トラの穴に入らねばならない。 「長期的にみ ヘ レ ン・ ケ ラ ー 女 史 曰 く、 れば、危険を避けていくことは、危険に身 をさらすことより安全ではないのです。人 生は冒険するか、空虚に過ごすかの二つに 一つなのです。」と。 中村晋也氏 館長 村井 井井井 禄 を 食 ん で 早 四 十 年、 採 用 の 十 年 ほ ど 前の少年時代に前 回 の 東 京 五 輪 が あ っ た 。 一九六四年、昭和 三 十 九 年 十 月 十 日 は 土 曜 の半ドンで、午後 の 開 会 式 を 自 宅 の 白 黒 テ レビで見たものだ っ た 。 社 会 人 と な っ て 、 その五輪のことを 酒 の 肴 に し た と こ ろ 、 ほ ん の い く つ か 若 い 年 代 か ら、「 東 京 オ リ ン ピックなんて知ら な い 。 体 育 の 日 が 開 会 式 の日に因んだそうだが。」と聞かされると、 同じ時代に生きた 者 同 士 と 思 っ て い た が 、 隔世の感を禁じ得 な か っ た 。 小 学 校 入 学 前 の者には致し方な い こ と だ が 、 ち ょ っ と し た差で「歴史を自分のこと」としたり、「書 物の記述上のもの 」 と な っ た り す る も の だ 。 それから十年経 つ と 、 今 度 は 逆 に 「 東 京 五輪の裏方として 関 わ っ た 」 と 歴 史 の 現 場 にいた先輩職員と 同 じ 職 場 に な っ た 。 体 育 大学生当時のこと だ そ う で 、 前 日 の 土 砂 降 りがうそのように 一 転 、 誂 え た よ う な 快 晴 の下に開会式が迎 え る こ と が で き た と の こ とだった。 人の心に深く刷 り 込 ま れ た 記 憶 は 、 新 鮮 パックされたまま だ ろ う が 、 幼 か っ た り す ると記憶にも残ら ず 、 記 録 に 頼 る し か な い こ と と な る。 現 在 は 縁 あ っ て、「 記 録 に 残 したものを保存し 、 活 用 に 資 す る こ と を 任 務」とする職場に い る … 。 ところで、歴史 講 座 で 「 秉 燭 ( へ い し ょ く)」なる語に初めて触れた。インターネッ トで検索すると「 奥 の 細 道 の 冒 頭 部 分 で 引 用した」という李 白 の 「 春 夜 桃 李 園 に 宴 す るの序」がヒット し た 。 そ の 読 み 下 し は 、 夫れ天地は萬物 の 逆 旅 に し て 光陰は百代の過 客 な り 而して浮生は夢 の 若 し 岩野 学氏 資料整理室より ており、林新がありません。大正 元 年( 一 九 一 二 ) 、北代村の小字 であった北代八町が大字の八町と 絵図がありました。年代などの詳 の中に「長岡村地図」と題された 平成二十六年七月に、富山市の 北野氏から御寄贈いただいた資料 う自治体は存在しません。平成の れ ま す が、 現 在、 「長岡村」とい ような絵図が残されたのだと思わ 野昌太郎氏です。その関係でこの 一九四五)長岡村村長を務めた北 が付いたのだと思われます。長岡 の で( 「内山家文書」 ) 、八町の名 いる八町村からの懸作が多かった ものと言えます。北代は隣接して 史』 ) 。絵図はこれ以降に作られた 入 れ 替 わ り ま し た(『 長 岡 の 郷 土 ∼ 北 野 家 文 書か ら ∼ 細は書かれていませんでしたが、 大合併後の今、県内に村と付くの 村となったのは、長岡は元々当地 消 え た 村 長岡という字は当館の近くでもあ は舟橋村のみです。しかし、かつ 一帯の集落を総称した名でしたが、 なり、林新村が針原の小字となり り、少し調べてみました。 て県内の市町村は二市五郡三一町 また、絵図には御廟に接し、墓 地と陸軍墓地が記されています。 