イスラム教について 10班 第1章 イスラム教の歴史 1・1 イスラム教の開祖はモハメットとかマホメッドとか呼ばれているが、正しくは モハンマドといい、ローマ字でMUHAMMADとかく。 彼は西暦 570 年頃、アラビア半島のメッカという町に商人の子供として生ま れる。その頃のアラビア半島世界は、バルカン半島や小アジア半島を領有し、コンス タンティノープルを首都とする東ローマ帝国と、現在のイラン、イラク、シリアを領 有していたササン朝ペルシア帝国のはざまにあり、多数の部族集団によって統治され ていた。彼が生まれたメッカの町は、ヨーロッパとインド・中国間の貿易路、いわゆ る海のシルクロードの一つの拠点として、また、砂漠をラクダによって横断する隊商 の集まるオアシスとして、多くの民族が出入りするにぎやかな町であった。 モハンマドも若い頃から隊商として遠くのいろいろな所へ出かけ、商売に励 んでいた。彼は二十前後に、二十歳年上の裕福な未亡人と結婚し、かなりの財産を築 いた。 モハンマドが四十歳になったある日、メッカ郊外の洞窟の中で昼寝している と、ガブリエルという天使が現れ、神の新しい預言に従い、新しい宗教を起こすよう に命じた。モハンマドは最初は驚き、あわてて洞窟を逃げ出して、家の中で震えてい た。その後何回か同じ経験を繰り返し、彼は天使から伝えられる言葉が、真実で神の 言葉であると確信するようになり、その教えを広め始めた。 モハンマドはメッカの経済を支配するクライシュ族という、有力な部族の出 身ではあったが、その頃のアラビアで盛んだった宗教は、多くの神を信じる多神教で あったため、正反対の一神教の教義は受け入れてもらえず、身内のクライシュ族から さまざまな迫害をうける。彼の妻のハディージャが信者第一号となり、ぽつぽつと信 者も増えていたのだが、メッカでの布教は非常に困難になり、622 年に神の啓示に従 い、信者集団をつれて、メッカ北方約 300 キロのメディナという町に移動する。 この移動が「ヒジュラ」と呼ばれ、イスラム教はこの年をもって、イスラム の元年としている。この宗教の大発展の基礎ができたのがこれに始まるからである。 メディナの町には多くのユダヤ人がすんでおり、彼等の信仰する一神教のユ ダヤ教と多くの共通点のあるこの宗教集団を、改宗はしないまでも暖かく迎い入れ た。 共通点があるというのは、キリスト教がユダヤ教を母体としているように、 イスラム教は、この両方の宗教を母体としている為だと思われる。そのため、この三 者とも、唯一神による天地創造から始まり、アダムとイブの楽園追放、ノアの方舟、 バベルの塔、アブラハムの物語、モーゼのエジプト脱出等、伝承を同じくしている。 いわば兄弟関係にある宗教といえる。 メディナについた新興宗教集団は安住の地を得て着実に発展していくが、彼 らに信者の勢力が大きくなるにつれ、次第にユダヤ人との摩擦が大きくなっていく。 またメッカのクライシュ族も、隊商の妨害や略奪など、引き続き圧迫をくわえてきて いて、モハンマドはこれら両方の敵と戦わなくてはならなくなる。 事あるごとに発せられる神の啓示にしたがって何度か戦いを繰り返し、ユダ ヤ人をメディナからい追い出した後、ついに 630 年、メッカを占領する。 モハンマドがメッカに入城して最初にした事は、従来の多神教の神殿であっ たカーバ神殿に乗り込み、そこにある神々の偶像を徹底的に叩き壊して回ることだっ た。 ユダヤ教やキリスト教も偶像崇拝を戒めているが、イスラム教はこの点では 徹底していて、神やモハンマド自身の像はおろか、絵に書くことまで禁じている。そ のため、イスラム教の寺院の中はガランとしていて、何の絵も像もなく、アラビア文 字の書道が室内外の装飾の役割を担っている。ただ、正確に言うと何もないのではな くて、神殿の壁の一箇所に「カーバの黒石」と呼ばれる石がはめ込まれている。隕石 らしいのだが、この石がアッラーの指先とされている。 ムハンマドはメッカ入城の二年後に死亡しているが、その頃にはイスラム教 の勢力はアラビア半島一帯に広がっておりその勢いは彼のカリフと呼ばれた後継者達 により加速され、アラビア半島を飛び出して、シリア、エジプト、北アフリカ、ペル シアの遊牧民族の間へと急速に広まっていく。 よく「片手に剣、片手にコーラン」と言って、イスラム教徒が勢力を広める にあたって武力で改宗を強制したように言われるが、これはイスラム教を敵視してい たキリスト教徒であるヨーロッパ人による中傷であり根拠はない。彼らは征服地の住 民に対して人頭税さえ払えば、信教の自由を保障していた。 その後、ムハンマドの築いたイスラム帝国は、ムハンマド死後百年の間に、 西はスペイン・ポルトガルのイベリア半島から、モロッコ、アルジェリア、チュニジ ア、ニジア、リビア、エジプトの地中海沿岸、シリアを席巻し、イランのササン朝ペ ルシアを滅ぼし、中央アジアで中国の唐帝国と衝突し、東はパキスタンまで拡大す る。 ローマ帝国の継承国であるビザンチン帝国もしょっちゅう侵略を受け、フラ ンス・ドイツ・イタリアの前身であるフランク王国もようやく南フランスのトゥール ・ポアティエで侵攻を食い止めている。 