続・地区事業でつながる3(PDF文書)

 笹原には、蔵が 棟あり、
すぐな道を造らせたことから
になります。そのうち鏝絵が
一軒に一蔵所有していること
なるよう﹁棒﹂のように真っ
今も踊り継がれている各区で
その名が付いたと言われてい
所で行われていたようですが、
は地域住民の結びつきを深め
ようせん
堰﹂は坂本養川が計画した
せぎ
集落の中を流れる﹁大河原
おお が わら
描かれているものが 棟もあ
また内容は、公民館分館を
ります。北山地区の柏原、湯
に供える神事のための鹿狩り
みられます。蔵と言えば茅野
笹原では、蔵と鏝絵が多く
うな田園風景が造られました。
麓の水田化が進み、現代のよ
これらの堰により、八ヶ岳山
政4年
︵1792年︶
に完成。
本余りの繰越堰の一つで、寛
絵柄は様々で、庶民の祈りや
りを表したものがあります。
官が蔵の完成により感謝と誇
が左官に依頼したものと、左
て表現したもので、蔵の施主
て漆喰を浮き彫りにし彩色し
鏝絵とは、左官が鏝を用い
鏝絵が多く見られます。
定したと言われています。
龍と化して、その魚を鯉に想
魚の中で滝を登り切った魚が
を登ろうとした魚で、多くの
登り鯉は、黄河の龍門の滝
うになりました。
神となり食堂に安置されるよ
川、芹ケ沢、糸萱でも板倉や
の各世代みんなが楽しめるよ
場、今は鹿狩神社が残ってい
市では、寒天蔵が有名で、内
願いが込められています。絵
龍の絵柄は、昔その地域に
くりこしせぎ
うに創意工夫しながら盆踊り
ます。
部を改装して多目的に運用し
柄は数種類あり、その意味は、
るなどの革新を起こし、区民
うに新しいダンスを組み入れ
高め、踊り自体を楽しめるよ
プして区民へのおもてなしを
を行事の中心に据えて、夏の
各家庭の庭先には、自然石
ています。
だいこく
さ かん
しっくい
イベントを行っていました。
を据えた庭園、湧水を引き込
江戸時代後期には、防火を
神
大黒 五
⇒穀豊穣はの
んじょう
え び す
せ しゅ
盆踊りと聞けば古めかしい
んだ池、また滝の水音が聞こ
目的とした土蔵が盛んに建て
笹原では、大黒・恵比寿が
鶴と亀 千
⇒年万年不老長寿
の神
虎
た丈夫なものです。
描かれている鏝絵彫刻も、ま
府が奨励しました。漆喰壁に
まっていきました。漆喰壁は、
なり、その壁を塗る技法が広
で、空間を壁で仕切るように
鏝絵の起源は紀元前二世紀
ます。
大火があった事を意味してい
りゅうもん
イメージがあり、それ自体だ
え、心が休まります。
られました。これは板倉に土
りゅう
繁盛の神
恵比寿 商
⇒し売
ごい
ゅっしょうきがん
登り鯉 出
⇒生祈あ願
くりょうよけ
・悪霊除
龍 水
⇒まのも神
のよけ
ゆめみかねもうけ
たか
鷹
こう が
けでは公民館事業として難し
集落を貫く湯みち街道は、
壁を付ける方法です。八ヶ岳
ゆうすい
いのですが、盆踊りを夏まつ
天狗岳登山口・渋温泉まで続
山麓では、板倉であっても土
多く見られます。この二つは
以上のような背景を思い起
とら
よく似ていますが、大きな違
こしながら、蔵や鏝絵の探索
江戸時代に防火対策として幕
いは大黒が小槌を持ち、恵比
をしてみると興味深さが広が
こ づち
寿は釣竿を持っています。
るのではないかと思います。
つりざお
元々大黒は、護法の神・戦
鏝絵などを掲載したガイド
ご ほう
闘の神でしたが、後に飲食の
魔
夢見金儲
⇒物除・鷹えの
きびょうよけ
魔
⇒物除・疫病除
ふろうちょうじゅ
たい か
り等の中に組み入れることで
き、途中の道沿いに﹁ため池
蔵と呼ばれています。
み しゃ か いけ
ごこくほうじょう
相乗効果により地域住民の親
百選﹂の﹁御射鹿池﹂があり
ひがしやまかいい
る方々でにぎわっています。
ここは、区民で草刈り・伐採
等を行い管理しています。
いたくら
睦と絆をより深くする魅力あ
東山魁夷の名画﹁緑響く﹂の
湖東地区
こて え
笹原の﹁蔵・鏝絵﹂
いう道路があります。
﹁棒道﹂
ぼうみち
笹原は、標高1100mに
とは、戦国時代に武田信玄が
区内の道路には、
﹁棒道﹂
と
あり、かつては御鹿山で高島
川中島合戦の時、最短距離に
お しかやま
藩の殿様が鹿の頭を諏訪大社
▲静かにたたずむ御射鹿池
てん ぐ だけ
る事業のアイテムになると思
▲戦時中は爆撃除けで赤土を塗られた
モデルと言われていて、訪れ
中心に様々な団体とタイアッ
40
えてなりません。
15
けています。
ます。
96
る目的として盆踊りを位置付
しか が
▲鹿狩神社