昭 和 62年 3月 浄土宗布教研究所 第 4号 布教研究所報 昭 和 62年 3月 浄土宗布教研究所 第 4号 戸 て え 次 ・ ・ 山 一念するために││くりかえしの効用││・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・・ ・ ・・・ ・ ::ji --ji-ji--・::有 浄 土 宗 に お け る 因 果 の 問 題│ │布教の立場からli--::::::::・ 村 部 山 松 亮 雄 義 浅 博 定 浄 啓 回 崎 子 上 野 目 集中研究会指導講義 え 大 遠 忌 を 迎 極 楽 の 白 蓮 華 真 ・ ・ ・ 4 ・ 教:::お 孝 ・ ・ ・ ・ ・ ・4 道 ・ ・ ・ ・ 必 ・ ・ 良 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 臼 光 ・ ・ ・・ ・ ・ 日 -m -- 毅 啓 ・ ・ ・・ ・ ・ 印 - 1ー の 人 研究所員研究成果報告 金 家庭における宗教教育について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ 稲 ・・ ・ ・ ・ ・・ 片 宮 羽 本 恵 俊:::祁 -m 司- 7 2 阿 浅 山 金 光 み 教 上 人 課 題 本 貫 上 人 光 上 和 歌 か ら の 布 教 地 獄 の 白 蓮 華 現 代 布 教 上 の 布 教 の 原 理 時 機 相 応 の 念 仏 村 大 脳 死 ・臓器移植と生命選択の時代・・・ ・ 佐 ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ タ 教学布教大会意見発表 授 手 色= 印 ・ ・ ・ ・・ 俊・ 回 回 道 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 土 ・ ・ ・ ・ ・ ・拘 ・ ・ 則 彦 ・ ・ ・ ・ -2- 大 市 史 ム イ │ 三 上 人 の ご 事 蹟 を あ お い で │ │布教師はこれでいいのか│ 訳 輪読会報告 1 4 3 1 6 9 1 8 1 1 7 8 末 代 念 上 人 を 仰 。 く 白司 向 集 後 記 報 口 特別寄稿 雄 ビ 布 教 の 実 践 と 地 域 寺 布 院 教 と と コ 視 ン 線 三五 開 祖 金 編 橋 藤 ) 1 1 室 島 俊 雅 隆 昭 邦 集中研究会指導講義 大正大学教授 法然上人と三上人のみ教え 戸 松 声 た ト4 真 る お 話 を と い う こ と で ご ざ い ま し た 。 こ れ は 考 え る と な か な か 難 し い 問 題 で 、 さらっと受けますと 、 法然上人の﹃選択本願念仏﹄をそれぞれ伝承されていかれた方と言えばそれで話はすむわけでござい ます。結局浄土宗の三上人というのは、この場合には法然上人は入っておりませんけれども、二祖、 三祖には当然法然上人の教えが伝承されておりますから、 だいたいこの筋道というのは 、 一つの太い 線があるわけで、それが法然上人の教えであります。即ち 、浄 土 宗 の 二 代 目 と 三 代 田 の 面 授 の お 弟 子 、 -4- 上人のみ教え ' ‘ ﹁三上人の教え﹂という題で集中研究会がございますので 、何 か 提 言 と 申 し ま す か 、 手がかりにな _ . . ・ ー. . それに宗祖法然上人の教えを直接間接に布告伝承している三人であります。これは詳しく述べていく と伝法のお話になるんですが、それでは三上人の教えということにはそぐわないので、それぞれ同じ お念仏の教えでございますけれども、場所により、人により、時代により、少しずつ違う点があると 思います。その点を、述べられるかどうか分かりませんけれども、 お 話 し 申 し 上 げ る わ け で ご ざ い ま す 。 いま申しましたように、この三上人の教えは、浄土宗として共通のものであるべきことは当然であ ります。即ち、三上人の教えは本来一つに重なるべきものであるということが言えると思うのでござ います。そこで、 ま ず 重 な る と す れ ば 、 宗 祖 法 然 上 人 の 教 え の 中 で 一 貫 し て 相 伝 さ れ て い る も の が あ り 、 そ の 点 に お い て 重 な る と い う こ と 。 総 依 法 然 と 言 う こ と が 出 来 る と す れ ば 、 それは、所伝で言い ますと、﹃選択集﹄でありますし、それを短くしたのが﹃一枚起請文﹄でありまずから、﹃選択集﹄と 一言で何であるかというと、題号の二十一宇にございますように、六字の名号。﹁選 ﹃一枚起請文﹄が所伝では法然上人の教えの中で相伝されていく一貫したところのものであります。 ﹃選択集﹄は、 択本願念仏集﹂、 その次の行に﹁南無阿弥陀仏﹂、その下に﹁往生之業念仏為先﹂とあります。 であり ますから、所伝で一貫した、﹃選択集﹄で説かれているものを縮めて言うと﹁南無阿弥陀仏﹂である。 さらに﹃一枚起請文﹄は、同じことでありますが、言葉で言うと﹁一向専修﹂ということ。この二つ が法然上人の教えの中で一貫して相伝されていなければ、相伝とは言えません。 -5- そして 、 この所伝の教えを受け継いだのが﹁三上人の教え﹂と言ってしまえば 、それで終りになる わけです。要するに﹁南無阿弥陀仏﹂六字の名号が法然上人の教えの中で一番の根本であり相伝され なければならないものである。こういうことを言ってしまうと 、 それで総てである。 つ ま り ご 向 専 修念仏﹂が伝えられていかれなければならないものである。 しかし 、 考えてみますと、 お釈迦様の教えも 、あ る い は 法 然 上 人 の 教 え も 、 こ の 教 え の 説 き 方 の 特 色というのは 、機に応じて教えを説く 、 即 ち対機説法 、 あるいは随機説法というものがその特色にな る 思 う の で ご ざ い ま す 。 し た が っ て 同 じ ﹁ 一 向 専 修 念 仏 ﹂ が 説 か れ ま し で も 、 その時代の社会の状況 、 人 々 の 求 め て い る も の が 違 え ば 、 それに対 し て 説 く 説 き 方 も ま た 違 っ て く る よ う に な る も の で あ り ま しよう。 先 ほ ど 申 し ま し た 、 法 然 上 人 の 一 貫 し た 教 え で あ る ﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ で あ り ま す け れ ど も 、 その特 色とするところは何であるかということを 、 もうちょっと分解いたしまして申し上げてみます。それ は法然上人の﹃選択本願念仏集﹄でございますけれども 、 その特色とするところは 、﹁選択本願念仏﹂ が そ の 特 色 で あ る 。 そ れ は ど う い う こ と に な る か と い う と 、﹁選択本願﹂の念仏は 、称名によって 、 菩薩も凡夫も、出家も在家も 、総 て の 者 が 区 別 な く 平 等 に 往 生 出 来 る と い う と こ ろ が ﹁ 選 択 本 願 念 仏﹂の特色である。 平等往生 、 即 ち 凡 夫 が 往 生 す る と い う こ と が ﹁ 選 択 本 願 念 仏 ﹂ の 目 的 と す る と こ ろ に な る わ け で ご - 6一 ざいまして、それが﹃選択集﹄に述べてあります平等往生。なぜこのお念仏を説くかということが出 ております 。 そ の 第 一 章 は 、 聖 道 門 を 捨 て て 浄 土 門 を 取 る 。 第 二 章 は 、 正 行 を 取 っ て 雑 行 を 捨 て る 。 その中に平等往生ということが出てくる。これは﹁選択﹂の義を説明するところに出てくるわけでご ﹂れを修するに便宜を得ること念仏に如ず。 ざ い ま す 。 こ れ は 第 三 章 の ﹁ 念 仏 往 生 本 願 篇 ﹂ に、 そ の 念 仏 を ど う し て 取 る か 。 これはいかなる人間 も、あるいはまたいかなる時でも、時処諸縁を論ぜず、 ほかの種々の行でも、往生することは出来ますけれども、 し か し こ の 念 仏 と い う も のは 、 いかなる貴 賎があっても、あるいは男女の別があっても、あるいは老若の区別があっても、 そのうちのいかなる 一切の衆生をして平等に往生せしめるところのものであるということですね。 者にも共通して往生出来るのはこの念仏に如くものはない。これは易しいから一切に通.するというこ とであって、 これが ﹁ 選択 ﹂ という言葉の中に入っているわけで、この﹁選択﹂というのは唐土の人師、諸流の 義 の 中 に も こ の ﹁ 選 択 ﹂ の 義 は 全 く な い 。 こ れ は 日本で初 めて﹁選択﹂の二字を │ │ ﹁本願念仏﹂は 善導大師の唐土の念仏でありますけれども、 こ の ﹁ 選 択 ﹂ の 義 は 中 国 に な く 、 法 然 上 人 の お 立 て に な った﹃選択集﹄ の 中 に だ け こ れ が あ る 。 ﹁ 選択﹂という言葉が法然上人の特色でありますけれども、 浄 土 三 部 経 ﹂の この﹁選択 ﹂と い う 言 葉 は 法 然 上 人 が ど こ か ら こ れ を お 持 ち に な っ た か と い う と 、 ﹁ 諸本、﹃無量寿経﹄ の諸本、﹃観経﹄の諸本、﹃阿弥陀経﹄の諸本、 こ う い う も の を 調 べ て ご ら ん に な 選択本願念仏 ﹂ って、岡本異訳の諸文を較べてみた 。 ということによって、 ﹁選 択 ﹂ ということは、 ﹁ - 7ー でありますけれども 、﹁本 願 の 念 仏 ﹂ は 善 導 大 師 も お 述 べ に な っ て い ま す か ら 、法然上人の特色とい うのは ﹁選 択 ﹂ とい うと こ ろ に そ の 義 が あ る わ け で ご ざ い ま す 。 聖 光上人のみ教え それが二祖 、 三祖と受け継がれていくわけで 、﹁選 択 ﹂ と い う こ と は 、 聖 光 上 人 の 教 え で そ れ は ど こ に ど う い う 具 合 に 受 け 継 が れ て い る か と い う と 、 そ れ は 言 う ま で も な く ﹃末代念仏授手 印﹄の中に その教えは継がれている 。 特 に ﹃ 授 手 印 ﹄ の 奥 図 と 申 し ま す か 、 六十 七 歳 の 時 に お 作 り に な って聖光 上 人 が 三 祖 に 伝 え た と こ ろ の ﹃ 末 代念 仏 授 手 印 ﹄ の中に 、 聖光上人の教えがある 。 そ れ は ﹃ 授 手 印 ﹄ の 最 後 の と こ ろ に 、﹁釈 し て日く 、我 法 然 上 人 の 言 く 、 善 導 の 御 釈 を 拝 見 す る に 、源空が目には三 心 も五念も四修も皆倶に南無阿弥陀仏と見ゆる也﹂ 、 こ う 出 て お る わ け で ご ざ い ま す 。 これを一 口で言うと 、 ご 存 じ の よ う に ﹁ 結 帰 一 行 三 味 ﹂ で あ り ま す 。 ﹃授手印 ﹄ を纏めて言うと 、 最後は ﹁結帰一行三味 ﹂、 即ち ﹁南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ に帰する 。 こ こ は 伝 法 で 言 う と こ ろ で ご ざ い ま す 。 し た が っ て 聖 光 上 人 の 教 え も 、 法 然 上 人 の 教 え │ │ 先 ほ ど 申 し ま し た よ う に ﹁ 選 択 ﹂ というところに ある 。 聖光上人はそれをお受けになって 、 そ し て ﹃ 授 手 印 ﹄ の 奥 図 で そ の こ と を 言 葉 で 示 さ れ た 。 そ してそれは ﹁結 帰 一 行 三 味 ﹂ 即 ち ﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ に 帰 す る と い う こ と 。 これは聖光上人の教えであ - 8一 るだけでなく 、浄土宗のお念仏の教えにもなるわけです。 しかし二祖聖光上人の教えの特色は 、 そ の ほ か に も ま だ あ り ま す 。 それを調べてみますと 、 いま申 し ま し た ﹃ 授 手 印 ﹄ の 中 の 奥 図 ﹁結 帰 一 行 三 味 ﹂ が 聖 光 上 人 の 教 え の 第 一 だ と す る と 、 第二は ﹁念死 念仏﹂というのが聖光上人の教えの特色であります 。 そ れ は ど こ に 述 ら れ て お る か と 申 し ま す と 、﹃一言芳談﹄という 、 鎮西上人がお 書 きになったもの であろうかという説もありますし 、 い ず れ に し て も 法 然 上 人 の お 弟 子 の 念 仏 門 の 関 係 の 方 が 製 作 さ れ - 9ー たもので 、 国 文 学 の ほ う で も 、 この時代の思想を知る上に 、 あ る い は ま た 念 仏 の 教 え が 一 般 の 人 々 の 聞 に ど の よ う に し て 受 け 入 れ ら れ て い た か と い う こ と を 知 る に は 、 非常に 参考 に な る も の で ご ざ い ま す。 その下巻の中に 、 ﹁聖光上人云 、 八 万 の 法 門 は 死 の 二 子 を 説 く 。 然 れ ば 則 ち 、 死 を 忘 れ ざ れ ば 、 八万の法門を自然に心得たるものにであるなり ﹂ これが﹃一言芳談﹄の下巻に出ております 。 そ れ か ら 言 わ れ る の が 念 死 念 仏 。 死 を 念 じ 、 仏 を 念 ず る 。 結 局 、 お念仏を申すということは 、 漸 々 に 薫 習 せ ば 、 厭 欣 い ず く ん ぞ 起 こ ら ざ ら ん 。 ま さ に 知 る べ し 。 一切のことはみな免るべく死の り、 こ れ に よ っ て 厭 欣 心 を 倶 せ ん と 欲 せ ん 者 は 常 に ま さ に こ の 二 念 に お い て 心 を か け て 忘 れ ざ る ベ し 。 すと 、 ﹁ 先 師 教 え て 日 く │ │ 先 師 と は 二 祖 上 人 の こ と │ │ 予 が 所 存 の 如 き は た だ 念 死 念 仏 の 二 念 に あ を 三 祖 良 忠 上 人 が お 聞 き に な っ て 、﹃ 決 疑 紗 ﹄ の 第 三 巻 に こ れ を お 書 き に な っ て い る 。 そ れ を 読 み ま り 死 を 念 ず る と い う こ と で 、 二 祖 上 人 が 言 わ れ た の は こ の ﹁ 念 死 念 仏 ﹂ の 二 念 に あ り 。 こういうこと や は 字は逃がるべからず││一切のことはみな、どういうことであっても、方法を用いれば免れることが 出来るけれども、免れることの出来ないのは死の一字、これは逃がれられないものである 1 1 もし常 に必死の終りを念ぜば、 いずくんぞ厭怖の心を起こさざらんや ﹂ 必ず死ぬという死の終り、生の終り と言いますか、死をもって終る 。 死 の 終 り を 念 ぜ ば 、 ど う し て 厭 い 怖 れ の 心 が 起 き な い こ と が あ ろ う か。 必ず死を怖れるものである 。死 を 怖 れ ることがあれば、必ず仏にお願いをする、仏を頼む、そう いう心が出てくる 。 即 ち 私 の 考 え る と こ ろ は 念 死 念 仏 で あ る と い う こ と を 、 聖 光 上 人 は お っ し ゃ っ て いたということを、 それをお聞きになった三祖上人が﹃決疑紗﹄の中でその教えを書いている 。 いま述べましたことは、大乗、小乗ありますけれども、結局仏教の仏の教えというのは何かと言う と、死の一事、死に対する覚悟ということを説いたものが仏の教え、 八万の法門であって、 それを自 然に心得た者は、 死を忘れなければ自然に八万の法門をやがて理解し、分かってくるものである 。総 ての仏教者の根本には、 やはり死というものが常にある 。往生浄土教、仏教そのもの全体が結局語る ということ、往生するということは、総てその死をいかに受け止めるか、死に対していかに覚悟する かということの教えであって、 それがいろいろな小乗、大乗によって形が違いますし、浄土門と聖道 門によってまた形が違いますけれども、 これは総て死の問題 。 死を説いたこと、 それが結局元である という考えを、聖光上人は根本にお持ちになっている 。そ れ が 聖 光 上 人 の 教 え の お 念 仏 の 特 色 │ │ 念 死念仏によるということが、 二番目の聖光上人の教えの特色である 。 -10- それからもう一つの聖光上人の教えの特色は、聖浄兼学の人が最も本願念仏の義を開顕することが 出来る。聖道門は法然上人がお捨てになった 。 しばらく聖道を聞きてという言葉がございますけれど も、聖道門は捨てるほうでございます。即ち聖道門を捨てて浄土門を取るわけでございますけれども、 聖光上人の教えの中には 、 聖 浄 兼 学 の 人 が 最 も よ く 本 願 念 仏 を 開 顕 す る こ と が 出 来 る と い う こ と が ﹃徹選択集﹄に述べられている 。 これは二祖が七十六歳の時にお書きになった﹃選択集﹄の注釈書で あります。 これは聖浄兼学の人が﹃徹選択集﹄から出てくるわけで、念仏ということと大乗仏教の浄仏国土成 就衆生ということは結局は徹通しているものである。大乗仏教の浄仏国土成就衆生、即ち自利利他と 、 それから念仏を称えて極楽に往生するということとは 、結 局 徹 通 し て い る と こ ろ の も の で あ る 。 即 ち そのことは 、聖 道 門 を も 理 解 し 、 浄 土 門 だ け で は な く て 聖 道 門 も 理 解 す る 人 が 最 も よ く 本 願 念 仏 の 義 を開顕することができ、 こういうことが七十六歳の時にお書きになった﹃徹選択集﹄にある 。 これは 解が行を浄むーーものを理解すれば、 その人の行為というものは必ず正しくなってくる 。 理解という ものがなければ、 その人の行為というものは正しい浄いものではなくなってくるということですね 。 それで聖浄兼学の人が最も良い 。浄土門がよく分かるのは、 やはり聖道門に入って 、聖 道 門 か ら 浄 土門に行かれ、 そして聖道門を捨てる。即ち浄土門のお念仏だけに入ったけれども 、 そのためには聖 道門を学んで理解してから浄土門に入るとい う ことが、この聖浄兼学の人が最も本願念仏の義を開顕 1 1ー することが出来る。 これにしたがって例をあげますと、﹃一枚起請文﹄ですね。﹃一枚起請文﹄はどうでしょうか。﹃一 枚起請文﹄を読んで本当に徹底して理解をして、そしてそこで信仰が起こるということはどうでしょ うか。私自身考えましでも 、 な か な か 難 し い と 思 うんで すね 。 で あ り ま す か ら 、 ﹃ 一 枚 起 請 文 ﹄ を 理 解するためには、 そ の 前 に い ろ い ろ な 、 た と え ば ﹃ 大 智 度 論 ﹄ で あ る と か 、 あ る い は こ こ で 言 う と ﹃徹選択集﹄であるとか 、﹃決疑紗﹄であるとか、 いろいろ聖道門的な難しい教え、 こういうものを通 って浄土門に行く。それはちょうど日本的なもの││私はよく分かりませんけれども、茶道にしても 書道にしても、あるいは日本の食事にしても、 日 本 的 な る も の は 非 常 に 簡 単 に し て 要 を 得 た も の が 多 いと思うんですね。そういうようなものは、ご馳走でも、 日 本 の 食 事 は お い し い と い う こ と は な か な か理解することが出来ない。 長谷川如是閑という文化人がーーもう亡くなられましたけど、 よ く 言 っ て お ら れ た 。 日 本 の 食 事 が 世界で一番おいしいということを理解するためには、西洋の食事・東洋のほかの国の食事を味わった 上で比 較した時に 、初めて日本食ーーー懐石料理のようなもので す か 、 こ れ が い か に 味 わ い の 深 い も の であるかということが分かる。これは甘味だと思って食べたら、 そ れ は 甘 味 で は な く て 自 然 の 味 で あ る。辛いと思って食べたら、 そ れ は 自 然 の 味 で あ る 。 そ の 味 が 分 か れ ば 、 こ の 料 理 は 深 い ご 馳 走 で あ るということが分かる。それをいきなり食べても、何だ、 こ れ は 簡 単 な も の で 、 甘 く も な け れ ば 辛 く - 1 2ー もない。それはちょうどお念仏と同じで 、 お念仏だけいきなり聞いても 、信が立っていなければいけ ﹁h 必んし 。 、 熊 谷 直 実 の よ う な 方 は 、 仰 い で 信 じ た 。 も し 法 然 上 人 の よ う な ご 人 格 の 方 が い て 、 これでなければ 往生出来ないということになれば、これはもう仰いで信ずるという体得をしていくことが出来ると思 うんですね 。 しかしそうでない場合には 、 や は り 一 つ の 解 か ら 入 っ て 行 っ て 、 そして行に行く 。 そし てその行と解とが行なわれているうちに 、 初 め て や っ て い る こ と が 理 屈 が な く て 尊 い も の だ と い う こ とが分かってくる 。 法然上人は 、 そ れ を 確 信 し て お ら れ た た め に ﹃選 択 集 ﹄ を お 書 き に な っ た 。本 当 は ﹃ 選 択 集 ﹄ は 十 六章 も用いて 書 か な く て も よ か っ た ん で す ね 。 一 番 最 初 の と こ ろ で も う 終 り に し て も よ か っ た ん で す が、 そ れ を 終 り に し な い で あ れ だ け お 書 き に な っ た の は 、 即 ち 理 解 を さ せ る 。 聖 道 門 を 捨 て る な ら 、 な ぜ 聖 道 門 を 説 く 必 要 が あ る ん で し ょ う か ね 。捨 て る た め に 聖 道 門 を 説 く 、 こ う い う こ と を 法 然 上 人 はおっしゃっている 。 即 ち 捨 て る た め に も 聖 道 門 は 必 要 。 そ こ で 初 め て 浄 土 門 の こ と が 理 解 で き 、 行 ずることが出来るということ 。 であ り まずから 、 二祖上人は多くの人のために 、 特 に 二 祖 上 人 は 比 叡 山 で 勉 強 さ れ て 、 九 州 の 天 台 宗 の 油 山 の 学 頭 に な ら れ た 方 で す か ら 、 だ い た い み ん な 周 り に い る 方 は 天 台 の 学 問 を し た 方 、 そうい う方に ﹁選 択 本 願 念 仏 ﹂ を い き な り 説 い て も 分 か ら な い 。 そ こ で ど う し て も 聖 道 門 か ら 説 い て 、 そ し - 1 3ー て浄土門へ行かなければ分からない。 聖光上人は二十二歳で叡山へお上りになって、足かけ八年そこで天台の学聞を勉強された。そして 二十九歳で郷里の香月荘にお帰りになって、その年の翌年に有名な油山の学頭となられた。天台宗で も 非 常 に 優 れ た 学 者 で あ っ た わ け で す 。 そ の 方 が 法 然 上 人 の 教 え を 聞 い て 、 たちまち聖道門を捨てて 浄土門に入られたわけです。それはやはり聖道門というものがあって、 そ こ へ 法 然 上 人 の 教 え を お 聞 きになったので、 たちまち天台宗を捨ててということになるわけです。 これは法然上人の場合ですが、 四十三歳まで天台の勉強をした、 そ れ を 捨 て た と い う こ と を 福 井 康 順先生は非常に憤慨なさる 。 しかも望月先生は弊履の如く捨てたと﹃法然上人正伝﹄にお書きになっ たので、それを手がかりに、法然上人は天台、 黒 谷 沙 門 で 一 生 を 終 っ た 方 だ と い う 根 拠 を 立 て た わ け です。最終的にはそうではなかったわけですが、そういう聖道門から入った。法然上人と同じように、 二祖上人も天台の学聞をやって、秀才であった方が、法然上人の教えを聞いて、 たちまち念仏門に入 っ て し ま っ た 。 そ し て 三 十 六 歳 か ら 四 十 三 歳 ま で 、 足 か け 八 年 、聞にちょ っと帰られましたけれども 、 東 山 で 、 法 然 上 人 の 教 え を 受 け て 鎮 西 に お 帰 り に な っ た 。 そして六 十七歳の時に ﹃授手印﹄をお作り になって 、 法 然上人の教え 、 お 念 仏 の 義 は こ う で あ る と い う 、 先 ほ ど 申 し 述 べ ま し た ﹁ 結 帰 一 行 三 昧﹂の教えをお書きになった。 ところが、﹃授手印﹄のほうを先にお書きになったんですね。二祖は六十七歳の安貞二年にお書き - 1 4ー になった。そしてその後﹃徹選択集﹄ですね。﹃徹選択集﹄は七 十 六歳の時にお書きになった。六 十 七歳と七十六歳。﹃授手印﹄のお念仏のほうを先にお書きになったんですが 、 やはりどうしても後か ら﹃徹選択集﹄をお書きにならなければならない 。 さ ら に ﹃ 識 知 浄 土 論 ﹄ を書かなければならないよ うな 、 当 時 法 然 上 人 の 周 り の お 弟 子 や 一 般 の 方 々 の 聞 に そ う い う 空 気 が あ っ た わ け で す 。 そ し て 七 十 六 歳 の 時 に ﹃ 徹 選 択 集 ﹄ と 、 さ ら に こ れ を お 書 き に な っ た そ の 年 に 、 ﹃浄土宗 要 集 ﹄ 即 ち ﹃ 西 宗 要 ﹄ を お 書 き に な っ て 、 そ の 二 つ を 三 祖 上 人 に 付 属 を さ れ て い る 。七 十 六 歳 に そ れ を 付 属 さ れて 、 七 十 七 歳 に 二 祖 上 人 は 往 生 を さ れ て い る わ け で ご ざ い ま す 。 聖光上人としては 、 ﹁結帰一行三味﹂ の教えと同時に 、 聖 浄 兼 学 の 人 で あ る 。 そしてそのお念仏の 教えも 、 総 て ﹁念 死 念 仏﹂、 人 が 避 け る こ と の で き な い 死 と い う も の を い か に し て 受 け 止 め 、 そして 安 ら か に 死 ん で い く か と い う こ と で 、 これは法然上人の 、 皆 さ ん も ど 存 じ の 章 提 希 の 念 仏 に 通 ず る も のがあるわけであります。 私 た ち は ふ だ ん 考 え て お り ま せ ん け れ ど も 、結 局 、 正 し く 幸 せ に 生 く 、年 令 の 長 き 短 き に か か わ ら ず、幸 せ に 人 生 を 送 る と い う よ う な こ と の 根 本 に は 、 やはり私たちが死をいかに考えるか 、 死をいか に迎えるかということがあって 、 そ し て 生 に 立 ち 戻 っ た 時 に 、 初 め て そ こ に 人 生 の 意 義 で あ る と か 、 幸 せ で あ る と か と い う こ と を 、年 令 の 長 さ 短 さ に 関 係 な く 思 考 す る こ と が 出 来 る と 思 う わ け で 、 この ニつが聖光上人の特色であろうと私は思うんです 。 - 15ー ただ聖道門の人 、あるいはただ浄土門の人よりも 、聖道 ・浄 土 兼 学 の 人 の ほ う が 、本願念仏の義が 一切の大乗論を見るに随喜の涙 知りやすい。こう書いてあります。﹁但聖道門の人 、 但 浄 土 門 の 人 は こ れ を 知 る べ か ら ず 。 聖 道 ・浄 土兼学の人これを知るべし。この心を得てより一切の大乗教を聞き、 禁じ難し﹂。おそらく総ての大乗教や大乗論というものはお念仏を説くために説かれていたものであ ったということが感じられたと思うんですね。 そ の 前 の と こ ろ か ら 読 む と 本 当 は 分 か り 易 い ん で す け れ ど も 、 ﹁それ念仏往生を知らんと欲 せば、 まず一切菩薩の浄仏国土成就衆生の義を知るべし 。 また一切菩薩の本願を習うベし ﹂ 一切菩薩の本願 │ │浄土教では法蔵菩薩の本願ですが 、 そうではなくて一切菩薩の本願を習うべしということを述べ ている。そして少し先に﹁沙門某甲昔聖道門を学せしの時いささかの国土成就衆生の義を習い伝え 、 いま浄土門に入るの後 、 ま た こ の 選 択 本 願 念 仏 往 生 の 義 を 相 承 す 。 二 師 の 相 伝 を も っ て 小 乗 の 諸 門 を 見るにその義さらにもっ て教門に違わず﹂ということで 、 いまの聖道 ・浄土兼学の人これを知るべし ということが書いてあるわけでございます。大乗教の教えも 、 またこれを見て 、 そして浄土門念仏の 教えに入るということが述べられている。これは﹃徹選択集﹄に述べられているわけでございます。 良忠上人のみ教え - 1 6一 次に良忠 上人 の教えの特色は何か。これは実際に皆さんもお読みになって 、良忠 上人の教えを纏め ることは容易なことではないわけですね。﹃報夢紗﹄五 十 余 巻 ご ざ い ま す の で 、 ま ず 量 が 多 い 。 そ れ とその中に説かれて用いられている 引 用 の 経 典 、漢籍 、 国書 、 そう いうものが非常に巾広くわたって おりますから 、 そ れ だ け に 捉 わ れ て く る と 、 思 い が け ず ほ か の ほ う へ 入 っ て し ま う わ け で す 。 そ れ で 良忠上人の教えは難 し いですね。 良忠上人は 、 三十八歳の時に生仏法師の勧めによって 、 二祖の浄土の法門を聞くために善導寺へ行 かれたわけです。先ほどちょっと話がございましたけど 、鎌倉の光明寺さんから出版されま し た﹃良 忠上人研究﹄という書物がございます。多くの先生方がお書きになって 、 私も少し書かせて いただき ました 。 ほんの少しだけ﹁記主教学の特色について﹂というので書きま し たので 、機会があったらこ れを読んで下さい 。特 色 を 三 つ ば か り あ げ て お き ま し た 。 こ れ か ら そ の こ と に つ い て お 話 し 申 し 上 げ ます。 三十八歳で筑後の善導寺││聖光上人の下へ行って 、 三十九歳に﹃徹選釈集﹄を授与されている。 ﹃徹選択集﹄ のほうが 、 三祖上人も││ こ れ は 比叡 山 で 戒 を 受 け ら れ た の か 、島根の鰐淵寺でおそら く勉強され授戒されたものと思いますけれども 、聖光上人から﹃徹選択集﹄を三 十九歳の時に授与さ れている。﹁法然上人 、浄土宗の義をもって弁阿に伝う﹂。これは三祖上人に与えられた﹃授手印﹄の 終 り に ﹁ 手 次 の こ と ﹂ と い う の が ご ざ い ま す 。 そ こ に 書 か れ て い る 言 葉 で す が 、﹁法然上人 、浄 土 宗 - 1 7ー の義をもって弁阿に伝う。今また弁阿 、 相承の義並びに私の勘文徹選択集をもって 、沙門然阿に譲渡 し畢りぬ﹂こういうふうに書いてございますから 、 二祖から、法然上人から相承した義を三祖に伝え 、 さらに二祖上人の考えを書いた﹃徹選択集﹄を然阿に譲り渡しますということをお書きになった。三 十九歳の時でございます 。 そ れ か ら 八 十 九 歳 で 入 滅 さ れ る ま で に 良 忠 上 人 は 五 十 余 巻 の 書 、 聞き書き 、 あ る い は 注 釈 書 を お 遺 しになっているわけです 。 その特色とすることの第一は 、 そ の 五 十 余 巻 の 書 物 の 中 で 主 な る も の を 見 ま し て も 、﹁ 三 代の相承﹂ という言葉を非常に重く用いてる。意識して﹁三代の相承﹂ 、 即 ち 法 然l 二 祖 か ら 伝 え ら れ 、 私 、 三 代 に わ た っ て 伝 え ら れ た と こ ろ の 教 え で あ る 。﹁三代の相承 ﹂ と い う の は 、 先 ほ ど 申 し ま し た ﹁ 選 択 本願念仏﹂が伝えられているということであります。 その﹁三 代相承 ﹂と いう言葉は 、 い つ 頃 に 出 て く る か と 申 し ま す と 、 一番早いのは五十六歳の時に 三 代相承﹂ 、 ﹁ 今 三 代 の 相 承 を も っ て 朝 五 巻 の お書きになった﹃決疑紗﹄の巻五の終りのところに ﹁ 決疑を記すのみ﹂と書いている。 この字﹁覗 ﹂ を私は ﹁もつば ら﹂ と訓んでいるんですが 、普 通 は ﹁ た や す く ﹂ と か ﹁ す な わ ち ﹂ と D ﹁今三代の相承をもって 、 たやすく五巻の決疑を記すのみ﹂│││ 訓みます 。 ﹃決 疑 紗 ﹄ の 巻 五 の 終 り の と こ ろ に 、﹁ク﹂が送り 仮 名 と し て 付 い て お り ま す 。私は ﹁ラ﹂ のほうが適当じゃないかと思います -18- 即ち 、 いま私が﹃選択集﹄ に つ い て 今 日 出 て い る い ろ い ろ な 疑 問 、 そ れ を 三 代 の 相 承 で 解 決 を し た の が私の﹃決疑紗﹄だ 。﹁ 瓢 ク ﹂ と 書 い て あ り ま ず か ら 、 こ れ を 漢 文 の 辞 典 で 見 ま す と ﹁ た や す く ﹂ と 読む。それから﹁すなわち﹂ 、 こ の 二 つ が 訓 み で す ね 。 そ れ か ら ﹁ し ば ら く ﹂ と 訓 ま せ て い る と こ ろ もございます。﹁たやすく﹂﹁すなわち﹂﹁しばらく﹂だと 、 ど う も こ こ の と こ ろ の 訓 み に 適 当 で な い と思いますね。﹁今三代の相承をもって 、 す な わ ち 五 巻 の 決 疑 を 記 す の み ﹂ と 言 え ば 、 これは意味と してはよろしいわけですが、 ﹁ク﹂が送り 伝 名 と し て ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ に 書 か れ て い る 。 そ れ から﹁今 三代の相承をもってたやすく五巻の決疑を記す﹂ │ │ た や す く 疑 い を こ こ で 解 決 し た と い う の も 、 前 後の意味から適当でない。 JhJ j l v ゆj 、 そ う す る と 、 も う 一 つ 訓 み が あ る 。 ﹁ も っ ぱ ら ﹂ と い う 訓 み が あ る ん で す が 、 これはあんまり出て きません 。﹃選 択 集﹄ にも一 、 二個所、あるいは﹃決疑紗﹄﹃伝通記﹄等にも出てきますけど 、 い﹁たやすく﹂か﹁しばらく﹂ か、﹁すなわち﹂かですね。﹁もっぱら﹂ で出てくるのはないんです。 た だ ﹁ も っ ぱ ら ﹂ と 訓 む の が 一 番 前 後 の 意 味 で は 、﹃ 選 択 集 ﹄ に つ い て の 疑 問 が あ る の を 解 決 す る の はもっばら三代の相承 。三 代 の 相 伝 と は 何 で あ る か と 言 う と 、 こ れ は 先 ほ ど 申 し ま し た よ う に 宗 祖 の 信 仰 、宗 祖 の 宗 教 、即ち ﹁選択本願の念仏﹂ 、即ち ﹁南無阿弥陀仏﹂ 、 これで解決し 、 疑 い を 総 て 決 し ている 。 しかしそれにしては ﹃ 決 疑 紗 ﹄ は な か な か 難 し い で す し 、 ﹃伝通記﹄にいたしましでもそう です。 1 9一 ま た 八 十 八 歳 の 時 に 、寂 恵 良 暁 │ │ 良 忠 の お 弟 子 、 あ る い は 子 供 と 言 わ れ て い る │ │ こ の こ と は い ろいろありまして 、 玉 山 先 生 に は こ れ は 実 子 で あ る と い う 論 文 が あ り ま す が 、 古 く は 今 岡 先 生 も 、 そ のような言葉をお書きになったものがあります 。 これは詳しくは調べておりませんけれども 、 その寂 恵 良 暁 に 与 え た 付 法 状 に も 、 ﹁三代相伝のこと 、 世 間 そ の 隠 れ な し 、 みなもって王化するところ也﹂ │ │ い ま 私 に お 前 に 法 を 付 す 、 こ れ は 三 代 相 伝 の こ と で あ る と い う こ と を お 書 き に な っ て い る 。﹁三 代 相 伝 の こ と ﹂ と い う と 、法 然 │ 聖 光 ! 良 忠 と 一 貫 し た も の が な け れ ば な ら な い わ け で す ね 。 そ の こ と は 隠 れ な い と い う こ と で す が 、 先 ほ ど 申 し ま し た よ う に 二 祖 上 人 に は 三 つ の 特 色 、最初の﹁結帰一 行 三 味 ﹂ と 、 聖一浄兼学というその二つをお述べになった特色は 、 相 反 す る ん で す ね 。 相反して 、 また 相 反 し な い 一 つ の 教 え に な っ て い る 。 そ の 教 えを三 祖が受け継いで、 これを寂恵良暁に譲られた 。 で あ り ま す か ら 、 浄 土 宗 の 教 え の 中 に は 、今 日 で も い ろ い ろ な 説 、 聖 浄 兼 学 の 特 色 を 出 さ れ る 方 も いらっしゃる 。 そ れ か ら ﹁結 帰 一 行 三 味 ﹂ で、戒 を 強 調 す る と 、 浄 土 宗 の 先 生 方 が 戒 が 大 事 だ な ん て い う こ と を 言 っ た ん で は、 お 念 仏 で 救 わ れ る 根 拠 が 薄 く な っ て し ま う と 叱 ら れ た こ と も あ り ま し た 。 そういう聖浄兼学と﹁結帰一行三味﹂と矛盾するようですが 、私は矛盾しないのではないか││と 。 では 、 そ の 矛 盾 し な く て 矛 盾 す る こ と が 、 法 然 上 人 の お 述 べ に な っ た ﹃選 択集﹄ のどこに根拠がある のでしょうか。 しばらく そ れ は ﹃ 選 択 集 ﹄ の 中 に ご ざ い ま す ね 。 法 然 上 人 が 副 詞 を 用 い て い る と こ ろ が あ る ん で す 。﹁ 且﹂ - 20ー こころみ と か ﹁ 試 ﹂ と い う 字 な ん で す ね 。﹁試みに﹂というのは 、 完 全 に 止 め た と い う の で は な い ん で す ね 。 ち ょ っ と 試 し に と い う こ と で す 。 そ れ か ら ﹁ 且 ﹂ と い う の は 時 間 の 意 味 と 仮 設 の 意 味 が あ る 。 ﹁略 選 択 ﹂ のところに﹁且 ﹂ と い う の が 出 て ま い り ま す で す ね 。 十 六 章 で す か 。 ﹃選択集﹄ を 簡 単 に 言 う と そこに帰する 。 有 名 な 、 ﹁ そ れ す み や か に 生 死 を 離 れ ん と 欲 せ ば 二 種 の 勝 法 の 中 に は 且 く 聖 道 門 を 閣 きて 、選 ん で 浄 土 門 に 入 る 。 浄 土 門 に 入 ら ん と 欲 せ ば 、 正 雑 二 行 の 中 に は 且 く 諸 々 の 雑 行 を 描 ち て 正 行に帰すべし 。 正行を修せんと欲せば 、 正 助 二 業 の 中 に は 、 なお助業を傍らにして選んで正業をもっ ば ら に す べ し 。 正 定 の 業 と は す な わ ち こ れ 仏 名 を 称 す る な り 。名 を 称 す れ ば 必 ず 浄 土 に 生 ず る こ と を 得 、 仏の本願によるが故なり﹂。ここに﹁且﹂があります 。 この ﹁且﹂というのは 、 ち ょ っ と の 間 だ け 聖 道 門 を 置 い て お い て 、 ま た し ば ら く 経 っ た ら 二 祖 の よ うに聖道門を持ってきて 、 聖 浄 兼 学 を す る と い う 意味か 、 あ る い は 仮 設 で 、 も し 聖 道 門 を 捨 て て 浄 土 門 に 帰 す れ ば と い う 意 味 が あ る 。 この ﹁且﹂ というところが 、 そ こ に 断 定 を 法 然 上 人 が 出 さ れ て い な い意味があるわけです 。 それから﹁試みに ﹂ というのは 、 三 重 の 選 択 の と こ ろ に 出 て く る わ け で す 。第四 章 で し た か ﹁ 廃 立 、 助正 、傍正﹂ の と こ ろ へ 出 て く る わ け で ご ざ い ま す ね 。 ﹁ 選 択 ﹂ と い う の は 、先 ほ ど 申 し ま し た よ う に、法 然 上 人 の 教 え 、 浄 土 宗 の 教 え に 一 貫 し て 流 れ る の は ﹁ 選 択 本 願 の 念 仏 ﹂ である 。 そ の 中 で も 本 願の念仏は善導大師もお説きになっている 。 し か し ﹁ 選 択 ﹂ と い う こ と は 法 然 上 人 だ け の も の で 、 - 2 1ー に、 その解釈が 、 その人によって 、 あるいは門下によって 、 法 然 上 人 の お 念 仏 を 先ほど言ったように 、廃立 、 助 正 、 傍 正 と い う 教 え に な る 。 ﹃ 選 択 集 ﹄ の 第 四 章 いま ﹁略選択 ﹂ で 三 重 の 選 択 を 述 べ ま し た が 、 これを易しく言った場合には 、 ﹃無量寿経﹄ の異訳本をごらんになって 、 ﹃大阿弥陀経﹄から﹁選 択 ﹂ と い う 言 葉 を お 取 り に な っ て い 選択十助正 どのように受け取ったかの違いが出てくる 。 そ れ は ﹁ 選択﹂というところに出て くる。﹁選択 ﹂ と い う の は 選 ぶ わ け で す か ら 、 ど れ を 選 ぶ か 。 た と え ば お 盆 の 上 に い ろ ん な ケ l キを 持ってきて 、 どれを選ぶかは 、 その人によって 、 男 性 と 女 性 、若 い 人 と 年 寄 り に よ っ て ど の ケ 1 キを 取 る か み ん な 違 う わ け で す ね 。 そ う い う 違 い と 同 じ よ う に 、廃立と 、 助正と 、傍 正 、 それぞれ 取 ら れ る時に違ってくるわけですね 。 後 で 出 て ま い り ま す が 、 廃 立 を お 択 り に な っ た 。 これが出てくる場合に 、 さ っ き 言 っ た ﹁試みに ﹂ と い う の が こ こ の と こ ろ に 出 て く る わ け で す 。 こ れ は 三 義 の 殿 最 で す か ら 、 どれが優れていて 、 と い の は そ の 前 の と こ ろ に 出 て く る と 思 う ん で す 。 こ れ は 廃 立 の 義 を 択 る と 、念 仏 だ け と い う の は 廃 今 若 し 善 導 に よ ら ば 初 め を も っ て 正 と す る の み ﹂Ill-﹂こは ﹁若 し﹂ と い う 言 葉 で す ね 。﹁試 みに ﹂ が 劣 っ て い る か と い う こ と は 知 り 難 い │ │ ﹁ 三 義 の 殿 最 知 り 難 し口 諸 々 の 学 者 、 取 捨 心 に あ る べ し 。 ど 立の義ですね 。もうほ か の も の は 択 ら な い 聖 浄 兼 学 な ん で い う の は と ん で も な い こ と で あ る 。 これは れ - 22- る 。 だいたい源智 上 人が廃立。助正になると 、 念 仏 以 外 の 行 も 、 も し同 類 の 助 業 で あ る な ら ば 、読請 、 観 察 、礼拝 、 讃 嘆 供 養 、 こういうものを用いるわけで 、 こ れ は 当 然 い ま 申 し 上 げ よ う に 聖 光 上 人 も 良 忠 上 人も用いるわけです。 