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三者ともパレスチナ地方のエルサレム を聖地としているが、ヨーロッパ諸国はこの聖地を奪還しようと、ローマ教皇の呼び かけで十一世紀以来、「十字軍」と呼ばれる遠征を百年以上十回にわたって遠征させ たが、一進一退を繰り返して成果は上がらず、ヨーロッパ人に「ムスリム憎し」の感 情を植え付けた。 その後、イスラム帝国は分裂して、イスラム教とに改宗した様々な民族が 様々な王朝をたてて、興亡を繰り返す。その間、イスラム教はアフリカ北半部やイン ドにも浸透していった。しかし、イベリア半島ではイスラム教徒の支配が五百年続い た後、15 世紀期末に「レキコンスタ」と呼ばれるキリスト教徒の祖国回復運動によっ てイスラム教徒はモロッコに追いやられ、その勢いでヨーロッパ社会はスペイン・ポ ルトガルを先頭に大航海時代から植民地主義時代に向かう。 また、その代償のように、ビザンチン帝国が、15 世紀中ごろイスラム教徒ト ルコ族によって滅ぼされ、イスラム教がバルカン半島やロシア南部にまで広がってい き、五百年間、バルカン半島はイスラム教徒の支配下におかれる。旧ユーゴスラビア での民族紛争は、この時代に種をまかれたといえる。バルカン半島は総じてギリシア 正教から派生した「オーソドックス」と言うキリスト教の宗派が盛んだったのだが、 五百年間のオスマントルコ帝国の支配下に改宗する人も増え、民族・言語を同じくす る南スラブ人が、「オーソドックス」を信仰するセルビア人 3)、イスラム教に改宗 したボスニア人、そしてからくもトルコの侵略を防いだオーストリア帝国の影響下に あって、ローマカトリックを信仰するクロアティア人及びスロベニア人に分化した。 15 世紀には早くからイスラム教徒の影響を受けていたインドの商人を通じ て、インドと中国の貿易の中縦地であるマラッカ海峡地域からイスラム教がマレーシ アやインドネシア、ブルネイなどの東南アジアに浸透していく。この地域はそれまで インドの影響でまず仏教、続いてヒンドゥー教が盛んだったのだが、マレー半島にマ ラッカ王国が成立して、海峡貿易の中心地になると、王がまずイスラム教に改宗し、 やがて民衆に広がっていく。ジャワ島でも勢力が広がっていき、ついに強大なヒン ドゥー教王国のマジャパヒト王国はイスラム教団マタラムに滅ぼされ、改宗を拒んだ 一派はバリ島に逃れた。このため現在でもインドネシアでは、バリ島のみがヒン ドゥー教の伝統を伝えている。 世界一周で有名なフェルディナンド・マゼランが 1521 年にフィリピンについ た時、すでにミンダナオ島やバワラン島にイスラム教が浸透しており、マニラもイス ラム教の王が支配していた。フィリピンではその後、五百年間もイスラム教に支配さ れていたスペイン人がその対抗意識から、精力的にキリスト教の布教に努めたため、 現在では国民の 90 パーセントがキリスト教であり、同じマレー系国家のマレーシアや インドネシアやブルネイとは趣が違っている。 現在、イスラム教は公称 6 偉人といわれ、キリスト教につぐ第 2 の世界宗教 だ。イランのホメイニ革命や、リビアのカダフィ大佐、パレスチナ紛争、サダム・フ セインなどのイメージで、イスラム教はジハードの名の下に世界各地でテロ活動を起 こしている危険きわまる宗教だと誤解されがちだが、テロ活動を行っているのは極少 数であり、大多数のイスラム教徒は現在でも忠実に様々な戒律を守って禁欲的な生活 をおくっている。 1・2 史実であった イスラム史によれば、セルジューク朝の頃シーア派の過激分派“ハシシーン 派”“暗殺教団”がシリアからアフガニスタンの山岳地帯を支配、堅固な山城に拠っ てスンニー派要人、十字軍、モンゴル軍等に 150 年に亘って刺客を送った。初代 “山 の老人”はシーア派系イスマイリ派ニザリ教団の統領ハサン.イ.サバーであったとさ れる。マルコポーロが父、叔父と共にフビライハーンに会うため、ヴェネチアからコ ンスタンチノープルを経て旅をしていたのが 1260~1274 年であるから、暗殺教団を亡 ぼしたイルハーン国(後のイラン)で自慢話を聞かされたのであろう。ハシシーンとは 大麻野郎ということで意味深長である。日本の鎌倉時代の出来事である。{文永の役 :1274 年、弘安の役:1281 年} 原理主義とスーフィーズムと過激派 ムハンマド(570~632)は唯一神アッラーに帰依する教団国家を築いたが,後継 者を定めずに亡くなった。高弟が後をつぎ世襲して繁栄したが、権力者の驕りが目立 つ様になると“ムハンマドに帰れ”の運動がおこる。つまり原理主義である。カソ リックに反逆したルッターと同様であろう。最初の運動はムハンマドの従弟で娘婿ア リーの擁立だが、守旧派(スンニー派)に虐殺されその息子は戦死し過激派の母胎と なる。(シーア派の誕生)スーフィーズムはイスラム神秘主義のことで、仏教の“密 教”にあたる。神と自己との一体化の境地(トランス状態)を求め過酷で自虐的な修 行が盛んに行はれた。大麻、阿片、幻覚茸、香料(特に乳香)等を使ったとしても不思 議ではない。