佐伯港(大分県佐伯市)

 大分県南東部、豊後水道にのぞむ佐伯湾は、良質な天然の漁場と
して人々の生活を支えてきた。江戸時代には「佐伯の殿さん浦でも
の 港 と して
いる。
「佐伯の殿さん浦でもつ」と
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活 用 さ れて
きた。
一方、豊後
と日 向 を 結
ぶ 陸 上の 交
通 ル ー ト は、
大 分 ― 三重
― 延 岡へと
抜 ける 現 在
の326 号
で あ り、 佐
伯は東側に位置するため街道の主
筋から外れていた。しかし、昔か
ら海路は貴重な移動手段だったた
め、海岸沿いに集落が形成されて
いった。出納和基夫著「古地形図
に見る佐伯の変遷」
(佐伯史談会)
によれば「5万分の の地図で見
ると、北は佐賀関から南は延岡ま
で、リアス式海岸部分に約 の浦
の付く地名がある。海岸線が単調
になる大分や延岡から先は不思議
る。北北東には湾に蓋をするよう
いう言葉は、こうした自然条件が
に浦地名は無くなる」と記されて
な格好で人口1100人余りが住
生んだとも言える。
おおにゅうじま
む瓢箪のような形をした大入島が
ひょうたん
あり、その南側に県内最大の一級
歴代の佐伯藩の藩主が海からの
恩恵を受けていたわけだが、
「殿
ばんじょう
河川である番匠川が注ぐ。一帯の
さん」の〝初代〟は、番匠川河口
海岸はリアス式海岸であるため浦
の八幡山(標高144㍍)に佐伯
は ち ま ん やま
佐伯湾は、大分県と愛媛県に挟
まれた豊後水道にあり、北を四浦
が多く、古くから漁業と海上輸送
現在の佐伯港葛地区と明治40年ごろの葛港
半島、南を鶴見半島に囲まれてい
ふた
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町
つ」という言葉が生まれるほど藩財政に潤いを与えた。戦時中は、日
本海軍の重要な拠点施設となり、戦後は製造業を中心とする企業立
Archive vol.20(最終回)
地が進み県内屈指の工業地帯になった。今でも製造品出荷額の4割
が製造されるなど、市経済を支える機能を担っている。
港
「佐伯の殿さん浦でもつ」
藩財政支えた天然の良港
佐伯港
(大分県佐伯市)
海からの恵みで藩財政潤う
「殿様」は漁業振興を推進
1
探訪
城(鶴屋城)を築いた毛利高政だ。 業振興策〟に力を注いだ。
漁師らも畏敬の念を抱きながら、
海からの恩恵を授かっていたよう
もともと尾張の在郷武士で、元来
の姓は森だったが、後に血縁関係
だ。それを示すかのように、佐伯
表高大きく上回る〝収入〟
田畑の開墾を制限し確保
佐伯氏は平氏から源氏への政権
交 代を経て鎌 倉、室町時代に至
よしむね
る混乱の時代を乗り越えた。しか
し、豊後の大友義統が朝鮮出兵で
徐国・改易されたことに伴い、時
のない毛利を名乗った。その理由
には海にまつわる幾つかの言い伝
佐伯の住人の生活が海によって
成り立っていたのは、江戸時代の
の城主だった佐伯惟定も所領を失
り、当時から既に一帯では農耕が
いる。
封じられたという経過をたどって
これさだ
の戦い方を秀吉からとがめられて
は、中国大返しの際に羽柴秀吉か
えがある。その一つが
「鮪浦の大蛇」
前後からではない。弥生時代の遺
ら、兄と共に毛利輝元に人質とし
だ。鶴見半島に、漁と商売の神で
った。その後、毛利高政が佐伯に
しびうら
て差し出されたが、輝元に大いに
跡からは土器や石器が出土してお
す
ある恵比寿さんを祭っているお堂
び
気に入られて毛利姓を与えられた
がある。このお堂までにある、
行われていたと見られている。当
鮪浦に胴回り ㍍、長さ ㍍
もある大蛇がおり、漁をしている
地誌「豊後国風土記」には「佐伯
さらに、奈良時代に編さんされた
り出す木材の運上金によって、実
産物に加えて、番匠川沿いから切
る話だ。
本の草木も生えていない道に関す
え
からだ。
関ヶ原の戦いで高政は、名目上
の総大将だった輝元への恩義から
軍についていた盟友らの説得、九
ところに現れては魚を逃がしてし
然、豊 富 な 海 や川の幸は、彼 ら
当 時の佐 伯 藩の表 高(所領の
の貴重なタンパク源だっただろう。 額面上の石高)は 万石だが、水
州で留守部隊を率いていた黒田如
質的には 万石以上だったと言わ
当初は西軍についた。しかし、東
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水の勧誘工作などにより翻意した。 まうので漁師らは困り果てていた。 地方に海人族(漁民)が住んでい
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も大きかったと言われている。そ
東軍の勝利には、高政のこの判断
ていた。ある日、 人が「大蛇は
やられたと漁師らはうわさし合っ
その通り道の草木が大蛇の毒気に
一帯を治めていた。このうち佐伯地
のほか臼杵市、津久見市にあたる
遣された「介」が、現在の佐伯市
に入ると、国司として朝廷から派
大蛇は「恵比寿堂」に住んでおり、 た」という記述がある。平安時代
た田畑の開墾を制限するお触書を
は、それまで漁民に奨励されてい
た。藩の収入を確保するため高政
「のしあわび」は藩の専売品だっ
伯目刺し」は上方商人に歓迎され、
と が む れ
なかったため農業の収入は少なか
時、領内は農業に適した耕地が少
し、麓に城下町を開いた。その当
湾が見下ろせる場所に新たに築城
あり不便だったため、高政は佐伯
った。今も 道に草が
が現れることはなか
ろ、それ以降、大蛇
お供え物もしたとこ
らお堂をきれいにし、
いたことを謝りなが
め
ざ
が藩の財政を豊かにすると考えて
を持つと言われている。漁業振興
れ、魚を海岸近くに近付ける役割
今でも、海 岸
漁 業 者の間でうは
お
りん
近くの森林は「魚つき林」と呼ば
いる。
と考えたからだったと伝えられて