傍正も 、 多 少 違 い は あ り ま す け れ ど も │ │ 助 正 の 場 合 に は 、 もっぱら同類の助業であるわけで 、 法 然上人は異類の助業もお説きになっているご本がございますね 。 たとえば衣食住の三つは念仏の助業 なり。われわれがものを着る 、 住まい 、食べる 、 こ う い う も の 総 て 念 仏 の 助 業 に な る ん だ 。 異 類 の 助 業というのは 、 ど ち ら か と い う と 傍 正 と 助 正 と 重 な る 部 分 が あ る わ け で す ね 。 違 う と こ ろ は 、傍正は 諸行 本 願 義 に な る 。総 て 諸 行 も 本 願 。 助 正 は 、 念仏が本顕であって 、 往 生 す る の は 念 仏 に よ っ て か な ぅ。諸行もやるけれども 、 そ れ は 助 業 で あ る と い う と こ ろ が 違 う わ け で す 。 諸 行 が 本 顕 で あ る か 非 本 願であるかによって違ってくるわけです。 こういう分け方によって 、 多少門下で 、 派 が 諸 行 本 願 義 、念 仏 本 願 義 と い う よ う に 分 か れ て く る と いうのは 、 やはり選択の仕方にあるわけです。 こ れ は 法 然 上 人 の 上 で は も う は っ き り し て い る わ け で ご ざ い ま す が 、浄 土 宗 の 所 求 、 所 帰 、 去行が 、 法 然 上 人 の 目 的 と す る 教 え を 説 く わ け で す ね 。 所求というのは 、 いまの三つについて信仰を立てるの が 浄 土 宗 の 信 仰 で あ り 、 法 然 上 人 の 宗 教 で あ る 。求 め る と こ ろ は 極 楽 浄 土 。 こ れ は 極 楽 浄 土 で す け れ ども西方という 意味が入ったのが 、法 然 上 人 の 選 択 さ れ た と こ ろ の 極 楽 浄 土 。 所帰ーーー帰する所は阿 - 2 3ー 弥陀仏でありま し て、法 然 上 人 の お 択 り に な っ た 阿 弥 陀 仏 と い う の は 、 道縛 ・善 導 と 中 国 か ら 伝 来 し 南 た 報 身 の 阿 弥 陀 仏 。 去 行 と い う の は 、 念仏であり 、 ﹁南無阿弥陀仏﹂は 、﹁阿弥陀仏﹂でなくて 、 ﹁ 無 ・阿 弥 陀 仏 ﹂ で あ り ま す か ら 、 こ れ を 願 行 具 足 の 念 仏 と い う よ う に な っ て 、 法 然 上 人 は こ れ を 基 に し ている。これを選ぶのは 、 さっきの ﹁若 し善導によらば﹂﹁試みに﹂│││これはお択りになる方によ って廃立で択られる。 先 ほ ど 私 が 申 し ま し たように 、教学大会で 、念 仏 と 戒 と い う の が 出 さ れ た 時 に 、 いろいろシンポジ ウムがあって 、 戒と念仏の問題について 、円 頓 戒 が 必 要 で あ る か と い う こ と に な っ て 、 それじゃ念仏 で 往 生 出 来 る の に な ぜ 円 頓 戒 が 必 要 な の か 、 そ う い う 質 問 が あ り ま し た 。 そ の 時 に 、 それを聴いてい て憤慨されて発言した方がl l個 人 の 名 前 は 先 輩 で あ り ま す か ら 勘 弁 し て い た だ い て 、 非常に憤慨さ れ ま し た 。 何 た る こ と を 言 っ て る ん だ 、 浄 土 宗 は お 念 仏 で 極 楽 往 生 に 決 ま っ て る じ ゃ な い か 、円 頓戒 がどうの 、 戒がどうの 、 四十 八戒がどうのこうの 、 そんな ことは 必 要 な い と え ら い 怒 ら れ ま し た 。 そ れが非常に 記 憶 に 残 っ て い ま す 。 し か し こ こ に も 戒 の 専 門 家 の 宮 林 先 生 が い ら っ し ゃ っ て ま す が 、 そ れは念 仏 即戒か。私も 、 いまだに 、念仏即戒か 、あ る い は 本 当 の 念 仏 が 称 え ら れ れ ば 、 ﹂れは恵谷先 生の結論ですが 、 ﹁自ずからそこに戒が備わる﹂こういう説き方。 私はそれに対して 、 ま だ 納 得 が い か な い ん で す ね 。 本 当 の 念 仏 と い う の は ど う い う の を 言 う ん で し ょうか。それは宗学でそんなこと知らないのか 、 三 心 具足の念仏じゃないかと言われますけど 、 三心 - 24ー 具 足 の 念 仏 と い う の は な か な か 難 しいですね 。至誠心 、深 心 、 回 向 発 願 心。 ど う して知るかっていう と 法 然 上 人 の ご 本 の 中 に 、 具 足 し て い る か し て な い か の 調 べ 方 が あ る ん で 、 私は昔それを見て 、 ぁ 、 こ れ は い い こ と だ と 思 っ た こ と が あ る ん で す 。 歓 喜 踊 躍 の 念 仏 で す ね 。 お念仏申してたら嬉しくなっ てきて しょ う が な い ん で す ね 。 だ か ら 始 終 顔 が に こ や か な 人 は 、 お そ ら く 歓 喜 踊 躍 の 念 仏 を し て い る 方 じ ゃ な い か 。 始 終 怒 っ て る 方 は 、 三 心 が 具足 し て い な い の か な と 思 っ て お る ん で す 。 助正になると、 こ れ は 親 鷲 上 人 で す ら 助 正 の お 念 仏 を し て い た ん で す ね 。 毎 日 ﹁ 三 部 経 ﹂ の 読 請 を して いたわけで す 。 そ し て 越 後 の 奥 か ら 、 法 然 上 人 が 流 罪 を 解 か れ る と 同 時 に 解 か れ た 。 法 然 上 人 が ま だ お 元 気 で い ら っ し ゃ れ ば 上 洛 す る お つ も り で あ っ た ろ う と 思 う ん で す が 、 これも異説があります が 、亡 く な っ た と い う ん で 当 時 の 鎌 倉 幕 府 の あ る 関 東 へ 、 上野 、下 野 、 上総 、 下総へ利根 川 に沿うて 出 て く る わ け で す 。それで笠間 、 稲目のあたりで 、 親 驚 上 人 は 主 と し て 農 民 を 相 手 に 布 教 を さ れ た わ け で す 。 そ の 親 驚 上 人 で す ら 、 ﹁三部経﹂ の読請をまだこの時おやりになっていた。 ある時 、 ふ と 気 が つ い た 。 法 然 上 人 の 言 わ れ た の は ご 向 専 修 ﹂ だ 。 そ う す る と ﹁ 三 部 経 ﹂ の 読 諦 はやらなくても 、 お念仏だけで往生出来るということを 、ある年令に来て 、 気がついたのが稲田にお ける時ですかね。それで﹁三部経﹂の読請をおやめになった。即ち助正でやってたものが廃立に至っ たわけです。 し か し 最 後 は も う はっきり しているんですね 。最後は 正 行 に 行 か な け れ ば 、 ﹁選択本願の念 仏﹂に - 25- 行かなければ 、 浄 土 宗 の 法 然 上 人 の 一 貫 し た 教 え に は 行 か な い ん で す ね 。 で す か ら 法 然 上 人 の 教 え で も、諸 行 本 願 義 を 立 て る 。 傍 正 で 行 っ て は 、 こ れ は 親 孝 行 を し て も 極 楽 往 生 出 来 る し 、 商 売 を 一 生 懸 命 や っ て も 極 楽 往 生 出 来 る 。 こ れ は 当 然 な ん で す ね 。 で す か ら そ う い う 説 き 方 を な さ っ て 、 それで終 り に な っ て は 困 る わ け で す ね 。 ただし 、 親 孝 行 し な が ら で も 出 来 る 易 し い お 念 仏 が 大 事 な ん だ と い う ことに行かないと 、浄 土 宗 の ﹁ 選 択 本 願 ﹂ に 一 貫 し た 三 代 相 承 の 念 仏 に 行 か な い 。 そこのところが 、助 正 や 傍 正 で 止 ま っ て い た ん で は い け な い 。聖 光 上 人 も 、 聖 浄 兼 学 を 晩 年 に お 説 きになったが 、 そ の 前 に ち ゃ ん と ﹃ 授 手 印 ﹄ で ﹁ 結 帰 一 行 三 味 ﹂ を お 立 て に な っ て お ら れ た 。 そ れ は 聖 浄 兼 学 を 説 い た ﹃徹 選 択 ﹄ を お 書 き に な っ た け れ ど も 、 捨 て な か っ た で す ね 。 かえって浄仏国土成 就衆生と ﹁南無阿弥陀仏﹂ の お 念 仏 と が 同 じ で あ る 。 不 離 仏 、値 遇 仏 と は 同 じ な ん だ 。 結 局 六 度 万 行 をすることもお念仏を称えることも同じであるというところへ会通していったのが﹃徹選択﹄の﹁南 無 阿 弥 陀 仏﹂。 ﹃識知浄土論﹄ のほうは 、 やはりそれの線上の一つ 。 だ か ら 中 に は 、 ﹃識知浄土論﹄は 、 二 祖 上 人 の 著 述 で は な い と い う 説 も 出 て く る わ け で す 。 あ る 過 程 だ け を 見 て 、総 て を 律 す る こ と は 、 ゾウは全体を見てこれはゾウだというので 、耳だけ触ってこれはゾウだと言うことは間違いのもとに なってくる 。 ですから法然上人 は、 これを選 ぶ のは自由に 、﹁若 し こ れ に よ ら ば ﹂﹁試 み に こ れ に よ ら ば ﹂ という ふ う に お 説 き に な っ て い る け れ ど も 、 そ れ は そ れ を 選 ぶ 人 の 自 由 な わ け で す 。 ですからわれわれが 、 - 26一 一生懸命にお念 仏 申 し て い る 方 と 、 世の中のために仕事を し ている人と 、 片っ方は往生しないで片っ 方 は 往 生 す る か と い う と 、 そうではなくて 、 両 方 と も 往 生 の 業 に な る 。 傍 正 と 助 正 の ほ う で 行 く と な る 。 な る け れ ど も 、 先ほど言いま し たように 、 平等往生 、 一切に通ずるのが念仏なんで す から。その ために 、 いま言った傍正のほうであるとか 、 助正のほうは 、 出 来る人と 出来ない人が出て しまう。こ れは法然上人のご遺志でもないし 、遡っては釈尊の遺志でもない。総てのものが平等に救われるとい う こ と が 仏 の 教 え の 目 的 で あ り ま す か ら 、 ど う し てもお念仏 、 六 字 の 名 号 に な ら な け れ ば な ら な い わ - 27ー けでございます。 なお 、良忠上人の中で 、著 述 と い う の は 五 十 余 巻 ご ざ い ま す け れ ど も 、 代 表 的 な も の が 三 つ あ る と いうことも私書きましたが 、 ﹃決疑紗﹄を第一とする。その次は﹃伝通記﹄ 、 そ れ か ら ﹃ 東 宗 要 ﹄ が 代 表的な著述である 。 源智 上人のみ教え あ る と い う こ と を 書 い た 、短 か い 著 述 が ご ざ い ま す 。 こ れ は 昔 か ら 異 論 が あ っ て 、果 た し て 源 智 上 人 い う 著 述 が ご ざ い ま す が 、 ﹃選択集﹄についてのいろいろな疑問に答えて 、 これが法然宗祖の解釈で それから源智上人の教えでございますが 、 源 智 上 人 に は ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ の 第 七 巻 に ﹃ 選 択 要 決 ﹄ と 四 の 著 作 で あ る か ど う か と い う こ と に は 疑 問 が ご ざ い ま す の で 、今 日 ま で あ ま り 用 い て い ま せ ん 。その 件がもう少しはっきりするまでは 、 一応源智上人のではないという説のほうが有力ですけれども 、 っきりするまでは 、 これによって源智上人の教えを述べることは出来ない。 そ う な る と 、 いったい何によっ て源智 上 人 の 教 え を 捉 え た ら いいかというと 、あ と は 醍 醐 本 ﹃ 法 然 上人伝記﹄あるいは﹃勅修御伝﹄(﹃四十八巻伝﹄)、 あ る い は そ の 他 の ﹃ 法 水 分 流 記 ﹄ で あ る と か 、 ﹃勅修御伝﹄であるとか 、 源 智 上 人 の 伝 記 が 書 か れ て い る も の を 見 て 読 み 取 る 以 外 に な い か と 思 う ん です。 まず第一に 、 そ の 教 え は こ れ だ ろ う と い う こ と を 、 周 り か ら 詰 め て い く と 、 ま ず 建 暦 二 年 の 正 月 二 十三日に﹃一枚起請文﹄を授けられたのが源智上人で、 これは間違いないんで 、今 日 金 戒 光 明 寺 に そ の ﹃ 一 枚 起 請 文 ﹄ が ご ざ い ま す 。 そ の 時 に お 書 き に な っ た か 、前 か ら 書 か れ て い た も の を お 与 え に な られたのか 、 そ れ は 分 か り ま せ ん 。 私 が 、 何 年 か 前 に 疑 問 を 持 っ た の は 、 二 十 五 日 に 亡 く な っ て 、 の 二 十 三 日 に 起 き 上 が っ て │ │ た し か に 金 戒 光 明 寺 の 実 際 の 真 筆 を 見 ま す と 、 なぞって二重になって いるのが何字か明らかに分かりますね。だからこれは書いたのだろう 、 間違いないと思っておりまし たけれども 、 必 ず し も 正 月 二 十 三 日 に 起 き 上 が っ て お 書 き に な ら な く て も 、 その﹃一枚起請文﹄は 、 鎮西上人にお出しになったご消息でも 、 ﹃善導寺御消息﹄というのがございまずから、前からあって これを源智上人に授けた。とすると 、 こ の ﹃ 一 枚 起 請 文 ﹄ の ご 向 専 修 ﹂ は 、 まず源智上人は感激で 、 -28ー は そ そ して そ の 教 え と い う の は ﹃ 一 枚 起 請 文 ﹄ の 教 え そ の も の を 、 法然上人がお 亡 く な り に な っ て も 、 生 涯 お 守 り に な っ た と 、 こう受け取るのが普通ですね。 しかし そ れ は ほ か に 証 拠 が な け れ ば 分 か ら な い ん で す が 、﹃勅伝﹄を見ますと 、 ﹃法水分流記﹄とい ぅ、西山系統の方で 、 室一町時代で し た か 、 静 見 の ﹃ 法 水 分 流 記 ﹄ │ │ 浄 土 宗の血脈と言いま す か 、 相 │ │ l﹃勅伝﹄ 伝ーー法然上人から門下、 さ ら に そ の 後 ず っ と 何 代 か を 書 い て い る 。 こ れ は 拠 り 所 と す る の に 一 番 確 実だと言われているものですが 、 この中に源智上人が出ております。そこに簡単に そして大勢集まってお念仏を申すと 、魔縁が起こってきて事々しくなるというので 、 - 29ー ると﹁隠遁を好み自行を本とす。自ずから法談などは始められでも諸家五 、 六人より多くなれば魔縁 気負いなむことごとしとて留められなどして﹂即ち 、特に自分は法然上人からこの教えを受けたんだ ということをしないで 、 た だ 念 仏 の 行 者 と し て お 過 ご し に な る 。 ど こ で と い う こ と に な る と 、 京都の 紫野のあたりで念仏を事としておられた。その周りに集まった信者の方々を紫野門徒と称する。この 源智上人のお弟子を門徒と言っていたわけですが 、 法然上人がお亡くなりになった時には三十歳であ って 、 その後五十六歳の時に往生する。 D お念仏申してて人が集まってくると止めてしまって 、 また自分一人で念仏を申していたということが 一人で あった こ れ は 信 空 に と い う こ と を お 書 き に な っ て お り ま ず か ら 、法 然 上 人 に 最 も 近 い 、 信 頼 し た と こ ろ の お 法然上人が六十六歳の時に 、﹃遺誠﹄をお書きになった時 、本 尊 、 坊 舎 、諸 経 等 を 、 ﹂れは源智に 、 よ ﹃勅伝﹄の第四十五巻に出てくる。 そ れ だ け だ っ た ん で す が 、 最近になって 、 滋 賀 県 の 真 言 宗 の お 寺 か ら 、 源 智 上 人 の 阿 弥 陀 仏 像 造 立 願文が出てまいりました。これは非常に貴重な資料。滋賀県の信楽町というところの玉桂寺という真 言 宗 の お 寺 の 阿 弥 陀 仏 像 の 胎 内 か ら 、源 智 上 人 の 書 か れ た も の が 出 て き た 。 こ れ は 法 然 上 人 の ご 供 養 のために書かれて 、 そ し て 同 時 に 法 然 上 人 の 報 恩 謝 徳 の 念 仏 行 を す る 人 た ち 、 それから現世 利 益をい ただく人たちの名前がず ー っと書かれている。その願 文 が 出 て き た ん で す が 、 その願文も 、 ﹃仏教文 阿弥陀仏を造って 、 そしてその中に願いを書いて 、 その中に署名をして入れた 、 そのものが 114 化 研 究 ﹄ 第 二 十 八 号 に 、伊 藤 唯 真 先 生 の ﹁ 源 智 と 法 然 教 団 ﹂ と い う の で 、 出 て き た 阿 弥 陀 仏 像 の 造 立 願文 出てきた非常に貴重なものです。そして源智上人の筆跡もそれで分かりますから 、黒谷の﹃一枚起請 文 ﹄ の 添 え 書 き で あ る 源 智 上 人 の も の も 、 そ れ と 比 較 し て み れ ば 、真 筆 で あ る か ど う か 分 か る と い う 貴重なものですね。 その願文の日付けが 、建 暦 二 年 の 十 二 月 二 十 四 日 に な っ て い る 。 正 月 二 十 五 日 に 法 然 上 人 は 亡 く な られたわけですが 、 その後 、 その年の十二月二十四日に 、 源智上人は 、 おそらく一周忌の供養のため に阿弥陀仏像をお造りになって 、 そ の 中 に 願 い の 文 を 書 い て 、 結縁者の名前を入れて 、 そ し て 開 眼 供 養 を 行 な っ た も の が 、ど う い う 道 筋 か 分 か り ま せ ん け れ ど も 、滋 賀 県 信 楽 町 の 真 言 宗 の 玉 桂 寺 の 阿 弥 陀仏像の胎内から出てきた。 - 30ー そ の 文 章 は 非 常 に 長 い も の で す が 、﹃仏教 文 化 研 究 ﹄ の 第 二 十 八 号 に ご ざ い ま す 。 その願 文から、 いくつかの事柄を伊藤唯真先生は指摘されております 。 まず第一は、法然上人への報恩の念が非常に強くその願文に出ている 。そ してまた庶民の教化をす ることが法然上人への報思行であるというようにお考えになっているというのがまず第一。 それから第二には 、 法 然 上 人 の 思 想 の 遍 歴 が そ の 願 文 の 中 に 述 べ ら れ て い る 。 即 ち 、聖道門を捨て て浄土門を択るに至った 。そして浄土門を択るに至ったら 、往 生 で あ る け れ ど も 、 往生だけでなくて 、 やがて菩薩となって悟りの境地に行くというようなことが述べてある 。 第三に 、勧進によって仏像を造立して 、 これに結縁者の名前を収めて 、 その結縁をした人に 利益を 施そうとしたことが第三の特色であります 。 第四の特色は 、 仏 像 の 造 立 に は 多 く の 念 仏 上 人 、 あ る い は 奇 特 の 男 女 が 結 成 さ れ て い た の で あ る が 、 それらはただ専修念仏や百万遍の念仏などを行なっていたということが書いてございます。 したがって、それらから言えますことは、 や は り 源 智 上 人 は ﹁ 選 択 本 願 の 念 仏 ﹂ の 実 践 者 、誠実な 実践者で 、 一向専修念 仏 を 多 く の 人 々 に 勧 め る こ と に よ っ て 、 多 く の 人 が往生 出来れば、 それが法然 上人に対する報恩の行であるという考えを持っておられた 。特 に 源 智 上 人 は 本 当 に 念 仏 の 行 者 で い ら っしゃったということが言えるかと思うのであります。 - 3 1ー ぴ D だいたい三祖上 それをごらんになったことがない。 一心院 に そ れ が あ る の か な い の か 。 た ま た ま そ の 機 会 を 得 て 、称 念 上 人 │ │ 捨 世 派 の 祖 で あ る 称 念 上 人 の 著 述 が あ る と い う こ と が 伝 記 に 出 て お り ま す け れ ど も 、誰も この太いパイプというのは 、 私は偶然 、 この二十四日に京都へまいりまして 、 一心院 の 開 山 である称 が、 三 上 人 の 教 え で 感 じ ら れ る と 思 い ま す 。 そ う い う 意 味 で 、 これは 一つの参考になると思いますが 、 動脈が通っていて 、 そ の ほ か に い ろ い ろ な 対 機 説 法 の 教 え が そ の 上 人 に よ っ て 違 っ て く る と い う こ と そ れ ぞ れ に 特 色 が ご ざ い ま す け れ ど も 、 要 す る に ﹁ 選 択 本 願 の 念 仏 ﹂ ﹁一向専修の念仏 ﹂ で、太い 博 引穿証の 教 えであると言うことが 出来るわけです。 などは 、 ど う し て 資 料 を ご ら ん に な っ た か と い う こ と な ど も 、 ま だ 檀 林 は 成 立 し て い な い け れ ど も 、 かれ 、 また鎌倉に帰るというように 、非 常 に 移 動 さ れ て い た に も か か わ ら ず 、 著述が多いということ 人は 、 教化 の た め に 移 動 し て い る こ と が 多 い 。 上 総 、 下 総 か ら鎌倉 、鎌 倉 に い た と 思 っ た ら 京 都 に 行 けで 、多 い こ と が そ の 特 色 。 博 引 穿 証 。 漢 籍 か ら いろ いろなものをお引きになった 三上人の教えというものは 、 そ れ ぞ れ 資 料 が い ろ い ろ ご ざ い ま す 。 こ と に 三 祖 上 人 の も の は 多 い わ 結 念 寺 の ご 住 職 で あ る 森 博 純 先 生 に お 訊 き し た ら 、 二、 三 年 前 に 仏 教 大 学 の 平 先 生 と 一 心 院 の 調 査 に 行 - 32ー 五 ピ ーしていた った。その時に 、 伝 記 に あ る と 書 い て あ る 著 述 も や は り あ る の で 、 それを拝見して 、 コ だいてまいりました 。 捨世派というのは 、 浄 土 宗 の 一 つ の 派 に な っ て お り ま す け れ ど も 、 その捨世派で面白く感じました のは 、 捨 世 は 即 ち 出 家 中 の 遁 世 、 出 家 者 の 遁 世 を 捨 世 派 と 言 う 。 だ か ら 二 重 の 出 家 を す る こ と が 捨 世 派 で す 。捨 世派の目的とすることは 、 称 念 上 人 が お 述 べ に な っ て る ん で す が 、 ﹁我は弥陀 、釈 迦 、証 誠 の 諸 仏 等 の 仏 願 仏 智 に し た が い て 修 す る と こ ろ の 行 者 な れ ば 、 極楽往生も南無阿弥陀仏。 亡者回向 も 南 無 阿 弥 陀 仏 。 堂 塔 供 養 も 南 無 阿 弥 陀 仏 。 こ の ほ か さ ら に 余 念 な し ﹂ と 、源 智 上 人 、あ る い は ﹃ 授 手 印 ﹄ と 閉 じ こ と を 述 べ て い る 。 で、 捨 世 派 の 開 祖 で あ る 称 念 が 生 涯 を 通 じ て 追 い 求 め て い た も の は 、 法 然 上 人 の 神 髄 を 開 顕 す る こ と 。 即 ち 還 法 然 、 法 然 に 還 る と い う こ と で あ っ て 、 それの実習であった。 したがってその 業 行 は 専 修 念 仏 の 一 行 に 尽 き る と 言 っ て も 過 言 で は な い と い う よ う に 私 は 感 じ ま し た ので 、 ちょっと余談でございますが :::。 捨世派のやっていたことは 、徳 川時代の檀林の学聞から離れて 、 即ち法然上人に還るということで す。 出 家 で も 二 重 の 出 家 で あ り 、 即 ち 出 家 に お け る と こ ろ の 名 聞 利 養 と い う こ と を 捨 て た と こ ろ に 捨 世派が成立したというような 、 たいへん興味のあるところで 、 これとあわせて思い出しましたので 、 ちょっと申し述べた次第でございます。 三 上人の教え ﹂につ い て 感 じ ま し た こ と で 、 と て も 結 論 を 出 す こ と は 難 し い こと で ご ざ い 以上 、﹁ -3 3ー ますが 、その一端でも手がかりになって 、 これからお読みいただければありがたいことであると思い ます 。 お聞き苦しいことが多かったかとも思いますけれども 、 これで終らせていただきます 。 - 34 研究所員研究成果報告 昭和六十年度の教学布教大会において 、意見を発表す 鉄の民営化による職員の配置転換を始めとして 、 これら また 、農業も慢性化した米の減反 、畜産の生産調整な ど、産業経済の環境は著しく悪化しています。さらに国 一方 、寺院の護持運営にあたる我が浄土宗の宗侶は 、 る機会を頂き﹁北海道の開教﹂について粗末な提案をさ 岸に寺院の建立と布教活動が集中していました。その後、 大先輩をはじめとして、それぞれの地域にしっかりと密 の要因は 、道外への人口流出や道内に於ける過密過疎を 鉄道と道路網の開発にともない内陸にも都市形成が進み 、 着しつつ愛宗護法の念きわめてあっく、広大な北の大地 せて頂きました。江戸時代から明治時代の開教の歴史は 、 今日では道央聞の市町村に五百万道民の約半数が集中す 御忌 、十夜の実施率は九割を越え 、教化団は指定又は 跡を偲ぶことができるのです。 に精進しておられるところであり 、 また先達の開教の足 を東奔西走し 、また厳寒の風雪に耐えて 、 よく念仏弘通 一そう進行させることが予想されます。 教 人口の分布と産業 ・交通網(主に海上交通)の関係で沿 三上人大遠忌を迎えて 研 究 所 員 (北海道支部﹀ 浄 市が多いだけに深刻な問題となっています。 山 るという状態です。 今後も炭鉱の閉山による炭産地の人口流出や米ソ二百 海里内の操業が事実上締め出された北洋漁業の減船問題 、 関連 して水産加工業の不振は 、漁業を基幹産業とする都 - 36ー 片 特命布教師の巡教日程を確立せしめ今日に至るは諸先輩 阿含宗やものみの塔などの教会が目につきます。ここ数 複する信者の財政上の理由からか、今度は新興教団の建 年で既存寺院の建築プ lムは一段落したことにより、重 しかし、産業構造の変化にともなう人口の流動はいか 築プ lムが始まった観があります。しかも、その巨大さ の苦労の賜にほかなりません。 んともしがたく、道北の幌延町が核廃棄物貯蔵所を誘致 は平均的な寺院の遠く及ばないものであり 、彼等の集金 彼等の教宣拡張の手段については既にご承知のとおり しなければならない背景には過疎地の住民や行政の苦悩 ないのです。寺院の運営も、この時代の流れの中にあり であります。 ﹁戦後の復興から高度成長を経て 、食べる 能力にただただ感心させられます。 例外ではありません。例えば老人世帯で一方が亡くなる のに困るとか、病気にかかるといった不安は減っている。 があり、第二第三の幌延問題がおきない保証は何処にも とします。結局は一人暮しができませんから都市にいる である﹂と 、小田晋筑波大教授(精神病理学)の指摘す ただ体の病気を治すだけなら医者にかかる方が 、新興宗 都市部や周辺の新興団地開教は北海道だけの問題では るところです。新興教団の出発点は 、 いずれも共通して 子供の所へ転居します。お葬式があると檀家が減るとい ありません。ただ、都市に集中する浄土宗信徒に加えて ﹁病気治し﹂であり 、肉 体 的 ・精神的(神経症、心身症 教の教祖のところへ持って行くお金より安上がりな時代 核家族化による宗教浮動人口に対する教化については都 など)病気を 、 霊能者といわれる教祖が治療をしてきた う現象がおきてしまいます。 市の寺院のみの問題としてではなく、全体の問題として のです。日本では欧米のように、精神医療の分野が患者 たのです。 治療を進んで受けることはなく、宗教にそれを求めてき 野といえます。したがってカウンセリングや精神科医の の側からも認識されておらず、 むしろ避けている医療分 とらえるべきでしょう。 ごく最近のことですが、札幌市の郊外に立正佼成会と 念法真教の巨大な道場が相次いで完成しました。さらに 一 37- たとえ心の病であっても、病気治 し は現世利益である と既成教団は手を出すことはありません。特に禅宗 、浄 、 先祖供養をすすめ 、 るこ と です。病気治しにはじまっ て ニ、精神修養、向上心 、 モラル ロ、 心の安らぎ、落ち着き ::::ji--::二 十 二 % ハ、先祖をうやまう 、とむらう・ ::ji::十 二 % 信仰はあなたにとって 、どんな意味をもっていますか。 ィ、 心の さ さえ 、心のよりどころ ji--::二 十 七 % 阿含宗などは水子供養をすすめます。マスコミによる宣 土真宗 、神道 、 キリスト教などは苦々しい思いをしてい 伝を得意とし 、立正佼成会はカウンセリング法座を設け へ、習慣になっている jiji ::::::::四 % ト、儀式に必要 :ji-:::::::ji::::・一% ハックボ l ン:::十 % ホ、家内安全などの現世利益 : : ・ ji----ji---七 % たり、教祖の著作はもとより多くの出版は宣伝と 財政に 多大な貢献を して いるわけです。 既成の各教団が葬式 ・法事など表面的な仏事に終始 し チ、その他 :::ji--:ji--::::ji--ji-六% リ、とくに意味はない 、 て いたり 、観光寺院化している聞は 、自己実現に悩む現 代 人の多岐にわたる要求に答えるすべもありま せん。今 わからない 、無回答 ::: 十 一 % NH K世論調査部編﹁日本人の宗教意識﹂より 後も 、新宗教が発生するための条件はいくらでもあるの 先祖の供養やレベルの高い人間性を信仰の中に見出す 人、 日常生活の規範として信仰する人が二割をこえたこ (百%:::八九二人) とに回答者のまじめさがうかがえます。しかし 、 心のさ です。 こうした既成 ・新興宗教の一般的関係の中にあって 、 人のものとして意識されているからでしょう。 らえている人が圧倒的に多いのは 、信仰があくまでも個 さえやよりどころとして 、精神の安定が信仰の意味とと 現代人の宗教観がどんなものなのかを見たいと思います。 ﹁宗教をもっ人の信仰理由﹂ -3 8一 ﹁救いの構造﹂ としての宗教について 不安に対し 、宗教は救いになると思います か、思いませ んか。 いいえ:・二十二 ・ 九 % 無回答 ・:五十 三 ・八 % (月刊住職増 刊号より転載) 現代人の自己実現にたいする不安が 、益々多様化して ゆく中で 、不 安の解消を宗教に求めた時に感じとった答 えは、非常に厳 しい ものがあります。 ﹁救いとしての宗教﹂を半数の人たちが肯定 しつつ、 ::ji--:・十% 救いになると思う ::ji--::・ ある程度救いになると思う・::ji---三 十 三 % されているのです。 われる者﹂との媒体としの教団や僧侶が 、するどく批判 僧侶のありかたが 、問 題なのです。即ち 、﹁救い﹂と﹁救 宗教そのものは肯定しているのですが 、教団や寺院 、 宗教団体の姿勢と 、前 記の問題や要求に答えていない不 うな要求に十分 答えていると思いますか。 はい:::・ :十一・ 三 % :五十七 ・四 % 無回答 ・ 由を考えなければなりません。 にあたり 、能化としての永遠のテlマが強く叫ばれる理 なぜ今﹁自行化他﹂なのか。三上人の大遠忌を迎える : : ・ :二十九% いいえ : ィ、道徳の問題・個人の要求はい::::・十三 ・六 % ロ、家庭生活の問題 この際ですから遠慮しないで全国の浄土宗信者に対して 御遠思を機会に、総大本山の修復工事も結構でしょう。 いいえ・:三十一 ・五 % 無回答:・五十七・二% はい:::二十三 ・三 % - 39一 ::::::四十一% 救いになると思わない::::・ % 満や批判があらわれ ています。 四 :ji---ji--::十 二 % わからない -ji--:::・ 回 答 一般的にいって 、あなたは、わが国の宗教団体は次のよ 無 ハ、人間の精神的要求 四 そ の 他 宗教浮動人口の対策が課題であると同時に 、能 家の資 今日ほど実感として受け取られる時代はないでしょう。 はおくとして、自行化他を実践する教団に蘇ることが時 質 が 問 わ れ る 今 日 、﹁自行化他﹂こそ時代相応の開教条 大いに宣伝して協力を仰げばよいことです。ハードな面 の流れであり 、まさ にその方向に向かって進行しつつあ 件といっても過言ではありません。 (北海道第二教区 ・天徳寺) ﹁輝く法灯心に光を﹂に向かって・: るものと信じております。 まさに時は、邪宗異流が巷にあふれ、あたかも三上人 が腐心した時代の様相となんら変わらないものを感じる の で す 。 三 上 人 の 遺 徳 を 偲 ぶ 時 、能化 の心に刻む字は ﹁自行化他﹂の四文字であろうと思います。 北海道の開教の歴史は浅く、人々の気風は古いものに とらわれないおおらかなものがあります。したがって、 寺檀の関係についても、本州とは状況が異なります。例 えば 、墓地にしても境内墓地は極めて少なく 、多くは自 治体の共同墓地です。兄弟で宗派や菩提寺が異なること などあまり問題にならないのも特徴的です。 こうした地域性に前述の過密過疎の進行、核家族化、 信仰の個人化と多様化をふまえて北海道の開教を考える とき、三上人大遠忌を迎えることは、誠に意義のふかい 仏縁と受け取るところであります。高齢化社会を迎えて 長寿世界一をよろこぶ反面、老人が不安や孤独に耐えな がら生きている姿は 、﹁生﹂は﹁苦﹂なりという哲理が - 40ー 研究所員(東北支部) 受けられ 、幼名を白竜丸と称した。平小路良子は平実盛 一月一目、父長安寺国平、母平小路良子のあいだに生を 学び 、応保二年養父当道国平と共に渡唐儒学を学ぶ。長 に仏学を学び 、応保元年(七歳﹀高良山精覚に八宗論を 永暦元年(一一六O年)六歳のとき石恒山専修院覧証 証浄坊となのり乳乞に巡り 、 二月十八日石恒観音堂にて の娘である。又は当道及麿の子なりの説あるも、当時源 会っておられる。関重太夫は金光上人の生長に及ぼした 無常を感じ出家せんと登嶺されるが、路中熊谷蓮生坊に て初陣、 知らず実父国平を殺す。最後の国 平の言葉に実 の父親と知り、又関重太夫により事の真相を知らされ 、 仁安元年(一二ハ六年)現若丸(白竜丸)十二歳にし 寛二年(一一六四年)専修院にあづけらる。 け、日向 高千穂に遁走した。 自決。長安寺国平は家臣関重太夫に乳飲児白竜丸をあづ 安寺氏を討った。敗戦となった平小路良子は病床にあり 方するは当然の事であり 、当道氏は源義経の命を受け長 平争乱の時 、長安寺氏は平家の縁につながり 、平家に味 東北における浄土教の布教は空也上人が始祖であると 孝 当道氏夫妻に拾ろわれた。当道氏は子なきをもって、観 定 いわれる。しかし空也上人は青森までは足跡がない。東 部 音様のさづかりと養子となし 、現若丸となづけたのであ 阿 北一円に及んだのは金光上人によるものであろう。上人 人 る。種々の説あるも何れが正しいか難解である。 上 は九州即ち筑後の国松野の郷に久寿二年(一一五五年) 光 重太夫は白竜丸を無事生育せんがため僧家に身を替え 、 - 4 1ー 金 い。喜応元年(一一六九年) 十 五歳の時 、近江国比良山 然門下に入る資助になったこ と は、今更論ずるま でもな るすべもない。熊谷蓮生坊はすでに御承知にて 、後年法 影響は大きい と思はれるが 、 その人柄につい て は今は知 願寺別当の地位も捨て 、浄土門に入ることを決 したので 楽房の辻説法を聞き感じると ころあり 、天台宗を脱し勅 おり 、その訴訟のため鎌倉長谷の観音に留宿のとき、安 十歳の時観音寺境界に争いごとあり 、鎌倉幕府に訴えて 東塔谷円輔に三帰五戒を受け十七歳剃髪、法名 円証とな から金光四十一歳宗祖六十四歳である。二祖聖光上人は ある。金光はただちに京に上り法然上人に弟子入りを願 ぃ、浄土念仏の総てを学んだ。建久六年五月入門とある 三井寺精覚の門に入り台教を学び。十六歳に し て登嶺、 のられた。 あったことになる。阿波の介と会ったのもこの頃である。 建久八年五日上旬といへば 、上人の入室は二祖より前で 精覚より破門され再び登嶺 、 正覚院に入り座主明雲に秘 阿波の介と金光上人の関係については折があらばまたの 、 三井寺 承安二年(十八歳)八宗一悟の大要を宣布 し 密潜頂を受けて 、法名を金光坊と改められた。このころ ﹃勅修御伝﹄によれば 、末尾に﹁石恒の金光坊は上人 とき申し述べたい と思う。 れている。法隆寺 、唐招提寺、 四天王寺等に歴学、寿永 称美の言を思ふに浄土の法門闘奥にいたれることを知り から﹃末法念仏独明抄﹄を考案され 、生涯かけて執筆さ 二年(二十九歳)勅願所、石恒観音寺別当を宜せられた。 ぬベし。嘉禄三年上人の門弟を国々につかわされしとき 、 この間 、単に観音寺復興にのみ励んだのではなく 、自ら 年)三十九歳にしてその功により大僧都に補されている。 爾来観音寺の興隆につとめられ、建久四年(一一九三 なく 、東奥における上人の布教は如何に辛恕であり 、 ま くに青森県に行けば 、その足跡は明了にして覆ふべくも るのみで 、くわしく調べるすべがない。しかし東北 、 と 世にきこえざりしによりくわしくこれをしるさず﹂とあ 公 5 石恒の金光坊の名はここよりうまれたものである。養父 陸奥固に 下向ついにかしこにて入滅の聞かの行状ひろく 田畑拓法に励み民衆に働き乍ら説法し 、また貧者にはそ た効果的であったかを知ることが出来る。 0000 当道及麿もこの年出家している。 の耕地を耕作せしめる等 、貧農救済につとめられた。四 - 42ー 二O 四年)から翌年五月まで 、 加美、志田 、 王造、遠回 、 往生寺を中心として上人の教線範囲は 、 元久元年(一 定められ 、鎌倉まで下るもまた京にもどり 、 つぎの年即 栗原の五郡を宣布した。修験宗等よりの防害は相当きび 正治元年(一一九九年)四十五歳にして東 北 の布教と ち正治二年福島県会津まで至るもまた京に帰り 、建仁元 しか ったようである。 承元の法難の時には、安楽 、勢観、宗祖よりの便りに 年 三 二 O 一年)四十七歳鎌倉近郷を布教し 、更に宮城 県栗原にいたる。建仁三年栗原に往生寺を建立し 、真伏 また宗祖以下の流刑高札は 、鎌倉由比ケ浜で見ておる ことこまやかに使へられ、特に安楽 房 よりの便りは斬刑 と京に帰り 、宗祖御作の阿弥陀如来像を拝受 して栗原に とあり 、宗祖の配所をたづねておられる。宗祖との面会 牛の縁起は今日も云い伝えられている。強欲な百姓与左 至る。与左衛門生れ変った様に一宇の寺を建立して上人 は旧当道家縁りの方々の力によるものであり 、法然上人 直前のものと思はれる。 を招く 、金光大いに喜び彼の願により剃髪法名然光とな 御自作の御真像をいただいている。また宗祖赦免につい 露の身に我昔の罪は重く ても 救はる L道 は 弥 陀 の 本 願 善 明 惜別の心さながら東西に歩を分った。 - 4 3ー 衛門、気の狂ったのを救はんと法然上人の教 いを受けん づけ 、宗祖より拝受した弥陀像を残し六道山往生寺と号 ても相当つくしておられるようである。 建 永 元 年 三 二O六年)二 月四日栗原から平 泉、そし す 。 この頃宗祖及聖光、安楽、勢観より文通も度々あった。 て善明を供して東陸奥に至った。 国分寺派、 真言宗大泉寺(現在浄土宗)にて布教 、東 即ち 、 源空の書状を鎌倉で受く 正治二年 陸奥の布教を善岡山にまかして自身は西陸奥に名残をおし 聖光の書状を小牛田に て受く 建仁元年 源空の書状を栗原で受く 建仁二年 安楽聖光の書状を栗原で受く 源空の書状を遠因八村で受く 建仁三年 源空勢観の書状を遠田にて受く 金 光 ん で 承元元年(一二O 七年)十月源空 、勢観、聖光等の書 状を平泉で受く 、とあるから 、 この頃未だ平泉中心に布 た便りがあり 、勢観房より宗祖の遺爪を送ったともあり 、 難に善後策 、 その後承元二年鎌倉 、栗原 、平泉 、 再教化 原に至るも 、すでに出旅の後である。さらに 北上 して平 からその役をかつて出て報を金光上人にもたらすべく栗 建歴二年正月二十五日宗祖入滅の時には 、阿波之介白 また証空上人よりの便りもあった。 すること三年。承元三年源空御自作の像を栗原に安置し 、 泉中尊寺に至っ ても行く方 知れず、詮なく鎌倉に帰っ て 教して居たもの与如く、 ついで四国から京都と承元の法 四月仙岩峠を羽州に越え平賀部を布教し 、さらに北上し しる。 奥州皆浄土の旅である。その間宗祖及び源智上人よりの ある﹂と。往生寺に一り旅費を得て北方の旅に出られた 。 は仏法の信心あるところなれば 、我が念仏布教も無難で なればこそ吹く風雨雪は覚悟の前である。末法のところ り依って其の方に行くべからず﹂と。上人は﹁法のため を開祖とした修験宗の団結強く 、 土民と和人との崇拝あ せんときにその人のいうには﹁津軽一 円 はむかし役小角 (津軽泉ノ舘主か)と会し て奥 州 津 軽 ( 東 日 流 ) に 越 境 同 じ年二月十六日 、羽 州 土 崎 観 音 に て 藤 原 左 衛 門 尉 じているからこれを汚したものとしてその怒りに触れ 、 仏。川の流れに洗顔するを見付られ 、 元来川を神霊と信 長更光丸に会って浄土の法門を説くがまさに馬の耳に念 種族であり 、荒吐神を崇拝する故に荒吐族という。総酋 南に更光丸 、北 に相内丸 、東に石化丸 、 四天王の如く荒 族があった。彼等は尊長更光丸を総長として西に津刈丸 、 われ無事津軽に越境したるもまた 一難 、先住民族荒吐 一 浦、 正中山 、行丘 、と路順をとられた。路中人喰熊に襲 土崎、 五城目 、合川 、 鷹巣、田代、失 、楯峠、鞍舘 、合 十五日土崎を発し四月二十五日津軽に入っておられる。 建保元年(一二二二年)五十九歳津軽に入る。三月二 文通もあり 、浄土宗の安心についても現存の一枚起請文 毒矢に追はれるに及んで命からがら山中を合浦に出 た。 建歴元年(一二二年)五十七歳土崎に観音堂を建つ 。 て土崎に至る。 と全く同じものが記されている。また宗祖より奥州の布 幸に津軽検非違使庁に難を免れたがまた難題が起こった。 ヲガル 教は止め て帰って来いとの自からの老齢をうったえられ -4 4- 判官本国三郎義光に会って浄土の布教の本旨を述べたが、 巡脚赦免状がないのを吟味して五月十六日まで留置され なのか Q 上人の布教は生涯かけて奥州皆浄土であり、著書は数 正中山に於ては阿弥陀如来像一躯を拾い修験道場応身 独明抄﹄は一生涯通してのものであり、建保五年入寂寸 また六尺三寸体長剛力も無双であった。著 書﹃ 末代念仏 多く今は現存するものも少いが学識豊かな方と思はれる。 