(コーヒーはスーフィーにより齎されたことになっている)トランス状 態の時に偏向したコーラン解釈を叩き込むと、自派を受け入れない他教団や異教徒に 対しジハード(聖戦)を仕掛ける、つまり原理主義過激派を生み出すことになるので はないか。ヘロドトスの記述した歴史に、スキタイ人がサウナ風呂の中で大麻を焼け 石で加熱して酔っ払い大声でうなる話が有る。ハシッシはインド大麻の花で、精製す るとマリファナ(樹脂)になる。テトラヒドロカンナビノール(THC)酸を含み加熱する と THC になりこれがずんと効く。その作用はストレス感の解除と陶酔感、期待感、暗 示にかかり易く、狂信に陥り易くなる動物実験では、集団生活で異常のないマウスが 単独になると極めて狂暴になるという。中国、日本の麻には THC 酸の仲間カンナビジ オール酸があるが加熱しても THC が生じない。しかしインド大麻と併植すると交雑し THC 酸を生じるようになり、持ち込みは危険である。 原理主義と過激派の変遷 暗殺教団が亡びても,シーア派は残っているが現在に至るまで少数派である。 原理主義とスーフィーズムはシーア派から始まるがその後分派変遷を重ねていく。ム ハンマドに始まるアラブ人のイスラム教団は被選民意識を持たず、唯一神に帰依し啓 典を信じる者を人種を問わず仲間とみなした。被選民意識に凝り固まったユダヤ教の ユダヤ人と好対照である。結果としてモンゴル人、トルコ人、ペルシア人、エジプト 人、やがてアフリカや東南アジアの人々までがムスリムになって行った。なおイスラ ムとは唯一神アッラーに帰依するとの意味で、信者のことをムスリムという。ムスリ ム国家群は繁栄しバグダードのアッバース朝の頃(8~9 世紀)頂点に達する。領土は拡 大し文化も数学、化学、天文学、文学、すべて当時の最高峰であった。(アラビアン ナイトはその頃出来た) 爛熟すると中央政権が退廃、原理主義や過激派が現れて中央 政権の交代が起こる、前出のセルジューク朝はトルコ人傭兵軍団が政権を取ったもの で、やがてオスマントルコ帝国になる。やがてヨーロッパのキリスト教国がオスマン トルコを抑え、第一次、第二次大戦の戦後処理で一方的に領土を分割される。戦後反 欧米の運動が高まり独立を果たして行くが、非アラブ朝の敗戦に対する反省からアラ ブの原理主義が強まり過激化していく、さらに近年ムスリム同胞団なる国際的なスポ ンサーまで現れ、ハマース、ジハア-ド(パレスチナ)ヘズブッラー(レバノン)アブサ ヤフ (フィリッピン)ガマーア(エジプト)FIS,GIA(アルジェリア)続いてのアルカイダ さらに最近のパキスタンのグループと急増している。またホメイニ師の命令で“悪魔 の詩“の著者にジハードが宣言され、英国人の著者は特務機関に保護され、日本人の 翻訳者が暗殺されたのは記憶に新しい。 テロを許容する発想の背景 自分の生命を犠牲にしてまでそう簡単にテロを行うことが出来るのは何故だろ うか。答を求めてイスラム史を復習し、コーラン(日本語による解説と云う事にして 出版出来た口語約)を読む羽目になった。コーランの翻訳は最近まで宗法で禁じられ ていた。インドネシア勤務時、学齢前の子供がイスラム寺子屋でコーランを教わり、 コーランの一節を朗誦しアラビア語らしき文字を書くのを見て感心した事がある。幼 いときからコーランの偏った断片を叩き込まれたら、テロを正当化し自己の生命を犠 牲に出来る心理状態になれるのかもしれない。テロリストを元気付けそうなコーラン の文言をピックアップして見た。 (1):最後の審判と来世観 天使イスラフィールが喇叭を吹くと天変地異が始まり、死者は墓から蘇 り生者と共にアッラーの前に引き出される、善行悪行の度合いにより来世の行く先が 決められる。 天国:緑園に清流、葡萄酒、蜂蜜の川が流れ、果物はたわわに実り、目元 涼しい処女妻達が侍り、いくら飲んでも悪酔いしない酒、好みの果物、鶏肉など望み 次第,ラマダーンで断食した日数と善行の回数だけ妻達と歓を交えることが許され る。しかも彼女らは永遠に処女なのである。(善行を積んだ女性の信者はどうなるの だろう?) 煉獄:期限付き懲役刑の獄舎。 地獄:無期懲役の獄舎。 (2):ジハード(聖戦)の義務 ☆敵を殺したのは、ムスリム達に有りがたい恩寵(天国ゆきの切符)を経験 させるためアッラーがなさった事だ。お前たちがやったつもりだろうがそうではな い。 ☆罰当たりどもが進軍してきたら彼らに背を向けてはならぬ、背を向ける 様な者はアッラーの怒りを受け、行く先は地獄の劫火だぞ。 ☆現世を棄て来世を得ようとする者は大いにアッラーの道に戦え,戦死し ても凱旋しても大きな褒美(天国行きの切符)を授けるぞ。 “ジハード”とは、ムスリムに対抗し其の理想社会実現に反対する者を撃 退する為に力の限り戦う事を意味する。コーランには上記の様な文言があり、来世観 とジハードが短絡する危険性は否定出来ないのではないか。 ムハンマドとコーラン ムハンマドは 570 年頃メッカの商家ハーシム家に生まれた。誕生前に父を 6 歳で 母を失い祖父と叔父に育てられた。キャラバンによる隊商交易に従事し大金持ちで未 亡人の交易商社に雇われた。