“}−Pouch”の起源一忘れ得ぬ言の葉の数々

発刊に寄せ て
“
}
− Pouch”の起源一忘れ得ぬ言の葉の数々
r~w 1 :< 利}( 'j': 才. ~H:土綬
本書の出版を企 1
1
1
jされた佐々木
巌先生に敬立を
[
:
の1
1I
J
l
f
iに一文を寄せる栄持を感
表するとともに,本, I
、
宇都宮譲ー
:
'
/
P
OB
i
o
m
a
r
k
e
rC
an
c
e
rP
r
ee
n
t
i
o
nF
r
o
n
t
i
e
r(
B
CP
r
)J
1
j
!・
J
f1
毛
「そのメモは研究所の所有だJ
筆者は 1
9
5
9
1
J
三本.氷川九の最終航路で、波 /
Kし. NY
よィ号案の )
!
f
.Iと1
'
1
0
B
任中年に関しては過去に発
謝します。;
相J
l
r
打Sl
o
anK
e
t
t
e
ri
ngCancerInsUこ伺学した。当初J
は一
表した論文ト引が あ り ま す が もう少し個人的な経験
−えられて 準備に入 った。 まだ.会
部屋と助手一 人を' j
について回廊i
しました。
話が不便でメモ川紙をイ史 ってボスと連絡をとること
「
下athero
fmode
r
nr
e
s
t
o
r
a
t
i
v
ep
r
o
c
t
o
c
o
l
e
c
t
o
m
y”
と
り|
究所で
彼が.厳しく私を戒めたときの一 吉である 。{
して一文を, 1[=いて欲しい・ 」
己述はすべてフ ァイルして残せという 。そのころ 県
のJ
1
. それが床に落ちているのをよよた
が多かった。ある 1
これは一昨年の こと.ポーランドの Poznan大学か
大学の留学生が'
!
'
I分で竹!£した写真Cを持って 1
1
i
}J
iJ
し
'
I
,'版予定の大腸外科の本の fj
:であ
ら来たメールで. ,
ようとして.ク:t
;
l
巷
で
'
・,
'
!
'
,
がL
f
・
>1
1
・
.
W
i
・
置を受けた事件があ っ
9
8
9
{
1
ミ凶.
る。著者は 1
,
!
; 本を l
j
l
J
き
た。 これで研究析として.デー タの扱いの )
k
r
r
rの兵庫医大第二外科に f
l
!
:
’
{
してJP
ouch、
でi
論文を −
,
I
[
:
いた P
r
o
f
.Pi
o
t
o
rKrokowicz
こまれたように思 った。その芯;義は故後に述べる 。
の弟子である 。D
r
.Krokowiczの父は外科助教J
受で近
l
]
a
nMikuli
c
zRadecki
教授 υの系列であっ
代外科の:/'l
「観察かう始まる生物学はすべての科学の母,外 科 医
i
k
u
l
i
c
zはJ
1
J十
j
;
凶I
:
.i
j
'
j,
:
1
:法等.当時の先端科学を
た。M
は最も有利な席にいる」
J
Iし
'
" '際 的 に も 活 躍 し 我 がl
"
'
積極的に外科臨床に!ふ J
時代は Watson / Crick による核酸の 二 .ili: ~~'f\1Jf[構造発
では.九大第 一 外干:|創設 {J'=三 '1:.::i主教授と 1 900 1-1~ 、'I H
.
寺
見の 1
9
5
4年か ら川もない凶で.研究室のボス辿伝学行
親交があったことはイf
?
'
1である 。筆者の思削.東|
定的
G
e
o
r
g
eWoollyt~i I
:から )
'ーえられた研究テーマは. NM
主
此
申l
I~;lljc_ (
在任: 1
9
5
4∼ 1
9
7
5)も
大二外初代教授浜 II
Eで、あ った。 1
I
J連施設の R
o
c
k
e
f
e
ll
er
般による発州の実;I
Mikuli
cz を~,)'にな識して }, •+ られた 。 1i~ 1~1 h;~ f
山
1は
“O
ri
gi
no
ft
he]
P
o
u
c
h..としたが,それを作成するに
i
f達に 1
1
'
T1
去に
i
n
s
t
i
tut
e等で席!と的な州ウイルス側究・
教えを受ける機会科た。 し か し 研 究 計 阿 が 進 ま な い
l
i
j人的
あたり古い資料を集めた|伐特に印象に残 った i
1
l
.
' 一 人の老付|
究・
1
1の教えが
ことに悩みを涼めていた 1
な語録を集めてみた。
b'頭の言葉で.これで断みとどまることができて. h
1
l
問後に臨床研究の七条とな った。
「論文は紙背を読めJ
筆者が外科に入川した 1955年当 1 1~.