イワシが海岸に寄り付かなくなる
ると樹木の影が海に映らなくなり、
ふれがき
れている。
「 佐 伯いりこ」や「 佐
の後、盟友の 人、藤堂高虎の取
恵比寿さんのお使いで、お堂を粗
方を所領していたのは大神氏一門
った。それだけ、海がもたらす恵
生えていないのは、そ
まって、粗 末にして
みは藩にとって重要な収入源であ
すけ
けて日田から佐伯栂牟礼城に移り
末にしていることを知らせているの
出した。その理由は、山焼きをす
りなしもあり、徳川家康の命を受
佐伯藩が誕生した。
で、後に佐伯氏に改姓した。
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ではないか」と言った。村人は集
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しかし、城は現 在の佐 伯 市 内
から直 線 距 離で ㌔ほど奥地に
1
の名残というわけだ。
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り、後に述べるように高政は〝漁
佐伯城趾から見下ろす佐伯市街地。佐伯湾も
見渡せる
(上)。本丸跡地までの道のりは地域
住民の格好の散策コースになっている
1
されている。
として国の有形民俗文化財に指定
使った道具は「蒲江の漁撈用具」
だと言える。地元に伝わる漁業で
殿さん浦でもつ」と称された要因
高 政 が「 佐 伯 の
こうした政策も、
移したのだろう。
いて直ちに実行に
らの 話 を 伝 え 聞
いた高政は、漁民
出して生計を立てていた人が多く
たことから、地元では「木を切り
昔から重宝がられている。こうし
伯椎茸」として、特に関西方面で
炭は「佐伯木炭」
、シイタケは「佐
木が豊富なエリアだった。また、木
である佐伯一帯は昔から良質な材
州トップクラス」
(西嶋泰義市長)
「材質、形状ともに木材業界で人
気が高く、木材市場での評価は九
充てる必要はないだろう。
工に意味が限定される「番匠」を
という説もあるが、わざわざ建築
島々や浦だけでなく、遠方からの
後も葛 港は、大入島など周辺の
性が生まれたため」とある。その
大型船や漁港としての整備の必要
は、前出の「古地形図に見る佐伯
急増する外国材の積み上げ港とし
の全国的な伸びもあり、輸入量が
指定された。その後は、木材需要
を大量に排出することへの対応と、 佐伯港は 年、常時、外国との
貿易のために開かれている開港に
の変遷」によれば「番匠川が土砂
ての役割を担った。また、日本経
済の成長に伴い、セメントやパル
拡大も相次いで臨海工業地帯を形
プ、造船、木材、合板などの企業
いた航空隊の一つである佐伯海軍
成し、 年 月には国の重要港湾
佐伯には第 次大戦まで、全国
で カ所のみだった冠に地名の付
航空隊があった。山本五十六が率
で迫っており、通行者の番所とし
治の終わりごろから築 造が始ま
現在の佐 伯港には、果たす役
割が異なる三つのふ頭がある。明
プ)湾に向けて出港したのも佐伯
最終集結地である単冠(タンカッ
流通拠点としての役割を担い続け
の拡充が図られ、県南地域の物資
いた連合艦隊が真珠湾に向かう前、 に指定された。その後も港湾施設
てはうってつけの地形だったことが
っている女島ふ頭だ。
交貿易の貨物を取り扱
用の石こうなど主に外
ふ頭、原木やセメント
を取り扱っている鶴谷
ど主に国内の輸送貨物
として利用された。
庁舎は戦後しばらく中学校の校舎
製造所だった。ちなみに、航空隊
飛行場跡地に建設された興人佐伯
企業第1号は、女島ふ頭にあった
業の立地が進んだ。大分県の誘致
切な資産であり続ける。
湾は、これからも市民にとって大
を支えている。佐伯港および佐伯
割が従事し、製造品出荷額の 割
る臨海型産業には市内従業者の
担っている。例えば、佐伯港にあ
戦後は、軍用施設の転用により、 時代が移り変わった今も、佐伯
パルプや造船、合板といった製造
市にとって佐伯港は重要な役割を
ている。
港だった。
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湾内では至る所で養殖業が営まれている
2
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頭、砂や砂利、鋼材な
葛港が整備されたの
かずら
り、 年にはふ頭が完成した葛ふ
佐伯湾内は、場所によってさまざまな表情
を見せる。
九州最東端の岬、
鶴御崎
(つるみ
さき)
(上)
と幅がわずか600㍍で海流が早
い元の間海峡
変化して「ばんしょう」になった
役割が異なる三つのふ頭
軍用施設から工業地帯へ
しいたけ
さ い き ず み
ちなみに番匠川の「番匠」とは
「古代、交代で都に上り、木工寮
いたことが名前の由来」という説
船が往来する重要な拠点だった。
ぎょ ろ う
で労務に服した大工」
(広辞苑よ
を支持する意見が多いようだ。
について日本全河川ルーツ大辞典
( 年刊)は「川が大工の持つ折
り尺のように曲がりくねっている
のでこの名が出た説がある」と説
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かまえ
り)を意味する。川の名称の由来
町
佐伯港
(大分県佐伯市)
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明している。川岸が水辺の近くま
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佐伯湾は戦時中、
日本海軍の拠点
施設だった。写真は、航空隊設置
を歓迎する市民
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港
探訪
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