やがて商才を見込まれ 25 歳の時その(40 歳の)未亡人ハ ディージャと結婚する。赤貧から一躍大金持ちになった。商用でしばしばシリアやレ バノンに行った時、キリスト教徒がある時期に山に籠り瞑想するのを見て孤独と瞑想 の欲求が強まり 40 歳の頃山の洞穴に籠る禁欲生活に入る。その時突然天使ジブリール が降臨しアッラーの預言者にさせられる。その後相次いでアッラーの啓示を受け其の 教えを広めてゆく。コーランは、神がかり状態のムハンマドの口から語られたアッ ラーの言葉“啓示”を第三代カリフが纏めたものである。一人称はアッラー、二人称 はムハンマドや信者、三人称は異教徒等となっており、語り口はかなり乱暴で隊商た ちの言葉に見える。 メッカ、メディナ、カーバの神殿 当時のメッカはペルシア、バビロニア、シリア、エチオピア、インドなど大国 間の国際貿易の通路にあり、クライシュ族が支配する商業都市であった。豊かな水場 があり、カーバの神殿は各地の部族が夫々の神像や聖石を祭り、聖なる月になると全 アラビアから巡礼が集まって大変栄えていた。そのメッカで、神がかりしたムハンマ ドが“アッラー以外に神は無し,信じない者は地獄の劫火だぞ”とやったものだから から命を狙われ僅かの信者と共にメディナに逃げざるを得なかった。メディナも通商 の要路にある商都であったが、イエーメン人が多く富裕層は全てユダヤ人だったので 一神教が当たり前であった。ムハンマドは此処で急速に勢力を伸ばすことが出来た。 やがてメッカを攻めクライシュ族は投降し、カーバ神殿では二つの聖石を除く全ての 偶像と聖石を破壊した。偶像崇拝を止めさせる必要からとは言え過激な行動には違い ない。 イスラム教の成立 コーランと其の解説を良く読むとムハンマドがイスラム教を作る過程が見えて くる。以下は私説“イスラム教の誕生”である。中年になったムハンマドは、富豪の 妻の財産を増やし続けるのに倦み、俗悪で騒然とした雰囲気とあくどい駆け引きの商 取引に嫌気がさして来た頃、シリアのキリスト教徒と交際しその思想に強く惹かれて いく。山篭りを通じて新約、旧約聖書、福音書、ヨハネ黙示録等に通暁する様にな る。しかしユダヤ教徒やキリスト教徒の行状には同調出来るものでなく、どうかしな ければと切羽詰った時に神がかりになり、アッラーの啓示を受けるのである。唯一神 の名前がエホバ、アッラーと違うだけ、アダム、ノア、アブラハム,イサク、イスマ イル、ヤコブ、モーセ、マリア、イエス。登場人物と物語は同じである。此処に重要 かもしれない話がある。アブラハムは神託で子供を授かる筈であったが、妻が 90 歳に なっても出来ず、妻のサラは"エジプト人の女奴隷ハガル"を孕ませなさいと言う、そ れでイスマイルが生まれ、やがて妻にもイサクが出来る。イサクはカナンの地に行き ユダヤ教の祖になり、イスマイルはメッカに行ってイスラムの祖になった。 ユダヤ教徒、キリスト教徒が不倶戴天の敵 初期の啓示で敵は偶像崇拝の邪教徒であり罵詈雑言を浴びせているが、ユダヤ 教徒、キリスト教徒には好意的である。キブラ(遥拝の方角)もエルサレムに定め た。これを正当化するため次のような伝承を作った。ムハンマドはある夜天馬に乗り 天使ジブリールに連れられてエルサレムに飛び、有名な岩のドームから天界に巡礼す る。アダム、イエスとヨハネ、モーセ、アブラハムと順番に会い最後にアッラーの前 に出る。一日 50 回の礼拝を命じられるがモーセの取り成しで 5 回に減らしてもらっ た。ムハンマドがメディナで急速に勢力を伸ばすと、ユダヤ人はずる賢く反対に廻 る。ムハンマドはすぐにキブラをメッカのカーバ神殿に変えてしまう。ユダヤ教徒に 対する罵詈雑言が始まり不倶戴天の敵に変わる。カーバの神殿を異教、邪教の総本山 にして置く訳にはいかなくなり、大掃除が必要になった訳である。アブラハムとイス マイルが神殿を立てたことにして、聖石の一つに足跡を刻みアブラハムの立ち所とし たのである。 ☆ユダヤ教徒:唯一神と契約した民はユダヤ人だけ、(カナンの地は神の約束 の地)ムスリムに対する狡猾な敵対行動を許す訳にはいかない。 ☆キリスト教徒:唯一神に子供はいない。イエスは、ユダヤ人が信仰を怠るの で悔い改めさせるためアッラーがマリアに息を吹き込み孕ませたもので、土から作っ たアダム同様に神ではない。マリアもイエスも神とする信徒を認める訳には行かな い。 パレスチナ抗争は先住ぺリシテ人とユダヤシオニズムの争いに止まらない。 一方ユダヤ教徒、キリスト教徒から見れば、女奴隷を母に持つイスマイルの子 孫と称するムハンマドから、“お前たちが唯一神の教えに従はないから唯一神の託宣 で俺が本家になったのだ聖書も福音書も前の預言者も俺の味方だ”とやられているわ けである。ユダヤ教徒の被選民主義とムスリムの偏向したイマームやウラマーが出す 報復ジハードの指示が無くならない限り和平の見込みがない。ユダヤ人は古くから商 才に長け、頭脳の優れた人物を多数輩出している。欧米の大富豪ロスチャイルドなど 経済力が強く、アインシュタイン、ルービンシュタイン、バーンスタイン等有名人が 多い。このため欧米の先進経済国がユダヤシオニズムを援助していると見られ、アル カイダのテロの一因になっているのは間違いない。