本能と煩悩 - 東海大学出版会

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本能と煩悩 (全 12 回)
第 8 回 フェロモン
浦野明央(北海道大学名誉教授)
前回,有性生殖によって子孫を残すための生殖行動の最初の段階で重要なの
は,性的に成熟した雄と雌が,同じ時季(繁殖期)に同じ繁殖場所で出会うこ
とだと述べた.この出会いのためには,雄と雌の間でのコミュニケーションが
必要である.コミュニケーションの方法として,発達した神経系をもつ軟体動
物や節足動物,脊椎動物では,嗅覚,聴覚,視覚が,単独で,あるいは複合的
に用いられている.しかし,第 2 回 本能の起源 でゾウリムシや線虫について
ふれたように,感覚器官を持たない,あるいは発達していない原始的な動物で
は,化学的なコミュニケーションが主要な手段であり,そこで用いられている
化学的な情報分子がフェロモンである 1).
生物教育用語集(1998)によれば,「生物から体外に分泌され,同種の他個
体に特定の反応を引き起こす物質」がフェロモンであるとされており,役割が
異なるさまざまな物質が知られている.その中の 1 つで,性の判別や異性の誘
引に携わるのが,性フェロモン(図 1)である.日高敏隆(2013)によれば.
図 1 本稿に出てくる性フェロモン.それぞれのフェロモン分子については本文参照.
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雌蛾のフェロモンによって何 km も先の雄が誘引されるというのは神話で,実
際にはせいぜい数 m 以内の雄が誘引されており,しかも雌の姿を目でとらえ
るまで探し回ることで出会いが成立するのだという.
現在では原生生物から哺乳類にいたる多様な生物にフェロモンが存在するこ
とが示されているが,本稿では,研究が進んでいる昆虫と哺乳類を中心に話を
進めたい.また,化学的なコミュニケーションは,情報分子とその受容体があ
ってはじめて成り立つ.したがって,フェロモンについても,信号を受け取る
側に受容体があるはずである.それが,昆虫では触角の,脊椎動物では鼻,正
確には鋤鼻器の嗅細胞に分布するので,それについてもふれることにしよう.
無脊椎動物の性フェロモンと受容体
感覚器官としての嗅覚器を持たない原生生物や原始的な動物は,フェロモン
も含めて,化学的な情報分子を互いのコミュニケーションに用いている.情報
分 子 を, 化 学 受 容 体 で 特 異 的 に 検 出 し て い る の だ が, 嗅 覚 器(olfactory
receptor)を持つ動物では,におい分子(odorant)であるフェロモンが,嗅
2)
により感知さ
細胞の膜表面に分布するにおい分子受容体(odorant receptor)
れる.
揮発性かつ水溶性の化学物質であるにおい分子の受容体は,生体内の多くの
化学的な情報分子と同じように,三量体 G タンパク質共役 7 回膜貫通型受容
体(GPCR)
(細胞社会のコミュニケーション,第 4 回 情報分子と受容体 参照)
に結合するが,多くの場合,あるにおい分子が,1 つの特定の受容体に特異的
に結合するわけではない.
通常のにおい分子受容体の遺伝子は,いくつかの多重遺伝子族を形成してお
り(Buck and Axel, 1991),脊椎動物では,1 つの嗅細胞に 1 つの遺伝子だけ
が発現している.しかし,ある 1 つの受容体には,複数種の似たようなにおい
分子が結合して,嗅細胞に電位変化が引き起こされる.したがって,複数のに
おい分子と複数の受容体の組み合わせで生じた電気信号が,脳内の嗅覚系に伝
わることになるのだが,昆虫なら嗅前葉,脊椎動物なら嗅球に始まる神経回路
によって,特定のにおいが識別される(Woods and Stricker, 2013).その識
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別機構は,昆虫でも脊椎動物でも,基本原理は同じであるとされている.
カイコガのボンビコール受容体: カイコガ雌の尾部後端にあるフェロモン腺
から放出された性フェロモン,ボンビコール 1, 3)は,雄の触角の毛状感覚子に
分布する受容体に結合し,雌への定位行動を解発する.ボンビコールが同定さ
れたのは 50 年ほど前であったが,受容体の構造が明らかになったのは 2004
年であった.カイコガ雄の触角を用いて,分子生物学的な方法で構造が推定さ
れたカイコガのボンビコール受容体(BmOR-1 と名付けられている)は,Z 性
染色体 4)上に位置する単一の
遺伝子にコードされている 430 アミノ
酸残基の GPCR であった 5).
