シラス地形を巧みに利用した城―知覧城跡

地 学 ニュー ス
地学ニュース(日本の露頭・景観 100 選 No. 2)
シラス地形を巧みに利用した城
―
知覧城跡(鹿児島県南九州市)―
上
田 耕*
A Castle Built on the Unique“Shirasu”Ash-landform :
The Ruins of the Chiran Castle in Kagoshima Prefecture
Ko UEDA*
I.は じ め に
知覧城跡は,鹿児島県の薩摩半島南部,南九州
市知覧町に位置する(図 1,図 2)。2008 年小学
館の「日本名城 100 選」にも選ばれている。ま
るで大きなお碗を逆さまにして並べたようになっ
ているのが城跡である。中央に谷筋が入っている
が,ここが大手道であった。シラス台地特有の垂
直に切り立った崖が,壮大な規模の空堀となって
知覧城を守った。航空写真でみるとその様子がよ
くわかる(図 3)
。城のなかに入ると自然と人工
的な構造物とが融合した目のくらむばかりの光景
GMT
がそこにある。
図 1 鹿 児 島 県 南 九 州 市 知 覧 町 知 覧 城 跡 の 位 置 図.
南九州の城は,いくつもの独立した丘陵状の城
くるわ
(曲輪という)が集まって 1 つの巨大な城郭群を
構成するところに大きな特徴がある。
II.地形・地質について
知覧城跡はその典型的な城跡として平成 5 年 5
月 7 日に国指定の史跡となった。
知覧城は,南九州市知覧町大字永里字城内に所
城跡の北側 1 キロ先には市街地で江戸時代か
在する,中世の山城である。火山灰台地(通称シ
らの知覧麓の武家屋敷の町並みが残っている。現
ラス)の北部の麓川の侵食谷によって形成された
在は国の重要伝統的建造物群保存地区となってい
知覧市街地を包含する盆地端部に位置し,侵食に
るが,その起源は,中世の知覧城にある。
よる複雑な地形を有効に利用して城郭を形成して
本稿ではその地形や歴史,城の構成などについ
いる。
て紹介する。
城内の植生の基本は,照葉樹林の自然林と針葉
樹の人工林,それに竹林である。東ノ栫と蔵屋敷
*
*
ミュージアム知覧
Museum Chiran
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図 2 知 覧 城 跡 の 位 置 図(南 九 州 市 地 形 図 25000 分 1 地 図 よ り).
との間には湧水をみるが,これが小川となって谷
その後,天正 19 年(1591)佐多家 11 代久慶は
を形成,城内最大の自然の空堀の基盤をなしてい
一族の海賊事件の責任を負い川辺宮村に移封さ
る(図 4)
。その流れは,湾曲しながら大手口に
れ,知覧は種子島氏の領有するところとなるが,
向かい,城谷口の方向へ流出,麓川へ合流する。
後の慶長期(1596 ~)ごろには知覧城が出火に
城跡は,浸食谷との間に形成されたシラス台地に
遭ったことが記録にある。江戸時代に入ると再び
手を加え,深い空堀を築き,城と城との間を遮断
佐多氏は地頭となって旧領地知覧へ復帰している
し,独立した丘陵を形成しているところに大きな
が,その拠点は知覧城ではなく,麓の武家屋敷
特徴がある(横田, 1994; 図 5)。
で,以来明治時代に至るまで佐多氏が統治した。
III.歴
史
IV.城の縄張構成
中世知覧城跡は文和 2 年(1353),佐多忠光に
縄張とは城を築く時の設計プランである。
知覧があてがわれ,応永 24 年(1417)今給黎
知覧城は標高約 170 m のシラス台地に多くの
久俊が入城したが,同 27 年には島津久豊と佐多
人為的な造作を加え,まとまりのある独立した曲
親久が取り囲み奪取,再び佐多氏の居城となる。
輪(人工的な平坦地)群を形成している。各曲輪
それは発掘調査での青磁や白磁などの碗や皿など
群の間は,巨大な空堀で区画され,堀底を通路と
の出土遺物の年代からも裏づけられる。この時期
した南九州では多くみられるタイプの城跡であ
知覧城が,最も緊張した時期だったと考えられる。
る。
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地 学 ニュー ス
図 3 知 覧 城 跡 の 上 空 写 真(南 九 州 市 教 委 提 供).