ソ連アフガン戦争当時エジプトな どムスリム諸国は、都市に集まる若者をアフガン義勇軍に仕立て送り出したが、結果 として“失業対策がアルカイダを育てた”との反省が聞かれる様になった。冷戦中の アメリカはパキスタンを通じてイスラム原理主義を唱えるアフガンゲリラを援助し た。1980 年代半ばには、ニューヨークのブルックリンに中東難民センターが作られ原 理主義者の大物が活動拠点にした。此処で難民を教育しアフガン義勇兵として送り出 し、帰還兵をうけいれた。これらの人々はマンハッタン対岸のアラブ人地区に住み雑 居ビルの中にモスクを作った。筋金入りの原理主義兵士が毎日貿易センタービルを眺 めていた。1993 年 2 月に貿易センタービル爆破事件が、7 月にはマンハッタン同時爆破 未遂事件が起こり、センターの指導者ラフマン師と 3 人の弟子が関与したとしてラフ マン師は逮捕された。アメリカは獅子身中の虫を飼っていた事になる。 コーランに見る女性の地位 当時は他国でも同様だったのかも知れないが、コーランでは女性が冷遇されて いる。 ☆ 女はアダムの肋骨から作られたもの。アッラーは男女間に優劣をおつけに なっている。 ☆ ムハンマドが順番の妻を飛ばしてエジプトの女奴隷と交わった時その妻に 見つかって謝り、他の妻に内緒にするようたのんだ。ところが他の妻に漏らしてし まった。アッラーの啓示は、謝ることは無い。妻達が反抗したら離縁すればよい。 ☆ 慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕 方が無いがそのほかの美しいところは人に見せるな。(手首から先と顔以外の女性の 身体は陰部である) ☆ 男は結婚契約金が無いならば女奴隷で我慢しておけ。等々 エピローグ 初めてコーランを読んで面食らう事が多かったが、啓示を時系列的に並べイス ラム成立の時代考証と合せると全貌が浮かんで来る。ムハンマド(40)は商売が順調で 財産も増やしたが、妻ハディージャは 55 才にもなり3人の男の子は全て夭折して満た されないものを感じていた。仕事で付き合ったキリスト教徒やユダヤ教徒から新約旧 約聖書や福音書を学び宗教心を起こす。山篭りするうちに“神がかり”になり、聖書 や福音書を取り込んだアッラーの啓示を“狐憑き”のように喚きだしたのであろう。 偶像崇拝の邪教は当然であるが、ユダヤ教やキリスト教も受け入れがたく、結果とし てイスラム教を築くしか無かったのである。しかし祭政一致の時代に単なる預言者に 教団国家の建設など出来るものではない。宗教家と云うより、先見性と卓越した戦略 を併せ持った軍の指揮官が見えてくる。戦時は自分と信者の士気を鼓舞し、日常生活 では人心を収攬する為に、自分の口を通したアッラーの啓示を巧みに使い教団国家の 統領になっていった。最初の啓示でムハンマドは文盲になっているが、中近東を股に かけた優秀な商人が文盲で勤まるわけが無く、預言者を意識させる為の巧みな演出で あろう。そういう訳で啓示は断片的であり一貫性がなく、それを編集したコーランは 難解であるが当時の様子が見えて大変面白い。一方、偏向したウラマーやイマームが 短絡的な解釈をすると恐ろしい事になる可能性も秘めている。唯一神、預言者、コー ランを誹謗、冒涜することは厳に慎むべきである。イルハーンが暗殺教団を亡ぼすの に兵糧攻めで 3 年かかっている。この手の狂信武装集団の掃討にはアメリカもまだま だ苦労が続くのではないか。 イスラム歴 マホメットがメディナに移った日(A.D.622 7 月 16 日)がイスラム歴 A.H.元年 1 月 1 日で、奇数月が 30 日偶数月は 29 日の完全太陰暦である。一年は 354 日で太陽暦より 11 日づつ早く進む。9 月が断食月、10 月 月初めに断食明けの祭りがあり盛大に祝 う、12 月は巡礼月で犠牲祭があり雄羊を神に捧げ屠刹して肉をあり人々に施す。 第2章 イスラム文化の建築様式 エジプトのイスラム化 エジプトの首都カイロは、古代エジプト文明の時代から存続した と思われ がちであるが、実際は もっとずっと後の 969 年にイスラム都市、アル・カーヒラ (勝利の都) として建設された町で、そこは イスラム建築の宝庫と言われるほどに 多くの建築遺産をかかえている。 その中で 最も古い 「アムルのモスク」 は、実は アル・カーヒラの建設よ りもさらに古く、カイロ南部の、今はオールド・カイロと呼ばれる地区に建ってい る。 イスラム軍がエジプトを征服したのは、前回紹介したソハーグの白修道院が 建てられた 200 年後の 640 年で、将軍 (後のエジプト総督) アムル・ブン・アル アースは、その統治のために フスタートという軍営都市を建設した。 その翌年 フ スタートに創建されたモスクが、彼の名をとったアムルのモスクである。 このフスタートの隣には、さらに古い地区、バビロンがあり、あわせて オールド・カイロと呼ばれているが、それは古代ローマ時代の 96 年に作られた城砦 都市で、今もキリスト教の聖堂や修道院が残っている。 アムルのモスクは エジプト最古のモスクであるが、しかし当初の建物が現 存しているわけではない。 