(きゅうしゅうびと) 立石 一真

〔連載①〕
渡辺 仁
経済大国ニッポンをけん引したのは世界が驚くモノづくり技術だ。その代表企業の一つ
が立石一真が創業した立石電機製作所(オムロン)だ。このわが国ハイテクベンチャーの元
祖、オムロンはどう生まれどう進化してきたのか。
今回から生涯をモノづくりに捧げた立石一真(熊本県出身)の哲学と波瀾の技術者人生
を5回にわたって紹介する。
昭和恐慌の最中に脱サラ
「ズボン挟み」
が惨敗
自信の
立石 一真
—熊本市出身—
上の写真出典:『春の雪』立石一真著(発行者…立石孝雄)
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で、しつけが厳しかった。
の施設に配って回った。一カ月の収入は 円
銭から 円。大卒初任給の 分の で今
なら 、 万円だ。
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ることに目をつけて一家で移住した。伊万里
ていたことから、兵士や家族でにぎわってい
伊万里時代の祖父は、絵つけから窯焼き
までこなす腕利きの陶工だった。それが熊本
ていた。
代まで陶芸で有名な佐賀県伊万里で暮らし
屋街、新町で生まれた。立石一家は、祖父の
明治 (1900)年 月 日、
立石一真は、
父・熊助、母・エイの長男として熊本市の問
生哲学であり、日々の生活訓である。
この誰もがうなずかざるをえない言葉が、
オムロンをつくった立石一真がたどりついた人
〈人を幸せにする人が幸せになる〉
一真は喪主として位牌を抱き、一家の柱になっ
式の翌日だった。父の野辺送りの長い葬列で
明治 年 月、熊助は失意のうちに 歳
で亡くなった。一真が尋常小学校 年の終業
産を食いつぶす生活になっていった。
店をたたみ、好きな絵を描きながら祖父の遺
だが、その恵まれた暮らしも祖父の死で
暗転する。商売人ではなかった父は、その後、
教えで身につけたと語っている。
技術者の伎量は祖父から
立石一真は、後に
し ん し
うけ、何事にも真摯に向き合う心を祖母の
ガツガツして下品だよ、とたしなめた。
箸の使い方でも、茶碗や食卓を汚さぬよ
う注意された。箸の先だけ使って食べないと
とも残すんじゃないぞ」
しめたまえ」と法華経の教えを持ち出し、「ま
など母は、
「大難は小難。小難は無難になさ
両親は熱心な日蓮宗の信者だった。朝夕の
法華経の勤行を欠かさず、川でケガしたとき
力の不思議なエネルギーに感動した。
が動く仕組みに目を奪われた。子供心に電
動力がベルトを伝わり、うなりをあげて機械
バイト代を援助してくれることになった。そ
勤める母の異母弟が、かわいそうだと言って
城内に鎮西鎮台(陸軍第6師団)が置かれ
けの日の丸と軍艦旗を描いた盃とか、名前を
入れた美人画の皿などを退官記念品として
売り出し、大ヒットさせた。それで全盛期に
は立派な家を建て、初孫の一真には乳母がふ
出てきたという。
◆新聞配達
そんなある日、旋盤工の下宿人から「一度、
工場見学に来いよ」と誘われ鉄工所を見に行
った。そこでスイッチ一つでモーターが回って、
だった。よかった、よかった」と慰めてくれた。
そうしたことで、自然と宗教心が植えつけら
れた。それと祖母の厳しいしつけが自分の精
神の骨を作ってくれたと思っている。その祖
母は中学 年のとき亡くなった。
◆海兵失敗
尋常小学校は首席で卒業した。
人下宿屋を始めた。だが、それも大した収入
「母さんを助けよう」
年生のころから中学進学を考えていた
が、家計の状態から口には出せなかった。
てられた。
小学 年のとき、誰に言われることなく一
真は新聞配達を始める。学校が終わった
にはならず、窮乏生活になった。
として絵つけを手伝い、寺院の掛け軸や装飾
まつえい
祖母も伊万里生まれの葉隠れ武士の末裔
画の仕事などで引っ張りダコだった。
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時ごろから学校周辺と熊本城内の第
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師団
年になると進学組は特別授業に入っていたが、
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熊助は、芸術家ハダの人物で、絵筆をにぎ
ると相当なウデだった。このため祖父の片腕
祖父と父の死で一家は無収入になった。失
意の中で母は、学生や巡査、職人が相手の素
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たりもつき、大切な三代目の跡取りとして育
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れで 年生のとき一時中断する。
の技術でひと旗あげようと考えたのだ。
あ、ケガぐらいでよかった。骨折したら大変
「米はお百姓が丹精して作ったものだよ。
人の手がかかっているんだから、一粒たり
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新聞配達は、雨の日も風の日も休みなし