遺伝子は,雄の触角の性フェロモン受容
ニューロンと考えられる嗅細胞にだけ発現しており,発現ニューロンは,ボン
ビコールに反応して活動電位を生ずる(Sakai et al, 2004).
なお,カイコガの BmOR-1 は,共発現している共受容体(Odorant receptor
co-receptor, BmOrco)と複合体を作って,陽イオンが透過する孔(陽イオン
チャンネル)を作っている.受容体複合体にボンビコールが結合すると,チャ
ンネルが開いて陽イオンが細胞内に流入してスパイクが発生し,電気信号が脳
内の触角葉に送られるのである(Nakagawa et al, 2012).
触角葉からのフェロモン情報経路: 無脊椎動物の脳は,基本的に,脳の表面
にニューロンの細胞体があり,そこから脳の内部に伸びた神経突起がネットワ
ークを形成している.これがニューロパイル(神経叢ともいう)である.昆虫
の触角葉は中大脳にあるニューロパイルで,そこに,触角のニューロンから出
た軸索,触角葉と上位中枢を結ぶ投射神経および介在ニューロンの終末が集ま
り,糸球体を形成している.なお,カイコガの触角葉は,フェロモン情報の処
理に携わる大型の大糸球体複合体と,通常のにおい情報を処理する小型の糸球
体,すなわち常糸球体が分布する部域に分かれている.この嗅覚系の一次中枢
である触角葉が,フェロモン情報と通常のにおい情報を,別の部域で処理する
というメカニズムは,哺乳類でも見られるものである(図 2).
触角葉で処理されたフェロモンに特異的な情報は,二次中枢である前大脳の
キノコ体傘部と前大脳側部(第 3 回無脊椎動物の微小脳 図 1 参照)における
統合的な情報処理を経て運動系に送られることになる(第 3 回無脊椎動物の微
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図 2 カイコガの触角葉と触角からのにおい情報の入力.A, 脳を前から見た時の触角葉,および大
糸球体と常糸球体の位置を示す.B, 触角の毛状感覚子には対になったボンビコール受容体をもつ
ニューロンとボンビカールをもつニューロンからの神経突起が入り込んでおり,そこでフェロモン
分子を受容する.それぞれの受容ニューロンからの情報は,特定の大糸球体に収束する.(無脊椎
動物脳プラットフォームに掲載されているカイコガについての情報をもとに作成した.)
小脳 図 2 参照)のだが,現時点では,この一連の情報経路が,どのようにし
て動機づけられているかは明らかになっていない.
水生の無脊椎動物: 生物は,始めは水中(おそらくは海水中)で誕生し多様
化し,やがて陸に進出するグループが出現した.陸への進出にともなって,個
体間のコミュニケーションの方法も進化したと考えられるが,化学的コミュニ
ケーションだけは,水の存在を必要とし続けた.陸生の動物の味細胞も嗅細胞
も,その表面は水に覆われているのである.ということは,水生の無脊椎動物
は,多様な水溶性の分子を,フェロモンとして利用しているのではないか,と
思わせる.Wyatt(2014)によれば,ワムシやゴカイの仲閒の雌には,雄を誘
引するフェロモンをもつものがいるという.最近,マダコは異性のフェロモン
で摂食行動を性行動に切り替えるのではないか,という報告も出ている(Polese
et al, 2014).個体間の化学的なコミュニケーション,とくに生殖行動におけ
る同種の雄と雌の出会い,の系統進化を理解するとともに,動物の種がどのよ
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図 3 ラットの鋤鼻器.通常のにおい分子が,嗅上皮に分布する嗅細胞によって受容され,嗅球で
情報が抽出される.一方,性フェロモンは,鋤鼻器にあるフェロモン受容細胞によって受容され,
情報は副嗅球で処理される.そこで得られた信号は,扁桃核等をへて視床下部に達する.
うにして確立したかを明らかにするためにも 6),この分野の研究がもっと進展
して欲しいものである.
脊椎動物の性フェロモンと受容体
脊椎動物の性フェロモンの研究は,始めのうちは,マウスで進められていた
が,現在では,各綱の動物にその存在が知られている.また,性ホルモンの受
容器として,両生類,爬虫類および哺乳類には,嗅上皮とは別に鋤鼻器(ヤコ
ブソン器官)がある(図 3).そこでは,通常のにおい分子受容体(OR)では
なく,進化的に起源の異なる 2 種類の受容体,V1R と V2R が発現している.