記録によれば、アムルが建てたのは 29m x 17m という小 規模なもので、後のモスクの特徴である ミナレットも ミフラーブも 中庭もなかっ た。 それは イスラム教の開祖 ムハンマドが初めて神の声を聞いた 610 年頃か ら、わずか 30 年しか経っていない時であり、まだモスクの建築形式というのは 確立 されていなかったのである。 当時のアラビアやシリア、イラクに建てられていたは ずの 最初期のモスクと同じく、日干しレンガの壁で囲まれ、ナツメヤシの幹を柱と し、シュロの葉と土で葺かれた、最も素朴な 砂漠地帯の建築であったろう。 アラブ型モスク モスクの原型は、メッカの町で迫害されてメディナに逃れた (622 年) ム ハンマドが 自宅の庭を礼拝所にしたことに求められる。 それは塀で囲まれた矩形の 広い庭で、当初は ムハンマドが兄弟宗教と認めていたユダヤ教とキリスト教の聖地 である エルサレムに向って礼拝していたので、庭のエルサレム側 (北側) に ヤシ の木とシュロの葉で屋根をかけて日陰をつくり、日常の礼拝スペースとした。 ところが次第に先行宗教と対立するようになって、礼拝方向 (キブラ) を メッカのカーバ神殿の方向 (南側) へと 180 度転換することになる。 今度は メッ カ側に同様の屋根を架けて日陰を作ったので、ムハンマドの家の庭は、陸屋根の列柱 ホールが中庭を取り巻く 長方形のスペースとなった。 これが イスラム圏の拡大とともに各地に建てられるモスクのモデルとな り、メッカ側の壁 (キブラ壁) にはメッカの方向であることを示す 半円形のくぼ み (ミフラーブ) が作られ、中庭の中央には 礼拝の前に手足を洗い清める泉が設 けられて、「アラブ型モスク」 が成立するのである。 アムルのモスクがそうした形をとるのは、創建から 32 年後の 673 年であっ た。 しかも、そこには初めて ミナレット (そこから礼拝の呼びかけをする塔) が 建てられた。 現在のミナレットは 後のトルコ時代のもので、当初は キリスト教の 鐘楼にならった 角型であったらしい。 建築的成熟への道のり このあとも アムルのモスクは何度も拡大や改築をされてきたので、現存の 120m x 110m の大モスクの姿は、長い歴史的変遷の結果である。 それでも、これは 最初期の アラブ型モスクの特徴をよく保持している。 その第一は、礼拝室が陸屋根の列柱ホールであることで、古代ローマの神殿 やキリスト教聖堂から取ってこられた円柱が林立し、その上に連続アーチが架けられ た、森のような空間である。 ムハンマドが望んだのは、虚飾のない、実用性と構造的必要から成る、いわ ば 機能主義の建物であったから、建物の外観が シンボリックな彫刻的形態をとるこ とはなかった。 ただメッカの方向に向って礼拝をするための日陰のスペースをつく ることを目的とした。 こうした、モニュメンタルでない宗教建築を生んだ原因が 「偶像的なもの の拒否」 にあったのだとすれば、アラブ型のモスクは、信仰と建築との一致の 模範 的な結果であったと言えるだろう。 しかしながら、建築というのは 宗教的熱意だけでは成立しない。 周到な設 計と着実な建設技術を欠いては、その後の長い年月を もちこたえることはできな い。 アムルのモスクが 何度も改築されねばならなかったのは、数十年が経つたびに アーチが歪んだり、柱が斜めになったりして 荒廃したからである。 そもそも、これら数百本の細い円柱の上に 連続アーチを架け渡すだけで建 物を造る ということには無理があった。 要所に強固な壁なり 太い剛柱なりを配さ なければ、耐震性をもつこともむずかしいし、アーチの 絶えず開いてしまおうとす る推力 (すいりょく) を抑えることもできない。 その弱点に対処するために、最終的には すべての柱の頭どうしを 木の細い 梁で相互に結んで安定をはかることとなり、純粋な石造建築として存続することはで きなかったのである。 黎明期のモスク 7 世紀にイスラム教が成立すると、それは軍隊を組織して、またたくまに周辺地域 を征服し、エジプト、シリア、トルコ、ペルシアにまたがる広大なアラブ帝国を建設 した。イスラム教徒は毎日 5 回神を礼拝するのが務めなので、征服地にはどこでも ただちにモスクが必要とされた。 戦場においては建物を建てる暇はないので、地面 に線を引いて 礼拝スペースを区画し、メッカの方向を指示しただけの 「戦場のモス ク」 が設けられもしたが、征服した都市においては、既存の建物を利用するのが一 番手っ取り早かった。 征服前の中東はキリスト教化した ローマ帝国に支配されていたので、どこの町に も キリスト教の聖堂が建っていたので、イスラム側はこれを接収して、最初はキリ スト教徒と共用し、次第に専用のモスクに作り変えるということを、どこの地でも 行ったのである。 トルコにおける 最も古いモスクのひとつ、ディヤルバクルのウル・ジャーミ (大 モスク) もそのような経過をたどった。 かつてはアミーダと呼ばれたこの都市は 紀元前に遡る歴史をもつ古都であったが、地理的に絶えず外敵の攻撃にさらされる位 置にあり、ローマの植民地、ペルシア領、ビザンチン帝国領、アラブ帝国領と、有為 転変をけみした。