だが、一真は平気だった。そのうち逓信局に
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たと悟った。このとき子供心に強い独立心が
◆陶工の血
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祖父は陶工のウデだけでなく、経営能力
にも優れていた。自分で考案した除隊兵士向
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が多く収入も多い地元紙の九州日日新聞を
度は収入の少ない中央紙ではなく、配達件数
母と話しあって新聞配達を再開したのだ。今
の寸 法どり
憧 れの 制 服
し た。 だ が、
学 科は合 格
が、大学ともなると中学進学とは
ワケが違う。五高は地元だが、大
学になると郷里を出て自活しなけ
ればならない。新聞配達では追いつ
かない。
そんなとき政治家の清浦奎吾が
熊本に来ていた。それで母は同郷
のよしみから一真を連れて相談にい
った。
「この息子ば、東京で書生でんナ
ンでんして大学に行かせたかですが、
母はわらにもすがる思いで聞いた。
何とかならんでっしゅうか」
日の 体 格 検
この一言で名門の五高入りをあき
らめて、
実業に一歩近い熊本高等工業学校(熊
「これからの世の中は学歴よりか
実力ばい。そう無理して大学に行か
こうして難関の熊本中学(熊本高校)に
合格する。
れたのだ。試験官の田辺少佐が気の毒がって、
本大学工学部の前身)を選んだ。受験の年の
査で 落 とさ
たの に 最 終
中学時代の思い出は、真冬でも素足に太い
鼻緒の焼き杉のゲタで通学したことだ。貧乏
「君、来年ぜひ受けたまえ」と励ました。
全員が戦死していた。もし、あのとき合格し
響で、ドイツから化学原料が入ってこなくな
業時には就職難となった。
一転、化学工場の閉鎖が相次ぎ、 年後の卒
このため国産品では太刀打ちできなくなり、
ところが、入学後に第一次大戦が終わり、
薬品、染料、化学製品がどんどん入ってきた。
みて電気化学科に入ったのだ。
始めたのだ。だから、化学産業が将来有望と
った。この不安定な国際情勢に危機感をつの
中学卒業が近づくと第五高等学校か海兵
かと悩むことになる。
◆電気化学
なっていただろう。
ていたら、駆逐艦の艦長ぐらいに出世しただ
電気機械科)ができた。第一次世界大戦の影
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らせた文部省が電気化学の振興に力を入れ
5
ろうが、ブーゲンビルの海戦で海の藻くずと
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んでんよか」
で靴が買えなかったからだ。熊本の冬は底冷
大正 年、熊本高工に電気科(電気化学科・
それをあおるように夏休み前には海兵の先輩
が学校に来た。その七つボタンの制服に短剣
を下げた姿がみんなの憧れだった。
さいおう
えがする。とくに センチの霜柱が立った日
中学 年になるとまた進学のことを考え
る。熊本は武道が盛んで海兵行きが多かった。
もう一つは、海軍兵学校の受験に失敗した
ことだ。
など素足の痛みに涙がこぼれた。
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一真は断念した。
そんなとき担任の大村益人先生
が家を訪れ、
「一真君をなんとか進学
させられないか」と申し入れてくれ、
未来に光が射した。もともと母は進
学に反対ではなかった。それで先生
の説得をうけ進学に賛成した。
配ることにした。そしてこの新聞配達は熊本
までいってい
問 題はどうして学費を捻出する
かだ。もう、アノ手しかない。そう
高等工業の 年半までやり続けた。
(上)熊本高等工業学校に入学した18歳ごろの立石一真
(下)熊本高工の学友たちとの記念写真。後列中央の和服姿が立石一真。(左前が若
き日の松前重義・東海大学元総長)
「人間万事塞翁が馬」だ。この年、
だが、
熊中の 年卒業の合格者が 、 人いたが、
1
兵学校の試験は、卒業時の 年だったが、
年でも受験できた。学校の成績は中位だっ
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5
一真は、五高から大学に進みたかった。だ
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4
たが、受験料も無料だったので4年で受験し、
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帰れではなく、
「 人帰庁せよ」との命令だ
った。若い 人が一緒だからハメを外したと
みられたのだ。だが、若い 人は納得しない。
た。この注目製品を設計から試作品検査まで
任せる、と一真が抜てきされたのだ。
らず使いものにならないのだ。納期がせまり、
◆芸者遊び
「お前たちが帰ったらおもしろいことはない。
オレたちも神戸に帰る」