なお,上にも述べたように,個体間の化学的なコミュニケーションは,水生
の動物に始まり,陸への進出とともに適応的に進化したと考えられるので,そ
れを念頭において脊椎動物の性フェロモンと受容体を見ていこう.
魚類の性フェロモン: 始めに魚類の性フェロモンとして同定されたのは,キ
ンギョのプロスタグランジン F2α(PGF2α)であった(Kawaguchi et al, 2014
参照).成熟したキンギョの雌では,生殖腺刺激ホルモン(GTH)の血中濃度
が急上昇して排卵がおきると,卵巣内で PGF2α が産生され,性フェロモンと
して水中に放出される.それによって雄による雌の追尾と放精が誘起される.
魚類には性フェロモンの受容器である鋤鼻器はないが,鼻腔の嗅上皮には形
態の異なる 2 種類の嗅細胞がある.繊毛細胞と微絨毛細胞がそれで,前者には
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OR が,後者には V2R が発現している.キンギョでは,PGF2α は,cAMP を
セカンドメッセンジャーとして活動電位を生ずる OR に結合している可能性が
高いという(橋口 & 西田 , 2007 参照).
魚類の性フェロモンとして他に知られているものの 1 つに,雌のサクラマス
の尿中にあって,雄の性行動を誘起する L- キヌレニンがある.この物質は,
トリプトファンというアミノ酸の中間代謝物で,成熟雌の尿中には,未熟雌や
雄の 3 倍量が含まれているという(山家秀信,2013).雌のニジマスやタイセ
イヨウサケの尿中にも,雄の性行動を誘引する作用があるが,それも L- キヌ
レニンによっているのかもしれない.
イモリのソデフリン: ソデフリンは,雄のアカハライモリの肛門部腹腺から
単離・同定された 10 アミノ酸残基からなるペプチドフェロモンで,雌と出会
った雄が,雌の鼻先で尾を振りながら放出し,雌を誘惑するのに用いているも
のである.まだ受容体そのものは同定されていないが,嗅電図による解析は,
それが,雌の側鼻腔(鋤鼻器と相同,以下,鋤鼻器とする)に分布することを
示していた.しかも,雌において,繁殖期に血中レベルが上昇する下垂体ホル
モンのプロラクチンと卵巣ホルモンのエストロゲンにより,鋤鼻器のソデフリ
ン応答性が高まるという.そこで,Ca イメージング法によって受容細胞内の
情報伝達機構を調べたところ,受容細胞内では,ソデフリンの濃度に対応して,
Ca2+ イオンの濃度が上昇し,ホスホリパーゼ C を介する 2 つの細胞内情報伝
達系が活性化されたという(中田友明 他,2014).この細胞内のメカニズムは,
カイコガともキンギョとも異なるものであり,性フェロモンの受容細胞への作
用機構が,必ずしも一様ではないことを示しているのであろう.
哺乳類の性フェロモン: しばらく前までは,哺乳類のフェロモンというと,
マウスの話が中心であったが,ここ数年,この分野はかなり進歩した.ヒトで
は,幼い時にあった鋤鼻器が,成人になると縮退してしまうので,マウスなど
で得られた研究成果をそのまま当てはめる訳にはいかなかったが,ヒトについ
ても少しは語れるようになってきた.そこで,まず Baum and Bakker(2013)
の総説に取り上げられている例を 1 つ紹介しよう.
ヒトで注目されているフェロモン候補の 1 つは,ステロイドホルモンのアン
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ドロスタジエノン(androstadienone, AND)である.男性の腋の下でプレグネ
ノロンから合成されるこのホルモンは,男性の性的な成熟度を女性に伝えてお
り,PET で見ると,AND の投与で女性の視床下部が活性化されたが,男性の
視床下部には影響がなかったという.fMRI を用いた追試でも,同様の結果が
得られている.なお,OR7D4 という AND の受容体は,鋤鼻系ではなく主嗅
覚系で発現していたが,これは,成人では鋤鼻系が退縮しているので,性フェ
ロモンの受容に,主嗅覚系が関わっているためだと考えられる.