ドイツ医学が頼
りで.最高の文t
I
次l
'
i
H
l
xとしては内科は Bergman,外科
「C
e
c
i
lを三回読め」
1
9
6
0年は, ECFMG外
'
"'
央大卒業在試験を米 j1
q1
,
1で
i
r
s
h
n
e
r,診断は Kl
emper
e
r
. 子中f
.
jはB
i
e
r
B
r
a
u
n
はK
1
<に
受けられる最終年であ った。 これに落ちると「 11
Kummellがネタイミであ った。それらを基にして準備し
:
r
J
i
帰って受験しなければならないから.膨大な数の |
災r
J
1
1
1
J
J
坊
た教授回診で\ 一人の慢性便秘症患者の X線像で'・
の受験者が発生した。|
| 本人の先輩から伴た介料の経
末端が上行結腸に按して川\
11
する状態を" LaneのI
l
e
a!
l
/
J
刊|乍:
験則が胃頭の語で、ある 。りき lOcm位ある Ceci
Kink ',と診断したところ.原典 5• を読んで無かっため
と絡闘して試験に臨んだ。 それはマデイソンスエア
に.存在を無視され' j
'
.
i
fくらい文献探しで苦労したこ
ガーデンで行われ.受 験 ・
I
{ は在l
J平
等J
;'{:を埋め尽 くした 。
とがある (
当時
, j
i
役
所J
の;
文献は.東大の地ド倉 J
r
l
iで煤
試験官はボクシングコートの,, ,
央に立ち. A
.井から ,
.
,
に埋もれた本の 11
を品き分けて探し'
i
"
'
l
:き移した )。
1
J
J
I
易末端の構造と機能に |
刻
考えると,この経験で利た l
し
て
, J
Pouchの発企!のどこかで関係があるようにも
がったマイクで、州)佼を: '"'読みあげ.われ
われはそれ
を文常化 した。
筆者は幸い受か ったので.イリ|究諜題実行のあとはメ
・紫を実行するため.論文のおー
思える 。以来. 表記の「i
osephG
. Fortner(
当H
、
I
はJ
j
l
l
モリアル病院の外科医 J
者とその場所に|刻する的械も徹底して調べる ~s十聞が
琵癌の研究者 )に什き.研修と多数の病院の見学にあ
ついた。外遊に |
祭しては 「雫海が仏法の相J
j髄を求めた」
・
;
'
i
'
l
l
h
・
は千以 外 科 の Kingと lf
われ t
.
d
てた 。 '
.
!
'
!
時
の
外
干
: l
心境の一端を体験することができたように思える 。
G巴orgeT
.Pa
ckで、多くの超拡大手術を公J
I
Hした dし
の中に FAP
1
1
'£例もあった符で. 4
0
1
1:後に店、者の子孫
かった。その仁夫が.その後 MarkM.R
a
v
i
t
c
hによっ
から UCとの鑑別がイ汁・分であったと;\・訴され.遺伝
て米問で使い捨てカートリ ッジ方式の GIAとして発
カウンセリングの教材としてイT~1 となっている 。
売され.技が同で使用できる第一号機 (?)の提供を受
けることになり. JPouchで、威力を発揮することに
「レナードの朝J
これは l
決1
l
1
jにもなった O
l
i
v
e
rS
a
c
k
sの
主j
.
'
:実話作品で、
なった。稀な経ゆ実は J
舎ててはいけなし、。
ある 。ある凶散とした精神病院にただ一人就任した若
「外科医は患者より長生き出来ないJ
0
f
f
"
.
j
l
¥
J拝睡状態の忠者レナー
い医師が汗境のなかで. 3
ドの往!従を調貸して.、月 I
.
'
)
の新聞から流行t
l
:
J
脳炎が I
J
J
l
1
9
6
0∼ 7
0年代. 「S
t
.Marks(
IRA)
v
sMayoC
l
i
n
i
c
(
PCR)論争」があり.夜、は FAPに対する IRAを採用し
I
.
k
lであることを突き J
I
:め. -I
I
.
)的でも覚醒させること
たが.比絞的高齢者であ ったためか直腸焔発生率は 7
に成功しドーパミンの研究に貢献した 。 竿ー者も帰 1 ~1 後
年l
l
l
Jで 15%以上ときわめて!日く
の 1968 ~ 69年 .大 学が学 1~n 紛争の拠点となり封鎖され
術後数年で頭髪が一夜で脱落するような劇症再発を
た宅虚な 1
.
i
'
l
l
:
J者i
.I
災}
,
) 長として l
j
i
.身病棟の行問者とし
経験した。その原 l
左|
は.忠者の低いコンブライアンス
て絶望的な,,二
叫ーを過ごしていた 。そこへ' 7年前に教
と医療サイドの長期管理体制不備にあった。表記の現
援がIRA を執行した FAP忠才fが大 1111 血 で~び込まれ.
