Viajeros El alimento mágito, el pulque 和訳 文科 3 類 7 組 片渕陽平 中南米におけるプルケは地中海の人々にとってのワインのようなものである。プルケはメシーカ 族の人々やその地域の他の民族にとって儀礼的な飲み物であった。チョルーラのピラミッドには、 この飲み物の消費を際立たせるマヤ族の象形文字や壁画が、メキシコにスペイン人達が到達する 遥か以前に存在したのである。プルケは例えば結婚式で振舞われたり、敗れて生贄に捧げられよ うとしていた兵士に与えられたりといったように、重要な宗教的儀礼に用いられた。この飲み物はそ の土着の文化にあまりにも深く根ざしていたため、植民地当局が 300 年にわたり消費を排斥しよう とした努力も実を結ばなかった。同様にスペインから独立後の社会でも、プルケの価値を貶め、ビ ールやワイン等の他の醸造酒と置き換えようとする長年の努力も上手くはいかなかった。ヨーロッパ の文化が押しつけられていたため、ヨーロッパ産のそれらの飲み物は高く評価され、またこれらの 飲み物の持つ美徳や、それらを消費したり振る舞うことの持つ趣味の良さを称揚するマスメディア という味方がいたのだ。 マスメディアによる絶え間ない宣伝爆撃にも関わらず、田舎や都会の多様な共同体の中で、プ ルケを消費するという先祖代々の習慣を排除することは果たせなかった。 しかしながら今日のメキシコにおいて、プルケの消費の顕著な減退が起こったのは認識されね ばならない。19 世紀、プルケは金持も貧民も、老いも若きも多くのメキシコ人が贔屓にしていた飲 み物であり、国の家庭の大部分の食卓に見出すことができた。 20 世紀初頭以来、プルケ居酒屋に出くわすのは当たり前のことであった。プルケ居酒屋の正面 は壁画で飾られていることが多く、中に入ると殆ど全ての居酒屋は床がおが屑で覆われているか、 土を固めたものであった。というのも、プルケで酔っぱらう人の儀式の 1 つが、母なる大地の渇きも 癒すように、プルケをほんの少し床に撒くことであったからだ。 プルケはアガーベを原料とする。アガーベはメキシコとその歴史に密接に結びついている。スペ イン人が到着する遥か以前、水や食糧が不足した時期、アガーベとの共生のおかげでメキシコ高 原地帯の諸文化は生き長らえることができた。アガーベからは他にも様々な産物が得られた。そ の中には例えば繊維や紙、薬が見られ、儀礼や供儀の際には欠かせないものであり、しかも貴族 や神官のみに与えられた発酵させた飲み物にも使われたのであった。紀元後 700~900 年の間頃 には、アガーベはすでに繊維を取ったり、食べ物として利用されていた。アガーベをお酒として利 用するのは 990 年から 1042 年の間に発見されたが、これはナウア族の人々にとって重大な歴史 的出来事だった。 アガーベの蜜を得るための最初の耕作は紀元後 1224 年頃に発展したが、この液体は後の 1239 年頃、プルケを作るために醸造された。アガーベの集約的な利用はアステカ社会の最盛期 において、その最大の勢いを獲得するに至った。その文化は研究者によってはマゲイの文化とし て知られている。 Viajeros El alimento mágito, el pulque 和訳 この植物は極めて重要だったので、メキシコの絵文書において女神・マヨネルというイメージの下 に、アステカ人は神格化するに至った。アガーベはメキシコ各地に広まり、その栽培とともに蜜やプ ルケを得るための種、繊維を得るための種、食用の種に改良された。 プルケを作るためのマゲイの生産段階は「剪定」に始まる。言い換えれば、その植物の真ん中に ある最も柔らかいまとまりが切られたときに始まるのだ。そうすると 4 ヶ月後にはマゲイはアガーベ の蜜の最初の数リットルが絞り出されるのだ。アガーベの蜜の生産期間は一般的に 3 ヶ月から 4 ヶ 月であり、平均しておよそ 300 リットルを生産する。それを収穫するためにはアココテが用いられる のだが、それはヒョウタンを引き延ばしたもので、ピペットを巨大にしたものである。 アガーベの蜜は直接消費されることもある。9%のショ糖成分(サッカリン)を含む美味しい飲み物 だからだ。その液体は生のままでも煮ても飲むことができる。生で飲む(←消費する)場合は、サポ ニンという物質が口の周りの皮膚に付くと、炎症を引き起こし、肌を痛める危険性がある。 メシーカ族の人々はアストラン、すなわち鷺の住む伝説の地からテノチティトランを建立すること になる地を探す巡礼の過程で、この甘い汁を醸造することを学んだ。そしてこの甘い汁に呪術的 な性格を見出した。様々な絵文書に描かれた証拠から判断して、オトリクと呼ばれたこの飲み物は 高い重要性を持っていた。 スペイン人の到来とともに、この白いワインはオトリクという名前とともにその地位を失った。そし てプルケという名前が付けられ、貧しい人々の飲み物に成り果ててしまった。貧しい人々は今日ま で、プルケへの愛着を守り続けてきたのだった。
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