院にて、法輪結果応身院の一坊を金光上人にゆだねたと 前に絶筆となっており、開山および縁故の寺院も数多く た。赦免状は熊と格闘中に失ったものと思はれる。 ある。 奥州における浄土教は、金光上人なき後百二十年、名 遺跡も現存していると聞いている。 記して、奥州皆浄土の布教であり、行くところ荒吐族の 越の良山上人﹁いわき﹂夏井如来寺閉山され全土にゆき 後行立一帯を布教東丘にて、六字の名号を行脚の杖に 迫害もまだ強いものであった。一尺太さの立木を引き抜 わたることになる。 ( 福島教区 ・安養院﹀ 嘉禄三年は 、後堀河天皇の御字紀元二三七年、法 然上人滅 後十五年、金光上人七十三歳になる。 注 き争ったこともあった。また投獄される等難儀は続くの であった。この頃甲野七衛門(後出家して 尋 西)に会つ ている。 地頭甲野七衛門はその後金光上人の援護者 とな った。 また北畠朝臣親園より援護をうけられたが、苦難の布教 は続けられた。 健保三年馬捨盛にて吐血病のため病床に臥す。 健保四年阿波之介馬捨盛に訪ねられ宗祖の入寂を報す (阿波之介は帰路中尊寺にて入滅)。 建保五年(二二七年)六十三歳三月二十五日馬捨盛 にて入寂。墓碑の建立は甲野七衛門 (尋西) によるもの - 45ー 家庭における宗教教育について 研究所員(関東支部) 道 最近 、教育に関する様々な問題について耳にする機会 以下 、 それらの問題を考える前段階として教育と宗教 ﹁自殺﹂﹁殺人﹂等々誠に憂慮に耐えないニュースがマス コミ等を通じて次々に流されてくる。報道されないもの をも含めて相当数の事件 ・問題が起きており 、 それによ り深く悩み苦しんでいる人々も多数に及ぶものと思われ ヲ匂。 これらの問題等について分析検討する作業は 、 主に心 環境及び家庭環境における原因や要因が報告されるにと 現在日本の幼児教育の礎となったフレーベルにおいて は、 一八二六年に出版した﹃人の教育﹄の中で教育の目 おかねばならないであろう。 盤より発生し 、宗教的色彩が濃いという点をまず考えて 現在教育思想の潮流は主にヨーロッパのキリスト教地 一、 教 育 に お け る 宗 教 に つ い て との関係 、特に宗教教育の周辺からアプローチしてみた 残念なことである。 でいる宗教及び宗教教育の立場からの報告が少ないのは 博 が多い。﹁いじめ﹂﹁登校拒否﹂﹁校内暴力﹂﹁家庭内暴力﹂ はじめに 村 的を次のように述べている。 - 4 6一 稲 どまり 、﹁生命の尊重﹂や﹁倫理 ・道 徳 ﹂ を 領 域 に 含 ん 理学や教育学の分野においてなされ ており、学校や社会 。 し 、 ぎ、神と一致さす様に彼を導かねばならぬ。委しくい 教育は人をして善く己を知らしめ、且つ自然と和ら は一般に欠如し、両者の力は発達 しなかった。 とを発見しなかったからであろう。真理と愛との両者 粋に普遍的な発達において 、統一的連関と構成的要素 とあり 、 ヨーロッパ封建当時の学校教育が今日の日本の えば 、 人をして自分と 、 人間と 、神と 、自然とを知ら しめ之によって純潔 、神聖なる生活に達せしめねばな 学校教育と同様に、表面的な技術主体の個人出世教育で あり 、真に人間らしさを求める教育ではなかったことを らぬ。 と述べ 、﹁神との一致 ﹂ へと導くことが教育の重要な目 憂い、真理と愛の発達による全人格的教育の重要性を主 張し、愛に基づく家庭が教育の主たる場であり 、宗教教 的であると力説している 。 また明治 ・大正 ・昭和の戦前戦後の各時代における日 は、 キリスト教を主体とした教育論を展開し 、実践した テッソ lリや 、 生活教育や障害児教育で最近注目されて 他にも客観的な観察を通じて科学的方法を用いたモン 育を基本とした生活教育の重要性を説いている。 のである。その説は 、宗教に支えられた家庭が唯一の理 いるシュタイナーなどの教育思想も宗教的色彩が濃いの 本の教育に多大な影響を及ぼしたベスタロッチにおいて 念的教育の場であるとし 、 学校教育は二次的な教育の場 である。 前述のように 、 教育思想の根底にはキリスト教が存在 として捉えている。 ベスタ ロッチは ﹁レンツブルクの講 演﹂において当時の学校教育を批判して次のように述べ 技術及び教材が宗教的 基盤から除外されて導入展開が計 しているにも関わらず 、日本においては表面的な理論や 現代の学校陶冶が道徳的な内面的高さを持たず、も られたケ l スが多く、その辺については後節で触れるこ ている。 っぱら浮薄な世俗的意味に局限されたので 、 全人類の 教育においては 、人文科学知識の理解や習得による幸 ととして 、教育と宗教については次のことが言えよう。 個人の発達ということが 、 その目的に誤り入らざるを 福な文化的生活を送ることや 、 人間性の完成を計るため 発達ということは決してその目的とならず 、 必然的に 得なかった。けだし 、 それは 、学校陶冶が全人類の純 - 47ー も共通していることを考えれば 、両者が共に包含関係に の指導や援助することがその目的であり、宗教の目的と 永久に戦争を放棄し、国民の安全と生活をあげて世 とある。また﹁宗教的情操教育に関する決議﹂を見ると、 のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。 理 ・社の五科目が中心で、それ以外の科目や人格形成な び活動を禁止してはいるが 、 教育上尊重する必要がある とある。教育基本法では公立学校での特定宗教の教育及 右決議する。 て、道 義の昂揚と文 化の向上を期さなければならない。 底させると共に、宗教的情操の陶冶を尊重せしめ、以 覚による四海同胞 、隣 人 愛、社会奉仕の理想を普及徹 動を展開しなければならない。そのためには宗教的自 争は罪悪である﹂という信念を以て、世界恒久平和運 界の公正と信義に委ねようと決議したわれらは 、﹁ 戦 あり、緊密な結びつきにより一層、 その機能が果せるの ではないかと考えられる。 二、日本における宗教教育の位置 現在の日本における教育体系の中で宗教教育はどのよ うな位置にあるのだろうか。 前節でも触れたが、現在の状況は﹁受験戦争﹂と呼ば どは軽視され、校則・規律等で束縛されているのが実情 とし、決議においては平和な文化国家を築く上で宗教的 れる程の、進学がその目的となっている。英 ・数 ・国 ・ であろう。このような中で大多数を占める公教育におい な自覚と宗教的情操の陶冶が必要であるとしている。 しかしながら実際はどうであろうか。宗教教団関係の て宗教教育は、その一部分が﹁道徳﹂や﹁倫理的分野﹂ 私立学校においては、その建学の精神が宗教に基づいて ﹁日本史﹂に形骸化して取り入れられているにすぎない。 ちなみに国の教育指針である教育基本法の第九条(宗教 おり 、学校の教育活動の中に宗教的要素が盛り込まれて 解が困難なため実際には﹁腫れものにさわらない﹂ょう 宗教のための宗教教育﹂が禁止されてお り、そ の辺の理 いるので一応問題はないが、公立学校においては﹁特定 教育)をみると 、 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活におけ る地位は、教育上これを噂重しなければならない。 国及び地方公共団体が設置する学校は 、特定 の宗教 - 4 8ー な態度で宗教に対処しており、教科外の項目か単なる歴 史上の遺産として取り扱われているのが実情であろう。 当然、宗教心の酒養どころか 、宗教に無知な状態が作り 出されている状況である。 このような背景には 、日本国憲法における﹁信教の自 由﹂の解釈が 、 本来の﹁どの宗教を信じても良い。信じ ることは自由である﹂という意味ではなく 、﹁宗教は信 三、 社 会 教 育 に お け る 宗 教 の 位 置 日本では古来より 、 講や結社などのような地域的な社 会教育の場が存在していたし 、昨今のカルチャ ー センタ ー形 式 の 社 会 教 育 も 広 く 行 な わ れ 、﹁生涯教育﹂の重要 はどうであろうか。教育刷新委員会により建議された 性が広く認識されている。社会教育における宗教の位置 で、側面的に歴史上の文化遺産として扱う方法しか認識 な解釈の下で 、 教師においては宗教を正面から捉えない 一般的に行なわれた所に問題が考えられよう。そのよう 自覚を深め 、 且つその社会的活動を容易ならしめる環 であるに鑑み 、前者の刷新を望むと共に 、後者が反省 微弱であり 、また宗教団体の社会的教化活動も不十分 3、従来我が国の社会教育においては宗教的要素が ﹁社会教育と宗教との関係﹂について見ると 、 せず、その中で育った子供達や大人達の宗教離れ 、 言い 境を整えることが望ましい。(以下略) じても信じなくても自由である﹂という無神論的解釈が 、 換えれば 、宗教に関する無知な状態が作り出されていっ 教育は自ら限界があるが 、特定の宗教にこだわらず 、広 このように 、 公教育における宗教教育 、及び宗教情操 については﹁特定の宗教のための儀式 、行事、または 、 の文の後に補足事項が続き 、公的機関における宗教教育 宗教団体の社会教化の展開を要請している。しかし 、 こ とあり 、大いに社会教育における宗教的要素の必要と 、 く宗教を捉えることにより 、 徳育の分野として自然に導 集会等に使用﹂することを禁じており 、事実上 、公的機 たのではないかと考えられる。 入されるような体制がとられることを強く希望する。 関においては公立学校と同様に扱われており、学術的 、 芸術的部門での宗教の側面が導入されている程度である。 - 4 9ー 日本での社会教育の機関や施設 、機会等に関しては公 的機闘が主導して展開されているが、宗教団体などの社 育、及び宗教活動を実践していくことが必要であろう。 家庭における宗教教育 、及び宗教情操教育の必要性を 四、 家 庭 教 育 に お け る 宗 教 教 育 教育として宗教教育を実践している例は多く 、 子供会 ・ 痛感する現在 、宗教の位置はどうであろうか。前節の建 会教育への参加の余地は十分に考えられる。すでに社会 日曜学校 ・ボーイスカウト ・塾 ・青年会 ・婦人会 ・講 - ー 、 家庭は宗教的情操を漏養する基本的な場所であ 議と同じく﹁家庭教育と宗教との関係﹂の建議を見ると 、 ープやクラブ活動等も見受けられる。これらの組織を通 るから 、家庭における宗教的感化さえ徹底すれば 、学 い。この時期に人格形成の礎が様々な経験や活動 、学習 - 50- 文化教室 ・老人会等々があり 、他にも趣味や同好のグル じて宗教情操教育を行ない 、教理や教学等の布教への結 校および社会に於ける 、 その欠陥を補うことが出来る とあり 、﹁ 家庭は宗教的情操を漏養する基本的な場所﹂ び付けることが出来 、 ひいては構成員が家庭に持ち込む これらの具体的な活動状況については調べていないの であると定義されており 、家 庭 に お い て は ﹁信教の自 であろう。従って家庭における宗教的雰囲気は 、宗教 で明らかではないが、キリスト教の YMCAや新興宗教 由﹂ に基づき、宗教教育というよりむしろ宗教情操教育 ことにより家庭での宗教情操教育が展開されることが理 の青年部などで活動が盛んである。特色としては直接 、 を通じて序々に宗教理解を深め 、家族全員の人格完成を 教育上 、特に重要視されねばならない。 宗教教育の要素は比較的薄く 、趣味や興味ある対象を活 目ざし 、 日々の精神生活を高めていく努力が必要であろ 想である。 動の中心として 、序々に宗教感化していく方法が多いよ うである。 となり 、組織化を計り運営を行ない、より多くの人々の を通じて育くまれる。この時期の家庭の影響力は絶大で 、 家庭教育のあり方として 、特に乳幼児期を重要視した 参加と 、参加の意義を明確にし 、宗教教育や宗教情操教 社会教育としての宗教教育は 、宗教団体や施設が主体 う 言語・基本的生活の方法 ・価値観 ・善悪の判断 ・美的感 先祖崇拝としての、彼岸や盆の墓参りや法事、日々の る母子 ・父子家庭の増化 ・生活の無目的化 ・家風の退潮 の傾向として、核家族化 ・家族構成員の減少 ・離婚によ 家庭教育の現在の状況はどうであろうか。最近の家庭 宗教意識の向上を図り 、家庭内に宗教的要素が導入され にすべく、宗教団体や宗教家は広報宣伝を行ない、広く れる。これらの慣習や行事、儀礼等の意義や目的を明確 いない傾向があり、 表面的なもので終わっ ていると思わ 神棚や仏壇への礼拝、毎日曜日の教会での礼拝、年中行 ・経済優先の感覚 ・家族聞の接触時間の減少等々があげ るように展開されることが第一段階かと思われる。そし くまれる。それだけに母親を中心として、父親や家族構 られる。このような状況で、健全な家庭教育を推進して て序々に家庭の中に宗教が侵透することにより、宗教意 事と しての初詣で、節分、 祭りお月見 、クリスマス ・大 いくことは益々困難になってきている。このような状況 識の自覚が芽生えるような 、宗教情操の酒養が自然に行 成員がそれぞれの人権を認め、相互に教育 ・被教育の関 こそが、現在最も宗教を必要としていると思われる。学 なわれてはじめて宗教心が定着し、その中から正しい宗 晦 日、通過儀礼として の節句 、七五三 、成人式等々があ 校 ・社会において宗教に関して無知な状態の人が 、多く 教認識の下で生活の中に宗教が確立し、よって個々の人 係にあることを自覚し、自己完成に努め、より良い生活 作り出されており、現在の生活の中で欠けているものが 格形成が促され、調和のとれた家族及び社会が成立する るが、現在ではこれらの意義や目的が明確に理解されて 宗教であることを認識している人は少なく 、 その中に宗 以上、宗教と教育との関係について考察したが、生命 おわりに であろう。 を築いていくことが望ましい。 覚 ・思考 ・自立心等と共に宗教に関する基礎的要素が育 。 教や宗教家が入り込む余地を、見出すことは困難かと思 われるが、是非共必要なことと考えられる。 その一つの方法として 、家庭生活の中で容易に取り入 れられる宗教行事、年中行事、通過儀礼を見直してみた - 5 1 L、 が生命を導くという作業を共有する教育と宗教において は、 より広い﹁交わり﹂の部分が理想であり、今後の課 題としていかにその交わりの部分を拡大していくかにあ ろう。長田新博士が 、 その著﹃宗教と教育﹄の中で、 聖なるものは 、 それ自身直接自己を表示することが ない。したがって聖なるものは普通の意味では教える 方法がない。もしありとすれば、それはただ目覚ます という一つの方法があるだけである。 と述べているように 、宗 教 教 育 の 本 質 は ﹁ 薫 習 ﹂ 又 は ﹁薫化﹂にあり 、親や教育者 、宗教者が自らの正しい行い の実践を継続することにより 、 い っ と は な し に 幼 児 や 児 童 、 生徒及び周囲の者を酒育薫陶することであろう。宗 教教育の実践にあたっては 、宗教者自らがその生活や行 動を宗教的自覚に基づき、正しく行なうことが先決であ ろう。古来より﹁子は親の背を見て育つ﹂と言われるが、 実に深い内容を持つ言葉であろう。 参考 文 献 ﹁ベスタロッチ Iの 道徳 ・宗教教育の研究﹂坂東藤太郎著 ﹁子どもの発見﹂ M ・モンテッソ lリ著、鼓 常良訳 内山憲尚著 長田新著 博編著 (群馬教区・長念寺) 深川恒喜 ・千葉 ﹁教育六法﹂ ﹁現代青少年の宗教意識﹂増谷文雄編日本宗教学会 NHK放送世論調査所編 ﹁日本人の宗教意識﹂ ﹁道徳教育における宗教的情操の指導﹂ ﹁仏教保育二十章﹂ ﹁宗教と教育﹂ - 52- 研究所員(東海支部) 宮 浅 良 と 六十一年八月のお盆月も終り、ほっと一息という処で 和歌が従であるか和歌が主になるかの違いだけだと思い テ l マにする方がピシッと決っている様に感じられます が、 どちらでも結構と思います。唯、布教する上に於て μ す。今この会場に御聴聞頂いております各諸大徳方にお とでも結構布教になるのでは と思い 、 テー マを﹁和歌か にしようかと迷いつつも思案の揚旬 、 そうだ次の様なこ 会館大ホ l ルでの一席の説教には、和歌を多くとも三つ 程おてつぎ奉仕団の御奉仕に呼ばれて行っていた。和順 四 ・五年ほど前には月に二度三度は必ずといってよい ー マを報告する様にとの達示を受け て 、 そのテ l マを何 大学で持たれる昭和六十一年度浄土宗教学布教大会のテ ます。和歌から何とかして聴者に判って頂くことが出来 歌 か ら の 布 教 ﹂ と 題 す る よ り も 、げ和歌による布教 崎 かれましでも、 お施餓鬼 ・棚経等々を勤修せられ 、 早や 教 ないものか 、また和歌から何とかして聴者に念仏の弘通 布 お彼岸の準備にも取り掛かろうとしておられる上人方も の が出来ぬものかと思って、和歌による布教 、所調﹁和歌 ら おられることと思います。六月増上寺様へ布教研究所集 台 、 からの布教﹂と題しました。 歌 中研究会に行き 、 その席で期限六月末日迄に会場を仏教 和 らの布教﹂ということで早速連絡致しました。尤も﹁和 ~ - 5 3一 付 その場その時により種々様々な考え方もあるけれど 、詰 るのは芳くないとは以前布教師養成講座にて教わった。 は必ず朗詠していた。一席の説教に三首以上和歌を混え でも 、特 に ﹃仏説無 量寿経﹄ には染悉痴とい って、貧り って善を生 じる 事の 出来ないも のであ る。この五蓋の中 からな り、心を覆 っていて 善をなそうとし ても邪魔にな わさせる捧と心を悩ませる侮)・疑 ( た め ら う ) の 五 つ そらん じている和歌も種 々あるが 、今では一っか二つに押えて (貧欲) と怒り(膿書)と感さ(愚痴)の一二つの煩悩を ぜんいち いる 。趣味のある方は幾つでも和歌を詰じ ているも のと 三毒と い って 、五葦を代表する吾 々人聞を苦しめる火の に 思いますが 、 一言付け加えました。和歌は数種類必ず暗 様なものである。この三つを火にたとえて三火ともいう。 企企 記して自分のものにしておき、讃題に合う様な和歌を予 め決めておきその和歌に近づく様に話を進めていくこと は至極当然なことである 。 三毒も南 無 阿 弥 陀 仏 と な ふ れ ば ついに変じて三徳となる ( ﹃ 釈教歌一詠全集﹄第六巻中より抜粋﹀ 先ず五種とは何か 、 つまりそれは①貧り、②怒り、③眠 く、五蓋とは心を覆う五種の煩悩 ・五つの障害である。 ても布教実演の様な感すら致 します けれど御聴聞くださ ると仮定して 、話を進めることに致します。何処から見 は思います。この会場の設定は各諸大徳方が檀信徒であ ずるも のとする。最後に詠じる方がより効果があると私 今申し上げた和歌に因んだ話を進め てい き、最後に詠 りこんだ様な無知蒙味、④疎うつの状態、⑤疑いの五つ りたく 、お願い申し上げます。 る。判り易くいうと、即ち貧(むさぼり)・眼(いかり) ざいます。私は何処へ参ります時にも自動車で伺います。 私伊賀の固から馳せ参じました専念寺の宮崎浅良でご に をいう。漢訳によると 、五蓋には貧欲葦 ・眠悉蓋 ・悟沈 .睡眠(心くらく身を重からしめる)・捧 侮 (心をざわ ざ - 54 ー 伺 睡眠蓋 ・持挙悪作蓋 ・疑蓋の五つからなると記されてい ろうとされている五叢というものがある。読んで字の如 生きとし生ける私達凡夫には 、誰もが持っ て いるであ 伺 た時 、私は自分なりに眠る気持を感じます。また車線で う様に自坊を出発しますが 、途中車の渋滞にでも出会っ 教の時聞はOO時からと聞き、その時聞には無論間に合 ところが次の様な気持が起ったことがありました。お説 な方は 、自分の性質に気が付いて 、自分一人の力で直そ う、また克服しようと頑張っても 、克服するにはよっぽ っとしておられるのではないかと思います。多分その様 にプツプツ められても 、 また道理を踏まえて説明説得されても、未 いまだ ない空いた所を走って来て割込もうとする車にも腹立ち どの精神力がなければ 、可能に近づくことは出来ぬと私 f i と迷える気持で文句をいう様な方もひょ を憶えます。皆様なら如何ですか?﹁いや一向に眠る気 は思います。が然し、誰もが思われるで しょうそのこと は、﹁何だこんな簡単なこ と なら俺でも出来る 、私にで 持は湧いてこぬわ﹂という方がおられたらその人は仏様 か、 さもなくば時間に追われて居らない人でしょう。先 ところが有難いことですね。何の苦痛も感じなくて良 も出来るよ 、我慢さえしたならそんなこと位簡単なもの いように浄土宗をお聞きなさった法然上人のみ教は 、 た ず誰もが一応にちょっぴりでも瞭りを憶えるものと思い も 一人前に自立して孫の顔も見ているし 、年老いても 、 とえ学徳文武を兼備された方で有りましょうとも 、七珍 さ﹂ときっとそう思われ言われるに違いない。そこで我 此の世の人生バラ色ですわ ﹂という人ですね。この様な 万宝が蔵に満つる人で有りましょうとも 、又そうでない ます。車にだけ限ったことではございません。ところで 方 は 沢山おられると思う。その様な何の苦労もない人は 慢するということは 、その人にとっては精神的な苦痛が 多分他家さんが自分の家に無い物を得られたとした処が 、 例え様の無い人でさえ南無阿弥陀仏/¥と口から声に 出 皆様方の中には次の様な方もおられると思います。 ﹁わ ﹁他家は他家で我家は我家だ他家のまねは出来ませんわ ﹂ してお念仏を称へる其の人には、身体の到る所 、目から 、 相当にあるものと思う。 という人もあれば、 ﹁いや何んとしてでも手に入れたい ﹂ 鼻から 、 口から 、耳からも 、 穴から等々何処からともな しは何もいらん。生活もそれなりに出来ているし 、後継 と 願う貧欲な気持 、 是が求不得苦の苦しみで得られずに く弥陀のお慈悲が浸透し 、 知らず/¥の中に念仏を称へ なだ 眠る気持、その眠る 気持を抑えることが出来ず、幾ら宥 - 5 5ー 念仏申したから三毒が明日無くなるというものではあり れて自然に消えて無くなっていく様になりますよ。今日 誰もが持っているとされている三毒も 、雪が湯水に溶さ 宗のお念仏の有難い所以は。口称念仏することによって たその代りに楽をお与え下さいます。ここですね、浄土 を阿弥陀様がお受け下さり悩み苦しみを受けとって頂い 言います。口称念仏することによって自分の悩み苦しみ 出して称えて下さい。だから浄土宗の念仏を口称念仏と す。南無阿弥陀仏のお念仏を申す時は 、必ず口から声に から何時迄と時間も決めず、幾時でも何処ででも結構で 台所仕事をしている時にでも、男女の性別を問わず何時 テレビを見ながら、お茶呑みながらでも、女性の方なら 陀仏/¥と称えて頂く時聞が無ければ歩きながらでも 、 の人柄がきっと変りますよ。阿弥陀様の御前で南無阿弥 疑を持って頂きながらも続けてみて下さい。その人なり までも良い方向に変るものですよと仰っています。まあ るその人には人徳が備り 、そのお念仏を称える人の人柄 柄になれますよ。要するに 、愚痴が消去って智徳という 邪な気持の考でなく、倫理上良識的な智 慧 を持って有る た行いの原因となる愚痴も念仏を申す人、何人に限らず る智慧に欠けついついぐづぐづという、そのことが誤っ 真実を見失い真理に対して心が暗くて一切の道理に通じ 塞が消えて断徳という徳を得ることが出来ますよ。また に限らず煩悩を除き去ることが出来ますよ。要するに膿 み悩み煩い厭う精神作用、所調煩悩は念仏を申す者誰人 いう徳に変りますよ 。文怒ることにより自分自身が苦し 判る様にならせて頂ける私達貧欲な人柄が消えて恩徳と 仏の願いのカを与えられ 、又恩を施して呉る人の気持が って 、 一転して他に恩恵を施し 、世の人を救をうとする いるけれど)然しその様な人でさえ念仏を申すことによ 恩は忘れておらぬが相手方からその人を蔑にする人も 受けながら其の恩を感じない人(とは云うものの受けた 人の持っている物迄欲しいと思っていた気持、文恩恵を ております。ちなみにあれも欲しい、是もほしい、果は 示したもので 、 、 断徳ω 、 智徳の 三 つからなっ ω恩徳ω ません。念仏を多少共続けることによってその三毒が段 。。 々と消えていく。それにつれて三徳と云う徳が自然と備 徳を得ることが出来ますよ。是で判って頂けたと思いま が僅にそのものその人を見ることが出来る様になれる人 ないがしろ って来ます。三徳といいますのは 、 仏の徳を三方面から - 56- 、、、、、、、、、、、 A A 、、、 。 。 、 すが 、念仏を・申し続けて居る証として三毒が消て三徳を い 得るという和歌もあるくらいだからその和歌を一度聞い -V て頂き、私の話と対にして 、成程なあと感じたならば 、 より一層無上なる様にお念仏を申して頂けたら本意有難 く思います。 ︿そこで和歌を詠じる) 三毒も南無阿弥陀仏となふれば ついに変 じ て三徳となる 御聴聞頂きお感じ頂けたと思いますが 、先の方で述べ ました様に和歌を取り入れる場合、こ の様に演緯的に取 り入れる方が 、効果的であろ うかと私は思います。 (伊賀教区 ・専念寺) - 57- 地獄の白蓮華・極楽の白蓮華 研究所員(東海支部) みたいと思う。 浅 野 義 光 善導大師や法然上人がこれをどのように考えておられた 経典等の記述をみながら、その本質を理解し、さらには ここでは仏花の代表ともされる蓮の花の魅力について、 と、優盈羅筆は赤 ・白 ・(桃)、拘物頭華は赤 ・青 ・賞、 の説があるが 、密教の善無畏三蔵の﹃大日経疏﹄による には明確な色分けはなく 、又、華の色彩についても種々 これらが入りみだれで水上を覆うとある。﹃無量寿経 ﹄ 盈 曇 摩 華 / : : : 赤 ・白 /蓮華 分 陀 利華¥ ¥ : : : 白 優盈羅蓮//:・:・赤 ・白 ・(桃) 睡蓮 拘 物 頭 筆 ¥ ¥ : : : 赤 ・青 ・策 ると 、 F h d 蓮華は色々な仏典に出てくるが 、今﹃無量寿経﹄によ 。 。 t コ のか、また 、﹃往生要集﹄ に 説 く 蓮 の 花 と の 比 較 も し て みかける仏教を象徴する花である。 一方の蓮(睡蓮を含む)は、神社 ・仏閣等の池によく があると思うと自然と念仏が出てくるものである。 は本当に神秘的であり、その彼方に指方立相の西方浄土 太陽が真赤になって西の海に沈んでいく瞬間というの つは夕陽であり 、 もう一つは蓮の花である。 私がこの世で神秘的に思うものが二つばかりある。 付 盗曇摩華は赤 ・白、分陀利葦は白である。ただしこれら また ﹃阿弥陀経﹄ にも、 とあり、色彩が多種にわたっていることが説かれており、 ソ 。 h 赤色には赤光あり、白色には白光ありて微妙香潔な 青色には青光あり。黄色には責光あり。 池の中に蓮華あり、大きさ車輪の如し。 は中国 ・日 本の蓮華とは形が異なり楕円形の睡蓮のこと のようである。 これらの花は大変珍重され、例えばお釈迦様以前の古 代インドにおいて﹃マハ lパ lラタ ﹄では 、天地開闘の 始である章紐天のへその中より生じた蓮華中の究天をも とある白蓮華である。この華は泥の中に生じてしかもそ と説かれている 。 この中で今注目するのは﹁白色白光﹂ れに汚されずに清浄無垢な撃を咲かせるのであり、﹃維 って万物創造の主としており、また、ギリシャ神話では いて相談し、それぞれ外海 、 内海、泉の守り神にした。 摩経﹄に 、 乃ち此華を生ずるが如く、是の如く無為法を見て正 提に喰えているのであり、さらには﹁生死即浬繋﹂であ - 5 9ー 水の女神が三人の娘たちに、彼女たちの身のふり方につ そして泉の守り神になった末娘は睡蓮になった(ここで これらのことからも蓮華 ・睡蓮というのは以前から洋 位に入る者は、終に後に復た仏法を生ずること能わ は睡蓮である)という伝説もある。 の東西を 問わず神秘的な存在であ ったこ とがうかがわれ ず。煩悩の泥中に乃ち衆生の仏法を起すこと有るの 害えば高原の陸地には蓮華を生ぜず 、卑湿の淡泥に る。特に仏教では色々な戦え話としてしばしば仏典の中 に出てくるのであり 、周知の通りとりわけ浄土教では極 衆宝の蓮華は世界に周満せり。一一の宝牽に百干の るということを示す、いわば大乗仏教の究極ともいえる とあるように、ここでは﹁煩悩﹂を泥に、 ﹁蓮華﹂ を菩 葉あり。その華の光明に無量種の色あり 、青色には そしてさらに ﹃無量寿経﹄には 、 べきところに蓮が用 いられている 。 またしかなり 青光あり 、白色には白光あり、玄、賞、朱の光色も 楽荘厳に蓮華が用いられ、﹃無量寿経﹄には、 み 若し念仏する者は当に知るべし、此の人はこれ人中 の分陀利牽なり。 として 、 ここでは念仏者に喰えられているのである。善 を蓮華に喰え て いるようである。 同 名づけ 、亦人中の上上華と名づけ 、亦人中の妙好華 分陀利と言うは人中の好蓮と名づけ 、亦希有の華と 六の焦熱地獄の中の分茶離迦という地獄である。ここは ﹃正法念経﹄を引用しているところで 、 八大地獄中の第 る。一見以外な気がするが 、 これは﹃往生要集﹄の中で ところで一方 、地獄にも白蓮華を見つけることができ と名づく。この華は相伝えて察華と名づく是れなり。 他人に間違った思想を信じこませたりした者が堕ちる地 導大師はこれを釈して﹃観経疏﹄散善義に 、 もし念仏する者は、即ち 、是れ人中の好人、人中の 獄であり 、苦しんでいる罪人に対して別の地獄の住人が 汝、疾く速に来たれ 、汝 、疾く速に来れ、ここに分 妙好人、人中の上上人、人中の希有人 、人中の最勝 とあるように、念仏者を白蓮華である分陀利華にたとえ 茶離迦の池あり 、水ありて飲むべし 、林に潤へる影 次のように誘っている。 て称讃していられる。これを受けてさらに法然上人は あり。 人なり。 ﹃選択集﹄において善導大師の﹃観経疏﹄を引用し 、妙 白蓮華に喰えられている のであ る。また 、中国の車山寺 として、 お念仏は全ての行の中で勝行であるから妙なる ってその喰へとす。警への意まさに知るべし。 念仏はこれ即ち勝行なり。故に芥陀利を引いて 、も 燃えており 、 その穴の中に落ちて身体中が焼けただれて 罪人が走って行くと、道に穴があり 、中で火がさかんに るものにとってはまさに助け舟である。そこをめがけて もありますよ と いうのである。地獄でもだえ苦しんでい る。そこには飲む水はたくさんあるし、林には涼しい影 この分茶離迦の池というのが白蓮華の咲いている池であ 慧速による念仏結社﹁白蓮社﹂の命名も、この寺に白蓮 しまう。あつくて喉の渇きが激しいので何とか前に進ん 好人等について釈された後、 華が多く咲きここに会するものが名利に染まらないこと - 60ー する蓮華とは同じものではなく、それよりはるかに不可 実鳥に非ず﹂といわれている様に、蓮華についても実在 と説いていられる。従って例えば善導大師が﹃往生礼 これは罪人を火の燃えている穴の中に落とす為の一つ 思議な魅力のある蓮である。もちろん﹃阿弥陀経﹄に出 で池のある場所にたどりつくと、その白蓮華が空高く燃 の方便として説かれているものである。従って 、妙なる てくる荘厳も全て﹁願心荘厳﹂であって、この世の実在 讃﹄の中で 、 これは鳥についてであるが、﹁極楽の鳥は 魅力のある白蓮華を利用して罪人を誘っただけであって、 え上って一得び火に焼かれてしまうというのである 。 束の間の希望の後すかさず苦の道へっき落とされるので とは似ているが全て違うのである。 一方、 ﹃ 往生要集﹄に説く白蓮華は、場所が地獄であ ある。これも結局は、罪人にとって白蓮華への憧れがあ ったからこそ住人の誘いにのってしまったのであろう。 を荘厳しているいわゆる ﹁願心荘厳﹂ の蓮華である。つ る。ましてや極楽浄土の蓮は阿弥陀仏の四十八願が浄土 でさえも、それを見ていると不思議な魅力にとりつかれ 華の記述等を見てきたが、この世に実在する蓮華 ・睡蓮 法然上人 の喰え、さらには ﹃往生要集﹄ の地獄に咲く蓮 以上、初めに極楽の蓮華について、そして 善導大師、 陀利華(白蓮華﹀に鳴えられるとい う事 は、正にもった 好意を示していくはずである。同様に念仏者にとって分 たその女性は身にあまる光栄であり、自然とその男性に なる本当の想いだとしたならば、自分が太陽に喰えられ おだてあげる意味だけならばそれでいいが、これが純粋 の心の太陽だ ﹂という口説き文句があるが、単に女性を ところで、イタリアなどは女性に対して﹁あなたは僕 - 6 1一 り、実在の華もしくはそれに近いものでしかなく﹁願心 まり浄土が願心によ って荘厳されているということは、 いない光栄であり、前述の法然上人のいわれる如く﹁警 荘厳﹂によるものではない。 浄土というものの特質を考える上でおそらく最も大切な 念仏者というものはそれだけ尊い価値があるのであっ への意まさに知るべし﹂である。 二十九句の荘厳功徳は願心を以って荘厳せり。 ことではないかと思う。世親も﹃往生論﹄の中に、 伺 て、逆に考えれば分茶利肇の真の姿を認識したならば私 達は自然と念仏者にならざるを得なくなるのであり 、 こ の意味からもお念仏を申さずにはいられなくなるという ことになろう。 (岐阜教区 ・本誓寺﹀ - 62ー 研究所員(北陸支部 ﹀ 毅 す ・聞くの作用に該当します。(* ここで使用されてい 能力を常態で伸ばす聞に通例表わす思想伝達作用で 、 話 第一次伝達とは、幼児が組織的教育を受けないで言語 とになります。乙はそれを聞いて 、聴覚像を形成し、そ 成しそれと同時にそれ(、不コという語)を音声にするこ ると、その概念は甲 の脳の 中で聴覚像 (ネコの姿)を形 のものが一つの連続している聴覚像とそれに相当するい の概念を持つことが出来ます。そもそも﹁考える作用そ つまり 、 甲がある概念(例ネコ)を乙に伝えようとす 1 4 - 一念一 一 像 一一 周一 一用 一 一 像 一 一 念 一 一一'一 t-'一作 ﹁lL作﹁l一 Z ﹁l一一 一一、三一、一戸 党 一 一 3 一一 一 一概一一聴一一発一一聴一一聴一一 概一 甲(伝達者)乙(被伝達者﹀ 方を伝達する伝路を見ると図ーのようになります。 言葉が一つの脳(甲)から他の脳 (乙)へ一 つの考え ( *印の所は筆者が入れた﹀ 雄 念す ハロル ││くりかえしの効用l│ 万機普益の念仏をすすめる一つの試みとして、 ド ・パ l マの学習法と 言語 心理学によって、人が言葉を 覚えそれを使う付心理的過程と同学習法の二点に念 l マによると 言語は その一面に 言語運 用の働きが 仏することをあてはめた場 合の私見を述べます。 付パ あり、それに第一次伝達と第二次伝達があるといいます。 本 め る幼児という語は一般に言う意味です。言語教育の上で は初心者と考えてよいと思います ﹀ 。 - 63- 山 こ ? ここでは第一次伝達だけに言及して論をすすめます。 1 図 る 語かのネコという語が聞こえると想像する 、あるいはそ 思い出せば、必ず英語の C A Tか、日本語のネコか、何 の実験で確認されています。例えば、ネコという動物を 非常に緊密で一つに連続したものであることは心理学者 ような説明が成り立つわけです。概念と聴覚像の関係が くつかの概念とを連結させる作用であるよから図ーの が甲の概念の知識を持っていれば 、乙は甲とおおよそ同 音であって何の意味も持たないことになります。勿論乙 ていないということは、乙にとって南無阿弥陀仏は単に が出来ないのです。乙が聴覚像に阿弥陀仏のお姿を持っ 聞くだけでおわり、甲の概念を聴覚像によび起こすこと ば、乙は聴覚作用の段階で、南無阿弥陀仏という音声を 者にすすめる場合をみてみます。この場合の最良の条件 は、布教師と聴衆双方ともに阿弥陀仏について正しい知 識を持っていることです。もし聴衆にそうした知識がな いとすれば、法話の中で、阿弥陀仏について聴衆が正し い理解をもてるように抽象的なり具象的に教える必要が あります。このような条件作りをしてはじめて聴衆が念 仏申すことを受け入れる基盤が出来たということになり 甲の概念(南無阿弥陀仏)から乙の概念(南無阿弥陀 詞の羅列で表現して 、何が有難い思いをさせるのか 、 ど 元祖様の教えは実に尊いなどと布教師自身の感慨を形容 ます。よく見うけることですが、念仏は本当に有難い、 仏)へ同一の概念が正しく伝わるのは、乙がすでに阿弥 うなっているから尊いのかの肝腎なことが出ないままに 概 念 南無阿弥陀仏 陀仏のお姿を脳の中に像として持っているからです。も │ 可弥陀仏のお姿 次に 、布教の実際において、念仏を称えることを第三 一の概念を持つことが出来るわけです。 ι 話が終ってしまう場合があります。有難いとか尊いとい 概 念 南無阿弥陀仏 し乙が甲の概念について何の知識も持っていないとすれ -6 4一 れを声に出して言うと想像することになります。 発声作用 南無阿弥陀仏と発声 南無阿弥陀仏という概念を図 1 の伝略にあてはめたと 聴覚作用 南無阿弥陀仏と聞く きどうなるかが図 2です。 乙(被伝達者) 聴覚像 │ 甲(伝達者) 聴覚像 阿弥舵仏のお姿 │ │ │ 2 図 いために、布教師が伝えようとする概念を正しく聴覚像 もあれ、こうした場合、聴衆は十分な説示が与えられな う気持は聴衆自身が感じ判断することだと思います。主 として日本でも語学教育の成果を飛躍的にたかめました 。 えし﹂を主とするオ lラル・メソ (くり返し)を主要な作業としています。この﹁くりか HOZ て い ま す 。 特 に 第 2と第 3の過 程では 河何回ぷW4HH, 右の五つの習性を少し敷術して念仏におきかえてみま 法応より顕著な成果を目の当りにしました。 yドはアメリカを中心 や概念によびおこすことが出来ません。従って念仏がロ 筆者もハワ イ大学で日本 語教育にたずさわった際この方 l マは前項の第一次伝達を活発自在にするために から出ないことになります。 ∞パ は、次の言語学習の五習性による学習が大切だとき一回って います。 ー、耳による観察 2、口による 再現(聞いた音をまねて言う。) 3、口馴らし (一つのことを自然に言えるまで繰返 し 練習する J 4、 意味づけ(ある言葉を聞くとすぐその物を思い 、 ある物を見るとすぐその言葉を思う 。) ー、南無阿弥陀仏を耳で正しく聞きとる 。リズムとか 呼吸法なども併せて聞きとる。 2、南無阿弥陀仏を聞いた ら、出来るだけ発声をした 人に似せて自分の口でまねてみる。声の大小をもよく考 え、明瞭に発声する。 Q 3、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と行住坐臥に 繰返し 繰返し称える。念仏を称えることを習慣をつける 易に思いう かべることが出来るよ うになる。また阿弥陀 4、3 の習慣づけが出来てくると阿弥陀仏のお姿を容 この五つの習性は、パ l マが提唱し広く普及した教授 仏のお姿を拝すると自然に南無阿弥陀仏と称えられるよ 5、ーから 4までの体験を応用して、念仏を称えてい 法オlラル ・メソッド又はオ lラル・ワーク (口頭作業 5、類 と うになる。 てはそ のいずれの段階も欠くこ との出来ない役割を果し 6 5- す を主にした教え方)の根幹をなすものです。学習におい 推 念仏にはげむようになる。 ると 、次第に阿弥陀仏に対する考えや思慕が深まり一層 去らしむるものは 、多念であり反復である。﹂ 工人の働きにも﹃我﹄が残つてはならぬ。この﹃我﹄を ーツ ・文化 ・芸術 ・宗教等あらゆる分野にかかわってい 学習だけに限りません。その意味あいは異っても 、 スポ 中には 、 いくつも﹁くりかえしに﹂類似する意味を持つ はおそらく使用していないと思います。しかし御法語の 法然上人御自身は﹁くりかえし﹂や﹁反復﹂という語 ﹁くりかえす﹂ことによって良い結果が出るのは語学 ます。その技術の練磨や手順の習得の根幹となる作業は 語句をみつけることが出来ます。 し﹂や 、﹁一念なほ生まる 、 いかにいはんや多念をや﹂ ゃ、 ﹁信を一念にむまるととりて、行をば一形にはげむ ﹁一念十念なほむなしからずと信じて 、無聞に修すベ ﹁くり かえすこと﹂によって高められていくのだと思い ます。 柳宗悦はその著﹃南無阿弥陀仏﹄で﹁くりかえし﹂の 不思 議を次の ように述べています。 べし﹂などはその例です。これらの中の無間 ・多念 ・一 形はまさしく念仏の﹁くりかえし﹂を求めたものです。 ﹁凡夫たる工人達からどうして成仏してゐる品物が生 れてくるのか。仕事を見てゐると 、 そこには心と手との しかも二者択一をゆるさず、念仏をくりかえすことを当 ﹁くりかえし﹂を強調すると 、 い か に も 多 を と っ て 少 限りない反復があることが分る。有難いことにこの繰返 そは念々の念仏と同じ不思議を生む。なぜなら之で自己 を捨てるように思われるかもしれませんが 、そう考える 然のこととする要求を私共につきつけ﹁l ベし﹂と申し を離れ自己を越える。或は自己が 、働きそのものに乗り ことは誤りだと思います。一念ごとに往生をあておきた しは才能の差異を消滅させる。下手でも下手でなくなる。 移ると云ってもよい。自分であって自分でなくなる。こ もう念仏を命終にいたるまでくりかえしくりかえし相続 ているのです。 の繰返しの動作と、念々の称名とは、似ないやうで大に するのです。その相続の一瞬間 、 一点をとらえれば一念 この繰返しで品物は浄土につれてゆかれる。この働きこ 似たところがある。称名には﹃我 ﹄が入つ てはなるまい。 - 66一 であり、十念となり、 一瞬間・その一点に申す往生心の 定まった念仏を連続して見れば多念であります。一即多 多即一で、一念はその瞬間に多を内包し、多は常に一を 一瞬間たりとも至心を捨てないことであります。そうし 含んでいるのです。順彼仏願とは、念々に一心専念して、 た凡夫の真実心のこもった念仏の一念ごとに阿弥陀仏が 必得往生をあておいてくださっているのであります。な ぜなら順彼仏願故だからです。 参文考献 司同市凹帥 一、英語教授法事典市河三喜監修。開拓社 , H N﹀戸玄何、HE E J 円 、 ↓M C O Z J 円 ロ ヘ 曲 目 白 M 一、叶回開 O B o g -開 N J門 戸uaOHH215∞ ︿DZ50 凶MXHHZEBroHN ﹄﹀Z C﹀M 問 。 三 C ロ 宮 市m 同F Q 一、浄土三部経概説坪井俊映。隆文館 一、南無阿弥陀仏柳宗悦。大法輪閣 一、選択集講述小沢勇貰浄土宗務支所 一、法然上人のこゑ椎尾弁匡。共生会 (富山教区・阿弥陀寺﹀ 一、仏教思想入門蜂島旭雄+芹川博通。東洋文化出版 -67- ー l布教の立場からーー 浄土宗における因果の問題 はじめに 研究所員(近畿支部) 因果応報 布教上、一番問題となるのは因果思想のうち、いわゆ 必ず好ましい果報があり 、悪の業因には必ず好ましくな 因果は仏教の中心観念であり 、仏教独自のものと考え 因果は因(原因)と縁と果ハ結果﹀によって論ぜられ、 い果報がある とする 説である。一般に善因善果 、悪因悪 る因果応報説であろう。これは業の因果、すなわち我々 固に六因、縁に因縁、果に宜果あるとされている。この 果といわれるものであるが 、正 しくは善因楽果 、悪因苦 この因果応報説は 、多くの仏教経典に説かれており 、 因果の問題を学 問的に研究するのは 、 一布教師の領分 で 今ここで述べたいのは 、布 教上 、因果をどう説くべき 布教の上でも欠くべからざる問題であり 、多分に道徳的 果というべきであろう。 かということであるので、あくまで一布教師の戯事と受 な意味をもつものであるから 、道徳的因果律とも呼ばれ はない。 られる。この因果の観念を追求することにより 、仏教思 啓 の行為について因果関係を立てるもので 、善の業因には 亮 想の網格がわか るであろう。 本 け取って頂きたい。 - 68- 有 ているのである。 