〔連載①〕 渡辺 仁 経済大国ニッポンをけん引したのは世界が驚くモノづくり技術だ。その代表企業の一つ が立石一真が創業した立石電機製作所(オムロン)だ。このわが国ハイテクベンチャーの元 祖、オムロンはどう生まれどう進化してきたのか。 今回から生涯をモノづくりに捧げた立石一真(熊本県出身)の哲学と波瀾の技術者人生 を5回にわたって紹介する。 昭和恐慌の最中に脱サラ 「ズボン挟み」 が惨敗 自信の 立石 一真 —熊本市出身— 上の写真出典:『春の雪』立石一真著(発行者…立石孝雄) 98 Zaikai Kyushu / FEB.2015 で、しつけが厳しかった。 の施設に配って回った。一カ月の収入は 円 銭から 円。大卒初任給の 分の で今 なら 、 万円だ。 1 ることに目をつけて一家で移住した。伊万里 ていたことから、兵士や家族でにぎわってい 伊万里時代の祖父は、絵つけから窯焼き までこなす腕利きの陶工だった。それが熊本 ていた。 代まで陶芸で有名な佐賀県伊万里で暮らし 屋街、新町で生まれた。立石一家は、祖父の 明治 (1900)年 月 日、 立石一真は、 父・熊助、母・エイの長男として熊本市の問 生哲学であり、日々の生活訓である。 この誰もがうなずかざるをえない言葉が、 オムロンをつくった立石一真がたどりついた人 〈人を幸せにする人が幸せになる〉 一真は喪主として位牌を抱き、一家の柱になっ 式の翌日だった。父の野辺送りの長い葬列で 明治 年 月、熊助は失意のうちに 歳 で亡くなった。一真が尋常小学校 年の終業 産を食いつぶす生活になっていった。 店をたたみ、好きな絵を描きながら祖父の遺 だが、その恵まれた暮らしも祖父の死で 暗転する。商売人ではなかった父は、その後、 教えで身につけたと語っている。 技術者の伎量は祖父から 立石一真は、後に し ん し うけ、何事にも真摯に向き合う心を祖母の ガツガツして下品だよ、とたしなめた。 箸の使い方でも、茶碗や食卓を汚さぬよ う注意された。箸の先だけ使って食べないと とも残すんじゃないぞ」 しめたまえ」と法華経の教えを持ち出し、「ま など母は、 「大難は小難。小難は無難になさ 両親は熱心な日蓮宗の信者だった。朝夕の 法華経の勤行を欠かさず、川でケガしたとき 力の不思議なエネルギーに感動した。 が動く仕組みに目を奪われた。子供心に電 動力がベルトを伝わり、うなりをあげて機械 バイト代を援助してくれることになった。そ 勤める母の異母弟が、かわいそうだと言って 城内に鎮西鎮台(陸軍第6師団)が置かれ けの日の丸と軍艦旗を描いた盃とか、名前を 入れた美人画の皿などを退官記念品として 売り出し、大ヒットさせた。それで全盛期に は立派な家を建て、初孫の一真には乳母がふ 出てきたという。 ◆新聞配達 そんなある日、旋盤工の下宿人から「一度、 工場見学に来いよ」と誘われ鉄工所を見に行 った。そこでスイッチ一つでモーターが回って、 だった。よかった、よかった」と慰めてくれた。 そうしたことで、自然と宗教心が植えつけら れた。それと祖母の厳しいしつけが自分の精 神の骨を作ってくれたと思っている。その祖 母は中学 年のとき亡くなった。 ◆海兵失敗 尋常小学校は首席で卒業した。 人下宿屋を始めた。だが、それも大した収入 「母さんを助けよう」 年生のころから中学進学を考えていた が、家計の状態から口には出せなかった。 てられた。 小学 年のとき、誰に言われることなく一 真は新聞配達を始める。学校が終わった にはならず、窮乏生活になった。 として絵つけを手伝い、寺院の掛け軸や装飾 まつえい 祖母も伊万里生まれの葉隠れ武士の末裔 画の仕事などで引っ張りダコだった。 6 5 時ごろから学校周辺と熊本城内の第 4 師団 年になると進学組は特別授業に入っていたが、 5 20 熊助は、芸術家ハダの人物で、絵筆をにぎ ると相当なウデだった。このため祖父の片腕 祖父と父の死で一家は無収入になった。失 意の中で母は、学生や巡査、職人が相手の素 1 9 たりもつき、大切な三代目の跡取りとして育 3 れで 年生のとき一時中断する。 の技術でひと旗あげようと考えたのだ。 あ、ケガぐらいでよかった。