実がある以上.当 I
I
寺IRAによる予防手術はすべきでな
治療する ープ
i.その治療のために研究心が点火して.
いと 判断した 。そこで諸t生型の一家系で.多数のず・
1
J
t
ト
1
4
:
1
1
主大の FAP家系を発 i
l
:
iし. I
臨床遺伝疫学の実践
催忠君;・を発見した時.R
avitch一
手術の実川化を 決意し
を体験する引が出米.それが 1:界で、英国に次ぐ 「ポリ
た。
L(
1976年)に繋がり
ポージス研究センター 」の設、"
]
p
o
u
c
hへと発反し符た。t
i,\ 、l
天師連に;1えることは.
「乙れは患者と外科医の汗と涙の苦悩に値しない手術
逆境にあ ってでこそ新民!日l
がありうるから諦めず砂|
だJ
φ
また UCの一例で.
1
9
4
8'
.
i
fのRavi
t
c
h手術を総抗した RRBestの1
9
5
1年
究課題を白ら見つけることである 。
の結論であ った。JohnG
o
l
i
g
h
e
r教授−も.その教科書
(
1
9
7
5)ではそれを認めている 。1
9
8
3年.教授は定年ーを
「先生ストマがまた落ちましたリ
1
9
6
0∼ 7
0年代.我が|五|には大!助全舷j外科の伝統に乏
迎え.外遊先のーっとして会いに来られた。夜、は大学
しく.円宵で行 った。
。 初めてのイレオストミーの経
を去る年であったが感激してお迎えした。術後の忠者
験は.猪瀬 J~! )J干性脳椛に対する大腸空世的 i1JJ )跡捜増 設
さんたちを l~l ら 11~: 1J易鋭で観察して仕上がりを絶賛し
である 。徹伎で祇れi
1
1る脳波を皮府から守るためカ
て. 1
9
8
4年版の木では詳しく説 明し て評価して l
頁い
ラヤゴムをインドから輸入することから始めた。総状
た。教授は 5H位滞在されたので梶谷先生やがんセン
創からづ|き I
Hされた j
1
1
J
)
J
品k警は. •IE.包性炎地 で硬化し て
ターへ紹介するため,;I~'同する機会があったが.話題は
~iji性を うたいづ | き 11'1 す l立に壊死が急速に進み陥没して
常に手術のことで.学生のように細部に波り質問され
行く一拡張性[ 1
J
1
j
i
坊炎すなわち I
l
e
o
s
t
o
m
yd
y
s
f
u
n
c
t
i
o
n
た。当時最新技術であった新谷博士のコロノスコープ
(
筆者はイレオストミー困難痕と訳した )
ー である 。
技術も.習得することも希望された。
Ileostomy峻タE 脱落は不気味な!~~Hfi で.
Bryan Brooke
やRBT
u
r
n
b
u
l
lのりJ航 l
こは.ただただ感謝するのみで
あった 。IAAでもま ったく l
i
Jじ問題が起きていたの
「死亡または手術J
炎症性疾患の研究班で使用した調査別立に予後の
で.腸壁 J
坐傷 ・
熱症の|叶避.!感染予防で primary
欄のチェック項目である 。 1
9
7
0年代. IBDの研究対象
h
e
a
l
i
n
gを獲得することが重要であることに気がつい
はも っぱら合併症で治療の主体は内科療法であり .そ
た。T
u
r
n
b
u
l
lの逝去には大きなショ ックを受けて.利
の効果が無ければ治療の対象とはならないと判断さ
誌に V
i
c
t
o
rF
a
z
i
oの追悼文を制訳して掲載させていた
れた 。 したがって外科の対象は合{斤症か重症例のみ
だいた 7。
で.症例数は限られた。私はそれに真向から反対して.
早期手術を提唱した覚えがある 。
「アイデアとは潜在記憶のパッチワーク」
1
9
6
2年.婦問途上モスクワの CancerC
o
n
g
r
e
s
sに参
「日本人の胃はみんなポリープがあるのではないか? J
加した|絞 P
a
v
e
lAndrosov の手術器具捌究所を見学
1
9
7
5年.講座継承の試練で心臓血管外科に惜敗し
\た。大戦で膨大な男性人口を喪失した国家の政策で
海外で勝負して捲土重来を目指して長期海外研修に出
‘た聞いていたが.器具依存にはあまり感銘はな
た。P
o
l
y
p
o
s
i
s
研究の原点を 経験すべく S
t
.Mar
ksH
o
s
p
.