城郭は城の中心となる曲輪群と外側の曲輪群と
大きく 2 つに分けられ,その周辺は屋敷群から
構成されている(千田, 1993a; 図 6)。曲輪間で
最も幅広いところが 100 m,堀底から曲輪の上ま
で平均約 30 m,急斜面のシラスの深いガケが特
徴的である。
南九州の城は,一見しただけではいずれが主郭
かはっきりせず上位・下位の曲輪という序列化,
すなわち全体を貫く主郭への求心性は希薄なのが
特徴とされる。そのため,各曲輪の独立性が強
く,それぞれの曲輪に「何某城」等々,さまざま
な名称がつけられている(村田, 1987)
。
知覧城においても中央に「本丸」「蔵之城」「今
城」「弓場城」といった主郭と,その周りに「児
城」「式部殿城」「東ノ栫」「西ノ栫」と呼ばれる
城があり,城の集合体である。台地の上にある武
家屋敷群であるといえる。さらに城の南西側には
図 4 本 丸 跡 と 今 城 跡 の 大 空 堀(南 九 州 市 教 委 提 供).
地 表 面 よ り さ ら に 約 7 m 下 が 堀 底.
殿屋敷,蔵屋敷,下屋敷,伊豆殿屋敷など官位・
官職を示す城名もあり,重臣クラスの屋敷地の存
在が想定される。城の南の式部殿城(セキッドン
ジョ)は,佐多氏二男家に与えられた一郭とされ
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図 5 知 覧 城 本 丸 跡 断 面 模 式 図(作 図:横 田 修 一 郎; 横 田, 1994 よ り 引 用).
図 6 知 覧 城 跡 縄 張 図(作 図:千 田 嘉 博; 千 田, 1993a よ り 引 用).
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図 7 土 坑 よ り 出 土 の 青 磁 碗(15 世 紀 代)や 土 師 器 皿・イ ノ シ シ 骨(知 覧 町 教 委, 2006 よ り 引 用).
(江平, 1994)
,その西にある伊豆殿屋敷は,佐多氏
ら保存整備に先行して中心曲輪の一つ蔵之城跡を
重臣寺師家に関係した一郭の可能性が豊玉姫神社奉
調査した。主殿と考えられる 4 間×4 間の掘立柱
納面墨書を手がかりに示されている(上田, 2003)
。
建物跡や深さ約 2 m を超える土坑(ごみ溜めま
今日,殿屋敷,蔵屋敷には良好な土塁と堀が確
たはトイレ),虎口(入口)などの遺構が発見さ
認できる。城の随所には,堀や土塁,櫓台跡,枡
れた。それに伴って,15 世紀代から 16 世紀代の
形をはじめテラス状の小規模な曲輪が巧に配置さ
中国の青磁や白磁などの碗や皿・瓶,茶入れ,タ
れている。また,南九州の城でよくみられる T
イ産や朝鮮半島の陶磁器,鎧 の一部や鉄砲の鉛
字枡形や織豊系城郭に採用されている内枡形の形
弾,十一面観音菩薩像なども発見されている(図
よろい
骸化したものもあるとされる(千田, 1993b)。中
7)。このような多彩な出土品の数々は,不明な
世から近世前半にかけての長時間にわたり利用,
部分の多い南九州の拠点城郭の使われ方を探る手
改修されて今日に至っていることが発掘調査から
がかりにもなり,あわせて海上を通じたダイナ
も明らかになっている(横田, 1994)。
ミックな交易の様子までも知ることができる(知
知覧城の城域は約 40 万 m ,大きな空堀で区画
覧町教委員会, 2006)
。
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からぼり
されている。下から曲輪までの高さ約 20 ~ 30 m,
VI.お わ り に
標高は平均して約 170 m,中心部分には本丸(主
郭),蔵之城,今城・弓場城があり,それを取り
しきぶどの
平成 17 年には蔵之城跡の遺構の立体表示や排
かこい
囲むように式部殿城,東ノ栫,西ノ栫などの外郭
水処理工事やシラスの法面崩落防止のための整備
がある。城の北西に大手口が南東側に搦め手口が
も実施されている。現在,保存のための定期的な
あったとされる。
管理が行われ,近くにあるミュージアム知覧には
模型や出土資料などが展示され,ビジターセン
V.発掘調査でわかったこと
ターの役割を果たしている。
発掘調査は平成 4 年にはじまり,平成 10 年か
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千田嘉博(1993b): 城館跡整備の事例.城館ハンドブッ
ク,新人物往来社,267-269.
上田 耕(2003): 知覧城の一郭,伊豆殿屋敷について.
南九州の城郭第 20 号,南九州城郭談話会,4-5.
横田修一郎(1994): 知覧城跡の地形・地質特性.知覧
城跡(二),知覧町教育委員会,71-82.
引用文献
知覧町教育委員会(2006)
: 出土遺構・遺物.知覧城跡
(三),知覧町教育委員会,25-139.
江平 望(1994)
: 中世の知覧.知覧城跡(二),知覧町
教育委員会,13-17.
村田修三(1987)
: 城の分布.図説中世城郭事典第 3 巻,
新人物往来社.
千田嘉博(1993a)
: 知覧城の縄張構成について.知覧
城跡,知覧町教育委員会,13-16.
参考文献
上田 耕(2005): 南九州の城郭と近世麓集落.中世城
郭研究第 19 号,中世城郭研究会,269-277.
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