この絵図に書かれた字名で今も残 昭和二十九年(一九五四)に長 岡村は呉羽町と合併し、旧役場は 大正時代から富山市により市営墓 富山藩主歴代が眠る長岡御廟や長 二十二年の四月から実施さ 長岡支所となり、長岡村はなくな 地が造成され、現在の長岡霊園に 二三八村を数えた時代がありま れました。この時に、北代 りました。さらに同四十年、その 至っています。陸軍墓地とは明治 北野家の先々代は、明治三十六 年( 一 九 〇 三 ) よ り 長 岡 村 役 場 村・北代新村・舟橋新村・ 呉羽町も富山市と合併しますが、 四十年から置かれた富山の歩兵第 るのは北代と北代新のみとなって 針原村・針原新村・林新村 その際に針原は八ケ山に、八町は 六九連隊の軍人のために設けられ 岡八景など有名な歌にも名が残る の六大字が合併して長岡村 長岡に、舟橋新は長岡新に字名が た墓地でした(『同上』 )。現在は、 した。明治二十一年(一八八八) 、 が誕生しました。この一帯 改められました。八ケ山ですが、 昭和十八年に県によって建てられ に 書 記 と し て 就 任 し、 昭 和 十 六 は江戸時代、富山町人の町 村落の名ではなく、呉羽丘陵の針 た忠霊塔が残っています。 しまいました。 出作が多く(高瀬保著『加 原の内にある北端の山の名で、そ ことから取ったとのことです。 賀藩流通史の研究』 ) 、舟橋 こから付いたようです。今は廃線 地名が消えてしまうと、その土 地の記憶も失われてしまいます。 これまでの大区小区制に変わり、 新村とは舟橋町村の飛地で となった富山地方鉄道射水線の駅 この絵図は一つの地区の変遷の記 年 か ら 二 十 年 ま で( 一 九 四 一 ~ した。しかし、絵図には針 名でもありましたが、八ケ山公園 市 町 村 制 が 公 布 さ れ、 翌 原 新・ 針 原・ 八 町・ 北 代 は花見の人で賑わいました。故に、 憶を呼び覚ましてくれました。 −3− 「長岡村地図」 部分 新・北代・舟橋新と書かれ 「長岡村地図」 π૨↷↹ 平成26年度企画展 平成26年度企画展 」 「とやまの 当館では9月26日(金)から11月3日(月)にわたり、企画展を開催しました。平成27年3月14日 の北陸新幹線開業をひかえ、今年度は、富山県の発展と密接に関わる鉄道に焦点をあて、北陸線の開 通や県内の地域鉄道の建設に関わった先人たちの努力の歴史を紹介しました。 敷 設 免 許 状 下 付 ノ 件 」( 複 製 ) や 南砺市立中央図書館所蔵の「中越 鉄道株式会社創立略記草按」など で、鉄道の創設期について紹介し ました。 また、 伏木の実業家であっ た藤井能三の「中越鉄道株式会社 開通式祝辞」 (高岡市立伏木図書 館蔵)には、シベリア鉄道を経由 したヨーロッパ地域との交易につ いても触れられています。 富直鉄道建設にあわせて大正二 年に開通した立山軽便鉄道に関す る 宮 路 金 山 家 文 書 の う ち、 「各駅 旅客・貨物発着及通過図表」は、 大正十一年度の旅客・貨物の出入 りの様子が一目で分かる史料です。 大正十三年に開通した富岩鉄道 については、昭和三年 (一九二八) に作成された「富山都市計画事業 計画平面図」と、後年に作成され た「富山都市計画事業平面図」の 二つの資料を比べ、富岩鉄道およ び富岩運河 の整備とと もに工業地 域が発展し た様子を示 しました。 また他に も飛越線 (のちの高 山本線)の 開通によっ て、昭和八 年に解散す −4− 今回の展示では、北陸線や県内 の地域鉄道の歴史について、当館 所蔵の史資料を中心に、以下の四 コーナーで構成し紹介しました。 業会議所の連名で提出された国立 公文書館所蔵「富直鉄道急設ノ儀 ニ付建議ノ件」 ( 複 製 ) は、 日 露 開戦による日本海航路の閉塞、物 資輸送の困難への対応として、富 直鉄道の急設を訴えており、注目 を集めました。 