骨折したら大変 「米はお百姓が丹精して作ったものだよ。 人の手がかかっているんだから、一粒たり 6 新聞配達は、雨の日も風の日も休みなし だが、一真は平気だった。そのうち逓信局に 3 たと悟った。このとき子供心に強い独立心が ◆陶工の血 50 祖父は陶工のウデだけでなく、経営能力 にも優れていた。自分で考案した除隊兵士向 88 2 6 42 6 Zaikai Kyushu / FEB.2015 99 3 4 3 41 33 が多く収入も多い地元紙の九州日日新聞を 度は収入の少ない中央紙ではなく、配達件数 母と話しあって新聞配達を再開したのだ。今 の寸 法どり 憧 れの 制 服 し た。 だ が、 学 科は合 格 が、大学ともなると中学進学とは ワケが違う。五高は地元だが、大 学になると郷里を出て自活しなけ ればならない。新聞配達では追いつ かない。 そんなとき政治家の清浦奎吾が 熊本に来ていた。それで母は同郷 のよしみから一真を連れて相談にい った。 「この息子ば、東京で書生でんナ ンでんして大学に行かせたかですが、 母はわらにもすがる思いで聞いた。 何とかならんでっしゅうか」 日の 体 格 検 この一言で名門の五高入りをあき らめて、 実業に一歩近い熊本高等工業学校(熊 「これからの世の中は学歴よりか 実力ばい。そう無理して大学に行か こうして難関の熊本中学(熊本高校)に 合格する。 れたのだ。試験官の田辺少佐が気の毒がって、 本大学工学部の前身)を選んだ。受験の年の 査で 落 とさ たの に 最 終 中学時代の思い出は、真冬でも素足に太い 鼻緒の焼き杉のゲタで通学したことだ。貧乏 「君、来年ぜひ受けたまえ」と励ました。 全員が戦死していた。もし、あのとき合格し 響で、ドイツから化学原料が入ってこなくな 業時には就職難となった。 一転、化学工場の閉鎖が相次ぎ、 年後の卒 このため国産品では太刀打ちできなくなり、 ところが、入学後に第一次大戦が終わり、 薬品、染料、化学製品がどんどん入ってきた。 みて電気化学科に入ったのだ。 始めたのだ。だから、化学産業が将来有望と った。この不安定な国際情勢に危機感をつの 中学卒業が近づくと第五高等学校か海兵 かと悩むことになる。 ◆電気化学 なっていただろう。 ていたら、駆逐艦の艦長ぐらいに出世しただ 電気機械科)ができた。第一次世界大戦の影 7 らせた文部省が電気化学の振興に力を入れ 5 ろうが、ブーゲンビルの海戦で海の藻くずと 4 んでんよか」 で靴が買えなかったからだ。熊本の冬は底冷 大正 年、熊本高工に電気科(電気化学科・ それをあおるように夏休み前には海兵の先輩 が学校に来た。その七つボタンの制服に短剣 を下げた姿がみんなの憧れだった。 さいおう えがする。とくに センチの霜柱が立った日 中学 年になるとまた進学のことを考え る。熊本は武道が盛んで海兵行きが多かった。 もう一つは、海軍兵学校の受験に失敗した ことだ。 など素足の痛みに涙がこぼれた。 5 10 0 Zaikai Kyushu / FEB.2015 一真は断念した。 そんなとき担任の大村益人先生 が家を訪れ、 「一真君をなんとか進学 させられないか」と申し入れてくれ、 未来に光が射した。もともと母は進 学に反対ではなかった。それで先生 の説得をうけ進学に賛成した。 配ることにした。そしてこの新聞配達は熊本 までいってい 問 題はどうして学費を捻出する かだ。もう、アノ手しかない。そう 高等工業の 年半までやり続けた。 (上)熊本高等工業学校に入学した18歳ごろの立石一真 (下)熊本高工の学友たちとの記念写真。後列中央の和服姿が立石一真。(左前が若 き日の松前重義・東海大学元総長) 「人間万事塞翁が馬」だ。この年、 だが、 熊中の 年卒業の合格者が 、 人いたが、 1 兵学校の試験は、卒業時の 年だったが、 年でも受験できた。学校の成績は中位だっ 5 5 一真は、五高から大学に進みたかった。だ 3 4 たが、受験料も無料だったので4年で受験し、 4 帰れではなく、 「 人帰庁せよ」との命令だ った。若い 人が一緒だからハメを外したと みられたのだ。だが、若い 人は納得しない。 た。この注目製品を設計から試作品検査まで 任せる、と一真が抜てきされたのだ。 