を訪問した際.セミナーで私は FAPの円ポリポーシス
as
l
iMoron
は表現型の一つであると主慌した。司会の B
博士は表記の見解を述べた −)
;
"で.外科医達に胃検貨
gel
manが
を指示していた 。 その後.同病院 ADSpi
FAP卜
ι
I
I消化??病変分煩で、布 1
'
1になった。
f
R
e
c
t
a
lmucosa!replacementJ
これは唯 .
f
tの次の演者の i!題で、
ある 。米凶から米た
J
o
h
n
sHopkins大 I
/,' 身で' Ravi
t
c
hの薫陶を受けた Dr
.
r
D
o
n
a
l
dPeckであった。非常に複雑な術式であ ったカ.
良い排使機能を知 って
, 1
9
7
7年.彼の S
anF
o
s
e
T
l
1のク
iした帰路の機内で術式の実用化を熟
リニ ックを訪日J
1
fいたスケ ッチの一つのモデルが]− Pouchの原
考して t
生 で 番 長 か っ た 目。E
r
l
a
n
g巴n
大学での執刀 1
9
7
9年 6月22
日の記録が読める。介者 l
<
J
:
D
rS
c
h巴||巴 l
e。オオムラ先生がi
量影してくれたも
のと思う
写真 1
9
7
9年.その結果を干||
文で発表した九 1
9
7
8
点となり, 1
#
'
r
e
s
t
o
r
a
t
i
v
ep
r
o
c
t
o
c
o
l
e
c
t
o
m
y(
Spouch)の初械を発
が.意外に冷静に術者を引き受ける決心ができた。海
i
e
n Parksには.当 I
.
\"お逢いする機会はな
表した Al
l
jを{ノ「るほど向分の物
外での執万は初めてだが 「映
[i
かった。
分に 言 い聞か
にな った手術だから出来る筈だ」 と「l
せた。厚い版権脂肪で腹腔に述するだけでも苦労した
「便が積もったJ
orstandは当時magne
t
i
cstomaとまI
Iられていた
が. V
直腸 I
l
:
門の機能は腸内行の同形化であるから脳内
符の水分を如何にして減らすかつ
が課題であった 。
MS
c
h
e
r
e
l
l
eで順調に進んだ。肴護婦に" Schmi
e
d
e
nを
くれ”というと..昔の教授でと っ くに亡くな った”と 言
腹壁イレオストミーでも機能が良い例では同形化す
われ.大笑いするほどにな った(写真 1)。一 人の麻肘
る現象があり. IJ坊竹:が拡 1J~ミ すると液化する .fJl 象を凡
医が駆けつけてきて 「
管理は私が引き受けた。存分に
て,回)防護の .
m氾!には私lしない }j針であり.小腸管断
してくれ」 と言っ てくれた。スタ ッフカ汗洋カfっている
J
i
l
"
J
1'\'に端端吻合する
端と I
Aタイプj
去に対ー
して. IJVi1~1'
{
台があるので事故かと思って駅けつけると.多数の )
側而を !
J
I門??に吻合するタイプB
l吻介と H
乎んだ。 その
の1
1
¥
Jにつま先だ った足が比えて.日本人が執刀してい
構想は. ①J(l l 流似 1~\'. ②)弘知i 到J の i/::t 和. ③無 :J!Ji I
吻合で
るので驚いたという 。 まさに 「地獄に仏」 であ った。
J
H'
J
管内で、行う吻合は.
ある 。通
’
,
:
;・1では閉鎖している I
その方は日本から来ているベテランの麻酔|
去で.お名
J
lわ っているから B
i
ll
o
t
h
-I!
'
1
0ではなく
創に圧力が )
前は 「オオムラ 」先生と 言われた。術後.スタ ッフた
B
i
l
l
ot
h
-I
Tf
内の J
iが 安 定 感 が あ る と 思 った九 使の水
床は .一生忘れられなし、。 まさ
ちと乾杯したビールの l
守を持ち品て
分量を術究テーマとして.ヘマ卜クリ ッ ト1
:
1
I
Jであ った。
に 「人生松高の − -
き. 臭 いことで千f~,とな っ た今城 il'i 人先生が表記の報
Erlangen大学は 1
7
9
4年創設で.消化器病学のメ ッ
特をしてきた。それをはた時の感激は忘れがたく 「
研
カと 言 われる 。そこで手術した外訪の外科医はこれま
究成功の子感」 のようなものがあ った。便の近接{象
nParksだ、けで.病理学の P Hermanek教J
受が
、
でAle
r
1
jの 1
え終シーンに取り入れた 。
は,早速作成「,
,
の
|
吹1
自ら標本を |
洞いて 「見たことない粘膜,刈離」だと感心
1
9
8
0年.米包i/
外科学会メインホールを組めた観衆の反
J
.D
r
.S
c
h
l
l
e
r
eから忠者
しておられた。州国後一 カJ
応は大 J
!
