ざいごう ! ! ! ! 浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵 2014.3.20 発行 kanadean No. 253 249-0002 逗子市山の根1-7-24 Tel : 046-871-1863 Fax : 046-872-3485 http:// kanadean.net mail: [email protected] 現実のさまざまな苦しみに目 を向け、それを乗り越えていく われらは本願によらずば ならないことがあります。そん 救われざる時代に ことができるためには、生ある ためにだけ生きなければならな 生まれたのである ものが必ず迎える「死」という いでしょう。しかし、そんな状 金子大栄(1881∼1976) 最も難しい問題をどう迎え入れ、 況の中にあっても、人間を人と 乗り越えていくかということの して生かしめるものは必要なの 親鸞聖人のみ教えをお取り次 解決なくしてはありえません。 です。それが、いかなる課題の ぎする僧侶として、如何に現実 法然上人も親鸞聖人もこの点を ! な時、人はただ生活の糧を得る を生き抜く教えを説いておられ 中にあっても、揺るがぬ本願の 見きわめていかれた方でした。 大いなる慈悲の中にあることを たかをお話しさせていただくよ 今を大切にして、私自身の救 受け入れていく安心ではないで うにしています。しかし、「往 いをあきらかにしていくという しょうか。安全と言われ、その 生浄土の教えは、死後の問題で ことには、時代の問題を受けと 恩恵を当たり前のように受けて あって、現実逃避の教えではな め、周囲の人々の苦しみや悲し きた私たちが原発事故で気づか いか」どまりの理解しかされな みを共にする心がなければなり されたように、お念仏のみ教え ません。時代の濁りの中で、周 いことが多いのは残念です。 囲の人々はさまざまな苦悩の中 確かに平安時代の中頃には、 に立ち返るとき、人間の営む生 末法時代が強く意識され、人々 にあって、私だけは問題の解決 * * * がこの混乱の世を離れて、来世 がなされたというのでは、本当 冒頭の言葉を遺された金子大 の平安を望み、極楽往生を願っ の救いがなされたことにはなら 栄師は、その生涯をかけて「浄 たことが多くの書物に残ってお ないでしょう。この想いこそ、 土とは」という大きな問題を問 り、現実は苦悩に満ち、悲しい 「誰もが隔てなく救われて仏に い続け、親鸞聖人のみ教えを現 ことが多くても、死後は平安で 成らなかったら、私も仏には成 代にあきらかにされた世界的な あってほしいという、現実逃避 らない」と誓われた阿弥陀仏の 教学者です。 の世界として受けとめられてい 救いなのです。「すべてを救う」 師の教学は、ともすると、今 活の虚偽性が知らされます。 という阿弥陀仏の救い、念仏の たことが知らされます。 み教えは、生かされている今の * * * 生きている時代の課題に目をそ 親鸞聖人が師と仰がれた法然 救いを説くがゆえに、時代の課 題は私と深く関っており、国や 上人は、阿弥陀仏の本願を信じ 題をつねに我がことと、共に生 社会のせいばかりではない、私 ただ念仏して浄土に往生するこ きる人々の苦悩を我が苦しみと の「自己中心の生き方」が因と とを説かれ、親鸞聖人は、信心 して、生きる道を問うものなの なっていることに気づかされま (念仏)の人は、もうすでに仏 です。 す。それは、時代を厳しく見て に成る身に定まっていると、煩 * * * 媚びず、念仏者としてどう生き 悩を断つことのできない身のま 大地震、大津波、異常気象な るかを導いてくれるものです。 まで、今、菩薩と同じ位につい ど、人がどんなに工夫しても、 厳しく不安な時代です。どう ていると説かれたのです。 また努力をしても、どうにも ぞお聴聞下さい。 合掌 らしがちな私たちに、時代の課 ! 編 集 後 記 仏教へのいざない 奏庵法座 【彼岸】 そのほとんどを買って読むことはな 厳しい残暑も秋の彼岸にな 春の彼岸会 いが、暇に飽かして新聞に掲載され れば衰えて過ごしやすくなり、 ている書籍や雑誌の広告見出しを 余寒も春の彼岸には薄らいで 眺める。