当時は まだトルコ族が東方から移住する以前であったから、むし ろシリア圏の都市であったと言える。 この町にはキリスト教のカテドラル、聖トマス聖堂があり、これをイスラム教徒と キリスト教徒が共同使用した。時間や曜日で分けたこともあったろうが、770 年頃に は 全体の 3 分の 2 のスペースをムスリムが使用していたという。 住民のイスラム化 が進むと、これは完全にモスクに建て替えられた。 現在の建物は、トルコ族のセル ジューク朝による 11 世紀のものである。 内向きのモスク ウル・ジャーミは、堅固な市壁で囲まれた町を 南北に貫くメイン・ストリートに 面しているが、しかしその長さはわずか 30m ぐらいで、モスクの全外周 約 320m の 1 割にも満たない。 あとの部分は すべて町並みの建物に埋もれているので、ほとんど 外観というものがない。 外にモニュメンタルな偉容を誇ろうとはしない、イスラム 建築の性格をよく表している。 道路側の あっさりした石の壁面には大きなアーチ開口があり、これをくぐって階 段を降りると広い長方形の中庭に出るが、この南側の長辺に面するのが 主たる礼拝 室である。 敷地幅いっぱいの礼拝室は 奥行きがごく浅い代わりに 極端に幅が広い 長大な部屋で、メッカに面するキブラ壁がたっぷりととられている。 中央部のみス パンが大きく、天井も高くなっていて、その両翼に 2 列のアーケード (連続した アーチ列) が伸びている。 ダマスクスの影響 こうした独特なモスク形式には、実はモデルがあった。 シリアの首都のダマスク スにある大モスク (8 世紀) がそれで、最初のイスラム王朝であるウマイヤ朝を代 表するがゆえに ウマイヤのモスクと呼ばれている。 そこにも かつてキリスト教の 聖ヨハネ聖堂があったが、それを解体して、その 4 列のアーケードを中央部の両翼に 並べて 長大な礼拝室を作ったのである。 その他、入口以外は建物の外観が見えないこと、長方形の整然とした中庭に浄めの 泉と八角円堂が建っていること、キリスト教の鐘楼に範をとった角型のミナレットが 建っていることなど、至る所に類似が見られる。 セルジューク朝のスルタン、マリ ク・シャー (在位 1072~92) は ダマスクスの栄光を トルコ南部のディヤルバク ルにも もたらそうと考えたのである。 ダマスクスと異なる点は、礼拝室の中央が ドーム屋根でないこと、アーケードの 柱が円柱ではなく太い角柱であること、中庭の周囲に モザイク装飾がまったくない ことで、それだけ こちらの方がイスラム建築らしい 質実剛健な印象がある。 けれども、敷地の中央に造形的な本堂を建てるのでなく、そうした通常の宗教建築 のあり方を反転させて、中庭という ヴォイドな空間を敷地の中央に設けて、建物は すべてその周囲に寄せてしまうという方法はまったく同一であり、世界の宗教建築の 歴史においても 実にユニークである。 ダマスクスに倣ったこの建築形式は シリアのアレッポやハマ、その他で実現され たが、しかし世界のモスク建築の主流となることはなかった。特にトルコでは オス マン朝の時代になってから 巨大なドーム屋根でモスクを覆う方法に転換し、アラブ 型とは はっきり異なったモスク形式を確立することになるのである。 ペルシア・ルネサンス 7 世紀にアラビアに生まれたイスラム教はまたたくまに中東全体に広まり、さらに 西はスペインから 東は中央アジアにまで勢力を伸ばした。 各地に建てられたモスク の形式は、預言者ムハンマドの家の庭をモデルとしたアラブ型であった。 それは、 中庭を囲んで フラット・ルーフの列柱ホールが連なり、メッカに面するキブラ壁に ミフラーブとミンバルを設けるという、単純な原理の建物である。 これに対して 新しいモスク形式を考案し、広めたのはペルシア (現在のイラン) である。 ペルシアも早くからイスラム帝国に征服されて、バグダードを首都とする アッバース朝の支配を受けていたが、ペルシア人には、自分たちの方が 紀元前のア ケメネス朝ペルシアや 紀元後のササン朝ペルシアという 大帝国の歴史をもち、アラ ビアよりも高度な文化と伝統を受け継いでいるという自負があった。 広大になりすぎた イスラム圏全土を コントロールすることが困難になったアッ バース朝が弱体化するにつれ、次第にペルシア・ルネサンスともいうべき 古代文化 の復興が 10 世紀頃から顕著になる。 宗派的には、多数派である アッバース朝のスンナ派に対して、少数派である シー ア派の中核を ペルシアが担うこととなり、言語的にも アラビア語に対してペルシア 語の使用が復活する。そしてそれに相当する ペルシアの建築言語が、ドームとイー ワーンであった。 ドームとイーワーン アラビアではフラット・ルーフが主流であったから、壁は組積造であっても屋根は 木造を原則としたのに対し、ペルシアの砂漠地帯は 紀元前から土の建築を発達させ ていた。 すなわち日干しレンガや焼成レンガを 放射状に積んだアーチ、そのアーチ を連続的に並べて得られる半円筒形ヴォールト、そして球を二つに割った形のドーム 屋根 という技法である。 