さらに四業説というは、善悪業の報われる時期を四つ に分け、まず、善悪の行為と同時、または同一生聞に、 盾がみられるのである。市して、仏教思想は理想論であ 必ずしも善因楽果、悪因苦果と因果応報通りにゆかぬ矛 因果関係は不変なものといわれているが、現実には、 果の矛盾は理論上解決るすることが出来るのである。 するものを﹁順不定受業﹂とするのである。かくして因 き業を﹁順後次受業﹂と称し、時期を決定しないで受果 業﹂と名づけ、次々生あるいはそれ以後に受果するごと に受果しないで次生に受果する場合の業を﹁順次生受 その果を受ける場合の業を﹁順現法受業﹂とし、その生 り、現実性がないと、一般人の仏教離れが生じてくるの 因果の矛盾とその解決 ではないかと思われる。 因を知らんと欲せば、現在の果をみよ、未来の果を知ら り、このことを実証するのは、不可能である。おそらく できるが、これはあくまで、理論上解決されたものであ 三世因果の法や四業説により、因果の矛盾は一応解決 第二の問題点とその解決 んと欲せば、現在の因をみよ﹂といわれるように、因果 苦果)、善世の悪因によるものに して、次世には必ず楽 で必ず苦果となると:::、善業の者が苦しむのは(善因 者の前世に善因があった報いであり、現世の悪因は次世 なる生活が出来るという矛盾(悪因楽果)、それはこの 命論的となり、前世の悪因などというと、薄幸なる人々 が現在の業果をもたらすという点では、ややもすると宿 道徳的意義あることと認められるが 、 一方 、過去 の業因 希望をもたせ人々に精進努力をうながす精進論となり、 在の業因が未来の業果をもたらすという点では、未来に - 69ー そこでこの因果応報の矛盾に答えるのが、三世因果の を現世のみでとらえず、過去現在未来と三世にわたって のではないか 現代人は、机上の論理だけでは納得することは出来ない 法であり、四業説である。三世因果の法とは、﹁過去の とらえてゆけば、矛盾が解決するというのである。悪業 果となるのであると:::。 9 また三世因果、四業という考え方は、現 を重ねた者が、世間の非難があるにもかかわらず、安楽 四 に対して 、あきらめを押しつけ 、 差別問題にもなりかね いのである。 決は 、念仏信仰を説くことによってなされると断言した 浄土宗において布教上 、具体的に因果問題を説く場合 、 浄土宗における因果の説き方 ない。ここに因果の第二の問題点が生じてくるのである。 そこで因果応報の真の解決は念仏信仰によらねばなら ぬと 、提言したいのである。かの無量害対経に説かれる 、 法蔵菩薩が衆生救済のため 、 四十八の誓願を建てたなか 徳を南無阿弥陀仏の名号の中に内包下された。されば衆 けて下された(代受苦)。そしてこの代修 、代受苦の功 の悪業に因って、当然受くべき苦果を 、衆生に代って受 って 修 し て 下 さ れ た (代修)。また衆生が っくりし諸々 なすべき善業を法蔵菩薩は 、過去世において 、衆生に代 に、もし生ぜずんば正 覚を取らじ :::﹂とあり 、衆生の 至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して 、及至 十念せ ん 生救済の僧として一生涯 、念仏生活の中 、すべての苦難 である。すなわち 、浄土宗の開祖、 三昧発得の聖者、衆 続けども 、四十三歳念仏の縁により 、楽巣と成りえたの 果)例は数知れない。が法然上人の場合 、苦行、苦学は 悪因により 、世を嘆き、世をはかなみて身を滅ぼした(苦 するもしかり。一般に両親の不幸なる死という一身上の 法然上人一身上の悪因といえる。また 十五 歳の時 、母 死 元祖法然上人九歳のとき、父君時国公殺害されたのは、 元祖の伝記を中心とするのが最良であろう。 生弥念すれば 、代修、代受苦の功徳により 、 一切の業因 を念仏縁に より、 楽 果 と 受 け と ら れ 、八十 歳極楽往生 も し我れ仏を得たらんに十方の衆生、 の第十八願に 、 ﹁ は楽果(往生)と成るのである。 悲劇を も たらした、五逆罪を犯した阿闇世王が 、 やがて さらに 、 このことを観無量経において、かの王舎城の 縁により救われたこと 、遊女が 、盗賊が:::それこそ悪 より往生を遂げたこと 、東大寺焼打ちの平重衝が 、念仏 また 、元祖をめぐる人々をみても、敵定明が念仏縁に (楽果)を遂げられたのである。 念仏縁により救済されたことにより 、実証され ているの 業を重ねた罪悪生死の凡夫が 、念仏により救済され 、楽 悪因+念仏 1楽果(往生) である。以上のことから 、布教上における因果問題の解 -70一 五 果をえた こと、 枚挙に遣がない。 さらに 、昭和六十二年三上人遠忌にあたり 、 三上人の 生涯についても因果の問題を説くことが出来るであろう。 鎮西上人、三十二歳の時異母弟三明房が眼前において 、 急死せし一身上の悪因が 、念仏の縁をひき出し 、 やがて 法然上人との出会いの後 、浄土宗二祖となられ 、浄土の 基盤を揺るぎなきものとされたこと。 これ無上の幸せであり、念仏以外、 一切衆生の救済さ る道はないのであると 、因果の問題を鑑みつつ 、布教す べきが 、浄土宗布教師の使命であろう。 おわりに 最後に述べておきたいことは 、念仏者は念仏さえ称え れば 、 一切の罪悪は赦されるという甘えを持つ て はなら ぬと いうことである。 念仏救済は 、 宗教的罪悪の救済であり 、道徳的悪は当 源智上人 、生後まもなく父師感公、 一の谷に て戦死 、 やがて平門家の滅亡という悪因あれど 、十三歳法然上人の 然戒めねばならぬし 、法律的悪に対しては、法的制裁が 宗教的罪悪なる衆生 、内因 、外国共に悪因の中にある 元へ入り 、念仏縁により 、知恩院 ・知恩寺 ・黒谷光明寺第 良忠上人、三十四歳の時母急死という悪因により 、三 泥凡夫が 、弥陀の慈悲(念仏)により救済(楽果﹀され 加えられるのは必然である。 井寺より石見多陀寺へ帰国、不断念仏の縁をえて(林隆 る幸せをかみ し めたなら 、弥陀の慈悲心(親心)に報ゆ 二世として 、 元祖の意志をつぎ元祖の御恩に報いたこと。 碩述 ・浄土への道)やがて二祖との出会いがあり、浄土 ベく 、凡夫のままに 、善業をなすべく努むるのは当然で あろう 、諸 悪 莫 作、衆善奉行は仏教の大原則であること 宗三祖と相成り 、念仏興隆に貢献されたこと。 以上の如く 、元祖をはじめ 、念仏者はすべて 、 いかな は言うまでもない。 生けらば念仏の功つもり 、死なば浄土へまいりなん 、 る悪因があろうとも、念仏縁によって、現世においては 充実と喜びの生活をえられ 、 いかなる苦難をも楽果と受 とてもかくても此の身には 、思いわずろう事ぞなき。 (大阪教区 ・大鏡寺﹀ けとれる心境に入れるのである。そして来世は必ず 、極 楽往生を遂ぐるのである。 - 7 1ー ー ' / 、 現代布教上 研究所員(近畿支部) うものを痛感させられたのであります。 は今日でも忘れることのできないものでありますが 、以 したときの 、何とも表現しがたい気持 、感動というもの 初めてお招きを受け 、自坊以外でお話をさせて頂きま 悪さに二 ・三日ショック状態が続くというようなことを のが感じられ 、十分な実をあげることができず 、後味の もございますが 、最初から会場には拒否反応のようなも たようなときには 、もちろん当人の非力さ 、話の稚拙さ 仏のおられない会場 、 しかも若い方々の集りに参りまし 来十数年種々体験をさせて頂きながら 、どうにか布教門、 若い方々に 、どのようにしてお念仏を受け取っ て頂く ような気がいたします。 ますが 、 そんな経験をさせて頂いて 、その理由がわかる ﹁ 若い人が寺に来ない﹂ということをよく耳にいたし たび/¥経験いたすのであります。 どおり 、調子の良い時もあったように思いますが 、その はじめの頃には 、 まさに﹁盲 、 ヘピにおじず﹂の警え という感がいたすのでありまず。 そのような門があるとすれば、その入口にたどり着いた ついて考えてみたいと思うのであります。 御本尊様の在す本堂にての法話も、もちろん苦労もあ 恵 複雑多岐にわたるこの現代を 、 全体的にとらえること は、 およそ不可能なことと思われます。 田 れば困難さもありますが 、最も苦しみを味あうのは 、 み 羽 ここでは 、その一端をながめながら 、布教上の課題に 課 題 うちにことの重大さを感じ、布教の困難さ 、恐しさとい -72- の かということが、まず私の布教上の第一の課題でありま した。 文部省が出しております﹃宗教年鑑﹄(昭和 印年度版﹀ 今から五年程前、自坊の近所に創価学会の池田講堂な る立派な建物が建ちました。以来土曜日の夜ともなりま すと、近所には自動車があふれ、電車の駅から講堂まで 、 青いプレーザーの人が立ち並び、若い人達がわんさと押 とでありますが、昨日生まれた西も東もわからない赤ん 万人にの.ほるということであります。これは不思議なこ に、現世の利益を求め奇跡を願って 、全国各地より数万 含の星まつり﹂ 、あ の 巨 大 な 火 柱 に 、もえ盛る紅蓮の炎 また毎年二月十一日 、京都北花山で行なわれます﹁阿 しかけるのであります。 坊から、百歳を越したお年寄りまで含めまして、誰もが に及ぶ悩み苦しむ若き信者達が集うのであります。一方 によりますと、日本の宗教人口はなんと二億二千七十八 二つずつの宗教をもっているということになるのであり には、この様な姿も現実として存在しているのでありま ばならないようなものまで多く含まれております。正邪、 ています。げんに書庖へ出かけてみますと、宗教書コー 現在 、日本は第 三期宗教プ l ムを迎えているといわれ す 。 ます。 00 また日本は、宗教のデパートともいわれるくらい 、 じ 善悪は別といたしま しても、そのいずれか の宗教と 、何 ナーが設けられ、様々の宗教書が置かれ飛ぶように売れ つに沢山の宗教があります。なかには眉にツバしなけれ らかの関わりあいをもっているということであります。 第一期宗教プ l ムは 、幕末より明治維新にかけてとい ているのも事実であります。 あるはずがないということがわかるのでありますが、い われます。その頃に天理教、黒住教、金光教などの新し このことからいたしますと、若者だけが宗教と無縁で ざ若者の前にお念仏の話をいたしますときに、耳をそば い宗教が輩出しております。 第二期は 、第二次世界大戦の前後とされており 、そ の だてていてくれるとはどうしても思えない現状でありま す 。 -73- 創価学会等が興っております。この二つの時代に共通し たものは、古い時代から新しい時代へ 、思想も価値観も 、 頃に新宗教といわれる霊友会、立正佼正会、P L教団、 て信者を引っぱっていかざるを得なくなっている。 新宗教においては 、体系化された教義や理論をとおし 会長が直接自分達に接し指導してくれることは 、大き な魅力と言うことができる。それに対し 、伝統教団や 世の中がひっくり返える程の激動期であったということ 知的な理論体系よりも、生きた現実の指導者の体温に 人間性の回復と人生の充実を求める現代の青年達が そして第三期には、前二つ程の大きな社会変動はない より強くひかれていくというのは 、やむを得ない現象 がいえるのであります。 ものの 、高度経済成長の時代より低成長時代に入る 、昭 新 ・新宗教に集う若者たちが 、 その教団の最高指導 といえるだろう。 めとする新 ・新宗教といわれる教団群が続々と生まれた 者に 、家庭や社会では触れることができなくなった父 和四十八・九年頃より、さらに新しい、阿含宗等をはじ のであります。そしてそれらの教団が 、なぜか若者達の 性や母性の理想を求めている場合もめずらしくないの 第二には 、新 ・新宗教教団は規模がまだ小さく 、組 である。 心をとらえているのであります。 評論家の指摘するところによりますと 、 織そのものが完成されていないことである。その教団 がまだ発展途上にあるといえる。若い信者にとっては 、 その理由の第一に、新 ・新宗教の多くは 、教祖や会 長など教団の初代最高指導者が 、第一線の現役として、 その新鮮なエネルギーに自らの未来を託す程の共感を 第三には 、新 ・新宗教が現代という時代のなかから 自ら教線の先頭に立って働いているということである。 かで新しい自分というものを発見していくということ 生まれた宗教であることである。それはとりもなおさ 覚えるのである。 において 、とくに若い青年信者にとっては 、教祖なり ず、新 ・新宗教が、現代の時代的ニ iズを 、もっとも 信者は教祖や会長の存在をとお して、その影響力のな 会長は人間の在り方としての理想であり 、 その教祖や -74一 ことになると 、総花的 ・デパート的な伝統教団、新宗 る。しかし 、 どこにポイントがおかれているかという 時代の ニlズに応える能力は喪失していないことにな ん伝統教団や新宗教も、存続しつづけるかぎり、その レートに応えることができる性格をもっている。むろ みや苦しみを 、 もっとも深く理解でき、もっともスト 尖鋭に体現していることを示している。現代特有の悩 ほかに道はないと思うのであります。 くとの精進と、正宣教法のエネルギーを燃し続けるより 四弁八音に遠く及ばずとも、いささかでも近づかせて頂 せば如何に﹂、﹁ここに法然上人ましませば:::﹂と頂き、 てより遠く二千五百年、こ こに至っては﹁今釈尊ましま みより解放されたことでありましょうが 、釈尊去りま し それらの宗教のおこる余地もなく 、青年達を魅了し 、悩 深遠 ・不端音)の御説法に会うことができますならば 、 若者達には 、現当両益のなかには 、特に現益に力点を置 き、念仏の実践を勧め 、念仏実践の中に阿弥陀仏に同 化 の往生は自明の理でありますが 、今日只今に悩み苦しむ 念仏布教 の上におきましでも、﹁捨此往彼蓮華化生﹂ 教に対して新 ・新宗教はストレー トに 現代人の苦悩を 見つめる 、 一点突破主義、専門庖主義ともいえる色彩 を持っている。 教の世界にひかれる のは 、決 して不思 議な現象ではな され、自然のうちに阿弥陀仏の諸徳を頂き 、 不離仏 ・値 時代のあり方に敏感な青年達が 、 より強く新 ・新宗 いのである。 遇仏の実感により 、 一人で越せない山道を 、 一人では渡 て頂き 、渡らさせて頂く喜こびを体得し 、 明るく 、正し 室生忠著﹃若者はなぜ新 ・新宗教に走るのか ﹄ それらの諸宗教と 、 いわゆる伝統教団の教えとを同格 く、仲良く生きぬかせて頂くことを伝えることこそ 、こ れない河を 、 お念仏申しながら阿弥陀仏と共に越えさせ に論じるつもりは毛頭ございませんが 、参考とし 、反省 の課題解決の道であると信ずるのであります。 ハ京都教区 ・大善寺﹀ すべき点多々あ ることを感じるのであります。 ここにいま 、釈尊ましまして四弁(義 ・法 ・辞 ・楽説 無碍弁)、八音(極好 ・柔軟 ・和適 ・尊慧 ・不女 ・不誤 ・ -75- 研究所員(中四国支部) の道場として充分機能しない状態にある。統計数字には ばならないのではないか。何よりもまず布教師自身が不 いくためには 、 まず布教師自身が信 仰 の炎を燃え上がら せ、 至誠心を蛾盛心として熱烈な布教をしていかなけれ 何人いるのかわからないが 、約二O%の寺院が念仏教化 ないが 、廃寺になっていく寺院もあるに違いない。信徒 中世のカトリック教徒パンヤンは 、自分の信仰を人々 惜身命の激 し い信仰を持たなければ 、 信者や聴衆を感動 ずにはおれない。また檀信徒の信仰内容について 、身も に伝えずにはおれなくて 、当時 、僧侶以外説教禁止であ 数の増減についても統計に表わされていないが、浄土宗 心も浄土宗信者であると断言できる人が一体何人いるで った法を犯して布教したために 、実に二十年関も投獄さ させることはできない。 あろうか。他宗教団の浄土宗信徒への布教活動も激しく 、 れてしまった。パンヤンの説教は人々に感銘を与え 、 そ 教団の基盤がかなり低下 し つつある現状に危機感を覚え 人もいるほどである。生きている聞は新興宗教、 死んだ 俊 今年度の浄土宗寺院統計(昭和六十一年四月一日現在) 光 ら墓地のあるお寺へ 、という人もいる。つまり 、 心は新 上 によると 、総寺院数七 、 一一一ニカ寺の内で 、正住職寺院 山 興宗教に取られ 、 死体や位牌はお寺へといったこ と にな 理 が八0 ・九 %、兼務一五 ・一 %、 その他二 ・五% とある。 原 っているのではないだろうか。こう いう危機を克服し て の 正住職寺院で他に兼務せず 、住職のみで勤めている人が 教 熱心であり 、浄土宗の籍に在りながらそちらへ入信する 一76一 布 の崇高な人格が慕われ て いた。パンヤン広好意を抱い て われたと い死刑に行わるとも 、 このこといわずばあ とおっ し ゃって 、身 ・命 ・財を捨てても、という布教へ るべからず すぐにでも放免 しよ う﹂と言ってくれたが 、パンヤンは の情熱は燃え立つばかりであった。 いたある裁判官が 、 ﹁もし君が説教さえしなければ 、今 ﹁私は今日放免されれば 、 明日村へ帰って説教します﹂ このような死を賭しても布教せんとされた心は 、 一体 どのようなものであったろうか。宗祖が亡くなられた年 と答えたという。 (﹃天路歴程﹄ジョン ・パンヤン著) (建暦二年)の十二月二十四日 、源 智 上 人 は 阿 弥 陀 仏 造 先師はただ化物をもって心となし 立の願文を書かれた。その中に 、 自ら信ずる宗教を人に伝えずにはおれないということ が布教の原理である。これは宗教や時代が異っても不変 である。わが宗祖は 、 利生を以って先となせばなり とあり 、宗祖の衆生救済に徹し ておられたイメージが明 浄土宗の学者は先ずこの旨を知るべし。有縁の人の 為には 、身 ・命 ・財を捨てても偏えに浄土の法を説 確に表われている。その心は 、 あみだ仏にそむる心のいろにいでば くべし。自らの往生の為には諸の俗塵を離れて専ら 念仏の行を修すベし。この事の外、 全く他の営みな 秋のこずえのたぐいならまし 仏教は 、法蔵菩薩の平等の慈悲に催された誓顕である。 し 。 と、布教の心構えを述べておられる。あの延磨寺の弾圧 一 唯一年上 ( 切一議畔軒月上人七十二歳)、輿福寺の弾圧 (41t つまり 、四十八願は 、 一言でいえば平等の慈悲の具現で と一散まれたように 、自内証が平等の慈悲心に満ちあふれ 人七十三歳)、ま た 土 佐 配 流 (41 海年上人七十五歳) ある。四十八願中の第十八願は 、最易にし て最多の人々 (﹃十六門記﹄) や弟子達の死罪 ・配流等という法難に遭われても 、念仏 を救済するから 、慈悲の最も徹底した平等 化 の結品であ でいた。全仏教を背景として選択された南無阿弥陀仏の 停止の勅にもかかわらず、 -7 7- るといえる。しかも 、その誓願は法蔵菩薩が成就しなけ れば自分の命を捨ててもよいとまで覚悟され 、すでにそ のすべての願が成就されたという。だから、南無阿弥陀 仏と申すその心に 、阿弥陀仏の平等の慈悲が息づき流れ 込んでくるのである。 したがって 、宗祖は自行の念仏を励まれ自内証が深ま り生死に悩む人々をひとりでも多く救わずにはおれなか ったのである。布教の原理とは 、念仏を自ら信じ 、 実践 し、悩める人々を救済せずにはおれないという平等の慈 悲心に他ならない。宗祖の布教姿勢は 、 この平等の慈悲 心で貫かれている。例えば 、布教される行状について最 もわかりやすいのは書簡集であるが 、 その中で 、布教す 高田専修寺蔵 ¥ いになって 、慈悲をおこして念仏して・ :: J' 親鷲書写﹃西方指南抄﹄ 一 康元元年 J二年 一J -f 一二五六J五七年¥ 一 一¥ 漢語燈録 J f 了 恵 道 光 ﹃ 黒 谷 上 人 語 燈 録 ﹄ 一和語燈録 て , / 拾遺垣間燈録 ¥ このように 、布教する場合には怨親平等に思いやりの 愛︿同体大悲)をもっ て実践すべきことを諭 しておられ る。この平等の慈悲を布教の原理とせよ 、 ということで ある。宗祖御自身も流罪になられた時 、 念仏の興行は洛陽にして年久し。辺部におもむきて 田夫野人をすすめんこと季来の本意なり。 (﹃四十八巻伝﹄) と、 不幸な出来事に対しても怨む気持を抱かれなかった ことは 、宗祖の平等の慈悲心のあらわれであるといえる。 また 、宗祖は書簡集の中で様々な念仏に対する疑問に る際の心得として次のように忠告しておられる。 一、念仏信仰のない人と論争したり 、別の修行をして 対して懇切丁寧に答えておられる。何とか選択本願念仏 長い間苦しみを受けること甚だしいものがある。 念仏を非難する者は 、地獄に堕ちてもものすごく ならば 、出合わないものと同じことである。 たとい本願に遭遇したとしても 、もしも信じない を信じて貰おうと 、ある時は 、 いる人々に向って執念深く論議してはいけない。 一、気持を同じくして念仏する人を 、例え卑しい身分 の人でも 、 父母や師と同じに考えよ。財に乏しい 人にも力を貸し念仏に心をかけられない人にも 、 十分念仏を勧めるように。 一、不信の人をも、過去の父母兄弟親類であるとお思 - 78一 いって妨げることがあっても一念も疑う心があ って 悟りを異にしている人が 、往生につい てとやか く 疑えば仏が嘘偽りだったことになる。 ﹃一枚起請文﹄に到っては 、 一切の三心論に対する疑問 願に乗ずることは信心の深きに依るベし﹂とか 、更に 、 本 ﹁一 つの願心である ﹂とか 、﹁深く信ずること﹂とか 、﹁ おられるが 、それ でも理解できない人々にわかり易く 、 陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候 也。 三心四修と申すことの候はみな決定して南無阿弥 ている。すなわち、 を払拭するがごとく最も簡潔にして決定的な説明か}され はならない。 たとい千人の仏がこの世に出現して念仏は全く往 生するための正しい方法ではないと教えられても 、 信じてはならない。 と、念仏信仰には ﹁信﹂が不 可欠であることを強調して 五万遍 ・六万通と念仏を称えていた人が醜い死に様を呈 ない念仏についてである。こういった質問の背景には 、 関する事柄である。つまり 、往生できる念仏と往生でき 宗祖への質問内容で一番多いのは 、念仏往生の得失に らない。そこで 、現代に生きる我々は宗祖が最も力説さ 現代においても 、 三心論を布教伝道の柱としなければな 題であり 、北日も今も人々の最も知りたい問題であるから 、 往生できるか否かということは 、信仰確立に不可欠の問 際に最も力点を置かれた教理であることがわかる。念仏 と断じておられる。やはりこの三心論は、 宗祖が布教の したり、 熱 心に念仏していた人が重病になったとたん、 れた三心論に主体的に取り組み、自ら信じ、人を信じせ おられる。 他の信仰に走ったりしたことが予想される。いずれにし しめること(自信教人信)を平等の慈悲をもって熱烈に 実際に念 仏してみると、なかなか自内証 H信仰確立す ても、自分が念仏をしていて、この念仏で本当に救われ にあったのであろう。宗祖はそれらに対して三心論を展 るのは難しいのであるが、ただ一向に念仏すべしという 展開すべきだと考える。 開 して説明して おられる。宗祖は 、三心のうちで一つで 宗祖の金言を実践していく他はない。私自身もある転機 るのだろうかという極めて主体的な疑問が多くの信者達 も欠けると往生できないという善導大師の説を説明して - 79一 によって 、阿弥陀仏を真の親としてひたすら本気で(至 心 u至誠心)お慕いし(信楽 1深心)、あ な た の 清 き み 固に生まれたい(欲生我国 H廻向発願心)という気持で 念仏していけば 、急速に信仰が深まっていくことを体験 した。これを、知 ・情 ・意の面から考察すると 、阿弥陀 仏の救済の原理が 、大自然の法則と同じであること(自 然の道理)、また 、宗祖の三味体験からすでに阿弥陀仏 の実在が実証されていることを知的に理解し 、信じ 、阿 弥陀仏のみ国へ生まれたいと意欲し 、 その他の欲望を一 切放郷する。そうして念仏していると 、真実の親である 阿弥陀仏にお会いしたいという欣慕の情が湧いてくる。 この情が次第に強くなってくれば、自然に念仏を相続す かけぬ日ぞなき 仏にいつかあおい草 ることができると思う。宗祖はこのようなご心境を、 われはただ 心のつまに 南無阿弥陀仏と申して疑 と詠まれていることからも理解できる。﹃一枚起請文﹄ にあるように、 ただ往生極楽のためには (知)信(意﹀欲 みな決 門知﹀信 いなく往生するぞと思いとりて申す他には別の子細 候わず。ただし三心四修と申すことの候は ハ意﹀欲 定して 、南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちに こもり候也。 と、三心論の結論を述べておられる。阿弥陀仏への欣慕 の情の発露の前提条件として 、知的には﹁疑いなく﹂つ まり信じることと 、意的には﹁往生するぞと思う﹂こと、 即ち意欲することである。念仏する心の形を決定するの が﹁信﹂と﹁意欲﹂である。念仏する心の内容は欣慕の 情である。念仏する心の形から内容である欣慕の情の 芽が出るまで忍耐強く精進するほか道がない。﹁唯一向 に念仏す﹂るほかない。少しでもその情の芽が出ると 、 自然と口に念仏が出るようになる。本当に生かされてい る喜びが実感できるようになり 、 一人でも多くの人に念 仏する喜びを伝えさせて頂こうという気持が起こるから 不思議である。私は数年前から睡時十念運動 ・毎日十念 誓約運動を通 して、信者の方から入信した喜びゃ毎日念 仏を相続しているといったお便りを頂くことがある。こ の上ない喜びである。一蓮托生とはこの喜びを表わして いるのだろうか。 現代にあっては、文化も宗教もますます形骸化してい るように思われる。現代人は文化や宗教の中味を切に求 -8 0ー めているに違いない。このような状況にあって、我々は 現代人に生きた信仰を伝道しなければならない。故に我 々は布教の原点である﹁自行化他唯綜念仏﹂を実践して 、 それによって自ら得た信仰の喜びを伝えるのでなければ ならない。結局布教は自分を語るしかないのである。そ れは、自ら念仏し、平等の慈悲を原理として布教された (石見教区 ・向西寺﹀ 宗祖の布教姿勢そのものであると考えるからである。 自ら生きることは楽しい 他人を利することもまた楽しい - 8 1ー 、 J I ! . ム イ 研究所員(九州支部) 子 貫 司 性格づけているといっても過言ではない。換言すれば浄 機相応という宗教的自覚こそ 、浄土教の救済を根本的に 流転して 、今釈尊仏の末法の遺跡たる弥陀の本誓願極楽 善導大師における﹁我等愚療の身、噴劫よりこ のかた 仏﹂という意識となって 、その無仏という深淵の突破、 弥勤に対する信仰に内含される隔絶感から﹁現今の無 曇鷲大師の場合 、世代的系列においてつながる釈迦と 宗につきて広く出離の道を訪うに 、 かれも難く 、 これも あらず。 しかるあいだ、 源空 、発心の のち 、 聖道門の諸 省より 、﹁源空が如き頑魯の類は 、さ ら に そ の 器 も の に 永遠に救いようのない 、苦海沈倫の具体的現実存在の内 経疏﹄)の教え 、善導大師に傾倒されたわが法然 上人は、 実践的切り換えが無量寿仏と直結 し、浄土教へと走らせ 難し 、 これすなわち 、世くだり、人おろかにして機教そ むける放なり。このほか有智無智を論ぜず、持戒破戒を がんろ たのである。三階教にあっては、現今、第一階 、第二階 選ばず 、時機相応して、順次に生死を離るべき要法は 、 て始めて開示されるのである。 の要門に逢えり﹂(﹃観経疏﹄玄義分)﹁ 二種深 信﹂(﹃観 て説かれたのである 。 の救済、﹁応病与薬 ・機教相応﹂の仏道成就の教 えとし 金 土教の救済は歴史的であり 、その歴史の課題の中におい 時機相応 、 これは特に浄土教の伝統の上において 、 ま た、 その展開に重要な独自の意義をもって語られる。時 時機相応 A、 の一乗別教 、三乗別法の時期を過ぎ、今や第三階時、 即 ち、 凡愚 ・認悪の時であるという意識から 、﹁生盲凡夫﹂ - 82- の これ五帯悪世なり。た 浄土一門のみありて通入すべき HA 路なり﹂と、当今末法の自覚の上に二門の教判をなされ これ浄土の一門、念仏の一行なり﹂(﹃大原問答時説 たのであります。この二門の教判こそが後に展開する教 HA 法の御詞﹄)と根本的立脚点が時機相応ということを示 た されている。 時に非ざるが放に 、乾薪を折りて水を寛めんに 、 水得ぶ は、あたかも湿木を績て以て火を求めんに火得べからず 、 といい次のように例えている。﹁時を得ないということ 道縛禅師は 、﹁若し教時機に乗けば修し難し入り難し﹂ す 。 念仏こそ釈尊出世の本懐として選択なされたのでありま 年よく念仏のみを留める﹂(﹃ 選択集﹄第六章段) と本願 判の源流であり 、帰 結 で も あ り ま す 。 そ し て 、﹁末法万 そむ からず、智無きが故に﹂(﹃安楽集﹄巻上)と。 このように歴史が問題となるとき、課題は自ら荷負う ている。正法とは釈尊の説いた正しい仏法が世におこな 時思想を形成し 、仏教の歴史観の上で重要な意味をもっ 自身がいかに誠意と責任をもっ て答えるかにあるのであ 開かれるのである。時機そのものの換びかけ 、 われわれ 越して存在するのではなく 、救済は歴史そのものに切り が問われてくるのである。真実の救済は時代、 歴史を超 時、相似の像法 、世間に出で己りて正法則ち減す﹂とあ ・行 ・証の三法がそろっている時代のことである。像法 は、 ﹃ 雑 阿含経﹄三十二に﹁如来の正法減せんと欲する 証果を得ることのできる時代のことをいう。つまり、教 われる時代、即ち 、釈尊の教法によって修行するものが 末法は正法 ・像法に対することばで 、 正 ・像 ・末の三 ことであるとともに 、時機の課題において仏教それ自身 る 。 た今に至るまでなお自ら生死に輪廻して 、火宅を出でざ を引用して 、﹁一切衆生みな仏性あり。遠劫よりこのか 法然上人は﹃選択集﹄の努頭に道緯禅師の﹃安楽集﹄ 理はまったく消滅 し てしまい 、 たいふ釈尊の説いた仏教と 証果を得る者のない時代である。末法に入ると、仏の真 れる時代である。即ち 、教 ・行の二法はあるけれども 、 似ているけれども 、実質的にはちがう教法が世に行なわ かたどるかたち るように 、﹁像﹂は似る 、象 の 意 味 で あ る か ら 、 形 相 は るや﹂(﹃選択集﹄第一章段)との問いに 、﹁当今末法 、 - 8 3ー ある。﹃大集月蔵経﹄日蔵分三九悪業品や護持品には 、 いう名前だけ残り 、修行も証果も無くなってしまうので ている。 焚設され 、僧老三百余万は悉く還俗せしめたり﹂と述べ に北斎を 亡 し、破仏をその都 、鄭にて断行、仏像経巻は 種堅固説を引き 、﹁計るに今時の衆生は即ち 、仏世を去 道縛は﹃大集月蔵経﹄に日くとして分布閣浮提品の五 汚濁と荒廃の激しい社会の様相をあげて 、仏法が衰退す る憂慮を示 している。また月蔵分一一一分布閤浮提品には 、 釈尊滅後の時代を五種の五百年ごとに区切って仏教の盛 りて後の第四の五百年に当れり﹂と今時が末法であるこ とを明言している。 人々は末法到来の実感を深くし末法の自覚によって三階 このように仏教が破壊される現状を目のあたりに して、 塔の建立が盛んな造塔寺堅固 、 教や浄土教の新しい信仰が生まれたのである。 、 智慧を得てさとりを 衰をあらわしている。すなわちω 、 禅定を保つ者が多 い禅定堅固 、 聞く者が多い解脱堅固ω 、 寺院や堂 ω仏教を熱心に聞き学ぶ者の多い多聞堅固ω ω たがいに自説に固執し てあい争う闘諦堅固 、 の五つの堅固説をあげ、闘諦堅固 この正像末三時思想が熱してくるのは 、中国陪代であ 法﹂の声しきりする当代にあって道縛禅師の﹃安楽集﹄ 法然上人は伝教大師の﹃末法燈明記﹄が主唱する﹁末 の時代に至っては白法(仏性)隠滅すといわれている。 る。信行の三階教 、道縛、善導の系列における浄土教が にみずからの信 仰 の典拠の第一に求められ 、﹃選択集﹄ とは実に意義深いといわなければならない。 の中で数多くの引用教諭がある中 、努頭に引用された こ 末法思想によって生れた。 五七四年に実行された北周武帝の廃仏製釈は末法意識 をより切実なものとしたのである。﹃歴代三宝紀﹄第三 、 北周 、長安に於て仏道二教を廃し 、経像を段ち 、沙門二 に地獄の相を呈していたのである。 ﹃ 安楽集﹄の上巻に 頭によって骨肉相食み 、略奪 、飢館、殺裁の世で 、 まさ 法然上人の時代は 、保元、 平治の大乱 、源平二代の拾 広 百余万を還俗せしめたり﹂と記されてあり 、また 、﹃ ある﹁当今末法現是五濁悪世﹂の 語句を自己の相遇した ﹃ 続高僧伝﹄第二十三等によると﹁建徳三年五月十七日 、 弘明集﹄第十 、﹃続高僧伝﹄第八等にもさらに 、﹁ 同六年 - 84ー 根底において問われ 、すべての価値体系は崩落するので (﹃選択集﹄第一章段)と 、我れ自身の現実存在の根拠が 行を起し道を修せんに 、 いまだ一人も得るものあらず﹂ 罪悪意識となって 、﹁わが末法の時の中に億々の衆生 、 破仏の経験によって 、消化され 、現実の恐健と危機意識、 、 善導の元 そ して、 心専念弥陀名号の文に至り て 一 ﹁ 意を得たり 、歓喜のあまり聞く人なかり しかども 、予が 本において問いかけられているのである。 億人あれば一億人が救われる万機普益の今日的課題が根 を遂ぐる﹂(﹃念仏往生要義抄﹄﹀道はと 、す な わ ち 、 一 時に﹁十人は十人ながら、百人は百人ながら 、みな往生 ある。 の三学のほかに 、 わが心に相応する法門ありや。わが身 ここにわが如きはすでに戒定慧の三学の器にあらず。こ としての先験的世界に呼応し 、 それまでの日本仏教の観 行なりき﹂(﹃ 十 六 門 記﹄ ) と、聞 い の 背 後 に あ る 超 越 性 、 高声に称え て感悦髄に徹り 、落涙千 め置かる与をや と 如き下機の行法は 、阿弥陀仏 の法蔵因位の昔、 かねて定 に堪えたる修行ゃある﹂(﹃聖光上人伝説の調﹄)と伝統 得られた。身 心脱 落 、限の鱗剥げ落ちて 、感悦髄に徹り 、 ﹁ 悲 しきかな 、悲 しきかな。いかが せん、いか が せん。 的 ・観念的な仏教の枠組からは当然外されて しまっ てい る、﹁末法(代)の衆生﹂の救いのために血涙を流され 落一涙千行、法然浄土教は開顕されたのである。 、 選択本願の念仏によって一大回心を 念的性格を超克 し たのである。 末代の衆生とは 、﹁三学の器﹂で ありたいと努力して 現代は法然上人の時代からすでに八百年の時聞が経過 している。 しかし﹁末法万年﹂、す な わ ち 末 法 は 永 遠 で も努力しても 、﹁すでに:::あらず ﹂と、伝統的規範(一二 学を修すべきこと)からはずれ て しまっている。格外の あり 、永遠は末法である。人聞は常に末法的存在である 仏の光はわが身に投ぜられるのである。 表面的な繁栄の表皮を引剥がしこの絶望働突の底から念 という謙虚な自覚より出発しなければならない。現代の L法然上人の内的葛藤の内なる実存 存在 、凡夫、 そのま としての自己に外ならない。 ﹁しかるあいだ 、な げ き な げ き 経 蔵 に 入 り 、悲 しみ悲 しみ聖教に向い﹂(﹃聖光上人伝説の詞﹄ ) て、当 今 末 法 - 8 5ー 現代人が絶対視し、恩恵を与えてくれるものとして尊 崇する対象は、限りなき進歩し繁栄を約束 して くれる 、 中からあくどい刺戟を求めて生の豊能のみをあさり歩い ている。 る。しかし反面、現代文明が根源的な頚落の時期に突入 現代文明は燦然たる自由の華を聞いたかの ように見え らになり弱肉強食獣のような生活があらわれ 、断 絶、疏 外、人間不信、 無感動、暴力とかが伝染病のように流行 社会の要である愛しあい信じあう心は失なわれ 、 ばらば て宗教回帰の現象と呼ばれているのである。しかし人聞 現今、確かに寺塔を建て 、 仏 像の造立は盛んである。 したことも否定できない。二度の世界大戦を経験しなが ら、少しも世界不安が消えず平和主義を掲げながら 、世 している。現実的な繁栄とはうらはらに人心の荒廃は目 科学、技術、経済的生産力である。ここに人聞を超越し 界はますます緊張を強める歴史的事実、これらは皆、宗 を蔽うものがある。心は全く仏法からも戒行からも離れ また、オカルトプ lム、神秘プ l ム、密教プ l ム、禅ブ 教的精神を失った人間至上主義の独善的文明がひき起し た神秘や不思議はなく、人聞がもっ自分自身の偉力に対 つつある当 然 の現象である 。 た名字の比丘のみがある。道縛禅師は月並な常識に反し 計るに今時の衆生は即ち仏世を去りて後の第四の て、﹁ ームなどの語がこのところジャーナリズムに登場する。 黒 沢 明 監 督 の 映 画 ﹃乱﹄ の中で 、﹁神ほとけの力も及 五百年に当れり﹂(﹃安楽集﹄巻上)と造塔寺堅固を末法 する驚嘆のみがある。人間至上主義は現代人の心であり、 ばないほどに人聞は戦いや愚行を繰り返すのだ﹂という の標識とした。このアイロニカルな見識に見られるよう いわゆる心の時代の到来を告げる記事も少くない。総じ 台詞があった。宗教も例外でなく平和と愛を説きながら 、 に、徒らな文明、文化 の隆盛、美しい理想や言説の盛行 現代人は本質的に無神論者であるといえる。 逆に戦いと憎しみの原因となっていることも少くない。 をかえって人聞の額落と断じて俸らぬのが 、宗 教 的、末 選択本願の念仏とは、繁栄と平和の中にあって、いま 、 法の自覚の特色をなすのである。 現代人は科学による生 産性の向上、進歩のうえにこの 人聞の末法的存在の現実を蔽い隠している。現時の人聞 が末法的存在であることを打ち忘れて 、依然と して生 の 8 6ー 私が埋没している世俗化、日常化の現実の世界の崩壊の 声であり 、虚構の自我崩壊の声である。だからこそ 、そ こからひらけてくる直生復活の喜びの声でもある。我々 は、この選択本願の念仏を、今こそ、時機相応のグロー バルな現代宗教として開顕していく、今日的、歴史的 課 題を背負っていることを自覚 しなければならない。 ︿ 参考文献﹀ 塚本善隆﹃支那仏教史研究﹄ 林霊法﹃法然浄土教と現代の諸問題﹄ 高山岩男﹃現代の不安と宗教﹄ (長崎教区 ・聖徳寺﹀ 藤本浄彦﹃法然における浄土教的存在論の一考察﹄ - 87ー 実践と地域史 研究所員(九州支部) 邦 や歴史的事情など伝統の特異性を考慮しなければならな 説教や法話を行うにあたっては、その地域の自然環境 心は一層の力を加えるものと思われる。このため少くと の道場としての伝統を有するものとなれば 、その信仰の のお方の御自作による尊像を安置し、爾来数百年 、念仏 自分たちの信仰の中心である檀那寺について 、そ の創 いことは当然であるが、ここで敢えてこの様なテ 1 マに も近世以降においては、新寺建立に際しては由緒深、き廃 方法や形態、色んな場が考えられるが 、今回の場合は地 ついて考えることにしたのは 、 われわれが住職をしてい 寺の移築再興の名目が附せられる場合が多く見られる。 始する所が由緒深きものであればあるほど、人々は信仰 る寺院とその地域の歴史的な歩みの中で 、現在までに残 この寺は今始ったばかりのホヤホヤのお寺でございます。 方の寺院、つまり自坊を中心とした布教教化活動の場合 された遺物遺品遺跡をはじめとする有形無形の歴史資料 と言ったんではどうも人々の信仰の心を培うには困難を に加えての誇りと確信を持てるものである。この寺は歴 を調査研究し、これらの布教面への活用を考え 、話の糸 きわめる。 に限り 、 その実践にあたって 、 その地方の歴史事情を考 俊 史上にも全国的に有名なる高僧の開山によるもので 、 そ 民一般の関心もまたそこにあると思われる。 島 えるということをテ 1 7とする。 布教と一口に言っても、その実践にあたっては様々な 村 口を見出そうと思うのである。檀信徒をはじめ 、地 域住 -88- 布 教 の 人々の歴史的関心や興味の中で大きく浮きあがって来 究執筆にあたっては、その地方の寺院住職の関与を求め じる訳では決してない。お念仏の教えの流れの中で、そ るものの第一は地名の由来に始まって 、神社 ・寺院など 地方の寺院は都に位置する大本山の出張所として建立 れを汲む人達がいかに苦労してそこに今のお寺が出来た に関する縁起 ・由緒 ・由来などがあげられる。自分の住 られる機会もまた多い。筆者もこの例にもれず、学生の かということをよく考えなければならない。或る他宗の んでいる村の寺院や神社が何年くらい昔に 、ど のような される場合はほとんど希れである。つまり、地方のその 地方寺院ではその宗祖上人の法要はなさらない。それは 事情のもとにできたものか 、古い伝統ある寺院の歴史と ころ史学を専攻したせいと 、私自身の関心も手伝ってこ 本山において勤修されている。地方の寺院では宗祖の法 ともに我々が生きてきたことに、わがルlツのよろこび 村に寺院が建立されるに至った 、 そのいきさつが重視さ 要よりもむしろ、開山上人の法要が毎年、感大にお勤め と誇りを持つのである。またこのような古い伝統と由緒 のような仕事に携わってきた。 されている。つまり 、年中行事の中で開山思を重要視し、 ある縁起が地方寺院を中心とする教化活動と人々の信仰 れなければならない。かといって教義宣布の本流を軽ん 地域事情をも含めて、その寺院が出来た背後のいきさつ 立の場合においても、すでに廃寺となった寺を移転し、 を得るために不可欠なものとして 、前述のように新寺建 現代の書籍出版業界においては、依然として仏教書出 再興するという名目のもとに建立され 、 またそのような にウエイトおかれている結果に外ならないと思われる。 版ブ lムと共に歴史書の出版プ l ムも続いている。就中、 理由でない限り木仏寺号を許可されなかってとも伝えら 地方寺院の開山 、 つまりいかなるきっかけによってそ 地方史の研究も盛んである。これらはほとんど県 ・市町 出版されている場合が多い。このような綜合的な史誌編 の寺が聞かれるに至ったかということになると 、私ども れる。 纂にあたって 、文化史面、特に中世史以前において宗教 の北部九州では平安時代の有名な入唐僧である弘法大師 村などの公的機関の手によって 、 その成果はまとめられ、 部門の占める紙数のウエイトは大きい。更にこれらの研 - 89ー 後にしばらくの閉そこに滞ったという由来を開創とする 言わず敢えて入唐僧と言ったのは、この両師が入唐の前 占める。この両師を日本における天台 ・真言宗の開祖と 空海と伝教大師最澄の開創によると伝えるものが大半を れば人々の信仰を伴った関心はより一層深まるものと思 教教化の材料として、お話の糸口にでもなすことができ る。これら豊富な史料を研究し、その意味するものを布 などあげれば限りないほど寺の周辺に散在するものであ の研究が必要であろう。堂字 ・仏像 ・石塔 ・墳墓 ・寺跡 い。民俗 ・習俗としての冠婚葬祭や年中行事 ・方言など。 ものが多い。特に弘法大師の場合は様々な霊験をもって 就中民間信仰は念仏や仏教から聯か遠ざかるものあるが、 われる。またこれらの材料の中には無形のものも少くな この様な由緒により発祥の霊場が、中世に至ってわが その足跡を伝えるものが数多く伝えられている。 浄土宗では二祖鎮西上人の行跡と重なり 、これよ り浄土 田舎では稲倉魂神や保食神を五穀神、農業神として祭 人々の信仰心を考えるのに随分興味深いものがある。 州に多く見受けられるのは地域柄でもあろう。然しなが る稲荷信仰がどこにでも見受けられる。京都伏見に和銅 宗の寺院として中興されたとされるものが、特に北部九 ら実際に現在の形態に近い寺院としての姿になったのは も重要な現世利益である五穀豊鏡を祈願してきた。