l
i
:功で 「ShogunSurgeonJ とH
千ばれた。この
i
l
i調に回復したとの報告と手術記録の原稿へのサ
はJ
フィルムは手技だけなく.術後の代謝や機能の病態も
f
二
,
"
\
イン依頼と.楳本とレントゲン写真が同いた 。 このl
収録していた。
の自信が,その後の単身での未知の外科講座の運営の
O
:
ii
:ほと手続 って
人生を支えてきたともいえる 。その後 l
「
Yourp
a
t
i
e
n
ti
swaitingdownstareJ
1
9
7
9
1
i
:
. 術式の映画が完成し.ロンドンの 3カ l
:
i
<
I
大
,
号残 って
腸外科学会で発表した後,一 人のオ?ぃ聴衆が)
Ahen大学に招かれて講演した |
際Munchen 大学:の
Schmid(?)教授が会いに来て.私をロンドンからド
イツに誘拐した経緯など話が弾んだ、。
翌日ドイツに来てくれと 許 う。旅程を変更して.翌朝
rlangen大午:外科で講 i!をした後.ド附の ORに
早
くE
S”の次は “J”か ?J
「“
案内された 。 よよると肥満の 1 /1:if~11}人が麻酔 |ご でがl た
これは 1
9
8
2年 頃 後 の I
n
t
e
r
a
n
t
]
.Col
o
r
e
c
t
.D
i
s
.の創
わっている 。まさに 「
附天の併朕」でー|
舜たじろいた
e
s
c
a
t
o
r
i助教授の招きで講演し
刊者ローマ大学の M P
た後.宅地に J
l
1
川、う途中.夜、を助手席に乗せ.そ っ と
加した 。何年も経 ってから J
-Pouchの不全例を
|泣いた ;
H:
gである 。 数カ J
J
1
1
r
i
S
i
rParksは j
r
i
J徐に私の
pouchに変換するアイデアを成功させたが.そ j
!市に出して心臓発作を起こし.彼は右手でマ ッサージ
以i
二のような根拠があ った。 2
0
0
7年.横浜ーでの j
t
をしつつ.左腕でハンドルを t
.
¥
'って病院にと って返し
f
i
:
;
'
t
t
d
l化時腫場予会 I
n
S
i
g
h
tの会合で' S
t
.M
a
r
k
s
1
f
i
たという 。
、 1111~\~.これら術式の iji.\( ~iil 時代で.われわれ
は長い千術で、
放労が市:な っていた。私はそれを主||
って
i
二1
T
:外科医 M
i
s
sSue C
l
a
r
kはJPouchを
’i
け
;J
Iして
と教えてくれた
2、
i
度予定を変£
£
1し て ヤ 港 近 く の ホ テ ル に − i
l
'
Jして英
気を占 った。生 1
l
i
JのParksと一 位だけ会話したことが
「矢でも鉄砲でも持ってこいJ
1
9
8
3年 7J
J
.i
j
1
.身 nH11
災大第二 外 科 に 者 1
1
:
:した
ある 。
・
・
Pouchi
t
i
si
st
h
et
r
o
u
b
l
e
.How doyou dealw
i
t
h
i
tつ
£
f
J
r威信義光/|
ての i
l
l;
;
}
;
のJ
]
l
jに線杏の t
教授宅には N
b
日
j
ちていたそして全く初制のスタ
ッフたちと J
.
1
,
1
始めた 。 0J'(, I )=の,~·*は私が千術 ij1 , 有ifl'lfi'{を起こして
したパ来だそうで 「
粗雑な i
:
J
Ji 弁 j であり亦 l ~i のす
「
J-Pouchは独立した思想だJ
'ft {!· は Kociぐ袋は |災前大で 4 例経験して.|映 plij と,\1Yii~T
を 外 科 系 学 会 で 発 ぷ し 羽H
I\
路
防
'
.
,i
;:の対策について研
である 。 しかしその後しばらくして.私が術",は
寺.やっと
同弁を使 ったといって併が点んで、くれた H
究していた。 1
9
8
0
{1
:.吋 f
l
.
¥
'
K
;
i
l
iで、は 1
1
:
界 M:大の経験を
け人れてくれたかと思 って岐刈に践しか った
イ
iし.米 |
五|外科学会会長でもあ った Mayocl
i
n
i
cの
]-Pouchの第一例は点点から米てくれた忠有さんて
Ol
i
v
e
rB
e
a
r
s
t
1
.