ゾロアスター教時代の拝火神殿には ドーム屋根が架けら れていたので、それをモスクの礼拝室のミフラーブ前にも用いるようになる。 さらに モスクの中庭まわりを 劇的に変えることになるのが、イーワーンであっ た。イーワーンというのは、古代ペルシアの宮殿において 玉座や謁見室として用い られた 半外部空間である。 大きなアーチ開口を四角く枠取りした壁で囲み、アーチ の内側の空間にはドームを半割りにした半ドームや、あるいは トンネル状のヴォー ルト天井を架ける このシンボリックな建築要素が、日陰の快適さを提供する空間で あるとともに、王権の表現ともなっていた。 アラブ型の フラットなモスク形式は、ペルシア人にとって単調に過ぎたのだろ う。中庭を囲む 4 辺のアーケードの各中央に このイーワーンを挿入することによっ て、建築的にメリハリのある造形とし、モスクの中核をなす中庭に宗教的シンボリズ ムを与えたのである。 4 基のイーワーンが向かい合う 「四イーワーン型」 モスクは 12 世紀から急速に広 まり、それは モスク以外の建物、マドラサ (学院) や 病院、キャラバンサライの ような 世俗建築にも適用され、そして ペルシアの領域を超えて エジプトからイン ドに至るまで用いられることになる。 ザワレの金曜モスク 最初期の 四イーワーン型モスクを典型的な形で 今も見せているのは、カヴィール 砂漠のオアシス都市、ザワレの金曜モスクである。 金曜日に 都市の住民の多くが集 まって集団礼拝をする大モスクを 金曜モスクと呼ぶが、ザワレは小都市なので、こ の金曜モスクも中庭の大きさが 16m 角と小規模である。 そこに各辺の長さの三分の 一ほどの幅のイーワーンが 4 基向かい合うので、これは アラブ型の単調なモスク中 庭とは 決定的に異なった印象を与える。 ここにおいて、単なる実用性を超えた新し いモスク型が、鮮明に誕生したのである。 では、これは宗教建築として、現在のイランの国教でもある シーアの 12 イマーム 派の教義と関係があるのだろうか。 この四イーワーン型は ペルシアから、他のイスラム諸国に広く輸出されたので、 後のエジプトにおいても モスク建築の主流となった。 しかもそこでは 4 基のイー ワーンが (シーア派とは対立する) スンナ派の四大法学派を象徴するという こじ つけ的な説明がなされたりしたくらいだから、宗派とイーワーンとは、本来関係がな い。 建築には 建築自身の伝統や自立的発展がある。 宗教建築の原理がすべて宗教の 理念や教義に基づいているわけではないということを、これはよく示している。 そ のことは ヨーロッパのキリスト教においても、カトリックとプロテスタントのあい だで、宗教音楽にも 宗教建築にも 本質的な違いがないのと同様である。 第3章 広尾モスクを訪ねて 広尾モスクを訪ねて、直接はなしを聞かせてもらうことができ、そこで質問をしたな かで印象に残ったことをのべていく。 まず日本に対する思いについて。話を聞かせてくれた方はサウジアラビア人であった のだが、そこでは日本は彼らにとって目標であるときかせてくれた。「日本人は勤勉 さで経済がここまで発展してきて、アジアの国で唯一G8に参加している国。それが 奇跡に近い」と。そういう印象からいままで日本に対してはいい印象が強かった。た だ、最近の日本の行動は主体性がなくよくないともいっていた。 そこで日本人に求めることを聞いてみた。「ただしいイスラム教に対する偏見をな くし、正しい理解をしてほしい。そのためにはまず自分たちの国、日本をよく理解 し、考え、主体性をもって行動してほしい」 イスラム教は厳しい戒律が有名であるが、どうしてイスラム教を信じるようになっ たのかという質問に対しては、「そのような質問に大変驚いた。私たちにとって信仰 は空気のようなもの。中には親が信仰しているからという理由の人はもちろんいると 思う。だけど、私は自分でよく考え、信仰することを選んだ。厳しいといわれる戒律 はすべて自分を見つめなおすためのもので、1日5回のお祈りも自分を見つめなお し、考えるのによい機会だ」 最近の戦争のことについては、「イスラム教ではアッラーはすべての人は平等であ る。始めのうちは耐えられても、アメリカのように一方的に押し付けてくる事に強く 反発心を抱く。それの現われだと思う」 たずねた日は金曜日で礼拝の日だったためあまり長い時間話は聞けなかったのだけ ど、そのおかげで礼拝する様子を見ることができた。驚いたのは平日の金曜日である のに集まる人のおおさだった。そこで見た礼拝の様子は静寂の中それぞれが決して口 を開くことなく黙々と礼拝する様子だった。 礼拝堂の中はキリスト教などと違いアッラーやムハンマドを象徴するものは何もな く、ただコーランを読み上げる台のようなものがあるだけだった。床にはきれいな絨 毯が敷かれていて、歌のようなコーランがながれるなか皆そこにひざまずいたり、 立ったりする。それは厳格で、見たことのない不思議な光景だった。
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