相変わらずダイエット、健 日時 くる。彼岸会(ひがんえ)は、 康本は不滅だが、やはり日中、反 3月26日(水) 日、嫌韓は目立つ。「今は戦前の 日本のみに行われ、人々の生 午前11時より 日本に似ている」などの政権の右傾 活に溶け込んだ仏教行事のひ 化を憂うものも多い。それに神社 とつである。日常の生活を反 や神道を取りあげるものが多いと 「真宗宗歌」 省して正しい精神生活を送る 感じるのは気のせいだろうか。■ 沈滞化を払拭しようと何らかの思 阿弥陀経 ために、仏の教えを聞き、仏 惑がはたらくのは解らないではない 法話 道精進の機会として生まれた が、終戦後一世紀近くなってなお、 ものであろう。それは春分と ご文章拝読 戦争を仕掛けた国、そして敗戦国で 秋分には、日が真東から出て あるという負い目を突きつけられて 「恩徳讃」 真西に没するのでその日没を いる中、また「のっぴきならぬ」 ∼*∼ ところに追いこまれてゆくような怖 観じて仏の世界、すなわち彼 おとき さを感じる。■国と国が争うとい 岸の浄土を念想し、浄土に生 うことによって生まれた「歴史認識」 まれることを願ったのに由来 だから、双方に「違い」があって当 ついこの間大雪を被って咲 する。「観無量寿経」の中に、 然で、そもそも「認識」という曖昧 な表現なのだから白黒つけられる 「汝および衆生、まさに心を いていた梅の花が散って、桜 ようなものではないはずだ。そう 専らにし、念を一処にかけて、 へと移っていく景色はおぼろ 言ったらまた、彼の国から「正し 西方を想うべし」と説かれて に霞んでいます。中国からの い歴史認識のない国に未来はない」 いる。それは、人生の帰すべ と言われるのだろうが、日本が敗 大気汚染のせいなどと野暮な き処を象徴的に教え示すもの 戦国という立場だけは決して覆すこ こと言わないで味わいたいも との出来ないことなのだ。■お互 であり、日没はまた、浄土の いに「正義」というものがあり、 のです。そしてこの時期の気 方向のみでなく、人間の罪障 振りかざされるその正義は、いつ 候は、衛星を駆使して発達し の深重を知らしめ、かえって も手前勝手であるのに、その前で 阿弥陀仏とその浄土の光明に、 た予報より、私たちが自分の は人はすくみ、支配されるから恐 ろしい。それだけに繰り返すこと この身が照らされていること 肌で感じてきた「三寒四温」 があってはならないと心から願う。 に軍配が上がります。 を知らされる。親鸞は、「仏 ■国と国との関係も、元は人と人 はすなわちこれ不可思議光如 日によっては、また寒い日 との感情だ。「許せない」という 来なり、土はまた無量光明土 感情を抱くことも多々ある。たと になるかもしれませんが、春 なり。しかれば大悲の誓願に え許したと思っていても、何かの拍 のお彼岸です。どうぞお参り 子にぶり返すこともある。そして、 酬報するがゆえに、真の報仏 いつまでも恨みがましい自分を持 下さい。 土というなり」と述べている。 て余し、自分自身が嫌になる原因 真実の浄土とは、仏の大悲の となるものでもあるのだ。人も国 誓願によってよって完成され も、口惜しさや恨みを抱いて生きる た無量光土である。本願の信 ことは決して楽しいことではないは ずだ。■恨みを忘れられない苦悩 に開かれる浄土は、限りない も、蔑まれ続ける苦悩も、「許す」 光の世界なのである。「塵労 他に晴れることはないのではと思 を出でて彼の岸に登らん」と う。だが、「許す」ということは 勧められるように、無明の迷 難しい。「許してやる」と、一方が 自分には非がないとする上から目 いを越えて、かぎりない仏の 線である間は完結せず、「許し合っ 光明の世界に、ともに目覚め て」はじめて「許す」は完結される て生きるものとなりたいもの ものだ。平和のためには、「許され である。 て生きている」という地球共通の (大谷大学編) 想いを育んでいってほしいと願うの は甘いのだろうか。 Norimaru
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