儒官 の 時代

第一章 儒官の時代
第一章
儒官の時代
45 江戸遊学
撃を実行している。その際、手傷を負うことになる。
丙辰丸の艦長として水軍を指揮し、文久三年︵一八六四︶の攘夷令にもとづき外国船の砲
た。
文久元年︵一八六一︶ には海軍局を設けて頭人となり、 藩内では洋学の第一人者となっ
学所初代所長に就任している。
航海術を三年間学び、帰藩後、軍艦教授所の必要性を藩主敬親侯に献言する。具申が叶い洋
なるが、嘉永五年︵一八五二︶
、幕臣の勝海舟らと共に、長崎海軍伝習所でオランダ人より
ち、江戸に出て坪井信道のもとで四年間師事を受ける。帰国後、毛利定広︵元徳︶の侍医と
父が鍼医であることから自らも医者を目指したが、鍼医だけではなく蘭方医にも関心を持
剛蔵︵虎太郎・瑞益︶は文政八年︵一八二五︶の誕生で、粂次郎とは四歳年上となる。
る。
たは内蔵次郎と称した。號は畊堂である。兄弟には長兄の剛蔵︵瑞益︶と弟の小倉健作がい
て萩魚棚沖町︵現・萩市今魚店町︶に生まれる。諱は希哲と云い。名は哲。通称は粂次郎ま
粂次郎︵楫取素彦︶は、文政十二年︵一八二九︶三月十五日、萩藩医松島瑞蟠の二男とし
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元治元年︵一八六四︶には四国艦隊来襲に際しても防戦の指揮をとる。だが、この年に尊
攘派の過激派が京都に攻め入り、禁門の変で敗退となった。
この戦で藩の大勢が逆転し、恭順派が藩政府の実権を握ることになる。そのあおりから、
剛蔵は野山獄に投獄となり、同年十二月十九日に斬首される。野山十一烈士の一人として萩
東光寺に葬られている。
弟の健作は学識に優れ、側儒の名家小倉尚蔵の養子となり、嘉永四年︵一八五一︶には、
兄の後を追い江戸に出て藩校有備館で安積良斎のもと、吉田松陰らと共に学び、松陰とは親
しかったことから、翌年末、松陰の東北遊歴による脱藩事件や安政元年の下田踏海事件など
に協力した罪を咎められることになる。
安政四年︵一八五七︶に江戸に逃亡し、松田謙三を名乗って諸国を遊歴し、東北盛岡では
子弟の教育指導にあたるなどして感謝されるエピソードもある。後年には、群馬県令となっ
た兄、楫取素彦を頼って前橋に訪れている。
松島粂次郎︵楫取素彦︶であるが、天保十一年︵一八四○︶六月、十一歳のとき、藩校明
倫館の儒者・小田村吉平の養嗣子となり、 小田村伊之助と改めて儒家の道を歩むことにな
る。
弘化元年︵一八四四︶十五歳で明倫館に入学。三年後の弘化四年︵一八四七︶、養父吉平
が没したことで、十八歳になると小田村家四十七石大組︵知行地・前大津才判の青海島に僅
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嘉永元年︵一八四八︶三月、萩城番初番人を命じられる。その後、司典助役となり、嘉永
二年︵一八四九︶二月、新明倫館の落成にともない講師見習役として教える立場となる。こ
の身分は助講といい、講師を補助するものだが、五人の講師と助講とは、一流の教授であり
学者である。この頃、伊之助より四歳年下の桂小五郎︵木戸孝允︶は明倫館に学んでおり、
師弟関係にあった。
当時、藩主・毛利敬親侯は藩外での遊学・武者修行を奨励していたが、申請したところ嘉
永三年︵一八五⃝︶三月、伊之助は大番役︵江戸藩邸勤務︶の命を受け江戸へ赴き学問に勤
しむことになる。
萩藩江戸上屋敷︵桜田邸︶内には、天保十二年︵一八四一︶に築造された有備館があった
が、そこで伊之助は朱子学者として高名な安積良斎や佐藤一斎から師事を受けている。この
時期、吉田松陰も講義を受けている。因みに、桂小五郎は明倫館で四歳年上の伊之助に師事
を受けているが、松下村塾に移り、三歳年上の吉田松陰からも兵学を学んでいる。
嘉永六年︵一八五三︶四月、朱子学の修行を終えた伊之助は帰国となるが、この間の二年
間で吉田松陰との親交をさらに深めたのは確かである。伊之助が江戸を去って二ケ月後︵六
月︶
、米国の東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー提督は、軍艦四隻を率
いて相模国三浦半島の浦賀に入港した。時代の波が歴史を押し上げる中、伊之助は萩に戻る
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第一章 儒官の時代
と明倫館に復職する。
同時期、伊之助は吉田松陰の妹・寿︵十五歳︶と華燭の典︵結婚式︶を挙げている。
松陰は遊学中であったが、結婚を祝福した書簡がある。
﹁寿妹儀、小田村氏へ嫁せられ候由、先々珍喜比事御同慶仕候、彼三兄弟皆読書人、この一
事にても弟︵松陰︶が喜ぶ所なり﹂
︵﹃吉田松陰書翰﹄︶
この文中に見られるように、松陰は小田村の兄弟三人が共に学者揃いで、ことのほか嬉し
いと書状には認めている。
(注記)三
・ 二 男 伊 之 助( 楫 取 素 彦 )
・ 三男百合熊
兄弟とは松島瑞蟠の三人の男子、松島瑞益(剛蔵)
(小倉健作)である。
結婚もつかの間、この年︵嘉永六年︶
、 再 び 江 戸 桜 田 藩 邸︵ 上 屋 敷 ︶ の 有 備 館︵ 文 武 稽 古
所︶稽古掛を命じられ萩を離れた。江戸派遣の目的は、長州藩が明倫館蔵版として四書︵大
学・中庸・論語・孟子︶素読用教書出版にあたり、幕府の学問所昌平黌の許可を得るためで
ある。所謂、
﹁明倫館版の四書素読本上木幕府向伺昌平改等周旋﹂を命じられたのである。
安政二年︵一八五五︶ 四月、 二年間の勤務を終えた伊之助の年齢は二十五歳に達してい
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た。帰藩を許され、舎長書記兼帯にて明倫館講師見習を再勤する。だが、安政三年二月、長
州藩は幕命を受け、三浦半島の防備を担当すべく、またもや伊之助を相模国三浦郡上宮田陣
屋への出張を命じる。
この時期の伊之助は、度々明倫館を離れることに重苦しいものがあったと推察するが、そ
の心情を吉田松陰への書簡に記しており、それに対して松陰は、明倫館と同様、海防の任務
は大事であるとして励ましている。
(注記)長
州藩は幕命により、嘉永六年十一月から江戸湾入口にあたる三浦半島の防備を担当してい
た。
安政四年︵一八五七︶四月にようやく任務を解かれ、帰国することを許される。
明倫館都講役助講兼勤講師見習の名目の廃止に伴い助講に復すことになる。六月には講師
本役、七月に小学教論役兼勤となり、翌安政五年十一月には助教、都講座用務取計を命ぜら
れた。
松陰の妹・杉寿との結婚
小田村伊之助は吉田松陰の妹・寿︵十五歳︶と、嘉永六年︵一八五三︶七月に結婚。松陰
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