また 四年(七一一﹀二月七日初午の目、帰化人奉公伊侶具が これらの史実を確証するには、寺に残し伝える縁起書 町方でも商人の聞で福を保障する商売繁盛の神として信 江戸初期以降のものがほとんどと考えられる。これらの など巻物書面のみに依存することなく、例へば村記録・ 仰厚く、漁村でも生業の漁業繁盛の神として尊信されて 祭ったのを初めとするこの信仰は、日本人の生業であっ 藩記録、さらには本山関係などにもその存在を求めなけ きた。稲荷神の使いとして狐をまつるが、狐は野鼠を捕 中には仏教の地方伝播流布の過程を物語り、時代の移り ればならない。いくら往昔は七堂伽藍を具備し、寺領何 え、農地を守るといい、狐の好物である赤飯や油揚げ ・ た農業の守護神としての稲成りの神で、農民の生活に最 里四方と伝えても、それだけの大寺が他に存在の記録が 豆腐などを供える。また 、商家や会社 ・劇場 ・料亭など 変りと共にある宗教とその信仰を示すものもまた多い。 なければ確証は困難である。さらに現存する色々な事物 - 90ー 者たち、近世には御殿医、町医 、神道の学者たちによっ て広く流布され 、全国的に都市農漁村各地に﹁講﹂を聞 の守護神、屋敷神として現代まで祭り続けられている。 日本神話の神々のような固有の名を持たない神が民間 このような信仰の形態はわれわれの目指す念仏のそれ き﹁座﹂をつくり 、堂塔を建て腕艇と祭り続けられ てい 須神は海の神として古くより広く信仰され、竜宮すなわ とは縁遠いようにも思われるが 、 そこにはわが日本人が 信仰の対象にある。例へば山の神 ・回の神 ・竜神 ・塞の ち異境から漁業神として伝承されてきたが、中世以降に 遠い昔から 、 四季折々の生活の中で素朴ながらも春には たのである。 は港町でに市の神として商売繁盛の現世利益を祈る神と 願いを こめて祈り、秋には感謝の意をもってまつり 、 日 神 ・荒神等々。その中の一つに恵比須信仰がある。恵比 なった。 て信仰し、各集落ごとに 小洞を杷り 、 五穀豊鏡 ・疫病退 馬﹂がある。絵馬は 神社だけでなく寺院にも掲げられて 々の生活の中での信仰の心がにじみ出ている。 最後にもう一円 、人々の信仰の心を感ずるものに﹁絵 る﹁塞の神 ・道の神 ・旅の神﹂であった。農業の普及と れた境の塞の神である。外来の疫病 ・邪鬼 ・災厄を退け を祭る庚申信仰がある。道祖神は地域や道路の境に祭ら また古来よ りの民間信 仰の一つに猿田彦神(道祖神) 額から、村 中、触 ・郡中の世話役こぞっての大絵馬まで 一同の手による目的地の風景など 、規模もささやかな小 事成長や武運 長久を祈る武者絵、本山 参拝を終え て同行 様々な願いや感謝の心を物語るものが多い。わが子の無 馬の絵がそれ以外に多様化したものであるが 、 そこにも J 散を祈ってきた。貴船さんは回の神信仰で 、水利を与え いる。もともとは神に神馬を奉納することから変化し、 農村では高寵 神や闇寵神 ・岡象女命を﹁貴船神﹂とし 中馬の守護神でもある。 ともに稲作の豊鏡と幸福を願う﹁作の神 ・幸の神﹂とな 要するに地方の寺院を中心にその住職と して布教教化 実に多種多様である。 わり 、境の神と して猿田 彦を祭り﹁庚申待ち﹂をしてき 活動をすすめるにあたり 、その地方の地域性また歴史的 った。さらに中国道教より生 じた 庚申の儀式が 日本に伝 た民間信仰は本尊を青面金剛とし 、古くは密教僧や修験 - 9 1ー 事情を学び理解することによって、その中から教 化活動 のため 、大変役立つ材料や方法を豊富に見出すことが容 易であり 、 またその様なことを実際に行っている筆者は 大いに助かっ て いるということである。あくまでも過去 の遺物遺産に対する理解のみにとどまらず、残し てくれ た人たちの信仰(心)を見習いながら、昔から﹁一所懸 命﹂と言われるように 、そこに命をかけ て生き抜いて来 た尊い教訓から 、現代のわれわれの生き方を学ばねばな らない。 (福岡教区 ・光明寺) 9 2一 研究所主事 大 室 照 道 い非言語的なものがあるからである。私などはともする ションには 、言葉を使う言語的なものと 、 言葉を使わな なぜ視線を重視するかというと 、人間のコミュニケー をいう。本論においてはこの二っとも考察するものであ 向 を い う の に 対 し て 、﹁まなざし﹂は主として自の表情 この二つをまず定義しよう。﹁視線﹂が主として自の方 ﹁視線﹂と同じような言葉に﹁まなざし﹂があるが 、 生まれるのではないだろうか。 と人と話すときに 、 非言語的なコミュニケーションの手 置)を定め徐ろに講話の進行と同時に視線の掃射を行 DDODD 覧し 、 そ の 注 視 の 定 位 置 ( 聴 衆 の 後 方 五 分 の四の位 講師は先ず定位置に直立して聴衆に対して全体を一 浄土宗教学大系を見てみると まず布教関係の書物ではどう扱われているだろうか 、 るがやや視線の方について重く論じてみたい。 いがある。 のとき相手の顔を見ていうのと見ないのとでは大きな違 がある。たとえば朝 、﹁おはよう﹂と挨拶を交すが 、 そ ケlションの意志の伝達に関する比重は大変に重いもの 段には 、無関心になりがちだが 、 この非言語的コミュニ と思う。 的コミュニケーションについ て理解を深めたうえで 、教 線 教壇布教、法話等をするときに注意すべきことは種々 視 壇布教、法話等をしていただければ 、より大きな効果が と あるが 、 ここでは視線をとりあげてみて考察してみたい 教 本論における視線をはじめとして、 このような非言語 - 93一 布 ない聴衆全体を傾聴せしむべく準備すベし 、此れ聴衆 っているようである。 目したい。会話の際 、 日本人はあまり相手を見つめない。 ここで視線をそらす文化と合わす文化があることに注 と、書かれている。ここで﹁視線を掃射﹂するというが 、 またアフリカ人も、おしなべて目上の人の前では顔をう を把握する第一の要件なり注一 これにはどのような意味があるのであろうか。 リカ ・カメル 1 ンのフルベ族などは 、 円形の家のなかで 、 つむける。視線をあわせては話さないのである。西アフ つの意味がある。﹁慈愛﹂と﹁威嚇﹂である。﹁慈愛﹂と 男女が別々に反対の壁に面して 、食事をし 、 ことばを壁 ﹁視線を送る﹂ 、﹁みつめる﹂ことには大きく異った二 はどのようなものかというと、母と子のみつめあいがま このようなアフリカ文化の伝統をうけついでいるのだ に反射させながら話すという。 親のやさしいまなざしである。このような母親、あるい ろうが、アメリカの黒人も会話の席で視線があうのをき づ上げられる。人聞が生まれ出て最初に出会うものが母 は父親との﹁目と自の結びつき﹂は乳児の性格形成にお は不作法で、挑戦的と思われるらしいのだ。しかし中産 けようとする。彼らのあいだでは 、 目をつきあわせるの それでは﹁威嚇﹂とはどのようなものか 、実例を上げ 階級の白人は黒人のそうした態度を卑屈なうしろめたさ いて重要であるとされている。 よう。野生のサルの餌付け場に行くと﹁サルの目を見な ルの側の攻撃性闘争性を駆り立てるのである。このよう 札があることがあるという。人聞がサルの目を見るとサ し、目をふさせるのはアフロ ・アメリカン文化の作法で のときからしつけられる。こうしてみると 、視線をそら のあらわれだと受けとる傾向がある。アメリカでは同様 に、プェルトリコ人も目上の人を見つめないよう 、子供 いで下さい 、向かって行くことがあります﹂という立て な視線を﹁威嚇﹂とみることができよう。 これに対してヨーロッパは会話の相手を見つめる文化 あるといえそうだ。 その使い方には注意が必要である。それで我が国では相 圏といえるだろう。イタリア人などはよく相手を見つめ 、 このように視線には全く異った二つの意味があるので 、 手をあまり見つめないようにするというのが 、礼儀とな - 94- 一方 、気楽に話を聞くという場合には 、もう少し範囲 しいということである。 シャ人も相手の顔を見て話すほうだ。パスでとなりあっ 額 の通り 、 おへその通り 、肩一幅か は広がるようである ﹁ 相手の顔を見ないで話すことはあまりないようだ。ギリ て坐っている母と娘が 、 日本人から見ると不自然なほど んだ範囲内 、 とのことである。ちなみに 、 これよりはず ら一寸(約三 、三センチ)﹂の幅をそれぞれ四角形にむ す こ の点でさらに徹底しているのがアラブ人だ。アラプ 首を相手の方へねじ曲げて世間話をしていたそうだ。 人は 、 ほとんど会話の続いている間中 、 たがいに相手の ようである。 れると 、相手から目をそらせ て いるようにうつるものの つぎに 、 二人が坐って話を しあう場合の位置関係を考 目を見つめている。視線を相手からはず す ときは 、口 許 か顔のほかのどこかをちらと見るぐらいで 、すぐにまた 脇の中空にただよわせる。(もちろん 、 きょろきょろと 、 (とくに話し手は)視線を相手の顔からたびたびはず し 題がきわめて重要な意味をもっ ている。わた したちはお かい合って坐る位置関係である。この場合には視線の問 第一は﹁対面﹂の位置どりである。これは 、 二人が向 えてみよう。これには大別して三つの型がある。 あまりよそ見するのは気のないしるしで 、 たいへん失礼 互いに向き合っていると 、実際問題として相手の視線か 自にもどす。こ れ に 対 し て ア メ リ カ 人 は 会 話 の 途 中 、 だ。)アメリカ人にとっては 、 ア ラ ブ 人 の よ う に じ っ と ょ、避けるにせよ 、 いずれにし ても相手の視線をお互い ら自由であることは不可能である。視線を合わせるにせ このように国によって視線の使い方が異っていること に意識せざるをえないので 、 二人の聞にはなにがしかの 見 つ め 合 ったまま話すのは愛情の表現にほかならない。 がわかったが、我が国では会話の間どこへ視線を置けば 緊張感が生ずることはまぬがれがたいであろう。 この場合は 、 相手の視線を直接に意識する必要がない ぼ九O度の角度で隣り合わせに坐わる位置関係である。 第二は﹁直角﹂の位置どりである。これは 、 二人がほ よいのだろうか。我が園には古来﹁目通り ・乳通り ・肩 通り﹂という 言葉があ る。つ まり相手の話を一言も聴き もらすまいとする場合には、相手の目の高さ 、乳の高さ 、 肩の幅でそれぞれ囲んだ四角形のなかを見ていればよろ - 9 5ー ので 、 二人の聞は親密の関係をたもちながらも 、い ちば し考えてみることにしよう。 教室 、講義室、講演会場の座席の位置どり等々 :::。 まり 、教 官 と 学 生 た ち と の 位 置 関 係 は 、基本的には は相向かい合って位置しているのがふつうである。つ り、学生たちのための机と椅子がある。そし て 、 両者 講義室には 、教官(教員)のための教壇と教卓があ ここでは 、大学の講義室という空聞を例にとって 、少 んリラックスできるようである。視線を合わせるにして も、避けるにしても、ともに自然らしく振る舞うことが できるからである。 カウンセリングする場合などでも、この﹁直角﹂の位 置どりをするこ とが 多いようである。 第三は﹁平行﹂の位置どりである。これは 、 二人が横 の構図も 、視線の方向という観点からあらためて聞い ﹁対面﹂の位置どりにあるわけである。この当たり前 この場合には 、意図的に横を 向かぬかぎり、視線を 合 なおしてみると 、重要な意味あいがこめられ ているこ に並んで座る場合である。 わすことはありえない。そのかぎりでは 、 お互いにリラ とがわかる。わたしたちは他者の視線を意識すると 、 じめるのをおぼえるものである。教官が学生たちのほ ックスすることができる。しかしその反面、ときには緊 いままで﹁視線﹂について種々に考察して理解を深め とたんに自分の内部で 、 なにがしかの緊張感が生じは てきたが、実際の教壇布教において応用できると思える うを見、学生たちが教官のほうを見つめているからこ そ、講義室内にはある種の緊張感が支配しているので 張感を欠きすぎるというきらいがないでもない。 講義室内の視線の方向についての文を 、今までも参考に ある。 これがもしも、教官が教卓の上の自分のノ lトにば してきた井上忠司の﹃まなざしの人間関係﹄からあらた めて引用しよう。 ほうを見ないとすればどうであろうか。あるいはまた 、 かり視線をおとしていて、講義中に一度も学生たちの もいくつかの興味ぶかい問題が考えられる。たとえば 、 彼が講義室の天井や窓の外ばかり見やりながら講義を 空間内における視線の方向についていえば 、ほかに 乗りものの座席、会社や工場内の机の配置、会 議 室、 -9 6一 しつ 寺つけて いるとすればどうであろうか :::き このように視線とは見るものと見られるもの相方に大き な意味があり 、 一般には視線が合うとある種の緊張感を 生ずる。教壇布教 、法話においては 、 この視線を向けた とき緊張感が生ずるという効果を使って 、 会場の緊張度 をコントロールするのである 。 そして視線には 、先にの ベたように﹁慈愛﹂の意味もあり 、笑顔やほほえみを交 えて話すということも大切である。我々は映画俳優では ないのだから、必要以 上 に自分の視線を意識する必要は ないが 、 話をするときにはある程度の気くばりはしてい きたいと思う。 注 一、中野隆元、浄土宗教学大系七 、四一一一一頁 二、井上忠司、まなざしの人間関係、 一 OO頁講談社現代新書 参考文献 福井康之 、まなざしの心理学、創元社 野村雅一 、ボディランゲージを読む、平凡社 (東京教区 ・光取寺) - 97ー 寺院と 市 J いて 、 最近では ﹃中 外 日 報 ﹄ 昭 和 六 十 一 年 六 月 三 十 日 号 , , この発表の目的 に立正大学の塚本啓祥氏の﹃コンピュータによる発本写 リット ・パ lリ l文 献 ﹀ の デ ー タ lベ l スの共有化につ 典 研 究 ( 漢 訳 経 典 で は な く ロ l マナイズされたサンスク ここで言うコンピュータとはことわりの無い限 いて 、 各 大 学 の そ れ ぞ れ の コ ン ピ ュ ー タ 利 用 の 実 態 を 踏 学術分野におけるコンピュータ利用 ピュータに興味を持つ者の同好会的な私的シンポジウム る事が満場一致で採択された。このシンポジウムはコ ン ※尚 りパーソナルコンピュータ(通称パソコン)と呼ばれる まえつつ 、 一元化の方向を目指し 、 コンピュ ー タ委員会 近年学術分野におけるコンピュータ利用の成果は 、著 で こ そ あ っ た が 、聴 講 希 望 者 は 予 想 外 に 多 く 、最 初 用 意 設立の提案が行なわれ 、 各大学にも委員会支部を設置す 個人的に使用される比較的安価なコンピュータである。 この場を借りて基本的な問題に触れてみたい。 最近寺院にワードプロセッサやコンピュータ等の売り 士 本の研究﹄が掲載された。昨年は大正大学綜合仏教研究 隆 込みが非常に多く 、 個人的に相談を受けたり、経験談を 員 所 に お い て 、 コ ン ピ ュ ー タ 利 用 の 説 明 会 が 催 さ れ 、 また 究 よく耳する。そこで今回の教学布教大会関係にどう関連 研 今年度の印度学仏教学大会のシンポジウムにおいても経 タ し生かせるか、また、寺務にどう生かせるかを中心に 、 ニ L しいものがある。当浄土宗教学布教大会関連の分野にお - 98ー コ ン ピ された教室に入り切れず、会場を大教室に移動し行なわ 題は 、仏教経典特有の難字の問題である。コンピュータ おいて将来障害が起き 、統一を計らなければならない問 教の﹁仏﹂の字はJISの区点コ lドでは四二O 九、一 れた。これらは哲学研究に 、 例えば索引の作成等 、研究 六進コ lドでは四A二九というように 、固有の番地が決 やワープロは 、 その文字を一六進数 (01F) の四桁の コンピュータとワ lドプロセヴサ められている。漢字はJ I Sによって第一水準 、第二水 成果のデータ Iベl ス化による新たな展開を求める動き 最 近 、教学院研究所や布教研究所の関係論文集の編集 準、と決められている。相当の難字でもここまでに納ま 数値にしてデータのやり取りを行なっている。例えば仏 現場では、提出される論文にワードプロセッサ(以下ワ るはずだが﹃阿弥陀経﹄にある阿闘の﹁閑﹂の字は無い であろう。 ープロと略す )を利用される方が年を追う ごとに増えて 一 l七七七E の外字登録番地のうち取りあえず七六二一 ので外字作成に頼るしかない。このワープロでは七六二 の機種が登場している。このような編集現場では将来原 に登録したが、将来この登録番地の統一化が問題になる ープ、リコ l、カシオ等、実に様々な企業から何十種類 稿はプリントアウトした原稿とメディア(フロッピーデ はずである。 いる。現在、ワープロは日本電気 、富士通、東芝、シャ ィスク)を提出することになると考えられる。誤植等の 業界においては各機種のデータが読み込め印刷までの作 異 機 種 間 ど う し の デ l タ互換性はほとんどないが、印刷 タでもワープロの機能を持つことができる。﹁コンピュ 今の話しはワ ープロ専用機である 、そしてコンピュー コンピュータとワープロの遣い 問題で校正の負担が大幅に軽くなるからである。現在 、 業をすることのできるコンピュータが導入されつつある。 外字登録等異機種聞に生じる問題 、0 ニ E 4 jサ 'tv コンピュータに理解できる言語で仕事を指示す コンピュータの機械のみを持ってても、なんの役にも立 ータ、ソフト無ければ只のハコ ﹂という 川柳があるが、 仏教経典関係のデータの読み込み、データベース化に - 99ー こなせる仕事の量 ・デ ータ通信・データベースへのアク も、かなりのバラツキがある)が一般に勝れているが、 さ辞書機能では、ワープロ専用機(値段の設定によって とコンピュータによるワープロを比較すると字体の大き もワープロの機能を持つことができる。ワープロ専用機 つにワープロソフトがあり、これによりコンピュータで りの仕事を果たすことが出来る。そのソフトの種類の一 ト))それを実行することにより初めてコンピュータな の初期の価格は五OO万 円 程 だ っ た 。 と こ ろ が 現 在 ポ ー も高性能化がはかられている。例えば五年前、ワープロ りもコストパフォーマンスがはかられ年々安価に、しか (オフィス ・ォl トメ l シ ョ ン ) 機 器 は 他 の 電 気 製 品 よ 立 っ て い る 。 最 近 コ ン ピ ュ ー タ や ワ ー プ ロ の よ う なO A 取り上げられるように近頃悪質業者によるトラブルが目 が、幸い良心的な業者だった。しかし雑誌の法律相談に この発表に先立ち二、三の業者とコンタクトを取った 寺院と業者のトラブル るデータを読み込み(これをソフトウェアl(以下ソフ セス ・市 場 の 規 模 か ら も 考 え て 、 コ ス ト パ フ ォ ー マ ン ス タブル型のワープロが安売りの庖で一万円台で売られて 種(いわば安売りの対象になる製品)を当時の定価で、 がはかられ安価になっているコンピュータの方が使いで 若しくは割引と称して実は高い買いものを押し付けられ いるのが現状である。簡単には比較の対象にならないが 、 尚、今年度の印度学仏教学大会のシンポジウムでは、 るという例が起きている。業者がセールスに来たならば、 があるだろう。しかも、今迄の経験ではコンピュータの 通信機能に優れているMSlDOS(アメリカのマイク その製品のメーカーに売り出しの年月日、新製品かどう 現 実 の ト ラ ブ ル で は 現 在 、 より性能の良い安価な製品が ロソフト社の開発した汎用OS) の採用を呼びかけ、デ ワープロソフトにはバージョンアップを安価(新旧定価 ータの出し入れを行っている。 コンピュータのワープロ か、新製品の出る予定(現行機種でも発表があれば値が 有るにも拘らず、一年前製造の打ち切られた高価格の機 ソフトの選択はベストセラーのものからMSlDOSの 下がる。特にポータブル型ワープロに関しては毎月のよ の差額)で受けられる場合が多い。 通信ができるものが無難である。 -100ー を口 み出 f j 国 々ノり せ ら は且 、段 し m そ る ぐ孟 生 注 鮮 意 b t 主主守 のは 芸品 並 門 N で 占と もわ れ て ~~い 。。。。 。。。。。 。 。。。。 。。 。 。 いる仕事 、 さ れ て い な い 仕 事 が あ る 。 各 項 目 に 、 ま た 主 一定の仕事手順の決まっている経理等の仕事について 効 果 が 期 待 で き る 。 し か し 、経理シ ステムについては 、 は 計 算 上 の 数 値 の 写 し 違 い が 起 き え な い の で 、か なりの 現在市販されている寺院用ソフトにできる仕事 院用ソフトを使用するには 、 これらの問題を踏まえ、売 が あ る 。 こ れ ら の こ と を 考 慮 す る と 、市 販 さ れ て い る 寺 取り上げられているように 、 各 税 務 署 の 見 解 に も 、ずれ 支出に法人支出、個人支出がある。宗報の法律相談にも 宗 教 法 人 に は 収 入 に 収 益 事 業 と 非 収 益 事 業 が あ り 、 また いる。 これらの名称は、会社によって多少呼び名が異なって 事には主に次の仕事があげられる。 現在市販されている寺院用ソフトに登録されている仕 するソフトもあまり変わらない。 あ る 。 今 ま で 手 作 業 で 行 っ て い た 、 年 回 の 案 内 、 住所の D にデ ー タ の 件 数 等 に も 注 意 し 、 各 寺 院 に あ っ た も の を 選 C 宛 名 書 き 等 の 仕 事 で あ り、 これらのデータ整理しインプ B ぶべきである。 A ットする手聞は寺院専用ソフトも簡易プログラムで設計 は、 現 在 手 作 業 で 行 わ れ る 範 囲 の 仕 事 に 過 ぎ な い わ け で できるといわれている。逆にコンピュータに出来る仕事 業で行われる事務の仕事はコンピュータにさせることが に使え、どのように活かせるかが問題になる。現在手作 寺院でコンピュータを導入するとき、どのような仕事 寺院とコンピュータ 問京 各ソフトハウスによって、これらの内容に登録されて -101ー ス 名 ア ム ソ フ ト 過 去 聖 徒 簿 帳 費 会 シ 表 陰 中 墓 経 護 持 理 いう るに J 新 製 事を したいかを導入する前に整理するべきである 。寺院 また寺院でコンピュータを導入するには、どのような仕 のめんどうを見てくれる業者を選ぶことが必要である。 りっぱなしではなく、後んでまでプログラムの修正、追加 を踏まえるか否かが 、選択のポイントになろう。 ピュータの応用範囲も広くなるはずである。この現在帳 子供会、各種サークル活動等の組織化、案内にと、コン 務 先 、趣味 等の項目があれば 、寺を中心とした老人会、 過去帳をコピーして外部で入力というような愚挙をおか 択するべきである。寺の宝であり、信仰の対象でもある データ入力指導は人格的にも十分信用のおける業者を選 原本になる。身元調査という重要な事柄にもふれるので 、 力には、寺宝であり法要の重要な役割をはたす過去帳が る業者を選択するべきである。そして、寺院のデータ入 ータ入力、データの保存 ・複写方法を充分指導してくれ 悩んでいる。その点 、 業 界 の動き等を考慮し 、ユーザー を、二ハピット機のコンピュータに移すことが出来なく ータが主流になっている現在、せっかくたまったデータ 仕事をこなせ、処理速度の速い一六ピット機のコンピュ ソフトと共に購入し使用している。しかし、より複雑な 友 人 は 四 、 五年前に八ピット機のコンピュ ータを寺院用 使 用O Sについては主流のものを勧める。小生のある 使用O Sについて の規模 、 仕事の量を考慮し、導入に踏み切ったならばデ す業者は外すべきである。 てはどうであろうか。宗から一昨年、高橋良和師著 ﹃ 法 が、実際布教の現場で使える生きている人の管理につい 各社共、過去帳管理には法事管理等、行き届いている 今 ァ イ ル が 望 ま し い 。 MS│DOS上で動くワープロ ファイル形式がシーケンシャルファイル若しくはランダ BASICを使用している プログラム 、しかもデータの 点 で は 、MS│DOS若しくは、 MS│DOS上で動く が多く、後んでまでデータの互換性を考えるとすると現時 然上人のおしえを生かす教化﹄という書物が出版された。 によりソフトに合った形式に加工しやすいからである。 寺院ソフトの値段の傾向は、より使いやすいもの、優 その中に 、檀信徒登録制へという章がある。現在帳の提 言である。高橋師の言うように家族構成 、生年月日、勤 -102ー れているもの程高い傾向にあり 、 二O 万円J 六O万円が 中心である。 終わりに コンピュータやワープロが私達の手の届く価格になっ たのは、ここ四、五年のことである。また各社で発売し ている一六ピットコンピュータは同じCPU(中央演算 処理システム)を使用し、 O Sについても同一にもかか わらず 、故意にディレクトリの位置を換えたりしてデー タの互換性を妨げているのが現状である。 O Sに付いて 言えば日本独特の規格TORON、そして U NI X等が 控え、今なお混沌としている。業者の浮沈、機械自体の 耐周年数等も問題の一つであろう。その業界の動向に比 べ寺院のサイクルは極めて長い。コンピュータやワープ ロを導入するならば、亨受できる便利さだけではなく、 その問題点も考慮するべきである。 (神奈川教区・西念寺) -103ー 佐 藤 雅 彦 意識を整理しようとするものである。 出し、若干の私見を挟み 、 生命問題の一端に対し 、 問題 しての脳死・臓器移植問題へ取り組まんとする題材を抽 今 、拙稿ではこの一年間に得ることのできた仏教者と 時を待っている感がある。 脳死・臓器移植と生命選択の時代 結論は出ている。 結 帰 一 行 三 味 で あ る 。 し か し 、 結論に至るまでのプロ セスが、どうしても不鮮明なのである 現代における生命問題に対して宗教の側からの回答が 今 、 まさに求められている時機であることを実感してい るのは、論者のみではないはずだ。微力ながら、かかる 問題に対して自身に納得のいく回答の 、せ めて糸口でも 1 ︿ V 見出さんと検討し続けてきた。昨年発表の拙稿にては 、 員 この拙稿中に、 ﹁脳 死 ・臓 器 移 植 と は 何 か ﹂ と い っ た しかし 、本来、脳死と臓器移植は、相別々に論じられ 概略を説明する紙枚の余白はない。 器移植の問題を絞り込んで愚考を試みた。それから一年 るべきである点を 、 見 落 し て は な ら な い 。 移 植 の 現 場 に 器を摘出せんが為に 、 脳 死 の 状 態 を も っ て 人 間 の 死 と し 間に 、社会問題の中で脳死の問題は 、 ひと噴のような論 コンセンサスも造り得ない不鮮明なまま 、 携 わ る 人 々 ( 日 本 移 植 学 会 等 ) に よ っ て 、 より新鮮な臓 脳死の問題を避けて論ずることのできる腎臓移植に 、臓 究 義の的とはされないものの、医療者、宗教者 、 ジャ 1 ナ リズムの中で、 -1 0 4 研 付 ょう とする動き等により 、脳死と臓器移植は 、 一まとめ 、 それは答えとなりうると 、多様性の 下し たなら 、全 て 東洋大学教授、金岡秀友先生は 、東京大学PRC委 員 答えの出ることを認められている。 死か脳死か 、何を規準に 、死 と す る の か と い う 臨 終 観 会主催の脳死シンポジウム等に 、仏教者として参加し 、 に考えられがちである。脳死については 、 人聞は 、 心臓 (一般的にいうのならば 、死生観か)の 問題があり 、臓 積極的に発言 し ている一人でもある。 金問先生は 、殊に臓器移植を提供する側と受ける側の 器移植につい ては、人間の生存することの規準を問う存 在論 、 生命論の問題について分けて考察する必要がある 二つに分けて論じた。提供する側については 、無縁の大 になりうる。 しかし 、供養は三輪清浄(施者 ・受者 ・供 と いえよう。 そこで 、宗門の内外を聞はず、仏教者として 、 これら 物の三つが清浄であること)の条件が 、ととのっていな 悲 心をもって 、自分 の臓器を供養する ことは 、捨身供養 の問題に対 して発言 し ている 、中野東禅、金岡秀友、藤 いては 、果 して、自分は 、供養を受けるのに価する(応 ければ 、供養になりえない。また 、臓器を受ける側につ 曹洞宗教 化研修所講師の中野東禅先生は 、教化者教育 供)人聞か 、反省する必要がある。仏教の生死一如の考 井正維の各先生の論旨に目を向けてみる。 機関の指導者として 、殊に現代の生命問題に対 して は、 、 生きるのも死ぬのも一つであるから、 え方からする と 臓器だけの問題で把えるのはナンセンスであり 、提供す 研究の中心課題とされ発言されている。 中野先生は 、﹁縁起 ・無自性 ・空 ﹂ の 仏 教 の 基 本 的 立 る人の意志が 、全くない場合等は 、絶対に受けるべきで な状態を作り出されている。故に 、脳死や臓器移植に対 な立場から、医学関係のシンポジウム等にて発言されて 大正大学教授 、藤井正雄先生は 、 いうまでもなく著名 はない 、という否定的結論を出している。 して答 え う る 宗 教 の 立 場 は 、﹁精神のあり方﹂が問題と いる。 場から 、 人聞の一人一人は 、各々の宗教的精神形成によ り、宗教的自我がどのような段階にあるかにより 、様々 なり 、患者や家族が 、純粋に 、 エゴでな い意志で判断を -1 05- を論じ、五組仮和合である我々の身体は、死によって五 藤井先生は、仏教の基本的思想である縁起から身体観 の問題に対してコンセンサスを得ょうと思っても 、それ から後期と、多種多様な立場をも っているからで、脳死 ても、初期仏教あり、部派仏教あり、大乗仏教にも初期 てし まった 。 脳死にともなう臓器移植の問題は 、日本人 いう相乗作用によって、日本人に無意識の死生観を作っ 植には何ら問題はない、と論じた。しかし 、日 本の仏教 は、長年の歴史の上で、仏教の民俗化と民俗の仏教化と 人の医学者と浄土門主 ・藤井実応貌下が 、生命問題につ 葉大教授)奈倉道隆(大阪府立大教授 ・宗侶)というこ より刊行された ﹃生と死の最前線﹄には、水口公信(千 UE岳・肘EnEoロ・ωE S の会 ( 巾 E ア 臨死問題研究会) 6) ハ そのものに執着すべきではなく、仏教の教義上、臓器移 離は離散する運命にあるので 、仮 りの存在体である身体 は極めて難しく時間のかかることであると述べられた。 過日 、浄土宗内若手僧侶達により発会された D ・E- と宗教の関係というより、文化の面から、時期早尚であ いて対談され 、そこから、若干、この問題について考え れを大切にして 、子孫に伝えていかねばならない 、それ ると述べられ、国民的コンセンサスを得るためには、医 日本印度学仏教学 会の理事 長、 平川彰先生は 、近代合 はそれで人生の尊さとして大切であるが 、しかし、 本当 を窺い知ることができる。貌下も、生と死は一つでなけ 理主義が 、生と死とを分ける思想をつく ってしまったこ の命というのは 、 そういうことではなく 、人間の命を離 師と仏教者という生命を尊重するという立場で同じグラ とを指摘し、仏教は、あくまでも生死一如であり、脳死 れた 、 つまり自我を離れた、天地宇宙の大生命と合体し ればならないことを生死不二、色心不二の言葉をあげて の判定が正確になされているのならば 、我々は 、 それを たということ 、 それが永遠の生命ということの本当の意 ンドに立つ者が 、 協力し、 一大啓蒙運動をする必要性を 、 受けるべきであると 、述べられた。また 、玉城康四郎先 味で、自分という個人的な自我我執をすっかりなくした 述べ 、﹁先祖から伝えられた肉体、生 命 で あ る か ら 、こ 生は、現代の生命問題に、かく回答するというような仏 ところに永遠の生命が生まれる。一度、永遠の生命を誕 指摘されている。 教一般のものは出ないだろう。何故なら 、仏 教内部にし -106ー 生さ せれば 、肉体は滅しても 、生きつづけるわけで 、死 実践論としうるのかという点である。 状を把握し 、現代の生命問題に対する観念論を 、いかに 起論をして 、肯定的な回答が得られつつあると思わ れる 。 おおかた こと臓器移植に限っていえば 、多方 、五離仮和合の縁 体というのは、文字通りの抜け殻で 、抜け殻としての肉 体にとらわれていてはいけない 。 ﹂というのが臓器移植 に対する 基本的な考えである ことを述べられている。 しかして、何故今日、輸血の問題は、議論にされるに至 が強いことを知り得るだろう。しかし、これらの発表が 、 聞に発表されたものばかりで 、 いかに 、時代からの要請 以上 、取り挙げた諸説は 、何 れも、この一年半ほどの はれる。輸血に対しての献血が 、これ だけ社会の中で定 移植につ いては、コンセンサンスは次第に変容すると思 する日本人の文 化的 なものがあるだろう。しかし 、臓 器 なく 、移植は肉体を傷つける点に 、藤井正雄先生も指摘 らないのか。輸血は液体 、臓 器は個体といった概念では 総じては仏教界全体のものとされるほど、他には、あま 着した処まで いかずとも、近未来の人工臓器普及ととも ろう。 に、生命を生かす点において、 コンセンサスも高まるだ り見出すことができない。 そして残念ながら 、内容的には 、臓器移植に対する見 解が中心で 、脳死に関しては 、あまり明確には、ふれら れてはいない。また 、今一つ欠落していることは 、みな ければならないのは 、 脳死と臓器移植のみならず生命問 い一視点の価値はある。それと並行して 、我々が学ばな み込んだものがないことだ。無論、観念論は観念論の場 で、 宗教的理想いかにあるべきか、論じなければならな て位 置づけられよう。また 、脳死 、臓 器移植は 、 論とし' 布教を考えるとき 、現代における生命問題は 、 一つの各 きく枠を作りすぎているような気がする。きめの細かな ナ リ ズ ム に し て も 、﹁脳死論﹂という型で 、あまりに大 観念論にとどまっていて 、現場の状況 、実践論にまで踏 題一般が、医療というステージの上で実践されている現 脳死の問題について 、仏 教者のみならず 、 一般ジャ 1 t ヨ -1 0 7ー 仁 3 的に脳死を把える側、脳死患者を看取る側 、主観的に脳 ても 、全体像としての﹁脳死論﹂を論ずるのには 、客観 生命問題の中の 一項目と して 把えられ よう。脳死につい 人の生死観は変遷していくやもしれないが 、それはそれ 悟しながら生きなければならない。無論 、年々歳々 、各 認識上で 、生を考える者は必ず、元気な内から、死を覚 人の人がいれば 、 百様の死に際があるのだから 、仏教の が必要であろう。 く姿、 脳死 ・臓器移植についての判断を持ち続けること で佳しとすべきであろう。現在、ただ今 、自分の死にゆ 死に臨む側と状況別に 、分けて論ずる説が必要とされよ 客観的に脳死を扱う場合 、 これは、これまで論じられ てきた一般的思考が相合されよう。 また 、脳死患者を家族や身内のものとして看取る場合、 現代における生命問題を考える時 、 脳死と臓器移植は 、 くり返すようだが各論にすぎない。そして 、今、 この問 脳死をもって 、 その人の死亡と決断できうるだろうか。 生命維持装置という機械の力とはいえ 、未だ心臓は鼓動 法然上人の浄土の教えは﹁選択﹂の上に立脚するもの 題が 、社会での関心事であるから、流行 、風潮の如く 、 医師との聞に信頼関係があったとしても、その本人が 、 だ。選択とは 、自己の機根を静視する内省から生じる こ をくり返し 、肌にも温熱のある人聞を 、死亡とは 、認め 明瞭なる意識のあった時に 、﹁自分の死の決定は 、 脳死 とを想い起こ す時、現 代 、また近未来へ生命問題も多様 学ぼうというのではない。 をもって判定 して ほしい﹂と言い残した場合は別にして 、 たくないのが 、尋常人だろう。たとえ 、脳死を宣告する 脳死を臨死者の死にゆく課程での部分死として把え 、全 ﹀ 註 ハ1) ﹁臓器提供の宗教的意義﹂ ・ 布教研究所報第三号所収 (2 生命問題に対する文献は 、布教資料第一集 ﹃ 現代にお 時代がきていると思われる。 性を極め 、﹁有力時﹂より 、自 身 の 生 命 に つ い て の 選 択 を、 予め判断しながら 、生命を全うしなければならない 体死である心臓死まで 、静看するのが 、思いやりであろ ︾円ノ 。 自分自身が主観的に脳死に向かう場合 、生死一如を説 く仏教では 、 いっ 、誰が脳死に出会うとは判らない。百 - 108ー う ﹁死の受容と存在論と宗教的自我の確立﹂一九八六 ・一 ける生と死﹄(布教研究所編 ・一九八七年配布)に詳細 ﹁供養される心││臓器を受ける側の倫理と論理││ 1 ﹂ 月二十九日﹁医療と宗教を考える会﹂講演録 (34 (4) 一九八六 ・二月二十六日﹁医療と宗教を考える会﹂講演 録 (5﹀﹁仏教と日本人と死生観││臓器移植とのかかわり方 ││﹂一九八五 ・九月二十六日﹁医療と宗教を考える会﹂ 平川 ・玉城両先生ともに、仏教思想学会・一九八六 ・ 講演録 十月十八日の発表に依る。 Fnbd (7 ) (東京教区 ・浄心寺﹀ ﹃生と死の最前線﹄ (文化書院刊)百三十五頁参照 -109ー 昭和六十一年度 発表 浄土宗教学布教大会意見 三上人のご事蹟をあおいで 教 教 教 区 区 区 区 風 西 角 鈴 間 岡 出 文 信 誠 寛 雄 孝 主己 .>14 イ 良 道 │ │布教師はこれでいいのか │ │ 上野学園 短期大学教授 弘 教 北 海道第二教区 昭 木 、 議 森 者 ﹀ 北支部代表 山 賀 表 海支部代表 奈 松 良 代 畿支部代表 石 潟 院 布教師会北海道支部代表 者 ﹀ 東 東 近 布教師会北陸支部 = 青 也 " ι 弓 一 表 教 。 。 。 止>- 伊 新 発 司 申し上げたいと思います。 いのか、これで良いのかということについて、お話しを て、お話しを申し上げるよりも、私自身が.とうしたらよ 布教師がこれからどうしたらいいのかということについ か、これから考えていくというお話しがございましたが、 いいのか﹂と、良くないからこれから.とうしたらいいの ただいまご紹介になりましたように、﹁布教師はこれで 意見として発表させていただきたいと思っております。 教学院を代表する人物かどうかは判りません。私個人の 見発表をさせていただくわけでございますが、私自身、 す。今回は教学院を代表してということで、これから意 松 涛 た だ い ま ご 紹 介 に あ ず か り ま し た 松 簿でございま ました椎尾弁匡先生から 、いろいろ など忠告をいただき でございましたが、││当時の増上寺のご法主でござい 教に参ります時 、ーーそ の時はまだまだ二十数歳の 小僧 確か昭和三十五年噴だったと思いますが 、アメリカへ布 り、これからやるべきことをたくさん山積しております。 い私でございますが、私なりにいろいろ考えることがあ さんのお智恵を拝借してご指導いただかなければならな 職をするということは 、まだまだ新米でございます。皆 留守にしておりました。ですから日本に戻っ て寺 院の住 の方に四年ほど留学しておりまして 、日本を十一年ほど の方へ開教師と して赴任して おり 、 またアメリカの大学 私は日本で寺の住職をする前に、約七年間、アメリカ で、毎週第一月曜日に十分間ほど時聞を頂戴して、こ れ お聞きになってるかも しれませんが、 NHKのF M放送 書を発表さ せていただき、また 関東地方の皆さんは多分 と同時に皆さんど存じかもしれませんが、いくつかの著 おかつ上野学園短期大学の方で教職に就いております。 外伝道にいってもよろしいとお釈迦様から 言わ れたとい の勇気があり 、 また覚悟があるのならば 、それならば海 でもやるだけの勇気があるのかどうかと 、もしそれだけ 叩かれても、どんなことがあっても、石にしがみついて ていろいろな困難があるけれども、殴られでも、或いは ルナは、お釈迦様のお弟子で、外国に布教するにあたっ ました。その時にフルナの警えも申されまして、ーllフ は浄土宗アワーではございませんけれども 、 一般的なお うエピソードでございます。その時私は何と答えたか 、 私自身栃木県の近竜寺という寺で住職をしており、な 話しをさせていただいております。 -113一 丁度私がアメリカにおりました時に 、私の大学の主任教 授でありました 、宗教学のヒューストン ・スミスという 先生がおられました。この方は非常に仏教にも造詣が深 くて 、 一緒に座禅をしたり、仏教界の活動にも協力を惜 しまなかった先生でございます。ある時この先生が私に こういうお話しをして下さいました。それというのは 、 アメリカの宣教師が初めて中国へ宣教に出向いた時に 、 二年経っても、三年経っても 、四年経っても 、 一人も改 くんですね。広めるのではなく 、人がすでに得たものを 、 -1 1 4ー 宗者を見なかったと。七年目にやっと一人の改宗者をみ ることができたと 。 それは誰だったかというと 、自分の 家にお手伝いに来ていた尼さんだったと 、 そういうお話 しいことか。私は嫌というほど感じ取ったしだいでござ しをして下さいました。いかに伝道布教ということが難 記憶にきだかではございませんが、いずれにしても海外 います。 ある時私は 、今までの││今とは申しま せ んけれども 、 ││ 海外における開教事業についても 、 これは圏内でも がございまして、私が現在やっておりますことは 、 三 つ アフター ・ケア!と申しますか 、それが精一杯であると 同じようなことが言えるのではないかと思いますけれど も、 これは開教ではなくて追教なんだと 、 人を追ってい の方面に渡 っているといった方がいいのかもしれま せ ん 。 しかしそれを機縁として、またいろいろと考えること 多か ったというのが実感でございます。 或いは教えを広めたものよりも 、 むしろ学んできた方が 功するどころか失敗だらけといいますか 、私の教えた 、 に行って参りました。今それを振り返ってみますと 、 成 松海弘道上人 おりますが、はたして私自身がこういう人々に対して 、 を這うようにしてですね 、 いろいろな方に私は出会って 認識が足りないと思います。これは第一線に立って 、地 とは、立ち遅れといいますか、現状の把握といいますか、 うわけではございません 。 私が非常に残念に思いますこ といいますか、別にその華やかな面を追ってほしいとい さっておられると思いますけれども、何かパッとしない てや ってきて布教に従 事 していると。それも 単 に宗教活 ト教の 宣教師が 、自分で飛行機を買って、それを操縦し ギニヤの原住民がいるようなところにも 、単身でキリス それを記録したものなんです。山奥の 、いわ ゆるニュー りで行った探検記といいますか 、冒険旅行といいますか 、 れも普通の人が旅行に行かないようなところへ 、女 ふた 佐和子さんがお友達と一緒にニュ 1ギニヤの奥地へ 、そ く﹄という小説を出しておられます。この小説は、有吉 それ以外の国々へ参りますと、宗教活動が非常に盛んで 教えを伝えているのかどうか、非常に反省させられてお 動をするということだけではなく 、自分自身が 医者 の 資 いうのが実感でございました。今私達が置かれている状 ります。