ところが、この苦労の末にできた試作機
が何回試験しても予定どおりの成果があが
社会人の第一歩は、大正
県庁土木課の電気技師だ。
つぶれてしまう。設計責任者として、自分で
州大学や大阪高工を出たばかりの新人
で長期出張した。
円つき、月収は175円
赴任先は、山奥の田舎町で人口5000人
のところ芸者が 人もいた。給料のほかに出
日
いちじょう
生の一場の夢のようなものだった。
◆技術者魂
原因を突きとめなければならないのだ。
このとき一真は、キャリア 年の 歳だっ
た。各種の文献を食いいるように読み、何度
も実験をくり返すうちに改造方法のめどがつ
いた。だが、その検証実験には何百キロもの
電力がいった。もちろん、井上電機にはそん
な実験設備はない。そこで発注先の大同電力
の安治川発電所にリアクトルを持ちこんで実
ぞッ」
の使い込みしとる
「 あの 派 手 な 若
い役人たち、公金
使っていたのだ。
ら120万円)も
井上電機では、仕事熱心さが認められ、
重要な設計の仕事を任されるようになった。
妙なトキメキを感じた。
り現場ということで、一真も〝菜っ葉服〟に
バリの大高工出身だった。初めてのモノづく
常務・技師長を中心に 人の技師全員がバリ
阪高工(大阪大工学部)電気科一期生の大渡
発して急成長中のベンチャー企業だった。大
井上電機は、従業員200人、電力を調整
する配電盤や高圧油圧式の遮断機などを開
し、技術者人生をスタートさせる。
キュレーテッド・リスク(実験検証を極めて
た経験で、いかにモノづくり現場では「カリ
この自分の知力、体力の限界まで出して闘っ
うちに断念しよう」となり注文を解消した。
人と井上側が話しあい、
「致命傷をおわない
クになっていたのだ。そこで大同電力の支配
それでもいい結果がでなかった。当時の日
本では未開発の「油入形」という技術がネッ
夜で実験を続けた。
真は椅子に腰かけたまま、三日三晩、完全徹
ごとに計測しなければならない。このため一
温度まであげるのに時間がかかる。また 分
井上電機では、
もう一つ得がたい経験をした。
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張宿泊費が
だ。母に 円仕送りし下宿代を 円支払って
も115円残った。血気盛んな 歳だ。山奥
失職中の一真は、神戸の下宿で 、 カ月
ブラブラする。その後、大正 年 月、同
たちまちそんな
評判がたった。
ちょうど、米国ゼネラル・エレクトリック社
つかんだ危険=危険予知)
」の思想が重要か、
験をやった。機械そのものが大規模で一定の
そのうち〝公金
横領〟の疑いで警
が発電機を保護する「限流リアクトル」とい
て500円( 今 な
察の尾行までつき
いやというほど知った。
人あわせ
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う新製品を売り出したところで、井上電機
号を大同電力から受注し
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何しろ
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本庁から呼び出し
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でもその国産第
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がきた。 人全員
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には何もない。仲間 人と連れ立ってビリヤ
級生の紹介で京都の井上電機製作所に就職
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4
ードや芸者遊びに大盤振る舞いの毎日だった。
昭和恐慌の最中に脱サラ
自信の
「ズボン挟み」
が惨敗
資材も発注しており、このままでは、会社が
と、まあ、連帯責任をとったのか。 人全
員が辞表を出し県庁をやめたのだ。
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初仕事は、姫路の揖保川上流につくる県
営発電所の現地調査だった。月給 円。九
月、兵庫
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人
年
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歳の若気の至りとはいえ、この 年余の
県庁の役人暮らしは、その後の長い起業家人
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〔連載①〕
立石 一真 ─熊本市出身─
当時、米国ウェスチングハウス社が開発し
た誘導型保護継電器が輸入され脚光を浴び
子と結婚、娘が 人生まれたばかりだった。
ら売れるだろう」
。そんな漠然とした思いか
スタートさせた。
「不景気でも身の回り品な
それで早速、 月に家庭用品の製造販売