らず使いものにならないのだ。納期がせまり、 ◆芸者遊び 「お前たちが帰ったらおもしろいことはない。 オレたちも神戸に帰る」 ところが、この苦労の末にできた試作機 が何回試験しても予定どおりの成果があが 社会人の第一歩は、大正 県庁土木課の電気技師だ。 つぶれてしまう。設計責任者として、自分で 州大学や大阪高工を出たばかりの新人 で長期出張した。 円つき、月収は175円 赴任先は、山奥の田舎町で人口5000人 のところ芸者が 人もいた。給料のほかに出 日 いちじょう 生の一場の夢のようなものだった。 ◆技術者魂 原因を突きとめなければならないのだ。 このとき一真は、キャリア 年の 歳だっ た。各種の文献を食いいるように読み、何度 も実験をくり返すうちに改造方法のめどがつ いた。だが、その検証実験には何百キロもの 電力がいった。もちろん、井上電機にはそん な実験設備はない。そこで発注先の大同電力 の安治川発電所にリアクトルを持ちこんで実 ぞッ」 の使い込みしとる 「 あの 派 手 な 若 い役人たち、公金 使っていたのだ。 ら120万円)も 井上電機では、仕事熱心さが認められ、 重要な設計の仕事を任されるようになった。 妙なトキメキを感じた。 り現場ということで、一真も〝菜っ葉服〟に バリの大高工出身だった。初めてのモノづく 常務・技師長を中心に 人の技師全員がバリ 阪高工(大阪大工学部)電気科一期生の大渡 発して急成長中のベンチャー企業だった。大 井上電機は、従業員200人、電力を調整 する配電盤や高圧油圧式の遮断機などを開 し、技術者人生をスタートさせる。 キュレーテッド・リスク(実験検証を極めて た経験で、いかにモノづくり現場では「カリ この自分の知力、体力の限界まで出して闘っ うちに断念しよう」となり注文を解消した。 人と井上側が話しあい、 「致命傷をおわない クになっていたのだ。そこで大同電力の支配 それでもいい結果がでなかった。当時の日 本では未開発の「油入形」という技術がネッ 夜で実験を続けた。 真は椅子に腰かけたまま、三日三晩、完全徹 ごとに計測しなければならない。このため一 温度まであげるのに時間がかかる。また 分 井上電機では、 もう一つ得がたい経験をした。 30 張宿泊費が だ。母に 円仕送りし下宿代を 円支払って も115円残った。血気盛んな 歳だ。山奥 失職中の一真は、神戸の下宿で 、 カ月 ブラブラする。その後、大正 年 月、同 たちまちそんな 評判がたった。 ちょうど、米国ゼネラル・エレクトリック社 つかんだ危険=危険予知) 」の思想が重要か、 験をやった。機械そのものが大規模で一定の そのうち〝公金 横領〟の疑いで警 が発電機を保護する「限流リアクトル」とい て500円( 今 な 察の尾行までつき いやというほど知った。 人あわせ 25 う新製品を売り出したところで、井上電機 号を大同電力から受注し 9 何しろ 3 本庁から呼び出し 10 でもその国産第 11 がきた。 人全員 1 4 には何もない。仲間 人と連れ立ってビリヤ 級生の紹介で京都の井上電機製作所に就職 3 22 4 1 2 4 ードや芸者遊びに大盤振る舞いの毎日だった。 昭和恐慌の最中に脱サラ 自信の 「ズボン挟み」 が惨敗 資材も発注しており、このままでは、会社が と、まあ、連帯責任をとったのか。 人全 員が辞表を出し県庁をやめたのだ。 2 初仕事は、姫路の揖保川上流につくる県 営発電所の現地調査だった。月給 円。九 月、兵庫 2 人 年 4 歳の若気の至りとはいえ、この 年余の 県庁の役人暮らしは、その後の長い起業家人 3 85 3 4 Zaikai Kyushu / FEB.2015 101 10 21 30 3 50 1 30 〔連載①〕 立石 一真 ─熊本市出身─ 当時、米国ウェスチングハウス社が開発し た誘導型保護継電器が輸入され脚光を浴び 子と結婚、娘が 人生まれたばかりだった。 ら売れるだろう」 。そんな漠然とした思いか スタートさせた。 「不景気でも身の回り品な それで早速、 月に家庭用品の製造販売 をねらって「彩光社」を設立、起業家人生を 〈このズボン挟みを売らなければ、オマンマ が食えない。