他の方はどうか知りません。今刑務所の教 誌 な 格を持って、病人への医療奉仕をしているということを 、 子さんが、朝日新聞社から﹃女ふたりニュ lギニヤに行 どもいたしており 、或いは一般の布教もさせていただい 有吉佐和子さんがはっきりと書いておられます。アフリ あります。例えば、先年亡くなられた小説家の有吉佐和 ておりますけれども 、 はたしてどのくらいの効果があっ カなどでも、いろいろな難民、あるいはまた飢餓に苦し 態は.とうなのか。圏内においても、海外においても 、特 たものなのか、私自身にもよく分かりません。しかし一 んでいる方々、そういう人達への救援活動は、殆んどが にこの浄土宗のご関係の皆様方は、いろいろと努力をな 生懸命やるつもりでおります 。 何に難しかったかということに少し触れましたが 、現在 どうか。日本は非常に経済的に恵まれて、お金が余って 一体私達仏教界の人達 はそういうことをしているのか キリスト教の関係者であります。 では人民政府の下で 宗教的な活動が 、ある程度 、弾圧と 海外にまでいろいろな物を融資して、円高 ・ドル安の時 今 、 キリスト教の中国における開教 ・宣教の歴史が如 はいいませんけれども 、 下火にな っております。しかし まり数多くありません。その数多くない団体のなかで 、 或いは布教活動を熱心にやっている団体というのは 、あ りま せん。ましてや宗教関係で、そのような救援活動 、 に進出しているという話しを 、私は寡聞にして聞いてお が、奉仕活動といいますか 、そういうようなことで海外 確かに経済界では高い利息でお金は貸すかもしれません 代でございます。それにもかかわらずということです。 ずさせられるわけでございます。 うか。ただ自分遠の身の回りの生活、或いは寺院の護持 、 れだけの熱意といいますか 、 そういう気迫があるのかど ざるを得ないと思います。或いは個々人でも果たしてそ いう点で 、私達既成宗団は非常にたち遅れていると言わ うことにかかっているのではないかと思うのです。そう 体的な面でも 、 いかにそういうサービスができるかとい 神的な面だけではなくて 、 経済的な面、或いはもっと具 そういうものに区区していやしまいかという反省を絶え 一番顕著なのは新興宗教であります。創価学会であると か、天理教 、生長の家 、或いは立正佼成会などです。と その第七則に 、鳥の親鳥が 、牌化前の卵と一緒に機微に 禅の書物に﹃碧巌録 ﹄という有名な書物がございます。 ころは 、私は寡聞にして聞いておりません。個人的には 摂するという意味の禅語に﹁略啄同時﹂というのがござ ころが既成宗団でそういうことを積極的に進めていると おやりになっている方を私は知っております。ところが います。卵から雛が贈る時に 、赤ちゃんである卵の雛が 、 て、そ の殻を割ってあげるんだそうであります。それが 一つのまとまった組織体として活動をしているという団 私達の布教活動というのは、現状というものをよく見 同時に行われた時に初めて 、赤ちゃんである雛鳥が安産 くちばしでもう中の準備が整いましたと卵の内側からつ 極めて 、そしてこの人心をつかむというか、その機微、 をするんだそうです。その時聞がずれますと 、雛鳥が内 体を 、私はあまり聞いておりません。非常に残念なこと そ してまたそれに迎合することなく 、そういう人達を引 側から一生懸命に叩こうとする 、 ところが親鳥がその殻 つきますと 、 それを咽墜に親鳥が卵の外側から感じとっ き上げていく 、安心立命を与える。そこに布教の究極の を破ってやりませんと 、赤ちゃんの雛鳥は死産をする。 でございます。 目的があるのではないかと思います。それはもちろん精 nh v と、能化である私達が、いかに一般衆生の方々の受容と れて雛鳥が誕生するわけですが、これを布教に誓えます の外側と内側とから同時に殻を破ってこそ立派に卵が割 ないわけであります。つまり親鳥と雛鳥の鴫と鳴が 、卵 てしまいますと雛鳥は早産をする。これはどちらもいけ また親鳥が早まって、卵の中が整わないのに 、殻を破っ 宗教協力というようなことも今始まっております。 ものではなく、有限的なものであるというようなことで 、 べての宗教に限界があり 、 そしてそれは決して絶対的な 期がございましたが 、現在は協調の時代であり、またす を排撃しなければならない。そういうことを主張した時 が絶対的なものであり、他の宗教は邪教であり、それら 教者が 、自分達の属する宗教が世界で一番よくて 、それ そういう時代にあって 、 一体どれが正しくて、自分に いいますか 、 ニーズといいますか、そういうものを把握 できているかどうか、この両方があいまってこそ布教の よく見てみますと、非常に貧弱と言わざるを得ない。私 フィットしたものであるのか、選択の時代にあたって 、 一般大衆の人は 、 非常にいろいろな問題を抱えている。 自身のことを省みましでも 、果たして実績が上がってい 実績が上がるのではないかと考えるわけであります。と 家庭においても 、職場においても 、或いはもっと大きな るのかどうかと。もっともっといろいろな教えを頂かな 果たして私達がそういうニ lズに応じられる体勢ができ 社会においてもですね。日本の地域社会においても、い ければいけませんし 、 また資料にしましでも 、或いは人 ころがどうもそ のズレというものが 、 いくら私達が一生 ろいろな価値観が錯綜し多様化しております。一体どれ 材の面にしましでも、本当に必要な物が沢山あるように ているのかどうか、それは教学の面でも、或いはまた組 が本当に信ずるに足る宗教であり 、信条であり 、思想で 思います。にもかかわらずそういう物がなかなか得られ 懸命やっていても、糠に釘といったような感じでですね 、 あるのかということが、よく判らないでいる。今はどの ないで孤軍奮闘といいますか、やらざるを得ないと。も 織の面でも 、或いはその他の面でもですね。この現状を 宗教も 、絶対的にこれがすべてであると主張する宗教は 、 う少しこれが組織的にできないものだろうかと。 その実績が上がらない。 殆んど有りえない。かつてはありました。それぞれの宗 -117ー はたして現在の既成宗団の寺院生活者の私達に、それ だけの覚悟があるかどうか。本当に護法のために、身を その点で参考になりますのがカトリックでございます。 私の友人にもカトリックの神父さんが沢山おりますし、 時聞が追って参りましたので、本当に思った事を十分 捨てても教えに生きるという、それだけの自信と覚悟が 得た収入というものを全く使用しておりません。使用で 言 い 尽 く せ ま せ ん が 、﹁ 三 上人のご事蹟をあおいで﹂と 或いはプロテスタント、或いは修道女の方も沢山おられ きないんですね。これは一旦教団の方へ全部差し上げて いうことでございますので、それに関連して一言申させ できているかどうか、ということを考えました時に、私 しまうんです。そしてそこから俸給をいただくんです。 ていただきます。この三上人のいきざまについては、い ます。そういう方々に日々接触いたしまして、非常に考 ですから私有財産は殆んどないわけなんです。すべて奉 ろいろな研究者によって発表されております。まず二祖 達の生活は、経済的にも非常に恵まれていると考えざる 仕なんです。また神父さんや修道女さんたちは独身なん の聖光上人につきましては、布教に力を尽くされたと。 えさせられることは、仏教教団内の寺院の生活者と、生 ですね。最近はいくらか既婚の神父を認めた方がいいか 或いはそのつぎの良忠上人については、学問の面で卓越 を得ないわけであります。その恵まれているということ どうかというふうな運動が、アメリカあたりで行われて されたというようなご事蹟があると。そしてまた源智上 きかたが非常に違うということであります。どういうふ おりますが、依然として伝統的なしきたりを守っており 人につきましては、寺院の 護持と言いますか、知恩院を が裏返しをすれば、布教活動を鈍らせる大きな原因にも ます。それでは一体生活に不安はないのかと言いますと、 中心として寺院の護持に力を尽くされたと。それぞれの うに違うのかと言いますと、カトリックを例にあげます 一応老後の生活は保証されていて、不安はないわけなん 個性にあったといいますか、三つの異なった面でそれぞ なっているのではないかと思うわけでございます。 です。もちろん賓沢はできませんが、食べるのには困ら れ三上人が力を尽くされたというわけです。 と、神父さんたち、或いは修道女さんたちは、自分達の ないわけです。 -118ー そしてこれは欲張った話かもしれませんが、私なりに この三つの生きかた 、 一つには布教ということ 、 一つに 通してお読みいただければ幸いでございます。どうもご 静聴ありがとうございました。 宗の教えというものを広めたいという考えを持っており は放送を通じて、私の生きかたということを通して浄土 して、幅広く一般の方々に、これは文章を通じて 、或い 聖光上人につきましては、布教という在りかたに対しま せんし、また欲張りかもしれませんが、そういう面で 、 それを一身に受けて 1 1 これは荷が重すぎるかもしれま おりましたことを、 ただいま松簿先生が高蓮な表現でお ますことをお許しいただきたいと思います。私が思って 分が反省したような身近な商で 、 お話しさせていただき という題でございますが 、私は﹁これでいいのか﹂と自 不徳な田舎者でございます。 ﹁ 布教師はこれでいいのか﹂ 申します。誠に申し訳ないのですが 、 私はいたって浅学 石山 は学問の探究ということ 、そして寺院の護持ということ、 ます。それから良忠上人のご事蹟に対しましては、学問 話し下さいまして、誠に感激をしておるものでございま ただいまご紹介いただきました 、北海道の石山と の探究といいますか、これは私の専門であります宗教民 北海道という所は 、ご承知の通り、九州 ・四国を併せ す。開教のことについてお話しがございましたが 、私の はり自分の寺をまず護るということですが 、 ただ護ると たよりも 、或いは東北六県よりもまだ広い所でございま 俗学の方面で少しづついろいろな資料を集めております。 いうことだけではなくして、もう少し内部を改革いたし す。そして地域によりまして、 気候 ・風土もそれなりに 方の北海道の開教の状況について、ここでお聞きとり願 まして、充実した寺院の 護持発展ができるようにやって 大きな違いがございます。私は、北海道に生まれて住ん そういうものを自分も伸ばしていきたいという考えも持 いるしだいでございます。本当に意を尽くせませんで申 でおりますが、初めて行った所の気候 ・風土の違いに驚 いたいと思います。 し訳ございませんですけれども、これ以外の私の話につ かされるのでございます。私の住んでいる所は、北海道 っております。それから寺院の護持につきましては 、や きましては、いくつかの著書 がございますので、それを 霜が降りるから用心をしなさいと、鐘を叩いて知らせて 内陸地帯は本宗寺院が少のうございます。よそのお坊 のいわゆるド真中でございまして 、大雪山麓の旭川市に います。屯田兵として 、未聞の地の開拓と 北 辺の 地 の警 さんの力を借りることができません。一人の孤独な闘い 回ったり 、道 路 ・港紙湖などの整備に東奔西走してみた 備という両面をもって 、主に九州から愛知県にいたる方 でもございました。今にしてその開教僧の尊い香りは該 近い所でございます。気温はマイナス三O 度から 、プラ 々が 、初めて入植いたしました。その後、東 北 、 或いは 郁として今に香っております。一方、北海道の人口 、函 り、或いは青年子女の教育に心を注いで、文化向上発展 裏日本の人が 、移住をして来ております。大地開墾のた 館にまいりますと 、 二百年 ・三百年以上に及ぶ歴史を持 ス三O 度以上にわたる、極めて寒暖の差が激しい 、 いわ め滴り落ちる汗を拭いつつ 、極寒零下の寒さに屈するこ った古剰がございます。増上寺は北辺開教のため 、港に の為にと、僧侶一人のみならず 、開教僧の家族合わせて となく 、文字通り血一課娠り絞るといいますか 、 いぱらの お寺を建てて布教を始めたのでございますが 、あまりに ゆる大陸性気候の典型的な土地でございます。私の所は 道を人々は切り開き進んでいったのでございます。そし 広大な所のために 、内陸まで到達することは難しかった 貢献したのでございます。 てその開拓の業に疲れきったなか 、北辺箸備のため軍事 のでございます。この道南地方︹函館︺或いは海岸地域 歴史がまだ浅そうございまして 、開拓以来九十年でござ きょうれんにと励んだのでございます。 たお坊さんの姿は 、正に三上人の勇猛精進の面影を写す 漁業関係の仕事に従事して 、定着したためでございます。 、 比較的本宗寺院が多ございます。それ にまいります と は、 いわゆる金光上人の津軽地帯の人々が海を渡って 、 この人々にお念仏のみ教えを説き 、法の燈を現じ続け ものでございます。法 、 ひとり広まらず 、 法 、 人によっ います。それは 、農村地帯に親驚上人の越中 ・富山方面 北海道は真宗王国と呼ばれるほど 、真宗が盛んでござ 即布教教化でございました。例えば 、秋になって夜半に から移住してきた方が多いためでございます。また多く て広まったのでございます。そしてその開教僧の生活は 、 入り温度が下がってまいりますと 、布団から抜け出て 、 -120ー り大きなウエイトを占めているのでございます。 に北海道に おける宗派の 分布状況 は、出身地 の別がかな て、土地の禅寺に帰属するためでございます。このよう 宗寺院が多ございます。それは数多くの分派をのり越え の市町村にありましては、一、二を争う大坊は、まず禅 き人の追善供養に終始している私を見出し、現実に生き て自分を振り返ってみますと、先祖のお守役的存在、亡 地に、いろいろな新興宗教が伸びてきております。翻っ 線を拡張しております。北海道の私の所のような山間僻 や目をみはるばかりに 、新興宗教がつぎからつぎへと教 るお念仏の教化はいき届いていないのでございます。そ れのみか、寺の法座は少なく、例えば盆の棚行さえも、 このことは、浄土 宗宗勢状況と照ら し合わせると 、今 日に至ってな お、いかに三上人ならびに 、金光上人と先 手が回らないからとなおざりになっているのであります。 年回供養 ・お通夜のお説教でさえ、なおざりにしている 人がたまたま見られるのでございます。北海道は通夜説 教ということが、必ず行われておりますけれども、海を 渡ってこちらの方へまいりますと 、そ ういう地帯がたま たま見受けられます。ご本山で伝道者、或いは教化事業、 またこの併教大学の聞かれた四条センターなどの関係機 関では、大いに積極的な教化策をうっていただいており ますことは、誠に有り難いことでございますけれども 、 まだまだ新興宗教と比べて、道ほど遠しでございます。 都会砂漠でうごめいている人々に、どれだけの手がうた れておりましょうか。若人にとってどれだけ魅力があり ましょうか。 -121ー 達の教化力の大きかったかを物語るのでございます。今 石山昭三上人 を私がご 推薦いた しました 。その研修旅行 から 帰ってき 縄へ研修旅行に 出かけました 。視察固所とし て 、 袋忠奄 す。今年七月 、私の街の近隣四町の民生委員の方が、沖 ず教化者としての自覚に目覚めることが大事でございま ばれておりますが 、三上人のご遠忌を機縁 として、我ま がっ ている のでございます。宗侶は皆布教師であると叫 脚下照顧、開教の場は、この内地にもごろごろところ ですね。こう言ってくれましたんで 、我が意を得たりと には、お念仏は誰でも称えることができるから有り難い ございます。そして若い一人の指導員が私に言いますの い。お坊さんのお話 しが一番いいんだ。こういうことで に浸ったところで、有り難いお話しを手短にお願いした だ、これが一番喜ばれている。そして手を合わせて法悦 お坊さんのお経にお会いして 、 お参りしているこ となん すぐ飽きてしまう。今お蔭様で一番喜ばれていることは、 元祖大師に八年間直参した聖光上人の、尊い正法護持 て、皆さんが お話 しされる のを聞いておりま すと、まる 喜んでおるので ございます。諸般いきとど いた袋忠 奄の 興隆に遁進された事を拝し 、し きりに高祖大師に傾けら 喜んだのでございます。 施設に仏を発見 し、なお 本堂にお参りして 、 有 り難い法 れた聖光上人の教化姿勢を案じます時、三昧発得の聖者 で本 山参りから帰ってきたような 、手を合わ せて本 当に 話も頂戴し 、続いて島 内戦跡巡りでは 、民生委員のなか 高祖大師にし て初めて 見られるお念 仏 の御戸が 、みな化 らしい奇麗なお声であったことでありましょう。極楽は にお坊さんがいたのでご回向してもらい、感激の増塙で 卑近な話しで恐縮でありますけれども、昨年私の街に かくや有るらん、あら有り難や、合掌法悦に浸り 、大師 仏となって顕れ給うたことでございます。また高祖大師 特別養護老人ホ Iムができました。月に一度 、 仏教会が に帰依する群衆の多かった事が 、聖光上人の芸術的 とも あったのでございます。月並なことでございますけれど 輪番でご奉仕をしております。施設の側のお話 しに より いえる教 化姿勢に現れていることを尊く注目するもので の礼讃、いろいろなお経、そ の透徹された 、そして 素晴 ますと 、衰弱したお年寄りでもあるので 、落 語 ・漫才 ・ あります。もとより身口意清浄にして 、 五種正行は布教 も、 お話しだけが布教ではないと思います。 奇術 ・精神講 話、或いは現在の歌などでは理解できない。 - 122- の要態であることを 、改めて学ばせていただくものであ らを尊しとし 、無我を説く立場にありながら 、我の強い ます。このお姿を拝し 、自分を振り返って見ますと 、自 ことが見い出されるのでございます。あたかも写瓶相承 ります。 は、まさに超人的ご所業でありました。今日私 、北海道 の山奥からここまで出てまいりますのに 、寺からマイカ い憾に坐し 、法蔵にあっては高座にあり、安住の居であ 統の上にあぐらを組み 、金欄を装って方丈の奥深く 、厚 された聖者のごとき錯覚にお陥りがちでございます。伝 ー ・新幹線 ・飛行機、瞬く聞に京都へ到着するのであり ります。布教師は、私はこれでいいのか。ただ機悔する 一器の水を一瓶に移すがごとく相承された良忠上人 ます。そして幾多の俊秀をお育 てになり 、三祖として 、 こちらへまいります時、私は一人のお婆さんにお会い のみであります。 私は丁度寺の二代目、三代目に相当するわけでございま してきました。その方は若々しくて人生の辛酸をなめて 基礎盤石の重きに確立された 、その良忠上人を思う時 、 して、まことにその任重きことに恐れ戦く心境でござい してその方はとても人の面倒見のいい 、 心温かい方であ こられたような苦労人には見えないのでございます。そ 一般社会における、例えば芸事のお師匠さんは 、多年 ります。この方とお話ししておりますと、仏縁あって浄 ます。 血の穆む修行をして 、功成り 、名遂げたその道の達人で ございます。その名声を慕って門戸を叩き、漸く弟子入 表現で言えば 、 主人 と使用人というような間柄に移って この通りごつごつとして可愛い手ではありません。しか そのお坊さんの教化で 、同行人がどんどん増えていって いるのであります。ご自分の手を私に見せて、この手は 土宗の信者となり 、そのお坊さんの教化で特別なる篤信 の徒となられたのであります。お話しを聞いていると 、 くる感が深こうございます。隠遁を好み自行を基とされ しこの手は本当に有り難いのです。今日の私を造ってく りが許されるのであります。しかし自分を今振り返って た源智上人は、元祖に常随給仕すること十八年 、祖師の れたのです。支えてくれたのです。合掌して本当に満ち 見る時、師匠と弟子というよりも、親と子、成いは悪い 報恩顕彰に第二代としてご一生を全うされたのでござい -1 2 3一 見事に再興して素晴らしい教化力をみせている友人のお 続いて関東の農村で廃寺に近づきつつあったお寺を、 人がご発 表の 予定でございましたが、よんどころない理 究では第一人者と言われております浄円寺の佐藤竪瑞上 います。本来この発表は、同じ青森教区の金光上人の研 ただいまご紹介にあずかりました鈴木寛伎でござ 寺へお参りしてまいりました。関東で教線を拡張された 由で出席ができなくなりましたので 、替わりに言って喋 足りた美しい旗を見せてくれました。 良忠上人を偲ばせていただいたのであります。現実にこ ってこいということでまいりました。突然の変更で、し 藤上人の﹃殉教の聖者金光上人﹄と、開米智鎧上人の れらのように 、生きた教化に勇猛精進しておられる布教 母が拝めば子も拝む 、拝む姿の美しさ 、 こういう標語 ﹃金光上人﹄との 、 おふたりの年表から拾い集めました 。 かも 金光上人に関しては全く の門外漢でございます。一 がございましたけれども、全身全霊を打ち込んだ、全身 さらに若干の参考の文献も拾って書いてみたのですが 、 者は、全国各地に現在しておられると思います。それに 布教こそ、今求められているところであると思います。 それが妥当なものなのか 、不当なものなのかは 、諸先生 生懸命に年表などを作ってみたりしたのですが 、やはり 例え私一人の力が弱くても 、力を結集するならば 、何事 方に 、むしろご研究していただきたいと思います。そう 引き替え多くの私共は、なんと怠け者であるかと、改め も容易に打開されるものと思います。ここで宗門にお願 いうことで恥をも省みず登壇したということですので 、 思うように任せません。ただこの年 表 に書いたのは 、佐 いいたします。布教所の開設とか 、福祉施設を造るとか 、 お許しいただきたいと思います。 て反省をするのであります。 全国寺院に呼び掛けて、実現遁進に進んでいただきたい。 教大学の高橋良和先生もご発表していただきましたので 、 まず金光上人のことについてでございますが 、昨 日 併 に具体性に欠けた拙い話しをご静聴いただきまして 、誠 その部会に参加しておられた方々は、だぶると思います このようなことをお願いするものでございます。まこと に有り難うございました。 けれども、まず金光上人のご出生からお話し申し上げた -124ー 鈴 木 長安寺国平安値お母さんは平小路良子 、 このおふたりの の一月一日というふうにいわれております。お父さんが いと思います。金光上人の誕生は久寿二年(一一五五) わけです。この関重太夫も男ですので 、小 さな乳呑子を 太万と書いてありますが││とを預けて 、そして逃げた 臣の関重太夫という人に 、こ の白竜丸と 、脇差し │ │陣 は何のためにお参りしていたのかといいますと 、 この夫 抱えて育てていくのは大変でございます。あっちこっち 金光上人が生まれた頃ですが、隣国の城主当路及麿と 妻には子供がなかったので 、子供ほしさに願をかけて丁 聞にお生まれになって 、幼名を白竜丸と申しております。 いう城主と筑後川 を挟んで対峠しておりまして 、戦争に 度その日が満願の目だったのです。関重太夫にしてみる と乳をもらいながら 、訪偉うわけでございます。ある日、 なったわけでございます。この闘いは少数の方の当路の と、これは有り難いチャンスだというので 、白竜丸を松 これは実は 、父の長安寺が遣唐船というのですか 、中国 方が有利になりまして 、実父の長安寺側が大敗をしてし の根方にそっと寝かして 、当路の 首を取ろうということ 丁度石垣の観音寺の近くを通りましたので、ここで一泊 まいます。その時に 、産後の肥立ちの悪 化しておりまし で忍び込んでいく。警護の人達の気がつかないうちにだ へ渡る船を管理しておりまして 、 その船の名前が 、白竜 た母良子が、六十日の病床についていたわけですけれど んだんと近づいてまいりまして、さあいよいよというこ しようと立ち寄りましたなら、丁度その時、敵の当路及 も、 この敗戦にショックを受けたのでしょうか 、自決し とで 、 万の柄に手をかけた時に、折悪く急に雨が降り出 丸であったので、この幼名を付けたのではないかとの説 て亡くなるというふうに記事に出ております。これが三 したわけであります。そのために松の根に寝かしておい 麿が 、夫妻でこの観音寺へお参りしていたのです。これ 月の十五日のようです。また父の長安寺国平も、命から た白竜丸が、雨のためにびっくりして大声で泣きだして もございます。 がらその場を逃れて 、 日向の高千穂まで逃げ延びてまい しまい 、あたりが騒然となってしまったわけです。その ために関重太夫は当路を討つこともできないで、ただ木 ります。 この白竜丸はどうなったかといいますと、その時 、家 -125一 が勢力を盛り返して 、また当路と戦争をするわけですが 、 その時にこの現若丸が、自分の実際の父を陣太万で殺す というような経緯もあったようでありますが 、それにつ いては省略させていただきます。まず誕生のことだけを 申し上げまして、そのつぎは 、 この金光上人がどうして 法然上人とお会いできたのかということについて触れて みたいと思います。 二月まで長谷に宿し 、 建久六年(一一九五)のころに 、 一 とし、名前を現若丸というふうに付けて 、 そして自分の く御仏のお授けであろうということで 、早速自分の養子 はきっと願をかけて、満願の日に拾ったんだ から、恐 ら だ生まれて三ヶ月ほどの可愛い子供でござい ます 。 これ たわけです。そして当路夫妻が出てまいりましたら、ま 立のなかに隠れて様子を見るということになっ てし まっ へいった覚えがないので 、恐らく別な安楽であったろう が、昨日の高橋先生のご研究では 、安楽房はどうも鎌倉 決を待っている聞に 、安楽房にあったとなっ ております そして鎌倉へまいります。そして鎌倉で直訴してその判 院を経営するわけですが 、土地の争いの問題が出来て 、 実は金光上人はその後で 、石垣 山観 音寺の住職と して寺 光房と書して 、宗祖に呈す。というふうに出 ております。 - 126ー 道弁に誘われて浄土大要を安楽に聞き 、 五月源空に入門 す。それから建久七年のころに 、秩父の禅門道弁の案内 により 、安楽房の教化を受く。或いは石川禅門道弁に誘 子供として養育することになるわけでございます。これ というご発表もお聞きしておりますので 、その辺は皆さ われて 、浄土の元祖法然上人の教化を受く。また弟子金 がくしき因縁でございます。後に本当の父である長安寺 鈴木寛{良上人 説、四十二歳の時というふうに考えたいと思います。 系譜﹄等々もございますので、一応私としては建久七年 りませんが、 ﹃決答授手印疑問紗﹄の上とか ﹃ 浄土伝燈総 うふうに出ておりますので、どちらが正しいのかよく判 年説でございますが、宗祖と弟子の契約をなすったとい んのご判断にお任せしたいと思います。それから建久九 ﹂それに対して、﹁上人答えて日く、 によって問うべきや 。 るの時奉りて日く、ご往生の後、浄土の法門の不審、誰 昔、鎮西法師、世に語りて日く、上人世にあ の上に、 ﹁ っているわけです。というのは、﹃決答授手印疑問紗﹄ までに、なるべく年月を多く取りたいという考え方を持 金光上人が法然門下に入って、そして奥州へ下向する この頃の幕府というと、源頼朝が亡くな って北条氏にな 念仏宗を禁止しているというふうに出ているわけです。 想像ですが、浄土宗大年表によると、正治二年に幕府が の説が最も信患に足るかということですが、これも私の 歳の時という説、また建仁元年説もあるわけですが、ど う説、それからそのつぎの正治二年(一二OO﹀四十六 説よりは、むしろ石井教道先生の承元元年説あたりに落 かと自分では考えているわけです。従いまして正治二年 です。なるべく長い年月を経過したほうが本当じゃない ためには、二年や三年ではいけないような 気がするわけ 然上人が 真 から金光上人のことをご理解していただける みると、 金光上人の人柄はまた別といたしましでも、法 印もまた我が義を知る 。 云々﹂と言っているところから の能化となる。汝らのためにやすからず。京には聖覚法 って間もなくだと思うのですが、何分にもこの幕府から ち着ければという気もするのですが、そうなると今度は 聖光房、金光一 房、ことごとく余の所存を知る。彼等遠国 院まれたのでは、もう抵抗のしょうもないので、恐らく 後ろの方が短くなってしまいまして、 金光上人が奥州を それから続いて金光上人が奥州に下向するということ この頃に上人方が全国に散らばったんではないかとも思 くまなく巡錫して歩いて、いろんな寺院を創建している になりますが、正治元年(一一九九)四十五歳の時とい うのです。石井教道先生は承元元年説をとりたいという ということに少し不安を感じてくるわけでございます。 金光上人が奥州に下向してから、方々で寺院を創建し ふうにも発表されております。これも確かに大事なこと だと思います。 -127ー れども、立派なものも沢山あるわけです。会津若松の光 外に縄をくっつけたぐらいのものなのかも知れませんけ のです。それからまた 、草庵といって 、恐ら く三本柱で 造ったとかいっているようなものもあるような気がする ておりますが、これはただ後世、金光上人が開基だとか、 雪が深くて 、 今 の四月になっても踏破できないところも 船で行かなければならないところもあったろうし、また 従いまして、その当時は陸路を歩くことができなくて、 行けなかったという記事も出ているようでございます。 なるわけですが││津軽へ出ょうとしたら、雪が深くて 特に金光上人の津軽における活動についてみますと、 あったようでございます。それを乗り越えて奥州一円の の僧堂とあります。秋田県土崎に金光寺、西明寺阿弥陀 ﹃寛永聞き取り帳﹄には、﹁荒吐神を崇拝する 地 の民は 、 源寺、宮城 県栗原の往生寺 、岩手県遠野の善明寺 、花巻 堂、土崎観音堂 、 それから行岳の極楽寺、山本郡に仏刺 なかなか金光の説法に応ぜず﹂とか、また同帳に﹁金光 教化に奔走したわけでございます。 一宇と 、それか ら青森県に入って、行丘の西光院 、藤崎 の教えは 、思うようにならず、 の広隆寺、盛岡の大泉寺 、水 沢の真城寺 、土崎浜に一 宇 の摂取院 、法輪丘の西光寺、飯誌の大泉寺、それか ら行 々。地の民はなかなか金光房の説法に応ぜず。 ﹂﹁金光房 一代(しんつう)す 、云 丘一庵というふうに、今読 み上げたのが一八ケ寺になっ ております。それらの詳しいことについては 、後の研究 まなく踏破しているようであります。 そ のなかに秋田県 秋田県へまいりまして 、そして 津軽へと 、 一円ずっとく かったのですが、福島県、それから宮城県、岩手県から その行動範囲も、山形県の方はちょっと記事が捜せな 金光上人が津軽へまいりまして 、修験宗を方々訪問 して、 というふうにお聞きしました。それで納得したのですが、 が、九州におりました時に石垣観 音寺が修験宗であった ついに入獄さる。﹂と。昨日のご発表にもございました 坊並びに修験念仏宗の代表、大泉院住僧と仏論を闘わし、 は風雨白雪舞う日も休まず、道行く人々に一向念仏をし く。 ﹂また﹁建保元年五月、正中山、党場寺住僧、法蓮 の能代から深浦へ出ょうとしましたら、風波が荒れて行 宿を借りたり 、或いは法論を闘わせたりしているのが 、 を待ちたいと思います。 けなかったと。そして旧暦の三月││現在ですと四月に -128ー う基礎があったからこそ 、法論できたのではないか と推 よく本に出てくるのです。これも恐らく同じ修験宗とい ので追いかけられる。それで検非違使のところまで逃げ のと荒吐族ではみているので、神聖な水を汚したという を洗ったというのですが 、 そうすると川の水は神聖なも て、やっと一命をと りとめるというようなことも出てお 測しております。 ただここで大きな問題は、荒吐族というのがいるわけ 心として 、中央から逃れていった大和民族、それに中国 津軽の方に最初から住んでいた種族、 それに長髄彦を中 るというようなことを経験しているようでございます。 でも、こ の荒吐族との闘争で何回も牢獄に閉じ込められ これらは物語かもしれませんが、いずれにいたしまし ります。 から渡来してきた種族、この四つの種族が一緒になって なお入獄したのは建保元年五月から同二年四月までとい でございます。これは 、あそベ族 、 っぽけ族といって、 できたのが 、荒吐 族という 、まことに強靭で捧猛な種族 うのですから 、約一年間入 っております。そ して出 獄後 ながすねひこ がいたようでございます。この種族が非常に力をもちま されてしまっております。それが﹃津軽外三郡史﹄とい われております。これは日本の歴史のなかから全く抹消 のなかに一人とか二人とか存在したなどということも言 れが京都まで攻め上って朝廷を脅かし、そして歴代天皇 だというふうに私は拝見しているわけです。 ても、今までの修験宗を浄土宗に転向させたという記事 名前が逆になっているようでございますが、いずれにし ととなり、九品山三宝院と名称を改める。これはどうも 直ちに再び正中 山に登り 法論を戦わす。ついに究場寺住 僧、法蓮坊鵬ては正中山死場寺をして浄土に導入するこ して、後でいうあんとう一族の元になるわけですが 、 そ うなかに出ておるわけですが 、いずれにしてもこの荒吐 さらに﹃金剛坊文書﹄のなかには、 ﹁ 吐血しながら説 法す、 しかるに世人はこれを軽笑し、一人も信ずる者無 し。 ﹂それから古文書には 、﹁この年(建保四年)村民 、 族というのは 、非常に大きな力をもっておりまして 、 そ わけです。そして毒矢を吹きかける。本のなかに出てい あほう歌を作りて上人を瑚る 。 ﹂それから﹁上人の流血 して金光上人に対して、最初から終わりまで邪魔をする たのでは、金光上人が熊と戦って疲れた時に川の水で顔 -1 2 9- える水草を乾燥させたものを、これを寝具として寒い冬 布教、なみおかにおいて続けられる ということで 、 ﹂ 。 木の洞穴に住居したり、野宿を重ねたり、或いは湖に生 生ある限り 、生度し 、 今の我が体は 、眠りを誘い、死を招くが如し 、 人間の生涯には限りあるも 、 とがいえると思います。六尺三寸 四十貫という 、 人並み めに一生を捧げた 、まさに殉教の聖者金光上人というこ もできないほどの銀難困苦を乗り越えて 、念仏弘通のた これを克服して信者をつかみ、寺院を建立する等、想像 こういうことで、 いわば最悪の環境にありながらも 、 退き三界の仏閣に、永眠したきは 、 再び人間として 、生れ来るを 、 そして遂には 、 往生極楽に入寂し 、 出来得る限り、世人を救い度し 、 手の動く限り、書を記し度し、 歩める限り 、巡脚致し度し 、 死は眠りの友と云ふ 、 の夜を過ごすというような生活を続けておられたようで 眼の見える限り 、 世間を見度し 、 外れた身体 、頭脳も素晴らしく 、怪力もあったそうでご 我が今の心境なり。 金光 寄せていただいております 、角出誠堂でございます。こ -130- ございます。 ざいます。弁慶のような人だったんだろうと思いますが、 建保五年二月十五日 寒風日 さらに優れた精神力があったからこそ 、遠い未聞の陸奥 の地に念仏信仰を弘通できたものと、驚嘆、賞賛するよ りほかはないと思います。 それを開米智鎧先生が、分かりゃすい日本文に直した詩 の度の﹁三上人のご事蹟をあおいで│布教師はこれでい ご紹介をいただきました、三重県の伊賀教区から がございますので 、 これは亡くなる四十目前に書いたも い の か │﹂という問いかけに対しまして 、私なりに考え 最後に金光上人の書いた漢文の詩だと思うのですが、 ののようでございますので 、 それを拝読しながら結論と ておりますことを 、 また考えていかなければならな小と 出 したレと思います。 角 しても、地域社会人と して、 一日本人として 、 さらにも ルな考え方からするとそうだ と思うのですが │ │私共が 思っていることを若干串 し上げさせ て いただいて 、ご批 この度の三上人のご遠思は 、今までのご遠忌と違う側 今どう歩んでいるの か 、 さらに自 分達の時代、 つぎの代 っと大きく言えば 、まさに一地球人と して│ │グロ ーバ 面が一つあると思っ ております。それは何かと申します 判を受けたいと思っております。 と 、 第二祖上人様であり 、第三祖上人様であり 、第二代 の者に残し得る物を 、今実践をしているのか 、 どうなの 、。 様であるという 側面であります。これは 言 い換えるなら 孫育てに十分意を払 っているだろうか。こういう視点も 族の中心であるわけです。自分の家の 子育 てを、或いは 時に 、 もう一つはやはり 一寺院の寺庭の中心であり 、寺 う問題でござい ます。さらに宗侶であり住職であると同 どういう後継者養成を していくのか 、し てきたのかとい いか 、 さらに私共の後を継ぐ後継者を養成していくのに 、 かということを振り返 って見なければならないのではな 職である私共が 、先代、先徳の意志をどう継いできたの き以前に 、まず、私共浄土宗の宗侶が 、宗侶であり 、住 思うんです。そういうこ と で私 は、布 教 師 と してあるべ 機相応に教化活動をしたのか 、こ ういう点じゃないかと しておりますごく一端を 、 三つの点に絞りまし て申し上 て実践を││拙い 実践ではございますが││教化活動を こと で、私、当面、ごく最近に体験いたしま した、そし 代に即応して考えなければならないのではないかという 教師と して どうあるべきなのかという ことが 、今日の時 お念仏の信仰 の喜びをどう伝道していく のか、 まさに布 上で 、浄土宗の布教師として 、 どう宗義を伝え 、或いは 点でございます。 それでは 、 そうではありますが 、その の関係もございますので 、私が特に一一 言いたいのはつぎの ことを 、まずご提言申し上げたいのでございます。時間 とが 、聞い直されなけ ればならないのではないかという 人として 、 一家庭人としてどうあるべきなのかというこ まず布教師である以前に 、 一人間 とし て、 一地域社会 占 μ 忘れてはならないのではないだろうか。さらに大きく私 げさせていただきます。 ば、 いかに元祖様の意志を 、どう受け継いで 、さ らに時 共は寺院のなかでは 、 一宗侶であり 、 一住職ではありま - 131ー お孫さん 、或いは曾孫さんもおいでになりまして 、 賑や 歳の息子さん夫婦が坐っておいでになる。隣の聞には 、 壇の真横にお爺さんは寝ておいでになる。両脇に五十五 めをさせていただいて 、そして後ろを向きますと 、 お仏 ておいでになった。たまたま私が 、 八月の十三日にお勤 に来ていただいて 、 一日に一度の治療を受けながら 、寝 いますので 、病院へも入院なさらずに自宅でお医者さん 舎のことでございますし 、八十九歳のお爺さんでもござ 言って 、寝られたわけでございますが 、そこのお家は田 ございます。実は七月の末頃から 、容体が悪くなったと で実は息を引き取られたという場面に出くわ したわけで ておいでになります八十九歳のお爺さんが 、私の目の前 家に寄せていただきました。そしたら 、私がお仏壇の前 で、 お勤めをさせていただいて 、 お勤めの後に 、横に寝 関西はお盆の最中でございますが 、 お盆の棚行にあるお まず一つは、実は今年の八月の十三日でございます。 かでも 、臨終の場面に出くわされた方はご存じだと思い ッ !と息を吹き返されたわけであります。皆さん方のな 息がやがて切れていきまして 、暫くしましたら 、またフ 待っておりましたが 、 当然もう間にあいませんですね。 聞がかかるけれども 、 そのうちに参りますという連絡で どのお医者さんはおられないですね。ですからすこし時 れども 、 八月の十三日というのは 、ご存じのように殆ん 医者さんに連絡を しなさい。お医者さんに連絡をしたけ お爺さんの居に含ませてあげる。そしてお婆さんに 、 お て来られる。そ して一人ひとり替わるがわる末期の水を お水と 、 そして脱脂綿をそのなかに含ませてすっと持っ せん で す ね 。 │ │ 隣で控えていた孫娘さんが 、 お茶碗に ですが ーー に、末期の水を持って来なさい。 │ │一言えま 自分 の息子のお嫁さん││お爺さんにとっては孫嫁さん けでございます。端においでになりま した五十五歳の息 静かに目を閉じられる。 口も同時に呼吸しなくなったわ ます。そうしましたら 、実 は半月ぶりに目をパッと大き 私、その八十九歳のお爺さんに語りかけたのでござい しそれは 一回だけの息でございまして 、 また静かに唐を 大脳の命令で息を吹き返すように見えるんですね。しか ますけれども 、心臓が止まりま しても 、暫くするとまた 子さんは 、決して慌てず 、 騒がず 、隣の部屋におられた かな日でございました。 く開けま して、 そして私の顔をじっと見ま してそれから -1 3 2ー 私は傍らで静かにお念仏をお唱え しな がら 、まさに臨 ら、ご臨終でございますと静かに言うのだそうですが、 出るんだそうです。その二回目の息が出終わりましてか の命令を受けまして 、心 臓が止まりました後もまた息が 終の場面での僧侶の在りかたというものが 、深く問われ そういうことも後で知ったわけでございます。 閉じられます。 ているとい う気守かしたわけでござい ます。暫く しますと、 そういう場面に出くわしまして、お爺さんに 語りかけ 、 実は私が 、こ のような話しを申し上げておりますのは 、 それが最後でございました。これは後で聞いたことです そしてその側におられます息子さん達ご夫妻、 或いはお もう一度息が出ましたですね。二度息が出るんですね。 が 、 駆け出しのお医者さんの場合は、一回目の息が切れ 孫さん達に語りかけていく時に 、本当にお爺さんが亡く なっていくわけでございまずから 、本当に極楽に行くん だぞという自分の信心が 、本当に確立していないと 、な H 死 μに かなか言えないとい うことでございます。浄土宗の宗侶 、 布教師である以前に、まず自分の信仰が、特に 関わります信仰の確立が 、 お浄土の信心が 、自分の心の 内に本当に成っているのかどうかということが、そうい う臨終に臨んだ場面に出くわした時にですね 、 問われて いるということを改めて感じたわけでございます。実は 八月の十 三 日に、そ ういうような極め てドラマティック な場面に出くわしまして 、恐らく私は終生そういう場面 に出くわすことがないだろうと思っております。たまた まそこのお家は 、隣の部屋でお爺さんを寝かさないで 、 -133ー た時に、ご臨終だとは言わないのだそうです。実は大脳 角出銭堂上人 仏間で寝かせなければならないような、お家の構造の状 し上げたわけでございます。 ないのではないかということを、 一つ考えておるので申 でございました。最後の文章が、極めて私共の心を撃ち うに受けて、説法しないのか。﹂という奮起を促す文章 めて厳粛なる事実なんだ。それを真正面からどういうふ 死そのものを忘れがちじゃないか、死というものは、極 載せておられました。そのなかで、﹁目先に走りがちで、 死 u についての意見を するのかということが、これは布教師ならずとも、いろ する、お話しを感動をも って伝えていく 、お話しを . と う す 9 今日いろいろなお仕事のなかでも、お話しを上手に とは、誰しも否定すること ができないと思うのでありま というものが、ちゃんと有効な働きをしているというこ いますけれども、しかしそのなかで、お話しによる説法 なさると思います。まさに教化は三業の説法であると思 二つ目の点は、布教師として教化活動を、様々な形で 況もありました。 