また、当時の浜田恒之助知事の 要請で富山商業会議所などから答 申された『富直鉄道開通ガ本県産 業ニ及ボスベキ影響ニ関スル意見 書』には、富直鉄道開通後におけ る経済対策が記されています。 ニ 地域鉄道の整備 明治中期から大正期に建設され、 富山県の経済の発展を支えた各地 域鉄道について、史料やパネルで 紹介しました。 まず、県内最初に建設された中 越鉄道については国立公文書館所 蔵「中越鉄道株式会社設立並鉄道 展示風景 一 北陸線の開通と富山の交通 富山県内で最初に開通した中越 鉄道建設の前提となった、北陸線 の建設にいたる経緯について、ま とめました。 最初に、官設北陸線の建設以前 に民間で計画された、東北鉄道会 社や北陸鉄道会社に関する史料を 紹介しました。 明治十四年 (一八八一) 具体的には、 に計 画 された 東 北 鉄 道 会 社の「 鉄 道 会 社 創立 願 」や、明 治二十一年に 島田孝之らにより出願された北陸 鉄 道 会 社に対して、国 重 正 文ら 北 陸三県知事が黒田清隆総理大臣あ てに出した 副 申( 国 立 公 文 書 館 所 蔵資料複製) などを展示しました。 つづいて明治二十六年から建設 が開始された官設北陸線について、 明治三十二年の富山までの開通と、 大正二年(一九一三)の直江津ま での開通の二つに分けて展示しま した。富山駅は最初、神通川左岸 の田刈屋に仮設置されましたが、 その当時の状況が分かる『富山案 内記』や「富山市区域拡張予測図」 (『富山市経営策』 )を展示しまし た。富直鉄道(富山―直江津間) 建設の請願に関しては、特に明治 三十年に福井・高岡など五つの商 開会式 る富山鉄道について、前年の昭和 七年に沿線住民が鉄道の国有化を 陳情した資料(当館蔵)を示すこ とで、鉄道が住民の生活にいかに 大きな影響を与えていたかを紹介 しました。 道建設から触れて、それから北陸 プスを貫通するアルプストンネル 線の建設と中越鉄道について説明 がルートとして示されています。 されました。特に中越鉄道につい 最後に北陸新幹線の開業ととも ては、大矢四郎兵衛との関わりや に北陸線が移管される第三セク 経営状況と株主の推移について詳 ター「あいの風とやま鉄道」につ しく話をされました。 いての『富山県並行在来線経営計 画概要(最終)』を展示しました。 つづいて、富直線(北陸線富山 ―直江津間)建設の進行と明治 企画展期間中、来館者の中には、 四十三年(一九一〇)公布の軽便 廃線となった路線も含め生活に密 鉄道法によって鉄道建設の規制緩 着した地域鉄道への想いを語られ 和が行われたことをうけて、浜田 る方が多く、関心の高さをうかが 恒之助知事が軽便鉄道の助成策を うことができました。 うちたて、地域鉄道建設の促進に よって県内の産業振興をめざした ことを紹介されました。 最後に、佐伯宗義が創設した富 山電気鉄道によって県内の鉄道の 統合が進められるとともに、昭和 十三年公布の「陸上交通事業調整 法」によって交通統合が行われ、 富山地方鉄道が成立した過程につ いて解説されました。 県内の鉄道の歴史についてよく 理解できたと、参加者の皆様から 大変好評でした。 企画展講演会 、地域交通史研 十 月 七 日( 火 ) 究家の草卓人氏をお招きして、「近 代富山と鉄道の歴史―その成立と 変遷をめぐって―」と題して講演 をしていただきました。 今回の講演では、企画展の展示 にあわせ、県内の鉄道整備につい て年代順に解説されました。 まず、明治初期の政府による鉄 『富山県公文書館文書目録 歴史文書二十九』発行 平成二十六年十一月に目録の 二十九集を刊行しました。 当 目 録 に は、 南 砺 市 の 羽 馬 美 代子氏より寄託された羽馬家 文 書 を 収 録 し ま し た。 