をねらって「彩光社」を設立、起業家人生を
〈このズボン挟みを売らなければ、オマンマ
が食えない。家族全員が干上がってしまう〉
う販売のイロハも知らなかったのだ。
頭で使い方を説明しなければ売れない、とい
一真は、独自に大丸や家具屋などに営業を
かけ店頭に置いてもらったが、ぜんぜん売れ
らだった。井上電機時代に実用新案をとった
人間、窮地に追い込まれたらなんでもやる。
のんきな県庁時代とは大違いだ。
こで国内電機メーカーが開発に参戦し、井上
「ズボン挟み」を商品化しよう。これで当て
円
銭で売っていたので、
日 台売ったら米代とおかず代にはなる。
回った。1台
なかった。新商品は置くだけでは駄目で、店
社内に東京からきた天才的な型工がいた。
その天才と組んでウェスチング製品を徹底解
電機でも一真に白羽の矢が立った。
号を
て、ひと旗あげよう、と考えた。
ていた。だが、モノはいいが値段が高い。そ
完成させた。このときの感動はなにものにも
一真は、自転車に「ズボン挟み」を 、
台積み、新興住宅地の下鴨方面を行商して
明し、連日徹夜をくり返し、国産第
かえがたい。立石一真の研究を最優先する考
この「ズボン挟み」とは、 枚重ねの板を
チョウツガイで止めて、板の間にズボンを挟
んで締める。これに電熱を通すと、ズボン・
え方はこのときつかんだ。これが技術者魂の
原点となった。
も思えないアイデア商品だった。
家族ともども引っ越した。工場には中古の旋
京阪国道の近くに居抜きの工場長屋を借り、
たので、事業資金は800円。それを元手に
竜安寺の自宅を抵当に入れ、大阪の金貸
しから700円借りた。退職金が100円出
しい限りだった。
食らう身になったのかと思うと、切なくわび
器を開発した。それが猛犬やら玄関払いを
のウェスチング社に対抗して、日本初の継電
分をエリート技師だとうぬぼれていた。世界
だが、行く先々で女中に居留守を使われ
たり、
勝手口から入ると「この奥に猛犬あり」
盤やプレス機を入れ、パートの工員を雇って
と張り紙が張ってあった。つい半年前まで自
型造りから部品生産、組み立てまでできる体
勢をつくった。 歳のひと月まえだ。
何事も継続が力になる。訪問販売は、日に
日に上達し、 日 、 台売れるようになった。
プレッサーになる。まあ、それほど独創的と
昭和 年ごろから第一次大戦後のアメリカ
発の世界恐慌が日本にもおよんできた。京都
の中小電機メーカーも受注減でバタバタ倒産
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当然ながら井上電機時代の営業と家庭用品
いざ、起業してみると、技術オンリーの生
活だったので販売ルートもなにも分からない。
庭に育った妻は〝一升買い〟などやったことが
た。母は熊本時代に経験していたが、中流家
それで貧乏時代の「米の一升買い」を始めてい
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一真は 年前に京都・竜安寺に家を新築し母
ほしい」との希望に応じた。だが、このとき
りにお願いしたが、さっぱり売れなかった。
せてほしい、と言ってきた。渡りに船とばか
そんなとき、名 古 屋の行 商 屋が権 利 金
350円で「ズボン挟み」の総代理店をやら
むなしく消えた。
された。こうして母と妻・娘との新婚の夢は
竜安寺の家は、この事業の失敗で借金が返
せす、わずか450円で競売にかけられ処分
それでも米びつを満たすだけにはならなかった。
とでは、まったく違っていたからだ。工場は
ない。だから一升買い係は、一真が受け持った。
年)と続き、
戦時経済体制に入っていくのである。
在庫品のヤマ。しばらくは開店休業だった。
・ 事件、満州事変(昭和
一真が井上電機を辞めたのは、その年 月、
恐慌の真っ最中のことだ。会社側の「再就職
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した。井上電機も倒産寸前までいき希望退
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職者を募った。
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◆一升買い
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昭和 年 月、金解禁令が発動され、世
にいう〝昭和恐慌〟
(昭和年 から 年)に
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突入する。その後は、軍部が主導権をにぎり、
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の難しい職工より高給の学卒から先に辞めて
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と弟を呼び寄せ、 年前に名古屋の山田元
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