八月の十七日でございましたでしょうか、 ﹃中 日新聞﹄ ましたので、ご紹介申し上げたいと思います。それは、 んな産業界、職業におきましても、とても大事なことと H ある本から引用されまして、﹁神主は 、死を不吉だとお して、言われているわけでございます。それは言い換え に百万遍の知恩寺のご法主が 、 被いをして通る、僧侶は、まだ死んでいないから自分の るならば、お話しを上手になさる人が少なくなってきた しかもそのお話しのなかで、もう一つ大事なことは、 仕事ではないとして通り、神父と牧師は 、神学論争に忙 という提言を示されていたわけであります。改めて ﹁布 今日の社会のなかで 、い ろんな 、例え ば視聴覚機器など という、そういう一つの背景があるのじゃないかと思い 教師はこれでいいのか ﹂と問われた時に、三祖様の臨終 を使用した、総合的、立体的な説法の仕方もあっていい しくて見過ごし、学者や教師は、未だ沢山でないからと の行儀もございますけれども 、まさに臨 終の行儀が 、自 んじゃないか。例えば一つの例を上げますと、落語家に ます。 信をもってやれる、そういう信仰が本当に確立されてい おきましても、本来扇子一本でもって、話芸のいきをつ 考えて通り過ぎているというところがないだろうか。﹂ るのかどうかということが、改めて問われなければなら -134ー くしたところが中心だと言われているのが、落語家のお のではないかというふうに考えております。 す。かつては浪曲師はここで捻るだけだったけれども、 ていると思います。或いは浪曲師だってそうだと思いま みながら、落語の説法を極めて立体的になさる努力をし 音と、そして自に映るいろいろな情景をそのなかで仕組 人でさえ、耳だけは聞こえている。耳だけは聞こえてい もできない、注射一本で一週間あまりを過ごしている老 終に際しまして 、ほとんど 意識がなくなって食べること 先程申しました、臨終に際しました老人の方でさえ、臨 とても大 事にされなければならないと思っ ております。 といっても口称念仏、お念仏を称えるというところが、 最後の三つ目の点でございますが、私は浄土宗は、何 今は例えば、演台の横で簡単なお芝居をしてみせたり、 るからこそ、語りかけに対して答えてくれたんじゃない 話しでございました。その落語家だって最近は、光と、 いろんなことをミックスさせながらなさっている。私ど かなと私は思っているのです。まさに口称念仏、お念仏 て有効な働きをしていくのではないかということを、改 も布教の立場もそうあっていいんじゃないかと、今回の めて感ずるわけでありますが、お念仏がなかなかロにつ この教学布教大会のなかで、例えば第五部会のなかで、 を、実践を通してご提示なさっておられたようでありま いて出ないというのが、実は現代人の一つの特徴でござ を声に出して言えるからこそ、お念仏がまさに死に際し すが、そういうようなことをもっとオープンにいろいろ います。それで私は実は、あることを思いつきまして、 四国 の村中上人が 、視聴覚機材を使った布教の在りかた と研究しあう機会があっていいのではないか。特に私は 檀家さん││八十数戸の檀家さんですが││あることを それは、信仰の一生の証として、一定の期間、百万遍 浄土宗の布教師ならずとも、すべて布教師はそうだと思 のお念仏を称えた記録をお作りになってはどうですかと 相談してやって下さいと申しました 。 たが、なかなか交流できないで、それぞれまず一人ひと うのでありますが、自分の得意のネタをなかなか人に明 りが努力をしている。それも非常に重要なことだと思う いうことを提言申し上げたんです。今どき忙しい時に、 かそうとしないですね。それぞれ具体的な説法の在りか のでありますが、もっと組織的な取り組みもあっていい -135- した。どういうことかと申しますと 、 ここに持ってきて 大変なことだと思うのでありますが 、あえて申し上げま 百万遍のお念仏を一定の期間続けて称えるということは 、 十一人の方がそれに応じてくれました。殆どが年老いた 、 渡しし 、もとの方はお寺へ奉納していただいたわけです。 るように 、また別の完成しましたものを造りまして 、 お 全部で五百のO を作りまして 、 その五百のO で五重の塔 えましたら 、 一つのOを墨で塗りつぶすというこ と で、 のももどかしく 、 一日大体三時間ぐらいやった と いうこ れました。三月間殆んどテレピも見ず、 夕御飯を食べる 六十代から九十代までのお爺さんやお婆さんであります が、 大変特急でなさった方は 、 三ヶ月ぐらいでやっ てく おりますが 、O を二千作りまして 、 二千遍のお念仏を称 を造ったわけでございます。そし て二千遍のお念 仏 はど と です。それを三 月間続けました。あるお家のお婆さん は、O を塗りつぶすのを孫に助けてもらって 、家族ぐる うし てできるのかといいますと 、普通の早さ で約三 十分 程かかるでしょう。少し早口に言えば二十分ぐらいで言 みで助けてもらってやった。そういうことを聞きまし て 、 おりま す。たとえ一遍のお念仏であっても往生できるわ ぽつぽつ増えてきております。もちろんお念仏はただ数 れぞれに応じてなさって下さい 、 ということを申しまし て、 いろいろとお金で買えるものはあるけれども 、信仰 けでありますけれども 、百万遍のお念仏にもまた意義が えると思います。特急でお念仏を申しますと 、 十五分ぐ の証として何か残してあげるものはないだろう かと、 い あるわけです。一日二千遍をお称えいたしましでも 、 五 らいでいけるかもわかりませんが 、 そこのところは 、そ っぺん 亡くなるまでに百万遍のお念仏を称えて下さいよ 百日かかりまずからね 、計算からしますと一年半かかる そうしましたら 、 一年半かかりまして 、現在十一人の れを通しまし て教化が間接的になされていることを感じ わけです。たいへんなことなんですよ。ご家族の方もそ を称えればいいということではないことはよく分かっ て と申し上げたわけでございます。 方が完成をしてくれたわけです。完成してくれた方に対 ております。 私は今回の﹁三上人のご事蹟をあおいで │布教師はこ してはどうしているかといいますと 、百万遍のお念仏を 称えた証として 、表具を施して家の宝として残 して おけ - 13 6- げたわけでございます。どうも失礼を致しました。 えていく道ではないだろうかというふうに考えて申し上 ぞれの場で努力をしていくことが 、 三上人のご遠忌に応 してこれでいいとは思 っていないけれども、精一杯それ し上げました 。 私自身 は こう してやっておりますし 、決 たわけでありますが 、 普段考えておりますことを特に申 れでいいのか│﹂ということで 、意見を述べろと言われ いうと 、こ れでいいことはございません。 しかし、い ろ いと思うのでございますが 、布教師はこれでいいのかと ということは、誠に私も人の後についてあおいでいきた それからもう一つ、このコニ上人のご事蹟をあおいで﹂ る教師即布教師であるということの確認を受けました。 ので、実は私 、 教学局の方へ葉書を書きまして、いわゆ 実はこのテ l マを頂きまして 、 発表せよということな いろな社会情勢なり 、新興宗教とか 、 いろいろな問題が ﹁たいちまんしん ﹂ という所でございまして 、 ﹁まことに ということでございます。それは法然上人のご法語の を読 ませていただきまして 、 それが私のだいたいの結論 しい念仏行者が、地域のなかでお寺を 護 り、また本当に ないだけであって 、浄土宗一宗のなかで、もっと 素 晴ら 専一されている方が 、 多 々 あ る の で は な い か 。 私 が 知 ら │ │寺檀関係の是非は別にしまして││いわゆる教化に ありますが 、各寺院がそれぞれ戦線恐々として 、護持し 、 念仏を行じて、げにげにしき念仏者になりぬれば 、 よろ 血を吐くような思いで念仏をお伝えなさっておるのでは 始めに ﹃勅修御伝 ﹄ のなかでの 、法然様のご法語 ず の人をみるに 、 みな我が心には劣りて 、浅敷しくわろ 例えば源智様の評価が 突 は そ う で ご ざ い ま し て 、 ﹃勅 ないか。そういうことを私はまずお 尋 ねのなかに申した 心 、 よ く よ く 謹 む べ き こ と な り。 世 も ひ ろ く 、 人 も 多 け 修御伝 ﹄ によりますと 、源智様は 、 世間的にはさしたる ければ、我が身のよきままに、我はゆゆしき念仏者にて れば、山の奥、林のなかに簡もり居て、人にも知られぬ 教化活動はされておらなか ったということでして、法談 のでございます。 念仏者の尊く目出たき、さす が に多くあるを 、 我が聞か などをなされますと 、 五J 六人の信者さんが来られます もあるものかな 、誰々にも勝れたりとおもうなり。この 岡 ず知らずにてこそあれ 。﹂(﹃勅修御伝 ﹄巻一一一)です。 -1 3 7ー 西 仏交名を集められたという 、非常な報恩行、念仏弘通の 誠に法然上人滅後 、 一年たらずの聞に五万人におよぶ念 ご存知のように玉桂寺の阿弥陀如来造立願文が発見され 、 非常に消極的な方であったという評価。ところが実は 、 と、魔縁が来るということで止められたというように 、 います。 たんだなあということが 、痛切に感じられたわけでござ 達に念仏を広めていけという思いが 、本堂の建物になっ 念仏の行を通じて、少なくとも 、縁をいただく信者さん 一克祖法然上人様の﹁只一 向に念仏すベし ﹂という、その ことで、本堂の屋根替えをしたわけでございます。それ いますが 、ちょうど二年前に 、大きな法要を営むという かと思うのでございます。私の寺のことを申すのでござ ことが、まず一番お互いに問い返してみるべきではない に寺院住職としての喜びの日暮らしをしているかという いますが││師弟を養育しております。そのなかで本当 これからお寺を護るつぎの││一番近いのは師弟でござ なりは違いますが 、 お寺を護っております。それから 、 まず私が言いたいことは、たまたま私達も 、大なり小 おりました。それがガツンと頭を撃たれたのは 、 父の臨 学に学びまして 、さしたることもせずに他の仕事もして ゴラでございましたので 、 ただのほほんとして 、例教大 今の寺を継ぎました。その後私が生まれました。私はラ のですか 、ある寺へ弟子に入って 、弟子生活の経験の後、 その私の父は、百姓の長男であって、食い減らしという 理屈抜きに信じたいと私は力説しているのでございます。 見せてくれましたので、本当に往生浄土ということは 、 をされましたが 、私も私の父が臨終行儀を限のあたりに ││先程、私の先輩である角出上人が 、臨終行儀の話し 特に私の場合は 、自分の父が、私を念仏に引き入れた 以後、毎日 、毎朝、毎夕ですね 、本堂の棟をあおぎまし 終行儀でございました。そしてそれ以後ですね 、 二十六 方であったという。つまり 、評価が逆転したわけです。 て、私 の寺の開 山上人は、この七間半の本堂をどういう そういうなかで 、開山上人なり 、歴代上人なり 、また 歳で住職になったのです。 三代、中興と伝わりまして 、私に伝わってきた。開山上 私の父なりが、どういう思いで寺を護り 、││いわゆる 思いで建てられたか。そしてそれが連綿として 、 二代、 人を始め 、歴代上人の思い 、それは 何 かというと 、実に -1 3 8ー まいりました。そしてその伝えられた念仏が 、今やっと 祖 、 三祖ならびに源智上人によってですね 、伝えられて 然上人様の 、﹁只一向に念仏すべし﹂という想いが 、 二 三上人のご事蹟をあおぐということであります。元祖法 の思いを毎日私に問いかけ問いかけ 、し かもこの度は 、 ん達にどのような苦心をして念仏を広めたかということ 寺を護るということは 、形ではございませんで 、信者さ ら布教師はこれで良いかという答えは 、布教師はこれで する。これこそですね 、ごく当然な答えであって 、だか またそしてその念仏を通じて檀信徒の教化 、 伝道に遁進 しかございません。只一向に念仏する私で在りたいし 、 は決まってまいります。只一向に念仏すベし 、 もうこれ 返してみて 、何をなすべきか 、 そうするとおのずと答え いうものがあるんです。そういう思いを今一度私は思い を護っております以上は、開山上人、歴代上人の思いと はいけません。いけませんがしかしまた 、半ば肯定して いるんです。私のこれは甘さでございましょうが。 そして二代、 三代とずっと伝わってまいりまして 、私 の寺も二十九代でございます。そのなかで一番大事なこ とは 、例えば六十一年五月の ﹃ 浄土宗報 ﹄ に、一般浄土 宗の寺院が七千八十一ケ寺有りまして 、千八百ケ寺が無 住です。それで寺院の後継者というものの 、相談室が昨 年の十一月に開設されました 。 良き法嗣との出会い 、良 き寺院との出会いという、いわゆる念仏信者をつくると いうことは 、例えば千本北大路の街頭に立ちまして 、念 仏を勧めるということも大事です。しかしまず一番 、自 分の寺に縁がある檀家さんにですね、念仏の真価とレう -1 3 9ー 私の口から出てまいります。そういうことがすべて寺院 西岡信孝上人 ことですか、もしくは殆んど念仏をしない方にも、念仏の だきますと、そういう形だけの檀家さんの付き合いでは に受け取られるかもしれませんが。私の先代の父の時代 これは自分の信心を変えて逆に棚上げしてというふう いう、 そういう意識化というものが大事だと思うのです。 おるかということ 、そして私は寺院住職のプロであると 供達に伝えていく。そのためには、本当に念仏を喜んで 浄土へ行かれるのである。それでいいのか。そしてもう ご本願の念仏そのもののお力によって 、 お父さんは極楽 んを極楽浄土へ送るわけではございません。阿弥陀様の が、念仏の行であります。別に私の力によって 、 お父さ 極楽浄土へ 、 このお父さんを往生させていただく尊い行 来い、お葬式に来いというのなら来ます。ただしその時 は、 私は念仏を申すと。念仏というのは、阿弥陀如来の ないのです。私が、枕経も唱え、もしも明日 、お通夜に でございます。そうすると父の話しの悪口になるのです ひとつは 、あなた自身が本当にこれで今生の別れでいい のか 、 信じようが 、信じまいが 、それは勝手ではあるが 、 機縁を深めることです。そのためにはやはり寺院のなか で、念仏を喜び 、そしてその姿を時代を背負っていく子 が、檀家さんのある方が 、三十年来別の信仰をされてお た人は一切認めないという主義でございましたので、檀 こで会うという、そういう喜びがあって 、 日々日暮らし 私は先代の父を送って、やがてそこで 、倶会一処、またそ りました。私の代になってからも 、 そういう信心に走っ をしておるが、あなたはどうかと。あなたの今後の信心 のなかで、念仏を行じてそしてその念仏によって送られ ちらの方から放棄したのです。それが昨年父が死んだと いう連絡をいただきまして、枕経に行きました。息子や た父と再会することを、楽しみとして日暮らしをしてい 家名簿からも削除いたしましたし、一切の付き合いをこ 兄弟がおりまして、親族は帰っておりましたが、どうする の信仰は別であって、儀式、形態だけは従来どうりして 的に 、代々お寺の檀家であるから、お葬式の時は 、普段 こでまた浪々と念仏の信心を持ってもらわなくては困る その翌日、二組みの夫婦がそろって参りましたので 、そ くのかどうかと。そういうことの合点が分からなかった ら、葬式に行かないし、お通夜も行かないといいました。 のかと。私を住職として呼んだのか 、それは一種の儀礼 ほしいということでするのであれば、私は退かせていた -140ー こっちへ帰ってきたかなぁと思うのでございます。 っておるのですが 、私の見ている範囲内では 、ま あまあ ということをお話しをしました。それから半年以上にな 切に思います。だから私は 、布教師はこれで良いかとい が、今私の口から出ていくのではないかということを痛 尚さん 達がおられるからこそ、八百年にも及 ぶ念 仏の 芦 そういうことで 、 三上人のご事蹟はいろいろとござい うと 、良くはございませんし 、また 良いのでございます。 に多岐にわたりまして 、し かもお互いが深くプ ロ意識に ますが 、私 の感じ ているなか で、例 えば 、 二祖上人の念 そういうことで 、ある程度狂信的といいますか 、 プロ 燃えております。そのなかで、私達はオ l ル ・ マイティ 死念仏という教えです。やはり、先程角出上人も申され そういうことを私は問たかったので、実は教学局に文章 ではございません。全て何もかも全部はできませんが 、 ましたけれども、往生浄土というこ と を、本当に信じて 、 意識というものが大事であって 、つ ぎの時代を背負う宗 こと念仏を弘通するということにおいては、そ し て自行 そして力説してですね 、こ れだけはバックできないとい を出しますと、手紙が郵送されまして、お盆の忙しい聞 策励ということにおいては 、 人後に落ちないというもの うことです。特に現代世相に 、迎合という言葉を使用す 門人を形成していくのだと思います。だんだんと社会が、 を持たなくてはなりません 。お寺に住む ということは、 ると酷でございますが 、時機相応ということで 、法はや にお返事をいただいたわけです。 実は阿弥陀様の下僕でありまし て、阿弥陀様にお仕えを はりお念仏の信 仰 の │ │ l 私の受け取り方が浅いかもしれ 学聞が進み、プロ化が進んでおります。専門分野が非常 するという、お仏飯をいただくというこの姿勢が 、私 は ませんが 、 二本立てといたしまして、ひとつは無常感で いうことの徹底が 、今時忘れられておりまして 、皆お互 大事だろうと思います。そういう方が 、 この併教大学の 私は三上人の事蹟を偲びつつ、 お寺を 、それこそ山の い死ぬであろうと 、そしてその死に対する 、 いわゆる臨 あり 、 ひとつは罪悪感であります。それで無常であると 奥の 、海辺の所で 、 こういう所へ聴聞されなくても、黙 終ということの尊さということ 、そしてその死に際とい 外に沢山 おられます。 々と 、そして本当にプロ意識を出して護っておられる和 -1 4 1- 身をもって説くべきだと思います。 おると思うのでございますが、そういうことをもっと自 うことは、即、生活をどうするのかということになって したが、ご静聴ありがとうございました 。 と思うのでございます。誠につまらない話しでございま うのが 、実は三 上人の事蹟を偲ぶという一面であろうか そしてやはり罪悪感についてですが 、実は私は昨日 、 奈良の少年刑務所の方へ教義の仕事で行って、皆さん方 は悪人であって 、私 は外から来て善人であるというのは 、 教諺の仕事ではございません。外に櫨は造っ てお ります が、私達も実は大きな櫨のなかに入っておるのです。そ -142ー のなかでお互い共々が 、罪悪でありながらしかも 、 お互 いが許されて生かされているのです。そういうなかで 、 あの少年達の善心を信じて、そしてその善心を信じると いうことは、我が自らの罪悪というものを 、 もっと徹底 した、頭を下げて下げて上がらないというような、そこ から実は御仏の救いが 、現実に私を包み 、 そしてまた死 なば浄土へということです。そういうものを徹底して 、 私達は本当に力説していく時であろうと思うのでござい ますが 、時機相応というのは、確かに手段的にはいろい ろと考えられますが 、法は一切曲げないで 、 念仏信仰の なかの生死罪悪と無常のなかに 、居ながらにあって 、今 現実に私の口から念仏が出てくるという道筋を喜ぶとい 風間文雄上人 司会 輪読会報告 口語訳末代念仏授手印 一、訳出にあたっての底本は浄土宗全書所収本である。 略符号 て 本 書 は 本 来、章わけをしていないが 、便宜的に六章にわけ 、各章ごとに注をつけた。 、 一 大 正 ・ ・ ・ 大正新修大蔵経 ・ ・ (例)大正四七 ・四三九 a:::大正新修大蔵経第四七巻四三九頁上段 浄全・・・・・・浄土宗全書 ( 例)浄全四 ・三五五下:::浄土宗全書第四巻三五五頁下段 ﹃観無量寿 経﹄ ﹃ 観経﹄:・・ ・ ・ ﹃観経疏﹄:・・・・﹃観無量寿経疏﹄ 大乗仏教をつきつめれば浄土円であり 、 諸の行でも往生はするが 、 (阿弥陀仏の)み名を称えることが(往生のためには最も)勝れている。 私はすべての行を聞いて 、 (阿弥陀)仏のみ名を(称えることを)選び 、 浄土に往生して 、(阿弥陀仏の)尊体を見たてまつらん。 念仏を数多くとなえることが基本である。念仏とは 、昔、法蔵菩薩が(衆生を救済するために)大悲心をおこ した 誓願 の筏であり 、今では覚を聞いて自在となった阿弥陀仏が 、広く衆生を救済するための船である。これはすなわち(法蔵) たのもまこと 菩薩が 、衆生を 利益するとの約束であり 、 これはすなわち(阿弥陀)如来が 、 平等に衆生を利益するとの誠の言葉であ る。なんと懇しいことか、なんと真なることか。 も てあそ (4 ﹀ (5 ゆえに(源空上人の)弟子(弁阿)は 、品目は天台宗に属し 、 (法華)円乗の教えの水に浴していた。しか し今は浄土 ﹀ の金色の池を望んで 、(池に映る)念仏の明月を翫ぶのである。ここをもって天台宗の四教 ・三観の明鏡は、相伝を 証真法師より受け、浄土宗の三心 ・五念の宝玉は、票承を源空上人に伝えていただいた。幸なるかな 、弁阿は 、 血脈を - 14 5ー 末代念仏授手印 ハ 2﹀すみか 作者弁 阿 おもいみれば、九品(の人が往生する浄土)を宿とするには 、称名念仏が先決であり、極楽の八池を棲とするには 、 序 (叩﹀ たも 白骨に留め、口伝を耳底に納めている。たしかに口に唱えるところの(念仏)は、五万、六万遍であり、誠に心に持つ ところは、四修・三心である。これによって自行に専念するときは、ロ称念仏を数多く修することを正行となし、他人 を教化するときは 、 称名念仏の多念相続が 、浄土往生の業であると教えている。 しかしながら源空上人が往生されたのち、その教えの意義について水火のように誇い、議論を蘭菊のように競ったが、 よわ L かえって念仏の行を失ってしまい 、 空しく浄土往生の業を廃してしまった。まことに悲 しいかな 。どうすれば よいのだ ︿ u v ろう。私は齢すでに七十歳に及び、余命もいくばくもない。悩むことなく、愁えることもなく、空しくこのままでいる ことがどうしてできようか。これにより肥州白河川の辺の往生院の内において、二十有余の人達と結束して、四十八の すた -146一 日夜を限って、別時念仏の浄業を修し、如法の念仏を勤める。この別時の期間中に、いたずらに称名の行が失われるこ とを悩み 、空しく正行の勤めが廃れることを悲しみ 、かつは 師である法然上人の恩に報いるため 、かつは念仏 興隆のた あかし め、弟子(である私)が背(師より)聞いたことに任せ 、沙門の相伝によって 、これ を記録して留めて 、後の世に贈る (3) (5) (6) 天台宗の観法で 、空観 ・仮観・中観をいう。 十二世紀末の天台宗の僧で、宝地房証真という。弁 円乗円満無欠の教えのこと。とくに声関乗・縁覚乗・仏 乗の三乗の中の 、仏乗をさす。天台宗では﹃法華経﹄にもとづ く一仏乗の教えをいう。 (4) 四教天台宗の教相判釈で 、化法の四教(蔵教 ・通教 ・別 不定教)をさ 教 ・円教)と化儀の四教(頓教 ・漸教・秘密教 ・ す 。 のである。すなわち末代の(人々の﹀疑 問を解決するために、未来 の (人々への)証として備えるために、手印をもっ て証となして筆記するところは、左記のとおりである。 注 (1﹀九品浄土に往生する人を 、その人の資質によって九種類 に分類する。上から上口問上生、上品中生、上品下生、中 口問上生、 中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生の九種で ある 。 ﹃ 観無盆寿経﹄に典拠がある。 (2) 入池極楽浄土にある八功徳水の池。 ﹃ 阿弥陀経﹄に﹁極 楽園土有ニ七宝池一八功徳水充ニ 満其中乙(大正十二 ・三四六 C J三四七 a、浄全一・五一一﹀ 証三 真観 菓承弟子が師匠から指図をうけること。 一二心至誠心 ・深心 ・回向発願心の三で、第三章参照のこ 阿は比叡山の東塔東谷の証真に六年間師事している。 (8) (7) 長 ﹄ 。 (9 ﹀ 五念 五念門のこと。礼拝門・讃歎門 ・観察門 ・作願門 末代念仏授手印 五種 正行のこと 回向門の五で 、第四章参照のこと。 (叩山﹀四修恭敬修 ・無余修 ・無間修・長時修の四で 、第五章参 照のこと。 ( 日﹀往生院無量山泰安寺で 、現在は熊本市池田町にある。寺 宝に弁阿自筆の﹃末代念仏授手印﹄がある。 、 浄土一宗の行を修すべきであり 、その首尾次第条条の こと 。 末代の念仏をする者は 、浄土宗の義を知り て 第一章 一、読諦正行のこと 広くは通じて(浄土)三部経を読請すべきであり 、 別して略しては﹃阿弥陀経﹄を読請すべきである。(なぜならば) この理由による。(法然)上人の在世のときは、﹃阿弥陀経﹄を一日に一一一巻これを読請したのである。呉(御﹀音で一部 、 和音で一部 、唐音で一部。 二、観察正行のこと 行 者 の 根 機 に よ っ て 観 門 の 広 と 略 と を 行 ず べ き で あ る 。 ( 広 く は ) も し ﹃ 観 経 ﹄ に よ る な ら ば 、 十三種の観を用いる べきであり 、もし(善導の)﹃観念法門﹄によるならば 、総相観と別相観の二観を用いるべきであり 、 もし恵心僧都源 信先徳の ﹃ 往生要集﹄によるならば 、 略して一一一種(総相観 ・別相観 ・雑略観)の観の中の一観を用いるべきである。そ -1 4 7ー の(選択の)意趣は行者の志に任す。 三、 礼 拝 正 行 の こ と 礼拝に 、 上 中 下 が あ り 、行 者 の 根 機 に よ る べ き で あ る 。 た だ し 多 く は 下 根 の 礼 拝 を 用 い る 。 昔 、 法 然 上 人 在 世 の と き 、 往口 』 主 生称 の正 念t 行 いの 志と し をこ 口には南無阿弥陀仏と称す。 するかは)行者の根機によるべきである。 注 (1﹀五種正行往生の因となる五つの正しい行ない。典拠は善 導の﹃観経疏﹄巻四散善義、就行立信釈﹁次就 ν 行立 ν 信者、然 行有三一種一一者正行、二者雑行、言ニ正行-者、専依ニ往生経行者是名ニ正行一何者是也 、 一心専読コ 諦此観経弥陀経無量 行ν O 一下) よみ候き。一巻は唐、 一巻は呉、 一巻は訓なり。﹂(浄全九 ・六 然上人のの給はく。源空も念仏の外に 、毎日に阿弥陀経を三巻 (2) 正﹂(大正三七 ・二七二 a、浄全二 ・五人b﹀ 供養、是名為 ν ﹃ 和語灯録﹄巻五﹁諸人伝説の詞﹂﹁隆寛律師のいはく。法 専礼二彼仏↓若ロ称即一心専称ニ彼仏↓若讃歎供養即一心専讃歎 お よ そ 五 種 の 正 行 は 以 上 の 通 り で あ る 。 た だ し 一 人 が 全 て の 五 種 を 行 じ 、も し く は 一 種 二 種、 も し く は 三 種 四 種 ( を もしくは 、 二 行 と な す べ き で あ ろ う 。 す な わ ち 、 一には讃歎正行 、 こには供養正行。 五、讃 歎 供 養 正 行 の こ と 心 私 に 教 示 し て い わ れ た 。 宇 治 の あ た り に 住 ん で い た 行 者 が い て 、 坐 り な が ら 礼 拝 を 修 し て 、 ついに往生を得おわったと。 、 に四 寿経等一一心専注恩司想観ヨ察憶圃念彼国二報荘厳一芳礼即一心 - 14 8ー d こころ 正行助行、 二 行 分 別 の こ と 全四 ・ 二 二三下) 往生要集﹄﹁第四観察門者、初心 観行不 v 堪ニ深奥一如ニ十 (5﹀ ﹃ 住毘婆沙云一新発意菩薩先念ニ仏色相一又諸経中為-一初心人一多 説ニ相好功徳一是故今当 修-邑相観↓此分為ムニ 、 一別相観、ニ ν 之﹂(浄全十五・七九上﹀ 総想観、三雑略観、随ニ意楽-応 ν 用v 会釈とす(浄全一 0 ・四O四下)。 (6﹀ ﹃ 浄土宗名目問答﹄上に 、上は五体投地、中は長脆、下 は 心には三心をそなえ、口には南無阿弥陀仏と称えるのである。この浄土宗の意は、この行を第一の行とする。善導の 一、正行のこと 第二章 観無量寿経 正宗分に説かれる十六想観の中、前十=一観。 (3﹀ ﹃ ﹄ 付日想鋭、同水想観、 HW 宝地観、伺宝樹観、伺宝池観、円宝後 観、同肇座観、円像想鋭、帥真身観、制観音観、白勢至観、白 普観、国雑想観。 (4﹀ ﹃ 観念法門﹄の﹁依観経明観仏三味法﹂には 、﹃ 観経﹄と﹃観 仏三味海経﹄を取り上げ観仏の方法を説き、別に﹁又白行者欲 生浄土唯須持戒仏語弥陀経﹂とある。(大正四七 ・ 二 b、浄 二 一 み 一心に専ら阿弥陀仏の名号を念じ 、行住坐臥に時 間の長短に関係なく 、片 時 も 忘 れ ず 御意は、釈迦牟尼仏、阿弥陀仏(二尊﹀の御意を探って、種種の往生行の中において、この口称の一行こそ、最もすぐ れた第一の行とした。 ﹃観経疏﹄散善義の)文には、 ( (1 ) に(阿弥陀 仏の名 号 を 念 ず る こ と を ) 捨 てないこと、これを正し く往生が 定 ま る 行 為 と名 づ け る 。 な ぜ な ら か の 阿 弥 陀 仏の本願にかなっているからである、と説かれている。 (法然)上人は言われた。 観経疏 ﹄ の ) こ の 文 を 見 る こ と が で き た 後 は 、 今 ま で 行 な っ て き た さ ま ざ ま な 行 を 捨 て 、 ﹃ ( 一向に専ら念仏を修する身となった、と。 この文について種種の義がある。 -149- 一には 、﹃観経﹄が説く三心の中の深心がこれでふり的。 こには 、(世親の﹀﹃往生論﹄に五念門を説いている中の口業讃歎門がこれである。この﹃往生論﹄にいう。どのよう に讃歎するのか。 口業によって讃歎するのである。かの阿弥陀如来の名を称える、云云という文である。 三には 、 四修の中で 、四修に全てロ称の意味があるが 、 その中において口称は無間修の意味である。 四には 、 三種行儀の中のどの行儀にも通じているが 、特にこれは尋常行儀の意味である。 五には、(竜樹の ﹃十住昆婆沙論﹄が説く)難易二道の中の易行道の意味である。 二、助 行 の こ と さきの五種の正行の中で、 ロ称以外の四種は 、 ロ称のための助行となる。ゆえに正行と助行を兼行する人は 、 ロ称を 二者深心 、三者回向発願心﹂(大正一二 ・三四四 c、浄全一 ・ 四六) (3) 世親(天親)﹃ 往生論﹄﹁ 善男子善女 人修ニ五念門↓行成就 畢寛得下生ニ安楽園土-見込依阿弥陀仏 U何等五念門、一者礼拝門、 二者讃歎門、三者作願門、四者観察門、五者団向門﹂(大正二 六 ・ 一 一 一 一 一 一 b、浄全一 ・一九一二) 正行とし、 のこりの四行を傍行とする。また口称の一行だけを往生の行となし 、助行を行なわない人もいる。 注 (2) 念 仏 の 行 者 は 、 必 ず 三 心を そ な え る べ き の こ と (1﹀ 善導﹃観経疏﹄巻四散善義 ﹁一心専念ニ弥陀名号一行住坐 臥不 v 問ニ時節久近﹁念念不 v 捨者、是名ニ正定之業﹁順ニ彼仏願故﹂(大正三七 ・二七二 b、浄全二 ・五人下) ﹃観経﹄ ﹁仏告ニ阿難及章提希 ↓上品上生者、若有ニ衆生一願 v 生ニ彼国-者、発二二種心一即使往生、何等為 v 三、 一者至誠心 、 第三章 ﹃観経﹄には 、 -150ー 三種類の心を発して、すなわち、往生する。三心をそなえた者は、必ずかの極楽浄土に生れる、と説かれている。 ﹃往生礼讃﹄には 、 ハ 2 ﹀ この三心をそなえれば、必ず往生することができる。もし(三心の中の﹀ 一心でも欠いたならば(かの固に)往生す ることはできない、と説いている。 ﹃観経疏﹄の第四には、 決定して三心は、正しく理解すれば、(往生の)正しい原因であることを明らかにする 、と 説いている。 また(﹃観経疏﹄)には、 (4 ﹀ 三心をすでにそなえれば 、(往生の)行が成しとげられないということはない。(法蔵菩薩の)願と行は 、 す でに完成 5 ︿ ﹀ しているのであるから、往生しないという道理は、ありえない、と説いている。 ﹃観念法門 ﹄ には、 三心を内因とし、三力を外縁とする 、と 説いている。 (法然)上人の﹃選択集﹄には 、 (﹃観経疏﹄の)﹁念仏の行者は 、必ず 三心をそなえるべきである﹂の文を引用し解釈すれば 、引用文の三心とは 、こ じようようじえおん れは行者の要となるところである。極楽に生れたいと願う人は 、三心を完全にそな えるべきである 、と 説いている。 浄影寺の慧遠大師の﹃観経疏﹄には、 心を修する往生があり、その心に三種類ある。 一には誠心である。誠とは実のことで、行をおろそかにしないで、往 化も (7 ﹀ 生を求めるから誠心という。こには 、深心である。信じ、あつくねがって 、極楽浄土に往生したいと願う。三には 、固 向発願心である。ただ往生をもとめるのを願となし、 善行を持って往生を求めるのを回向となす、と説いている。 -151- 一、至誠心のこと 四句がある 。 一向虚仮心 外面は実(をよそおい)内面は虚の人で、 とができない 。 一向真実心 一向に偽り惑わし世を過ごす人である。この人は、全く、往生を得るこ 内面も外面もともに 実 の人。 この人は、浄土宗の行者であり、必ず往生を得る人である 。 虚実倶具心 半分実で、半分虚の人である。もしくは、往生できるかもしれないし、もしくは、往生できないかもしれない 。 こ の人は、往生が不確かな器量の人である。 非虚非実心 これは世間一般の(宗教に関心のない)人である。 また、念仏に入った後に四句がある 。 多虚少実 偽り惑わす心は多く、往生(にかなう)心は少い。全ぐ往生できない人である。 多実少虚 往生ハにかなう)心は多く、偽り惑わす心は少い。往生できる人もいる。 -152一 多少倶実 一向に至誠心の念仏者である。必ず往生できる人である。 多少倶虚 一向に 往生(にかなう)心のない人である。 また四句がある。 始虚終実、往生できる人である。 始実終虚、往生ができない人である。 始終倶実、必ず往生できる人である。 始終倶虚、全く往生ができない人である。 あらゆる教えにおいて、それぞれの教えごとに、虚と実の二心がある。これによって、念仏の教えにおいても、また (8) 虚と実の二心がある。今、善導 のみこころは、虚仮の心を捨て 、真実の心で 、念仏を行じて 往生を得ることである。こ れを至誠心と名づけるのである。 二、深心のこと 信心によって疑心を治す。 これに四句がある。 一向疑心 全く往生できない人である。もしくは一分は往生するのであろうか 、 いやできない。 -153ー 一向信心 必ず往生できる人である。 信疑倶心 往生が不確かな人である。もしくは往生できるかもしれないし、もしくは往生できないかもしれない。 非疑非信 一向に往生がない(世間一般の)人である。 また四句がある。 念仏の信仰に入った人についてである。 始疑終信 往生できる人である。 始信終疑 往生できない人である。念仏の信仰が退転する人である。 始終倶信 必ず往生できる人である。浄土宗で教えるところの念仏者である。 始終倶疑 全く往生できない人である。 問う。信心をそなえた人が縁にふれ事物に接するとき、もしくは愛欲の心をおこし、もしくは罪業を造った場合に、 自分の身の犯罪によって、自分の身を疑うことがあるとき、深心があるのであろうか 、 または深心がないのであろうか。 -154ー おも 答う。師僧はいわれた。深心をそなえた人は自分の罪業において、全くこれを疑わなくてもよい。仏弟子は本来罪業 を恐れ、悪縁をとおざけるべきである。このように修習しても、煩悩をそなえた凡夫であるから、念いのとおりにはな らない。これは自分の身の癖であり、これは凡夫の習いである。しばしば妄念をおこし罪業を犯すものである。しかし そこな ながら本来信心をそなえた人は、途中でしばらく妄念をおこしても、ふたたびまた信心に住するものである。前後の信 心によって、途中でおこした妄念は、信心を失うものではない。いわんやまた阿弥陀仏の本願の他力は、このような衆 生を引導して下さり、自他の犯罪において自他の念仏を疑つてはならない。ただし、あるいは聖道門の意により、ある おも いは浄土門の意により、念仏する人はもっとも罪を怖るるべきであり、悪を厭うべきである。罪を怖れ悪を厭ったうえ te -155ー で、念仏を修し、往生を欣求する問、諸悪の心、諸罪の念いがしばしば起りしばしば発動することは、本来煩悩をそな えた凡夫であれば、その力の及ぶところではない。ただ仏の本願力を信じて、固く本願往生の念仏を恵むべきである。 悪煩悩においては 、これを疑 うといえども、念仏の教えにおい ては、さらにこれを疑うべきではない。これを念仏 往生 というのである。 問う。至誠心をそなえた人が念仏のさ中に、急に偽り惑わす心が生れ、世間的な名利のために申す念仏に変わったと する。(このときその念仏は)往生の原因になるであろうか。 答う。もし悔い改めの心を起し 、そ のことがきっかけとなり 、 ふたたび至誠心に住したならば往生の原因となる。し かし悔い改めないならば、往生の原因とはならない。往生の原因になるならないは、その人の心の持ち方によるのであ が起ったとする。このときに申す念仏は自身のための住生の原因となるのであろうか、ならないのであろうか。 問う。至誠心に住している人が念仏を修している問、他人からの要請によって念仏を申しているとき、とらわれの心 る 。 答う。至誠心に住している人は、とらわれのこころを発して念仏を申したとしても往生できるのである。なぜならば、 たとえ念仏の中に、しばらくの間とらわれの心があろうとも、その前後の心は至誠心であるので往生することができる。 いわんや本当に至誠心に住している人は、必ず悔い改めの心を起し、再びまた至誠心に住することができる。それはこ のあとの教えに示す通りである。もともと至誠心に住している人が、他人の要請を受けたとき、とらわれの心を起こす べきではない。なぜならば至誠心に住して念仏を修し 、往生を志す人は 、大乗の行者 である。大乗 とは(仏道を )自ら 行じ、他人を教化することであり、これが菩薩の大乗の行なのである。この大乗の念仏をもって、自分と他人の往生の ための功徳を回向するべきである。これは第三番めの回向発願心の意味である。このような理由から、善導の﹃往生礼 讃﹄には﹁普ねく師僧父母とともに往生を得ん﹂といい、 ﹁願くはもろもろの人々と共に﹂と説いている。いわんや大 乗仏教の意は、初発心の行より、他人を教化した功徳を自らの功徳にすることを修習するのである。たとえ他人から要 請された念仏であろうとも 、 自 分 も他人もともに往生の原因を作ることになる。もしそうでなければ 、小乗仏教のかた ょった自利のみの過失を招くであろう。 問う。他人の要請を受け、あるいは自行の念仏のとき、意図的に美しい音声をととのえ、好ましい声をこしらえ、音 程、拍子をとり、音曲をいだして、まるで詠歌のように念仏を称え、舞遊のように高声に唱えることは、虚仮にならな いでしょうか。このときの念仏は至誠心をそなえているでしょうか。 答ぅ。至誠心に住している人ならば、このような念仏も結局は往生の原因になる。たとえその途中には声の調子をこ しらえることがあろうとも、その前後の心は至誠心に住しているからである。いわんや大乗の行者は、慈悲によって他 人を利益する心に住し、しかも聞法の人が往生できるようにするのである。この志がある人は自分も他人も共に、往生 の原因を作ることになる。だからもし往生を勧める心があり 、ある いはまた、聞法の人が念仏と縁が結ぼれるようにと -156ー の心があれば、たとえ詠歌のように念仏を称えても殊勝なことなのである。 ニ、回向発願心のこと 回向発願心によって、不回向心を治す。 回向とは、(願と)行とを兼ねそなえることである。 発願心とは、ただ願うだけである。 自分がなすところの善行によって、往生を得ょうと願う、これを回向という。いまだかつて善行をなすこともなく、 おこ ﹄﹄﹄﹄弘一, ただ心中にのみ往生を得ょうと願う、これを発願という。今、善導のみ意は、自分がなすところの正行と助行の二行に (U) よって、必ず往生できるとの心を発すことである。これを回向発願心と名づける。だから善導は(﹃ 観経疏﹄に)解釈 して、願と行がすでに成就したのに、往生できないというならば、このような道理はありえない、と説いている。 法然上人はかつていわれた。浄土宗の善導は、念仏者をこのように教訓した。初めて専修念仏に帰入せしめて、南無 (ロ ﹀ 阿弥陀仏と称えるとき、念仏者には三心がそなわるのであり、この心の中に回向発願心を納めているのであると。これ に よ り 善 導 は (﹃ 観経疏﹄ に)解釈して、南無とは帰命であり、またこれは発願回向の意味である、と説いている。 そもそもこの浄土宗 の 一大 事 は、一ニ心である。弟子弁阿は、法然上人在世のとき、よくよくこのご教訓をこうむった。 おこ 一には(至誠心)、こには(深心)、三には(回向発願心)と、このようにそれぞれ別々に説く 法然上人はいわれた 。三 心 の中、どれか一心をそなえれば、必ずその外の二心をそなえるのであると。ただし﹃観経 ﹄ と﹃観経疏﹄との文が、 こけ のは、念仏の行者にたいして、往生を願う心において三種の心を発すことを知らしめるためである。すなわち、 もし念仏の行者が、虚仮の心をおこしたときには、至誠心を用いてその心を治しなさいと。これを教えるために、 -157- には至誠心と説くのである。 もし念仏の行者が 、疑惑の心をおこしたときには 、深心を用いてその心を治しなさいと。これを教えるために、二に は深心と説くのである。 もし念仏の行者が 、ただ発願だけによって往生を願うときには 、自分がなすところの善行を用いて往生を願うべきで あると。これを教えるために 、 三には回向発願心 と説くのである。 この意味から、このことを考えてみると、これについて二種の三心がある。 おう 一には 、横の三心。一心に三心をそなえるのが 、横の三心である。 し い こころ uaM7 こには、毘の三心。三心それぞれを別々に一には 、こに は、 三にはと説くのが 、竪の三心である。 四句がある。 有願無行 浄土宗の意ではない。 無願有行 浄土宗の意ではない。 有願有行 これが浄土宗の意である。 無願無行 浄土宗の意ではなく、世間一般の人の意である。 また四句がある。 -158ー 西方回願 これは浄土宗の本意であり、念仏の行者の回向発願心である。 余事回願 こ れ は 浄 土 宗 の 本 意 で は な い 。 寿 命 の 長 遠 を 願 っ た り、 福徳を願ったりすることで 、 人 そ れ ぞ れ そ の 願 望 は 臭 っ て いる。 西方余事倶回願 二者深心 、郎是 真 実 信 心 、信下知自身是具足煩悩凡夫善根薄少 これは半分浄土宗の本意であり、半分はそうではない。往生を得ょうと願ったり、また(人それぞれの)願望を得 ょうとする。 これは世間一般の人である。 