1
j
:J
:
が
]
−P
ouchのは I
mに米訪されたので.
がi
J
,
,
J
C
r
o
h
n病で、
あ った。 し か し そ の )
jは|
羽l
川の人 l
込i
ビデオを差し卜け、た。その際に筆者ーの KockPouch
な っ た。 こ の よ う に 地 域 の 支 援 と 愛 情 を 受 け て
f
lの排出頭 1
;
1
i
1
1
n
r
rを小指一 本で一 瞬のうちに解除して
1いた。以来Mayoで、
は
”K”から”j”へと完全に
はせて n
J-Pouchは順調に育 って行 った。 そして .東京の病 t
I
に 長 く 入 院 し て 進 学 も 11
米ない£
f
i症 の UCの
,
,,
~f:lj
J
:
T
Hを転換した。P
r
o
f
.Kockとは 1
9
8
7
{
1
ミ
. !
1
1
:
W
?
i'
1
イ
ヒ
日
持
は.兵庫で了利lを交けた結果* '短l
術大に入り.外遊も
病学会で、
お会いして i
議論した結*・ 1
1到の一節を議 i
.
i
t
して将¥
;を切望されている
で1
三娠して論点;
にも I記述していただいた。"
P
a
r
k
sand
N
i
c
h
o
l
l
s and Utsunomi
ya e
ta
l
.i
ndependently
「
Youoperatel
i
k
eaB
u
l
l
f
i
g
h
t
e
r
!J
introduced t
h
ei
l
e
o
a
n
alanastomosi
swith an
V
i
c
t
o
rF
a
z
i
o(
C
l
e
v
e
l
a
n
d Cl
i
n
i
c)が見学に来て ,
fっ
i
n
t
e
r
p
o
s
e
di
l
e
a
lp
o
u
c
hf
o
rp
a
t
i
e
n
t
sa
f
t
erc
ol
ectomy
写真2)
andmucosalp
r
o
c
t
e
c
l
o
m
y
.
"
"10,(
始め.後 }
jから大部分の剥離をして j
)
f
j胞創からは
f
1
l
:で‘
/
?
も ]”は“・
・
sの変 j
よーをはなす・
i
rが多い
草{
J
今
はJ
J
;
(
1
'()院州を伴う大柄な症例て、 p
r
o
n
eJ
a
c
k
ni
f
e
た。進行した 1
簡単に付税内臓器を始し、上げて比せた。 その他.海外
論文を投杭した|祭 P
arksの論文は主I
I
らず. e
di
t
o
rから
からの滞在・
i
fはKrokowicz以外にも. Bonn入学:から
指摘されて初めてそれを読んで.校 1
1
ミゲ、ラでリ|川に迫
米た~·;ぃタ; l天さん Gabr i e l a
Moesl
e
i
nは今や D
u
s
s
e
l
d
o
r
f
の教授で遺伝性大腸州のヨーロッパの指導者とな っ
itney M. Burrows(
USA)
.Mabel¥
i
l
or
た。 W h
(
Argentina大学州理学・
i
f
,)
KPS
i
g
h(
Nepal)はl
帯
{i
二
し
た |
災前大に来て千二術に入 った Davi
dG.
J
a
g
el
manは
.
"
1
'
t
f
i
・が主催する大腸J
J
J
:門病 学 会 の :
:
i
:賓となるはずで
あ ったが. 11'[前 Nii で叩ー|世された 。 彼の名は米 1~1 初のポ
リポージス笠 Hセンターに生きている 。 そこで'・
P
r
o
f
.
Kock の後 ~jji’ ,fi·Le i f
Hu
t
t
e
n教長・に代役をお願いした。
.
j
{
j
,
I
;
'
Jされた講演はBonn人ン芋.Hei
d
e
l
b
e
r
g大 学 Ah
e
n
大学. f
l北大学,Si
ηgapor
e
大学等で行い. Ve
r
s
ai
le
sで
はJ
-Pouch シンポを LaurenceParc(Par
i
s)
.Roger
Dozoi
(
MayoCi
l
ni
c
)と て弁企催で開催した
また.臥米の I\
版社から術式についての執筆依頼も
複数あ った II l山。
写真2 P「
o
f
e
s
s
o
rK
o
c
kとの問答"
c
o
n
t
i
n巴円t
とは何かゲ
は欲する時と場所で排出できることだ1
のパーで
‘ゲ 凶それ
心臓発作から退院した夜ホテル
をKock
蓄積できるようになった 。 この現象の"'に.技が
−れには
医療体制 の将米への鍵があるはずである 。
l
t
i
lの
・
/
.
i
J
/祭
/ :
i
l
病院の
万年にす
「原子炉直下にある活断層の休止期間は 40
ている
べきか? J
実験出来ない利''/=の課題は
TransScienceと I
i
"
わ
れ
主
1門
家
の
益
)
戊
の
必
、
'
}
.