総 史 料 点 数 は 二 二 七 三 点、 総 目 録 件 数 は 二八八四点となりました。 羽馬家は近世五箇山の小瀬村 (現、南砺市小瀬)の肝煎を代々 勤めた家柄です。当家の過去帳や 当史料全体から、おおよその当家 の系譜が明らかになりました。 それによると、九代助左衛門が 塩硝惣代を務めていたことから、 主に近世後期の膨大な塩硝関係史 料が残されており、当文書の最大 の特色をなしています。 その他、銀納年貢、鷹巣見、紙・ 糸の産物、判方関係など五箇山な らではの村方史料が豊富にあり、 往来物なども多数残されています。 また近代以降も当家は村役人の 任にあり、職務に関わる冊子や留 帳類から村の行財政、地租改正、 産業育成の実態などが窺われます。 このように当文書は、奥地五箇 山の小さな村で、近世から近代に いたる時代の中でどのような営み が行なわれていたのかを窺い知る ことができる貴重な史料群です。 (定価一、六〇〇円) −5− 三 交通統合と 交通手段の多様化 大正末期、富山市と上市町大岩 を結ぶ大岩鉄道が計画されました。 この鉄道計画を母体に、佐伯宗義 は富山電気鉄道株式会社を創立し ました。大岩鉄道の当初の建設計 画を変更申請した「大岩鉄道株式 会 社 設 立 趣 意 書 」( 富 山 市 教 育 委 員会所蔵)や富山電気鉄道が開通 したことへのお礼も込めた枡田家 文書「電車開通に付き案内状」な どを展示しました。 また、富山県立図書館所蔵「富 山縣勢と交通系略」には、実現し なかった岩瀬港―滑川間や富山― 津沢間の路線など、昭和十六年当 時の富山電気鉄道株式会社による 計画路線が記されています。 山の鉄道 の 再 生 と 未 来 四 富 富山ライトレールをはじめとす る近年の県内地域鉄道の再生と、 北陸新幹線の整備について紹介し ました。 北 陸 新 幹 線 に つ い て は、 昭 和 四十二年に出された建設趣意書を 展示しました。その中に、北アル 草卓人 氏 展示説明会 π૨↷↹ ︵入門・初級コース︶ 平成二十六年度 県政バス教室 とやま歴史探訪 −6− 古文書教室 本である『桂本万葉集』 (複製)や、 今年度は、県西部を中心に、ふ るさと富山県の歴史・文化や伝統 大伴家持自著のある太政官符(国 について理解を深めていただく施 指定重要文化財複製)などを目の 設を見学するコースを企画したと 当たりにし、越中万葉の世界を体 ころ、十九名が参加されました。 感できました。 、富山駅北口を 十 月 九 日( 木 ) 午後は、となみ散居村ミュージ 出発し、富山県公文書館、高岡市 アムを訪れました。民具館での施 万葉歴史館、となみ散居村ミュー 設 の 解 説、 「散居村―カイニョの ジアムを巡りました。 ある暮らし―」のビデオを鑑賞後、 様々な農具・民具の展示を見学し ました。また、伝統館、交流館、 情報館を自由に散策しました。屋 敷森に囲まれた風情ある空間の中、 砺波の散居景観や伝統文化の魅力 に触れることができました。 今回の見学を通して、あらため て県の歴史や伝統文化を振り返る 当館で開催中の企画展 「と ことができ、大変有意義な一日と まず、 やまの鉄道物語」を見学しました。 なりました。 北陸新幹線開通を見据え、富山県 の発展に深く関わってきた県内鉄 道事業の変遷、鉄道建設に携わっ た先人たちの努力の足跡など、富 山県の鉄道の歴史について学んで いただきました。 その後、高岡市万葉歴史館では、 万葉風の衣装を着た職員の方か ら、施設案内・展示解説をしてい た だ き ま し た。 『万葉集』最古写 高岡市万葉歴史館 初級コース 安カ川恵子氏 の村のお宮さん~加賀藩政下の神 社書上を読む~」と題して、講義 をしていただきました。 川合文書(富山大学附属図書館 蔵)をテキストとして、旧砺波郡 各地の地名や神社の名称を読み 取っていきました。 