マウスでは,尿中に排出されるステロイドホルモンの代謝産物である硫酸化
ステロイドが,マウス鋤鼻器の V1R を発現している受容細胞を活性化したと
報告されている.雄の V1R 発現ニューロンでは,多くの硫酸化ステロイドに
よって,最初期遺伝子
が活性化したのである.雌マウスで行った別の実
験では,受容細胞内へのカルシウムの流入が促進されている.哺乳類の性フェ
ロモン受容細胞では,性フェロモンがカルシウムを起点とする細胞内情報伝達
系を動かしているのであろうか.
註
1) オックスフォード動物行動学事典(マクファーランド , 1993)によれば,「フェロモンと
は化学的メッセンジャーであり,おそらくコミュニケーションの最も原始的な形態を示す
ものであろう.・・中略・・ 有性生殖が登場すると,化学物質は,異性どうしの接触の機会
をふやすために使われた.」とある.なお,フェロモンという言葉は,ガの雌が雄を誘因す
るのに用いる物質につけられたもので,最初に化学的に構造が明らかになったのは,カイ
コガのボンビコール(bombykol)という鎖状の炭化水素である.現在では多様な化学物質
がフェロモンとして同定されている.
2) odorant receptor には,嗅覚受容体という訳語があるが,本連載では,
「におい分子受容体」
という用語を用いる.化学受容体は,一般に,感受する化学物質の名前をつけて呼ばれる
ためである.「におい」という表記は学術用語にしたがった.
3) フェロモン腺における性フェロモンの合成は,フェロモン生合成活性化神経ペプチド
(pheromone biosynthesis activating neuropeptide, PBAN)により誘起される.PBAN は,
食道下神経節の腹側正中に位置する 5 対の神経分泌ニューロンによって合成され,血中に
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分泌されてフェロモン腺に達する.PBAN についての詳細は日本比較内分泌学会[編]ホ
ルモンハンドブック(2007)参照.
4) カイコの性決定様式は ZW 型で,雄の性染色体は Z / Z,雌のそれは Z / W である.
5) カイコガの触角には BmOR-1 の他に BmOR2 という受容体がある.BmOR2 は,ボンビコ
ールの酸化によってできるボンビカールの特異的な受容体である.
6) ある生物群を独立した種であるとする時の条件の 1 つに,交配して子孫を残せるか,と
いう項目がある.
参考文献
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中田友明,岩田武男,豊田ふみよ,他:雌イモリ鋤鼻細胞のソデフリンに対する応答性:ホル
モンによる調節と細胞内情報伝達機構.比較内分泌学 40(152): 94-96(2014)
日本動物学会/日本植物学会[編]:生物教育用語集.東京大学出版会(1998)
日本比較内分泌学会[編]:ホルモンハンドブック 新訂 eBook 版.南江堂(2007)
橋口康之,西田 睦:魚類における嗅覚系の適応および進化の分子機構:嗅覚受容体遺伝子フ
ァミリーに着目して. 魚類学雑誌 54: 105-120(2007)
日高敏隆:昆虫学ってなに? 青土社(2013)
マクファーランド , D[編],木村武二[監訳]:オックスフォード動物行動学事典,どうぶつ
社(1993)
Baum M.J., Bakker J.: Roles of sex and gonadal steroids in mammalian pheromonal
communication. Front Neuroendocrinol 34: 268-284(2013)
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Kawaguchi Y., Nagaoka A., Kitami A.: Gender-typical olfactory regulation of sexual behavior
in goldfish. Front Neurosci doi 10.3389/fnins(2014)
Nakagawa T., Pellegrino M., Sato K. et al.: Amino acid residues contributing to function of the
heteromeric insect olfactory receptor complex. PLoS ONE 7(3): e32372.
Polese G., Bertapelle C., Cosmo A.D.: Role of olfaction in
reproduction. Gen
Comp Endocrinol: in press(2014)
Sakai T., Nakagawa T., Mitsuno H. et al.: Identification and functional characterization of a
sex pheromone receptor in the silkmoth
. Proc Natl Acad Sci USA 101:
16653-16658(2004)
Woods S.C., Stricker E.M.: Chapter 36. Food intake and metabolism. in Squire L.R. et al
(eds)Fundamental Neuroscience, 4th Ed, Academic Press(2013)
Wyatt T.D.: Proteins and peptides as pheromone signals and chemical signatures. Anim Behav
97: 273-280(2014)
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