家族全員が干上がってしまう〉 う販売のイロハも知らなかったのだ。 頭で使い方を説明しなければ売れない、とい 一真は、独自に大丸や家具屋などに営業を かけ店頭に置いてもらったが、ぜんぜん売れ らだった。井上電機時代に実用新案をとった 人間、窮地に追い込まれたらなんでもやる。 のんきな県庁時代とは大違いだ。 こで国内電機メーカーが開発に参戦し、井上 「ズボン挟み」を商品化しよう。これで当て 円 銭で売っていたので、 日 台売ったら米代とおかず代にはなる。 回った。1台 なかった。新商品は置くだけでは駄目で、店 社内に東京からきた天才的な型工がいた。 その天才と組んでウェスチング製品を徹底解 電機でも一真に白羽の矢が立った。 号を て、ひと旗あげよう、と考えた。 ていた。だが、モノはいいが値段が高い。そ 完成させた。このときの感動はなにものにも 一真は、自転車に「ズボン挟み」を 、 台積み、新興住宅地の下鴨方面を行商して 明し、連日徹夜をくり返し、国産第 かえがたい。立石一真の研究を最優先する考 この「ズボン挟み」とは、 枚重ねの板を チョウツガイで止めて、板の間にズボンを挟 んで締める。これに電熱を通すと、ズボン・ え方はこのときつかんだ。これが技術者魂の 原点となった。 も思えないアイデア商品だった。 家族ともども引っ越した。工場には中古の旋 京阪国道の近くに居抜きの工場長屋を借り、 たので、事業資金は800円。それを元手に 竜安寺の自宅を抵当に入れ、大阪の金貸 しから700円借りた。退職金が100円出 しい限りだった。 食らう身になったのかと思うと、切なくわび 器を開発した。それが猛犬やら玄関払いを のウェスチング社に対抗して、日本初の継電 分をエリート技師だとうぬぼれていた。世界 だが、行く先々で女中に居留守を使われ たり、 勝手口から入ると「この奥に猛犬あり」 盤やプレス機を入れ、パートの工員を雇って と張り紙が張ってあった。つい半年前まで自 型造りから部品生産、組み立てまでできる体 勢をつくった。 歳のひと月まえだ。 何事も継続が力になる。訪問販売は、日に 日に上達し、 日 、 台売れるようになった。 プレッサーになる。まあ、それほど独創的と 昭和 年ごろから第一次大戦後のアメリカ 発の世界恐慌が日本にもおよんできた。京都 の中小電機メーカーも受注減でバタバタ倒産 5 1 4 当然ながら井上電機時代の営業と家庭用品 いざ、起業してみると、技術オンリーの生 活だったので販売ルートもなにも分からない。 庭に育った妻は〝一升買い〟などやったことが た。母は熊本時代に経験していたが、中流家 それで貧乏時代の「米の一升買い」を始めてい 6 一真は 年前に京都・竜安寺に家を新築し母 ほしい」との希望に応じた。だが、このとき りにお願いしたが、さっぱり売れなかった。 せてほしい、と言ってきた。渡りに船とばか そんなとき、名 古 屋の行 商 屋が権 利 金 350円で「ズボン挟み」の総代理店をやら むなしく消えた。 された。こうして母と妻・娘との新婚の夢は 竜安寺の家は、この事業の失敗で借金が返 せす、わずか450円で競売にかけられ処分 それでも米びつを満たすだけにはならなかった。 とでは、まったく違っていたからだ。工場は ない。だから一升買い係は、一真が受け持った。 年)と続き、 戦時経済体制に入っていくのである。 在庫品のヤマ。しばらくは開店休業だった。 ・ 事件、満州事変(昭和 一真が井上電機を辞めたのは、その年 月、 恐慌の真っ最中のことだ。会社側の「再就職 2 した。井上電機も倒産寸前までいき希望退 50 1 職者を募った。 3 1 ◆一升買い 7 昭和 年 月、金解禁令が発動され、世 にいう〝昭和恐慌〟 (昭和年 から 年)に 4 突入する。その後は、軍部が主導権をにぎり、 1 の難しい職工より高給の学卒から先に辞めて 15 と弟を呼び寄せ、 年前に名古屋の山田元 3 2 10 2 Zaikai Kyushu / FEB.2015 2 8 30 4 5 1 2 1 3 5
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