受講生の方々は、最初は少し苦 労されていましたが、何度も出て くる神社名に次第に慣れるととも に、 安 カ 川 先 生 の 丁 寧 な 説 明 に よって、意欲的に解読に取り組ん で お ら れ ま し た。 「住んでいる地 名と神社とのつながりなどが分か り面白かった」、「古文書の中に昔 の暮らしを感じることができた」 などの感想が寄せられました。 当館の見学風景 平成二十六年度 今 年 度 も 例 年 と 同 様 に、 入 門 コースを八月下旬から、初級コー スを十月中旬から、それぞれ計四 回にわたって開催しました。 入門コースの講師は、当館職員 の原田真由美、寺崎美希子、栄夏 代、中条充子が担当しました。古 文書の基礎知識から始めて、寺子 屋の手習い教本や知行宛行状、富 山藩農政に関する文書などを題材 として、古文書特有の字体や慣用 表現に慣れていただくように工夫 しました。 初級コースは、一昨年、昨年に 引き続き、砺波市立砺波郷土資料 館主任学芸員の安カ川恵子先生に 講師をお願いし、今年は「私たち 入門コース 第四十回全国歴史資料保存利用 機関連絡協議会福岡大会は、「アー カイブズ資料の広範な公開を目ざ し て 」 を テ ー マ に、 十 一 月 十 三 日 ( 木 )・ 十 四 日( 金 ) に 福 岡 県 で 開 催 さ れ、 当 館 か ら 二 名 が 参 加 し ました。 一日目は、 午前に福岡 共同公文書 館および福 岡市総合図 書館での視 察、午後は 九州大学箱 崎キャンパ ス旧工学部 本館におい て「 ア ー カ イ ブ ズ 入 門 」「 地 域 史 料・ 古 文 書 の 取 り 扱 い に つ い て 」 「 市 町 村 合 併 文 書 の 整 理・ 保 存 」 「防災対策と民間資料の所在調査」 の四つの研修会がありました。 「地域史料・古文書の取り扱い」 で は、 柳 川 古 文 書 館 学 芸 員・ 市 史 編 さ ん 係 長 の 江 島 香 氏 か ら、 自 治 体史編さん事務局としての立場か ら の 地 域 史 料 の 取 り 扱 い や、 地 域 全史料協大会 における史料保存施設の在り方に ついて提言がありました。 総会では、昨年度までの検討を ふまえ、組織業務改善計画(平成 二十七年度版)が提案されました。 今後の全史料協の組織・運営や活 動などについての具体的方針が示 されました。 二日目の調査・研究委員会報告 で は、「 公 文 書 機 能 の 普 及 を い か に進めるか―取り組みの成果と課 題―」と題して、公文書館機能の 自己点検指標の策定、各地での公 文書機能普及セミナーの開催およ び公文書機能普及のための手引き 作成の取り組みについて報告があ りました。また、自由論題研究会 で は、「 福 岡 共 同 公 文 書 館 の 設 置 と 活 動 の 現 状 」「 九 州 大 学 に お け る大学アーカイブズの歴史・現状・ 課題」と題して二つの発表があり ました。 全体会では「東寺百合文書のデ ジタル化とweb公開」 「デジタ ル・ ア ー カ イ ブ ズ に よ る 琉 球 政 府 文書の公開と普及をめざして」の 二つの報告があり、活発な質疑・ 討論が行われました。 来 年 度の第四十一回 全 国 大 会は、 十一月十二日(木)・十三(金)日 に 、秋 田 県 大 仙 市において開 催 さ れる予定です。 地 区 富 山 地 区 高 岡 地 区 砺 波 地 区 −7− 平成二十六年度 古文書調査員会議 競売に出ていたとの報告には、参 加者一同愕然とし、散逸防止対策 が急務であると痛感しました。 第二回会議は平成二十七年一月 十五日(木)に開かれ、当館から 寄贈情報や実態調査結果を報告し ました。続いて各地区の報告を受 け、特に砺波の佐藤助九郎家旧蔵 文書に関して有効に保存活用され るための方途について話題となり ました。