:
}
'
!
'
る。 その 1
爪がを党り閃
受 。ー
ねハ﹄滑怖て主はとたで
U て抗生も
JJ
,~, 然の捉」 lま Wi lli am Harvey(l578一1657)
が 行肉し
'
包子祢iである以・.
J. QOLは
ている 。 jPouchは予防 1
100% が止i
然で. ~U !支は託されないから W l"Jlitli 1没が必
要である 。 l
l
l
:Wの
写真 3 1999年は創設者 Math巴Wの米国大腸外科学会の百年祭で
M
i
l
l巴nnium(
キリスト生誕後千年祭)に一致するとの意。その最終ペ ジに筆
新世紀医療は官古|別化打、||であるといわれ るFrancis
「立派な研究で医学賞受賞おめでとうございます」
Col
l
i
nsはGenome'1"
1
'
i械が扶忠 をi
!
J
J
Iすると指摘するが.
1995{flOJJ. 1
1本医学会 J
j
l
!
引 から 同いたカ ードで.
以 も単純は
・
m械 である人中の制祭と 記録 .すなわち
l
今も大切に似イヂしである 。 しかしその辞令を交けに
phenotype の’m·~lt 化が )!Ir;ければM も生まれなし、 。 FAP
1iった県 l
矢印i
I会には' J
I
券千に{午 った辞退届が川 !
'
Jしで
の係な単純化 された扶忠モデルでさえ .J
I
三t
'
f
1
'
1
竹l
lの行
t
'
!I
I.
]
'
'
"
01
'
;
・
あり.問符無川とばかりサインを強要された。:
I
Jに重大な過失が先生している 。IBDはこれか ら安 f
1
l
l
i
型
は大腸のJ
)
皇陛鋭下術では我が I
t
i
Jでは最多例を発表して
にゲノム・メタボの ι
h
'
if
l化が行われるから.継続的約
1
会出 i
主)えとみなされた。 /'
f
. 1(1\~ 1
1・
いたが u.それを健保;
過の記録と共イ}す る持続 'l't 集' 1'1~\' W のシステム 十時築
の!惑を禁じ仰ない。 − )
f
.;
j
<
:l
t
i
J大
)j
易外科学会会長 11を
が最量要課題である 。これによ って IBDの f
j
l
i
l~J IJ 化|欠療
l
ip G Gordonに招かれ. 司学会の
|
100{
ド
受けるため Phi
が可 能 となり.就労 WJll
¥
Jの延長や医療費の節減に. ・,:
を1
l
l
1
I
来して l
買いた(写真3)
。
記念誌の故終ページに’ヅ
」
’L
;
;
)え抑や f
!
i
J
iがん l
芙
;
主
モ U、上に効月とを党 J
|
伽 なロボテツク I
e
土
を整えて練!燃すべきである 。
r2o世紀はエネルギーの時代 21世紀は情報の時代J
者の写真が掲載されたことは光栄である。
牟
つ
r
,
だたる宅相 |
にも IBDで悩んだ f
jが
i
\'に定戦体制
彼数肘られたことを思うと. われわれは’i
し f尋る可e 「j~ 伯二カf ある 。 ~\W 病指定疾忠の情報 1
・
rJ
1
1
1に.年
「
J-Pouchが 1,000例になりましたJ
金情'~IZ1~' f.'II の 二 の ).i.'_ を附まぬようお願いしたい 。
これは i
l
lJ
織してやJ
1"
'二かして弟子たちから受けた話
iもった JI
.
I
\'と同じくらいの感動を’
である 。 「
{史がH
"
1
:
けた。−
]PouchはMayo Clinicに導入され数年で.数千
j
1
.f
i
/:の症例に’j
ミ施されたが.東京での杭例は
から万の i
「最後に忘れていた一言 『
今度来た外科医は針も糸も
捨てる J
J
modern proctocolectomyのI
I
寺代を開いたのは.!日
100例に遠く l
えばなかった 。 1983年
. 兵庫医大に i
1
l
i
;f
下
チのような介イt:atraumati
c detachable absorbabl
e
して実刑 化への以 I
J
f
.