非西方回願非余事回願 注 流ニ転三界-不 ν 出中火宅 U今信下知弥陀本弘誓願及称ニ名号-下至ニ 有一員心一故、名ニ深心一 十声一声等-定得中往生 U乃至一念無 ν 心 一 三者団向発願 心、所作一切善根悉皆回願ニ往生↓故名ニ回向発願 (1﹀﹃観経﹄﹁上口問上生者、若有ニ衆生-願 ν 生ニ彼国一者、発二三種 心-即便往生、何等為 ν三、一 考至誠心、ニ者深心 、三者回向発 四六﹀ 得ν 生、如ニ観経具説↓ 具ニ此三心-必得 ν 生也、若少-二心-即不 ν 願心 、具二三心一者必生ニ彼国乙(大正十二 ・三 四 四 c、浄 全 了 (2﹀﹃往生礼讃﹄ 応ν 知﹂(大正四七 ・四三八c、浄全四 ・三五四下﹀ (3﹀﹃観経疏﹄巻四﹁四明ニ得生之益↓四従ニ何等為三↓下至ニ必 生彼国-巳来、正明下弁コ定三心-以為噌正因 ι ﹂(大正三七 ・二七 ﹁答日 、必欲 ν 生二彼国土︼者、 如ニ観経説-者、具ニ三 心-必得-み往生一何等為乙ニ 、 一者至誠心、所 ν 謂身業礼ニ拝彼仏一口業讃ニ歎称三揚彼仏一意業 Cc、浄全二 ・五五上) 専ニ念観三祭彼仏一凡起ニ三業(必須ニ真実-放、名-量誠心一 -159- 使 下 ﹃観念法門﹄﹁又以エ此経-証、亦是弥陀仏三力外加、致 ν 生 (4) ﹃観経疏﹄巻四﹁三心既具、無ニ行不 v 成、願行既成若不 ν 有ニ是処-也﹂(大正三七 ・二七一二b、浄全二 ・六一﹀ 者、無 ν とあり、安心の疑心と起行の疑心を説く。口語訳では 、 一分往 生を否定形で読んだが 、 ここでは一分往生は起行の疑心にあて (5) 慈遠﹃観経疏﹄﹁三修 心往生如ニ下文説一心有ニ三種↓一者 (日)﹃観経疏﹄巻四﹁一者至誠心 、至者真、誠者実:::二者深 心、言ニ深 心-者、即是深信之心也:::コ一者回向発願心::・﹂ (大正三七 ・二七O c J二七二 b、浄全二 ・五五下J五八下) 願心﹂(大正十二 ・=一四四 c、浄全一 ・四六) 心一即使往生、何等為乙二 、 一者至誠心 、ニ者深心 、三者団向発 (MH) (日﹀林彦明本﹁三心之中、発ニ至誠心-之時 、実具ニ後深心回向発 之三心之中、具二心-者、必具ニ余二心-也﹂ 願之二心-也、依 ν 生ニ彼国-者、発ニ三種 ﹃観経﹄ ﹁上品上生者、若有ニ衆生-願 ν 弥陀仏-者、即是其行、以ニ斯義一故必得ニ往生乙︿大正三七 ・二 五Oab、浄全二・一 O上下﹀ 云何具足、言ニ南無-者、即是帰命、亦是発願回向之義、言 ニ阿 ︿辺)﹃観経疏﹄巻一﹁今此観経中十戸称仏即有ニ十願十行-具足、 有ニ是処-也﹂(大正三七 ・二七三b、浄全二 ・六一上) 生者、無 ν (日﹀﹃観経疏﹄巻四コニ心既具、無ニ行不 v成、願行既成、若不 ν 浄全四 ・三六一上﹀ (m ) 五九上) 。。。。。 ﹃往生礼讃﹄﹁願共諸衆生往生安楽園﹂(大正四七 ・ 四四一 a、 ている。 。。。。。。 9﹀ ﹃往生礼讃﹄﹁普為師僧父母及善知識法界衆生断除三障問得 ( 往生阿弥陀仏国帰命俄悔﹂ハ大正四 七 ・ 四四O c、浄全四 ・三 自三心力一故得。見仏幻至誠心信心願心為ニ内因↓文 凡夫念者乗ニ 籍三弥陀三種願力以為ニ外縁↓外内因縁和合、故即得ニ見仏一故 引三心者是行者至要也、所以者何、 ﹃選択集﹄﹁私云 、所 v 名ニ見仏三味増上縁一﹂(大正四七 ・二六 c、浄全四 ・一一三一一上﹀ (6) 得ν 生、釈則一去下 経則云下回問ニ三心-者必生中彼国幻明知具 v三必応 v 弦欲 ν 生ニ極楽一 生、明知一少是更不可、因 ν 若少二心-即不e得 ν ) 之人、可三全具 ニ足三心-也﹂(浄全七 ・四五) (7 去故、日ニ誠心一一一者深 行不 ν 虚、実心求 ν 誠心 、誠謂実也、起 ν 之 心、信楽怒至欲 ν生ニ彼国一三者団向発願之心 、直余趣求、説 ν 為ν 願、挟善趣求、説為ニ回向乙(大正三七 ・一八四 c、浄全五・ 良忠 ﹃決答授手印疑問紗﹄巻下には、 一九二下) (8) 許、本願強 信ニ機法ニ-也、凡夫往生不 ν ﹁一者安心疑心 、此未 ν 、此人如-通論家義↓凡夫往生法門皆別時意也 、 縁不 滋之疑也 ν 可ν 恩也、有ニ此疑-之人、決定不 ν可ニ往生-也、二者起行疑、此 疑ニ往生一抑我身決定往生機鰍思惟之処、 安心中信ニ機法一難 ν不 ν 急、欲下離ニ生死-生中浄土上之大望吋有身 放心無ニ正体一厭欣不 v 之問、大方為-議身之癖-憂喜、共不ニ切思入-歎 :::﹂ 之思計無 ν 0 ・四人上) (浄全 一 -1 60一 第四章 ここる 善導のみ意は、浄土宗に入って正助二行を修し、 ベきのこと 一心をそなえた人は必ず五念門を修す ﹃往生礼讃﹄には、次のようにいう。﹃観経﹄にくわしく説くように 、よく心得なさい。また天親 (世親)の﹃浄土論﹄ ︿ 1) (﹃往生論﹄)を引用して次のようにいう。もしかの国に生まれたいと願う者があるならば 、 五念門を修すことを勧めな さい。もし五念門がそなわるならば必ず往生することができるのである。 この(善導の)解釈の意味するところは、﹃観経﹄によって、すでに三心を明かしおわり、今また﹃往生論﹄によっ て五念門を明かす理由は、﹃観経﹄に説く三心と、﹃往生論﹄に説く五念門とをあわせて解釈し、経と論とが、このよう 一致しているとの意味なのである。 (4 ﹀ ﹃往生論﹄には次のようにいっている。も し善男子善女人が五念門を修し 、その 行を成しと.ければ 、 ついには安楽園 身業である。 に生まれることができる、と説いている。 五念門とは、 一、礼拝門 口業である。 阿弥陀仏を礼拝する。 二、讃歎門 意業である。 阿弥陀仏をほめたたえる。 二、観察門 浄土の荘厳(依報)と阿弥陀仏(正報)を観ずる。 -161ー 四、作願門 意業である。 意業である。 どんな時 、 どんな所においても極楽に生れたいと願う。 五、 回向門 作すところの善行をもって浄土に回向する。 必生エ彼国乙(大正十二 ・三四四b、浄全一 ・四六﹀ (3﹀﹃往生論﹄﹁若善男子善女人、修-五念門一成就者、 皐克得下 注 (1﹀﹃往生礼讃﹄﹁如観経具説、応知、又如天毅浄土論云 、若有 (4) 注 ︿ 3﹀参照。 一 一 一 一 b、浄全一 ・一九=一) 生-一安楽園土-見広依阿弥陀仏幻何等五念門、 一者礼拝門、二者讃 歎門、三者作願門、四者観察門、五者回向門﹂(大正二六 ・二 ﹃観経﹄﹁仏告二阿難及意提希↓凡生--西方一有ニ九品人﹁上口問 願生彼園者、勧修五念門、五門若具定得往生﹂ハ大正四七 ・四 三 入 c、浄全四 ・三五四下) (2) 生ニ彼国-者、発二三種心-即使往生、何 上生者、若有二衆生一願 ν 善導の教えの意は、 三心と五念の法を実践するには必ず四修の法を備えるべきのこと ここる 等為乙ニ、一者至誠心 、二者深心 、三者団向発願心 、具ニ三心-者 第五章 ﹃往生礼讃﹄には 、 また勧めて四修の法を用いて 、 三心五念の行にはげみ、すみやかに往生を得る、と説いている。 四修とは、 おんじゅう 一には恭敬修 または思重修と名づける。僑慢の心を対治する。 ﹃往生 礼讃﹄ には 、阿弥陀仏およびかの一切の諸菩薩や聖者達を恭って礼拝する 、 と説いている 。 ﹃西方要決﹄には 、恭敬修に五種ある 、 と説いている。 - 16 2一 一には有縁の(西方の﹀聖人を敬う。 行住坐臥に西方に背を向けてはいけない。 こには有縁の(阿弥陀仏)像(浄土の﹀経を敬う。 一仏二菩薩の像を造り、尊経を写経してつねに浄室に置く。 三には有縁の善知識を敬う。 浄土の教えを説く人である。 四には有縁の同朋を敬う。 じゅ うじ 一緒に修行する人である。 五には住持の三宝(仏像、経典、聖僧菩薩)を敬う。 今の修行の未熟なものにとって大きなきっかけとなる。 こには無余修 雑起の心を対治する。これは(阿弥陀仏に対する)疑いの心や専念できない心である。 ﹃往生礼讃﹄ に、専ら阿弥陀仏の名を称し、専ら念じ、専ら想い、専ら礼拝し、専ら讃嘆して、それ以外の行 為 をま じえない、と説いている。 ﹃西方要決 ﹄ に、専ら極楽を求めて阿弥陀仏を礼念す、 ただしそれ以外の行為を雑起せしめてはいけない、と説いて いる。 -163ー 一には無間修 おこたりゃなまけの心を対治する。これは勇猛な精進の心である。 (6) ﹃往生礼讃﹄に 、継 続 し て 恭 敬 し 、礼拝し 、称名し 、讃嘆し、憶念し 、観察し 、 回向し 、発願し 、 心がとぎれること がなく継続 して、 他のことがそこに入りこまないようにせよ 、と説い て いる。 ﹃西方要決﹄に 、 つねに念仏して往生の心をおこして 、 一切の時においていつでも心につねに想いえがくべし 、 この ︿ 8) ︿ 9 ﹀ (7) ゆえに精勤してなまけず、まさに仏恩を念じて 、 その恩に報いきるまで心につねに思いをかけるべきである 、と説いて いる。 四には長時修 退転や流動する心を対治する。 ﹃往生礼讃﹄に 、命がつきるまで誓って中止せず 、 これが長時修である 、と説いている。 ﹃西方要決﹄に 、初発心より菩提に至るまで 、 つねに清浄な行ないをなして最後まで退転することがない 、と説いて いる。 私はこのように理解する。他の教えや他の行をみわたして 、 この文意を考えてみると、誓って中止せずとは、本尊な らびに三宝を勧請し 、宝前に香華をそなえ 、大誓願をおこして往生の業を始めるべきである。命がつきるまで往生の行 において永く退転すべきではない。もしこの主旨にそむけば 、永久に三宝のたすけをこうむることなく 、 必ず地獄の薪 となろう。 -1 6 4ー 注 (1﹀﹃往生礼讃﹄﹁又勧行ニ四修法↓用策ニ三心五念之行﹁速得ニ 慈恩大師基﹃西方要決﹄﹁二者若恭敬修、此復有 ν五、一敬ニ 往生-﹂(大正四七 ・四三九 a、浄全四 ・三五五下) (2﹀ ﹃ 往生礼讃﹄﹁一者恭敬修、所 ν 謂恭二敬礼三拝彼仏及彼一切 聖衆等一故名ニ恭敬修-﹂(大正四七・四三九 a、浄全四 ・三五五 下) (3) 有縁聖人↓謂行住坐臥不 ν 背 -L 四方↓悌唾便痢不 ν 向ニ西方-也、 二敬ニ有縁像教一謂造ニ西方弥陀像変﹁不 ν能-一広作 ↓ 但 作 二 仏 二菩薩(亦得教者、弥陀経等五色袋盛自読教 ν 他、此之 経像安ニ 恵、 乗教旨、法界所流名句所詮能生 ν解縁故、須ニ珍仰↓以発 ν 基抄ニ写尊経二但安エ浄室一箱函盛貯並合ニ厳敬一読ニ諦之-時、 身手清潔、言--僧宝-者、聖僧菩薩、破戒之流等心起 ν 敬、勿 ν 生 ニ (大正四七・四三九 a、浄全四・三五五下) 慢想-﹂(大正四七 ・一 O九 c、浄全六・六O 四下﹀ 想 謂専称 z 彼仏名一専ニ念専三 (4﹀﹃往生礼讃﹄﹁一一者無余修、所 ν 雑ニ余業-故、名ニ無余修一﹂ 専問礼専玄讃彼仏及一切聖衆等一不 v (5﹀﹃西方要決﹄﹁四者無余修、謂専求ニ極楽一礼ニ念弥陀一但諸 余業行不 ν 令ニ雑起-﹂(大正四七 ・一 一 Oa、浄全六 ・六O五下﹀ 謂相続恭敬礼拝、称名讃歎、 ﹃往生礼讃﹄﹁三者無関修、所 v 憶念観察、回向発願、心心相続、不下以ニ余業-来間ム故、名ニ無 (6) 間修一﹂(大正四七・四三九a、浄全四 ・三五五下) (7) 浄因﹁終無ニ退転-﹂(大正四七 ・一 O九 c、浄全四・六O 六下) (9) 四七 ・四 三 九 a、浄全四・三五五下) ﹃西方要決﹄﹁一考長時修、首従ニ初発心一乃至ニ菩提一恒作ニ 恒計念よ﹂(大正四七 ・一 一 Oa、浄全六・六O 五上﹀ F 心恒想巧、 :::中略:::精勤不 ν 倦、当下念ニ仏恩 報尽為 ν期心 ﹃西方要決﹄﹁一一一者無関修、謂常念仏作ニ往生心一於二切時一 得ν 罪無 v 窮故須ニ惣敬一則除ニ行障一四敬二同縁伴一謂同修業者、 (8﹀ ﹃往生礼讃﹄﹁畢命為 ν期、誓不二中止↓則是長時修﹂(大正 置室中↓六時礼餓華呑供養、特生ニ尊重二ニ者数ニ有縁善知識↓ 謂宣エ浄土教一者、若千由旬十由旬己来、並須ニ 敬重親近供養一 別学之者、惣起ニ敬心一与 ν 己不 ν問、但知ニ深敬司也 、若生ニ軽慢一 自雄一 一障重独業不 v成、要務ニ良朋一方能作 ν 行扶 ν 危救 ν 厄助力相 資、同伴善縁深相保重、五敬ニ三宝↓同体別相並合ニ深敬↓不 ν v 能ニ具録一為三浅行者不 ν 果ニ依修↓住持三宝者、与ニ今浅識人-作ニ 大因縁↓今粗料簡言ニ仏宝-者、謂難 ν 檀繍締素質金容銭 ν玉図 縛磨 ν石削 ν 土、此 之霊像特可ニ尊承一暫爾観 v形罪消増 ν福、若 三種行儀のこと 生ニ少慢一長 ν 悪 善亡 、 但想ニ尊容↓当 ν 見ニ真仏↓言ニ法宝-者、 一 コ 第六章 一、尋常行儀 -165ー (念仏をするときの)場所については 、浄 、 不浄をえらばない。 (念仏をするときの)身体については 、浄 、 不浄をえらばない。 (念仏をするときの)服装については 、浄 、 不浄をえら. はない。 ( 念 仏 をす るときの)姿勢につい ては、行住坐臥をえらばない。 (念仏をするときの)食事(の回数や内容) の浄 、不浄をえらばない。 (念仏をするときの)時間の長短をえらばない。 一、別時行儀 (念仏をするときの)場所については 、清浄な道場にする。 (念仏をするときの)身体については 、泳浴をして清浄にする。 (念仏をするときの﹀服装については 、清浄な衣服にする。 (念仏をするときの)姿勢については 、常に立ち 、あるいは常に坐る 。 1 しゅ に︿ご しん ハ ﹀ (念仏をするときの)食事 については 、 一食にして 、午後食事をとらず 、酒肉五辛の不浄なものは食べてはいけない。 (念仏をするときの﹀期間については 、もしくは一目 、七日 、十日 、九十日などと日数を定める。 一、臨終行儀 別時の行儀を用いるべきである。 -1 6 6一 る ゃ に向察願嘆拝念 は弥南弥南弥南弥南弥南弥南 「陀無陀無陀無陀無陀無陀無 善仏阿仏阿仏阿仏阿仏阿仏阿 念 も 修 も 四 み な にらねぎにんに︿らつ曾ょうはじかみ 注(1 ﹀ 臭味の激しい五種の野菜。韮、葱、 蒜、 産、 官室(生妻、山淑﹀ 五 間 余 時 敬 三種行儀稗⋮畑一 も 恭 心館一一州 , [ . , 尋常行儀醸伺 源 空 の 目 .、南無阿 t 主 別時行儀開時間 と 臨終行儀鶴間 る 事南無阿 世弥陀仏 ・事南無阿 世弥陀仏 参南無阿 世弥陀仏 ﹄告南無阿 世弥陀仏 参南無阿 世弥陀仏 見 す 長 五 礼 時に安貞二(一二二八)年十一月二十八日申時 左手印 右手印 授手印 弁阿 を F d弥陀仏 お 嘉禎第三(一二三七)歳卯月(四月)十日巳時 拝 無 沙門弁阿在御判 解 釈 ・、南無阿 、 d弥陀仏 の 四 無 導 大 師 の 回向発願心開剛一一州 人 讃 誠 ともに南無阿弥陀仏とみえる﹂ということである。 上 作 観 て 〉 回 し 至 深 カ ミ 師 法 然 然 阿 -167ー わ 源 空 俊 雄 特別寄稿 時宗文化研究所 神奈川教区西林寺住職 橋 ら七百年、七百年ご遠忌の年に当っています。一向上人 橋でございます。今年は一向俊聖上人が世を去られてか きとうそうとする動きが一摸ですが 、 この場合浄土真宗 時の為政者に要求したいことを力にうったえ、それを貫 かもしれません。利害関係を同じくする人たちが団結し 、 農民が一つの 村、または数ケ村を一つ の単位、惣とし は弘安十年(一二八七)十一月十八日亡くなられたので 蒙古の大軍が北九州におし寄せて来たのが弘安四年でし て行動したのが一向一撰ですが 、 その高まりをみせたの の信者をエネルギーとした争いが一向一撲なのです。 たから 、まだ余塵のおさまらない 、 三度び来襲して来る 向宗という、時衆方の名なり 、 一遍 ・一向これなり。そ て﹁あまさえ当流の輩も我と一向宗と名のる也。それ一 は蓮如という人の時代でした。その蓮如は一向宗につい です。 かもしれないと 、日 本国中の人たちが緊張していたころ すが、弘安十年といいますと 、 二回目の元冠 、すなわち を思いうかべます。また、一向一撲を思いだす人がいる 大 向上人 を仰ぐ ' ‘ 私、長らく一向上人をご讃仰申し上げている一人の大 祖 私たちは一向宗といいますと 、浄土真宗門徒宗のこと -169ー 開 う作家が 、番場の忠太郎という侠客を描いた小説﹃践の といってもお判りにならないでしょうが、長谷川伸とい ばかりの 、名神高速道路にそった所にあります。蓮華寺 郷村番場の蓮華寺、東海道線の米原駅で下車し、四キロ 言うのです。江州番場の道場というのは滋賀県坂田郡息 派を指している。その源、すなわち江州番場の道場だと は時宗方の名であり、一遍や一向を祖師と仰いでいる宗 だと言っているが間違もはなはだしい。一向宗というの の人はいうまでもなく、他宗の人でさえ一向宗だ一向宗 言語道断の次第なり﹂と言っ ています。自分たちの流れ この名をへつらひてかくのごとく一向宗というか、これ の源とは江州ぱんぱの道場、これすなわち一向宗なり、 と言い 、﹃無量寿経﹄の﹁一向に専ら無量寿仏を念ずる﹂ の文により名を一向と改め、専修の行者と成りたまう﹂ っていますが、一向俊聖の一向という名前も﹁一向専念 説いているから一向宗と言っても差支えないのだ 、 と言 中に 、 一向に専ら無量寿仏すらわち阿弥陀仏を念.すると 頼むから一向宗と言っているだけのことである。経典の わけではないが、ただひたすら阿弥陀仏を後生のために ることは祖師親驚が別に、そのように呼ぶように言った は、一向宗とまふしたるも仔細なし﹂と、一向宗と名乗 へに、一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるとき かりといへども 、経に一向専念無量寿仏と説きたまふゆ を一向にたのむによりて、人のまふしなすゆへなり。し ことは、別して祖師もさだめられず、おほよそ阿弥陀仏 みなも 母﹄の舞台になった、忠太郎のいたという番場にある寺 という経文からとったと伝記の中に見えています。 まぶた です。 て来たため 、誰言うとなく親驚の流れを指して一向宗と 土真宗のなかに多くの一向俊聖の流れを汲む信者が入っ では、何故混同して用いてはいけないのかというと、浄 の手段として用いています。踊躍念仏をはじめたのは文 までの各地を遊行しながら教えを説き、踊躍念仏を布教 一向上人は出羽田から南は大隅園 、山形 県から鹿児島県 ますと、蓮如を一向上人の再来と考えていたからです。 では、何故一向派と親驚の流れとを混同したかと言い 呼んだからです。あとになりますと、もう言いわけをし 永十年(一二七一ニ)夏大隅国の八幡宮に詣でたときのこ 蓮如の言っている一向宗とは一向派のことなのです。 ないで 、蓮如自身﹁あながちに我が流を一向宗と名のる -170一 とです。八幡宮で四十八日のあいだ断えることなくお念 ようですが 、こ うした状態を当時の人たちは﹁ものぐる は思いきり足をはね 、首をふり体をゆすりながら踊った 踊躍念仏したときには鉦を打ちならし 、踊 ったときに い﹂と言っていました。 ﹁もの﹂とは霊魂 、﹁くるい﹂と 仏申していますと、その名声を聞き、人びとがどこから は魂が燃焼することをいいます。体と心とが 一つ の状態 ともなく集 って来て 、 そのさまはちょう度市場のようで あったということですが、四十八日目の夜神肢の扉が開 になること 、 仏 と一体になることです。 わらべ いたかと思うと十二 、 三歳ぐらいの童 、小 供が手に四十 花でしたが 、阿弥陀仏の証しを得たことによって喜び満 花は、未数蓮花といって聞ききっていない 、 つぼみの蓮 なわり 、仏と同格になったのです。このとき手にした蓮 にしたことにより一向俊聖に同弥陀如来の四十八願がそ ったものを写したものである 、というのです。蓮花を手 が成就できたことを証明するものであり 、 極楽浄土にあ 童は八幡宮のお使でした。蓮花は阿弥陀如来の 四十八願 と思うと、また扉のうちに入ってしまったのです。その 唱えていたと思います。踊り 、 そして念仏や和讃を同音 るからには 、 ご詠歌をとなえているように同音に一諸に みを聞きながら適切に答えています。和讃をつくってい しかも、法座とい う形式をとり信者の話に 耳を傾け、悩 をしているようなことばで教えを説いていることです。 りける﹂云々という御和讃をつくり 、和語、私 たちが話 ぞ発しける 、行住坐臥のつとめにて 、威儀も作法もなか 極楽我等に縁深し 、阿弥陀の因位の本願は 、凡 夫を先と 意しなければならないことは 、 ﹁十方浄土のその中に、 もう一つ 、 一向上人の教えを弘めようとする態度で注 八本の蓮 の花を持ち 出て来て、そなたはすぐれた念仏の 面にあふれ、それが形となってあらわれたのが踊り念仏 にとなえることによって人の和ができたのです。こうし 行者であるからこの花を差し上げよう 、と 言い渡したか でした。踊り念仏のときに着用した袈裟は牧子という道 た方法を一向俊聖のあと用いたのが蓮如でした。一向衆 みふ ばたに落ちていたボロ切れを縫い合せたもので 、袈裟に は最初に一般民衆を対象に布教しましたが 、 次第にその あか は結び目が三つ 、とじ目が左右に十二個あり 、袈裟には 名声を聞き公家や武士たちの帰依を受けるようになりま ぽつ乙 また神から授った蓮花が結びつけられていました。 -171ー 時に救いの手を差しのべたのが蓮如でしたから、蓮如の すと、民衆への教化がないがしろになりますむこうした ことです。 ることなのです。 一向上人は立ち上って往生したという と亡くなゥたということですが、こういうことはあり得 こうした立ちながらの往生に奇特の思い、前代未聞だ 教団を自他ともに一向衆と呼んだことも無理からぬこと ですが、古く鎌倉時代に一向衆と呼ばれていたのは一向 よ十八日の申の時になりますと病もすっかり直ったよう 衣などを付属してからのちはお念仏ばかり申し、いよい 十八日死することを予言し、弟子の礼智阿に血脈・蓮華 一向上人は弘安十年十一月十二日病を得、一週間後の 絵と称するものがあるので見てほしいと言って来ました。 史家の森暢さんです。その森暢さんから 一向上人 の臨終 毛利菊枝さんという方がおられます。そのご主人が美術 も前のことです。年輩の方はご存知でしょうが 、女優に れは恰かも市のようであったといいます。もう二十数年 ということで多くの人たちが一目見たいと拝みに来、そ な状態になり、しっかりした姿で立ち上ったかと思うと 私が﹃番場時衆のあゆみ﹄という一向派の歴史を書いた 俊聖を開祖と仰ぐ一向派だったのです。 念仏数百遍申し、笑みをふくみ立ちながら往生した、と 臨終絵は鎌倉後期の、一向上人が亡くなってからそれ 直後のことです。臨終絵を一度は東京の外務省の研修会 一時的に良くなるものです。曾って明治大学の教授をし ほどたっていない頃のものと推定されていますから 、上 言うことです。申の時と言いますと、七つ時、現在の時 ていられた人に圭村諦成さんという人がいました。長ら 人の臨終を最も正確に描いたものといえます。こうした 館で 、 二度目は京都東山の永観堂の近くにありました森 く病床に在ったのですが、亡くなる直前体内にあった不 絵が残されていることは 、臨 終の刺那が印象的で 、そ の 間にしますと午後三時から五時ということになります。 浄物がすべて排出され 、心身爽快となり、熱も下り 、今 光景が強く信者の胸をうつものがあったからでしょう。 さんのお家で 、ご 夫妻ともども拝見しました。 までとうってかわり親族と親しく話を交し、死もそれほ 臨終絵はタテ一一二一一センチ、横五三センチ、ほぼ畳一枚 亡くなる直前はロ lソクの火がぱっと明るくなるように ど近くはないだろうと安堵の胸をおろし帰っていったあ -172一 立ち膝をしながら合掌をしています。立って往生すれば ここに描かれている一向上人は立っているというよりも す。その中も っとも印象的なのが往生の図なのですが 、 たって描かれている図の場合、下 の方から見ていくので 念仏している中を茶見に付している図です。何段にもわ に野辺の送りをしている図、上段には門弟たちが合掌し 段には遺骸を輿にのせ善の綱を引きながら、松明を先頭 ほどの掛幅で、絵は三段に分れ、下段には往生の図、中 向上人の弟子であったことを示しています。 一向上人・行蓮上人と記していることは、行蓮上人が一 の住職はご向寺当住忍阿﹂でしたが、その法系の中に す。応永十二年は行也上人の十三回忌にあたり、その時 部にご向上人行蓮上人行也上人﹂と刻られていま 陀と呼ばれている阿弥陀如来の坐像ですが、その銘の一 造立したうちの二番目につくったという、一名汗かき弥 本尊は応永十二年(一四O 五)四月藤原満綱が四十八紘 行蓮の名は宇都宮に一向寺という寺があり、その寺の 立とうとした意志を尊重し誇張して﹃一向上人伝﹄には に描かれている方が自然の姿ではないかと思っています。 立ち膝ならばそのような心配はないから、むしろ臨終絵 仏向寺にはもちろん、その他当地にも数多く残されてい ら当然なことです。皆さんの、今日集まっておられます ていることは一向派の寺院からすれば、開祖上人ですか 一向上人の肖像画は沢山残されています。沢山残され こしたいまつ 命つきたときばたんと倒れてしまうかもしれませんが、 ﹁ 健 に立ちたまひ念仏数百反、常よりも高唱に唱へ、亥 ます。秋田の蓮花寺には頂相といって椅子に腰かけたも す。この中には土肥三郎入道道日や二代をついだ礼智阿、 回りにはおよそ五十六人ほどの弟子や信者を描いていま 五言絶句の詩と、﹁我れ独り入て何せん西の山にかたふ 宝号を所々に留む、これを名づけて一向と調う﹂という 多くの肖像画には﹁四大本より空、五議仮りに建立し、 ちんぞう の刻に至て歓喜の笑を含み 、立ながら息き絶へたまひけ のもありますが、多くは立っている姿をしています。 俊阿・行蓮といった僧がおり、上方の簾越しに見えてい く月にさもあらはあれ﹂の和歌が添えられています。こ すこやか る﹂と記したのかもしれません。亡くなった一向上人の る女性は﹁夫婦ともに道場にこもり居﹂て臨終までお世 の詩と和歌は一向上人が成道し悟りを開いたときの心境 すだれ 話をした入道道日の夫人だと思います。 -173ー ない、頼りにならない、仮りに存在しているだけのこと る働きを識と言いますが、四大も五誼もみなあてになら 一定の方向に動いていくことを行、物事を分析し判断す 正しくないと判断し理解することを想、精神的な働きが 楽しいと感じたり、苦しいなと感ずる感覚を受、正しい 精神のことで、肉体を色、人としてこの世に生きていて に建立する﹂という五惑とは人聞を構成している肉体や する働きをする風大の地水火風を言います。 ﹁五離仮り を成育するのに必要な熱すなわち火、それに動物を成長 切の物質を構成している元素のことで、土地と水、作物 を述べたものです。﹁四大本より空﹂という四大とは一 を受くる時 、宝は吾が苦に代るものに非ず 、今念仏の宝 我か身に随はんや、此の宝の為に罪をつくりて三途の苦 独り黄泉の底に入るとき財宝は悉く他の有となり、誰か 是を積みおきて一期守り居て、終に白日のもとに辞し、 も無きにも苦となるものを衆生妄りに宝と思へり。漸く 之を求めてたまたま得れば亦失はんことを畏る。有るに の為なり。 固なけれ ば回を求め 、宅なければ宅を求め、 ども、寒冷にも汗を流し、炎天にも心を冷すは唯々財欲 の宝は得かたふして失ひ易し 、貴賎品異に男女形 別なれ は、今時 重病の妙楽なれば別 して宝 号と呼び侍 る。世間 二祖をついだ礼智阿は、もっと具体的に﹁六字の名号 ない人は家を求めようとして懸命に働いているのです。 は現当二世の利益あり、是れ無上の珍宝なれば宜く宝号 一向上人にとって名号すなわち宝号は絶対的な何もの 求め手に入れたからには 、それを守りつづけ 失うまいと である。あてになるのは名号だけであるから、この名号 にも代えることのできないものでしたから 、﹁身 の浄不 つとめるのが人の常です。そうして得た宝であっても、 と申すベし﹂、炎暑寒冷に汗を流して働くのは財産をふ 浄をも顧みず 、仏の 摂不摂をも論ぜず﹂﹁仏の捨て しむ 浄土に赴くときにはこの世においていかなければなりま を多くの人たちに残しておいてやりたい、これが一向俊 るものをすて、仏の行せしむるものを行じ﹂て、ただ一 いった、その人にとっての宝を得るために、明らさまに せん。持って行くことはできないのです。水田とか家と やそうと思うがためである。回がない人は水田を、家の 向に宝号を唱えるほかには安心もなければ起行もない、 聖に与えられた使命であるというのです。 宝号あるのみと言っています。 -174ー くれるのは名号だけです。そのため名号を宝号というの 得た宝はその身代りになってくれない。苦しみを救って ともかぎりません。苦しみを受けたときでも、この世で かもしれません。それがもとで三塗の苦しみを受けない 自に見えなくても人をきずっけ罪をつくったこともある 輿福寺をはじめ多くの奈良時代からの伝統をうけつぐ寺 南都すなわち奈良に赴いたのです。奈良ならば東大寺や 悟った上人は、ここで無為にすごすことをさけ山を下り 修行しても修行しても仏になることの容易でないことを 無為に一日とすぎ、命は日一日と短くなっていきます。 生みなかくの如くならば成仏は誠に難かるべし﹂ 、日は 平は二祖聖光上人に帰依した人で したか ら、幼少の頃か りました。父、氷泰の兄永平、 一向上人にとって伯父の永 に流罪の身となった後鳥羽上皇の亡くなられた年でもあ 年はまた時宗の宗 祖二週智真が生れ、承久の乱で隠岐国 西好回に草野冠四郎永泰の四男として生れました。この 一向上人は、暦仁二年(一二三九﹀正月筑後国竹野荘 かはない、という﹁我が末法の時の中の億々の衆生、行 ない、この世で浄土に往生できる方法は浄土門によるほ 人たちがいて修行しても一人として仏になることはでき は道綜禅師の﹃安楽集﹄の 、末法のこの世の中に多くの くことができませんでした。だが、そのとき耳にしたの 教えを問うたのですが 、求めたいと思っていた教えは聞 がありましたので、心ひそかに期待をもって学匠を訪ね さんず だ、と礼智阿はわかりやすく説いています。 ら仏教的雰囲気の中に生活していたであろうことを知る を起し道を修せんに、いまだ一人として得る者あらじ、 当今は末法、現にこれ五濁悪世なり、ただ浄土の一門の ことができます。 寛元三年(一二四五)七歳のとき播磨国の書写 山に登 書 写 山は姫路市の北西四キロばかりの地にある 山で、西 き、脳複にうかんだのは伯父永平の帰依した聖光上人の このことばに引かれ浄土門を学びたいと心に決めたと みありて通入すべき路なり﹂のことばでした。 の比叡山ともいわれ 、 里に近い山としては峻険で 、ここ 弟子でした。当時 、良忠上人 は鎌倉におりましたので関 り、以来建長六年まで九年間天台宗の学聞を修めました。 には円教寺という寺があります。ここで九年間修行した 東に下向し、正元元年夏から文永十年二月まで十四年間 いのち の で す が 、﹁命は念 々にせまり、死は歩々に近づく、衆 -175ー 良忠上人に師事し、﹁四大本より空﹂の偏文を得て諸国 は、宝号をこの世に残すために努力する人、その人こそ われたのです。﹁これを名づけて一向と謂う﹂というの も一時で凋落のきざしがみえてきます。咲いた花や葉が ばらしい花をつけ、緑の葉でおおわれるのですが 、 それ の緑にしても、適当な水分と適度な光があてられればす 花は紅、柳は緑といわれるほど色を代表する花の色と棄 っているように﹁法然にすかされまいらせても﹂という ないとかを判定する権威さえもっていたから、親驚のい 者であり、阿弥陀如来の代官として往生できるとかでき をとなえるところにこそ、行の成就がある。智識は絶対 こうして一向上人は身も心もともに仏に帰命して宝号 一向と名乗る私、俊聖だと言うのです。 遊行の旅に立ったのです。 大地に適当な水と光が与えられれば植物は生育します。 落ちても 、植物は次の用意をして芽を出すのです。この 信念が一向衆徒にもあったのです。あったからこそ、一 ︿れない ように植物に周期があるように 、 人間にもすべて周期が 諸国遊行の旅にたった一向上人は文永十一年夏大隅八 向衆徒には﹁智識の教えにまかせて唱ふ﹂べきであると 耳 ・鼻 ・舌 ・身 ・意という感覚器管がそなわり 、 物 事を 幡宮で神の神威をうけ踊念仏をはじめました。文永十一 あり生老病死をくりかえします、このことを一向上人は 判断する機能が発達し行動し得たとしても、それは永遠 年は一一遍智真が熊野で成道した年にあたっています。以 いう条件が付与されていたのです。 ではなくはかない命であり、仮りに人としての姿を世に 来九州を回国 した のち四国に渡り 、さらに山陽道から山 ﹁四大本より空﹂と言ったのです。人間の体にしても眼 ・ あらわしただけのことである。これが﹁五慈仮りに建立 入ったのです。坂田郡番場の一草堂で念仏していたとき 、 草堂に住していた蓄能 ・蓄生という二人の僧と 、土地の 陰道に入り 、北陸路まで足をのばし、弘安六年近江国に であり、何ものにも換えがたいものであるから宝号とい 豪族土肥三郎元頼の帰依を受け 、ここにとどまることに し﹂ということです。では、すべてが空しいかといえば、 うのです。私はその宝号を多くの人に知らせたいという なり、やがて堂宇の建立がなされたのです。これが蓮華 ただ一つ永遠なものがある、それが南無阿弥陀仏の名号 信念が﹁宝号を所々に留む﹂ということばとなってあら -176- 蓮華寺には 、国の重要文化財に指定されている弘安七 究し 、在日中竜谷大学の朝枝善照氏の紹介で私を訪ねて エール大学のジェイムズ ・ドピンズ氏が消息を中心に研 年十月の銘のある銅鐙、元弘三年(二三二三)年五月執 来たこともありました。こうした人もおられるのですか ら、皆さん一向派にど縁のある方はどうぞこれを勝縁と 寺のもとになっています。 筆の﹁陸波羅南 北過 去帳﹂が所蔵され 、そのほか鎌倉後 してご精進のほどお願い申しあげ 、 私のったない話を終 J ﹁ 昭和六十一年十一月十八日 、山 形県天童仏向寺で厳 修 f された関組一向上人七百回忌御遠忌法要での講演﹂ らせていただきます。ご静聴ありがとうございました。 期のものと推定されている一向上人の画像もあります。 浄土宗の宗祖は法然上人です。法然上人を宗祖と仰い でいる人たちによって今日の浄土宗がささえられてきま した。皆さんは一向上人を開祖と仰いでいる方々です。 皆さんの力なくして一向派をもりたてていくことはでき ません。皆さんは一向上人をささえるエネルギーなので す。今日 、十一月十八日は一向上人の七百回の御遠忌の 正当の日にあたっています。五十年 、百年という節目は あと五十年たたなければやって来ないのです。こうした 年に 、私は二度とお会いすることはできません。この良 き日に皆さんにお会いできたことを喜びとするとともに 、 若い皆さんは次の五十年の御遠忌に向け 、さ らに一向上 人のご讃仰と研究に努力して下さい。皆さんがやらなけ れば誰もやってくれる人はないのです。私が一向上人の 研究をはじめたのは昭和二十三年のことでしたからもう 四十年近くたっています。二祖礼智阿のことはアメリカ -177ー 。特別講演 日本人の宗教心 京都大学教授河合 隼雄 氏 啓 俊司良俊三道教信 昭和六十一年度の浄土宗教学布教大会は 道 。シンポジウム 地獄の白蓮華 ・極楽の白蓮華 浅野義光 浩 布教実例石田彰 寺院とコンピュータ市 川 隆士 なおこの研究発表の要旨は 、発表できな 布 かった研究所員の研究報告とともに 、﹃ 教研究所報﹄四号に掲載した。また一般 研究発表は 、浄土宗の教師であれば発表 資格があり、要項は春頃の﹃宗報﹄ に公 示される。 本年度のテ 1 7は、昨 年 に ひ き つ づ き ﹁現代と念仏について﹂であり 、 併教大 学教授、高橋弘次氏の司会により行われ た。問題提起者は左記のとおりである。 併教大学助教授深貝慈孝 -1 7 8ー ( ﹃ 宗報﹄昭和六 十 一年十二月号に収録) 良忠上人について 大正大学教授玉山成元氏 (﹃仏教諭叢﹄ 一 三号に収録) 。一般研究発表 一般研究発表は 、九十六名の発表があり 六部会にわかれて 、教学と布教、さらに は法式に関する日頃の研究成果が熱心に 発表された。発表時間は十五分、質問は 五分である。布教研究所関係者の発表は 左記のとおりである。 視聴覚教材を使った布教の試み 村中 三上人御遠忌を迎えて片山 室 布教と視線大 現代布教の課題羽田 邦貫浅光恵照浄成 V浄土宗教学布教大会 シンポジウム 亮 報 昭和六十一年度浄土布教師中央研修会と 第三十二回浄土宗教学大会との合同大会 として 、昭和六 十 一年九月二日(火)か ら四日(木)までの三日間にわたり 、京 都の併教大学を会場として開催された。 主催は浄土宗布教師会および浄土宗教学 院である。 。大会日程 九月二日(火) 開会式 十三時 特別講演 十三時半 大会委員 会 ( 布教師会) 十六時半 九月三日(水) 一般研究発表 大会委員会(合同) 九時 十二時 十三時 十五時半 十七時 有本 道 併教大学助教授藤本浄彦 大阪教区宝樹寺上回見宥 宗報﹄昭和六十一年十 二月号に収録) ( ﹃ 。意見発表 意見発表は布教師会担当の部円であり 、 今年も三上人遠忌にちなみ 、﹁三上人の │布教師にこれでい ご事蹟をあおいで│ いのか│ │ ﹂のテ l マのもと 、左記の方 々の発表が行われた。司会は 、北陸支部 の風間文雄氏であった。 教学院代表 弘 布教の原理山上 和歌からの布教宮崎 現代と念仏金子 布教の実践と地域史村島 浄土宗における因果の問題 家庭における宗教教育について 稲村 滞 懇親会 九時 十三時 十五時半 松 合同総会 九月四日(木﹀ 一般研究発表 意見発表 閉会式 博 嚢 台下 布教研究所の輪読会は 、宮林昭彦主任の 指導の下、研 究 員 を 中 心 に 行 わ れ て い の試みを行っている。この作業は二年間 る。テキストは聖光上人の﹃末代念仏授 手印﹄であり、引用文献の抽出、口 一 語 訳 つづき、 いまだ内容的には 不十分である が、その報告として﹃布教研究所報﹄四 号に掲載 した。皆様方の叱正を乞う次第 である。なお作業にたずさ わっ たのは 、 宮林 昭彦、小沢憲珠、大室照道、遠因弘 賢、加藤俊哉、佐藤雅彦、市川隆士の各 氏である。 氏 教大会における研究発表 の打合せが行わ れた。 。六月二 十七 日(金) 死をどう迎えるか 大正大学名誉教授壬 。十月 十 六日 (木) 舜 。十一月 十九 日︿水﹀ 現場から見た生老病死 東京都医師会理事福 井 寿氏 。三月二日(月﹀ ﹁現代における生と死 ﹂ をめぐって 月例研究会を通 し ての意見交換 死に臨んでの儀礼 浄土宗法儀司福 兆 氏 口 布教師会北海道支部代表 石山昭三 東北支部代表鈴木寛俵 東海支部代表角出誠堂 近畿支部代表西岡信孝 ( ﹃ 布教研究所報﹄ 四号に収録) ぷ品 、 研 究所員と して二年目をむかえる 片山浄 教 、宮 原文弥、石 田彰 浩、宮崎浅良、山 本雄毅、有本亮啓、山 上光俊、金子賞司 の各氏が、﹃ 無量寿経﹄についての布教 。第 十三回集中研究会 期日 昭和六十 一年 十 二月十一白(木﹀ 十 二日(金) 会 場 東 京 大 本 山増 上 寺 内容統 一テ l マ﹃無量寿経﹄ ①研究発表 賢 光 V集中研究会 生 V輪読会 法話 布教研究所研究員佐 -1 79 - 西 上の解釈や問題点を発表 した 。 ②講義 浄土宗布教研究所の集中研究会は 、研究 所 の関係者全員を招集して 、年 二回開催 される。今年度は左記のとおり行われた 。第十二回集中研究会 期 日 昭和六十一年五月三十日(金﹀ 会場東京明照会館 内 容 ﹃無 量寿経﹄に ついて 大正大学教授石 北朝鮮の仏教事情 浄土宗教学局長 応 、 氏 大本 山増 上 寺 法 主 中 村 ①新研究所員の松尾昭男、阿部定孝、稲 村博道、浅野義光、高僧英淳、 羽田恵三 村中成信、村島邦俊の各氏への辞令伝達 並びに新研究員(再任)の遠回弘賢、加 藤俊哉、佐藤雅彦、市川隆士の各 氏 への 氏 彦 三上人のみ教え 善 雅 V月例研究会(公開) 昭和六十一年度の月例研究会は 、左記の とおり東京明照会館で行われた。 。五月 七日︿水﹀ 現代 の医療と 仏教の課題 秀 藤 辞令伝達。 ②講義 大正大学 教 授 戸 松 啓 真 氏 ﹃ 布教研究所報﹄ 四号に掲載﹀ ハ ③総会と して、板垣隆寛所長の研究指針 の所信表明、並びに六十一年度の教学布 上 康 隆 田 氏 大 1 1 1/ 1/ V浄土宗布教師大会 昭和六十一年度の浄土宗布教師大会は、 布教師会北海道支部の担当により、七 月 一 一日(木﹀、四日(金)の両日にわたり、 一 札幌の新善光寺を主会場として開催 され た 。 。講演 悟りから救いへ 11浄土教への出発││ 大 本 山 増 上 寺 法 主 中 村 康 隆 台下 法然上人とその門弟 亜細亜大学教授梶村 藤本 本田貫 康達秀 雅基 真瑞公 彦雄雄 寛成 竜正夫 。大挙伝道 (竜雲寺会場) 神奈川教 区 稗 尾張教区山 山口教区河 (琢笠啓会老人ホ l ム会場) 北海道第一教区松 福岡教区安 (阿弥陀寺会場) 福島教区 富山教区 滋賀教区 を発行し 、研究所の活動内容を報告して おりますが 、紙数や発行期日等の制限も あり、そのすべてを掲載すること が困難 な情況にあります。したがってこれを補 うために 、 今年度より所報の別冊として 、 布教資料シリーズを適宜発行してゆくこ 現 とになりました。その第一回として ﹃ 代における生と死﹄を編集いたしまし た。内容は主に 、今年度の月例研究会に おいてど講義いただいたものを掲載いた しました。所報にあわせてお読みいただ きたいと存じます。 V浄土宗布教伝道史 浄土宗布教伝道の編纂の準備が現在すす められている。今年度は準備委員会が二 回開かれたが 、昭和六十二年より実行委 員会が正式に発足することになる。内容 は時代篇と人物篇にわかれ、五OO頁ほ どのものをめ . さしており 、昭和六十四年 度を完成のめどにしている。 V各宗教化関係研究機関連絡協議会 昭和六十二年二月 十九 日、駒沢大学を会 場に、各宗の教 化研究所が一堂に会し 、 ﹁現代における精神的危機にどう対応す るか﹂をテ 1 7に、意見交換が行われた。 一 一誤字訂正願い ﹃ 布教研究所報﹄三号の次の箇所に誤字 がありましたので 、訂正願います。 一 一 一O 頁、下段、九行目 o一 浄土随聞記﹄│←﹃十六門記﹄ ﹃ 。一三五頁、上段、五行目 、 六行目 蓮門十字軍│←蓮門住持訓 -1 8 0ー 氏 昇 輪原山 布教研究所では、年一回 ﹃ 布教研究所報﹄ V布教資料シリーズの発行 三梅石 昭和六十一年十一月、山形県天童市仏 向寺の開祖一向上人の七百年御遠忌法 要に 、大橋俊雄先生がご講演なされた ものを特別掲載いた しました。 0この﹃布教研究所報﹄は 、各教区を通 じて浄土宗全寺院に配布されますが 、 地域によって配布が遅延する場合もあ りますのでご了承下さい。 0布教研究所の活動は 、発行時期、紙数 等の関係で 、そのすべてを本誌に掲載 できかねる状態です。今回 、月例研究 会の報告を主に 、布教資料 ﹃ 現代にお ける生と死 ﹄ と題して別冊にまとめ 、 発刊することになりました。 ﹃ 布教研 究所報﹄ と合せてお読み下さい。 事E f J 3雪 共 立社印刷所 印刷所 -181ー 浄土宗布教研究所 発行所 寛 隆 垣 板 編集兼 発行者 [編 集 後 記 ] O浄土宗布教研究所の﹃布教研究所報﹄ 第四号をおとどけいたします。 0戸松啓真先生の﹁三上人のみ教え﹂は 昭和六十一年五月の集中研究会のおり にご講義いただいたものを収録いたし ました。 、昭和六十 O研究所員の研究成果報告は 一年度の浄土宗教学布教大会の一般研 究発表で発表した要旨であり 、 これに 発表されなかった方の研究報告を加え て掲載いたしました。 O意見発表コニ上人のご事蹟をあおいで ││布 教 師 は こ れ で い い の か ││﹂ は、 昭和六十一年の教学布教大会のと きのものであり 、 これを収録いたしま した。なおシンポジウム﹁現代と念 宗 仏﹂は、昭和六十一年十二月号の ﹃ 報﹄に掲載されています。 O輪読会報告﹁口語訳末代念仏授手印﹂ は、試訳の段階であり、未熱な訳です が、研究員が二年間にわたって行った 輪読会の報告です。斯界のご批判をあ おぎたいと思います。 。特別寄稿﹁開祖一向上人を仰ぐ﹂は 、 第 4号 布教研究所報 昭和 6 2年 2月 2 0日 印刷 昭和 6 2年 3月 1 日 発行 〒1 05東京都港区芝公園 4 7 4明照会館内
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