議論が白熱する中で予定 時間をこえて閉会となりました。 当会議では、このように情報交 換をふまえて、古文書を後世へ引 き継ぐ方策を協議しています。 新 川 浦田 正吉 清原 為芳 永井 宗聖 兼子 心 貴堂 巌 平井 一雄 島崎 毅 鈴木 瑞麿 仁ヶ竹亮介 朝日 淳 尾田 武雄 牧野 潤 調査員名簿(敬称略・50 音順) 当館では、古文書に造詣が深い 先 生 方 に 古 文 書 調 査 員 を 依 頼 し、 古文書に関する情報収集をしてい ただいています。 今年度から新しく浦田正吉先生、 貴堂巌先生、兼子心先生、島崎毅 先生をお迎えして、下記の先生方 とともに古文書調査員として活動 していただくこととなりました。 第一回古文書調査員会議は平成 二十六年七月十七日(木)に当館 にて開かれ、当館による古文書実 態 調 査 計 画 が 説 明 さ れ ま し た。 次 に 各 先 生 方 か ら の 報 告 に 移 り、 専 勝寺村文書がインターネット上の 第1回古文書調査員会議 π૨↷↹ いう藩もあり、禄高・家格によっ て異なっていました。一方、大藩 レファレンス・コーナー は、下屋敷を複数所有する場合も ありました。 ま た、 屋 敷 の 広 さ の 基 準 は、 十万石以上が七千坪以上、五万石 江戸時代の加賀藩の 上屋敷・下屋敷は、現 以上が五千坪以上、一万石以上が 在のどこにあったのか、 二千五百坪以上でした。 また、なぜ屋敷に上・下という呼 天 明 期( 一 七 八 一 ~ 八 九 ) に び方をするのか教えて欲しい。 は、 江 戸 府 内 に 大 名 の 上 屋 敷 は 二 六 五 ヶ 所、 中・ 下 屋 敷 が 四六六ヶ所あり、将軍直参の旗本 屋敷等を含めれば、江戸府内の武 家地は、全体の七割近くに及んで いたといわれています。 加賀藩邸数が四つであったこと は、むしろ少ない部類に入ります。 しかし、下屋敷(平尾邸)は、諸 藩江戸屋敷の中でも最大規模を 誇っていました。この屋敷は、藩 主やその家族の保養の場であり、 他大名らを招いての遊興のための 場でもありました。広大な敷地に は、石神井川が流れ、築山・石滝 などを配した見事な庭園がありま した。現在は、加賀公園(東京都 板橋区)の築山に、その名残をみ ることができます。 ちなみに、富山藩邸・大聖寺藩 邸は、いずれも加賀藩上屋敷(本 郷邸)の東(右)隣りにありました。 ・富山藩上屋敷(本郷邸) 一万一〇八八坪 まず加賀前田家の江 戸藩邸は、実際には次 のように全部で四つあ りました。 ・加賀藩上屋敷(本郷邸) 現・東京大学本郷キャンパス 八万八四八二坪 ・加賀藩中屋敷(駒込邸) 現・文京区駒込 二万六六〇坪 ・加賀藩下屋敷(平尾邸) 現・板橋区加賀 二一万七九三五坪 ・加賀藩蔵屋敷(深川) 二六六八坪 上・中・下の呼び名の区別は、 江戸城からの距離を指し、江戸城 から一番近いところにある屋敷が、 上屋敷と呼ばれました。ちなみに、 全ての藩が上・中・下屋敷を所有 していたわけではなく、藩の規模 により一つだけ、あるいは二つと ・大聖寺藩上屋敷(本郷邸) 五七六二坪 実は、加賀藩の支藩である富山 藩・大聖寺藩は、幕府から屋敷地 の拝領を受けていません。両藩の 屋敷地は加賀藩からの借地であり、 寛永十六(一六三九)年に、加賀 藩から両藩が分知された関係が、 屋敷地においても幕末まで続いて いたのです。 お知らせ 当館閲覧室に、公文書館だ より、特別企画展解説パンフ レットのバックナンバー閲覧 コーナーを設けております。 どうぞご利用下さい。 五十六 七 二 二 −8− 「江戸御上屋敷図」 (安政6年写図) (富山県立図書館蔵)
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