Jの坊を待て IBDセン ターの党 j
ヰ
threadsVicrylI
J
l
J先を忘れることはできなし、。
の機会となり.欧米に I
J
L
:敵する症例数をこなす経験を
2
0
1
3年 2
n
文献
1) 宇 nll'l-'\.if~ - 111111詰 JJU"Jll却 {~Wi
つの術式の発達の!京史大 II品 JJU"J 会 .~t.199.J 4
7'
1
6
7
7
5
2)・
r
:
・m
>
P
;
議
JJ\~ 11
脇・
m
J
l
:
l
"
J
I
吻{t
に
'I
:
ぃι
ち 川 外 会 誌1
99
7
:9
8
.<
1
4
38
3)'Hl>H喪
:
,J わたし の研究l
陪 G.
IR
e
s
e
a
r
c
h2
0
0
7L
79
3
9
.
ft
h
ec
r
e
a
t
o
r
so
fw
o
r
l
ds
m
g
e
r
y
.K
e
i
oJ¥
l
e
d2
0
0
5S
I(
I
)1
7
4)K
i
e
l
a
n¥
¥'
.
e
la
lJ
a
n~Iii《 ul i cz-Radeck i oneo
5)/
¥
l
a
y
e
rC C
h
r
n
n
i
cI
n
t日孔 i
n
a
lS
t
a
s
i
sa
s
s
o
c
i
a
t
e
da
s
s
o
じi
a
t
e
c
lw
i
t
hL
a
n
esi
l
e
a
!k
i
n
ka
n
dH
y
p
o
t
h
y
r
o
i
d
i
s
m
.B
r¥
l
e
dJ1
9
1
5 l8
1
56
6 ) 宇都日;,;)€ __: ほか小腸人 i:IJl:l"J に|対する品 lllJ:lri . 外利 l診療 1976 1
81
0
3
3
4
0
.
7 ) 宇部や1 民if~ __: R
o
b
e
r
tB
e
a
c
hT
u
r
n
b
u
l
lj
lをしのんで外干I
1
9
8
24
4 I
9
0
2
8 ) ’i:m;下{ ~It ほ
か
う
で
*
−
.
'i
l詰l
;
J
J
I
徐・
1
1
'
U
m品1
i
l史切除 l
1
1
I
J
J
V
;
l
]
1l
"
J
I吻介柿I /
j
'
:説出,
f
以外利 1
9
7
9
:2
12
6
87
9
引S D
i
sC
o
l
o
nRectum1
9
8
02
3・
1
5
9
6
6
9) l
.
i
t
s
u
n
o
m
i
y
aj
. lwamaT
.l
m
a
j
o¥
I
.e
ta
lT
o
t
a
lc
o
l
c
c
t
o
m
y
.m
u
c
o
s
a
lp
r
o
c
l
e
c
t
o
m
yandi
l
e
o
a
n
a
la
n
a
s
t
o
m
o
1
0)Kockl
¥
G TheL
i
s
eo
fS
u
r
g
i
c
a
l
l
yCr
e
a
t
e
dR
e
s
e
r
v
o
i
1s
.Wo1I
djSurgL
98
71
16
8
7
8
s
i
n
o
m
i
y
aJ
.YamamuraT TotalColectomy.1
'
l
u
c
o
s
<
iP
1
o
c
t
c
c
t
o
m
y
.a
n
dl
l
e
o
a
n
a
l.
¥
n
a
s
t
o
m
o
s
i
s
.l
n
O
a
m
m
a
t
o
1y D
i
s
e
a
s
e
.i
nG.BloclandλR
1
1)じt
耳目 y ¥
¥
'
.B
.SAじ>JDERSC O~ I PA!\Y. 1
9
9
4
.p
l
6
5
91
¥
l
o
o
s
s
a(
e
c
l)
.Ope1
a
t
i
¥
'
eCol
o
r
e
c
t
a
lSur
s
i
m
o
m
i
y
aj l
l
e
o
a
n
a
la
n
a
s
t
o
m
o
引sw
i
t
hi
l
e
a
!a
n
a
l1
e
s
e
r
v
o
i
r
.jp
o
u
c
h
.e
d
i
t
e
db
yF
i
e
l
d
i
n
gL
P
.G
o
l
d
b
e
r
gS
¥
I
.Rob& S
m
i
t
h’
sO
p
e
r
a
t
i
¥
'
eS
u
r
g
e
1
y
.
1
2)じt
CH
.
.
¥
P
¥
1
.
.
¥
¥
"& 11
¥LL¥
iI
EDI
CAL.London
1
3)'
j
:
f
f
1
)
]
2
;譲二 ほか I
I
反映鋭止;仮名'i
協切除術の経験と )
}法 i
i
'
i化待外科 1
9
9
1
.1
7
:1
4
351
A
Surgical Strategy f
o
r Inflammatory Bowel Disease
編集
佐々木巌
みやぎ健診プラザ所長
杉田昭
横浜市立市民病院副院長
二見喜太郎
福岡大学筑紫病院外科診療教短
MεDに八し VIE¥V